検見川とJ1AA

1925年(大正14年)4月、東京無線電信局の岩槻受信所の建設現場に仮設され、世界を相手に活躍した工務局の実験局J1AAは、1926年(大正15年)7月1日に岩槻受信所が本営業を開始すると徐々にフェードアウトしてゆきました。そのJ1AAが1930年(昭和5年)になって、ひょっこりと検見川送信所に姿を見せます。検見川のJ1AAは二代目です(なお初代J1AAの開局まではJ1AAのページを、その後の初代J1AAの活躍はJ1PP J8AAのページをご覧ください)。ただし検見川のJ1AAは岩槻J1AAの系譜ではなくて、日本で最初に短波無線電話の研究を行った逓信官吏練習所無線実験室J1PPの直系の子孫にあたります。

元々このページを作る予定はなかったのですが、検見川無線のJ1AAに関する話題も整理しておきました。

検見川無線は植民地(いわゆる外地と呼ばれた朝鮮・台湾・関東州・南樺太・南洋群島)向け無線電報の長波送信所として、1926年(大正15年)7月1日より営業を開始しました。開局時の検見川無線のコールサインはJYR/JYS/JYTです。なお開局時から補助的に短波も試用しましたが、そのとき検見川無線が短波で使ったコールサインはJYZです(J1AAではありません)。

逓信省では将来を見据えて、短波を使った無線電話の実用化研究の必要性を感じていました。1930年(昭和5年)春に逓信省工務局は短波無線電話の実用化試験を行うためにその送信機J1AA(臨時実験局)を、東京逓信局所属の検見川送信所(JYR, JYS, JYT, JYX, JYZ, JYB, JPP)の中に置かせてもらいました。そして1930年6月22日に日本最初の国際電話試験を成功させたことをはじめとし、国際放送の実用化へ向けた試験運用を次々と成功させませした。

検見川無線の初代局長の菊谷氏は大正14年春に東北帝大を卒業し、(最初の1年間)逓信省工務局無線係で新人教育を受けました。そういった関係もあり、検見川無線は東京逓信局の電報ビジネスの最前線にありながらも、逓信省工務局J1AAの無線実験に協力しました。すなわちJ1AAは逓信省工務局の実験局であって、東京逓信局の検見川送信所が許可を受けた無線局ではありません。設置場所が検見川無線だったということです。ここは誤解釈なきようにお願いします。

1932年(昭和7年)12月、国策で国際電話株式会社が誕生し、同社の名崎送信所と小室受信所の建設工事が始まりました。それらの営業開始と同時に検見川に置かれた工務局実験局J1AAはその任務を終え閉局しました。

なお検見川無線は1927年(昭和2年)より逓信省による標準電波の定期発射が発射された送信所としても有名です(日本第一号の標準電波は船橋無線JJCが大正12年8月に開始)。この話題にも触れましたが、あまりに詳しく書きすぎたため本ページの焦点がぼやけてしましました。これは将来別ページへ独立させるかもしれません。

【2016/09/20 お知らせ】 標準電波の話題は「標準電波の歴史」という新しいページへ移しました。

検見川送信所とJ1AAの関係について、誤解が起きないように要点をまとめてみました。

序1)そもそも検見川送信所(JYR, JYS, JYT)にとって、「J1AA」とは何か?

仮に人間に例えて、検見川送信所(1926年-1979年)の歴史を、「検見川家の53年間」だったとします。 検見川家初代当主の菊谷秀雄さんの子供ら(コールサインJYR, JYS, JYT)が4歳になった1930年のことです。東京の本家筋(逓信省工務課)の小野孝さんの息子(J1AA)を預かって欲しいと頼まれました。 こうして1930年から1934年までの4年間、本家筋小野さんの息子J1AAは、検見川家に預けられ、ここで暮らしました。 つまり菊谷さんの子供たち(JYR, JYS, JYT)にとって、J1AAとは幼い頃に4年間ほど同居していた「従弟(いとこ)」です。 「検見川送信所のコールサイン=J1AA」という表現が間違いだとは言いませんが、肝心の菊谷さんの実子JYR(関東州担当), JYS(朝鮮担当), JYT(南樺太担当)たちの名前をスルーしてしまうのはいかがなものでしょう。"あんまりだ"と、思いませんか?

また「コールサインは日本第一号を示すJ1AA」というのは正しくありません。 日本第一号のコールサインは海軍省所管の無線局では1901年に「無線電信通信取扱規則」で定められた、豆酸無線「P」、平戸無線「X」、軍艦初瀬「C」、軍艦八雲「I」、軍艦笠置「K」、軍艦磐手「H.1」ですし(「コールサイン」のページを参照)、逓信省所管の無線局では1908年の逓信省公達第430号で定められた、銚子無線「JCS」、天洋丸「TTY」です(「頭文字が「J」で始まらなかった明治時代のコールサイン」のページを参照)。 それに、そもそもJ1AAは1925年春に岩槻受信所(埼玉県)の短波実験施設に与えられたコールサインです。検見川送信所が最初ではありません。

序2)なぜ逓信省はJ1AAを、東京逓信局所管の検見川無線に預けたのか?

逓信省は無線通信を監督する立場でありながら、郵便・電報(有線・無線)ビジネスを独占的に行う現業部門(商業部門)を持っていました。そして日々進歩する無線技術を研究するために省外に「電気試験所」を置いていました(外局)。しかし逓信省内には官営無線局の設計・建設・保守を行っていた工務課無線係があり、外局の電気試験所と開発合戦を繰り返していたのです(J1AAのページの「電気試験所第二部無線電信係 と通信局工務課の競争」のページを参照)。

ライバルの電気試験所には平磯出張所のような無線専門の研究施設がありますが、逓信省工務課無線係には研究施設がなく、東京芝の逓信官吏練習所(以下、官練と略す)の無線実験室を、あたかも工務課無線係の研究室のように使っていました。 これは工務課無線係の中上係長をはじめ荒川技師や小野技師らが官錬の教官を兼務していたからでもあるようです(「J1PP J8AA」のページを参照)。

小野さんは、官練無線実験室で短波の無線電話送信機の開発を担当していました(当時、ライバルの電気試験所は茨城県の平磯無線JHBBで放送協会JOAKの番組を短波で試験再送信していました)。これまで小野さんが研究してきた無線電話技術により、台湾-内地(日本本土)間で実用化試験を行うことになりました。 さてその試験設備をどこに置くかが問題です。この頃になると官練の無線実験室を本来の教育の場に戻す計画が進められていた事と、日台間短波無線電話試験のような大掛かりで継続的な試験を、学校である官練で実施するのは無理だと判断されたようです。 そこで白羽の矢が立ったのが東京逓信局が管轄・運用している検見川無線です。

逓信省(東京)からもそんなに遠くなく、(かつ現業の送信所ですから)電源設備や空中線の建設はもとより保守要員が常駐しているため長期の継続試験にはもってこいです。東京逓信局としても、本省からの協力要請にNOとは言えない関係だったかも知れません。

1925年に東北帝大を卒業し逓信省へ就職された菊谷さんは、まず『雇』(現代でいえば「社員試用」に近いのでしょうか?)として工務課無線係の中上無線係長や荒川技師、小野技師らの指導を受けながら1年間働いたあと、1926年に完成したばかりの東京逓信局検見川送信所の初代局長を拝命し、『逓信局技師』として赴任されました(もし逓信省に配属になっていれば「逓信技師」でしたが、外局である東京逓信局の方へ配属になったため辞令書には「逓信局技師」とありました。菊谷さんの自叙伝『検見川無線の思い出』(1990年出版)からは、この件がチョット残念だったようなニュアンスが読み取れます)。 当時の逓信省工務課無線係は東京帝大卒と逓信官吏練習所卒でほぼ占められていた中で、小野さんは同じ東北帝大卒でした。菊谷さんに預けられた無線電話送信機J1AAの試験はとても良好な関係で行われたと想像します。

序3)検見川無線に与えられた役割は、「外地」通信 (外国ではありません!)

検見川無線を「対外国通信を目的とした施設」とする記述がWEB上では散見されますが、これは誤りです。検見川無線は「外地」向け通信を目的として建設されました。 「外地」というのは戦前の言葉で、当時日本が統治していた、台湾、南樺太、関東州(大連など)、朝鮮、南洋群島(パラオやラバウルなど)のことを指します。 それが近年になり「外地=外国」として伝言ゲームのようにWEB上で拡散したと考えられます。

もともと全ての無線電報の取扱いは逓信省による独占事業でしたが、外国電報については、1925年(大正14年)に半官半民の共同出資で設立された日本無線電信(株)が無線局の運用・保守を担当することになり、逓信省は対外通信施設の運用から手を引きました。逓信省は外国電報受付の窓口業務や配達業務に専念することになったのです。しかし台湾や朝鮮などの外地は、外国ではありませんから、これまで通り逓信省が通信施設を運用・保守するため、それを任されたのが東京逓信局の東京無線電信局(検見川送信所と岩槻受信所)でした。

序4)検見川送信所(千葉県)と岩槻受信所(埼玉県)

無線局というと、無線通信士がいて、電鍵でモールス信号を手打ちして、ヘッドフォーンを掛けてモールス信号を解読しているシーンを思い浮かべられるかもしれませんが、それは船舶局と電報を交換する海岸局(銚子無線、落石無線、長崎無線・・・)です。 検見川無線や依佐美無線(愛知県)などの「固定局」と呼ばれる無線局には無線通信士は配置されていませんでした。

東京無線電信局の場合、麹町区銭瓶町の東京中央電信局五階に「東京無線電信局 東京中央通信所」が置かれ、お客様から預かった電報を、専用タイプライターにより鑽孔(さんこう)テープにします。 そして打ち終えた鑽孔テープは読み取り機に掛けられモールスのオンオフ信号になり、有線経由で千葉県検見川の「東京無線電信局 検見川送信所」の送信機を超高速キーイングし、モールスの電波として飛ばします。これはいくら熟練した通信士でも打てない高速モールスです。

また受信ですが、埼玉県岩槻の「東京無線電信局 岩槻受信所」で受けた超高速モールス信号(無線電報)は、有線経由で前述の「東京無線電信局 東京中央通信所」において受信波形が紙テープに記録され、これを解読し電報文に戻します。以上検見川、岩槻、そして中央通信所が三位一体となり「東京無線電信局」です(厳密にはさらに船橋無線も含みますが・・・)。東京逓信局所管のビジネス現場です。

ですので検見川送信所の常駐員の役割は(通信操作を行うことではなく)、電報の送信が滞りなく行われるように、常に空中線、電源装置を監視し、必要な措置をとることです。また水晶発振器が導入されるまでは、あまり安定的とはいえない自励発振式送信機の発射周波数を毎日波長計で合わせ込むという原始的ではありますが重要な仕事もありました。無線通信士が「ツー・ト・ツート」と電鍵を叩く「海岸局」とは全く異なります。

序5)J1AAは検見川送信所53年間のほんの一部(4年間)でしかなく、それも本業ではない。

検見川送信所の菊谷所長以下、全局員の最大の使命は、いうまでもなくお客様から預かった大切な電報を、遅滞なく空中に送り出すことです。ここ検見川は無線電報により「お金を稼ぐ」という、現業ビジネスを担った東京逓信局の無線局だからです。平成世代の方々には、「お役所がお金儲けをするなんて」と思われるかもしれませんが、つい最近まで郵政省が郵便ビジネスを独占し、さらに貯金や保険ビジネスも行っていました。J1AAによる短波の無線電話の実験は、東京逓信局が逓信省工務局から頼まれて、あくまでも本業(外地との無線電報)に差し障りがでない範囲で協力したものです。

しかしながら(ある意味、本業を逸脱していると言わざるを得ない)J1AAの実験は、菊谷さんにはとても刺激的で、ワクワクし、技術屋魂を揺さぶられるものだったようです。 菊谷さんが1990年に出版された自叙伝『検見川無線の思い出』には、初代所長を務めた戦前の20年弱の検見川無線の中でも特にJ1AAに関する話題(国際中継放送など)に多くのページが割かれています。逓信省との実験に対する菊谷さんの思い入れが分かります。

前述のとおり既に外国への無線電報は1925年に設立された日本無線電信(株)の担当となり、逓信省は手をひきました。 さらに1932年には無線電話による対台湾および海外通信施設の建設・運用・保守を担当する目的で国際電話(株)が設立されました。 つまり無線電話(モシモシの電話や、国際放送)についても、逓信省による直接的な無線局運用は終了することになったのです。 このような状況下ですから、東京無線電信局検見川送信所に間借りし、逓信省工務局がJ1AAの実用化試験と称する散発的な国際中継放送を繰り返していたJ1AAもついに終了の時を迎えます。

1934年春、国際電話(株)が建設していた名崎送信所(茨城県)、小室受信所(埼玉県)、そして東京中央電話局との間の陸線敷設がついに完了しました。 そして1934年6月19日、11時30分より東京中央電話局で開局式が行われました。 まず6月20日に台湾回線(日台電話)が、次いで国際電話として8月2日に満州国との新京回線(日満電話)、9月27日に米領フィリピンのマニラ回線を開業しました(営業窓口は逓信省の電話局ですが、実際の無線の運用は国際電話株式会社が受託する形です)。

また同じく無線電話送信機を用いる放送中継業務は、1934年4月29日の天長節(現代でいう天皇誕生日)に国際電話(株)の名崎送信所・小室受信所が満州国、米領フィリピンのマニラ、シャム(現:タイ)、和蘭領インド(現:インドネシア)のジャバと祝賀交換放送の国際中継を行いました。 この日以降、検見川からJ1AAが電波を出すことはありませんでした。 2年前に国際電話(株)が設立されたときより、開発や建設は(逓信省ではなく)同社が行うことになっていたわけですから、J1AAはお役御免ですね。 こうして検見川のJ1AAはひっそりと消えて行きました。

序6)本ページは検見川無線そのものの功績紹介を目的としていません。

繰り返しますが戦前の検見川無線の最大の使命は、日本(内地)と植民地(外地)間の日常的な電報を迅速かつ正確に流すことでした。 J1AAの試験は逓信省工務局から頼まれてお手伝いした(検見川としては)『本業以外のもの』ですし、なによりも検見川無線の53年間の歴史全体からみれば、わずか4年間の出来事です。 検見川無線をJ1AAのトピックス(国際放送の実用化試験など)を中心にして語るのはちょっと違う様に私は思うのです。

一般論として、地道な現業ビジネスを支える現場とは、出来て当たり前で(誰も褒めてくれないのに)、もしミスをすれば大目玉を食らうものではないでしょうか。 ですから検見川無線を守ってこられた職員の方々のご苦労を思うと、「検見川無線の業績(本業の功績)」として、どこへどれぐらいの電報を流し、その結果、その地域の経済発展にどう貢献したか等を定量的にきちん説明できれば良かったのですが、残念ながら本ページは、そうはなっておりません。 あくまでJ1AAを紹介するために作ったページであって、検見川無線本来の功績にはスポットライトを当てておりませんので悪しからずご諒承ください。

検見川無線は終戦を境に全く異なる役割を担うことになりました。 敗戦により外地(朝鮮・台湾・関東州・南樺太・南洋群島)がなくなってしまったということは、外地通信を担当する検見川無線の存在意義にかかわる事態だったはずです。(幸い一部の国内通信で息をつなぎましたが、)もし映画「検見川無線物語」が作られるとするなら、「終戦」が検見川無線の存亡の危機であり、この大ピンチこそがドラマとして一番盛り上がるシーンになるはずです。おそらく、終戦の混乱期をもっと掘り起こしていくべきなのでしょうね。

逓信ビジネスを支えた現業無線局として「戦前の検見川無線」(外地電報)と、「戦後の検見川無線」(国内通信)を分けて、それぞれの功績をきちんと研究発表されるサイトが現れて欲しいなと思っています。

1) (旧)東京無線電信局の 船橋JJC(海軍)/ 芝JSDA(逓信官吏練習所)について

岩槻受信所と検見川送信所からなる東京無線電信局の話題に入る前に、まず(旧)東京無線電信局をご紹介します。

1916年(大正5年)11月16日、東京逓信局は海軍船橋無線電信所内に「船橋無線電信局」(呼出符号JJC)を開設し営業を開始しました。そして海軍の無線施設を時間借用する方式で、ハワイのマルコニー無線電信会社(のちのRCA局)との公衆通信を始めました。ハワイ局は1914年(大正3年)9月24日より米国西海岸のボリナス局と無線による公衆通信の取扱いをスタートさせていましたので、今回の船橋-ハワイ間の開通で、ついに日本とアメリカ大陸が無線で結ばれたわけです。

左図はハワイのマルコーニ無線電信会社が地元日系人に対して「日布間無線電信開始」を告知した日本語広告です。やがて第一次世界大戦が終わって経済活動が活発化すると、日米間の電報量が急増し、借用時間内で処理が間に合わないことがしばしば起きるようになりました。

1919年(大正8年)2月に太平洋線の海底ケーブルが事故で不通となったため、無線回線の通信量が急増しました。そこで2月24日より応急的に船橋無線JJCを送信専用に、逓信官吏練習所の無線実験室を対米公衆通信の受信所にして効率化を図りました。1920年(大正9年)5月1日に建設中だった磐城無線電信局の富岡受信所が(原の町送信所よりも先行して)開所したため、官練習所無線実験室での応急受信措置は解除されました。

1921年(大正10年)3月26日、逓信省は自前の対米局である磐城無線電信局(富岡受信所と原の町送信所)を開局し、対米公衆通信の取扱いはそちらへ移りました。磐城局の呼出符号は栄えある「JAA」に決まりました。3文字Jコールのトップ「JAA」が与えられたことからも逓信省の期待の大きさが伺えます。なお磐城無線JAAが営業を開始したあとも船橋無線電信局JJC(海軍船橋無線電信所内の居候施設)は、標準時刻、ニュース、航路警報、気象電報の放送と、南洋群島(パラオ)および関東州(大連湾)との公衆電報用として残りました。

【参考】岩槻受信所建設現場の工事主任である河原猛夫技手が初代「J1AA」の命名者です。河原氏は岩槻着任前、磐城無線電信局「JAA」で働いていたことから、岩槻の実験施設の呼出符号をアマチュア無線的な数字を含む「J1AA」と名付けたのではないかと私は想像します。

1923年(大正12年)4月、海軍船橋無線電信所の送信と受信の機能を分けて同時送受による効率化を計るため、海軍省(霞が関)構内に建設中だった無線受信施設が完成しました。海軍省は海軍省構内の受信施設を「東京海軍無線電信所」と命名し、船橋無線電信所はそれに従属する「東京海軍無線電信所 船橋送信所」と改称しました。

同年9月1日、関東大震災発生し東京逓信局の中央電信局舎が大被害を受けたため、芝公園の逓信官吏練習所(以下官練とする)へ機材の移送を開始しました。しかし翌2日に火災地域が拡大し、その翌朝には官練も全焼してしまいました。10月23日、芝区芝公園第13号地に臨時無線電信分室(呼出符号JSDA)を設け、東京湾上の船舶に対する電報取扱いを開始(大正12年 逓信省告示第1549号)しました。おそらく芝公園にあった中央電信局の南寮寄宿舎が使われたのではないかと想像します。

被災した官練が建替えられると、逓信省工務局の無線係長であり、官練の教官も兼務していた中上豊吉氏らが仮設送信機を組立てて、官練内に「東京無線電信局 臨時無線電信室 JSDA」が置かれました。

『東京側は逓信官吏練習所の無線実験室の施設を利用することになった。当時、逓信官吏練習所も震災の被害を受け、実験用機器は焼失または散逸していたが、中上さんは関係者を督励して短期間に七キロワット電弧式送信機を利用して応急用の無線電信設備を完成させ、これにより多数の電報を疎通することができた。』 (浅村, 『中上さんと無線』, p74)

関東大震災による公衆電報の途絶を防いだ官練のJSDAは1926年(大正15年)6月30日をもってその使命を終了(大正15年7月1日, 逓信省告示第1352号でJSDAの廃止を告示)しました。閉鎖1ヶ月前の大正13年5月29日に官練を訪問取材した「無線と実験」誌の記事を引用しておきます。現代ではすっかり無線史上から忘れさられた感のある「東京無線電信局 臨時無線電信室 JSDA」の最後の様子を伝える、貴重な記事ではないでしょうか。

『・・・(略)・・・マルコニーの送信機がある。これは1.5キロワットであって無線電信用として使用している。この装置は毎日夜分、大阪その他の局と公衆通信を送っている。ここは東京中央電信局の無線の分室という事になっておるので、一日多数の通信を扱っている。』 (本日は晴天なり こちらは芝の逓信官吏練習所であります 聞こえますか?, 『無線と実験』, 1924.7, 無線と実験社, p21)

1924年(大正13年)9月15日、海軍の船橋送信所内にあった逓信省の「船橋無線電信局」を廃止して、(旧)東京中央電信局舎の屋上に小屋を建てて、ここを「東京無線電信局」(中央通信所)とし、専用線で東京海軍無線電信所(海軍省:霞ヶ関)と結びました。そして逓信省では海軍省の「東京海軍無線電信所」と「東京海軍無線電信所 船橋送信所」のことを、「東京無線電信局 海軍省構内受信所」および「東京無線電信局 船橋送信所」と命名しました。送信所・受信所を有線で中央通信所で束ね、先進国で主流となっている「中央集中操縦式」を試みました。この「東京無線電信局」、「東京無線電信局 海軍省構内受信所」、「東京無線電信局 船橋送信所」の3カ所をまとめて逓信省の(旧)「東京無線電信局」といいます(大正13年9月10日, 逓信省告示1268, 1269, 1270, 1271号)。同時送受による効率化と、中央通信所に要員を集中させて人件費を削減するためです。

この(旧)東京無線電信局はあくまで暫定的なもので、逓信省では埼玉県岩槻に受信所、千葉県検見川に送信所を建設し、さらに麹町区銭瓶町に建設中の(新)東京中央電信局舎の五階に(新)東京中央通信所を移す計画で工事が進められていました。逓信省の自前施設による中央集中操縦式としては、検見川や岩槻が最初のものになります。

2) 検見川送信所と岩槻受信所の建設目的とは

検見川・岩槻は外地(戦前はいわゆる日本の植民地のことを外地と呼んでいました。「外国」のことではありませんので誤解なきように。)との公衆通信を目的とし建設中でしたが、これが完成するまで内地-外地間の公衆電報は、有線回線の海底ケーブル(台湾3線、樺太3線、朝鮮7線、関東州3線、南洋1線)と、無線回線として船橋局が南洋パラオ・関東州大連湾と、金沢局が大連湾・朝鮮京城と、佐世保・横須賀・父島局が南洋サイパン・パラオと、さらに繁忙期に入ると北海道の落石と石狩局が樺太大泊との電報を扱いました(大正13年当時)。台湾線は(海底ケーブルだけで)無線回線は併用しませんが、時々起きる海底ケーブルの異常時には大瀬崎・角島・潮岬・銚子局が台湾基隆と無線通信路を確保していました。

これらの内地-外地(植民地:台湾・樺太・朝鮮・関東州・南洋)間の無線電報ビジネスを一手に引き受けることになっていたのが検見川・岩槻で、逓信省は外国(外地以外の地域)との無線電報ビジネスから手を引きました。外国通信ビジネスは、新たに設立される半官半民の日本無線電信株式会社が扱うことになり、対米局である磐城無線電信局JAA(原の町送信所・富岡受信所)および対欧局(依佐見送信所・海蔵受信所)建設用地は、政府からの日本無線電信社への現物出資という形で差し出しました。

すなわち逓信省は外国無線電報ビジネスの売上金をごっそり日本無線電信(株)へ持っていかれる(ただし陸線区間は逓信省の売上)事になる中、東京無線電信局(検見川送信所、岩槻受信所)が外地無線電報ビジネスの逓信省直営局だったのです。二代目J1AAの短波実験場として検見川が選ばれたのは、二代目J1AAが日本-台湾間の無線電話の実験調査を目的としており、台湾は「外国」ではなく「外地」だからです。もっとも仮に船橋JJCや磐城JAAに二代目J1AAを置きたくても、船橋は海軍の持ち物だし、磐城は日本無線電信(株)にあげてしまった無線局なので無理です。

3) 東京無線電信局 検見川のJYR(対大連)/ JYS(対京城)/ JYT(対大泊) が試験開始

1926年(大正15年)3月31日、逓信省通信局(後期には工務局)により建設されていた岩槻受信所、検見川送信所が完成し、管轄する東京逓信局に引き渡されました。そして4月1日、東京無線電信局として開所しました(営業開始は7月1日)。ここに至るまでのJ1AAの短波試験における活躍はJ1AAのページ、およびJ1PP J8AAのページで詳しく述べましたのでそちらをご覧ください。

まず4月11日より大連(JDP, 関東州)、京城(JMAA, 朝鮮)、大泊(JTW, 樺太)の三無線局との試験運用がはじまりました(左図赤字)。

『十一日 東京無線局 下記各無線局と試験的に電報取扱を開始す 大泊、京城、大連湾』 (電波監理委員会編, "本邦無線電信年表", 『日本無線史』第十三巻, 1951, 電波監理委員会, p25)

逓信省は公衆電報の外国通信施設の運営から撤退しましたので、東京無線電信局は「外地」と呼ばれる対植民地局を相手にする無線電報局です。これらは「大連回線」、「京城回線」、「大泊回線」と名付けられました。

検見川送信所には合計五台の送信機が据付けられました。第一装置(JYR)が大連(JDP)を、第二装置(JYS)が京城JMAAを、第三装置(JYT)が大泊を対手局とします。なお第四装置(JYX)は大阪無線電信局(JES)との国内通信用で試験・調整中でした。

第一装置(50kW)と第二装置(15kW)はマルコーニ社製、第三装置(6kW)は安中電機製、第四装置(3kW)は日本無線電信電話製です。また第四装置は長波(75-150kHz)・中波(375-500kHz)が出せるものでした。

これらの営業用送信機とは別に6kWの短波送信機(12.0MHz, 使用可能範囲7.5-15.0MHz)と短波用空中線が用意されました(左図)。これは近い将来、検見川で短波帯実用通信を取扱うことを想定した中上氏の発意によるものだと想像します。この短波送信機を納入したのは安中製作所でした。

『入力6キロワット短波真空管式送信機製作・・・(大正14年11月) 本機は逓信省千葉県検見川送信所用として製作したもので、マルコニー式により波長を約20米の持続電波を発射するように設計した』 (『安立電気創立30年史』, 同社史編纂委員会編, 1964, p74)

1926年(大正15年)7月1日、東京無線電信局の検見川送信所, 岩槻受信所の営業運転を開始しました。逓信省ではこの7月1日をもって検見川無線および岩槻無線の開局日としています(開所日と開局日が3ヶ月ズレてれている)。

電気試験所事業報告(大正15年度)によれば、7月13, 15日に電試平磯出張所が検見川の波長25m(12MHz), 20m(15MHz)を受信したとの報告があります。これによれば検見川の短波のコールサインはJYZです。またパラオ(JRW, 南洋庁)との公衆通信、報時放送、航路警報放送などは、海軍から借用中の船橋送信所(JJC)によるものとし、これを東京無線電信局の第五装置という位置付けとしました。つまりJJCは検見川送信所ではなく船橋送信所ですのでご注意ください。ただしパラオ回線は検見川からも試験的に短波でサイマル送信されました。また岩槻受信所にあった初代J1AAの短波の送信機と受信機は研究用として岩槻に残されました。

●大正15年7月開業時の東京無線電信局(検見川送信所と船橋送信所)

【出展】 検見川と船橋の装置名と呼出符号は[官報, 逓信省告示第1338号, 大正15年6月30日] より。また装置名と送信波長は["東京無線電信局検見川送信所及岩槻受信所事務開始の件", 電業第1481号, 大正15年6月28日, 逓信省電無局] より。予備機は[東京無線電信局概要, 1926.7.28, 逓信省工務局]より。さらに対手局とその呼出符号は["東京無線電信局", 逓信協会雑誌, 1927.3, 逓信協会, p33]より。


4) 「ニイタカヤマノボレ1208」東京海軍無線電信所 船橋送信所のその後

逓信省は検見川送信所の営業開始後も、海軍より船橋送信所JJCを借用してタイムシグナルなどを送信していました。さらに1927年11月25日より波長7,700mで伝染病情報放送(国際連盟保健部東洋支局が発表する、東洋重要港の伝染病発生状況を毎週金曜21時15分より、一般艦船に知らせる放送)も扱うようになりました。

余談ですが逓信省の呼称は「東京無線電信 船橋送信所」、海軍の呼称は「東京無線電信 船橋送信所」というように、海軍省では「局」ではなく「所」と命名していました(例:真鶴海軍無線電信所、呉海軍無線電信所、佐世保無線電信所)。

1937年(昭和12年)5月12日、東京海軍無線電信所船橋送信所は組織変更で、「海軍通信隊」という "部隊名" を名乗るように改称されたため、ついに「無線電信所」とか、「送信」とかの、無線局らしい文字は消えてしまいました。このように大家さん(海軍)側では「無線」の文字はなくなりましたが、借家人(逓信省)側の無線局の方は「東京無線電信局 船橋送信所」JJCのままです。

【参考】逓信省は1935年(昭和10年)4月15日の組織再編で、有線電報の東京中央電信局に、無線電報部門(東京無線電信局)を統合しました。したがって逓信省側でも正式名称から「無線」の文字が消えて「東京中央電信局 船橋送信所」になりました。この再編で大阪無線電信局は大阪中央電信局に、名古屋・鹿児島・那覇の各無線電信局は、それぞれ名古屋郵便局・鹿児島郵便局・那覇郵便局に吸収統合されました。

海軍に話を戻します。1941年(昭和16年)8月の海軍の組織変更ではさらに「東京海軍通信隊船橋分遣隊」と改称され、同年12月2日に有名な太平洋戦争の開戦日時を指令する暗号「ニイタカヤマノボレ1208」が、ここより打電されました。海軍技術研究所で短波研究の第一人者であり、連合国占領下時代に電波監理委員会から出版された日本無線史第10巻(海軍無線史)を執筆された谷恵吉郎元海軍技術少将の記事を引用します。

『昭和16年12月2日、当時上京中の連合艦隊司令長官山本五十六大将に代わり、午後5時30分、参謀長宇垣纏少将は瀬戸内海の桂島泊地区に碇泊中の旗艦長門から全軍に対し「新高山登レ1208」の暗号電報を打電した。「開戦は12月8日と決定せられる。予定の通り攻撃を決行せよ」という意味の隠語である。新しい歴史の開幕を告げる、この重大電報は海軍暗号Dにより暗号化され、桂島から海底ケーブルにより呉鎮守府に、それから有線回線により海軍省に、ここから官制線を通じて船橋の電波、周波数4175、8350、および16700kHzの3短波に乗って、高らかに全軍に伝達されたのである。』 (谷恵吉郎, "海軍の船橋無線[第3回-最終回-]", 『電気通信』, 1976.7, 電気通信協会, p41)

敗戦により1945年(昭和20年)9月中旬、「東京海軍通信隊船橋分遣隊」(の無線施設)は連合国軍に接取され、さらに同年11月30日は海軍省が廃止されました。翌12月1日より、逓信院電波局所管の「東京無線工事局船橋分局」となり、連合軍無線局の保守業務を任されるようになります。基本的には連合国の無線局なので、報時放送JJCなどは検見川や臼井へ移管され、日本人向けにはわずかに復員通信だけが許されました。最終的には1971年(昭和46年)に全ての任務を終え、解体撤去されました。

5) 東京無線電信局 JYR(大連回線)/ JYS(京城回線)/ JYT(大泊回線) で営業開始

1926年(大正15年)7月1日、検見川送信所・岩槻受信所は大連JDP(関東州)・京城JMAA(朝鮮)・大泊JTW(樺太)との試験運用も順調に終えて、営業(無線電報の取り扱い)を開始しました。また大阪とはJYXによる試験運用が始まりました。

少し遅れた7月10日に建設中だった東京逓信局管轄の東京中央電信局(有線電報)が開所し、その五階に東京中央通信所(無線電報)が引越してきました。17日深夜に電信回線の切替え工事を行い、18日朝より新局舎での営業が始まりました。この東京中央通信所と、検見川送信所(JYR/JYS/JYT)、岩槻受信所、船橋送信所(JJC)を合わせて「東京無線電信局」といいます。

逓信省工務局は7月28日に『東京無線電信局概要』(左図)を発行しました。検見川送信所、岩槻受信所、中央通信所の三部構成で、開局当時の設備などを知ることが出来る公式資料で、検見川の開局当初より短波送信機(入力6KW)とその空中線が施設されていたのはこの概要書(pp11-12)からも得られました。このダイジェスト版にあたる、「東京無線電信局の新設備」 (中上豊吉/穴沢忠平/倉持佐重, 逓信協会雑誌, 1926.6, 逓信協会, pp47-60) には短波送信機の記載はありません。

岩槻受信所の受信音を可聴信号で送る「トーン・チャンネル」という陸線で中央通信所へ送り、そこでモールス符号を解読します。送信の場合は中央通信所のキー信号を「コントロール・ライン」という陸線で検見川送信所や船橋送信所の送信機のリレーキーへ送込みます。これは訪米先進国の大無電局が採用している「中央集中操縦式」と呼ばれるもので、少ない要員により電報ビジネスの収益性を高めました。我国では東京無線電信局が最初に導入しました。技術論のみで語るなら、岩槻も検見川も無人稼動が可能ですが、無線装置や空中線などの日常の保守点検業務がありますし、防犯上からも我国の重要通信拠点を無人化できないので、少数精鋭の東京逓信局の技術部隊が駐在していました。

7月10日には若槻首相以下、内務、外務、陸軍、海軍、司法、文部、鉄道省の各大臣を招き、盛大に披露式が行われました。大連(JDP)およびまだ試験中の大阪(JES)との祝電交換風景のデモンストレーションや、逓信省の無線研究成果を展示し参観に供しました。

若槻首相ら一行に逓信官吏練習所無線実験室にあった工務局の実験施設J1PPの送信機が会場に移送され、若槻首相ら国務大臣へ披露されたことは、本サイトとしては特に強調しておきたい点です(写真中央で長い棒を持っているのが工務局無線係の中上豊吉係長で、若槻首相と安達逓信大臣にJ1PPの短波送信機を説明している)。

6) 東京無線電信局 JYX(対大阪)/ JYT(基隆回線) の通信も遅れて開始

1926年(大正15年)9月1日、検見川送信所の第四装置JYXが、大阪無線電信局JESとの営業通信を開始しました(長波)。なお『日本無線史』第十三巻の"本邦無線電信年表"には9月の『二十一日 大阪無線電信局 東京無線電信局との連絡開始』とあります。東京無線電信局(検見川/岩槻)は対外地(植民地)局として帝国議会から承認された訳ですが、この内地と外地を合わせた「オールジャパン通信網」に大阪も加わっています。逓信の電報ビジネス上からも、商都大阪なくしてこの「オールジャパン通信網」は考えられなかったのはもちろんですが、別の要素も絡んでいたように思います。

もともと東京-大阪間には堅牢な基幹有線が敷設されていたはずですが、3年前の関東大震災ではそれが途絶し、磐城無線電信局や千葉の銚子局、和歌山の潮岬局が不眠不休で電報中継に対応して通信が確保されたという事実から、まず検見川(JYX)と大阪(JES)で長波の無線回線が確保されました。大阪の喜連受信所(平野郷)では独仏からのニュース放送を受信し、それを日本の通信社に販売していましたが(J1AAのページ参照)、もし暴風雨で有線が途絶すると東京へはニュースを送れなくなるため、1926年(大正15年)早々になって急遽、大正14年度予算の残り分で喜連受信所に入力3kWの長波送信機の据付け工事が行われました。大阪無線電信局とはいうものの受信専門でしたが、喜連受信所に送信機が施設され、送受信を行う無線局になりました(手狭になったので昭和2年5月から順次、一部の受信設備は大阪中央電信所に移されました)。

それと工務局の中上係長はワシントンでの国際無線会議を翌年に控え、欧米進諸国は次々と短波での実用通信(商業通信)を開始している現状を憂いていました。ワシントン会議の重要な議案のひとつが短波帯の国際分配だったからです。中上係長らは、検見川と大阪を中心に国内の短波通信網を計画して、大正15年度の予算獲得に成功していました。

検見川(JYT)が台湾の基隆無線電信局JFKと通信を始めたのは1926年(大正15年)12月21日でした。

7) パラオJRW や大阪JES との通信に短波を試用

東京逓信局傘下の検見川は以上のような経緯で長波による営業を開始したわけですが、本省工務局の指導で短波も試用しました。それが開所当時から用意された試験用の3kW短波送信機です。

1926年(大正15年)7月1日の営業開始直後より夏季真っ盛りとなり、長波では空電妨害を強く受けるシーズンに入りました。検見川(JYT)の長波電波は、緯度の高い大泊(JTW, 樺太)では、空電の影響は少なく、支障ありませんでした。しかし船橋(JJC)の長波電波は、緯度の低いパラオ(JRW, 南洋庁)では激しい空電妨害を受けしばしば受信不能に陥りました。

そこで船橋(JJC)の長波がパラオ(JRW)で受信できない場合の対策として、7月1日の開業時からパラオへ短波長で試験的にサイマル送信が行なわれました。長・短両波で補完しあうことで電文の取りこぼしを解消し好成績をあげていました。

また検見川(JYX)から大阪(JES)へは長波と同時に試験的に短波長を発射していました。検見川-大阪間の長波帯試験通信が始まったのが4月で、5月22日には大阪(JES)の披露会が催され、読売新聞が次のように報じました。

『・・・略・・・大阪中央電信局の無電通信は本年三月、出力三キロワットの放送用真空管、整流用二個、発信用一個の送信機(波長三二〇〇-三五〇〇米)入力十五キロ、波長短波長受信用真空管、整流用二個、発信用一個波長二十米から四十米(常用三七米)を装置しようやく口を開くようになった大阪中央電信局では二十二日午前十一時、平野町局でその披露会を催し関係者を招いて送受信機の構造その他の説明をしたが・・・略・・・』 ("大阪無電に送信機 新装置成ってきのう披露会", 『読売新聞』, 1926.5.23, 朝刊p2)

この記事から大阪(JES)でも短波(37m)のテストをしていることが分かります。また『無線之研究』1926年(大正15年)7月号p46の読者の短波長受信レポート欄で、神戸の笠原功一氏が「五月中に聴えた局名」として"JES"と"JWR"(パラオJRWの誤植か?)を報告されていますので、少なくとも大阪が5月には短波試験していたのは間違いないようです。

以上のことから大阪(JES)の9月1日の正式営業開始より両波同時送信だったと想像されます。さらに大正15年末には検見川や大阪に国内通信用の短波送信機が増設されました(下記記事の「喜連」は平野の別名です)。

『5. 短波通信でも活躍

大正15年末には実験用として1.5kWの短波送信機が喜連にすえつけられ、さらに翌年1月には1kW短波送信機も増設されたので、局員はこれによって国内の通信連絡を行うかたわら、なんとかして対欧通信にも活用したいという野心をいだいた。』 (河原猛夫, "5.短波通信でも活躍 喜連今昔[4]", 『電波時報』, 1973.2, 郵政省電波監理局, p53)

『日本無線史』第十三巻の本邦無線電信年表で大阪無線電信局関係を拾えば、1926年(大正15年)3月に最初の3kW短波送信機と受信機を設置。9月25日よりパリのサンタシーズFU(波長19,500m)一方的受信開始。11月1日よりベルリンのナウエンAGW(波長18,000m)の一方的受信開始。12月15日に1.5kW短波送信機が増設。12月20日に喜連送信所竣成。1927年(昭和2年)1月10日に1kW短波送信機増設とあります。

8) 1927年(昭和2年)1月現在の東京無線電信局 (検見川・岩槻・船橋)

昭和2年1月というと何か時がすごく経過したかの印象を受けますが、大正天皇が崩御されたのが大正15年12月25日だったため、昭和元年はわずか1週間ほどでした。従って昭和2年1月といっても大正15年7月1日の営業開始から、まだ半年しか経っていません。その当時の東京無線電信局に関する貴重な記事(末尾に2.1.20と日付けあり)を、同局の松本三郎氏が逓信協会雑誌に寄せられていますのでご紹介します。

まず検見川の送信機ですが短波用1kWが2台増えていることが分かります。これは国内実用通信用に試験中だったものです。

『検見川送信所

発振機 7台

長波長用 五十キロ、一五キロ、六キロ、三キロ 各一台

短波長用 六キロ 一台、 一キロ 二台』 (松本三郎, "東京無線電信局の現在とその将来", 『逓信協会雑誌』, 1927.3, p52)

パラオ 夏季当方長波長送信の先方受信状態不良なりしと通信輻輳の事実に鑑みて短波長を併用せしが、近時交信状態良好となれり。

大連 二重通信法に則り交信し居れるが、同局の受信状況は近来極めて良好に向い、自動機により1分時百五十字内外のレコーダー受信をなし居れり。

京城 同局の発振方式をバルブ式に変更せし以来、送信と共に受信状態も著しく良好となり、現に高速度単信通信を行い居れるも、近く二重通信開始の予定なり。

大泊 同局は地位の関係より夏季にありても比較的空電少なかりしものの如く、一般に交信容易なり。

基隆 通信開始後、日なお浅きをもって、特にいうべきものなし。

大阪 最近双方とも、交互に短長両波長により二重通信をなし居れるが、交信状態は概して良好なり。』 (松本三郎, 前掲書, p55)

パラオ(JRW)への検見川からの短波送信は冬季になり、空電が軽減したため停波中のようです。大阪(JES)との通信は長波と短波の併用でしたが、その検見川の短波波長はこの記事中では明らかにされていない。また岩槻ではこれらの通信とは別に仏領印度のサイゴンHZA局の衛生情報放送の受信していました。

1925年(大正14年3月)に施行された日本無線電信株式会社法により、逓信省は外国公衆電報業務から事業撤退させられ、官民で出資した日本無線電信社がこれにあたることになっていました。そのため逓信省の磐城無線電信局(原の町送信所と富岡受信所)と名古屋付近の対欧無線局予定地は政府からの現物出資として同社に引き渡されました。

このように逓信省の公衆電報ビジネスは日本(および植民地)地域のみになったため、外国との公衆電報は扱えないが、以下のような海外との試験的通信が単発的に行われていたようです。

『そのほか、サイゴン、ジャバ島、マラバールに対しての試験連絡を行いたることあり。』 (松本三郎, 前掲書, p53)

●昭和2年1月現在の東京無線電信局(検見川送信所と船橋送信所)

検見川の使用波長は、基本的には三省協定により逓信省から海軍と陸軍に通牒した上表の波長を使うべきですが、現実的には状況によって少々変更する事もあったようです。

『各局との間に、相互に使用する電力及び波長は、各局における通信設備、並びに各局が他局と連絡の都合により、時々変更することあるを免れず。』 (松本三郎, 前掲書, pp52-53)

9) 短波国内通信試験で使った検見川のまぼろしの呼出符号JOB

ワシントン会議での短波帯周波数分配を前にして、一刻も早く短波帯実用化の実績を世界に示したかった逓信省は、国内の非常無線連絡として、東京・名古屋・大阪・広島・熊本・札幌の各逓信局管内に短波実用局を建設する予算(大正15年度)の獲得し、工事を進めていました(なぜか仙台逓信局管内には置局されませんでした)。

1927年(昭和2年)1月7, 8日に実施された第二次国内通信試験では検見川がJOB、大阪がJOQという呼出符号を使用したことが電信電話学会(現:電子情報通信学会)の論文で明らかになっていますが、営業開始時には別の呼出符号になったため、これらは幻のコールサインとなりました。

【参考】 検見川で一時使われたこの呼出符号JOBは1928年(昭和3年)9月10日に、宮崎県の油津漁業組合へ指定されました。

●昭和2年1月7,8日(第二次国内通信試験)の送信局の呼出符号と波長

(小野孝, "国内短波長通信に就て", 『電信電話学会雑誌』, 1927.3, 電信電話学会, p197)

10) 1927年(昭和2年)5月1日 日本初の短波現用局が営業開始

1927年(昭和2年)4月22日付け「東京無線電信局外五局ニ短波長無線電信装置ニ関スル件」(電業第848号)で初の短波現用局が営業開始すると陸軍省・海軍省に通牒されました。正式な稼動は5月1日で、わが国の短波現用無線局はここにはじまったのです。検見川の第五・六・七装置(JYZ, JYB, JPP)がこの通信を受持ちました。

●昭和2年4月に追加された第五・六・七装置

新第五装置(JYZ)は開局時より据付けられていた短波送信機で、大阪やパラオへの補助送信に使用されてきたものです。このとき船橋送信所の旧第五装置(JJC)は東京無線電信局の新第八装置として位置付けられました。 また大阪無線電信局では第一装置(JEA)が長波で、第二装置(JES)・第三装置(JEW)が短波の国内連絡用、そして鹿児島無線電信局では第一装置(JKB)が長波で、第二装置(JBK)が短波の国内連絡用でした。それにしても鹿児島へのJKBとJBKという呼出符号の発給は紛らわしいですね。

我国初の短波現業局は以下のとおりです("東京無線電信局外五局ニ短波長無線電信装置ニ関スル件", 電業第八四八号, 1927.4.22, 逓信省電務局)

なお関東庁逓信局が経営する大連無線電信局で、短波(呼出符号JDB)による公衆電報の扱いが始まった時期は良く分かりません。しかし昭和5年度には既に運用されていることから、私は昭和4年度に始まったのではと私は考えています。

16) 逓信省の航空無線計画と大工事(昭和3年度)

帝国海軍では相当早い時期から航空無線の実用化が試みられていましたが、その正式導入は1922年(大正11年)でした。

『航空通信用として無線電信を正式に使いだしたのは、大正十一年からであった。それまでは手旗や報告球などが重賓がられていたことは、これも前編に述べた通りである。もっとも青島戦役には造兵廠製の送信機を飛行機に装備して出征したが、その翌年の実験によると、この機上からの送信は昼間四三浬に達するものであった。翌五年には送信距離は六〇浬に伸び、実用に支障のない程度になったが、受信は機械の不完全なため至近距離からの通信を受けるに過ぎなかった。大正十一年に初めてマルコニー式が採用され、それ以後、M式無線電信機が用いられていたが、大した進歩もなく、大正十五年頃から漸次、海軍技術研究所製作の国産兵器に転向して今日に至ったのである。』 (和田秀穂, "航空無線通信", 『海軍航空史話』, 1944, 明治書院)

民間航空の定期便は郵便輸送用として1922年(大正11年)11月に開始された大阪-徳島、大阪-高松間が最初でした。1923年(大正12年)、逓信省に航空局が設置され民間航空行政を担当しましたが、実際に民間航空会社の旅客用の定期便が運航したのは、ずっと後の1929年(昭和4年)7月でした。この年より逓信省は航空無線業務を開始しました。

陸上滑走路の東京飛行場(立川町)、水陸両用の大阪飛行場(木津川、港区船町)、水上の福岡飛行場(多々良村名島)で、日本航空輸送株式会社の定期便(東京-大阪便と、水上機による大阪-福岡便)を運行するため、各飛行場および航空路上にある気象の難所とされる箱根山系と鈴鹿山脈付近に航空無線局の必要性が認められ、昭和3年度に予算化されて逓信省工務局が工事に着手しました。

単に無線施設だけではなく、東京飛行場と東京無線電信局、および大阪飛行場と大阪無線電信局を結ぶ専用電信線の敷設工事なども含まれ、突貫工事でいどみましたが、ついに年度内完成には至りませんでした。逓信省工務局無線係の中上豊吉係長は次のように述べられています。

『・・・(航空路開設の)前年度においてこれが工事を完成すべく極力工事を急いだが、種々の事情によって、年度内に無線通信を開始することに至らなかったのは、実に申し訳なくはなはだ遺憾なことであったが、箱根無線電信局は五月二十一日より通信を開始し、福岡無線電信局は無線工事を竣成し、近々開局のはず、また亀山無線電信局は、目下工事中で、六月上旬には通信を開始することができる予定である。しかも東京、大阪の分は既設の東京無線電信局および大阪無線電信局の装置の一部を航空用に充当することになっていたので、これら既設装置で航空用の周波数の電波を発射するよう、空中線等を多少変更するに過ぎなかったから、これら両局は四月一日から航空業務を取扱うことが出来た。』 (中上豊吉, 航空無線電信局 [一], 逓信協会雑誌, 1929.7, 逓信協会, p58)

17) 1929年(昭和4年)4月1日 検見川・岩槻で航空無線業務の取扱開始

上記のように種々の事情により、東京(JYX)・箱根(JXH)・亀山(JXK)・大阪(JEA)・福岡(JXF)の5カ所の航空無線局の同時開局は断念され、4月1日の東京・大阪の両無線局を筆頭に、5月21日より箱根、7月6日より福岡、9月16日より亀山、というように順次運用を始めました。

逓信省工務局の中上無線係長の解説記事(前掲書)によると、東京から大阪宛の送信は、検見川送信所の第四装置(呼出符号JYX)の周波数を変更し、空中線電力3kWおよび1kWで、定時気象放送(205kHz電信)、臨時気象報・警報・呼出(200kHz電信)が行われた。その通信経路は東京飛行場(立川市)→[陸線]→東京無線電信局・中央通信所(大手町)→[陸線]→東京無線電信局・検見川送信所(千葉県, JYX)→[205, 200kHz]→大阪無線電信局(喜連)→[陸線]→大阪飛行場(船町)でした。

また大阪からは、空中線電力1kWで、定時気象放送(240kHz電信)、臨時気象報・警報・呼出(200kHz電信)で送信された。大阪飛行場(船町)→[陸線]→大阪無線電信局(喜連, JEA)→[240, 200kHz]→東京無線電信局・岩槻受信所(埼玉県)→[陸線]→東京無線電信局・中央通信所(大手町)→[陸線]→東京飛行場(立川)の通信経路でした。

1929年(昭和4年)4月1日から東京-大阪-福岡(陸軍大刀洗)間で郵便貨物用定期便として開業しましたが、地対空通信に用意された333kHz波(電信・電話兼用)は、まだ航空機に無線が搭載されておらず使用されませんでした(翌年2月より地対空通信開始)。すなわち我国の民間機用航空無線は1929年(昭和4年)4月1日より、東京・大阪の地上間通信により始まり、その大役を担ったひとつが検見川送信所第四装置JYXでした。

1929年(昭和4年)7月15日より東京・大阪・福岡(陸軍大刀洗)で旅客輸送が開始されました。同時期に朝鮮海峡を渡る大刀洗-蔚山路線が開設され、9月10日には京城(ソウル)-平壌(ピョンヤン)経由で大連まで延伸されました。いわゆる外地(植民地)定期路線です。これら旅客輸送ビジネスの状況ですが、昭和4年12月末までにのべ1,977名(うち婦人150名)を輸送しました。また福岡無線電信局と気象観測所が併設された福岡飛行場(多々良村名島)の「大阪-福岡」定期便は、1930年(昭和5年)1月20日より水上機による運行が始まりました("世界日本対照航空発達史", 『航空年鑑』昭和6年版, 帝国飛行協会, pp66-67)

18) 検見川JYX と逓信省の航空無線網

逓信省では「福岡-京城(ソウル)・大連」便と、「福岡-上海」便の開設に備えて、朝鮮航空路上の厳原(対馬, JXI)と、上海航空路上の富江(五島列島, JXY)にも無線電信局を置局することとし、昭和4年度予算を獲得し、建設が始まりました(同年9月開局)

1928年(昭和3年)、陸軍から汝矣島飛行場を譲り受けた朝鮮総督府逓信局はこれを京城飛行場として整備し、東京飛行場や大阪飛行場と同じ1929年(昭和4年)4月1日より郵便輸送が開始されました。

京城無線電信局の航空無線用JBBは1930年(昭和5年)5月1日より運用開始しました。

『内地・満州間航空路設定せられたるに伴い、昭和五年五月一日より航空無線業務の取扱をも開始し航空機および福岡・蔚山等の各無線電信局と交信することとなりたり』 ("無線電信", 『朝鮮総督府施政年報』昭和5年度, 1933.3, 朝鮮総督府, pp339-340)

ただし「航空無線業務用周波数に関する件」 (昭和4年9月13日, 電業第2375号, 逓信省電務局)で東京無線電信局の205kHzと、京城無線電信局の210kHzの周波数交換が発表されており、4月1日の郵便輸送開始時より対手局はないものの、航空無線用電波の発射準備は整っていたかもしれません。

朝鮮半島南東部の蔚山(ウルサン)飛行場の蔚山無線電信局(JBM)も朝鮮総督府逓信局が担当し、1930年(昭和5年)1月末より着工し、7月1日に開局して京城・厳原・福岡を対手局としました。こうして1930年(昭和5年)秋には準備中の関東州の大連無線電信局(JDP)を除く、逓信省の航空無線連絡網が完成しました。

大連無線電信局(JDP)ですが、逓信省航空局がまとめた『昭和七年度 航空統計年報』(1934.9発行)の中の昭和七年度航空無線通信統計によると、1932年(昭和7年)8月より大連無線電信局の取扱が始まっていいます。ちなみに大連無線電信局の改修で東京・大阪と短波長高速度二重通信を開始したのは昭和5年11月1日でした(朝日新聞, 1930.10.24)

【参考】多々良村名島の福岡飛行場は昭和5年に上海路線を開業した国際空港でした。昭和5年3月7日より、ドルニエ式スーパーワール型(BMW500馬力2基)飛行艇かみたか号(周波数333kHz[予備6.593MHz], 呼出符号JBARH, 対手局:福岡JXF)による福岡-上海間の試験飛行が始まりました。なお前述の民間共用の陸軍大刀洗飛行場からの蔚山-京城-大連便は外地(植民地)路線であって国際路線ではありません。しかし福岡飛行場は陸上滑走路を持たない水上飛行場だったため、その利用価値は低下して、昭和9年には定期便は閉鎖となりましたが、水上機の臨時的な使用は細々と続いたようです。昭和11年6月に和白村に陸上飛行場(雁の巣)が開港するまでは、陸軍の大刀洗飛行場が共用され続けました。このとき本家である名島の「福岡飛行場」は「福岡第二飛行場」と改称され、新興の雁の巣に「福岡第一飛行場」の名が与えられました。

最後の仕上げは暫定使用していた東京飛行場(立川)の、羽田への移転です。初代東京飛行場長である石田房雄氏が羽田開港(1931年8月25日)直後の様子を、『逓信協会雑誌』によせていますので参考までに引用します。

『たいていの人々はこれらの飛行場は皆航空輸送会社の所有物であると思っていますが、実はそうではありませぬ。土地の所有も、その経営も皆国家に属していて、われらの逓信省の所管、同省航空局の管理物であります。したがって、そこの飛行場長は、会社員でなく政府の官吏であって、航空官をもってこれに充てます。単に飛行場といえば草の生えた原っぱたるに過ぎませぬが、「東京飛行場」といえば堂々たる逓信省航空局内の一つの独立した官衛の名称となります。「事務所」などの文字を附するに及びませぬ。これらの事は、逓信省官制や、逓信省分課規定などをお覧下されば明瞭ですから詳述は致しませぬ。上述のごとき成り立ちの国立の飛行場の中に、日本航空輸送会社、各新聞社などが逓信大臣の許可のもとにある地積を使用し、そこに格納庫その他を建てて航空営業や社の事業を行っている次第です。ゆえに飛行場の構内には、国有財産の建物もあれば、私有のものも建っています。羽田飛行場には例のモダーンな事務所が建っていますが、あれで、あの北三分の一は国有財産で、三分の二は会社の所有物なりというむつかしいことになっております。・・・略・・・

序ながら、飛行場や航空路にある航空無線局の仕事を簡単に申しますならば、ここでは飛行機の出発報、到着報、出発待合わせ報、同じく引き返し報、欠航報、飛行機の通過報、今後使う飛行機の予報、など定期航空その他の飛行機に関する一切の通報、および一日に六、七回相互より発する天候通報や暴風警報、並びに他の区間における飛行機運航状況の相互通信はかなり輻輳致します。また時によりては航空中の飛行機との間に無線電信あるいは無線電話によって通信を交わします。ほとんど休む暇もない状態でありまして、我国の定期航空が極めて優秀な成績を収めていますのは全く航空無電局のお陰であるといわねばなりませぬ。

とくに我国航空路中の二大難関を守ってくれる箱根、亀山両無電局の、天候不良の日における活動ぶりは、ただただ感激のほかは無く、箱根山脈、鈴鹿山脈という、あの二つの剣を擁しながら、東京大阪間にまだ大きい事故も起きないのは全くこれはこのニ局のお奮闘の賜物というほかは無いのであります。なお将来は、これら無電局にラヂオビーコンを設けらるる時期もいづれ来ることと存じます。』 (石田房雄, "東京飛行場を語る", 『逓信協会雑誌』, 1932.10, 逓信協会, pp129-132)

航空無線の話題はここまでにしますが、参考までに初期(昭和8年)における、民間の航空機局の無線局名とその呼出符号を下表に挙げておきます。

【参考】 上表は「米村嘉一郎, "東京無線電信局の概況", 『電信協会会誌』, 第266号, 1928.5.25, 電信協会, p2」より作成

1928年(昭和3年)1月16日、台湾の宜蘭無線電信所(JPY長波98kHz/5kW, JFAB短波12.9MHz/3kW, JFBB短波7.6MHz/3kW)が営業開始したほか、外地(朝鮮総督府逓信局、台湾交通局逓信課、南洋庁通信課)の現業局にも短波の利用が広がりました。

日本初の短波実用局ははじめての事ばかりで、その運用には相当な苦労があったようです。

『この頃の送信機は混信に対する懸念がほとんどなかったので波長切替の場合はもちろん、毎朝夕送信機を起動する都度、発振回路の加減畜電器(バリコン)を調整して空中線電流の最大点を求める操作を行ったので、発振の都度、送信周波数は前回連絡に使用したものより著しく変化しており、受信側では探査に少からぬ困難を覚えた。・・・(略)・・・継電器としては甲種継電器を採用したが、雨季には絶縁不良となり保守上少からぬ困難を経験した。・・・(略)・・・発振波長の確度は千分の一もあやしい位であった。・・・(略)・・・国内連絡用の短波無線は有線不通時だけ使用する目的で施設されたが、波長変動のため連絡上困難があったので原則として電報輻輳時には常時連絡を計ることとした。金沢・広島および札幌では電信線やレントゲン等の医療機器類からの雑音妨害に悩まされて昼間通信の成績はあまり良くなかったが、夜間は安定であり、東京・大阪・鹿児島等の無線局にて送受信を行ったものは昼夜とも良い成績が得られた。』 (電波監理委員会編, 『日本無線史』第一巻, 1950, 電波監理委員会, pp164-165)

このあと昭和二年度予算の残りで、奄美大島の久慈郵便局に海底ケーブル途絶に備えて短波500W局を建設しました。

11) 検見川送信所第七装置の呼出符号「JPP」について

検見川のコールサインは「JY」で始まるものが指定されていますが、第七装置だけが「JPP」で異色です。これについてちょっと想像力を膨らませてみました。

1926年(大正15年)春より、短波を海外通信ではなく国内の連絡用としての実用化試験が始まりました。第一次通信試験は1926年6月2日から29日まで、逓信官吏練習所無線実験室にあった工務局の実験局J1PPを送信局とし、その電波を北海道の落石・根室・札幌局、岩槻(埼玉)、金沢、大阪、広島、鹿児島で受信測定しました。

第二次通信試験は1927年(昭和2年)1月7, 8日に行われ、送信局は逓信官吏練習所J1PPのほかに、札幌JPS、検見川JYB, JOB、大阪JOQ、鹿児島JBKが加わり、受信のみで参加したのは落石、岩槻、金沢、広島、大連(関東州, JDP)、京城(朝鮮, JMAA)、那覇、電気試験所(東京外大崎, JHAB)、同平磯出張所(JHBB)でした。これらの実験を経て1927年4月に前述の国内短波無線網が開設された訳ですが検見川が試験で使った「JOB」は、営業開始時には「JPP」に代わりました。

JPPJapan Private-station Perusya-maru)は日本で3番目に許可された私設無線局、波斯(ペルシャ)丸が使っていた由緒ある呼出符号でした。そのペルシャ丸がちょうど廃船になり、このコールサインが空きました。そこで国内短波通信網の実用化試験の先導役だった逓信官吏練習所無線実験室のコールサインJ1PP を、検見川が「JPP」として引き継ぐという、工務局の中上氏らの粋な計らいではないだろうか?私はそう思うのです。

12) 京城無線電信局の呼出符号が変更

1923年(大正12年)4月、朝鮮総督府逓信局に京城陸軍無線電信所が移管されたので京城無線電信局と改称し、同年6月11日より船舶局を主な対手局として公衆無線電報の取扱いが始まりました。しかし設備を近代化するために1925年(大正14年)年度より2ヵ年継続事業として、従来の京城無線電信局舎を龍山送信所に改修、新たに清涼里受信所を建設し、別に中央通信所を設けて、これらを陸線で結び中央集中方式することになりました。

1927年(昭和2年)4月に工事が完成しましたが、新しい京城無線電信局が営業開始したのは種々の事情で同年8月1日でした。固定業務を加えて、呼出符号もJMAA(海岸局)から全面変更になりました。新コールサインは第一装置JBA、第二装置JBJ(海岸局と同じ)、第三装置JBDで、船舶局を対手とする海岸局業務は第二装置で行いました(後に朝鮮北東部の清津海岸局がJBJ引継いだため、海岸局業務はJBBを使うようになりました。)。

『京城郵便局内に中央通信所を置き、その通信方式も中央集中式のほか、二装置を併設し、その第一装置は東京無線電信局との間に高速度二重通信をなし、第二装置は満州・青島・船舶その他と、第三装置は大阪無線電信局と交信するなど、著しく通信能率を増加し、かつその交信範囲も拡大し・・・(略)・・・』 ("無線電信", 『朝鮮総督府施政年報』昭和二年度, 1929.4, 朝鮮総督府, p358) とあることから、東京無線電信局の検見川送信所・第二装置(JYS)/岩槻受信所の対手局は、京城無線電信局の龍山送信所・第一装置(JBA)/清涼里受信所に変わりました。

13) 磐城無線電信局の廃止と富岡送信所

1927年(昭和2年)8月7日、日本無線電信株式会社の磐城無線電信局を廃しその施設(原の町送信所と、新設の福岡受信所)をトーン・チャンネルおよびコントロール・ラインの陸線で東京逓信局の東京無線電信局に結び、東京から直接操縦する中央集中方式に切り替えました。この統合で原の町送信所(呼出符号:JAA)は東京無線電信局の第九装置となりました。

富岡受信所を予備受信所とする計画もありましたが、原の町送信所の対米補助送信所として仏SFR社の短波送信機を購入し、富岡送信所として生まれ変わりました。ただし福岡受信所に事故があった場合に備えて長波受信機能は残されました。

【参考】日本無線電信(株)は対欧局の依佐見送信所の長波送信機をドイツのテレフンケン社のものにするか、フランスのSFR社のものにするか迷った末、(ドイツから第一次世界大戦の賠償金を購入資金の一部に充てる都合で)テレフンケン社製を選びました。しかしSFR社の営業が色々サービスしてくれたこともあり、気の毒だからとSFR社の10kwの短波送信機を購入することになったと、依佐見送信所の短波送信機を設計した元海軍技術少将の谷恵吉郎氏が対談会で明かしています(座談会電波界今昔, 電波時報, 1958.6, 郵政省電波監理局, p44)。

富岡送信所の短波送信機(呼出符号:JAN)は第十装置として位置付けられ、1927年(昭和2年)暮れより試験をはじめて、1928年(昭和3年)3月より対米通信の補助用として正式に使われるようになりました。その性能を見極めるために帝国海軍に協力を要請し、南洋を航海中の戦艦に富岡JANからの7.200MHz(波長41.67m)を受信試験してもらいました(1928年5月1日より)。SFR社の短波送信機に付属品としてついてきたアンテナについて日本無線電信(株)の加藤安太郎氏が同社技術報で次のように述べています。

『富岡送信所で開始された短波通信は、ダブレットの外に小型のSFR式ビーム空中線が用いられたが、当時これが指向性を持っていることは一向良く認識されなかった。』 (加藤安太郎, "国際無線通信用空中線の変遷", 『無線の研究』[vol.2-No.3], 1938.7, 日本無線電信株式会社)

なお第十装置(富岡送信所)JANの周波数には7.450/12.300/18.600MHzが予定されました。

原の町にしろ、富岡にしろ、元々は逓信省の施設でしたが、対外国通信は日本無線電信(株)に任せることになり逓信省は手を引きました。しかし今回、東京無線電信局から陸線で送信所(原の町・富岡)・受信所(福岡)を結び直接遠隔コントロールすることになりました。つまり日本無線電信(株)は送信所・受信所の建設・保守・運用を行い、それを逓信省に使ってもらう形です。

14) 1927年(昭和2年)秋 岩槻が検見川を遠隔操作し、標準電波開始

1927年(昭和2年)秋、"逓信省の標準電波"が毎週土曜日に岩槻受信所から検見川送信所を遠隔操作して発射されるようになりました。我国の標準電波は1923年(大正12年)8月3日より海軍の船橋無線JJCより定期発射がスタートしましたが、ようやく逓信省も海軍省に追いつきました。詳細は標準電波の歴史のページをご覧ください。

日本無線史第二巻「標準電波」によると、当初は週一回土曜のみの発射でしたが、のちに週二日に改められました(この週二回という送出頻度は昭和15年のJJYにも引き継がれました)。以下引用します。

『逓信省が標準周波数電波を送出したのは昭和二年 東京無線電信局岩槻受信所から行ったものを嚆矢とする。もっともこの標準電波の送出は各逓信局無線検査官の使用する電波計の較正に資する事を目的としたものであって、一般には公表されたものではなく、その送出回数も最初の内は一週間土曜日一回だけに限ったもので、その後一週間に二回送出するに過ぎなかった。

この標準周波数の送信方法は東京無線電信局検見川送信所を岩槻受信所から東京中央通信所を通して直接操縦し、一定の時間ダッシュ(長点)を送信し、この発射電波を同時に岩槻受信所に備付けたサリバン会社製マルチバイブレーターで測定し、この測定結果を直ちに送信して告知する方法をとったのである。すなわち標準周波数の送出というよりも、むしろその近似周波数の発射を行い、発射された電波周波数の正確な値を通告する方法をとったのである。

この方法はマルチバイブレーターそのものの確度について問題もあったので、昭和四年にはこのマルチバイブレーターの代わりに米国GE会社製の水晶制御による標準電波発生機を使用し、東京天文台の報時により、これをチェックしてその誤差を求める方法がとられた。』 (電波監理委員会編, "標準電波", 『日本無線史』第二巻, 1951, 電波監理委員会, p407)

岩槻受信所が標準電波のオペレーションを行いました。岩槻から陸線経由で検見川の送信機をキーイングして、それを受けて測定します。そして検見川波の正確な周波数が判明したら、再び岩槻が検見川の送信機を操作して、モールス信号で実測周波数を告知します。

現代でいう標準電波とは、ある確度をもって正確に周波数を合わせ込んだ電波のことを指しますが、初期の標準電波はあくまで近似の周波数の発射であって、その周波数測定結果を続けて告知放送するものでした。この方法のルーツは1920年に始まったエッフェル塔局FLとリヨン局YNにあります。

なお1929年(昭和4年)にGeneral Electric社製水晶式標準電波発生器を、1934年(昭和9年)にはGeneral Radio社製水晶式周波数標準器を購入し岩槻に設置し測定精度の向上に努めています。

15) 政府系現業無線局が次々と短波の使用を開始(昭和3年度)

さて検見川無線に話題を戻しましょう。まず昭和2年度(1927年4月~1928年3月)の逓信省電務局の公式資料(p.83)をご覧ください。

この無線電信局所名録(昭和3年1月31日発行)によると昭和2年度下期における東京無線のコールサインはJYR, JYS, JYT, JYX, JYZ, JYB, JPP(検見川)、JJC(船橋)、JAA(原の町)、JAN(富岡)でした。

そして1928年(昭和3年)度になると、国内短波網に落石(北海道)、久慈(奄美大島)、那覇(沖縄)が加わりました。磐城無線電信局の富岡受信所は、逓信省から日本無線電信(株)に引き渡されたあと、埼玉県福岡に受信所が新設されたため予備施設になっていました。原の町送信所JAAの改修工事で送信休止時間帯の対米通信を補助するために仏SFR社の短波送信機を富岡に据付け対米補助局(呼出符号JAN)として稼働しました。日本無線電信(株)の富岡局が、現業局として短波による対外無線局の我国第一号となりました。逓信省の無線局は対外通信から撤退して、日本無線電信が担当することになっていたからです。このほかに海軍より時間借していたJJC(船橋)も昭和3年度にはリストから消えています。

以下にワシントン会議での取決め(条約付属一般規則 第5条第17項2)に従い、電信連合総理局へ逓信省が登録した内地・外地の短波局を挙げておきます。これは昭和3年度における現業短波局(含む建設計画)を示すもので長波は含んでいません(周波数表示が採用されたので、波長表示は概数です)。大阪JESの出力(1.5→1kw)と周波数(12.5→12.3MHz)が変わっています。

なおこの時期における、長波も含めた検見川のコールサインと周波数ですが、どうも頻繁に変更があったようで逓信省工務局の中上氏の記事では以下の通りです。

【参考】 上表は「中上豊吉, "東京無線電信局", 『逓信協会雑誌』, 1928.9, 逓信協会, p41」より作成

東京無線電信局の米村氏の記事では、また少々異なっていますが、参考までにこちらも引用しておきます。

太平洋戦争終戦後初の航空機局の局名および呼出符号は 新プリフィックス のページの一番最後に収録してあります。興味のある方はそちらもご覧ください。

19) 日本無線電信株式会社の対欧局建設が始まる

逓信官吏練習所無線実験室(以下、官練と略す)による短波長無線電話の実験は1925年(大正14年)12月にブラジルやアメリカのアマチュア局との記録を作った後、翌年2-3月は春洋丸(JSH)との無線電信による太平洋横断試験に移り、さらに4月からは国内短波網の実用化試験に入ったため、自然消滅になっていましたが、12月に写真電送実験で一時復活しました。

1927年(昭和2年)2月、日本無線電信株式会社が対欧局として依佐美送信所(現:愛知県刈谷)と海蔵受信所(現:三重県四日市)の建設に着工しました。東京無線電信局の検見川の短波通信が着実に成果を上げていることや、対欧受信を行っている大阪無線電信局の喜連受信所が短波受信を併用することで受信率を大きく改善させたこともあり、依佐美や海蔵でも一部短波を採用することとなりました。

20) 1927年 国際無線電話時代が幕開け (取り残される日本)

国際公衆無線通信といえば電信(電報)だけでしたが、1927年(昭和2年)1月7日にアメリカ電話電信会社(AT&T)と英国郵政庁が、長波帯による英米間無線電話(58.5kHz, 100kw, SSB)の公衆通話サービスを開始し、世界をおどろかせました。米国-英国間の通話量はとても多く、翌1928年(昭和3年)6月6日に短波で1回線を増設しましたが、それでも間に合わず1929年(昭和4年)6月1日と12月1日にさらに短波2回線を増設しました。なお短波のSSB回線は1933年(昭和8年)にアムステルダム-バンドン回線(1929年開業)に採用されたのが最初です。

これに刺激され各国で短波無線電話が研究され建設ラッシュとなり、1929年(昭和4年)には欧州-豪州間の「アムステルダム(蘭)-バンドン(蘭領インドシナのジャワ島)回線」(開業1929年1月8日)、欧州-南米間の「パリ(仏)-ブエノスアイレス(アルゼンチン)回線」(開業1929年2月1日)と「マドリッド(スペイン)-ブエノスアイレス回線」(開業1929年4月12日)、欧州-東洋間の「ベルリン(独)-バンドン回線」(開業1929年12月29日)が営業に入りました。全て短波です。

特に我国が衝撃を受けたのは、1929年1月に開通したアムステルダム-バンドン回線で、2年以内にシドニー(オーストラリア)経由でウエリントン(ニュージーランド)まで延伸するほか、同年12月にはベルリン-バンドン回線、その翌1930年(昭和5年)4月にはパリ-サイゴン(仏領インドシナのベトナム)回線およびロンドン(英)-シドニー回線が営業開始予定だったことでした。さらにバンドンを中心にバンコク(タイ)、メダン(仏領インドネシアのスマトラ島)、シドニーへの各短波回線の建設も始まろうとしていました。このように周辺アジア地域が続々と国際無線電話網に加わる中で、アジアの雄を自負する日本だけが取り残されていく形となり、政府も産業界も大いに焦りはじめました。

しかし1927年(昭和2年)3月の片岡蔵相の失言から「昭和金融恐慌」が起り、日本経済は不況の真っただ中にあり、さらに1929年(昭和4年)7月、田中内閣総辞職の後を受けて浜口内閣が財政立直し策を打ちだすも、同年10月24日にニューヨーク株式市場が大暴落し「世界恐慌」が各国へ波及しはじめました。

『昭和四年十一月大阪商工会議所は、大阪・上海間に通話を開設されるよう政府に建議した。田辺治通、三宅福馬、厚東禎三、安部十二造の諸氏は、わが国の国際無線電話開設の急要を認めてその開設方法を協議していた。

政府は国際通話開設の緊要なことを認めたが、当時、わが国は経済市況低下の一途をたどっており、政府も緊縮政策を続けていたから、官業にするとしても予算獲得の成算がなく、また、国際無線電信を経営していた日本無線電信会社も電話の開設についてはきわめて消極的であったから、気がもめるばかりであった。現に、中上さんの提唱によって内地・台湾間無線電話予算を提出したが、大蔵省が認めなかったのである。』 (今泉[国際電話株式会社], 『中上さんと無線』, p122)

21) 検見川 J1AA のルーツである、逓信官吏練習所無線実験室 J1PP

我国で最初に短波長の無線電話について実験・研究を行ったのが東京芝公園にあった逓信官吏練習所無線実験室でした。国際無線電話の話題に入る前にまず官練での研究の軌跡を簡単にまとめておきます。

1925年(大正14年)4月6日、東京無線電信局岩槻受信所(埼玉県)を建設していた逓信省通信局工務課の短波実験局J1AAが、波長79mの無線電信で米国カリフォルニア州の6BBQと交信に成功しました。短波の威力に驚いた工務課では無線電話の実験を計画しました。

通信局工務課が自分達の研究室として使用していたのが逓信官吏練習所の中にあった無線実験室です。工務課がここに短波送信機を準備して、まず無線電信でオンエアーしたのが同年5月中旬。さらに無線電話用に変調器を追加する改造を行い、鹿児島JKBと我国初の短波長無線電話実験を成功させたのが同年6月26日でした。でも成功といってもかろうじて確認できる程度の明瞭度だったようです。

明瞭度を改善するため変調方法について試行錯誤が繰返され、J1PPの第二号機での実験が再スタートしたのが同年11月上旬。1ヵ月の実験・調整を経て、1925年(大正14年)12月19日に、ブラジルの1AC、米国の9DNGとの無線電話による交信(先方からは無線電信)に成功したのです。

さらに実験を続ける中で自励発振器に直接変調すると搬送波は揺さぶられFM成分が発生し明瞭度を悪くしていることを突き止めました。そこで自励発振部を分離して終段で変調を掛けるJ1PPの第三号機が完成したのは、1928年(昭和3年)夏でした。

『この送信機は小電力自励発振器の出力を二段階にわたり電力増幅を行ったもので、最終段増幅機の陽極回路においてチョーク変調を行った。この試作機の搬送波出力は約五〇〇W、周波数は九Mcと一三Mcの二種であった。この送信機で国内試験を行った結果は自励送信機をそのまま変調する最初の方式よりはるかに良好で、短波による遠距離電話連絡の可能性を確認するに至った。』 (電波監理委員会編, 『日本無線史』第一巻, 1950, 電波監理委員会, p336)

22) 官練J1PPの第三号試作機に「周波数逓倍」が取り入れられる

1928年(昭和3年)夏に完成した官練無線実験室J1PPの試作第三号の明瞭度は格段に良くなり、やっと実用レベルにたどり着きました。上記日本無線史の記述をそのまま解すれば「自励発振→励振増幅→電力増幅」の二段増幅ですし、また周波数が9MHzと13MHzとの記述から、「自励発振(4.5MHz)→周波数逓倍(x2またはx3)→電力増幅(9MHzまたは13.5MHz)」とも考えられます。詳しい記録がありませんが、完成当初は二段増幅で、やがて低い周波数で安定的に発振させて、それを目的とする周波数まで持ち上げる「周波数逓倍」方式に改造されたのではないかと想像します。

官練無線実験室J1PPで周波数逓倍方式が採用されたことが文献上(佐々木諦, 東京台湾間短波無線電話試験, ラヂオの日本, 1929.5, 日本ラヂオ協会, pp31-33)でハッキリしているのは1929年(昭和4年)春に行なわれた試験です。最初の実験は1929年(昭和4年)3月21日から24日に、波長65m(周波数約4.5MHz)の自励発振出力を2逓倍し、波長32.5m(周波数約9MHz)を取り出して、終段では約500Wの搬送波出力を得て発射されました(15-20時の毎正時より各30分間送信)。2回目の実験は同年4月22日から24日に、逓倍器を発振器の第三高調波に同調させるよう再調整し、波長22m(周波数波約13.5MHz)の約300W出力で行いました(10-18時の毎正時より各20分間送信)

これらの実験は岩槻、大阪、鹿児島、そして台湾の淡水が傍受局として協力し、伝搬距離と時間および周波数との関係を明らかにし、のちに検見川で行われる日台無線電話試験(試作第四号機)への貴重なデータが得ました。(次に述べますが)当時、逓信省工務局無線係の中上係長は既に内地と台湾を無線電話で結ぶことを考えていて、その予備実験にこのJ1PP試作第三号機が用いられたのです。安定した日台無線電話回線を構築するには、周波数の高い「昼間波」と周波数の低い「夜間波」の二波切換え方式が必須であるとの確信に至ったのもこの頃だったようです。

【参考】 この実験と前後して、逓信省工務局から寺畑松太郎技手(元銚子無線JOSの通信士)が台湾総督府交通局の技師として赴任し、日台無線電話の実験を強力に推進してくれたといわれています。寺畑技師は1938年(昭和13年)に逓信部工務課無線係長、1942年(昭和17年)に工務課長に昇進され、台湾各地の無線施設の改良・建設に指導的役割を果たされただけでなく、終戦後も台湾広播電台で放送技術の復興に尽力されました。日本には1947年(昭和22年)1月に引き揚げ帰国されたそうです。

官練無線実験室ではこのJ1PP第三号機で1929年(昭和4年)7月まで実験しました。後述しますが翌8月には臨時的に飛行船ツェッペリン伯号DENNEの着陸の様子を無線電話で国際中継しようとしたのも、この官練J1PP第三号機でした。

23) 中上氏の秘策で「内地・台湾間無線電話試験」の予算を獲得

明瞭度が悪い理由が突き止められ、J1PP試作第三号機を設計していた逓信省工務局では、中上氏が日本と台湾の間を無線電話で結ぶ計画を立てました。

『昭和2年末、逓信省において内地台湾間の無線電話を計画して、有線無線接続装置および秘話装置等の調査研究に着手した。台湾においてもこれと同時に台湾側の施設について調査していた・・・(略)・・・』 ("第九章第二節 内台無線電話試験", 『外地海外電気通信史資料』台湾の部3, 1956, 日本電信電話公社)

日本で最初に水晶発振式の送信機を完成させたのは海軍省技術研究所で、1927年(昭和2年)7月より海軍技研平塚実験所JRRCが伝播観測を目的として7.500MHzの電波の発射をスタートさせました。

1928年(昭和3年)4月、日本無線電信株式会社は建設する依佐見送信所(対欧局)に使用する水晶発振式短波送信機と短波ビームアンテナを、実績のある海軍省に発注しました。そして同年11月、納品され短波実験を開始しました。これが公衆通信としては初の水晶発振式短波送信機と短波ビームアンテナです。

しかし無線産業を先導してきたと自負する逓信省としても、海軍省に負けてはおられません。官練無線実験室で同年夏に完成した無線電話の第三号機はまだ自励発振式でしたが、昭和4年度の電話拡張予算の一部を自分たちに横流してもらい、8万円の調査費で水晶発振式の無線電話送信機と短波ビームアンテナを試作することになりました。

『中上さんは英語が得意で、国際会議にもしばしば出席して外国人の友だちをたくさん持っていたためか、国際通信の開発には特に強い関心をよせていた。しかし政府予算の支出難で、国際電報の取扱いは大正十四年十月以降は日本無線電信会社の私設によるこことせられたので、無線による大幅の収益はゴッソリと同社に持っていかれてしまった。したがって植民地や国内無線の収益だけでは新しい部門の調査や試験のための財源を捻出する余裕がない。

そこで当時は有線電話のためのものと思われていた電話拡張改良工事に食い込んで無線にもその予算の一部を流してもらうことにした。かくして始められたのが内地・台湾間無線電話試験であって、それがきっかけとなって中上さんは独、英、米などとの国際無線電話試験をつぎつぎと開始した。』 (河原猛夫, "国際電話の試験", 『中上さんと無線』, p92)

水晶式送信機の設計リーダーは工務局の小野孝技師(官練J1PPの無線電話の実験責任者)で、河原技手、佐々木技手、岸本技手が担当しました。スーパヘテロダイン受信機は穴沢技手と河原技手が、短波ビームアンテナの設計には主に河原技手があたりました。小野技師は1927年(昭和2年)のワシントン会議に出席した後、欧米各国を視察し、各国が無線電話の開発に相当力を入れているのを肌で感じとり帰国しており、危機感をもってこの仕事を推進しました。

こうしてJ1PPの第四号機にあたる水晶式無線電話の設計が始まったのですが、ちょうど設計の最中に飛行船ツェッペリン伯号(コールサインDENNE)が日本にやってくることになり、検見川JYZもツェ号との電報送受にあたりましたので、先にこの話題を紹介しておきます。

24) 1929年(昭和4年)8月19日 ドイツから飛行船ツェッペリン伯号がやって来た

逓信省の公衆通信ビジネスを担う現業無線局は、ある意味で損(?)な役回りです。工務局や電気試験所の実験局は一銭たりとも営業成績に貢献せず、ただお金を使うだけですが先進的な実験成果があれば世間の注目を浴びることができます。

岩槻受信所の建設を請負っていた工務局が実験局J1AAで日米太平洋横断通信に成功して話題を呼びましたが、1926年(大正15年)7月1日の営業開始以降、粛々と現業ビジネスを支える地味な存在となりました。岩槻にしろ検見川にしろ、内地と外地(植民地)間の無線電報を事故なく届けるというとても重要な役割を担っていたにも関わらず、それは出来て当たり前で賞賛される対象には成りにくいものです。そんな中で1929年(昭和4年)8月の旅客飛行船LZ127、グラーフ・ツェッペリン伯号(Graf Zeppelin)の来日の時には落石、岩槻、検見川などの現業局が華々しく連日新聞紙上で取り上げられました。

【参考】LZ127グラーフ・ツェッペリン伯号の世界一周航程:Lakehurst-Friedrichshafen間7,068km(8月7-10日)、Friedrichshafen-霞ヶ浦間11,247km(8月15-19日)、霞ヶ浦-Los Angeles間9,653km(8月23-26日)、Los Angeles-Lakehurst間4,822km(8月27-29日)

25) ツェッペリン伯号より逓信省へ無線による気象情報の提供要請

1929年(昭和4年)8月15日にドイツのフリードリヒ・ハーフエンを出発した飛行船ツェッペリン伯号はシベリア経由で日本の霞ヶ浦を目指しましたが、逓信省と東京中央気象台に東アジア一帯の気象観測情報を無線で刻々提供して欲しいと依頼されました。東京中央気象台では築地宣雄技師が選任され、また逓信省では樺太の大泊局、北海道の落石局、千葉の銚子局、そして東京無線電信局(検見川送信所と岩槻受信所)の各現業無線局に対応させることにしました。

『ツエ伯号からの無電を接受すべき埼玉県岩槻無線電信所は酒井所長以下八名の通信員がすこぶる緊張して逓信省および中央電信局から数名の技師が十五日来所し、それぞれ部署につき腕によりをかけて欧亜の空からの通信を取るため全力を挙げることになり優秀なる受信機二台を新設専用することとなった。同所の試験交信によるとブラジル、アルゼンチンがもっとも完全な成績を現わし、最近米国スケミクタデーとの成績は失敗に終わっている。ノビレ少尉の北極探検にあたっての試験も不成績であった。ただ国際連盟の一部に成績を上げている。』 ("新設の受信機二台を専用 手ぐすね引いて待つ岩槻無線電信所", 『東京朝日新聞』, 1929.8.15)

ブラジル、アルゼンチンとの試験交信とは、検見川ではなく1925年(大正14年)の岩槻J1AAのことだと想像します。スケミクタデーとの試験がいかなるものかは分かりませんが、ノビレ少尉の飛行船イタリア号が北極点からの帰路に遭難して各国が無線捜索したのが1928年(昭和3年)5月で、日本では成果を得られませんでした。

1927年(昭和2年)8月にジュネーブの国際連盟がオランダのクーツウィッグのPCLL(フィリップス社の短波無線電話実験局)を通じて全世界に向けてメッセージを送信(杉村陽太郎氏も日本語で演説)し、逓信省と日本放送協会が日本国内へラジオ中継しようと試みましたが不成功です。翌1928年(昭和3年)11月11日の国連放送試験では、杉村氏の日本語演説をかろうじて傍受できました(わずか10数語)。『一部に成績を上げている』とはこのことでしょうが、今回のツエ伯号来日で、我が国の無線技術力に全世界が注目しており、逓信省は国家の威信を掛けてこれにあたることになりました。

26) ツェッペリン伯号(DENNE)との連絡波長が・・・

DENNEというのはツェッペリン伯号無線の呼出符号です。ワシントン会議で航空局は5文字で構成すると決まったからです。

『ツエ伯号と日本における最初の無電連絡を行う使命を帯びている樺太大泊無電局はあたかも開局満八年に際して光輝ある使命を遣うこととなったので・・・(中略)・・・局の主といわれる主任松本技手をはじめ局員は喜びに燃えつつ緊張し十五日いよいよ連絡使命にあたるのも数時間後と、午前十時局員を集めて松本主任から訓示して短長両波長を・・・(略)・・・』 ("手ぐすね引く大泊無電局 戦場のような緊張", 『東京朝日新聞』, 1929.8.16)

『ツエ伯号の日本に呼びかけよう第一声を受くべき埼玉県岩槻無線電信所の十五日午後は空に黒雲が群がって邪魔者の雷の招来が気遣われたが、ツエ伯号との間に使用する短波は割合、雷に強いので多少安心されている。酒井所長は早くから出勤して受信機の点検やら何かに忙しい。とにかく今回の通信は日本最初であるからその結果が・・・(中略)・・・東京無電局から来た川原技手、矢島書記等の一行は十五日夜は徹夜で受信機と首っ引きを覚悟している。』 ("受信機を前に徹夜の覚悟 岩槻無電局の緊張", 『東京朝日新聞』, 1929.8.16)

翌8月17日の東京朝日新聞に大きく『ツエ伯号を捜索する全世界のすごい電波戦 我こそ功名を得んと呼べども答えず惨たる苦心』という記事が載りました。ツエ伯号が出発以来、これを傍受せんと日本の各無線局で懸命な努力が払われたが、ツエ号(呼出符号:DENNE)を喚呼ぶ世界各国の無線局の信号が聞こえるのみです。

◎岩槻

『・・・(略)・・・川原技手等は十五日夕刻から所内に詰めかけ受信機の綿密な点検をして、今や遅しと待ったが広い受信室の長波といわず、短波といわず、入って来る通信はいづれも南洋パラオ、樺太、アメリカ等で我等の「DE」(ツエ伯号のコールサインDENNEの略)入らばこそ・・・(略)・・・』 ("それッと緊張する耳元へ悪戯の信号 六人の技手が交代となって徹夜の岩槻無電局", 『東京朝日新聞』, 1929.8.17)

◎検見川 JYZ

『ツエ伯号飛行船に向い日本から最初の一声を呼びかけようと手ぐすね引いていた検見川無電送信所では十五日の日の暮れるのを待って八時十分まず第一信を発した・・・(中略)・・・同所ではさらに発信を連続中である。』 (呼んだ一声も梨のつぶて それでも手応を待って打ち続ける検見川, 東京朝日新聞, 1929.8.17)

◎落石 JOC

『ツエ伯号は十六日正午、約六千マイルの距離に近づくため落石無電で連絡に努めたが空電のため不能に終わった。』 ("受電はきょうか 期待する落石の無線局", 『東京朝日新聞』, 1929.8.17)

ツェッペリン伯号の通信士は出発前に『夜間は波長35.5mを使うと』発表していました。逓信省は日本との連絡波長に25m波を使って欲しいと変更を依頼したのですが、返答がないままツエ伯号が出発し、この件が届いているか判りませんでした。仕方なく日本の各無線局では短波長25, 35.5, 45.5, 53m(周波数12.000, 8.475, 6.600, 5.660MHz)および長波長2100m(周波数143kHz)を探索するハメになり苦戦していました。

27) ついに検見川 JYZ がツエッペリン伯号DENNEと交信に成功

1929年(昭和4年)8月17日、21時30分。バイカル湖の北方1000kmの上空を飛行するツエ伯号(呼出符号DENNE)の波長36m(周波数8.33MHz)を、まず北海道の落石JOCが受信し、21時40分より交信に至りました。落石JOCからは長波の2100m(周波数143kHz)を用いました。

『連絡成立するや航空船は短波、落石は長波をもって直ちに電報送受を開始した。感度は強いが変化が多く相応に困難な交信を続けて午後十一時四十分までに十四通、七百七十九語を送受した。この間、東京および銚子無線においても明感、落石局との通信を傍受することができた。』 ("「ツェッペリン」航空船の飛来と本邦に於ける電信、無線電信", 『逓信協会雑誌』, 1929.10, 逓信協会, p50)

海軍の霞ヶ浦航空隊無線電信所でも21時40分より、この通信を傍受していました。なおツエ伯号は23時40分以降は外国局との通信に忙しくなり、落石JOCからの呼び掛けには答えなくなりました。

当局無線電信局(岩槻受信所)でも、21時37分にツエ伯号の電波のキャッチに成功していました。

『日本文明の名誉にかけて同号との速やかなる無線連絡が無線人の願いだった。・・・(略)・・・極度の緊張に疲れた他の無線局は、落石局が素晴らしい熟練さをもって順調に電報をさばいて行くのを傍見して、我が無線電信界のために喜んだ。・・・(略)・・・東京無線局は落石局より7分遅れて、同月17日午後9時37分に飛行船の無電符号を識別し、落石局のために3時間30分を猶予して、18日午前1時10分に、同船との通信を交換した。ここに僚局の活動を妨げまいとする交誼の精神を知る。』 (日本電信電話公社東京無線通信部編, 『検見川無線30年史』, 1953, p140)

18日午前1時20分、逓信省は東京無線電信局(検見川・岩槻)が1時10分にツエ伯号との通信に成功したと発表しました。

『交信の機会を待ちつつありし東京無電電信局はついにその目的を達し、午前一時十分より交信を開始するに至り、まずツエ伯号よりの要求により気象報を通知し、引続き公衆報の送信を開始せり、東京無電電信局の符号はツエ伯号へ極めて明瞭に感応する旨通知ありたり』

検見川無線JYZの様子を工務局の小野孝技師が以下のように記しています。

『十八日午前一時、電波長を少しく短縮した上、JYZ(検見川送信所)を喚呼し東京無線局との連絡を求め気象を問うて来たので、JYZは一二,〇〇〇キロサイクル(二五米)で応答せしに同波は当時フェーデング大となり、彼れは受信困難なりとの事ゆえ、直ちに六,一二〇キロサイクル(四九米)および三六・五キロサイクル(八,二〇〇米)で送信せるもこれまた前者は不感、後者は空電妨害大にて受信不能と返答し来たり、ついに完全なる連絡を保つことが出来なかった。』 (小野孝, "ツェッペリン伯号の来訪と無線の活躍", 『ラヂオの日本』, 1929.10, 財団法人日本ラヂオ協会, pp9-10)

検見川JYZとツエ号DENNEの連絡が途絶えたが、深夜3時前より朝8時まで銚子JCSが通信。再び途絶したあと、夕方4時から落石JOCが、午後7時からは検見川JYZが交信できたが、深夜3時にはフェーディングで三回目の途絶となった。

『また一方銚子無線局は八,二〇〇キロサイクル(三六・五米)で彼を喚呼しつづけ、午前三時までに彼の感受するところとなり相方連絡をとり交信可能となった。しかるに午前八時頃からは、かくも当方へ明感であった彼の八,四七五キロサイクル電波は微弱となり、以後午後四時までの昼間は各波共不感に陥ったのである。同夜はまず落石局が午後四時より、また東京無線局は周波数八,七二〇キロサイクルに換え、午後七時より相互に交信応答が可能となった。ただし十九日午前三時より一時間ばかり彼らの電波は各局共に大なるフェーディングを受け交信は一時中止のやむなき状態に陥った。』 (小野孝, 前掲書, p10)

深夜4時以降は安定して交信でき、昼過ぎの2時にはツエ号が福島県上空まで来た。ちょうど岩槻受信所とのスキップ圏に入り感度が低下したため、長波143Kcを併用しながら検見川JYZらがツエ号を霞ヶ浦着陸まで導いた。

28) ベルリン放送局からの着陸状況のラジオ中継要請

話は前後しますが、ツエ伯号の霞ヶ浦到着の直前(8月14日付け)になって、ドイツ放送協会からツエ伯号の着陸の様子をジャワ島のバンドン局経由でドイツへ中継して欲しいと逓信省および日本放送協会に要請してきました。

『十六日、ベルリン放送局から我が逓信省宛てツェッペリン伯号霞ヶ浦着陸の模様をつぶさに聞くべく放送の申込みをしてきた。我が当局ではこの報を聞きただちに準備に着手したがその方法としては何分遠距離のため、はたして発信できるかどうか問題であるが、ジャバのバンドンを通じて中継放送の手続きをとり、極力その成功を祈っている。』 (霞ヶ浦の光景を本国ドイツへ放送 ベルリン放送局からの依頼に逓信省成功を期す, 読売新聞, 1929.8.17, p7)

愛宕山の東京放送局の短波無線電話(200W)と、逓信官吏練習所無線実験室J1PP(500W)から、我国から発信する最初の国際中継放送が行われた。これについては放送直後の調査月報(昭和4年9月号)が詳しいので引用します。

『これがため17日(土曜)および18日(日曜)の両日、毎朝6時半から夜間放送終了まで一般放送のほかに一日のプログラムを、短波長にてJOAK逓信官吏練習所の両所から送信し連絡の試験を行い、ツエ伯号着陸放送までに出来るだけ好結果を得るべく、極力手はずを進めているも、前記両所の短波設備は小規模なるところから、はたして成功のいかんは別問題として、日本からの国際放送として最初の画期的試みだけに全国のラヂオファンはもちろん、諸外国、ことにドイツのラヂオファンに取っては少なからざるセンセーションを与えたことは事実である。ただ残念な事には、この稿締切までにはドイツからの報告に接していないから試験の結果を記載する事は後に譲ることとする。・・・(略)・・・国際試験放送用短波の分は、愛宕山および逓信官吏練習所から放送されて、南洋ジャバ島の東南端にあるバンドン局(東京より約5,500km)で無線中継を行い、バンドン局からは約80kWの強電力短波長でオランダの国際短波局クートウィグ(バンドンから約9,500km)に送り、ここから更に有線連絡によって、多分ドイツの大放送所ケーニヒス・ウステルハウゼン(電力30kW)に中継され、放送されたのであって、もし多少なりとも成功したとすれば、霞ヶ浦における状況がそのまま瞬時にドイツ全国はもちろん、欧州諸国にも相当聞こえたはずである。』 ("報告 ツェッペリン伯号の飛来を期して我国最初の国際放送", 『調査月報』, 1929.9, 日本放送協会, p33)

文中『この稿締切までにはドイツからの報告に接していないから・・・』としていますが、この記事に続けて「フンク」誌(8月30日号)に発表されたドイツ放送協会研究所の記事の日本語訳が掲載されていますので引用します。

『多くのドイツ放送聴取者は最近苦い失望を味わせられた。それは前日から発表されていたグラフ・ツェッペリン号の東京着陸の中継放送が聴取し得なかった。・・・(略)・・・当日24時間中、東京よりの放送を受信すべく試み、確実に2回ほど聴取されたが、しかし現在普通の理解を持ち得るべき中継能力はなかった。またその東京よりの中継放送にあたってその補助をなせる蘭領インド(バンドン送受所)からの放送もまた、東京と同様の難を免れなかった。・・・(略)・・・』 ドイツ本国では中継当日に東京からの短波を2回ほど受信できたものの中継にはならず、またジャワ島のバンドン局からの中継波も受信できなかったとのことです。フンクの記事では日本放送協会(愛宕山)の短波、または官練無線実験室J1PPの短波が、はたしてジャワ島のバンドン局で受信出来たかどうかには触れていません。ドイツ放送協会の研究所としては、東京-バンドン間がつながったかどうかは知り得ていないようです。とにかくドイツへの国際(中継)放送は失敗しました。

29) 我国初の国際(中継)放送の試み JOAKと官練J1PPの短波実験局

ところで日本放送協会の放送五十年史には、我が国初のこの国際(中継)放送の試みについて不可解な記載があります。

『・・・(略)・・・ツェッペリン伯号が上空に現れるのを待ち構えていた。また、この放送をジャワ(現インドネシア)のバンドン放送局を経由してドイツへ中継するため、現場と検見川送信所(千葉県)との連絡が開始された。・・・(略)・・・この放送は検見川送信所からバンドンを通じてドイツへ送信されたが、技術上の障害のため、ドイツでは聴取できなかった。』 (放送五十年史, 日本放送協会, 1977)

一体どうしたことでしょう?中継直後の日本放送協会の機関誌「調査月報」1929年(昭和4年)9月号には前述のとおり『愛宕山逓信官吏練習所から放送されて』とはっきり報告されたものが、なぜか48年後に出版された放送五十年史で『検見川送信所からバンドンを通じてドイツへ送信された』に置き代わっています。

そもそも検見川は「無線電信」(電報)の送信所なので、ラジオ番組の声を送信する「無線電話」の短波送信機を持っていません。いやそれどころか、昭和4年はまだ無線電信(電報)の時代なので、短波の無線電話を発射できる官設無線局がなかった時代ですから、検見川も、銚子も、原の町も、落石も・・・日本中、どこの現業局にも放送中継できる短波送信機はありませんでした。当時、短波の無線電話送信機を持っていたのが、大正14年開局の逓信官吏練習所無線実験室にあった工務局短波実験局J1PPと、電気試験所の平磯出張所JHBB(および本所のJHAB)、大正15年開局の東京放送局JOAKの短波実験局でした。

もしや官練のJ1PP電話送信機を検見川送信所に持込んで据付けたのかとも思いましたが、検見川 JYZ はツェッペリン伯号との交信で戦場状態でしたから、急にそんな据付け工事や調整を行ったとは考えられません。

工務局の小野孝技師が「ラヂオの日本」にツエ号と各無線局の様子を報告しました。ドイツへの中継失敗はオブラートに包みましたが、はっきり官練J1PPと東京放送局JOAKの両所から短波を発信したことが記されました。

『なおこのツェッペリン伯号の世界周航は、ひとり本邦人のみならず、ドイツ人米人等、我にも増し熱心に注目した事件であって、その消息は等しく一刻も速やかに知らん事と欲したもので、その報道のためには全力を尽くしたのである。例えば同船が米国のレークハースト出発の際のごときドイツの各放送局は、スケネクターディの短波放送局の助力を得て、無線中継放送をなしドイツ人を喜ばせたのであるが、我国もまた霞ヶ浦着陸の状況は一刻も早く、可及的広範囲に報道せんとの意図より、芝の逓信官吏練習所および東京中央放送局の短波実験装置により、多重放送を行ったのであった。』 (小野孝, ツェッペリン伯号の来訪と無線の活躍, ラヂオの日本, 1929.10, 日本ラヂオ協会, p11)

当時このJ1PPの短波電話送信機を水晶発振式にした改良機を設計していたのが小野氏で、昭和4年9月頃に設計を終えました。その改良機が完成し、テストのために検見川送信所に据付けられた(二代目J1AA)のが昭和5年春です。つまりツエ号が来た昭和4年夏にはまだ検見川に電話送信機はなく、検見川がバンドンへ無線電話中継するのは不可能です。

『今回のツエ伯号日本訪問の壮挙を特にドイツ本国よりの依頼により東京中央放送局並びに逓信官吏練習所の短波長放送機をもって霞ヶ浦よりの中継放送と、愛宕山よりのドイツ語ニュースをジャワのバンドン無線局の媒介よってオランダのクートウィグ国際短波無電局へ転送され更に有線によってドイツの大放送所ケーニビス・ウステルハウゼンよりドイツ全国へ放送せんとする一大計画であった。この日本よりの国際的放送を遂行出来たことの喜びを報じ得る事は吾々技術員として心より喜びに耐えないものがある。』 (『ラヂオの日本』, 1929.10, 日本ラヂオ協会, p63)

さらに官練無線実験室で短波無線電話送信機J1PP(波長20m, 入力1kW)を運用していた佐々木諦技手ご自身が、やはりここから短波中継を発信したことを語っておられますので間違いないでしょう。

『ドイツの飛行船ツェッペリン伯号が世界1周の途次、日本に立ち寄った際、着陸格納の模様を短波無線電話実験として、逓信官吏練習所実験室の1キロワット波長20mの仮組立送信機によって中継放送した。これは海外放送を予告する逓信省の打った捨石でもあった。』 (佐々木諦, "1971年に思う", 『電波時報』, 1971.5, 郵政省電波監理局, p62)

JOAKの短波実験局と官練にあった工務局の短波実験局J1PPの両局による国際(中継)放送の試みは、残念ながらドイツへの番組中継という目的が達成されなかったのは事実で、その意味においては失敗だと言わざるを得ません。しかし逓信省の企図により波長20mの短波で、インドネシアのジャワ島へ向けてイベント番組が送信されたのもまた事実です。当時はまだ指向性アンテナではないので東京から四方八方へこの電波が伝播したはずで、日本以外(外国)の地でこれを聞いた人がいたかもしれませんね。

ラジオ年鑑昭和6年版には、これをもって放送番組の(内地・外地を除いた)他国向け送信の嚆矢(はじまり)とするとあります。

(六)ツエ伯郷着陸実況放送

世界一周の途にあるドイツ飛行船LZ一二七号は昭和四年九月十九日午後四時霞ヶ浦飛行場に着陸した。これが実況報道に関しかねてドイツ放送当局より同国にて再放送のためわが国より短波長送信方、照電に接したので、逓信省と協議の結果全国中継による国内放送と同時に、愛宕山および逓信官吏練習所より短波長送信をなすこととした。ドイツ側は右放送を南洋ジャワ島バンドン局にて中継し更にオランダの国際短波長局クートウイツク局を経て、自国内放送所と連絡再放送を試みたがバンドン局が他局を中継したのはこの時が始めであったため、これが中継放送は不首尾に終わったが、わが国における対外送信は実にこれをもって嚆矢とする。』 (日本放送協会編, 『ラヂオ年鑑』昭和六年版, 1931, 誠文堂, p91)

また朝日年鑑(昭和6年版)にも、これとほぼ同文が記録されました。

愛宕山および逓信官吏練習所より短波長送信を行いたり、・・・(略)・・・良好なる結果を得られざりし由なれども、我国における対外送信はこれをもって嚆矢とする。』 (昭和六年朝日年鑑, 1930, p602)

30) 内地-台湾間の無線電話試験装置が未完成のまま納入

ちょっとツェッペリン伯号の話題が長くなってしまいましたが、話題を鋭意設計中の内地-台湾間の無線電話に戻します。この試験はあくまで実用化を前提に計画されたものなので、もはや逓信官吏練習所の無線実験室で送受信して済ませるレベルのものではありませんでした。東京逓信局所属の検見川送信所に水晶式送信機を、岩槻受信所には自動感度調整機能付きスーパーヘテロダイン式受信機を、そして検見川・岩槻のそれぞれに台北に指向性を合わせた周波数15MHzの短波ビームアンテナを設計・施工するという本格的な試験です。このような大規模なプロジェクトだったにも関わらず予算が少なく、設計は逓信省工務局が行いましたが、据付けや調整には検見川や岩槻の職員(東京逓信局)の力に負うところ大でした。

1929年(昭和4年)9月には送信機・受信機の設計が完了しましたが、肝心の製造を受けてくれる会社が現れませんでした。

『当時メーカーは短波電話の経験がほとんど無かったこと及び水晶発振子は電気試験所の製品だけが実用に適し、民間ではその入手に少なからぬ困難を覚えたこと、予算が少額であったこと等により進んで製作を引受けるものがなかったから、総合動作試験はしないことと、部分品と機体だけを揃えればよいこと等の条件づきで東京無線に依頼し出来上がったのである。送信機は昭和五年三月工場で完成し同年四月に据付けを終わった。』 (電波監理委員会編, "遠距離無線電話の試験時代", 『日本無線史』第1巻, 電波監理委員会, 1950, p337)

岩槻J1AAの元オペレータであり、また検見川や岩槻の短波ビームアンテナの設計者である河原氏が中上無線係長のこの発注の件を記されています。

『なにぶんにも予算額がほんのちょっとしかなくて、おまけに水晶制御式の送信機であったため、経験がないという理由でどこのメーカーも受注を辞退し相手になってくれない。そこで中上さんはかつての部下であった東京無線電機の玉木営業部長に談じ込んだところ「部品としてなら納品しましょう」ということになって引受けてくれた・・・(略)・・・』 (故中上豊吉氏記念事業委員会編, 『中上さんと無線』, 1962, 電気通信協会, pp144-145)

『部品としての送信機を購入する形式の仕様書を書いて発注し、電気試験所の検査員ともみあったことがしばしばある。・・・(略)・・・メーカーは納品したけれども動作機能まで保証したわけではなく仕様書に従って部品を製作しフレーム内に取り付け配線しただけであると申し立てるが、実際にスイッチ・インしても動作しないものを送信機として合格させるわけにはいかぬという。試験所で怒られたメーカーが無線係へ泣き付くのを聞いた中上係長は少しもあわてず、試験所の幹部とトップ会談で無事納品を入手し、自分達の手で機械がうまく動作するまで根気よく調整やら再組立てを繰り返して・・・(略)・・・』 (上記前掲書, p144)

このような事情で、無線電話送信機が未完成品(部品)のまま納品されたため、そのあとが大変なことになりました。逓信省工務局の小野技師は設計責任者として当然としても、(東京逓信局の職員である)検見川送信所の菊谷所長もとんでもない苦労の連続だったようです。そもそも検見川送信所も岩槻受信所も、無線の実験や研究の場所ではありません。日本と外地(いわゆる植民地)間の電報を扱う逓信省ビジネスの最前線であり、事故なく運用するのが自分たちに課せられた役割です。しかし検見川の菊谷所長も、岩槻の酒井所長も逓信省の中上係長に全面協力しました。菊谷所長は大学卒業し、「雇」(今でいう社員試用)として逓信省工務課無線係で一年間働いたあと、1926年(大正15年)春に東京逓信局への配属が決まり、検見川送信所の初代所長として赴任しました。すなわち中上係長の下で働いていたこともあってか、このプロジェクトには献身的に協力されています。

また検見川送信所といっても通信士は常駐せず、東京市にある中央電信局の通信士が電鍵を叩き、陸線を通じて検見川に据付けている送信機から電報を送信していましたので、検見川の職員は通信操作に携わるのではなく送信機の日常メンテナンスが主な業務です。そのためか非日常的なこの無線電話試験は菊谷氏にとって大変興味深く、また印象深い仕事だったようです。1934年1月5日から9月3日の欧米出張では、検見川無線J1AAの放送の受信報告を送ってくれた米国のリスナー達と交流し、その様子を "ラヂオの日本"(1935年1月から3月号)「欧米に於けるアマチュア無線訪問記」に記されました。

31) 検見川の台北試験の呼出符号は、なぜ J1PP ではなく、J1AA になったか?

1930年(昭和5年)3月、東京電気にて水晶式送信機が完成(実際には未完成品)し、同年4月に検見川送信所に据付けられました。台湾側の設備は台湾総督府逓信部において設計・製作し、板橋送信所と淡水受信所に装置を据付けることになっていたが、予算の都合で計画が遅れていました。とりあえず検見川の水晶式送信機は通信対手局もなく、調整のための一方的送信をはじめました。このコールサインにはJ1AAを使うことに決まりました。

そもそも大正14年春から短波の無線電話を研究してきたのは逓信官吏練習所無線実験室J1PPの小野技師と佐々木技手でした。彼らの研究成果として設計されたのが水晶式の無線電話送信機で初代J1PPから数えて第四号送信機にあたります。装置場所こそ官練実験室から検見川に移りましたが、歴史的経緯からも、設計思想からも、設計担当の面々からも間違いなく、J1PPの流れを継承しています。それにも関わらずなぜ検見川のこの装置は無線電話におけるパイオニア的コールサイン「J1PP」を称することが出来なかったのでしょうか?

1927年(昭和2年)に開かれたワシントン会議で定めた新しい無線規則(1929年1月1日より発効)では、これまで各国の電波主管庁が自由に決めていた実験局(含むアマチュア局)のコールサインを、「国際符字+数字+文字」形式に世界統一することを決めました。そこで逓信省は日本の実験局のコールサインをこの決定に合わる際に、末尾の2文字を免許人による区分とし、たとえば数字が1の東京逓信局管轄エリアでは呼出符号J1AA-J1AEを逓信省の実験局に、J1AF-J1AZを逓信の外局の実験局に、J1BA-J1BZを逓信省以外の官庁実験局に、そしてJ1CA以降を民間企業や個人の実験局だと決めたようです。

【参考】 一例をあげるとAF-AZは逓信の外局である電気試験所J1AF(大崎第4部,旧JHAB), J1AG(平磯出張所,旧JHBB), J1AH(磯濱分室,旧JHCB)や,同じく外局の東京逓信局逓信講習所に指定され、BA-BZは官立学校や逓信以外の省庁。ただし県立などの公立学校や東京市の電気試験所など国立ではないものは私設局の扱いなのでCA以降。

するとJ1PPという呼出符号はこの区分上では民間(私設実験局)に属することになり、官設の検見川で使うには不適切です。この実験用送信機が逓信省工務局のものならJ1AA-J1AEから選び、外局である東京逓信局検見川送信所のものならJ1AF-J1AZから選ぶことになります。検見川は逓信省の電報ビジネスの現業局ですから、逓信省工務局が実験用送信機を東京逓信局検見川送信所に置かしてもらって試験するという解釈になったと思われます。呼出符号は逓信省のJ1AA-J1AEから選びますが、岩槻のJ1AAが既に運用停止していたのでこれを再び使うことにしたのではないでしょうか。

32) 苦難の連続、検見川の未完成品"J1AA"の改造・調整

未完成品のまま納入された「J1PP第四号試作機」改め「検見川J1AA」をうまく動作させるまでに多大の苦難がありました。

『送信機の構成は第七・二五図に示す如きもので、水晶制御式であること、各段に東芝製の三極真空管を用いたこと、主発振器及び第一周波数逓倍器並に音声増幅器は鉄製函内に入れて電磁遮蔽を施したが、その他の各段は開放式で遮蔽を行わなかった等のため反結合作用を呈し又格子励振電力も不足がちで調整がむつかしかった。・・・(略)・・・第二中間増幅器から電力増幅器まで最初は二個の真空管を並列に接続使用したが、昼間波(15.760MHz)の調整がうまく行かぬので、これら各段をいずれもプッシュ・プル回路に変更して好結果を得た。変調器にはSN二〇四真空管三個を並列に使用し、その陽極回路に挿入した塞流線輪の端子電圧降下により第二中間増幅器を陽極変調することとした。従って第三増幅器と電力増幅器とはBクラスで動作させるべきであるが、実際上は第二増幅器に於ける変調が浅かったので第三および電力増幅器をCクラスで動作させ変調度を深めるように調整した。かくすれば歪を増加する訳で面白くないが、当時は歪を問題にするよりも如何にして沢山の搬送波出力を得てかつ変調度を深めるかについて苦心した。・・・(略)・・・本送信機の搬送波出力は五ないし二〇Mcに於いて四ないし二kWであった。但しSN二〇四Aの寿命が極めて短く、定格電圧で使用すると、またたく間にフィラメント・エミッションが減退するので第二増幅器からの調整には随分苦労した。・・・(略)・・・変調指示器も歪率計も入手できなかったので調整はもっぱら試聴によって判定したが、試聴器としては鉱石検波器と受話器を用い、レコードで音楽変調を行い、その出力をきいて音質の良否や雑音の有無を判定したが結果は余り信頼し得るものでなく、相手局からの報告をまって次の調整替えを行った。SN二〇四およびMT七Aは寿命が短かかったり寄生振動を発生しやすい等の欠点があったので・・・(略)・・・』 (電波監理委員会編, 『日本無線史』第一巻, 1950, 電波監理委員会, pp337-338)

淡水受信所(台湾)の短波受信施設が4月末ごろから稼働したので、その受信報告を頼りに、検見川J1AAの送信機を調整したようです。この改修は設計者の小野技師や河原技手をはじめとする逓信省工務局により行われたのはもちろんですが、試験場所を貸した大家さんである検見川送信所の菊谷所長以下、東京逓信局検見川無線の職員も献身的に協力されたそうです。

『納入機械の検査や試験は逓信省の仕事なので、小野孝技師と岸本俊治技手が出張して来て、宿直室に泊まり込みながら日夜試験をしたし、私たち所員も仕事の暇を見ては手伝った。・・・(略)・・・(検見川所員の)工藤技手や飯田技手も非番のときにも出勤して手伝いをしてくれたし、職工の田久保君はつきっきりで送信機の補修に当たった。お蔭でどうやら電波も出せるようになった。』 (菊谷秀雄, 『検見川無線の思い出』, 1990, pp30-31)

33) 1930年(昭和5年)6月22日 日本初の国際電話(日独)試験に成功!

検見川J1AAの無線電話は日本と台湾を結ぶ海底ケーブルによる電話回線を、無線により補完するための通話試験を目的としていました。しかし台湾側の送信施設の準備が遅れていたためすぐには相互通話試験を開始できませんでした。そんなある日、検見川J1AAに稲田工務局長より特命が下されました。これをきっかけに検見川J1AAは日台間無線電話試験だけではなく、国際放送という全く異なる用途に活用されていくのです。

ドイツ逓信省より、1930年(昭和5年)5月上旬の1週間、日本向けに無線送信試験をしたいので受けて欲しいと依頼がありました。ちょうど岩槻受信所では台湾からの無線電話を受けるための高性能受信機が完成したばかりで、これで聴いてみたところドイツのナウエン局(DHO)の無線電話が極めて明瞭に受信できました。この快挙で稲田局長らは、もしかして遠くドイツとも無線電話が出来るかもしれないと考えました。そしてベルリンで6月16日より開かれる第二回世界動力会議に出席するため出張した稲田局長は、さっそくドイツ逓信省およびテレフンケン社に日本との無線電話試験を申込み、その承諾を得ました。

『稲田工務局長より「独逸(ドイツ)においても短波無線電話通話試験の用意整いつつあり、連絡試験方手配せよ」との命に接し・・・(略)・・・』 (小野孝, "放送技術後日談", 『電気通信』第6巻第9号, 電気通信協会, p96)

稲田局長より国際電報を受取った工務局無線係の中上係長らは色めき立ちました。逓信官吏練習所無線実験室よりJ1PPのコールサインで短波の無線電話の試験をはじめたのが1925年(大正14年)春です。それから苦難と試行錯誤の5年間を経て、ついに腕試しをする時がやってきたのです。それも台湾ではなく、いきなりヨーロッパのドイツとの初通話ですから、関係者の士気はいやが上にも高揚したでしょう。急遽、欧州向けのビームアンテナの建設と、検見川送信所と東京無線電信局間の有線電話線の工事、並びに岩槻受信所と東京無線電信局間にあった連絡用電話線へ短波受信機の出力を接続する改修工事に着手しました。

通話試験は双方の時差を考慮し、東京時18:00-20:00(ベルリン時10:00-12:00)に決まりました。1930年(昭和5年)6月20日18時、東京とベルリンで呼び掛けが始まりましたが、双方ともに相手の声は聞こえませんでした。翌21日にも再度挑戦しましたが、やはり双方とも声が届かぬまま試験終了時刻の20時で打ち切られました。関係者の間に「失敗」の文字が浮かび始めたであろう3日目の6月22日18時、ついにナウエンDHOが岩槻に入感してきました。中上係長の報告記事を引用します。

『同日午後六時、当方における受信が良好となり、当方からの送信も午後七時より先方に達し、特に午後七時二十分頃からは相互通話可能となり、同八時四十分までこの良好な状態が続いた。これ実に我国と欧州間の無線電話通話に成功した嚆矢で、我無線界の画期的記録である。』 (中上豊吉, "日独間無線電話通話試験の概要", 『ラヂオの日本』, 1930.8, 日本ラヂオ協会, p4)

ウインター・フィールド・ストラッセ電話局でこの感激の瞬間に立ち会ったのは上の中上氏の記事によると、世界動力会議出席のためベルリンを訪れていた斯波(しば)忠三郎男爵、倉橋藤治郎工政会理事、小林繁雄東大教授、および駐独日本大使館の長井亞山商務書記官ならびに大阪朝日新聞社の特派員の5名で、東京無線電信局にいる小野技師と代わる代わる通話しました。

『その通話内容は一々述べ尽くせぬが、斯波男爵は喜びに耐えぬ模様で即座に小泉逓信大臣への祝辞として「日本とドイツとの間に始めて長距離電話通話の出来たことを心から御祝いします。そうして大臣の御健康をお祈りします」と述べられましたのを一言半句も洩れなく聞きとり得た・・・(略)・・・かく迄うまく行くとは思っていなかった程である。』 (中上豊吉, 前掲書, p4)

はて?この通話試験を推進した稲田工務局長の名がありませんね。病気でも、サボっていたのではありません。この試験を名実ともに国際電話となすために、ウインター・フィールド・ストラッセ電話局から一般の加入者電話回線に接続させ、宿泊ホテルの電話器で東京と通話しようとしていたのです。加入者電話回線への接続を終えて、20時25分にようやくホテル・アドロンの稲田局長と東京無線電信局の小野技師の国際電話が通じました。

『稲田局長は自分のホテルから「アー、モシモシ、誰だ君は、小野君か、アー良く判る、電力はいか程か・・・」などなど言われたが、同三十分頃から先方の有線無線接続装置の働きが不良となったらしく、電話局の倉橋氏が同局長(ホテルにいる稲田氏)と通知している声「僕は倉橋。何だったらここの電話局へ来るか?アー、(東京の声は)非常に良く判る・・・」が漏れ聞こえるのみとなり、八時四十分には「弱くなりました」と先方から通知するとともに彼我共に微感となり、同四十分試験を打切った。』 (中上豊吉, 前掲書, pp4-5)

【参考】 なお日本無線史には小野技師は東京無線電信局ではなく、埼玉の岩槻受信所から(東京無線局経由で)検見川へ送話したと記されています。『稲田工務局長はホテル・アドロンから二線式による通話を試みて日独電話実用化の第一歩を印した。当方は四線式回路により本試験のため岩槻に出張の小野孝技師が主として稲田局長の相手になり通話試験を行った。』 (日本無線史 第一巻, 電波監理委員会編, 1950, p343)

国際電話の試験に同席した大阪朝日新聞社の黒田特派員はただちに日本へ原稿を打電し、6月22日の記事になりました。

『稲田氏のホテルの卓上電話につなぎ稲田氏は動力会議の模様と「本日ベルリンは快晴でツ伯号がベルリン上空を飛行せる」ことなどを伝えたに、向うから「よく判りました」と返事があった。予(黒田氏自身)もまた自分の名前をいって、「今日の結果を東西両朝日にお伝えを乞う」と述べたが「確かに伝えておきます」とハッキリした返事を受取った。要するにベルリン、東京で最初の無線電話が通じたこと、しかも日本語で通話し合ったことは一九三〇年六月二十二日をもって記念すべき日とすべく、・・・(略)・・・』 さらに同紙には日本での取材記事が続く。『今度の通話は二十二日午後五時五十分からはじまったが、同七時半ごろハッキリ聞こえはじめ、同八時半にドイツに行っている稲田工務局長の話も途中で聞こえなくなり、向うでは八時四十五分に打切ったが、こちらからは九時十五分まで話をした。向うから最初聞こえた言葉は「だれですか。こちらは斯波男でござる。倉橋でござる・・・・・」と代る代る嬉しそうに述べ「皆が元気でやっている」とか、「自宅へ丈夫でいるから伝えてくれ」とか、「逓信大臣の健康を祝す」とか、「明日はツェッペリンに乗って旅行する」などといっていたが相互通信が成功したのははじめてのことである。』 ("日独間の無線通話 初めて見事に成功 本社特派員が日本語で話し合う", 『大阪朝日新聞』, 1930.6.24)

加入者電話回線を通した稲田局長と小野技師の通話は、有線と無線を接続する装置の不良で5分間ほどで終わってしまいましたが、ここに本邦初の国際電話の試験が成功したのです。官練無線実験室J1PPの血を引き継いだ、検見川J1AAの短波長無線電話のデビューとなりました。

ちなみに営業ベースの国際電話は盗聴防止の秘話装置を開発し、1934年(昭和9年)8月20日に開通した満州国との新京回線が最初ですが、当時の逓信省はこれを「日満電話」としました。戦前の逓信省の分類でいう「国際電話」だと同年9月27日開通のマニラ回線です。単純に一番早かったのは検見川J1AAで基礎実験を行った台北回線で、同年6月20に開通し「外地電話」と呼ばれました。JZ Callsignsのページの秘話装置を参照ください。

34) 1930年(昭和5年)9月 英国との無線電話試験は不成功に終わる

ドイツとの無線電話試験が成功したあと、英国に渡った稲田局長は無線電話の試験を申し込みました。

『この成功に勢いを得た稲田局長は同年八月英国郵政庁を訪問して日英間無線電話試験の開始を提起し先方の承諾を得たので、九月から検見川が一五メガサイクルで英国向け送話試験の開始を始めた。』 (河原猛夫, 『中上さんと無線』, 故中上豊吉氏記念事業委員会編, 1962, 電気通信協会, p95)

しかしブレンウッド受信所にはJ1AAの電波はうまく届かず、この試験は成功しなかったようです。これについて検見川送信所所長だった菊谷氏は"英国側があまり乗り気ではなかったのでは?"と、自著『検見川無線の思い出』に記されています。

35) 1930年(昭和5年)10月 中上氏へ英米日同時放送の打診がくる

1922年のワシントン海軍軍縮条約は巡洋艦以下の艦船数には制限がありませんでした。そこで1930年(昭和5年)1月22日から4月21日に英米日仏伊でロンドン海軍軍縮会議が開かれ、巡洋艦・駆逐艦・潜水艦などの補助艦の保有量の制限数を話合いました。フランスとイタリアは潜水艦の制限数に反発し離脱しましたが、軍縮条約成立を目前にした夏、英米日の首相・大統領の祝賀メッセージを互に同時中継放送できないかとの非公式な打診が逓信省工務課の中上係長にもたらされました。

中上氏はこの国際中継放送について、無線月刊誌『ラヂオの日本』(1930年12月号)と逓信省職員向けの機関誌『逓信協会雑誌』(1931年1月号)の両方に、"軍縮条約成立祝賀放送を終えるまで"というの同じタイトルの記事を執筆されています。その『ラヂオの日本』から引用します。

『この八月十五日の晩 聯合通信社の内海氏が自宅へ来られ、今回の倫敦(ロンドン)海軍条約成立を記念するため日英米三国の首都に於て政府当局者の祝賀演説を放送し、あまねく三国民間に聴取させたい旨 米国が提唱し、我国にも同意を求めて来たということであるが、日本としてかかる国際中継放送は技術上可能であるかとの質問をされた。

私はその計画なるものが実際に提唱されたかどうかは知らないけれど、技術上の立場から見ればその実行は可能であり かつその実行手段としては適当の時間と適当の周波数とを選定することが肝要であると答えた。・・・(略)・・・日本では東京無線局の検見川送信所及岩槻受信所に設備してある短波無線電話機を使って中継する事も出来るであろうが、最も確実な方法は、中波と短波を併用することである。中波による無線中継だけでは日によって強烈な空電妨害に悩まされる恐れがあるし、また短波の無線中継に於ては極めて稀ではあるが、磁気嵐オーロラの出現等の自然現象によって全々通信できぬことがあるから、今度の様な重要意義を持つ国際放送の中継には中短波を併用するのが最も安全なやりかたである。』 (中上豊吉, "軍縮条約成立祝賀放送を終えるまで", 『ラヂオの日本』, 1930年12月号, 日本ラヂオ協会, pp2-3)

36) 対外地無線担当の検見川・岩槻が、(試験と位置付け)対外国通信に足を踏み入れる

そもそも東京無線電信局の検見川送信所と岩槻受信所は外地(当時の言葉で日本の植民地)との無線電報を扱うために建設されたもので、外国との通信は半官半民の無線施設に委ねることになっていました。ですから台湾(外地)と東京(内地)間の無線電話実用化試験が岩槻と検見川担当となったのは当然の流れです。

ところが台湾側の送信機の準備が遅れていたため、検見川からJ1AAの一方的送信試験を行っていました。そこへ稲田工務局長の発案でドイツと国際電話を試したところ大成功でした。さらに今回、米国より中継放送の打診があったわけで、国際電話を目的とする送信機(J1AA)ですが、国際放送もまた同じく音声を送信するので、当然これを使えば良いと中上係長は考えたようです。

その後、外務省経由で逓信省へ正式の申し込みがあり、逓信省では日本放送協会とも相談し慎重に協議の末、これを受けることにしました。折り返し外務省経由で米国政府に送られた逓信省の実施案は以下のものでした。

1)日米英同時放送は21-24時(ワシントン時で07-10時、ロンドン時で12-15時)としたい

2)日本からは中波・短波の併用送信し、これを西海岸で受けて全米に放送すると共に、東海岸から英国へ再送信する。

3)英国からは上記2)の逆ルートをたどり、西海岸から中波・短波で日本へ再送信し、これを岩槻がうけて日本放送協会が国内に流す。

『これに対して仲々正式の回答がこなかったけれど、大体この通り取運ぶことになった。』 (中上豊吉, "軍縮条約成立祝賀放送を終えるまで", 『ラヂオの日本』, 1930年12月号, 日本ラヂオ協会, p3)

こうして検見川・岩槻は本来の対外地無線の範囲を飛び越えて外国無線に足を踏み入れることになりました。

37) 日米間無線中継の予備試験1(日本→米西海岸)

ドイツで国際電話の試験を行った稲田局長が、その帰路アメリカを視察中でした。中上係長は9月16日に西海岸サンフランシスコに到着した稲田局長に、東京放送局JOAKや仙台放送局JOHK等の受信状態の調査を依頼したところ、サンフランシスコのマーシャル受信所(RCA社)においては夜間の仙台放送局JOHKが最も強勢で明瞭度90%位の好成績でした。稲田局長は2日間の滞在だったため、RCAのサンフランシスコ支店長ビール氏に試験継続を依頼し帰国されました。

『更に九月十九日一般放送の終了後 特に午後十時ないし夜半の間 英語およびレコードをもって、マーシャル向け中波の放送試験を行った結果、一番強感であるJOHK(仙台)とその次によく聞こえるCK(名古屋)またはBK(大阪)の何れかとを結合受話すれば、フェージングを減少し得るから夜間の中継放送は大体良好の見込なる旨(RCA社よりの)報告に接した。』 (中上豊吉, "軍縮条約成立祝賀放送を終えるまで", 『ラヂオの日本』, 1930年12月号, 日本ラヂオ協会, p4)

38) 日米間無線中継の予備試験2(米西海岸→日本)

逓信省は西海岸の中波ラジオ局から日本向けに大電力で送信してもらい、これを受信する試験を望んでいたが叶わなわず、日本放送協会において一方的に受信試験を実施しました。

『中波の対米受話試験は、至急施行したかったが、米国政府がこの手配を中々してくれなかったので、放送協会では止むを得ず札幌放送局の広島受信所および仙台放送局の蒲生受信所で、米国加州(カリフォルニア州)ハリウッドの放送局KNX一〇五〇Kcを、毎日午後四時ないし五時の間傍受したが、相当明瞭に聴取し得た。KNX局は平常、日本時の午後五時以降は放送を行わないので、その後の時間において試験は出来なかったが、午後九時前後には一層明瞭に受話し得られることは明らかであり、従って実際の放送がその時分に行われるときは、日本からの放送と同様、KNXを短波KELの補助として使用し得る見当がついた。このほか、広島受信所では、オークランドの放送局KGO、九四〇Kcをも傍受したが、その感度は常にKNXよりも不良であった。』 (中上豊吉, "軍縮条約成立祝賀放送を終えるまで", 『逓信協会雑誌』, 1931年1月号, 逓信協会, p41)

結局米国からの試験はRCAのボリナス(KEZ, 10.400MHz/ KEL, 6.860MHz)にて行われました。日本側は岩槻受信所です。

『米国よりの送話については米国桑港(サンフランシスコ)付近の強力放送局から放送して、これを受信する試験を行いたかったが、これを依頼するに適当な方法がなかったので、短波の放送試験を行った。桑港付近には加州(カリフォルニア州)オークランドのKGO放送局内に短波送信機W6XNがあるけれど、その周波数は夜間日米間を連絡するには不適当でかつ電力も小で試験についての打合せ方法もなかったので、これもRCA社のボリナス送信所の短波電話実験装置で行うことにした。』 (中上豊吉, "軍縮条約成立祝賀放送を終えるまで", 『ラヂオの日本』, 1930年12月号, 日本ラヂオ協会, p4)

9月23日21:00-02:00(日本時)、ボリナスKEZ(10.400MHz)を岩槻で受信したが、周波数が高すぎ夜間の受信には不向きだった。そこで10月1日20:00(日本時)より夜半にかけ、ボリナスKEL(6.860MHz)の受信試験を行ったところ相当良好で、米国向けビームアンテナを用意すれば完全受信できる見通しがつきました。

39) 日米間の双方向通信試験を実施

1930年10月9日21:00-23:00、東京サンフランシスコ間で第一回双方向試験が実施されました。日本からは東京放送局JOAK、仙台放送局JOHK、名古屋放送局JOCK、大阪放送局JOBKより常用の中波周波数で送話し、これをRCAのマーシャル受信所で受けて、受信音をそのままRCAのボリナスKELの短波で送り返すとともに岩槻でも受けました。23:00からはその逆ルートでボリナスKELが短波で送話し、岩槻が受けて、その受信音をJOAK, JOHK, JOCK, JOBKが通常の中波でマーシャルへ送りました。

『この試験の結果はかなり良好で、日本からの放送には日米間が夜である限り、中波を短波の補助として使用し得ることが確認せられた。』 (中上豊吉, "軍縮条約成立祝賀放送を終えるまで", 『ラヂオの日本』, 1930年12月号, 日本ラヂオ協会, p4)

日本からの短波送信の予備試験が10月9, 10日の21:00から検見川J1AAの短波で行われました。これは検見川送信所に出張してきては調整や実験していた逓信局工務局員が簡単な垂直アンテナと2kWで発射し、それをニューヨーク州のスケネクタディーで傍受できるかを試したもので、結果は失敗でした。そこで10月11日は西海岸サンフランシスコのマーシャル受信所に依頼し、J1AAの電力も4kWに上げて送信したところ約90%の明瞭度で受信できました。米国政府の方針ではニューヨークを送受信拠点にすれば、ここからロンドンへも、東京へも結べるだろうと考えたものと想像します。また10月10, 11日に、スケネクタディーの短波局W2XOが12.885MHzで日本へ送信試験しましたが岩槻ではキャッチできませんでした。この結果から、当初の計画通り日米間通信は西海岸側で行うことになり、RCA社は完全を期するために検見川J1AAの専用受信所をポイント・レイ(マーシャルから約20kmサンフランシスコ寄り)に準備してくれました。

逓信省工務局の中上係長が正式に菊谷検見川所長に相談したのは、10月11日の朝だったと菊谷氏は語っています。

『十月十一日の朝、私に工務局に出頭するように命令があった。私は何事が起きたかと飛んで行ってみると、無線係長の中上豊吉技師が、「アメリカに無線電話を送るのだが、一週間以内に柱を建て指向性空中線を張れるかね。もちろん材料が揃ってからのことだが・・・・。その後で調整してから通話試験に三・四日は欲しいところだが・・・。」 私には藪から棒のような話で、ちょっと中上係長の真意が良くわからなくてキョトンとしていると、小野技師をはじめ係のお偉がたが集まってきたので、私が、「指向性空中線をいつものように張ると、四十メートル以上の柱が六本いりますね。下は人形に組んで、その上に三本の継ぎ柱をのせる。それに支線とアンテナとアンテナの指示線。材料も沢山要りますが、私のところの五人の工夫だけじゃ無理ですが、どうしてそんなに急ぐのですか。」と聞くと、「いやあそれはすまん、すまん・・・。実は、君も薄うす聞いてるじゃろうが、今月の二十七日に英国の米国と日本で、海軍軍備縮小の調印ができたのを記念に、三国の首脳が世界に向けてラジオ放送をやるから、・・・(略)・・・」 』 (菊谷秀雄, 『検見川無線の思い出』, 1990, pp39-41)

こうして菊谷所長の協力により、工務局河原技師の設計による米国向けビームアンテナの突貫工事が始まり、皆の賢明なる努力により見事に間に合わせました。

放送時刻が決定したのは放送当日の2, 3日前で、10月27日23:50から10分間を東京の濱口首相の演説(米国向けに検見川送信)、00:02から4分間をワシントンのフーバー大統領の演説(日本向けにボリナス送信、英国向けにネトコン送信)、00:08からロンドンのマクドナルド首相の演説(米国向けにボウルドック送信)だった。

しかしこの時刻はサンフランシスコの日の出後なので中波の中継が困難だと予想された。25日23:00から翌00:47まで札幌放送局広島受信所でハリウッドKNX, オークランドKGOの受信を試みたが駄目でした。そのためこの中継放送の成否は検見川送信所・岩槻受信所の短波がすべて負うことになりました。

40) 1930年(昭和5年)10月27日 日本初の国際(中継)放送に成功

日本の国際中継放送の最初の試みは1929年(昭和4年)9月19日に、ツェッペリン伯号が霞ヶ浦に着陸する様子をインドネシアのバンドン局を中継点としてドイツ国民に放送しようとしたもので、放送協会愛宕山の短波送信機と逓信官吏練習所無線実験室J1PPの短波送信機で送信されたがバンドンには届かず、不成功に終わりました。その時のJ1PPの改良機である新型J1AAが東京無線電信局検見川送信所に据付けられ、汚名挽回の機会がやってきたのです。J1AAの周波数は7,880kHzで、電力は4kWでした。世紀の放送当夜の東京放送局愛宕山スタジオには濱口首相と外務省高官をはじめ、稲田工務局長、畠山電務局長、放送協会役員、そのた電波関係者に、新聞記者がつめかけ緊張が走っていました。

『一方晴れの重責を負わされた検見川、岩槻の送受信所では、所員一同総出勤で万端の準備を備え、午後十時には既に送受話機の運転を開始した。かくて午後十時半には桑港(サンフランシスコ)局側の送受話装置も調整全部を完了した由で、双方共受話状態は申分なき好成績を示した。東京桑港局間には当夜の放送の手続き等について最後の打合せが行われ、その合い間には音楽の交換放送を続けて時の至るのを待った。

やがて定刻の午後十一時五十分に至れば、岩槻の受話装置へ紐育(ニューヨーク)演奏室における名アナウンサー、フィリップ・カロイン君の祝賀放送開始の辞および濱口首相紹介のアナウンスが、(サンフランシスコの短波)KELを経ていても明瞭に感ぜられ、その声は(岩槻受信所からの陸線を経由し)直ちに愛宕山の国内中継放送網を通って本邦内各放送局から一斉に再放送せられた。』 (中上豊吉, "軍縮条約成立祝賀放送を終えるまで", 『ラヂオの日本』, 1930年12月号, 日本ラヂオ協会, p6)

日米英の三か国による国際交換放送は、米国からまず祝賀放送開始の辞があり、濱口首相の紹介が行われ、マイクを日本へバトンタッチされました。ここまでは岩槻受信所で受けたあとさていよいよ今度は検見川送信所J1AAの出番です。

『紐育市におけるアナウンスが終って暫時の後、いよいよ濱口首相の荘重な演説は愛宕山演奏所のマイクロフォンを経て流れ出で、本邦内の各放送局から一斉に放送せられると同時に、その演説は検見川の短波送話機J1AAを経て遠く太平洋を横断し、桑港(サンフランシスコ)局のポイント・レイ受信所に送られ、その所から陸線で紐育(ニューヨーク)演奏室に伝送されて米国内の全放送局から同時に再放送せられる一方、更に」その声は再び紐育から短波無線によって倫敦(ロンドン)に送られ、そこから伯林(ベルリン)迄は陸線中継により、英独両国内の放送局からも同様再放送せられたのである。』 (中上豊吉, 前掲書, p6)

なお「検見川→サンフランシスコ→ニューヨーク」へ送られた濱口首相の声は、放送の裏では「ニューヨーク→サンフランシスコ→岩槻」で送り返されていました。

『東京-紐育(ニューヨーク)間を一瞬にして往復して来た声とは思えぬ至極明瞭に、一言一句をも残さず完全に聞き取ることが出来たから、日本から米国への放送は完全である確証となり、われわれは大いに安心しかつ喜び勇んだのであった。』 (中上豊吉, 前掲書, pp6-7)

ロンドンからのマクドナルド首相の演説中継は大西洋と太平洋の2回短波中継を経たためか、一時フェージングと雑音が増え聞き取りに骨が折れる局面もあったようですが、この国際(中継)放送は大成功に終わりました。こうして検見川のJ1AAが成り行き上で国際(中継)放送に携わったわけですが、J1AAの本来のミッションは台湾との外地無線電話の実験だったことを忘れてはならないでしょう。

41) 1935年(昭和10年) 検見川が行った長波ラジオ放送試験

1935年(昭和10年)、ラジオ局の増設に伴う周波数不足対策として、長波帯による広域エリア放送で局数増を抑えることが企図され、その試験電波が検見川から送信(無線電話A3, 周波数225kc, 1.6kw)さました。これは逓信省と日本放送協会との共同試験で、夏季(7月末-8月中旬)および冬季(同年12月中旬-下旬)の2回実施されましたが、中波1000kHzと比較して、同一輻射電力の長波200kHzだと、伝播距離が二倍になることが確かめられました。

【参考】1927年ワシントン会議で承認された長波放送バンド(欧州:160-224kHz, 他地域:160-194kHz)はバンド幅の違いはあれど全地球的分配でした。それがマドリッド会議(1932年)において南北アメリカ、アフリカ、アジア、オセアニアが揃って長波ラジオを放棄しました(日本もこの削減案に賛成しました)。しかし欧州地域では長波放送バンドが160-240kHz(二次業務ならば240-265kHzも)に拡幅されるという歴史をたどりました。そういう経緯があったものの、もし今回のこの試験で長波放送のメリットが見込めたならば、次回予定されているカイロの周波数会議(1938年)で長波放送バンドの復活を日本案とすることも視野に入れたものでしたが、結局軍部などの反対もあり「幻の長波放送」となりました。

『この試験の使用周波数、約220kcに対しては伝播状態良く、地表波の減衰は現行の放送波長に比し著しく小であり、フェーディング地域もかなり後退することが確かめられた。かくのごとき長波長電波によるサービスエリアの拡張は将来、間接または直接なんらかの形において放送技術上の示唆となることであろう。』 ("放送技術の新生面", 『ラヂオ年鑑』昭和10年版, 1936, 日本放送協会出版, p102 )

『この試験の結果150kc附近の周波数を放送に使用すれば、北は新潟、西は浜松附近にいたる一円に対して相当の感度を与え、この波長を使用すれば数個の大電力長波放送局を適当に配置すれば全国をカバーし得るという結論に達したのであるが、軍用通信との混信問題により、この問題は表面化せず、また一方全国聴取者の現に所有する受信機を長波も受かるように改造する問題もからんで、長波放送は実施には至らなかった。』 ("長波放送試験", 『日本無線史』第一巻, 1950, 電波監理委員会, pp74-75)

42) 1935年(昭和10年) VHF帯での長崎無線電信局とEs通信成功

東京朝日新聞の記事を引用する。

『長崎無線電信局では廿一日東京中央電信局検見川送信所から試験的に送信している短波長を完全にキャッチし従来の無電理論を覆した。すなわち先般来検見川送信所から毎週火曜日に試験的に送信に7メートルと十メートルの両短波長を発信していたが超短波は山岳等の障害物があれば交信不能との電波直線的理論を裏切り東京長崎間一千キロを隔てて超短波による交信が行われ日本における最高レコードを作った。』 ("超短波通信成功", 『東京朝日新聞』, 1935.5.22, 朝刊p11)

1935年(昭和10年)5月21日、30MHz(波長10m)と43MHz(波長7m)の千葉―長崎間の伝播が確認されました。スポラディックE層(Es層)によるものと想像します。

43) 1937年(昭和12年) 単側波帯SSB通信方式の実験

1937年(昭和12年)に東京逓信局所属する検見川送信所および熊本逓信局所属の鹿児島郵便局(旧鹿児島無線電信局)の協力を得て、逓信省工務局が日本で最初のSSB(単側波帯)方式による通信実験を行いました。その前にSSB方式の歴史を振返っておきます。

1927年(昭和2年)1月7日にアメリカ電話電信会社(AT&T)と英国郵政庁が、長波帯による英米間無線電話(58.5kHz, 100kw, SSB)の公衆通話サービスを開始しましたが、これにはベル研究所のジョン・レンショウ・カーソン(John Renshaw Carson)氏が1915年(大正4年)に論文発表した、単側波帯SSB(Single Side Band)方式が採用されました。米海軍の海軍無線局(呼出符号NAA, バージニア州アーリントン)でのSSB方式の試用や、AT&Tが1923年1月にSSB方式(57kHz)でニューヨークからロンドンへ向けて大西洋横断送信試験を行ったことはありましたが、商用無線に用いられたのはこれが世界で最初でした。

『この通話はシングル・サイド・バンド式と称せられ、従来のごとき広き範囲の波長帯を有せざる特殊の方法を使用し、無線電話界に一新紀元をなした。』 (『逓信事業史』第四巻, 1944, 逓信省, p713)

1930年(昭和5年)、カナダの鉄道(トロント―モントリオール間555km)で誘導無線(長波SSB, 50w)による公衆電話業務を開始したものの、経済的な理由で翌年には中止されました。短波帯でのSSB通信はアムステルダム-バンドン(1929年開業)回線に、1933年(昭和8年)になって採用されたものが最初の商用通信でした。長波のSSB採用から6年もの時間を要したのは周波数安定度を確保できなかったためです。

一方アマチュア無線界では1933年にW6DEI(Robert Moore)が実験したといわれていますが、戦前はごく少数の先進的ハムによる限定的な実験にとどまりました。

日本では1934年(昭和9年)6月開業の東京―台湾回線が初の商用電話通信でAM波(音声周波数反転方式の秘話装置付き)でした。そして1937年(昭和12年)8月中旬から10月中旬まで、単側波帯SSB方式の多重試験が工務局により行われました。18kHzと23kHzでそれぞれ平衡変調し、フィルターで18kHzのUSB波と23kHzのLSB波を得ます。これに電信用の24kHz搬送波を加えたものを、一旦370kHz帯へ持ち上げて、さらに7MHz帯へ変換しました。公称送信周波数は7880kHz(電話2通話路[USB波:7876kHz, LSB波:7884kHz]+電信1通信路[7885kHz])、出力は最大で4kW、高さ30mの水平半波長ダブレットが使われ、この電波を鹿児島郵便局(谷山受信所)で受けました。検見川が使った呼出符号は不明です。通信試験はおおむね良好で貴重な技術データが得られましたが、実用化には至りませんでした。

日本でのSSB方式の実用化は第二次世界大戦後でした。1946年(昭和21年)7月にSSB第一号機(終段SN-207 x 2本)が、同年11月にSSB第二号機(終段SN-209)が国際電気通信(株)八俣送信所に設置され運用が始まりました。1927年にニューヨーク・ロンドン間でSSB通信が始まって以来、およそ20年遅れて我国にもようやく導入できました。

短波帯のアマチュア無線でSSBがAMを完全に駆逐した時期ですが、1960年代後半に急速にSSB化して、大阪万国博の1970年(昭和45年)にはSSBで混雑する7メガバンドで日曜の休日に(朝から夕方までワッチして)4~5組みのAM交信が入感する程度になり、1972年の正月以降ぱったりAM局が聞こえなくなったように私は記憶しています。

44) 東京無線電信局 小山送信所(日本無線電信株式会社)のJ2AA

1937年(昭和12年)から1938年(昭和13年)に運用された小山送信所のJ2AAについて触れておきます。昭和13年度の電気学会第13回連合大会にて、逓信省工務局の長谷愼一氏と日本無線電信の齋藤正雄氏が小山送信所のJ2AAによる「東京紐育間短波通信試験に就て」を発表され、これは同社の社史にも記録されました。

『15) 対ニューヨーク直接送信試験

東京ニューヨーク間直接通信は、電波が極地帯を通過するために、磁気撹乱の影響を著しくこうむり非常に不安定かつ困難である。そこでこの通信試験も長期にわたりしばしば行ったが、主なものは次の通りである。

昭和12年7月から翌1月まで7ヶ月間、小山送信所から J2AA (5,005、7,725、9,785、13,215、15,945、18,575 kc)をニューヨーク向ビーム空中線によって送信、Riverhead(RCA)、Sauthampton(MKY) で受信した。その結果軽微な磁気嵐の際にも著しい変動があり、減衰のため平穏日でも受信感度が充分高くない。また裏周りエコーと共にポーラーエコーや激しいフェ-ディグを伴って通信確保には問題の多いことが報告された。』 (国際電気通信株式会社社史編纂委員会, "1.5.2電波伝播の研究と調査", 『国際電気通信株式会社社史』, 1949, p371)

この試験をもって1925年(大正14年)春に始まった、いわゆるJ1AAの系譜による短波試験は幕を閉じたと考えられます。なおJ2AAの試験に携われた長谷愼一氏は、1950年(昭和25年)6月に発足した電波監理委員会RRCの実務部隊である電波管理総局RRAの初代局長になられました。

マドリッド会議で呼出符号の数字に0と1を使わない事になり、わが国では1934年(昭和9年)2月にJ1局はJ2に呼出符号が変わりました。1935年(昭和10年)10月24日から11月4日まで官練無線実験室が呼出符号J2ABを使って、東京-大阪間の飛行機との交信試験を行いました。ということは既にその頃(昭和10年)から、どこかでJ2AAが使われていた可能性が非常に高いのですが、私にはその記録を発掘できていません。検見川のJ1AAの実験は終了していますが、呼出符号をJ2に変えたJ2AAが検見川にキープされ続けたかもしれません。

45) 検見川・岩槻が航空無線業務の取扱を終了

1939年(昭和14年)6月1日、羽田無線電信局が開局したため、検見川無線の航空無線業務は終了しました。

1929年(昭和4年)4月より始まった検見川無線の航空無線業務は、航空空輸の発展とともに通信量も増加しきました。当初は中波電波でしたが、航空機局は短いアンテナが望ましく、1935年(昭和10年)頃になると短波を使っていました。

『十二年六月一日から東京・新京間定期航空が実施されたが、これに伴って同航空路に就航する航空機「はこざき号」(JBAOY)、「かすが号」(JBAOZ)、「かとり号」(JBAOD)及び「あさま号」(JBBOJ)と当局との間に、定時に直接無線連絡を実施、気象報の通報を行うこととなった。これが対航空機との定時通信の始まりであった。

十四年六月一日、対航空機通信の迅速化を図るため羽田無線電信局が開設せられ、従来当局で取扱っていた航空無線業務は即日同局に移管された。従ってこの日をもって航空無線電信局としての当局の使命は終わった。

この間の輝かしい業績として、昭和四年八月、航空史上未曾有の世界一周飛行の途次日本にも飛来した独逸飛行船「グラーフ、ツェッペリン」号との史的交信、昭和十二年四月亜欧連絡飛行の「神風号」との連絡、また昭和十三年十一月三十日来着した訪日ドイツ機「コンドル号」との連絡における当局の目覚しい活躍は航空通信史上に見のがし得ない事項である。』 (『東京中央電報局沿革史』, 1958, 電気通信協会, pp488-489)