1948

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1948年3月22日、Al GrossのCitizens Radio CorporationのClass B CRS用 Walkie-Talkie "Model 100B" が初めて検定試験合格しました。同時にAl Gross が19W0001のコールサインを受け、Al Gross自身はこれを第一号CBだと主張しています。

この年は第二次世界大戦で使用された400MHz帯のIFF(敵味方識別装置)トランスポンダーが市場に安価に出回ったため、クラス2実験局免許のシチズンス・ラジオ局が増加し始めていました。また8月にはFCC Rules & Regulations Part 19, Citizens Radio Service の改正提案(Docket No.9119)が告示され、いよいよCB制度創設の最終局面に入りました。

SUMMARY この年の出来事

Jan.- Mar.? 1948 - Al Gross がWalkie-Talkie の最終テストにKQ2XALを免許された。

Mar.22, 1948 - Al Gross(Citizens Radio Corporation) の Model 100B が型式検定試験に合格。

June 30, 1948 - Citizens Radio Station が48局になった。(対前年比で36局増)

Aug.12, 1948 - FCCがCitizens Radio Service の改正規則(FCC Docket No.9119)を成案。8月19日に告示。

Oct.31, 1948 - Citizens Radio Station が66局になった。4ヶ月で18局増という高い伸びを示した。

  • January 1948 (Citizens Radio Service 誕生を伝えるニュース)

IRE(Institute of Radio Engineers:現在のIEEE)の機関誌Proceedings of the I.R.E. 1月号(p108)は"Rules Adopted For Citizens' Radio Service" と題して、技術仕様と検定仕様が確定したことを伝えた。

  • Jan.-Mar.? 1948 (Al Gross の最終実験ライセンスKQ2XAL)

Al Gross は1948年の初頭(1~3月)に新たにExperimental局のライセンスを得ている。コールサインはKQ2XALである。Walkie-Talkieの最終段階のテスト用に取得したライセンスかも知れない。KQ2XALはAl Grossからきているのだろうか?

Citizens Radio Service の施行より2ヶ月が経過していた。

Popular Mechanics誌1948年2月号(Feb.1948, page94)に、1枚の写真とともに"Walkie-Talkie Waighing 11 Ounces For Workers and Sportsmen"という記事が掲載された。 高さ6インチ、横幅3インチ、重さ11オンスの460-470 McのWalkie-TalkieをClevelandの会社が開発したというごく簡単な内容で、特に価格や発売の予告はない。

クリーブランド(Cleveland, Ohio)といえば、Al Gross が設立したWalkie-Talkie製造会社"Citizens Radio Corporation" がある町である。

胸にポケットチーフをさした背広姿の紳士が、ヘッドフォンを装着してWalkiwe-Talkieを口元に近づけるこの写真は、いよいよWalkie-Talki の実用化が近い事を匂わしていた。

(なおこの写真の紳士はその顔立ちから、Al Gross本人ではない。)

  • Feb. 20, 1948 (民放を認める放送法案を成案するも、結果的には廃案に・・・日本)

日本の電波行政関係者は電波行政の民主化を心から歓迎したわけではないようだ。電波タイムス紙の創業者、阿川秀雄氏が連載「続・私の電波史」(1990年11月2日)で当時の様子について触れられているので引用する。

『古くから日本の行政は所管大臣の裁量にまかされていた。これを「独任制」というが、GHQの示唆は政府からも国会からも干渉を受けない「完全に独立」した合議制による委員会を作れ、というものであって、わが国の行政にとって全く前例をみない革命的なものであったから、立案当事者は大いに困惑したばかりでなく、このような方式の導入には、きわめて消極的であった。あえていえば、当時の官僚は旧来の行政制度を生かし、大臣の下に諮問委員会的な放送委員会を作ることを考えていたのである。』

1948年(昭和23年)2月20日、逓信省は内閣総理大臣の下に諮問機関的な「放送委員会」を設ける案と、民間放送を認める「放送法案」を成案した。CCS(民間通信局)にお伺いをたて、LS(法務局)からも修正を求められたり、かなりの曲折を経た末の6月8日に第二回通常国会へ提出するに至った。

その法案では電波行政は逓信省の外局として電波庁を設置して、その長を電波監理長官とするものだったが、国会が7月5日に審議未了のまま閉会。さらに10月7日には芦田内閣が昭電疑獄事件で総辞職して廃案となってしまった。

芦田内閣の後続には(合議制委員会の設置に猛反対の)第二次吉田茂内閣が誕生(10月19日)し、日本の電波民主化に再びブレーキが掛かるのである。阿川秀雄氏の回想によると吉田首相はこの放送委員会の設置ですら気乗り薄で、『委員会行政なんかウマクいかんよ』と語っていたという。(阿川秀雄, 連載「続・私の電波史」, 1990年11月5日)

  • March 1948 (敵味方識別装置による初期のCB無線)

ごく初期のCB無線を語る上で絶対に欠かせない人気トランシーバーがある。第二次世界大戦で使用されたIFF(敵味方識別装置)トランスポンダーだ。この話題にも触れておきたい。

工作キットで有名なヒース社が、米軍払い下げのGeneral Electric社製IFFトランスポンダーBC-645が市民ラジオに改造可能として、科学雑誌に広告を出しはじめた。たとえばPopular Mechanics誌1948年1月号(p263)に掲載されたBC-645の広告を見てみよう(左図)。

『Ideal for use in proposed citizens band between house, and car, boat, etc. 』

アクセサリーとして同社では家庭用AC110V電源を$11.95、バッテリー(12/24v)用ダイナモを$3.95で取扱っていた。マイクやスピーカーも別途必要である。

ヒース社の扱いではないが、この他にもGE社のRT-1248も同じ周波数帯で、少々放出品が出回ったようだ。

(広告の右側1行目にthe Citizen's Radio Telephone Band という文字が見える)

◆ IFF 敵味方識別装置とは

第二次世界大戦でレーダーが実用化され、目視できないほど遠方を飛ぶ飛行機の事前発見が可能になったが、目視確認できないのでそれが敵機か味方機が判別できないという問題があった。そこで地上からの問合せ電波に呼応して応答波を返す、IFF(Identification Friend or Foe, 敵味方識別装置)トランスポンダーが開発された。450-500MHzを使用するGE社のBC-645が有名である。

【参考】日本では海軍と陸軍がそれぞれ別々に同様の装置を開発していたが、なかなか完成できなかった。しかし戦争末期になり、日本軍のレーダーに反応して米軍機のIFF(敵味方識別装置)トランスポンダーが誤って信号を返答する現象を発見した。そこでレーダーに機影が映っても、電波で返事がないのが我々(日本軍)であることで識別したといわれている。もし事実ならば、なんとも情けない話ではあるが、ある意味では気転が利いている。

◆ BC-645の改造

戦争が終わり、米軍からIFFトランスポンダーBC-645などが安価かつ大量に放出された。IFFトランスポンダーはパルス列信号の送受信機なので、これを無線電話のトランシーバーとして使用するには、受信部に検波回路を追加改造し、送信部にはマイクアンプおよび変調回路を追加する必要があったが、一部の無線機ショップではBC-645の回路図と、改造用の参考資料を付けて販売したようで、BC-645はこの時代のシチズンス・ラジオの代表機となった。なお発振回路は(水晶ではなく)自励型なので、CRS Class B の技術基準による実験局の申請だった。Electronics誌の1948年8月号の"Citizens Radio Project" でも、William B. Lurie がこの人気のBC-645の改造記事を取り上げた。

◆ FCCの対応

昨年12月1日にCitizens Radio Service が法制化され、技術基準が明らかになっているので、FCCは素性のハッキリしている(GE社製)BC-645の改造機での開局申請者にCitizens Radio Station ライセンスを発給することもできただろう。しかしFCCは彼らにClass 2 Experimental で許可を与え続けた。

通常ならば無線局を開設する場合には詳細な工事設計書と技術資料を添付して申請し、FCCの審査に合格すれば予備免許(CP: Construction Permit)でコールサインが与えられ、無線設備の調整のために限定した電波の発射が許され、工事が完了したら検査があり、合格すれば晴れて本免許が発行される。この開局手順はほぼ日本の逓信省と同じである。

しかしCitizens Radio では検定制度によりこれらの煩雑な手続きをすべて省略して、申請さえすれば直ちに本免許を発給しようとしていたため、BC-645の改造機のように正規の開局審査手順を踏むものをCitizens Radio の名で免許したくなかったようだ。これは逆説的にいえば検定合格機でさえあればCitizens Radio で免許するという意味でもあり、その象徴的な出来事が3月22日に起きた。

  • Mar. 22, 1948 (検定合格第一号 Model 100B とコールサイン19W0001)

1948年3月22日、Al Gross が設立したCitizens Radio Corporation のModel 100BがFCCの検定試験に合格した。FCCの型式認定番号はCR-401だった。

<主な仕様>

周波数:465MHz (1波) 終段入力:3W

電波型式:A3(最大変調度30%)

周波数許容偏差:プラス or マイナス0.4% (自励発振方式)

受信方式:超再生検波方式

マイク:内蔵 スピーカー:なし(ヘッドフォン出力端子あり)

アンテナ:半波長ダイポール(脱着折りたたみ式)

電源:外部より供給

大きさ:17.8 x 7.3 x 3.2 (cm)

重量:310g(バッテリーを含まない本体重量)

若い女性が右手で Model 100B を口元に近づけて、ちょっと首を傾けているこの写真は、当時の多くの科学雑誌の紹介記事で使用されたプレス向け写真で、見覚えのある方も多いのではないだろうか。

◆ コールサイン19W0001が発給される

左はAl Grossが1980年代に使用していたQSLカードだ。幸い私も実物を入手することができた。

19W0001がコールサインで「地域番号+W+数字4桁」で構成されている。地域番号(Radio District Numbers)は管轄する各地のFCC出張所ごとに定められた番号で、オハイオ州クリーブランドを管轄するFCC出張所が19番という意味である。QSLカードのコールサインの下にはIssued March 22,1948 「1948年3月22日に発行された」と書かれている。このDistrict Numbers についてはCB Callsigns のページを参照願いたい。

さらに自分こそが THE FIRST CB'er "CB NUMBER ONE" だと主張されている。たしかに Al Gross はCB制度創設に直接的に協力した偉大な無線技術者であり、私も大いに尊敬しているが、彼は制度創設側の立場であり、また製造事業者の立場でもある。もしこれをCB第一号だとすれば、他のどんな無線制度においても製造業者が第一号になってしまう可能性があることから、あくまでユーザー側の立場だった、John M. Mulligan のW2XQD(1947年2月14日免許)こそを第一号として支持する意見も多い。ここは意見の分かれるところなので、読者のみなさんの判断に委ねたい。

実はこのカード裏面には同じ日に19W0003もAl Grossに発行されたことが記されている。番号がひとつ飛んでいるので、同じ日に19W0002が誰かに発行されたはずだ。それが誰なのかはCB史の解明されない謎のひとつである。

3月22日に19W0001が発行されたのが事実とすれば、FCCは型式検定機による免許申請には、Citizens Radio Station で免許し、CRS局のコールサインを発行する方針だったと考えられる。

  • Mar. 23, 1948 (検定合格第一号についてFCC委員長が発言)

翌3月23日、IRE(Institute of Radio Engineers:現在のIEEE)National Convention の昼食会にて、FCC委員長Wayne Coy が Citizens Radio 初の型式検定機を承認したので、これにより免許手続きが簡素化できるだろうと語った。

"Citizens Radio Gets Green Light" 『市民無線に青信号が灯った』

(Instutute News and Radio Notes, Proceeding of the I.R.E., p751, June 1948, Institute of Radio Engineers)

Chairman Coy said, "As soon as this first type-approval-set gets into production, the public can start enjoying this radio service. "

Coy委員長「この最初の型式承認セットが生産に入ればすぐに、大衆はこの無線業務を楽しむことができます。」

"... and service rules governing the operation of the service will be promulgated in the near future."

「この業務の運用を管理する業務規則は、近く発布されるでしょう。」と、

FCCのCoy委員長は運用に関する規則等を含んだPart 19の改正がまもなくあることを匂わせた。

この検定合格のニュースは3月24日のNew York Times でも報道された。

"NEW 2-WAY READY FOR PUBLIC"

"Coat Pocket Walkie-Talkie Announced by Head FCC at Engineers' Institute"

(Thomas R.Kennedy Jr., New York Times, p.27, Mar.24,1948)

また3月28日のThe Washington Post はAP通信のAl Gross への取材記事を報じている。

◆"It's Be Party Line For Walkie-Talkie"

(Wayne Oliver, The Washington Post, p.L4, Mar.28,1948)

『2台ペアで$200以下を予定しています。60~90日後あたりから生産が始まるでしょう』とAl Grossは記者に語った。

少し時間が空くが4月19日のLos Angeles Times でも報道された。

"Walkie Talkie Can Give Every Own Station"

(Los Angeles Times, Apr.19, 1948)

やはり当時のアメリカではCitizens Radioは刺激的な名称なのだろうか。これまでFCCはシチズンス・ラジオによる放送行為の禁止を明確に表明してきたが、誤解を生みそうなタイトルでCoy委員長の検定合格発表の発言を伝えるものもあった。1923年創刊の世界初の週刊ニュース雑誌 "TIME" 4月5日号は以下の見出しを付けた(もちろんこの記事は放送行為を煽るような内容ではない)。

"Every Man a Broadcaster"

(TIME, Apr.5, 1948)

このようにふたたび市民のWalkieTalkie への期待が高まるかに見えたが、不思議なことにここからFCCの作業テンポがゆっくりになり、改正Citizens Radio Service の施行まで1年以上もの時間を掛けた。そのためシチズンス・ラジオはビジネスチャンスを逃してしまったようだ。

  • June 1948 (Al Gross 販路を獲得する)

検定には合格したものの、実際に販売するには販路を開拓しなければならない。Al Gross のCitizens Radio Corporation は、シカゴにある大手カタログ通販会社のモンゴメリー・ワード(Montgomery Ward)社から同社のAirlineブランドで10,000台の注文を獲得した。モンゴメリー・ワード社はアメリカ初の通販会社として1872年に創業し、農村部と地方都市を中心に事業を拡大してきた。

Citizens Radio Service(CRS)のユースケースとしては、当初から農場と自宅間の連絡用が想定されていたため、農村部に強い同社は最適のパートナーだった。なおAirlineは同社が販売するラジオ受信機等のブランドである。

この注文の納期は1年で、もし1949年7月1日の時点で未納品の残台数があれば、その分はキャンセルとみなすという条件が付いた。同じ時期に沿岸警備隊からも(CRSより少し低い周波数に改造した)Walkie-Talkie を大量受注しているため、Citizens Radio Corporation はフル生産状態だったと推察される。

Al Gross がユーザーへ直接販売を行った痕跡がないことから、1949年6月頃までは誰もModel 100B を入手することはなかったようだ。19W0001のコールサイン発給で前述したが、FCCは検定合格機による開局申請であれば、CRSのライセンスを発行する腹積もりだったようだが、結局誰からも検定機による申請はなかった(誰も買えなかった)と私は想像している。

◆ 謎?FCCは発売時期に改正施行日を合わせたかも?

Montgomery Wardからの受注により、検定合格機が市場に出回るのが1年も後になることが確定的になり、どうもFCCは規則改正までの手続きを意図的にゆっくり進めたフシがある。

1948年3月22日のIREの昼食会でCoy委員長は「改正規則の成案はすぐにできる」と発言したのに、成案には1948年8月12日まで時間をかけた。それを委員会で可決承認したのは翌1949年3月30日。どう考えても行動が遅い。7ヶ月も要しているのだ。

さらにこんなに遅れたのなら、すぐにでも施行すればよさそうなものだが、施行日を2ヶ月あとの1949年6月1日に決めた。このFCCのスローペースの本当の理由は、Model 100Bの発売時期に、CRS改正規則の施行日を合わせるためだったのではないだろうか。つまり改正規則が施行されても、製品が販売されていないのは政策的にまずいと考えたかも知れない(あくまで私の憶測)。

  • June 30, 1948 (シチズンス・ラジオ局が3倍に増加)

FCCの年次報告書によると1948年6月30日時点でのシチズンス・ラジオは48局だった。これは前年同月比で3倍という高い伸びだ。

【局数統計】

またシチズンス・ラジオの開局申請数は前年度の8倍以上の165件(前年比145件増)だった。

【申請数統計】

急に増加した主因はBC-645などの放出品が安価で市場に出回ったためである。一から無線機を自作する必要がなくなった。ただし申請件数に比べて、免許数の伸びが低いことから、改造機が簡単にFCCの審査に合格したわけではないようだ。

  • August 1948 (Electronics誌 "Citizens Radio Project" でも BC-645の改造が取上げられる)

Electronics誌8月号はIFFトランスポンダーBC-645の改造記事と通信実験の結果を報告した。

(William B. Lurie, Citizens Band Transceiver, pp.76-81,Aug.1948, Electronics)

今回の執筆者、William B. Lurie はFleetwood Laboratories, Inc.,の経営者であり無線技術者だ。彼は1947年にはW10XEMのライセンスを得ていた創設期のCBerの一人である(1947年12月のシチズンス・ラジオ局リストを参照)。

その彼がElectronics誌1948年8月号にBC-645の詳細な改造記事を書いた。LurieはBC-645を3台改造しW2XRWのライセンスを得た(Class 2 Experimental)。2台の自動車用と、マグロウヒル・ビルディングに置く1台である。BC-645本体は1台およそ$10で入手したが、付属品を含めて$25で済んだ。まず気になったのが自励発振式のBC-645の周波数安定度だったがテストの結果、FCCのCRS Class Bの基準である±0.4%は問題ないことが確認されたという。

記事ではまずBC-645の各ブロック(送信部・受信部・電源部)の詳細な技術説明と改造方法について説明された。自動車に用いる電源部はBC-645の純正オプションのダイナモーターPE-101Cを使用した。航空機でBC-645とセットで使用されていたものだ。DC12または24v入力で、400v/135mA出力が得られる。

◆ W2XRW によるフィールドテスト(郊外編)

そして記事の後半はフィールドテストについて報告された。このフィールドテストはLurie と彼の仲間により行われた。残念ながらこの記事にはフィールドテストの期日が明示されていないが、この記事が8月号に掲載されたことから、1948年の5~6月あたりに実施されたのではないだろうか。

最初の実験はニューヨークのマンハッタンの市街地から北へ30kmほど離れたブロンクスビル(Bronxville, NY)を走行する2台の自動車間で行われた。【補足】ブロンクビルにはWilliam B. Lurie のFleetwood Laboratories, Inc., があっため、この地でテストが行われた。現在はニューヨーク郊外の高級住宅地である。

自動車1号車(1946 Dodge sedan, W2XRW/mobile1)のアンテナは送信用と受信用を接地板に、半波長垂直型を2本独立して取り付け、これを自動車の屋根に吸盤で固定した。アンテナの高さは6フィート(1.8メートル)だった。


自動車2号車(1940 Burik convertible coupe, W2XRW/mobile2)はアンテナとBC-645等を一体化したボックスに組み込まれた。アンテナ自体は1号車と同じもので、アンテナの高さは4フィート(1.2メーター)だった。

右の写真はボックスを開けたところだ。左端に見えるのがBC-645で、その隣の円筒形がダイナモーターPE-101C。さらに隣の四角いものがDC12vバッテリー、一番右端が通信実験しない時間にバッテリーを充電するときのスイッチである。

郊外地なので林などの障害物はあったが車間距離が2000フィート(約600m)あたりまで通信できた。車間距離が3000フィート(約900m)では周囲の木々や建築物などからフェージングの影響を大きく受け、通信は可能だが断続しあまり実用的とはいえなかった。

William B. Lurie はBC-645をAM方式で使っていた。AM方式ならFM検波器やFM変調機を追加せずに手軽に改造できるからだ。BC-645の受信部の中間周波数は40MHzである。測定してみたところIFフィルターの帯域幅が1MHz近くあったため、これを250kHzへ狭帯域化することで帯域外ノイズの低減化を試みた。実際この作戦はうまくいき、同じような天候条件のもとで、後日再テストしたところ車間距離は5,000フィート(約1.5km)に伸びた。

後日になって、ニュージャージーの"Jerry B. Minter of the Mesurements Corporation" が測定してみたところ、BC-645の受信感度(The threshhold sensitivity)は100 microvoltsという結果で、けして高感度とはいえず、BC-645改造機での自動車間通信はさならる改良が必要だと判断された。

◆ W2XRW によるフィールドテスト(市街地編)

次にマグロウヒル社に設置した基地局とマンハッタンのビル街を走る自動車局との実験が行われた。Electronics誌の記事の最初の見開き両ページにまたがる写真が当時のマグロウヒル・ビルディング(McGraw-Hill Building, 42nd Street between 8th and 9th Avenues,NYC)の屋上から北を見たマンハッタンの景色である。左側を北に伸びる道路が9番アベニュー、この写真では判別できないが右側を北に8番アベニューが延びている。

マグロウヒル・ビルディングの屋上に5エレメントの八木アンテナ(垂直偏波)を北に向けて設置した。地上高は約500フィート(150m)である。

写真は実験のために屋上に並べられた機材だが、左がAC電源アダプターで、右がBC-645(W2XRW/base)である。

BC-645の上にはスタンド付きのマイクロフォンと、丸いスピーカーらしきものが写っている。このように屋上の吹きざらしの場所で実験したのだろう。

こうしてニューヨーク・マンハッタンのビル街でのフィールドテストが実施された。マグロウヒル・ビルディングをはさむ8番アベニューと9番アベニューを1マイル(約1.6km)まで走行し、時にはビル影でマグロウヒル・ビルディングが見えなくなることがあっても通信は途切れず維持された。1マイルでの信号強度は、自動車同士で実験したときの車間距離1000フィート(300m)よりもずっと強かった。

1.5マイル(約2.4km)離れると断続的な通信になり、2マイル(約3.2km)では単方向通信になったりしたが、どこまで通信可能かの最大通信距離の試験は行わなかったと報告している。また自動車同士の実験で経験した短周期のフェージングの影響は今回はなかった。

最後にマグロウヒル・ビルの直下に自動車を止めてテストすると、非常に弱々しい通信になってしまったが、これはアンテナの放射特性からは予想されたとおりであり、驚くべきものではないとした。

彼は記事の最後で、1947年より開局している実験CB局W10XEMの送信機を水晶制御の入力25Wと50Wに増強する開発を進めていることを明らかにした。入力25Wに関してはすでにFCCから予備免許(Construction Permit)が与えられているという。

このフィールドテストとは別件だが、Electronics誌1948年5月号には"ANTENNA for Citizens Radio"(Haward J. Rowland)という記事があり、多段コリニアと3エレメント2列のアンテナ設計について解説されている。この中にマグロウヒル・ビルディングの屋上に設置した写真がある。南向きに撮影されたもので遠くに見える先が尖がった高層ビルがエンパイアステートビルである。写真の右上には "Mc" とマグロウヒルの社名看板らしきものも写っている。この踊り場のスペースで通信実験したのだろう。

Subpart A - General のSec. 19.2 Definitions (定義)において、パラグラフ(a)~(g)の7つの語を定義した。

(屋上に設置したアンテナ)

◆ シチズンス・バンド(Citizens Band)という言葉

このElectronics誌1948年8月号の "Citizens Radio Project" 連載記事は"Citizens Band Transceivers" というタイトルである。Electronics誌は日本のCIE図書館を通して多くの日本人技術者にも読まれていたため、Citizens Radio という言葉とほぼ同時に、"Citizens Band" という言葉も日本へ伝わっていた。

1950年(昭和25年)に日本でもSimple Radio Service(日本語名:簡易無線業務)が創設された際に、多くの科学雑誌がこの無線制度を取り上げたが、すでにその時 "Citizens Band" という言い回しが用いられているのは、このElectronics誌の影響があったかも知れない。

  • Aug. 12, 1948 (Docket No. 9119) Proposed

  • Aug. 19, 1948 (連邦官報告示 13FR4796)

8月12日、FCCはCitizens Radio Service(CRS)の開局申請規則と運用規則を成案(FCC Docket No.9119)し、 8月19日に連邦官報(13FR4796)で告示した。コメント受付期限を1948年10月1日とした。

この改正規則の提案では、FCC Rule and Regulations Part 19(Citizens Radio Service)を、大きくA~Dの4つのSubpart に区分した。

これまでE.K. Jett がCRS とはいかなるものかを説明してきたが、今回はじめて規則上で定義された。世界で最初に明文化された定義なので、この"(a) Citizens radio service" 原文をぜひご一読願いたい。

【重要な注意事項】 以下に私の意訳も併記しますが、あくまで参考程度とし、法解釈は各自でご判断ください。

(a) Citizens radio service -

A fixed and mobile service intended for use for private or personal radio communication, radio signaling, control of objects or devices by radio, and other purposes not specifically prohibited herein.

Any citizen of United States eighteen years of age or over is eligible for a station license in this service.

「固定局と移動局の業務であって、私用や個人的な、無線通信・無線標定・無線操縦、およびこの規則で禁止されない全ての用途を意図したものである。」

「そして18歳以上の合衆国籍を持つ全市民が、この業務の無線局の許可を受ける資格を有する。」

つまり『私用(プライベート)や個人(パーソナル)用の無線局で、(別途定めた禁止条項を除き)どんな用途でも良い』というのが、シチズンス・ラジオだ。どちらかといえば個人を対象にした無線制度である。

後年になって460MHz帯のCB無線は企業向けで、27MHz帯のCB無線は個人向けのような一般的認識に変化してしまったが、460MHz帯のCitizens Radio の創設意図は、あくまで一般市民が自由なプライベート通信で豊かな生活をおくることだった。

◆もし完全に個人限定の無線だと、利用者の利便性が良くない

もしシチズンス・ラジオの免許を純粋な個(インディビデュアル)に限定するとどうだろうか。たとえば登山の連絡用通信で、個(登山者)と個(登山者)の通話はできるが、山小屋を管理する組織や団体には開設を認めないというのは明らかに片手落ちである。

携帯電話が普及した現代に置換えて、個人を相手にしか電話が掛けられない状況を想像してみて欲しい。子供が熱を出して塾を休む場合、親の携帯電話から塾の先生個人の携帯電話に欠席の電話をする。これが個と個の通信である。しかし現実には先生の携帯番号を知らない(教えてもらえない)こともあるし、授業中かもしれないので、塾(組織)へ電話するだろう。これが個と組織の通信である。

そもそも個人的な生活通信では、通信相手が「個」だけとは限らない。だから「個の通信」を充実させるには、「組織にも許可を与える」ことが不可欠だった。上記[Sec. 19.2 (a)] ではCitizens Radio Service とは個の通信だとしつつも、次に述べる[Sec. 19.2 (g)] では「個の集合体も個」だと定義にした。

(g) Person -

The term "person" includes an individual, partnership, association, trust, or corporation.

「個人とは、いわゆる個体(インディビデュアル)はもちろんのこと、協同組合(パートナーシップ)、協会・社団(アソシエーション)、共同体(トラスト)、法人(コーポレーション)も含む。」

最終的にFCCは免許人が誰かにはこだわらず、その通信内容がプライベートでありパーソナルなものを Citizens Radio Service だと決めたのである。

◆ サブパートB(申請規則)からの一部要約

[Sec. 19.11] (Station authorization required) ・・・ FCCが許可した局しか、シチズンス・ラジオを運用することはできないと宣言した。

[Sec. 19.12] (Eligibility for station license) ・・・ シチズンス・ラジオを申請できるのは18歳以上で米国市民権を持つ者で、ひとつの無線機には唯一ひとりの免許人を許可するとした。

[Sec. 19.14] (Forms to be used) ・・・ 検定合格機で申請する場合は、ワシントンのFCC本部または地元のFCC出張所(Field Engineering Office)に略式様式の申請で済ますことができるが、もし検定合格機以外で申請するならワシントンのFCC本部へ所定の申請書と10項目の資料を提出することが定められた。検定合格機でなくても免許申請ができる余地が残されたのだ。これにより改正規則の施行後はBC-645改造機での申請には、Class 2 Experimental ではなく、Class B Citizens Radio で免許された。

◆ サブパートD(運用規則)からの一部要約

[Sec. 19.51] (Operation of citizens radio stations) ・・・ 手送り電信のCitizens Radio は通信士の資格が必要だが、電話は誰でも運用できる。無線機の試験や調整はClass1 またはClass2の通信士の監督下で行うこと。

[Sec. 19.52] (Station identification) ・・・ 通信の始めと終わりにはコールサインを送出すること。10分以上送信が続くときは10分間ごとに送出すること。ただしラジオコントロール局はコールサインを送る必要はない。

[Sec. 19.59] (Permissible communications) ・・・ 許される通信範囲を定めた。

(a)他の免許人のCtirizens Radio との交信は良いが、他の業務局、政府局、外国局との交信は禁止。

(b)通信は出来る限り短時間で行うこと。

(c)各種法律違反する目的の通信や、他人のメッセージを伝送しその通信料を請求する通信(いわゆる有料の公衆電報・電話に類する行為)や公衆通信(有線電話)網との接続は禁止。そして(たとえ無料でも)ラジオ放送局のような放送行為を禁止した。つまり1920年代のCitizens Radio 行為が復活しないように、19.52(c)で放送行為の禁止が明示されたのだ。

(d)連続送信になるラジオコントロールは禁止。

(e)試験や調整を行う場合を除いて、無意味な電波の発射を禁止。

◆ 強化されたSec. 19.59(制約・禁止事項)

このSec. 19.59を記憶に留めておいて欲しい。もともとE. K. Jett はFCCとしては受託電報行為と放送行為の2点の禁止を明文化するが、それ以外は利用者団体の自主ルールや州政府に委ねると表明していた。つまりこのSec. 15.59のパラグラフ(c)の部分だけにすると語っていた。

しかしいざ成案が始まるとパラグラフ(a), (b), (d), (e) の4つが加わった。結局E. K. Jett の理想通りにはいかず、Sec. 19.59はこのあとも事件が起きるたびに、パラグラフがどんどん強化・追加され続けるのである。

この規則改正案のニュースはロサンジェルスタイムスやニューヨークタイムでも報じられた。

" 'Personal Radio' About Ready to Greet Public"

(Los Angeles Times, p.1, August 14,1948)

"NEW RADIO SERVICE, FCC Authorizes Personal Sending-Receiving Units"

(Jay Walz, The New York Times, p.N9, August 19,1948)

"FCC Sets Rules For Citizens Radio"

(Radio Daily, p4, August 16, 1948)

またTele-Tech(1948年9月号)やRadio & Television News(1948年11月号) などの専門雑誌も改正案を伝えた。

"FCC Proposes New Rules For Citizens Radio Service"

(TELE-TECH, September 1948, p64)

記事の後半でCRSのコールサインについて触れている。

『Station call signal would probably be the registered serial number appearing on the station licencse.』 (コールサインは無線局免許状に書かれた登録通し番号になるだろう)

Al Grossが1948年3月22日に19W0001と19W0003のコールサインの発給を受けたという件は、厳密にいえば彼がそう主張しているだけである。FCCの公式資料や、彼のCRS免許状のコピーなどによる証明がなされたとの話は(少なくとも私は)聞いたことがない。

これまでシチズンス・ラジオはW2XQDのような実験局の「国際符字+District Number+最大3文字」形式のものを使ってきた。それが「通し番号によるコールサイン」に変わるという"Tele-Tech" 1948年9月号の記事である。Al Grossのコールサインも("19W" はともかくとして)0001番からの通し番号で発給されたものだ。だからといってこの記事が、Al Grossの主張を補強するものでもなく、いまだ未検証事項として残ったままである。

  • Sep. 9, 1948 (GHQ/SCAPが、"郵"・"電" 二省分離を指令した・・・日本)

GHQ/SQAPより日本政府へ対日指令 SCAPIN 第5985号が発令された。逓信省が所管していた「郵政」と「通信」の分離(二省分離)が示されると同時に、独立行政委員会設置への方向付けが確立した。

  • Oct. 1, 1948 (シチズンス・ラジオの改正規則案へのコメントが締め切られる)

Citizens Radio Service の改正案(FCC Docket No.9119)に対するコメントが締め切られた。International Municipal Signal Association, Inc., (New York,N.Y) と、Citizens Radio Corporation, (Cleveland,Ohio) の両社からコメントが提出された。ちなみに、Citizens Radio Corporation はAl Gross がWalkie-Talkie の開発と製造をおこなうために設立した会社である。

  • Oct. 31, 1948 (シチズンス・ラジオ局数が66局になる)

FCCの年次報告書1948年版(P9)に、1948年10月31日の時点での無線局数の速報値が掲載された。Citizens Radio Station の免許数は6月30日から4ヶ月で18局増えて66局になった。

もちろんまだClass 2 Experimental によるライセンスを受けた俗に「Experimental CRS」と呼ばれていた無線局である。

なおFCCではPart 19 Citizens radio service が施行されているため、局数統計上ではCitizens (Radio) として集計しているが、その表記は上記のように "Citizens(Experimental)" としていた。

    • Dec. 15, 1948 (シチズンス・ラジオを日本語で伝えた初の書籍)

GHQ/SCAPの民間情報教育局CIEが日本全国にいわゆる「CIE図書館」を開設し、アメリカ書籍や雑誌については自由に読める環境があったため、Citizens Radio Service が1947年12月1日に誕生したというニュースは電波関係者なら知っていただろう。

しかしそれは英語だし、限られた人だけが触れつことができたのだろう。しかし一般大衆へ日本語により、はじめてシチズンス・ラジオ(Walkie-Talkie)の概要を伝える書籍『僕らの無線学』が、1948年12月15日に東京神田の電子社から発行された。「ポケット放送局」これがシチズンス・ラジオに付けられた日本で最初の名前である。

この書は子供むけに各種無線局の概要を、ある家族の会話形式で紹介していくもので、文章は平易だが内容は非常に濃く、大人の私が今読んでも引込まれてしまうほどだ。筆者は検見川送信所(二代目J1AA)の初代所長だった菊谷秀雄氏である。

菊谷氏は東北帝国大学の宇田博士の1年後輩で八木宇田ビームアンテナの研究にも協力された。昭和20年代に多くの青少年向け無線工学の啓蒙書籍を執筆されたことでも有名で、少年時代に菊谷氏の書籍に刺激を受けた諸先輩も多いと想像する。

ではシチズンス・ラジオに関する部分を同書より引用させていただく。

祖父 「電気の力は偉いもんじゃの。空中や海中のものから、地中のものまで見つけ出す魔法使いのようなものじゃ。この魔法使いを使いこなす人間の知恵は、また、偉いの。おじいさんも、もっと勉強しとけば、今頃は博士様じゃったろうに。しかし、わしも、まだまだ。勉強しますぞ。

時にその、先日、和夫の買って来た雑誌を見たら、アメリカではタバコ入れ位の大きさのポケット放送局が盛んに使われているって書いてあったが、あれは何かの。だれでも放送が出来るものかの。』

このように前章「9.電気探鉱の話」がしめくくられ、次の「10.ポケット放送局の話」へ物語が渡された。

「おじいさんもなかなか物識りになりましたね。

ラジオの受信機も昔に比べると、ずっと、小さく作れるようになりましたが、それよりも、超短波が発達してからは、素晴らしい小型の送受信機が作られるようになりました。何しろ、電波の波長が短いので、線を巻いたコイルも、電気をためるコンデンサーも、アンテナも、真空管も、みんな小さくてすみますから、送信機も受信機も小さく組み立てることが出来るのです。

しかし、ポケットにはいるような小さい送信機が出来ようとは、考えられませんでしたね。これも、アメリカで考案したもので、その動機は、こんな小さな送信機を大鵬の弾の中に入れようと考えたことに始まります。」

祖父 「ほう、大砲の弾に入れて、高い空のお天気でも調べるのかい。」

「いえ、いえ、そんなんじゃないんですよ。電波高度計のところでお話ししましたように、電波は地面や金属などに当たると、反射する性質がありますから、もし、超短波の送信機と受信機を弾の中に入れて打ち出しますと、飛行機や軍艦などのそばに行った時、電波が反射して帰って来ますから、その電波を受信して、弾を爆発させようとしたのです。ですから、弾が当たらなくても、飛行機や軍艦のそばに行っただけで爆発するのですから、むだがないのです。

こんな送受信機を大鵬の頭の先に入れるために、非常に小さいものを作ったのが始まりで、戦争のすんだ今では、これを改造して、ポケットにはいるような、小型のラジオに作りかえたのです。」

祖父 「なる程、人を殺す戦争の武器も、使いようによっては、平和の道具にもなるんだね。物を作る時は、その目的をよく考えて作ることだの・・・。」

和夫 「お父さん、雑誌にはそんな小さなラジオのことを、ウォーキー・トーキーと書いてありましたが、何という意味ですか。」

「歩きながら話す機械とでもいうんだろう。ポケット放送局といった方が僕らにはピンと来るね。」

和夫 「そのポケット放送局が小さく作れるのは、配線を印刷するからだ、と書いてありましたが、針金を印刷するってどうするのしょう。」

「和夫は受信機を作ったから知ってるだろうが、検波管に使うグリッド・リークは一メグとか二メグとかいう高い抵抗だね。昔はこんな抵抗はなかなか買えなかったので、自分で作ったものだ。それには第35図のようにファイバーかエボナイトの上にBB位の軟らかい鉛筆で線を引いて、それを使ったが、これも、一種の印刷配線だね。鉛筆の心は、黒鉛の粉を粘土でかためて、火で焼いたものだから、銅線のように電気がよく通らない。それで、抵抗の高いリークに使えるというわけだ。もし、銅や銀のように抵抗の少ないものの粉末を練り合わせたもので、線が描けるなら、銅線の配線の代わりになるだろう。こう考えて、印刷配線が出来たのだ。アメリカの印刷配線には、銀の粉末のインキを使っているそうだ。銀は抵抗が一番少ないからね。

それに、針金で配線するよりも、印刷配線にした方が大量生産が出来て、値段も安くなるし、絶縁板の裏と表に印刷すれば、線の交わるところもなくなって、非常に小型に作ることが出来るというわけだ。

こうして、超短波の無線電話送信機と受信機とを、小さな箱の中に組み立て、真空管とマイクロフォンと乾電池とをはめ込み、第36図のようなポケット放送局ができたのだ。」

清子 「その銀粉のインキのかわりに、普通の銅線を絶縁板の裏と表に配線しても、ずいぶん小さく作れるでしょうね。和ちゃん、今度のお休みに作ってみない。真空管はソケットのいらない、あの小さな30Mを使ってよ。」

和夫 「そいつは面白そうだ。送信機にもなったり、受信機にもなったりするものを作りましょう。兄いさん、作り方を教えて下さいね。」

「教えてもやろうが、自分でも考案しなくちゃ・・・。いずれ、僕らの素人無線局という本も書くから、そのためにも実験しておいてくれよ。」

祖父 「うん、うん、それは面白かろう。うまくできたら、学校と家の間でも話ができるどろうの。」

「それは出来ますとも。アメリカでは広い畑で働いているお百姓さんが、お互いに仕事のことで連絡に使ったり、山に登る人達が離れ離れにならぬように連絡に使ったり、用たしに行った人が家の人と連絡するのに使うようになるだろうという話です。そして、電池でも使えれば、電灯線でも使えるといいますから便利です。しかし、超短波は、さっきもお話しましたように、目のとどく範囲だけしか聞こえませんからね。」

「そうしますと、まだ、一般には普及していませんのね・・・。買物に行ってお銭が足りない時なんか、お父さまをお呼びして、すぐに来て頂けますから、ホッホッホ・・・。」

「いや、これは大変だ。しかし、こんな便利な機械を皆が使うようになると、お互いに混信して、かえってお話が出来なくなるから、色々の規則を設けることが必要になってくるし、電波の周波数にも制限を加え、通話する人によって、一定の周波数を割り当てるというように、なかなか、やっかいな事が多いものだよ。」

清子 「すると、アメリカでは何メガサイクルの超短波を使っているの。」

和夫 「四六〇メガサイクルから、四七〇メガサイクルを使うと書いてありましたよ。」

「そうだよな。波長にして六五・二二センチメートルから六三・八三センチメートルの範囲になるね。重さも二〇〇グラム位だというから、ポケットに入れて、どこにでも持って行けるだろう。本当のポケット放送局だね。

我国でもいずれポケット放送局が盛んに使われるようになるだろうが、今では、自分勝手に電波を出して、他の無線通信や無線通話に妨害を与えてはならないことになっているから、よく注意しなければいけない。しかし、こういうことも、前もって勉強して、実験しておくことが大事なことだ。それに自分で色々工夫することが、発明のもとになるのだからね。・・・(以下略)」

このように日本向けには「シチズンス・ラジオ」でも「市民無線」でもなく、「ポケット放送局(ウォーキー・トーキー)」という名で、逓信省の菊谷秀雄氏が紹介されたのが始まりである。この書のどこがすごいかというと、CB無線の最新情報が全て語られていることだ。現在の日本ではCB無線の歴史として伝承が途絶えてしまった、「軍用無線の民間転用:<1944-45ページ参照>」がそもそものCB無線創設のきっかけだったことと、量産に向けた「プリント基板(印刷配線):<1947ページ参照>」を採用した最初の無線機だったことに触れている。

そのうえでシチズンス・ラジオの各種想定ユースケースや、460-470Mcが許可され重量は200gほどだとか、アメリカではこれを Walkie-Talkie と呼んでいることなどを紹介されている。

1948年(昭和23年)の時点において、これほどまできちんとアメリカの Citisens Radio Service が日本に伝えれていたとはある意味で驚きでもある。さらに付け加えれば、図36は検定合格第一号機のModel 100B ではなく、戦中のSSTC-502を源流とするUltraphoneのイラストだが、これは本邦初であり、またこれ以降の年代においてもUltraphone のさし絵は日本の図書にはない。

筆者は冒頭のはしがきを「昭和23年秋」と結んでいるので、1948年(昭和23年)初頭に入手されていた米国情報に基づき書かれたものと想像する。なお菊谷氏は 逓信省を退官後は芝浦工業大の教授として、後進の育成・指導にあたられた。

菊谷氏はAl GrossのWalkie-Talkieが戦時中の無線砲弾の技術が転用されたものと考えたようだが、残念ながらこれは違う。OSSのスパイ用無線が転用されたのである。FCCのE.K. Jettは軍事上の秘密からWalkie-Talkieのベースなったものが何かは明かせないとしていたため仕方ない。参考までに無線砲弾の記事を以下に紹介する。

◆太郎のラジオ実験読本(寺沢春潮, p23, 牛込書房, 初版1946.11.1/四版1948.6.10)

『近着のアメリカの雑誌を見ますと、砲弾の中に小型の送信機と受信機とが仕掛けてあって、撃ち出されるときの衝動で薬品がこぼれて電気が発生し、真空管を働かせる電力を作ります。すると、送信機から電波が発射される。この発射電波は砲弾から七十フィートくらい離れたところの目標物に当たると反射して戻り、発射電波とまじって受信機に入り、スイッチを閉じて雷管に点火させるといふものであります。ですから、最も爆破効力の大きいところで爆破させるやうに考へられたもので、これなども極超短波が無線操縦に用ひられた新しい例であります。』