GHQ/SCAP CCS

GHQ/SCAPによる電波統治開始と警察無線網の建設の話題を紹介します。

GHQとは単に総司令部(General Head Quarters)です。そこには連合国とか進駐軍という意味は含まれません。一方、SCAPの意味は連合国軍最高司令官(Supreme Commander for the Allied Powers)すなわちマッカーサー元帥の事です。この2つを合体させたGHQ/SCAPとは「連合国軍最高司令官であるマッカーサー元帥の総司令部、つまり「連合国最高司令官のGHQ」です。

本当ならGHQではなく、GHQ/SCAPと呼ぶべきですが、みんなの暗黙の了解さえあれば、短くGHQで通じるでしょう。たとえば朝、お父さんが「おっと時間だ。じゃあ会社に行きます。」と家を出るシーンを想像してみましょう。家族なら「会社」という言葉が、お父さんの勤務先である「▲▽◆▢会社」を意味していることを100%了解していますので、▲▽◆▢を省いて「会社」に行ってくるだけで十分意味が通じるのと同じです。

GHQとは総司令部で、GHQ/SCAPは連合国最高司令官総司令部のことですが、当時の全ての日本人が連合国最高司令官の総司令部を単にGHQ(総司令部)と略称することを了解しているのでこれで支障はなかったのでしょう。

ただし日本にはもう一つ別のGHQアメリカ陸軍の総司令部)があったため、それと区別する必要があるときに限っては、連合国最高司令官の総司令部をきちんとGHQ/SCAPと表記しなければなりませんでした。

序1)アメリカ太平洋陸軍 総司令部 GHQ/AFPAC がマニラから横浜にやって来た

日本にあったもう一つのGHQとは、アメリカ太平洋陸軍のGHQ/AFPACのことです。

1945年(昭和20年)8月28日、日本がポツダム宣言を受託したため、マニラのアメリカ太平洋陸軍AFPACUS Army Forces Pacific)先遣隊が日本に上陸を開始し、アメリカ太平洋陸軍の総司令部(GHQ/AFPAC)を、米領フィリピンのマニラから横浜に移しました。

そしてアメリカ太平洋陸軍AFPACの総司令官マッカーサー元帥は、8月30日に日本にやってきて、横浜に仮設されたアメリカ太平洋陸軍の総司令部GHQ/AFPACで執務を開始しました。9月17日には東京に用意していた新しい司令部の準備が整い、GHQ/AFPACを横浜から東京へ移しました。

このように日本の占領統治はGHQ/AFPAC(アメリカ太平洋陸軍の司令部)によりスタートしたのですが、「連合国軍による占領」という大義名分が必要です。

これについてはマッカーサー元帥が(日本帝国政府がポツダム宣言の受諾を連合国に伝えた)8月14日に連合国軍最高司令官(SCAP:スキャップ)を拝命していたので、GHQ/AFPACで執務している、SCAP(連合国軍最高司令官)による統治」という解釈で整合性がとられました。

序2)連合国最高司令官 総司令部 GHQ/SCAPが設置される(1945年10月2日)

本来ならば連合国軍としての日本占領であるべきですが、最初はアメリカ太平洋陸軍による日本占領した。そして連合国軍の総司令官SCAP(マッカーサー元帥)が、いつまでもアメリカ太平洋陸軍GHQ/AFPAC内で執務するわけにもいかないでしょう。

そこで連合国軍最高司令官の総司令部(GHQ/SCAP)の設置を急ぎ、10月2日に東京日比谷に完成。やっと連合国の総司令部GHQ/SCAPによる日本占領統治がスタートしました。

そしてこの時点で米太平洋陸軍US AFPACはGHQ/SCAPの配下に入り、GHQ/SCAPの中にGHQ/AFPACが置かれた形になりました。ただし上層幹部の多くは両組織を兼務していました。

【参考】のちに米軍は極東軍FECとして再編されGHQ/SCAPの中にGHQ/FECが置かれたが、FECのテリトリーにはフィリピンも含まれ、日本占領の連合国最高司令官としてのテリトリーと矛盾する一面もあった。

序3)一般人はGHQ/SCAPも GHQ/AFPACも、まとめて「ジー・エッチ・キュー」

以上のように日本にはGHQ/SCAP連合国軍最高司令官マッカーサー元帥の総司令部」とGHQ/AFPAC米太平洋陸軍総司令官マッカーサー元帥の総司令部」の二つの総司令部があり、特に進駐初期の頃には両者をきちんと区別して報じている新聞記事、ラジオ、報道映画が見受けられます。

しかし一般日本人にすれば、GHQ/SCAPでも、GHQ/AFPACも、大親分はマッカーサー元帥で変わりありません、これらをひっくるめて単に「GHQ:ジー・エッチ・キュー」と呼びました。これじゃあ、ただの「総司令部」ですが、短いほうが呼びやすいですしね

▲▽◆▢会社」の、▲▽◆▢を省略し、単に「会社」と呼ぶようなものでしょうか。

序4)日本の電波行政権は?

さて敗戦で日本本土、奄美・琉球地域、南朝鮮は連合国の占領地域となりました。このうち奄美・琉球地域および南朝鮮地域は日本からの独立を想定し、日本本土とは異なる政策(軍政による電波統治)が取られました。

そして日本本土における電波行政は以下の2つの組織に分けられたのです。

なお伊豆諸島以南の太平洋の島々は連合国ではなくアメリカ合衆国の直轄占領地」になり、まったく別の道を歩み始めます。ここは誤解しやすいので注意が必要です。

GHQ/SCAPによる電波統治開始と警察無線網の建設

1) SCAP マッカーサー最高司令官の指揮下に入る

1945年9月2日、日本政府は連合国軍の最高司令官SCAP(Supreme Commander for the Allied Powers)の指示に従うとの降伏文書に調印した。そして同日付け対日指令SCAPIN第1号附属一般命令第1号の 「第6項(ロ)」で全ての無線局を現状固定で保持することが、また9月3日付け対日指令SCAPIN第2号第2部の「第15項(イ)(1)」でSCAPから求めがあれば無線局に関する完全なる資料を用意することが、さらに「同項(ロ)」では無線局の現状固定と現在人員で運用を継続するよう指示された(実際、11月にGHQ/SCAP CCSより資料を提出するよう求められた)。

さっそく逓信院BOCは壊滅状態になっている全国の無線局の実態把握に着手したが、これは日本側の使用周波数を把握し、監理・監視するほかに、連合国側が使用可能な周波数を探す目的もあった。

こうしてGHQ/AFPAC(米太平洋陸軍総司令部)による日本の統治が始まったが、それは米太平洋陸軍最高司令官のマッカーサー元帥連合国軍最高司令官SCAPでもあったからだ。

 GHQ/AFPACの無線局の現状固定方針の例外としては、軍用無線局の停止はもちろんだが、9月4日以降外国語による放送を禁止したことが挙げられるだろう。これにより海外向け短波放送は(同胞向けの日本語放送を除き)、すべて終了した。しかしその海外残留同胞向け日本語放送さえも9月10日をもって完全に停止した。1936年(昭和11年)に始まった海外放送はここに幕を閉じたのである。

だがGHQ/AFPACへの請願の結果、9月26日より海外に残留している邦人向けに、日本放送協会の第一放送を夜間(20時から終了まで)に限り短波で送信することが許された。これが日本の放送史の中でも特異な「残留邦人向け短波放送」の始まりで、国策企業である国際電気通信株式会社の河内送信所(大阪)から台湾や中国大陸に向けて電波を送信した。

2) 日本統治の分担地図

占領期の我国の電波行政の話題の前に、まず基本知識として日本がどのように分割統治されたかを、対日指令SCAPIN第2号(1945年9月3日)に添えられたOccupation Force Boundaries (占領境界図)で確認しておく。

日本は以下のように分割統治された

日本本土(本州・北海道・九州・四国およびそれに隣接する小島)


北緯30度以南の奄美・琉球・石垣・大東地域


のちの西日本エリア


日本から独立が予定された北緯38度以南の南朝鮮


伊豆諸島・小笠原諸島・硫黄島・南鳥島および南洋群島

3) 民間通信局(CCS)と第八軍(Eighth Army)による電波統治

1945年10月2日、日比谷の第一生命ビルに連合国軍最高司令官総司令部(マッカーサー総司令部)GHQ/SCAPが設置され、米太平洋陸軍US AFPACおよびその総司令部GHQ/AFPACは、新設されたGHQ/SCAPに組み込まれた。

またこの日、GHQ/SCAP内に民間通信局CCS(Civil Communications Section)が誕生し、日本の通信政策を担当することになった。

同年11月20日、AG676.3(20 Nov. 1945, CCS)"Control of Radio Communication" の発令により、日本人の無線局は全て民間通信局CCS(Civil Communications Section)の国内無線課(Domestic Radio Div.)の支配下に置かれた。ただしCCSは直接手を下さず、管理事務を日本の逓信院(のちの逓信省、電気通信省、電波監理委員会など)に行わせる、「間接統治方式」をとった。

CCSによる電波統治時代は官報による無線局の公示は行われなかった(なお電波法と電波監理委員会ができたあとは全てではないが官報にも掲載されるように変わった)。しかしCCS時代に認可された無線局の状況については、当時出版された電波関係の業界誌、報告書、年報といった多くの民間資料に点在して記録されている。

その一方で連合国人の無線局は(日本のお役所を一切通さない)第八軍の「直接統治方式」だったため、日本人はその実態を知る立場になかった。今でも連合国側の無線局に関する情報がほとんどないのはこのためである。

4) 占領軍が来るまでに秘密工作を実行すべし

少し時間を戻す。「三省協定」周波数調整会議の逓信院側の幹事を勤めていた綱島毅(あみしま)電波課長は、終戦の知らせを聞くや、占領軍が上陸したら日本の周波数の全部とはいわないまでも、日本軍が使っていた周波数はすべて占領軍によこせといってくるに違いないと危惧した。官設無線の海岸局と、私設無線の船舶局を除けば、日本の電波の大部分は陸軍と海軍が使っていたので、これを戦利品としてとりあげられると、日本の電波利用の道が閉ざされてしまうからだ。

そこで占領軍が上陸する前に軍用周波数を民需に切り替えてしまう方策をたてた。当時の大都市は焼け野原と化しており有線通信網はズタズタだった。綱島課長は国内治安を守る警察通信の修復こそが日本復興に重要であると、警察当局に話を持ちかけてみた。

『・・・略・・・警察の方は、今までの破壊された有線回線を修理して、全国の通信網を建て直そうと努力していたが、機材の補給もままならず、また技術者の人手も不足であり、その再建は、遅々として進まなかった。このような状況にあったので、わが方からの申し出に対し警察当局は渡りに舟と、この提案に飛びつき、全面的に依頼したいからよろしく頼むということであった。(網島毅, 『波濤-電波とともに五十年』,1992, 電気通信振興会)

次に陸軍整備局田山大佐、海軍軍務局石原大佐にこの秘密工作への協力を求めた。

当時はまだ終戦直後のこととて軍の方は何をなすべきかの方策も定まらず、いわば放心状態にあった。そこへ私が飛び込み、無線機材のみならず、出来れば復員して帰国する通信要員の世話も願いたいと申しいれたので、軍の方は大喜びで、全面的な協力を約束してくれた。(網島毅, 『波濤-電波とともに五十年』,1992, 電気通信振興会)

5) 軍用無線機の収集、配備と、オペレーター調達

そして綱島課長は計画を吉田電波局長に説明し、賛同を得て課員と共に実行に移した。

まずは無線機材の収集であるが、終戦と共に軍の統制が弱くなり、軍の保持する莫大な残存物資が散失したり、隠匿されたりするおそれがあったので、これを防ぐために、軍の物資はそれぞれ関係の省庁が保管することになった。通信機材については、逓信院が分担することになったので、我々は、八方手を尽くしてトラックを借り集め、陸軍や海軍の倉庫にあった無線の送信機や受信機或いは真空管や抵抗器などの部品を逓信院の倉庫に移し始めた。倉庫に入りきれず置く場所に困ったものである。このような状況であったので、小型の送信機や受信機で、充分使用出来るものは早速警察の方へ移管して全国の主要都市にばら撒いてもらった。(網島毅, 『波濤-電波とともに五十年』, 1992, 電気通信振興会)

地方の重要警察署(県庁所在地以外)には10Wクラスの局が多いのは、このとき配布した小型送信機だと推察される。

次はこれらの無線通信機に使用する電波の割り当てであるが、これには最初より計画していたことであるが、軍の使用していた周波数を割り当てることにした。・・・(略)・・・日本が使用できる周波数の大部分は陸海軍が使用していたので、逓信院には新たに警察へ割当てる周波数はほとんど残っていなかった。(網島毅, 『波濤-電波とともに五十年』, 1992, 電気通信振興会)

無線機も周波数も用意できた。運用要員は復員軍人の中で通信の技術を持ったものを警察職員として雇用することにしたが、全国にばら撒いた無線機の方が多く、逓信院の職員を派遣して急場を凌いだそうだ。

6) 当時の貴重な記録

東北電信電話史資料(東北電気通信局編, 1963)に終戦直後の仙台逓信局長への通達が掲載されているので引用する。

逓無第一五六号

昭和ニ十年八月二十三日

逓信院工務局長 総務局長

仙台逓信局長殿

戦後無線通信対策ニ関スル件

 

戦後対策上必要ナル警察専用無線電信施設ノ整備等緊急施工ヲ要スル無線電気通信工事局ノ急速完成ヲ期スルタメ左記ノ措置ヲ講スルコトト相成候ニ付諒知可然取計相成候

 

一、戦後対策ニ必要ナル無線通信施設ノ建設ニ従事セシムルタメ各無線電気通信工事局に臨時無線工事班ヲ置ク

二、臨時無線工事班ハ各群府県毎ニ之ヲ設クルモノトス

三、臨時無線工事班ニ班長ヲ置キ班長ハ無線電気通信工事局長ノ命ヲ受ケ班員を督励シ工事ニ従事ス

四、臨時無線工事班ハ当分ノ間其ノ建設セル施設ノ保守ヲモ担当スルモノトス

五、建設ノ短期完成ヲ期スル為無線電気通信工事局長ヲ前渡資金官吏トス

翌日にはもともと本土決戦に備え作られた地方総監府(札幌、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、高松、福岡)や府県あたりの配備台数が示された

逓無第一五七号

昭和ニ十年八月二十四日

工務局長

仙台逓信局長殿

警察無線通信施設工事(緊急)施工ノ件

 

一、治安通信ノ確保ヲ期スルタメ左ノ工事ヲ施工スルコト

二、第一期工事

地方総監府所在地ニ受信機五個、各府県庁所在地ニ受信機二個ヲ装置シ東京ヨリノ放送受信可能ナル如ク措置スルコト

三、第二期工事

地方総監府所在地ニ五〇ワット乃至一キロワット送信機二個、五〇〇ワット級中波送信機二個、各府県庁所在地ニ五〇ワット級送信機一個ヲ装置シ之ニ附随スル一切ノ設備ヲナスコト

四、第三期工事

地方総監府所在地ニ受信機五個、五〇〇ワット乃至一キロワット送信機一個、五〇ワット級送信機二個、各府県庁所在地ニ受信機三個、五〇ワット級送信機一個ヲ装置シ之ニ附随スル一切ノ設備ヲナスコト

五、工事完成期日ハ第一期八月二十九日、第二期八月末日、第三期九月十日トス

六、所要機材ハ主トシテ軍ヨリノ保管物品ヲ充当ス

七、経費ハ資本勘定

これらの通達によって仙台逓信局の無線関係者および仙台無線電気通信工事局では中島源吾無線工事局長を始め局員は全力を挙げて東北地方における警察無線の建設に精励することになった。東北総督府のある宮城県警察部にまず無線電信施設を設置したが海軍復員軍人等の県所属無線通信士によって早速内務省との通信が開始された。福島県は福島県警察部保安課隣室、岩手県は盛岡市公会堂一階、山形県は山形県警察部、秋田県は秋田県警察部、青森県は青森県警察部(県会議事堂)二階 特高課隣室にそれぞれ無線電信施設を設置した。その後、宮城県側の要望によって仙台警察署二階(現在の北署)へも斉藤政技手を工事班長として短三号および短四号短波無線電信送信機を装置し、空中線工事中のところで米軍(昭和二〇年九月一六日仙台に進駐)のMPにより工事中止を命ぜられ工事途上において一応打切りその後指示により撤去作業を行った。・・・(中略)・・・各工事班は宿舎および食料(食料特配申請手続)等の困難はもちろん終戦直後における鉄道輸送についても極めて苦難をなめ遂行されたものであった。(東北電信電話史資料,pp16-17,東北電気通信局,1963)

7) 工作の完了前に、現状固定命令が

急ピッチで警察無線網の整備に当たっていた。8月30日にマッカーサー元帥が厚木に到着。9月3日には対日指令SCAPIN第2号で無線局の現状固定と現在人員で運用を継続する命令が発せられてしまったが、そのまま工事を続け全国通信網を完成させた。11月になってGHQ/SCAP CCSより日本の無線状況のリストを求められたため、この警察無線をなんと報告するかが問題になった。

【注】帝国陸軍および海軍の無線局に関するリストは10月31日に対日指令SCAPIN第219号, AG676.3(31 Oct 45)CCS, "Japanese Military Stations" で提出を求められている。

再び "波濤-電波とともに五十年" より引用する。

私は9月3日の連合軍指令第二号には、既に計画が決定し、建設途上のものは含まれないという解釈をしていたので、その時点で既に陸海軍より警察に移管の済んでいた無線施設や周波数は、軍用より除外すべきであるとの意見で課内を統一することとした。(網島毅, 『波濤-電波とともに五十年』,1992, 電気通信振興会)

そして課員に命じて、軍用より警察用に転用した電波については、終戦前より日本の警察が国内治安のために使用していたものとして、他の平和目的の日常業務に使用していた政府及び民間用周波数と一括して司令部に提出することにしたのであった。(網島毅, 『波濤-電波とともに五十年』,1992, 電気通信振興会)

そして設備が陸軍或いは海軍のものなのでその点について連合軍より質問のあった場合には、戦争中に、日本の警察用通信施設が米軍の爆撃で壊滅的被害を受けたので、応急的に軍が予備機として保有中のものを借用して、警察無線通信網を作成したものであると答えることにした。(網島毅, 『波濤-電波とともに五十年』,1992, 電気通信振興会)

8) 終戦時の警察無線 通信系統図(1945年10月25日時点)

実際に逓信院BOC1945年10月25日時点の警察無線系実態を調査し、GHQ/SCAP CCSへ報告Japanese Police Communication System, 9 Nov. 1945, CCS)した。その資料には下図が添付されている。わが国の警察無線幹線系の「通信系統図」"Japanese National Police Net" である。

画像が不鮮明なため、私が書き直した図を下に掲げる。

7地方総監府(北海道・東北・関東信越・東海北陸・近畿・中国・四国・九州)に、コールサインENOからENWのプライマリー局(下図黄色)を置き、無線電信(電報形式)で連絡を取りあえるようになった。たとえば内務省(ENN)から、北海道(ENO)・東北(ENP)・東海北陸(ENS)の地方総監府を結ぶ、「北方回線」という重要幹線に使用されたのは3542.5kHz と7085kHzである。なお関東信越地方総監府管轄は警視庁が受持ち、ENQENRのふたつのコールサインになっている。

そして府県庁警察部に無線を施設し、同一総監府エリア内では府県庁間で相互通信できるように周波数グループを組んだ。これをセカンダリー局(下図青色)と呼ぶ。ただし九州・近畿・関東信越・北海道はエリアが広いため複数グループとした。基本的には各グループに高調波関係になっている2波を指定した(中国だけは近畿と共用)。このセカンダリー局の府県間通信のコールサインにはENO1, ENP1, ENQ1, ENR1, ENS1, ENT1, ENU1, ENV1, ENW1 という、本来なら国際条約で「コールサインに数字の0, 1は使わない」約束のものが含まれているのは不可解である。

なおこの図にはないが、府県庁警察部の管下の重要警察署にも施設したが、警察署との通信には府県間通信とは別の周波数およびコールサイン(EVN, EVO, EVP, EVQ, EVR, EVS, EVT, EVW, EXN, EXO, EXP, EXQ, EXR, EXS, EXT, EXW)を用いることとして配備が進められた。出力は10~50Wと小電力である。

警視庁JHT(1880kHz)とその自動車JHT2-6(3475kHz)は、1935年(昭和10年)8月1日に開局した我国初の警察無線だが、大阪にも5車両の導入を計画した。

また北海道は札幌(ENO)だけが本庁および各地方総監府との連絡業務のために運用されているが、9支庁の無線施設はこの10月25日の時点では保守調整中だと報告された。実はまだ闇行為による建設途上だったようだ。(以上の通信系統は1946年秋に全面改訂されているので、それについてはJZ Callsignsのページを参照されたい。)

実際に1945年秋の時点で短波帯警察無線がどの程度利用されていたかは興味あるところだ。BOCは警察の主要局の1日あたりの電報取扱量(通数および文字数)は、10月10日から16日の平均値で下表のとおりCCSへ報告している。私には理由は解らないが、福岡局の取扱い量が多いのが特徴的だ。

【注】 表中、Home Office は内務省で、M.P.B.は警視庁(Metropolitan Police Board)

当時の地方警察は組織的には内務省の「府県庁警察部」で、府県庁の庁舎に同居していた。戦争で有線通信網が深刻な打撃を受けていたため、開局早々に警察業務以外の県庁間の業務連絡電報の依頼も多く寄せられたようだ。

9) まさかの「そのまま使ってよろしい」

引用をつづける。

この決定は当時日本政府内において陸海軍が使用する以外の電波の割り当てを担当していた課長の私が独断でやったのであって、局長や次官、大臣には一切相談もせずまた報告もしなかった。それは問題が暴露した時、責任を上司に及ぼしてはいけないと考えたからであった。(網島毅, 波濤-電波とともに五十年』,1992, 電気通信振興会)

しかし、これはかなり危険のある仕事であった。もしこの警察無線通信網が戦争終結後に計画され、実行されたものであることが発覚した時は、場合によっては占領軍指令違反として処罰されるかもしれない。もし処罰されるということになったら、マッカーサー指令違反であるから軽くは収まるまい。営倉に入れられるか、悪くすれば絞首台に上げられるかも知れないと思った。私はいろいろ考えた末、この問題の責任は私一人で引き受けようと考えた。今度の戦争で何十万と言う同胞が死んでいる。自分が死ぬようなことがあっても、この警察通信が活用され、戦後の日本の治安が維持されて、多くの人命財産が助かるのであれば、それで良いではないか、という結論になったのである。(網島毅, 『波濤-電波とともに五十年』,1992, 電気通信振興会)

そして綱島課長には落ち着かない日々が続いたという。

この無線局の報告を占領軍司令部に提出してからしばらくの間は、私は落ち着かなかった。いつか司令部から何か云って来るであろうと考えていたからである。私ども周波数問題の専門家から見れば、米国の軍が調べれば、日本の陸軍や海軍の使用していた周波数がわからない筈がないのである。

しばらく経つと、リストに対する質問や意見ではなく、我々の提出した無線局や周波数は今後も引き続き使用してもよろしいという文書が司令部通信課から送られてきた。この文書を見て私はまことに嬉しかった。ようやくホッとしたのである。恐らく司令部は事実を知っていたに違いない。しかし警察通信の整備は、日本の治安確保のために絶対必要であり、同時にこの問題を大きくして、責任者を出すことを避けたのではないだろうかと想像したのである。(網島毅, 『波濤-電波とともに五十年』,1992, 電気通信振興会)

(とはいっても、すべてが丸ごと認められたわけではなく、実際には周波数の却下や変更も少なくなかった。)こうして1946年(昭和21年)3月30日に、逓波監第493号にて全国に配ったこれらの無線設備を内務省に移管すると同時に、警視総監・府県知事および北海道長官が施設する官庁用無線電信施設として一括承認された。我国初の警察無線電信の全国網が正式に完成したのである。

旭の友(警察通信のはなし四 ― 無線施設誕生のころ―, 1955年11月号, p48, 長野県警本部警務部教養課)にCCSから事後承諾を得て、1946年になってから逓信院BOCが各府県知事へ送った「承認書」が掲載されている。日本の敗戦で無線局免許を発行する権限を失っていたBOCが「承認書」という名で発行したもので歴史的にも興味深い。

承認書

逓波第四九三号

 

長野県知事

 

長野県府(庁)構内ニ官庁用無線電信施設ノ件承認ス

但シ左ノ通心得ベシ

昭和二十一年三月三十一日

逓信院総裁 松前 重義

 

一、呼出符号ハ「ENQ2」トス

二、空中線電力ハ左ノ通トス

   第一装置 二五〇 ワット以下

   第二装置 二五〇 ワット以下

三、使用電波ノ型式及周波数ハ別ニ指示ス

四、本件施設ハ特ニ規定アル場合ヲ除クノ外警察事務用通信以外ニ使用シ得ザルコト

五、電波監理上必要アリト認ムルトキハ本件施設ノ承認ヲ取消シ又ハ設備ヲ変更セシムルコトアルベキコト

六、本件施設ハ必要アルトキハ之ヲ公衆通信ニ供用スルコトアルベキコト

以上の施設承認書が発給される前に、すでに実質的には終戦時の有線電話回線の不備によるふくそうを補うため、警察事務関係にとどまらず、県庁内各課発受の電報が相当量(現在のおよそ二倍)取扱われていたため、承認書には「本件施設ハ特ニ規定アル場合ヲ除クノ外警察事務用通信以外シ得ザルコト」とうたわれ、大きな打撃を受けたのであった。しかし、これも本承認書によって完全に実施されたわけではなく、発信者を警察部長名としての便法が、相当あとまで続けられた。(警察通信のはなし四 ― 無線施設誕生のころ―, 『旭の友』, 1955年11月号, p48, 長野県警本部警務部教養課)

きっと警察が目的外の通信を扱っていることなど逓信院BOCは百も承知していたに違いない。CCSへの手前上、「警察業務以外の目的に使うな」と書かざるを得なかったのだろうが、とにもかくにも県庁所在地のような大きな都市でさえ、東京の本庁へは有線電話がほとんどつながらない通信壊滅状態にあった。

しかし後年になっていろいろ問題も起きたようだ。

ある意味で帰還軍人の就職援助にもなり、陸海軍より感謝されたのであるが、後になって逓信省所定の正規の通信士の免状を取得させるために大変な苦労の種になったのである。』 軍の通信士には、逓信省の資格制度とは異なる独自の運用がなされていたためである。戦前は無線局の許認可権だけでなく、運用資格制度も含めて電波の二重行政の時代だった。

その後、世の中がだんだん落ち着いてくると、警察側の帳簿に載っていない無線機材が沢山あるので処理に困るということが起こってきた。・・・(略)・・・逓信院から警察に移管したことにしてつじつまを合わせたのである。(網島毅, 『波濤-電波とともに五十年』,1992,電気通信振興会)

このような日本の周波数を確保するための愛国的秘話の末に、GHQ/SCAPに提出された1945年の無線局リストだが、終戦時点の我国に電波利用状況を知ることができる資料なので「終戦時の無線局」のページに掲載しておく。

10) アマチュア無線用周波数を警察無線に分配

日本で戦後最初にアマチュア無線の周波数の分配を受けたのは、占領軍(進駐軍)のアマチュア無線だという認識はまったく正しくない。突貫工事で建設された日本の警察無線に、アマチュアの周波数が分配されたのが第一号である。

その経緯はこれまで述べた様に軍用周波数の民需転用を基本としつつも、周波数不足から3,550kHzのアマチュアの周波数も警察用に供出された。その時期も早く、1945年の8月下旬から9月に掛けての時期に逓信院が許可したものと想像される。

なお実際に3,550kHzが割当られたのは、近畿地方総監府管内の各県庁警察部と県内の重要警察署を結ぶローパワー回線で、コールサインがEVPEXPの局だ(電波型式:A1,A2)。

また東北地方総監府管内の各県庁警察部と県内の重要警察署を結ぶローパワー回線で、コールサインがEVSEXSの下表の局にも指定された(電波型式: A1, A2)

 以上が終戦時の無線局のページで挙げた局だが、このあとも 3,550kHzの無線局として、EXP7(福井, 10W)、EXP8(敦賀, 10W)が開設されている。【注】EVS7の?は私が文字を判別できなかった。逓信院の「呼出符号周波数一覧表」(1946年2月13日)よりの出展。

戦前の日本のアマチュアの周波数ではないが、隣接する周波数3542.5kHz と7085kHzは前述したとおり、内務省と地方総監府を結ぶ最重要基幹線(北方回線)で、日々多くの連絡電報がこの周波数で飛び交った。しかしそれは第八軍のアマチュアの電波ではないのである。この点はうまく歴史が伝承されていないように思えたので、あえて強調させていただいた。

11) 電波行政における戦前・戦後の境界

一般的には「戦後」とは1945年(昭和20年)8年15日以降か、もしかして人によれば9月2日の東京湾上のミズーリ号での無条件降伏の調印式が区切り点かも知れないが、電波はそうではない。

1945年11月20日にAG676.3(20 Nov. 1945, CCS)SCAPIN第321号 "Control of Radio Communication" により、CCSが日本の無線局の新設や設備変更の承認の一切の権限を行使するものとした。しかし既設の日本の無線局はGHQ/SCAPの現状固定指令により、従前の無線電信法による許可のままだったのである。つまり戦中はまだ継続していたのだ。

1946年(昭和21年)5月10日にGHQ/AFPACにより日本帝国政府に分配される周波数が決められ、同年8月29日にはそれらの周波数に日本の全無線局をはめ込んで、それをGHQ/SCAPが一括承認した。すなわち日本の無線局は、1946年8月29日の対日指令SCAPIN第1166号をもってGHQ/SCAPの承認によって全局を再免許(一部新設を含む)した。これは対日指令SCAPINによるものなので、官報には掲載されることもなかったが、電波の戦後は1946年8月29日から始まったといえるだろう。

ちなみに1949年12月16日、電気通信省の山下知二電気通信監の名にて、国際電気通信連合ITUへ送付された日本の無線局リストによれば、この1946年8月29日付けで日本の全無線局が(官報告示もないまま)、再免許(含む一部新設)されている。

逓信院BOC独自の裁量で無線局を許可した最後のものが、アマチュア用の3,550kHzなどの警察への指定である。しかしGHQ/AFPAC が1946年5月10日付けで、日本帝国政府に分配した周波数 "Allocation of Radio Frequencies to Japanese Imperial Government" には3,550kHzの電波は含められなかったため、警察はこの電波の使用を中止した。わずか1年ほどだったが、アマチュアの周波数が日本の治安維持に活用され貢献したのである。