明治の呼出符号

頭文字がJとは限らなかった「明治時代のコールサイン」から、ロンドン会議で決議された国際符字列分配表に基づく三文字「Jコールサイン」へ切替期無線局の様子や以下の話題紹介します。

第一次世界大戦の終結で国際登録する無線局が急増し、三文字コールサインの組合わせでは間に合わなくなり、四文字化することが提案されました。しかし各国電波主管庁の調整がとれず、各国でなし崩し的に四文字コールサインが使用されるようになりました。

1920年我国は「4文字目がA」の四文字コールサインの使用を開始するとベルン総理局に届けました。その結果、日本の四文字コールサインは「J●●A」のように真ん中の2文字を変えながら指定する方式となり、「J●●A」が尽きると「J●●B」へ、そして「J●●C」へと進みました。

後発のラジオ放送局には船舶局と区別するために「J●●K」を割当てました。そもそも公衆通信を行わないラジオ放送局は国際符字列で構成する呼出符号の対象外ですが、逓信省は米国に習い4文字「Jコールサイン」を指定し、これは現在の総務省時代まで踏襲されています。

なおさらに古い日本のコールサイン(1901年制定の「無線電信通信規則」 第15条により定めたコールサイン)に興味をお持ちでしたら、コールサインのフロントページをご覧ください。

1) 1906年 海岸局と船舶局のコールサインが国際登録制に

1906年(明治39年)10月3日から11月3日まで、ベルリンで公衆無線通信(電報)のルールを決める第一回国際無線電信会議が開かれた。

『国際無線電信条約 付属業務規則』(Règlement de service annexé à la Convention radiotélégraphique internationale)を定め、周波数500kHzと1,000kHzを海岸局と船舶局の公衆通信用に、またコールサインについては『符号は互に異なることを要し かつ三文字の連集よりなること』とした。すなわち国際的な公衆通信のコールサインは3文字から始まったのである。

この『符号は互に異なることを要す』を実現するために、呼出符号など無線局の基本プロファイルを国際登録し、国際事務局が「局名録(コールブック)」を発行するとした(登録義務は公衆電報を扱う海岸局と船舶局のみで、他の無線局は主管庁判断による任意登録)。

そして国際無線電信連合(International Radio Telegraph Union)を結成することになったが、国際事務局を有線電報の万国電信連合(International Telegraph Union)に委託した。無線電報の泣き所は自分達だけでは完結できず、陸線(有線電報)システムのお世話にならなければ役目を果たせない事だ。日本無線史より引用する。

ベルリン条約は瑞西国(スイス)の同意を条件として、無線電信に関する国際事務局の職務を電信連合総理局に委託することを定めたが、・・・(中略)・・・尚、ベルリン条約及び規則と万国電信連合との関係につき附言しておくことが必要である。陸地と交換される船舶発着の無線電報はその陸上の電信系を経過する部分は電信連合の範囲内になるわけで無線条約の加入国ばかりでその取扱は決められないのである。そこで一九〇八年リスボンに開催された万国電信会議はこの(無線から)陸上の経過に関する規定を電信業務規則の中の一章として加えることになった。また電信連合の総理局が無線電信の方の事務局の職務をも委任されることに提起されたので同会議はこれを承認した。これが万国電信連合が無線電信に関係をもちはじめた最初の事項である。(電波監理委員会編, 『日本無線史』第五巻, 電波監理委員会, 1951, pp72-73)

なお1908年の有線電報のリスボン国際電信会議(Conférence Télégraphique Internationale de Lisbonne)で業務規則(Réglement de service international)を改正する時に、無線電信条約に加盟していなくても、無線公衆電報を扱えるようにした点は興味深い

電信条約に加入していても、無線電信条約に加入していない諸国のために、電信条約附属業務規則中には、無線電信に関する規定を加えて、無線電信条約に加入していない国でも無線電報を発受する事ができるようにした。("法規講話 万国電信条約との関係", 『日本無線電信通信講義録』 日本無線電信電話技士学校, 普通科代6講, p6)

2) 国際無線電信条約および附属業務規則が発効(1908年7月1日)

そして有線電報を扱う万国電信連合のベルン総理局(スイス)が、無線局の管理権限を委任され、コールサインの国際登録が始まった。

1909年(明治42年)8月それまでに登録を済ませた海岸局および船舶局の計690局を収録した局名録の初版が発行された。そのあと追補録を発行しながら、1911年(明治44年)4月には改定第二版(1,510局収録)が出された。各国の電波主管庁はこれを見ながらダブらない呼出符号を申請し、最終的に総理局がこれをチェックする(附属業務規則第38條総理局は無線電信局に関する同一符号の採用を避くることに注意するものとす』)。いわゆる「早い者勝ち」ルールなので、先にベルン総理局に登録したものに使用権があった。

ただし自国内の無線電報しか扱わない局は、従来から使っていた2文字などのコールサインを使い続けたし、前述のとおり無線電信条約に加入せずして無線電報を扱える「抜け道」があり、未加入国には附属規則で規定する「3文字コールサイン」の服従義務はなかった。国際社会の一等国入りを目指す日本はお行儀よくこの規則を順守したが、他国においては2文字コールサインを使い続ける公衆電報無線局も少なくなく、世界レベルで無線電報のコールサイン秩序が完成をみたのはロンドン会議の条約・規則が発効した1913年(大正2年)頃だった。

3) 公衆無線通信創業にむけて関連規則を整備(1908年5月1日施行)

日本はベルリン会議の条約・規則が発効する1908年(明治41年)7月1日までにぜひとも公衆無線通信をひらき、一等国であることを世界に示したかった。

逓信省は無線電報サービスの開始にあたり、無線通信士を養成するとともに、『無線電報規則』(省令第16号, M41.4.8, 逓信省, M41.5.1施行)および『無線電報取扱規程』(公達第341号, M41.4.9, 逓信省, M41.5.1施行)を整備した。

【参考】 ベルリン会議では各国の電波主管庁が要件を満たす無線通信士を認定し、これに専任させることを求めたため、逓信省は1907年(明治40年)8月に候補生を募集し、通信官吏練習所(1909年11月、逓信官吏練習所に改称)で半年間の養成コースを開講した。この第1期生が1908年(明治41年)5月に卒業式が終わるや、新設されたばかりの海岸局や民間船舶に設置した逓信省の無線電信局に着任し、日本の公衆無線通信をスタートさせた。

4) 日本では "Call Letters" を「局名符号」と命名

ベルリン会議で定めた「国際無線通信条約および附属業務規則」を日本の帝国議会で批准するために、日本語に翻訳されたものを見てみると、原文にあった(無線局を識別する符号)"Call Letters"は「呼出符号」と訳されている。これは外務省による翻訳なのだろうか?

しかし逓信省は『無線電報取扱規定』で、無線局の"Call Letters"(のちの"Call Sign")を「局名符号」と呼ぶとに決めた(なお海軍省では「局名略符号」と決めた)。

【参考】 のちに "呼出符号" に改められるまで,「局名符号」が逓信省での正式呼称だった。

無線電信上に用いる局名符号は有線電信上に用いるものと異なり、同一符号を用いることを得ず。かつ国際的の関係あるをもって中央政府においてこれを制定せり。 (逓信省編, 『逓信省第廿三年報』, 1910.3, 逓信大臣官房, p49)

我国では有線電信局において局名を現すアルファベット2文字略名符号」と呼んでいた。無線電信用に「局名符号」という名を考案したのは逓信省通信局業務課の田中次郎課長、田辺勝誠氏ら永年有線電信に関わってこられた人達だった。

5) 銚子無線電信局と天洋丸無線電信局の局名符号

1908年(明治41年)5月16日、我国初の公衆通信の無線局が開局した。その正式局名は前日に「銚子無線電信局」「天洋丸無線電信局」と告示した(逓信省告示第536号, 『官報』, M41.5.15)

そして逓信省は銚子無線電信局と天洋丸無線電信局の局名符号を、明治41年(1908年)5月16日付の逓信公報(第4905号)にて、それぞれJCSとTTYと公達した(下図:逓信省公達第430号, 『逓信広報』, M41.5.16, 逓信省)

銚子海岸局JCSと天洋丸TTYの局名符号(呼出符号)の明治41年逓信省公達第430号

これ以降、逓信省の新無線局が開設される都度、その局名符号が「逓信公報」で公達された(官報で告示されるようになったのはずっと後の事)。

【参考】 当時の令達は法律, 閣令, 省令, 訓令, 告示, 令達, 公達, 達, 訓示, 指令, 回答により行われた(この他に海軍省では独自の内令が用いられた)。

6) 日本初の海岸局と船舶局は海軍 (1901年)

「実用無線」の海岸局と船舶局の日本第一号は、上で紹介した1908年(明治41年)の銚子無線JCS天洋丸TTYではない。参考までにその話題に簡単に触れておく。

1897年(明治30年)10月1日、逓信省電気試験所の松代松之助氏が短波パラボラビームを使い我国で初めて無線実験を成功させた。我国では海軍を中心として無線研究を進めることとなり、1900年(明治33年)2月、海軍省に無線電信調査委員会が正式発足し、電気試験所の松代松之助技師(逓信省に籍を置いたまま海軍嘱託)や、第二高等学校(現:東北大)の木村駿吉教授が海軍教授として海軍に迎えられた。試作機により築地羽田間6哩の陸上通信に成功し、軍艦武蔵にも搭載し移動通信試験もはじめた。

1901年(明治34年)5-6月、筑波山頂東京試験所(築地)大山試験所(千葉県房総半島の先端)間の固定通信試験を行った。そして同年夏には巡洋艦磐手に無線を施設して東京大山間を東京湾縦断しながら両試験所と移動通信試験を行なう傍ら、これを横須賀の放波島で受信試験した。到達距離を確認するため、さらに伊豆大島三宅島御蔵島八丈島にも出張し実験が行われた。

1901年10月18日、海軍省は無線を兵器として採用することを決定した。こうして開発された「実用機」は、のちになって"三四式無線電信機"(明治34年式)と命名された。

1901年、最初に完成した実用機は6セットで、連合艦隊の戦艦初瀬C、巡洋艦磐手H.1, 笠置K, 八雲I の4艦に搭載し、陸上には長崎県の平戸島H, と豆酸崎P(対馬)に無線電信所が作られた。また同時に無線電信通信取扱規則が制定された。これが我国の「実用無線」としての船舶局と海岸局の第一号で、実用船舶局としてはマルコーニ社とほぼ同時期だった。『無線電信取扱規則』は日本初の無線規則で海軍省が定めた。

日露戦争(1904-1905年)で信濃丸がバルチック艦隊を発見し「敵艦見ゆ」を発し、この戦争を勝利に導いた。その頃に使われた無線機は改良機の"三六式無線電信機"(明治36年式)である。

【参考】 陸軍の常用無線施設は1911年(明治44年)に中野(東京)、宇都宮(栃木)、甲府(山梨)の三箇所に建設されたのが最初だが(私は)そのコールサインは未調査。

7) Jを冠しない明治時代のコールサインの構成

日本の公衆電報を取扱う無線電信局の局名符号は以下のように決めていた。

【参考】海岸局は「J」から始まったが、これは「国際呼出符字」としての「J」ではない。開設地の地名由来の文字を当てたため、第1文字が常にJapanの「J」で始まっただけである(国際符字列の制定は1912年)。

1908年(明治41年)内には下表の海岸局と船舶局が開業した。使用周波数は国際公衆通信波の1,000kHz一波のみだった。

【注】 後述するが落石JOI(おっちし:逓信省によるローマ字表記はOtchishI)は1913年1月1日よりJOCJapan OtChishi)に変わった。落石JOI(短点・・)と大瀬崎JOS(短点・・・)が、短点1つ差で紛らわしいためである。

【注1】 無線通信は政府独占事業だったので、民間会社所属船舶に逓信省が無線施設と通信士を置いた

【注2】 当初は船舶局は全て北米線。1909年(明治42年)5月に伊予丸YIYが欧州線に転じた。

【注3】 香港丸THKはM41公達第823号で、1909年(明治42年)1月1日よりTHNHoNkon)に変更。

8) 逓信省と海軍省の無線局間で公衆通信の相互接続サービス開始(明治41年10月28日)

1908年(明治41年)10月29日、逓信省令第46号による改正で、海軍官憲の承認を経たる時は逓信省の海岸局と海軍省の艦船間で軍用通信にあたらない一般公衆電報の取扱いが可能になった。海軍の艦船が公衆通信を行う場合の電報送受規則とその時に使うコールサインを『海軍艦船発受無線電報取扱方 及 海軍艦船名略符号ノ件』 (逓信省公達第817号, 『逓信広報』, M41.10.30)で定めた。

十月二十九日逓信官署と海軍艦船間の無線電信により発受する電報に無線電報規則を準用す。同月三十日海軍艦船に発受する無線電報の発著局所名およびその略符号を公示し、而して海軍艦船発無線電報の料金は東京郵便局をして海軍省より徴収せしむることとせり。(逓信省編, 『逓信省第廿三年報』, 1910.3, 逓信大臣官房, pp49-50)

以下に『海軍無線電報取扱規約』(海軍省達第129号, 『海軍広報』, M41.10.28)を一部抜粋する。(無料通信の部分もあるが)海軍艦船もまた、逓信の電報ビジネスの大事な「お客様」のひとりとなった。

海軍無線電報取扱規約

第一章 総則

第一條 海軍艦船ト逓信省所属無線電信局間ノ無線電報通信ハ本規約ニ依リ行フモノトス

・・・(略)・・・

第八條 無線電信伝送上ニ使用スル特殊ノ略符号ハ左の如シ

危 急 ・・・---・・・

探 呼 ・---・・・

発信中止 --・・--

局名前置 -・・

可 送 -・-

始信及終信・・・-・-

承 諾 --- -・ー

終 了 ・・・-・-

万国信号(PRB) ・--・ ・-・ -・・・

第九條 海軍艦船及逓信省所属無線電信局ニハ附表第一ノ如ク艦船(局)名略符号ヲ附シ通信ニ際シテハ之ニ依リ呼称スルモノトス

・・・(略)・・・

第三章 通信法

第十一條 通信ハ左ノ方法ニヨリ之ヲ行フモノトス

一、呼出ヲナサントキハ先ツ始信符(・・・-・)ヲ送リ対手局(艦船)名略符号ヲ三回反復シ次ニ局名前置符(-・・ ・)ヲ送リ対手局(艦船)名略符号ヲ三回反復スヘシ

二、被呼局(艦船)ハ先ツ始信符ヲ送リ呼出局(艦船)名略符号ヲ三回反復シ次ニ局名前置符及自局(艦船)名略符号ヲ送ルヘシ

・・・(略)・・・

第二十一條 無線電報ニ依ル伝送順序ヲ左ノ如ク定ム

一、軍事官報

二、官報

三、公衆電報

四、試験通信

但シ試験通信ニ関シ相互ノ規約ヲ要スルモノハ別ニ之ヲ定メテ実施スルモノトス

・・・(略)・・・

第六章 料金ノ支払

第二十七條 海軍ヨリ引続キタル逓信省所属海岸局ヲ介シテ発送スル電報ハ其ノ無線電信ニ係ル部分ノ料金ハ無料トス

第二十八條 前條ノ逓信省所属海岸局ヲ介シ同地所在ノ海軍望楼ト海軍艦船間ニ行フ通信は総テ無料トス

第二十九條 逓信省所属無線電信局ヨリ海軍艦船ニ向ヒ通信ヲ開始シ遂ニ其目的ヲ達セラリシトキハ其料金ハ逓信省令第十六号無線電報規則ニ従フ

第三十條 海軍艦船ヨリ通信ヲ開始シ遂ニ其目的ヲ達セサリシトキハ料金ヲ支払ワス

第三十一條 逓信省所属無線電信局ヲ介シテ無線電報ヲ発送セル海軍艦船ハ毎月五日迄ニ其ノ前月中ノ電報ノ写シヲ海軍省経理局ニ送付スヘシ

第三十二條 海軍省経理局ニ於テハ逓信省ヨリノ要求額ニ照ラシ電報料を支払ウモノトス

9) 日本初のコールブック 1908年(明治41年)6月現在

 上記第九條でいう附表第一(下図)こそが「海軍艦船」と「逓信省所属無線電信局」の両者を含めた、我国最古(明治41年)のコールブックと言って良いだろう。これには東洋汽船の香港丸THK(7/14開局)や、日本郵船の信濃丸YSN(7/5開局)が見当たらないことから、1908年(明治41年)6月末現在の日本の無線局リストだと考えられる。

なお海軍省では呼出符号のことを「艦(船)名略符号」、「船舶局名略符号」、「海岸局名略符号」と決めた。戦艦富士GHJHuJi)、戦艦相模GSGSaGami)、天洋丸TTYTouyo kisen TenYou-maru)、丹後丸YTG(nippon Yusen TanGo-maru)、銚子JCSJapan ChoShi)、大瀬崎JOSJapan OuSezaki)・・・

なるほど、局名を省略した文字なので『局名略符号』とはなかなか良いネーミングである。

海軍の艦船は頭文字「」(kaiGun?)と、「」(Kaigun?)を使用した。ただし駆逐艦の「」シリーズに関してはまだ未開設のかの生がある。(いわゆる開設計画分の先取りではないだろうか?)

1908年6月の海軍無線と逓信無線のコールサイン(1/7)

(1/7)頁

1908年6月の海軍無線と逓信無線のコールサイン(2/7)

 (2/7)

1908年6月の海軍無線と逓信無線のコールサイン(3/7)

(3/7)

1908年6月の海軍無線と逓信無線のコールサイン(4/7)

(4/7)頁

1908年6月の海軍無線と逓信無線のコールサイン(5/7)

(5/7) 頁

1908年6月の海軍無線と逓信無線のコールサイン(6/7)

 (6/7)頁

1908年6月の海軍無線と逓信無線のコールサイン(7/7)

(7/7)

10) 遠距離通信の記録更新ラッシュ

日本郵船の北米シアトル線に就航している丹後丸YTG伊予丸YIY安芸丸YAK加賀丸YKGが次々に開局したが、どの船も銚子JOCとの通信距離は100から110マイル程度でしかなかった。コヒーラ検波器の限界だろうと考えられ、逓信省通信局の佐伯美津留技師と電気試験所の鳥潟右一博士がより性能の鉱石検波器の研究合戦を繰広げていた。

1908年(明治41年)12月、北海道の落石海岸局JOIを設置するために、同地へ出張中だった佐伯技師がチタン鉄鉱を検波器として試用してみたところ、偶然にも長崎の大瀬崎JOS(1kW)を明瞭に受信できた。これがわが国で1000マイルを超える通信(受信のみ)の始まりだった。また鳥潟博士は東京帝国大学の鉱石学教室や地質学教室の協力を得て、紅亜鉛鉱など数種類の鉱石が特に優秀であることを発見した。銚子JOCでの実地試験を経て、1909年(明治42年)8月に鉱石検波器の研究は一段落を告げた。

これらの研究により受信感度が劇的に改善された。『電波時報』(1958年9月号, pp50-51)の米村嘉一郎氏の記事によると明治43年から44年に掛けて次々と記録が塗り替えられたことが分かる。

以下はその記事の要約である。

11) 明治時代の官設実験局

明治時代は「電波は国のもの」で、すべての無線局が官設だったため、無線実験はあくまで官名義で行なわれた。法的に無線製造会社の名義による無線実験を認める道はまだなかったのである。

明治末期における無線研究は海軍以外では、まず逓信省所管する電気試験所の鳥潟右一博士らの研究グループが挙げられる。電気試験所が逓信の電波研究総本山だった。1912年(明治45年)には有名なTYK式無線電話を完成されている。

1907年(明治40年)、鳥潟博士とは方針が合わなかった佐伯美津留技手が電気試験所から逓信省通信局に移籍し、逓信省の海岸局や船舶局の設計・建設にあたった。佐伯技師は逓信官吏練習所の教官を兼務すると共に、ここの無線実験室を逓信省通信局の実用化研究場所として使った。こうして基礎研究を行う電気試験所(鳥潟グループ)と、実用化研究を行う逓信省通信局の官練無線実験室(佐伯グループ)がライバル関係となり競い合うようになった。

この電気試験所と逓信官吏練習所無線実験室の2ヶ所にあった無線施設が、明治時代における官設実験局だった(私設無線はまだ認められていない時代)。どのようなコールサインを使用したかについては一切記録が見当たらない。

なお前述したとおり佐伯技師の逓信官吏練習所無線実験室は1908年(明治41年)5月、横浜港出発直前の天洋丸TTYと公衆無線電報のデモを行なった。さらにはJOAKに先駆けラジオ放送の定期試験放送(大正13年)、呼出符号J1PPで短波長無線電話の通信に成功(大正14年)、国内短波実用化試験の中央局として活躍(大正15年)するなど、無線界に多大の貢献をなした。

12) 明治時代の船舶局(明治42, 43年開局)

船舶局については民間客船に逓信省が船舶局を開設する形で、逓信官吏の無線通信士を派遣していた。明治42, 43年の開局順に「開局日」「公達番号」を分かる範囲で列記する。なお朝鮮総督府については灯台無線局も含める。

1909年(明治42年)開局の船舶局

1910年(明治43年)開局の船舶局

なお東洋汽船所属の亜米利加丸TACTouyou kisen AmeriCa-maru)は、1911年(明治44年)9月に大阪商船へ売却された。しかしコールサインは大阪商船のSACに変わらず、TACのままだった。一旦使用を開始したコールサインは変更しないのが逓信省の基本方針だったようである。

1910年(明治43年)開局の朝鮮局

【参考1】 1910年、韓国政府は無線電信の導入を決め、その建設を日本の海軍省に発注する段取りを進すすめていたが、この年の8月29日に日韓併合条約が発効し、この計画はそのまま朝鮮総督府が引継いだ。まず9月に機関砲三門を搭載する韓国唯一の軍艦ともいえる「光済号」が横須賀軍港に回航し、海軍工廠により無線電信機の据付工事が行なわれた。「光済号」は無線搭載の灯台監視船として再スタートすることになった。

【参考2】 朝鮮総督府の上記の無線局はいずれも官庁事務用連絡(灯台間連絡や税関監視等)を目的としたが、僅かながらも沿岸を航行する帝国海軍艦船や内地海岸局と電報送受を行う事があり、また光済号は時々内地へ航行し内地の海岸局や船舶局と電報送受することが認められていたため呼出符号が国際登録された。

【参考3】 11月1日付けの海軍省の達第145号(下記)には小青島CSSは「11月10日頃」開局とあり、11月1日には開局できなかったようだ。

達第百四十五号

本年達第百三十二号別表 朝鮮総督府無線電信所略符号の欄の海岸局の部 月尾島の次に左の通 追加す 但し小青島は十一月十日頃、木浦は十二月一日頃通信開始の予定

明治四十三年十一月一日 海軍大臣 男爵 斎藤実

CSS 小青島

CMP  木浦   

13) 明治時代の船舶局(明治44, 45年開局)

明治42, 43年の開局順に「開局日」「公達番号」を分かる範囲で列記する。なお朝鮮総督府については灯台無線局も含める。明治44年より大阪商船所属の客船にも官設無線局が置かれたが大阪商船(Osaka syousen)の頭文字O」は、明治42年に緒明汽船Oake kisen)が獲得していた。大阪商船にはosaka Syousen(または oSaka syousen)の「S」が与えられた。

1911年(明治44年)開局の船舶局

1912年(明治45年/大正元年)開局の船舶局

14) 国際呼出符字制定前の日本のコールサイン一覧表

明治時代には海軍省と逓信省が無線の許認可権を持ち、自由なアルファベットでコールサインを発行し、総理局に国際登録し「お墨付きコールサイン」を得ていた。参考までに明治時代の古い形式のコールサインをアルファベット順に表にしておいた(下表)。

銚子無線は明治41年に開業した我国初の公衆電報用海岸局であり、呼出符号JCSとともにその知名度は群を抜いて高い。そのため『我国初の無線局がJCSということは・・・日本では初めから頭にJの付くコールサインが発行されたんだ!』と思われた方も多いかもしれない。もちろんそれは誤りではない。

しかし一覧にすると銚子無線JCSなど頭文字Jのコールサインはごく少数派(5局)でしかないことが分かる。しかも逓信省の局がJかというと、そうではなく逓信省(Ministry of Communications)の練習船大成丸のように「M」もある。

国際符字列制定前の呼出符号一覧表

「C」は朝鮮総督府が使用した。Chosenの頭文字「C」だと推察される。

しかし我国の電波正史ともいえる『日本無線史』には、逓信省の無線局には頭文字「C」を当てたとある。これは逓信省海底ケーブル敷設船、沖縄丸CON( M42.6.1開設)と小笠原丸COG(M44.11.26開設)が頭文字「C」(おそらくCableの「C」)だからだと想像できる。

【注】 沖縄丸CONと小笠原丸COGの両船は海底ケーブルの敷設工事をする際に逓信省海岸局(JCS, JOI, JOS, JSM, JTS)と業務連絡通信を行うだけで、公衆通信(一般電報)は扱わなかった。そのため大臣による公達ではなく、通信局からの通牒という形をとった。

【注】 ベルン総理局発行の局名録(初版1909, 改定第一版1911)で確認したわけではないが、どうやら明治時代の海軍省のKコールサインについては国際登録されなかったようだ。

15) 大阪商船を差し置いてOを獲得した緒明汽船とは

1909年(明治42年)6月20日、緒明汽船の嘉代丸にコールサインOKYOake kisen KaYo-maru)が指定された。緒明汽船が「O」を獲得したため、無線では出遅れた大阪商船は欲しかった「O」がもらえず「S」(osaka Syosen)に甘んじたという。

結果的には緒明汽船の無線は嘉代丸OKYだけで終わったが、緒明汽船の記事を引用しておく。

日本海方面においては角島陸上無線電信局あれども同方面航海汽船に無線電信の装置あるもの皆無なりしが、緒明圭造氏が購入せる二千百余頓の汽船嘉代丸は今回日本海方面の航海に従事すると共に無線電信の装置を施す事に決したり。社外船にて該装置を施せるものは嘉代丸を嚆矢とす。 (”日本海の無線電信”, 『朝日新聞』, 1909.6.12, 朝刊p3)

浦賀船渠(ドック)において無線電信その他客室等の装置工事中なりし品川 緒明圭造氏所有 嘉代丸は廿日(20日)午前京浜の船主同盟会所属船主 回漕業者を乗せて房州館山に試航途上 無線電信の試用等等も試むる ("嘉代丸の試航", 『朝日新聞』, 1909.6.20, 朝刊p3)

16) 国際呼出符字列分配表 (ロンドン会議, 1912年7月4日決議)

世界で一番最初の国際呼出符字列分配表を示す(下表)。 黄色は文字系列の独占を表している。

世界最初の国際符字列分配表(1912年7月)

国名の頭文字D:ドイツ、F:フランス、I:イタリア、J:日本が欲しいのは当然で納得がいく。

またアメリカ海軍(Navy)はもともとNの3文字コールを使っていたからこれも分かる。

大英帝国B, E, G, L, M, P, V系列の独占を目指したが、それをあきらめB系列M系列に落着いた。

英国がブリティッシュ(British)のBを欲っするのは当然としても、なぜ(Great Britine)Gよりにこだわったのか

実は英国に本社があるマルコーニ無線電信会社マルコーニ国際海洋通信会社はMMarconiのM)で始まる3文字コールを世界各地の自社海岸局や同社製無線機を据付けた船舶局に割当てて国際登録していた。Mコールを継続して確保するためだった。

17) ベルン総理局が国際符字列分配表の使用開始の通達 1912年8月31日

さてロンドン会議の閉幕直後の1912年7月30日、元号が明治から大正に変わった。

1912年(大正元年)8月31日、万国電信連合ベルン総理局はロンドン会議で決定した国際符字列による呼出符号の登録を開始すると加盟各国に文書で送付した(通達第37号)。

これを受けた我国でも1912年(大正元年)秋より、逓信省と(電波の最大ユーザーである)海軍省との間で呼出符号を「J」系列に統一する協議が始まり、JG, JJ, JL, JQ, JR, JU, JV, JW, JX, JZ の10シリーズ x 26 =260局分が海軍用になった。

18) 国際符字Jコール第1号は台中丸JTC(1912年11月29日 逓信省公達)

1912年(大正元年)11月29日に開局した大阪商船所属の台中丸は、これまで慣例ではSTC(osaka Syosen TaiChu)になるところだが、国際符字によるJTCが指定された。国際符字によるJコールの第一号である。

 (また次に述べるが)12月16日開局の嘉義丸(大阪商船所属)にはSKG(osaka Syousen KaGi)ではなく新コールJKGが発行され、ベルン総理局に送られた。

 つまり国際符字列による新コールサインへの移行は、我が国の場合1912年(大正元年)11月29日に始まった。

なおロンドン会議で初の国際呼出符字として日本が「J」に決まった7月4日は、同じ1912年でもまだ明治45年である。西暦1912年を元号表記するときには7月30日を境に注意が必要だ。

19) 既存局は元旦からJコールへ(1912年11月21日逓信省 公達第206号)

1912年(大正元年)11月21日、ロンドン会議の決定に従い、逓信省は来年元旦より局名符号(コールサイン)の頭文字を「J」に統一すると逓信公報で公達した(公達第206号)。

なお海岸局はもともと頭文字「J」だったのでコールサインを変更する必要はないのに落石無線もこの公達第206号に含まれている。もともと落石JOI・・)と大瀬崎JOS・・・)が短点で1つしか違わないため紛らわしく、この機会をもって落石無線電信局のコールサインをJOIOtchIshi)からJOCOtChishi)に指定変更することになった("OTCHISHI"は逓信省によるローマ字表記)。

台南丸は1912年(明治45年)1月28日にSTN(osaka Shousen TaiNan)で開局し、2月8日にSTI(osaka Shousen TaInan)に変更され、それが今回JTN国際符字JTaiNan)になった。実に3回目のコールサインだ。

公達第二〇六号

逓信管理局

逓信官署

 明治四十一年五月公達第四百三十号中左ノ通改正ス

 本公達ハ大正二年一月一日ヨリ之ヲ施行ス

 

    大正元年十一月二十一日

逓信大臣 伯爵 林 董

落石 JOC 天洋丸 JTY

香港丸 JHN 日本丸 JNP

地洋丸 JCY 嘉代丸 JKO

阿波丸 JAW 因幡丸 JIB

丹波丸 JTB 佐渡丸 JSD

大成丸 JTM 亜米利加丸 JAC

笠戸丸 JKT 武洋丸 JBY

ぱなま丸 JPM 志あとる丸 JST

めきしこ丸 JMX しかご丸 JCC

かなだ丸 JCD たこま丸 JTA

春洋丸 JSH 紀洋丸 JKY

備後丸 JBG 天草丸 JAM

台南丸 JTN 信濃丸 JSN

横浜丸 JYH 静岡丸 JSZ 

前述した通り、大阪商船所属の嘉義丸は1912年(大正元年)12月16日開局だが、国際符字への切換え半月前だったので、新コールJKGで先行スタートした。

それでは 旧コールサイン最後の指定はどの局なのだろうか?

調べたところ、1912年(明治45年)7月3日開局の日本郵船の静岡丸YSZ(nippon Yusen SiZuoka-maru)だった(告示第610号, M45.6.26, 逓信省、および達第73号, M45.7.5, 海軍省)。

20) 逓信省の作業船にもJコールサイン付与したと通牒

また逓信省通信局が保有する海底ケーブル敷設船の沖縄丸CON小笠原丸COGは業務連絡通信を行うだけなので(公衆通信は扱わないので)、Jコールサインに切り替える必要はない。

(しかし緊急で公衆電報を扱う事態も想定したのか?)同じ11月21日付け逓信公報にて、通信局は日本の全局に対し両船のJコールサインを通牒した。新コールサインは沖縄丸JON(国際符字JOkiNawa-maru)、小笠原丸JOG(国際符字JOGasawara-maru)だった。

【参考】 これは大臣の公達ではなく、通信局からの通牒だった。

通業第一九九三号

大正元年十一月二十一日

逓 信 局

無線電信局

沖縄丸等呼出符号改定ノ件

 大正二年一月一日ヨリ本省所属汽船沖縄丸及小笠原丸ノ無線電信呼出符号ヲ左ノ通改正セラル

沖縄丸 JON

小笠原丸 JOG

以上のように国籍識別が付いた呼出符号への切替えは無線電信法(大正4年6月21日, 法律第26号)成立前の出来事だった。

21) 海軍省もJコールサインへ(1912年12月27日 海軍省 達第72号)

我国の無線は軍用電信法(明治27年6月6日, 法律第5号)を根拠とし海軍省陸軍省が、それぞれ所轄する無線局への許認可権を持っていた。

また軍以外の無線局については逓信省令第77号(明治33年10月10日)により「電信法(明治33年3月14日, 法律第59号)を無線電信に準用する」と定め、逓信大臣が許認可権を持った。 

逓信省は1912年(大正元年)11月に新コールサインへの切り替えについて発表したが、海軍省の無線局はまだ沈黙したままだった。

1912年(大正元年)12月27日、ようやく海軍省も新コールサインへの変更を翌1月1日より施行するとした(図:海軍省 達第72号)。すなわち逓信省と海軍省は電報交換上の取扱現場の混乱を避けるために両省同時に新コールサインへ切り替えたようだ。

1913年1月の海軍無線と逓信無線のコールサイン

達第七十二号

海軍無線電報取扱規約 附表第一表ヲ別表ノ通改メ 大正二年一月一日ヨリ之ヲ施行ス

大正元年十二月二十七日 海軍大臣 男爵 齋藤 實

この達第72号にて改めた別表というのが、上図[左]に少しみえる新しい附表第一である。

海軍省の無線局(上段)、逓信省の船舶局(中段)、逓信省の海岸局(下段)がすべてJから始まる3文字コールサインに改められている。なおこの頃には逓信省ではコールサインのことを「局名符号」から「呼出符号」と呼ぶようになっていたが、海軍省では「局名略符号」という呼称を使い続けていた。

【参考1】 この附表第一は1913年1月1日時点のリストなので、例えば1912年5月10日に閉局した日本郵船所属の鎌倉丸YKMが載っていないのは当然として、1912年11月29日に開局した大阪商船所属の台中丸がなぜか抜けている。翌年4月25日になって台中丸JTCが附表第一に追加された。

【参考2】逓信省のケーブル敷設船である沖縄丸JONと小笠原丸JOGは公衆通信を目的としないので海軍とは通信しない。従ってこの附表には掲載されていない。

22) コールサインの新旧対照表(逓信省の無線局)

参考までに新コールサインと(私が海軍公報を閲覧して1件づつ "達" を確認を取った)旧コールサインとを併記した表を以下にまとめた。1913年(大正2年)1月1日現在である。

1913年1月1日 逓信無線の新旧コールサイン表

逓信省の海岸局は当初よりロケーション由来によるJapanの「J」なので変更する必要はなかった。船舶局は船会社由来の頭文字だけを「J」に置換え、2文字目と3文字目はそのままとした。たとえば我国の船舶局第一号の天洋丸TTYは「JTY」になった。

そのため不便も生じた。船舶局は頭文字により東洋汽船TTouyou kisen)、日本郵船Y(nippon Yusen)、大阪商船S(osaka Syousen)、緒明汽船OOake kisen)、逓信省MMinistry?)と区別できていたのに、それができなくなったからだ。

例外的に3文字目を変えた局

船舶局は頭文字だけを「J」に変えるのを基本とするが次の3局は三文字目も変えた。

23) 台湾総督府では新Jコール移行はなかった

台湾総督府の富基角(のちの富貴角)無線電信局(海岸局)は初めから内地と同じくJ」を使いJFKFukkiKaku)だったため、特に新「J」コールへの移行とうい作業はなかった。

参考までに1910年(明治43年)のJFK開業時に発せられた公達を示す。

公達第七百三十八号

台湾総督府管内無線電信局ノ局名符号左ノ如シ

局名  局名符号

富基角  JFK

明治四十三年十月六日

なお海岸局」の通信対手局は「船舶局」である(陸ー海通信)。従って海岸局海岸局通信(陸ー陸通信)を行わない。しかし内地と台湾間での通信途絶を避けるために、一時的に以下の特別回線が設けられたことがある

1912年(大正元年)11月、九州ー台湾線の海底ケーブルが不通となった。逓信省は応急的に富基角海岸局JFKと長崎の大瀬崎海岸局JOSで公衆電報を扱った(省令第15号/告示第448号, T1.11.16, 逓信省)。

これが日本初の「陸ー陸」間で交わされた公衆通信である。

24) 関東都督府では船舶局だけが新Jコール

関東都督府(後の関東州庁)の大連湾無線電信局(海岸局)もまた内地と同じく「J」を使いJDADAirenwan)だが、船舶局のコールサインは船会社別に指定されていたため、関東都督府より許可された日本郵船の神戸丸YKB(nipponYusen KouBe)と西京丸YSW(nipponYusen Saikyo-maru)はYコールだった。

1911年(明治44年)開業時の公達を以下に示す。

【注】私の転記ミスで、西京丸はYSWではなくYSK(nipponYusenn SaiKyo-maru)の可能性があります。再調査します。

公達第八百九十三号

関東都督府無線電信局ノ局名符号左ノ如シ

海岸局 局名符号

大連湾 JDA


船舶局 局名符号

神戸丸 YKB

西京丸 YSW

明治四十四年十一月二十五日

日本郵船神戸丸YKBJKBに、西京丸YSW(YSKが正解?)はJSKに変わった。

25) 朝鮮総督府で新Jコール移行

朝鮮総督府ではChosenの頭文字「C」を使っていた(港門島CKM, 小青島CSS, 木浦CMP, 月尾島CGB, 光済号CKS)。

本来「船舶局」は所属船会社を由来とする文字をコールサインの頭文字とするが、光済号は民間商船ではなく朝鮮総督府所属の灯台監視船だったため、海岸局と同じくCコールとした。

1912年(大正2年)3月に新「J」コールサインの港門島JKM、小青島JSS、木浦JMP、月尾島JSB、光済号JKS に変更された(当時これらの無線局は朝鮮総督府無線電信所間だけで通信しており一般公衆電報は扱っていなかった)。

なお月尾島CGBGetuBi)の頭をJにするとJGBになるが、JGシリーズは海軍が使うことになっていたため、頭に「小」を付けて局名を小月尾島JSBSyogetuBi)にした。

26) 海軍省局のコールサイン新旧対照表

海軍省の艦船は元々「G」と「」を頭文字にしていた。軍Gunまたは軍艦Gunkanと、海軍Kaigunまたは駆逐艦Kutikukanを意味するのだろうか?

そして戦艦の敷島GSSGunkan Shiki Shima)、朝日GAHGunkan AsaHi)、三笠GMKGunkan MiKasa)や、巡洋艦の筑波GTBGunkan TsukuBa)、浅間GAMGunkan AsaMa)、笠置GKIGunkan KasagIというように船名由来で付けていた。

1913年1月1日 海軍無線の新旧コールサイン表

今回「J」コールサインへの再編成を契機とし、逓信省と海軍省が各々の持分を決めた。JG, JJ, JL・・・などが海軍用になった。

そして船名由来の命名をやめて、第二文字目で艦船種(戦艦/巡洋戦艦G, 一等巡洋艦R, 二等巡洋艦L, 海防艦U, 砲艦W・・・)を示し、第三文字目はアルファベットのAから順に割振る、というルールに切替えた。

なお第三文字目にはモールスコードの短点E(・), I(・・), S(・・・), H(・・・・)の指定を避けた。通信状態が悪い時の誤認を避ける意味だと考えられる。

27) 海軍の新コールサイン予約分?

達第72号(海軍省, 1912.12.27)附表第一に下表駆逐艦の新コール(JX/JQ/JZシリーズ)が掲載されている。

なぜか総理局には登録手続きを送付していないことから、これらの新コールサインは将来に向けて予約されただけではないかと想像する。

1913年1月1日 逓信無線の新コールサイン(予約分)

28) 海軍省局のJコールサインとは

海軍は通常の軍用通信においては「J」の付く呼出符号を使用しない。国際呼出符字列による呼出符号は「公衆通信(電報)」を扱う海岸局と船舶局のために制定されたもので、そもそも「(海岸局以外の)陸上局」や「軍用局」はJコールの対象ではない。

しかし例外がある、たとえば洋上の海軍艦船に宛てて ”海軍の軍務に該当しないような電報” を打つ場合、これは軍用通信ではないので公衆通信ということになる。すると公衆通信は逓信省のビジネスなので、海軍省は逓信省の海岸局を経由して通信を行い、逓信省に電報代金を支払うべきである。

また海軍艦船から陸地へ電報を送りたい時も同じだ。軍用通信に該当しない内容の電報は、逓信省の海岸局と交信して公衆通信扱いで送ることに成る。そして逓信省に電報料金を支払わなければならない。

このように逓信省の海岸局と一般の公衆通信が行われる場合に、海軍艦船であってもベルン総理局に登録した「J」コールサインを使う必要があった。この他にも、もし海軍の艦船が外国の港で地元海岸局と公衆通信をやり取りしようとする場合もそうである。

国際無線電信条約 第21条は軍用局の完全なる自由を保証するも、公衆通信を行うときは同条約の付属業務規則に従うべしとした。これに従い我が国では海軍省と逓信省とで行われる電報送受信ルール「海軍無線電報取扱規約」が制定された。

国際無線電信条約 第21条

『・・・(略)・・・海軍および陸軍の設備、ならびに固定地点間の通知を取扱う局に関し、その完全なる自由を保有す・・・(略)・・・しかれどもこの設備および局が海上公衆通信の交換を行なうときは、その業務の執行上伝送方法および(料金)計算に関し業務規則の規定に従うものとす

29) 海軍はアルファベット順 逓信は船名由来

もともと船舶局の呼出符号は、海軍省も逓信省も船名由来だった。

1913年(大正2年)1月1日より、種別分類+アルファベット順の海軍省方式と、船名由来で発給する逓信省方式により、新「J」コールサインがスタートした。

現代のアマチュア無線ではアルファベット順にAAA、AAB、AAC・・・と発給されるが、これは当時の海軍式の割り当て方である。

しかしJAA, JAB, JAC, JAD,...  とアルファベット順にコールサインを発給すると三文字目でしか識別できない船舶局ばかりになる弱電界や混信時のことを考えれば、船名に由来のアルファベットで飛び々々に発行したほうが実用的だった

30) JJYは海軍の送船若宮丸の呼出符号

コールサインJJYの初代は海軍運送線若宮丸

1913年(大正2年)1月1日、我国で国際ルールにのっとり「J」コールサインの使用が開始され、このとき(標準電波のコールサインとして知られている)JJYというコールサインの指定を受けたのは、海軍省の運送艦若宮丸(のちの水上機母艦若宮)だった。

若宮丸JJYの旧コールサインを調べたがついに私には分からなかった。大阪商船の嘉義丸と同じように大正元年の年末ぎりぎりに無線を開局したのだろうか?

輸送船若宮丸JJYは2年後に二等海防艦若宮となったため、新コールサインJURに変更された(達第78号, 海軍省, 1915.6.1)。

海軍式コールサインは2文字目が艦船種別を現わす。運送船(雑役船)は「J」だが、二等海防艦はU」だからである。しばらく空き家だったコールサインJJYは、運送船労山(ろうざん)が引継いだがこれは短命に終わったようだ。

【参考】1938年(昭和13年)8月1日より東京無線電信局検見川送信所からの標準電波(JJY:4MHz、JJY2:7MHz、JJY3:9MHz冬9-4月、JJY4:13MHz夏5-8月)に指定された。そして1940年(昭和15年)1月30日より公開運用となり、JJYというコールサインが電波関係者に良く知られるようになった。しかし元々は海軍のコールサインだったのである。

31) 新 Jコールサイン移行期のまとめ

ここで国際符字Jコールへ移行をまとめておこう。

第一陣の国際符字Jコール

1912年(大正元年)末に開局した「新設局」から国際符字Jコールが始まった。来る元旦より新Jコールに変わるのが決まっており、今さら古い形式のコールサインを発給することもなかろう・・・だと推察する。大阪商船の台中丸JTC(1912.11.29開局)、嘉義丸JKG(1912.12.16開局)、そして開局日は不明だがおそらく海軍省の若宮丸JJYがこれに当たる。

第二陣の国際符字Jコール

1913年(大正2年)1月1日、逓信省管轄の「既設局」は逓信省公達第206号(大正元年11月21日)に、また海軍省管轄の「既設局」は海軍省達第72号(大正元年12月27日)に従い、国際符字Jを冠する新コールサインに切り換わった。

【参考】 なお銚子JOCなど海岸局5局はたまたま開業当初よりロケーションを意味するJapanの「J」を冠していただけで、この「J」は国際符字としての「J」ではない。

では1913年(大正2年)1月1日より始まった「Jコールサイン時代」になってからの、新局第一号は誰だったのだろうか?

32) 新Jコールサイン時代になってから、最初に発給されたJコールは

第三陣の国際符字Jコール」ともいえる、新コールサイン時代になってから最初にJコールを受けたのはどの無線局かを調べてみた。

1913年(大正2年)4月14日、農商務省所属の漁業監視船 速鳥(はやとり)丸に逓信省の船舶局(二等電信局:速鳥丸無線電信局)が開局。これに呼出符号JHYを指定したのが新コール施行後の第一号である(逓信省の告示第357号, 1913.4.14より開局日を、海軍省の達第88号, 1913.4.25より呼出符号JHYの情報を入手)。

速鳥丸JHY(漁業無線の祖)について、逓信省の小松氏の記事を引用する。

大正二年、唐津を定繋港とする農林省(注:農商務省の誤記)漁業監視船 速鳥丸に官設二等局を設置して永島小八氏を局長に任命したのが漁業関係無線の嚆矢とする。漁業監視指導船は明治三十六年 和歌山県、三十七年 大分県、三十八年 静岡県、大正九年 三重県にも公共団体としてこれをもつようになったが、未だいずれも無線を装置しなかった。大正九年 静岡県は初めてその指導船富士丸に無線を設置したが、その年 千葉県沖で舵機に故障を起こし無線があったために漂流を免れたので漁業者間に大いに無線の効果が認識された。昭和五年までに県指導船で無線をもつもの三十四隻に達した。(小松三郎, "漁業無線の創設", 『逓信史話(上)』, 1962, 逓信外史刊行会, pp309-310)

続いて海軍省が巡洋艦金剛にJGU、巡洋艦比叡にJGVを指定した(海軍省の達第95号, 1913.5.14より呼出符号を得た)。両船の開局日は分からないが、前述の速鳥丸は海軍省達第88号(4月23日)、金剛と比叡は海軍省達第95号(5月14日)であることから、速鳥丸が第一号だと判断した。

33) 激変の讃岐丸(YSK→廃局→JSA→廃局→JPS

いわゆる「第三陣の国際符字Jコール」の第4号は、5月21日に開局した讃岐丸(日本郵船所属)JSAである(逓信省の告示第429号, 1913.5.21より開局日を、海軍省の達第96号, 1913.5.30より呼出符号を採取)。

なお呼出符号JSAはラサ島の私設無線(企業無線)として特に有名なので、少し補足しておく。もともと讃岐丸は呼出符号YSKを持っていたが、1912年(明治45年)6月11日に局し、約1年間のブランクを経て新呼出符号JSAでカムバック(1913.5.21)した。しかし長く続かず同年11月3日に局した。

さらに1915年(大正4年)11月に再開したときは新たな無線電信法により制度化された私設無線局(Private Station)として呼出符号JPSJapan Privatestation Sanuki-manu)で許可されたため、呼出符号JSAは完全に空き家となった。1917年、ラサ島(沖縄県沖大東島)にあった逓信省所管のラサ島無線電信所(1915年6月開所)を引き継いだラサ島燐礦株式会社がJSAの指定を受けた

注)先行する逓信省所管ラサ島無線電信取扱所時代よりJSAを使っていた可能性もあり調査中。

速鳥 HaYatori のHY、讃岐 SAnukiのSA というように、逓信省は新規指定分でも船名を由来とするコールサインの指定を続けた。そのため呼出符号があっちこっちへ飛びながら、新局が増えていったが、1915年(大正4年)に私設無線局が認可され、船舶局が急増するとこの指定方法は破綻した。

34) 海軍無線電報取扱規約を改訂(1913年10月10日)

1913年(大正2年)10月10日、海軍無線電報取扱規約が改正され(公達第607号, T2.10.10, 逓信省、および達第126号,T2.10.10, 海軍省)、11月1日より施行された。

この時の附表第一が下図である(上段:海軍省管轄 中段・下段:逓信省管轄)。

1913年11月の海軍無線と逓信無線のコールサイン(1/9)

(1/9)

1913年11月の海軍無線と逓信無線のコールサイン(2/9)

2/9)

1913年11月の海軍無線と逓信無線のコールサイン(3/9)

(3/9)

1913年11月の海軍無線と逓信無線のコールサイン(4/9)

(4/9) 

1913年11月の海軍無線と逓信無線のコールサイン(5/9)

(5/9)

1913年11月の海軍無線と逓信無線のコールサイン(6/9)

(6/9)

1913年11月の海軍無線と逓信無線のコールサイン(7/9)

(7/9)

1913年11月の海軍無線と逓信無線のコールサイン(8/9)

左ページ、初春JZX、疾風JZY、三日月JZZは、それぞれJQX、JQY、JQZが正しい。

 (8/9)

1913年11月の海軍無線と逓信無線のコールサイン(9/9)

35) 上記附表(1913年11月1日施行)の変更点について

1913年1月1日試行の附表に対し、上記1913年11月1日施行の附表の変更点を調べてみた。

二等海防艦の鈴谷JUR、駆逐艦の東雲JXA、漣(さざなみ)JXL、霞JXP、皐月(さつき)JXW、文月JQC、敷波JQG、巻雲JQJが削除された。

雑役船の高碕丸JJXと若宮丸JJYは運送船になった。また駆逐艦に等級制が導入され海風JVA、山風JVBが一等駆逐艦に、櫻JVCが二等駆逐艦になった。追加されたのは巡洋戦艦の金剛JGU、比叡JGV、二等駆逐艦の橘JVD

逓信省の無線局では日本郵船の丹後丸JTGTanGo)が削除された。

そして東洋汽船の安洋丸JAYAnYou)、日本郵船の讃岐丸JSASAnuki)、大阪商船の台中丸JTCTaiCyu)、農商務省の速鳥丸JHYHaYatori)、南満州汽船の帝国丸JTKTeiKoku)が追加された。

JJ/ JV/ JQ/ JX/ JZシリーズは、ベルン総理局発行の局名録(改定第三版, 1913)とその追補録によると国際登録されていないことから、まだ計画中だと想像する。下表は国際登録を済ませたコールサイン(白地が未登録)である。

ベルン総理局への日本の登録無線局(1914年)

36) 終戦でコールサイン不足が表面化

1918年(大正7年)11月11日、最後まで残っていたドイツ帝国もついに連合国と休戦協定を結び、ここに同盟国(ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ブルガリア王国)の敗北で第一次世界大戦が終結した。

図は第一次世界大戦の終結直後(1918年末ごろ)の「国際呼出符字列分配表」である。

1918年末ごろの国際符字列分配表

戦争で国が消滅したり、あるいは誕生したりで、この分配表から数年間にわたってコールサインの分配修正が繰返され、総理局は多忙を極めた。国際呼出符字列のページをご覧下さい。

1919年は戦時制限を受けていた民間の無線が終戦とともに一気に活動を再開したこと、また戦争で無線技術が進んだこともあり、先進国を中心に多くの無線局新設が計画され、コールサイン不足(割当て符字列の不足)が危惧されるに至った。

登録無線局数は総理局年報1921年版によると5,860局(1916年)→6,113局(1917年)→6,242局(1918年)→6,623局(1919年)13,694局(1920年)と急増したのである。

また下表は総理局に登録済み(1919年秋時点)の日本の無線局だが、コールサイン不足から逓信省が海軍省用のJJ/ JQ/ JX/ JZを借用する状況に陥っていた。そして海軍省へ返せる見込みも立たなかった。

下表の白地が未登録、緑は逓信無線、黄が海軍無線である。逓信省は1916年(大正5年)11月16日より対米(ハワイ)公衆通信用に船橋海軍無線電信所JJCを、また1917年(大正6年)1月より日本海航行船舶を対手とする公衆通信用に舞鶴海軍無線電信所JMZを借用をはじめたので、黄と緑の2色にした。

【参考】 ちなみに我国の国際公衆通信は落石無線JOCが1915年(大正4年)6月15日よりロシア(ペテロハバロフスク局)との交換業務をはじめたのが最初である。

 ベルン総理局への日本の登録無線局(1919年)

37) 4文字化でコールサイン不足解消(英国案)

この問題に対し最初に声を上げたのは英国で、すでに第一次大戦の最中より三文字コールの頭に「T」の文字を追加し四文字化しようと提案していた。

ベルン総理局は1918年1月1日の通達第93号で英国提案に対する意見を各電波主管庁に求めたところ、同年6月18日の通達第98号にて加盟71主管庁中、28主管庁から回答が寄せられ、うち23主管庁が賛成したことを公表した。

【注】植民地や保護領なども本国とは別に加盟できたので、国単位ではなく主管庁単位。

この英国提案によれば各国すべての"四文字"新コールサインが「T」で始まることになり2文字目(または3文字目も含めて)国籍を示す。

【補足】各国に分配された3文字コールに加えて、「T」を冠する新4文字コールも併用すれば、各国のコールサイン保有数が2倍になるという提案。4文字コールは例えば、日本がTJAA~TJZZで、アメリカがTWAA~TWZZなど。

まだコールサインの頭文字での国籍識別が重要視されていなかった事がこの提案から読み取れる。そもそも国際符字列の分配は「コールサインの重複発行チェック」を容易にすることを主目的とし始まったものである(無線局の国籍識別が目的ではなかった)。

38) 四文字コールサインの英国案・オランダ案・ドイツ案への投票

英国提案に賛成しなかった5主管庁について説明する。

反対を表明したのはオランダとドイツだったが、オランダは三文字コールの頭に「P」の文字を追加しようとの主張で、国籍識別に重きを置いていないという観点でいえば英国案と同じである。

しかし国籍識別の利便性に気付いていたドイツは英国案の「T」文字の追加には同調するも、これを三文字コールの末尾に追加して四文字化しようと提案した。

またフランス、仏領モロッコ、仏領チュニジアの3主管庁からは、4文字コール問題の解決を次回の国際無線電信会議に委ねようとの意見だった。意見が分かれたため総理局は前述の総理局通達第98号(June 18, 1918)で加盟各主管庁に、英国案・オランダ案・ドイツ案のいずれに賛成するかを1918年11月20日までに回答するよう求めた。

なお国際呼出符字列表が国際無線電信会議での決議事項に格上げされたのは1927年のワシントン会議だが、このように1919年(大正8年)秋の時点でフランス・モロッコ・チュニジアよりベルン総理局権限による分配よりも、国際無線電信会議で分配したほうが良いとする意見が出された点は無線史上興味深い(後述するがこの年の10月より次回の国際無線電信会議(ワシントン会議)に向けた予備会議が戦勝5大国だけで開かれたが、ここでもコールサイン不足対策が話し合われている)。

さて加盟各主管庁は困惑した。回答期限11月20日までに投票したのは、加盟71主管庁中わずか15主管庁だけだったことを11月30日付の総理局通達第101号で公表した。その内訳は英国案に賛成9票、ドイツ案に賛成4票、オランダ案に賛成1票(自分自身)だった。国籍識別しやすい呼出符号(ドイツ案)を支持したのは提案者ドイツを除けば他3票しかなかった。繰り返すが、呼出符号から国籍を識別できる利便性は短波の国際通信時代になって広く認知されたが、当時はまだ長波の時代である。

なお英領インドからは回答期限を過ぎて総理局に意見が到着したが、その内容は3案のどれに投票するものでもなく、ドイツ案とオランダ案の折衷案といえるもので、三文字コールの2字または3字目に「P」を挿入するものだった。

39) アメリカ案が出されたが合意に至らず

このように投票数が少なすぎて、四文字コールサインの国際合意が宙に浮いてしまった。

この状況を打破するためにアメリカが三文字コールの国籍符字を重ねて四文字化する新たな提案を行い(例: 現行の分配文字列WAA-WZZをWWAA-WWZZに 、日本ならJAA-JZZをJJAA-JJZZに)、1918年12月5日付の総理局通達第102号で各主管庁へ公表された。これは「国籍識別しやすい呼出符号」に属するものである。

【参考】アメリカでは終戦直後から公衆通信を行なわない局(つまり国際登録を要しない無線局)に4文字コールの発行を始めていた。1920年11月、世界初の商業ラジオ放送局となるウェスティングハウス社のラジオ放送局に4文字コールの「KDKA」が与えられたことは、電波や放送に興味ある方には良く知られている話だろう。

しかし国際無線電信会議(ワシントン会議)で4文字コールサインが認められたのは1927年である。なぜワシントン会議より何年も前から4文字コールが使われていたかというと、ベルリン会議(1908年)やロンドン会議(1912年)ではコールサインは3文字と規定したが、実際のコールサイン分配をベルン総理局に委任し、そして総理局が現実的な柔軟運用(4文字コールの暫定的な認定)を行っていたからだ。

現代的な私達の感覚では国際無線電信会議が呼出符号の割当決定の場だが、国際呼出符字列分配表が国際無線電信会議による決定事項になったのは、1927年のワシントン会議であり、それまでは総理局の権限で行われた。

40) なし崩し的に始まった四文字コールサイン

しかしそれでも加盟主管庁の意見統一は進展しなかった。

また「いま慌てて決めなくても良いだろう」というフランス・仏領モロッコ・仏領チュニジアの意見もあったことから、結局のところ国際合意に至らないまま、無し崩し的に4文字コールサインが使われ始めた。

こうして第一次世界大戦終結後、無線先進国においてコールサインが不足し、四文字化(暫定処置)が始まったのである。ちなみに総理局に届けられた各国電波主管庁の割当方針は以下である。

英・仏はそれぞれG系列・F系列だけに限って4文字化(英国:GAAA-GZZZ、仏国:FAAA-FZZZ)、ギリシャはSVA-SZZとTGA-THZを持っていたが、前者だけを4文字化SVAA-SZZZ)、カナダはCFA-CFZ, CHA-CHZ, CJA-CKZ, VAA-VGZを持っていたがVAAA-VGZZだけを4文字化するとした。

またアメリカ, キューバ, デンマーク, 英領インドは自国に分配された文字列を全て4文字化(米国:KDAA-KZZZ, NAAA-NZZZ, WAAA-WZZZ、キューバ:PWAA-PWZZ、デンマーク:OVAA-OZZZ, 新規OGAA-OIZZ、英領インド:VTAA-VWZZ)すると届けた。

そしてベルギーONA-OTZと日本JAA-JZZはとりあえず末尾にAを追加した4文字コールを発行すると総理局に届けた。

40) 日本の四文字コールサインは末尾がA

日本ではまだ三文字コールが尽きたわけではなかったが使用実績を示すためであろうか?逓信省は1920年(大正9年)8月21日、共同漁業株式会社のトロール漁船に『施設ノ目的 無線電信法第二條第一号、第二号ニ依リ航行ノ安全及漁業ニ使用』(官報告示)として、末尾Aの四文字コールの無線局を許可した。これが日本における四文字コールの始まりだった。

なおこれらは施設目的に「電報送受」が含まれていないことから、いわゆる「漁業無線」だと考えられる。以下は8月21日付の海軍への通牒だが、官報には8月26日に掲載された。

信第1431号 通牒 大正九年八月二十一日

逓信次官

海軍次官殿

私設無線電信運用ニ関スル件

共同漁業株式会社「トロール」汽船 吉野丸、海洋丸、麗水丸、若草丸、湊丸、第二港丸、明治丸及園部丸ニ私設無線電信ノ施設ヲ許可シ其ノ運用ニ関シテハ左ノ通命令相成候條御諒知置相成度候

追テ使用電力ハ各五分ノ三「キロワット」ニ有之尚 四字連集ノ呼出符号構成ニ関スル国際間ノ協定成立スルマテ当省ニ於テハ所属三字呼出符号ニA字ヲ附加シタル四字呼出符号ヲ併用候條御了知相成度候

左記

呼出符号ハ吉野丸「JABA」、海洋丸「JBAA」、麗水丸「JBBA」、若草丸「JCAA」、湊丸「JCBA」、第二湊丸「JDAA」、明治丸「JDBA」、園部丸「JACA」トス

其社、私設無線電信相互間ノ漁業用通信ニ使用スヘキ電波長ハ左ノ区分ニ依ル 但シ特ニ規定アル場合ハ此ノ限ニ在ラス

呼出 六百「メートル」

其他 三百「メートル」

私設無線電信規則第二十六條ノ規定ハ緊急ノ際ニ於テ陸海軍無線電信ヨリ同様ノ符号ヲ発スル場合ニ之ヲ準用ス

前各号ノ外尚 国際無線電信条約及同附属業務規則ニモ従フコトヲ要ス

 (上表:逓信省告示第1291-1294,1296-1299号, T9.8.26)

【参考1】JABA, JACA, JADA, JAEA, JAFA,...と3文字目だけを変えながら連続発給すると、三文字目だけでしか互いを区別できないため逓信省は二文字目をA,B,C,D織り交ぜて発行したと想像する。なお4文字コールサインのトップの呼出符号(?)「JAAA」の発給を保留したようだ(ちなみにコールサインの元祖である「3文字コール」のトップ「JAA」はのちになって逓信省の磐城無線電信局に与えられた)。終戦後の1946-47年(昭和21-22年)頃になって蓬莱タンカー株式会社所属のタンカー第10高砂丸JAAAが与えられた。

【参考2】なお9月1日には茨城県所有帆船の茨城丸に航行安全と電報送受用でJBCAが許可(逓信省告示第1329号, T9.9.2)されたがこれは漁業用ではなく、逓信省は4文字コールを漁業無線用と位置付けた訳ではないようだ。株式会社内田造船所が建造したトロール漁船武蔵丸と宇品丸に対し、9月30日に航行安全と漁業用としてJCCA(武蔵丸)、JDCA(宇品丸)が許可(逓信省告示第1508,1509号, T9.10.5)された。JCCAJDCAは11月に内田造船所から共同漁業へ名義変更された。

【参考3】許可上で先行した上表8局の運用開始はいずれも大正11-15年までずれ込んでいる。吉野丸JABA(T11.5.18), 園部丸JACA(T15.4.2), 海洋丸JBAA(T11.8.2), 麗水丸JBBA(T11.3.29), 若草丸JCAA(T11.8.12), 湊丸JCBA(T11.5.3), 第二湊丸JDAA(T11.9.12), 明治丸JDBA(T11.8.26)。後から許可された武蔵丸JCCA(T10.2.3), 宇品丸JDCA(T10.2.3)が運用開始では先行した。

【注】 この後8月末から9月中に掛けても、樺太丸JTZ, 八幡丸JYD, 盛岡丸JOK、明洋丸JPI, たいん丸JTI, あとらんちっく丸JTT, かろりん丸JNR, 神護丸JSV, 小倉丸JOFといった3文字コールが続々と免許されている。すなわち逓信省は3文字コールを使い切り、4文字コールを発行したのではない点にご注意を。下表は1922年(大正11年)初頭の日本の登録局だが、4文字コールの使用開始により、3文字コール再編が進行していることが見て取れる。しかし逓信と海軍でどのような3文字コールの分配を目指していたのかは私には分からない。

 ベルン総理局への日本の登録無線局(1921年)

41) 日本の四文字コールサインの構成

国際的なコールサインは三文字から始まった。第二文字は海軍省(G, J, L, Q, R, U, V, W, X, Z)10シリーズと、逓信省(A, B, C, D, E, F, H, I, K, M, N, O, P, S, T, Y)16シリーズとで分け合ったが、まだ局数が少なかった大正初期は工夫しながら船名由来の呼出符号を発行していた(J▲△の▲△部分を船名由来に)。しかし無線電信法(私設無線の認可)で無線局が一気に増えこの船名由来の指定方法は破たんし、規則性のない発給になった。つまり無味乾燥なアルファベット順による発行よりも、地名や局名に由来したコールサイン命名を行うべきとの基本ポリシーが逓信省にはあったが、局数増でそんなことを言ってられなくなった。

では四文字コールサインの導入に際してはどうだろうか?例えばNHKの第一放送は4文字目(末尾)がKであるように、僅かだが四文字コールの末尾に規則性があることに気付く。もしアマチュア無線を経験された方なら四文字コールがJAAA, JAAB, JAAC,...JAAZ, JABA, JABB, JABC,...JABZ, JACA, JACB, JACC,...JACZとアルファベット順に進む方が馴染みがあるだろう。なぜ日本では4文字目(末尾)がA, B, C,...Z とアルファベット順に進まなかったかいうと、すべては1920年の逓信省が総理局に届けた4文字コールの割当方針に起因する。

すなわち第一次大戦終了後、コールサイン不足で暫定的に4文字コールの使用が始まった時、(アメリカなどは4文字目をA-Zのすべての文字を使うことにしたが、)日本はとりあえず末尾文字「A」による4文字コールを使用するとベルン総理局に届けた(1920年)。そのため、日本ではまず4文字目がAのコールサインを全て使い切ってから、4文字目が Bのコールサインを発行することとし、それも使い切ると4文字目がCのコールサインが始まったのである。

J▲△A の使用開始(1920年)

そのため日本の四文字コールは「J▲△A」で真ん中の2文字目と3文字目を入替えながら発行する方式でスタートした。初期のアマチュア無線家のひとりである安藤博氏が1923年(大正12年)に許可されたコールサインはJFWA(第一装置), JFPA(第二装置)で、四文字コール「J▲△A」だ。もし現代のアマチュア無線的に前半JFをプリフィックス、後半WA, PAをサフィックスとしてJFWA, JFPAを読み解くと、WAとPAが随分離れた印象を受けるが、実は中央のFW, FPに注目すればとんでもなく離れている訳でもない。

J▲△B の使用開始(1924年)

逓信省はワシントン会議が開かれれば、この問題もすぐ解決するだろうから、当面の4文字コールの末尾は「A」だけで良いだろうと考えたかもしれないが、(当初1917年開催予定だった)ワシントン会議は遅れに遅れて1927年に開かれた。そのため末尾「A」だけでは足りなくなり、末尾「B」と「C」の四文字コールも発給する方針を打出したのが1924年(大正13年)だった。

信第四五八四号 通牒 大正十三年五月廿三日

逓信省逓信局長

海軍省軍務局長殿

無線電信呼出符号ニ関スル件

右呼出符号ハ従来「J」字ヲ冠スル三字符号ノ末尾ニ「A」字ヲ附シタルモノヲ使用致居候処 無線電信ノ増加ニ伴ヒ右符号ノミニテハ不足ヲ生スルニ至リ候ニ 就テハ将来更ニ「J」字ヲ冠セル三字符号ニ「B」又ハ「C」字ヲ附シタルモノヲ当省所管無線電信ノ呼出符号ニ充当致スヘク候條御諒知置相成度候

1924年(大正13年)10月3日に、末尾「B」の四文字コールが発行された。

(日本郵船所属の)阿蘇丸JAABと六甲丸JABB(帝国汽船所属の)運天丸JACBで、官報告示は3日後の10月6日(逓信省告示第1385/1386/1387号)だった。

そしてこの後も(犬上慶五郎所属の)十二札幌丸JADB(楠本汽船所属の)福幸丸JAEB(宮城県の)大東丸JAFBと水産練習所JAGB(福島県水産試験所の)JAHB(川崎造船所属の)ふろりだ丸JAIB(大阪商船所属の)湖南丸JAJB ・・・と進んだ。

【参考1】 必ずしもこの調子で真ん中の2文字が進んだわけではないが、「おおむね」アルファベット順に従った。

【参考2】 第二次世界大戦後(1948年7月1日)、日本放送協会ラジオ第二放送のコールサインの4文字目をBに決めた際に、JO●Bの船舶局の呼出符号を変更させた。

J▲△K の使用開始(1925年)

1924年末、(公衆通信を取扱わない)ラジオ放送を許可するにあたり、現在発行中の末尾「B」の四文字コールサインとは区別することになり、逓信省は末尾「K」の四文字コールを選んだ。J▲△Kが放送局用になったが、▲の部分には内地「O」、朝鮮「B」、台湾「F」、関東州「Q」などが予定され、まず初めに内地JOAK, JOBK, JOCK, 関東州JQAKの4局が指定された。

【参考】前述したが、そもそも放送局には「J」の付くコールサインを使う義務は無いが、同じく義務のない漁船に「J」のコールサインを発行した実績があるのと、米国の放送局が国際符字付きの4文字コールを使っていたのでそれに習った。しかし1927年のワシントン会議で4文字コールサインを船舶局用だと定めたため、逓信省では放送局のコールサインを使い続けるか議論になった。結局アメリカはそのまま放送局に4文字コールを使っていたし、そもそも放送局は国際的なコールサインの対象になっていないので、日本の放送局は4文字コールを使い続けた。

J▲△Y の使用開始(1926年)

1926年(大正15年)8月に「特殊呼出符号」が定められた。これはアマチュア無線でいえば「CQ □□」のように、□□に限定した各局呼出符号とでもいうので、J▲△Yが選ばれ、▲△の部分には本邦トロール船各局「YO」、本邦漁獲物運搬船各国「YP」、本邦蟹工船各局「YQ」が入る、JYOY, JYPY, JYQYが指定された。

【参考】全局呼出符号はこれが初めてではなく、以前にも海軍艦船全局呼出にJUAが、日本国籍無線全局呼出にJUZのコールサインが国際登録されたことがあった。

J▲△X の使用開始(1927年)

1927年(昭和2年)3月に有坂磐雄氏と楠本哲秀氏にもアマチュア無線が許可されたが、当時はまだJ▲△Bのコールサインを発行中だったので、両氏にはJLYB, JLZBが与えられた。これも後半YB, ZBではなく、真ん中のLY, LZに注目すると連続していて理解しやすい(ワシントン条約以降のアマチュア局や実験局のコールサインは中央に数字が割込むため、プリフィックス/サフィックスという見方ができるが、一般的な無線局のコールサインはそうではない)。

同年9月からアマチュアにはJ▲△Xの四文字コールを使うことになった。その理由に言及された文献は見つかっていないが、不法局取締り強化が始まった直後であり、監視上から一般無線局と区別が付き易いようにしたものと推察する。▲△の部分にはXA, XB, XC,... XI を当てることにして、草間貫吉氏JXAXをはじめJXBX, JXCX, JXDX, JXEX, JXFX, JXGX, JXHX, JXIXの9局が免許された。

ちなみに我国の私設実験局には1916年(大正5年)より一般無線局と区別する2文字コール XA, XB, XC,... を発給していたが、1921年(大正10年)の安中電機製作所XL, XMを最後に、新規の私設実験局のコールサインには一般無線局と同じJ▲△Aの四文字コールを使うよう方針転換があった(既設局はこの時代になっても2文字コールが再免許され続けた)。

ところでアマチュア局は国際的に定義・承認された無線局ではなく、国際符字の使用も、また登録義務もないので、「半人前のお前達はこんなので良いだろう・・・」と考えたかどうかは知らないが米国商務省は「数字+2 or 3文字」という風変わりなスタイルのコールサインを指定してきた。やがて他国の電波主管庁も米商務省式アマチュアコールをまねるようになっていた。

対して日本の逓信省はアマチュアに一般無線局と同じく国際符字「J」から始まる4文字コールを発行した。アマチュアの世界の趨勢に沿わないコールサインを発行した逓信省という捉え方もあるだろが、考えようで逓信省はアマチュアを一人前の "大人の無線局" として扱ってくれたともいえよう。無電電話については呼出名称のみとしてアルファベットの4文字を指定しなかった。

J▲△C、J▲△D の使用開始 (1927年~)

J▲△Cの四文字コールの発給がいつからかは(私はじっくり調べたわけではないので間違っているかもしれませんが)、1927年(昭和2年)9月に鹿児島郵船所属の久吉丸に呼出符号JAACが与えられている。

さらにJ▲△Dの四文字コールだが、1927年のワシントン会議で陸上局は3文字、船舶局は4文字に決まったために、旧来の三文字コールの船舶局には末尾に「D」を付加して4文字化した。たとえば大正15年春に岩槻J1AAのオペレーターだった河原氏が短波無線機を積んで太平洋上から官錬無線実験室J1PPや落石無線JOCと短波実験を行った春洋丸JSHJSHDに、J1AAを指導した中上係長が入省当時、研修で乗船した逓信省通信局の海底ケーブル敷設船沖縄丸JONJONDになった。つまり歴史ある古参船舶局が新参Dコールサイン(?)になり、この4文字目が必ずしも古さを示すものではなくなった。

ところで1924年(大正13年)の大連放送局JQAKの二文字目「Q」や、1927年(昭和2年)のアマチュア局JXAXなどの二文字目「X」は、もともと海軍省に分配されたものだった。それが第一次世界大戦後には多くの例外が見られるようになった。この海軍省と逓信省の「呼出符号の住み分け協定」は大正中後期に解消したのではないだろうか。例えば中国大陸に進出した陸軍に開設した青島(チンタオ)無線電信所に、コールサインJANが指定されていた時期がある(青島無線電信所事務開始の件, 大正11年4月13日 軍務機密第225号, 海軍省軍務局長)。

42) 日本の三文字コールサインの新しい構成について

1927年のワシントン会議で3文字コールは陸上局、4文字コールは船舶局という新たなルールが定められたため、古参の船舶局には末尾にDを附し「J▲△D」の4文字コールに変更された。

この措置(3文字コールから船舶局が撤退)により我国の3文字コールに大きな空き地が広がった。逓信省ではこれを秩序だった分配へ再編する絶好の機会と捉えた。これまで慣習的に行っていたものも含めて、3文字コールの指定基準として方針を決めた。

三文字呼出符号 固定局及陸上局は三文字呼出符号を使用し、第二字 Bを朝鮮に、Dを関東州に、Fを台湾に、Rを南洋に、Tを樺太に割当て、内地に於いてはJ、Mを軍用に、Gを官庁用に、Lを方位測定施設に、Oを漁業用に、Qを小島嶼連絡用に、E、Yを固定連絡用に使用するようになった。(『日本無線史』第四巻, 電波監理委員会, 1951, p175)

附録1) 天洋丸TTYが日本初の公衆通信に失敗

銚子海岸局JCS天洋丸TTY日本初公衆通信無線局だが、実は日本初の公衆無線通信を行ったのは天洋丸TTYではなかった。

1908年(明治41年)春、我国初の1万トンを超える大型豪華貨客船「天洋丸」(1万2千トン)が三菱造船所の手により完成した。最新鋭のタービン機関を採用し、豪華なスイートルームやラウンジを作り、さらにはドイツから輸入したテレフンケン社製の無線機(1.5kW)を初めて施設し、逓信省無線電信局TTYを置いた。東洋汽船は横浜港で1週間にわたりマスコミ関係者、政治家、財界著名人を船内に招きその豪華さをPRした。そして間もなく日本初の公衆無線電報を成功させるハズだった・・・

1908年(明治41年)5月16日、天洋丸TTYは処女航海の目的地香港へ向けて横浜を出港。房総半島の山々の陰に位置する銚子JCSとはつながらないまま、ついには外洋に出て、南方の香港を目指して船を進めるしかなかった。

米村 天洋丸が横浜港を出帆した時は天洋丸にとって処女航海だった。それは明治41年5月16日です。その時に天洋丸無線電信局と銚子無線電信局が同時に開局されたのです。天洋丸は横浜を出ましてから香港の方へ向かって行きましたので、銚子との通信を予期しておりましたけれどもとうとう通信ができなくて、そのまま香港に行ってしまった。その時の理由は東京湾で銚子の間に房州の山があるものですから、多分それにじゃまされて通信ができなかったんだろうと思いますが天洋丸が香港から帰るころには、私は丹後丸に乗ってアメリカの方へ行っておりましたから、その状況は良く知りませんが、これもとうとう出来ないで終わったらしい。 (米村嘉一郎, "座談会 無線通信事業創始50周年に当たりて", 『電気通信』, 1958.5, p32)

日本には(公衆通信の海岸局は)銚子海岸局JCSしかないため、「天洋丸無線電信所TTYの初仕事は失敗に終わり、6月7日になって目的地香港でようやく米海軍の艦船ガルベストン(Galveston, Call Sign: EL)との初交信に成功した。なお7月1日のベルリン条約および附属規則の発効前なので、この6月7日の交信に同艦が旧コールサイン(2文字)「EL」を使ったか、国際規格の新コールサイン(3文字)「NGD」を使ったかは不明である。

『・・・(略)・・・同船乗組の無線電信技師いわく、香港にては米艦ガルベルストンと通信を数回交換し、出港の際には同艦より「航海の安全を祈る」の特信ありて・・・(略)・・・』 ("天洋丸好評", 『東京朝日新聞』, 1908.6.9, 朝刊p2)

なお直後には次のような記事もあった。『銚子局の開始につき・・・(略)・・・、同局開始の節、天洋丸の乗客に対して「ブジノコウカイヲイノル」と発電せしが、これぞ銚子局における最初の取扱電信なりける。("無線電信開始", 『東京朝日新聞』, 1908.7.4, 朝刊p6)

しかし電報とは相手に届いて初めて意味を成すもので、上記電文は天洋丸TTYに届かなかったのだから、これは単なる銚子無線JCSの「独り言」であって、我国初の無線電報とされていない。この解釈は今日においても、また当時においてもそうである。

附録2) 銚子JCSと丹後丸YTGが日本初の公衆無線電報(1908年5月27日

では日本初の公衆無線電報は誰と誰の間で取交わされたのだろう?

1908年(明示41年)5月27日にライバル日本郵船の「丹後丸」(7千トン)が日本第二号の船舶無線局YTGとして横浜から北米シアトルに向かった(その通信士が前記の米村嘉一郎氏)。無線機(安中電機製作所製)は逓信省佐伯技師が発明した逓信省式(国産品)である。横浜を出港後、東京湾内でしきりに銚子JCSを呼んだが感度ナシ。6時間ほどしてYTGが房総半島の先端「野島崎」に達したとき、JCSのシグナルをはっきりとキャッチした。

そして日本初の公衆無線電報が丹後丸YTGから銚子海岸局JCSへ送られたのである。それは報知新聞社宛ての電報で『2時横浜出帆、今銚子より南西66カイリにありて初めて無線電信をひらく 感度良し』だった。この5月27日が公衆無線電報が初めてひらかれた日であり、日本郵船の丹後丸YTGのレコードになった。その記念すべき電報送達紙は今も東京の郵政博物館で大切に保管されている。

附録3) 丹後丸YTG初航海のこぼれ話

いくつかのトピックスを当時の丹後丸YTGの米村無線局長の記事から引用する。

a) 無線電報第一号が報知新聞社だったわけ

米村 ・・・(略)・・・横浜へ報知新聞から誰か記者が来まして、丹後丸から出す日本で第一番の、電報第一号は当社へ打ってくれといって発信を頼んでゆきました。それで時間だけ、書き込むようにして、電報を作っておきましたからそれを送りました。・・・(略)・・・報知新聞社あて電報を出しました。それからお客からもたくさん出しますし、陸からもずいぶん来まして、30通余りの電報を扱いました。・・・(略)・・・銚子のその時の局長は橋本忠三君。その他に局員として小美川一君、この2人がおりました。その外逓信省の通信局から田辺勝誠さんが銚子に出張した。翌朝9時過ぎまで徹夜で連絡しながら行きました。百十マイルぐらいで通信ができなくなりました。その時の規則で通信距離が120マイルということに定まっておったので、もうこれで通信が終わったわけです。 (米村嘉一郎, "座談会 無線通信事業創始50周年に当たりて", 『電気通信』, 1958.5, pp32-33)

b) YTGはアメリカの海岸局のコールサインを知らないまま出航

それからアメリカに着く時はその1日前の夜から向うの局を呼びました。アメリカにはどこに海岸局があるのか、何という呼出符号であるか、日本ではわかっておりませんでした。相手はさっぱりわからないのに、ただ船に乗っておれば何とかなるだろうぐらいで行ったわけです。船に乗りましてからブリッジに行って、アメリカの無線局の呼出符号がわからないかと言うと、アメリカの水路部から毎月出している地図があり、その裏に呼出符号が書いてあったので、それを呼び出して返事を受けました。お客の電報も送りましたが、その電報は、それぞれ届いていたようです。米村嘉一郎, 前傾書, p33)

c) 無料で扱ってくれたアメリカの海岸局

この時の通信は海岸料と国内電信料を無料で扱ってくれたように思う。当時、日本からアメリカへの移民が盛んであって、「写真結婚」といって毎航多数の花嫁が船客を占め、この人たちから船の着時を知らせて出迎えを頼む電文の代筆をさせられた。アメリカへ行って見ると、多くの船が無線電信の装置を持っていたが、日本の機械が珍しいので、見物に来た人が多かった。Fine but complicated と評された。 (米村嘉一郎, "電波界50年 思い出の記 (2)", 『電波時報』, 1958.7, 郵政省電波監理局, p57)

d) 公衆通信の最初の失敗 "洋行帰りの通信手"の面目まる潰れ

明治41年7月半ば、僕の乗っていた丹後丸は、日本最初の無線電信装置船で処女航海の帰心は矢のごとく、海上平穏連日の順風に追われて、予定より1日早く金華山沖へとさしかかった。やおら電鍵を握って銚子局を呼んだが、(当時通信距離は百哩内外でその前に呼んでも駄目だと信ぜられていた)返事は梨のつぶて、船員船客の手前、洋行帰りの通信手の面目まるつぶれのまま一夜を明かした。翌朝6時、犬吠の灯台が見え、無線局のアンテナ、ポールまでも見えるに至ってようやく通信をとった。当時銚子局でもどこでも、船に関する知識が乏しく、船も汽車と同様定期通り動くものと考えて、1日早く圏内に入ったとは夢にも知らず受話器を耳にしなかったので、この大失態が動機となりコヒーラーを利用したアラーム装置を完成するようにと上司の厳命を受けて、担当技士達は非常に苦心を重ねた。これがおそらく日本無線界の最初の失敗だった。(米村嘉一郎, "揺籃時代のラヂオの思出", 『ラヂオの日本』, 1926.1, 日本ラヂオ協会, pp13-14)

e) 通信士が航海中に「アマチュア無線もどき」を楽しむ?

これは丹後丸YTGの話題から外れてしまうのだが、当時の船舶局の通信士がアマチュア無線的なことを楽しんでいたという珍しい証言があるので合わせて紹介しておく。明治44年に官練を卒業されて船に乗った穴沢忠平氏(のちに中上係長のもと、岩槻無線の建設現場でJ1AAを河原氏と運用された方)で、座談会での受け答えである。

-(司会)- その頃、船の無線はどのくらいの距離まで通信できたのですか。

 穴沢 横浜を出てシアトルまで二週間かかりますが港を出て三日たつと昼間は通信ができなくなります。

 -(司会)- 波長は

 穴沢 三百メートル(1,000kHz)くらいでした。だから、二週間のうち、昼間は六日しか通信できない。当時は電波も混んでいないし規制もとくになかったから、すれちがう外国船のオペレーターをつかまえて国の話などをよくやりました。 (穴沢忠平, 『先輩にきく:逓信同窓会』, 電経新聞社, 1979, p53)

附録4) 実は天洋丸TTYと官練無線実験室が日本初の公衆無線電報を取扱った

さて公衆無線電報第一号のレコードを丹後丸YTGに持っていかれた不運の天洋丸TTYだが、これにはさらに裏話がある。

実は天洋丸TTYは処女航海を前に、東京の通信官吏練習所(米村氏ら通信士養成教育を受けた学校。まもなく「通信」を「逓信」に改称。)の無線実験室を通信対手局とし公衆無線電報を取扱った。けしてコッソリと行なったものではなく、正々堂々と一般市民の無線電報を取扱ったのだが、残念なことに天洋丸無線局TTYの正式開局前の特別措置だったので、逓信省はこれを単なる有線電報として課金することで法的な整合性をつくろい、無線の歴史の闇に埋もれてしまった。

この1万トン級の商船は、当時わが国では、唯一のもので輪かんの美を尽くし、海上の宮殿として世人を驚かした。会社では7日間にわたって、貴衆両院議員を初め、新聞社、通信社員や、朝野の紳士、淑女を同船に招待した。この機会に、同船に設備した無線電信機で、来賓の出す電報を芝公園の練習所無線実験室に送り、そこから臨時に架設した陸線で、東京中央電信局へ送信し、名名あてへ中継し、または配達することとした。・・・(略)・・・この時はまだ天洋丸無線電信局が公開されていなかったので、天洋丸も練習所も共に、東京中電局の分室ということにして、臨時に電信事務を取り扱ったわけである。だから、このときの電報はすべて「無線電報」としないで一般の国内電報(有線電報)として取り扱った。会社では、来客へのサービスとして、だれでも電報を打ち放題にして、電報料金は会社が負担すると船内に掲示したからたまらない。物珍しさとただで打電できるから、ものすごいほど通信が混雑した。通信する人手はいくらあっても、無線電信機1台の送信には1人しか掛かれないから、電報はたまるばかりで、はけきれない。とうとう持て余した電報をそっとポケットに入れて、横浜の電話局に行き事情を話して、そこから送ってもらった日もあった。これは公開以前に、無線電信で公衆電報を取扱った最初である。(米村嘉一郎, "電波界50年 思い出の記", 『電波時報』, 1958.6, p50)

当時の新聞がこの件を報じていたので引用する。

『・・・(略)・・・昨六日(5月6日)より七日間内外の紳士を船中に招待し観覧に供し、東京よりは毎日、芝公園通信官吏練習所内の無線電信を利用して本社の通信を受け、来賓の余興に供す。昨日は午前十一時五十五分より無線電信の試験に着手し、同船内出張中の中山逓信技師より先の電信ありたるに対し、小松通信局長より天洋丸無線電信の試験の成功を祝する旨の返電を送れり。

ただ今より天洋丸無線電信の試験に着手す。成績良好なり。(1908年5月6日11:55、天洋丸中山逓信技師が送信した記念すべき第一報) 』 ("天洋丸の無線電信", 『東京朝日新聞』, 1908.5.7, 朝刊p2)

東京芝山内なる通信官吏練習所と横浜港繋留東洋汽船株式会社汽船天洋丸との間に、昨日より来る十一日まで毎日無線電信の通信を行うことについて小松通信局長、左のごとく語れり。

無線電信の試験は京まで幾十回となく繰返され、その通信伝達の速度は有線電信と同じく一分間七十五語以上八十語にして・・・(略)・・・練習所に東京郵便局の分室を臨時設置し同所にて受付けることにせり。もっとも無線電信は未だ開局せられし訳にあらざれば電報を徴収して公電の頼信に応ずべき次第に非ず。よって電報料は無線の方は無料とし、東京より発するものは普通電報料金を、横浜天洋丸より発するものは市内電報料を徴収することとせり。新聞通信社等にして、これを使用せんと欲するものは東洋汽船株式会社の手を経て芝山内の練習所に差出さるべし。("京浜無線電信", 『読売新聞』, 1908.5.7, 朝刊p2)