長波ではない訳

無線は高い周波数から始まり低い周波数へ向って開拓されました。無線黎明期から無線実用期になっても、まだしばらくは火花送信機やコヒーラ受信機が非同調式だったからです。これらの送信機ではアンテナの長さで輻射される成分のピークが決まるため、短いアンテナで実験されるのは超短波や短波でした。

やがて同調回路やアンテナを擬似的に長くさせる「ローディングコイル」が用いられるようになって中波や長波といった低い周波数へ移っていきました。

1) 1897年(明治30年)はVHF帯を使用

1897年(明治30年)10月1日に行なわれた電気試験所における最初の電波実験の周波数は不明ですが、火花電波の広いスペクトラムの中からパラボラ反射鏡で跳ね返され、送り出された成分はかなり高い周波数(VHF)だと推察します。日本無線史には次のように記されています。

我国で初めて無線電信の実験を開始した明治三十年当時これに使用した電波の長さが何米であったかは明らかでない。文献によれば発射器としてパラボラ型の金属壁の焦点に空中線用金属棒を備えたものを使用していたから恐らく今日の短波長に属したものであろうと推測される。(電波監理委員会編, 『日本無線史』第二巻, 1950, 電波監理委員会, p430)

若井氏によれば、1897年11月になると、築地海岸で最初の海上フィールド試験が行なわれました。

松代は明治30年(1897年)の11月に、受信機を築地の海岸に置き、送信機を団平舟(だんぺいぶね:荷物運搬用の堅牢な和舟)に乗せて、いろいろと距離を変えながら東京湾内で通信実験を行なった。陸上で使ったパラボラ反射板つきアンテナは、指向性があるので船の向きに注意しなければならなかったが、そのアンテナよりも、竹竿から吊り下げた被覆銅線アンテナの方が感度が良く便利なので、パラボラはすぐ使われなくなった。(若井登, "日本の無線電信機開発(その2)-松代松之助の業績-", 1998.8, 『ARIB機関誌』, p55)

『 (11月の築地の実験では) 最初は送受信のパラボラをそれぞれ対向させながら実験を行なったが・・・(略)・・・』 (無線百話出版委員会編, 『無線百話』, 1997, クリエイト・クールズ, p66)

海岸と舟の距離が近い場合、舟への向きの変化が大きく、パラボラを追従させるのが大変だったようですね。とはいえ1897年12月13日の逓信省構内でのプレスデモは固定点同士ですからパラボラを使ったようです。

同年12月27日の金杉沖まで移動した実験では、ひたすら南へ舟を進めるだけなので11月の近距離試験と違ってパラボラを追従させる苦労は少ないはずですが、波が高く舟のパラボラが倒れたりするトラブルが続出したようです。ここでついにパラボラがお払い箱になったのではないでしょうか。

ということで、1897年(明治30年)の間、松代氏は高い周波数(VHF帯)を使ったものと思われます。

2) 1898年(明治31年)はHF帯を使用

しかし松代氏はこうしたフィールドテストから知見を得て、マルコーニ氏と同様に接地式垂直アンテナに代えることにしました。これは輻射周波数が低くなることを意味していました。

1898年(明治31年)3月中旬に行われた品川沖への実験では接地式垂直アンテナが採用されました。火花ギャップに直結された接地式垂直アンテナでは、アンテナ長の四倍の波長の電波成分が最も強く輻射されましたので、仮に竹竿でアンテナを3-4m伸ばしたとすると波長12-16m(25-19MHz)の短波帯での実験だったと考えられます。非同調式火花送信機と接地式垂直空中線の輻射波長についてはこのあと述べますが、アマチュア無線家のページでも触れていますので参照ください。

それから9カ月が過ぎた1898年12月17日に月島でデモンストレーションが行われましたが、月島も台場も陸上局なのでもう少し長い垂直アンテナが用いられたかも知れません。仮にアンテナが6m長だとすると輻射波長は24m(12.5MHz)でやはり短波になります。

3) 1900年(明治33年)に中短波へ進出

参考までにその後を追ってみます。

1900年(明治33年)2月27日、築地海軍大学構内で無線電信調査委員会に出向中の松代氏の公開実験はおよそ10MHzの短波が用いられ、またその年に同委員会(築地送信所)と羽田受信所に建設されたアンテナは当初45mで、およそ波長180m(1.7MHz)が使われたようです。

委員会では第一に同構内試験所の側に百五十尺(45m)の柱を建てた。それは丸太を八番鉄線でつなぎ合わせたもので、同じ八番線の支索を四方に張って倒れぬ様にしたものであった。次に羽田の海岸に百五十尺位の丸太櫓(やぐら)を建て・・・(略)・・・』 (木村駿吉, 『日本海軍初期無線思出談』, 1935.5.9)

しかし4月23, 24日の筑地-羽田試験では23mの直立線を試した様で、波長はおよそ92m(3.3MHz)になったと考えられます。

四月廿十三, 四日の両日、(築地の)調査所と羽田穴森稲荷付近とに発信受信の両器械を据付けて試験したり。この両所間の距離は八哩半ありて、マルコニー氏の公式によれば、送受信の直立線(接地式垂直アンテナ)の高さは、同哩(マイル)数に対し、八十五呎(フィート)を要するに拘わらず、七十五呎(=23m)にて十分なりし由・・・(略)・・・』 (石井研堂, 『明治事物起原』, 1908, 橋南堂, pp265-266)

また松代氏が海軍へ出向したため、佐伯美津留技師が引継いだ同年の逓信省の実験では、当初150尺のアンテナ(波長180m, 1.7MHz)を使いましたが、最終的には55尺(波長68m, 4.4MHz)になりました。

試験従事者も段々と熟達して来たので、同一の装置で試験をして居る内、一ケ月も経つと空中線の高さを五五尺位まで低くしても通信ができることがたしかめられた。 (電波監理委員会編, 『日本無線史』第一巻, 1950, 電波監理委員会, p5)

明治三十三年の八幡船橋間の試験には空中線の高さを一五〇尺(45m)から五五尺(17m)まで変えて(スパークギャップ直結の)プレーンアンテナを使用していたから一八〇米(周波数1.7MHz)から一〇〇米位(原文まま3MHz: 17mのアンテナだと波長68mの周波数4.4MHzでは?)の波長で試験を行なったものと考えられる。(電波監理委員会編, 『日本無線史』第二巻, 1950, 電波監理委員会, p430)

4) 1903年(明治36年)逓信省 中波に到達!

無線機の改良を続けた逓信省の佐伯氏らは、九州-台湾間の長距離試験に挑みます。この試験用に高さ200尺(60m)の接地式垂直アンテナを建設することになりました。このアンテナから輻射されるのは4倍の波長240m(周波数1,250kHz)です。逓信省は1897年(明治30年)に遂に無線研究に着手し、6年の歳月を経て、遂に中波帯のど真ん中まで降りて来ました。

その苦労話を佐伯氏の回顧談から引用します。台湾基隆に建てた60mの木塔は暴風で倒壊し、その暴風が北上して九州長崎側のアンテナ塔も倒壊しました。非同調式時代においては、低い周波数を使うことがどれほど大変な事だったかが伝わってきます。つまり低い周波数はとても「個人実験家」などが扱えるような代物ではありませんでした。

明治36年に至って九州台湾間の長距離電信をやるということになったのであります。・・・(略)・・・基隆(キールン)のちょっと東の方、半里余りの所で百尺門という所に選定致しました。

アンテナを高くする必要から高い柱を立てなければならぬという問題ですが、何せアンテナが大きいから、今迄東京湾内でやったような、1本を継ぎ合わしたような柱では到底重圧に耐えないだろうということから、東京湾で用いた柱を3本合わせたもの、即ち三脚から成る塔を作り上げたのであります。東京湾内でやったのは高さ150尺(45m)のもので、これは30尺ないし50尺位のも木柱数本を継ぎ合わせたものでありますが、今まで(埼玉県)川越に相当高いものがあったが、何しろ150尺以上のものはちょっと建設した経験がないので大分心配したのであります。色々工夫の老練な者が寄合って研究して、こういう風にしたらよろしかろうと相談して、一つの成案を得て建柱に着手したのであります。

台湾では電柱の高さを少くとも200尺(60m)にするという計画で、200尺のも木柱3本を三脚とした一つの塔が出来た訳であります。こうして地上3個所に三角形をなして建設された3個の塔の頂点を丈夫な鉄条で結び、この鉄条からアンテナをブラ下げたのであります。大変好い案だと思って居ったのが、2回暴風が来て、第1回で相当吹き倒され、第2回目で殆ど全部やられてしまったのであります。・・・(略)・・・何せ丸い木柱3本を三脚として塔を作り三脚を横木で固めたのですが、暴風の時には三脚とも別々に運動するので、ばらばらに外れてしまう。結局こういう構造の塔は駄目だという結論になったのですが、供しせっかく出来ている脚柱だけ残ったものですから、三脚間の隔りを狭めて三脚が別々に運動し得ないよう、又別個の運動をしても横桁が容易に外れぬように改造して、一層丈夫にし漸(ようや)く柱の建設を終って、試験が出来るということになったのであります。 (佐伯美津留, "余録 回顧談その4", 『電気試験所五十年史』, 電気試験所編, pp732-733)

5) 1908年(明治41年)逓信省 中波で電報ビジネスを創業

欧州地域では既に1901年(明治34年)頃から海上移動における無線電報ビジネスが始まっていました。逓信省は(1897年より)10年の歳月を掛けて無線通信を研究してきましたが、ようやく同調式無線機による実用通信のめどが付いて、商用局の建設を開始しました。掲げた目標は1906年にベルリンで開かれた第一回国際無線会議での無線電報に関する諸規則が発効する1908年(明治41年)7月までに、我国でも無線電報の取扱いを開始して、世界の一等国に仲間入りすることでした。

公衆通信に使用する波長はベルリン会議において波長300m(1000kHz)と600m(500kHz)の中波が割当てられ、海岸局は波長300mか600mのいずれかを、船舶局は波長の短い300mを通常波とするように決議されました。この国際規則に準拠するためには少なくとも波長300mさえ海岸局と船舶局が送受信できれば良いため、逓信省は波長300m(1000kHz)の単波システムとすることを決めました。同調式送信機と同調式受信機を設計するにあたり、単波システムなら構造がシンプルで済むからです。その設計担当者だった佐伯美津留技師は1912年(明治45年)6月28日の電気学会の講演「本邦無線電信装置」で次のように述べています。

『国際無線会議で決議された公衆通信に使う波の長さは大変短うございまして、三百メートルと云(い)うことになって居ります。尤(もっと)も六百メートルの波長をも使って差支えないことになっていますが船舶が三百メートルですから、我国の海岸局は皆三百メートルにしてあります。』 (佐伯美津留, 本邦無線電信装置, 電気学会雑誌 Vol.32-No.291, 1912, 電気学会, pp968-969)

そして目標どおり、ベルリン会議で決められた国際通信波300m(1,000kHz)を使用する電報ビジネスを創業できました。したがって日本では1908年(明治41年)より「無線の実用期」に入ったといえるでしょう。その周波数は中波でした。

下表は明治41年に創業した海岸局 [中波1,000kHz の1波]

【注】 落石JOI(短点・・)は大瀬崎JOS(短点・・・)と、短点1つ差で紛らわしいため、1913年1月1日よりJOC(Japan OtChishi)に変わったである。

下図は米国海軍省が発行する世界の無線局リスト"List of wireless telegraph stations of the world" の1908年10月1日版にある日本の陸上局です。各国よりベルン総理局に国際登録のために提出したリストをもとに米国海軍省がまとめたものです。下図で運用中(In operation)になっているは長崎、銚子JCS、大瀬崎JOSの3局ですが、実際には潮岬JSMと角島JTSも波長300m(1,000kHz)で7月1日に開局しています(このリストの1910年版には銚子JCS, 大瀬崎JOS, 潮岬JSM, 角島JTS, 落石JOIの5局の海岸局が波長300mで掲載)。

逓信省は八丈島から金華山までの10局の追加を検討していたことが分かります。

【注1】 一番上の長崎は局種に"Experimental"とあるように、佐伯氏が台湾と実験していた実験局です。

【注2】 台湾は別ページです。引用を省略しました。

【注3】 Fukuyama,Toshima とは、松前の福山[渡島オシマ]のことなのでしょうか?

【注4】 日露戦争以来の海軍望楼無線である大島[紀伊]は、逓信省が引継ぎ、逓信省式無線設備による潮岬JSMとして再開局済み(M41/7/1)。

【注5】 1912年のロンドン第二回国際無線電信会議では通常波が600mとなり、また300mと600mの両波を装備することになり、我国でも600m(500kHz)波が追加された。

明治41年に創業した船舶局 [中波1,000kHz の1波]

● ・・・別の見方では1905年(明治38年)からが日本の無線実用期 周波数は中波の500kHz

しかしながら「実用」という言葉をよく噛みしめてみると、日露戦争において帝国海軍の三六式無線電信機により「敵艦みゆ」が発せられ、この戦争に勝利したことを思えば、国にとってこれほどの「実用」はないといえます。その意味では我国の無線電信は1905年(明治38年)より「無線の実用期」に入ったと解釈できます。

それでは帝国海軍が日露戦争で用いた周波数はどのあたりだったのでしょうか?この戦争で使用された無線機は非同調式の「三四式(明治34年式)無線電信機」から、同調式の「四三式(明治43年式)無線電信機」へ移行する過渡期にあたる、「三六式(明治36年式)無線電信機」でした。

日露戦争中および直後に、帝国海軍は日本各地の要所(岬)に海軍望楼を建設し、ここにアンテナ柱を建てて無線機を配備しました。また軍艦ではマストをアンテナ柱に利用しました。非同調式時代はアンテナの長さが唯一の周波数を決定する部分でしたが、陸上望楼も艦船も、アンテナの高さと無線機への引き込み部の総長を同じにして、その4倍となる、およそ波長600m(周波数500kHz)の中波を帝国海軍の電波としていました。そのためあえて同調式無線機を採用しなくとも支障ありませんでした。

『海軍ではチューニングすなわち合調式に関し、理論的には研究して、相当の知識を持っていたが、容易には実行に移されなかった。・・・(略)・・・四三式以前、艦船用無線電信機に合調装置がなかったのは、空中線支持用の軍艦のマスト、陸上望楼柱の高さが大差なく、これに架設したアンテナの波長は略々六〇〇米(=500kHz)に近いもので、且つ火花送信機であったから、受信機に合調式を用いなくとも済んだのである。』 (電波監理委員会編, 日本無線史第10巻, 1951, p41)

ところが艦船への無線配備が進むにつれ問題が起きました。小型艦船ではアンテナが短くなり、使用周波数が700kHz、800kHzと高い方へシフトしてしまい、海軍統一波500kHzでは済まなくなったのです。そこで使用周波数がアンテナの長さには依存しない同調式無線機の必要性が高まりましたが、非同調式には簡単確実という利点があり、むしろ送信機のハイパワー化でカバーすべきとの意見も強く、同調式の採用は進みませんでした。

『しかしマストの低い駆逐艦などに無線電信機を設備するようになってから、合調装置のある受信機を用いる必要を感ずるに至った。・・・(略)・・・なおまた当時世界に於ける斯界の趨勢は同調式の採用に向っていた。然るに我が海軍のみ非同調式に終始しているのは時代遅れだとの声が海軍部内に起って来た。これに対し、当の責任者たる木村技師は、同調式を採用するよりもむしろ勢力を増加した方が通信距離の増大には実際効果的で、非同調式の簡単確実性は、同調式に多少の効果ありとするも、これを償いて余りあり、あえて同調式を用いる要なしと考えて、自説を固守していたが、一方山本英輔大尉等同調式を主張する者は、同調式が非同調式よりも優秀であると主張し、この論議は相当永く続いた。』 (日本無線史第10巻, p41)

しかし実験を繰り返すうち、木村技師も同調式の効果を認めるところとなり、ハイパワー化と同時にこちらも進めるようになりました。少々意外かもしれませんが逓信省では1908年(明治41年)より同調式による無線ビジネスの実用期に移っていましたが、帝国海軍では1910年(明治43年)に完成した「四三式無線電信機」の導入で同調式時代に入りました。

以上のように無線通信は、短波から中波へ、中波から長波へと、徐々に低い周波数を目指して発展しました。

2) 海軍大学校の酒井教授と外波少佐 (海軍無線の誕生前) [1897-99年]

ちょっと寄り道して、海軍無線の黎明期の話題にも触れておきます。

海軍無線の育ての親とでもいうべき、外波内藏吉氏は1896年(明治29年)4月より1899年(明治32年)3月まで逓信省(電気試験所)の南隣にある、築地の海軍大学校で学んでいました。そして外波氏は酒井佐保教授より無線というものが発明されたことを聴き、大きな興味を持ちました。

『明治30年(1897年)1月にはロンドン発のニュースとして、マルコーニが無線電信の発明に成功した。当時海軍大学校において物理学担当の海軍教授として、のち第三高等学校(現:京都大)校長を永く勤め教育界に令名の高かった、酒井佐保氏が教鞭を取っていた。氏は外国学術雑誌によりマルコーニの発明に係る無線電信を調査し、これが軍用に大きな効果をもたらすものであることに着目して、その旨学生に伝えた。これを聴いた多数の学生の中でも外波少佐は特にこれに深い感銘を覚えたのである。

外波少佐は明治32年(1899年)3月海軍大学校の課程を卒えて、海軍軍令部第一局局員兼海軍大学校教官、参謀本部部員に補せられ、主として沿岸防御に関することを担任するや、早速、海軍望楼に利用し、防御力の増強に益することに着目し、その研究の要ある旨を上司に述べたこともあったが、とても日本ではそのようなものは研究できないという意見もあって採用されなかった。』 (谷恵吉郎, 電波界列伝 外波内藏吉, 電波時報, 1961.1, 郵政省電波監理局, p88)

1896年(明治29年)10月、日本にマルコーニ氏の無線が伝わり、逓信省電気試験所の松代松之助氏により文献の調査が始まりました。より具体的には1897年(明治30年)3月にヘルツの本を唯一の教科書として電波の研究スタートしています。これとほぼ同じ時期に、お隣の海軍大学校でも無線のことが話題になっていたのです。

松代氏が1897年11月頃から翌年の3月に掛けて海軍大学校の海岸で無線実験を行ったのが事実だとすると、その海岸借用許可が下りた背景として、佐保教授ら大学側の無線への理解によるところが幸いしたのかも知れません(あくまで想像です)。

1898年(明治31年)12月17日、松代氏が月島で行ったデモンストレーションの3ヶ月後の3月に外波氏は海軍大学校を卒業されています。つまり電気試験所の松代氏らが無線の研究を行っている、そのときに外波氏が築地にいたわけです。

このあといくつかの追い風があり、やっと外波氏の無線導入の意見が聞き入れられたのが、1899年(明治32年)10月でした。

『・・・(略)・・・とにかく海軍において調査研究をなすことに決し、明治32年10月、時の軍務局長は外波中佐(9月昇進)にこれが調査を命じた。・・・(略)・・・彼はまず逓信省に赴き、時の逓信次官小松謙次郎氏に面会し・・・(略)・・・共同研究を始めたいと申し入れたところ、同次官は非常に賛成し、電気試験所長に逢って相談されたいとのことであった。・・・(略)・・・

その旨同所長(浅野所長)に申し出た。ところが浅野所長は試験所でも多少研究はしているが、有線電信の競争相手となることはとうてい思いもよらん。針金がなくて通信するというのだから海軍とか、商船とか、移動的のものには万事好都合であるゆえ、海軍の方で主として研究された方がよろしかろう。自分自らその研究の指導者となることはできぬが、試験所において実験研究の実際をやっている松代松之助君を海軍に割愛してもよいとのことであった。』 (谷恵吉郎, 前傾書, p88)

有線電報を所管する逓信省としては、有線通信網の拡充および通信品位向上に忙しく、無線研究に本腰を入れるゆとりもなかったのか、「無線は海軍で研究すればよろしい」といい、さらにエースの松代氏ほか数名の技術者を海軍嘱託として出向させるなど大判振る舞いでした。またドイツから火花電波の実験装置を購入し、学生たちへ実演していた第二高等学校(現:東北大)の木村駿吉教授を、苦心の末に海軍にスカウトすることに成功しました。

3) 築地は海軍無線(短波)発祥の地 [1900年(明治33年)2月27日]

1900年(明治33年)2月9日、外波中佐を委員長とし、松代氏と木村氏を技術開発の両軸に据えて「無線電信調査委員会」を築地の海軍大学校構内に設立しました(注:ただし木村氏の着任は3月)。そして同年2月21日に第一回会議が開かれその議事録が日本無線史第10巻(p7)に掲載されているので引用します。

第一回会議覚(二月二十一日)

一、 無線電信ヲ軍用ニ供スヘキ目的ヲ以テ委員ハ先ヅ従来逓信省ニ於テ調査シ来レル嘱託委員通信技師松代松之助ノ専攻シタル無線電信機ヲ調査スルコト

二、 距離ノ調査ハ第二回トシ、今回ハ単ニ左ノ方法ニ依テ諸機具ノ動作ヲ調査スルコト

(一) 海軍大学校構内ニ於テ二四呎ノ縦直導線ヲ森ヲ距テ眼界以外ニ於テ一七〇米突ノ距離ニ樹テ通信ヲ交換シテ諸機具ノ敏否ヲ検スルコト

(二) 同上ノ導線ヲ小丘ノ両側ニ於テ眼界以外ニ三八三米突ノ距離ニ樹テ通信ヲ交換シテ諸機具ノ敏否ヲ検スルコト

『またこれを指導する外波委員長の挙措処置はまことに適切妥当なものであった。(1900年)2月21日の会議において調査会が今後の進むべき方針を明らかにし、直ちに松代委員が逓信省電気試験所で取り扱っていた機械を委員会に運び試験した。2月27日には山本権兵衛海軍大臣を始め海軍省、軍令部の人達大勢の閲覧に供したが、海軍最初の無線通信実験であるので一同の多大の感興を惹き、この感興が委員会のじ後の活動に大きな支援となった。』 (谷恵吉郎, 前傾書, p89)

松代氏ら逓信省からの出向組みは、勤務地が逓信省電気試験所から南へ数百m移っただけでなく、松代氏が完成させた電気試験所の無線機も海軍へ運ばれました。以後この電気試験所の無線機が日本海軍の無線研究のベースとなったわけです。

築地の海軍管理地の中央付近は1792年(寛政4年)松平定信侯が隠居した地で、春風池、秋風池、そして池を囲む築山などがある浴恩園という日本庭園でした。ここの森や築山を利用して電波伝播実験をしたのでしょう。 空中線は24呎(24フィート=7.3m)縦型導線、すなわち「接地式垂直型空中線」が使用されました。非同調式火花送信機のスパークギャップに垂直アンテナと接地を直結した場合には、アンテナ長の4倍(29.2m)の波長の成分が一番強く輻射され、およそ10MHzの短波が用いられたと考えられます。木村駿吉氏の「日本海軍初期無線思出談」(1935.5.9)によれば、この試験は単行通信で、印字機付きコヒーラ受信機で受けたとあります。外波委員長と松代委員は準備万端の体制をとり、2月27日の海軍大臣らへのデモンストレーションを成功させ、高い評価を受けました。

そして翌2月28日に軍艦武蔵と「陸-海」通信試験、3月1日に軍艦浅間と軍艦竜田に搭載して「艦-艦」通信試験を開始し、翌2日には完全に通信(浅間→龍田)ができました。軍艦のマストから垂直アンテナを降ろしたため、浅間は120呎(36.6m)、竜田は102呎(31.1m)の長いアンテナ(周波数的には2MHz帯あたり)を使ってみましたが、結局は築地が使う24呎(7.3m)の垂直線とほぼ同じ25呎(7.6m)に改めたと日本無線史にあります。双方の使用波長(30m, 10MHz)を合わせた方がうまくいくことを経験しました。

『 (浅間と竜田の)通信試験の結果は三浬(5.6km)までは確実であったが、七ないし八浬に至り符号が乱れた。空中線のキャパシティ過大のため一八番線単条二五呎に改めたので更に良好な成績を得た。(電波監理委員会編, 『日本無線史』第10巻, 1951, p10)

ここまでは外波・松代の両名で行われましたが、3月より赴任した木村駿吉氏が委員会に加わり、築地の海軍大学校(無線電信調査委員会)から羽田方面への「陸-陸」試験が計画されました。

その後委員会では試験用の受信所を東京市外羽田(穴守稲荷附近)に選定し、建設に取りかかったが、一定の予算を持たず、他の予算を流用してやる仕事だから速急に進捗せず、一時は調査会の方は凧(タコ)を揚げて、その凧にアンテナを吊り下げ、羽田の方には足場丸太で櫓(やぐら)を組立て、電柱(アンテナマスト)の代わりとして試験したようなこともあった。(電波監理委員会編, 『日本無線史』第10巻, 1951, pp10-11)

アンテナを高くすると通信距離が伸びることは経験していました。しかしアンテナを高くすると必然的にアンテナが長くなり、非同調式無線機では使用周波数が低くなることはまだ知られていませんでした。1900年(明治33年)4月に行われた海軍の築地-羽田試験では75呎(=23m)の垂直アンテナを用いたことから、その4倍の波長92m(3.3MHz)あたりが使用されたと考えられます。

三十三年(1900年)二月九日、戸波海軍中佐に無線電信調査委員長を命じ、松代氏並に田中海軍大尉、木村第二高等学校教授、種子島海軍中技手を委員とし、築地海軍大学校構内に調査所を設け、委員長を始め委員諸氏、鋭意これが研究に力めし所、成績すこぶる宜しく、四月廿十三, 四日の両日、(築地の)調査所と羽田穴森稲荷付近とに発信受信の両器械を据付けて試験したり。この両所間の距離は八哩(マイル)(=14km)ありて、マルコニー氏の公式によれば、送受信の直立線(接地式垂直アンテナ)の高さは、同哩(マイル)数に対し、八十五呎(フィート)を要するに拘わらず、七十五呎(=23m)にて十分なりし由にて、この点においては、既にマルコニー氏の装置に比し、一層の進歩を呈したるものというべく、調査の前途すこぶる好望なんりしにぞ、同月中に試行せし海軍大演習にも、戸波中佐主任と為り、これを実験せしという。(石井研堂, 『明治事物起原』, 1908, 橋南堂, pp265-266)

こうして海軍無線は築地の海軍大学構内の無線電信調査委員会(現:築地中央市場)で短波を使って産声をあげました。逓信省(電気試験所)は町名こそ「木挽町八丁目」ですが、海軍大学校(築地四丁目)の北隣に位置しており、ここ築地で松代氏が短波パラボラビームの実験を行い、また海軍大学校の築地海岸を借用して短波「陸-海」試験をやったとするならば、逓信省にとっても築地 "附近" は無線発祥の地であり、短波発祥の地でもあります。

4) フレミングが非同調式無線機の波長を解明 [1903年(明治36年)3月]

火花式送信機は歴史が長く、真空管による持続電波が全盛の時代になっても、小型船舶などで使われ続けました。一口に火花送信機といっても多くの方式があります。最も初期の非同調式は(アマチュア無線家など一部の簡易施設を除けば)大体1910年頃までには同調式に置き換わったようですが、この非同調式の送信機や受信機には周波数を決定付ける回路がありませんでした。

マルコーニ氏は火花実験を繰り返す過程で、スパークギャップの一方からの導線を天高く架線し、もう一方を大地へ接地すると通信距離が延びることを発見した話は有名です。このときアンテナ線を高く伸ばすほど明らかに到達距離が延びるため、アンテナの高さが到達距離に比例すると考えられました。松代松之助氏も接地式垂直空中線を試して、マルコーニ氏と同じ結果を得た事を1898年(明治31年)の電気学会講演会で報告しています。

此高さと云ふものは大に感働距離に関係を持ちまして高いものは低いものより遠くに届くことは明かで私等の実験でも確かにそれは証拠立てられるのであります。(松代松之助, 講演”マルコニー式無線電信”, 『電気学会雑誌』 Vol.18,No.120, 1898.7, pp299)

しかし当時の無線機が非同調式だったため、アンテナを高くすると、必然的にアンテナ線の長さも伸びて、(アンテナ回路の共振周波数が下がり)輻射周波数が低くなることを(松代氏はもちろんのこと)、マルコーニ氏さえも気付いてなかっただろうと、元郵政省電波研究所所長の若井氏が述べられています(マルコーニのページ参照)。現代の無線機の様に周波数を一定のままで、アンテナを高くすることができず、アンテナを高くしたら自然に(知らない間に)周波数が低い方へ移っていったわけです。始めはVHFでの火花実験でスタートしたと考えられますが、接地式垂直アンテナの考案で、数mの樹木などから吊り下げるようになり、例えば7m吊り下げると、波長はその4倍の28mでおよそ10MHzあたりの短波帯が(無意識のうちに)使用されるようになります。

やがて技術の進歩で同調という概念が取り入れられ、1900年頃から無線機にLC共振回路を付けて、輻射周波数や受信周波数は無線機側で設定する方法が実験され始めました。ようやく周波数(波長)という考え方が無線通信に入ってきたのです。そして同調式受信機で非同調式火花送信機の電波を受けてみると、(同調式送信機ほどの先鋭さには欠けますが)やはり特定のピーク波長をもって発射されていることが確認されました。

この非同調式火花送信機における発射波長が何により決定づけられているかを研究したのがロンドン大学の教授で、「フレミングの右手・左手の法則」で有名なJ.A. フレミング氏でした。同氏はマルコーニ社の技術顧問でもあり、学術面でサポートしていました。

1903年(明治36年)3月、フレミング氏はロンドンの技芸協会Society of Arts(のちの王立技芸協会Royal Society of Arts)でこれまでの無線研究の成果を発表しました。その講演"Hertzian Wave Telegraphy "(ヘルツ波無線電信)は以下の4回に分けて行なわれました。

● 第一回(3月2日): General Principles. The Theory of the Radiator or Aerial.

● 第二回(3月9日): Transmitting Arrangements and Transmitters.

● 第三回(3月16日): Receiving Arrangements and Receiver.

● 第四回(3月23日): Syntonization and possible Improvements.

そして第一回において、(同調回路を持たずスパークギャップSGに垂直導線と接地を連結した)非同調式火花送信機では、基本振動としてアンテナ線の長さの四倍の波長が輻射されると説明しました。この3月2日分の講演論文は上図の機関誌Journal of the Society of Arts(Vol.51-No.2644, July 24,1903, pp709-727)に掲載されています(講演の各回が分割されて機関誌に掲載されました)。

実験を繰り返したフレミング氏は教会のパイプオルガンのパイプと、非同調式送信機の空中線が似たような動作をしていることに気付きました。そして閉管気柱が1/4波長で共鳴するように、スパークギャップSGで空中線に電気振動を与えると、空中線も1/4波長で共鳴することを突き止めたのです(下図Fig.9/Fig.10)。

こうして下図Fig.15で示されたように、スパークギャップに直結された垂直アンテナにおいては、その長さの4倍の電波が発射されると発表し、広く無線界に浸透しました。

英国技芸協会Society of Artsでのフレミング氏の講演はイギリスではたいへん好評でした。それを一気に世界へ広めたのが、アメリカの一般科学ファン向けの月刊誌Popular Scienceです。一般人には入手しづらいSociety of Artsの機関誌Journal of the Society of Artsにあるフレミング氏の論文を、Popular Science誌の1903年(明治33年)6月号から12月号で、Hertzian Wave Wireless Telegraphyと題して転載しました。

その連載初回号(下図)、「アンテナ長の4倍の波長が発射される」件が伝えられ。

『・・・(略)・・・ It will be seen that the wave which is radiated from the aerial must have a wave length four times that of the aerial, if the aerial is vibrating in its fundamental manner. (J.A. Fleming, "Hertzian Wave Wireless Telegraphy [1]", The Popular Science Monthly, 1903.6, p115)

この連載は大変評判になり、のちに1冊の本"Hertzian Wave Wireless Telegraphy"にまとめられました(下図:全91ページ)。

アメリカのPopular Science誌が紹介したフレミング氏の論文は日本でも直ちに(赤痢菌発見で有名な志賀潔博士の実弟である)佐藤政資氏により翻訳され、下図[左]に示す『東洋学芸雑誌』(東洋学芸社)1904年(明治37年)1月号より"ヘルツ波無線電信"という連載をスタートさせたところ、日本の科学者たちの間で大評判になりました(連載は1904年1~4月, 6~8月号, 1905年2~4月, 6~7月, 9月号で完)。まだ無線技術の教科書がほとんど無い時代であり、しかも高名なフレミング大先生のレクチャーだったからです。

そこで1906年(明治39年)になって、これまでの翻訳記事の校閲を物理学者の長岡半太郎東京帝大教授にお願いして、一冊の本『ヘルツ波無線電信』(J.A. Fleming著/佐藤政資翻訳, 1906, 裳華房)にまとめました(下図[右])。

アンテナ長と輻射波長の関係は次のように訳されています。

『・・・(略)・・・若シ架空線ガ其ノ基本ノ仕方ヲ以テ振動スル場合ニハ、単一架空線ヨリ輻射スル波ノ長サハ、線ノ長サノ四倍ナラザル可カラズ。(J.A. Fleming, 佐藤政資翻訳/長岡半太郎校閲, 『ヘルツ波無線電信』, 1906, 裳華房, p37)

ヘルツ波無線電信」は明治期の無線研究者のバイブルとなりました。

当時の海外の無線マニュアルやハンドブックの類にはアンテナ長による周波数調整法が掲載されていますので、世界中の非同調式無線機のユーザーはアンテナの長さにより周波数を可変する方法を採っていたことが分かります。やがて同調式無線機が全盛の時代になると無線機のスイッチやダイアルで周波数を変えるようになりますが、無線黎明期には、このようにアンテナの長さで周波数を変えていました。

5) 無線はなぜ長波から始まらなかったのか?

裏返して言えば「無線はなぜ短波から始まったか?」でもあります。

昔ラジオ少年だった頃、私が最初に組立てた真空管ラジオは高一4球式でした。腕が上がるにつれて、5球スーパー、そして短波も聴ける全波式に挑戦するといった流れがあり、指南書には短波は配線を最短にしないとダメだみたいな事が書いてあり、子供ながらにも「周波数が高くなると組むのが難しいんだな」と思ったことを覚えています。

ところが無線通信の黎明期は全くその逆で周波数が高い方がお手軽でした。ここが現代の私達がイメージするところとは大きく異なっており、重要なポイントといえるでしょう。ただし周波数(波長)を意識していない時代ですから、高い周波数を使っているとの認識自体がありませんでした。

最初は手っ取り早く、短いアンテナをつないで実験していたのが、たまたま高い周波数(VHFや短波)だったということなのですが、非同調式時代はそもそも長波を発射できませんでした。なぜかというと、たとえば周波数100kHz(波長3000m)の長波を輻射させるには、その1/4にあたる750mの垂直アンテナが必要で、そんなスカイツリー(634m, 東京都墨田区)よりも背の高いアンテナを建設するのは無理です。もちろん垂直にせず、地面に水平にするなら延ばせない長さではありませんが、「アンテナは大地に対して垂直に配すべし」という常識や、「アンテナを高くするほど通信距離が伸びる」という経験から、初期の頃はそれには気付かず、試行錯誤を繰返す中でアンテナ線の扱い方を体得していきました。日本無線史から引用します。大王崎望楼無線は日露戦争の最中、1905年(明治38年)3月4日の開局です。

『・・・(略)・・・担当者は一等兵曹鈴木喆心であった。その後彼は大王崎(現:三重県志摩市)の無線電信所の装備に当ったが、同所では小山の頂に一五〇尺(45m)の木柱を建て、この木柱の頂点から約二〇〇米距てた隣の小山の上に、一寸(ちょっと)した小柱を建て、それに向って斜に空中線を張ったものが好成績を齎(もたら)すことを発見し、マルコニが称えるが如き垂直空中線でなくても宜(よろし)いことを知った。』 (電波監理委員会編, 日本無線史第10巻, 1951, p20)

無線が長波から始まらなかった理由は、初期の無線機では(現実問題として)長波を発射できなかったからです。これが技術革新によって同調式の無線機になり、輻射周波数や受信周波数は無線機側のLC回路に受け持たせ、さらに同調コイルの二次巻線にアンテナと接地を接続することで、周波数調整回路とアンテナ回路を分離させました。これまで使用周波数によってアンテナの長さを変えなければなりませんでしたが、その煩わしさから開放されたのですから、画期的な考案といえるでしょう。

さらにもし無線機側で周波数を変えた場合、アンテナに直列に入れたコイル(Tuning Inductance Coil)のタップを切替えて最適な共振ポイントに調整する方法も考案され、アンテナ長を固定できるようにしました。こういう無線技術の進化があって、はじめて長波に進出できるようになりました。

(各社の同調回路)

しかし長波が出せるようになっても、長波に仕事は来ませんでした。

1900年ごろから同調回路が実験される時代に入ると、マルコーニ社らが中波を、そして長波をも試すようになりましたが、それは少数の物珍しい取り組みでしかなく、大多数は中短波から中波を使っていました。それにマルコーニ氏らが挑戦した長波による遠距離通信ビジネスは、海底ケーブルとの競争に勝てずさっぱりでした。1910年代に入り、どうにか長波が軌道に乗りかけたところで、第一世界大戦が勃発したため腰砕けとなり、実際には1918年の終戦前になって、ようやく遠距離通信用として世界的に注目を集めるようになりました。

一方、船舶の公衆電報ビジネスは海底ケーブルとの競争がないため順調に伸び、マルコーニ社では短波を、他社は中短波から中波を使っていました。そして無線電報の国際ルール化の気運が高まり、第一回国際無線電信会議(1906年, ベルリン)が開かれて、一般公衆通信(無線電報)には中波600m(500kHz)と300m(1MHz)が割当てられ、海岸局は二種のいずれかを、船舶局は300mを通常電波として使うよう決議され、それが1908年(明治41年)7月1日に発効しました。

国際ルールでは少なくとも300m(1MHz)さえ装備すればよいので、逓信省は中波300m(1MHz)一波を採用することを決め、1908年に銚子無線JCSや天洋丸TTY等により無線電報ビジネスを創業しました。この国際ルールによって短波~中波を使っていた世界の船舶局と海岸局は、国際共通波として中波に集約されていきます。そして1913-4年あたりには短波は完全に見捨てられました。短波通信の終焉です。

6) 無線は「高い周波数」から「低い周波数」へ向かって発展した ・・・2019年9月9日更新

電波技術に携わった方なら人類の電波利用は超短波から短波へ、そして短波から中波、さらに中波から長波へと周波数の低いほうへ向かって発展(そして1920年代より短波へ回帰)したことを教わったはずです。しかし自分自身を振り返ってみると、高周波系の設計に日々携わる中でいつの間にやら、そういった事実を忘れてしまい、電波利用は長波からはじまり短波そして超短波へ向かったかのように思い込むようになっていたような気がします。

我が国の電波研究の最高峰である郵政省電波研究所の所長を務められた若井登氏が「電波史発掘」と題して情報通信ジャーナル(1994年11月号)に次のように記されています。

『・・・二十四年前にマクスウェルによって予言された電磁波は、ヘルツにより、今で言う超短波から極超短波帯の電波として、人類が使える形になったのである。・・・(中略)・・・

ここで電波史を周波数という観点から見てみる。私自身電波は長波から順次高いほうに開発されてきたと、ごく最近まで信じていた。しかし実際はもっと複雑であって、むしろ創成期には逆であった。

先ずマクスウェルは、彼の電磁波理論を具現化しているのは光であると考えていた。次にヘルツが実験で用いたのは約六〇MHzと一〇〇MHzの超短波帯と約四五〇MHzの極超短波帯の電波であった。ヘルツ以降の研究は、後述するようにさらに短い方へ進んだが、マルコーニに至って一挙に中波に下がっている。その後一九〇〇年から一九一〇年にかけて、遠距離まで届く長波や超短波の大電力局が建設され、中波は放送という局地的利用に占有された。

そして遠距離用としては、空電の激しい長波に代わって、一九二〇年代から短波が登場し、一九四〇年代の超短波へと移行してきた。その後は一方的に短波長側への移行が進み、現在ではミリ波からサブミリ波に向かう趨勢にある。マクスウェルに端を発する電磁波は、結局は光に回帰するのであろう。』 (若井登, ”電波史発掘”, 『情報通信ジャーナル』, 1994年11月号, 電気通信振興会, p34)

電波史研究における世界的第一人者の若井氏ですら、長波から高い方へ開発されてきたと勘違いされたそうですから(もちろん本当はそんなことないでしょうが・・・)、素人の私が思い違いするのは当たり前ですよね(笑)。

(おわり)