宇田式超短波無線

1932年(昭和7年)11月末、東北帝国大学の宇田新太郎氏は各地で実用化試験を繰返して、簡易で実用的なVHF無線機「宇田式超短波無線電話装置」を完成させました。

そして日本の超短波の普及には、実際に超短波無線装置を設計・製造・据付けできる無線会社が必要不可欠であるとの考えから、仙台の日電商会にその役割を託し、支援しました。これまでは超短波装置の設計・開発者が「その装置のユーザー」でもありました。しかしメーカーである日電商会の登場によりに、「純粋なユーザー」という立場で超短波を扱う道が開けました。この点は日本のVHF開拓史で特筆すべき出来事でしょう。

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32) 宇田式 超短波無線電話装置 の原型完成 (1932年11月26-27日)

1932年(昭和7年)11月26-27日、東北帝国大学の宇田氏らは宮城県渡波水産試験所とVHFの海上試験を行いました。電信電話学会雑誌より引用します。

去る十一月二十六日、二十七日の両日にわたり宮城県渡波水産試験所の御依頼により水産試験所と県の水産指導船宮城丸との間に超短波無線電話の同時送受話試験を行った。

波長は8米(37.5MHz)から9米以上(33.3MHz以下)を使用した。第三図(上図[左])第四図(上図[右])はそれぞれ使用した送信機および受信機である

送受信機共コイルはすべてプラッグ・イン式になっているから、波長はコイルを取り換えることによって約3.5米(85.7MHz)から10米(30MHz)まで自由に変え得る。・・・(略)・・・渡波では送受信機を水産試験所構内にある渡波水産学校の二階に設置した。空中線は垂直ダブレット型で竹竿によって二階より吊り下げた。船においても同じく垂直ダブレット空中線を竹竿によって吊した。送受信空中線の間隔は約4米である。かくして渡波と船の通話試験をしたほかに、別に受信機一台を石巻郵便局内に置き、この通話を傍受した。(宇田新太郎/小原武顯/有坂磐雄, 『電信電話学会雑誌』第119号, 1933.2, 電信電話学会, pp36-37)

送信機には可聴周波数の発振器があって、切替えスイッチで電話のほかに可聴電信も送ることができました。そして図が呼出装置と呼ばれるもので、あたかも有線電話のような簡便性を追及した「宇田式超短波無線電話機」の大きな特長になっています。

筐体の左側面には受話器を掛けるフックがあります。通常の受信待受け時には、受信音はノイズ消滅検知回路につながっています。超再生検波方式は電波の入感が無い時に、クエンチングノイズという大きな雑音を出しますが、対手局の電波が入感すると自動的にこのノイズが消えます。日本ではこれを「小田現象」と呼びました。

この回路がクエンチングノイズの消滅を検知するとベルを鳴らし(有線電話の着信ベルと同じ)、周囲に知らせます。電波を受けている限りベルは鳴り続けますが、受話器のフックを外すと受信出力は受話器の方へ接続され、同時にベル回路を電気的に閉じて、さらに送信機を送信状態にします。これで同時送受信の状態になります。

送話器(マイク)は呼出し装置本体の上部にあります(下部のメーターはノイズ消滅検知用真空管のプレート電流計)。壁に取付けたこの装置の前で、あたかも有線電話のような感覚で「モシモシ」「ハイハイ」と同時通話が出来ます。一旦通話をはじめれば、もし電界強度が揺らいで部分的にノイズが含まれても、ノイズ消滅検知回路は切り離されているので(受信にノイズが混じっても)ベルが誤動作することはありません。またこちらから無線電話を掛けるときは受話器を外すだけで送信がはじまりますが、相手からの応答があるまで、受話器に大きなクエンチングノイズが出ますので、少し耳から離す必要はあったでしょう。

日本無線史第11巻より引用しておきます。

『 (宇田式超短波無線電話機には)呼出装置が附属され、相手方の電波により簡単に呼出のベルが鳴る仕組を有していた。・・・(略)・・・動作確実なる呼出装置により、あたかも有線電話の共電式電話を操作する要領で随時相手局を呼出し、または相手局に応答し得る事は本機の最も特徴とするところであった。(電波監理委員会編," 日電工業株式会社", 『日本無線史』第11巻, 1951, pp131-132)

以上の送信機、受信機、呼出装置を合わせて「宇田式超短波無線電話機」と呼び、やがて仙台にあった合資会社日電商会が製造販売を行うようになります。

33) 宇田式超短波を世に送り出した合資会社「日電商会」

上記「宇田式超短波無線電話装置」を製造販売した合資会社日電商会と東北帝大宇田研究室の、そもそもの関係を私は理解できていませんが、次のように想像しています。

この夏、宇田氏らが日本海の酒田-飛島間で通信試験に成功して以来、飛島では無線電話回線の誘致運動に発展していましたが、まだ超短波を使った実用公衆回線の設備を請け負えるような実績を持つ製造会社が育っていませんでした。

宇田氏はこれまで数年間に渡り、頻繁に屋外超短波試験を行ってきました。きっと無線実験用に購入したバッテリーも相当の数だったでしょう。そして日本電池株式会社の東北エリア特約店だったのが地元仙台の日電商会で、東北帝大の宇田研究室とは古くからお付き合いがあったと想像します。

1937年(昭和12年)と1995年(平成7年)に出版された日本電池の社史から引用します。

東北帝国大学宇田新太郎博士の発明にかかる宇田式超短波無線電信無線電話機は通信文化の最先端を行く文明の利器として仙台市四番町合資会社日電商会においてこれが特許権を取得し製作していた。 日電商会は東北方面のGS特約店として古くより当社と密接なる関係あり、宇田式超短波無線電信無線電話機の製造販売を始めてよりはその使用電源として当社の蓄電池を用いらるる・・・(略)・・・』 (日本電池編, 『日本電池二十年史』, 1937, 日本電池株式会社, p95)

【参考】 島津製作所の蓄電池部門が分社化したのが日本電池株式会社で、商標「GS」は創業者、島津源蔵(Shimazu Genzou)のイニシャルです。

東北地方の有力特約店だった日電商会(仙台市)が、東北帝国大学教授宇田新太郎の発明による「宇田式超短波無線電話機」の特許実施権の譲渡を受け、宇田教授の指導の下にその製造販売を行うことになった・・・(略)・・・』 (日本電池編, 『日本電池百年』, 1995, 日本電池株式会社, p71)

この日本電池の特約店である日電商会を経営していたのが、仙台大町にある斉川運動具店の斉川久吉氏と、砂糖屋「まるか」の長男の菊池亀一郎氏の二人でした。菊池亀一郎氏は1929年(昭和4年)12月に短波受信の免許を受け、その4箇月後には7100kHz, 5Wの無線電話の送信許可も受けたアマチュア無線家で、(J6のコールサインは電信の局にしか発行しない時代ですので、)呼出名称「菊池亀一郎」でした。しかし仕事が多忙だったのか(?)、1931年(昭和6年)11月3日で廃局されています。

日電商会の菊池氏が宇田氏の超短波無線電話に強い興味を持ち、「宇田式超短波無線電話装置」の商品化を願い出たのではないでしょうか?そして超短波のノウハウを日電商会に注入するために、宇田氏はこれまで実験を手伝ってくれた関 知四朗氏に日電商会への就職を打診しました。

私は先生の薦めにより昭和七年十二月半から先生の超短波機器の商用化をしようと計画を立てていた日電商会に大学を退職して入社した。・・・(略)・・・(大学職員による送別会の挨拶で)先生は開口一番「仙台大町に皆様もしってられるように斉川運動具店がある。その主人が久吉さんで、その隣りがまるかさんといって砂糖屋さん。そこの長男に菊池亀一郎さんといって素人無線技術者で進歩的な人物がおられる。この二人が手を組んで京都の日本電池の東北代理店をやっている蓄電池販売の日電商事を主催している。その会社が今度、私の超短波の伝播研究の為に作った送受信機の実用化をやろうとしている。実をいうと海のものとも山のものとも未だ判らぬ仕事をやろうとする会社に関君は行きますといってくれた。仙台でやることだから皆様宜しくお願いします。」といって下さったことを今でも耳新しく、昨日のことのように想い出される。(関知四朗, "超短波による通信実験とその実用化", 『宇田新太郎先生』, 1978, 「宇田新太郎先生」刊行会, p60)

また海軍の依託学生として宇田先生の超短波研究室にいた有坂磐雄氏J6CD(ex JLYB)も、アマチュア無線仲間で昭和6年に旧制中学を卒業したものの、大変な就職難の時代で、就職浪人だった菱沼益男氏J6CGに日電商会を推薦したそうです。その菱沼氏が昭和54年頃に以下のとおり回顧されています。

『 (昭和7年に)菊池氏が宇田博士の発明した超短波無線を造る工場を発足させましたが、有坂さんがまだどうなるかわからぬから行ってはいけないと忠告して下さっておりましたが、やがてもう大丈夫になったから行きなさいと言って下され、その会社発足半年後に入社することになりました。

日電商会という合資会社でしたが、あとで日電電波工業(合)として日本電池の資本が入り、さらに日電電波工業(株)として日本電気のテコ入れがあり、昭和十三年には海軍指定工場となりました。日本電気が戦争中、住友通信工業と改称したとき、その名をもらって日本電気となり、終戦で日電工業(株)。二年程で戦時中の人員の整理からストで一時、日本電気と絶縁。私は社長と共に退社、その後五年程で又、日本電気系となり、日電製作所として最近まで存続してましたが、現在は東北日本電気として完全な日本電気となっています。

日電製作所消滅の前に日電製作所の歴史のような冊子が出て、私のところにも送られて来ましたが、有坂さん宅にも送られたでしょうか。この冊子の中に、先に述べた有坂さんが今度は大丈夫だから日電商事に入る様に言って下さった意味が始めて了解できた記事がありました。大学の宇田博士の特許、実用新案を含め九件を、有坂さんのあっせんで日電商会が譲渡を受けたということです。この事で有坂さんは譲渡完了と共にこの会社が東北大とも、或いは逓信局とも、また軍などともつながることを予見されて、私に入社をすすめて下さったのでした。(岡本次雄編, 『電波と共に —有坂磐雄伝—』(非売品), 1979, 有坂言子/有坂英雄/有坂芳雄, PP27-28)

海軍指定工場時代(日電電波工業)には従業員2500名(昭和18年当時)を擁し、30MHz前後の超短波を使う「九七式軽便無線電話機」を生産していました。戦中の一時期、日本電気を名乗ったこともありますが、終戦の年である1945年(昭和20年)11月に日電工業(株)になりました。しかし軍隊が解体され海軍無線の仕事は一切無くなり、また民間用の無線機の方もGHQ/SCAPにより厳しく新規開局を制限されていたため、1952年(昭和27年)3月に経営不振のため倒産解散してしまいます。同時に日本電気が出資し「株式会社日電製作所」と社名を改め再スタートしました。1973年(昭和48年)9月、「宮城日本電気」となりましたが、2002年(平成14年)4月には日本電気がカナダのセレスティカ社へ売却したため、「セレスティカ・ジャパン」となり現在に至ります

1933年(昭和8年)の超短波 ・・・ 「酒田-飛島」公衆通信でも実用化達成

34) 鉄道省が宇田式超短波無線を試験 (1933年1月13-14日)

1933年(昭和8年)1月13-14日。鉄道省は北海道の添牛内から朱鞠内へ延伸したばかりの幌加内線(深川-朱鞠内)で宇田式超短波無線電話を試験しました。

鉄道省電気局の越前庫吉氏の記事を引用します。

半歳にわたる陰鬱な降雪期 - 東北、北海道地方ではこの期間中、雪に悩まされることは非常なものである。・・・(略)・・・ラッセル車とかあるいはジョルダン車などで線路上の堆雪を除掃して来たが、更に進んで線路上の堆雪を幅広く掻き除けるために「切広げ除雪」という方法を四、五年前から札幌鉄道局管内で実施して来た。(越前庫吉, "除雪機関車に超短波と列車内でラヂオ聴取", 『ラヂオの日本』, 1933.7, 日本ラヂオ協会, p13)

まず蒸気機関車がマックレーという「掻き寄せ車」を牽引し、線路両側の雪の壁を崩しながら、わざと線路上に雪を掻き寄せます。そしてその300mほど後方から、プロペラ付きのロータリー車が別の蒸気機関車に押されながら進んできて、マックレー車が掻き寄せた雪を吹き飛ばすというものです。

マックレー車とロータリー車は必ず一体となって除雪しますので、何んらかの理由でマックレー車が停車すると、後続のロータリー車が追突しないよう連絡が必要です。ロータリー車は後ろから蒸気機関車に押されるため、機関車の運転士には視界が遮られているからです。

また後続のロータリー車が故障や何かのために停車した場合も、マックレー車に雪掻きを一時休むよう連絡が必要です。これまで汽笛を鳴らして合図を送っていましたが、風雪の強い荒天時には汽笛が聴き取れないという問題があり、実用的な連絡装置が望まれていました。そんなときに電気試験所が富士山頂から超短波試験を行ったニュースが飛び込んできたため、鉄道省として超短波が実用になるかを試すことにしました。

仙台の日電商会が作った宇田式超短波無線電話、TM2型送信機(四球式, 5W, 11kg)とR2型受信機(四球式, 超再生, 7kg)を借用し、まず札幌駅(電機修繕場)-苗穂駅(教習所)間の1.2kmで事前テストしました。2が付く型番で分かるようにこれは「二型」と呼ばれる改良機です。波長は8m(37.5MHz)と9m(33.3MHz)を用いる同時通話方式でした。

最初、準備試験として札幌駅構内の札幌電機修繕場の二階と、これより約一・二キロメートル離れている苗穂駅構内の札幌鉄道局教習所の二階との間で通話をやった。両所間には目につく著しい遮蔽物は無いが、諸建築物の多数が介在して無論見通しはきかないが受信勢力強大で通話が明瞭高声で高声器を動作し得た。(越前庫吉, 前傾書, p15)

事前テストは大成功でしたので、マックレー車とロータリー車にVHF無線機を設置し、雪の深い幌加内線で実用試験を行う事にしました。

さて無線機の設置方法ですが蒸気機関車に引っ張られるマックレー車の場合、その除雪操縦室内に設置場所を確保できました(図[左])。この写真だとマックレー車の進行方向は左です。

しかしロータリー車の方は大変でした。ロータリー車の操縦室内はプロペラが轟音をたてて雪を吹き飛ばしているため、その音と振動があまりにも激しく、やむを得ず後ろから押す蒸気機関車の炭水車に天幕を張って、その中に無線機を設置し、オペレーターも入ったようです。

次に機器をマックレー車およびロータリー車に積み込み、両車とも普通の運転状態におき、除雪作業を行いつつ両車の距離を六、七百米に保ち通話試験を行った。波長は前車側を九米に、後車側を八米にして行ったが、受信音には雑音騒音なく、かつ強勢に聴取した。試しにロータリー車側の方では、推進機関車の次位に連結したボギー客車内に高声器を設置してみたが車内いずれの箇所でも高声明瞭に聴取し得た程であった。八百米(800m)位から多少の雑音を生じて来たが、一・七粁(1.7km)位で雑音量相当大となったが、聴取するには大した支障もなかった。次に二粁(2km)位となると雑音が甚だしくちょっと実用には困難な状態であった。・・・(略)・・・また両車のうち何れか隧道(トンネル)内に入る時は、入口より一、二米位で全く感度が無くなり、よって通話も不能となるが、両車が少しでも隧道(トンネル)外に出ていれば通話には支障がなかった程であった。(越前庫吉, 前傾書, pp15-16)

35) 宇田式超短波を有線電話へ接続試験 (1933年1月23日) ・・・2020年2月14日更新

東北帝国大学宇田研究室と仙台逓信局による「酒田・飛島」間超短波無線電話の共同実験が成功すると、関係町村からの期待が一気に高まりました。そこで無線電話を有線電話に接続する際の運用試験が実施されました。

1933年(昭和8年)1月25-29日、仙台逓信局の協力のもと、日電商会の「宇田式 超短波無線電話機」による仙台-石巻間の超短波同時通話を、有線電話回線に接続する試験が行われました。特に電話着信(相手の電波をキャッチ)時にベルを鳴らす「呼出装置」は仙台逓信局で設計されたもので、その腕試しも兼ねていました。また仙台逓信局では超短波で受けた音声電流をハイブリット・コイルの接続により、仙台市内および、市外線を経由して青森、山形、酒田、新潟に接続した。

仙台逓信局工務課の小原武顯氏らは以下の様に記されています。

本年一月二十五日より同二十九日迄、五日間にわたり仙台逓信局と宮城県牡鹿郡石巻町の間に通話試験を行った。最初は受信のみとして石巻郵便局電話交換室の二階屋上バルコニーに高さ11米(m)の竹桿を建て、これに上下のλ/2垂直ダブレットを張り、仙台よりの送信を受信した。この場合は受信特有の雑音あり、その雑音中に言語は了解し得るも実用には適せず。これはちょうど(石巻郵便局)局舎の250米(m)くらい前方に海面上高さ56米(m)の日和山あり、そのshadow effect によるためである。如上(=上のとおり)の成績により日和山公園に送受信機を移動することにしたのである。

この時は電波通路に当たる塩釜付近には高さ15~30米(m)の丘陵およびエボイシ列島等あるにも関わらず、仙台逓信局を通じて(有線電話の)仙台市内の一般加入者、山形局、酒田局等と通話容易であったが、いわゆる調整状態における雑音が少し耳障りな程度を脱し得なかった。しかし呼出装置は多少調整に困難ありしも良く動作した。当時の空中線電力は約6ワットであった。(小原武顯・小関昌三・太田美農, "超短波による無線と有線との連絡通話試験に就て", 『電信電話学会雑誌』, 1933.4, 電信電話学会, pp.348-358)

仙台逓信局の空中線は2塔の受信用無線鉄塔(既設)から、それぞれ送信用(波長8.6m, 周波数34.9MHz)と受信用(波長9.6m, 周波数31.3MHz)のダブレット・アンテナを吊り下げました。また石巻の日和山公園では高さが10mある大きな配水塔の屋根に5mほどの竹桿を2本離して建てて、そこから受信用(36.4Mhz)と、送信用(31.3MHz)の垂直ダブレットを吊るしました。

そのアンテナの吊るし方にしろ、給電線の引き回し方にしろ、通信状態に大変クリティカルに影響したため、試行錯誤で最良ポイントを捜し出して固定したそうです。なお仙台逓信局と石巻の日和山公園の距離は40kmほどになります。

日和山公園に仮設した移動局のテストがうまくいったため、次に石巻の街の後方にある牧山八幡宮へ移設してみました。仙台逓信局から遠くなりますが、ここは標高があるため、仙台より3kmほどの地点と大差ないほど安定した通信ができました。

『(牧山八幡宮では)見通し圏内に入るので、予想通り極めて良好なる通話を為し得た。調整状態の雑音も、相互の搬送波によりて、ほとんど消失した。この状態にて仙台逓信局を通して青森、新潟、山形等の一般電話加入者とほとんど市内通話程度の良好なる結果を得た。また呼出装置は調整の手数もなく完全に動作し満足なる結果を与えた。この時の空中線電力は約3ワットであった。

しかして仙台・牧山間は46粁(km)の距離であるが、牧山は海面上250米(m)あって可視範囲は56粁(km)あるので、もちろん理想的の好条件であり、その通話状態はあたかも仙台逓信局より約3粁(km)ほどにある宮城野原間との通話試験成績に比して遜色が余りなかった。上記の事は予備試験等の場合に大いに参考になる点である。

また牧山八幡宮より約20米(m)低き牧山観音堂(海面上230米)にて受信した時は感度微弱にして、ほとんど聞き取れなかった。その地点は仙台に向かった方面が高さ約20米(m)の山頂に取り囲まれ、全く展望がきかず、Shadow effect による事を明らかに知り得たのである。(小原武顯・小関昌三・太田美農, "超短波による無線と有線との連絡通話試験に就て", 前掲書, pp.348-358)

そのほか、仙台逓信局では約40m離れた病院のレントゲン装置から混信を受けたり、仙台放送局の番組が混入することもありました。また仙台逓信局に設置された超再生受信機からの漏れ電波が、東北帝国大学の超短波受信機がピーピー聞こえたため、仙台逓信局の超再生受信とアンテナ回路の間にバッファーアンプを一段挟むことで解決しと報告されています。 こうして日電商会の超短波技術の確認、および実運用のめどがたったため、「酒田-飛島」回線の建設が内定しました。

36) 東京工大が新橋-深川間でUHF(375MHz)試験 (1933年初頭?)

電気学会が毎年まとめている『電気工学年報 昭和八年版』に、東京工業大学が東京の新橋(蔵前工業会館)-深川(東京府立第三商業学校)間で波長80cm(375MHz)の試験に成功したことが記されています。東工大の森田講師らは1931年(昭和6年)12月から1932年(昭和7年)4月に掛けて江ノ島でUHFの実験を行いましたが、今度は市街地で試しました。

この試験日時は不明ですが、『電気工学年報 昭和八年版の発行日が1933年(昭和8年)7月24日であることから、1932年(昭和7年)暮れから1933年(昭和8年)春頃だと推測します。

糎波(センチ波) 東京工業大では新橋の蔵前会館と深川の府立商業の間(3.5km)でλ=80cmを用い市街地通話を行い、又Marconi はRome とSardinia島間、海上430kmでλ=57cmの通話を行い、いづれも好結果を得た。(電気学会編, 『電気工学年報』昭和八年版, 1933.7, 電気学会, p151)

現代の国土地理院の地図に重ねてみました(図)。"蔵前工業会"は東京工業大学の同窓会組織で、1931年(昭和6年)に新橋に自前の会館ビル(7階建て)を建設しました(その名の由来は関東大震災前まで学校が蔵前にあったから)。このビルの屋上から試験したのでしょう。そして通信対手地点として府立第三商業学校(現:都立第三商業高校, 江東区越中島3丁目)の屋上を借用したと想像します。

JR新橋駅のゆりかもめ側のロータリーに面する一等地にあった蔵前工業会館は1993年(平成5年)に建替えられ、現在は「新橋マリンビル」です。

80年以上も昔に、ここ新橋駅前から、日本で初めてのUHF市街地通信試験が行われました。

【参考】 1946年(昭和21年)8月11日に、終戦による再結成(同年5月1日)後では初となる、第一回JARL総会が開かれたのもこの蔵前工業会館でした。

37) 東京逓信局の離島VHF(33.3MHz)試験 (1933年初頭?)

上記電気工学年報 昭和八年版(電気学会編)に、東京逓信局が離島への無線通信を検討するために試験を行ったことが記されています。やはり1932年(昭和7年)暮れから1933年(昭和8年)春頃ではないかと推測します。

海岸島嶼連絡 東北大学及び仙台逓信局連合でλ=7~9m, 出力10Wで、宮城県女川 江の島間(14km)及び出島間(7km)、山形県飛島 酒田間(40km)で通信試験を行い・・・(略)・・・

また東京逓信局では検見川無線局と三宅島通いの船舶の間で、90kmまで、下田港と神津島間(60km)でλ=9m(33.3MHz)、出力10Wで通話が出来た。結局λ=8m附近を使えば減衰も少なく、廻折も伴うから、送受信所の位置と高さを注意すれば、容易に実用出来ることが解ってきた。 (電気学会編, 『電気工学年報』昭和八年版, 1933.7, 電気学会, p151)

酒田-飛島の超短波回線の実用化を目指す逓信省工務局が、伊豆諸島を管轄に持つ東京逓信局に対し、「海岸-島嶼」間VHF通信の試験協力を要請したものと想像します。

38) 仙台逓信局が日電商会J6CQに酒田-飛島回線を発注 (1933年3月)

1933年(昭和8年)3月、仙台逓信局は酒田-飛島の超短波を仙台にある日電商会に発注しました。東北帝大の宇田新太郎氏は「八木・宇田アンテナ」の発明者として知られますが、超短波無線機の製造事業者も育てました。仙台にあった日電商会です。これまでの超短波は使用者が自らの無線機を自作してきましたが、今回の公衆通信用無線機を誰が作るかという問題が浮上しました。性能の良い超短波無線機を製作できる製造事業者が育っていなかったためです。

それを引き受けたのが日電商会です。この時、日電商事は実験施設の自前の免許を受けました。コールサインはJ6CQ(無線電話の呼出名称は「日電商会」)で免許周波数は一般的な実験用7.100/14.200/28.400/56.800MHzでしたので、以後無線機を受注するたびに、実験波(30-50MHz内)の許可を受けたものと想像します。

まず1932年(昭和7年)7月28日から8月7日に、東北帝大が行った酒田-飛島間の超短波試験後の出来事を振り返ります。

当時、通信連絡の全くなかった日本海の孤島、飛島の人びとは、この無線電話実験の成功を知り、地元の飛島村(現酒田市)や酒田市を中心にこの無線電話設置の運動が起き、やがて、逓信省に請願書が提出され、寄付金三〇〇〇円を提供する旨申し出た。昭和八年一月、逓信省はこの寄付を受理することに決定したが、この地元関係市町村の負担はつぎのとおりである。

飛島村 一五〇〇円、 酒田市 一〇〇〇円

山形県の吹浦・加茂 各一〇〇円

秋田県の平沢・金浦・象潟 各一〇〇円

こうして同年(1933年)三月、仙台逓信局では逓信省よりの工事命令にもとずいて、日電商会(仙台市)に「宇田式超短波無線電話装置」を発注し、同年七月には、総工費九四四〇円(うち地元の寄付金三〇〇〇円)でこれが着工された。(東北電気通信局編, 『東北の電信電話史』, 1967, 電気通信共済会東北支部, pp399-400)

東北帝大の実験成功で地元の期待が一気に膨らんだようです。逓信本省側でこの酒田飛島回線を担当した網島毅氏が発注について次のように記されています。

私はまず、宇田先生にお願いするため、仙台に飛んだ。先生は私の申入れを快く引き受けられ、何かと親身になってお世話していただくことになった。まず機器の製作をどこの会社に依頼するかで、先生が長年指導され、また実験施設などを作らせていた仙台に本社のある日本電波株式会社を推薦されたので、そこに依頼することにした。この時の送信機は二〇二A真空管二個をプッシュ・プルに接続して出力を約一〇ワットとし、陽極変調を行うものであり、受信機は超再生式のものであるが、一応は目的を達成した。この時の波長は七・七メートルと八・八メートルであった。(網島毅, 『波濤:電波とともに五十年』, 1992, 電気通信振興会, p41)

39) 米沢高等工業(のちのJ6BC)の「B型結線法」による超短波研究 ・・・2020年3月1日更新

東北帝国大学に次いで超短波通信の研究が盛んなことで知られていたのが米沢高等工業(現:山形大学工学部)です。

同校の大高庄右衛門教授が真空管のグリッドを高抵抗Rを経由してプレート(B電源)に接続する超短波発振回路を考案し「B型結線法」と命名しました。これは宇田式超短波とは異なる独自の回路方式で、左図が基本となる単球回路とプッシュプル回路です。

図中の高抵抗Rは真空管によって発振の最良値があり、UX-112Aでは50kオーム程度、UX-202Aでは27kオーム程度でした。

その特徴について大高氏は次のように述べられています。

以上B型に関し総合的に概要を記述したが、要するにB型回路はC電源(グリッド電源)不要にして回路結線が簡単となること、補極回路中に塞流線輪が無いからこれらによる寄生振動を防止し得ること、振動状態では陽極(プレート)電流は格別多くないこと、橋絡抵抗を充分大とすれば補極電流を小となし得ること、従って真空管を過負荷ならしむる懸念無きこと、発振容易、能率及び変調特性良好なること、反結合振動回路、電子振動回路いずれにも適用し得ること等を挙げたつもりである。諸氏の御一読と御叱正とを得れば幸甚である。(大高庄右衛門, "B型超短波回路について", 『沖電気時報』, 1937.7, 沖電気工業, pp9-16)

米沢高等工業の大高研究室ではB型回路を用いた可搬式の超短波トランシーバーを試行錯誤で各種試作・研究し、1934~1935年(昭和9~10年)頃にその研究成果を次々と発表されました。

米沢高等工業の無線局が官報で告示されたのは1933年(昭和8年)4月5日(逓信省告示第765号)なので、おそらく3月下旬の許可だと考えられます。特筆すべきは「周波数30MHz以上(波長10m)」という包括的な実験免許で、空中線電力2W以下の無線電話で呼出名称は「米沢高工」でした(1934年1月に無線電話にもJコールを指定することになり「J6BC」へ変わった)。なお1934年春に周波数14.200MHz、28.400MHz、56.800MHz、300MHz以上(包括)で空中線電力20W以下に変更されています。

40) 仙台放送局(のちのJ6CW)が超短波の免許を取得 (1933年4月?)

昨年(1932年)8月に東北帝大の宇田氏の協力により、塩釜でのボート選手権を超短波中継することに成功した仙台放送局JOHKは、超短波による放送中継装置を研究・開発することを決め、逓信省へ実験局の申請を行いました。

JOHKの超短波が免許(既設の受信免許をVHF送信免許へ設備変更)された日付は不明ですが、官報で告示されたのは1933年(昭和8年)4月14日(逓信省告示第842号)なので、4月上旬の許可だと考えられます。周波数は37.500MHz(波長8m)と42.860MHz(波長7m)の二波、空中線電力10W以下の無線電話で呼出名称は「日本放送協会東北支部」でした(1934年1月に無線電話にもJコールを指定することになり「J6CW」へ変わった)。

41) 東京工大(のちのJ2BH)パラボラ式1.67-1.82GHz無線電話の実験を始める (1933年6月?)

電波実験黎明期において、ヘルツ氏やマルコーニ氏は無線機にパラボラ反射器を取り付けた装置を使って実験しました。同様にわが国でも、まず逓信省の松代氏がパラボラ式火花送信機とパラボラ式コヒーラ受信機を試作し、無線実験を開始したことは良く知られるところです。その後しばらく線状アンテナの全盛期となりますが、1930年代に入り高い周波数を扱うようになると、再びパラボラ反射鏡が注目されるようになりました

1933年、東京工業大学の森田清氏は、パラボラ反射器の裏面に送信機または受信機を置いて一体化した実験機を試作しました。採用した真空管は宇田新太郎氏も使っていた東京電気のサイモトロンUF-101型三極管です。東工大構内において1.1kmの距離で無線電話の通信に成功しました。

送信機の(水平面)輻射角は約10度、受信機のそれは約15度である事を相互間距離50mに於ける準備試験で確かめてから(下図[右]:送信パラボラのビームパターン)大学構内建築材料研究所上と寄宿舎前庭間 距離1.1粁にわたり送受信を行った。可聴率200位でレコード、音声等よく聴取出来た。送信空中線が反射鏡の焦点を外れると雑音が激しくなる。(森田清, "18糎波による無線電話", 『電気学会雑誌』53巻540号, 1933.7, 電気学会, p610)

◎ 送信機・受信機

発振管UF-101型は円筒形をしたプレート(陽極)の内部に、スパイラル状のニッケル線によるグリッド(補極)が差し込まれた三極管です。グリッド側に高圧(200~240V)を掛けると、グリッドのスパイラル部分の長さで決まる超短波を発振する(これを「B(バルクハウゼン)-K(クルツ)振動」「補極スパイラル振動」という)のですが、円筒形をしたプレートの中心軸と、スパイラル状グリッドの中心軸がわずか0.5mmずれているだけで発振しなくなるため、UF-101型を製品の中から良好なものを吟味・選別する必要がありました。

左図[左]は波長18cm(周波数1.67GHz)から波長16.5cm(周波数1.82GHz)を発振するUF-101型を使ったパラボラ・アンテナ一体型の基本発振回路です。

フィラメント(陰極)を飛び出した熱電子は(正電位の)グリッドの引き寄せられそのまま通り過ぎてしまいます。そして熱電子は(ゼロまたは負電位にした)プレートに押し返され、再びグリッドを素通りし、フィラメント(陰極)に寄って行き、ここでも押し返されます。これを何回か繰り返した熱電子は、最終的にグリッドへ捕獲されますが、この電子振動を利用するものです。

購入した真空管四個について発生波長を調べると大体電圧には無関係にそれぞれ(1)16.5cm、(2)17.2cm、(3)17.3cm、(4)18.0cmであった。しかして送受両機の組合わせとして(2)と(3)の球を用いた場合は既記の如く距離1.1kmにおいて充分送受話を行い得たが(1)(4)の組合わせでは100m離れて既に受信調整やや難しく、1kmでは送受不能だった。(森田清 / 出川雄二郎, "波長18糎 無線電話送受信機について", 『電気学会雑誌』53巻543号, 1933.10, 電気学会, p913)

送信機の場合、この基本回路図のプレート側に変調トランスを置きレコード楽曲や音声を変調した。また低周波音声の崩れを防ぐ目的でプレートにはマイナス4.5Vの負電圧を印加している。受信機の場合、クリッド側に置いた高周波トランスでクエンチング発振信号を加えて超再生検波とした。プレート側に入れた低周波トランスで復調音声を取り出した後、低周波二段増幅し受話器を駆動した。

◎ パラボラ・アンテナ

平行レッヘル線は直系3mmの銅管二本を中心間1cmを隔てて配置せるもの、a, a'はそれぞれ長さ約3/8波長の空中線である。・・・略・・・(送信機は)焦点距離40cm(約2.3波長)、開口部の直径160cm(上写真)の放物線体型反射鏡Rを鉄板で作って第一図(上図[左])の空中線の中心が丁度この焦点へ一致する如くに工作した。・・・略・・・(一方、受信機のパラボラはやや小型で)焦点距離31cm、開口部の直径100cmの放物線体反射鏡を用いた。(森田清, "18糎波による無線電話", 『電気学会雑誌』53巻540号, 1933.7, 電気学会, p610)

そして森田氏は論文の最後で以下の様にこの実験を総括されています。

よく自己発振をする二つの真空管を得ることが出来さえすれば送受信の技術は割合に簡単で事で済む。両管の発生波長が近ければ近いほど通達距離が延びるわけであって、要するに補極スパイラル振動による送受信の成否は球の選定いかんによって定まるといっても過言でない。終わりに実験にい際し援助を賜りし山本教授ならびに実験に助力せられし出川雄二郎、佐野勇両氏に深謝いたします。(昭和八年六月二十九日受付)(森田清, "18糎波による無線電話", 『電気学会雑誌』53巻540号, 1933.7, 電気学会, p610)

つづく>> (1933年6月~10月)「放送中継とJ8AA」のページへ