Experimental

11 meter band(26-28MHz帯)で一番最初に無線局を免許されたのは誰なのか?CB愛好家なら、誰もが興味をもたれるのではないでしょうか?

アメリカでは国家が電波を規制しなかったため、電波は特許権者達のものでした。その関係もあり、1912年にアメリカでも電波に関する法律が作られた際に、特許登録を受け持っていた商務省DOC(Department Of Commerce)に電波局(Radio Division)が設けられ、ここがアメリカの無線局を管理するようになりました。 

商務省電波局は1915年1月より、図のような無線業務月次報告書RSB(Radio Service Bulletin)を月末ないし翌月初に発行し、当月に新規承認や変更承認した無線局を公表していました。

RSBは連邦無線委員会FRC(Federal Radio Commisson)が誕生したあとも発行されていました。当ページではこの政府公式データより11 meter bandの第一号無線局を紹介します。

上図、Radio Service Bulletine No.132(March 31, 1928)に初めて11 meter station (実験局)の免許が告示されていますコールサインはまだ実験局に国際符字が付加されていない時代で、6XAR, 2XBM, 6XJ の3局です。実験局には数字の次にXから始まるコールサインが指定されていました。

6XAR(27.523MHz, San Francisco)

6XARの母体となるのは、Citizens Radioブームの頃に5watts のAmateur局だったコールサイン6RYである。しかし「放送」が定義されてAmateur局の免許では放送行為が出来なくなった。

当時Amateurによるラジオ放送をCitizens radio と呼んでいたが、ラジオ局に関する規則が整備され、アマチュア資格ではラジオ放送行為が出来なくなった。多くのアマチュア無線家はラジオ放送局の経営者兼技術者へ転向した。6RYも1925年に正規のKFUQ(1,280kHz, AM)の許可を得た。まずKFUQの歴史から説明する。

KFUQ(1280kHz)時代

1925年1月3日、わずか5watts の非常に小さなラジオ放送局KFUQ(1280kHz)が、San Francisco に産声をあげた。Radio Service Bulletine No.93(Jan 2, 1925)の「新局」の欄に掲載されいるのでご覧いただきたい(下図)。

("NewStations,Special Land Stations", Radio Service Bulletin, No.97, p.4, May 1,1925, Department of Commerce, U.S.Government. P.O.)

7月には61 meter (4.9MHz) の送信機を積んだトラック(6XAR)が、San Francisco's Daiamond Jubilee Parade のマーチングバンドや、群衆の歓声を実況中継し、KJBS(1,270kHz)で放送を行った。

また同じ年には、サンフランシスコ消防局と共同実験を実施した。湾上に浮かぶ消防局の消火タグボートに送信機を積み、海上火災の消火活動において、無線連絡が有効であることをデモンストレーションした。

1926年より、6XAR は33 meter (9MHz)の許可を得て、中波のKJBS の番組をサイマル放送をしていた。(部分的には 6XAR の独自番組も放送した。) 

 

◆短波実験局(6XAR)に11 meterの周波数が加わった(1928年3月)

1928年3月に、6XARにはW.l.(Wave Length) 10.9 meter = 27.523MHz を含む、より高い周波数への指定変更が許可され、Radio Service Bulletine N0.132(March 31, 1928)の「変更」欄に"The List of Commercial and Government Radio Stations of the United States"(1927年7月30日版)への変更記事として掲載された。これが初の11m Experimental Stationである。

(NewStations,Broadcasting Stations, Radio Service Bulletin, No.93, p.3, Jan.2,1925, Department of Commerce, U.S.Government. P.O.)

 

◆KJBS(1360kHz)時代

1925年3月27日、KFUQはコールサインと周波数の変更が認められた。KFUU(Oakland)や、KFQU(Alma,Holy City in the Santa Cruz Mountains)とコールサインが紛らわしく、聴取者が混乱していたためである。

新しいコールサインはKJBSだ。オーナー Julius Brunton & Sons のイニシャルが割り当てられた。波長236 meters (周波数1,270kHz)が指定され、Radio Service Bulletine N0.96(April 1, 1925)の「変更」の欄に掲載された。

(Alterations and Correction,Broadcasting Stations, Radio Service Bulletin, No.96, p.10, Apr.1,1925, Department of Commerce, U.S.Government. P.O.)

 

しかし混信問題で1925年10月には1,360kHzに移動した。

【参考】この時期はラジオ局が急増し混信対策として、商務省はラジオ局の周波数を、あっちへ、こっちへと変更を繰り返した。やがてラジオ局オーナーの反感を買い、そもそも商務省に電波を管理する権限があるのか?と訴訟になり商務省が敗訴し、"Radio Chaos" 電波無法時代へ突入するのである。

 

◆短波実験局(6XAR)を開局し、新しい試みを次々とはじめる

1925年5月、KJBS は短波帯に実験局 6XAR を開局した。そして彼らは無線通信のパイオニアとして、次々と新しい試みを実行し、世の中の注目を浴びはじめたのである。

(Alterations and correction,Special Land Stations, Radio Service Bulletin, No.132, p.9, Mar.31,1928, Department of Commerce, U.S.Government. P.O.)

9MHz(33.2m)は放送用だと推測されるが、36MHz(8.2m)や27MHz(10.9m)の電波が何に使われたかの記録はない。

1929年12月からはサンフランシスコ警察のPatrol Cars に6XAR を搭載し、移動無線の実験を開始した。さらに1931年のサンフランシスコの海軍記念日には潜水艦の中から無線中継し、海中からの初めての実況中継放送を行った。はたしてPatrol Cars や潜水艦から 27.523MHzの電波が発射されたかは不明だが、とにかく6XAR の精力的な無線実験活動の中で、きっと27MHz も使用されたのであろう。

ちなみにKJBSは、1959年に KFAX (http://www.kfax.com/)に変わったが、San francisco の老舗局として、現在も1,100kHzで放送を続けている。San Francisco に立ち寄られたCB愛好家は、KFAX(1,100kHz) にラジオのダイアルを合わせてみてはいかがだろうか?

2XBM(27.900MHz, Water Mill)と6XJ(27.900MHz, San Diego)

11 meter band 第一号は6XARだけではなかった。

Radio Service Bullitin No.132(March 31,1928) の「新局リスト」欄には、27.900MHz を使う下記の2局(2XBM, 6XJ)が、"The List of Commercial and Government Radio Stations of the United States"(1927年7月30日版)への追加として掲載された。

Radio Service Bullitinでは承認日は掲載されないので、2XAR, 2XBM, 6XJのうちどれが一番早いかは分からない。そこで本サイトでは、「1928年3月に初の27MHz局が3局誕生した」と記すことにする。

(New Station,Special Land Stations, Radio Service Bulletin, No.132, p.5, Mar.31,1928, Department of Commerce, U.S.Government P.O.) 

この2XBM(東海岸:ニューヨーク)と6XJ(西海岸:サンディエゴ)の周波数がまったく同じことから、両局は同一プロジェクトだと推測される。ちなみに2XBM の Western Union Telegraph Co. は当時は独占的地位にあった米国最大の有線系電信会社である。6XJのPacific Coast Crystal Laboratoriesについては不明である。

当時はラジオ放送局の系列化が進んで、系列局への番組配信を、料金の高い有線から短波中継無線へ切り換える試みが盛んだった。

有線系のウエスタンユニオン電信社もこの流れに遅れまいと、大陸横断中継無線に適した短波帯周波数を模索していたのだろうか?2MHzから42MHzまで、非常に広範囲に実験波を獲得している。

11m bandの第一号が1928年3月に承認された6XAR, 2XBM, 6XJの3局だということが明らかになったところで、一旦11m bandの話題から離れて、この当時の短波帯の利用状況を説明しておく。

 

◆放送事業者の動向と戦略

ラジオ放送局数は順調に伸びたが、受信機販売でのビジネスモデルも限界となった。必然的に1923年より、広告を流して収益を得る「広告放送型ビジネスモデル」に移った。そして番組を共有するために、放送局が系列ネットワークを形成するようになった。しかし親局が系列放送局へ番組を配信するには、AT&T などの有線系通信会社の回線を利用するしかなかった。この回線使用料が放送ビジネスを圧迫していたのだ。

 

有線系通信会社への回線使用料の支払いを回避するには2つの作戦があった。

ひとつは、ラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカ(RCA)社が選んだ、超大出力放送である。これは"Super-Broadcasting"とも呼ばれ、メガワットでなるべく広いサービスエリアを確保しようとするものだ。

もう一つが、ウェスティング・ハウス(WH)とジェネラル・エレクトリック(GE)が選んだ、短波帯での長距離放送だった。しかし安価な家庭用短波受信機の製造にはまだ技術的に難しかったため、WH社は短波による家庭への直接放送よりも、放送局間を結ぶ有線中継回線を、短波帯で置き替えようと考え始めていた。放送無線中継(Relay Broadcasting)局の登場である。そしてWH社のKDKA局(ピッツバーグ)は1923年11月22日に開局した系列局KFKX局(へースティング)へ波長94m(3.2MHz)で無線中継をはじめ、短波の電離層反射を実用化した。

 

1924年はアメリカで短波帯が各種業務別に分配された。1924年10月、第三回国内無線会議(Third National Radio Conference)で、64MHzまでの周波数を、商務省はまるごと国家管理するプラン(下表は500kHz以上の部分の抜粋)を採択した。まだ短波の性質は解明できていなかったが、とにかく国有化を急いだのだ。ただし実質的な周波数分配は18MHzまでだった。それ以上の周波数は(5m Amateur Band を除くと)当時マルコニー社が盛んに実験していたBeam Transmission の実験用とした。

表をみるとわかるようにRelay Broadcasting には2, 4, 9, 11MHzにかなりの周波数を分配した。

 

1925年11月、第四回国内無線会議(Fourth National Radio Conference)が開かれた。今回は軽微な調整だけだった。あえて挙げるならば、海軍の要請もあり、18.1MHz以上の全ての周波数は(Amateur Band を除いて)実験局 Band になった点だろう。

ちょうど太陽黒点の極小期が終わり、極大期に移ろうとしていた時期と重なったため、18.1MHz以上の実験局Bandが放送中継に適しているかに各社が興味を持ち始めていた。

 

◆有線系通信会社の動向と戦略

1851年、英仏海峡に世界初の海底ケーブルが敷設。1866年には大西洋横断海底ケーブルが開通した。日本近海でも、1871年にデンマークの大北電信会社(Great Northern Telegraph)が、東シナ海の長崎-上海間と、日本海の長崎-ウラジオストック間に海底ケーブルを敷設した。さらに大北電信会社は瀬戸内海経由で長崎-東京を開通させようとしたが、それを日本政府は拒否。1872年に関門海峡に海底ケーブルを自力で敷設して、陸路で東京まで開通させた。これで日本と欧州間を結ぶ、インド経由とシベリア経由の2つの通信ルートが完成した。このように有線系通信会社は長年に渡り長距離通信を独占していたのである。

しかし1920年代に入り、無線系通信会社が短波帯を使った長距離通信事業に参入したため、有線系通信会社は大打撃を受けていた。海底ケーブルは施設費も莫大だが、その保守にも莫大な費用を必要とする。座して死を待つわけにはいかない。1920年代の後期には有線系通信会社も、短波帯実験局を開設し始めた。

◆18.1MHz以上の実験局Bandの電波伝播試験が始まる(広帯域実験局)

1927年にはいくつかの無線会社や通信会社が60MHzあたりまで自由に実験できる特別実験局の免許を得て、さらに遠距離通信に適した周波数を探っていた。下表のように広帯域免許で実験を繰り広げた時代だった。たとえばベル研究所の2XAAは中波の1.5MHzから60MHzまでの許可なので、27MHz電波の電波を使用した可能性を否定できないのだが(といって実験ログが公開されているわけでもなく)、肯定もできないため、これらの広帯域実験局は11m band 免許の第一号には考えない。

 

◆もしかすると1926年(大正15年)6月に 26.316MHz が実験されたかも

日本の電気試験所の報告書(1926, 大正15年度・昭和元年)には、1926年(大正15年)6月22日~7月7日の期間にイギリス郵政庁の実験局5DHからの電波の受信試験を行った記録があり、その波長は『11.4mないし45.0m 6種』となっている。この範囲で6波が発射されたようだが、少なくとも両端の11.4m(26.316MHz)と45.0m(6.667MHz)は使用された可能性が高い。

もしそうだとすれば1926年の英国郵政庁5DH(Post Office Research Station, Dollis Hill, London)が実験した、11.4m(26.316MHz)が、私が知る中では最も古い11m実験局の記録である。

(高岸栄次郎/畠山孝吉, 短波長受信試験, 電気試験所事務報告 大正15年度・昭和元年度, 1927.7, 電気試験所, p120 )

ただし電気試験所平磯出張では5DHが発する11.4mの受信を試みたかは怪しいかもしれない。受信を担当された以下の畠山氏の回想記から、「どうせ波長11mなど聞こえない」とこの時間には挑戦しなかった可能性がある。

『六月下旬より七月上旬にわたり、英国の5DH局を受信致しましたが、この試験は時間により送信波長が変更されますもので、その頃は短波伝播の性質が多少判って来ましたので、一番最初にナウエン局を受信致しました時の様に真面目?に受信せず、大体受信できそうな時間だけ試験を行いました。がどうもドーバー海峡一つのために英国の無線電信は大変聞こえがが悪いというような考えがこの試験の結果私の頭に入りました。但しこれは送信電力を全く考えに入れない考え方でありまして、当時はこの様な考え方が普通のようでありました。この5DH局の報告の一節に「・・・四十七米および三十五米は常に甚だしき雑音のために受信し得ざりしも、雑音比較的小なる二十七米の全く感なきは、あるいは電力の小なるがためか、もしその電力がナウエン二十五米の送信機と等しきか、PCPP局(オランダ)の電力と等しからむには、本邦よりの距離より考えて(英国と独逸またはオランダとを比較して)必ず感あるべきはずなり。何となればナウエンは二十五米、PCPP局は二十一米にして、英国は二十七米、かつ前の二局は何れも強勢に感ずればなり・・・」 』 (畠山幸吉, 短波の昔ばなし, ラヂオの日本, 1935.8, 日本ラヂオ協会, p44)

1927年にワシントンで開催された第三回国際無線電信会議で、「国際無線電信条約 付属業務規則(General Regulations Annexed to The International Radiotelegraph Convention of Washington,1927.)」の第十四条:呼出符号(ARTICLE14: Call Signs)に異変が起きていた。

第一条のSec.1で新たに定義されたPrivate Experimental Station (私設無線実験局)、つまり米国でいうなら 一般実験局、放送中継実験局、テレビ実験局、Amateur局などにも、国籍識別の文字(国際符字)を頭に付けることになったのである。

連邦無線委員会(FRC)の事業年度は毎年7月1日から6月30日である。新年度の1928年7月より実験局は新コールサインで免許されるようになり、以下の新コールサインの実験局11局が誕生した。

記念すべき新コールサインの実験局なので参考までに下表に挙げておく。なお周波数1.5-1.6, 2.4-2.5, 4.5-4.6, 4.7-4.8, 15.1-15.2MHzは当時のテレビ実験局用である。テレビの実験局が多かったようだ。

 

1928年8月、国籍プリフィックス付きの新コールサイン、W2XAU に 27.325MHz が免許された。W2XAUの免許人はJackson Heights, N.Y.のJohn R. Mckenna氏である。個人の実験局だと考えられる。周波数4.572, 5.600, 6.574, 9.045, 11.200, 13.600, 16.800, 18.290, 27.325MHzが与えられたが、この局が新コールサインのFirst 11m Station である。

 

Radio Service Bulletine N0.137(Aug. 31, 1928)の「新局」の欄を下記に示す。

(New Stations, Special Land Station, Radio Service Bulletin, No.137, p4, Aug.31,1928, Department of Commerce, U.S.Government. P.O.)

1928年10月、カルフォルニア州にあるGeneral Erectric 社の短波実験局W6XNの周波数が変更になり、27.325MHzが指定された。2番目の新コールサインの11m局だが、前述のW2XAUと同じ周波数だった。GE社のW6XNはこのほか25.680MHzなども獲得している。

 

Radio Service Bulletine N0.139(Oct. 31, 1928)の「変更」の欄を下記に示す。

(Altarations and  Corrections to be Changed, Radio Service Bulletin, No.139, p13, Oct.31,1928, Department of Commerce, U.S.Government. P.O.)

 

GE社について振り返っておくが、GE社は1922年2月に東海岸(ニューヨーク)にラジオ局WGYを開局した。さらに1924年1月には西海岸(サンフランシスコ)にもラジオ局KGOを開局したため、ニューヨークから実験局2XAF, 2XADで中継テストをはじめた。番組配信のために有線系通信会社に高い回線利用料を払わなければならなかったからだ。また西海岸KGOは短波帯の実験局W6XNを開局して、KGO発の番組をGE社の系列局に放送中継する実験を始めた。

1929年8月17日、San Francisco's Civic Audutorium で開催された、第6回 Pacific Radio Show の模様を、W6XNが送信し、ニューヨークのラジオ局WGYとその系列局に中継することに成功した(但しこの27.325MHzや25.680MHzが使われたかは分からない)。

またW6XNはオーストラリアの実験局VK2ME(Sydny, Australia)と短波帯の電波伝搬実験を行っていた。