J1AA

1925年(大正14年)4月8日。逓信省岩槻無線局 J1AAが、アメリカのU6RW局と交信。初の短波による外国との通信成功。』 これもWeb上で良く見かける記述ですが本当にそうなのでしょうか?

4月8日説のもとになったのは日本無線史に掲載された6RW局のQSLカードの交信日が4月8日だったからだと想像されますが、日本無線史をよく読んでみると、この6RWのQSLカードが日米初交信のカードだとは一言もいってません。単にJ1AAに来たカードの一例だとしているだけです。それに初交信は「4月のある日の翌晩」だと日本無線史(の本文)には記されています。

私は日米初交信日は1925年4月6日で、相手局は6BBQ だと考えています。この話題を取上げるにあたり、逓信省通信局(後の工務局)によりなされた我国の短波開拓の歴史から書きはじめます。なお岩槻J1AAの開局後の活躍はJ1PP J8AAのページご覧下さい。

1) 1906年(明治39年)第一回国際無線電信会議 (ベルリン会議)

1906年(明治39年)10月3日より11月3日、世界30カ国の電波主管庁がドイツのベルリンに集まり、一般公衆通信(電報)の取扱いに関する第一回国際無線電信会議が開かれました。この会議で国際無線電信条約 付属業務規則(Règlement de service annexé à la Convention radiotélégraphique internationale)が締結されて、周波数500kHz(波長600m)と1,000kHz(波長300m)を一般公衆通信を行なう海岸局と船舶局間の通信波としました。合わせて海岸局の遠距離通信や一般公衆通信以外の無線に対して周波数188kHz未満(1600m以上)か周波数500kHz以上(波長600m未満)を使うように定めたのが国際ルールの始まりです。米国では1910年6月24日、船舶無線法(Wireless Ship Act of 1910)を制定しました。

2) 1912年(明治45年)第二回国際無線電信会議 (ロンドン会議)

1912年(明治45年)4月15日、豪華客船タイタニック号が氷山にぶつかり沈没しました。2カ月後の1912年6月4日から7月5日まで、世界45カ国がロンドンに集まり開催された第二回世界無線電信会議では、1906年のベルリン条約の内容では不充分だったとし、海岸局と船舶局の運用規則をさらに詳しく決めた新しい国際無線電信条約 付属業務規則(Detailed Service Regulations Appended to The International radiotelegraph Convention)を採択しました。

周波数分配は、有線通信が不可能な海岸局と船舶局の電波と、大陸間国際通信用を決めた程度です。まだまだ陸上通信は有線通信会社の独占下で、無線ビジネスは海上移動の船舶局との通信が中心でしたので、陸上無線は(国際的に取決める必要もなく、軍事局とともに)各国の完全なる自由とすることが、条約第21條で保障されました。

周波数188kHzから500kHzまでは公衆通信(商用局)の使用が禁止されました。公衆通信以外の「陸-陸」局などほとんど無い時代ですから、188-500kHzが事実上の軍用バンドでした。

3) 1919年(大正8年)パリ無線専門委員会 (戦勝四大国)

1912年のロンドン会議では5年後の1917年(大正6年)に、ワシントンで第三回国際無線電信会議を開催すると合意しましたが、第一次世界大戦(1914-1918)で延期されていました。1919年(大正8年)、大戦終結に対するパリ講和条約締結の直後に、時代遅れになっている国際無線電信条約と附属規則の改定が目的で、米・仏・英・伊の無線専門委員会がパリで開かれ、米仏英伊 国際無線電信議定書("EU-F-GB-I Radio Protocol" of August 25, 1919)と付属議定書("Annexes to Protocol" of April 15, 1919)をまとめました。

この会議に何故に連合五大国のメンバーである日本が参加しなかったかを後で調べたところ、この会議の開会当時はパリ日本大使館員が出席していたが、専門のことがわからないらしく中途から出席しなくなったとのことであった。ともかくこのパリ会議で起草された議定書を基礎として、大正九年ワシントンにおいて連合五ヶ国だけの国際電気通信予備会議が開催されることになったのである。(穴沢忠平, "長波獲得に努力する各国と三省協議会", 『逓信史話(上)』, 1962, 逓信外史刊行会, p15)

4) 電気試験所第二部無線電信係 と通信局工務課の競争

以上のような国際情勢の中、我国はどのような状況だったのでしょうか。

大正前期は(スペクトラムが広く、すぐ消滅する)火花式電波から、電話にも使える持続式電波へ切替えるため、各国で盛んに無線研究が行われていました。逓信省における無線研究は外局の電気試験所の所管であり、ここには鳥潟右一氏(T)・横山英太郎氏(Y)・北村政次郎氏(K)らによる、有名なTYK式無線電話の研究グループがいました。

一方で官設無線局の設計・建設・保守を行っていた本省通信局工務課の稲田三之助課長のもとには、電気試験所から佐伯美津留技師が移籍しており、通信局「工務課無線係」は、電気試験所「第二部無線電信無線電話係」と無線技術の先陣争いを繰り広げていました。佐伯氏は独学でまず実験の上に理論を立てられる人で、自信も強く、(研究畑の)鳥潟博士には同調できなかったといわれています。

機器を製造する安中、帝国無線、日本無線、東京無線等という会社は研究設備もない小工場であるため、佐伯技師は官吏練習所の実験室を根拠とし、新しい方式の研究に専念し、回転式瞬滅火花間隙の改良や電弧式発振機等を発表し、自らの手で無線局を建設していたので、研究のみに専念する試験所の鳥潟博士との間には絶えず論議を繰返し、周囲の者も半分は物珍らしさにその確執を大げさに宣伝するような傾向にあったことは否めないと思うが、これらの競争が逓信省の無線技術を向上した基因になったことには疑いない。

しかし実際両者の間で世間の人の目に残るような大論争をなしたのは、大正六年(1917年)十二月二十日、逓信官吏練習所の講堂で電気学会主催の佐伯技師の講演会であった。演題は「現時の無線電信電話について」というので、傍に無線電話の実験を観覧に供するという注がついておった。私はたまたま大学の二年生であったが学会の准員にもなり、また無線にも興味があったので、小石川の家から芝公園の会場まで行った。会は夜六時に始まり、山川義太郎博士(東京大学教授)が座長となり、出席者も会員八三、准員七二、傍聴一〇六といった当時稀にみる盛会であった。

佐伯技師は多くの図面を掲げ、氏の研究である回転瞬滅火花間隙の優秀性やカウンターコイルを用いた無線電話の同時送受話方式の可能性を説いて講演を終了し質問に入ったところ、鳥潟技師は兼ねて準備していた数枚の図面を掛け換え、まず座長に自分の話の速記を雑誌に載せるよう要請したが、座長は言葉を濁して承諾しなかったようである。鳥潟技師は自分の研究した有無線接続方式とブリッジ式の同時送受話式の優秀性を説明したが、それは一つのアンテナでできるので、その方が優れるという論旨のようであった。佐伯氏は鳥潟氏のものは外国の雑誌に出ているから新しいものではないと反論し、鳥潟氏はそれとは異なるといって、結局水掛論に終わり、時間も費やしたので、無線の実験の供覧はお流れになったように覚えている。 (荒川大太郎, "無線電話の夜明けを彩る鳥潟・佐伯論争", 『逓信外史(上)』, 1962, 逓信外史刊行会, pp192-193)

1921年(大正10年)3月25日出版の『日本無線電信年鑑』(大正十年版) では「佐伯無線」「鳥潟無線」の競争として、次のように記されています。

いわゆる「佐伯無線」とは逓信省工務課逓信技師佐伯美津留氏を首とし同氏に直属する逓信技師若松直藏氏、同技手小山粂之助氏等の考案、研究、設計になるものにして、「鳥潟無線」とは逓信省電気試験所長工学博士鳥潟右一氏を首とし、技師横山栄太郎、北村政次郎両氏、同技手丸毛登氏等の考案、研究、設計になりたるものを指せるものにして、前者は東京市芝公園逓信官吏練習所と銚子無線電信局とをその試験根拠地として試験し、後者はその研究を逓信省内電気試験所及び茨城県平磯町に存在する試験所分室において研究試験を為すものなり。・・・(略)・・・

「鳥潟無線」と「佐伯無線」とは常に同一の事項を競争的に研究及製作し今日に到れるが、佐伯無線はいわゆる実施を掌る(つかさどる)工務課に根拠を置ける為に実用上に於ては極めて都合よき地位に位す。・・・(略)・・・目下「鳥潟無線」は鉄道省の嘱託によりて青森函館間に於ける無線電話の研究にも従事す。(無線電報通信社編, 『日本無線電信年鑑 大正十年度』, 1921, 無線電報通信社, p3)

5) 逓信省通信局工務課無線係の中上豊吉係長

J1AAやJ1PPを語るのに必要不可欠な人物が中上豊吉氏です。1914年(大正3)年7月、中上氏は東京帝国大学の工科電気工学科を卒業しました。在学中より逓信省の逓信官吏練習所の実習生として逓信省の無線通信を学び、同年8月1日に通信省通信局に入り、幹部教育を受けたあと、1915年(大正4年)4月に通信局工務課電信係の逓信技手として配属されました。翌年7月に工務課無線係が誕生し、佐伯技師が係長になりましたが10月に工務課技師室へ転属したため、中上技手が技師に昇格し無線係長になりました。

また中上氏は工務課に配属された大正4年4月に逓信官吏練習所の教官心得(翌年には教官)兼務も命じられ、以後官練無線実験室の拡充にも努めました。この実験室こそが佐伯教官の「工務課無線係の研究所」だったからです。のちの岩槻受信所建設現場からのJ1AA(電信)も、官吏練習所の実験室からのJ1PP(電話)も、中上氏により一つに結び付くのです。

6) 電気試験所第四部と工務課無線係の研究室 (官練の無線実験室)


1918年(大正7年)6月に電気試験所第二部の無線電信電話係が第四部として独立し、ここが逓信省の電波研究の総本山になりました。

一方でその頃より工務課の中上無線係長は官練の無線実験室に次々と器材を備え、大正9年頃には真空管作りも手掛けました。船橋無線局の対米通信用受信機に官練製真空管が用いられ、のちに日本の大手電球メーカーがアメリカ技術を導入し、国産真空管の製造に着手する"刺激"になりました。そして中上係長の実験室拡充の費用を苦労を重ねて捻出し続けたのが稲田工務課長でもありました。

中上さんの伝記の中には特筆すべきものがたくさんあるが、国立大学ですらまだ無線に関する実験室を持たなかった大正七、八年のころから、逓信官吏練習所(以下官練という)に思い切って進歩的な実験設備をつぎつぎと備え、日本の無線が今日の繁栄に向かう技術的な基礎を築いた・・・(略)・・・官練の実験室は最初マルコニが発明したものを模倣して作った普通火花式発振機と油入の大きな回転型静電蓄電器を用いる同調式波長計とがあるだけであったが、その後佐伯技師発明の瞬滅式火花間隙を使う送信機と、数個の電圧、電流計を追加した貧弱な実験室であったが、中上さんが無線係長になったころからモレキュラー真空ポンプを据え付け、どういう経路で入手したのか詳らかでないが、ド・フォーレのオージション管(三極管)をサンプルとして真空管の試作が始まった。かくして官練の実験室はまた真空管の供給源となって感度の悪い鉱石検波器を駆逐した。(佐々木諦, 『中上さんと無線』, 1962, 電気通信協会)

官練の無線実験室はその所属を大臣官房としながらも、実態は工務課無線係が運営する形をとって、中上氏の手により通信局工務課の無線研究所的な存在になりました。無線実験室の研究の一例を挙げておきます。

◎ 20年近く続いた電気試験所との確執

電気試験所第四部と逓信省工務局における、ライバル意識は相当根深いものだったようで、それが薄れはじめたのは1935年(昭和10年)頃だったそうです。なんと20年近くも張り合っていたというのですから驚きですね。

ライバル意識が薄れた理由は「こだわりのあった諸先輩が退官したから」だそうです。かつて中上係長の部下だった工務局の網島毅(J1PPの生みの親である小野無線課長の後任課長)氏が次のように振り返っておられます。

この五十年史の初めに、私自身逓信省に入省した当時、官吏練習所の無線実験室でいろいろの研究や実験をやらされた経験を書いたが、そのようなことで私たちの上司は、電気試験所に負けてたまるかという強い信念を持っておられた。これは単なる技術者の狭量ということではなく、対人関係その他仕事上の歴史的な背景がいろいろとあったようである。この傾向は特に無線関係に強かった。しかし私が航空無線の仕事に関係するようになった昭和十年頃には、このような空気は大分薄くなっていた。

それは明治の終りから大正年代を経て、昭和の初め頃に、工務局や電気試験所の無線技術を背負っておられた方々が、部外へ出られたり(= いわゆる民間への天下り)、亡くなったりして世代交代が進んだこと。また工務局においても無線係が無線課に昇格し、また昭和十二年には、新たに調査課が出来てその中に無線係が出来るなど、組織が拡大し、若い新人がそれぞれ責任あるポストにつくようになり、仕事の幅や量も増大したために、お互いが競争する分野も少なくなって来たということも、大きな原因であったと思う。(網島毅, 『波濤:電波とともに五十年』, 1992, 電気通信振興会, p75)

7) 1920年(大正9年)ワシントン予備会議 ・・・長波帯周波数の獲得合戦が始まる

1920年(大正9年)10月8日-12月15日に開かれたワシントン予備会議には海軍省・陸軍省・逓信省・外務省から帝国委員を選出しました。中上氏は逓信省の景山監察官の随員に選ばれ、これが中上氏の国際会議の初デビューでした。

この会議では大戦で発展した無線技術をどのように国際規則上で統制するかが目的でしたが、もっとも厄介だったのは遠距離通信用の長波周波数の国別分配でした。戦後、連合国各国は植民地や属領との大電力固定通信網の計画が膨らんでいたからです。そこで電報取扱通信量、貿易額、植民地、人口などを考慮した分配係数が討議され、英・米150、仏110、日90、伊80を定め、5大国はワシントン会議で相互にこの係数を支持し合い、権益を守ろうという密約が合意されました。そして1921年(大正10年)6月にパリ準備技術委員会を開くことを決めました。

8) 1921年(大正10年)パリ準備技術委員会 ・・・波長200m以下は各国の自由と決議

1921年(大正10年)1月、帰国した中上氏は無線界の現況を関係方面へ報告しました。そしてパリ準備技術委員会に挑む我が国の方針を協議するために、海軍省・陸軍省・逓信省で三省会議を設けて、佐伯技師とともに中上氏が逓信省の委員になりました。当時中上氏の部下だった穴沢忠平氏の回想を引用します。

そのころのわが国の軍部も拡張時代にあり、ことに海軍は八八艦隊の成立を見た際でもあり、電波長の獲得にはすこぶる強固な意見を持ち鼻息のあらいものがあったので中上さんはこれら軍部の猛者を相手に国内的の調整だけにも大いに苦心された。(穴沢忠平, 『中上さんと無線』, 1962, 電気通信協会)

1921年6月21日-8月22日に開催されたパリ準備技術委員会には、通信局工務課の稲田課長(首席委員)と佐伯技師、そして随員として工務課の穴沢技手も同行され、我国の権益の確保に大いに努められました。

パリ準備技術委員会ではまだ短波の性質がはっきりしていないので、波長200m(1,500kHz)から30,000m(10kHz)を国際分配対象とし、200m以下(1,500kHz以上)は将来短距離の国際通信に使用し得る可能性があることを表明するにとどめました。そして、1) 220m(1,363kHz)の船舶通信に妨害を与えない、2) 250m以上(1,200kHz以下)の他国の通信に妨害を与えない、3) プレーン・アンテナの使用を禁止する、という3項目を条件に各国とも200m以下(1,500kHz以上)を自由に使えると決議しました。

そして第三回国際無線電信会議をワシントンで開催することを正式決定しました。

9) 日本の国際公衆通信用の大電力長波局の現状

1921年(大正10年)のパリ準備技術委員会での長波の周波数分配の協議では、前年のワシントン予備会議での5大国の密約は無かったかの雰囲気となり、実績主義を基調とし波長2,850m以上(周波数105.3kHz以下)については、現用局および今後5年内に開設を予定する無線局の諸資料を準備することが決議されました。

日本の国際公衆通信は外国資本による海底ケーブルに依存しており、無線は1916年(大正5年)より海軍の船橋無線電信所を借りて対米通信(ハワイのカフク局)を行っていました。しかし日米間の電報通数は日を追って増加し、船橋局の借用時間内では処理が終わらなくなりました。そこで逓信省自前の長波大電力(400kW)無線局を建設し、対米公衆通信を海軍船橋局から引き揚げることにしました。

1918年(大正7年)より通信局工務課の佐伯技師や中上係長らにより建設がはじまり、1920年(大正9年)5月に富岡受信所を、1921年(大正10年)7月には原町送信所を開設しました。これらを合わせて磐城無線局と呼びました。

10) 国際公衆通信用の大電力長波局の建設五カ年計画

各国はより多くの長波周波数を獲得するために大電力無線局の建設を打ち出しており、我国としても一刻もはやく国際通信用大電力局を建設する必要がありました。海軍陸軍逓信三省会議でこの問題を討議し、大無線局の建設五カ年建設計画を発表しました。三省会議でこの計画をとりまとめた中心人物が中上係長で、既に完成している対米局磐城無線局の他に、以下の局を建設する総額2,000万円もの予算要求でした。

この他に、海軍船橋無線局を600kWに増力。陸軍用では波長8,000m以上で、朝鮮と九州に50kW、北海道に25kWとすることを協定しました。

11) 1923年(大正12年)関東大震災で検見川送信所と岩槻受信所だけに

1923年(大正12年)2月、逓信省の5ヵ年継続事業(900万円)として、まず対欧局と対植民地局の建設案が第46帝国議会を通過し、敷地選定や施設設計が始まりました。 しかし同年9月1日、関東大震災が発生。被害甚大にして多額の復興費を要し、無線局建設予算の執行中止はやむなきに至りましたが、かろうじて対植民地局である検見川送信所(千葉)と岩槻受信所(埼玉)の建設だけが生き残りました。

『・・・(略)・・・これらの敷地選定買収等については中上さん自身が現地踏査を行ったばかりではなく、受信状況調査には徹夜作業にもしばしば立ち会った。この5ヵ年計画はその後大正12年の大震災のため経理上の都合から、対植民地工事だけは逓信省で続行し、対欧州局工事は敷地の買収を行っただけで中止することになり、・・・(略)・・・』(穴沢忠平, "電波界列伝「中上豊吉」", 『電波時報』, 1961年7月号, 郵政省電波監理局)

12) 1923年(大正12年)6月28日、米国で初のアマチュアBand(1.5-2.0MHz)を規定

1912年(明治45年)の第二回国際無線電信会議(ロンドン会議)のあと、同年8月13日、米国議会は無線通信取締法(Radio Act of 1912)を可決しました。同法第4条にある取締規定(Regulation)第15でPrivate Station(アマチュア局)は「波長200mを超えてはならない」(1.5MHz未満の電波を出してはならない)とされましたが、「波長●●mを使え」とは規定されませんでした。

波長200m以下は誰にも指定していない「法の外」の電波で、以来アマチュア無線家たちは波長200m(1500kHz)に張り付くように運用してきました。誰もが波長が長いほど遠くへ届くと信じていたからです。

火花電波(瞬滅電波)から、真空管による持続電波の時代が幕あけると、無線電話が誕生しアマチュア無線のひとつのジャンルとして「放送」の原型が誕生しました。これがCitizen Radioといわれるものです。しかしCitizen Radio ブームは短命で、商務省は1922年と1923年の法改正で「放送」を規定し、Private Station(アマチュア局)からBroadcast(放送局)を分離しました。

1922年2月に第一回国内無線会議が開催されました。米国では1500kHz以下の周波数だけを規定してきましたが、放送用周波数を捻出するために3MHzまでの電波を国家(商務省)管理とすることにしました。いわゆる民放(商業放送)に618-1052kHzと2.0-3.0MHz、アマチュアに1,500-2,000kHz(専用帯)と2次業務で1,091-1,500kHzを分配する案でしたが、まだ実行には移されませんでした。

1923年3月、第二回国内無線会議では国営ラジオ放送や公共ラジオ放送が取り下げられ周波数分配案は下表のように修正されました。

この修正案を受ける形で、1923年6月28日、商務省は周波数1500-2000kHz(波長200-150m)をアマチュア無線用の周波数として定めましました。【注】スペシャルアマチュア局には1364-2000kHz(波長220-150m)も分配。

1912年に商務省は「アマチュアの波長は●●」とは規定しませんでした。すなわち無線通信取締法(Radio Act of 1912)ではアマチュアの周波数を「無視」したのです。1923年6月28日になって、ついにアマチュアバンドが正式に誕生しました。

13) 1923年(大正12年)11月27日、アマチュアによる大西洋横断交信に成功

波長200m(1500kHz)によるアマチュア無線家による大西洋横断通信への組織的なチャレンジは1921年(大正10年)より定期的に始まりましたが、なかなか成功しませんでした。1923年11月27日に波長103-110m(2.7-2.9MHz)の特別免許をうけたアメリカとフランスのアマチュア間で大西洋横断通信に成功し、無線界に大激震を走らせました。短波は使い物にならないという、これまでの学説をくつがえす世紀の大発見として高く評価されています。(なおこれは選ばれた精鋭部隊による通信試験で、アメリカのアマチュアバンドは6月28日より、中波1.5-2.0MHzになりましたので、この実験用の特別免許によるものです。一般のアマチュアが普段の運用の中で偶然成功したものではありません。)

14) アメリカで短波帯アマチュアバンド誕生(1924年7月24日)

1924年(大正13年)7月24日に4つの短波バンド(下表)が追加されました。これは大西洋横断通信に成功し、短波による長距離通信の発見に対するご褒美だと考えられます。あるいは秋に予定されている第四回国内無線会議では64MHzまでの電波の国家管理化を予定していたため、それまでの間にアマチュア達に短波を使わせて、電波の性質を明らかにしておこうと考えたのかもしれません。

中波150m Band は電話と電信の混信を避けるために、フォーンバンドが設定されました。なおラジオ放送への混信(BCI)を避けるための、20:30-22:00と日曜の午前(礼拝時間)の運用禁止ルールは、今回新設された短波バンドには適用されませんでした。

アマチュアによる短波帯通信の有効性の発見に強く反応したのは、軍部および(陸上長距離通信を独占していた)有線系会社を心良く思っていなかった人達でした。

15) 有線通信会社の独占を「短波」で打ち破れ

アメリカでは1924年(大正13年)10月6日より第三回国内無線会議が開かれ短波帯の業務別周波数帯が定められました。アマチュアバンドも少々変わりましたが(1925年1月5日より実施)、下表で注目いただきたいのは Relay Broadcasting Service(放送中継業務)です。2.75-2.85MHz, 4.5-5.0MHz, 5.5-5.7MHz, 9-10MHz, 11-11.4MHz(計2.2MHz帯)というように、多くの周波数帯が放送中継用に割かれました。無線系会社が有線系通信会社へ反旗をひるがえし始めたのです。

◎アメリカの場合

1920年開局のKDKA以来、放送局の数は順調に伸びていましたが、受信機販売でのビジネスモデルはすぐ限界となり、1923年より広告放送による新しいビジネスモデルに移りました。そして番組を共有するために放送局は、系列ネットワークを形成するようになりました。

しかし親局が系列放送局へ番組を配信するには、AT&T などの有線系通信会社の回線を利用するしかなく、この回線使用料が放送ビジネスを圧迫していました。

【参考】AT&T は電話の発明者グラハム・ベルのベル電話会社から長距離電話部門を独立させた有線通信会社

そこで有線系通信会社への回線使用料の支払いを回避する2つの作戦がたてられました。ひとつは、ラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカ(RCA)社が選んだ、超大出力放送"Super-Broadcasting" です。そしてもう一つが、ウェスティング・ハウス(WH)社とジェネラル・エレクトリック(GE)社が選んだ短波での長距離放送でした。

ですが安価な家庭用短波受信機はまだ技術的に難しく、WH社は短波による直接放送よりも、放送局間を結ぶ中継回線を、短波帯で置き替えようと考え始めていました。放送無線中継(Relay Broadcasting Service)です。WH社では系列放送局への短波中継実験の準備を1922年に始めて、1923年11月には実用化しました。

◎日本の場合

日本では「電信法」ならびに「無線電信法」により、公衆通信(電報)は有線も無線も逓信省の"専業ビジネス"とされていたため、無線が有線を追撃するという構図は基本的にはありません。しかし国際通信だけは少々事情を異としました。

1851年、英仏海峡に世界初の海底ケーブルが敷設され、1866年には大西洋横断海底ケーブルが開通しました。太平洋の場合はかなり遅れましたが、(アメリカがフィリピンを植民地として獲得したため)1903年にサンフランシスコ-ホノルル-グアム-マニラ回線が開通しました。

では日本近海はどうだったのでしょうか。1871年(明治4年)にデンマークの大北電信会社(Great Northern Telegraph)が、東シナ海の長崎-上海間と、日本海の長崎-ウラジオストック間に海底ケーブルを敷設しました。さらに大北電信会社は瀬戸内海経由で長崎-東京を開通させようとしましたが、それを日本政府は拒否しました。なぜならここにもケーブルを敷設されると、島国日本の海外通信は完全に外国企業に牛耳られるからです。

1873年(明治6年)に関門海峡に海底ケーブルを自力でなんとか敷設し、残りは陸路経由で東京まで開通させました。これで東京と欧州間を結ぶ、「上海・インド経由」と「シベリア経由」の2つの通信ルートが完成しました。米国方面では太平洋商業海底電信会社(The Pacific Commercial Cable Co.)の太平洋回線に東京-グアムの分岐線が完成したのが1908年(明治41年)でした。このとき日本が鎌倉-父島間の海底ケーブルを敷設して、外国企業による独占を回避した英雄が稲田工務課長でした。

16) 外国企業に国際通信を牛耳られることへの反発

我国の海外通信が外国の有線系通信会社に依存していることを、逓信の無線関係者は憂いてたようです。

明治生まれの無線人は、わが国の対外通信がすべて外国資本の海底ケーブルにぎゅうじられているのが残念でたまらず、なんとかしてこれから脱却するために「国際通信はすべて無線」をモットーとして予算獲得に狂奔したが、その数は有線マンに比べてきわめて少なく、かつ、まだ海のものとも山のものともわからぬ大無電局に巨費を投入しようとする政治家もあらわれなかった。

それなのに、わが無線界のパイオニア佐伯美津留逓信技師の超人的な開拓的闘志は少しもくじけなかった。初代工務局長稲田三之助博士も積極的にこれを支援した。彼は海底ケーブルの権威として自他ともに許す存在であったが、電信電話技術の最高責任者たる工務局長のポストについたときから、無線のためにはあらゆる便宜を供与しその開発を推進した。中上豊吉係長や荒川大太郎技師は、毎年要求しても削られる無線予算の補てんのため、しばしば電話拡張改良工事費から予算の横流しをしてもらうことに成功し、そのお陰で長波の改修を続け、短波の研究開発にも手をつけることができたのである。(河原猛夫, "喜連今昔(4) 長波から短波", 『電波時報』, 1973年2月号, 郵政省電波監理局, pp50-54)

電報料金の九割以上が外国の収得分であるばかりか、通信はすべて外国私企業の手中にあったのである。そこで日本政府は通信自主権の確立は焦眉の問題であるとして、自らの通信路を所有してこの窮地を打開しようとしたが思惑どおりにはことは運ばなかった。しかるに前記のマルコニーの無線電信の発明、これに続くわが国での実験成功によって、その突破口を無線技術の研究に求めたことはけだし当然のことであり、また賢明な策でもあった。・・・(略)・・・政府は無線通信網拡張の世界的情勢にかんがみ、更に大無線電信局を建設して対外通信の自主的運営の伸長を企図した。しかしながらこの設備には巨額の資金を要し、当時の国家財政をもってしては到底実現困難だった。・・・(略)・・・丁度このころから長波に比較して設備が小規模ですむ短波が遠距離通信に適していることが実証されはじめ、昭和六年ころより短波の時代を現出するに至った。わが国の対外通信はこの短波によって飛躍的に進展し、昭和八年ころから長年の宿願であった国際電信自主確立時代に到達することができたのである。 (『東京中央電報局沿革史』, 1958, 電気通信協会, pp435-436)

稲田工務課長は日本の海底ケーブル技術における第一人者であり、1906年(明治39年)に苦労の末、鎌倉-父島間の海底ケーブルを完成させました。そのわが国の有線通信の先頭にいた人物が、一転して海底ケーブルに頼らない長波国際公衆通信、さらには短波による国際公衆通信の積極推進派となったのでした。

17) 1924年(大正13年)東京無線電信局(岩槻受信所・検見川送信所)の建設開始

1924年(大正13年)春、台北(台湾)・京城(朝鮮)・大連(関東州)・パラオ(南洋)といった植民地(いわゆる外地)との長波通信を目的として、一対をなす送信所(千葉県検見川)と受信所(埼玉県岩槻)の建設が始まりました。逓信省通信局の工務課が担当し、用地買収、局舎の建設から空中線や送信機や受信機の設置調整まで行いました。

当時の大電力無線局は、送信所と受信所を別々に離して建設し、現地には保守要員を少人数に配するだけで、すべて中央から遠隔制御することで事業収益性を高めていました。

陸-陸(Point to Point)の固定局間では送信局はひたすら送るだけですし、受信局はひたすら受けるだけです。二つの周波数で時間当たりの取扱量を増やしました。

【参考】海上公衆通信(電報)は海岸局と船舶局が相互に交信しながら電文を受け渡します。アマチュア無線の通信に似ています。

電信局(東京)で客より依頼された電文から電信専用のタイプライターで、さん孔テープを作ります。それを読み取り器に掛けると、モールス符号の電鍵開閉信号になります。ただしその開閉速度は到底人間では真似できないような高速です。もちろん単位時間当たりの通信量を増やすのが第一義ですが、一般のラヂオマニアに傍受された場合の「通信の秘密」を守る効果もあったろうと考えられます。

その電鍵開閉を表す電気信号を「コントロールライン」と呼ばれる陸線で、送信所(検見川)へ送り、送信機を遠隔高速キーイングします。

また受信所(岩槻)では高速モールスの受信音を「トーンチャネル」と呼ばれる陸線で電信局(東京)へ送出します。東京で一旦受信テープに記録されたあと、解読されます(どんなに熟練した通信士でも判別できないほどの速度通信なので、音響受信は無理でした)。

ですのでアマチュア局や海岸局・船舶局で行う手送りモールスとヘッドフォーンを掛けて音響受信するイメージとはかなり異なります。

このように東京中央通信所(大手町の東京無線電信局に同居)からの中央集中操作式にて有線通信線で接続するため、「コントロールライン」「トーンチャンネル」の敷設工事も含めておよそ2年もの大工事でした。検見川・岩槻・東京の3つを合わせて東京無線電信局といいます。

【参考1】 従って検見川無線や岩槻無線のことを、公的資料では単に「東京無線」として記録されることが多いです。

【参考2】 移動する船舶局を相手にする銚子無線JCSや落石無線JOCなどには通信士が常駐し運用していましたが、Point to Pointの固定回線を受け持つ検見川無線JYR/JYS/JYTは通信士のいない無線局で、それぞれ「海岸局」「固定局」と呼ばれ種別が異なります。

18) 逓信省への海外からの協力要請で、短波受信テストを決意

ところでなぜ岩槻受信所の建設現場で短波の受信を始めたのでしょうか?1923年(大正12年)マルコニー社が短波の実用化を前提にした短波ビーム試験を始めた時期でもあり、稲田工務課長は「海底ケーブルに代わる短波による国際通信」の可能性を予感したようです。

また一方でアマチュアが低電力で短波の長距離通信を実証したため、米国の学会では短波の伝播を解明しようとする動きがあり、逓信省にも協力要請があったり、ドイツの郵政庁よりナウエン短波実験局POX, POWの電波を測定して欲しいとの申し入れが来ました。

『・・・(アマチュアの)成績が非常に優秀なため、大電力長波無線に代って、経済的に利のある短波でもって長距離通信を行うことが考えられるようになった。米国の学会から稲田さんに連絡もあり、この調査を必要としたが、アマチュア無線の装置は電力も少なく、装置も不備なので、本格的な調査を行うためには、相当の設備を必要とした。

丁度そのころ独逸の郵政庁から稲田工務局長宛てに、独逸のナウエン局からの短波送信の試験を受けてもらいたいとの書面が届いた。すでに英、米でも本格的な実験を行なっているという情報も入ったので、稲田さんは早速この受信に協力するよう無線係に命じた。そのころ無線係は全員を挙げて、検見川および岩槻の対植民地局を建設中であったが、幸い実験に好都合な条件が揃っていたので、中上係長は穴沢、河原の両技手に命じてこの試験に従事するよう命ぜられ、両氏は早速二球式の短波受信機を組み立てたが、建設の仕事もたくさんあるので、ややともすると遅れ勝ちなので、稲田さんから催促されていたようである。(荒川大太郎・河原猛夫, "短波無線通信の開発", 『稲田三之助伝』, 1965, 電気通信協会, pp187-188)

19) 日本無線史は、岩槻受信所建設現場の短波実験を「余暇行為」として記録した

東京無線電信局(検見川送信所と岩槻受信所)は稲田三之助課長・中上豊吉係長の指導監督で工事が進められました。我国の電波正史ともいわれる昭和24~25年に編まれた日本無線史第一巻には、岩槻受信所建設現場のJ1AAに写真を含め3ページ半を割いています。しかし日本無線史のJ1AA のページには稲田氏も中上氏も登場しないのです。『余暇を利用して』と、逓信省の短波研究は、まるで実務担当者達の個人的な興味で始まったかの表現で正史に記録されたのです。

当時岩槻は外地局を相手とする中波の受信所として建設工事中であったが、逓信省通信局工務課から出張中の穴沢忠平、河原猛夫両技手等は工事の余暇を利用して簡単な短波受信機を組立て同年三月米国や豪州の素人局が八〇米帯で交信しているのを明瞭に聴取することが出来たので、これらと交信するための小電力の送信機を組立てた。(電波監理委員会編, "一、岩槻の実験装置, 第三節 短波送信機", 『日本無線史 第1巻』, 1950, 電波監理委員会, pp159-160)

当時は中上氏・荒川氏・穴沢氏が連名でJ1AAを学会発表したり、また稲田工務課長が畠山局長とともに官報発表をしたりで、表面的には部下の手柄は上司の手柄の時代でした。(日本無線史にJ1AA の功績を記録するにあたり)稲田氏や中上氏が、発注側の電気通信協会の河原常務理事へ配慮した結果なのでしょうか?・・・謎です。

【補足1】 逓信省より日本無線史の編纂を受注した電気通信協会は、実務執行の編集委員長に(GHQ/SCAPより公職追放の指定を受け困っていた)中上豊吉氏へ委託しようとしました。ところが中上氏はかつての上長である稲田三之助氏を強く推挙され、自らは副委員長の肩書きを選びながらも、実務上では中上氏がほとんど一人で取りまとめたといわれています。J1AAの司令官のお二人が、日本無線史の編集委員長・副委員長だったことが、J1AAの記載が厚いことに影響しているのでしょう。なお電気通信協会の梶井会長も工務局長を経験した逓信OBですし、電気通信協会常務理事は元J1AAオペレーターの河原氏でした。

【補足2】 日本無線史のこの曖昧な表現「余暇を利用し」が、J1AAは非正規局だったのでは?という誤解の呼び水のひとつになりました。

【補足3】 なお中上氏はJ1AAの成果の学会発表に際し、『河原猛夫 佐々木諦の両君の労を多としここに謝意を表す』と論文を結ばれていますので、部下をないがしろにして手柄を横取りしていたのではけしてありません。

20) 稲田氏の逝去で明らかになった岩槻受信所(建設現場)で短波を受信した理由

日本無線史全13巻が完成した翌年1952年(昭和27年)の「稲田氏追悼座談会」の記事から引用します。

梶井: では次に無線について稲田さんの片腕というか、あるいは両腕とも言い得る中上さんにお願いします。なお稲田さんの字のわからない点について、中上さんがいかに判読したかということについても話してください。(笑声)中上: 最初に私が稲田さんに御厄介になったのは、大正4年の初めに稲田さんが海底線の工事長でおられるときに、実習のために沖縄丸に乗りましていろいろ御指導を受けたのであります。・・・(略)・・・稲田さんの一番の功績とも申すべきものは、大正13年の秋ごろから 14年の初めにかけまして短波無線がおこったときに、ちょうど逓信省で岩槻、検見川の工事をやっておりましたが、そのときに稲田さんから、当時の工事をやっておる者に対して、短波をすぐに研究せよということでございました。そのときに工事に関係しておったのは主として穴沢、河原という二人の技術者でございましたが、工事が忙しいので、稲田さんのおっしゃった短波の研究の方になかなか手がつかなかったのです。ひと月かふた月ごたごたしている間に稲田さんから一喝を食いまして、驚いて早速短波の機械をつくりまして、そうしてアメリカあたりとごく小電力の短波送信機で通信することができた。これが日本の短波の最初でありまして、・・・(略)・・・』 ("電気通信技術界の元老 稲田三之助氏を語る ~追悼座談会~", 『電気通信』, 1952年3月号, pp11-12)

逓信省の短波実験は1924年(大正13年)秋の稲田工務課長の命令により始められたことがここに明かされました。

21) 無視された稲田工務課長の命、『短波を受信せよ』

岩槻受信所の工事長は荒川大太郎技師、その補佐に穴沢忠平筆頭技手があたりました。そして現場主任として磐城無線電信局の富岡受信所で長波受信機を保守していた河原猛夫技手が転勤してきました。実は河原氏が官練の学生だったとき、電磁気学の教鞭をとられていたのが荒川工事長でおふたりは師弟の間柄だったそうです。河原氏は敗戦で中国から帰国後、一時期電気通信協会に身を置いたあと、日本短波放送NSB創設メンバーとして活躍されました。ようやく仕事も落ちつかれたのでしょうか、1969年ごろよりJ1AAの思い出を語られるようになります。

稲田課長を短波受信試験へと動かした直接的なきっかけは、マルコーニ社が実験中の短波長ビーム通信の有効性を英国郵政庁が認め、1924年(大正13年)7月28日、これを英連邦(対インド、対南アフリカ、対オーストラリア)公衆電報用として建設する契約を締結したことでした。同年10月にはポルドゥー実験局(呼出符号:2YT)からの32m波(12kW)がオーストラリアのシドニーで一日23時間半受信できたといいます。

稲田博士の指令

・・・(略)・・・まだ未完成の局舎の中に泊り込んで昼夜の別なく工事に追われている大正13年の晩秋だった。通信局工務課長の稲田三之助博士から「英国ではマルコニが短波通信の実験をやっている。豪州(オーストラリア)とも通信ができるということだ。岩槻でも傍受してみよ。豪州との通信には26m帯の波長が使われているらしい。」との指令がとどいた。長波の大電力を使っても英豪間のような遠距離通信はきわめて困難なのに、短波なんかでうまく通信がやれるはずがない。フリーク現象か何かで、ちょっと聞こえた程度だろう。何しろ今岩槻は長波の建設を急がねばならないのだ、短波の受信機など作っているひまはない・・・ということで、現場の私たちは博士の指令を無視してしまった。 (河原猛夫, "こちらJ1AA -アマチュア無線局開設当初の想い出-", 『放送技術』, 1974年12月号, NHK出版, pp122-123)

22) 1924年(大正13年)12月 ・・・短波実験をしてないことが稲田課長に発覚

しかし稲田課長にカミナリを落とされ短波受信機は作ったものの、結局お蔵入りになりました。

その年も終わらんとしている12月の始め頃、稲田博士から「なぜ短波をやらんのだ!!」というきついお叱りが届いた。本省から穴沢技手がその課長命令をたずさえて、岩槻へやってきての居催促だからこれにはまいった。荒川工事長からも急いで短波の実験をやれという指示がきた。

さあ大変だ。なんとかして受信機を作ろうということになり、・・・(略)・・・約1週間を費して名技工の片岡君が仕上げた短波受信機なるものにスイッチを入れた。2、30m帯といわれる英豪間の通信を探聴したが、さっぱり聞こえない。短波の波長計もなかったので、めくら探しにバリコンのダイヤルを回し、同調コイルのタップも色々と変えてやってみたが、昼も夜も何も聞こえない。とうとう大正13年は無為に終わって受信機はそのまま放置された。私は最初に作った短波受信機の機能は決して悪いものではなかったが、あいにくまだその時期には波長2、30mでオンエアしている局がなかったのだと思っている。(河原猛夫, "こちらJ1AA -アマチュア無線局開設当初の想い出-," 『放送技術』, 1974年12月号, NHK出版, pp123)

23) 1925年(大正14年)1月5日、アメリカで短波帯アマチュアバンドが拡張

1924年(大正13年)7月24日、アメリカでアマチュアに短波帯の80, 40, 20, 5mが試験的に開放され、まず一番低い80mバンドから実験され始めました。そしてアマチュア無線家はその研究成果を惜しげもなく雑誌QSTに発表していました。

1925年(大正14年)1月5日、第三回国内無線会議のアマチュアバンドプランが実施され、(5mバンドが15MHz帯域から8MHz帯域へ半減しましたが)80m, 40m, 20mバンドの帯域は約2倍に拡張されました。

日本の逓信省と海軍が短波研究をはじめたこの時期は、アマチュアに短波が解放されてまだ1年も経っておらず、すなわち各周波数が四季を通していかに伝搬状況が変化するかについては、まだ誰も未経験という頃でした。

24) 電気試験所の真空管試作と平磯の超短波の研究 (大正13年)

1924年(大正13年)、電気試験所第四部(大崎)では送信用真空管の試作研究を行っていましたが、電気試験所平磯出張所ではこれを使って一時期、波長4~6m付近の電波長を試験しました。

【注】 しかし電気試験所事務報告(大正13年度)には『電気試験所製真空管を使用し電波長八米迄の短電波を発生し得たり。』とあります。

さらに予想を廻らしたならば、今日においては実に意外と考えられることが(将来は普通に)行われるに違いない。例えば各人が超短電波による無線電話の簡単な送受信機を携帯する事によって数哩ないし数百哩隔っておっても、あたかも一堂のもとに会して談話を交換すると同様に通話し得ることである。かかることは超短電波の利用方面として将来大いに発達することではあるまいか。筆者はかつて茨城県平磯町電気試験所出張所に在任中、四米の超短電波長を使用し簡単な携帯用空中線付受信機を用いて実験を行い、数百米の距離で通話を行い得ることを確かめた事があった。(丸毛登, "超短電波通信に就て", 『無線と実験』, 1925.9, 無線実験社, p531 )

丸毛氏の未来予測から90年。今や子供ですら携帯電話を持っており、想像以上の発展となりましたね。

平磯出張所では大正十三年頃、現大阪放送局技術部長の丸毛登氏が所長時代に、第四部試作の通称二五〇ワット送信管による現今のいわゆる超短波の研究が、丸毛さん御指導のもとに波長六米その他について色々の実験が行われ、そして有益なデータが得られたのでありますが(前に丸毛さんにお会いしました時に、この超短波の話が出まして「もしあの研究をもっと続けておったならば、現在の超短波の研究は、電気試験所がどこよりも進んでおったであろうに、惜しい事をした」というような意味のことを述懐しておられました)、この研究は都合によって中止され・・・(略)・・・』 (畠山孝吉, "短波の昔ばなし(四)", 『ラヂオの日本』, 1935.7, 日本ラヂオ協会, p40)

理由は判りませんが電気試験所の超短波研究は中止され、その間に逓信省通信局工務課のJ1AAが日米短波交信に成功にしました。無線研究で競合ってきたライバル工務課無線係の偉業達成に、電波研究総本山を自負する電気試験所第四部および平磯出張所は大いに刺激されました。J1AAの成功から2か月遅れた1925年(大正14年)6月、平磯出張所にて短波研究が始りました。

25) 帝国海軍も短波研究を開始 (大正13年)

谷恵吉郎氏は1919年(大正8年)7月に東京帝国大学電気工学科を卒業、造兵中技士として海軍に入り、翌2月より造兵廠研究部で軍用無線機の製造開発に携わりました(1919年9月に造兵中尉、1921年12月に造兵大尉へ昇進)。

1923年(大正12年)4月1日、海軍の造兵廠研究部、艦型試験所、航空機試験所が「海軍技術研究所」(東京築地)として組織統合されました。海軍技術研究所の研究部電気班が海軍における電波兵器(無線通信機)の研究機関となったのです。

しかし同年9月に起きた関東大震災で壊滅的な被害を受けるという不運のスタートでした。海軍の初期(造兵廠研究部)の電波研究資料はすべて焼失し我が国の電波史の中でも謎に満ちた空白期間となりました。震災で緊急避難的に所員は海軍各所へ散り々々となり、谷大尉も1924年(大正13年)5月末から10月末まで連合艦隊司令部へ派遣されていました。

これまで大型送信機を担当してきた谷大尉は、連合艦隊では簡易にして小型軽量の「隊内通信用」無線機の要望が強いことを初めて知りました。1924年(大正13年)秋に谷大尉は、連合艦隊のこの要望に応えるには装置や空中線が小型で済む短波が最適だと考え、これが海軍による短波研究のはじまりだったと『日本無線史』第10巻は明かしています。

【参考1】 敗戦までは軍部の無線研究は兵器開発を意味し軍事機密でその実態は一切明かされませんでした。しかし敗戦で軍が解体され、昭和24年に日本無線史が編まれ、初めて軍用無線機開発の実態が公表されました。なお日本無線史第10巻(海軍無線史)を執筆された中心人物が谷氏です。

海軍技術研究所で短波の実験に着手したのは、大正十三年十一月造兵大尉谷恵吉郎が連合艦隊司令部付としての艦隊勤務を終えて築地の海軍技術研究所に帰任した時に始まる。・・・(略)・・・この艦隊の要望を解決するに新周波数帯を使用する計画をたて、海軍中田豊蔵海軍技手の協力を得て、早速これが実験装置の組立に取り係り、出力10W(六〇 - 七〇米位)の短波送信機と短波受信機とを試作し、・・・(略)・・・』 (電波監理委員会編, "一、海軍に於ける短波の研究, 第九節 短波の出現と無線施設の整備", 『日本無線史 第10巻』, 1951, 電波監理委員会, p75)

通信局で稲田工務課長が部下に短波受信を命じたのが1924年(大正13年)秋で、受信機が完成したのが12月でしたが、ほぼ同じ時期に海軍技研でも短波送信機と受信機の試作を始めていました。

参考2】 ちなみに1928年(昭和3年)日本無線電信(株)依佐美送信所に納められた同所初の短波送信機(水晶発振式8kW型)を設計したのも海軍技術研究所の谷恵吉郎大尉だったことを付け加えておきます。日本無線電信株式会社では対欧通信用として建設中の依佐美送信所に短波送信機を装備する計画が浮上し、海軍へ協力を要請しました。そして海軍技術研究所で組立てられ。1928年10月14日に依佐美送信所に据付けられました。呼出符号JNIを使い短波(7.820, 12.200, 19.000MHz)の調整送信が始まり(11月6日に調整完了)、11月7日から対欧通信試験を開始しました。まだ呼出符号が周波数別ではなく、送信装置ごとに付与された時代ですので、3波ともにコールサインはJNIです。

1929年(昭和4年)4月より名古屋無線電信局「依佐美送信所」として営業運転をはじめましたが、長波は同年夏なると欧州まで届かないが、短波ならOKという事実が明らかになり、日本無線電信株式会社は海軍に再び短波送信機の「おかわり」を発注しました。1929年9月25日より海軍製第二号機が稼動しました(コールサインJNG, 周波数15.720MHz)。さらに海軍はこれまで研究してきたビーム式(指向性型)空中線を依佐美送信所にも建設しています。海軍が民業にこれほど協力するとは、ある意味まだ平和な時代だったといえるのかも知れません。12月26日よりJNGは周波数10.160MHzの使用を開始しました。

26) 学校関係の短波実験施設が許可され始める (大正13年)

当時は波長200mより短い電波を「短波長」と呼ぶことが多かったようです。その理由のひとつとして、1921年(大正10年)のパリ準備技術委員会で「波長200m以下は各国電波主管庁の自由」と決議され、波長200mがひとつの電波の区切点だったことが挙げられるでしょう(この他に100m以下を超短波と呼ぶこともありました)。

さてここで一旦、半年ほど時計の針を戻します。1924年(大正13年)夏、逓信省に東京商科大学(現:一ツ橋大学)より波長140-150m(周波数2.00-2.14MHz)の法1條第5号無線施設(官庁用実験施設)が申請されました。ところで工科大学ならともかく、なぜ東京商科大学が短波で無線電信機器の実験を行おうとしたかは私にはわかりません。

戦前の日本では軍用局を除く官民無線局は逓信大臣が、陸軍局は陸軍大臣が、海軍局は海軍大臣が最終許認可権を握っていました。しかし呼出符号の分配や、混信防止のための周波数の分配を行うため、これらの三省会議で互いに事前了解を取付けながら、それぞれが無線局免許を発行することになっていました。

逓信省電務局長は「陸上官庁用無線電信施設ノ件」 (信1248号, 照会, 1924.7.21)で東京商科大学に140-150m, 13.5Wを許可する同意を陸軍省・海軍省へ問い合わせたところ、直ちに「当省トシテ異存無之候」との返答を得て、1924年(大正13年)8月9日に呼出符号「JKZA」で免許しました。そして官報告示は8月13日(逓信省告示第1141号)でした。

上記の東京商科大学の波長140-150mの許可に次いで、同年10月上旬にも東京高等工業学校(現:東京工業大学)に波長100-150m(周波数2.0-3.0MHz)と700m(周波数429kHz)の許可が官報告示されています。

これについてはその申請過程すら不明で海軍省や陸軍省がどのような態度を示したか分かりませんが、逓信省がこれを許可できたのは海軍も陸軍も反対しなかったということです。許可は無線電話の実験ですので、呼出符号は「東京高等工業学校」です。

このように1924年(大正13年)までの我国の短波長は、いわゆる「所有者不在の自由な土地」でした。逓信省からの短波長許可の打診に対し、『異存無之候』と回答していた海軍省や陸軍省の態度が1925年(大正14年)になると急変します。一転して短波長の一般開放に反対を表明するようになるのです。そういう意味においては大正13年の東京商科大や東京高工への短波長許可は注目に値します。それらについてはJ1PP J8AAのページで紹介します。

27) 非正規アマチュアの中波実験が始まる (大正12~13年)

1924年(大正13年)5月4日、帝国ホテルにて『無線と実験』発刊披露会が催されました。逓信省通信局からは小松三郎・富岡五郎・中郷孝之助の各氏、逓信省無線研究の総本山である電気試験所の横山英太郎第四部長や北村政次郎技師・土岐金助・佐野昌一氏、海軍技術本部の箕原勉大佐・大沢玄養中佐ほか、工科系大学や無線機メーカー、マスコミ関係者を招きました。電波の取締りを行っている東京逓信局の国米藤吉係長も列席されています。『無線と実験』創刊号に当時の中波アマチュアの様子が登場します。大正13年春で中波アマチュア(非正規局)の検挙数57件とのことですから、東京には相当の数がいたことが伺えます。

このごろ毎朝七時半ごろ各省の無線電話機に「種ヶ島!種ヶ島早く出て。こちらはニンジン畑・・・・・」というような変な呼出しが掛かる。するとまもなく「おれが種ヶ島だ。おはよう」と、相手が出て他人には容易に分からぬ色々暗号の話がはじまる。また電信で同じようなことが行われている。もちろんこれは素人同志のおもしろ半分のいたずらに過ぎないが、そうした種類のものは早朝から深夜までひっきりなしに行われている。また送信機は持たなくても受信機だけで電信電話を聞き取っている者も少なくないようで、これまで逓信省で五六件発見したが、そのうちにはまじめな研究者もあるけれど、多くはおもしろ半分でやっていた。

この取締りについて同じ逓信局の内でも電信課と電話課との意見が二つに分かれているから妙である。電信課の法規係は「通信の秘密を局外者が知らんとすることは許すべからざる罪悪である。無電取締規則により研究者でも、誰でも、当局の許可を受けないで勝手に送信および受信機を据え付けることは絶対にできず、これを犯したものは一年以下の懲役に処されることになっているが、これまでは単に注意を与え、機械を分解させた位に過ぎないが、今後はすぐに告発するつもりである」と、えらい権幕だ。

これに反して電信課の三宅課長は「こんな遊戯の流行は人智の進むに従う、当然の結果でむしろ喜ぶべきことである。ただ考えなくてはならぬことは自動車の運転手が許されたからといって、むやみに大きいものをこしらえると道路を壊すように、遊戯的の無電も度を失すると実用的の無電に妨害を与えるから取締らねばならぬ」と、ある程度までの素人無電を黙許する方針らしい意向を漏らしている。 ("面白半分が高じて無線のいたずら大流行り 取締規則を前に逓信局内でも意見が右と左 ◆犯人は一向に見つからず", 『無線と実験』, 1924.5, 無線実験社, p18)

文中に『当局の許可を受けないで勝手に』とある通り、裏返せば「許可を得てやりなさい」といっています。実際、濱地常康(東京1番・東京2番)、本堂平四朗(東京5番・東京6番)、安藤博(東京9番・東京19番・JFWA・JFPA)の三人に個人免許が与えられていました。ただ免許審査が極めて厳しく事実上は取得不可能に近い状況だったようで、非正規のアマチュア無線局として実験するものが続出したようです。中波の200m附近が使われたようです。濱地氏よりの技術や部品供給が、日本の非正規アマチュアの増殖を促したといわれています。そういった意味では間違いなく濱地常康氏は日本のアマチュアの祖といえるのではないでしょうか。

28) 苫米地氏らが短波の実験を始める (大正13年)

1924年(大正13年)は中波の非正規アマチュアの全盛期でしたが、日本でもラジオ放送の開始が決まり、JOAKに先駆けて逓信官吏練習所から定期試験放送がスタートした年でもあります。東京逓信局ではJOAK開始に向け、まず中波で非正規のアマチュア活動を行っているもの達の一掃を画策していました。東京逓信局の中波取締りの強化の風を察知した『無線と実験』の苫米地主幹は、7月24日にアメリカにおいて短波がアマチュアに開放されたことを知り、アマチュアの新天地である短波帯の利用を思いついたようです。

1958年(昭和33年)4月5日、東京の国際文化会館にて「電波界今昔」という座談会が行われました。元逓信組の荒川大太郎・伊藤豊・石川武三郎・網島毅の各氏、元陸軍技研の河野健雄氏、元海軍技研の谷恵吉郎氏、元NHK組の苫米地貢氏と中村寅市氏、そして現役郵政組から浜田成徳・西崎太郎・荘宏の各氏および電波研究所から米村嘉一郎氏という、電波界の重鎮が集まりました。明治時代から順に、皆さんが電波研究の昔話を語るという興味深い『電波時報』の企画で、おそらく日本で一番最初の短波実験ではないかと考えられる話が苫米地氏より披露されました。

苫米地 お役所の方面では公式の記録でなければお調べにならんわけですが、(大正)13年に無線と実験を出しておりまして、同時に自分の家の一角に研究所をおきましてその時分から大体30メートル前後のものをだして、通信じゃございません。一種の放送的のものをやっておったのであります。またその結果を「無線と実験」に発表しておりまして、(大正)13年頃ですね。1924年、それでまだ逓信省があまりやかましくいわないで、どんどん電波をだしておった。それは私内緒に岩崎通信の社長でなくなられました大久保君、高田君とか、そういう陸軍関係の諸君に通知をだして、何時から何時まで今晩やるからきいてくれというようにやって、実験して、それを今度名前をだすと陸軍のほうにも失礼になるもので、逓信省のお役人ならばよかろうというので高滝芳郎、谷村功君を相手にして通信をだした。

ですから決して短波は大正14年じゃなくて、もうわれわれが13年にすでにだしておりますから、相当歴史はその前からあるのでございます。ただこれが公式記録に・・・・・・いまは時効になっておるから、罰金もないでしょうが、その当時も罰せられる。規則は不完全ですけれども、罰しようとおもえば罰することができる。公式記録にはなりませんが、実際やりまして、文章にして、活字にして発行しておりますから相当歴史は古い。 ("座談会 電波界今昔", 『電波時報』, 1958.6, 郵政省電波監理局, pp44-45)

私が文中で気になったのは陸軍関係の『高田君』です。もしかしてJARL創設メンバーのひとりでもあり、陸軍下志津飛行学校の高田氏1SKのことでしょうか?(短波開放の通達のページ参照)

29) アメリカで刺激を受けた濱地常康氏が短波実験開始 (大正13年暮~14年新春)

大正期の日米電波当局のアマチュア無線認可時期をまとめました。日本は大体2年半遅れで推移しています。参考にしてください。

1924年(大正13年)の9-10月にアメリカの無線事情を視察した濱地常康氏(日本第一号の中波アマチュアでコールサインは「東京一番」「東京二番」, 大正11年2月27日免許, 3月1日官報告示)は、米国のアマチュアの影響を受けて、帰国後ただちに短波長の実験を行いました。その様子を1925年(大正14年)2月の無線と実験誌に発表されました(濱地常康, "短波長の送受法", 『無線と実験』, 1925.2, 無線と実験社, p545-557)。ただし同氏の免許は中波だけですので、この短波実験は「違法」だったと言わざるを得ないでしょう。

『僕が聞き廻ったところによると、あの米国とかいういやな国では、素人無線家は百メートル以下のハイカラ語でいうショートウエーブというやつの研究を政府が命令してさせているとかいう。・・・(略)・・・現在米国に約四万以上の素人無線局があるが、皆その波長は、百メートル以下、四十メートル位のCWであるそうだ。してその電力は百ワット位を用いており、その許可は、一等無線電信技術者であって特別局の許可を得たものに限り使用している。米国でも放送受信はやかましいと見えて、ことに電話の送話はやらないようだ。』 (濱地常康, "短波長の送受法", 『無線と実験』, 1925.2, 無線実験社, p545) このように濱地氏がアメリカで得たアマチュアに関する情報には誤解も含まれていますが、それはともかくアメリカのアマチュア達が中波から短波に移っていることを知り、自分も短波を研究してみたくなったようです。

帰国後の1924年の暮れから年始に掛けての頃、実際にアンテナを建てて、波長45-75m(4-7MHz)で発射実験を行ったようです。無線と実験誌2月号にはアメリカで実験されている、2本の発振管のプレートに交流高圧を印加するタイプの回路図を示したあと、それを直流高圧による回路にした送信機の製作法を解説しました。

『僕がこの種の送信機を作り実験した もっとも直流で実験したのであるから、そのつもりで・・・まず空中線を建てた。高さ二十尺 直角に水平部十尺のものを。して四十五メートルより七十五メートル位までの送信をしてみた。まずそれを書いてみよう。』 (前掲書, p546)

『真空球はHVVが一番良い。ことに送信実験用として、小波長にはNVVの6?とかいうやつを用いた。・・・(略)・・・短波長の受信は、通常の受信器を用いれば良い。すなわちコイルは説明したもののごときものを使用し、蓄電器は出来うる限り少さい容量となるものすなわち第七図のごときものを使用すればよい。十メートルの受信器は地絡しては良い結果は得られない。それなどの場合は小カウンターポイズを使用する方が良い・・・(略)・・・』 (前掲書, pp546-547)

濱地氏はこんな調子で送信機と受信機の製作方法を具体的に解説されました。JOAKの放送が今まさに始まろうとしていた時期ですので、アマチュアの中波無線電話の研究には一区切りついたが、我々には短波(小波長)の研究が残っているではないかと結んでいます。

『いずれにせよ、我々アーマチュアの前途には小波長の研究という道がのこされているようだ。必ず近き将来には、素人は百メートル以下の波長は自由に研究す可しという有難い規則が出る事であろうと思われてならない。・・・(略)・・・』 (前掲書, p547)

30) 1925年(大正14年)3月上旬 ・・・ついにRCAの短波局の受信に成功

『本年二月下旬米国ラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカ会社は、その所属局なる加州桑港にあるボリナス局(呼出符号6XI)と布哇にあるカフク局(呼出符号6XO)との間に前記短波による商用無線通信試験を行い、始め前者は100メートル、後者は145メートルの波長を使用し互いに連絡試験を始めた。』 (小野孝, "短波長通信に就いて", 『電気雑誌OHM』, 1926.1, p42)

二月になって逓信省通信局に、米国のRCA社からカフク局(ハワイ)とボリナス局(サンフランシスコ)間で100m帯の短波長通信実験を始めるから、日本でも受けてみてくれないかと依頼がきました。そして3月上旬、受信を試み成功しました。通信局の短波実験の初成果です。3月下旬における受信状況を電気学会の論文から引用します。

『三月下旬ボリナス局 6XI の波長99メートル及カフク局 6XO 145メートル 電力10乃至20キロの昼夜連続傍受試験成績は第1図(横軸下部の黒線はその地の夜を示す。以下同じ)の如く、前者(ボリナス)は16時より24時迄(日本中央標準時にて。以下同じ)約8時間、後者(カフク)は15時より翌1時に至る約10時間受信可能・・・・(略)・・・』 (中上豊吉/小野孝/穴沢忠平, "短波長と通信可能時間及通達距離との関係に就いて", 『電気学会雑誌』, 第46巻第456号, 1926.7, 電気学会)

一般雑誌にもこの受信記事があります。実験より50年ほど経過して書かれたものですので、RCA局のコールサインや波長には誤りが含ますが 、当時の驚きの様子がリアルに伝わってきますので、こちらも引用しておきます。【参考】4月に入ってカフク局とボリナス局は、波長90m帯(カフク90m, ボリナス95m)を使い始めましたので、河原氏はこれと混同されていると想像します。

『米国の短波をキャッチ

大正14年の節分も過ぎた頃「米国のRCA社がサンフランシスコとハワイ間で短波通信をやっている。波長は90m帯だ。」という情報を入手した。それではと同調コイルを少し大きく作り替えて探聴したところ、今度はいとも簡単にカフクのW6XI局【注:まだ実験局に国際符字Wが使われる前の時代なので6XOの誤記】が入感した。同局はその頃まだ通信をやらず、調整符号dを連送し、時々サンフランシスコのW6XO【注:同様に6XIの誤記】を呼ぶのが毎晩キャッチできた。6XOも同じ90m帯で6XIを呼んでいるのが間もなく聞こえてきたが、両局共通信は扱っていなかったので、その頃ちょうど短波の実験を始めたばかりだったのだろう。

これらの短波信号は夜間だけだが実に明瞭かつ力強く入感した。フェージングは若干あったが、長波受信と違って空電妨害がほとんどないから、音響受信なら確実に電文を聞きとれるほどきれいに入った。当時ハワイの長波局は350kWの大電力で送信していたけれども、毎日夜になると空電妨害に悩まされて、富岡局【注:以前勤めていた長波の富岡受信所】における受信はなかなか進捗しないことを覚えていたので、6XI【注:6XOの誤記】が僅か数kWの電力で送信しているのにこんなに明瞭に聞こえるというのは全くの脅威であった。』 (河原猛夫, "こちらJ1AA -アマチュア無線局開設当初の想い出-", 『放送技術』, 1974年12月号, NHK出版, p124)

【参考】 商務省のRSB No.92(1924年12月1日版)に、6XI(Bolinas,Calif.)と6XO(Kahuku, Hawaii)が新局としてリストされています。これは商務省より年1回発行され「米国無線局表」1924年6月30日版に対する追加リストです。なお6XIや6XOのように数字直後のアルファベットがXで始まるのは実験局(eXpermental)です。当時はまだ実験局には国籍符字Wを付けていませんでした。

(NewStations,Special Land Stations, Radio Service Bulletin, No.92, p3, Dec. 1,1924, Department of Commerce, U.S.Government. P.O.)

31) 大阪無線電信局(平野郷受信所)でも短波受信開始

岩槻と同時期に、大阪の平野郷受信所(現:平野区喜連)でも短波受信が始まりました。平野郷受信所は関東大震災で凍結された対欧州局(依佐美送信所, 四日市受信所)とは異なり、ある事情で逓信省が1921年(大正10年)12月に建設着工したものです。 そのころ帝国通信社が欧州の長波局の新聞放送を自前で受信し、日本での報道に供したいと逓信省に強く申し入れしてきました。しかし無線電信法ではこの手の民営受信業を認めない方針で、逓信省が受信してそれを通信社に提供(販売)することになったのでした。

1923年(大正12年)4月1日に開局はしたものの、欧州からの長波電波は非常に微弱で、誤字脱字があまりに多く、さすがに逓信省でも通信社に販売することもできず受信機や空中線の改良に専念しました。ハワイの長波を受けていた富岡受信所の河原技手が受信機改良の応援にきたり、空電対策には本省工務課から穴沢技手が出張し対策にあたりました。不幸なことに空電の最大強度の方角が欧州方向と重なり、そのうえ欧州からの電波は大阪の市街地方向から入ってくるため都市ノイズを受けて、長波受信は困難を極めました。

ようやく営業を開始できたのは1924年(大正13年)9月15日でドイツのナウエン局とフランスのボルドー局の長波の新聞放送を受信し、その電文を新聞通信事業者へ販売しました。平野郷受信所は我国の陸上局間の国際公衆電報取扱局としては、対露の落石無線電信局(和田送信所, 根室受信所)、対米の磐城無線電信局(原の町送信所, 富岡受信所)に次ぐ3番目の施設だといって良いのかもしれません。受信だけですが。

稲田課長はこの平野郷にも短波受信を命じています。そもそもドイツ郵政庁からナウエン短波実験局の受信試験依頼から始まったことですから、対欧受信所の平野郷が欧州の短波も受信するのは自然なことでしょう。

『喜連でも大正14年3月、手製のバラック・セットにより短波受信の実験を始めたが、・・・(略)・・・

初期の短波送信では、外国にも水晶制御式のものがなく、大部分が自励発振器をそのまま空中線に接続するか、改良型でもそれを1,2段電力増幅して発射するという方式だったから、受話の音色がきわめて粗悪なのに加えて動作中に周波数の変動することは送受信機に共通だった。それで受信の際は絶えず受信機のバリコンを回してシグナルを追跡しなければならぬなど、とても繁雑だったが、空電や人工雑音もほとんどないので長波よりましだというわけで、受信機を組立てた技手よりもむしろ通信士の方が興味を持ち、率先して欧州局の探聴に努力した。つまり長波はいくら調整してみても空電にじゃまされる時間が多いので、フェ-ディングはあるけれども短波を補助的に使えば受信は完璧になるという期待だったが、みごとその努力は報われて昭和2年の始めころからは長短両波併用の放送電報受信が始まって大いに能率をあげた。』 (河原猛夫, "喜連今昔(4) 長波から短波", 『電波時報』, 1973年2月号, 郵政省電監理局, pp52-53)

32) まったく予期せずして、西海岸のアマチュアも受信できてしまった

3月上旬に岩槻で波長99m(3.0MHz)のカフク6XO局、波長145m(2.1MHz)のボリナス6XI局の受信に成功しました。短波受信施設が完成したため、いよいよ逓信省とドイツ郵政庁の共同実験が4月20日より開始されるのですが、その前に大事件が起きました。米国西海岸のアマチュアの電波も受信できたのです。まず穴沢技手のアマチュア局の受信報告を紹介します。

『・・・(略)・・・日本でも受けてみてくれと、アメリカのレディオ・コーポレーションから申し出があったとの事であるが、・・・(略)・・・さっそく目下工事中の埼玉県岩槻町の対植民地東京局受信局の構内に、仮に受信設備を作ったところ装置した翌日から桑港(ボリナス)からハワイ(カフク)に送る短波長通信を明瞭に傍受する事が出来た。・・・(略)・・・その後この受信機に感ずるものは、桑港(ボリナス)ばかりではなくアメリカ、ヨーロッパおよび豪州の別表に示したような素人局が感応した。・・・(略)・・・前記のような素人局が傍受できたのは望外の結果であって、今後もっと受信装置を完全なものにしたならば更に多くの世界の短波長が聞こえるようにも思われる。』

『受信装置としては未だ改良すべき所もたくさんあるが、上述のような簡単な装置でも、米・欧・豪州の短波長は傍受する事が出来た。もし送信装置を作るとなると単に机の上のデザインだけでは実用上いかがかと思われる。日本から発射してみてくれとでも海外から申し込んできた場合には受信のようにすぐに応ずるわけにも行くまいと思う。振動電流の不安定とか能率が上がらないとか、いうような事がありそうである。今度の傍受成績からみても負荷の変化による振動数の変差と思われる不安定が書く送信局とも目立って耳ざわりであった。』 (穴沢忠平, "短波長長距離通信傍受の成績", 『電気之友』, 第52巻第609号, 1925.4.15, 電気之友出版, pp16-18)

上記は3月中旬時点で、米国(6MG他多数)・英国(2YG, 2NM, 2YI)・オーストラリア(3BQ)・ペルシャ(GHH6)を受信しました。穴沢技手の記事からは、まだ岩槻から短波を発信(J1AA)し、世界と交信するなど思ってもいなかったことが読み取れます。

岩槻建設現場の河原技手も、1974年になって当時の様子を回顧されていますので引用しておきます。

『米国西海岸のハムは、RCA局よりずっと弱いけれども、毎晩ピョピョというちょうど小鳥のさえずりのような音色で聞こえてきた。自励発振式の送信だったから、キイを長く押さえていると周波数が変化して時には逃げてしまう。それで受信機のバリコンを絶えず動かしながら受信するのだが、彼らの交信を聞いていると、その送信電力は50W級が最も多く、中には僅か5Wだというものもいた。こんな小電力で本当に太平洋横断通信ができるのだろうかという疑問が当然私たちに起こってきた。』 (河原猛夫, "こちらJ1AA -アマチュア無線局開設当初の想い出-", 『放送技術』, 1974年12月号, NHK出版, p124)

33) なぜ西海岸のRCA局とアマチュア局の受信可能時刻がほぼ同じなの?

穴沢氏も前掲書で次のように語っておられます。

『アメリカの無線規則によれば同国の素人局は一キロワット以上の電力を使用する事は許されていないはずであるから、一キロワット以下の小電力局が日本に毎夜聞こえるという事になる。桑港(ボリナス6XI)の百米附近の短波長は十五キロワットを使用しているとの事であるから、これが聞こえるのは予期と大差はないが前記のような素人局が傍受できたのは望外の結果で・・・(略)・・・』 (穴沢忠平, "短波長長距離通信傍受の成績", 『電気之友』, 第52巻第609号, 1925.4.15, 電気之友出版, p18)

1926年(大正15年)7月発表の中上係長らの電気学会の論文では、送信電力10kWのボリナス6XI(サンフランシスコ)が16時から24時まで受信できて、小電力の西海岸のアマチュア局も弱いながらも、同じ時間帯で入感することから、送信電力が通信可能時間に関係しない点に注目したと報告されています。

『50乃至250ワットの電力を使用する米国西海岸局よりの80メートル波長通信(素人局)も亦略(ボリナスやカフク局と)同程度の通信可能時刻を有す。しかしてその受信感度は、小電力のもの劣ると難其通信可能時間については大差なきは注目に価する。』 (中上豊吉/小野孝/穴沢忠平, "短波長と通信可能時間及通達距離との関係に就いて", 『電気学会雑誌』, 第46巻第456号, 1926.7, 電気学会)

34) 岩槻局は(受信局なのに)なぜ送信に至ったのか?

『今度は八十メートルのバンドを聞いてみたところがアメリカのアマチュアが、盛んに通信をやっているのが入ってきました。そして話を聞いてみると連中は、10ワットとか5ワットで通信しているとのことですね。こんな小さな電力で太平洋を横断して通信が聞こえるのが不思議でならないから、こういう電文で交信していますよということを、荒川さんの手もとに出しましたところ、それでは、実験用に使っている五〇ワットの中波の無線電信送信機があるから、それを改造して試験をやってみろということになりました。ところが、私は送信機をいじったことがありませんし、波長計もないので、佐々木諦さんに来てもらって、官練から機械を岩槻に借りてきて、受信機のわきに五〇ワット送信機を据え付けました。その時の送信管は、二〇三でした。』 (河原猛夫, 『追想 荒川大太郎』, 1980)

『短波送信機を試作

それならこちらからも送信してみようということになり、当時逓信省逓信官吏練習所の実験室にあった50W(UV203号真空管1本を使った自励発振器)中波送信機を岩槻に借りてきて、波長80m帯の送信ができるように改造した。官練(逓信官吏練習所)の佐々木諦技手が応援に来てくれた。』(河原猛夫, "こちらJ1AA -アマチュア無線局開設当初の想い出-", 『放送技術』, 1974年12月号, NHK出版, p124)

要するに、河原技手は「アマチュア達の電文を傍受する限りでは、みんな低電力だと申しておりますが、実に良く聞こえてくるので不思議です。」といった趣旨の報告書を荒川技師に提出したのでしょう。荒川技師は、その報告を稲田課長や中上係長に上げたところ、「ウソかホントかこちらからも送信して確かめてみよ。」ということになり、稲田課長が畠山通信局長の「短波の試験送信」の許可を得たようで、通信局長の許可は「逓信大臣の無線局認可」を意味します。

海外のアマ局との交信の是非についてですが、国際会議や海外視察出張で、稲田課長や中上係長、荒川技師、穴沢技手ら工務課の面々が、短波通信の研究にアマチュアが大いに貢献していることを熟知していたからこそ、すんなりOKがでたものと推測します。

普通なら「受信所建設現場」が短波発信するとは不思議な話ですが、そのきっかけは単純だったようです。

◆電波を出したのは岩槻受信局としてではなく、その建設現場に仮設された通信局工務課の無線局

なお「受信所なのになぜ送信?」という疑問に厳密に答えれば、まだこの地は「岩槻受信所」ではありません。岩槻受信所は1926年(大正15年)3月20日に地元住民を招待し披露式を執り行った後、同年3月31日をもって本省通信局工務課から外局(東京逓信局)の東京無線電信局として引き渡され、4月1日に開所しました。そういう意味でいえば、J1AAの短波通信実験が行われたのは、「岩槻受信所が見込まれている"工務課の建設請負現場"」ですから、「受信所」から電波を出していたのではありません。

【補足】 なお4月1日開所以降も少々東京無線電信局岩槻受信所のJ1AAとして運用されましたが、7月1日の営業開始でフェードアウトしたようです。

35) J1AAの送信機は出力100W、波長79mだった

河原氏は1970年代になって、J1AAの送信機は50Wだったとおっしゃっています。しかし当時の電気学会の論文発表(第45巻第444号, 1925.7)によれば、送信機は芝の官練実験室にあった200W中波送信機(300~750kc)を、官練の佐々木技手が岩槻の送信試験のために100W短波送信機(UV203真空管2個並列にしたハートレー発振回路)へ改造したとあります。この論文は初交信直後の大正14年4月30日の日付けで速報として提出されたもので、信憑性は高くUV203が2本の100Wが真実だと推測します。

36) 1925年(大正14年)4月某日 ・・・J1AA が日米間 太平洋横断通信に成功

敗戦で中国から引き揚げた河原氏は1946年(昭和21年)に電気通信協会の常務理事として再就職されました。1948年(昭和23年)3月、電波局より電気通信協会に『日本無線史』の編纂が発注され、協会は稲田委員長や中上副委員長にその実務を委託しました。さっそく逓信省・陸海軍をはじめとする各方面へ資料収集と原稿執筆を依頼し、1949年(昭和24年)5月にいったん全ての原稿が電波局に納品されました。製本された日本無線史は1950-51年に新生の電波監理委員会から出版されました。

日本無線史第一巻にはJ1AAのことが詳しく記録されています。このような経緯から、中上氏の編集作業には元J1AAオペレーター河原氏の協力があったのは当然のことと推察します。

しかし日本無線史には太平洋横断通信の日は「4月上旬のある夜にJ1AA初送信があって、その翌晩」だと、あいまいな表現で記されました。交信成功から既に四半世紀が経過しており、日本無線史の原稿が執筆された昭和24年時点では、稲田・中上・河原の当事者お三方をもってしても、交信成功日が特定できない状況だったのでしょう。

『送信機の本体としては逓信官吏練習所の実験室にあった二〇〇Wの中波送信機を改造したもので、発振回路を短波に全部手製の部品をもって入れ替えた。・・・(略)・・・発振管としてはUV二〇三ラジオトロン二個を並列接続とし・・・(略)・・・陽極入力は大約一六〇Wであった。・・・(略)・・・出来上がった四月上旬のある夜空中線電流の最大点に調整して CQ CQ de J1AA を繰返したが何等の応答も得られなかった。翌晩は米国の素人局のシグナルを予め受信機でキャッチし、これとビートする点に送信機の加減畜電器をセットし(空中線電力は前夜よりも若干低下した)CQ 呼出を試みた処、直ちに加州(カルフォルニア州)の6RW局から応答があった。時に午後八時三十分であった。こちらからはJ1AA が日本最初の短波実験局であることを説明しQSLカードの交換を約して交信を打ち切った。 』 (電波監理委員会編, "一、岩槻の実験装置 第三節 短波送信機", 『日本無線史 第1巻』, 1950, 電波監理委員会, pp159-160)

上記のとおりp159では交信第一号はカルフォルニア州の6RWであるとしました。しかしこれはp160下段の次の箇所と矛盾が起きます。『同所(岩槻)では大正十四年五月に波長を四〇米に切換えて一層良好な夜間の遠距離通信に成功した。第五・七図BはJ1AAが八〇米及四〇米帯で交信した外国の素人無線家から送られたQSLカードの一部である。』 (電波監理委員会編, "一、岩槻の実験装置 第三節 短波送信機", 『日本無線史 第1巻』, 1950, 電波監理委員会, p160)

図5.7Bとは6RWのQSLカードです。J1AAの初交信の説明箇所(p159)に掲示されるのではなく、単なる海外アマチュア局からのQSLカードの一例として、2ページ後ろのp161に掲示されました。つまり日本無線史第一巻では、6RWのQSLカードが初交信のものだと、一言もいっていない点に注目したいと思います。

つまりこのカードが初交信を証明するものではないことを編集関係者は認識していたのでしょう。

◆交信時刻の不整合

QSLカードの交信日時「4月8日午前2時PST」(太平洋標準時:Pacific Standard Time)は日本時間だと、同じ日の午後7時です。文中にある『時に午後八時三十分であった。』という交信時刻とは整合が取れません。結局このカードでは日米間初交信日を証明できず、日本無線史では初交信を「4月上旬のある夜」とし、この6RWのカードは「J1AAに送られてきたものの一部である」とういう表現に留められたものと私は想像してみました。


それにしてもP159の文中で「初交信の相手局は6RW」だと断定的に書いているのはなぜでしょうか?本来なら初交信の局名はよく分からないので、伏せるつもりだったのに多忙な編集作業の中で最終校正をすり抜けてしまったのでしょうか?もし日本無線史の記述に誤りがないとすれば、次のことが考えられます。

◆初交信は6RWである

◆しかしこの6RWのカードは2回目(あるいは3回目以降)の交信証である

・・・ということでしょうか?

ですがカード交換は初交信に対して発行するのが当時でも通例で、波長が変わった等の特別な理由がない限り、2回目の交信ではカード交換しないのではないでしょうか。なかなか謎は付きませんが、ともかく日本無線史第一巻の編纂当時(昭和24年)には交信日が不明になっていたのは間違いないようです。

(多大の苦労をされ日本無線史編集に携わられた方々には、大変失礼な想像をお許し願いたいのですが、)もうひとつ別の見方もできます。

校正段階で急遽、「交信相手は6RW」ということになり、そのとき同時に第五・七B図に使っていた別の"ある写真"が、この「6RW」のものに差替えられたかもしれないという想像です。というのも、『第五・七図BはJ1AAが八〇米及四〇米帯で交信した外国の素人無線家から送られてきたQSLカードの一部である。』としているのに、実際には80mで交信した6RWのカード1枚だからです。別にこれでおかしいわけではありませんが、私はこの解説から80mや40mで交信した複数のQSLカードが並んだ写真を思い浮かべてしまったからです。

【参考】日本無線史の編纂については、電気通信1978年5月号に掲載された電気通信協会40周年の記念座談会が詳しいので引用しておきます。経営難に陥っていた電気通信協会(工務課OBの梶井氏が会長)が息を吹き返すきっかけになったのが、日本無線史編纂の大型受注でした。

『・・・(略)・・・追放で仕事がなくなって遊んでおられる方で、しかも逓信省、陸海軍その他の機関の幹部の方たちから資料を出していただき、記憶をたどって原稿を書いていただくというようなことでもって、日本の無線の最初から昭和16年までの記録を、整理しようということであり、それを進めるための組織として梶井会長の御指名によって稲田三之助博士を会長に、中上豊吉先生を副会長にした編集委員会なるものが発足いたしました。稲田先生も中上先生も実によく原稿をみてくださいまして、昭和24年の5月に、全部の原稿をまとめ、これを電波局に納入したわけでありますが、・・・(略)・・・

中山 ・・・(略)・・・「日本無線史」、あれは戦後でもって、非常に資料の散逸を心配されたとき、毅然としてあの計画をされて、あれにはあの頃としちゃ、ずい分費用がかかったんでしょうね。

河原 いや。たいへんなものですよ。

中山 それをどこから捻出されたかね。あの「日本無線史」のときもそうだし、外地の電気通信事業史というのをつくったときにも、あれだけの仕事をやるについては、やはり戦犯という問題があって、執筆者の方もその点を懸念していたけど、しかし何といっても戦後でもって苦しいときだったんで、あの原稿料はずい分引揚者その他の助けになったことは、本当にありがたかったと思っております。

網島 ・・・(略)・・・いちばん印象に残っているのは、さきほどの「日本無線史」ですね。終戦直後で、まだ東京なんかバラック建ですよ。そういっちゃなんですけど、中山龍次先生は戦争中のあのカーキ色の服着ておられて、戦争中にわれわれがぶら下げて歩いた・・・・・・。

河原 ズタ袋ね(笑)。

網島 ズタ袋みたいなの、下げておられたんですよね。ある方は追放、ある方は仕事を卒業されて、何かお助けする手はないかと最初に考えたんです。そのとき河原さんが協会の常務でしたよね。そして、たしかそのとき電波局長を私がやっておりまして、きていただいて相談したんですよ。そして、こういう考え方はどうだろうといいましたら、河原さんがそれは非常にいい、いい考えだからぜひやってほしいということであったものですから、私が協会にいって梶井さんにお願いにいったわけですよ。そしたら梶井さんもそれは結構だからやりましょうといわれて、スタートしていただいたんですが、あれは本当に河原さんのお世話になりましたよ。あなたが一生懸命やってくれましたね。

河原 はじめ網島先生のご意向だったかと思うんですが、日本ラジオ協会にやらせようかという、ご意向もあったようでしたね。それを梶井先生のほうに回していただいたということで、非常に感謝しておられました。

網島 あのときは逓信省の電波局がGHQとわりあいうまくいっていまして、それから電波局にああいう予算をとるのにベテランがいて、ずい分予算をとってきましてね。そういうこともあったものですから、お手伝いが ・・・(略)・・・』 (電気通信協会編, "座談会 協会40年のあゆみ", 『電気通信』, 1978.6, 電気通信協会, pp8-9)

37) 1925年(大正14年)4月15日官報・・・「日米間短波長無線電信連絡の成功」

昭和24年に編まれた『日本無線史』第一巻でも真相がハッキリしないなら、もっと時代をさかのぼってみましょう。するとすぐに見つかりました。官報です。

短波帯による日米間太平洋横断通信の初成功に、稲田工務課長や畠山通信局長は大喜びだったようで、大正14年4月15日官報第3791号の雑報にて 『日米間短波長無線電信連絡の成功』 と大々的に公表しました。逓信省通信局としては、さぞや鼻高々だったことでしょう。

『逓信省で埼玉県岩槻町に目下建設中の無線受信局において、客月上旬からヨーロッパ・南北アメリカおよびオースタリーの素人(アマチュア)が発射する短波長電波の感度があったから、引きつづき一箇月余にわたって傍受を続行した結果、短波長による無線電信通信は電力が大きくなくとも、夜間だけは確実にヨーロッパやアメリカと連絡をとることができることを認められたから、四月四日同地に短波長送信装置を仮設して、アメリカ素人局を喚呼したるにただちに応答を得て、日米間小電力短波長の連絡に成功したので、引きつづきなお遠距離の連絡について目下試験をしている。

右の喚呼に最初に応答したのは、アメリカカリフォルニア州パサディナ市在住のフランク、マシック氏で、同氏の所有する送信装置はわづかに五〇ワットを使用したのに過ぎない。

岩槻町に装置せる送信機は、二百ワットの仮設備で、同送信機はなお改良を加えつつあるから、追てはオ―スタリーおよびヨーロッパとも短波長による連絡を試みる見込みである。』 (大正14年4年15日, 官報第3791号)

しかし官報では4月4日に送信機を仮設したとありますが、どうも交信日は微妙な表現で明確ではありません。

官報では初交信相手はパサディナに住むフランク・マシック氏だと発表しました。しかし6RW局のQSL Card には住所は53 Eastwood Drive, San Francisco, Calf.、名前はHorace Wilbertと印刷されています。パサディナといえばロスアンゼルス寄りですが、6RWのカードの住所はサンフランシスコで全然違うし名前も異なります。官報を信じるならば日本無線史にある初交信が6RWという記述は誤っていることになります。

37a) 4月15日の無線タイムスにも同様の記事が

上記官報と同じ4月15日付けの無線タイムスに「幸先よき岩槻無電局」という記事がありましたが、官報が伝える内容と大差ありません。送信機を仮設したのは4月4日で間違いないようですが、初交信(マシック氏)は4日なのか、その後日なのかは、どうもハッキリしません。

『逓信省岩槻無線受信局建設についてはしばしば報道したる通りであるが最近同局工事現場監督の任にある逓信省工務課の穴澤、河原、小野、佐々木の四氏が協力して作り上げた受信機に先月上旬から欧州、南米、北米等のアマチュアが放送する短波長電波が感応したので同所にては四氏引続き一ケ月余りにわたって傍受試験を続けたその結果、短波長無電を夜間なら確実に欧米と連絡し得る事を認められた去る四日同局内に短波長の送信機を仮設し、米国の素人局を呼んだところ直ちに応答を得たのでいよいよその試験の的確なる事を認めたるものにして仄聞(そくぶん)するところによれば最初に応答したのは「カリホルニア」州のパサディナ市のフランク、マシック氏という素人無線技師である。

最初四氏は東京電気製の受信機を使用し空中線もわずかに高さ十五米突(15m)の小さなものを建て、試験に従事したるところ米国を始め濠洲、英国、オーストラリア、南米アルゼンチン諸国から発信せらるる短波長電波が類々と感応するに大いに力を得て研究したる結果ついにその局名まで判明するに至った次第で前記マシック氏の送信機はわずか五十「ワット」に過ぎないものであると、・・・(略)・・・』 ("幸先よき岩槻無電局", 『無線タイムス』, 1925.4.15, p2)

ちなみに『無線タイムス』は無線業界の専門紙で毎月5, 15, 25日に発行されていました。次の4月25日号には無線タイムスの記者が岩槻無線を訪問取材した「岩槻無電局を訪う」という記事がありますが、日米交信には触れられていませんでした。

『 上野駅を十二時九分に出た汽車の中に前橋の農学校の学生一行が修学旅行の帰りと見えて盛んに質実剛健ぶりを発揮しながら海苔巻き「寿司」を頬張ったり、土産にしこたま買い込んだ絵葉書に見入ったりしているが、たまたま二つ三つ線路に沿った家に「アンテナ」のあるのを見付け出すたびにラヂオ!ラヂオ!と大声に呼ばわる。・・・(略)・・・

同局(岩槻局)目下の仕事としては全ての開局準備を急いでいる事は無論であるが、本紙が前号(4/15)に報道したる短波長の試験に全力を傾注している。該試験に対しては時々本省からも荒川技師などわざわざ出張せられ該試験の監督をしておられる。同所に短波長専門の研究としては穴澤、小野、佐々木、河原(順位不同)の四技手が懸命に研究されている。目下これに使用されている受信機はラヂオコーポレーションの部品を使用し、逓信省製作監督の下に日本無線会社がこれを組立てたるもので本機の生命ともいうべき真空管はUVの二〇三号を二つ使用しわずかに百ワットである。これに使用されているアンテナは送受信共その高さ七十尺(=21m)の二十番七箇撚りの銅線である。架設の様式は傾斜型ともいうもので無造作に斜めに上より垂れているにすぎぬ。佐々木技手の談によると短波長の面白い現象はアンテナが無くとも送受信が思う様に出来る事である。送受信に最も適当なる波長は百五十ないし八十米突(=2.0-3.75MHz)の所で昼よりも夜が感度がよいとの事だ。 』 ("幸先よき岩槻無電局", 『無線タイムス』, 1925.4.25, p2)

余談ですが、短波受信が始まったばかりの1925年(大正14年)春の頃、短波は簡単なアンテナでも良いと考えられたようで、このあと電気試験所が平磯で受信試験した際にも空中線には簡易なものが使われています。

38) 新聞報道によれば1925年(大正14年)4月6日が日米太平洋横断通信の日

4月15日の官報や無線タイムスより、もっと直近の発表を捜してみました。すると4月10日の読売新聞と時事新報の記事になっていましたので引用させて頂きます。読売新聞の記事は官報発表とそっくりですね。逓信省からプレス向け発表が先にあり、その文章が10日付の読売の記事となり、さらに15日の官報でも掲載されたものと想像します。

『 日米間無線電信の成功 小電力の短波長で連絡

逓信省では埼玉県岩槻町に無線電信局で客月上旬から欧州、南米、北米及豪洲の素人が発射する短波長電波の感応があったので引続き一ヶ月余に亘り傍受を続行した結果 短波長に依る無線電信通信は電力大ならずともいえども夜間だけは確実に欧米と連絡し得ることを認められ 本月4日同地に短波長送信装置を仮設し米国素人局を喚呼したがただちに応答を得 日米間小電力短波長の連絡に成功し引続きなお遠距離の連絡につき目下試験をなしつつあり。右喚呼に最初に応答せるは米国カリフォルニア州パサディナ市在住のフランク・マシック氏にして同氏所有の送信装置は僅五〇ワットを使用せるに過ぎない。なお岩槻に装置せる送信機は二百ワットの仮設備して・・・(後略)・・・』 (『読売新聞』, 大正14年4月10日, p8)

同じ10日の『時事新報』は河原・穴沢・小野・佐々木の各氏に直接取材した上で、4月6日に交信したと報じました。交信直後の記事ですから交信日を間違うことはないでしょう。

『 北米南米英国などと短波長無電連絡に成功 岩槻受信局の四技師が手製の仮機械で驚くべき新記録

逓信省では目下埼玉県岩槻町に無線受信局を建設中であるが、同所詰の現場監督河原、穴沢、小野、佐々木の四技師が仕事の余暇に製った無線電信が計らずも日本無線界の新記録を二つまで美事に記録し得たことは近来の快事で同時に一大収穫である。

四氏は協力して最初東京電気製の真空管二個で粗末な受信機を組立てアンテナも高さ十五米突の小さなものを建てて試験を行った処、夜になると米国を初め濠洲、英国南米アルゼンチン諸国から発射される短波長電波は頻々と感応するので、これに力を得て四氏が研究した結果遂にその局名まで判明するに至った、更に本月四日には二百ワットユウヴイ二〇三真空管二個の送信機を据つけて約八十米突の短波長で送信すると六日午後八時頃最初に米国カリフォルニヤ州パサデナ市在住フランク、マシック氏が応答して両者は太平洋を隔てて完全に通信を交すことが出来た・・・(後略)・・・』 (『時事新報』, 大正14年4月10日)

記事はイギリスの2YG, 2YI, 2NM、オーストラリアの3BQなどを受信したことなどにも触れて、『四氏は交々語る「米国の素人は却々熱心です午後は四時頃から十一時頃までが一番よく、聞こえて来ますが、其頃は向うの夜中過ぎから明け方です。それ故向うから来る符号では最初にゲッド、モーニング(お早う)と言って来ます。・・・(略)・・・私等は昼間別に職に勤めて夜になってこんな試験をするのですから毎夜夜明しを続けています。」と、同受信局は建坪約七百坪階下は鉄筋コンクリートで二階は木造で町裏の畑中にあり、漸く局舎の外廊が出来たばかりである。』と結んでいますが、『四氏は交々語る・・・』ということなので、現地取材を行ったと考えられます。

◆検証してみると・・・

河原猛夫氏が「アメリカと交信できました」と上司に知らせた状況を記されていますので引用します。

『かくして日本の短波も稲田さんの一喝によって欧米に劣らず太平洋横断に成功したわけだから、翌朝電話でその旨を本省の穴沢技手を介して上司に報告した。』 (河原猛夫, "短波と共に五十年", 『逓信協会雑誌』, 1974年5月号, 逓信協会, p34)

もし初交信が(現在Webで散見される)4月8日夜の6RWなら、4月9日の朝に本省の穴沢氏に電話で報告したのでしょう。しかし4月10日の新聞に記事になっています。すると9日朝に電話報告を受けた通信局工務課は、お昼にはプレス発表し、同日午後には『時事新報』の記者が埼玉の岩槻受信所建設現場に急行し、河原・穴沢・小野・佐々木氏らを取材したことになります。

9日朝には穴沢氏は本省にいました。小野氏や佐々木氏は逓信官吏練習所で教官をされていますから、9日は芝の官練にいた可能性があります。しかし『四氏は交々語る・・・』ので、これら3氏も取材にあわせて急遽、岩槻へ向かったとしか説明が付きません。

もちろんそれが無理ではないでしょうが、私はこの記事のとおり初交信は4月6日ではないかと思うのです。

39) 逓信省の短波実験を電気学会で公表。初交信の相手は6BBQ!

1926年(大正15年)3月31日、逓信省工務局は建設していた岩槻受信所を東京逓信局へ引渡したことをひとつの区切りとして、同年7月、中上係長・小野技師・穴沢技手が電気学会へその成果を論文発表しました。

1925年(大正14年)3月にRCAのカフク局(6XO)・ボリナス局(6XI)の受信に成功して以来、ドイツ郵政庁からの依頼を受けたナウエン局(POX, POW)の受信試験や、J1AAによる送信・交信試験や、落石無線電信局での国内伝搬測定などをまとめたものです。

『本試験は総じて岩槻において施行せられたるものにして、昨年初めレジオ、コーポレーション、オブ、アメリカ所属桑港附近ボリナス局 6XI 99メートル持続電波、及びホノルル附近カフク局 6XO 145メートル持続電波による通信を傍受したるに始まる。・・・(略)・・・

99メートル受信の好成績にかえりみ、更に米国素人局用電波長として、米国領土内に許容せられたる80メートル持続電波によりその当時素人局相互間に交換されつつありし通信の傍受を試みたるに、その送信電力は、空中線にて5ワットないし250ワットの小電力なるにかかわらず、日米共に夜間なる時、まず米国西海岸に面せるこれら小電力の発信が、充分受信に耐えゆる程度の感応を与え、さらに試験を進めるに米国全土のものを漸次聴取し得たり。

ここにおいて岩槻局にも短波長送信装置を設備し、電力100ワット 波長79メートルの持続電波をもって米国素人局をかん呼せるに、直ちに加州 6BBQ局より感応強勢との応答を得、互いに通信試験を試み爾後(じご)5月上旬まで同波長にて米国、ニュージーランド、ハワイ、フィリッピン等の短波長無線局と通信試験を続行せり。』 (中上豊吉/小野孝/穴沢忠平, "短波長と通信可能時間及通達距離との関係に就いて", 『電気学会雑誌』第46巻第456号, 1926.7, 電気学会, p696)

大正14年から15年にかけての逓信省の短波実験に関するもっとも信頼できる資料がこれです。初めての交信相手のコールサインは6BBQであるとはっきりと記されています。しかしこの論文には初交信の日付や名前はありませんでした。(下図クリックで拡大)

【注】 一般にいわれる初交信の使用波長80メートルというのは、丸めた表現であり、この論文にある79メートル(3.8MHz)が正しいと思われます。

40) おおっ!日付とコールサインのセット発見!・・・と思ったら

上記論文には初交信の相手が6BBQだとしましたが、交信日付がありません。そこで他にも探したところ、電気雑誌OHMの1926年(大正15年)1月号が見つかりました。『よって試みに前記第3図乙に示せるがごとき電力100ワットの手製の79メートル波長の送信機を急造し、4月6日夜半突然無警告のまま岩槻局より全米無線局を喚呼せるに加州(カリフォルニア州)の6BBG局なる素人無線局より感度強勢の速答を得たるを始めとし、陸続として交信依頼を打電し来リ、実際交信試験を行へるもの又数多きを加えたのである。』 (小野孝, "短波長通信に就いて", 『電気雑誌OHM』, 1926.1, p42)

筆者は4月10日の時事新報でも取材を受けた通信局工務課の小野技師です。ついに4月6日の日付と6BBQというコールサインが同時に見つかったと思ったら・・・なんとコールサインの3文字目が間違っていて、6BBGになっているではありませんか!誤植でしょうか?本当に残念です・・・

41) 解明! J1AA 初交信は1925年(大正14年)4月6日、相手局はパサディナの6BBQ

さらに日付・氏名・呼出符号の3点セットになった文献を探してみました。すると逓信関係者の無線倶楽部が発行する「無線」(第20号, 大正14年6月10日発行)の「日米間短波長連絡成功」という記事に、4月4日設置、4月6日初交信、相手はフランクマシック氏で6BBQ とありました。ついに交信日と名前とコールサインが同時に明らかになりました。以下引用します。

『逓信省が埼玉県岩槻町に目下建設中の無線受信局では、三月初旬から欧州、南米、北米、豪州のアマチュアが発射する短波長の感応があったから、引続き実験の結果、短波長により、夜間は欧米と小電力の連絡確実なることを確めたので、四月四日同所に短波長送信装置を設置して、六日に米国局を探呼した所ただちに応答を得、日米間小電力短波長の連絡に見事成功し、なお引続き遠距離の連絡について試験中である。此の喚呼に最初に応答したのは、米国加州パサディナ在住のフランク、マシック氏所有の 6BBQ で、其の送信電力は、僅か五十ワットを使用したに過ぎない。岩槻の装置は二百ワットの仮設備で、アンテナ電流九百ミリアムペーア、波長約八十メートルで、午後九時から十時迄完全に交信した。

米国加州と約五千哩(マイル)の短波長通信に成功した岩槻受信局では、引続き毎夜加州のアマチュア局と試験中であったが、四月十日夜、桑港(サンフランシスコ)より更に約一千哩離れたテキサス州の素人無線局との交信に成功した。同局では、更に紐育(ニューヨーク)間の通信につき実験中で、これに成功した場合は、巴里(パリ)と同距離になるゆえ、欧州との通信も可能性を帯びることになる。』 ("日米間短波長連絡成功", 『無線』, 1925年6月10日, 磐城無線電信局富岡受信所無線倶楽部, p33)

1925年版の米国商務省発行のコールブックで6BBQを探すと、パサディナ市在住のフランク・マシック氏(Frank Macik)でした。官報や新聞で報じられたマシック氏は6BBQ に間違いありません。

(Amateur Radio Station of the United States, Dept. of Commerce, Radio Division, Ed.June 30,1925, US Gov. Printing Office)

さらに古い商務省のコールブックを順番に調べて行くと6BBQが初めて登場するのは1922年(大正11年)版ということがわかりました。これは事業年度末(すなわち1922年6月30日時点)で集計された商務省の公式リストで、6BBQは1921年7月1日から1922年6月30日までのどこかで開局したことになります。せっかくですからもう少し調査してみました。下図はアマチュア無線月刊誌Radio(1921年12月号, p210)にある、"A Monthly Depertment of Information for our Readers"というサブタイトルが付けられた"With The U-S-Radio Inspector: conducted by Major J.F. Dillon"というコーナーです。同誌編集部が商務省から新局情報の提供を受けてこれを掲載しています。昭和の頃、日本のCQ ham radio誌に「コールブック速報版」という小冊子が附録で付いておりましたが、意味合いとしてはそれに近いものだと思います。

1921年12月号には6thディストリクトの新局6AWQ~6BERの131局が掲載されており、ここに6BBQが見えます(左図下から2番目)。これから想像するに、マシック氏は1921年秋頃に開局されたのではないでしょうか。

のちにDX'erとして有名になる6AWTもリストの上から4局目に見えますね。後述しますが1926年春にJ1AA河原氏は6AWTのシャックを訪ねています。

ところでこのリストをよく御覧ください。...6AWW, 6AWX, 6AWY, 6AWZと来て、その次が6BAA, 6BAB, 6BAC...になっています。6AWZの次は6AXAではなく、Bへ飛んで6BAAです。なぜでしょうか?

商務省は1912年にコールサインの指定基準をAA-WA(アマチュア局)、XA-XZ(実験局)、YA-YZ(無線訓練学校局)、ZA-ZZ(特別アマチュア局)と定めました。しかし6thディストリクトのようにアマチュア無線人口の多いエリアでは、ついに2文字コール(6AA-6WZ)が枯渇し、3文字コール(6AAA~)の発給が始まりました。このとき実験局に6AXA-6AXZ、無線訓練学校局に6AYA-6AYZ、特別アマチュア局に6AZA-6AZZが取り置きされたためです。つまり当初は「6AXA-6AZZ」の78局分のコールサインはアマチュアには発給されませんでした(後になり、実験局・無線訓練学校局・特別アマチュア局の3文字コールは、実験局XAA-XZZ、無線訓練学校局YAA-YZZ、特別アマチュア局ZAA-ZZZになった)。

参考までに下が6BBQ局の1923年頃と思われるカードです。 【注】J1AAとの交信カードではありません(htpps://picasaweb.google.com より)

さらに商務省の1923年版コールブックでは6CNSも取得したことも分かりました。つまり彼は2つのコールサインを持っていたようです。

そしてフランク・マシック氏(6BBQ/6CNS)はパサディナ高校在学中には無線部(the Pasadena High School Radio Club: Callsign 6DK)部長も務めた、アマチュア無線がまだ中波(200m, 1500kHz)時代の極めて初期のアマチュア無線家のひとりでした。

彼は1906年生まれと伝えられていますので、開局した1921年は15歳で、1925年のJ1AA岩槻との交信は19歳の頃だったようです。短波の開拓が科学を志す若者たちにより為されたのは素晴らしい事だと思いました。

● 出典の「無線」誌とは?

1918年(大正7年)1月に発刊された『無線』誌(上記)は我国最古の無線専門誌です(正確には会誌)。逓信官吏練習所無線科第七期生が卒業するときに、我国無線界の発展のために、内外の最新無線文献から厳選された情報を紹介する専門情報誌があれば良いのにと声が上がりました。逓信省工務課では海外無線雑誌を定期購読していますが、個人での輸入は中々大変だったようです。

官練第七期生は官練の教官を兼務する逓信省工務課の佐伯技師や中上技師の賛同を得て、無線倶楽部を結成し、その会費収入で年四回の出版費をまかないました。無線倶楽部の会長には工務課の浦田課長が就任し、佐伯技師が理事長、中上技師は理事でした。発足当初は船橋無線電信局内に事務局を置きましたが、そのご逓信省磐城無線電信局富岡受信所に移りました。逓信関係者を中心に多くの会員を集めたようです。「電波時報」の前身のようなものともいえるのかもしれません。この記事は河原技手ご自身が書かれたのではと私は想像します。

【参考】同じ1918年(大正7年)の9月10日に創刊された『無線之日本』誌が日本初の一般無線雑誌だといわれています。

『 次いで(大正7年)九月十日には、我国最初の無線電信雑誌『無線之日本』—月刊― が、無線電報通信社より発刊せられたのである。』 (ラヂオ協会編, 『日本ラヂオ総覧』, 1929, ラヂオ協会, p14)

42) 河原技手の6RW訪問記では「6RWを初の日米通信の相手」だとは言っていない

日米初交信から1年が経とうとしていた1926年(大正15年)春、逓信省は太平洋航路の汽船春洋丸JSHに短波無線機を取付け航海しながら日本と定時通信実験するため、短波通信の先駆者であるJ1AAの河原技手を乗船させました。実験については改めて紹介しますが、河原技手はサンフランシスコ停泊中の余暇を利用し地元のアマチュアと交流しました。4月2日に横浜に戻られて、ただちに「短波長実験家を訪ねて」(河原猛夫, 『科学知識』, 1926年6月号, pp56-59)という現地アマチュアとの交流・紀行文を書かれています。

3月8日にサンフランシスコ港に到着し、翌9日にRCA社を訪問して交信相手のボリナス局(6XI, KEL)の施設見学を申し入れましたが、責任者(ポーター氏)不在で許可が得られませんでした。以下引用します。

『・・・翌10日は約束通りポーター氏に面会をすることが出来て、ボリナス見学の許可証ももらった。同氏は左手を包帯でグルグル巻いて首に吊るし、いかにも不自由そうに右手だけで仕事をしていたが、心よく面会し色々便宜をはかって、KGO放送局見学の手配までもしてくれたのは感謝のいたりであった。見学許可証はもらったけれど時間の関係でその日は出掛けることが出来ず、それかといって市内見物もつまらない様に思われたから、シャックリン氏に依頼して紹介状をもらい、ユニオン ストリートのレジオアマチュア ピー モリナス氏を訪問した。』

このようにRCAのシャックリン氏に紹介状を書いてもらって6AWTモリナス氏の家を訪ねました。そして6AWTのシャックを見学した後、6AWTは近所のハム仲間6CHLを紹介してくれたり、6RWにも連絡してくれました。

では6RWに関する部分を同書から引用します。

『6AWTは私の依頼をいれて電話で6RWを呼んでくれた。6RWはそこから約1里ほども離れたところに工場を持って自動車の修繕販売業を営んでいるのであるが、二十分ほど待つと元気よくやって来て、三人でその晩開かれるサンフランシスコのアマチュア会合へ出席するように私を勧誘した。しかし私は翌朝早くボリナスへ行く予定であるから残念ながら彼らの勧誘を辞し、AWTおよびCHLに再会を約束して6RWに伴われ彼の工場へと向かった。

6RWは今度新しく五〇〇ワットの水冷却式送信真空管を得たとかで、そのプレート用変圧器を工場の一隅で製作していた。本職の自動車修繕は職工に託しておいて、自分は一生懸命に変圧器の巻き直しをやっているのである。6RWはその工場で働いている他のアマチュア6TXを紹介してくれた。そして6TXは私を真空管修繕所に連れて行って破損した送受信用真空管の修理状況を説明し、同所に保管してある6RWの五〇〇ワット水冷式真空管をも示した。

聞くところによると同所では破損真空管を元通りのものとなすのにわずか元値の二・三割の費用を要するのみで、かつ修理後の動作は全く確実であるという。それは偽りでもないらしく、私は6RWの家で修繕所の手を数回もくぐったという(フィラメントが断線しこれを修理したもの)二五〇ワットの送信真空管が完全に動作しつつあるのを見て、日本にも早くこの種の真空管修繕所が出来ればいいと思った。RWはその晩ぜひ自分の家へ来るようにと誘ったけれど、私は翌朝早く出掛けねばならぬので土曜日の午後再会を約束して船へと帰った。』

11日はRCAボリナス局の見学。13日午前にKGO放送局を訪ね20m帯の短波実験送信機などを見学し、午後に約束した6RWの自宅を訪ねます。

『正午ごろ船へ帰って待っていると約束通り6RWがやって来て、一緒に彼の実験室を訪ねるべく出掛けた。途中KFUHの経営する工場に寄ったが、その工場は大仕掛けで短波長送受信機を専門に製作していて、今は主に海軍無線局へ納入する品を製作しつつあると語っていた。RWの紹介でJ1AAが来たといって、一緒に働いていた6TSまで出て来て握手を交わし、みんなで岩槻(J1AA)や練習所(J1PP)のシグナルを批評してくれた。6TSは私の聴いた二〇メートル・シグナルの最初のアマチュア局であった。その工場で最も目についたのは、送信用加減蓄電器の理想に近い低損失品が種々の形において製作されつつあることであった。6TSが世界各国と交信したと称する四〇〇ワット送信機もそこに見出された。KFUHが軍艦に乗込んで試験に従事した当時の写真もたくさんあった。何事によらず大仕掛けの規模を持って研究に従事し得る彼らをうらやましく思わずにはいられない。

6RWはその日妻子が親戚の家にいるから、伴って帰るというので私も同行し、みんなで有名な金門公園や太平洋岸の海水浴場、シールロック等を見回って彼の家へ帰り着いたのが午後六時過ぎであった。晩餐後彼はタヒチ島のBAM局と交信すべく、階下の実験室へと私を伴った。受話器を耳にした私は、四〇メートル付近において余りに多い混信妨害のためしばし唖然たるものがあった。米国中のアマチュア局はほとんど同じような感度で侵入して来るからである。ニューヨークのもテキサスのもほとんど同じような感じで聞かれる。なるほどこれでは外国との交信に異なった波長帯を要するなと痛感した。BAM局との交信は十二時近くまで継続されたが、のち私は彼の機械を借りて豪州(オーストラリア)との通信を思い立ち、数回CQを送信したが、昼間の疲れで眠くなったから相手の返事せぬを幸い打切って、彼の宅で一晩の厄介になったわけである。

翌日は日曜日である。私は朝から十一時頃まで彼の受信機を使って二〇メートル帯の傍受を行って多数のアマチュアを聞くことが出来た。しかし二〇メートル帯は四〇メートル帯よりも、遥かに使用者が少ないようである。彼の宅での実験結果によると、受信の妨害誘導は一番自動車から来るものが多く、家の前を自動車が通過する都度、微弱な受話音は打消されるのが常であった。彼の家は電車通りから三町離れたイースト・ウッド・ドライブの住宅地の中であったから、電力線や電車線からの誘導妨害はほとんどない様であったが、自動車からの妨害はもっとも激しく思われた。

RWの子供は四人いて一番年少のを除き他はみな無線の通信符号が判るのには驚いた。試みに一人の子に向かってJ1AAを符号でいってごらんなさいといえば、次のごとくすぐに答えた。いわく「ドダダダ ドダダダダ ドダ ドダ」ここにドはドット、ダはダッシュを意味するのである。私は外国のアマチュアがほとんど本職の通信者に劣らぬほど上手に、無線電信通信を行い得る理由はここにありとわかった様な気がした。

6RWは親切に船まで私を送り帰してくれた。私の求めんとしていた二、三の品をプレゼントとして持参しながら。彼は本当に親切で、元気で愉快な男であった。私は彼の幸福を祈らざるを得ない。短いサンフランシスコ停泊中の数日も彼のために極めて有意義な時を持つことが出来た。』 (河原猛夫, 『科学知識』, 1926年6月号, pp56-59)

現地時間でいう1926年(大正15年)3月14日(日)に日付が変わる深夜0時頃より、日本人が米国アマチュア宅で(実交信には至らなかったものの)ゲストオペレータとして運用しました。出張期間中ではありますが、その訪問目的も時間帯も完全にプライベートなもので、これは純粋なる「アマチュア無線」だったといえるでしょう。つまり日本人によるアマチュア無線の海外運用第一号は河原猛夫氏で、JARLが結成されるよりも前のことでした。

【参考】 これより以前に米国留学中の楠本哲秀(帰国後JLZB)氏が現地でアマチュア無線されていました。したがって河原氏は日本からの一時渡航者による初のアマチュア局の海外運用です。また海外のアマチュア無線家の家を初めて訪ねたのは、軍艦多摩の野村通信長らです。1925年(大正14年)8月27日から9月1日までカリフォルニアのサンペドロに滞在した際に、短波のアドバイスをもらいに訪問しています(J1PP J8AA のページ参照)。

ところで河原技手は日米太平洋横断通信に初めて成功した相手局がこの6RWだとは一切言っていないことに注目して欲しいと思います。しかし3月13日の午後、6RWの自宅に向かう途中で6TSを紹介された河原技手は、6TSを「私の聴いた20mシグナルの最初のアマチュア局」だと書かれています。初めて受信した局を紹介するぐらいですから、もしJ1AAの日米初交信の相手が6RWならば、一緒に金門公園に立寄ったとか、子供がモールスコードを知っていたとかより、真っ先に「彼こそが、私(J1AA)と日米初交信を成し遂げた相手なのである。」の一言があるはずだと思うのです。

そして訪問記の最後では、お世話になった6RWを『彼は本当に親切で、元気で愉快な男であった。私は彼の幸福を祈らざるを得ない。』と締めくくっていますが、ここでも記念すべき日米初交信の偉業達成した相手であること称えないはずがないと思うのです。

私はこの記事を読んで、日米初交信の相手は当時の「官報」・「新聞」・「逓信省富岡無線倶楽部誌」・「電気学会論文」のいずれもが伝えているパサディナ在住のマシック氏(6BBQ)で間違いないと確信するに至りましたが、皆さんはいかがお感じになりましたでしょうか?

43) そして中上氏も当時の著書の中で6RWを初交信の相手だとは言っていない

1926年(大正15年)7月1日、中上豊吉係長はJ1PPの小野孝技師と共著で「短波長無線電信電話」という本をオーム社から出版されました。J1AAの短波実験成果は中上係長・小野技師・穴沢筆頭技手が電気学会で論文発表しましたが、それと同時期に学会誌ではなく、広く一般にも発表するために書かれたものです。

この「短波長無線電信電話」の冒頭には稲田工務局が序文を寄せられ、逓信省工務局の"稲田一家"が一丸となり、世の一般の読者向けに、短波の送受信機、空中線、伝播、最新海外動向などを紹介しています。この書には海外アマチュアからJ1AAとJ1PPに届いたQSLカードの写真がいろいろと掲載されていますが、そこには6RWのカード(左図:QSLをクリックで拡大)も含まれています。同書より引用します。


本文中でどのように紹介しているかというと、左図のとおり『第3図は米国カリフォルニア州よりのもので岩槻J1AAへ来たもの』と説明するだけでした。もし6RWが初交信の相手なら、他のカードとは同列に並べず特別扱いがあってもよさそうなものです。

【参考】このカードには交信データが一切記入されていないことから、河原技手が同年3月に6RW宅を訪問した際に、直接受け取った無記名のカードを同書に掲載したのだろうと推測されます。

44) 工務課無線係の穴沢技手の記事

官報などが伝えるところの初交信の相手、マシック氏(6BBQ)が他にも露出した事例がないか知らべてみました。日米初交信に成功した直後の「無線と実験」(1925年6月号)に逓信省通信局工務課無線係の穴沢筆頭技手が短波でアマチュアの交信を聞きたければ、まずモールス符号を覚えること、そして実際的なアマチュアの交信電文を紹介されていますので引用します。穴沢氏は河原氏の先輩にあたります。

『米国の素人局が日本に聞こえるという題で四月号に短波長受信機の試作を紹介したところ、右受信機各部の詳細について種々の質問があり、かつまた案外わが国においても外国を傍受してみようという熱心家が多いようであるから、再び短波長の受信について注意すべき点を記述して参考に資する事とする。・・・(略)・・・今の場合百米以下の短波長の電話については外国のものを傍受した例がない。先日豪州の素人局が英国を呼んで「QRX」と送信しているのを二度ばかり聞いたが電話の方はどうも聞こえなかったような次第で、傍受の出来るのは主として電信だけである。ゆえに短波長の受信装置を持とうとする方は電信符号を知っておかないと全然興味のないことになる。ただどこだか聞いただけでは何にもならない。ところで電信符号を読めても聞こえたものがどこの国であるかを確かめなければならない。これは欧米各国には素人連盟とでもいうか、国際的に素人同志で約束がしてあって呼出符号が定めてあって容易に識別し得るようになっている。飛行機につける標識符号の一番初めの字でその所属国がわかるように素人局の呼出には次のような割当てがしてある。

A オーストラリア、 B 加奈太、 F 佛蘭西、 G 英国、 I 伊太利、 M メキシコ、 N 和蘭、 O 南米、 P ポルトガル、 Q キューバ、 R アルゼンチン、 S スペイン、 U 米国、 Z ニュージーランド

この文字を呼出す局と呼出される局に従って次のように使用する。例えば米国の6BBQ局が豪州の2CM局を呼ぶ場合には 2CM AU 6BBQ すなわちまず被呼局の呼出符号、被呼国の割当文字に呼局国の割当文字を付したもの、次に呼出局名というように使用するのである。

もうひとつ例を挙げてみれば豪州の2CM局が英国の2NM局を呼出すには 2NM GA 2CM という順序で呼ぶのである。それに対する2NMの応答は 2CM AG 2NM という順序になるのである故に今発信しているのは何国であるかという事は直ちに識別できる。2とか3とかいうような数字は英国米国豪州加奈太というようなたくさんの素人局のある国はその行政区域によって1つのグループを作りその区内にある素人局は皆同一の数字を使用する。従って何国の何州の辺にあるかもすぐわかる。例えば米国ならば6という数字をつけてきたらこれはカルフォルニア、ネヴァダ、アリゾナ州にある局である。・・・(略)・・・さらにその次にくる文字は、これは各国の呼出帳を見るより外はないが、海外の雑誌に有名な素人局の住所が出ているから大抵のものはその発信をする人の名もわかる。』 (穴沢忠平, "短波長受信に就いて", 『無線と実験』1925年6月号, 誠文堂新光社, p202)

別に6BBQが初交信の相手だと書かれているわけではありません。ですがアマチュアの交信例を挙げるだけなので、どんなコールサインでも良いのに、まず最初に用いたのがマシック氏の6BBQでした。この記事は日米初交信の直後であることから、やはり当時の工務課無線係のメンバーにとって6BBQは特別なコールサインだったのではないでしょうか?

45) 主婦之友出社の今井紀氏も・・・

当時無線関係に力を入れていた主婦之友社の今井氏が、『無線と実験』誌1926年(大正15年)11月号に書かれた記事「短波長送信機の研究」にも6BBQが登場しますので参考までに引用します。

アマチュア通信の事例として、原文のまま引用すると、『JJJ CQCQCQJCQJCQ JU6BBQ 6BBQ ・・・』ですが、スペース(空白)が印刷所にうまく伝わらず、たぶん本心は『J J J CQ CQ CQ J CQ J CQ JU 6BBQ 6BBQ ・・・』だったのでしょう。このように大正時代には、みんなが日米初交信の相手を6BBQと認識していたかも知れませんね。

46) まず初交信日が4月8日に、次に交信時刻が午後七時に変化

初交信の日は新聞などで1925年(大正14年)4月6日だと報じられていたものの、やがて皆から忘れ去られてしまい、ついに日本無線史第一巻の編集時にはその交信日は不明になったと想像されます。およそ25年もの歳月を経た出来事ですから無理もないのかもしれません。

そして不明だった交信日が4月8日であるといわれるようになったわけですが、その始まりはいつ頃だったのでしょうか。私が調べた限りでは1974年(昭和49年)の河原氏の記事でした。

河原氏は初の民間短波放送である日本短波放送NSBの設立メンバーとして多忙な日々を送られました。そしてNSBも軌道に乗り、技術顧問として第一線を退かれようとしていた頃より、J1AAの思い出について筆を執られるようになりました。初交信に関する箇所を、順を追って引用します。

◎1969年6月(電波時報)

『大正14年の春岩槻にいたとき、わずか50Wの小電力で米国のアマチュアと初めて短波の交信に成功した時はとてもうれしかったが、この波には空電が少ない代わりにフェージングがあって困った。』 (河原猛夫, "随想 電波の完全利用", 『電波時報』, 1969年6月号, p4) おそらくこれが河原氏ご自身の名前で日米初交信を発表された最初の記事ではないでしょうか。

◎1970年6月(電波時報)

『しかしながら、大正14年の春、埼玉県の岩槻受信所で長波受信機のすえつけ工事中に、上司の命で短波の実験をやる好機にめぐまれ、わずか50Wの手製送信機で、波長80mを使い、米国西海岸のアマチュア局と毎晩交信できることを確認したときの感激は今も記憶に新たなものがある。』 (河原猛夫, "短波とともに", 『電波時報』, 1970年6月号, p66)

◎1973年2月(電波時報)

『わが国の短波実験は大正14年1月、当時長波無線局の一部として新設中の岩槻受信所において、手作りの受信機によりハワイとサンフランシスコの無線局が90m帯で交信しているのを傍受したのに始まる。その感度がすごく良いので、試みに50Wの送信機を作って同年3月80m帯で CQ uj 1AA の呼び出しを繰り返してみたところまもなく米国加州のアマチュアから応答があった。』 (河原猛夫, "喜連今昔4 長波から短波", 『電波時報』, 1973年2月号, p52)

ここまでは交信日も、交信相手も、明確ではありませんでした。J1AAを語るための記事でもなく、引用した通り、文の流れの中でさらりと触れたに過ぎません。しかし1974年(昭和49年)にJ1AAをクローズアップした3ページもの記事が河原氏によって書かれました。

◎1974年5月(逓信協会雑誌)

『そのときの岩槻無線の呼出符号は、日本最初のアマチュア無線局という意味で、私が勝手にJ1AAと決めた。忘れもしない昭和(注;大正の誤植)十四年四月八日のことである。夕食後機械室に戻って、先ず受信機を米国アマチュア局の波長八十米に合わせた。つぎに手製送信機のダイアルを入念に加減し、送信波長を八十米とした。そこでアマチュア局の真似をして CQ uj 1AA を繰返し送信した。uj は米国(u)を日本(j)から呼んでいるという意味である。しばらくたってからU6RW局がJ1AAを呼んでいるのに気が付いた。しめたと思い乍応答すると先方はQRA? という。私は名古屋の通信生養成所でモールス通信を教わり、磐城無線局では対米通信に使われるQ符号を大体覚えていたが、移動通信に使われるQRAは知らなかった。先輩に尋ねようとしても夜は八時を過ぎていたのでだれも所内にいない。何回も問い返していたら、今度は普通語で「君は何処に住んでいるのか」と叩いてきた。』 (河原猛夫, "短波と共に五十年", 『逓信協会雑誌』, 1974年5月号, p33)

ここに初めて「初交信は4月8日」だと示されたのでした。

このJ1AAの記事の反響が大きかったのか、"日本最古のアマチュア無線局J1AA" という目線で、さらにパワーアップ(全6ページ)した記事を書かれました。それが有名な「こちらJ1AA -アマチュア無線局開設当時の思い出-」(『放送技術』, 昭和49年12月号)です。アマチュア無線家にはとても刺激的なタイトルで、ご覧になられた方も多いのではないでしょうか。

◎1974年12月(放送技術)

『いよいよテストコールの日がきた。それは大正14年4月8日のことであった。夕食を早目にすませて局舎にもどり、いつものように受信機のスイッチを入れて80m帯で米国のアマ局が活躍しているのを確かめた。送信機は昼間波長計で何回も測って80m にセットしておいたのだから、スイッチを入れると同時に CQ de J1AA を繰り返し送信してみたがさっぱり応答がない。2, 30分やっても駄目なので、送信周波数を変えてみることにした。まず、受信機のバリコンを加減して一番感度の強そうな局にあわせてセットした。次ぎに送信機のバリコンを少しずつ動かして、受信機に入る自局信号のビートが零となるようにセットした。

再び送信開始である。今度はCQ uj 1AA を繰り返したたいた。uj は米国u のアマ局を日本j のアマ局呼んでいるという意味で、これも米国ハムの真似である。数回呼出しを繰り返しては受信機のバリコンを回して応答を待っていたら、突然U6RW局がJ1AA を呼んでいるのに気がついた。午後七時を過ぎた頃だった。しめたっ!と感激しながら直ちに6RWを呼び返したら、先方はQRA?とたたいてきた。このとき私はお恥かしいことにQRA の符号が何を意味するのかを知らなかった。日布間の通信には使われたことのない符号だったからである。何度も聞き返していたら Where do you live? と普通語でたたいてきた。そこで、こちらは日本の岩槻無線実験局で、局長は荒川大太郎、オペレーターは河原猛夫である旨を告げ、お互いにQSLカードの交換を約して交信を打ち切った。

そのあとでわれわれの交信を傍受していたらしいU6AWT など2, 3のカリフォルニア局とも交信して、午後9時過ぎに初日のテストを終わったが、翌日は直ちにこの成果を稲田博士に報告してお褒めの言葉をいただいた。翌日からは、毎晩夕食後の2, 3時間、米国のハムと交信を楽しむこととしたが・・・(略)・・・』 (河原猛夫, "こちらJ1AA -アマチュア無線局開設当初の想い出-", 『放送技術』, 1974年12月号, NHK出版, p124)

47) 1974年12月になって「4月8日、午後7時、6RWと」 へ変化

初交信は4月8日だとしたのが『逓信協会雑誌』1974年(昭和49年)5月号ですが、交信時刻については触れていませんでした。それが「こちらJ1AA -アマチュア無線局開設当時の想い出」(『放送技術』, 同年12月号)では『いくいよいよテストコールの日がきた。それは大正14年4月8日のことであった。・・・(略)・・・数回呼出しを繰り返しては受信機のバリコンを回して応答を待っていたら、突然U6RW局がJ1AA を呼んでいるのに気がついた。午後七時を過ぎた頃だった。』と、交信時刻を「午後七時」だとしました。

それまでは『日本無線史』第一巻で、交信日は「4月のある日」で、交信時刻は「午後8時半」だったものが、「4月8日」で「午後7時過ぎ」に変わりました。『日本無線史』第一巻には「J1AAに送られてきたカードの一例」として、6RWのカードの写真(左図)が掲載されていますが、もう一度カードの交信日を良く見てみましょう。

「Apr.8 1925 at 2AM P.S.T.」との記述が読み取れます。P.S.T.は太平洋標準時間(Pacific Standard Time)で、PST午前2時はJST日本標準時の午後7時です。記事中の交信時刻と、このカードの交信時刻が一致するようになりました。なおこの「こちらJ1AA」の記事中には、6RWのQSLカードの写真は登場しません。淡々と『午後七時を過ぎた頃だった。』とあるだけです。

これは筆者の河原氏の勘違いかも知れませんし、また『日本無線史』の出版から四半世紀が経って、筆者が何か新たな証拠を発見されての修正だったかもしれません。その理由は分かりません。

48) 金子OMのJ1AA初交信カードの捜索記事

「こちらJ1AA - アマチュア無線局開設当時からの想い出」から1年が過ぎた頃、CQ出版の『CQ ham radio』1976年1月号と2月号で、金子俊夫OM(JA1FRA)がJ1AAの記事を書かれました。1月号では取材訪問した関東通信技術学園(元岩槻受信所)で『岩槻無線受信所史』(昭和40年2月, 日本電信電話公社東京無線通信部発行)のコピーを入手され、まずその概要を紹介されています。

『コピーのあらましは次のようなものである。「・・・(略)・・・とにかく調整を終わり、呼び出し符号J1AAでCQを出すと、最初に出たのがカリフォルニアの6RW局であった。月日等は明記されていないが、時刻は午後8時30分、これが最初の記念すべき交信であったとされている。」以上のような記述だった。』 (金子俊夫, "ハム前史紀行(1) J1AA秘話", 『CQ ham radio』, 1976年1月号, CQ出版, pp340-341)

内容的には日本無線史第一巻のJ1AAに関する記載を転記したもののようです。日本無線史こそが当時のJ1AAに関する唯一公式な見解でしたから。

次に金子氏は河原氏に取材されました。ほぼ「こちらJ1AA」と同じ内容です。

『・・・(略)・・・数回呼び出しを繰返しては、受信機のバリコンを回して応答を待っていたら、突然U6RWがJ1AAを呼んでいるのに気がついた。午後七時すこし前だった。しめたっ!河原技手はこおどりしたくなるような感激をおさえてキーをにぎった。・・・(略)・・・かくしてJ1AAは誕生した。J1AAが初めてアメリカのアマチュアと交信した大正14年4月8日から2ヶ月あまり経ったころ、岩槻に6RWのQSLカードが届いた。そのカードには「RADIO J1aa de Radio 6RW」とあり、さらに「Your CW signs Wkd hr on Apr.8 1925 at 2AM P.S.T. ・・・」といったふうに今のQSLカードとほとんど同じデータが記入されていた。』 (前掲書, p343)

しかし金子氏は日本無線史に記された午後8時半という交信時刻との食違いや、官報に掲載された交信相手の名前が違うことに注目されたのでしょうか。連載二回目のタイトルは「闇に消えた交信書」(CQ誌2月号)で以下のような記述が見受けられます。

『ところが意外な事実にぶつかった。免許関係の古い記録をたどっても、<J1AA>が免許されたとは、どこにも載っていないのである。これほど活躍したコールサインが免許されていない―逓信省自身の実験局だからその必要もなかったのだろう、といってしまえばそれまでだが、・・・(略)・・・』 (金子俊夫, "ハム前史機構(2) 続J1AA秘話 闇に消えた交信証", 『CQ ham radio』, 1976年2月号, CQ出版, p342)

ここで注目したいのは、金子氏が免許関係の古い記録をたどったとする部分です。きっと大正14年4月前後の官報をくまなく閲覧されたのでしょう。そして4月15日付け官報の『日米間短波長無線電信連絡の成功』を発見された可能性が非常に高いと考えます。そこにはパサディナ在住のマシック氏と交信したとあり、サンフランシスコの6RWではない事に気づかれたのではないでしょうか。

『日本最初の短波無線局J1AAの足跡を辿っていくうちに、カリフォルニア6RWをはじめ世界中のアマチュア無線局からJ1AAに送られてきた交信証を是が非でもこの眼で確かめたい、という願望が私の中に湧いてきた。いまも昔も交信の事実を最終的に証明するものは、交信証(QSL)であることに変わりはない。大正14年(1925)4月8日にカリフォルニアのハム6RWと交信したという記憶だけでは歴史として不十分だろうが、QSLさえ残っていれば、厳然たる事実として認定できることになる。J1AAに届いたQSLの行方を河原さんに尋ねると、逓信博物館に寄贈した。という返事だったから私の望みは簡単に叶えられるはずであった。』 (金子俊夫, "ハム前史機構(2) 続J1AA秘話 闇に消えた交信証", 『CQ ham radio』, 1976年2月号, CQ出版, p339)

取材を通して、仮に金子氏がJ1AAの初交信に何らかの疑念が湧いたとしても、J1AAのオペレーターご本人である河原氏に直接インタビューしているので、そんな失礼なことは書けないでしょう。これがぎりぎりの表現だったのではと私の勝手な想像をしてみました。

金子氏の取材によれば、岩槻受信所の応接室に額に入れて飾られていたJ1AAの10枚の交信証は、岩槻受信所が閉鎖される時、所長の好意で河原氏のもとへ戻されました。河原氏はかつての同僚が館長をしている逓信博物館に寄贈し、JA1YAAの無線室に1m四方ぐらいの額に入れて展示されたところまでは追跡できました。しかし1964年(昭和39年)12月、飯田橋から大手町へ逓信博物館が引っ越したあと行方がわからない。金子氏が館長と資料を探したがついに見つからなかったそうです。

結局J1AAの交信証を探し求めるこの記事はついに行方不明のまま、『QSL探しに時効はない。これからゆっくり時間をかけて探すとして、今回は印刷物に載った当時のQSLをごらんいただこう。ひとつは「日本無線史」第一巻の161ページにある6RWのカード、・・・(略)・・・』として終わったのでした。

49) J1AAの初交信に関する記事をまとめておきます

J1AAの初交信に関する記事と記載内容を一覧表にしましたので参考にしてください。黄色地に着色した文献は河原氏が書かれたものです。

大正14年当時はJ1AAの交信相手はマシック氏(6BBQ)で交信日は4月6日と発表されていました。その交信相手が6RWに変わったのは、初交信から25年後(日本無線史, 1950)。交信日が4月8日になったのは初交信から49年後(『逓信協会雑誌』, 1974)。そしてその半年後には『日本無線史』に掲載されたQSLカードの記載と交信時刻が一致するようになりました(『放送技術』, 1974)。

● u6RWなどの数字の前の文字について

話は変わりますが「u6RW」とか「U6RW」というコールサイン表記ですが、1925年当時に米国商務省から与えられたアマチュア局の呼出符号は「数字+2 or 3文字」(XA-XZ, XAA-XZZは実験局用)です。つまり国籍表示はなく、いきなり数字から始まるのが正規の呼出符号なので、無線の歴史として語る場合には商務省発行の「6RW」とすべきだと思います。 (ちなみに日本のアマチュアが当時使った「3AA」などの場合は、もともと非正規のコールサインなので j の付かない「3AA」でも、「j3AA」でも、「j-3AA」でもよろしいのではないでしょうか。)

なおこの米国を意味するUなどの文字はInternational Intermediates と呼ばれるもので、交信時には「1AA 1AA 1AA mu 6RW 6RW 6RW」というように、「de」に相当する部分に相手国(m : Mexico)と自国(u : United States)のIntermediatesを挟むものです。したがってu6RWのようにコールサインの頭に付けて交信していたのではありません。もしそんな事をしたら、商務省発行の正規コールサインを改変した違法通信ですから。

しかし短波の実験がはじまり、他国との交信記事が増えると、同じコールサインの局がいるため「米国の1AAがメキシコの1AAと交信」というケースでは、「u1AAがm1AAと交信」と書いて区別するようになりました。つまり雑誌・書籍への表記上でその必要性が生じたのです。

たとえば左図はQST1925年11月号のIARU(国際アマチュアユニオン)のページです。オランダ(Holland/Netherland)のPCTT局をnPCTTに、スペイン(Spain Espanol)のAR1局とAR2局をeAR1とeAR2に、ブラジル(Brazil)の1AC局をbz1ACにしています。現代風にコールサインが「BZ1AC」ではありません。頭のbz は単に「ブラジルの」という意味だけで、交信するときの呼出符号は「1AC」です。区別が目的ですから、米国局しか登場しないページ(記事)では、わざわざu を付けずに「数字+2 or 3文字」のままです。という事は、もし雑誌記事から本当のコールサインを拾うには、International Intermediates を取り除かなければならないという事でもあります。

【参考】ちなみに1925年(大正14年)12月19日に、東京芝の逓信官吏講習所無線実験室の「J1PP」(電話)が、初の海外交信に成功した相手局がこのブラジルの「1AC」(電信)です。

50) J1AAというコールサインについて

それではJ1AAというコールサインなどの話題に触れてこのページをそろそろ締めくくっていきたいと思います。

命名者である河原氏が「J1AA」の由来を初めて明かしたのは"短波と共に五十年"『逓信協会雑誌』1974年(昭和49年)5月号で、『そのときの岩槻無線の呼出符号は、日本最初のアマチュア無線局という意味で、私が勝手にJ1AAと決めた。』という記事でしょうか?

次が"こちらJ1AA"『放送技術』1974年(昭和49年)12月号で、『そこでいよいよ送信の準備がととのったから呼出符号をJ1AAと決めた。これは日本最初のアマ局というつもりで私が勝手にきめたのだが、米国のアマ局が数字を使っているのを真似たのである。』としています。

三番目が"J1AA秘話"『CQ ham radio』1976年(昭和51年)1月号で、『送信準備はととのったが、呼出符号がきめてなかった。「ワシントンが1、紐育が2・・・でカリフォルニアが6だから日本だったら関東が1だろう」河原技手は80mで聞いたアメリカのアマ局のコールサインを真似て岩槻のそれをJ1AAとした。』と話されたようです。この三番目のインタビュー記事から、河原氏らが「大正14年3月に短波を受信しているうちに、アマチュア無線界のコールサインの命名ルールに気付いた」と読み取れなくもありません。つまり逓信省はアマチュアのことをまだ理解していなかったと・・・

しかしそうではありません。本ページの最初の方にある "まったく予期せずして、西海岸のアマチュアも受信できてしまった" を再度ご覧ください。河原氏の先輩で岩槻の建設担当である穴沢氏が、この3月に各国のアマチュアを受信できたことを「短波長長距離通信傍受の成績」 (『電気之友』, 第52巻第609号, 1925.4.15, 電気之友出版)で発表されました。岩槻が受信したアマ局のオペレータ名や住所は "Citizen Radio Call Book から転載" と文中に記されています。Citizen Radio Call Book は春と秋に発行されていましたが、穴沢氏らが使ったのは各Radio District Numbers ごとに全アマチュア局を掲載した、1924年春季号(大正13年春)です(下図)。


Radio Inspector Headquarters

逓信省では米国のアマチュアのコールサインの先頭数字が、商務省電波局のRadio Inspector単位に割り振られたRadio District Number(電波行政区番号)であることを充分承知していました。その上で米商務省の方式にならい、河原氏の発案でJ1AAが選定されたようです。この年の夏、朝鮮逓信局の短波実験局を開設するにあたり、逓信省でも地方逓信局単位でDistrict Numberを暫定的に定め、朝鮮を8番を当ててJ8AAとしました。

「J1AA」と書かれたコールサインプレートが写った写真がいくつか存在します。 【参考】 左記の右写真に写っている方は穴沢技手

私はこれを見て思うのですが、もし米国のアマチュアをただ真似るだけなら数字から始まる「1AA」にするはずです(当時の商務省が発給していた呼出符号は国籍表示のない「数字+2 or 3文字」です)。

しかし河原氏は何がなんでも頭に「J」の文字が入る「J1AA」にしたかったのではないでしょうか?そのわけを想像してみました。

河原氏は岩槻に来る前は磐城無線電信局「原の町送信所」や「富岡受信所」で保守業務にあたっておられました。その愛着ある磐城無線局のコールサインは3文字の「JAA」だったのです。

アメリカの商務省は数字から始まる呼出符号をアマチュアに発給しているから、彼らと交信するには、自分も同じ流儀の数字から始まるコールサインでなければ仲間に入りにくい。そこでこの流儀に従った日本第一号の「1AA」がまず候補として思い浮かんだろうと思いますが、考慮の末、元勤務地の磐城無線局JAAに数字を加えた「J1AA」としたのではないでしょうか。磐城無線局JAAを設計・施工したのは河原氏の上司である佐伯技師や中上係長ですから、JAAを由来とするJ1AAなら上司達も異論ないでしょう。

左図は1925年(大正14年)8月2日のオーストラリアのSunday Times紙の"Wireless Week by Week"(p3)からの抜粋です。当初、岩槻のコールサインは「1AA」で、「J」は国際中間符号だと考えられていましたが、ようやく「J1AA」がコールサインであることが知られるようになりました。奇しくも1927年(昭和2)のワシントン会議で、アマチュア局の呼出符号が「国籍+数字+3文字以下」と決議されましたが、河原氏の発案の「J1AA」はその2年も前に世界スタンダード型のコールサインを使った点で、先見の明があったといえるでしょう。

51) J1AAの免許について

河原氏がコールサインを「私が勝手に決めた」とし、そのうえ官報告示もないことから逓信省の正規局だったかの疑念も出てくるでしょう。しかしこれは現代に生きる私達の先入観に起因する疑念でしかありません。

JARL50年史(初版)では、岩槻J1AAを以下のように記録しました。

『前述のJ1AAは正式に省の承認がなく、アンカバー同様の局であると伝えられているが、今日ではその真相は明らかではない。』 (『アマチュア無線のあゆみ:日本アマチュア無線連盟50年史』, 1976, CQ出版, p40)

でもこれは「アマチュア無線外史」によると、7年後に訂正されたそうです。

『なお筆者の1人、岡本はJARL50年史p40に "前述のJ1AAは正式に省の承認がなく、アンカバー同様の局であると伝えられているが、今日ではその真相は明らかではない" と書きましたが、後日、河原さんから "あれは正式に省の承認を得ていた" とおしかりをいただきました。JARL50年史にはこの他にも不正確な資料を使用したための誤りもありますが、幸いにもCQ出版社より昭和58年8月、訂正第2版が発行されておりますのでご紹介しておきます。』 (岡本次雄/木賀忠雄, 『アマチュア無線外史』, 1991, 電波実験社, p16)

当時(軍の無線局を除いて)免許を発行していたのは逓信省通信局で、通信局長の「OK」が、すなわち「逓信大臣の許可」です(例えばパスポートに外務大臣の印があるからといって、大臣が個々の申請書に目を通すわけではないのと同じ)。そして通信局が「外部」より無線の開設を請われ承認したものだけを、(呼出符号や波長などを附して)官報告示していました。例えば磐城無線局の呼出符号JAAも開局から随分あとになって、逓信省の無線局を一括して官報に告示されました。

といって秘密かといえばそうでもなく、工務局の分家(大正14年春)以来、毎年発行された「本邦無線電信電話局所設備一覧表」には呼出符号や使用波長が公表されていました。つまり通信局には工務課の無線局建設計画書が(私達が言うところの)開局申請書に相当するもので、自分たち(身内)の日常業務によるものは、あえて国民へ官報告示するまでもないと考えていたようです。通信局が逓信官吏練習所無線実験室に施設したJ1PPも、札幌逓信局所属の落石無線JOCに交信テストを協力させた短波施設も、大正15年にJ1AAやJ1PPと交信試験するために春洋丸JSHに臨時施設した短波送信機JSHも、どれもこれも逓信省は官報告示しませんでした。

なお通信局が建設に携わっていない逓信講習所(地方逓信局所管)の無線局は官報告示したのに、電気試験所の短波長実験施設JHAB, JHBBは告示しておりません。ということは通信局との血の濃さとか、その開設にあたって通信局自身が先導的に関与していたとか、そんなことも関係したのかも知れませんね。ということで官報告示がない事を理由に正規局かを疑いはじめると、なんと電気試験所までもアンカバー無線局になってしまい、それは有り得ないことですから、現代の私達の感覚から生じた誤解でしょう。

前述したとおり官報(T14.4.15)に、逓信省通信局の名のもとにJ1AAの日米初交信の知らせを掲載させたのですから、J1AAの活動は畠山通信局長が了解している通信局工務課の無線局です。そして通信局長の「OK」はすなわち「逓信大臣の許可」なので、J1AAは正規の実験施設です。

通信局はその所管範囲が広大だったため大正14年5月に、電務局(許認可事務)・工務局(施設設計・施工)・郵務局(郵便事業)に分割されました。畠山通信局長(東京帝大法科卒)が横滑りで初代電務局長に、稲田通信局工務課長(東京帝大工科卒)が初代工務局長に昇進されて、以後無線局の許認可は電務局長の権限となりました。不法アマチュアの監視は逓信省ではなく、東京逓信局などの各地方逓信局が行っていました。

52) なぜ逓信省は正規実験局J1AAに、アマチュア局の真似をさせたか?

河原氏の大正15年春の「アマチュア訪問記」を読むと、氏(J1AA)が官設局であると知りながらも、米国のアマチュア達は河原氏を同じアマチュア無線仲間として大歓迎してくれたことが良く伝わってきます。私は子供の頃より偉人の伝記物を読むのが大好きで、初期の電波研究者である河原氏のアマチュア訪問記には胸が熱くなりました。

しかしこれはあくまでも、人対人の、あるいは電波に興味をもつ者同士という個人ベースの心の触れあいです。では一段上がった「組織」としてはどうだったかを、私なりに総括させて頂きます。

私は短波のように遠くまで到達する不思議な電波の研究には、海外植民地が、それも本国からはるか離れた植民地が必要だったと思うのです。イギリスのマルコーニ社は英連邦に属するオーストラリアと実験していました。アメリカもサンフランシスコとハワイで実験していましたし、さらにフィリピンというもっと離れた植民地を持っていました。フランスはインドシナ半島(現:ベトナム、ラオス、カンボジア)を、オランダはインドネシアを持っていました。

しかしドイツは第一次世界大戦で敗れ、地球の裏側にある太平洋の島々を失いました(南洋群島:国際連盟の委任統治領として日本が施政権を獲得しました)。そのような状況下なのでドイツの郵政庁はナウエン局の受信試験を逓信省に依頼してきました。そして岩槻受信所と、後には平磯の電気試験所がナウエンの短波を受けました。

実は日本も全く同じで、地球の裏側(南米)方面に植民地があるわけでなし、通信試験を行うには対手国の電波当局と、あるいは民間無線会社との交渉が必要です。そういったものを一切必要としないのが、アマチュア通信だったからではないでしょうか。アマチュアといえど技術力は高く、かつフレンドリーで、相互通信の交渉など不要で交信してくれるし、受信報告書を送ってくれるのですから。

53) おわりに・・・

当時の官報告示、新聞記事、学会論文、富岡受信所の会報を総合的に判断すると、私は岩槻受信所建設現場の工務課実験局J1AAは「大正14年4月4日に開局、同月6日にロサンゼルス近郊の6BBQ局と初交信」だと考えます。

逓信省通信局が「マシック氏と交信した」と官報で公表しているという動かし難い事実があります。私は官報が歴史の全てだとは思っていませんが、掲載された以上はこれへの反証がないと説得力に欠けます。しかし戦後になり6RWが初交信の相手だとおっしゃった河原氏は、交信当時ご自身が書かれた訪問記「短波長実験家を訪ねて」(前掲書)で、6RW宅に一泊し家族の写真まで掲載しているのに、6RWとの日米初交信に一言も触れていないのは余りに不自然過ぎだというのが私の感想です。

官報がJ1AAを "掲載していない" から非正規局?と疑い、官報が「マシック氏と初交信した」と "掲載している" のに見ない振りをするのは、アンフェアでしょう。現役アマチュアの皆さんでJ1AAに関する歴史記述の見直しについて議論していただきたいところです。

金子俊夫氏(JA1FRA)が『CQ ham radio』誌1976年2月号で『大正14年(1925)4月8日にカリフォルニアのハム6RWと交信したという記憶だけでは歴史として不十分・・・』と述べられているとおりだと私は思います。

さらに交信日、4月8日については、(河原氏の記事および、それを引用した記事以外には)一切見当たりません。少なくともこの「事実」だけは認識しておく必要があるでしょう。

なお河原猛夫氏は、大正末期から昭和に掛けて、ゼロスタートだったわが国の短波長研究において常に最前線で献身的な努力を重ねられ、逓信省式ビーム空中線の発明など多大なる貢献をなさった優れた技術者です。1935年(昭和10年)4月20日の第二回逓信記念日に「指向性短波空中線の考案」および「自動感度調整装置の発明」(いわゆるフェージングを軽減するAGC)で逓信事業に貢献したと、逓信大臣から金五百円を添えて表彰され、それが "『若き短波の父』 表彰される青年技手" とのタイトルで『読売新聞』(1935.4.19, 朝刊p7)に写真入りで掲載されました。おそらくマスメディアで「短波の父」と称されたのは河原氏が唯一でしょう。

戦後は誕生したばかりの日本短波放送NSBの常務取締役技術局長として民間短波放送の確立と普及に努められ、まさしく生涯を「短波マン」として貫かれた方でした。私は河原氏とその功績に深く敬服する者のひとりであることを付し本ページを終わります。

54) 【2013年10月8日追記】 ひょんなところで大発見です!

1925年(大正14年)から翌年に掛けて逓信省通信局(のちの工務局)が行った短波長試験に関する公式な研究報告は、中上氏らにより電気学会を通じて行われました。これは日米初交信成功の直後に速報的に発表された「短波長電波による長距離通信に就いて」(『電気学会雑誌』, 第45巻第444号, 1925.7)と、実験がひと段落した翌年の「短波長と通信可能時間及通達距離との関係に就いて」(『電気学会雑誌』, 第46巻第456号, 1926.7)の2回に分かれています。大正時代の逓信省の短波研究に関しては、この二つの研究論文が、現存する資料の中でもっとも詳しく、そして信頼できるものといえるでしょう。

1925年(大正14年)7月に、短波実験の速報として電気学会へ発表されたものを引用します。

『なお本試験は目下引続き施行し居るものにして、さらに詳細なる結果及び装置に関する改良等改めて報告するべきも、一先現在までの経過を報告す。 本試験に寝食を忘れ熱心に従事せる河原猛夫 佐々木諦の両君の労を多としここに謝意を表す。 (大正十四年四月三十日)』 と結んでいますので、日米初交信(4月6日)の直後に書かれたものです。

『本試験は目下工事中の岩槻無線受信局(東京より北方約30キロメートル、大宮を去る九キロメートルなり)に於いて施行せるものにして、まず受信装置を設備し、試しにハワイのカフク局にて発射しつつある80米電波通信を傍受せるに、はからずも米国本土における五十ワットの小電力をもってせる素人局の通信を検波真空管一個 可聴増幅一個にて完全に聴取することを得たり。その他南米、豪州、英、独、仏の何れよりのものも同様に受信するを得たり。(別表参照) ここにおいて、出力100ワットの真空管送信装置を設備し、米国素人局使用の80米電波をもって米国全素人局を喚呼せるに、即時数個局同時に応答し来たり、以後連夜適宜の局と連絡自在、かつ当方の信号強勢な事を確かめ得たり。』 (中上豊吉/小野孝/穴沢忠平, "短波長電波による長距離通信に就て", 『電気学会雑誌』, 第45巻第444号, 1925.7, 電気学会, pp618-619)

まさかこの時点ではJ1AAのアマチュアとの数々の交信が、多くの示唆を与えてくれることになるとは想像もしてなかったことでしょう。岩槻の実行現場からのアマチュア交信の事情聴取にはあまり時間を掛けていない様にも思えます。日米初交信についてはごく簡単に触れているだけで、独ナウエン局を受信したときの電界強度の測定結果に関するものを中心に報告されました。

【参考】 一年後(1926年7月)に再度この三氏による詳細な論文がまとめられ、そこではカフク局の波長は99mと145mであるとか、岩槻の送信波長は79mであるとか、米国のアマチュアを相手に40mや20mを実験したことが報告されており、日米初交信に関する報告もより詳しく書かれました。これは信用するに足りる一級クラスの資料です。


この論文の末尾p221からp223には、アメリカ(32局)・イギリス(4局)・オーストラリア(2局)素人局のコールサインと住所・氏名が掲載されています(左図クリックで拡大)。これはJ1AAにおいて受信されたリストのようです。

そしてオーストラリア局の受信局リストの末尾(p223に変わった直後)より、意味不明のコールサインが始まっています(赤線部)。当初、私はこれが何を意味しているのか、特に気にもせず無視していたのです。

ところが昨日資料を整理していたとき、再びこの論文を読んで、ふと思い付きました。

「オーストラリア局のリストはp223の1行目(3BQ局)までで終わっていて、実は2行目以降はJ1AAの交信記録ではないだろうか?」

「本来なら1行目(3BQ局:受信局リスト)と、2行目(6th/4 6BBQ:J1AAの交信ログ)に少し広めのスペースを空けるか、"交信記録"といったタイトルが置かれるはずだったのではないだろうか?」と。

その交信記録だと推測される部分が以下です。クリックで拡大でします。どうぞご覧ください!

(中上豊吉/小野孝/穴沢忠平, "短波長電波による長距離通信に就て", 『電気学会雑誌』, 第45巻第444号, p623, 1925.7, 電気学会)

これを下表にしました。コールサインが赤字は、後述する展示会の展示物でそのQSLカードがJ1AAに届いていることが確認できた局です。

もしこれが交信記録ならば、交信第一号は4月6日の6BBQで、翌日に6EW, 6DAI, 6RNと交信したあと、5番目に6RWということになります。

6VCが4月15日と19日の「二回登場する」ことから日々の交信記録だと考えられます。記録が4月19日で終わっていることから、4月20日ごろに岩槻から本省へ資料が提出され、これを基に本省で論文がまとめられ、4月30日付けとして電気学会へ提出されたのでしょう。なお4月8日の「・・・」は、前述した4月10日の時事新報の記事の取材で、実験はお休みだったのかも知れませんね。

1925年(大正14年)10月10日から11月18日、電気学会が主催した「電気文化普及展覧会」に逓信省工務局が出展展示したQSLカードにはこのリスト中の、4月7日の「6EW」, 「6RN」、9日の「6RW」, 「6CLV」, 「6CHL」, 「6HM」、10日の「6AWT」, 「6AWS」、14日の「6AVH」, 「6ZH」、15日の「6VC」、16日の「6CLP」、17日の「6AKW」、18日の「6XAG(6TS)」のカードが確認できます。 【注】 上記論文のリストでは18日には6ZHG(or 6TS)となっていますが、展示会に出されたQSLには6XAG, 6TSとありますので、このリストの方の誤記または誤植と考えられます。

カードの並べ方はDistrict Number(エリア番号)ごとに、上から下へ、左から右へとアルファベット順に並べられています。 左から2列目には、上から6AVH, 6AWS, 6AWT, 6BHW(?), 「真っ黒」, 6BURの順で並んでいます。もし6AWTの次が6BAW(?)なら、その下の「真っ黒」カードが6BBQかもしれませんね。あれこれ想像してみるのも楽しいものです。

なお当時はQSLカードを交信証ではなく「受信証」と呼んでいました。

『このはがきはQSLカードと呼ばれ、QSLは無線通信上の略号で受信を完了したことを意味するから、QSLカードは受信証であるということができる。』そしてカード内の「Wkd.」「 Hrd.}の記述で交信か、受信のみかを区別すると、J1AA局長の工務局荒川技師が「短波長実験通信の現状」(科学知識, 1926.4, 社団法人科学知識普及会, pp374-375)にて解説されています。

【注】ニューヨークの2AMJのカードも見えますが、これは岩槻J1AAへの受信報告です。J1PP J8AAのページ参照。またBCLを楽しまれた方々はご存知のとおり、受信報告書に対して放送局から送られて来るべリカードには TNX FR UR QSL(your QSL card) と大きく印刷されていることが多いです。

この資料の発掘には、小躍りしたくなるほど嬉しかったです。しかし同時に問題もありました。6RWが4月9日に書かれていることです。6RWのQSLの日付は4月8日なので矛盾してしまいます。4月8日の「・・・・・」と、4月9日のデータが入替わってしまったのでしょうか?

もう私にはこの新たな疑問を追いかける気力など残っていませんので、ここまでにさせていただきます。でも現在いわれている「4月8日に6RWと交信」は、一切歴史的検証がなされないまま、伝言ゲームのように引用が続けられているだけの様に思えてなりません。

55) 【2013年11月25日追記】 4月10日に通信距離記録を更新したこともログと合致

上記が本当にJ1AAの1925年(大正14年)4月6日から4月19日までの交信記録かどうかを検証できるものがないか探していたところ、前述した逓信省の無線倶楽部が発行する「無線」(第20号, 大正14年6月10日発行)の「日米間短波長連絡成功」という記事に、4月6日に6BBQと交信したあと、カルフォルニア州のアマチュアと次々と交信し、4月10日にはついにテキサス州とも交信に成功し通信距離の記録を更新したと書かれていることを思い出しました。以下に再度引用します。

『米国加州と約五千哩(マイル)の短波長通信に成功した岩槻受信局では、引続き毎夜加州のアマチュア局と試験中であったが、四月十日夜、桑港(サンフランシスコ)より更に約一千哩離れたテキサス州の素人無線局との交信に成功。』 ("日米間短波長連絡成功", 『無線』, 1925年6月10日, 磐城無線電信局富岡受信所無線倶楽部, p33)

さっそく前記電気学会の "J1AAの交信記録と思われるもの" を見ると、4月10日に「5IN」というコールサインがあるではありませんか!

しかし「5IN」の属する Fifth District は、アマバラ・ミシシッピー・ルイジアナ・テキサス・テネシー・アーカンサス・オクラホマ・ニューメキシコの各州なので、果たして「5IN」がテキサス州のアマチュアなのか、私はドキドキしながらコールブック(商務省発行, 1925年版)で調べました。

すると当時のコールブックから、5INがテキサス州ダラスのアマチュア局であることが確認できました。J1AAが1925年(大正14年)4月10日に通信距離の記録を更新した相手局はこの5INのようです。

これで「短波長電波による長距離通信に就いて」(『電気学会雑誌』, 第45巻第444号, 1925.7)の末尾に記録されていた資料は、「J1AAの交信記録」に違いないという、思いがますます強くなりました。

【参考1】1925年当時の商務省のDistrict Numberは現在とは少々異なっておりますので、参考までに地図で示しておきます。アラスカ州は7番、ハワイ州は6番に属し、商務省が発行する正規の呼出符号では西海岸の7, 6番局と(アラスカ7番やハワイ6番と)の区別はありませんでした。 ◆ハワイのアマチュア局(1924年時点): 6EG, 6JO, 6OA, 6SH, 6SY, 6TQ, 6ADO, 6AFF, 6AFN, 6ALR, 6AND, 6ASR, 6BDT, 6BJP, 6BNW, 6BPR, 6CBC, 6CCL, 6CCR, 6CDU, 6CEU, 6CMH, 6CNB ◆アラスカのアマチュア局(1924年時点): 7CX, 7DG, 7EP, 7MN, 7UF, 7ABW, 7AEB, 7AHB (これを本土局と区別するために、アマチュア団体ではハワイに hu が、アラスカに au の国際中間符号を使うようになりました)

本ページで何度も登場したらRCA実験局の6XO(ハワイ)と6XI(カリフォルニア)は、コールサインでは、ハワイかカリフォルニアかを区別できません。まだ数字の前に国籍(地域)を示す文字がない時代だったからです。

【参考2】これら「数字+文字」式のコールサインは数字の次の文字で局種が決まっていて、A-Wが一般アマチュア局、Xが実験局、Yがテクニカル&トレーニングスクール、Zがスペシャルアマチュア局でした。なおYのテクニカル&トレーニングスクールは電波技術の専門学校や訓練所を指していて、普通高校のアマチュア無線クラブなどはA-Wのアマチュア用から指定されました。

56) 【2016年2月27日追記】 やはり岩槻J1AAに6BBQのカードが届いていた

官報や新聞、そして学会発表されたJ1AA交信ログのすべてがJ1AAの初交信相手は6BBQだとしています。このQSLカードさえ見つかれば申し分ないのですが、行方不明のようで諦めていたところに今回進展がありました。

逓信官吏練習所の高瀬芳卿氏が1938年(昭和13年)に誠文堂新光社から出された「理論実際 短波無線工学」という書籍の口絵に以下のものが見つかりました。

特に説明文は有りませんが昭和初期の何かのイベントで展示されたものの写真のようです。

『QSLカード 短波長実験当時世界各国の素人実験家から受けた受信証 岩槻無線局(J-1AA)の信号に対して送ってきた分』として、アメリカ合衆国のトップに6BBQのQSLカードが貼られています。画像が小さく交信データは読めませんが、"J1AAと6BBQを結ぶ直接的な物証" が見つかったことはとても嬉しいです。

【参考】 国立研究開発法人情報通信研究機構の職員有志らによって構成される「無線通信研究アニバーサリーアマチュア無線記念局リレー実行委員会」により平磯無線JHBBが受け取った6BBQのQSLカードが発掘され、WEB公開されています。http://hp.jpn.org/JR1YPU/20150425_report.html

57) 【2013年11月28日追記】 その後のJ1AA (検見川のJ1AAと小山のJ2AA)

東京逓信局所属の東京無線電信局岩崎受信所の建設現場に仮設された本省通信局(のちの工務局)の短波実験施設「J1AA」は、我国の短波研究に大いに貢献しました。岩崎受信所の開所(大正15年4月1日)後しばらくは運用されたものの、同年7月1日より本業(公衆電報の取扱い)の営業開始でフェードアウトしました。

岩槻のJ1AAと同時期に東京芝の逓信官吏練習所無線実験室からも、通信局(のちの工務局)の短波実験施設J1PPが無線電話の実験を行っていました。そしてJ1PPの無線電話実験で、発振段に直接変調を掛けるのは(AM-FM同時変調のような状態になり)明瞭度が良くないという知見を得たあと、国内短波通信網試験の中央局として活躍(大正15年度)して無線史上から姿を消します。

そして時が過ぎ、1930年(昭和5年)になって水晶制御による無線電話送信機の試作機が東京無線電信局検見川送信所に据付けられ、再び無線電話の実験が始まりました。呼出符号には(本来"無線電話の実験"という工務局の血統的にいえば、「J1PP」を継承してもおかしくはないのですが) 、「J1AA」が再び選ばれ、その栄光のコールサインを再び短波の電波に乗せたのでした。もちろん検見川送信所のJ1AAも、我国の「国際短波無線電話実験施設」として大活躍したのはいうまでもありません。そして日本無線電信株式会社の小山送信所が完成したため、J1AAの無線電話試験はその役割を終え、小山送信所の実用局へと引き継がれました。

1937年(昭和12年)、逓信省工務局と日本無線電信株式会社が共同で、小山送信所からニューヨークのRiverhead(RCA)局/Southhampton(MKY)局に向けて短波伝播試験を行う事になり、三代目のJ1AAが復活することになりました。しかしマドリッド会議で(アマチュア局を除き)呼出符号には数字の0と1を用いないことが採択され既に施行されていたため、栄光のコールサインJ1AAの復活は国際法的に無理でした。そこで数字を1から2に変えた「J2AA」の呼出符号が使われました。この伝播試験では5~18MHzの6波を使い磁気嵐の影響を1938年(昭和13年)1月まで観測しました(先方からの送信は都合により行われませんでした)。その実験目的を引用します。

『現在の一般短波無線通信回路は、いづれも安定確実な交信を遂行しつつあるとはいえ、中に二三磁気嵐の影響を受けて一時的に不安定になるものがある。これに対し Hallborg氏はその後の説において地磁気北極を中心とする Dead zone ならびに Disturbed zone なる二つの範疇を仮定し、電波が前者内を通過する、紐育(ニューヨーク)極東間ならびに桑港(サンフランシスコ)北欧間の回路(いづれも未設)にあっては商用通信に成功することは至難であり、また紐育(ニューヨーク)北欧間、伯林(ベルリン)墨国(メキシコ)間(共に既設)ならびに桑港(サンフランシスコ)英印(インド)間(未設)等のごとく後者内を通過する回路は相当かく乱を免れぬとしている。

我日本を中心とする既設通信回路はすべていわゆる Disturbed zone 内にさえも入らぬゆえ、この点において我国は北米ならびに北欧よりも遥かに恵まれているわけであるが、未設の東京紐育(ニューヨーク)間通信(現在北米との通信は桑港中継にて施行されている)が唯一の Dead zone 通過回路と目され、甚しき磁気嵐のかく乱をこうむるものと考えられている。Hallborg 氏の説をそのまま日本にあてはめ得るかはいささか疑問であるが、大野氏の提案せる極光(オーロラ)出現頻度曲線を示せば第1図のごとくになる。

東京紐育(ニューヨーク)間通信は上述のごとき特殊回路なるため電波伝搬状態探究上重要なる題目を提供するものである。従来も傍受試験等が試みられていたが、すべて断片的なものに過ぎなかった。しかるに幸い7月から本年1月まで7か月にわたって通信試験を施行する機会を得たので、その間に得た成績につきここに簡単に報告する。』 (長谷慎一/斎藤正雄, "東京紐育間短波通信に就いて", 『第十三回総合大会予稿』, 昭和13年4月, 電気学会, 1938)