諸国の短波開拓

ここではマルコーニ、アマチュア無線家、フランク・コンラッドのいずれにも属さない、アメリカおよび諸外国の短波開拓をご紹介します。

以下の3つのページと合わせて「短波開拓史」となっていますので、そちらもご覧下さい。

◆マルコーニとフランクリンの短波開拓(1916年~)および昼間波の発見(1924年)についてはマルコーニの短波開拓史のページをご覧下さい。

◆アマチュアによる短波の小電力遠距離通信の発見(1924年秋~)についてはアマチュア無線家の短波開拓史のページをご覧下さい。

◆コンラッドの短波における電離層反射の実用化(1923年11月)についてはコンラッドの短波開拓史のページをご覧下さい。

短波開拓史のフロントページにある、スーパーヘテロダインの発明者アームストロングの講演「発見の精神」は短波史上とても興味深く、御一読をお奨めさせて頂きます。

アメリカにおける短波の開拓について

1) 米国の研究用としての短波 (1922-23年) [米国その他編]

まずアメリカの30MHz短波パラボラビームからご紹介します。

1922年(大正11年)6月20日に渡米中のマルコーニ氏が短波研究の講演と波長1m(300MHz)のパラボラビームアンテナのデモンストレーションを行ないました。これに刺激を受けた米国商務省標準局Bureau of Standardの無線研究所Radio Laboratoryにおいて、短波パラボラビームの検証実験が始まりました。

担当したのは無線研の二人の物理学者 F.W. Dunmore氏とF.H. Engel氏で、波長10m(30MHz)を用いました。

輻射器には垂直ダイポールを使いましたが、フィーダーの引き回しが指向特性に影響を与えないように、垂直ダイポールの中央(給電部)に50Wの発信機を入れた箱を吊るすという一風変わった方法がとられました(図)。

そしてその輻射器の周囲に反射器を並べて吊るし、パラボラ反射器を形成しました。写真の左側に人物が小さく写っていますが、上から吊り下げる全体構造を考えると、たとえ波長10mといえども相当な大きさです。受信測定側は垂直ダイポールにいわゆる「0-V-2」が使われました。

試行錯誤しながら反射器を調整し、その指向性特性を計測し、ビームの有効性が確認されました。実験結果は1923年4月11日付けScientific Papers of the Bureau of Standards, No.469 [Part of Vol.19](商務省標準局)に、"Directive Radio Transmission on a Wave Length of 10 Meters" という題で発表されました。論文中でこれらの実験が行なわれた日付が明らかになっていないのが残念ですが、マルコーニ氏の講演が1922年6月20日でしたから、その年(大正11年)の秋頃でしょうか。写真に写った人物がジャケットを着ていないことからまだ寒くなっていないころだと想像します。

これが米国商務省標準局により試作された、アメリカで最初の短波パラボラビーム(30MHz)でした。ただしマルコーニ氏のように通信用ではなく、指向性空中線の研究用です。

2) 米国航空隊本部の短波研究 (1922-23年) [米国その他編]

1923年(大正12年)7月、F.W. Dunmore氏らは、上記とはまた別の短波プロジェクトについて、無線技術者協会IRE(Institute of Radio Engineers)へ発表(F.W. Dunmore, "Continuous-Wave Radio Transmission on a Wave Length of 100 Meters, Using a Special Type of Antenna", Proceedings of the Institute of Radio Engineers, Vol.11-No.3, pp243-255, June 1923)しています。商務省無線研究所のF.H. Engel氏はもちろん、ウェスティングハウス社のコンラッド氏の短波実験局8XKも協力していました

この研究は米軍の航空隊本部が主体として実施したもので、日本の電気学会で翻訳要約され『学界時報』(大正12年11月号)に掲載されました。

無線電信に100米程度の短い電波長を使用することは種々の利益があるが、この点に関しては未だ充分な研究がされていない。以下記述するものは特殊な空中線を使用して、短波長の電波に依る方法であるが、これは米国航空隊本部によりなされたもので、発表に際して特に同部長の許可を得た。

100米附近の電波長は現在ほとんど使用されていないから従って混信も少ない。またサイクルが高いからわずか電波長を変えるばかりで、二種電波を混合なく使用出来る。もう一つの利益は長波長よりも空電の妨害が少ないことで、特に短波長になると受信空中線の大きさ非常に小さくすむから、一層空電の妨害を受けることが減ずる。送信機にはウエスターン会社G型50ワットの真空管を四個使用し、発振する回路は通常のと少しも変わりない。・・・(略)・・・また空中線は風により少しも動かないよう固立することが必要である。この空中線はこの目的のためにも適当している。(F.W Dunmore/荒川大太郎訳, "特殊なる空中線を使用し100米の持続電波を発振すること", 『学界時報』, 大正12年11月, 電気学会, pp241-242)

この記事はRadio News(1923年11月号, "100 Meter C.W. Transmission - an account of the experiments carried out at the Bureau of standards", pp530-531)やARRL機関誌であるQST誌7月号, Radio Broadcasting1923年11月号にも掲載されました。

3) 米国の海軍の短波伝搬調査 (1923年) [米国その他編]

第一次世界大戦末期(1918年頃)、米国海軍は艦隊内の船間連絡用に短波通信を試験したといわれていますが、終戦後は短波の本格的な研究へ発展しなかったようです。

1923年(大正12年)7月2日に設立された米国海軍研究所(NRL: Naval Research Laboratory, ワシントン州ベルビューBellevue)のテイラー氏(A.H. Taylor)らが短波研究を始めました。同年11月に初めて伝播試験を行ったところ、短波の電界強度は有名なオースティン・コーエン(Austin-Cohen)実験式(1914年)には従わないことに驚きました。1924年(大正13年)3月の海軍研究所NRLの試験では、コネチカット州Hartfordのライナルツ氏の実験局1XAMが、波長22mまでの昼夜の伝播試験を手伝っています。これがきっかけとなりアマチュア団体ARRLと海軍研究所NRLの良好な関係が築かれ始めます。

In November 1923, NRL started short-wave propagation tests with radio stations around the country. In December, Taylor sent a report to call the navy’s attention to “the phenomenal results obtained with radio transmitters operating in the neighborhood of 3000 kcs [kHz].

” The recent experimental findings had shown that “if the frequency is high enough, some apparently new phenomena of transmissions take place and the intensity of signals apparently does not in any way follow the well-known Austin-Cohen transmission formula.”(Chen-Pang Yean, Probing the Sky with Radio Waves, University of Chicago Press, 2013, pp155-156)

4) 米国の海軍飛行船の短波通信試験 (1924年) [米国その他編]

1924年(大正13年)1月16日の大嵐で、米海軍飛行船ZR-1シェナンドー号(The USS Shenandoah)が一部破損し、修理のためにドック入りしました。

その際に既設の300W送信機を1,000マイル程度の通信が可能な新型4kW送信機(波長500-1,500m)と交換することになりましたが、同時に500マイル程度をカバーできる補助装置として波長100m前後の50W短波送信機を積むことが決まったのです。研究してきた短波が実配備される時がやってきました。

シェナンドー号腹部のコンパートメントの半分のスペースが無線室として拡張され、中波と短波の送信機と受信機がそれぞれ据え付けられたほか、4kW中波送信機の電源用にガス駆動発電機も増強されました。上図は海軍研究所が設計し、シェナンドー号に設置した短波送信機(三球式, 出力50W, 電話/電信)で、フロントパネル側と、側面から内部を写したものです。

1924年夏、補修と無線機の増設工事を終えたZR-1シェナンドー号(コールサインNERK)は、ニュージャージー州レイクハースト(Lakehurst)海軍飛行場(コールサインNEL, 但し短波なし)からカルフォルニア州サンディエゴ(San Diego)海軍基地(コールサインNQC, 但し短波なし)までの米大陸横断飛行を行ないました。その航行中、ベルビューの海軍研究所(コールサインNKF)との間で常に双方向通信を保つことができたそうです。おそらく中波と短波の併用による成果だったと想像します。ZR-1シェナンドー号は電信用波長89m(3.37MHz)と電話用波長98m(3.06MHz)を用いました。アマチュア団体ARRLも追跡受信に協力しました。

【参考】 姉妹船ZR-3ロサンジェルス号のコールサインはNERMです。ZR-2は1921年8月23日の試験飛行中に墜落破壊(コールサインNERLが予定されていたかも?)。

1924年後半より、米国海軍は各地の海軍基地へ短波を配備して、1925年(大正14年)4月にはARRLの全面協力により、ARRLトラフィックマネージャーのシュネル氏が旗艦シアトルに乗込み、太平洋上から大規模な短波の伝播試験(コールサインNRRL)を行いました。

海軍研究所でこれらの伝播試験を繰り返したテイラー(A.H. Taylor)氏は、直接的な短波伝播研究への貢献が明言されたものではありませんが、『for his work in connection with the investigation of radio transmission phenomena』として、1927年度のモーリス・リーブマン記念賞を受賞しました。

5) 米国の陸上移動用としての短波 (1924年) [米国その他編]

1923年(大正12年)3月20-24日の第二回国内無線会議では急増中のラジオ放送用として、550-1350kHz(1040-1050kHzを除く)という多くの周波数を分配することになり、その一方で将来の新たな無線需要に対する周波数不足が懸念されていました。

そんな時代背景の中でタイミング良く、1923年11月以降、米国放送業界ではラジオ局KDKAWGYが短波中継を実用化したため、1924年(大正13年)の秋に開催予定の第三回国内無線会議では一気に64MHzまでの(正確には64MHz以上も)周波数を分配することになっていました。

1924年(大正13年)春、ワシントンDCにあるポトマック電力会社は放送業界の短波利用の成功をヒントに、社内通信で短波を使えないかと考えました。

そして1924年6月には、短波実験局3XAVのライセンスを得て、波長70-100m、出力50Wの無線電話で、ワシントンの本社と郊外にある発電所間、および本社から保守サービス車両への業務連絡に使うようになりました。(詳細はわかりませんが発電所が僻地にあって有線電話が開通してなかったのでしょうか?)

ポトマック電力会社には12両のフォード型保守車があり、電柱や電線に問題がないか管内を巡回していましたが、緊急の保守が発生しても保守車両へ連絡する手段がありませんでした。そこで保守車両にアンテナと短波受信機を搭載し、毎時最初の15分間を聴取時間として、本社の3XAVからの出動指令(一方的送信)を受けることで業務の効率化を図りました。これは新たな無線活用の成功事例となりました。ポトマック電力会社の車両はまだ受信専用ですが、これが先駆けとなり1924年の後半には放送業界で現場取材用の陸上移動局(短波中継車)が実用化されました。

「短波=遠距離」というイメージが先行しがちですが、短波が実用化されたことのメリットとして、電波需要の拡大に対応できたこと、陸上移動局という分野でアンテナが小さくて済む短波が有効だったことも忘れてはならないでしょう。このあと1924年の秋になると世界のアマチュアにより次々とDX交信が行なわれ「短波の小電力遠距離通信」が証明されて、無線界で大きな話題を呼ぶことになりますが、別に遠距離に飛ばなくても良いからという短波の需要もありました。

6) 米国の公衆通信用としての短波 (1923-25年) [米国その他編]

1919年(大正8年)12月、無線事業が外国資本の米国マルコーニ社の独占下にあることを危惧していた政府と海軍は、同社に対しゼネラルエレクトリック(GE)社より資本の大量注入を受けさせ外国人持ち株比率を20%に引き下げ、RCA社として生まれ変えさせました。1920年にウェスティングハウス社がラジオ放送事業を開始(KDKA)するや、RCA社に移籍した元米国マルコーニ社の営業部長デビッド・サーノフ氏がこれに目を付け、ラジオ受信機を製造販売する傍ら、放送事業への参入を計画しました。

1923年(大正12年)5月15日にRCA社はウェスティングハウス社からニューヨークのラジオ局WJZを買い取り、将来の系列ネットワーク化後の番組配信と、米国マルコーニ社時代からの南米公衆回線(電報)の補助用として短波を使う方針を打ち出したのです。

そして1923年9月、ニュージャージー州タッカートンにある公衆通信局WGHに波長100mの短波送信機を設置し、小規模ながらも実験が行なわれるようになりました。

1924年(大正13年)中頃より本格的な試験運用へ移行し、暮れには公衆通信の取扱いをはじめたようです。同年秋のマルコーニ社の昼間波伝播テストもRCA社が受けています。米国における公衆通信用の短波無線局第一号はWGHで、まずは補助的運用として試されました(日本でも1926年(大正15年)から東京-大阪や東京-パラオ回線で短波が長波の補助用として試されましたが、英国マルコーニ社の凄いところは長波との併用ではなく、いきなり短波のみで公衆通信を実用化した点にあります)。

米国では公衆通信(電報)用よりも放送中継用の短波が先に実用化されました。)

Radio News誌1925年(大正14年)1月号に"New Commercial Short Wave Station Licensed" (左図)という記事があります。

The first commercial short wave, low-powered, trans-oceanic radio station has been licensed, showing the recognition of this means of communication by the commercial radio interest.

Station WGH at Tuckerton, N. J., has been licensed to operate on 90, 93, 97, 100 and 103 meters by the Department of Commerce. With this new transmitter rated at 20 k.w., the engineers expect to establish long-distance commercial auxiliary circuits to Buenos Aires, Berlin and Paris.

When WGH is compared with the power and wave-lengths of the main transmitter WGG at Tuckerton, which are respectively 200 k.w., and 15,900 meters, the radical step is obvious; only one tenth the power is to be used.  The range of WGG is approximately 4,500 miles, and if WGH is to establish such a circuit it must also function over great distances, at least at night, when the peak of the traffic of the central radio station in New York is reached.

Many experiments on these short wavelengths have been very successful and abroad much progress has been made.  The whole radio industry is watching with interest the practical operation of this station.  』 ("New Commercial Short Wave Station Licensed", Radio News, 1925.1, p1323

このサイトのJ1AAのページでも取り上げたように、1924年12月よりRCA社はカリフォルニアのボリナス局6XIとハワイのカフク局6XOの短波テストをスタートさせ、日本の逓信省にも受けてもらえないかと申込みがありました。

1925年(大正14年)2-3月頃、ついに岩槻受信所が西海岸ボリナス6XIと、ハワイのカフク6XOが試験している様子をキャッチし、その強力さに驚きました。そして岩槻でも送信機を組み立てJ1AAでオンエアーして、米国西海岸のアマチュア6BBQとの交信に成功したのが4月6日です。

1925年5月にはボリナス6XIは夜間の一部時間帯に実用局のコールサインKEL(波長95m)を使い、またカフク6XOも夜間に実用局KIO(波長90m)間で公衆電報を扱いはじめました。つまりRCA社は4ヶ月ほど短波を試したところで、(長波回線に対する補助回線ではありますが)短波の公衆通信を実用化しました。これには短波の試験中だったドイツのナウエンPOZとアルゼンチンのLPZが4月より実用通信を扱い出したため、あわてた(?)ためでしょうか。

商務省発表による1925年(大正14年)11月4日現在の短波実用局(公衆通信局)は下表ですが、ボリナスKEL-カフクKIO回線がせいぜいで、それ以外はまだまだ様子見程度だったようです。短波の実用化試験をしていた商用局はこのほかに30局以上ありますが、やはり本格的な公衆通信という意味においては1926年(大正15年)のマルコーニビームの開業からのようです。

なお上表ニューブランズ・ウィックWIK, WIZ, WIRのうち1局と、ロッキーポイントWQO, WQNのうち1局はまだ電報取扱い準備中とのことです。

下図[左]はニューヨーク、ロングアイランドのRCA社リバーヘッド受信局に建設された平面ビームアンテナです。英国マルコーニ社のドーチェスター局を受けていました。

また下図[右]はRCA社ロッキーポイント送信局の平面ビームでドーチェスターへ送信しました。

固定局間の短波帯公衆通信は対手局(の方角)が常に同じなので、このような平面ビームアンテナで発展しました。

7) ベル研とAT&Tの短波の伝播試験 (1925年) [米国その他編]

1925年(大正14年)9月から11月まで、ベル研(Bell Telephone Laboratory)とAT&T社が、2.7~18MHzまでの短波の共同実験を行ないました。波長111m(2.7MHz), 66m(4.5MHz), 45m(6.7MHz), 33m(9.1MHz), 16.5m(18.1MHz)の距離と強度と時刻の関係を解き明かし、R.A. Heising氏、J.C. Schelleng氏、G.C. Southworth氏の連名で無線技術者学会IRE(Institute of Radio Engineers)へ論文発表"Some Measurements of Short Wave Transmission" (IRE Vol.14-No.5, pp163-647, Oct.1926)しました。

横軸は時刻で中央が深夜12時で左右端が正午になります。目盛は3時間毎です。奥行き方向は送信点からの距離で、奥が送信点です。100マイル毎に目盛があり、一番手間まで来ると800マイルです。強度は上ほど強いことを示します。

たとえば2.7MHzや4.5MHzでは100~200マイルまではやや急峻に減衰してゆきますが、そこから夜間を中心にあまり距離に依存せず良好な状態が続きます。ところが6.7MHzになると深夜12時前後が不感時刻帯となりはじめ、9.1MHzでは100マイル附近の距離に不感帯が現れ、また深夜の不感時刻帯の幅が広がるのが判ります。さらに18.1MHzになると100マイルまでの送信点近傍では、きわめて急峻に減衰し、不感距離となりますが、600マイルを超えると再び昼間時刻帯で通信可能になります。彼らの論文では視覚に訴えるこられの3Dグラフを使い説明され、高い周波数でのスキップ現象が見て取れます。

大正14年といえば、わが国では岩槻受信所建設現場J1AAがアマチュアを対手局として短波試験を行っていました。春よりアマチュアは80m→40m→20mと上がっていきましたが、夏を過ぎると再び低い周波数へ戻るムーブメントが起きたため、官練無線実験室J1PPはアマチュアに合わせて低い周波数に送信機を改造しました。その秋にアメリカではベル研とAT&Tによりこれ程緻密な伝搬調査がなされたのですから、日米の研究格差を感じます。

【参考1】 前述しましたが、イギリスのマルコーニ社はもっと進んでいて、大正14年初頭からポルドゥー実験局2YTが5~12MHzを、同年8月よりチェルムスフォード実験局2BRが12.5~30MHzの伝搬特性を研究しています。

【参考2】ジェネラルエレクトリック社(GE)もまた少し遅れて1926年(大正15年)春に同様の実験を行なっています。同社の実験局2XAW(20.000MHz, 600W, 自励発振)、2XAD(11.370MHz, 1KW, 自励発振)、2XAF(9.150MHz, 10KW, 水晶発振)、2XAC(5.970MHz, 10KW, 自励発振)、2XK(4.580MHzおよび2.750MHz, 10KW, 水晶発振)により距離と時刻の関係を明らかにしました。結果はRadio Engineering誌1926年12月号で公表されています。

その他の諸国における短波の開拓について

8) フランスの短波の開拓

欧州で英国(マルコーニ社)に次いで短波の研究をはじめたのはフランスです。C. Gutton氏が1917年に真空管で波長1m(300MHz)の持続電波を発振させることに成功しました。

During the war, in 1917, Prof. Gutton had already succeeded in producing, with ordinary vacuum tubes, oscillations of about one meter wave-length. At that time he thought of using this very short wave as a beam to be directed by means of parabolic screens. (René Mesny, "The Production and Use of Ultra Short Wave-Lengths", Radio News, 1924.5, Experimenter Publishing Company, p1566)

フランスでは1920年代の早期から(短波よりもむしろ)超短波の研究が進められました。

フランスにおける通信用の短波研究は、仏軍のメニー(René Mesny)教授とフェリー(Gustave Ferrié)将軍が率いる通信隊研究所(Research Laboratories of the France Army Signal Corps.)が有名です。左図は波長1.0-1.5m(200-300MHz)の無線電話装置を試験している、メニー教授[向って左側]とフェリー将軍[向って右側]です。

1921年(大正10年)頃より真空管式で短波長を発振させる研究から始まりました。マルコーニ氏がイタリア軍の秘密通信の開発要請を受け短波の研究をはじめたように、フランス軍でも同様の目的で短波に目を付けたものと想像します。

1923年(大正12年)には波長1.8m(167MHz)の無線電話装置とパラボラ反射器を完成させてフィールドテストが行なわれました。トラックの屋根に送信機をセットし、受信機は超再生方式で組まれました。

木がまばらなフィールド環境では反射器なしでも1.5マイル(2.4km)の距離まで通信ができましたが、受信機を森林の中へ持って入ると通信距離は1/3マイル(500m)ほどになりました(左図[右])。

パラボラ反射器は木製のフレームに銅版を貼り付けたもので、メニー教授は風の強い日などは試験に適さず『Owing to bad weather we have been unable to carry on out-door experiments with reflectors, under various conditions.と語っており、結局のところ反射器なしの実験が中心だったようです。この送信機とパラボラ反射器はRadio News1924年5月号の表紙にもなっています。実験者の背後にある屏風のようなものがパラボラ反射器です(上図[左])。

逓信省工務局の松行利忠氏の記事を引用します。

超短波の伝播研究は、仏蘭西(フランス)が最も早く、メニー教授は一九二三年頃から、此の研究を始めている。送信機は第一図の様なもので、之で一・八米(167MHz)の電波を発射し、超再生式受信機で受信して、電話の実験を行った(口絵第二図は受信状況を示す)。この時は送受信共に反射器を用いず、入力三ワットで街路樹のある道路上二粁(2km)、森林中五〇〇米という到達距離を得たが、その後送受信側に反射器を取付けて、アルベルトヴィルの丘とグノーブルの丘との間や、パリのエッフェル塔、モンヴァレリーン等で実験を重ね超短波は直線的に進み、途中に障害物が在れば吸収せられる事を明らかにした。(松行利忠, "各国に於ける超短波通信の研究と其の応用", 『ラヂオの日本』, 1931.9, 日本ラジオ協会, p18)

9) フランス・エッフェル塔からの短波伝搬試験

1923年(大正12年)2月から8月にかけて、通信隊研究所はパリから波長45m(6.7MHz)の短波を発射して伝播調査試験を実施しました(左図)。フランスの各地で受信試験を行い短波の性質を明かそうとしました。

この電波の受信試験にはアマチュア無線家デロイ氏(8AB)ら民間の研究家も一部協力しています。そしてデロイ氏は半年後の1923年11月27日に短波による米国アマチュアとの大西洋横断通信を成功させ、アマチュア界の英雄になりました。

Wireless World1924年3月19日号(p776)"Short Wave Transmissions from FL"という記事があります(下図)。

エッフェル塔無線局FLから短波の115m(2.6MHz)が毎週月・水・金の21:00-21:35まで試験波が発射されました

さらに同誌4月3日号(pp23-24)によると、エッフェル塔FLの短波試験は3月の毎週月・水・金の5時台(05:00-05:10, 05:15-05:25, 05:30-05:40, 05:45-06:00)、15時台(15:00-15:15, 15:20-15:35)、21時台(21:00-21:15, 21:20-21:35)に波長115m(2.6MHz), 210m(1.43MHz), 380m(790kHz)だと伝えました。

そして同誌4月16日号(p89)では18日(金), 19日(土)に波長50m(6MHz)を、21日(月), 22日(火), 25日(金), 26日(土)に波長25m(12MHz)を発射することを読者にしらせています。マルコーニ氏が英国-レバノン間で波長32m(9.4MHz)の「昼間波」を発見したのがこの年の夏ですから、春に12MHzの試験を行ったフランスは短波先進国といえるでしょう。

10) ドイツの短波の研究

ドイツでは1920年頃にドレスデン工科大学のバルクハウゼン(H. Barkhausen)教授とクルツ(K. Kurz)氏が三極管で波長50cm(600MHz)を発振させましたが、1925年になると本格的な超短波の通信研究が始まっています。

独逸(ドイツ)ではイェナ大学教授エゾウ氏が早くから超短波の実験を開始し、一九二五年頃には波長三米(100MHz)、容量約二〇〇ワットの送信機を作って四〇粁(40km)位の通信を行い、この波長帯が空電妨害を受けない事、天候に左右されない事、及び一九二六年から一九二八年にかけては、電話の実験、反射器の実験等を行う一方、機械の改良も行い、遂に波長三米、入力一・五キロワットの送信機(第三図)を完成。之をヘルツォークスタンド(海抜一七〇〇米)に据付けて一八〇粁(40km)の通信記録を得た。』 (松行利忠, "各国に於ける超短波通信の研究と其の応用", 『ラヂオの日本』, 1931.9, 日本ラジオ協会, p18)

11) ドイツ短波へ向かったお家事情

1903年(明治36年)設立のドイツのテレフンケン社マルコーニ社と肩を並べるほどの力を持っていましたドイツはマルコーニ社のある英国に次ぐ無線先進国です。大電力長波無線局と対外海底ケーブルを所有していました。

第一次世界大戦に敗れたドイツは海底通信ケーブルを失い、終戦後の対外通信を全面的に無線へ切換えなければならないという事情がありました。しかし遠距離通信の花形である長波通信には強力送信機と広大なアンテナ敷地が必要で、ドイツはマルコーニ氏が提唱する短波通信に興味を持ったようです。

独逸(ドイツ)は有線無線両方面にわたり、着々自国の通信政策を実現し、対外通信上の優位を占めていたのであるが、対外通信界における独逸(ドイツ)のこの地位は第一次世界大戦の結果一朝にして崩れ去った。すなわち敗戦の結果、独逸(ドイツ)の海底線は総て連合国側によって分割され、独逸(ドイツ)は従来の対外通信政策を放棄せざるを得なくなったのである。これより以後、独逸(ドイツ)はもっぱら無線による対外通信網の建設に着手し、政府自らの手によって欧州各国との間の無線連絡を開設し、さらにテレフンケン会社の下に特殊会社たるトランスラジオ通信会社を設立して、欧州以外の諸大陸との無線連絡に当たらせることにした。伯林(ベルリン)近郊ナウエン無線局は同社が建設した世界的な大無線局で、南亜、アメリカ、日本、比律賓(フィリピン)、蘭領印度(インドネシア)、シャム、埃及(エジプト)との間に直通無線通信に当たった。(電波監理委員会編, "各国における対外電気通信状況", 『日本無線史』, 第五巻, 1951, p284)

12) ドイツの短波の商用化試験

ドイツの短波研究がいつ頃から始まったのかについて、いろいろ文献をあたりましたが英語圏の記事だけでは良く解りませんでした。

しかし1924年(大正13年)7月17日、テレフンケン社のナウエンPOZがアルゼンチン政府のMonte Grande無線局(ブエノスアイレス)LPZと波長70m(4.3MHz)で商用化試験をスタートさせました。(その後フランスのSainte Assise局FWも短波でLPZと試験を始めています。)

伝搬特性が解明できていない短波の基礎実験近距離での通信試験がなされたあと、遠距離の対手局を設定し、その国の電波主官庁と交渉し商用化試験という手順を踏むと考えれば、この1924年7月の相当前から短波の研究をしていたのでしょう。マルコーニ氏が米国IRE/AIEEの講演会で「短波の有効性」を世に訴えたのが1922年春ですから、の影響を受けていると思います。

ナウエンPOZは南米ブエノスアイレスLPZとの試験開始の少しあとに、日本の逓信省にも短波を受けて欲しいと申し入れ、岩槻受信所建設現場が1925(大正14年)春から共同試験を行ったことは、J1AAJ1PP/J8AAのページで書きましたのでご覧ください。

左図は1925年に撮影されたブエノスアイレスLPZの短波アンテナですが、マルコーニビームになっていますので、新たに建て替えられたのでしょうか。

ナウエン局の短波は実験当初より完成度が高く、1925年(大正14年)4月には、ブエノスアイレス回線での商用公衆通信の取扱い(20:00GMT-07:00/08:00GMT)を開始しました。商用通信のコールサインはAGAAGF使い、またテレフンケン社が短波実験する時のコールサインは波長13m(23MHz)がPOF、波長28m(10.7MHz)がPOWというように使い分けました(なおナウエンはいろんな波長を次々テストしましたのでこの限りではありません)。

13) ノルウェー、イタリア、オランダなどの短波開拓

このほかノルウェー政府も早くから短波を研究していましたし、1924年(大正13年)にはイタリアのIDOIDHが波長106mと117mで本格的に試験を開始しました。

なお1923年11月23日英仏のアマチュアが波長100mで2WayQSOを成功させたとき、混信してくるオランダの短波局が傍受されていますので、オランダにおける短波試験はかなり早い時期から始まっていた可能性が高いです。

1925年(大正14年)になるとオランダ領インドネシアなど、遠方に海外植民地を持つオランダPCMM, PCUU の商用化試験がはじまりました。その他。南アフリカOCDJ, OCTO、ソビエトRDW、アイルランド1XAOなどが試験を行なっていました。

実用化という意味では、米国RCA社のボリナスKELがオランダ領インドネシアのバンドンと商用通信を始めました。また米海軍の海外基地(フィリピンNPO、ハワイNPM、サモアNPU、パナマ運河NBA)にも短波の軍用通信が広がりました。

14) 短波ビーム研究からはじまった日本(1897年)

日本は1924年(大正13年)の暮れに岩槻受信局建設現場にて短波受信試験を手掛け、やがて同所よりJ1AAが波長79mで送信試験を始めたのが1925年(大正14年)4月でした。逓信省と同様に無線局の許認可権を持っている帝国海軍もまた、ほぼ同じタイミングで短波に進出しています。詳細はJ1AAのページをご覧下さい。

しかしもっと遥か昔までさかのぼると、日本でもマルコーニと同様に1897年(明治30年)にヘルツの時代の様なビーム試験を松代松之助氏が行なっています。ラヂオ年鑑1926年度から引用します。

我が国に於ける無線電信の歴史は、明治二十九年十月にその第一頁(ページ)を染め出している、すなわち時の逓信省電気試験所所長 現工学博士 浅野應輔(おうすけ)氏が、同年四月発行の雑誌「サインティフィック、アメリカン」に英国郵政庁長官プリース氏のマルコニー無線電信法に関する講演が掲載されてあったのを読んで、始めて無線電信に対する興味を感じ、これが動機となって十月同試験所内に無線電信研究部が設けられ、浅野博士監理の下に時の電信主任技師 松代松之助氏(現日本電気営業部長)主となりこれが研究に着手した。

当時の方法は「誘導線輪」及び「ヘルツ発振器」によって電波を発生せしめ、それを鉄板で作られた七尺に五尺の反射屏風(びょうぶ)で送信したもので、受信検波器としては「コヒラー」を用いた。 (岩間政雄編, 『ラヂオ年鑑』 1926年度, 1925, ラヂオファン社, p14)

松代松之助氏の無線実験については、日本初の無線の謎という詳細ページをご用意しましたので、そちらをご覧ください。

短波(含む超短波)は大昔の研究者たちにとっての入門バンドでした。そして短波から中波へ、中波から長波へと、徐々に低い周波数を目指して発展したあと、マルコーニ氏、コンラッド氏、世界のハム達、この三者の貢献によって「短波への回帰」が全世界的なものとなりました。