1949

FCCはこの決定のプレス発表を3月31日に行い、業界日刊紙Radio Daily(1949年4月1日号)がいち早く改正規則の可決を報じた。

" 'Citizens Service Stations' Formally OK'd By FCC"

(Radio Daily, Apr.1, 1949, p1 & p3)

『The FCC yesterday announced the finalizing of rules for “citizens radio service stations,” with regular licensing to begin in two month time. ...』

同じく業界週刊紙Broadcasting(1949年4月4日号)も伝えている。

"Citizens Radio Service"

(Citizens Radio Service, Broadcasting, Apr.4, 1949, p.107)

『FINAL RULES governing licensing and administrative details of the Citizens Radio Service were issued by FCC last Thursday in substantially the same from as originally proposed last August. They become effective June 1.

The Commission rejected suggestions that the minimum age for applicants be lowered from 18 to 16 years and that purchasers of citizens radio equipment be allowed to operate pending issuance of formal grants. ...』 FCCは免許される最低年齢を18才から16才へ引き下げる提案を採用しなかった。

また"Electronics"や"Tele-Tech"(下記)などの技術専門誌でも、CRS改正規則案が可決のニュースを伝えた。

"Citizens Radio Rules Adopted"

(Tele-Tech, May 1949, p44)

『Rules for the licensing of Citizens Radio Service Stations on a regular basis have been adopted as final by the FCC and will become effective June 1, 1949.

The prelude to the Citizens Radio Services dates from May 1945, when the Commission's allocations report established a band for the operation of "citizens stations."

In accordance with this allocation, technical regulations for citizens stations came into effect December 1, 1947, and were designated as Part 19 of the Commission's rules.

To supplement these technical requirements, proposed regulations dealing with the licensing and administration of citizens stations were issued by the Commission August 12, 1948 as proposed rules.

In finalizing these procedural requirements, the Commission is recognizing Citizens Radio as a full-fledged service. 』

記事は1949年6月1日よりレギュラーベースのCRS(Citizens Radio Service)が施行されると伝えた。そしてこの制度はFCCによる1945年5月の周波数分配最終案で示され、1947年12月1日にFCC規則第19条として技術仕様が施行され、そして1948年8月12日に免許規則などを追加する改正案が作られたことを紹介している。これまでCRS が歩んできた道筋を、簡潔かつ正しくポイントを押さえて伝えていて、非常に見習うべきところが多いと思う。

『Generally, any citizen of the United States who is 18 years of age or older will be eligible for a station license. Licenses will be valid for a period of 5 years and the station license is normally the only authorization that will be required for operation of a citizens station.』 最後に 18歳以上のアメリカ人にライセンス(5年間)を与えるとして記事を締めくくった。

  • June 1, 1949 (改正Citizens Radio Service が施行される)

日本では1949年(昭和24年)6月1日は逓信省を郵政省と電気通信省に分割した、いわゆる「郵電分離」の日として有名だが、アメリカでは1949年6月1日は、改正シチズンス・ラジオ規則(Docket No. 9119)が施行された日である。

◆FCCによる実態別による呼称分類

FCCは1945年から1949年5月30日までの期間を「テンポラリーベース(a temporary basis)のCitizens Radio」、そして改正規則が施行された1949年6月1日以降を「レギュラーベース(a regular basis)のCitizens Radio」と名付けた。検定機により一般人でも検査不要で無線が使えるという、FCCが本来目指したものなので「レギュラーなシチズンス・ラジオ」なのだろう。

この呼称はFCC年次報告書(July 1948 - June 1949)に採用されて(下図)、米国議会へ提出され承認された。シチズンス・ラジオの二つの時代を呼分ける必要があるときには、これがFCCによる公式な呼分け方になった。

(FCC Report, July 1948 - June 1949)

◆制度名称による呼称分類

しかし制度名で時代を呼び分けるなら、1945年から1946年11月31日までは「Citizens' Radiocommunication Service」、そして世界初のシチズンス・ラジオ規則が施行された1947年12月1日以降が「Citizens Radio Service」である。

共にこれまで政府の公式資料に登場してきた名称であり、そういう意味ではこれも正式な分類に違いない。このあたりの事情はCB愛好家の中でも理解され難いものがあるので、以下にまとめて図解しておく。

CB無線のはじまりが書籍によって1947年2月のW2XQDだったり、CRSが制定された1947年12月だったり、改正法が施行された1949年6月だったり、あるいは19W0001を根拠に1948年3月とするケースすらあるのは、こういった複雑な過程を経たためだ。いろんな解釈が成り立つが、本サイトでは上記FCC Report(年次報告書)で示された、1945年のDocket No.6651 を起源とするFCCの公式見解に従うことにした。なお Docket No.6651 Proposed(1月)とDocket No.6651 Final Report(5月)のどちらをスタート点にするかにはこだわらないものとする。

◆改正FCC Rules and Regulations Part 19, Citizens Radio Service の全文

それでは連邦官報告示(Docket No. 9119, Apr.5,1949, 14FR1596)からではなく、(内容的には同じだが)連邦規則集(CFR: Code of Federal Regulation)に収録されたもので紹介する。

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この年の6月1日、改正Citizens Radio Service が施行されました。併せてMontgomery Ward 社のAirline ブランドでAl Gross の検定合格機(Model 100B)も市場に登場したといわれています(私は未確認)。

FCCでは1945年から1949年5月31日までをTemporary Base のCitizens Radio、そして1949年6月1日以降をRegular Base のCitizens Radio と呼んでいます。もし名称で分類するなら1945年から1947月11月30日までがCitizens' Radiocommunication Service、そして1947年12月1日以降がCitizens Radio Service ということになります。

さて Al Gross は改正規則の施行直後にStewart-Warner 社へ自分の会社(Citizens Radio Corp.)を売却し、結果的には Citizens Radio の一般への普及はさらに遠のくこととなりました。Al Gross とJett の二人が夢見た市民生活の中で自由に無線が利用されるのは、1990年代後半の携帯電話の普及までお預けとなったのです。

余談ですが、Al Gross はこの年にポケットベル(無線呼び出し装置)を開発し、医学会で「緊急の呼び出しに便利」と発表しましたが、「ゴルフの最中に呼び出されたら大変じゃないか!」と総スカンをくらっています。

SUMMARY この年の出来事

Mar.30, 1949 - Citizens Radio Service改正案(FCC Docket No.9119)が成立した。

June 1, 1949 - 改正 Citizens Radio Service が施行される。一般人でも開局が可能になる。

June 30, 1949 - シチズンス・ラジオ局が122局になった。(Experimental CB Station)

July, 1949 - Citizens Radio Corporation を Stewart-Warnerへ売却した。

Oct.31, 1949 - シチズンス・ラジオ局が194局になった。

  • January 1949 (Al GrosのWalkie-Talkieの紹介とSylvania Electric の広告)

Tele-Tech誌1949年1月号(p52)は、新製品紹介のようなかたちで、Al Gross のCitizens Radio Corp. のシチズンス・ラジオを紹介している。

"CIVILIAN WALKIE-TALKIE" (民間用ウォーキートーキー)

"The first portable radio transceivers to be produced for public use are now being turned out by Citizens Radio Corp. Tiny headphones and batteries (not shown) are carried in separete case. Unit use Sylvania subminiature tubes, weighs 11 ounces and operates on 465 MC with 3 watt input."

ヘッドフォントとバッテリーは写真にはないが別ケースで持ち運ぶ。Walkie-Talkie本体の重さは11オンス(約310グラム)で、周波数465MHz、終段入力3Wである。

また同じ1月号のp18には真空管メーカーでもあるSylvania Electric Products Inc., Pennsylvania が関連広告を出した。

"CITZENS RADIO TRANSCEIVER USES Sylvania sub-miniature tubes!"

Al GrossのModel 100Bに、同社のサブミニチュア真空管が採用されていることを前面に出しての広告だった。手の平に乗せている基板に寝かせて取り付けられている真空管がそうである。

このWalkie-Talkieのマイク部分の模様(左図)は、一見すると"C" と"B" を重ねた"CB"のようにも見えるが、おそらくは"C" と"R" を重ねた"CR"(Citizens Radio)だと考えられる。"Citizens Band" という言葉は1945年のFCCによるシチズンス・ラジオ構想の発表直後より、一部の雑誌や機関誌で見受けられるが、その略称である "CB" という単語は1959年あるいは1960年ごろに登場しているからだ。

  • March 1949 (日本版FCCの設置で紛糾・・・日本)

逓信省は第二次放送法案を成案した。しかし6月に創設を予定している電波庁が、まだまだ政府からの独立性が足りないとGHQ/SCAP, CCSの理解が得られず、放送法案の国会提出は見送られることになってしまった。

CCSはそもそも逓信省が、電波行政のような重要な役割を、郵便事業と一緒にやっていることを、日本政府当局の認識不足であると問題視していた。そのCCSの意向を受けて早い時期から電波行政の担当を電波庁として分離独立させる計画が始まっていたが、CCSはアメリカのFCCに較べてまだまだ独立性が不十分だとした。

  • Mar. 30, 1949 (Docket No. 9119) 可決成立

  • Apr. 5, 1949 (連邦官報告示 14FR1596)

1949年3月30日、FCCはシチズンス・ラジオ規則の改正案(Docket No. 9119)を可決した。コメント募集を1948年10月1日で締切っているのに、なぜこんなに時間を掛けたのか私には理解できないが、とにかくこの日に改正案が可決された。そして4月5日の連邦官報(14FR1596)で1946年6月1日より施行すると告示さた(下図左)。

なおこの改正を機に、FCC Rule and Regulations Part 19 のセクションナンバーが下記のように旧規則から振り替えられた。下図右のSource(右側)が1947年12月1日に施行された時のセクションナンバーで、Present(左側)が1949年6月1日に施行する予定になっている改正規則の新ナンバーである。

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    • June 1949 (一般紙には取上げられなかった改正CRSの施行)

CB愛好家としてとても残念なのは、1949年6月1日に施行されたRegular Base のシチズンス・ラジオ規則のニュースに一般紙は反応しなかったことである。業界雑誌のTele-Tech誌6月号が小さな扱いで 『Citizens Radio regulations go into effect this month, … (Tele-Tech, June 1949, p12)と報じるじたものや(下図左)、Radio Electronics誌が『Citizens Radio Service is removed from experimental status as of June 1 and regular licenses will be issued, …』 (Radio Electronics, June 1949, p10)と伝えた(下図右)。

このほかRadio News誌6月号も伝えているが、特に目新しい内容は含まれておらず、いずれの雑誌でも扱いとしては小さなものに過ぎなかった(左図)。

AT LONG LAST, the Citizens' Radio Service has become a full-fledged communications service and has received its official rules and regulations for the 460-470 mc band. Licenses will be issued generally, beginning June 1, to any citizen of this country 18 years of age or older. ...(Radio & Television News, June 1949, p130)

米国以外ではイギリスのPractical Wireless誌(1949年9月号, p337)が伝えている(下図)。

なんといっても1945年の発表以来、あまりに時間が掛かり過ぎ、人々の関心もすっかり冷えてしまったようだ。まだMontogomery Ward社から商品が発売されておらず、記事にするほど新たな話題がなかったということなのだろうか。

    • June 17, 1949 (吉田首相がCCSに反旗を翻した・・・日本)

電波三法の中でも、最後の最後までもめたのが「電波監理委員会設置法」である。

吉田首相の考えでは、産業がまだ立ち直っておらず税収増が見込めないにもかかわらず復興対策費が重くのしかかっており、行政機関の統廃合による人員整理を考えなければならない状況下で、新たな行政委員会を作り財政支出を増やすことなどありえなかった。それに合議制の委員会では決定までの時間ロスが大きいし、メンバーの人選も難しい。さらにGHQの指令で国家公安委員会や中央労働委員会など多くの行政委員会が日本に誕生したが、これらは内閣の統制外で、独自の決定を下して勝手に動くため、政府の思い通りに成らなかった。気の短い吉田首相は委員会が嫌いだったといわれている。

日本人の無線局の統制権を握っていたのが民間通信局CCSである。吉田首相はついにCCSへ反旗を翻した。1949年(昭和24年)6月17日にCCSへ提出した第三次案は「合議制行政委員会は採用しない。電気通信大臣は省内に設置する放送審議会に諮り、その決定を順守する。放送審議会の委員は国会の同意を得て内閣総理大臣が任命する。」というもので、首相の影響力下に放送審議会を形だけ作るとした。この案を見てCCSは激怒したという。

    • June 18, 1949 (CCSバック局長の勧告・・・日本)

さて翌日、1949年(昭和24年)6月18日、CCS局長のバック(George I. Back)准将は、日本の電波担当の最高責任者である小沢電気通信大臣と増田官房長官を呼び付けた。そしてバック准将は電波監理委員会RRCの委員を広く国民の各界各層から選出し、全ての電波行政を電気通信大臣の影響の外に置くことはGHQの方針であると強く指示した。さらに今月1日に発足したばかりの電波庁を委員会へ移管するように示唆した。これは「バック勧告」と呼ばれている。

    • June 30, 1949 (シチズンス・ラジオ局が122局に)

FCCが議会へ提出した第15期 年次報告書によると1949年度末の1949年6月30日の時点におけるCitizens Radio局は122局で前年同月比で74局の増加だった。モントゴメリー・ワード(Montgomery Ward)社へのModel 100Bの納期は6月だったことから、まだユーザーの手元には届いていないか、あるいは届いていてもまだライセンスは発行されていないと考えられる。従ってこの数字はいわゆるほぼ全数がExperimental CBの免許数だろう。

【局数統計】

また1948年7月1日から1949年6月30日(1949年度)の市民ラジオの申請件数は488件だった。前年度は165件だったので3倍に増加している。BC-645改造機による申請が数字を押し上げたと思われるが、許可増加数が74局にとどまっていることから、相変わらず狭き門だったようだ(あるいは、申請人が複数ユニットを申し込んでいるせいかもしれない)。

【申請数統計】 新しいFCC Rule part19が施行された6月1日以降は、BC-645によるClass2 Experimental の開局申請を受付けず、Class B CRS (要検査)で受理されていたかもしれない。もしそうなら488件は、11ヶ月間(1948年7月1日から1949年5月31日)のExperimental CRSの申請件数と、1949年6月の1ヶ月間のBC-645改造機などによるClass B CRSの申請数だと推測できる。

    • July 1949 (Al Gross のCitizens Radio Corp. が売却される)

さあいよいよ "Regular Base のCitizens Radio Service" が始動するという時に不可解な事件が起きた。Al Gross は出願中の特許の権利譲渡を含めて、Citizens Radio Corporation を無線機やラジオ受信機のメーカーStewart-Warner Corporation へ買収を持ちかけ、そして合意した。どのような事情があったかは私は分からない。そしてこれが実行されたのは左図Radio Electronics誌(1949年11月号)の記事によると、『last month』 とあるので9月か10月だったようだ。

しかしこれ以降、Al Gross は Stewart-Warnerに移籍して、Class B のWalkie-Talkie 開発のチーフエンジニアとして研究を続けた。Al Gross(Citizens Radio Corporation) のModel 100B はモンゴメリーワード(Montgomery Ward)社のAirlineブランドで出荷しただけで終わってしまったのだろうか。

いや本当のところ、私はAirline ブランドで売られたというModel 100Bの市場投入を確認できていない。Model 100Bが世界初のCB検定番号CR-401を獲得したことは間違いないが、それが本当に販売されたかはまた別の話のようだ。これと似た事例としては1961年(昭和36年)の日本の27MHzの簡易無線でも同じことが起きていて、検定番号があるからといってそれらがすべて商品化されたのではないようだ。

【筆者注】 CRS改正規則は施行されたものの、肝心のWalkie-Talkie が市場に流通していないことを匂わす複数の雑誌記事が1949年後半から1950年に散見される。私としても大きな関心を持ってこれまで情報収集に当たってきたが、いまだ確信が得られていない。Al GrossのCitizens Radio開発に関する遺品資料は、彼の地元バージニア工科大学(Virginia Polytechnic Institute and State University)に寄贈されている。Model 100Bの現物も、Al GrossがMontgomery Ward社から受取った注文書も残されている。しかしMontgomery Ward社のAirlineブランドの通販カタログなど実売を示すものがない。これは今だ解けない謎のひとつだが、私が所蔵していてまだ未整理の資料も残っているので、もう少し時間をいただき、その上でこのページを再構成したい。

  • July 5, 1949 (民間通信局CCSが電波行政の一部返還を本国へ打診・・・日本)

1949年7月5日、民間通信局CCS の国内無線課(Domestic Radio Div.)のA. J. Harcarik 氏が、本国ワシントンの陸軍省へ、29.7MHz以上の10 band における行政権の一部を日本政府へ返還して良いかのお伺いをたてた。これは6月1日に逓信省MOCが解体されて、新たに誕生した電波庁RRAにある程度の裁量権(無線局の認可・変更・廃止)を与えようとする画期的なものだった。

29.7-50MHz帯は第八軍の合間をぬって、日本の警察無線・気象無線・鉄道無線・放送中継・実験局などにも分配されていた。100-108MHz帯は第八軍が使っていなかったのでBCJ(日本放送協会)が将来のテレビ用に希望していた周波数。148-156MHz, 188-200, 400-420, 610-960, 1350-1700MHz帯は第八軍の使用実績が少ないため移転し日本へ明け渡すもの。1700-2700MHz, 3900-4200MHz は未使用の周波数だった。またアメリカのCitizens Radio Service の周波数460-470MHzの行政権が日本へ返還されようとした点は見逃せない。

これらの案は一部修正されて10月31日に12 band が返還されたので、そちらも参照されたい。

    • October 1949 (市民ラジオという訳語が登場・・・日本) 2013/06/21追記

Citizens Radio を「市民無線」と訳すのならごく当たり前だが、これを「市民ラジオ」と前半だけ日本語化し、後半は訳さずカタカナ化するという、ちょっとおしゃれ(?)な言葉は誰が使い始めたのだろうか?

私はこれまで日本アマチュア無線連盟のCQ Ham radio誌の1949年12月-1月合併号で用いられた(後述)ものが最初だと思っていたが、このたび「ラジオ科学」1949年10月号(ラジオ科学出版社)で「市民ラジオ」が使われているのを見つけたので紹介する。

市民ラジオの赤信号青となる

FCCは長い間懸案であった市民ラジオを、6月1日から許可することにした。このラジオは農場、工業施設、建築設計、工事事務所と現場との連絡、ETCの用途に使用するもので、据置、携帯、車上用何型でも差支えない。送信機は10W、50Wの二種で、周波数は460~470MCである。

これを使用しようとするものは、所定のカードに、書式にしたがって必要事項を記入して届け出るだけでよい。これに対しFCCは検査はしないが、使用の送信機は、FCCが、予め型式承認をしたものでなければならない。・・・(以下略)・・・』 (市民ラジオの赤信号青となる, 世界の耳, ラジオ科学1949年10月号, p48, ラジオ科学出版社)

この記事がはじめて「市民ラジオ」なる日本語を使ったと思われるが、また同時に1949年6月1日に改正CRS(Citizens Radio Service)が施行されたことを日本語で伝えた最初の記事かもしれない。

  • Oct. 12, 1949 (吉田首相が電波監理の委員会設立にまたもや反発・・・日本)

1949年(昭和24年)10月12日の閣議で決定された修正案は、GHQの意向通りに電波監理を合議制委員会に任せはするが、その委員長には国務大臣を当てて内閣が指揮権を発動できるようにした。

さらに委員会の決定に内閣と首相が差戻し権を持ち、もし差し戻しても委員会が内閣の意向を尊重しない場合には、首相が委員会決定を変更する権利を持つというものだった。

この案をGS(ガバメントセクション)に提出したが、またもや強く否定された。それでも吉田首相は日本にはFCC制度はなじまないと強く反対したため、しばらく両者の間は険悪なムードとなった。

  • Oct. 31, 1949 (シチズンス・ラジオ局が194局になる)

FCCの年次報告書によれば、1949年10月31日の時点でシチズンス・ラジオの免許数は194局だった。6月30日からの4ヶ月で72局増加した。

1949年6月1日以降はClass 2 Experimental での申請は受理していないので、増加した72局はモントゴメリーワード(Montgomery Ward)社のModel 100Bか、BC-645等(非検定機)を通常の開局手続きと技術書類を整えて、免許されたClass B 市民ラジオ局ということになるだろう。

  • Oct. 31, 1949 (460-470MHz帯など12 band の電波行政権が日本に返還された・・・日本)

1949年10月31日は占領下における電波史の中でも大きな意味を持った日である。対日指令SCAPIN第1744/19号で54MHz以上の12 Bandの電波行政権が日本に返還された。終戦後に逓信院BOC, 逓信省MOC, 電波庁RRAと日本側のお役所は名前を変えてきたが、無線局を承認(開局・変更・廃局)する権限はなかった。

電波庁RRAなどは申請の一件ごとに、それぞれの事情に応じた承認願を書いて民間通信局CCSへ申請していた。口悪くいえば、開設希望者とCCSとの取持ち役である。それが12 band ではRRAだけの判断で免許を発行できて、CCSへは事後連絡で良いことになった。1952年(昭和27年)の日本国の独立より前に、RRAはCCSから特段の計らいで電波自治権をプレゼント("Especially to be permitted for RRA")されたのである。RRA関係者にとっては大きな喜びだったに違いない。

『このようにすべて総司令部を通じて行われていたのが、昭和二四年一〇月三一日付のSCAPIN 第1744号の改定で、はじめてわが国に自主的電波行政権が芽生えた。これは、超短波帯以上の一二の周波数帯において、その周波数の使用が航空・無線航行・無線測位・レーダーまたはアマチュア無線業務に対するものでないときは総司令部民間通信局(CCS)に申請を要しないとされた。』 (第三節 運用の監督, 続・逓信事業史 第六巻, p402, 1956, 郵政省)

下表 "Plan of Frequency Allocation Above 27.5 Mc/s, Especially to be Permitted for R.R.A." が、今回の返還にあたってCCSとRRAで事前協議された業務分配計画表である。アメリカでCitizens Radio Service に分配されているNF帯(460-470MHz)も返還されたが、この時点ではまだ日本にも Citizens Radio Service を創設するという合意は形成されていない(undecided)。

しかし7月5日にCCSが本国陸軍省へ電波行政権返還の打診を行った際に、この460-470MHz帯が既に含まれていたことから、CCSは日本版シチズンス・ラジオ制度の創設を促進させようと考えていたかもしれない。翌年6月30日にSimple Radio Service(日本語名:簡易無線業務)が電波監理委員会規則で発表されるが、背後でCCSの助言あるいは誘導があったと私は想像している。

(上表の "Service for A.C.R.R." は1947年アトランティクシティ会議で採択された業務分配)

1949年当時は30MHz帯で警察無線の実験が盛んに行われていた。29.7-50MHz帯は第八軍が主に使っていて、この中から日本に周波数を分配してもらうのに大変な苦労があったようだ。JZ Callsigns 参照

7月5日の時点では候補に挙がっていた29.7-50MHz帯は、(第八軍との調整がつかなかったのか)実現しなかったが、NA(50-68MHz)帯とNC帯(148-157MHz)がプレゼントされたため、にわかにこれらが陸上移動局用として注目された。RRAは特に150MHz帯のNCバンドを活用して、RRA独自の判断により国内各方面から要望のある陸上移動局の開設を認める方針をとった。そして1950年(昭和25年)の年初より次々と実験局の名目で150MHz帯を許可しはじめた。シチズンス・ラジオの実験局認可もこの一連のムーブメントの中で起きた出来事だが、それについては「1950年」のページで述べる。

我国における移動体無線が30MHzバンドから150MHzバンドへ移行したのは、技術革新による高い周波数への移行ではなく、免許発行の都度、第八軍やCCSへ頭を下げないで済むという特別な事情によるものだった。

  • Nov. 1949 (民間情報局CIEからの「市民無線」情報の提供・・・日本)

東京日比谷を始めとし、日本全国に連合国のCIE図書館が開設され、米国を中心にあらゆる分野の書籍や雑誌が無料で閲覧できた。そのため米国でシチズンス・ラジオが創設されるまでのいきさつは、多くの電波関係者には既に知られていたはずである。

しかし日本語書籍でシチズンス・ラジオを初めて取りあげたのは、逓信省の菊谷秀雄氏が「僕らの無線学」(1948年12月発行, 電子社)の中の「ポケット放送局」が最初であろう。1948のページをご覧頂きたい。

だが米国の無線界実情をまとまって紹介し、また初めて「市民無線」という言葉が用いられたのは、「電波日本」誌の1949年11月号("米国通信界で重要性を増したラジオフォーン",pp27-29, 日本電波協会)が最初ではないだろうか。【注】ラジオフォーンとは無線電話のこと

GHQ/SCAPの民間情報局CIEは電気通信省の外郭団体で、電波関係の教育出版にも携わっていた社団法人日本電波協会へアメリカ無線界の情報を提供した。フレンドリーな提供というよりも「皆に知らしめよ」という命令に近いものだったかもしれない。検閲を省略するために日本語化が終わったものをCIEから与えられたのか、それとも日本電波協会が翻訳したのか(CIEの資料を誤訳すると、とんでもないことになるので電気通信省MOTCまたは電波庁RRAへの訳文チェックの依頼があったかもしれないが)、そのあたりの事情はわからない。

ただこの記事で Citizens Radio の訳語として「市民無線電話」という単語がはじめて登場するのだ。

【参考】 その後、財団法人化した(財)日本電波協会は1990年4月1日に(財)無線従事者国家試験センターと統合し、(財)日本無線協会になった。

FCCの活躍により、タクシー無線や鉄道無線など戦後新たに作られた非政府系無線制度を紹介したあと、最後にCitizens Radio Service を「市民無線電話」という日本語を用いて紹介しているので引用する。

◆市民無線電話という和訳語が登場

『医師は既に移動電話の最も頻繁な申込者となっているが、さらに「市民無線電話」と称する使用するようになるものと想像されている。これは戦時中の「ウォーキー・トーキー」に似ていて、中間に交換局を要せず直接個人同志で通信のできる純然たる携帯無線電話機である。この「市民無線電話」こそ移動無線電話の発達の頂点となることであろう。現在の送受信機の恰好は普通のカメラほどの大きさで四角ばった箱形で、それから金属の棒が出ていてアンテナの働きをする。1948年には48局が大会社や田舎のクラブで使用されていた。 』 この48局というのはFCC年次報告書の1948年6月30日現在の局数だ。

『FCCは「市民無線電話」に超短波の波長帯を割当てた。そのため機械を婦人のハンドバックか、男子の上着のポケットに入るくらい小さなものにすることができる。「市民無線電話」に割当てられた波長帯は460より470 Mc(1m弱)である。FCCはこの波長帯内で各「市民無線電話」使用者にそれぞれ別の波長を割当てることをしないので、別の方法を採用した。送信機はあらかじめ製作所で恒久的にある波長に調整しておく。受信機の方は上記の周波数帯ならばたいてい受信できるくらいに広く調整してある。こうした調整の仕方であるから「市民無線電話」は勢い共同加入線式といったようなものになりがちで、その地域内では誰にでも人の話が聞こえてしまうのであるが、一面個人的送受信機の能率的な運用の妨げとなる混信を防ぐ要素として、送信電力の限度とか使用電波の到達距離の限度その他が挙げられる。』

そして1947年12月1日のPart 19の制定や、1948年3月22日のCR-401の検定合格の件にも触れている。

『1947年遅く上記セットの技術的規格が決定し、1948年3月には製造業者の最初の設計がFCCの承認を得た。いらい各製造業者は小型で低廉な個人用ラジオフォーンの研究に大いに努力してきたとFCCは報告している。価格はひと組40ドルから50ドル前後と想像されている。FCCは簡単な通信資格試験を用意している。FCCへはまた農家、会社、洗濯業者、牧場、百貨店、建設会社、個人飛行士、ボート所有者、貸ボート屋、高層建築労働者、その他各方面からセットの問い合わせがきている。』

  • Dec. 1949 (電波庁RRA 新川浩氏の渡米視察・・・日本)

敗戦国である日本人はGHQの命令で海外渡航が禁止されていた。 唯一の海外諸国の情報源はCIE図書館だった。 そんな中で、GHQから逓信省電波庁技術課長の新川浩に米国無線事情の視察の許可が降りて出発した。新しい法案作りのためにFCCや米国無線界の現状を調査するのが目的だ。新川氏は3ヶ月間に渡り視察した。シチズンス・ラジオに関する報告もあったので、その内容は1950年のページで紹介する。

  • Dec. 1949 (市民ラジオの単語が再び・・・日本)

ラジオ科学10月号(ラジオ科学出版社)で使われた「市民ラジオ」という言葉が、CQ ham radio(技術展望/最近のトピックス, 1949年12-1月合併号, 日本アマチュア無線連盟)で再び用いられた。ただし『市民ラジオとまでも称すべきか・・・』とちょっと躊躇したかの表現を使っている。以下記事を引用させていただく。

Citizens Radio

市民ラジオとまでも称すべきか、一般民衆が自由に自分の用にVHF電波扱ってよいといういかにもデモクラシーの国らしいこの新しいラジオの分野は、戦後アメリカで初めて試みられて非常な人気を呼び、今後素晴らしい発達が期待されている。・・・略・・・

市民ラジオは最近迄は未だ実験的許可が41局に与えられていたに過ぎず、別に300近い許可申請がFCCに提出されていたが、いよいよこのサービスに対する正式の規則が制定され、本年6月1日付で効力を発揮した。・・・略・・・モールス電信の認可を持っていれば電信でやってもよい。

周波数は460-470Mcだけが割当てられ、セットの技術的内容によって入力10Wまでのものと50Wまでのものと2つのクラスにわけている。』 【注】まだCQ誌をJARLが発行していた時代で、のちにCQ出版社へ移管された。

1949年6月1日をもってTemporary Base(いわゆるExperimental CB)から、Regular Base へ切り替わったことを、日本人読者に伝えたという点ではCQ誌の報道は貴重だったといえよう。

  • Dec. 5, 1949 (ついにマッカーサー書簡が送られる・・・日本)

ついにCCSは日本側の煮え切らない態度に業を煮やし、「マッカーサー書簡」と呼ばれる最後通牒を吉田首相に送った。国務大臣が委員長になり、首相が委員会の決定を逆転する権利を持つことは、この書簡で完全に否定された。ゲームセットだった。

  • Dec. 23, 1949 (電波三法案が衆議院に送られる・・・日本)

いくら頑固者の吉田首相でも、日本の統治者である連合国最高司令官マッカーサー元帥には逆らうことはできない。以後成案作業は急進展した。12月19日、電波行政への内閣と首相の影響力は全て排除し、電波監理委員会を完全に独立した行政委員会制度とする案が完成した。そして1949年(昭和24年)12月22日に「電波法案」「放送法案」が、12月23日には「電波監理委員会設置法案」が閣議決定されて、第7回国会(衆議院)へ送付された。こうして日本版FCCの設立へ歩みだした。電波監理委員会が政府から独立したお陰で、戦争前の古い考え方の人々から抵抗されることもなく、日本に市民ラジオ制度が誕生した。【参考】日本の主権が回復してGHQが日本を去るなり、電波監理委員会はあっさり廃止された。