CQからCQD/SOSへ

遭難信号CQD, SOSとは 誕生の概要

SOSは何の略(略号・略称)でもなく、字面に意味はありません。船のモールス式遭難信号SOSやCQDの歴史と、CQの意味・由来(語源)についても深堀します。

SOSはドイツの全局呼出SOEをもとにして、1905年(明治38年)4月1日施行のドイツの無線通信規則に採用されたことをはじまりとします。ドイツのテレフンケン社で使われました。一方英国に本拠を置くマルコーニ社ではその前年(明治37年)2月1日に全局呼出CQをエマジェンシー用に拡張したCQDの運用をスタートさせていました。

こうして1905年より英国のマルコーニ社のCQDと、ドイツのテレフンケン社のSOSという、二つの遭難信号の時代を迎えました。両者の違いですが、CQDはマルコーニ社の社内規定によるもの(他社は無関係)で、SOSはドイツ帝国が定めた通信規則による点(他国は無関係)が第一に挙げられるでしょう。次にCQDは文字「CQD」として規定(明文化)された符号で、SOSは・・・― ― ― ・・・という短点長点のシーケンス(音列)で規定されたことも大きな違いだといえます。しかし・・・― ― ― ・・・の音列のままでは新聞などで報じる際に不便で、やがて一般にはこれをSOSと呼ぶようになりました(音列を文字化した)。ここは非常に誤解が多い所ですが、実は「SOSという言葉自体が後付けされたもの」です。そして遭難信号・・・― ― ― ・・・をなぜSOSと呼ぶようになったのかについては、32) 遭難信号SOSの語源のまとめをご覧ください(仮説)。

ちなみにCQDのもとになったCQは、明治維新(1860年代後半)の頃に英国の有線電報の通信略符号として誕生しました。CQは何の略でもなく、意味は当初より"All Stations"です。マルコーニ社ではCQDを定める前から、CQを無線通信で使っていました。しかしドイツは全局呼出にSOEを定めたことから、日本はこれにならいSOEを採用しました。

1906年(明治39年)、ベルリン会議(第一回国際無線電信会議、10月3日-11月3日)では国際遭難符号としてSOSが採択され、その発効日である1908年(明治41年)7月1日までに各国で批准されました(米・伊を除く)。我国では1908年4月9日に危急略符号SOSが制定され(逓信省公達第341号)、5月1日施行、5月16日に開局した銚子海岸局JCSと天洋丸船舶局TTYによりその運用がスタートしています。しかし他社と交信する気のないマルコーニ社はその後も社内符号としてCQDを使い続けました。

Web上で散見される「当初の遭難信号はマルコーニ社により提案されたCQDだったが、国際無線電信会議でSOSが採択されたため置き換わった」という見方は正しくありません。そもそもマルコーニ社以外はCQDなど使わなかったし、逆にマルコーニ社は世界標準のSOSなど使う気がありませんでした。

1912年(明治45年)、タイタニック号の沈没(4月15日)の直後に開かれたロンドン会議(第二回国際無線電信会議、6月4日-7月5日)では、長く懸案だったマルコーニ社の他社との交信義務の不履行問題が全面解消したことでマルコーニ社のCQDは姿を消しました。

初めてのCQDはリパブリック号のマルコーニ局が1909年1月23日に発信し、初めてのSOSはアラパホ号のUWT局が1909年8月11日に発信したというのがこれまでの定説です。しかしなぜか、日本では初SOSをスラボニア号のマルコーニ局とする記述が多いです。つまり「マルコーニ局の中で最初にSOSを発したのは1909年のスラボニア号」だと言っているわけです。

もしそこへ「マルコーニ局の中で最初にSOSを発したのは1912年のタイタニック号」だと併記されていたりすると、もう矛盾が大炸裂です。スラボニア号も、タイタニック号も、無線局を運用していたのはマルコーニ社ですから。

この件での一番の問題は世界的にも、スラボニア号がSOSを発したことを裏付けるものを誰も示していない事です。これについても詳しく説明しました。

【注】 スラボニア号のSOS説の引用元が明記されているものも一部ありますが、実はその引用元で追跡が途切れてしまい、全く信憑性が検証できていないのが現状です。

それでは遭難信号SOSおよびその関連事項を歴史の流れに沿ってご紹介します。なお本ページは「他社とは交信しないマルコーニ社」の記事をお読みになられていることを前提にしています。

1) 無線による世界最初の救援通信 (1899年4月28日)

マルコーニ氏らは1898年(明治31年)暮れより英仏海峡にあるサウスフォアランド灯台(海岸局)とその沖に停泊するイースト・グッドウィン灯台船(船舶局)で「陸-海」通信の試験を続けており、3月27日にはサウス・フォアランド灯台から対岸フランスに仮設した実験局まで通信距離を伸ばすことに成功しました。「陸-陸」通信の英仏海峡横断試験です。マルコーニのページを御覧下さい。


この無線実験の海域で起きた海難事故ではじめて無線が使用されました。

1899年(明治32年)4月6日夜、イーストグッドウィン灯台船はひどい濃霧の中を浅瀬危険水域の方へドリフトしていく一隻の大型船を発見しました。直ちに無線によりサウス・フォアランド灯台へ通報し、沿岸警備隊へ連絡したため、大型船は座礁寸前のところで進路を変えて助かりました。「無線が船を救った」と多くの新聞の記事になっています

上図[左]はGeelong Advertiser(Apr.10,1899, p3)、[右]はThe Inquirer and Commercial News(Apr.14,1899, p6)の記事です。

【参考】 3月(または3月17日)にドイツの貨物船Elbe号がこの浅瀬海域(グッドウィン砂洲)で一旦座礁しつつも、なんとか自力で浮上脱出した事故があり、その際にイースト・グッドウィン灯台船が無線で救援通報したとする海外文献があります。しかし英国系の新聞を探してみましたが、私にはその事実を確認できませんでした。この件は調査継続とします。仮にそういう事故があったにせよ、Elbe号は「救助を待たず、自力で脱出した(=大事には至らず自己解決した)」とのことですから、私は事故が起きて、かつ無線に救助活動が行われた世界初の救援通信は以下に述べる、「1899年4月28日マシューズ号がイースト・グッドウィン灯台船に追突した事故」だと考えることにしました。

1899年4月28日、ロンドンからテムズ川を下り海に出て、濃霧の中、この海域を航行していたマシューズ(Matthews)号が、イースト・グッドウィン灯台船に突っ込むという事故を起こしました。

上図[左]はThe Express and Telegraph (May.1,1899, p2)、[右]はSydney Evening News(June.24,1899, p1)です。

ぶつけられた灯台船はすぐさま無線でサウス・フォアランド灯台に緊急事態を知らせました。曳船(タグボート)と救命船が出動し、灯台船は無事に港へ曳航されました。不幸にも追突事故で乗員が救助されたという意味においては、こちらが世界最初の救援通信かもしれませんね

この海域はマルコーニ氏の無線実験場で、自分たち(灯台船と灯台)以外に無線局はない時代です。救援を求める特別な符号」など必要なく、「助けて!」で済んだのでしょう。

参考】 このマシューズ号の追突事故を3月3日とする文献がいくつありますが、それは誤りです。間違っている記事の一例を挙げておきます。『而してこの同じ年(1898年)には無線電信が初めて燈臺と燈臺との間の通信に役立てられたが、これはイースト・グドウィン(East Goodwin)燈臺船と約十二哩の距離にあるサウス・フォアランド(South Foreland)燈臺との間で行はれたもので、又海上で無線電信が初めて人命救助に利用されたのは、翌一八九九年三月三日燈臺船が汽船と衝突沈没した椿事であった。(菅井準一, "グリエルモ・マルコーニ", 『科学の諸断面:力学及び電磁気学の形成史』, 岩波書店, 1941, p246)

洋書を中心に、多くの書籍、「3月3日」と引用が繰返され、世界中に「誤り」が拡散したようで。しかしマシューズ号の事故が「4月28日」であることは、当時の(上に紹介したものだけでなく)複数の新聞によって確認できま

1901年(明治34年)1月1日、マルコーニ国際海洋通信会社が試験運用していたベルギー政府の郵便連絡船プリンセス・クレメンタイン(Princesse Clementine)号は難破したスウェーデン船マデイラ(Barque Madeira of Stockholm)号を発見し無線で救援通報をしていますが、やはり特別な救援符号が用いられたという記録はありません。

2) マルコーニ社が無線で全局呼出CQを使い始める

電波先進地域である欧州エリアでは1901年(明治34年)より海岸局と船舶局間で電報を取扱う、無線ビジネスがスタートしました。ついに無線の実用化・商用化が達成されたのです。

徐々に船舶無線局が増え始めると、(自社連絡報などで、)同じメッセージを1対1でやりとりしていたのでは時間が掛かり非効率だと考えられました。そこでマルコーニ国際海洋通信会社では有線電報の符号だった「CQ」を自社の全局呼出に使うようになりました。

英国に本拠を置く同社では、無線機の開発と平行して無線オペレーターも養成しており、英国の有線オペレーターからの転向者が多くいました。そのため英国式の有線電報の符号だったCQが無線電報でも準用されるようになったといわれています。なおCQが国際的に採用されたのは1912年のロンドン会議(第二回国際無線電信会議)でのことです。「国際呼出符字列」のページを御覧下さい。

マルコーニ国際海洋通信会社は無線電報の商用化(1901年)直後よりCQを使ったとする文献も見られますが、この符号が意味するところ(All Stations)を勘案すれば、船舶無線局が次々開業した1902年末期以降ではないかと想像します。(後述しますが)CQDの社内通達第57号(1904年1月7日)が出された時点では、既に「CQ」を使っていたことが伺えることから、少なくとも1903年には同社がCQを利用していたのは確かです。

3) CQはいつ、どこで、どんな意味として誕生したのか?

CQは19世紀の英国で定義された有線電報用の通信略符号で、その意味は制定当初より"All Stations"(全局)でした。その語源については諸説・珍説が見受けられますが、これがCQ制定時の意味です。

左図は1870年(明治3年)に英国ロンドンで出版された「電信ハンドブックHandbook of the Telegraph, 1870, Lockwood & Co., p70)に掲載されている当時の通信略符号です。

CQ」が"All Stations" を意味する略符号として記されています。

CQ ・・ All Stations. A notification to all postal telegraph offices to receive the message. (R. Bond, Handbook of the Telegraph, 1870, Lockwood & Co., p70 )

私はこの分野は詳しくないのですが、「CQ」符号は鉄道電信(Railway Telegraph)でもほぼ同じ意味で使われていたようです。

戦前において欧米通信産業史研究の第一人者だった岡忠雄氏は、1941年(昭和16年)の著書で「英国のマルコーニ社は鉄道電信オペレーターからの転向者を多く採用したため、彼らが前職で使っていた全局呼出のCQが、自然とマルコーニ社の無線でも使われるようになった。」という意味のことを書かれています。

英国の鉄道駅の電信局では同一鉄道線の一切の通信士の注意を集中せしめる一般的呼出にはCQという符号を長い間使用していた。この呼出符号は毎夜十時の時刻通報および一般に重大ニュースの通報用に使用した。マルコーニ会社の無線通信士は、ほとんど全部が英国の鉄道会社専属の通信士から選ばれたので、これらの通信士は鉄道用のCQ符号を自然に船舶通信用に使用する慣例となった。(岡忠雄, 『有線無線物語』, 1941, コロナ社, pp304-305)

もう少しCQ符号について調べてみました。すると米国の鉄道会社(Baltimore and Ohio railroad company)が発行してた月刊誌"Book of the Royal Blue"(1909年11月号, p3)The Origin of "CQD"(CQD符号の起源)という記事を見つけました(下図)。

これは1909年1月のリパブリック号の沈没事故で一躍注目されるようになったマルコーニ社のCQD符号のルーツを、競合ライバル会社であるユナイデット・ワイアレスUWT社の通信士が解説した記事です。ここに「CQ」符号がどのように使われて来たかが述べられています。

コンチネンタルコード(欧州式モールス)の「CQ」は有線電信で全局を同時に呼出す符号だった。そして「ニュース通報」の際に前置されていたが、やがて無線電信ではこれにDを付加して遭難符号として用いるようになったとしています。

In the continental telegraph code, the letters "CQ" are used on news circuits, having a number of stations looped together on one line, to call the attention of all the stations simultaneously, instead of individually, thus saving much time. For instance, if the operator at the terminal station, which is a "news center," has a message to transmit simultaneously to each station on the circuit, he will simply call "CQ," and then go ahead with the message.

When wireless came into vogue it was felt that some such signal was necessary to call the attention of all ships and shore stations in case of distress; so a "D" was added to the "CQ" of the land usage, making "CQD," which means literally, "All stations, distress," or "All stations, answer distress signal."

それにしても、進化の著しい通信界において、「CQ」が150年以上も生き延びた最古参の符号だったとは恐れ入りました。

4) CQの正確な誕生年はいつなのだろう?

前述のR.Bond氏が書かれた英国の「電信ハンドブック(R.Bond, Handbook of the Telegraph」は1870年(明治3年)でした。

私がその次にさかのぼれたのは1864年版(文久4年/元治元年)で、Virtue Brothers and Co.社からの出版でした。

日本でいえば、なんと江戸時代になりますが、この1864年版には「CQ」という通信略符号はまだ登場していませんでした。

曖昧な表現で申し訳ありませんが「CQという通信略符号は、明治維新の頃に英国で誕生した」とまとめさせて下さい。いつか両版の隙間(1865から69年)を埋められればと思っています。

5) CQは単なる符号で、その文字に意味はなし

アルファベット2文字の組合せはAAからZZまで、26 x 26 = 676通りあります。「電信ハンドブック」の1864年版(文久4年/元治元年)1870年版(明治3年)からどんな略符号が決められていたかを書き出したのが表です。

【参考】 念のため、同書1862年版(文久2年)も調べてみましたが、1864年版(文久4年/元治元年)との略符号の増減はありませんでした。

表の右端の数字は64年版, 70年版に掲載されていた符号の数です。

1864年には(黄色とピンクの)略符号の合計は21で、1870年になると(ピンクと赤色の)42に倍増しています。

特に二文字目がQである、「*Q」の略符号に注目してください。

64年版では4略符号(DQ, KQ, MQ, RQ)だったものが、70年版では17略符号へ急増しています。おそらく意識的に「*Q」を使い始めたものと想像できます。従って「*Q」略符号については、(無線電信のQ符号と同じく)「文字」と「意味」の関連性は希薄だと考えられます。

CQが”Call to Quarters”の略だというのは後付けでしょう。英語の”Seek You”の発音から来たとする説はなかなか面白いのですが、それだけです。またフランス語”Sécurité”の音にこじつけた珍説にしても同じです。

CQの意味をその文字(字面)に求めても、答えにはたどり着かないと思います。

6) 世界初の遭難信号SSSDDDの提案 (1903年 ベルリン国際無線電信予備会議)

無線界では1904年(明治37年)1月まで、特に遭難信号というものを定めておらず、もし緊急事態が起きても全局呼出CQで事が足りるという程度の混雑度だったのしょう。しかし今後も無線局が増え続けるならば、遭難通信を混信から保護する為に、遭難を明示した特別な呼出が必要だと考える人物がイタリアに現れました。

1903年(明治36年)8月にドイツ皇帝が招へいし開催されたベルリン無線電信予備会議(Preliminary Conference on Wireless Telegraphy, Aug.4-30, 1903)において、イタリア代表のQuintino Bonomo氏が船舶局の遭難信号を定めるべきだとして符号SSSDDDを提案しました(下図:ITUのWebサイトで公開されている議事録より引用)。

この信号を感受した局は全ての通信を一時中断させて、直ちに救援通信を始めよというものでした

結局、採択には至りませんでしたが、このSSSDDDが世界初の無線遭難信号"の提案"でした。

A case which deserves all our attention is that of urgent signals from ships in distress. In regard to these, all stations should be compelled to do their utmost to receive them; and I consider it would be useful to agree at this Conference as to the method to be followed. However that may be, I propose the following rule: A ship in distress should send at intervals of some minutes the signal SSSDDD. Every station receiving this signal should suspend its communications and prepare immediately for reception; as soon as possible it would put itself in communication with the ship, commencing transmission by the same signal SSSDDD. (Documents of the Preliminary Conference on Wireless Telegraphy "PRELIMINARY CONFERENCE AT BERLIN ON WIRELESS TELEGRAPHY", 1903, p43)

いよいよ遭難信号CQDSOSの話題に入りますが、その前にマルコーニのページにある「他社とは交信しないマルコーニ社」のご一読をお勧めします。これを念頭におかないと、ドイツ皇帝のマルコーニ社への確執や、1906年の国際会議で国際的な遭難信号としてSOSが採択されたあともマルコーニ社がCQDを使い続けたわけが理解しにくくなります。

7) マルコーニ社が遭難信号CQDを制定施行 CQ = All Stations (1904年2月1日)

イタリア代表Quintino Bonomo氏のSSSDDDは採用されませんでしたが、彼の提案がマルコーニ社に遭難専用符号の必要性を気付かせたのは間違いないでしょう。さらにそれを強固なものにする、ある事件が年の暮れに起きました(下図:Ottumwa tri-weekly courier紙, Dec.10, 1903, p1)

1903年(明治36年)12月5日におよそ900名を乗せてベルギーのアントウェルペン(Antwerpen)から、ニューヨークに向ったRed Star Line(ベルギー)所属のクルーンランド(Kroonland)号が、12月7日にアイルランド沖190マイルの海域でステアリングギアの故障を起こしました。

12月8日、同船に設置されていたマルコーニ国際海洋通信会社(Marconi International Marine Communication Company)無線局(呼出符号KD)は、アイルランド南西端のクロークヘイブン海岸局(呼出符号CK, 波長100m[3MHz], マルコーニ社の海岸局)と連絡が取れて、救援活動の結果、クイーンズタウン(現:アイルランドのコーブ)港へ無事曳航されました。乗員・乗客の約900名全員が無事でした。

事故が起きた定期航路船から発信された緊急無線通報としてはこのクルーンランド号が世界初です。この事故の当事者でもあるマルコーニ国際海洋通信会社では船舶の事故や遭難時に使う特別な信号の必要性を強く認識したようです。

【注】 前述のとおり1899年4月28日に追突されたグッドウィンの灯台船が自ら無線で救援を求めていますので、クルーンランド号は「定期航路船」としての緊急通報第一号です。

しかしそもそも他社とは交信しないマルコーニ社としては世界共通(各社共通)にするつもりなど、はなからありません。

1904年(明治37年)1月7日、マルコーニ国際海洋通信会社は社内通達第57号で、従来からの全局呼出CQにDを加えたCQD自社の遭難信号と定め、同年2月1日より単独実施しました。

It has been brought to our notice that the call "C.Q." (All Stations), while being satisfactory for general purposes, does not sufficiently express the urgency required in a signal of distress.

Therefore, on and after the 1st February, 1904, the call to be given by ships in distress or in any way requiring assistance shall be "C.Q.D."

This signal must on no account be used except by order of the captain of the ship in distress, or by other vessels or stations retransmitting the signal on account of the ship in distress.

All stations must recognize the urgency of this call, and make every effort to establish satisfactory communication with the least possible delay.

Any mis-use of the call will result in the instant dismissal of the person improperly employing it. (The Marconi International Marine Communication Company, Limited, Circular No.57, Jan.7,1904)

これまでの全局呼出「CQ」では遭難時には充分でない(not sufficiently)というのが制定の理由のようです。遭難信号CQDの"D"についての説明は特にありませんが、"Distress(遭難)"を意図しているようで、CQDは"All station, Distress"だったと考えられます。またCQDの発信には船長の命令が必要なことを明確に謳い、(最終行で)誤用した場合は解雇するとして、CQDの厳正なる運用を社員に求めました。

1904年1月18日、米国マルコーニ社(Marconi Wireless Telegraph Company of America)も社内通達第15号"Distress or Urgency Call"で、2月1日より遭難信号としてCQDの使用を開始すると社員に知らせています(左図)。

CQDの導入は1904年2月1日に、マルコーニの全系列社で一斉に行われました。

英国のマルコーニ国際海洋通信会社の通達文にはあった最終行が省かれただけで同じ文面ですので、こちらにも『 "CQ"(all stations) 』と書かれています。つまり遭難信号CQD誕生の瞬間より「CQDのCQはAll Stations」であって、"Come Quick, Distress"ではないし、"Call to Quarters, Distress"でもありません

TYK式無線電話の発明者のひとりとして有名な電気試験所の横山英太郎氏は1916年(大正5年)に出した著書でCQDを説明しています。

このCQDという符号は、明治三十七年(1904年)初めてマルコニ会社が定めたので、CQは通信圏内に在る全ての局を同時に呼ぶ時に発する符号で別に意味はない。Dは危急すなわち Danger の頭文字を取ったのである。この符号はレパブリック号遭難の際、中々役にたったので、その符号はいかなる意味だろうと、噂とりどりであったが中には Come Quick, Danger の頭文字を取ったものだと、上手な説明を加えた人もあったそうだ。 (横山英太郎, 『無線電信電話のはなし』, 1916, 電友社, pp143-144)

下図は1973年(昭和48年)にWedlake氏が出版した「SOS: The Story of Radio Communications(G.E.C. Wedlake, 1973, David & Charles, p49)です。

マルコーニ社では(遭難符号を定めず)有事の際にも一般的な全局呼出CQを使っていたが、1904年になって自社局はCQDを使うように命じた。」と説明しています。

At first distress calls were prefixed with the letters CQ, meaning 'all stations', but as that prefix was also used for other general calls it was not sufficiently distinctive, and in 1904 the Marconi Company directed that all ships controlled by it should use CQD.

その1904年の指示が、前述のマルコーニ国際海洋通信会社の社内通達第57号(1月7日)や米国マルコーニ社の社内通達第15号(1月18日)です。

前述の岡忠雄氏は1941年(昭和16年)に次のように述べておられます。

一九〇四年にマルコーニ会社は船舶の遭難信号に力強い、かつハッキリした呼出符号の制定の必要を感じて、CQは一般的呼出としてはなはだ良いものであるが、CQだけでは重大危機に於いて救助を訴えるに必要な緊急性を言い表し得ないので、CQに更に遭難を意味するD(Distress)という文字を付け足して、CQDと制定したそして船舶がCQDを発信するには必ず船長の命令によらねばならない規則とした。

誰が言い始めたのか世間的にはCQDは Come Quick Danger の意味でその頭文字をとって組合わせたものであると言い慣わしている向きもある様であるが、これは誤解である。なお後年にはCQDに代わるSOSが船舶遭難信号として制定されるに至ったが、SOSを Save Our Ship または Save Our Souls の文字からとったと言うのもまた誤りである。要するに符号には何の意味もなく、伝送し易く、かつ解り易いモース符号を並べたのである。(岡忠雄, 『有線無線物語』, 1941, コロナ社, p305)

ところで近年になってインターネット上で「"CQD" call was suggested by Marconi in 1904.」という記述が散見されますがこれは誤りです。上記通達は自社の内規の施行であって、他社へ「提案」など行っておりません。そもそも他社とは交信しないマルコーニ社ですから、外部へ提案する必要性(動機)がありません。

また「SOS以前にはCQDが使われていた」という表現ですが(確かにマルコーニ社においてはそうですが)、マルコーニ社以外の無線会社は(ライバル社であるマルコーニ社の社内規格)CQDを使わなかったので、誤解を招きやすく、もう少し言葉を足したほうが良いように思います。

8) ドイツが遭難信号SOSを制定施行 (1905年4月1日)

意地でもマルコーニ社の真似などしたくなかったドイツ皇帝は、国内の無線法と独自の通信略号の制定を急がせました。そして1905年(明治38年)3月30日、ドイツ皇帝は初の無線通信規則を発布し、同年4月1日より施行しました。その中で遭難信号(危難符"Notzeichen")を・・・― ― ― ・・・と定めました。

従来よりドイツ船が使っていた一括呼出SOE(・・・― ― ― ・)を遭難時に使って、もし肝心なときに最後の短点E(・)を取りこぼすと大変だとの理由から、末尾をS(・・・)に代えたものを独立させて別に定義しました。短点3つと長点3つのサンドイッチ形式の方が明瞭確実だと考えたのでしょう。

1905年10月、ドイツで有名な無線研究者のひとりである、テレフンケン社のネスパー氏(Eugen Nesper)が出版した"Die drahtlose Telegraphie und ihr Einfluss auf den Wirtschaftsverkehr unter besonderer Berücksichtigung des Systems Telefunken"という書籍があります。ネスパー氏は新たに制定された無線通信規則をさっそく取上げています。

・・・― ― ― ・(SOE) とは別に、新たに導入した・・・― ― ― ・・・ (SOS) があります。ここに遭難信号SOSが誕生しました。ちなみに「SOS」という言葉で定義されたのではなく、・・・― ― ― ・・・ (ドドドジージージードドド)という音列で定義された点にご留意ください。


ドイツ語なので紹介するべきか迷ったのですが、遭難信号 ・・・― ― ― ・・・ を生み出した条文ですので、「第4条 通信取扱法」のa項をドイツ語原文のまま引用します。

4. Verfahren

a) Beförderungszeichen

Zur Anwendung kommen die bekannten Morsezeichen, denen folgende Signale hinzugefügt sind:

― ― ― ― ― ― Ruhezeichen; darf nur von öffentlichen Küstenstationen gegeben werden;

・・・― ― ― ・・・ Notzeichen; wird von einem Schiffe in Not solange wiederholt, bis alle anderen Stationen ihren Verkehr abgebrochen haben;

・・・― ― ― ・ Suchzeichen; darf von Schiffen auf hoher See wiederholt mit ihren eigenen Namen, die dem Zeichen folgen müssen, gegeben werden; es ist zu beantworten durch "hier" mit nachfolgenden Namen. (Eugen Nesper, Die drahtlose Telegraphie und ihr Einfluss auf den Wirtschaftsverkehr unter besonderer Berücksichtigung des Systems Telefunken, 1905, Verlag von Julius Springer [Berlin], p74)

9) 1905年 日欧の専門書が遭難信号SOSを伝える

直ちにドイツの電気専門誌Elektrotechnische Zeitschrift(1905年4月27日号, Julius Springer社 [Berlin], pp413-414)が、記事"Regelung der Funkentelegraphie im Deutschen Reich"で、無線規則の施行とその条文を伝えました(図[左])。ドイツ語です。

また英国の電気専門誌The Electrician(1905年5月5日号, James Gray社 [London], pp94-95)でも、記事"German Regulations for the Control of Spark Telegraphy"で、「ドイツ政府は無線と火花電信の通信規則を先月施行しました。」として、その内容を詳しく解説しました(図[右])。こちらは条文が英訳されて掲載されましたので引用しておきます

A code of regulations issued by the German Government for the control of wireless or "spark" telegraphy came into force last month.

The first regulation defines a coast station as one erected on the mainland or an island, permanently anchored ships being also included under the definition "coast stations" and not under "ship stations." The International Service Regulations, as revised in London in 1903, and the German Government Telegraph Regulations with regard to submarine telegrams are to apply to wireless telegraphy across the sea unless modified by any of the present special regulations. The interchange of wireless telegrams with the Government telegraphic network is to be in accordance with the regulations for submarine telegrams, and the messages may be written in any of the languages allowed under the International Service Regulations above referred to.

・・・(略)・・・

Regulation 4 prescribes that ordinary Morse signals are to be used, together with the following additional signals :-

― ― ― ― ― ― , "Cease sending" signal (Ruhezeichen). This may only be given by public coast stations.

・・・― ― ― ・・・ , Distress signal (Notzeichen). This is to be repeated by a ship in distress until all other stations have stopped.

・・・― ― ― ・ , Quest signal (Suchzeichen). This may be repeated by ships on the high sea, the signal to be followed by the name of the ship. It is to be replied to by the word "hier" (here), followed by the name of the replier.

米国の科学系雑誌も探してみましたが、ドイツの無線規則の施行を伝えるものを私は発見できませんでした。米国でこの件が知られたのは随分と後になってからかもしれませんね。

我国では海軍省の木村駿吉海軍大学教授が1905年(明治38年)9月に出版した『世界之無線電信("独逸国無線電信条例", 1905.9, 内田老鶴圃, pp409-420)その全文を紹介しました(下図)。

ちなみに木村駿吉氏は1903年(明治36年)に松代松之助氏とともに我国初の実用無線電信機(三六式無線電信機)を開発・完成された日本無線界のパイオニアです。

日本は無線電信の実用化を達成したことで、日本海戦で勝利しました。

木村氏は遭難信号を「危難符」と命名されました。

独逸国無線電信条例

独逸国逓信省は明治三十八年三月三十日を以て、公衆通信の為に無線電信を使用することに関係して条例を発布し、同年四月一日よりこれを実施せり。しかしてその主要なる事項左の如し

・・・(略)・・・

第四條 通信規定

第一号 通信の符号

公開無線電報には普通モールス符号を用い かつ左の添符を加ふ、

送信中止符 ― ― ― ― ― ― (6ダッシュ) この符号は公開沿岸局のみより送信するを得るものとす

危難符 ・・・― ― ― ・・・ (3ドット・3ダッシュ・3ドット:SOS) この符号はすべて他の局の送信を止むるに至るまで、危難に頻する船舶より連続送信するものとす

探求符 ・・・― ― ― ・(3ドット・3ダッシュ・1ドット:SOE) この符号(現代のCQ)はこれに次ぐに自己の船名をもってし、公海上の船舶より連続送信するものとす これに答ふるものは、ヒヤー(hier)なる語に次ぐに自己の船名をもってすべし(木村駿吉, 『世界之無線電信』, 独逸国無線電信条例, 1905, 内田老鶴圃, p409,412)

また1905年に逓信省の中山龍次技師が諸国の逓信制度を調査するために英国・ドイツへ留学を命じられました。

独逸帝国郵便省は明治三十八年三月三十日を以て、公衆通信の為に無線電信所を使用することに関して左の規則を発布し、同年四月一日より之を実施せり(逓信省通信局編, "独逸無線電信取扱規則", 『欧米に於ける電信電話事業』, 1906.8, pp609-620)

逓信省も「危難符」という訳語を使用しました。条文の日本語訳は木村氏のものとほぼ同じですので省略しますが、このように日本ではベルリン国際無線電信会議においてSOSが国際採択される前から、この符号が知られていました。後述しますが、3年後に日本の逓信省はドイツの規則にならい、遭難用にSOS、全局呼出しにSOEを採用しています。

【参考】 木村駿吉氏はベルリン第一回国際無線電信会議(1906年)の、中山龍次氏はロンドン第二回国際無線電信会議(1912年)の日本政府委員でした。

これまで遭難信号SOSが1905年にドイツで誕生した件は、1906年にドイツで開かれた第一回国際無線電信会議においてSOSが国際採択されたという重要トピックスに隠れてしまう傾向がありました(どちらも舞台がドイツですので一部では混同されたのかも知れません)。

しかし近年では、多くの書籍が1905年のドイツでSOSが誕生したことを紹介するようになっています

左図[左]:Radio - The Life Story of a Technology (Brian Regal, Greenwood Publishing Group, 2005)

[中]:101 Things You Thought You Knew about the Titanic (Tim Maltin/Eloise Aston, eBookIt.com, 2012)

[右]:On a Sea of Glass - The Life and Loss of the RMS Titanic (Tad Fitch/J.Kent Layton/Bill Wormstedt, Amberley Publishing Limited, 2013)

厳密に言えば1905年のドイツの無線通信規則制定時には「SOS」とは呼んでおらず、単に3ドット3ダッシュ3ドットが連続するシーケンス「・・・― ― ― ・・・」を遭難信号に定めただけですが、当サイトではこれを「SOS」と呼ぶことにさせていただきます。

しかしCQDの場合は、マルコーニ国際海洋通信会社通達第57号(1904年1月7日)でも、また米国マルコーニ会社通達第15号(1904年1月18日)でも、アルファベットで「CQD」と書かれています。こちらは文字でした。

10) マルコーニのCQD と ドイツ皇帝のSOS 以外は?

こうしてマルコーニ社はCQDを、(ドイツの)テレフンケン社はSOSを遭難信号として採用するに至りました。米国海軍省が各国の電波主管庁と無線会社の協力のもとに編纂したWireless-Telegraph Stations of the World(Oct.1, 1906版)から、両社の海岸局市場への進出状況を調査してみました。

1906年(明治39年)10月1日現在の各国の海岸局で、マルコーニ社の独占下(もしくはほぼ独占状態)にあったのは、英国、イタリア、ベルギー、英領ジブラルタル、カナダ、チリ、ハワイ、エジプトでした。

またテレフンケン社も大いに健闘し、ドイツ、デンマーク、オランダ、スペイン、ポルトガル、ノルウェー、オーストリア=ハンガリー、ロシア、スウェーデン、トルコ、アルゼンチン、メキシコ、ウルグアイ、オランダ領東インド[現:インドネシア]、モロッコの海岸局を独占(もしくはほぼ独占状態)しました。

【参考】 同資料によれば、大西洋航路では両大陸の大西洋岸に数多くの海岸局があり、すでに無線電報ビジネスが開花していることが伺えますが、太平洋航路においては、ハワイ、オランダ領東インド、英領香港、中国に海岸局があるのみです。せっかく船が無線を搭載していても、たとえば日本に寄港する外国船舶は無線電報を送受できません。太平洋航路は無線インフラの未開地帯で、大西洋航路に対して大きく出遅れていました。

さて、無線界で双璧をなすマルコーニ社とテレフンケン社以外の無線局や無線会社でも遭難符号を定めたのか?もしそうならどんな符号だったのかを調査してみました。

1905年(明治38年)12月10日、米国ナンタケット島沖で起きた海難事故では、暴風雨で第58救援船(Relief Ship No.58)の一部が破損し、同船が救助を求めるのに「HELP」を使ったことが、ニューメキシコ州アルバカーキの新聞Albuquerque Evening Citizen(左図:Dec.11, 1905, p1)をはじめとする複数の新聞で報じられています。

「HELP」信号を発したのは通信士のスナイダー氏(William E. Snyder)で、これがアメリカにおける最初の救援通信でした。すなわちこの時代にはシンプルに「HELP」も使われたことが分かります。

しかし無線が利用された海難事故で、CQDSOSではない遭難符号が使われた記事や文献を、これ以外に(私は)見つけられませんでした。中小の無線組織では無線を装備した船はまだ少なく、それが遭難事故に遭遇する確率を考えると、独自の遭難信号を定めなかったと想像します。もし万一そういう事態に陥ったならば、まあ「HELP」で良かろう・・・というようなことではないでしょうか。結局、無線遭難信号はマルコーニ氏のCQDドイツ皇帝のSOSの二つだけだったようです。

わが道を行くマルコーニ社では他社がどんな遭難信号を採用しようとあまり興味がなかったかもしれませんが、少なくともドイツ皇帝は自国のSOSを世界的な遭難符号にしようと考えていたようです。

11) 第一回国際無線電信会議でSOSが採択 (1906年)

1906年(明治39年)10月、ドイツ皇帝が再び招へいしたベルリン第一回国際無線電信会議が開かれました。ホスト国のドイツは国際的な遭難信号としてドイツ無線通信規則第4條Aに定める ・・・― ― ― ・・・を提案しました。

そしてこれが採択され、国際無線電信条約 附属業務規則 第16条(左図:16条語原文)に「連続する3ドット・3ダッシュ・3ドット」の絵柄・・・― ― ― ・・・が記されました。

国際無線電信条約 附属業務規則は我国では、1908年3月18日に枢密院で批准され、同年6月22日に公布されました。

翌6月23日官報告示された第16条の日本語訳をご覧下さい(左図:『官報』, 明治41年[1908年] 6月23日 逓信省告示629号)。原文と同じ ・・・― ― ― ・・・の絵柄で表記されています。

規則上ではまだSOSという文字を使っていませんが、本サイトでは便宜上これをSOSと呼ばせて頂きます。以下に第16条の日本語訳全文を掲げます。

第16條

遭難船舶は左の符号を使用し短少なる間隔をもってこれを反復するものとす

・・・― ― ― ・・・

局が遭難の符号を認むるときはただちにすべての通信を中止することを要し かつ救助の呼出に基づく通信の終了したることを確かめたる後にあらざれば通信を再始することを得ず遭難船舶がその救助の呼出の連続の終りに指定する局の呼出符号を加ふる場合に於ては この指定局にあらざればその呼出に応答すべからず 救助の呼出中に指定局名を缺くときはこの呼出を認る局は各これに応答することを要す

ベルリン会議では各国の国会で批准するための期間を考慮し、国際無線電信条約とその附属業務規則の発効日を1908年(明治41年)7月1日と定めました。条約加盟国はこの日までに批准を終えなければなりませんが、国際条約・規則が発効する前に、自国の無線法や無線規則を、これに準拠したものに改正しておかねばなりません。

つまりSOSの使用開始日は、この附属業務規則の発効日、1908年7月1日ではありません。それよりも手前であって、各国の国内法の施行状況によりまちまちです。ドイツのように1905年4月1日よりSOSを使っていた国さえもあることを忘れてはならないでしょう。

【参考】 ただし先進国の中でアメリカだけは特殊でした。電波を国家管理せず(無線法を制定しておらず)自由に任せていた為、ベルリン会議の最終議定書に調印したものの、(無線法が制定されることになった)1912年までこれを批准しませんでした。

なおベルリン会議ではドイツ案のSOSのほか、米国が国際信号旗(International Maritime Signal Flags)のN旗とC旗を並べて高く掲揚することで、遭難したことを周囲に伝え、速やかなる救助を求める旗旒(きりゅう)信号NC(遭難信号)を、無線電信にも利用してはどうかとの提案があったと伝えられています。

【参考】 旗旒信号とは、船舶で国際信号旗を組み合わせてマストに掲揚して行う信号法。 NC: 「危急なり 直ちに助けを要す」 ND: 「汝(なんじ)は遭難船を見しや?」などがあった。なお上表は当時の定義で、現代とは異なるものを含みます。

12) 1908年4月9日 日本の逓信省がSOSを定める (施行:1908年5月1日)

無線電報ビジネスを順調に伸ばした大西洋航路に対して、太平洋航路の定期船の無線搭載率は上がりませんでした。たとえばアメリカ西海岸を出て横浜へ向う船が無線を導入しても、ハワイで電報を送受したあとは(日本に海岸局がないため)役に立たないことも一因でした。太平洋の無線未開ゾーンを少しでも埋めようと、グアム島の米海軍局UKと、フィリピンの4つの米海軍局(カヴィテUT, ホロFS, サンボアンガFM, マラボンFA)が民間公衆電報を一部取扱ったほどです。

逓信省は日本が一等国であることを世界に知らしめるために、なんとしても国際無線電信条約および附属規則が発効する1908年(明治41年)7月1日より前に、無線電報ビジネスを創業したいと考えていました。

そして突貫工事で周波数1,000kHz(波長300m)の無線局を建設し、無線通信士を養成して、1908年(明治41年)5月16日に銚子無線JCSと天洋丸TTYの2局で開業に漕ぎ着けましたが、もうひとつ必要だったものがあります。それは通信規則です。

当時の無線に関する法律として電信法がありましたが、逓信省では同法に基づく具体的な通信規則(いわゆる無線局運用規則)を定めることが出来たのは、開業直前の4月9日でした。

【参考】 この時代は「電信法」(明治33年法律第59号)が無線に準用(明治33年逓信省令第77号)されていました。

その『無線電報取扱規程(明治41年[1908年]4月9日 逓信省公達第341号)第6條、14条、15條に危急略符号 ・・・― ― ― ・・・ を規定しました。 つまり日本でも遭難信号はSOSではなく、 ・・・― ― ― ・・・ という音列で定義されたのです。

以下無線電報取扱規程』の条文を紹介します。

第六條 伝送上に用うる特殊の略符号 左の如し 但し誤謬始信及終信の略符号は欧文電報に限り之を用うべし

危 急 ・・・― ― ― ・・・ (いわゆるSOS)

探 呼 ・・・― ― ― ・ (ドイツのSOE)

局名前置 ― ・・ ・

可 送 ― ・―

誤 謬 ・・・・・・・・

(以下略)

第十四條 船舶局に於いて危難に関する無線電報を送信せんとするときは危急符号を反復すべし

海岸局または船舶局に於いて危急符号を認識したるときは直ちに総ての通信を中止し危難に関する通信を開始すべし

危難に関する無線電報は額表省略その他便宜の形式によることを得

第十五條 前條第一項の場合に於いて対手局を指定して通信せんとするときは危急符号およびその局名符号を反復すべし

前項の場合に於いて危急符号を認識したる指定外の各局は指定局が応答せざる場合に限り前條第二項の例によるべし

【参考1】 日本無線史第13巻(p26)にもこの明治41年4月9日 公達第341号がありますが、実は大正時代に改正されたものが掲載されています(1912年のロンドン会議でCQが採択されたため、探呼符号SOEをCQに改正したもの)。ですので日本無線史第13巻(p26)の方が誤りで、本サイトで掲載したのが明治41年の正しいものです。

【参考2】 この前日に『無線電報規則』(省令第16号, M41.4.8, 逓信省, M41.5.1施行)が告示されていますが、これとは別物です。

【参考3】 逓信省公達は官報ではなく、逓信公報で示されます。

我国における遭難信号(危急略符号)SOSは1908年4月9日に告示された「無線電報取扱規定」で定められ、それが5月1日に施行され、その運用は5月16日の銚子無線電信局JCSと天洋丸無線電信所TTYの開業と同時に始まりました。ベルリン条約・規則は同年3月18日に枢密院で批准されたものの、6月22日公布、6月23日官報告示でしたので、それよりも先に国内無線規則の運用がスタートしたというわけです。

同年10月28日には海軍省でも『海軍無線電報取扱規約』(明治41年[1908年]10月28日 海軍省達第129号)を定めSOSが採用されました。これについては後述します。

13) 日本初の遭難信号"キウ","ナラ" (制定1901年11月13日)

ここでご注意いただきたいのは、日本では逓信省より先に海軍省で無線電信が実用化されていたため、我国初の無線局運用規則は上記逓信省のものではないという点です。話が前後してしまいますが、7年ほど時をさかのぼり、これについてご紹介しておきます。

1901年(明治34年)11月13日の海軍省内令第143号で日本初の『無線電信通信取扱規則』が定められました。ちなみに海軍は(逓信の電信法ではなく)「軍用電信法」(明治27年法律第5号)に基づき海軍無線を管理下に置きました。

その第18条で左図の通侵略符号を制定しましたが、そこに遭難信号は見当たりません。海軍には軍艦が遭難するという考えがなかったのでしょうか?

意味合いが異なりますが、もし強いて挙げるならば「緊急電報 ― ・― ・・ ・・― 」(和文モールスで"キウ")と、「故障(危険あり) ・― ・ ・・・ 」(同"ナラ")の併用が、相当するのかもしれません。

【注】 この図で見る限りでは、「ナ」と「ラ」の間にはスペースを置き、「キウ」は間隔を空けない符号かもしれない。

この無線電信通信取扱規則の詳細に興味がおありでしたら、コールサインのフロントページを御覧下さい。

14) 無線による日本最初の救援無線 (1904年5月15日)

本ページ冒頭で「世界最初の救援無線」をご紹介しましたが、日本無線史第九巻にも記録された「日本最初の救援無線」についても触れておきます。

巡洋艦吉野は明治三十七年五月十五日午前一時四十分、山東角の北方において行動中、後続の海防艦春日と濃霧のため、衝突し、同時に燈火全滅、海水は水線下の穿孔より奔入し、艦体はたちまち右舷に傾いた。この時吉野乗員の電信員は沈着よく同艦遭難の電信を打ち続け任務を全うし、遂に艦長以下の将兵と共に戦死したことは忠烈の極みといわねばならぬ。けだし艦船遭難無線通信の本邦における最初のことである。(電波監理委員会編, 『日本無線史』第九巻, 1951, p23)

日露戦争開戦直後の、1904年(明治37年)5月15日未明。濃霧の中、旅順沖を裏長山列島(遼東半島の南)に向っていた帝国海軍の二等巡洋艦吉野の左舷に一等巡洋艦春日が激突し、吉野は沈没しました。吉野の通信士竹村倉之進三等兵曹と、それを補佐した小山音市一等水兵は浸水する無線室の中で、艦長の退去命令が発せられるまで、決死の覚悟で職務をまっとうしました。

これが日本初の無線による救援通信で、有名な日本海海戦での通報「敵艦見ゆ」(1905年5月27日)より1年も前の出来事です。吉野は1904年1月に、春日は同年3月に、最新の海軍三六式無線機を装備したばかりでした。

我国初の無線規則『無線電信通信取扱規則(1901年[明治34年]11月13日, 海軍省内令第143号)の改廃を調べてみました。

海軍制度沿革(海軍大臣官房編, 1942)によればこの海軍省内令第143号(M34)には、『三十八年三月一八七号廃止』という改廃履歴が挟まれています。

つまり、無線電信通信規則は日露戦争の開戦から1年ほどした1905年(明治38年)3月に海軍省内令第187号(M38)で一旦廃止されているのです。

日本海海戦はその2カ月後ですから、戦時体制に無線通信を対応させるための非常措置だったと考えられます。

以上のことより巡洋艦吉野の事件当時(1904年)にはまだ無線電信通信規則が有効だったことが分かります。吉野の遭難通信で"キウ"や"ナラ"を前置したかについて言及する報告書は見当たりませんでしたが、緊急事態だけに、通信士は周囲の艦船に注意を喚起する為にこれらの符号を前置した(通常電報の扱いではなかった)と考えられます。

以下、松代松之助氏とともに我国の無線通信を実用化させた木村駿吉海軍大学教授の著書序文より、竹村・小山両氏の奮闘ぶりを引用します(読者の便宜をはかるため句読点の調整と小さな字による補足を付記し、一部現代仮名遣いと新漢字で表記しました)。

日露戦争に際し、帝国海軍無線電信の利益すこぶる大なりしは、通信の局に当たる下士水兵の献身と熟練によるもの少なからず・・・(略)・・・時これ、明治三十七年五月十五日、軍艦吉野、旅順封鎖の哨務(しょうむ=見張りの任務)を終り、春日その他と共に南航す。 渤海(遼東半島と山東半島の間にある内海)海上、波高けれども夜半の星光晴朗なり。 忽然四塞する(こつぜんしそく=急に四方をとりまく)濃霧寸前暗黒。 軍艦春日、応急の処置を施さんとし、閃光の電信(により)旗艦(千歳の出羽司令官)の許可を促すに際し(濃霧の中に突然吉野の赤色舷燈を見つけ、全速後退を命じたが間に合わず)、吉野の艦体轟然(ごうぜん=大きな音がとどろき)として震動し、浸水。直に発電機を犯して艦内(は)咫尺を弁ぜず(しせきをべんぜず=近くても見えない)。

時まさに午前一時に近し。吉野艦無線電信室の当直員は、三等兵曹竹村倉之進という。艦長命あり発信す。その文にいわく、春日(が)本艦(吉野)の左舷を衝く。浸水猛烈。 次にまた命あり発信す。第五区満水と。 程なくして旗艦(千歳)より通信ありいわく、自艦の力にて浮び得るやと。 次に返信す。浮び得る見込なしと。

この時艦体、大いに右舷に傾き、後甲板全部浸水し、まさに無線電信室を犯さんとす。 これより以前、一等水兵小山音市なる者、来て当直員の通信を補助す。

艦長特に信号兵曹を伝令とし、最後の命令を下して発信せしむ。 その文にいわく、本艦すべて満水。人員の救助を要すと。 該時艦体の傾斜ますます甚だしく、小山水兵は閉塞器を机上より解装し、これを掌上に載せて水平に保持し、竹村兵曹は電鍵を採り、明瞭正確なる送信、幾回を終る。 時既に室内浸水して深さ膝を没し、(非常用電源の)電池短絡(ショート)して電源もはや存せず。

この時、総員退去の命あり、両人(竹村・小山)はじめて室を出づ。 次で佐伯艦長の発声あり。衆皆 (明治天皇)陛下の祝福を唱し乗艦吉野に告別す。 両人甲板を泳ぎて釣床の格納所に達し、生時の交を謝して、別離の情を陳へ身を霧海の裡に投じおわる。・・・(略)・・・』 (木村駿吉, 『世界之無線電信』, 序, 1905, 内田老鶴圃, pp3-6)

この事故では不幸なことに多くの犠牲者を出してしまいました。また衝突してきた春日の方は浸水しながら濃霧の中を漂流し、吉野からの救援信号を受信するも、自分の位置さえも分からない状況だったようです。

『 (吉野の)艦長海軍大佐佐伯誾は、艦員を集めて万歳を三唱せしめ、先ず聖影を端舟に奉移し、次いで総員を退去せしめしに、艦体ついに覆没し、諸端舟みなこれが為に圧没せられ、わずかに無事なりしものは聖影を奉載せる一隻のみ。はじめ艦のまさに覆没せんとするや、佐伯艦長は前艦橋に在りて諸般の指揮をおわり、副長心得海軍少佐広瀬顕一と握手したる後、相共に艦と運命を同じうし、そのほか難に殉せしもの、准士官以上三十名、下士卒二百八十四名、傭人三名に及べり。

(一方で)春日は衝突後ただちに機関を停止せしも、既に吉野に遠ざかり、四顧暗澹としてその所在を知るに由なく、ただ漠々たる濃霧中、(吉野からの)「我浸水救助を要す」との無線電信を感受せしのみ。(財団法人三笠保存会編, 『大日本海戦史談』, 1930, 三笠保存会, pp283-284)

前掲の木村氏の序文は1908年(明治41年)に、以下に引用する海軍教育本部がまとめた日露戦争の証言録『明治卅七八年戦役海戦誠忠録』に、より平易な日本語で収録されました。

内容的には木村氏の記述以上のものではないのですが、その末尾に(日本無線史第九巻では全員戦死のように受取れましたが)竹村・小山のおふたりの無事が記録されていました。

『・・・(略)・・・ 艦長特に信号兵曹を伝令として最後の送信をなさしめていわく「本艦すべて満水。人員の救助を要す」と。しかれども艦体の傾斜ますます甚だしく送信困難なるをもって小山水兵は開閉器を机上より解装しこれを掌上に載せて水平に保持し、竹村兵曹は電鍵を採り、辛うじてこの最後の送信を送るを得たり。この時すでに浸水室内に氾濫して深さ膝を浸し、電池短絡して電源存せず。

次いで総員退去の命あり、両人初めて室外に出づ。これと同時に佐伯艦長の音頭をもって一同、陛下の万歳を唱え、軍艦吉野に告別し、かくして両人は身を躍らして海中に投じ、のち収容せられて九死に一生を得たり(海軍教育本部編, 艦の沈没前開閉器を掌上に載せて送信す(吉野乗員 海軍三等兵曹 竹村倉之進/海軍一等水兵 小山音市), 『明治卅七八年戦役海戦誠忠録』, 1908, 忠勇顕彰会, pp362-363)

我国最初の救援通信は、東郷平八郎中将が率いる連合艦隊第一艦隊第三戦隊の二等巡洋艦「吉野」の竹村倉之進、小山音一氏の両名により発せられたものでした。

15) 国際遭難信号としてSOSが発効 (1908年7月1日)

1908年(明治41年)7月1日、SOSを採択したベルリン会議の国際無線電信条約 附属業務規則が発効しました。各国はこの日までに国内法の改正と、国際条約・規則の批准を終えており、ついにドイツ皇帝のSOSが、マルコーニ氏のCQDを負かしたのです。

しかしマルコーニ局は他社の無線局と交信する気がなかったため、その後も(社内符号として)CQDを残しました。実際のところは1912年(明治45年)に開かれたロンドン会議(第二回国際無線電信会議)で、長く懸案だったマルコーニ局の相互交信義務の不履行問題が完全解消したことで同社のCQDは姿を消しました。

さて左図はロンドン会議で定められた新しい国際無線電信条約の附属業務規則(発効1913年7月1日)です。

全体的に條文が増えたため、SOSの規定は、前回の第16条より第21条に押し下げられました。また新規則でも相変わらず「SOS」とは記されず ・・・― ― ― ・・・ のままです。

【注】 一部の海外文献ではロンドン会議を第三回国際無線電信会議とするものもあります。これは1903年に開かれたベルリン国際無線電信予備会議を「第一回」とカウントした為だと考えられますが、正式には1906年のベルリン会議が第一回で、1912年のロンドン会議が第二回の国際無線電信会議です。

16) 1908年10月28日 日本の海軍省もSOSを定める

1908年(明治41年)5月に逓信省が電報ビジネスを開始したため、海軍無線電信所から洋上の海軍艦船へ送っていた日々の官報など(軍事通信に当てはまらないもの)は、逓信省の公衆電報で取り扱うことになりました。創業まもない逓信省としては大口固定顧客の獲得であり、無線ビジネスの安定収入源として魅力あるものでした。

1908年10月28日、海軍省は『海軍無線電報取扱規約(明治41年[1908年]10月28日 海軍省達第129号)を定め、逓信省の『無線電報取扱規程(明治41年[1908年]4月9日 逓信省公達第341号)との整合をとりました。

海軍の戦艦が逓信省の海岸局や船舶局と相互交信するからには、通信方法を両省で統一する必要があったからです。

そして『海軍無線電報取扱規約』の第八條および第十九條危急略符号としてSOSを定め、ベルリン規則(1906年)に従いました。

第八條 無線電信伝送上に使用する特殊の略符号は左の如し

危急 ・・・― ― ― ・・・

探呼 ・― ― ― ・・・

(以下略)

第十九條 ・・・― ― ― ・・・符の連続は遭難船舶より送信なるをもってこの符号を認めたる局(艦船)は直ちに総て他の通信を中止し救助に関する通報の終結したるを確めたる後にあらざれば前の通信を開始せざるものとす

17) CQD/SOSの使用まで空白の5年間? (1904-1908年)

1909年(明治42年)1月にアメリカのナンタケット島沖を濃霧の中、航行していたリパブリック号がフロリダ号に追突されるという事件が起きましたが、これが "はじめて" CQDが使われた事例だとする記事が国内外を問わず数多くあります。そうすると1904年2月にマルコーニ社において施行されて以来、CQDは5年間も使われたことがなかった事になります。

しかし海難事故は毎年起きています。1906年の第一回国際無線電信会議でただちに決議しなければならなかった遭難信号がそんなに利用頻度が無いものだったとは到底信じられません。さらに不思議なことに、SOSが使われたという記事も1909年になるまで見当たらないのです。この空白の5年間を考えてみます。

左図は米国の電波主管庁である商務省が過去の無線の出来事をまとめ、1916年(大正5年)2月1日に刊行した"Important Events in Radiotelegraphy"「無線界の重要な出来事」です。

タイトルはそうですが、実際には海難事故で無線通信が利用された事例を集めたもので、私が探し求めていたものに最も近く、最も古い、しかも公的な資料でした。

1904-1908年には以下の記述があります。

【注】同書では無線を使ったものをすべて網羅しているわけではありません。

● 1904年

American LineのNew York号やFriesland号の事故の際に無線を使用。

● 1907年

1月20日United Fruit Co.のPreston号4月10日Clyde LineのArapahoe号5月8日Hamburg Atlas LineのPrinz August Wilhelm号の海難事故で無線を使用

● 1908年

3月25日Clyde LineのSeminole号の海難事故で無線を使用。

1907年当時、米国には無線を導入済みの商船会社は31社ありましたが、そのうち24社はリー・ド・フォレスト式無線を採用しており、圧倒的な強さを誇っていました(マルコーニ社は米市場への参入に失敗)。

Preston号(呼出符号UB)、Arapahoe号(呼出符号VB)、Prinz August Wilhelm号(呼出符号SW)、Seminole号(呼出符号VJ)はド・フォレスト社の無線ですので、米国マルコーニ社が定めるCQDを使ったかどうかは分かりません。いや、競合他社のCQDなど使わないと考えるほうが自然ですので、1906年の第一回国際無線電信会議で採択されたSOSを使ったのかもしれません。

しかし1904年に書かれている2隻(Friesland号, New York号)はド・フォレスト無線ではありません。米国マルコーニ社はかろうじてAmerican LineとAtlantic Transport Lineの2社との契約に成功しています。American LineのFriesland号は1904年5月7日にアメリカのフェラデルフィアを出港し、英国のリバプールへ向っていた時、スクリューシャフトを破損する事故を起こしたようです(5月18日)。1904年2月1日よりCQDの使用が始まったマルコーニ社ではさっそく、この信号を使ったものと想像しますが、私が調べた範囲では肝心のFriesland号の無線局に関する資料が見当たらず、その確認が取れていません。同じくAmerican LineのNew York号については間違いなくマルコーニ局が置かれており、呼出符号はNKでした。事故については調べ切れていません。もしかするとFriesland号の事故にはNew York号も関係して、無線連絡を行ったのがNew York号だったかもしれません。以上のように1904年には、はやくもCQDが使われた可能性を感じさせられます。

18) 1908年まで、遭難時に使われた符号には注目していなかった

また米国商務省の上記資料は欧州での海難事故に関しては詳しくないようです。この資料と同じ時代にマルコーニ社が発行していたYear Book of Wireless Telegraphy and Telephony(無線電信年鑑)に遭難通信年表があると聞いています。私はこれを閲覧できていませんが、電波先進エリアの欧州でも、この空白の5年間に海難事件で無線が利用されたことがあったはずで、CQDが使われたのは間違いないと思っています。私にはCQDが5年間も使われなかったとはどうしても信じられないのです。特に私の心に引っ掛かっていたのが、CQDもSOSも揃って1909年になって登場する点です。生い立ちが異なる両者がこうも都合よく同じ時期から現れるものなのでしょうか?

そこで調べてみたのが当時の新聞です。まだテレビ放送などなかったのは言うまでもありませんが、ラジオ放送さえもなく、メディアといえば新聞だけです。その唯一のメディアが遭難信号をどう扱っていたかを知ることがヒントになると思ったのです。

その結果、1908年までの海難事故の記事は、「○○○号よりWireless Distress Signal (無線遭難信号)がsend out (発信)された」という報道ばかりだという事がわかりました。取材を受けた船会社側も、それを大衆へ報じる新聞社側も、何という遭難信号を使ったかには気に留めていなかったように思います。新聞に遭難信号「CQD」という文字が初登場したのが、次に紹介するリパブリック号の沈没事件(1909年1月)でした。

もし空白の5年間(1904年2月-1909年1月)にCQDやSOSが使われていたとしても、その記録が残っていないようで、諦めました。

【参考】 なお私は未検証ですが、1908年にSanta Rosa号がカリフォルニア沖でCQDを使ったとする説もあります。

19) CQDが無線遭難信号だと新聞が報じる (1909年1月23日、リパブリック号沈没事故)

そういった状況を一変させたのが1909年(明治42年)1月23日早朝にアメリカのニューヨークの北東(ナンタケット島沖)で起きた、White Star Lineのリパブリック号へLloyd Italiano Lineのフロリダ号が衝突するという事故でした。

下図はニューヨークの新聞New-York tribune(Jan.24, 1909)の第一面で、写真右の船がぶつけられたリパブリック号、中央の丸写真がフロリダ号、写真左の船が救助に向かったバルチック号です。

フロリダ号に無線はありませんでしたが、幸いリパブリック号にはマルコーニ局MKCが設置されていたため、非常用バッテリーを使ってCQDが発信されました。

まずナンタケット島にあるシアスコンセット(Siasconsett)のマルコーニ海岸局MSCから応答があり、さらにニューヨークのロングアイランド沖にいたWhite Star Lineのバルチック号(マルコーニ局MBC)との通信も確保されました。そして駆けつけてくれたバルチック号の懸命なる救助活動により、奇跡的に乗員・乗客1,700名のほぼ全員が助け出されたあと、翌24日にリパブリック号は沈没しました(亡くなられた6名は衝突によるもの)。

1月25日のニューヨークのThe Evening World紙は第1面(下図[左])でバルチック号とそのデッキから手を振る生還者たちの写真を掲載して喜びを伝え、第二面(下図[右])も全てこの事故の特集"Wreck Survivors Brought in by The Baltic"「救助された人々がバルチック号で運ばれた」でした。

リパブリック号にマルコーニ局MKCを設置していたこと、近海にバルチック号MBCがいたこと、そして(のちに衝突から3時間弱で沈没したタイタニック号の時と違って)沈没までに1日以上の時間があったことが不幸中の幸いでした。

【参考】 沈没したリパブリック号の呼出符号MKCは、同じWhite Star Lineで1911年に就航したオリンピック号が継承しました。タイタニック号の姉妹船です。

これは沈没船として過去最大の海難事故だったため新聞各紙で連日大きく取上げられました。下図はニューヨークのThe evening world紙が1月23日事件当夜に出した号外(Latest Extra Green Edition)です。「CQD」という符号が救援用に使われたことを速報しました。

These messages consisted of the letters "C.Q.D." which in the wireless code notifies all ships in the wireless zone that some ship is in danger.

こうして無線により多くの命が救われ、リパブリック号の(マルコーニ社の)通信士ジャック・ビンズ(Jack Binns [John R. Binns])を英雄とする報道合戦が展開されました。彼の生家の写真を掲載する新聞もあったほどの加熱ぶりです。

左図は沈没から3日目、1909年1月27日のThe Evening World紙(p2)です。"Wireless Log of Jack Binns Tells Republic's Tale"(ジャックビンズの無線ログが語るリパブリック号の物語)というタイトルで、CQDの発信開始から救助までの、シアスコンセット海岸局MSCやバルチック号MBCとの克明なやり取りを解説している臨場感あふれる記事でした。

無線の交信ログがメディアで公開されたのはこれが最初ではないでしょうか。

【参考】無線雑誌Modern Electrics(1909年2月号, "Operator Binns' Wireless Log", pp387-388)もこれを取上げました。

そして紙面中のコラム"What the Wireless Call "C.Q.D" Means"(無線呼出CQDとはどんな意味?)でCQDの意味を解説しました。

CQは"全局、注目せよ"なので、CQDとは "全局、注目せよ、危難あり" なのだ。』と正確に説明されていますが、これはマルコーニ国際海洋通信会社の社員であるビンズ氏による回答だと想像できます。

All sorts of meanings have been given to the wireless call “C. Q.” and “C. Q. D.,” sent out from the Republic by Operator Binns. The correct meaning of “C. Q.” is, “All wireless stations, attention!” The “C. Q. D.” means, “All stations attention, danger - watch out for details.”

しかしはやくも翌日には珍説が見受けられます。左図[右]はニューポートの新聞The Newport miner(1月28日, p2)で、その意味を"Come Quick, Danger"「早く来て、危険だ」としています。

The Republic's wireless at once sent out "CQD" messages, the ambulance call of the sea. Translated "CQD" means "Come quick, danger."

当のマルコーニ社は"Come Quick"なんて一言もいっていないのに、一体どなたが考案されたのでしょうね?でもご注目頂きたいのは、新聞は「CQDが"Come Quick Danger"の略号」だと言っていない点です。だから意味としてならば、まあ、そういうことです。のちに他紙では"Come Quick Distress"「早く来て、遭難した」という言葉も登場しましたが、これらの比喩というか、語呂合わせの方が読者には理解しやすく、良かったのかも知れません。

20) 日本でも語られた英雄ジャック・ビンズとCQDメダル

多くの乗客の命を救った英雄ジャック・ビンズ通信士の話は、我国の少年向け書籍にも登場します。その一つを紹介しましょう(下の写真はマルコーニ国際海洋通信会社の通信士の制服・制帽姿で1908年に撮影されたジャックビンズ氏です)。

『 「・・・(略)・・・今から十五年も前に大西洋を航海していた汽船リパブリック号がフロリダ号と衝突した時、無線の力で三千六百人の人命を助けたことは、今でもまだ人々の話の種となっている」と兄さんはいいました。「そのことを詳しく話して下さい。」と俊夫さんはいいました。

それは一九〇九年の一月のことだ。汽船リパブリック号はニュウヨーク港を出帆してイギリスに向かっていた。その日は非常な霧でどの船も皆汽笛を鳴らして警戒しながら徐行していた。この船の無線技士のビンズという男は、前日出帆後、陸地との通信が忙しかったために疲れてすぐ眠っていた。ところが夜明けの四時頃になって突然ドシン、メキメキという恐ろしい音を立てて船は激しく震えた。今まで夢路をたどっていたビンズはベッドの上から投げ出された。そして目が覚めると職業柄すぐ何事か起ったのを察した。

で、大急ぎで無線電信室に駆け込んだ。船は衝突したのである。もはや疑う余地がない。そこで一刻の猶予もなく無線電信機にしがみついてCQDを繰返して発信した。それは遭難の時に用いる無線の信号だ。その信が響いたのはちょうどリパブリック号の遭難した場所から百粁米突(=100km)位隔てたナンタツケット島にあるシアスコンセット無線電信局であった。その日の夜の勤務についていたジャック・アーキンという男は静かな明け方の夢を見ながら、こくりこくりと船を漕いでいた。ところで、突然アーキンの耳に遭難の信号が伝わって来たので危うく椅子から転げ落ちる所だった。だが職業柄すぐ我に返って受信の合図をした。

続いて船からの通信が来た。 ”こちらは昨夜五時にニウヨークを出帆してイギリスに向かうリパブリック号です。ただいま他の船と衝突しましたが霧と暗闇のために様子が少しも分かりません。できるだけ速く様子を調べて知らせますから、しばらく他の無線と通信しないように待っていて下さい。”

そして引き続いて船の衝突の模様とその場所とを知らせて来た。そこでシアスコンセット局では直ちに四方八方に向かってリパブリック号の遭難の無線を放った。ここが無線のいいところだ。一つの電波を起こせば水の波紋のように四方八方に広がって行くのだから、電波の届く限り受信装置にはこの通信が響くのだ。ところで衝突した相手の船はイタリーのフロリダ号という汽船だった。この船は小さいリパブリック号より破損が少ない模様であったから、とりあえずその船にリパブリック号の客を移してしまった。

そうしている間に無線の通信を受けた船がたくさん現場に集まって来た。しかし何分深い霧にために近寄ることさえも出来ない。それでもどうかこうかして一番に駆けつけた汽船バルチック号に両方の客三千六百名を皆移すことが出来たのだ。

そのうちに無残にもリパブリック号は沈んでしまったが、この三千六百名の人命を助けたのもみな無線の力だ。」と兄さんはいいました。「本当に無線というものは有難いものですね。」と俊夫さんは感心していいました。(松平道夫, 『ラヂオの話:理科物語第四編』, 1925, 而立社, pp109-112)

少年向けとしてはタイタニック号の無線より、ほぼ全員が助かったリパブリック号の無線の話の方が、伝記・英雄物として、取り上げやすかったのでしょう。

ところで、「CQD」という言葉を世に知らしめたのが"CQDメダル"でした。九死に一生を得たリパブリック号とフロリダ号の一等船客(富裕層?)らがお金を出し合い、リパブリック号、フロリダ号、バルチック号の関係者全員に感謝の気持ちを込めた"CQDメダル"を贈りました。

メダルは直径4.5cmの銀製と銅製の二種類あり、表面にはリパブリック号が遭難信号を発する絵が、裏面には次の文字が刻まれています。

From the saloon passengers of the RMS Baltic & RMS Republic

To the officers and crews of the SS Republic, Baltic & Florida

For Gallantry

Commemorating the rescue of over 1700 souls

Jan24, 1909

「CQD」という目新しい3文字はメディアにも深く刺さったようで、この事件を起点として事故船からSend Out(発信)された無線遭難信号がどういうものかを報じる様に変化しました。このようにCQDは1909年1月のリバブリック号MKCの沈没事故で有名になりましたが、これがCQD初発信なのかについては、これ以前に記録がないため不明です(実のところ、私はちょっと疑っています)。

21) スラボニア号のマルコーニ局MVAは本当にSOSを使ったか? (1909年6月10日)

昔よりSOSを発した最初の船はアラパホ号だとされていますが、近年になりマルコーニ社のスラボニア号を取り上げる記事・記述も見られるようになりました。いずれも1909年に起きた海難事故ですが、時期が早いのはスラボニア号の方です。

1909年(明治42年)6月10日にアゾレス諸島沖で座礁したCunard line所属のスラボニア号(Slavonia)に設置されたマルコーニ国際海洋通信会社の無線局(呼出符号MVA, 周波数1.36-3.00MHz)がSOSを発したとのことです。同号がニューヨークを出て地中海の入口ジブラルタルに向う途中での事故でした。

もしこれが真実ならばスラボニア号の船長はマルコーニ局MVAにCQDではなく、国際遭難信号SOSの発射を命じたことになるため、単なる「アラパホ vs スラボニア」のSOS一番争いでは済まず、マルコーニ社の無線局で最初にSOS使ったのは、スラボニア号MVAかタイタニック号MGYかという論争になります

【参考】 この時代のマルコーニ社の無線局はCunard Lineのスラボニア号MVAや、White Star Lineのリパブリック号MKC、同バルチック号MBCのように、頭文字M(=Marconi)で始まる3文字コールサインを使いました。有名なWhite Star Lineのタイタニック号のコールサインはMGYです。のちの1912年に開催された第二回ロンドン国際無線電信会議で国際呼出符字列を導入する際に、マルコーニ社の本拠がある英国政府は文字Mを要求し認められました(国際呼出符字列のページ参照)。

当初これら船内の無線局の所有者(免許人)は船会社ではなく、無線会社の方でした。1908ー09年ごろより徐々に免許上の名義は船会社へ移管されましたが、相変わらずその船に無線会社が無線機を置き、通信士を派遣している形をとりました。例えていうと商業ビルに出店しているコンビニです。器・箱(出店スペース)はビルのオーナーの名義ですが、店内に並ぶ商品や店員はコンビニ会社です。無線室は「マルコーニルーム」と呼ばれる特別エリアでしたが、遭難信号の発信権限については船長に委ねられていました

22) 当時のメディアは「スラボニア号がCQDを使った」と報じている

スラボニア号のCQDを伝える新聞各紙

そこでスラボニア号の事件を調べてみると、意外なことがわかりました。全米の各紙は「スラボニア号がCQDを発信した」と報じています。下図の左から1番・・・4番とします。

  1. "C.Q.D. Call Saved 410 on Slavonia"The Washington Herald 紙, June 13, 1909, p1)

  2. "Call of "C.Q.D. Again Saves Human Lives"The Salt Lake Herald 紙, June 13, 1909, p1)

  3. "C.Q.D. Brought Aid"The Sunday Star 紙, June 13, 1909, p1)

  4. "Wireless Saves Liner's Throngs"The San Francisco Call 紙, June 13, 1909, p25)

この他にも十以上の米国新聞を調べてみましたが、スラボニア号がSOSを使ったとする記事は皆無でした

週刊誌も「スラボニア号がCQD」と伝える!

下図[左]は1848年創刊のニューヨークの週刊誌The Independent(6月17日号)です。

スラボニア号の"CQD"を、北独ロイド社のPrinzess Irene号がキャッチしたと伝えています。『 The Wireless call for help, "C. Q. D.," was first caught by the North German Lloyd liner "Prinzess Irene," which was traveling in the same direction and about 180 miles to south of the wrecked vessel. The Independent, June 17, 1909, p1315)

図[右]はピッツバーグの教会誌Presbyterian banner(6月17日号)ですが、やはりスラボニア号の発した"CQD"を180マイル離れたPrinzess Ireneがとしています。

通信業界の専門誌も「スラボニア号がCQDコール」と伝える

下図はニューヨークの有線通信業界の専門誌として月二回発行されていたTelegraph Age(7月1日号)です。

やはりスラボニア号が"CQDコール"を発したとしています。

A "C. Q. D." call was sent out and was picked up first by the Germanship, Princess Irene, which was 180 miles away. Telegraph Age, July 1, 1909, pp454-455)

いわゆるプロ向けである、通信業界の専門誌さえも「CQD」を使ったと伝えている点は見逃せないでしょう。

海運業界紙も「スラボニア号がCQD」

ちょっと視線を変えて、「海のことは海の男に聞こう」ということで、海運業界紙がスラボニア号の遭難信号をどのように報じているのかを調べてみました。

"ボストン海員 友の会"(Boston Seamans Friend Society)の機関紙The Sea Breeze(1909年7月号, pp64-65)に"Marine Disasters"というスラボニア号の遭難事故の記事が見つかりました。やはりCQDを発信し、180マイル離れたPrincess Irene号とBatavia号の2隻がこれを受けたとしています。

Among the wrecks of the season none has excited more popular interest than that of Cunard steamship Slavonia. This ship struck a rock off the Azores, Wednesday night, June 9, and became a total wreck.

The thrilling wireless call of distress, “C. Q. D. ,” was caught by the German Lloyd steamship Princess Irene, 180 miles away, and by the Hamburg American steamship Batavia. Both hastened to the rescue. Meantime the Slavonia’s boats had done heroic work and had successfully landed the passengers at a village near Flores. ・・・(略)・・・ 』 (Marine Disasters, The Sea Breeze, July 1909, p64)

【参考】 "ボストン海員 友の会"(Boston Seamans Friend Society)とは、"アメリカ海員 友の会"の1支部として1827年に海員の福利厚生を主たる目的として作られた協会です。

趣味の無線月刊誌も「スラボニア号がCQD」

左図はアマチュア無線家など、無線を趣味とする人達向けの無線月刊誌Modern Electricsの1909年7月号(p154)です。ここに"Wireless Saves 410 Passengers"(無線が乗員410名を救う)というスラボニア号の記事がありました。

On June 12, wireless telegraphy played a prominent part in the saving of the crew and passengers of the Cunard line steamer "Slavonia," which is a total wreck, two miles southwest of Flores Island of the Azores Islands. The wireless feat of the steamer "Republic" was equaled, if not excelled. The steamer "Prinzess Irens" was 180 miles away when the thrilling call, "C. Q. D." was picked up. Immediately upon receipt of the message of distress the operator flashed back his answer and learned the location of the stricken ship. ・・・(略)・・・』 ただし内容はピッツバーグの週刊Presbyterian Banner誌(1909年6月17日号, Saved by Wireless, p35)の記事を要約したもののようです。

私としては当時の新聞・雑誌メディアを丹念に調査したつもりですが、スラボニア号がSOSを使ったという記事はついに発見できませんでした。つまりスラボニア号がSOSを使ったとする話は1909年の事故当時には無くて、後年になって誰かによって作られた話のようです。

22) SOSを発したアラパホ号のユナイテッドワイアレス局VB (1909年8月11日)

Clyde Line所属アラパホ号(Arapahoe)はニューヨークを出港し、サウスカロライナ州チャールストンを経由してフロリダ州ジャクソンビルへ南下する予定でした。

1909年(明治42年)8月11日、ニューヨークとチャールストンの中間点にあたる、ハッテラス岬(Cape Hatteras, ノースカロライナ州)沖で後部のプロペラシャフトを破損してしまいました。

推進力を失って漂流をはじめたアラパホ号にはユナイテッドワイアレス社(UWT:United Wireless Telegraph Company)の無線局(呼出符号VB, 周波数857kHz)が設置されていました。アラパホ号の無線局VBはSOSを発信して、同社のハッテラス岬海岸局(呼出符号HA, 周波数857kHz)へ救助を要請しました。ただちにClyde Line所属のヒューロン号(Huron, 呼出符号VH, 周波数857kHz)が駆け付けて、全員が救助されました。

ワシントンDCのThe Washington Times 紙(1909年8月12日, p1)は、アラパホ号のSOSを報じています(図)。

アラパホ号はユナイテッドワイアレス社のSOS信号を発したが、これはマルコーニ社でいうCQD信号と同じだ・・・」と、読者に新しい遭難信号SOSを紹介しました。

Although she flashed out her “SOS”, which on the United Wireless means the same as “CQD” on the Marconi system, the steamer Arapahoe, of the Clyde line, is still wallowing around off the Hatteras lightship without aid, but half a dozen vessels are now on the way to her.

The Arapahoe broke her tail shaft yesterday afternoon, and immediately began sending wireless signals of distress. The Arapahoe is carrying an unusually large number of passengers, but no fears are entertained for their safety.

またThe New York Times 紙(1909年8月12日, p1)もマルコーニ社のCQDに相当(equivalent)するSOSが使われたことを報じました。

STEAMER ARAPAHOE BREAKS SHAFT AT SEA;

Finds Anchorage After Drifting Helplessly Off North Carolina Coast.

SISTER SHIP STANDS BY Danger Considered Slight

-- Reported Mishap by Wireless with "S.O.S." Equivalent to Famous "C.Q.D."

そもそもCQDはマルコーニ社の社内規則によるプライベートな遭難信号です。国際的にはベルリン会議(1906年)でSOSを規定した無線規則が1908年7月1日に発効しています。このベルリン会議にはアメリカも参加し、調印しました。しかしアメリカは先進国の中で唯一、(無線法案が議会を通過せず)電波の無法国家だったのです。無線法がありませんので、ベルリン会議で決めた国際条約や国際規則の米議会での批准は放置されたままでした。

そんな状況下でしたが、ユナイテッドワイアレス社は、ライバル社のCQDを避けて、(米国で批准はされていないが)国際的なSOSの方を選んだものと想像します。

23) オハイオ号のユナイテッドワイアレス局AOがSOS (1909年8月26日)

アラパホ号の事故から2週間ほど経った1909年(明治42年)8月26日深夜、米国西海岸のシアトルを出て太平洋岸をアラスカのバルディーズ(Valdez)に向っていたAlaska Steamship Co. のオハイオ号(Ohio)がカナダのブリティッシュコロンビア州沖で岩と衝突する事故を起こしました。

この時、オハイオ号(呼出符号AO, ユナイテッドワイアレス局)がSOSを発信し救助を求めました。これが太平洋で発信されたSOSの第一号です。そしてSOSを受けたHumboldt号とRupert City号が現場へ急行し、ほぼ全員が救出されましたが、残念なことにオハイオ号AOの勇敢なエクルズ通信士(George E. Eccles)ら数名が帰らぬ人となりました。

左図は地元シアトルの新聞The Seattle Star 紙(Aug.27, 1909, p1)で、エクルズ通信士の事故第一報を報じています。ユナイテッドワイアレス社UWTではスラボニア号につづき2回目のSOSですので、同社では国際遭難信号SOSの使用が徹底されていたことが伺えます

『・・・the "S. O. S." signal, which in the United Wireless service correspond to the distress signal "C. D. Q." used on the Atlantic coast.

ユナイテッドワイアレス社が使っているSOS信号とは、(英国船籍のマルコーニ局の船が)大西洋航路で使っているCQDに相当するもの」と解説しています。

24) スラボニアSOS第一号説は1年後に新聞で登場した

前述のとおり事件直後(1909年6月)の新聞報道ではスラボニア号がSOSを発したと伝えるものは見つからなかったのに、どうして今になって「スラボニア号がSOS第一号」のような異説が登場したのかが気になる所です。

そもそも「スラボニア号がSOS第一号」のネタ元(出典・根拠)は何なのでしょうか?まずこの件を調べてみました。スラボニア号の事件は1909年6月でした。そして前述したとおり新聞雑誌など「スラボニア号がCQDを発し410名を救った」と報じました。

趣味の無線月刊誌Modern Electrics誌(1909年7月号)もそうでした。"C.Q.D."を使ったとしています(左図)。

ところが、1年後にこの雑誌が違うことを書いたのです。Modern Electrics誌(1910年9月号, p315)の"Notable Achievements of Wireless"(無線の輝かしき功績)というコラムに1909年6月10日、アゾレスでスラボニア号が座礁し、2隻の汽船がスラボニア号の(CQDより変わった)国際遭難信号SOSを受けた」とあります。

Notable Achievements of Wireless

  • Jan 23, 1909 -- White Star liner Republic rammed off Nantucket by Italian liner Florida. One thousand persons saved by Baltic, following "C. Q. D." wireless call by Jack Binns.

  • June 10, 1909 -- Cunard liner Slavonia wrecked off the Azores. Two steamers received her S.O.S., the international call that succeeded C.Q.D. and went to her rescue.

  • June, 1909 -- Goodrich liner City of Racine disabled off Waukegan, in Lake Michigan. Steamers Chicago and Christopher Columbus took off 200 passengers.・・・(略)・・・』

「スラボニア号がSOS第一号」説のネタ元はこのModern Electrics 誌(1910年9月号, p315)でした。

年表形式のたった2行の文章ですし、SOSを受けた2隻の船名も不詳で、説得力に欠けます。ですがModern Electrics 誌は趣味とはいえ無線の専門誌ですから、これを無視するのもいかがかと思い、調査を続けていたところ、このModern Electrics 誌(1910年9月号)のSOS年表にはネタ元があることが判りました。

ネブラスカ州のLincoln Daily News 紙(1910年8月1日, p1)やペンシルバニア州のNew Castle Herald 紙(1910年8月1日, p8)、バージニア州のAlexandria Gazette 紙(1910年8月2日, p2)に、(タイトルこそ違いますが)Modern Electrics 誌と「同じ内容」の記事が見つかったのです。

下図がその内のひとつAlexandria Gazette 紙(1910年8月2日)の"The following is a table of some of the most notable feats of wireless: "以下は注目すべき無線の功績の表です」で、1909年1月23日のリパブリック号事件以降で無線が活躍した海難事故がまとめられています。

1910年、無線の活躍が顕著になり、種々の事件を一旦ここで整理しておこうという趣旨だと想像します。左図赤線で囲った部分がスラボニア号の事件です。Modern Electrics 誌(9月号)と比べてみて下さい。ほぼ同じです

June 10, 1909 -- Cunard Liner Slavonia wrecked off the Azores. Two steamers received her "S.O.S." the international call that succeeded "C.Q.D." and went to the rescue.

この部分だけでなく、前後のすべてが(ほぼ)同文なのです!地方新聞社はグループ内で記事に配信を受けていましたので全く同じ記事が、複数の地方新聞に掲載されているのは普通にあることです。このコラムの発信元の新聞社は特定でませんでしたが、とにかく1910年7月末にこのような記事が配信され、その新聞記事をModern Electrics 誌(9月号)が転載したと考えられます

つまりスラボニア号のSOS説は事件発生から1年以上あとになって突然浮上したようです。

25) SOS第一号を取り消されたスラボニア号

さらに追いかけると、驚くべきことも判りました。

1912年4月のタイタニック号沈没事件を新聞各紙が一斉に報じました。タイタニック号はノバスコシア州の沖合いで沈没したことから、同州住民の事件への関心は高く、地元The Chronicle Herald 精力的にこの事件を報じています。カナダのノバスコシア州のThe Chronicle Herald 紙(1912年4月12日, p7)が(上記1911年8月の)「海難と無線のまとめ」コラムを再掲しました。今回はタイトルを"What Wireless Has Done on the High Seas"としました。

1911年8月のコラムはスラボニア号に関して「Two steamers received her S.O.S., the international call that succeeded C.Q.D. 2隻の汽船がスラボニア号のCQDより代わった国際信号SOSを受けた)」だったのが、今回は「Two steamships received its call for aid 2隻の汽船が救援信号を受けた)」に差し替えられています。

つまり1912年にこの記事が再び利用された際には、スラボニア号の「SOS」が削除されました

January 23, 1909 – White Star liner Republic rammed off Nantucket by Italian liner Florida; 1,000 persons saved by the Baltic following “C.Q.D” wireless call by “Jack” Binns.

June 10, 1909 – Cunard liner Slavonia wrecked off the Azores. Two steamships received its call for aid and went to the rescue.

June 1909 – Goodrich Liner City of Racine disabled off Waukegan in Lake Michigan. Steamboats Chicago and Christopher Columbus called by wireless, took off 200 passengers.・・・(略)・・・』

あくまで私見ですが、The Chronicle Herald がマルコーニ社への取材を通して1909年のスラボニア号の事故では遭難信号SOSを使っていない(CQDを使った)ことを知ったのではないでしょうか。そしてコラムを再掲するにあたり、SOSを削除した可能性が高いと想像します。タイタニック号事件以降、「スラボニア号のSOS」の話は影を潜めたようです。

もし「スラボニア号のマルコーニ局MVASOS発信の第一号」ならば、「タイタニック号のマルコーニ局MGYが、マルコーニ社の無線局としてSOSを使った第一号」という説明と完全に矛盾します。この二つは同時には成立しません。影響力ある話題ですので、もう少し追ってみましょう。

26) マルコーニ出版社 Wireless Age の記事 (1916年)

スラボニア号の無線はマルコーニ局MVAでしたので、「マルコーニ局のことはマルコーニ社に聞くのが一番」だと思い、マルコーニ無線電信会社(Marconi Wireless Telegraph Company, Limited, [London])みずからが発行していた月刊誌Marconigraph(1911.4創刊-1913.3廃刊)を調査しましたが、(見落としたかも知れませんが)スラボニア号に関する記事は見つけられませんでした。

しかしMarconigraphの後続誌のひとつでマルコーニ出版社(Marconi Publishing Corp, [New York] )が1913年4月より発行したWireless Age誌(1916年4月号)興味深い記事を見付けることができました(左図)。

海上無線通信が、これまでの海難事故でいかに活躍してきたかという観点でまとめられた連載記事 "How Wireless Has Served the Sea - Sixteen Years of Triumphant Achivements of an Unerring System and a Brave Devotion to Duty" で、無線搭載船の海難事故を一件づつ丁寧に紹介しています。連載第一回がこの1916年4月号でした。これには筆者名がありませんのでマルコーニ出版社の編集部でまとめられたものと想像します。1回あたり10ページ以上もあり、相当力が入っていたことが伺えます。

スラボニア号の事件は、連載2回目(1916年6月号)に登場します。

1909年6月10日、事故現場から180マイル離れた場所にいた北独ロイド社のプリンセス・アイリーン号がスラボニア号のCQDをピックアップしたとあります。

『・・・The steamer Princess Irene, of the North German Lloyd, was 180 miles away when she picked up the help call – CQD. Her operator answered and immediately received a reply, stating that the Slavonia was ashore and where, and asking the Princess Irene to come to her assistance. Calls had in the meantime been heard also by the Hamburg-American Line steamship Batavia, and 300 passengers were transferred to her. ・・・』 ("How Wireless Has Served the Sea [Part Two]", Wireless Age, 1916.6, Marconi Publishing Corp, pp630-631)

またハンブルグ・アメリカン・ライン社のバタビア号もこの信号を聞き付けて駆けつけました。スラボニア号が発信した遭難信号はCQDだったというのがマルコーニ出版社の見解のようです。

またアラパホ号の記事は連載3回目(1916年7月号)にありました。1909年8月11日、ハッテラス岬沖のダイアモンドショールズ近くでアラパホエ号が後部シャフトを折って漂流しだしたため、SOSを発したと書かれています。参考までに引用しておきます。

『・・・On this occasion the Arapahoe was bound from New York to Charleston and Jacksonville, heavily laden and with many passengers on board. This was on August 11, 1909. The wireless station at Beaufort, N. C., received a message from the Clyde liner that she had broken her tail shaft near Diamond Shoals and was drifting helplessly.

The Arapahoe at the time flashed her SOS, which was now being used in place of the CQD as distress signal. An hour later the steamer Huron of the Clyde Line arrived to the aid of the disabled steamer and stood by her until her rescue was effected. ・・・』 (How Wireless Has Served the Sea [Part III], Wireless Age, 1916.6, Marconi Publishing Corp, p694)

以上のように、マルコーニ出版社の雑誌Wireless Ageによると、1909年6月10日にスラボニア号がCQDを発し、同年8月11日にアラパホ号がSOSを発したしています。

27) やっぱり初SOSはアラパホ号のUWT局

Firsr RADIO SOS sent from liner 'ARAPAHOE'; Aug.11, 1909

その後もアラパホ号がSOS第一号という世間の見解は変わっていません。

左図は1934年(昭和9年)のカリフォルニアの新聞The Healdsburg Tribune(Oct.18, p3)にある"Who was first in America?"(Joseph Nathan Kane)というコラムで使われたイラストです。「最初のSOS信号は1909年8月11日にアラパホ号が送った」と、はっきり書かれています。

1935年(昭和10年)に出版された"SOS to the Rescue" (Karl Baarslag, 1935, Oxford University Press) という書籍があります(図)。海難事故における無線利用の歴史について書かれたバイブル的存在で、この分野では超有名な無線書です。アラパホ号の記述はありますが、スラボニア号にはまったく触れていません。

さらに読者が誤解しないように、1905年(明治38年)12月にスナイダー氏(Snyder)が「HELP」を使ってアメリカ初の救援通信を行ったものや、1909年1月にビンズ氏(Binns)が「CQD」を使ったものを別とし、純粋な「SOS」は1909年8月11日にアラパホ号のチチェスター(Chichester)船長の送信命令により、ハウブナー(Theodore D. Haubner)通信士が打電したものが最初であると述べています。

【注】世界初とは言わずに、アメリカ船初のSOSと遠慮がちな表現。

The first actual use of SOS on an American ship as distinguished from Snyder’s HELP or Binns’ CQD, was sent out by T.D. Haubner from the SS. Arapahoe on August 11th, 1909.

Haubner, as an amateur in New Jersey, had listened raptly to all the stirring details surrounding the Republic-Florida crash and Binns’ CQD in January 1909, little knowing, he says, that in less than six months he himself would be on the six months he himself would be on the transmitting end of a distress call from a ship at sea.

In June of that year he applied for a position with the United Wireless Company and was accepted. After a few trips on SS. San Marcus, he was transferred to the SS. Arapahoe. The Arapahoe, a single-screw freight and passenger steamer of some 3000 tons, was bound for Charleston and Jacksonville from New York when her shaft broke, 21 miles southeast of Cape Hatteras. Single screw and with a parted shaft, and being so near to the dreaded Diamond Shoals, known among mariners as the “Graveyard of the Atlantic,” her position was critical. A strong northeast gale drove the helpless vessel toward the treacherous Carolina coast.

Captain Chichester immediately ordered the distress call to be sent. Haubner sent out the first SOS ever to be transmitted from an American vessel. (Karl Baarslag, 1935, Oxford University Press, pp10-11)

28) アラパホ号のハウブナー通信士がSOS第一号で表彰される

90年以上もの歴史を誇る「ベテラン無線通信士協会VWOA(Veteran Wireless Operators Association)という団体があります(1925年設立)。無線通信界を牽引し、そして退職(退役)していった無線通信士たちで構成される、(かつて自分たちが所属した無線会社の垣根を越えた)親睦団体です。

VWOAの機関紙的な役割を果たしていたのが無線月刊誌Communications (Bryan Davis Publishing Co.)で、ここに"VETERAN WIRELESS OPERATORS ASSOCIATION NEWS"というページを持っていました。

1939年(昭和14年)2月号でRCA社のデビット・サーノフ氏に第一回マルコーニ・メモリアル・ゴールドメダル賞(Marconi Memorial Gold Medal of Achievement)を、そして銀賞を1909年にリパブリック号・フロリダ号の乗員・乗客をCQDで救ったジャック・ビンズ氏と、同じ年にアラパホ号の乗員・乗客をSOSで救ったテッド・ハウブナー(Theodore D. Haubner )氏に贈ると発表しました。

1909年の初CQD・初SOSの発信からちょうど30年目にあた、両氏の受賞の模様はラジオのNBCネットで流されることになりました。

Silver Commemorative medals to Jack Binns, hero of the Republic-Florida disaster in 1909 and to Ted Haubner, hero of the Arapahoe in 1909 and the man who first used SOS as a signal of distress when that ship was in trouble off Cape Hatteras.

In each case the Commemorative Medal is awarded to mark the Thirtieth Anniversary of the heroic incidents. Both recipients will be present to accept their awards and the proceedings will be carried by an NBC network. Captain Sealby, master of the Republic at the time of disaster, will be present and Captain Ruspini, master of the Florida at that time, has been invited to attend. ("VWOA News", Communications, Feb.1932, Bryan Davis Publishing Co., p41)

1939年2月11日、ニューヨークのタイムズスクエアにあるホテルアスター(Hotel Astor)で、VWOA第14回年次晩餐会が開かれました。そこでの授賞式の様子をCommunications(4月号)の"VWOAニュース"が伝えています。

図[左]は夫人を同伴した晩餐会の全景です。海軍関係者もゲストとして招かれました。

図[中]はVWOA会長を囲むCQD組みの人たちで、左から順に、救援に向ったバルチック号の元操舵主任John G. Orr氏、リパブリック号のSealby元船長、中央がVWOAのMcGonigle会長、そしてリパブリック号のジャック・ビンズ元通信士、フロリダ号のRuspini元船長と続きます。

左図[右]は受賞の喜びの挨拶をしているアラパホ号ハウブナー元通信士です。

出席した各方面からのベテラン通信士達が、最初にSOSを発した通信士として、ハウブナー氏に賞賛の拍手を送りました。

もちろん会場にはマルコーニ社の元通信士も多くいたでしょう。その彼らが自社(マルコーニ社)のスラボニア号ではなく、ユナイテッド・ワイアレス社のアラパホ号をSOS第一号だと認めている点は、SOS史研究上で見逃せません。なにしろスラボニア号の事件発生時に、ジャック・ビンズ氏は(その事情を良く知る立場にある)マルコーニ社の現役通信士だったわけです。そのビンズ氏が、アラパホ号のハウブナー氏のSOS第一号受賞を称えているのですから・・・

【補足】 この他にリー・ド・フォレスト氏も無線電話通信への貢献で賞を受けました

翌2月12日のThe New York Times紙は次のタイトルでVWOAの晩餐会の様子を報じました。

"SEA CAPTAINS MEET LONG AFTER CRASH: Masters of the Republic and Florida Introduced 30 Years After Vessels Collided.:GUESTS OF WIRELESS MEN: David Sarnoff, Lee de Forest, T. D. Haubner and Jack Binns Receive Awards. "

その記事本文でハウブナー氏のSOSが第一号『 T. D. Haubner, who in August of 1909, from the Arapahoe, sent the signal SOS for the first time 』だとしました。

もしスラボニア号がSOS第一号だったならばアラパホ号のハウブナー氏SOS第一号とするニューヨーク・タイムズの記事に、スラボニア号の元通信士は憤慨したでしょうし、VWOAへ抗議してもおかしくありません。でもそういった動きは私が調査した限り、見つかりませんでした。

また放送業界雑誌Broadcasting(Feb.15, 1939, p78)も、VWOAの授賞式を伝えており、ハウブナー氏がはじめてSOSを発したと書いています。

T. D. Haubner, on the 30th anniversary of his sending the first SOS flash

こうしてアラパホ号とその通信士ハウブナーはアメリカ国民に広く知られるようになりました。

いうまでもなくアラパホ号がSOS第一号とする海外書籍は戦後たくさん出版されましたが、新聞でもそうでした。The Nevada Daily mail 紙(1987年8月11日,p3)の"Today in History"というコーナーで、8月11日に起きた昔の出来事を紹介していて、1909年に次の記述があります。

1909年のこの日、はじめての遭難信号SOSが、NC州ハタラス岬沖の米国船アラパホ号により使われた。

これに限らずアメリカの新聞の「●●年前の今日の出来事」欄ではアラパホ号がSOSの第一号とするのを常とします。

29) スラボニア号説の "強み" と "弱み"

では「スラボニア号のSOS」説がなぜ今頃になって登場したのでしょうか?

実は完全消滅していたのではありませんでした。George G. Blake氏が1928年にHistory of radio telegraphy and telephony(Chapman & Hall ltd [London], 1928)の中でスラボニア号のSOSに触れていますが支持されなかったようです。

また第二次世界大戦後にはPatrick Robertson氏が"世界第一号"ばかりを集めた一連の書籍The Book of First(The Book of First, Crown Pub., 1974)下図や、The Shell Book of Firsts (Ebury Press, 1974)The New Shell Book of Firstsを出版し、このスラボニア号説を取り上げました。しかし一般的にはアラパホ号がSOS第一号とされており、スラボニア号説は広まりませんでした。

『The first occasion on which the SOS signal was transmitted in an emergency occurred on 10 June 1909, when the Cunard liner SS Slavonia was wrecked off the Azores. Two steamers received her signals and went to the rescue. 』 (Patrick Robertson, The Book of First, Crown Publishers, 1974, p150)

このようにアラパホ号が圧倒的に支持されていた中で、(信憑性を裏付ける情報源や根拠を示していない)スラボニア号のSOS説が "発掘されては消え" を繰り返しました。

ところが1990年代になり、前述したModern Electrics(1910年9月号)の"Notable Achievements of Wireless"(無線の輝かしき功績)というコラムが再発掘され、また1994年にはPatrick Robertson氏の本の改訂版The New Shell Book of Firsts (Headline Book Pub., 1994)が出されたことで「スラボニア号がSOS第一号」説が再浮上し、インターネットの普及により広まっていったように(私は)感じます。そしてタイタニック号沈没から百年目にあたる2012年(平成24年)前後に、タイタニック号に関する書籍が数多く出版されましたが、それらの書籍には「スラボニア号がSOSの第一号」とするものが散見されます。つまりスラボニア号説が注目されるようになったのは、実はここ10-20年ほどの間ではないでしょうか。

日本でもPatrick Robertson氏の本が翻訳されて、1982年に『世界最初辞典』(左図[左])が、さらに1998年にはその改訂本『雑学・世界なんでもかんでも「最初のこと」』(左図[左])が講談社より出されました。

「SOS」を世界で初めて発信したのは、1909年に遭難したイギリスの「スラボニア号」とされています。「スラボニア号」が遭難したのは1909年6月10日で、ポルトガル沖のアゾレス諸島での難破でした。この時に、世界で初めてモールス信号の遭難信号「SOS」が、遭難を知らせ救助を要請する信号として発信されました。 (パトリック・ロバートソン/訳:大出健, 『雑学・世界なんでもかんでも「最初のこと」』, 1998, 講談社+α文庫)

アメリカでは支持されなかったスラボニア号説ですが、それまで日本にはSOS発信の第一号は誰か?について書かれた文献や記事がなかったようで、我国ではPatrick Robertson氏のスラボニア号説に疑問を抱いた人は極めて少数だったでしょう。

ではスラボニア号説の"強み"と"弱み"を整理しておきましょう。

<スラボニア号SOS第一号説の "強み">

● なんといってもアラパホ号よりも日付が早いことに尽きるでしょう。一番争いにおいては、少々根拠が薄すかろうが、何か拠り所にできるものさえ示せれば、日付の早い方が "ひいき目" で扱われるのはよくあることです。

<スラボニア号SOS第一号説の "弱み">

● 事件直後の新聞・雑誌・通信業界紙・海運業界紙はすべてスラボニア号はCQDを使ったとしている(SOSとするものはゼロ件)

● つまり事件から1年経った1910年夏の、いわゆる「海難と無線のまとめ」記事しか根拠がないこと(100年経っても新たな根拠が発掘されていない)

● その唯一の拠り所の「海難と無線のまとめ」記事が1912年に訂正されていること

● タイタニック号のマルコーニ局MGYがSOSを使った理由について言及する書籍は多いが、スラボニア号のマルコーニ局MVAがなぜSOSを使ったかの考察が全くなされていない(多分説明できない?)こと

(たぶんマルコーニ社のCQDなんか使いたくないであろう)ユナイテッドワイアレス局VB(アラパホ号)ですから、8月11日にSOSを使ったのは間違いないでしょう。

しかし(国際標準のSOSなんか使いたくないと思っているであろう)マルコーニ局MVA(スラボニア号)が、どうしてSOSを使ったのかについて、スラボニアSOS説を唱える人達により、一切の考察がなされていないため、信憑性を大きく損なっているように思います。

30) マルコーニ局として最初にSOSを使ったのはタイタニック号MGY?

下図は米海軍省が発行していたList of Wireless Telegraph Stations の1908年10月版です。OWNER欄には無線局の免許人です。この当時は船会社が無線機を買って施設(船会社が無線局の免許人)するのではなく、船会社が無線会社に無線室を貸与し、公衆通信(電報)サービスを行わせる方式でした。

キュナードライン(Cunard Line)はマルコーニ社と、またクライドライン(Clyde Line)はユナイテッドワイアレス社(UWT:United Wireless Telegraph Company)と専属契約していましたので、キュナードラインのスラボニア号にはマルコーニ社の無線局MVAが置かれ、クライドラインのアラパホ号にはユナイテッドワイアレスUWT社の無線局VBが設置されていました。

このスラボニア号を運行するキュナードライン社は、最も古くからマルコーニ式無線を採用してくれた船会社のひとつで、1900年5月15日に海上移動通信サービスを創業したばかりのマルコーニ社にとっては大恩人にあたります。

1901年6月15日より大型客船ルカーニア号(Lucania)を皮切りにキュナードラインの客船に次々とマルコーニ局を開設してくれたからです。

「マルコーニ局で最初にSOSを使ったのは(1912年に沈没した)タイタニック号」とする見解は、「UWT局のアラパホ号がSOS第一号」といわれていた頃からあったものですが、昔は一応の辻褄は合っていました。

そこへ近年になり、「スラボニア号がSOS第一号」という説が一部で注目され、もしあなたがそれを支持されるのでしたら「タイタニック号がマルコーニ局で最初にSOSを使った」ではなく、「スラボニア号がマルコーニ局で最初にSOSを使った」としなければ矛盾が生じます。残念ながらWeb上では矛盾した記述が数多く見受けられます。

● 驚きのGoogle検索結果の差

今現在(2016年8月14日)、Googleで"SOS Arapahoe" を検索すると50,500件ヒットしました。しかし"SOS Slavonia" は36,200件しかなく、まだまだ世界的には「アラパホ号のSOS第一号」が健在であることが伺えます。ちなみに英語版Wikipediaは"SOS発信の第一号"として両船を取り上げており、どちらにもヒットしました。

ところがです・・・日本語で "SOS スラボニア号" を検索すると日本のサイトがヒットするのに対し、"SOS アラパホ号" で検索しても関連するものは(当サイトを除き)皆無でした。2016年8月14日の時点では、"SOS スラボニア号" が409件で、"SOS アラパホ号" が115件(=しかし無関係のものばかりで、実質0件)です。

もしやと「アラパホ号」や「アラパホ号」に変えてみましたがやはり結果はゼロでした。日本のWebサイトにおけるSOSの話題には、極端な情報の片寄りが見られます。なぜ世界と日本でこんなにも違うのか不思議ですが、もう少し中立的な目線がいると感じました。

30) SOSの語源の諸説について Send Out Succor(救援送信)→ Stop Other Service(沈黙せよ)→ Save Our Souls(我らの魂を救い給え)

そもそも遭難信号は規則条文に短点長点のシーケンス(・・・― ― ― ・・・)で表記されたため新聞・雑誌等の文字メディアでの扱いが不便です。(こんな長いものは定義されておらず)仮にどこかで区切って、文字で表現しようとすれば、V(・・・― )T( ― )B(― ・・・)や、3(・・・― ― )B(― ・・・)に、V(・・・― )7(― ― ・・・)といった具合に、いろんな分解表現が可能です。中でも一番わかりやすく、簡単な表現がS(・・・)O(― ― ―)S(・・・)だったのでしょう。一般的には「SOS」と呼ばれるようになりました。

ただし当時のアメリカ通信界では二種類のモールス符号が使用されていたため、若干異なる解釈もありました。

下図[左]はManual of Wireless Telegraphy and Telephony(A. Frederick Collins, John Wiley & Sons [NY], 1913, p424)からの引用です。ここに見慣れない「S5S」という符号が記されています。 【注】 私は第三版(1913年)を読みましたが、この部分は第二版(1909年)に書かれたものと想像します。

長点3つ(― ― ― )はコンチネンタル(欧州大陸)コードで文字「O」ですが、アメリカンコードだと数字「5」です。そのため米国通信界の一部ではこの符号をS(・・・)(― ― ―)S(・・・)とも呼びました。

左図[右]は米国の雑誌Popular Mechanics(1910年2月号, p156)にある「"S5S" RIVALS "CQD" FOR WIRELESS HONORS」という記事です。ミシガン湖でピューリタン号が"S5S"を使ったことを伝えていますが、符号の構成は"SOS"と同じです。

【参考】 アメリカンコードはこちらの表を御覧下さい。

すなわち、SOS という言葉そのものが後付けだったので、SOSを何かの略号だとする説は、全て後で考案されたものに過ぎません。

ではSOSの浸透状況を追いながら、SOSの語源とされる諸説の誕生を探ってみましょう。マルコーニ社以外では少なくとも1909年(明治42年)以降には国際遭難信号SOSを使っているようです。結論を先に述べれば、いろんなフレーズがSOSの解釈に充てられましたが、誰もそれを語源だとは言っておりません。

左図は1909年11月21日のJ.J.Astor氏のヨットNourmahal号の沈没事故の記事ですThe Salt Lake herald-Republican, Nov.21,1909, p1)。この事故ではユナイテッド・ワイアレス社がSOSを使ったことが記されています。

そしてこの新聞はSOSの意味を” It means Send Out Succor”(救援の送信)だと伝えました。語源だとは言っていないので、この意味で間違いないでしょう。

米国ではこの頃より少しづつではありますが、遭難信号には「CQD」の他に、「SOS」もあることが一般に認知されるようになりました。

1910年の米国では急速にSOSが一般化しました。米国ではマルコーニ社は無線市場参入に失敗した少数派だったからです。米国最大手のユナイテッド・ワイアレスUWTをはじめとする米国の各社では、国際遭難信号SOSを使っています。大西洋航路にはマルコーニ局を装備した英国籍の船がたくさん運航していることから、大西洋ではCQDが、米国およびその沿岸ではSOSという勢力図が頭に思い浮かびますね。

「SOS 浸水中 北緯32.10、東経70.30 ・・・」、1910年(明治43年)2月4日、ハッテラス岬沖で起きた木造汽船ケンタッキー号の沈没事故がSOSを有名にしました。午前11:30、ユナイテッド・ワイアレス社のハッテラス岬海岸局HAがニューヨークからシアトルに向うケンタッキー号のSOSをキャッチしました。ほぼ同時に付近を航行中のMalloryラインのアラモ号(Alamo)のユナイテッド・ワイアレス局AJからも応答があり、同号が直ちに救助に向いました。また海軍にも連絡が取られ戦艦ルイジアナが向いましたが、ケンタッキー号の電気系統がショートしたのか、通信が途絶えてしまい、救助関係者に緊張感が走りました。沈没寸前のところでアラモ号AJが事故現場に到着し、ケンタッキー号のムーア船長と46名のクルー全員を救助しました。

左図[左]がRock Island Argus紙(Feb.5, 1910, p1)の記事 "Saving call via wireless "S. O. S.," Substituted for "C. Q. D." brings succor to Kentucky. (無線救援信号は、ケンタッキー号救助で、SOSがCQDにとって代わった)"です。ちなみにこの記事の中で、SOSを”Send Out Succor”の頭文字としていました(Rock Island Argus紙)。個人的な感想ですが、数あるSOSの語呂合わせの中でも、"Send Out Succor" は通信行為そのものを指しており、また俗っぽさもないことから、私には一番しっくりします。

左図[右]がThe Evening statesman紙(Feb.5,1910, p8)です。"SOS"がキャッチされたことを伝えています。この他、多くの新聞が「ケンタッキー号の沈没事故ではSOSが使われた」と報じたのです。

しかし"SOS"という単語の登場に新聞読者の間で混乱が起きました。(アラパホ号のSOSから半年経ちましたが)世間では、遭難信号といえばまだ"CQD"の方が知られていたからです。新聞各社は、"SOS"こそが"CQD"に代わる信号なのだと、解説するようになりました。

1909年2月13日のニューヨークタイムス紙が「 "S.O.S." - - - The Ambulance Call of The Seaa (海の救急車コール:SOS) 」というタイトルで、ケンタッキー号が使用した「SOS」とはベルリン国際無線電信会議で採択された遭難信号で、救急車を呼ぶ「999」コールのようなものだと解説しました(左図[左])。

また同年3月26日付けのWestern Kansas World紙の「WHAT S.O.S. MEANS - Letters From the Ambulance Call of the Sea」という記事でも、"The new ambulance call of the sea" だと説明しました。

さらにDakota Farmers Leader紙(4月15日, p3)と、Manchester Democrat紙(4月20日, p3)に掲載された『 "SOS" Ambulance call of the Sea 』という特集記事でもSOSとはCQDに代わる新しい「救急コール」だと読者に解説しました(上図[右])。

左図[左]はNew-York tribune紙(Mar.3,1910, p4)です。Royal Steam Packet社のTagus号の記事"Ships Crash in Fog"に、SOSの文字が見えますが、Tagus号の船舶無線局NSもやはりユナイテッド・ワイアレス局です。

また別の事例として、左図[中]と[右]は、1910年7月にフロリダ沖で起きたSouthern Pacific社のMomus号の事故です。同船のユナイテッド・ワイアレス局KMがSOSを発信しています。

左図[中]がThe Cairo bulletin紙(July 25,1910, p1)、左図[右]がThe Mathews journal紙(July 28,1910, p8)で、その記事でも"SOSがCQDに取って代わった"と書かれています。

『The snap and flash of the wireless, sending out the "S.O.S. " call that has superseded the "C.Q.D." ・・・(略)・・・』The Cairo bulletin紙)

1910年になると米国ではこの他にも、多くの遭難記事でSOSの文字が見つかりましたが、もうこれくらいにしておきます。とにかくタイタニック号の事件(1912年4月)より二年前から、アメリカでは遭難信号といえばSOSが当たり前だったのに、このあたりの事情がインターネット上ではうまく伝わっていないように感じます。

こうしてSOSという文字が頻繁に新聞で用いられるようになると、その語源に関する記事も増えます。

専門雑誌Telegraph and Telephone Ageの1910年3月1日号にある記事"Radio Telegraphy"(p173)では、SOSを”Stop Other Service”の意味(略号)なのだとしています。

『 The wireless telegraph danger signal "S. O. S." which is now used by vessels at sea has been the occasion of much conjecture as to its origin and meaning. This call was adopted by the Berlin International Wireless Telegraph Convention held in 1906, and means "Stop other service." 』

また、"遭難信号はもはやCQDではなく、"Stop Other Service" SOS なのだ" と解説する1911年の新聞記事も引用しておきましょう。

『・・・(略)・・・it(= CQD was discontinued by operators on vessels. The one used now is "Stop other service" - S.O.S.

When an operator hears this call other service or messages are stopped and the right of way given to the message of the operator who is in distress. 』Edgefield advertiser紙, July19,1911, p1)

そもそもは遭難時に「一大事だ。お前ら静かにしろ!」と周囲を黙らすための信号でしたので、”Stop Other Service” はいわゆるプロ(電波関係者)に受けが良かったようです。

しかしマルコーニ局を設置する英国系船会社の船舶では「ドイツ式のSOS」を使う事に躊躇する者がまだ残っていたのでしょうか?1912年(明治45年)4月にWhite Star Line所属のタイタニック号(マルコーニ国際海洋通信会社の無線局で呼出符号MGYが氷山に衝突した際に、船長はマルコーニ社の通信士にCQDの発信を命じたといわれています。そしてCQDを使ったあと、国際的なSOSを発信しています。

多くの犠牲者を出したタイタニック号の沈没事件の二日後には“Save Our Souls”の文字が現れます(左図[左] New York Tribune紙, Apr.16,1912)。

タイタニック号が 「神よ我らの魂を救い給え」 と最期の懇願

("Save Our Souls," was Titanic's last appeal )

通信士はそう解釈し、CQDの代わりにSOSを叩いた

(Wireless operator so interpreted the SOS signal that supplanted CQD )

大げさに意訳すればこんな感じでしょうか。この新聞はSOSの語源が “Save Our Souls” とはいっていません。命を懸けた通信士の心の叫びとして比喩したのです。

左図[右]は事件から一週間後にプリンセスシアター(ミネソタ州)が出した上映広告で、タイタニック救援活動の実録フィルムを近く公開するとしました。この広告にもさっそくS.O.S.(Save Our Souls)というフレーズが利用されています。それほどみんなに響く言葉だったようです。 (私はキリスト教徒ではないので良く存じませんが、「お祈り」で使われる言葉ではないかと想像しました)

こうして "Save Our Souls" が多くの人々に支持・共感されました。きっとこれをSOSの語源だと受け取った人(誤解した人)はいなかったと思います。ですからSOSの語源(俗説)のひとつというよりも、社会が、人々が、無機質な ・・・― ― ― ・・・ に "Save Our Souls" と命名した。そういうことではないかと私は感じました。

31) 遭難信号の変遷のまとめ

ではまとめておきます。まず時系列に遭難信号の歴史を整理したものが下表です。

遭難信号の施行日は明確に知られています。CQDは1904年(明治37年)2月1日よりマルコーニ社で導入されました。社内規則です。SOSは1905年(明治38年)4月1日より施行されたドイツの無線規則に採用されたのがそもそもです(テレフンケン社はこの規則に従った)。また日本の逓信省は1908年(明治41年)5月1日に施行した無線規則でSOSを導入しました。以上3つの日付は確定していますが、ドイツと日本以外の国の電波主管庁がSOSを含めた新規則(国内規則)の施行日を調査するのは不可能ではないが骨が折れます。

そこで一般的には(ドイツ以外の国では)「1906年から1908年にSOSを導入した」という表現が用いられます(下表ではこの期間を斜線で表現)。SOSは1906年(明治39年)のベルリン第一回国際無線電信会議(10/3-11/3)で採択されました。その会議が終った翌日1906年11月4日以降で、かつ国際規則が発効する1908年7月1日までのどこかにおいて、各国は国内無線規則を改正した(または新規に定めた)だろうと推測するしかないからです。

【参考】 時折10月3日を「SOSが国際採択された日」とする記述を目にしますが、それは誤りです。SOSを採択した国際会議の開幕日というだけで、10月3日に決議された訳ではありません。

【注】 なお「1906年から1908年にCQDがSOSに改められた」と書くのは誤りです。下表のようにマルコーニ社はCQDを改める事なくタイタニック号の沈没まで使い続けました。

一番わからないのは米国です。米国は無線法を制定せず(電波を国家管理せず)、無線会社の自由にさせており、次の国際無線電信会議の直前まで国際規則を批准しませんでした。ですから米国のユナイテッドワイアレス社は(法に従ったのではなく)自社の社内規則でSOSを定めたに過ぎません。1909年(明治42年)8月11日にアラパホ号の同社の無線局VBがSOSを使っていますので、同社ではそれ以前より施行していたのでしょう。

またマルコーニ社がCQDの使用を止めたのは1912年(明治45年)のタイタニック号事件以降ですが、その中止に関する社内通達文が明らかにされておらず、これもきっちりした日付はわかりません。

ちなみに近年になってスラボニア号のマルコーニ局MVAがSOS第一号だとする説が注目されるようになりましたが、1909-1912年をCQDからSOSへの移行期間と捉え、反映させてみたものが下図です。この図ではタイタニック号MGYに、「マルコーニ社としてのSOS第一号」の座を、スラボニア号MVAへ明け渡していただきました。これが正しいかはまだ決着していません。

32) 遭難信号SOSの語源のまとめ

次に語源にまつわる話題をまとめます。

遭難信号 ・・・― ― ― ・・・ のルーツは何だったかといえば、前述したとおりドイツで使われていた ・・・― ― ― ・(いわゆるSOE)です。断じて"Save Our Souls"などが語源ではありません。

SOSの語源を考えるにあたり、絶対に忘れてはならないのは、SOSという言葉自体が後付けだという事です。(今となっては、どこのどなたがSOSという文字を思い付かれたのか、定かではありませんが)誰かが遭難信号 ・・・― ― ― ・・・ を、S(・・・)O(― ― ―)S(・・・)という形に分割して呼ぶ方法を編み出して、それが世間一般に浸透したわけです。

国際無線電信会議の条文に書かれた遭難信号は「 ・・・― ― ― ・・・ 」であって、けして「SOS」ではないのです。←この事実をきちんと説明しない「SOS語源の解説」があまりにも多過ぎです。

1905年4月1日に施行されたドイツの無線法では遭難信号を ・・・― ― ― ・・・ だと定め、その翌年ドイツのベルリンで開かれた第一回国際無線電信会議でも国際的な遭難信号を ・・・― ― ― ・・・ と定めました。けして「SOS」ではありません(下図[左]:国際無線電信条約 附属業務規則第16條)。

「ええっ~? じゃあ1912年のタイタニック号沈没事件の頃はどうなの?」と思われた方もいらっしゃるでしょう。沈没事件直後に開催された第二回国際無線電信会議でも条文上では ・・・― ― ― ・・・ であって、「SOS」ではありません(下図[右]:国際無線電信条約 附属業務規則第21条)。しかしその当時より世間一般では「SOS」と呼んでいました。

● 遭難信号「・・・― ― ― ・・・ 」が、正式に「 SOS 」になったのは、ナント1961年1月1日!

じゃあ国際規則上でいつからSOSになったのかというと1959年(昭和34年)の無線通信主管庁会議(ジュネーブ)でのことで、その施行日は1961年(昭和36年)1月1日です(下図:国際電気通信条約 付属無線通信規則第36条 6-(1))。つまり1905年4月のドイツ国内法の遭難信号 ・・・― ― ― ・・・ が、国際規則の条文上でSOSと表記され、それが施行されるまで、なんと55年9箇月も掛かったことになります(SOSの上の線は"文字間を空けない"ことを表します)。

【参考】ただしSOSの正式デビューには前兆がありました。1947年のアトランティック・シティ国際無線電信会議で附属無線通信規則(1949年1月1日施行)の附録第9号「無線通信用諸種の略号及び符号」の第二節に掲載された略符号表の中に、ひっそり、こっそりと(?)SOSがはじめて含められました。でも見落としてしまいそうな場所です。

SOSをモールス符号であらわすと ・・・ [すき間] ― ― ― [すき間] ・・・ であって、 ・・・― ― ― ・・・ ではありません。何が違うかというと文字Sと文字Oの間を少し空けます。しかしすき間のない ・・・― ― ― ・・・ のような長い符号は定義されていないので、これは文字として解読できません。

文字として表現できないと、新聞や書籍のような活字メディアでの取扱いが非常に面倒になります。そこで、これを無理やり文字で表そうとすれば、どこかに句読点を打って、強引に文字化するしかありません。たとえば先頭から5音目で分割すると、(・・・― ―、の5音)と、B(― ・・・、の4音)になり二文字3Bと解読できます。もし I(・・)W(・― ― )D(― ・・ )E(・)と細かく区切れば4文字のIWDE ですね。こんな調子で、いろんな文字表現を考案することができますが、結局のところアメリカンコードによる S(・・・)(― ― ―)S(・・・)や、コンチネンタルコードによる S(・・・)O(― ― ―)S(・・・)のように、短点グループと長点グループで三分割するのがもっとも単純、かつ明快だったということでしょう。

こうして遭難信号に対して、後になってから意味のないSOSという文字が当てられ、さらに後になってSOSに語呂合わせが考案されたとするのが一般的な見方で、私も基本的にはこれを支持しています。つまり本ページの冒頭で「SOSは何の略(略号・略称)でもなく、字面に意味はありません。」と断言したとおりです。

しかしながら・・・「そんな説明だけで終らせてしまって良いのだろうか?」という思いも少々残ります。

というのは説得力ある語呂合わせが先に生まれ、それゆえにSOSという分割が世間一般に受け入れられたという逆の推理もできるからです。つまり遭難信号 ・・・― ― ― ・・・ が登場したばかりで、まだ呼び方(分割方法)も定まっていない初期に、誰かが遭難信号を上手に表現した語呂合わせ "Send Out Succor" などを考案したから、S(・・・)O(― ― ―)S(・・・)という三分割が支持されたのかも知れません(なお"Save Our Souls"等、いくつかの有名な語呂合わせは、既に「SOS」という通称が浸透していた、1910~1912年頃に誰かによって編み出されたたものですから、それらは語源には相当しません。これも誤解を生みやすい部分です。)

もし初期の頃に、(例えばV(・・・― )T( ― )B(― ・・・)という分割で、VTBという三文字に遭難や救援を示す "上手な語呂合わせ" が考案されていれば、人々は遭難信号「VTB」の方を支持したのではないだろうか?ということです。

◆『遭難信号 ・・・― ― ― ・・・ は"Send Out Succor"の頭文字SOSから作られた』

①救助の送信 "Send Out Succor" → ②その頭文字をとり遭難信号を"SOS" → ③遭難信号 ・・・― ― ― ・・・ を国際的に制定

→→→これは明らかに間違いです。

もしこの順に進化したのなら③はS(・・・) [すき間] O(― ― ―)[すき間] S(・・・) が制定されるはずで、すき間を除いて文字をくっつける理由が見つかりません。【参考】マルコーニ社のCQDは、"C [すき間] Q [すき間] D" です。

しかし遭難信号 ・・・― ― ― ・・・ を、S(・・・)O(― ― ―)S(・・・)と三分割して呼ぶ方法が支持された訳は、(例えば)"Send Out Succor"がうまく合ったからだと仮定すれば、『SOSとは(例えば)"Send Out Succor"の略』だというのは "間違っていない" ことになります。

①遭難信号 ・・・― ― ― ・・・ 制定された → ②しかしこれでは呼びにくい → ③そういえば救助の送信は "Send Out Succor" だから、その頭文字をとって遭難信号をSOSと呼ぶことにしよう

→→→この可能性は否定できません。いや本当にそうかも知れないのです。

私が何を言いたいかというと、遭難信号 ・・・― ― ― ・・・ は「SOS」であるという先入観をまず取り払うべきであり、そうすれば『遭難信号 ・・・― ― ― ・・・ の語源は"Send Out Succor"ではない。 しかし、もし "SOS" の語源は何か?という質問ならば、その答えは "Send Out Succor" の頭文字なのだ。』みたいな結論も導けるということです。

33) 遭難信号CQDの語源のまとめ

そもそも150年前から"All Stations"を意味するCQという符号が有線電信で使われていました。

そしてCQDですが、これは意味を持つ略号だったと考えられます。

左図はDaily capital journal紙(1912年4月20日, p1,p10)です。ニューヨークのThe Waldorf Astoria Hotelでタイタニック号沈没事件の査問委員会による聞き取り調査がはじまりました。

この事件で遭難信号を発した様子についてウィリアム・スミス上院議員から質問を受けたマルコーニ氏はCQDのCQは"All Stations"(全局)、Dは"Danger"(危険)または"Distress"(遭難)を意味すると証言しています。マルコーニ社の社内符号CQDを、マルコーニ氏自身が"All Stations, District(or Danger)"だというのですから、誰も異論を唱えることはできませんね。

ちなみにマルコーニ社はタイタニック号事件で先ず自社のCQDを使い、あとから国際的なSOSを使ったことについて、スミス上院議員から責められていません。なぜならばアメリカは先進国の中で最後まで無線法を制定していなかった国で、CQDを使おうが、SOSを使おうが、国家の管理外(各無線会社の自由)だったからです。SOSを決議した第一回ベルリン国際無線電信会議(1906年)の条約・規則にはアメリカも調印しましたが、アメリカには電波を国家管理するための法律がなく、その批准は棚上げにされていました。無線法がなければ批准する意味がないからでしょう。

1912年になってようやく無線法を制定できる見込みが立ち、4月3日にベルリン会議の条約・規則が上院を通過したばかりの状況下で起きたのがタイタニック号沈没事件だったのです。沈没事件後の4月22日に米国大統領がベルリン条約・規則(1906年)の批准に同意し、1912年5月25日にそれが宣言されました。

もっとも、タイタニック号は英国船籍(White Star Line)なので、仮にアメリカにSOSを採用する無線法があったとしても、無関係です。沈まないと信じられていたタイタニック号は、まずCQDで仲間のマルコーニ社の無線局(を設置する船舶)に助けを求めたと考えられます。北大西洋航路(欧州-北米間)は英国船籍の船が圧倒的に多い(=マルコーニ局が多い)ため、別にSOSを使わなくとも社内信号CQDで事足りるということや、(私は調査できてませんが)救助の通信費が請求されるため、できればSOSで他社を呼ぶより、CQDでマルコーニ局を呼びたいとかもあったのでしょうか?

【参考】最初にタイタニック号に「氷山の危険」を知らせたカリフォルニアン号MWL(Carifornian, Leyland Line, 波長300,600m)はマルコーニ局でした。そして実際にタイタニック号の救援に駆けつけたカルパチア号MPA(Carpathia, Cunard Line, 波長110,300m)もマルコーニ局ですし、タイタニックの遭難信号を受信していたバージニアン号MGN(Virginian, Allan Line, 波長110,300m)、バルチック号MBC(Baltic, White Star Line, 波長110,300m)、オリンピック号MKC(Olympic, White Star Line, 波長300,600m)はマルコーニ局です。この他フランクフルト号DFT(Frankfort, North German Lloyd,波長300,450,600m)とバーマ号SBA(Birma, Russian East Asiatic S.S.Co.,波長500m)も受信していますが、こちらはマルコーニ局ではないと思います。

【注】 マルコーニの船舶局は長く短波110m(2.72MHz)を使ってきましたが、船舶局の国際波を300m(1000kHz)と600m(500kHz)の2波としたうえで「波長300mを船舶局の通常波」を定めたベルリン規則に従うため、無線設備の移行中でした。タイタニック号には最新の国際波対応の波長300, 600m機が設備されたようです。詳細はマルコーニのページを御覧下さい。

先進国の中で電波の国家管理を開始するが一番遅かった国がアメリカです。米国の無線法ですが、1912年8月13日、無線通信取締法 Radio Act of 1912 (Public Law 264, 62nd Congress, "An Act to Regulate Radio-communication")が成立し、1912年12月13日より施行されました。

1906年にサインしたベルリン条約・規則を批准するのに6年弱もかかったのですから、遅れついでに国内法の施行(12月13日)を待ってから批准しても良かったはずです。批准(5月25日)を急いだ理由に、6月4日から次のロンドン国際無線電信会議がはじまってしまうという事情もあったのではないでしょうか?

34) 大瀬崎JOSが扱った逓信省で最初の遭難通信 [おまけ]

日本初の遭難信号は1904年(明治37年)5月15日未明に帝国海軍の二等巡洋艦吉野が発したものでしたが、逓信省で取り扱った最初の遭難通信は五島列島(長崎県)にあった大瀬崎無線電信局JOSにより行われました。日露戦争で「敵艦みゆ」を傍受した大瀬崎海軍望楼無線電信所が逓信省に移管され、1908年(明治41年)7月1日に開業したのがこの大瀬崎無線電信局JOSです(明治41年7月1日, 逓信省公達第553号)。明治の呼出符号参照

開業より2年後の1910年(明治43年)、JOSの近海で英国軍艦の座礁事故が起きました。参考までにご紹介しておきます。日本無線史第四巻の大瀬崎無線の業務摘録のページにはこれが(逓信省が扱った)最初の遭難通信だと記録されました。

(大瀬崎無線JOSが)明治四十三年八月二十日英国軍艦ベッドフォード号の遭難信号を宰領したのがこの種通信の初めである。 』 (電波監理委員会編, 日本無線史第四巻, 1951, p52)

【注】 艦の出港日は20日だったが事故が起きたのは21日朝

1910年(明治43年)春、大英帝国の東洋艦隊の中国小艦隊(China Squadron)司令長官に就任したウインスロー氏(Alfred L. Winsloe)が、5月12日に同艦隊を率いて日英同盟を結んでいた日本へ着任挨拶に来ることになっていましたが、5月6日に英国王エドワード七世が崩御されたため当分の間、延期となりました。

同年8月20日、山東半島の英国租借地「威海衛」(いかいえい, Wei-Hai-Wei)を出発した中国小艦隊の4隻は東シナ海で、横一列の陣形で最高速航行試験を行ったあと、長崎に寄航し休息をとる予定でした。8月21日早朝4時(威海衛時間)、やや進路が逸れていることに気付かなかったベッドフォード号(Bedford)が韓国の済州島南西端の浅瀬暗礁(英称:Samarang Rocks)に高速航行のままで乗り上げてしまいました。

『英国支那艦隊 旗艦ミノトール、ベッドフォルド、ケント、モンマウスの四隻は当港(長崎)に向け威海衛(いかいえい)を抜錨し、速力検定の目的をもって単横陣(=横一列の陣形)を作り十九ノットの高速力をもって済州島の西南沖合に進路を取りて疾走しつつ済州島付近に来たりし頃は、濃霧咫尺を弁ぜざる程(=近くても見えない程に)なりしも、同島とは数海里を隔てる沖合を航行しつつあることを確信(誤解)し、なおも疾走を続け居たるに、不幸にも最も済州島に近く航走し居たるベッドフォルド号は二十日朝(注:これは21日の誤り)、同島西南角に乗り上げたり。

何にせよ十九ノットの高速力を保ちしこととて、非常の勢いをもって岩角に衝突したる結果、前半部の二重底はことごとく破壊し去られたれば、見る間ににその損所より浸水し、その際ストックホールに在りて作業中なりし機関部員十八名はことごとく溺死するの不幸をみたり。』 (英国軍艦座礁情報, 『長崎新報』, 1910.8.23, p2)

すぐさまミノトール号(Minotaur)、ケント号(Kent)、モンマウス号(Monmouth)は停船し、座礁したベッドフォード号の救助にあたりましたが濃霧と荒浪の中、近づくこともままならず、二次災害の恐れもあり作業はなかなか進みませんでした。そこで旗艦ミノトール号とモンマウス号が事故現場に残る一方で、「同盟国の日本海軍に救助を求めよ」との特命を受けたケント号が単独長崎港へ向かったのです。

ケント号は仲間を救うため全速力で長崎を目指しながら無線で救難信号を発しました。それを大瀬崎無線電信局JOSがピックアップし、有線電信(福江-長崎間 海底ケーブル)を経由し海軍佐世保鎮守府へ救助要請が届いたのが5月21日の午後2時でした。

大瀬崎JOSからの通報でケント号が長崎に入港(21日夜)する前に、海軍は訓令を発して救助の準備活動を始めたほか、英本国へ事故が知らされて22日のThe Times紙(London Edition)が速報し、翌23日には各国の新聞がこれを取上げました。

『一昨夜(21日夜)無事(長崎に)入港したる同艦(ケント号)は佐世保沖航行中、無線電信にて(佐世保)鎮守府に情報を送りて救助を求め、当港入着後もそれぞれ交渉する所ありし結果、佐世保鎮守府にては一昨日(21日)芝罘丸に食料品を載せてこれを現場に急派し、さらに昨朝(22日)に至りて救難船猿橋丸、和泉艦および駆逐艦数隻を現場に急航せしめたる由。』 (英国軍艦座礁情報, 『長崎新報』, 1910.8.23, p2)

無線の状況については、佐世保鎮守府の出羽司令長官から斎藤海軍大臣への25ページの報告書「英艦遭難に関する第一回報告」(佐鎮機密第ニ四六号, 明治43年8月29日)の後半に”無線電信に関する件”が記録されています。

佐世保湾の入口にある海軍の向後崎無線電信所でも遭難信号が感応したものの、うまく受信できませんでした。大瀬崎海岸局が扱った第一報の後、海軍は向後崎無線電信所から直接通信を試みましたが結局断念し、逓信の大瀬崎海岸局に遭難通信をさばいてもらいました。当時の海軍通信士は英文に慣れていなかったようです。

『無線電信に関する件

向後崎無線電信所に於ては廿一日よりしばし英文の幾信を傍受するも、通信手の技量不慣のため完全なる受信を得ず。

また当方(佐世保鎮守府)より大瀬崎海岸局を介して英艦と通信を交換し得るも、英文の発信に慣熟せざると通信手の英字を解せざる為、本府(佐世保鎮守府)よりの発信文を向後崎に伝えるにも長時間を要するのみならず誤りを生じ易き為、廿二日に至り適当の将校を向後崎に派遣してもっぱら英文通信の任に当たらしめたり。

これがため信文の解読等には大なる便利を得なるも、英艦相互の通信並びに大瀬崎海岸局等の強勢通信に常に妨害せられし、かつ当時多量の空電のため遺憾ながら完全なる連絡を保持することを得ざるにより、遭難地と本府(佐世保鎮守府)との間はほとんど大瀬崎海岸局を介し、それぞれより有線電報により交通したり。 』

ちょうど同じタイミングで「韓国併合に関する条約」の調印式(8月22日)があり29日に発効したため、韓国と海を隔てて接する長崎県の"長崎新報"では連日、いわゆる"日韓併合"の話題に紙面の多くを割いていました。それでも地元紙の強みで座礁事件に関するローカル記事がいくつか残されています。長崎市の北川市長は23日午後にケント号を訪問し長崎市民を代表して慰問の辞を述べ、艦長は長崎市民の好意を謝し、直ちに無線電信で事故現場へその旨を伝え、救助活動を激励しました。ケント号は入港以来、事故現場の英艦との通信を担当し、英本国や日本海軍との橋渡しを行っていました。威海衛にいた英通報艦アラクリチー号は旅順鎮守府で富岡司令官と合同救助作戦を打合せたあと、済州島の事故現場に立寄ったのち、長崎に入港しました。ケント号と持ち場を交代するためです。ケント号の艦長は(着任したアラクリチー号の艦長を伴って)長崎市役所の北川市長を訪ねてお礼を述べた後、再び済州島の現場へ戻って行きました。以後、長崎-事故現場の通信はアラクリチー号が担当しました。

また日本の大瀬崎無線JOSは現場に急行中の駆逐艦和泉GIZや通報艦淀GYDとの連絡通信を行いました(鎮南浦で佐世保鎮守府より救援指令を受けた淀GYDは途中の仁川で英国領事を乗せて24日早朝に事故現場に到着)。このように日英が連携して(座礁時に亡くなった18名を除く)全員が救出されました(ベッドフォード号は損傷がひどく廃艦)。

この事件で使用された遭難信号について触れた文献はありません。英海軍はマルコーニ社と契約していましたからCQDを使ったのでしょうか?しかし日本にマルコーニ社の海岸局はないし、日本では逓信省が1908年(明治41年)5月1日より、また海軍省は同年10月28日より、国際的な遭難信号SOSを採用・施行していることは同盟国の英海軍なら良く承知していたでしょう。ケント号が日本の救援を取り付けるように特命を受けていたこと、大瀬崎無線JOSの至近圏から発信していることからも、日本の無線規則に合わせてSOSを使ったのではないでしょうか。

9月に入って、長崎市から犠牲者遺族への義援金が届けられたり、事故処理の方も一応の目途(大砲など重装備搬出の完了及び廃船の決断)がついたことから、長崎にいた中国小艦隊は、(喪中で延期されていた)東京訪問を決め、関門海峡から瀬戸内海に入り神戸港経由で横浜港に向かうことになりました。

『佐世保に碇泊中なる英国東洋艦隊(の隷下、中国小艦隊)のミノトール、ケント、モンマスの三艦中、ミノトール(ウインズロー司令官坐乗)、モンマスの二艦は近日同港(佐世保)抜錨、神戸経由二十二、三日頃横浜に来港すべき旨、海軍省へ公式に通告ありたり。横浜港には約一週間碇泊すべくその間海軍に於いて相当歓迎の意を表すべき計画なりしが、同提督よりは本国皇帝の大喪後、日も浅き事にもあれば遠慮する旨の申出もありたるやにて、斎藤海相との公式訪問交換その他一、二小規模の宴会を催さるるに過ぎざるべく。もっとも大使同伴参内の事はあるべしとなり。』 (東京『朝日新聞』, 1910.9.10, p2)

9月23日夜、東京の海軍大臣官邸で英国艦隊来航歓迎夜宴が催されました。日本側は斎藤実海軍大臣、伊東海軍元帥、井上大将、東郷大将、財部次官のほか諸将校が、英国側はウインスロー司令官および艦隊幕僚、英国大使、大使館附武官らが出席し、同盟国としての絆を深めました。もちろんベッドフォード号救助に対する日本への謝辞があったでしょう。さらに9月28日には天皇皇后両陛下への謁見が許されました。

『在京中なる英国支那艦隊司令官ウヰンスロー(原文ママ)提督は敬意を表する為め幕僚艦長等六名を従え同国大使マクドナルド氏同伴 二十八日午前十時三十分参内 両陛下に謁見仰せ付けられたり』 (提督謁見, 『読売新聞』, 1910.9.29, p2)

これ以後、逓信の遭難通信は多くの人命と財産を救いましたが、その公益性に鑑み1915年(大正4年)11月1日に施行された無線電信法第15條の定めにより無料電報の扱いとなりました。

『第十五條 公衆通信の用に供する無線電信又は無線電話に依る通信にして無線電信、無線電話、電信、電話、郵便、郵便爲替、郵便貯金の事務又は船舶遭難、報時、氣象報告に関するものは命令の定むる所に依り無料と爲すことを得 』 (無線電信法, 1915.11.1施行)

また大瀬崎無線JOSは1912年(大正元年)に逓信省初の「陸-陸」間実用公衆通信を取り扱ったことでも知られています。

『大正元、一一、一六 内地台湾間海底線普通の為、台湾富貴角無線電信局との間に臨時連絡を行い、内地台湾間発著一般電報を疎通す(無線電信を陸地間通信に実用したる嚆矢とす) 』 (逓信省編, 『逓信事業史』第四巻, 1941, p743)

1932年(昭和7年)11月16日、長崎県諫早への移転で長崎無線JOSに改称し、名門の血を受け継ぐ長崎無線JOSが西の海を守りました。

35) NHKのSOS聴取と、日本船初のSOS発信 [おまけ]

上記の大瀬崎無線JOSは遭難船を救助する側でした。また1904年5月15日、日本海軍の吉野が救援信号を発しましたが、それはSOS符号が制定される前の話です。ではSOSの時代となり、日本船籍のどの船がこの符号を初めて発したのでしょうか。

1955年(昭和30年)に「無線と実験」誌が放送開始30周年を記念して企画した座談会において、日本放送協会NHKで "時報の神様" と呼ばれた加藤倉吉氏と、逓信省が経営する官設無線局の元通信士だった伊藤豊氏の会話を引用します。

加藤 波長の話が出ましたので申しますが、あのころ放送局でSOSを聞いたので放送を止めてエラクほめられたことがありました。東京は375m、名古屋は365m、大阪は385mで放送しているのに、なぜ600mでSOSが出ると放送を止めないといけないのかと不服をいってくる人もありましたが、オペレーターが放送は面白いものだから、ついその方をワッチしたがる。 ― それで放送の方で「いまSOSが出ていますから、しばらく連絡のつくまで中断します」というと、そら大変だと、わが身につまされて遭難信号の方を聞くということもあるからです。

伊藤 そうです。当時、放送局はSOSを常にワッチしている義務がありましたね。しかしこれはあとで、放送のないときだけワッチすればよいよいうように緩和されましたに。SOSの話が出ましたが、船がSOSを最初に打ったのは私です。大正5年に東洋汽船の豪華船で"海の宮殿"といわれていた地洋丸の局長をして、香港の近くで座礁しました。ちょうど香港(ケープ・ダギラー海岸局VPS)との通信を終わった直後でしたから、SOSを打つとすぐに香港が応答してくれました。これはタムカム島といって、この辺りは有名な海賊の巣窟ですから、まもなく駆逐艦がかけつけて来てくれました。 』 (座談会「30年前のラジオを語る」, 『無線と実験』, 1955.10, 誠文堂新光社, p100)

マニラから香港に向かっていた地洋丸(呼出符号JCY)は1916年(大正5年)3月31日午前4時半、香港沖の担杵(タムタム)島北東端で座礁し、同船の無線局長だった伊藤豊氏が日本船として最初にSOSを発したそうです。午前8時に英国駆逐艦ホワイティングが現場に到着し、全乗客229名が助けられ、3時間後には香港に到着しました。英国軍艦と日本から派遣された軍艦笠置と明石などが離礁させようと懸命に努力しましたが、損傷がひどく最終的に廃船と決まりました。

無事帰国した伊藤局長は読売新聞のインタビューに対し、次のように述べています。

『 地洋丸擱座(かくざ)当時の乗組員の努力は称賛に値するものがあったが、殊に付近のキープ・ダキニア郵便局(ケープ・ダギラー海岸局VPS)の敏捷な活動と適当の処置は実に驚嘆すべきもので僅々五分間内に救助船派遣その他の手はずを小官(=官吏が自分をへりくだって言う一人称)と打電し合う事を得たのは過去に於いて未だかつて見ざる所である。なおまた英国軍艦が数日にわたる激浪怒濤と闘って救援に従事し、かつ近海に出発する海賊の警戒に任じてくれた事は香港および付近官民の深厚なる同情と共に感謝に堪えない。』 (乗組員の努力 地洋無線局長談, 『読売新聞』, 1916.4.26, 朝p6)

36) 角島JTSは1908年12月に第二電信丸のSOSを受けたのか? [おまけ]

以前から気になっていたことがあります。Webで偶然目にした『1908年(明治41年)12月18日、山口県の日本海側にある角島無線電信局JTSが第二電信丸のSOSを受信し、日本初の遭難通信を行った。』という記事です。

1908年といえば逓信省が無線電報サービスを開業した年です。同年5月に1海岸局(銚子無線JCSと、3船舶局(天洋丸TTY、丹後丸YTG、伊予丸YIY。6月に3船舶局(加賀丸YKG、安芸丸YAK、土佐丸YTS。7月に3海岸局(角島無線JTS、大瀬崎無線JOS、潮岬無線JSM)と、2船舶局(信濃丸YSN、香港丸THK。少し時間を置いた11月に1船舶局(日本丸TNP。12月に1海岸局(落石無線JOIと、1船舶局(地洋丸TCYという、5海岸局と10船舶局で我国の海上移動の公衆通信(無線電報サービス)が始まったのは有名な話です。

それにも拘らず、『1908年12月18日に角島無線JTSが第二電信丸のSOSを受けた』とあります。「第二電信丸?そんな船舶局が1908年に開局したなんて記録はないけど・・・」と、どうにも腑に落ちません。そこで思い出したのが、銚子無線JCSが開業前に逓信省ケーブル敷設船「小笠原丸」と通信試験を繰返していた件です。もし無線を装備していたにも拘わらず、無線史には残らなかった船があるならば、それは逓信省のケーブル敷設船でしょう。そもそも「第二電信丸」という船名が、"海底ケーブル敷設船" を連想させますしね。

ということでモヤモヤしたまま、この件を長く放置していましたが、先日、我国の電波正史ともいえる日本無線史(第四巻)の角島無線JTSのページに以下の一文を発見しました。

『明治四十一年(1908年)十二月二十八日未明、第二電信丸が当局沖合で沈没した時、初めて遭難通信を取扱った。』 (電波監理委員会編, 『日本無線史』第四巻, 1951, 電波監理委員会, p46)

おおっ!やっぱり事件は史実だったんだ。でも「第二電信丸」って逓信省の船なの? そこで当時の新聞を調査してみるとすぐに "第二電信丸沈没(大阪)"(『東京朝日新聞』, 1908.12.30, p2)という記事が見つかりました。大阪経済界の重鎮で "海運長者" の、尼崎伊三郎氏が所有する第二電信丸(306トン)が12月28日午前4時40分に山口県角島付近で沈没したそうです(Webでいう12月18日は28日の誤りでしょう)。

それにしても、「第二電信丸」は民間企業の船ではありませんか!当時の無線に関する法律「電信法」には『無線電信は政府が管掌する』と定められており、民間船会社が無線を装備することは禁じられており、逓信省が民間企業の船に船舶局を開設し、逓信省の通信官吏(無線通信士)を派遣することになっていた時代です。

もし本当に第二電信丸が無線を積んでいたのなら、それは不法無線局です。そして民間の無資格者が無線を操作していたことになります(民間人は無線通信士にはなれなかった時代)。これはどう考えてもおかしいです。民間船の第二電信丸が無線を装備しているはずがありません。

東京朝日新聞によるとこれは大阪発の記事とのことなので、大阪朝日新聞を調べると、非常に詳しく報じられていました。まず29日に"電信丸沈没"という速報記事(p2)があり、30日に"汽船沈没の詳報"という長い記事(p2)が、そして31日にも"電信丸沈没後報"という記事(p7)がありました。島民総出で行方不明者を捜索中のようです。

第二電信丸は大阪の「尼崎汽船部」という会社の船で、大阪港から瀬戸内海そして関門海峡を経由し、日本海側の鳥取県境港までの間を途中のいくつかの港に立ち寄りながら往復していました。なにしろ鳥取県は周囲と接続のないスタンド・アローンの鉄道(境港-米子-鳥取)がやっと開通したばかりで、大阪からの交通手段は(船以外だと)、1週間かけて中国山地を歩いて越えるしかありませんでした。

【注】図は現代の国土地理院地図です。

事故は鳥取県境港から大阪への帰路、角島の東2海里付近にて船底を暗礁に三度こすり、浸水で沈没したものでした。12月31日の記事(大阪朝日)では、生存者は船員27名中8名、乗客20名中1名で、まだ乗客5人の遺体しか見つかっていません。乗客で唯一生き延びた方は島根県の浜田港より乗船した佐世保海兵団の水兵で、年内に佐世保へ帰任するために乗っていました。

また別の大阪毎日新聞に注目すべき記事を見付けましたので引用します。この乗客は角島無線JTSのアンテナを目印にして島まで泳ぎ着き、朝七時に角島無線JTSの局員により救助されたが、局員たちはそれまで沈没事故のことを知らなかったと報じているではありませんか!無線でSOSを受けたのではありませんでした。

『 海軍水兵一名生存し・・・(略)・・・生き残りたる水兵は船の沈没するや、いち早く材木に取りすがり、角島無線電信局を目当てに泳ぎ付く所を、電信局にて認め救助したるものにて、その時初めて電信丸の遭難を知りたるも既に遭難後三時間を経過し午前七時なりしと。』 ("電信丸遭難者", 『大阪毎日新聞』, 1908.12.29, p1)

どうも日本無線史(第四巻)に記録された1908年12月28日に角島無線JTSが取扱った遭難通信とは、(船との無線通信のことではなくて)行方不明者の捜索活動に必要な人材や資材の手配などを、JTS局舎に接続されている「特牛(こっとい)-見島」海底線で対岸側と連絡取り合っていた通信のことを指しているようです(有線電信)。そういえば日本無線史には「船からのSOSを扱った」とは書かれていませんしね。

以上を総合的に判断すると「角島無線JTSは1908年12月にSOSを扱っていない」と結論付けてよさそうです。

37) CQのフランス語 起源説について [おまけ]

CQという符号の歴史に関して、米国のアマチュア団体ARRLの見解はどうなのでしょうか?

ARRLのWebサイトに「ハムラジオの歴史」"Ham Radio History"というページがあり、その下方"Historical Terms"のCQの項の + をクリックしたものが左図です。

『 The telegraph call CQ was born on the English Telegraph over a century ago a signal meaning "All Stations. A notification to all postal telegraph offices to receive the message." 』

CQは一世紀以上も前に誕生した英国の通信符号だとし、ARRLでは前述した「電信ハンドブック」にある説明文を支持しています(100% 同文です)。

CQは郵便電報局の「全局呼出」の符号として誕生しましたが、文末でごく短く 『 From the French, sécurité, (safety or, as intended here, "pay attention"). 』 「フランス語の sécurité から来た (安全、ここで意図したのは"注意せよ") 」 と語源にも触れています。この一行以外の説明はありません。

Sécurité と発音が似ていたCQに、その"Attention"的な意味合いを当てたといっているようです。それが"All Stations"の範疇から外れているとは思いませんが、もし「安全確保」からきた「注意喚起」なら、むしろ遭難信号のルーツ的な印象を受け、郵便電報局の全局呼出に前置するような符号とは少々毛色が違うように感じます。はたしてCQ誕生当時の「文頭の説明」(赤下線部)と、フランス語を由来だとする「文末のひと言」(緑下線部)とは整合性というか、連続性が取れているのでしょうか?

それに出典も明示されていません。従って sécurité 説の出典にARRLサイトを挙げても適格性を欠くでしょう。どこか他に出所があるはずです。そこで私も調べてみたところ、船舶および航空局の無線電話の用語である安全信号「セキュリテ」 (無線電信ではTTT)の記事ばかりでした。それでもCQ = sécurité とする、近年になって出版された海外書籍を数冊見つけることができたのですが肝心の出典が明記されておらず、この件は調査継続とします。

sécurité 説の根拠を示せるようになるまで、当サイトではこれを俗説のひとつとさせていただきます。

38) 日本のCQの歴史 TからSOE/EOS そしてCQへ [おまけ]

ここで日本のCQ符号(全局呼出)の歴史をまとめておきます。

我国では1894年の軍用電信法(明治27年6月6日 法律第5号)および1900年の電信法(明治33年3月14日 法律第59号, 同年10月10日 省令第77号)をもとに、海軍大臣・陸軍大臣・逓信大臣のそれぞれが所管する無線局の許認可権を持っていました。これは1915年の無線電信法(大正4年6月21日 法律第26号)以降になっても同じです。

【注】 戦前の日本では無線を逓信大臣に一任せず、「政府が管掌す」としたうえで、電波三省による陸軍海軍逓信三省会議による合議制とし、それぞれの「主務大臣」(=海軍大臣・陸軍大臣・逓信大臣)により開設が許可されました。

● 最初の全局呼出し符号 T (1901年制定)

1901年に海軍省により定められた『無線電信通信取扱規則』 (1901年[明治34年]11月13日, 海軍省内令第143号)を我国の無線規則のはじまりとします(逓信省ではまだ無線を実用化していないので未制定)

第16条で日本最初の全局呼出し略符号「― 」(コンチネンタルモールスで"T"、和文モールスで"ム")が定められました。全艦(船舶局)全望楼(海岸局)への全局呼出しです。

『第十六條 同時に艦隊艇隊等を呼出すには左の呼出略符号を用いるものとす

艦隊を呼出すには A イ

駆逐隊を呼出すには E ヘ

艇隊を呼出すには Z フ

総望楼を呼出すには Q ネ

総艦船、総望楼を呼出すには T ム

第十七條 艦隊、駆逐隊、艇隊および総望楼の中 その二者もしくは三者を呼出すには前條の略符号を併用するものとす

その例左のごとし

艦隊および艇隊を同時に呼出すには AZ イフ

艦隊、駆逐隊および総望楼を同時に呼出すには AEQ イネヒ 』

● ドイツ式全局呼出しSOEとその変形EOSの採用 (1908年制定)

1905年4月1日よりドイツが全局呼出しSOEを改良したSOSを遭難符号に採用したことを、海軍省の木村駿吉氏がいち早く日本に伝えましたが、日露戦争の真っ只中なので「我国でもSOEやSOSを採用しよう」との動きはありません。それどころか戦時体制のため『無線電信通信取扱規則』は1905年3月に一旦廃止されていたぐらいです。

1905年9月5日、ポーツマスで講和条約に調印されました。第一回国際無線電信会議をベルリンで開こうとしていたドイツ皇帝は日露戦争の終結を待って、1906年にベルリンへ集まるよう各国に招へい状を送りました。1903年のベルリン予備会議の際には(まだ無線電報ビジネスが創業されていない)日本は招かれませんでしたが、今回は我国にも声が掛かりました。日露戦争以来、海軍省の実戦通信に妨害を与えないよう逓信省の無線実験は中断されていましたが、終戦および国際無線電信会議を来年に控えて、我国でも無線電報ビジネスを創業しようとの機運が高まりました。逓信省の中山龍次技師をドイツや英国へ派遣し、先進国の無線制度を調査しました。

そして1908年4月9日に第一回ベルリン国際無線電信会議(1906年)に準拠した逓信省の無線規則『無線電報取扱規程』 (明治41年[1908年]4月9日 逓信省公達第341号)でSOSとともに、逓信省の全局呼出しにはドイツ式の「SOE」を採用しました(第6, 13條)。

『第六條 伝送上に用うる特殊の略符号 左の如し 但し誤謬始信及終信の略符号は欧文電報に限り之を用うべし

危 急 ・・・― ― ― ・・・

探 呼 ・・・― ― ― ・ (SOE)

局名前置 ― ・・ ・

可 送 ― ・―

誤 謬 ・・・・・・・・

(以下略)

第十三條 船舶局通信距離内にある海岸局名もしくは他の船舶局名を知らんとするとき又は海岸局通信距離内にある船舶局名を知らんとするときは探呼符号および自局名符号(=自局コールサイン)を反復すべし』

ベルリン会議では遭難符号SOSを決めましたが、全局呼出しの符号は定めていません。結局、日本の逓信省は1905年4月1日に施行されたドイツの無線規則(遭難:SOS、全局呼出し:SOE)を取り入れました。

また海軍省は『海軍無線電報取扱規約』 (明治41年[1908年]10月28日 海軍省達第129号)で海軍艦船と逓信省局間のいわゆる異省間で行われる公衆電報のための全局呼出しを「EOS」と定めました(第8, 14條)。

(海軍局間では公衆電報を扱わないため)海軍省は公衆電報用の全局呼出し「SOE」符号を使いません。もし「SOE」が聞こえたらその発信者は逓信省局だと一意に判断でき、これは逓信省局を呼んでいるものなので海軍省局は応答する必要がありません。現代のアマチュア無線風にいえば「CQ逓信省局」という感じでしょうか。そして逓信省局が発する「EOS」なら「CQ海軍局」の意味で、海軍省局が発する「EOS」ならば「CQ逓信省局」です。

『第八條 無線電信伝送上に使用する特殊の略符号は左の如し

危急 ・・・― ― ― ・・・

探呼 ・― ― ― ・・・ (EOS)

(以下略)

第十四條 海軍艦船その通信距離内にある逓信省所属無線電信局名を知らんとするとき又は逓信省所属無線電信局その通信距離内にある海軍艦船名を知らんとするときは探呼符(・― ― ― ・・・)および自局(艦船)名略符号(=自局コールサイン)を反復すべし』

こうして日本では全局呼出し符号にSOEEOSが用いられるようになりました。

● 国際符号CQの採用 (1913年10月10日改正/同年11月1日施行)

1912年7月のロンドン第二回国際無線電信会議で全局呼出しにCQが採択(発効1913年7月1日)されたことを受け、逓信省の『無線電報取扱規程』にあるSOEと、海軍省の『海軍無線電報取扱規約』にあるEOSを、国際符号のCQに改める必要が生じました。

海軍省が定めてきた『海軍無線電報取扱規約』が1913年10月10日の改正(海軍省達第126号)でEOSがCQになり、同日付けで逓信省に移管され失効しました。逓信省の『海軍無線電報取扱規約』 (大正2年[1913年]10月10日 逓信省公達第607号)として生まれ変わったのです(名前は同じ)。公衆電報は逓信省の専業ビジネスなので逓信省により規定されるのが妥当とされたのでしょう。

その新しい『海軍無線電報取扱規約』で探呼略符号をCQに改めました。施行日を1913年11月1日としました。

『第六條 無線電信伝送上に使用する特殊の略符号は左の如し

危急 ・・・― ― ― ・・・

探呼 ― ・― ・ ― ― ・―

(以下略)

第十三條 海軍艦船その通信距離内にある逓信省所属無線電信局名を知らんとするとき又は逓信省所属無線電信局その通信距離内にある海軍艦船名を知らんとするときは先ず探呼符(― ・― ・ ― ― ・―)を送り次いで第九條に準ずる通信を行うべし

第十四條 前條の探呼符を感じたる艦船(局)は第九條第二項に準じ応答をなすべし』

【参考】 第9条には一般的な呼出し・応答方法を規定

一方で逓信省の『無線電報取扱規定』の方ですが、同じく1913年10月10日にCQに改正されています(逓信省公達第609号)。施行日はやはり1913年11月1日です。

『第六條 伝送上に用うる特殊の略符号 左の如し 但し誤謬始信及終信の略符号は欧文電報に限り之を用うべし

危 急 ・・・― ― ― ・・・

探 呼 ― ・― ・ ― ― ・―

(以下略)

第十三條 船舶局通信距離内にある海岸局名もしくは他の船舶局名を知らんとするとき又は海岸局通信距離内にある船舶局名を知らんとするときは探呼符号を用い第九條第一項に準じ呼出をなすべし』

【参考】 第9条には一般的な呼出し・応答方法を規定

その他、1915年10月の逓信省公達第589号でも、この第6條が改正されていますが、私は未確認です。

【参考】 CQは第二回ロンドン国際無線電信会議(1912年)の附属業務規則第25条(3)に音列シーケンスで記されたが、附表の方にはカッコでCQという文字が書き込まれた(下図は仏語原文。なお国会で批准する際の日本語訳は『自局の通信圏内にある船舶の名を知らざるも これと通信を開始せんと欲する局は-・-・ --・-なる符号(探呼符号)を使用することを得』です)。

39) SOEからSOSが作られた時期の異説について [おまけ]

1906年(明治39年)の第一回ベルリン国際無線電信会議で、ドイツ政府は(前年にSOEの最後の一文字を変えた)国内符号SOSを国際符号SOSとして提案しました。しかし「ドイツはベルリン会議でSOEを提案したが、短点Eが混信に弱いので、Sに変えた。」といった趣旨の説も、実は昔からあります。

もしドイツが1906年のベルリン会議でSOEを国際提案したのなら、1905年(明治38年)に自国の規則でSOSを制定しておきながら心変わりしてSOEの方を提出したことになります。それなのに「やっぱりEが間違いやすいからSOSだよね」と自らの提案をひるがえしたのでしょうか?なんとも不自然で、しっくりこない説だといわざるを得ません。でも昔はこれが不自然ではありませんでした。アメリカではドイツの国内規則が知られていなかったからです。

ドイツでSOSが制定された1905年の無線規則は、ドイツの国内法であり、ドイツ語だったからなのか(?)、アメリカで取り上げられたのは随分とあとの時代になってからのようです(未だにこの話題に触れていない文献さえあります)。日本のように、はやくも1905年中に(木村駿吉氏によって)その日本語訳が伝えられたのは世界的には異例のことでした。

無線遭難信号の歴史に触れた初期の記事は米国のThe Technical world誌1911年5月号にCharles Frederick Carter氏が書いた"World’s Debt To Wireless, in"(The Technical world [Chicago], p326-335)や、書籍としてはPaul Schubert氏のThe Electric Word:the rise of radio (The Macmillan Company [New York], 1928)を挙げる事ができます(pp60-62)。

しかし国際無線会議での討議の様子に踏み込んだ最初のものは、おそらく米国のRadio News誌1924年(大正13年)9月号の"How the SOS Originated"(SOSはいかに始まったか)という記事ではないでしょうか。90年以上も前のもので、この記事こそが「(1短点)Eを(3短点)Sに変えた」という逸話のルーツです

記事"How the SOS Originated"は米国商務省航行局(Bureau of Navigation of the Department of Commerce)がSOSの歴史を調査するにあたり、国際会議の中で遭難信号SOSがどのように討議されてきたかを万国電信連合ベルン総理局(International Bureau of the Telegraph Union:国際無線電信連合の総理局も兼務) に問合せて得た回答を参考にしながら、Radio News編集部がマルコーニ社の動向も含めて独自にまとめたものです。

けして大きな扱いではなく、9月号の最後の方のページにひっそりと置かれたものですが、「(1短点)Eを(3短点)Sに変えた」という話は脈々と現代まで引用され続けています(でも内容は伝承過程で変形しましたが・・・)。

総理局からの情報をもとにした記事ですから、1903年のベルリン予備会議(SSSDDDの提案)と1906年のベルリン会議(SOSの提案)の様子が詳しく書かれています。たとえば世界初の遭難信号SSSDDDは"各国の代表より賛意は得られた"ものの、採決には至らなかったという記述もありました。

ただちょっと残念なのは、どの部分が(総理局の)オリジナルで、どこがRadio News誌編集部の作文なのか区別が付かないことでしょうか。

ではベルリン会議に関する部分を引用します。

『 At the Radio Telegraphic Conference in Berlin in 1906 the German Government submitted the following suggestions relative to a standard distress call: "Ships in distress will make use of the following special danger signal: ・・・― ― ― ・・・(SOS)." Previously German ships desiring to communicate with all vessels in their proximity without knowing their names or calls, would send an inquiry signal "SOE." Germany planned to suggest this signal as the international signal, but as the last letter, "E," represented by a single dot, was not believed sufficiently characteristic, being easily susceptible to loss, especially during atmospheric disturbances or in heavy traffic, or when carelessly transmitted. The delegates in 1906 suggested the final letter as "S," thereby having the honor to define what became the universal signal, "・・・― ― ― ・・・ " ( "SOS "). 』 (How the "SOS" Originated, Radio News, Sep.1924, Experimenter Publishing, p435)

参考までにざっくり意訳してみますが、あまり信用せずに、ご自身で英文解釈をお願いします。4つの訳文に分けて眺めてみましょう。

まず1)でお題目を掲げておき、2)で数年前へタイムスリップします。2)3)はドイツ国内規則の制定直前の状況を示していることから、1905年3月までの時期だろうと考えられます。

そして本当なら3)と4)との間に、「3-b) ドイツはSOEの「E」を「S」に変えたSOSを遭難信号に制定して、1905年4月1日に施行した。」のような文があって、4)のベルリン会議(1906年)で、国内符号SOSを世界符号SOSとして提案されたと続けられるべきでしょう。

しかしこの記事は「遭難信号を国際会議でどう討議してきたか」を万国電信連合総理局が説明したものがベースになっています。万国電信連合総理局は、あくまで国際会議でのことを語ったわけで、加盟国のローカル・ルール(ドイツで制定された国内規則)のことなど、いちいち触れる気はなかったようです。なので3-b)のような記述はありません。

そのため3-b) がないと、上記1)~4)の全てが1906年のベルリン会議(およびその直前)の事とも受け取れます。すなわち「ドイツはベルリン会議に挑む直前になってEをSに変えて提案した」というような解釈が芽生えた可能性があります。

さらにRadio News誌1928年(昭和3年)4月号の "When the SOS Flashes!" という記事が、上記の国際会議を中心にしたSOSの歴史に、民間での遭難事件を加えて総合的にまとめました。

筆者のO.E. Dunlop Jr.氏は遭難信号の歴史を、1899年(明治32年)4月28日にマシューズ号がイーストグッドウィン灯台船に衝突した事件からはじめました。

『 Do you know the evolution of the cryptic "SOS" that silences your radio?

It really begins with the first marine accident to be reported by "wireless," on April 28, 1899 (long before the days of broadcasting), when the steamer R. F. Mathews collided with the East Goodwin Sands Lightship, off the coast of England. 』 (Orrin E. Dunlop Jr, When the SOS Flashes !, Radio News, Apr.1928, Experimenter Publishing, p1109)

そして1903年(明治36年)のベルリン予備会議で遭難信号SSSDDDの提案があったことに触れたあと、1904年(明治37年)1月7日のマルコーニ社の社内通達第57号で、2月1日より同社がCQDを使い始めたことを紹介しました。ここまではどなたも異論ないでしょう。

しかしこのあと1905年のドイツの無線規則でSOSが制定され件には全く触れないまま、いきなり1906年のベルリン会議の話題に飛んでしまうのです。O.E. Dunlop Jr.氏はベルリン会議より先に、ドイツではSOSが制定されていたことを知らずに、"How the SOS Originated"(SOSはいかに始まったか)の記事をほぼそのまま引用したようです。

『 At the Radio Telegraphic Conference in Berlin, in 1906, the German government suggested "SOS" to replace "CQD."

German ships had previously used a call "SOE" when they desired to communicate with all other vessels within range.

Since the letter "E" consists of only one dot it is easily susceptible to loss by interference; so the delegates suggested that "S" be used as the last letter. 』 (Orrin E. Dunlop Jr, 前掲書, p1160)

これもざっくり意訳してみますが、正確な訳はご自身でお願いします。

『 1906年のベルリン無線電信会議で、ドイツ政府は「CQD」を「SOS」に代えるように提案しました。

ドイツ船は通信圏内の全船を呼び出したい時には従来より「SOE」を使っていました。

文字「E」が1短点だけなので、混信があると取りこぼしやすい; それでドイツ代表は、最後の文字を「S」にして提案しました。 』

「ドイツはベルリン会議でSOSを提案した」

→ 「ドイツ船はSOEを使っていた」

→ 「文字Eは混信に弱い」

→ 「ドイツはEをSにして、SOSを提案」。

これは(文章は短めに要約されてはいますが)前述した"How the SOS Originated"と構成がまるっきり同じです。

この文章の流れだと、「E」を「S」に変えたのはベルリン会議への提案時だろうと読者に解されても仕方ないですね。ドイツの国内規則に触れていないので、普通に読めばそう受取れます。

SOEの最後の短点がSにとって変えられた件はこうした無線雑誌だけでなく、一般新聞で紹介されたこともありました。

左図は1940年(昭和15年)1月24日のテキサスの新聞The Victoria Advocate(p2)です。連邦通信委員会FCCが報告書で、第二次世界大戦の戦闘地域では国際規則で決められた「SOS」の代わりに「SSSS」が使われていると発表した記事 『Radio Operators Using 'SSSS' Now to Replace 'SOS'』の最後にそういう説明があります。

『In 1906, however, at the International Radio Conference the call SOS was formally adopted. This combination was the outgrowth of a call witch had been used by German ships, SOE (dot-dot-dot, dash-dash-dash, dot-dot-dot). The SOE signal was unsatisfactory because the final dot was easily obliterated by interference. 』

(マルコーニ社はCQDを使っていた)しかし1906年、国際無線電信会議でSOSが正式に採用されました。この組合せは、ドイツの船により使用されたSOE呼出から分家したものでした。SOEは最後の点が混信で簡単に失われるため不充分だったからです。 』・・・訳すと、まあこんな感じでしょうか。

ちなみに無線雑誌Radio Craft(1940年3月号, Radio Craft Publications, p515)も" SSSS or SOS? "というタイトルでこの話題を取上げ、さらにSOEの短点の話に触れていますが、この部分は新聞とほぼ同じ文面です。

『At the 1906 International Radio Conference at Berlin, however, ‘SOS’ was formally adopted. This combination was the outgrowth of SOE (・・・― ― ― ・) which had been used by German ships but which was somewhat unsatisfactory because the final dot was easily obliterated by interference. 』

このようにアメリカでは(ドイツの国内規則のことが広まっておらず)、1924年の"How the SOS Originated"や、1928年のO.E. Dunlop Jr.氏の記事が、次へ引用され、またそれが引用され・・・と繰り返す中で、「ドイツが1906年のベルリン会議でSOEを提案したが、これをSOSに代えた」と変形してしまったというのが真相ではないでしょうか?

近年ではベルリン会議に英国CQD案、米国NC案、ドイツSOE案の三案が出され、その中からSOEが勝ち残り、最終的にSOSになったという話にパワーアップしています。なお1906年ベルリン会議にSOEが提案されたという説を紹介する際には、1905年にドイツが国内法でSOSを制定したことには"触れない"という特徴があるようです。触れると理屈が破たんするからでしょう。

とにかく1905年4月1日にドイツが「SOS」符号を施行したのはきちんと歴史に記録されていますので、EをSに変えた時期は1905年としか言いようがありません。それに「Eが混信に弱いからSにした」の総ネタもと、"How the SOS Originated"(1924年)は「1906年のベルリン会議でドイツがSOEを提案した」とは一言もいっていません(1906年のベルリン会議にはSOSを提案したといっています)。

40) 米国マルコーニ社はスラボニア号はCQDを使ったと言っている [おまけ]

スラボニア号は(SOSではなく)CQDを使ったとする米国マルコーニ社(Marconi Wireless Telegraph Co., of America)の資料を見つけました。下図は"モールス・キーと電信の世界"(魚留元章, 2005, CQ出版社, p95)に使われた「写真3-51 マルコーニ・シグナル"SOS"」です。

顔写真[左]はスラボニア号のStanley Coles通信士、顔写真[右]はリパブリック号のJack R. Binns通信士です。多くの人命を救った、マルコーニ社が誇る(救命の)花形通信士のお二人ですね。

さてここには次のように書かれています。

「 C Q D

-・-・ --・- -・・

上記は1909年1月23日のリパブリック号の遭難で使われたマルコーニ・シグナルです。

この信号は1909年6月10日にアゾレス海でスラボニア号が遭難した際にも役立ちました。」

『 Above is the "MARCONI" Signal of Distress used in summoning aid to the sinking Republic, Jan. 23d, 1909.

This Signal was also instrumental in bringing help to the S.S. Slavonia, wrecked at the Azores, June 10th, 1909. 』

本資料の出典は不明ですが1909年の両事件の直後で、かつ1912年のタイタニック号事件の前に発表されたものだと想像します。

スラボニア号の無線局はマルコーニ局です。そしてマルコーニ社が「スラボニア号はCQDを使った」と言っているのですから、もうこれで決着が付いたのではないでしょうか。SOS第一号は昔から言われるとおり、アラパホ号のUWT局(呼出符号VB)でしょう。