マルコーニ

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 グリエルモ・マルコーニが短波通信で果たした功績。それは短波の開拓(1916年~)と昼間波の発見(1924年夏)です。以下の3つのページと合わせて「短波開拓史」となっていますので、そちらもご覧下さい。
 
◆コンラッドの短波における電離層反射の実用化(1923年11月)についてはコンラッドの短波開拓史のページをご覧下さい。
◆アマチュアによる短波の小電力遠距離伝播の発見(1924年秋~)についてはアマチュア無線家の短波開拓史のページをご覧下さい。
短波開拓史のフロントページにある、スーパーヘテロダインの発明者アームストロングの講演「発見の精神」は短波史上とても興味深く、御一読をお奨めさせて頂きます。
 
 1916年、マルコーニはC.S. フランクリン技師と共にイタリア軍の秘密通信開発の要請から短波開拓に乗り出しました。1919年には20MHzの真空管式無線電話の開発に成功し、1921年には20MHzの短波パラボラビーム局の実験に着手、さらに1923年には英国の名門ポルドゥー(Poldhu)長波局を閉鎖し、ここに3MHzの巨大パラボラ短波ビームアンテナを建設しました。そして1923年5-6月に4130km離れたカーボベルデ諸島で、電離層反射によりポルドゥー波が強力に受かることを確かめました。
 
本ページが巨大化したため、以下のトピックスを続 マルコーニのページに分割しました】 ・・・2017.09.17
 1924年春にはオーストラリアまで距離を伸ばし、1924年7月28日、マルコーニ社は大英帝国通信網を受注しました。
 その年の8月、マルコーニは昼間でも通信できる「昼間波」の存在を調査する航海に出て、地中海東端のベイルートでそれを発見します(1924年9月)。この頃よりマルコーニ社は英国政府のビーム局建設に注力したため、短波開発の表舞台から姿を消しますが、1926年10月25日に英国-カナダ回線の営業を開始し、フランクリンアンテナ(フランクリン配列アンテナ)によるビーム通信の威力を世界中に知らしめました。そして1930年代には超短波を開拓し、世界初のUHF実用化を達成しました。
 どうぞ「続 マルコーニ」のページをご覧ください。
 


マルコーニの功績 [前半] "短波の開拓"

1) 超短波1GHzパラボラ反射器付き無線機の完成と最初のデモ (1896年7月27日) [Marconi編]

それではまずマルコーニ氏の短波黎明期の歴史を振り返ってみましょう。
 1895年(明治28年)春よりマルコーニ氏はイタリアでブリキ缶アンテナとアースを使った火花無線の実験を何度も繰り返しました。最初は25cmの立方体ブリキ缶アンテナの高さが2mで到達距離30mだったものが、高さを4mにすると距離100mに、さらに高さ8mでは距離は400mに伸びました。そして試しにブリキ缶を1m立方へ大きくしてみたところ、なんと同じ高さ8mなのに、距離1.5マイル(2.4km)を記録したのです。
 LC同調回路を有さず、スパークギャップに接地と垂直アンテナを直結した初期の「非同調式」送信機では、アンテナ線の長さの四倍の波長がもっとも強く輻射されます。ブリキ缶(キャパシティーハット)の効果を勘案しても、この程度の高さ(長さ)ですから、周波数的には短波を使ったと推測されます。このように着々と成果を積み上げたにも関わらず、マルコーニ氏の無線電信機の価値はイタリアでは理解されませんでした。
 
 そんなイタリアに落胆したマルコーニ氏は、1896年(明治29年)2月に英国へ移住し、春より英国郵政庁GPOのプリース(William H. Preece)技師長の支援を受けながら無線研究を続けました。
1985年 マルコーニのパラボラアンテナ
 そして1896年夏、マルコーニ氏は(先駆者ヘルツの実験をなぞり)パラボラ反射器が付いた火花送信機とコヒーラ受信機を完成させたのです。
1895年6月、彼は(イタリアで)ヘルツ・ラジエーターの代わりに空中線に重要な工夫をこらすこととし、誘導コイルの二時側の火花電極の一方を地上に横たえた接地板に、他方の電極を柱の上からつるしたブリキ缶にそれぞれ接続した。・・・(略)・・・
またパラボラ反射器を使って電波の指向性の実験も行った。これは彼が無線電信の研究を思い立ってからわずか1年半足らず(1896年夏から秋の英国で)のことである。 (大野茂/津村孝雄, 日本の艦艇・商船の電気技術史, 『船の科学』, 1988.7, 船舶技術協会, pp94-95)
 
 マルコーニ氏のパラボラ反射器は日本ではあまり知名度が高いとはいえませんが、科学雑誌ニュートン1985年(昭和60年)3月号の記事「グリエルモ・マルコーニ」(もりいずみ, p132)で、その写真が使われたことがあります(左図:これは後述するレオナルド・ダ・ヴィンチ科学技術博物館所蔵のレプリカ送信機の写真です)。
 しかし記事では、写真の下部に "短波通信の実験に使われたパラボラ反射器" との説明が付けられているだけで、このパラボラ反射器がいつどんな実験に用いられたかについて、一切触れられておりません。
 
 そこでまずはじめにマルコーニ氏のパラボラ反射器とそれを使った公開実験について触れておきます。実はマルコーニ氏は「パラボラ使いの実験家」として世にデビューしました。イタリアでは接地型のブリキ板アンテナを熱心に研究していたマルコーニ氏ですが、なぜかイギリスへ渡ってからは非接地型のパラボラアンテナに注力しました。
 
 マルコーニ氏がパラボラ式に注力した理由として、ロンドン市街地は石畳の道が多くてうまく無線機(空中線)の接地が取れなかった?、あるいは尊敬するプリース技師長から「まずはヘルツ氏のパラボラ反射器を試しておきなさい」と助言を受けた?などと、いろいろ想像してみるのですが、本当のところは(私には)分かりません。
 
マルコーニのパラボラアンテナ試験
 1896年6月に英国で初めての関係者による公式試験を行ったマルコーニ氏は、同年7月より郵政庁(St Martins-le-Grand)をパラボラ送信局とし、郵政庁が経営する貯蓄銀行(Queen Victoria Street:受信局)の屋上にパラボラ受信機を設置して、通信試験を始めます。 
 1970年(昭和45年)にロンドンで出版された"A History of the Marconi Company"(左図)より引用します。
『 ・・・(略)・・・and the first official tests took place in June 1896. These were followed by further demonstrations in July and August, conducted between the Post Office building at St Martins-le-Grand and a station erected on the roof of the Savings Bank Department in Queen Victoria Street.  』 (W.J. Baker, A History of the Marconi Company 1874-1965, 1970, Methuen[London], pp28-29)
 
 1896年7月27日には、プリース技師長の計らいで、マルコーニ氏は郵政庁と貯蓄銀行の屋上に設置したパラボラ式無線機の公開デモンストレーションを行ないました。パブリックな無線デモはこれが最初だったといわれており、パラボラ式を用いました。実験場がビルの屋上だったため、うまく接地(アース)が確保できなかったとか、屋上からさらに高く垂直線を建てるのが困難だったのかもしれません。つまりロンドンのように発達した市街地での実験には(イタリア時代の接地型のブリキ板アンテナよりも)非接地型のパラボラ・アンテナの方が都合が良かったのではないでしょうか?
 
 この件はマルコーニ出版社が発行していた"The Year Book of Wireless Telegraphy and Telephony" (無線電信電話年鑑, 1922年版)にある無線開発年表 "Record of the Development of Wireless Telegraphy"の1896年の出来事に、はっきりと「パラボラ反射器を使った」と記録されています(下図)。
On July 27th the first demonstration of directional wireless, using reflectors, was given on the roof of the G.P.O., London.  (Record of the Development of Wireless Telegraphy, The Year Book of Wireless Telegraphy and Telephony, 1922, Marconi Press Agency Limited, p27)
パラボラアンテナの実験
 
 マルコーニ氏とその優秀な助手ケンプ氏の出会いについて、"父マルコーニ" から引用します。この7月27日のデモンストレーションに向けて郵政庁ビルの屋上でマルコーニ氏がパラボラアンテナの準備をしていた時のことです。
(郵政庁の)ウイリアム・プリースは、マルコーニにとって何者にも代えがたい、ふところの広い支援者だった。初対面から幾日もたたないうちに、自分の研究室を自由に使うことも認めてくれている。・・・(略)・・・さらに重要なことは、自分(プリース氏)の最も有能な助手の一人、ジョージ・スティヴァンス・ケンプをグリエルモにつけてくれたことである。その時の経緯を父が話してくれた。
「セント・マーティンス・ル・グラン通りの郵政省の屋上から、クイーン・ヴィクトリア街のセーヴィングス・バンク事務所に信号を送るための、最初の実験(1896年7月27日のパラボラ試験)の準備をしていた時だった。屋上の石の手すりからちょっと身を乗り出してみると、赤毛の男が何やらもの珍しそうに上を見ていた。彼は私が見ていることに気がついて、<上で何をやっているんですか?>と叫んだので、<上がってらっしゃい、お見せしますよ>と言ったんだよ。そして彼はあっという間に私のところにやってきたんで、あまりに早いから雨どいをよじのぼって来たのかと思ったよ。この男がジョージ・ケンプだったのさ。元海軍士官の彼は、当時は郵政省本庁の職員で、プリースの助手をしていたんだ。」
 屋上に上ってくるとすぐさまマルコーニと作業をはじめた彼は、こうしてその後の人生を最後までマルコーニと共に働くことになる。』 (デーニャ・マルコーニ・パレーシェ著/御舩佳子訳, 『父マルコーニ』, 2007, 東京電機大出版局, pp53-54)
 
 1896年7月27日のパラボラ付き無線機のデモンストレーションは大成功でした。郵政庁ビルと貯蓄銀行ビル間は約1kmあったといいますので、もはやマルコーニ氏ひとりでは対応出来ません。優秀な助手ケンプ氏がパラボラ付き無線機の取り扱いをマスターし、実験のお手伝いをしたからこその成功です。
【注】 後述しますが、若井登氏はこの距離を400mとされています。400mであったにせよ、独りでは実験できない距離なので、ケンプ氏の貢献は大きかったといえるでしょう。
 
 ここで半世紀ほど時間を進めます。
 1945年(昭和20年)、IEEE(Institute of Electrical and Electronics Engineers、アイ・トリプルイー)の前身組織のひとつである無線技術者学会IRE(Institute of Radio Engineers)が、1926年までの無線開拓史をまとめた"Radio Pioneers 1945"を発行しました。【参考】IEEE Journals & Magazine 1984(Vol:CE-30, Issue:2)pp111-174 にも再掲されています。
1896年 マルコーニのパラボラアンテナの写真
 これはIREの編集委員が音頭をとり、各方面に点在していた無線開拓の歴史的資料を集め、1945年11月8日にマンハッタンのコモドール・ホテル(現:グランド・ハイアット)で行った無線パイオニアクラブ記念式典で配られた記念本です。RCA(Radio Corporation of America、アメリカ・ラジオ会社)、VWOA(Veteran Wireless Operators Association、ベテラン無線通信士協会)、ARRL(American Radio Relay League、アメリカ無線中継連盟)も歴史的資料の提供に協力しています。個人としては無線史研究家のGeorge H. Clark氏からの資料提供や、1909年1月にアメリカ無線協会WAOA(Wireless Association Of America)創設して、米国のアマチュア無線家を組織化したヒューゴー・ガーンズバック(Hugo Gernsback)氏らも編集に加わりました。
 この記念本にはとても珍しいマルコーニ氏のパラボラ式送信機(左図:左側)とパラボラ式受信機(左図:右側)が並べられた写真があります(Radio Pioneers 1945, IRE, 1945, p49)。なんとなくビルの屋上のようにも見えますが、撮影場所の説明がありませんので詳細は不明です。それにしても貴重な写真ですね。


2) マルコーニ式、ヘルツ式、松代式、パラボラ反射器の違い [Marconi編]

 マルコーニ氏のパラボラ無線機は現存しておりませんが、そのレプリカが作られ、ミラノの国立レオナルド・ダ・ヴィンチ科学技術博物館(Museo Nazionale Scienza e Tecnologia "Leonardo da Vinci" tutti i diritti riservati)にて展示されています(同館へのリンク:パラボラ火花送信機パラボラコヒーラ受信機)。
 
 下図[左]が1896年にマルコーニ氏が製作したパラボラ式送信機[左側:TX]とパラボラ式受信機[右側:RX]のレプリカです。また下図[右]は1888年にヘルツ氏が実験したパラボラ式送信機です。
1896年 マルコーニビーム
ヘルツのパラボラアンテナ
 両者のパラボラ反射器にご注目ください。マルコーニ氏は輻射部を水平に配して水平偏波としたため、パラボラ反射器の曲面を上下方向に取っています(下図[左])。
 一方、電波実験の先駆者であるヘルツ氏は輻射部を縦にして垂直偏波としたため、パラボラ反射器の曲面を左右方向にとっていました(下図[右])。
 ここがヘルツ氏とマルコーニ氏のパラボラ反射器の外観における一番の違いです。この頃の火花送信機にはまだLC同調回路が使われておらず、いわゆる「非同調式」と呼ばれるものでした。輻射された電波はどちらも超短波だったと考えられています。
 無線は長波から始まって高い周波数へ発展したように想像されがちですが、実はその逆です。無線は超短波からスタートして、低い周波数へ向いました。
 
【参考1】 国立レオナルド・ダ・ヴィンチ科学技術博物館にあるマルコーニ氏のパラボラ無線機のレプリカは、ボルタ電池で有名なイタリアの物理学者アレッサンドロ・ボルタの没100周年記念祭(1927年)の時に製作されたといわれていますが、私はまだ未確認です。
1931年 マルコーニのパラボラのレプリカ
1931年 ファラデー祭でのマルコーニのパラボラアンテナ
 1931年9月23日から10月3日まで、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールにおいて、電磁誘導の法則で有名な英国の物理学者であるマイケル・ファラデー(Michael Faraday, Sep.22,1971 - Aug.25,1867)の生誕100周年祭が開かれました(左図[左]:記念祭会場の様子)。
 この記念祭会場で、「1896年、マルコーニがソールズベリー平原にて1 3/4マイルの超短波通信を行ったパラボラ送信機とパラボラ受信機、それに(パラボラの下、手前には)リーギの発信器」が展示されたと、マルコーニ社が出版するマルコーニ・レビュー誌(1931年9-10月号)が写真入り(左図[右]:ショーケース)で紹介しています。
At the Faraday Exhibition: A Righi Oscillator and replicas of transmitter and receiver with parabolic reflectors as used by Marchese Marconi for communication with ultra-short waves over a distance of 1 3/4 miles on Salisbury Plain in 1896. ("Faraday Centenary", The Marconi Review, Sep.-Oct.,1931, Marconi Wireless Telegraph Company[UK], p28)
 ですので、少なくとも1931年にはこのレプリカが存在していた事までは確認できました。たとえレプリカといえども、作られてからもう90年ですから凄いです。展示会来場者へのインパクトを考えると、ブリキ板アンテナより、やはりパラボラアンテナですね。
 
【参考2】 マルコーニ氏は1896年に英国(6月)と米国(12月)に、無線の特許を出願しました。時に1896年の出願を、登録だと誤って伝える記述が見受けられますが、出願内容の特許性を審査する期間がありますから、英・米のそれぞれで特許登録されたのは1897年7月2日(英)および7月13日(米)です。
一八九六年にマルコーニは無線電信回路及び送信機に関する最初の英国の特許(一八九六年番号第一二〇三九号)を(1897年7月2日に)得た。 (岡忠雄, 『英国を中心に観たる電気通信発達史』, 1941, 通信調査会)
 
 下図(左上)が英国特許(1896年6月2日に英国出願、1897年7月2日に特許登録 [No.12,039/1896] )で、下図(左下)が米国特許(1896年12月7日に米国出願、1897年7月13日に特許登録 [No.586,193] )です。これらの出願明細書には下図(右)の二種類のアンテナの図面が添えられています。
1897年 マルコーニの最初の特許
ひとつは非接地式である「パラボラ反射器付き無線機」です。左図の側面図でわかるように曲面を上下方向にとっており、実際に試験したものと同じです。我国の電波研究の頂点ともいえる郵政省電波研究所の所長を勤められた若井登氏はこの図面に描かれた輻射部のサイズから送信周波数は1.2GHzだと指摘され、渡英直後(1896年)のマルコーニの電波実験はUHF帯で行われたと推定されています。
マルコーニは何故か特許明細書に、波長二五cm周波数一 ・二GHz)に共振する素子とヘルツ式パラボラ反射鏡の図面を添えている。もしかするとロンドンでの実験は、この極超短波で行われたのではないか。ところが市内の建物が邪魔になって通達距離が延びないので、(1896年9月2日の実験は)見通しの良い(ソールズベリー)平原に場所を移した。そして成功し面目を保った、というのが私の推理である。 (若井登, 電波史発掘, 『情報通信ジャーナル』, 1995.1, 電気通信振興会, p47)
  ちなみにRadio News誌(1925年9月号)にも、ヘルツ氏は30cm波(1GHz)、リギ氏は2.5cm波(12GHz)で、1896年から97年のマルコーニ氏は10インチ波(1.18GHz)を使ったとする記事が見受けられます。
It was by means of very short waves and parabolic reflectors that Hertz carried out his experiments and laid the foundation of radio, and it is recorded that he produced waves of 30 centimeters in length, which he concentrated into a single beam.  It is also recorded that Senator Righi produced waves as short as 2.5 centimeters, while Senator Marconi used waves of ten inches in length in 1896-97. 』 (A.H.Morse, "History of Radio inventions", Radio News, Sep.1925, Experimenter Publishing Company, p297)
 
 そしてもうひとつの図はお馴染みの「接地式ブリキ板無線機」です。スパークギャップの一端を高く吊り下げた金属板に接続し、他端を大地に接続するイタリア時代に考案したものです。
 
【参考3】 マルコーニ氏のパラボラ試験に遅れること1年の1997年(明治30年)秋、電気試験所の松代松之助氏が完成させたパラボラ無線機はヘルツ氏のものを手本にしたため、曲面を左右方向にとりました(垂直偏波)。下図[左]が松代のパラボラ付き火花送信機、[右]が松代のパラボラ付きコヒーラ受信機です。
1897年 電気試験所のビーム試験
 このパラボラ無線機は逓信省構内で屋内実験を重ねたあと、11月に東京湾で初のフィールド試験を行いましたが、送信機のパラボラアンテナを常に船(受信)の方に向けるのが一苦労だったといいます。
松代は明治30年(1897年)の11月に、受信機を築地の海岸に置き、送信機を団平舟(だんぺいぶね:荷物運搬用の堅牢な和舟)に乗せて、いろいろと距離を変えながら東京湾内で通信実験を行なった。陸上で使ったパラボラ反射板つきアンテナは、指向性があるので船の向きに注意しなければならなかったが、そのアンテナよりも、竹竿から吊り下げた被覆銅線アンテナの方が感度が良く便利なので、パラボラはすぐ使われなくなった。 (若井登, 日本の無線電信機開発(その2)-松代松之助の業績-, 『ARIB機関紙』, 1997.8, ARIB, p55)
 
 1897年12月13日には読売新聞社の記者を招き、逓信省構内でパラボラ式無線機(左図)のデモンストレーションを行ない、それが12月15日の新聞記事になっています。少なくともこの1897年12月のデモまではパラボラ式送信機とパラボラ式受信機が使用されました。

● 1896年(渡英直後)の実験は1GHzを用いたとマルコーニが発表

 1932年12月2日、マルコーニ氏は自分が没頭しているUHF(500MHz)波の研究に関し、ロンドンのRoyal Institution of Great Britainで発表した"Radio Communications by Means of Very Short Electric Waves"の冒頭で、1896年のパラボラ式送信機に触れて、その周波数を約1000MHzだったとしました。
1932年 マルコーニレビュー誌
 マルコーニ社が発行するThe Marconi Review誌(1932年11-12月号、1933年1-2月号)が、その論文を再掲していますので引用します。
私が1896年に郵政庁の技術者たちにデモして、反射器1.75マイルの通信に成功した電波は、今日マイクロウェーブと呼ばれる30cm1000MHz)波だった。その後距離は2.5マイルにまで伸びた。この反射器実験の成果はプリース技師長により1896年9月の英国協会で発表され、その後のレクチャーなどでも紹介された。そして1899年3月3日、私が電気学会で詳細報告したのである。」・・・ざっくり訳すと、こんな感じでしょうか。以下が原文です。
In 1896, I was able to demonstrate to the Engineers of the Post Office that waves of the order of 30 centimetres - corresponding to a frequency of approximately one million kilocycles, and now sometimes termed microwaves - could be successfully used for telegraphic communication over a distance of 1 3/4 miles by employing suitable reflectors.  Later this distance was increased to 2 1/2 miles.
These early results were described by the late Sir William Preece at a Meeting of the British Association in September, 1896, and at subsequent lectures, and were referred to in greater detail in a Paper which I read before the Institution of Electrical Engineers on the 3rd of March, 1899. 』 (G. Marconi, "Radio Communications by Means of Very Short Electric Waves", The Marconi Review, Nov.-Dec. 1932, Marconi Wireless Telegraph Company [UK], p1)
 
 この論文の冒頭にあるとおり、マルコーニ氏はソールズベリー平原でパラボラ反射器による1.75マイルの記録を打ち立てました(1896年9月2日)。そしてそれが英国協会のミーティング(同年9月22日)で公表され、全世界に「パラボラ反射鏡使いのマルコーニ」としてデビューを果たしました。
 マルコーニ氏にとってこの二つの出来事は生涯忘れ難いものだったようです。ということで、まずこの「パラボラ試験」と「英国協会デビュー」の話題を追ってみましょう。


3) ソールズベリー平原でのデモ (9月2日)と、英国協会でのデビュー(9月22日) [Marconi編]

 1896年7月27日のロンドン市内におけるパラボラ無線機のデモの後、翌8月も試験は継続され、マルコーニ氏より「安定した通信ができる」との報告を受けたプリース技師長は、ロンドン市街地を離れて、もっと広い場所で大規模な実験を行うようマルコーニ氏に話しました。
 それが有名な1896年9月2日にソールズベリー平原のThree Mile Hillで行なわれたパラボラ式無線機のデモンストレーションです。
ケンプが立ち会った最初の実験(7月27日のパラボラ試験)は、その場にいた者には天啓のようなものだった。ほぼ1キロも離れた地点から発信された信号は、途中にある建造物の壁面にもまったく影響されることなくはっきりと送られた。この実験結果をみてプリースは、もっと広い地域で、より大規模なテストを行うようマルコーニに要請した。・・・(略)・・・
 起伏のあるソールズベリーの平原で、発信機は、皆がバンガローと呼んでいるバラックのような小屋に設置された。一方、受信機は、移動性を考慮して手引きの軍用荷車に乗せられた。発振装置の両側には、やっとのことで組み立てられたパラボラ反射板が取りつけられた。』 (デーニャ・マルコーニ・パレーシェ著/御舩佳子訳, 『父マルコーニ』, 2007, 東京電機大出版局, p55)
 
 1896年9月17-23日、リバプールで英国協会The British Association for the Advancement of Science(現:British Science Association)の第66回大会が開かれました。分科会Section A(Mathematical and Physical Science)の9月22日のミーティングにおいて、プリース氏がディスカッション中に"マルコーニの無線実験"について少々触れました。それがみんなの注目を集めるところとなり、翌9月23日の新聞The Times紙が「英国協会大会」の記事の中でマルコーニ氏のことを報じました(下図)。
1896年9月23日 マルコーニの記事
 「自分が助言しているイタリア人の青年マルコーニが、ソールズベリー平原でパラボラ反射鏡(parabolic mirror)を用いてヘルツ波の試験を行い、1-1/4マイル(=2km)まで届いた」という趣旨の発言です。
Mr. W.H. Preece stated that a young Italian, Signor Marconi, described to him experiments in which he had, by means of Hertzian waves, transmitted signals to a great distance.  With the speaker’s assistance Marconi had continued his experiments in London and on Salisbury plain he had succeeded in producing electric waves and reflecting them from one parabolic mirror to another one and a-quarter mile distant.  At the latter place they fell on a receiving apparatus, which actuated a relay and produced Morse signals.  The experiments had been made with crude apparatus and without using any great amount of energy of radiation. (The British Association, The Times, Sep.23, p8)
 これまで英国の一部関係者にしか知られていなかった"マルコーニの無線"が、英国のThe Times(9月23日)を通じて一般の人々 にも紹介されたのです。9月23日がマルコーニ氏の公式デビューの日となりました。

● ロシアの無線のパイオニア「ポポフ」にも伝わる

 マルコーニと並ぶ無線電信の実用化のパイオニアである、ロシアの海軍水雷士官学校の教官アレクサンドル・ポポフは、このタイムズ紙の記事でマルコーニのことを知ったようです。ソ連の国立レニングラード大学へ留学経験のある、東工大の梶氏がつぎのように述べられています。
ポポフがマルコーニの実験を初めて知ったのは96年9月のことである。ポポフにはマルコーニのような恵まれた条件はなかったが、それでも自分の装置の改良を進めながら船舶間の通信実験(1897年春)を続け、同じ分野の研究者にひけを取らないと自負することができた。 (梶雅範, ポポフ:無線電信の実用化のパイオニア, 『KDD テクニカルジャーナル』(No.27), 1997.1 [冬号], KDDクリエイティブ, p3)
  電気通信大の冨澤氏の論文にも同様の記述があります。
1896年秋イギリスからの短い新聞記事を読んだポポフは、マルコーニの通信実験について知った。だがその装置の詳細は不明であった。それでもポポフはマルコーニが自分と同じ道を歩んでいるものと推察して、自身の方針にしたがって研究を続けた。 』 (冨澤一郎、日本海海戦:その情報通信からの視点1 -海戦をめぐる情報通信環境とA.S. ポポフ-、『太平洋学会誌JPS』通巻第94号(第28巻第1号)、2005.5、太平洋学会、p26)
ロシア ポポフの切手
ロシア ポポフの授業
 ポポフ氏はソ連の切手にもなっています(左図[左])。
 私は勉強不足でポポフ氏のことを良く存知ませんが、電気学校の教授に就任した1901年(明治34年)以降はフィールド実験はほとんどできなくなったそうです(左図[右]:学生達に無線実験を見せているポポフ教授)。
しかし、1901年にペテルブルグの電子工学専門学校物理学教授になってからは教育負担から研究はほとんどできなくなった。5年(1905年)同校の校長に選出され、第一次ロシア革命の激動の中、6年1月(1906年1月13日)脳溢血で亡くなった。 (梶雅範, ポポフ:無線電信の実用化のパイオニア, 前傾書, p3)
 
 
 マルコーニ氏のことを伝えたのは新聞だけではありません。英国の週刊電気専門誌The Electrician(1896年9月25日号, Notes, p685)にも掲載されています(下図)。
At the Tuesday(9月22日) meeting of  Section A, Mr.Preece stated in the course of the discussion on Prof. Chunder Bose's Paper on "Electric Wave Apparatus," that a young Italian, Signor Marconi, had described experiments in which he had, by means of Hertzian waves, transmitted signals over a considerable distance, and as a result Mr. Preece had assisted Signor Marconi to continue his experiments in London and on Salisbury Plain.  Signor Marconi has now succeeded in producing electric waves and reflecting them from one parabolic mirror to another one and a-quarter mile distant, the waves falling on a receiving apparatus, which actuated a relay and produced Morse signals; ・・・(略)・・・』 (下図:The Electrician No.958, Sep.25, 1896, p685)
1896年 マルコーニのパラボラ試験
 
1896年 マルコーニを紹介する雑誌
 この他にも、英国の科学雑誌Natureが、マルコーニ氏と助手のケンプ氏が、1-1/4マイルを達成したことを伝えています(左図)。この二人の名前が並んだ記事はおそらくこれが最初でしょう。
Signals have been transmitted (by Signor Marconi, working with Mr. Kempe) across a distance of one and quarter miles on Salisbury Plain; further experiments are to be made on the Welsh hills. Nature 1896年10月8日号, Physics at the British Association, p567)


4) マルコーニの名前がアメリカに伝わる(パラボラ式の無線実験家として) [Marconi編]

 特に注目したいのは、いくつかのアメリカの専門誌がマルコーニ氏のソールズベリー平原での実験を紹介したことです。つまり無名だったイタリアの一青年の名前が、1896年10月中旬から下旬にはアメリカへ届いたのです。それもブリキ缶やブリキ板の接地式アンテナではなく「パラボラ反射鏡(parabolic mirror)を使う実験家」としてです。
 下図[左上]の週刊電気専門誌The Electrical Engineer(1896年10月14日号, "Morse Relay Signaling by Means of Hertzian Waves", The Electrical Engineer[New York], p379)、下図[左中]のThe Electrical World(1896年10月17日号, Transmitting Signals with Hertzian Waves (Without Wires), The W.J. Johnston Company[New York], p466)、下図[右]のScientific American Supplement(1896年10月31日号, Electrical Notes, Munn and Co.[New York], p17376)、下図[最下]のElectricity(1896年10月21日号, Telegraphing by Means of Hertzian Rays, Electricity Newspaper Company[New York], p233)がマルコーニ氏のパラポラ実験を伝えています。いずれも米国雑誌です。
マルコーニを伝える米国雑誌
 また1896年11月8日付けの日刊紙The Indianapolis Journal(p12, インディアナ州)に、「マルコーニ氏がパラボラ反射鏡を使って1 - 1/4マイルの無線通信に成功」したことを紹介する記事を見つけました。私は腰を据えて調べたわけではありませんが、いくつかの米国の新聞でも取り上げられたと想像します。
 
 ところでマルコーニ氏のパラボラ実験をほんの少し紹介しただけなのに、想像以上に反響があったことに対して、一番驚いたのはプリース氏自身だったようです。プリース氏はこのあと(12月12日)、ロンドンのトインビーホールで"Telegraphy without Wires"という講演を行い、マルコーニ氏の実験を大々的に紹介しました。つまり(以下の文献例のように)12月のトインビーホールの講演で注目されるようになったというよりも、9-10月において世界的に注目されるようになったから、トインビーホールで紹介されたというのが真相のようです。
マルコーニは1896年の6月から9月にかけて、何回か無線電信の公開実験をした。特にソールズベリー平原において行った9月2日の実験は、パラボラ反射板による指向性制御が目的であった。この結果を含むそれまでの実験結果について、12月12日にプリースがロンドンのトインビーホールで講演し、マルコーニの無線電信機の実演をした。 (無線百話出版委員会編, 『無線百話』, 1997, クリエイト・クールズ, p63)


5) ソールズベリー平原でのデモを描いた絵の誤り [Marconi編]

 さてマルコーニ氏がソールズベリー平原で実験する有名な絵があります(下図)。パラボラ反射器によるデモなのに、イタリア時代のブリキ板アンテナが描かれているのは誤りだと、元郵政省電波研究所長の若井登氏が指摘されています。若井氏は電波観測の権威であり、無線黎明期の研究における我国の第一人者でもあります。
 上にご紹介したとおり、マルコーニ氏が1896年10-11月に英米の両国において「パラボラ使いの実験家」としてデビューしたのは紛れもない事実です。それなのに「ブリキ板使いの実験家」としてデビューしたかのように誤解される要因のひとつが "この絵" かもしれませんね。この絵に描かれた無線機はマルコーニ博物館(ボローニャ, Italy)に展示されている「イタリア時代のマルコーニ青年の実験セット」にそっくりだと私は思うのですが、同博物館を訪問された方、いかがでしょうか?
 
1896年 マルコーニ 無線デモ
マルコーニは無線電信機の発明者といわれている。しかし異論も数々ある・・・(略)・・・私は、この事を追跡している内に、マルコーニが1896年から1899年にかけて英国郵政庁(GPO)のプリース技師長宛に送った22通の手紙に行き当たった。その内容の大半は実験報告であるが、純情なイタリア青年が馴れない英語で書き綴った沢山の手紙を読んでみて、これこそ無線電信機の発明者の証しと言えるのではないかと思うようになった。それをご披露しようというのが本文の趣旨である。
 私は、無線通信百年記念国際カンファレンスが1995年ロンドンの英国電気学会(IEE)で開かれた時、「日本における電波技術の黎明」と題する論文を発表した。その折たまたま同学会の地下の書庫で発見したのがその一連の手紙である。・・・(略)・・・
 マルコーニは、1896年6月にプリースの目の前で初めて100ヤード程の距離の無線電信を実演した。そして7月と8月には郵政庁や陸海軍の関係者を招いて、ロンドン市内の郵政庁の建物と、400mほど離れた銀行との間で実験を行なった。同年9月2日にはロンドンの西100kmほどのソールズベリー平原で大勢の観客を前に、2.8km(1-3/4マイル)の通信に成功した(図2(左図)、注: この送信機とアンテナはイタリアで初めて実験に成功したものであり、これでは2.8km届かないはずである。 画家の想像図であろう)。 (若井登, マルコーニの実験レポート(1) -電信機発明者の証し-, 『ARIB機関紙』, 1998.11, 電波産業界, pp32-34)
 
ここでは彼が次々と通信距離を伸ばしていった足どりを追ってみる。1896年6月の初めての公式実験では100ヤードであった。マルコーニは郵政局、陸軍や海軍からの要請に応え、7月と8月にもロンドン市内で実験したが、その際の距離の記録はない。次の実験は同年9月2日ソールズベリー平原で行なわれ、ヘルツ式パラボラ反射鏡を使って1.75マイル(=1-3/4miles=2.8km)の通信に成功したとある。 (若井登, 電波史発掘 - 無線電信の本当の発明者は誰か, 『情報通信ジャーナル』, 1995.1, 電気通信振興会, p47)
 
1896年9月2日 ソルスベリー平原でのパラボラアンテナ試験
 もちろん"A History of the Marconi Company"(左図)を初めとするいくつかの海外書籍にも、1896年9月2日のソールズベリー平原でのデモンストレーションにおいて、パラボラ反射器を使って1-3/4マイル(2.8km)を記録したと書かれています。
This took place on 2 September 1896, from a building on the Three Mile Hill, Salisbury Plain, with the objective of establishing the feasibility of directional control by means of metallic reflectors. A range of one and three-quarter miles was recorded.  』 (W.J. Baker, A History of the Marconi Company 1874-1965, 1970, Methuen[London], p29)
 
 若井氏や海外文献は9月2日のパラボラ無線機のデモが2.8km(1- 3/4マイル)だとしています。しかし9月22日の英国協会のミーティングでプリース氏が報告した距離は2.0km(1- 1/4マイル)です。これは一体どういうことでしょうか?この件を次に説明します。


6) パラボラ反射器のデモで達成した記録を2.8kmに修正 [Marconi編]

 結論を先に述べると、1896年にソールズベリー平原で行なったパラボラ反射器の実験の到達距離は、1-3/4マイル(2.8km)で間違いないようです。
 1899年(明治32年)3月2日、マルコーニ氏はこれまでの研究を、ロンドンの電気学会IEEで発表し、プリース氏の英国協会1896年大会での発言を1-3/4マイル(2.8km)に修正しました(下図)。
1899年3月 マルコーニの論文
1896年の英国協会のミーティングでプリース氏が言及した、パラボラ反射器で得られた結果は1-3/4マイルでした。
It was by means of reflectors I obtained the results over 1-3/4 miles mentioned by Mr. Preece at the British Association meeting of 1896. 』 (G. Marconi, "Wireless Telegraphy", Journal of the Institution of Electrical Engineers [No.28], 1899)
 
 このあたりはまだ研究の余地がありますが、とにかく現在では、ソールズベリー平原のパラボラ式無線機の到達距離は2.8km(1.75マイル)というのが定説となりました。なお後ほど触れますが1922年(大正11年)5月3日、英国電気学会(IEE)でフランクリン技師の発表の場にいたマルコーニ氏は、1896年の実験でパラボラだと1-3/4マイル届いたのに、接地式垂直アンテナだと半マイルだったと、性能比較を行っていたことを明かしています。
 
 下図は1899年のMcClure's Magazine誌6月号(The S.S. Mc'Clure Co.)です。さっそく2.8kmになっています。
 1899年3月27日にマルコーニ氏が英仏海峡横断無線通信に成功しました。これを受けてマルコーニ無線電信の特集記事"MARCONI'S  WIRELESS  TELEGRAPH:Messages sent at will through space - Telegraphing without wires across the English Channel" (Cleveland Moffet, pp99-112) が組まれました。
1899年 マルコーニの反射鏡を紹介する雑誌
 海峡横断成功に至るまでの経緯については、1899年3月2日の電気学会のマルコーニ氏の論文をもとにして書かれているようで、全部で13ページもある非常に詳しい記事です。左図は海峡横断の実験局を設置した英国サウスフォアランド灯台付近の断崖絶壁のイラストです。
 この経緯説明の中に、ソールズベリー平原でのパラボラ反射器の試験が出てきますので、ざっくり意訳してみます。
マルコーニ氏は電文を特定方向だけに送るのが望ましいと考えていました。英仏海峡の横断通信に使った高く懸垂したワイヤー式のアンテナとは全く異なる種類のものを実験していました。直径2-3フィートの銅製パラボラ反射器の焦点にリーギ発振器を置きましたが、輻射する波はほんの2フィート程のもので、懸垂ワイヤー式のものに比べて、たいしたことはありません。
 ソールズベリー平原で行なった試験では1-3/4マイル(=1.75miles=2.8km)で完全に通信でき、反射器を向けた方向へ電文を送ることができました。目には見えませんがヘルツ波が反射器で細く収束されています。そして反射器がほんの少しずれても届かなくなることが分かりました。」
 
Marconi realizes, of course, the desirability of being able in certain cases to transmit messages in one and only one direction. To this end he has conducted a special series of experiments with a sending-apparatus different from that already described. He uses no wire here, but a Righi oscillator placed at the focus of a parabolic copper reflector two or three feet in diameter. The waves sent out by this oscillator are quite different from the others, being only about two feet long, instead of three or four hundred feet, and the results, up to the present, are less important than those obtained with the pendent wire.  Still in trials on the Salisbury Plain, he and his assistants sent messages perfectly in this way over a distance of a mile and three-quarters, and were able to direct these messages at will by aiming the reflector in one direction or another. It appears that these Hertzian waves, though invisible, may be concentrated by parabolic reflectors into parallel beams and projected in narrow lines, just as a bull's-eye lantern projects beams of light. And it was found that a very slight shifting of the reflector would stop the messages at the receiving end. In other words, unless the Hertzian beams fell directly on the receiver, there was an end of all communication. (Cleveland Moffet, McClure's Magazine, June 1899, The S.S. Mc'Clure Co., pp107-108)
 
 ただし当初は到達距離を2マイルに丸めた記述"nearly two miles"が見られます。
1899年 マルコーニのパラボラ
 1899年にロンドンで初版が出された無線技術史"A History of Wireless Telegraphy, 1838-1899"に、さっそくこの修正が反映されていますが、到達距離は1.75マイルではなく、「ほぼ2マイル」といように丸められています(左図)。
The first experiments in England were from a room in the General Post Office, London, to an impromptu station on the roof, over 100 yards distant, with several walls, &c., intervening. Then, a little later, trials were made over Salisbury Plain for a clear open distance of nearly two miles. In these experiments roughly-made copper parabolic reflectors were employed, with resonance plates on each side of the detector (see figs. 37, 39). (John Joseph Fahie, A History of Wireless Telegraphy 1838-1899, Blackwood[Edinburgh], 1899, p211)
 
マルコーニのパラボラ試験
 さらに1904年(明治37年)に出版された"The Story of Wireless Telegraphy"(左図)にも記録されましたが、やはり2マイルという表現でした。
These having proved successful, his system was submitted to a more critical test on Salisbury Plain, with a clear distance of two miles between the sending and receiving stations. In these experiments parabolic reflectors and resonance plates were used. 』 (A.T.Story, The Story of Wireless Telegraphy, 1904, D. Appleton and Company, p147)
 
 この部分は海軍大学の木村駿吉氏が、早くも1905年(明治38年)に日本へ紹介しています。こうして日本でもマルコーニ氏のパラボラ実験が知られました。
マ氏の英京(ロンドン)に於ける研究は、明治廿九年(1896年)七月に始まれり。第一の試験は、逓信省の壁を隔てて百呎(フィート)の通信をなし、次にソールズベリー平原に於て、銅製放物面鏡と同調板なるものを用い、二哩(マイル)の通信をなせり。 (木村駿吉, 『世界之無線電信』, 1905, 内田老鶴圃, pp9-10)


7) 「接地式垂直アンテナ」が「パラボラ・アンテナ」を超えはじめる (低い周波数へ意図せずシフト) [Marconi編]

 後述しますが1922年(大正11年)5月3日、マルコーニ社のフランクリン技師が英国電気学会で短波開拓について発表した際に、その質疑応答の場にいたマルコーニ氏は「26年前(1896年9月2日)の私のデモではパラボラ式なら1 3/4マイル(=2.8km)届いたのに、垂直ワイヤー式だと半マイル(=800mしか届かなかった。」と語っています。
 つまり1896年秋の時点では接地を利用する垂直ワイヤー・アンテナより、パラボラ・アンテナの方が優秀だったのです。これは当時の伝搬試験の状況を知ることができる、貴重な本人発言でしょう。
 
 しかし実験を繰り返すうちに、マルコーニ氏は接地式垂直アンテナのいわゆる "勘どころ" を掴んだようです。同年末頃には、接地式垂直アンテナ」が「パラボラ・アンテナ」をしのぐようになりました。ただし1897年春では、パラボラ・アンテナとの比較試験がまだ継続しています。
 若井氏の"マルコーニの手紙"発掘記事の引用を続けます。
1897年4月1日の(マルコーニからプリースに宛てた)手紙では「3月下旬の一連の実験の結果、間に丘があっても通信できるが、その理由はよく分かりません。アンテナの片側を地球に接続しているせいかと思いましたが、非接地のアンテナを使っても届くのです。」 と書いている。この頃はまだパラボラ反射鏡のついたヘルツダイポールを使って指向性を高める実験も行なっていた事がうかがえるし、直進するはずの電波が見通し外にも届く事に疑問を感じながらも、アンテナの高さをより高く、また頂部により大きな容量負荷をつなぐほど、遠くまで届く事を実験的に確かめていたことが分かる。 (若井登, マルコーニの実験レポート(2) -電信機発明者の証し-, 『ARIB機関紙』, 1999.1, 電波産業界, p29)
 
 その後マルコーニ氏はアンテナをより高く、ブリキ箱(キャパシティーハット)をより大きくすることで到達距離をぐんぐん伸ばしていきました。若井氏はアンテナをより(高く)長く伸ばすこと、ブリキ箱(キャパシティーハット)をさらに大きくすることが、計らずしもアンテナ回路の共振周波数を下げ、VHF成分を使った火花実験が、自然とHF成分によるものへ変質していた事にまだマルコーニ本人は気付いてなかったと指摘しています。
接地アンテナとその頂部に容量を載せることはマルコーニ独自の発案であり、今でもほとんど同じ形のものが中波放送の送信用アンテナとして実用されている。ただしマルコーニは、通信距離を延ばすための方策がアンテナ回路の共振周波数を下げる結果になったことに、少なくとも1898年頃までは気付いていないと思う。火花送信機による通信周波数は、実験初期のVHF帯からHF帯、さらに後期のMF帯へと必然的に下がっていった。無線機が売れるにつれ、増える混信を解決するため、マルコーニが周波数を意識し始めたことが、1900年の同調回路の発明へと発展した。 (若井登, マルコーニの実験レポート(1) -電信機発明者の証し-, 『ARIB機関紙』, 1998.11, 電波産業界, p35)
 
 こうして超短波から短波へと、(意図せず)シフトし、到達距離を延ばすことに成功したマルコーニ氏は、従兄から無線会社を作るよう強く迫られました。岩井氏が発掘された"マルコーニの手紙"には次のようにありました。
従兄のデイヴィスが会社設立に動き出した。その辺の事情を(マルコーニは)1897年4月10日のプリース宛の手紙にこう書いている。
「私は困っています。従兄が友人達と組んで私の特許を使って電信機を作る会社を設立しようと考えています。しかし私は彼らと一緒にやる気持はありませんし、あなたの助力で行なっている今の実験に区切りが付くまでは、その考えに応えられないといってあります。彼らの提案は、私に現金で15000ポンドと、株式の半分をくれるというものです。そして25000ポンドの運用資金で、船に搭載する装置を作ったり、実験を続けると言っています。私はこの申し出を受けるつもりはありませんし、彼らに力を貸すつもりもない事を申し上げます。」
 どの伝記や文献を見ても、マルコーニは無線電信機を発明すると直ぐ会社を作り、無線機の市場を独占した大事業家として定着している。しかしこの手紙を読む限りそんなイメージはまるで浮かんでこない。「もっと実験をやって装置を改良しなければならない。取り巻きが自分の意に反して金儲けをたくらんでいるが、自分にとっての大恩人に迷惑をかけるようなことは絶対できない。」と、プリースに義理立てしている純情青年の姿しか見えてこないのである。
 あとの手紙にも出てくるが、この態度は、会社が軌道に乗り、次第に政府の通信事業独占を脅かすような状況になっても変わらない。マルコーニは無線電信の改良に明け暮れる生っ粋の技術者であって、その姿勢は生涯少しも変わらなかったように思えるのである。 (若井登, マルコーニの実験レポート(1) -電信機発明者の証し-, 『ARIB機関紙』, 1998.11, 電波産業界, pp35-36)
 
 最終的にマルコーニ氏は従兄とその友人達に従うことになりましたが、自分の名を冠した「マルコーニ特許電信会社」という社名には断固反対し、1897年(明治30年)7月20日に従兄が社長となり「無線電信信号会社」(Wireless Telegraph and Signal Company)が誕生しました。しかしマルコーニ氏の無線機は最初の1年間、全く売れませんでした。
【参考】 マルコーニ氏は会社設立直後に母国へ戻り、イタリア海軍へ無線機の導入を持ちかけていましたが、採用が固まったのは1998年5月になってのことでした。そして1898年7月のキングスタウン競艇の無線中継をダブリン日報から受注したのが同社の初売り上げで、マスコミを使った絶好のPRとなりました。なお直前の1898年6月3日にマルコーニ氏のワイト島ニードルス実験局を見学したケルビン卿夫妻の頼みで、23km離れた対岸にある同社ボーンマス実験局まで電文を送り、それを(陸線の公衆電報で)グラスゴウ大学とケンブリッジ大学に届けた際に、ケルビン卿が無線の謝礼として強引に1通当たり1シリング置いて帰った。その意味ではワイト島のニードルス実験局とボーンマス実験局が世界初の商業海岸局になります。


8) 超短波から短波へ 無線電信信号会社時代(3MHz付近) [Marconi編]

 無線電信信号会社のはじめの2年間(1897-1898年)は短波の3MHz付近を使用してマルコーニ式無線電信機(非同調式)を各方面へデモンストレーションしていました。
 1897年(明治30年)5月13日のブリストル海峡で行った実験はアンテナ長が30m(最終的には50m長でも試験)でした。同年7月11-18日、イタリア海軍にデモした時は艦船側が15m長、仮設海岸局側が24m長でしたが、最終的に船側を28m長、陸側を34m長までのばしています。さらに同年11月、英国南岸のワイト島(Isle of Wight)の西端ニードルス(Needles)に建設した送信所は36mのマストからアンテナを吊り下げ、受信機を積んだ曳船は高さ18mのマストからアンテナを吊り下げました。
 1898年(明治31年)7月20, 21日にキングスタウンで行なわれるヨットレースの無線中継をダブリン・デイリー・エクスプレス社(Dublin Daily Express)から受注しました。無線電信信号会社の初受注です。このとき蒸気船フライング・ハントレス(Flying Huntress)号のマストに22.5mのアンテナを建てて、浜辺に仮設した受信所へ各帆船の順位を無線送信しました。公衆通信は郵政庁の独占事業ですが、これは企業の自家内回線ということで許されました。
 その直後、ビクトリア女王の要請により、王室ヨットのオズボーン(Osborne)号で洋上療養生活に入った英国皇太子と、ワイト島のオズボーン・ハウス(王室別荘)間に無線回線が設けられて、1898年8月3日より16日間、連絡が取られました。その時のアンテナ長はヨットで25m、陸上のオズボーン・ハウスで30mでした。これも公衆通信ではなく自家回線という位置付けです。
 さらに同年、ロイド社からの要請で、アイルランドの東北部にあるラスリン島とバリーキャッスル間でデモンストレーションした時のアンテナ長は24m(最終的には30m)でした。
 非同調式の無線機ではアンテナ長の4倍の波長が一番強く輻射されます。マルコーニ氏の無線電信信号社では電波長80-130m付近(3.8-2.3MHz)を用いたと考えられます(ただしマルコーニ氏はアンテナを高くすると周波数が低くなる事に、まだ気付いていなかったようです)。
 
1898年 イーストグッドウィン灯台船との無線実験
1899年 英仏海峡 横断通信
 1898年(明治31年)12月、マルコーニ氏の無線電信信号会社はトリニティハウス社(the Corporation of Trinity House)の依頼を受けて、ドーバー海峡に面するサウスフォアランド(South Foreland)灯台と、その沖合に停泊させている灯台船間で通信試験をはじめました。
 灯台船は3隻ありましたが、一番遠く12マイル(=19.3km)離れたイーストグッドウィン灯台船(East Goodwin Lightship)に無線機を取付けました。
【参考1】 イーストグッドウィン灯台船無線局はマルコーニ通信100周年を記念して1996年4月2日に発行されたバハマの切手に採用された
【参考2】 灯台船は計4隻あったとする記事もある
 
 12月24日のクリスマスイブに行われたとされる通信試験は大成功でした。サウスフォアランド灯台(海岸局)の垂直空中線は24mですので、単純計算では4倍の波長100m付近(3MHz)と推定されます。このようにまだ非同調式無線機だった「無線電信信号会社」時代には、低い短波を使って実験していました。


9) 1899年3月3日 マルコーニが電気学会で電波灯台を提案 [Marconi編]

 1899年(明治32年)3月3日、マルコーニ氏はこれまでの無線研究の成果をロンドンの電気学会(Institution of Electrical Engineers)で発表しました。その論文"Wireless Telegraphy"は学会誌JIEE(Journal of the Institution of Electrical Engineers [No.28], 1899, pp273-297)に掲載されました(下図)。これがマルコーニ自身による学会デビューでした。このあと3月末に計画された英仏海峡横断試験は、学会筋からも大きな注目を集めるようになりました。
1899年 マルコーニの研究発表
 マルコーニ氏は1896年頃に実験していたパラボラ反射器による短波ビームの話題にも触れながら、それが電波灯台へ応用できるだろうと語ったのです。
 マルコーニ氏はパラボラ反射器を使って1-3/4マイルの実験をしていた頃を振り返って、電波灯台のサービスエリア内を、反射器付き受信機を搭載した船が航行するとき、受信機の反射器を電波灯台に向けたときのみ反応してベルが鳴るシステムを提案しました。
In experiments carried out over a distance of 1-3/4 miles, I noticed that only a very small movement of the transmitting reflector was sufficient to stop the signals at the receiving end, which could be only obtained within a latitude of 50ft. to the right or left of what was believed to be the centre of the beam of reflected radiations. There exists a most important case to which the reflector system is applicable, namely to enable ships to be warned by lighthouse, light-vessels, or other ships, not only of their proximity to danger, but also of the direction from which the warning comes.
If we imagine that A is a lighthouse provided with a transmitter of electric waves, constantly giving a series of intermittent impulses or flashes, and B a ship provided with a receiving apparatus placed in the focal line of a reflector, it is plain that when the receiver is within range of the oscillator the bell will be rung only when the reflector is directed towards the transmitter, and will not ring when the reflector is not directed towards it.  (G. Marconi, "Wireless Telegraphy", Journal of the Institution of Electrical Engineers [No.28], 1899, pp282-283)
  
 この論文はただちに、米国の週刊電気雑誌ELECTRICITY(3月29日号, pp180-182)、週刊技術誌Engineering News and American Railway Journal(3月29日号, pp206-208)、週刊科学雑誌Scientific America(Supplement No.1213, 1899年4月1日号, pp19452-19454)に転載されましたので、マルコーニ氏の無線研究や電波灯台の提案はアメリカでも良く知られるものだったと考えられます。
 我国では(24年後になりますが)逓信省の荒川大太郎技師が、このマルコーニ氏のアイデアを紹介しています。
無線電信の創業当時に於ける英国でなされた、Preece氏の1896年および1897年六月四日の講演、ならびにMarconi氏がなした1899年三月三日の講演は、多くの諸君には歴史的の興味より外にはないであろうが、再びこれを繰返す時期が来たのである。
 その実験は短波長と反射器を使い、ある一定の方向のみに電波を反射し、数々の受信機が、送信機をその方向に向けた時にのみ動作することに成功した。これは室内のみならず、英国のSalisbury Plain(ソールズベリー平原)でも実験したので、当時これを灯台や灯台船に使用し、濃霧中危険なる点を指示するに利用されるべきを報告したのである。 (荒川大太郎, 無線電信の新しき用途, 『無線』, 1923.2, 逓信省倶楽部, pp6-7)
 
 英仏海峡の東方海域には、英国の西側(大西洋)を流れる暖流の北大西洋海流(メキシコ湾流)からの湿った空気が偏西風で運ばれてきます。そしてこの湿った空気が冷やされて濃霧が発生しやすい地理環境でした。そのためこの海域では昔から濃霧による視界不良で船舶の衝突事故が後を絶たず、マルコーニ氏は非常に早い時期(1898年頃)より、無線ビームを(通信用としてではなく、むしろ)ナビゲーション用として応用できないかと考えていたようです。
 (後述しますが)この想いを持ち続けたマルコーニ氏は、フランクリン技師に命じて1920年よりインチケイス島で電波灯台の実験をはじめます。


10) 短波から中波へ 英仏海峡横断通信(1.6-1.7MHz付近) [Marconi編]

 マルコーニ氏の無線電信信号会社の後半期(1899-1900年)になると、アンテナをさらに高く伸ばして、結果的には中波の上の方を使うようになりました。
1899年 英仏海峡横断試験
1899年 ドーバー海峡横断通信成功の新聞記事
 1899年(明治32年)3月上旬、マルコーニ氏がフランス政府に申請していた海峡横断試験に許可が下り、フランスのウィムロー(Wimereux)に実験用無線電信所の建設がはじまりました(左図[左]:オーストラリアの日刊紙)
Wireless Telegraphy - ENGLISH CHANNEL EXPERIMENTS
          London, March 3.-”(ロンドン3月3日発)
 The French authorities have given their consent to the making of experiments with the new system of wireless telegraphy across the English Channel, between Falkestone(Folkestoneの誤記) and Boulogne.The Daring Downs Gazette, Mar.6,1899, p3)
 
 そして1899年3月27日、サウスフォアランド灯台の実験施設を利用して、英仏海峡横断試験のデモンストレーションを行い、みごと成功させました。ロンドンのタイムス紙がフランス側から無線で届いた電文を取上げて、この快挙を報じました。上図[右]は米国サンフランシスコのSan Francisco Call紙(Mar.29,1899, p2)"Words Are Sent Across The Sea Without A Wire"ですが、この海峡横断試験の成功は世界中で報じられました。
 
 成功の様子は『無線電信及無線電話』(C.R. Gibson著/関沢三吉訳)が詳しいので引用します。前回の灯台船との通信よりも距離が3倍以上になるため、この実験では(装置は同じままで)垂直アンテナを24mから45mに伸ばしました。輻射された周波数はおよそ1.6-1.7MHzあたりと考えられ、初の英仏国際無線通信試験は中波で行われました
1899年 英仏海峡 横断無線通信 成功
『 次いで試みられしは、サウスフォーアランド灯台より英吉利海峡(ドーバー海峡)を横断して仏国(フランス)西海岸に至らんとするものにして、これは一八九九年三月二十七日に成就せられたり。
 三月二十九日、三十日の新聞を見れば、何人も英国灯台に臨場したる仏蘭西
(フランス)の代表的名士の多きに驚くならん。これそれの実験が仏蘭西のために行われ、かつマルコニ会社がトゥリニティ・ハウス会社より該灯台の使用許可を得たりしが故なり。仏蘭西海岸の電信所はブローニュの北二哩なるウィムローに置かれたるが、両所の距離は英吉利海峡を挟んで三十二哩(32miles=51.5km)なり。該実験は見事に成功せり、すなわち難なく海峡を横断して英仏間の通信を成し遂げたりき。
 ここに当然起こる疑問はイースト・グットウィン灯台船に至るよりも約三倍大なるこの距離を架するに何程の電力を附加すべきかということなるべし。その答えはこれと同一の器具にて更に大なる距離にも不足なしということ是なり。
・・・(略)・・・(ただし)空中線は高さ百五十呎(150feet=45.7m)なりき。・・・(略)・・・
(これまでの)本島とイースト・グッドウィン灯台船間の通信にもち用いたる空中線の高さは八十呎(80feet=24.4m)なりしをもって、その長さは英吉利海峡横断実験のために約二倍にせられたり。 (Charles R. Gibson著/関沢三吉翻訳, 『無線電信及無線電話』, 1915, 大日本文明協会, pp86-87)
 
 実験に立ち会った(右手の法則、左手の法則で有名な)ロンドン大学のフレミング教授はマルコーニ氏の無線に深く感銘を受けました。
英仏間に設けられたる装置を見んとて、サウスフォーアランド灯台を訪問したる人々の中に、倫敦(ロンドン)大学電気科教授ジェー・エー・フレミング博士ありき。彼はこの成績に深く感じて一書を「タイムズ」紙に寄せたり(一八九九年四月三日)その中に左の一節あり、いわく
「数日以前より、余は、許可を得てマルコニ氏がサウス・フォーアランドとブローニュ」との間の驚くべき電信実験に用いたる装置と方法を詳細に調査し、かつ、サウス・フォーアランド灯台において実験をなし、またその所に設けられたる電信所より、エーテル波信号の送受設備あるグッドウィン・サンヅの灯台と仏蘭西
(フランス)との両所に通信を送りたり。余の滞在期間を通じて、通信、信号、祝賀、戯言等、海峡の両側に座せる通信手の間に自在に交換せられ、一分間、十二字または十八字の割合にて、普通の紙片に自動的に印附せられたり。一回たりとも些細の故障もしくは発信に対する急返信を受くるに遅滞せしことなかりき。いかにこの事実を熟知するも、単に旗竿の一方に通じる長さ百五十呎(150feet=45.7m)の銅線と連結せられしのみなる一電信器がその通信を空間より抽き出し、しかして三十哩(30miles=48.2km)を横切りて不可思議なるエーテルによりて運ばれし報道を細長き紙片上に点と棒とにて印附するを見れば、一種驚嘆の感なくんばあらず・・・」と。 (Charles R. Gibson著/関沢三吉翻訳, 『無線電信及無線電話』, 1915, 大日本文明協会, pp87-88)
 45mというのは15階建てマンションほどの高さになりますので、建設にはかなり苦労したのではないでしょうか。
 
 1900年(明治33年)2月23日に「マルコーニ無線電信会社」(Marconi's Wireless Telegraph Company)に変わりましたが、この時にもマルコーニ氏は自分の名前を冠することに反対しています。しかし前年に米国法人「アメリカ・マルコーニ会社」を立ち上げた時からの流れなので、止めようがなかったようです。
余談になるが、社業の発展に伴い1900年2月23日に「Marconi's Wireless Telegraph Co. Ltd.」と再度社名が変更されるときにも、重役会の席上マルコーニだけが自分の名前を冠することに反対した。 (若井登, 電波に関する単語3兄弟, 『情報通信ジャーナル』, 1999.8,  電気通信振興会, p49)


11) マルコーニ国際海洋通信会社を創設 [Marconi編]

 海を挟む陸地間には既に海底ケーブルが敷設されており、マルコーニ氏は早い時期から無線による長距離通信ビジネスへの参入には相当時間が掛かると予感していました。
主として国際通信に依存しているかぎり、会社が長つづきしないことに、マルコーニはやがて気がついた。ただちに開拓できるもっとも有望な分野は、船舶との通信にあるように思われた。 (Maclaurin, 山崎俊雄/大河内正陽 訳, 『電子工業史 - 無線の発明と技術革新』, 1962, 白揚社, p68)
 
 そこで船舶界の巨人であるロイド社との契約に成功したマルコーニ社は、まずドイツで船舶局と海岸局の建設に着手しました。
 1900年(明治33年)2月18日、オランダとの国境の島ボルクムに、ボルクム島灯台(Borkum Island Lighthouse:下図[左])海岸局(マルコーニ局)が完成しました。150フィート長(=46m)の垂直空中線ですので周波数は1.6MHz位でしょうか。なおボルクム島からは海底ケーブルで大陸へ結んでいます。欧州大陸側の商用海岸局としてはボルクムが第一号です。
1900年 ボルクム島灯台無線局
1900年 マルコーニ 海上移動通信のビジネス化
 また同年2月27日には北ドイツ・ロイド社が誇る大西洋航路の大型客船カイザー・ヴィルヘルム・デア・グロッセ号(Kaiser Wilhelm der Große:左図[右])と、(明確な日付けは不明ですが)ボルクム島の北西30kmの公海上に停泊しているボルクム・リフ灯台船(Borkum Riff Lightship)にマルコーニ局を開設しました。カイザー・ヴィルヘルム・デア・グロッセ号は100フィート長(=30m)の垂直空中線を設置しましたので、波長はその4倍の120m(周波数2.5MHz)あたりだと考えられます。

 1900年2月28月、無線機を搭載したカイザー・ヴィルヘルム・デア・グロッセ号は独ブレーマーハーフェン(Bremerhaven)を出港し、ボルクム島灯台海岸局およびボルクム・リフ灯台船と第一回目の通信テストを行いつつ、ニューヨークへ向かいました。この通信テストは5月上旬まで繰り返されました。3月8日および4月12日のニューヨークタイムス紙がこの試験を報じています(MESSAGE FROM A VESSEL : Experiments Made by the Kaiser Wilhelm der Grosse : The Signals Carry 50 Miles, The New York Times, Mar.8, 1900, p1)、(Marconi Test Successful, The New York times, Apr.12, 1900, p9)
 
 1900年(明治33年)4月25日(= マルコーニ氏 26歳の誕生日)、ロンドンに「マルコーニ国際海洋通信会社」(Marconi International Marine Communication Company)を設立し、欧州大陸のブリュッセル(ベルギー)にもオフィスを設け、さらにパリ(仏)とローマ(伊)には代理店を置いて、北海と北大西洋航路の船舶局と海岸局の受注拡大を目指すことにしました。これはしばらく収益が見込めそうもない長波無線の「マルコーニ無線電信会社」から、すぐに稼げそうな会社を分けたともいえます。
 ボルクム島灯台海岸局、ボルクム・リフ灯台船、客船カイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセ号間で行っていた通信試験はこのマルコーニ国際海上通信会社が引き継ぎました。また英国海軍の艦船にマルコーニ式無線電信機が装備され始めたのもこの頃です。
 専門誌Marine Engineering(1900年4月号)によれば、通信圏としては50マイル(=80km)が確保できて、大変良好につき北ドイツ・ロイド社の他の船にも搭載されるだろうと、この通信テストの様子を伝えています。
As the result of experiments with the Marconi system of wireless telegraphy on the North German Lloyd liner Kaiser Wilhelm der Grosse, it is probable that this method of communication will be adopted on all the fast ships of that line.  Signals were exchanged between the liner and a station 50 miles distant. (Marine Engineering, Apr.1900, Aldrich & Donaldson [New York], p173)
 ボルクム・リフ灯台船がボルクム島灯台海岸局とカイザー・ヴィルヘルム・デア・グロッセ号との間で電報を中継することで、サービスエリアは最終的に60マイル(=97km)になりました。
 
 ちなみに12年後に起きたタイタニック号の沈没事件で、同船の通信士だったフィリップス氏とブライド氏は運航会社であるホワイトスターラインの社員ではなく、(また陸上固定通信のマルコーニ無線電信会社の社員でもなく、)このマルコーニ国際海洋通信会社の社員でした。
Philips an Bride, the Marconi operators on board the Titanic, were employed by the Marconi International Marine Communication Company, not the White Star line. (Sue Vander Hook, Titanic, 2010, ABDO Publishing Company, p54)


12) 19世紀最後の年 ついに海上公衆通信サービスがスタート(1900年5月15日) [Marconi編]

カイザー・ヴィルヘルム・デア・グロッセ号
 1900年(明治33年)5月15日、ドイツの沿岸海域において海上移動の公衆通信サービスが正式にスタートしました。
 周波数的には前述の通り2.5MHz付近(波長120m)が用いられました。ここは誤解が多いところですが、長波により無線が商用化されたのではありません。電波利用はまず高い周波数から低い周波数へ発展し、そのあと再び高い周波数へ回帰しました。
 
 無線電信の恒久施設を定期航路線に建設し、世界初の海上移動の商用公衆通信サービスを開始したカイザー・ヴィルヘルム・デア・グロッセ号は、南米のパラグアイ共和国の記念切手になっています(左図)。
 
 さて世界初の船舶無線電報サービスですから、どれほど利用されたかが気になるところです。
 翌年(1901年)5月15日にロンドンの技芸協会(the Society of Arts)でマルコーニ氏は論文「Syntonic Wireless Telegraphy」を発表し、それが5日17日のJournal of the Society of Arts(May 17, 1901 - No.2530 Vol.XLIX, pp306-315)に掲載されました。その中で海上公衆通信サービスの取扱量について触れられています。
1900年 世界初の船舶無線電報
 これによるとドイツ沿岸海域における海上移動の公衆通信サービスは、1900年5月15日の開業から同年10月30日までの5.5箇月で565通の電報を取扱ったとされており、およそ100通/月になります。このうち陸からカイザー・ヴィルヘルム・デア・グロッセ号に宛てたものは47通で、カイザー・ヴィルヘルム・デア・グロッセ号から陸へ宛てたものは518通(内訳:北ドイツ・ロイド社宛が185通、その他一般宛が333通)でした。
 同船は「独-米間を月に1往復程度の運行なので、無線サービスエリアであるボルクム近海を通過した日数にすれば、とても少ないはずです。そう考えれば、(もの珍ずらしさもあってか?)無線電報は大変よく利用されたといえるでしょう。
 
 また下図Marine Engineering誌(1901年7月号)によれば、1900年5月15日の開業から12月31日までの7.5箇月間で、ボルクム・リフ灯台船が655通もの無線電報をボルクム島灯台海岸局との間で中継しました。その総取扱量は8,040語(1語=5字)でした。
1900年 世界初の海上公衆通信サービス
WIRELESS TELEGRAPHY.
 The wireless telegraphy installation between Borkum and the Borkum Riff Light-ship on the North Sea, which was put to work on May 15, 1900, transmitted 655 telegrams up to December 31 last — a total of 8,040 words. (Marine Engineering, July 1900, Aldrich & Donaldson [New York], p299)
【参考】開業当時の呼出符号は(私には)分かりませんでしたが、1905年4月1日に呼出符号KBM(ボルクム島灯台)、FBR(ボルクム・リフ灯台船)、DKW(カイザー・ヴィルヘルム・デア・グロッセ号)がドイツ帝国政府より指定されています。
 
 このように欧州地区では19世紀最後の1900年には、マルコーニ社によって海上移動体通信が商用化されました。後述しますが、この後の1901年(明治34年)12月12日に、話題性はあっても、全然会社の売上げに繋がらない大西洋横断通信を成功させましたが、その裏では着実な収入源を確保しようと海上移動体通信ビジネスを立ち上げていたわけです。マルコーニ氏の従兄が強引ともいえるスピード感をもって、一気に実用期へと駒を進めさせたのは、アメリカのテスラ氏やロシアのポポフ教授らに先を越されないための戦略だったのでしょう。
 
 船舶局の場合、あまり大きなアンテナを張れないという制約もあって、マルコーニ社では(同調式無線機の時代になっても)短波を使い続けました。船舶局とそれを相手にする海岸局は総無線局数中の圧倒的多数なのに、海上移動の「短波」に着目する文献はそう多くはありません。一方「長波」国際通信サービスは第一次世界大戦までビジネスとして軌道に乗れず、局数も僅かだったにも関わらず、(昔も今も)無線雑誌や書籍は、長波局の施設がどれほど巨大で、どれほど遠くまで電波が届くようになったかを中心に取り上げてきました(・・・というか、船舶局と海岸局だけでは話題作りが出来ないでしょう)
 それに一般の読者には「長波」「中波」「短波」という見方よりも、「設備規模」「到達距離」「国際性」に興味があったのは事実です。しかしそんな注目されない「短波」のトピックスを拾い集め、御紹介しようというのが本サイトの短波開拓史関連ページの趣旨でもあります。


13) 順調に伸びていった船舶無線(海上公衆通信サービス) [Marconi編]

 無線による公衆通信サービス(電報)への事業参入は「陸-陸」遠距離固定通信よりも、「陸-海」「海-海」移動体通信の領域を狙うべきというマルコーニ氏の目論みは的中しました。船がいったん港を出ると、どんなに(陸と)連絡したいことがあっても、それは叶わなかったのに、マルコーニ無線のおかげで船から電報が打てたり、受取ったりできるのです。これは画期的なことでした。また船会社にとってはマルコーニ国際海洋通信会社の無線局を自社船に開設させれば、乗客サービスはもとより、航行の安全性の向上も期待できるというメリットがありました。海上公衆通信サービスの歴史が幕開けました。
 
1901年 英国船籍で初の大西洋航路のマルコーニ局
 1901年(明治34年)春、英国のビーバーライン社(Beaver Line)が所有する客船レイク・チャンプレイン号(左図:SS Lake Champlain)にマルコーニ国際海洋通信会社の無線局が設置されました。大西洋航路の英国船籍の無線装備としては、これが記念すべき第一号です。
 そして1901年5月21日、1200名の乗客を乗せてケベック(カナダ)に向けリバプール(英国)を出港した、レイク・チャンプレイン号はリバプールを出港すると、直ちに(リバプールから西へ100kmほど離れた)ホーリーヘッド海岸局(Holyhead、下の地図の⑤)と連絡がつき、公衆通信を交わしました。そのあと、アイルランドのロスレア海岸局(Rosslare、下の地図の⑦)との通信圏内に入り、いくつか電報が交換されました。
 
 1901年6月末現在のマルコーニ社の(実験局を除く)商用海岸局と灯台船局は次の通りです。有名な大西洋横断通信の成功(1901年12月12日)より先に、欧州沿岸地域で海上電報サービス網が整備されたことが分かります。
1901年 商用マルコーニ局
左の地図の他に、米国ニューヨークの玄関口であるシアスコンセント海岸局(ナンタケット島)およびナンタケット島灯台船無線局が最終テストのための準備を終えており、またカナダ大西洋岸のベル島海岸局もスタンバイしていました。
Next year, at the end of June 1901, the directors were able to report that Marconi stations had already been erected on various points of the coast of Great Britain and Ireland at Withernsea(左図1), Caister(左図2), North Foreland(左図3), Lizard(左図4), Holyhead(左図5), Port Stewart(左図6), Rosslare(左図7), Crookhaven(左図8), La Panne(左図9), Belgium, Borkum lighthouse(左図10) and Borkum Riff lightship(左図11), Germany, in addition to which the following stations had been equipped by Marconi’s Wireless Telegraph Company, Limited, and were available for communication: Nantucket lightship and Siasconset, U.S.A.
 They were daily expecting to hear that the station at Belle Isle ― was ready for communication.
 (H.E. Hancock, Wireless At Sea -The First Fifty Years, 1950, Marconi International Marine Communication Company, p26-27)
 
ルーケニア号に無線
 1ヵ月後の1901年6月15日、リバプールからニューヨークに向かうキュナードライン社(Cunard Line)の大型客船ルカーニア号(R.M.S. Lucania、左図[左])に、そして同年9月21日にはその姉妹船であるカンパニア号(R.M.S. Campania、左図[右])にもマルコーニ局を置いて、公衆通信業務の取扱いを開始しました。
 さらにルカーニア号とカンパニア号間で運行状況の相互連絡(社内回線)にも使ってみたところ大変有用であることが分かり、キュナードライン社は全面的にマルコーニ国際海洋通信会社の無線電信を採用することとし、このあと自社の大型客船に次々とマルコーニ局を開設しました。
 またこの年、北ドイツ・ロイド社では新造した大型船クロンプリンツ・ヴィルヘルム号(S.S. Kronprinz Wilhelm)にもさっそくマルコーニ局を設置しました。後述しますが、マルコーニ国際海洋通信会社はこれらの船に波長120m(2.5MHz)を採用しました。海上公衆通信は短波ではじまったといえるでしょう。
 
 日本帝国海軍の「三四式無線電信機」を開発した木村駿吉氏の文献から引用します。
マルコニ万国海上通信社は、同年(1901年)五月(21日)においてビーバー線レーキチャンプレイン号に、六月(15日に)キューナード線ルーケニア号、九月(21日に)カンパニア(、9月28日に)アンブリア号に、十月(12日に)エトリューリア号に、十一月仏国大西洋会社のサヴチア号にこれを装備したり。 (木村駿吉, 世界之無線電信, 1905, 内田老鶴圃, p132)
【参考】 後述する「1906-7年(明治39-40年)の短波局」に短波船舶局のリストを掲げていますが、その表(1/2)をご覧ください。Cunard Lineのルーケニア(Lucania, 呼出符号LA)、カンパニア(Campania, 呼出符号PA)、アンブリア(Umbria, 呼出符号UA)、エトリューリア(Etruria, 呼出符号EA)が短波を搭載していました。またそのすぐ上にはCie Genaral Transatantiqueのサヴチア(La Savoie, 呼出符号LS)も見えます。
 
1901年 同調式 火花送信機 コヒーラ受信機
 同社では1901年になると、既に4波の周波数を分離して利用できるレベルにまで達して、同年秋よりワイト島(Isle of Wight)のニトン局(Niton)とボーンマス(Bournemouth)近郊のプール局(Poole)間30マイルで同調式の性能試験を開始しています。
 左図がその頃のマルコーニ氏の同調式無線機です(なおマルコーニ氏の同調式の英国特許第7777号は1900年4月26日に登録されています)。
 
 しかし以下の様な記事も見受けられることから、実用船への同調式の導入は1902年(明治35年)以降ではないかと推測します。
同年五月(1901年5月15日, Society of Arts)、同調式無線電信と題し、マルコニ氏は技芸協会において演説し(G. Marconi, "Syntonic Wireless Telegraphy", Journal of the Society of Arts' Vol. XLIX., May 17, 1901, pp506-515)、同月において下院議会ヘンニカー ヒートン及サージョン レングの二氏の紹介をもって、マルコニ氏及マルコニ会社の重役より成れる一行は、英国海軍大臣セルボーン候に面謁(めんえつ)し、マルコニ氏は同調式について説明し、既に四種の同調を成功し、電気の勢源を増加する時は、益同調の数を増加するを得へき旨を口述し、侯爵はこれに対し、異なる会社にして各々異なる無線電信式を用ゆる時は、互に混信せしむる恐なきかに付、種々の質問を下したりと云へり。
 同年(1901年)の英国海軍演習の際、軍艦に装備せるマルコニ式無線電信機の、傍受混信何れも極て完全なる旨報道ありし、マルコニ無線電信会社の重役ページ氏は、エレクリシャン誌上において、英国軍艦には、マルコニ式の同調旧式機械備装せられある旨を声明せり。 (木村駿吉, 『世界之無線電信』, 1905, 内田老鶴圃, pp444-445)
 1902年(明治35年)末時点で、英国の海軍32隻、民間商船30隻にマルコーニ式無線が据え付けられていました。
 
 マルコーニ国際海洋通信会社は欧州航路を中心にその勢力を急拡大させて、同社の海上移動体通信網は1903年には完全に軌道に乗ったといえるでしょう。
大西洋上及び英国の港湾に寄航終航する大郵船は、殆んど皆マルコニ万国海上通信会社の勢力下にありて、無線電信を装備せざるはなく、その装備は明治三十四年(1901年, 【注】明治33年[1900年]の誤記?)に始まり、三十六年(1903年)中に於てキュナード線、北独逸ロイヅ線、アラン線、大西洋トランスポート線、亜米利加線、カンパギーアトランチーク線、ベルギーメイルパケット線、レッドスター線、地中海行郵船、東北鉄道会社所有船、アイルヲファン、スチームパケット線、伊国ナビガッションゼネラール会社等、皆船主荷主の利益の為め、あるいはまた乗客の安意の為め、争って無線電信を用い・・・(略)・・・』 (木村駿吉, 前傾書, 1905,  p143)


14) 同調回路の発明でより低い中波へ ・・・ 820kHzで大西洋横断試験に成功 [Marconi編]

 「マルコーニ国際海上通信会社」が順調に業績を伸ばすその一方で、「マルコーニ無線電信会社」は1900年(明治33年)7月、英国コーンウォール州ポルドゥーに太平洋横断通信の試験局の敷地を購入し、1900年10月より建設工事に着工しました。
 そして1901年(明治34年)12月12日、ポルドゥー局が送信した"S"(・・・, 短点3つ)を3,400km離れたカナダのシグナルヒル(ニューファンドランド・セントジョーンズ郊外)で受信できました。使用した周波数は中波の820kHzだと推定されています。
 
 しかし学会筋にはこの成功を疑う者も多くいたため、マルコーニ氏は証拠が残るようレコーダー式受信機を北米航路のフェラデルフィア号に積んで再試験(1902年2-3月)を行いました。その結果1,551マイル(=2,496km)までは非常に強力で、最大で2,099マイル(=3,378km)地点(北緯42度01分、西経47度23分)まで記録され、世間の疑いは下火になりました。
 このときマルコーニ氏は不思議な現象を経験しています。米国へ向かう途中700マイル(=1,127km)までは昼夜ともにポルドゥー局の820kHz波が聞こえたのに、さらに離れると夜しか受信できなかったのです。同調回路が実用化され電波に「周波数の概念」が導入されたばかりの当時においては、この現象が暗示する重要な意味(日中のD層による中波の吸収作用)を、誰も(マルコーニ氏や技術顧問のフレミング氏でさえも)理解できませんでした。
At distances of over 700 miles, the signals transmitted during the day failed entirely, while those sent at night remained quite strong up to 1,551 miles, and were clearly decipherable up to a distance of 2,099 miles from Poldhu.  (J.A. Fleming, Hertzian Wave Wireless Telegraphy [VII], Popular Science, Dec.1903, Bonnier Corp, p158)
 
 現代ではこれより1年半も前(1900年5月)に、「マルコーニ国際海上通信会社」が海上公衆通信サービスをスタートさせ、その後も順調に顧客を獲得していったという無線ビジネスの成功談は、あまりにも有名な大西洋横断通信成功話の影に隠れてしまったようです。どうかするとこの1902年頃は、まだ電波実験を繰り返すばかりの原始時代かのように誤解されたりしますが、(順序としては)海上公衆通信サービスの商用化に成功したあとで、巨額の費用を投じて太平洋横断通信試験が行われました。
 会社の売上げには一銭たりとも貢献しない "マルコーニ氏の 道楽" のような試験ではありましたが、まあ長い目で見ればマルコーニ無線の宣伝にはなりました。


15) 長波にも進出 しかしケーブルに勝てずビジネスにならなかった長波 [Marconi編]

 1902年(明治35年)春、フェラデルフィア号による大西洋横断通信の再試験を終えたマルコーニ氏は、今度は長波の研究に手を染めました。これまで輻射周波数はアンテナの長さで決まっていましたが、同調回路の発明により、送信機の回路定数で周波数を決定付けることが可能になり、さらにアンテナ回路にはローディングコイルを入れることで、アンテナの長さが電波長の1/4でなくても良くなったからです。
1903年 ケープ・コッド局
 マルコーニ氏は中波ポルドゥー局を長波1,100m(272kHz)にする大改修を行い、その受信対手局としてカナダのノバスコシア州にグレイスベイ局(左図)を建設し、1902年11月19日よりポルドゥーの長波を受けようと試みましたが、かすかに感じるだけでした。
 そこでポルドゥー局を波長1,650m(182kHz)にする改修を行い、1902年12月5日になってようやく解読できる程度で受かりました。さらに実験を繰り返すことで、周波数と距離の関係や、電波伝播に日光が影響することが徐々に明らかになってきましたが、まだまだ試行錯誤の時代だったといえるでしょう。
 ところで左図はそのグレイスベイ局の逆ピラミッド型をしたアンテナ(Pyramidal Stub Antenna)で、4隅の塔は木製です。天に向けて広く(大きく)するのは、1890年代のブリキ箱を大きくする実験の経験からなのでしょうか?それにしても、この時代のアンテナは面白い形をしていますね。
 
 このように海底ケーブルの独断場であった遠距離公衆通信市場へ無線で参入しようとする「固定局」においては中波から長波の電波も試されるようになりました。しかしすでに陸地にも海底にも多くの通信線が張り巡らされており、新規参入は困難をきわめました。マルコーニ社の大西洋横断通信ビジネスの計画は海底ケーブルを敷設していたアングロ・アメリカン電信会社から妨害を受けるようになるし、英国でも郵政庁から国の電報事業を脅かすものとして敵視されました。
 英国のマルコーニ社は設立から13年間、赤字続きの非常に苦しい経営状態で、彼がノーベル賞を受賞した1909年(明治42年)では、まだ利益を出せていなかったのです。
イギリス・マルコーニ会社は1897年から1910年まで無配当であった。・・・(略)・・・ウィリアム・プリースはマルコーニを大いに激励していたが、郵政大臣のオースティン・チェンバーレンはまったく反対な態度をとった。彼は、マルコーニの会社を政府管理の電信工業の潜在的な敵とみなして、マルコーニの海外業務を郵政庁の電信線に連結することを頑強に拒絶した。もしロンドンのだれかがパリにマルコーニ式電信を送ろうとすれば、その人は地方のマルコーニ事務所にゆかねばならなかった。その上で、事務所が郵便局に使いを送ってドーバァのマルコーニ放送所に(郵政庁の有線で)電信する。つぎに電文はイギリス海峡を(マルコーニ無線で)横断中継され、フランスの電信局をへて最終の行き先に送られる。遅くて高価な手続きであった。それに反して、海峡横断のケーブル会社は郵便局と直接連絡していた。マルコーニは思いきった料金の切り下げによってのみ対抗することができた。しかし、無線はケーブルよりも大気の条件によって妨害にあうことがはるかに多かったので、通信の量はそれでもなお少なかった。 (Maclaurin, 山崎俊雄/大河内正陽 訳, 『電子工業史 - 無線の発明と技術革新』, 1962, 白揚社, pp67-68)
 
 マルコーニ氏は「金食い虫」の長波実験に5年間も費やし、長波帯遠距離(陸-陸間)公衆通信ビジネスの開業にこぎつけたのは1907年(明治40年)でした。しかし巨額の設備費や維持費に対して売上げが付いてこず、長波は鳴かず飛ばずの足踏みとなりました。
 長波が世界中で大きく注目されるようになったのは、第一世界大戦が勃発(1914年)し敵国に海底ケーブルを切断されるリスクが高まってからのことです。無線通信は高い周波数から実用化されて、低い周波数に向いました。


16) 他社とは交信しないマルコーニの海上公衆通信サービス [Marconi編]

 海上公衆通信(無線電報)の初期において、マルコーニ氏の母国イタリアはとても協力的でした。
伊国無線電信
 同政府はマルコーニ式無線電信事業には、世界各国中、最も熱心に発明者(マルコーニ)を保護し、三十五年(1902年)大西洋上無線電信の開通前(~1902年)、軍艦一隻を貸与し、その実験を為さしめたる事ありしが、・・・(略)・・・併せて今後十四ヶ年間マルコーニ式無線電信のみを使用すべき契約をマルコーニ無線電信会社と結びたり。 (亀井忠一, 『地理書教授の最新資料』, 1904, 三省堂, p94)
 
 英国郵政庁とイタリア郵政庁はそれぞれマルコーニ式無線システムのみを使うという契約にサインし、またマルコーニ国際海洋通信会社は他社の無線局とは交信しないことを表明しました。そのため英・伊にある公設海岸局に電文を託したい船舶局は、マルコーニ式無線システムを採用するしか手段がないという排他的ビジネスを展開したのです。
 
 ちなみにこのマルコーニ国際海洋通信会社がとった排他的ビジネスについては賛否両論があります。肯定的な意見を、たとえ話で紹介すれば・・・
 ある大手運送会社が全国に営業所を設けて「●△宅急便」を創業し、独占的に成功を収めたとします。後発として市場参入した某社は、まだ全国網の整備が出来ていないため、自社だけでは配達できない地区がありました。そこで自社の手が行き届かない地区への荷物は、最大手の「●△宅急便」が中継しなければならないという「義務」を負わせようとしました。最大手「●△宅急便」は同業他社の助けなどなくても、自社だけで全国へ配達することが出来るのですから、こんな"中継義務"に反対するのは当然だという意見です。
 
 またマルコーニ国際海洋通信会社は無線システムと自社の通信士をセットにして送り込むことで、無線機の仕様はもちろんのこと、運用・保守の手法までも社外秘扱いにしたほか、無線機を貸与契約として中古無線機市場が形成されるのを防ぎました。通信機メーカーとしてではなく通信サービス業を目指しました。


17) ドイツ皇帝を怒らせたマルコーニ (1902年3月) [Marconi編]

1901年 ナンタケット灯台船無線局
 1901年(明治34年)、米国ではニューヨークヘラルド新聞社が、ニューヨークの玄関口にあるナンタケット島(Nantucket Is.)のサンカティー・ヘッド(Sankaty Head)にシアスコンセント海岸局を建設し、さらに沖合に常時碇泊しているナンタケット島灯台船(左図)にもマルコーニ無線局を設置することを決めました。 【参考】同新聞社は1899年10月に、マルコーニの無線でヨットレース(America's Cup)を中継したことがあります。
 
 1901年8月16日、実地テストが行われました。英国のリバプールを出帆したキュナードライン社の北大西洋路線ルーカニア号(マルコーニ局LA)がナンタケット島に近づくと、灯台船無線局との間で無線電報を交換し、灯台船無線局はその電文をサンカティーヘッドのシアスコンセント海岸局(ナンタケット島)へ送り、そこから海底ケーブルと陸線を経由してニューヨークと結びました。
 結果は大成功で、さっそく本運用を開始することになりました。ニューヨークへ出入港する船からの情報をいち早く新聞記事にするためです。
 
 そのナンタケット島沖で世界の無線界に影響を及ぼすことになる大事件がおきました
1902年 ヘンリー王子の訪米
  1902年(明治35年)2月、ドイツ皇帝の弟(ハインリヒ王子Heinrich、[英語名:ヘンリー王子Henry] )が米国のセオドア・ルーズベルト大統領を表敬訪問する際に、ブレーメンより北ドイツ・ロイド社の新しい大型客船クロンプリンツ・ヴィルヘルム号(S.S. Kronprinz Wilhelm、左図)に乗って出発ました。この船にはマルコーニ国際海洋通信会社の無線局が開設されており、出帆するとすぐにボルクム灯台船無線局の通信圏内に入り、3時間ほど電報を交わし、次は英国東端のノースフォアランド海岸局からワイト島のニトン海岸局まで連続して電報を送受できました。そして大西洋への出口(英国西端の)リザード海岸局と連絡を取ろうとしたときに火花送信機のインダクション・コイルが破損し、修理が終わった時には、もうリザードから300マイル(=483km)も離れてしまいました。時を同じく洋上を航海中だったキュナード社のルーカニア号やカンパニア号にもマルコーニ局が開設されていましたので、それらとの通信を試みましたが、これは1Way通信に終わったようです。
 そうこうしている間に対岸のニューヨークに近付き、ナンタケット灯台船無線局との通信可能圏に入ったのが2月22日夜です。さっそく皇帝の弟と米国大統領はナンタケット灯台船無線局(マルコーニ局)を介して電報を交換し合い、二人の無線メッセージが新聞で公開されました。「客人の入港前にこんなことが可能になるなんて、無線はなんて便利なんだろう。」多くの米国民がそう思ったでしょう。これは無線史上でも画期的な出来事ですね。そしてドイツ皇帝の弟は、ニューヨーク港に到着するや大歓迎を受けたのです。
 
スラビーアルコ方式のドイチェランド号
 このように先端技術である "無線電信" を使って、相互にメッセージを交換したことが新聞で全米に報じられ、注目を集めたこともあって、ドイツ皇帝の弟は米国のどこへ行っても大歓迎を受けました。
 ドイツ皇帝の弟は米国に三週間ほど滞在しました。そして帰国には北ドイツ・ロイド汽船会社の商売敵になるハンブルグ―アメリカン・ライン社が誇る大型客船ドイチュラント号(S.S. Deutschland、左図)を選びました。ところがこのドイチェランド号には(テレフンケン社の前身のひとつ)アルゲマイネ社の「スラビー・アルコ式」の無線局が設置されていたため(すなわちマルコーニ社の船舶無線局ではなかったため)、このあと大事件が起きるのです。
1903年 他社とは交信しないマルコーニの無線
 1902年3月11日午後、ドイチェラント号に乗ってニューヨークを出港したドイツ皇帝の弟は、米国大統領へお礼と、ドイツ皇帝へ帰国の電報を打とうとしたところ、ナンタケット灯台船無線局からマルコーニ局ではないとして取扱いを拒否されました。
 仕方なく大西洋を渡って英仏海峡の入口、リザード半島付近に来たところで、マルコーニの海岸局から一旦応答があったのに、こちらがマルコーニ局ではないことが知れたとたん、いくら呼んでも無応答になりました。とうとうお礼の電報が打てないままドイツのボルクム島灯台船無線局の近くまで来てしまいましたが、ここもマルコーニ局なので取り合ってもらえなかったのです。
 さあ大変です。帰国した弟からその報告を受けたドイツ皇帝は憤激し、"生意気な" マルコーニ社の態度を改めさせようと考えました。


18) ドイツ皇帝が主要海運国を集めて国際無線会議を開催 (1903年8月) [Marconi編]

 1903年(明治36年)、ドイツ皇帝の仲裁により特許で争っていたアルゲマイネ社とシーメンス社が国策合併してテレフンケン社が誕生しました。そして独自の無線システムを完成させ、ドイツ海軍の海岸局と主要軍艦には国産のテレフンケン式無線機を取り付けることにしました。
 つぎにドイツ皇帝は他社と交信しないマルコーニ社に対して、国際社会から揺さぶりをかける策にでました。「船舶局からの電報には、他社方式の海岸局や船舶局であっても交信義務を課すべき」と主張して、船舶無線に関する国際会議を我がドイツで開こうと、(日本を除く)主要海運18ヶ国に招へい状を送り、うち9ヶ国(独・英・仏・伊・米・露・スペイン・オーストリア・ハンガリー)がこれに応じました。これが1903年夏に開催された「ベルリン無線電信予備会議」(Preliminary Conference on Wireless Telegraphy, Aug.4-30, 1903)と呼ばれるものです。
明治三十五年(1902年)独逸(ドイツ)皇弟ハインリッヒ親王が米国を訪問せられた。帰途皇弟は郵船ドイッチュランド号で米国を発して、紐育(ニューヨーク)港外ナンタッケットのマルコニ会社所属の無線電信所に向かって同船から独帝に宛てた電報を発したけれども、同船の無線電信はマルコニ式でないという理由で応じなかった。去って英国に近づき、リザードのマルコニ無線電信所に向かって再び発信したけれど、また応じなかった。終わりに独逸の沿岸にあるボルクムロイヅ無線電信所に向かって帰朝の報を発したけれども、これまた拒絶せられた。ここにおいて独帝はマルコニ会社の専横を憤激し、各国を促して明治三十六年(1903年)万国無線電信会議を伯林(ベルリン)に開き、無線電信の利用を世界的ならしむると同時に、マルコニ会社の大野心を永遠に葬り去らんとした。 (横山英太郎, 『無線電信電話のはなし』, 1916, 電友社, pp49-50)
 もちろんドイツの本心は、マルコーニ社の独占下にある英国とイタリア政府にこれを承諾させたかったのです。この二国は大西洋への出入り口に位置する島と、地中海のど真ん中に突き出す半島という交通の要所で、ここで電報送受できないのは致命傷であり、またマルコーニ社の排他的ビジネスに止めを刺すのが狙いでした。
 
 会議の結果は次の通りです。
英伊両国は総括的留保をして賛同しなかったが、他の諸国は全部この自由競争主義に賛同した。その結果会議は相互通信について、次の条文を採用した。「各海岸局は船舶局の備える無線電信の方式の如何に拘わらず、これより発し又はこれに宛てる電報を受信し且つ伝送することを要する。」
 前に述べたように、この規定は多数説を採用したもので、この予備会議の議定書の調印については後に述べるところであるが、英伊はこれについて総括的な留保をしているのである。また本条文で注目すべきは船舶局相互間の交信義務を認めていない(求めなかった)ことである。 (電波監理委員会編, 『日本無線史』第五巻, 1951, 電波監理委員会, p39)
 ドイツの狙い通り、採択されました。しかし肝心の英・伊の二国が留保したため、骨抜きになったというオチが付きました。
【参考】 そこでドイツ皇帝は翌年に再度、国際会議を招へいしようとしましたが、ロシアが日本と戦争を始めたため、1906年(明治39年)まで延びてしまいました。それが有名な第一回国際無線電信会議(ベルリン, 1906)です。
 
 そんな状況下ではありましたが、勢いにのるテレフンケン社は1905年(明治38年)にはアメリカに子会社を作り高性能な無線機の販売をはじめました。さらに米国ではアメリカ・ド・フォレスト無線電信会社とその後継社ユナイテッド・ワイヤレスがマルコーニ社より安い価格設定で揺さぶりを掛けてきました。結局、米海軍はマルコーニ式を採用しませんでしたし、米国の民間船会社への売り込みもほぼ完敗でした。もはや船舶無線もマルコーニ社にとって「ライバルのいない世界」ではなくなりました。


19) 短波を採用したマルコーニの海上公衆通信サービス [Marconi編]

1975年 ベイノン氏のマルコーニ無線の研究論文
 1972-1975年(昭和47-50年)に国際電波科学連合URSI(ウルシ:Union Radio-Scientifique Internationale, 1919年創設)会長を務められた英国の物理学者グランビル・ベイノン氏(Sir William John Granville Beynon, 1914-1996)が、マルコーニの無線等についての論文「Marconi, radio waves, and the ionosphere」を、アメリカ地球物理連合AGUAmerican Geophysical Union)のRadio Science(Vol.10-No.7, July 1975, pp657-664)誌で発表されました。
 
 その中にマルコーニ氏の短波海上通信に関する記述がありますので引用します。ベイノン氏は長い波長を使った遠距離通信が注目された頃に、短波が海上公衆通信で活用されていたのを、とても興味深い事象だと指摘しました。参考までにざっくり意訳してみますが、正しい英文解釈はご自身でお願いします。
短波の伝播 1901-1924年
 前節で述べた通り(マルコーニの)1901年の大西洋横断試験のあとは長い波長による通信に関心が集まりました。しかしそんな時代にあって、短波バンドもまた利用されていた事に注目するのは興味深いことです。1924年にマルコーニは次のように、これを語っています。
1901年以降のおよそ8年間、マルコーニ社は波長120mだけの火花送信機システムをかなりの数の船舶局に導入していました。このシステムは小電力で、感度の鈍いテープ式受信機を用いたが、通常的に約1,000マイル(1,600km)の距離の通信が出来ました。
 それにも関わらず1900年代初期には、短波での実用遠距離通信の可能性を積極的には追究せず、20年もの間、無線界では短波の伝播特性を把握されないままでした。
以下がその原文です。
SHORT-WAVE PROPAGATION 1901-1924
 As indicated in the preceding section, in the years following the 1901 transatlantic experiment the major interest was in wireless communication using long waves. However, it is interesting to note that even at this time the short wave bands were also being used. Thus Marconi, writing in 1924, had this to say:
 For a period of about eight years after 1901 the Marconi Company had installed on a considerable number of ships a system of spark transmitters utilizing waves of only 120 m in length. This system, although utilizing a very small amount of energy, was capable of regularly communicating over a distance of about 1000 miles although a comparatively insensitive tape receiver was employed.
 Nevertheless, in the early 1900s the possibility of reliable long-distance communication on short waves was not actively pursued and short-wave propagation did not figure prominently on the radio stage for another twenty years.
 (W.J.G. Beynon, "Marconi, radio waves, and the ionosphere, SHORT-WAVE PROPAGATION 1901-1924", Radio Science Vol-10 No-7, 1975.7, American Geophysical Union, p662)
 
 この件は(英語として世界最古の百科辞典である)ブリタニカの1970年代の改訂The New Encyclopedia Britannicaの際に、以下のように収録されました。
1901年から1909年頃の船舶通信に波長120mが使われ、1600km以上届くことに注目されたが、それは異常現象だと考えられた。」という内容でしょうか。
A short wavelength of 120 metres (2.5 megahertz) had been employed for communicating between ships from 1901 to 1909, and it had been noted that reception over distances of 1,000 miles (1,600 kilometres) or more could be obtained, but this was thought to be caused by freak condition.
 
 一部には1906年(明治39年)にベルリンで開かれた第一回国際無線電信会議の規則(1908年7月1日発効)により、海上公衆通信がスタートしたとの誤解もあるかも知れません。しかし電波先進地域である欧州(および大西洋航路)の海上公衆通信サービスはこの会議よりも6年も前の、1900年(明治33年)5月よりはじまっていました。
 そして短波史を語る上で、1906年のベルリン会議で中波の国際統一波(常用波1000kHz)が制定される"前" から、短波が利用されたことを忘れてはならないでしょう。
 
マルコーニの短波
 比較的最近(といっても2003年ですが)の書籍"HF Communications" (Nicholas M Maslin, 2003, CRC Press) にも、無線初期の船舶通信に波長120mが使われていたことが記されています。内容的にはブリタニカにあるものとほぼ同じです。
 1.1.2  Experiments with the Short waveband
A short wavelength transmission of 2.5 MHz (120m) had been employed for communications between ships as 1901. It had been noted that reception over distances of 1600 km or more could be obtained, but this was thought to be caused by freak conditions. ( p2)
 
On The Sort Waves  マルコーニの短波
 また1999年に出版された"On The Short Waves, 1923-1945 Broadcast Listening in the Pioneer Days of  Radio" (Jerome S. Berg, 1999, McFarland & Company) は放送分野から見た短波史の書籍ですが、下記のようにまずマルコーニ氏の短波から始めて、KDKA等の放送の短波進出の話題に移っています。
マルコーニは1901年頃から火花送信機で短波の実験を始めた。彼は2.5MHz(波長120m)付近で運用していたが、当時は近距離用と考えられており、1920年以降になるまで短波の遠距離到達性には気付かなかった。」といった感じでしょうか。
Marconi had experimented with shortwave spark transmitters as early as 1901. His transmitters operated around 2.5mc. - considered a high frequency at the time - and were intended only as an alternative means of short-range transmission. The distance potential of the higher shortwave frequencies was not suspected until after 1920. (p47)
 
1978年 マルコーニの短波を紹介
 マルコーニ氏の短波に触れた文献が極端に少ない我国ではありますが、アンテナ研究者であり、電波発展史の分野でも造詣が深かった慶応義塾大の徳丸仁氏が講談社のブルーバックスで、マルコーニの短波帯船舶通信に触れています。
 私も当時(昭和53年)、購入した一人ですが、世界の電波発展史がやさしく、網羅的に解説された良書です。お読みになられたアマチュア無線家の方は相当多いのではないでしょうか。
 
 その『電波技術への招待』から引用します。
長中波に人々の目が向けられていた一九〇二年から一九一〇年ごろにも、船舶通信などの限られた目的にはマルコーニ社では波長一二〇メートルの短波を使っていた。日中は一五〇キロメートル、夜間には一五〇〇キロメートル以上の通信ができたという。 (徳丸仁, 『電波技術への招待』[ブルーバックスB-350], 1978, 講談社, pp194-195)
 
1933年 ショートウェーブ コミュニケーション
 海外書籍としては1932年(昭和7年)11月にロンドンで出版された"Short Waves Wireless Communications"(左図[左])に同様の記述があります。筆者のA.W. Ladner氏とC.R. Stoner氏はマルコーニ社の方です。
A wavelength of 120 metres (called tune A) was used, however, on ships from 1901 to 1909, and extraordinary night ranges were found possible with very small power, 100 watts; with such waves, distances of 1,000 miles were frequently recorded, and 1,500 miles was recorded on more than one occasion, these ranges begin obtained with a coherer receiver and tape recorder, a most insensitive device reckoned by modern standards.  (A.W. Ladner/C.R. Stoner, Short Wave Wireless Communication, 1933, John Wiley & Sons, p11)
 
 この書籍は水橋東作氏と松田泰彦氏により翻訳され、1933年(昭和8年)にコロナ社より日本語版『短波無線通信』が出されました(左図[右])。なにぶん短波に関する書籍が非常に少ない時代ですから、当時の日本のアマチュア無線家の方々に愛された本だったと想像します。
しかし120米の電波(tune Aと称する)は1901年から1909年まで船舶無線で使用され、100Wの甚だ小さい電力でも、なおかつ夜間は異常な遠距離に達し得ることが発見された。かかる波によって、コヒーラー受信機とテープレコーダーを用いた今日から見れば最も感度の悪い受信機で、1,000哩の距離でしばしば通信し、1,500哩の長距離でも一再ならず成功したのである。 (ラドナー著, 水橋東作/松田泰彦訳, 『短波無線通信』, 1933, コロナ社, p11)
 
1928年9月 ワット誌
 上記訳本が出された5年後の1937年(昭和12年)に東京逓信局監督課の中島徳二氏が電気雑誌『WATT』の連載「無線の今昔」を書かれました。そしてマルコーニ社の船舶通信が波長120mの短波を使っていたことが紹介されています。
 9月号の連載最終回から引用します。
一八九六年にはマルコニーが極めて短い波を用いて二哩(マイル)の距離でビームの実験に成功している。その後無線界は長波長へと推移したが、一方短距離通信には時々短波が使用され、一九〇一年から一九〇九年まで一二〇米の電波が船舶無線に使用され百ワット程度の小電力でも、なおかつ夜間は異常な遠距離に達し得ることが発見されている。
 次いで一九一六年には、マルコニーとフランクリン(C.S. Franklin)が指向性送信の可能性に留意し伊太利(イタリアにおいて再び短波長の実験をはじめ、その後特殊な火花送信機と放物線反射器を用い二米乃至三米の電波を発射して海上六浬(カイリ)の距離で鉱石検波器による受信に成功す。 (中島徳二, "無線の今昔(三)", 『WATT』, 1937年9月号, ワット社, p19)

● マルコーニの短波に関する出典を発掘!(2017年1月)

 1975年(昭和50年)にベイノン氏が取上げたマルコーニの短波船舶無線ですが、「1924年にマルコーニが以下のように語っている」という引用元(出典)が、長く私には判りませんでした。今さらではありますが、最近(2017年1月23日)になって発掘できましたので、(特に目新しさはないのですが)ご紹介しておきます。
1924年 マルコーニの論文
 1924年(大正13年)12月11日、マルコーニ氏はロンドンのRoyal Society of Arts(王立技芸協会)で"Radio Communications"という題目で講演し、船舶無線に短波を使っていたことに触れています。Journal of the Royal Society of Arts(Vol.73 - No.3762, Dec.26, 1924)より引用します(左図)。
As a matter of fact, for a period of about eight years from 1901, the Marconi Company had installed on a considerable number of ships a system of spark transmitters utilizing waves of only 120 metres in length, which was commonly referred to as “Tune A.”
 This system, although only utilizing a very small amount of energy, was capable of regularly communicating over a distance of about one hundred miles during daytime, but at night the range often exceeded 1000 miles, although a comparatively insensitive tape receiver was employed.  One of the advantages of this system was its comparative freedom from atmospheric disturbances.  』 (Guglielmo Marconi, "Radio Communications", Journal of the Royal Society of Arts, Vol.73 - No.3762, Dec.26, 1924, p123)
 
 この論文中に"Tune A"という言葉が登場しますが、これは同調式無線機が使われるようになったときのマルコーニ社のいわゆる「チャンネルプラン」で、Tune A, Tune B とは、Channel A, Channel B のことです。ちなみに最も初期の同調式はTune Aが波長100m(3MHz)、Tune Bが波長270m(1.1MHz)だとする文献もあります。


20) マルコーニの短波をFCCで証言したデビット・サーノフRCA社長 [Marconi編] ・・・2017年12月17日更新

 このTune Aについて、もう少し調査してみました。
 1939年(昭和14年)11月14日、放送ネットワーク事業に関する連邦通信委員会FCCの公聴会において、RCA社(Radio Corporation of America)の社長でありNBC(National Broadcasting Company)を設立したデビット・サーノフ氏(David Sarnoff)による、"Tune A"および"Tune B"の説明が発掘できましたので引用します。
 
 まず冒頭、サーノフ氏に対する人定質問が行われたあと、質疑応答を繰り返す中で、p48に次のように記されています(下図)。
I can remember, as a wireless operator, in the days of Marconi, in 1908 and ’09, I was a wireless operator at a little station called Seagate in Island and at another one, Siasconset on Nantucket Island, and we then had two methods of signaling, one was short-wave called Tune “A” and the other was long-wave called Tune "B". Tune "A" used waves of 100 meters and below, and Tune "B", 350 meters and above. This was ship communication. Everybody had assumed, then, that the Tune "A" waves could communicate at a range of about 50 miles and no longer, because short waves could not travel very far. If you wanted to cover distance, you had to use Tune "B". (Principles and practices of network radio broadcasting, RCA Institutes Technical Press[NY], 1939, p48)
【注】 これは連邦通信委員会FCCの公聴会議事録をRCA社が出版したものです。
 1908年から1909年頃、RCAの前身である米国マルコーニ社のシーゲート海岸局(ニューヨーク湾)やナンタケット島(ロングアイランド沖)のシアスコンセント海岸局で働く一通信士だったサーノフ氏は「当時のマルコーニ社の船舶無線は波長100m以下(周波数3MHz以上)の短波 "Tune A" と、波長350m以上(周波数850kHz以下)の中波 "Tune B" の二種類があり、50マイル(=80km)程の近距離通信では "Tune A" を、それ以上の距離では "Tune B" を使っていた。」という趣旨の証言をしています。
1938年 FCC公聴会 デビットサーノフ
 なお上記サーノフ氏の証言は1908-1909年のことですが、1912年のロンドン無線会議以降には、マルコーニ社でも国際規格に準じてTune A:波長300m(1MHz)、Tune B:波長600m(500kHz)に変えたとする文献もあります。
 また(マルコーニ社のことではありませんが)"Manual of Wireless Telegraphy for the use of Naval Electricians"(Samuel S. Robinson[U.S. NAVY COMMADER], The United States Naval Institute, 1911, p162)によれば1910-11年の米海軍ではTune A:波長300m(1MHz)、Tune B:波長400m(750kHz)、Tune C:波長600m(500kHz)、Tune D:波長1,000m(300kHz)でしたので、同じ "Tune A" でも無線機メーカーによって実波長(周波数)は違うようです。【注】これらについては調査継続とさせていただきます。
 
 なおマルコーニ社が船舶通信に短波を使っていたことは、マルコーニ氏の論文(1924年)やサーノフ氏のFCC公聴会での証言(1939年)がなくても、米国海軍省が1906年から発行した"List of Wireless-Telegraph Stations of the World"に各局の使用周波数が掲載されており、既に公知でした。
 このリストは我国の電気試験所にも届けられており、次にそれを紹介します。


21) 1906-7年(明治39-40年)の短波局 [Marconi編]

 1907年(明治40年)8月1日、米国海軍省は世界の無線局を調査し"List of Wireless-Telegraph Stations of the World"第二版を出版しました(下図)。前述した1903年のベルリン国際無線電信予備会議で、各国の海岸局と船舶局の使用波長や通信可能範囲等を公表することが決められたため、このようなリストが実現しました(なお初版は1906年10月1日発行です)
 逓信職員で構成される通信協会(後の逓信協会)の機関誌にある鳥潟右一氏の記事から、このリストが我国でも利用されていたことが分かります。
(このリストは)米国海軍省の調査になり、昨年同省より浅野電気試験所長に送付せられたる、全世界の無線電信方式、局名、使用電力、最大通信距離等記載の一小冊・・・(略)・・・』 (鳥潟右一, 最近無線電信電話の進歩に就て[上], 『通信協会雑誌』, 1908.10, 通信協会, p239)
 これは当時の海岸局と船舶局の現状を知ることができる唯一の公的資料で、無線発展史を研究する上では欠かせないリストです。
【参考】 1909年(明治42年)8月からは、(公衆通信を取扱う局に限りますが、)万国電信連合ベルン総理局より無線局名録が出されるようになりました。

● 世界各国の使用周波数・・・短波~中波の時代

 たとえば下図の赤線で囲んだベルギーの海岸局NPはマルコーニ式無線機を採用し波長72m(4.2MHz)ですが、デンマークやドイツの海岸局はドイツのテレフンケン式無線機で、その波長はデンマークの場合やや高めの波長160-335m(1.9MHz-900kHz)を、ドイツの場合は低めの波長315-365m(950-820kHz)でした。
英国イタリアの海岸局はマルコーニ社の独占下にあり、その波長はぼかされていますが、マルコーニ社の船舶局は波長100mと220m(3MHzと1,364kHz)でしたから、同社海岸局も同じ帯域だと推察されます。
 ロシアはマルコーニ式とテレフンケン式の混在ですが波長は360m(830kHz)1波に統一されています。フランス政府は独自のブランレー式で、当時の海岸局としては珍しく非常に低い600m(500kHz)1波だけを使いました。スペインはフランスのロシュフォール式を採用し高めの160m(1.9MHz)です。アメリカは圧倒的にテレフンケン式とド・フォレスト式が多く、波長は300-450m(1.0MHz-670kHz)で、ちょうど真ん中という感じでしょうか。
 
 要するに国際的な周波数の取り決めが発効するまでは、みんな好き勝手な周波数でバチバチと火花電波を飛ばしていたということですね。でも、ご注目いただきたいのは "長波ではない" ということです。無線の商用化達成から10数年間ほどは、高い周波数から低い周波数へ向って開拓されました。長波が注目されたのは、後の第一次世界大戦からのことですが、ここは誤解されやすい部分です。
1907年 短波局リスト
 3MHzの短波を採用したのはマルコーニ社だけです。しかしマルコーニ式の全てが短波という訳ではなく、中波340-450m(667-882kHz)のマルコーニ式も一部にあります。
 
 日本の無線局としては佐伯技師が長崎-台湾間で通信試験を行っていた"Nagasaki"(長崎, 九州)局と"Kilung"(基隆, 台湾)局の2つが In Operation(稼働中)として掲載されています。米国海軍省からの問合せに電気試験所の浅野所長が回答したものです。無線システムが我国独自の逓信省式であるとするのみで、使用波長や通信距離は非公開としています(実際には運用休止中)。また日本の海軍無線局の掲載はありません。
1907年 リストされた長崎と基隆の実験局
 なお逓信省の海岸局(銚子無線JCSや船舶局(天洋丸TTY等による、逓信ビジネスは1908年(明治41年)創業で、まだこのリストにはありません(翌年の1908版から掲載)。
 話が少々脱線しますが・・・わが国は世界の一等国入りを目指していました。浅野電気試験所長としては、公衆無線電報の取扱いが、日本ではまだ始まっていないと米国海軍省に報告するのが残念でならなかったのでしょう。長崎局と基隆局が運用中(In operation)だと見栄を切ったものの、(本当は運休中なので)実際に呼ばれると困るので、コールサインや波長を伏せたのかも知れません。それにしても銚子JCSの創業よりも前に、「長崎」と「基隆」が"日本を代表する海岸局なのだ"と、世界の電波主管庁へ公開されていた史実は、日本の国内文献にはない"秘話"であり、非常に興味深いものです。
 
 さて話を戻します。このリストから2MHz以上の電波を使う海岸局を抜粋したものが下表ですが、全てマルコーニ式無線システムでした。なおイギリスとイタリアのマルコーニ社の公衆通信(電報)を扱う海岸局は使用波長を非公開または「可変」と公表していたため、ここには短波局として1局すら集計できていません(なぜかカナダのマルコーニ社だけは波長を開示)。皆さんにご紹介できなかったのが残念です。
1907年 短波無線局1
 
 次に短波を使う船舶局(民間商船)の抜粋をご覧下さい(下表)。マルコーニ社は波長100mと220m(3MHzと1.36MHz)の組合せを好んだようです。大西洋航路の大型客船はほぼ総て短波を使っていた事が分かります。
 こんなにもたくさんの公衆通信(電報)を扱う短波の船舶局があり、(裏返せば)これらを通信対手とする短波の海岸局がイギリスとイタリアにあったことは疑う余地がないでしょう。
1907年 短波無線局2 (1/2)
1907年 短波無線局3 (2/2)
 
 上表の中でも、ベルギーの72m(4.2MHz)が目立っていますのでご紹介します。
 1900年(明治33年)4月25日に分社したばかりのマルコーニ国際海洋通信会社(Marconi International Marine Communication Company)は、ベルギー王室ならびに諸大臣の前でデモンストレーションを行いました。そしてベルギーに海岸局を建設する許しを得て、建設に着手しました。
ベルギー英国間の郵便船用 短波無線4.2MHz
 1900年11月3日、マルコーニ国際海洋通信会社はベルギーのニーウポールト(Nieuwpoort、 [ニーウポートNieuport] )近郊のラ・パンヌ(La Pann)に海岸局を建設し、またベルギーのオーストエンド(Oostende、 [オステンド:Ostend] )と英国のドーバー(Dover)間を運行していたベルギー政府の郵便連絡船 "mail-packet boats"(郵便と乗客を運ぶ船) プリンセス・クレメンタイン号(Princess Clementine)に無線電信機を取付けて試験を始めました。
 1901年(明治34年)1月1日、プリンセス・クレメンタイン号は難破したスウェーデン商船を発見し無線で救援通報する手柄を上げましたが、同月19日には濃霧のため自分自身がマリケルクの海岸に乗り上げて、無線で助けを求める事件がありました。この無線通信テストは1901年10月まで行われ、無線が非常時の連絡手段としてきわめて有効であることが確認されました。ベルギー政府はこれを正式採用することを決め、ニーウポールトに官営海岸局NPの建設を開始しました。それが上表にある海岸局です。
 1902年(明治35年)6月より(海底ケーブル会社を刺激しないように)まずは連絡用として運用をスタートさせました。そして1904年(明治37年)3月15日に郵便連絡船とニーウポールト官設海岸局NPとの間で公衆通信の取り扱いが正式スタートしました。これがマルコーニ国際海洋通信会社の72m波(4.2MHz)船舶無線システムです。
 なおイギリスでは公衆通信は郵政庁の独占事業なので、イギリス領海内からのニーウポールト官設海岸局NPとの電報送受(国際電報)は禁じられています。公海およびベルギー領海を航行している間のみ使用する「ベルギー国内電報」という位置づけでした。在ロンドン日本領事館の有吉明氏が1903年(明治36年)3月26日付けで外務省へ送った報告書「マルコニー式無線電信事業状況」が、官報(1903年5月19日)で公表されましたが、このベルギーの無線についても触れています。
白耳義(ベルギー)
白耳義汽船中、英白(イギリス・ベルギー)両国間を定期の往復を為す汽船は、無線電信器を据え付け、陸上との連絡を為しつつあり。 (『官報』, "公使館及領事館報告, 1903.5.19, p17)


22) 1908年(明治41年)7月1日 1,000KHz(中波)が国際的な花形周波数に [Marconi編]

 1908年(明治41年)7月1日は海上公衆通信にとって大きな転換点でした。第一回国際無線電信会議(1906年, ベルリン)で一般公衆通信(無線電報)には中波に属する波長600m(500kHz)と波長300m(1MHz)が割当てられ、海岸局は二波のいずれかを、また船舶局は300m(1MHz)を通常電波として使うよう決議され、その規則の発効日だったのです。国際的に合意された最初の無線通信の「通常波」は周波数1,000kHzだったのです。中波です。長波ではありません!
 
 国際規則に準拠するためには公衆通信を行う無線局は少なくとも中波の波長300m(1MHz)を送受信できるようにしなければなりません。もともと他社とは通信しないことを社の方針とするマルコーニ国際海洋通信会社は、他社と「波長統一」する必要などなかったのですが、しぶしぶこの決定に従いました
 そのために空中線も無線機も中波帯に重点を置いた無線システムに変更せざるを得なくなり、マルコーニ社の短波利用は廃れて行くことになります。すなわち第一回国際無線電信会議(ベルリン, 1906年)の決議が短波衰退のひとつの遠因として作用した面もありました。
 こうして無線通信は中波が花形周波数となりました。この年の5月16日、日本の逓信省も国際波1000kHzの1波をもって、銚子無線JCSと天洋丸TTYで公衆通信サービスを創業しましたが、電波先進地区の欧州におけるマルコーニ社の短波無線は、国際統一波の時代よりも歴史が古い点は忘れてはならないでしょう。
 
 ・・・とはいえマルコーニ国際海洋通信会社は短波を完全に捨てたわけではなく、しばらく国際波300m(1MHz)と併用を続けました。第一回国際無線電信会議(ベルリン, 1906)のドイツ原案では「海(船舶局)-陸(海岸局)」,「海-海」ともに、"他社方式であっても相互通信の義務を課す"ことになっていたため、またもや英国とイタリアが激しく反発し、ドイツと大バトルを繰り広げました。『日本無線史』第五巻ではこの通信義務に関する討議の経過説明に10ページも割いている程です(p56からp65まで)。
 詳細はそれをご覧いただくとして、元郵政省電波研究所長の若井登氏の記事を引用します。
この事件(前述のドイツ式無線により発せられたドイツ皇帝の弟の電報が、マルコーニ社の海岸局に受信拒否された事件)に端を発して、ドイツが提案した無線電信の予備会議が1903年に開催され、さらに1906年には日本を含む30か国が参加して、第一回国際無線電信会議がベルリンで開かれた。この通称ベルリン会議は使用周波数の割り当てとともに電信料金を定め、装置の方式の如何を問わず相互に通信する義務があること、遭難信号をCQDからSOSに改めることなどを決議した。これによりマルコーニ方式の独占は一応排除されたように見えたが、一定の条件下での除外規定もあり、マルコーニ社は1908年の条約批准(そして発効)後も、人命に関わる緊急信号以外は、他社機との交信をボイコットし続けた (若井登, もしもマルコーニがタイタニック号に乗っていたら, 『ARIB機関誌』, 1999.5, 電波産業界, p30)
 この問題が完全に解決できたのは1912年に開かれた第二回国際無線電信会議(ロンドン)で、それまでの間にマルコーニ国際海洋通信会社は国際波300mと(自社専用回線として)短波110mを使い続けました。
 
 ところで長波はどうなったのでしょう。1907年(明治40年)10月17日にようやく大西洋を挟んだアイルランドのClifden局とカナダのGlace Bay局間で、波長5000-7000m(周波数60-43kHz), 電力80kWによる国際公衆通信サービスを開業しました。しかし「陸(固定局)-陸(固定局)」の遠距離通信は満足にビジネスとしての収益を上げられませんでした。
 「海-陸」,「海-海」の公衆通信が1000, 500kHz(300, 600m)に集約されましたので、500kHz以下の188-500kHz帯は、(無線で収益を上げる必要のない)海軍の海岸局が外洋にいる艦隊との連絡通信として使うようになりました。


23) 1911年(明治44年) 最後の短波海岸局と船舶局 [Marconi編]

 中波が無線通信の花形周波数になりましたが、欧州では1911年(明治44年)の時点で、まだマルコーニ国際海洋通信会社の短波無線が散見されますのでそれを紹介しておきましょう。「最期の短波」です。 
 1912年(明治45年)1月1日、米国海軍省は "Wireless Telegraph Stations of the World" を発行しました(下図)。米国内の無線局情報と万国電信連合ベルン総理局への無線局登録情報から、米国海軍省が世界の無線局をまとめた公的資料で、1911年の無線界の現況を示す貴重なものです。もちろん銚子無線JCSや天洋丸TTYなど、日本の海岸局と船舶局もすべて収録されています(1000kHz)。
1911年の短波無線局1
 
 各国の海岸局から短波の記載がある局を抜き出してみました(下表)。欧州7ヶ国の22海岸局にまだ短波の登録が残っていました(なお英国のマルコーニ社の短波は相変わらず公開されていませんので集計外です)。
 第一回国際無線電信会議(1906年、ベルリン)では公衆通信(一般の電報)を扱う無線局のコールサインを「アルファベット3文字」と決議され、いわゆる「早いもの勝ちルール」により好みのコールサインをベルン総理局へ国際登録することになりました(1908年7月1日発効)。
【注1】ただし国際公衆通信を行なわない局には登録義務や3文字という制約はありません。
【注2】アメリカはベルリン会議で最終議定書にサインしたものの、1912年まで電波については無法国家(国内無線法が未制定)だったため、国際ルールには従っておりません。なおコールサインのルールの歴史的な変遷については「国際呼出符字列」のページで詳しく述べましたので、そちらをご覧ください。
 
 マルコーニ社の無線局は、1908年1月1日より頭文字M(Marconi)で始まる3文字コールサインに切り替えました。
1911年の短波海岸局
 
1910年頃のイタリアの4MHz海岸局
 上表でお気づきの通り、明治時代のイタリアは「短波大国」です。
 イタリア政府は自国の全海域を海上公衆通信(無線電報)サービスで覆うために、一定間隔で海岸局を建設し(左図:サービスマップ)、中波の波長300m(周波数1.0MHz)と、短波の波長75m(周波数4.0MHz)を併用しました。マルコーニ社がオペレーションを請け負っていたようです(これについては調査中)。
 この官設船舶無線システムは「全海域サービス」と呼ばれ、混信を抑えるために、航行する船舶のトン数、通過時刻、方向、速度などによる無線通信ルールを細かく定めています。

 またシチリア鉄道では1905年にマルコーニ式の波長50m(周波数6.0MHz)の無線を採用することを決めました。そして(詳細は調べ切れていませんが)1908-9年頃に開局したようです。長靴の形をしたイタリア半島のつま先にあるレッジョ(Reggio)と、その対岸シチリア島のメッシーナ(Messina)間で列車の運行情報を連絡し合っていたようです(ただし両地点を結ぶ鉄道連絡船には無線は装備していません)。コールサインは1文字のM(メッシーナのM?)とR(レッジョのR?)でした。
 
 次に短波を登録していた船舶局を紹介します(下表)。2MHz以上を使う船舶局を抜粋しました。
 マルコーニ社は国際通常波長300m(1MHz)と自社専用回線110m(2.7MHz)の組み合わせを好んで用いたようです。これは300m波(1MHz)とその3倍の100m波(3MHz)だと空中線を共用する上で都合が良かったが、3MHzは1MHzの火花電波の高調波による混信が多く、波長110m(2.7Mhz)へ少しずらしたのかな?とも思いましたが本当の所は私には分かりません。
1911年の短波無線局3 (1/2)
1911年の短波無線局4 (2/2)
 
 国際登録上では上表のとおり、まだ短波船舶局が残っていましたが、1911年(明治44年)頃になると、もっぱら国際通常波の300mを使い、110mは予備だったのではないでしょうか?1911年6月に就航した新造船オリンピック号MKC(タイタニック号の姉妹船)に据付けられた無線機は国際波300, 600m(周波数1000, 500kHz)の2波で(下図)、この時期に他の船も次々と国際波に対応した新型無線機に交換進行中だったようです。
 ちなみにこのリストは1912年1月1日版ですので、タイタニック号の就航前ですが、同号に呼出符号MUCが登録されています。タイタニック号へ設備中の無線機の試験を、国際波を避けた波長350m(周波数857kHz)で行っていた可能性が伺えます。そして4月の処女航海(沈没事件の航海)では呼出符号を有名なMGYに変更し、無線機はオリンピック号と同様の新型(1000, 500kHz)が積まれた想像します。
1911年 オリンピック号の使用波長
 ベルギー政府の郵便連絡船はAntwerp局とのみの通信だったためか、国際通常波長300mがなく短波一本槍(波長120m)でしたが、まもなく中波へ移行したと想像します(しかし1919年に電報サービスを終了し廃局)
 
 上表(1/2)のキュナード(Cunard Line)社の船をいくつか紹介します。
ルシタニア号の受信機
ルシタニア号の無線室
 ルシタニア(Lusitania, 呼出符号MFA)号は1907年に大西洋横断最速の称号であるブルーリボンを受けています。左図は1907年に撮影されたルシタニア号の無線室([左]:同調式受信機、[右]:同調式火花送信機)です。大きなインダクションコイルの手前に電鍵が二つ並んで置かれているのが見えます。110m(2.7MHz)用と国際波300m(1MHz)用でしょうか。
 モーレタニア(Mauretania, 呼出符号MGA)号は同社初の王室スイートを用意した船です。またカルパシア(Carpathia, 呼出符号MPA)号は1912年に沈没したホワイトスター(White Star Line)社のタイタニック(Titanic, 呼出符号MGY)号の生存者を救助しニューヨークへ帰還したことでも知られる船で、これらの有名船に(300mが国際波なので)おそらく短波が補助用として装備されていたのでしょう。


24) 消え行くマルコーニの短波(1913年) [Marconi編]

 上表の短波無線局がいつまで存続していたかは未調査ですが、せいぜい残ったとして1913-4年(大正2-3年)までではないでしょうか?
 
1913年 オランダ水上警察の短波
 ちなみに1913年にマルコーニ社がオランダのロッテルダム川警察(Rotterdam River Police)に波長80-100m(3.0-3.8MHz)の短波無線システムを納入しています(左図:Wireless World, 1914.2, pp697-698)。
 下図[左]はロッテルダム川警察署で屋上にアンテナが建てられました。そして建物の手前に浮かんでいる小さなボートが短波を搭載した小型警察ボートPolitie 1号です。下図[右]はそれより少し大きめの警察ボートPolitie 2号です。合計3隻に短波無線機が搭載されました。
 マルコーニ社は組織(事業者)内で運用される小型船で、近距離の業務連絡通信に短波を使うことを模索していました。しかしこの条件にうまく符合する引き合いが他に無かったのか、この記事以降で、似たような事例を私は知りません。
1913年 オランダ水上警察の短波搭載船(1913年)


25) 海上公衆通信の低周波数化(1913年7月1日) [Marconi編]

 1913年(大正2年)7月1日に第二回国際無線電信会議(1912年, ロンドン)の条約と規則が発効しました。これは海上公衆通信にとって2度目の大きな転換点でした。その発展をまとめてみます。
 
<第一期 (1901年-1908年6月) ・・・ 短波と中波で欧州/大西洋航路を商用化>
 1901年(明治34年)から第一回のベルリン条約および附属規則が発効した1908年(明治41年)7月1日の前日までが、まだ国際ルールがなく各社の無線機で自由にやっていた商用海上公衆通信の第一期です。その舞台は主として欧州沿岸航路および米国東海岸とを結ぶ大西洋航路で、周波数的にいえば短波から中波の電波が使用されました。日本(逓信省)は無線による公衆通信サービスの開業前ですから、短波が商用通信に用いられた時代を経験していません。
 
<第二期 (1908年7月-1913年6月) ・・・ 中波で太平洋航路も商用化>
 1908年(明治41年)7月から第二回のロンドン条約および付属規則が発効した1913年(大正2年)7月1日の前日までが第二期で、公衆通信の周波波は1MHz(300m)と500kHz(600m)でした。海岸局はそのいずれか1波を、船舶局は1MHz(300m)を通常波とするというベルリン会議での決定に従いました。タイタニック号の沈没事件があった1912年は、船舶局の国際通常波が1MHzの時代だったのです。日本(逓信省)も1MHzの1波のみで銚子無線JCSや落石無線JOCなどを開業して、太平洋航路での無線商用化に貢献しました(日本が海岸局を開業しないと、日本に帰港した外国船は電報が打てない)
 
<第三期 (1913年7月~) ・・・ 低周波数化>
 1913年(大正2年)7月1日より第二回ロンドン会議の決定による規則で運用されました。これが第三期です。これまで海岸局は300mか600mのいずれか一波を装備すれば良かったのですが、低い600mを通常波とし、船舶局と海岸局は1MHz, 500kHzの両波を装備することとなりました。日本の海岸局もこの規則の発効に合わせ500kHzの追加を実施しました。またもうひとつ特筆すべきことは海上公衆通信に(規則第35条[2]で規定する例外的なケースで)長波167kHz(1800m)を使うことも許されたことです。通常波は500kHzですから、主流はあくまで中波ですが、全体的にジリジリと低い周波数へシフトしたといえるでしょう。こうして短波は終わりました。周波数の遷移イメージを下図に大雑把ですが示しておきます。
【参考】 ところで他社と交信しない方針だったマルコーニ社ですが、第二回のロンドン会議でついにこの問題は解決しました。そのため自社専用波だった短波の搭載意義が消滅しており、国際波への一本化へ舵を切っていました。
1913年 ロンドン条約の発効
 
 さらに1914年(大正3年)には波長と到達距離の関係を明らかにした「オースティン・コーエン実験式」が発表され、これまで経験的に知っていた低い周波数ほど有利との認識が確たるものになったことも、短波の衰退を後押ししました。
 紹介してきたとおり明治末期の欧州および大西洋航路で一時的に短波が利用されたことがありました。しかし短波はその良いところを見出されないまま、低い周波数へ向かう中の 「通過点の電波」 として姿を消していったのです。そして短波には「減衰が多くて飛ばない電波」というレッテルが貼られ、誰も振り向かなくなりました。
 それでは短波の黎明期の話はこれくらいにして、いよいよこのページのテーマである「短波の開拓」を紹介していきます。


26) 軍事通信用として短波ビームに注目(1915年) [Marconi編]

1916年 マルコーニの短波研究
 1914年(大正3年)7月28日、第一次世界大戦が勃発しました。イタリアはドイツ、オーストリア=ハンガリーと三国同盟を結んでいたため中立の立場をとっていましたが、1915年春になって連合国側に付きました。
 1915年(大正4年)、母国イタリアに戻ったマルコーニ氏は入隊し、軍の秘密通信の必要から"ビーム通信"の研究を始めました。左図のように、たとえば戦場の最前線で孤立した部隊が、離れた地点にいる味方部隊に援軍を要請したくても、電波は四方八方に伝播するため、敵に察知されてしまうという重大なる欠陥があるからです。
 
父はイタリア参戦と同時(1915年)に軍隊に志願し、工兵隊士官として前線にいる無線士の遊軍の監督に当たった。・・・(略)・・・
無線通信の機密保持の重要性はかつてないほどに高まり、父はその頃から、短波や無線方位測定器の特性についても調査を始めていた。 (デーニャ・マルコーニ・パレーシュ, 御舩佳子訳, 『父マルコーニ』, 2007, 東京電機大学出版局, pp252-253)
 
第一次世界大戦に伊太利が参戦するや、マルコーニは従軍して、無線通信隊の指揮官となった。大戦中、彼は秘密通信を探求する為に少年時代の実験に再び戻って短波通信を研究した。すなわち彼は指向性電波の発射組織を考案し、これに依って電波を節約し、電波が敵側に放射されるのを防いだ。彼はまた、方向探知機を考案して、敵の送信局の所在を探知し、同時にこの方向探知機を伊太利軍艦に設置して海岸局からの無線通信に依って軍艦がその位置を知るのに大いに役立った。 (岡忠雄, 『英国を中心に観たる電気通信発達史』, 1941, 通信調査会, p467)
 
一九一四年、ヨーロッパに第一次世界大戦がはじまり、あくる年(1915年)イタリアも連合国の側にたって戦いに加わりました。
 愛国心にもえるマルコーニは、専門の無線電信でいくらかでも国のお役にたちたいと考えました。今までの無電は、戦場の通信にたいへん役立ちますが、電波を四方八方へ送り出しますので、盗み聞きするのは簡単ですし、敵の電波で妨害を受けやすいのです。マルコーニは、敵に盗み聞きされないような新しい無電の方法を実用化したいと思いました。それには、波長の短い電波、つまり短波を使うのが一番です。短波は、ヘルツの実験でも証明されたように、光線みたいに真っ直ぐに進みますし、金属板を使って反射させたり、一点に集めたりすることもできます。』 (市場泰男, 『通信の開拓者たち』さ・え・ら伝記ライブラリー13, 1966, さ・え・ら書房, pp207-208)
 
マルコーニ氏はその昔、ソールズベリー平原で試していた反射器実験のことを思い出したのでしょう。一時期、短波を船舶用に使ってみましたが、当時の会社の経営状態はよろしくなく、また三極管が登場する前で受動受信機(コヒーラや鉱石式)の時代でもあり、特にその性質を研究しないまま置き去りにしていた短波への回帰が始まりました。
 
1896年 マルコーニのビーム試験のイラスト図
 本ページの最初で、マルコーニ氏が1896年(明治29年)9月2日にソールズベリー平原で行った実験がパラボラ式だったことを、くどくどと引用したのは、その経験から今回の「短波ビームの研究」が始まったという因果を説明するためでした。短波の歴史に興味のないほとんどの方には、マルコーニ氏の初期の実験がパラボラ式だろうが、ブリキ缶式だろうが、そんなことよりも電波が何km届いたかが関心事でしょう。ソールズベリー平原で使ったパラボラアンテナの件をスルーする文献も少なくありません。でも短波史上ではとても重要なトピックスだと思います。
 
 1937年(昭和12年)、マルコーニ氏が逝去された際の、朝日新聞に掲載された東京帝国大の隈部一雄氏の追悼記事から引用します。
短波については彼の研究の初期、一八九六年に、既に放物形の反射面を使って指向性を与え得ることを示しているが、世界大戦中、軍用の目的の為に、指向性を持った近距離通信を行う為、短波の研究を始めた。その結果は意外にも昼夜を問わず、地球の対焦点とさえも通話することが出来るという結果を生んだ。 (隅部一雄, 故マルコール候[下], 『朝日新聞』, 1937.7.25)
 
 戦争が技術を進化させたとはよく言われますが、短波通信の "真の開拓" といえるものは第一次世界大戦の軍事上の要請でスタートしたのです。


27) マルコーニの短波通信の試験が始まる(1916年3月) [Marconi編]

 1947年(昭和22年)に出された "ラジオ発達史" から引用します。
 (マルコーニは)・・・無線電信の発明に示した天才を、短波の研究においても示したのであります。マルコーニが短波の研究に手を染めたのは、短波が世界の関心を集めるようになった第一次欧州大戦さなかの、一九一六年頃からです。すなわち彼は、電波の反射作用に着目し、空中線から発射する電波が四方に伝播せず、一方向にだけ伝播するような反射装置を考案したのであります。彼の考案した反射装置は、一列の格子状の鉄鋼マストで出来たものでした(1916年のフランクリンのパラボラや、1920年のインチケイスの初代電波灯台)それはちょうどサーチライトの反射板のような働きをするもので、しかも電気エネルギーを集中して一定の方向に発射し得るものでした。従って、あらゆる方向に電波を送出する放送でない限り、この方法によって秘密を確保し得ることになったのであります。例えば、米国から英国へ電波を送信する場合、イタリーがこのビームの範囲内に入っていなければ、いかにして通信を傍聴しようと思っても、それは出来ない相談になったのです。このビーム式送信は(初期の)二米から(完成期の)二六米の間の短波長で発射されたのですが、それは短波の将来性に大きな進路を与えたものでした。 (栄谷平八郎, 『ラジオ発達史』, 1947, 通信教育振興会)
【参考】 第一次世界大戦末期(1918年頃)には米国海軍が試作した短波の小電力無線機で、艦隊内における船間連絡の試験を行なったといわれています。短波だと敵艦に傍受される恐れが少ないからでしょうか。ただしあくまで実験にとどまり、米海軍での本格的な短波試験は1923年(大正12年)に海軍研究所で始まりました。
 
 1916年(大正5年)3月、マルコーニ氏はジェノバ(Genoa, Italy)で最初の短波ビーム通信試験を行いイタリア海軍へ報告書を提出しました。艦隊内での連絡通信を敵に傍受されないようにする研究で、数ヵ月後には海軍より正式に研究要請がありました。
Marconi's first experiments on this type of transmission and reception were made in Genoa, in 1916, during the World War. ("King Present at Marconi's Talk", Radio World, Dec.11,1926, Hennessy Radio Publications Corporation, p24)
In March 1916 he made the first tests in a laboratory in Genoa and then presented his conclusions in a report to the Italian Navy, that put at his disposal a motorboat in Leghorn. (Giancarlo Morolli, Giuliano Nanni, “The Experiments with the Italian Navy”,  Guglielmo Marconi, Space Explorer, 2004, Advanced Broadcasting Electronics, p137)
My first experiments along these lines in Genoa and later in Livorno in 1916, showed me that good directional working could always be obtained with properly constructed reflectors, and with the apparatus then available a range of six miles was attained.  (Guglielmo Marconi, Will "Beam" Stations Revolutionize Radio?, Radio Broadcast Vol.7-No.3, July 1925, Doubleday Page & Company, pp325)
 
リボルノでの無線実験
 そして軍人でもあるマルコーニ氏は実験ばかりに専念できないため、英国より部下のフランクリン技師(C.S. Franklin)を呼び寄せて、ピサの斜塔近くの港町リヴォルノ(Livorno, Italy)で短波ビームの研究をさせました。 
マルコーニは、イタリアで自分の研究をすすめる一方、イギリスにいる研究所の技師チャールズ・フランクリンに命じて、短波を使った通信の技術を研究させました。若いフランクリンは、一九一六年からこの研究をはじめ・・・(略)・・・短波通信の実験に成功しました』 (市場泰男, さ・え・ら伝記ライブラリー13「通信の開拓者たち」, 1966, さ・え・ら書房, p208)
 
短波通信の開発については、1916年、マルコーニは、短波の用途を探求するようにイギリスのフランクリンに依頼して、研究させている。 (運輸省航海訓練所 運航技術研究会編, 『船舶通信実務』, 1965, 海文堂, p4)
 最近発刊されたMarc Raboy氏の著書"Marconi: The Man Who Networked the World" (2016, Oxford University Press)には、『・・・(略)・・・to collaborate with Charles Franklin, who was in Livorno from August 1 to October 22, 1916, ・・・(略)・・・』 (p412)とあります。
1916年 湖で短波試験
1916年 リヴォルノで実験するフランクリン氏
 1916年8月1日から10月22日の間、フランクリン技師はリヴォルノでパラボラ反射器付きのアンテナを改良しては、そのビーム波をボートに乗って測定することを繰り返していました(左写真[左])。
 左写真[右]はリヴォルノでパラボラアンテナの横に立ち、試験中のフランクリン技師です。
 
 その昔、ヘルツ氏やマルコーニ氏が作ったパラボラ反射器は金属板を湾曲させたものでした。しかしフランクリン技師は、「面」にしなくても、導線をたくさん並べた「スダレ」が反射鏡の役割を果すことを発見したのです。これはパラボラアンテナの大きな進化でした。
 またマルコーニ氏は水平偏波(上下方向へ曲面をとったパラボラ)のビームを試しましたが、フランクリン技師は垂直偏波(左右方向へ曲面をとったパラボラ)を採用しました。
 そしてフランクリン技師は、まるでヘルツの実験の時代に戻ったような、この研究を(6年後の1922年に)次のように振り返っています。
1916年 リボルノでの短波試験 フランクリン
The investigation was commenced by Senator Marconi in Italy in 1916, with the idea of developing the use of very short waves, combined with reflectors, for certain war purposes. The author assisted him there, and it was very interesting work, as it was like being back in the very early days of wireless when one had a perfectly clear field. The waves used were 2 metres and 3 metres. 』 (C. S. Franklin, "Short-Wave Directional Wireless Telegraphy", The Wireless World and radio review, May 20, 1922, The official organ of the wireless society of London, p220)
 
 新たに開発した火花送信機(compressed air spark transmitter)には圧搾空気による冷却器を付けました。放物反射器(Parabolic reflectors)のメッシュに使用するエレメントの長さと数およびその配置間隔、パラボラ開口長の最適化、発振波長を変えた場合のビームパターンの変化などを測定しました。ここで初期のマルコーニ・ビーム(短波パラボラ)アンテナの基礎を確立させたのです。
 彼らが使ったのは波長2m(150MHz)と波長3m(100MHz)で、最終的に海上で6マイル(10km)の通達距離を観測しました(受信機は鉱石式で反射器なし)。そして完成したこの通信システムに、マルコーニ氏はイタリア語で "a fascio"(ビーム)と名付けました。
 
In his first tests in 1916 Marconi used a coupled spark transmitter and a crystal receiver. The reflectors employed were made of a number of wires, tuned to the wave used, and arranged on a cylindrical parabolic curve with the aerial in the focal line. Reflectors with apertures up to 3 1/2 wavelengths were tested, and the measured polar curves agreed with the calculated values. With this apparatus, using a wavelength of three metres, good communication was obtained up to a distance of six miles. (R.N. Vyvyan, Over Thirty Years, 1933, George Routledge & Sons LTD., p79)
一九一六年(大正七年)にマルコーニは火花送信機と鉱石受信機と反射器を使用して実験を行い、その結果、六哩(6マイル=10km)の距離に於いて三米(100MHz)の波長をもって良好な通信成績を得た。 (岡忠雄, 『英国を中心に観たる電気通信発達史』, 1941, 通信調査会, p351)
 
一九一六年にマルコニー氏は既に、短波長の通信実験をしており、送信装置は火花間隙とし、かつ圧搾空気中で放電せしめかなりの勢力を得ることができ、・・・(略)・・・伊太利(イタリア)において、使用波長に相当する反射器を採用する時には、指向式性質を充分に挙げる事ができ、また最高通信距離も、海上ではかなりに減衰はしたものの、六哩(マイル)に及んだという。』 (福田庚子郎, 短波長指向式無線電話, 『現代之電機』, 1922.12, 工業教育会, p24)
 
 若井登氏が監修された『無線百話』からも引用します。
超短波から始まった電波の歴史は、長波長化の道をたどった後、再び短い波長へと回帰しようとしていた1916年、マルコーニはイタリア海軍の依頼を受けて、艦隊間の通信に便利な、短距離で指向性を持った通信方式の開発を部下のフランクリンと一緒に手がけていた。波長2mの電波を使えば、可視距離外の敵に知られる恐れはないし、反射器により指向性を鋭くすれば、電力は少なくて済み、その上通信の機密性は保たれる。しかし当時はまだ超短波を発振できる真空管はなかったから、フランクリンは高圧空気の中で火花を飛ばす送信機を考案した。再びヘルツの時代に戻ったようであるが、結果は上々であった。 (無線百話出版委員会編, 『無線百話』, 1997, クリエイト・クールズ, p180)
 
 副産物もありました。短い波長では長波のような空電ノイズは全くありませんでしたが、その代わりに自動車やモーターボートのエンジンからの激しいノイズを観測(波長0-40mに分布)し、エンジンにシールドを施すか、あるいは将来、エンジンも無線局のひとつとして許可する必要になるだろうと予感したそうです。
 
 これが短波開拓の始まりでした。
欧州大戦(第一次世界大戦)中、マルコーニはイタリー軍付きの将校として勤務した。最近においてはヘビーサイド層を利用して短波長無線電信および電話が実用化されつつあるが、マルコーニはこの方面においても先鞭をつけ、既に一八九九年の(電気学会の)講演において短波による通信の可能性を予言していたが、一九一六年には、いわゆるビーム式通信研究の端緒をひらき、発信装置を放物線型枠に取付けられた反射体の焦点に置く方式をとった (岡忠雄, 『科学者の道』, 1948, 三笠書房, p266)
 
永年、短波通信を生業としてきた国際電信電話株式会社(KDD)の 総研 R&A(1995年9月号, p5)より引用します。
マルコーニは、1916年に初めて短波による遠距離無線通信に成功し、近代無線通信の基礎を築いた
 このように、マルコーニは、無線通信の黎明期以来一貫してその事業化および無線技術の向上に大変大きな貢献をしてきた。個人による卓抜した大発明は19世紀末のマルコーニによる無線電信をもって終わり、20世紀になってからの優秀な大発明は多数の研究者を擁する研究所の業績に帰せられると言われている。その点においても、マルコーニの偉大さが偲ばれる。


28) 金属面によるパラボラから すだれ型パラボラへ [Marconi編]

 下図はマルコーニ氏が1916年(大正5年)3月27日にイタリアに出願した"Improvements in Wireless Telegraphy and Telephony"の明細書の図面です。翌年3月26日には英国にも出願されましたが、結局特許にはなりませんでした。
1916年 マルコーニが出願したビームアンテナ
 この図面で示されたアンテナは、20年前(1896年)にマルコーニ氏が製作した、金属板を鏡のように湾曲させた超短波パラボラアンテナとは違って、複数のワイヤーで放物面を構成するものでした。前述のとおりこの出願の5箇月ほどあとに、フランクリン技師がイタリアに呼び出され、100-150MHzの"すだれ型"パラボラ反射器の研究をはじめました。
 
 図[Fig.1]でお気付きの通り、輻射部は接地式垂直アンテナになっています。ヘルツが試した金属板パラボラを"すだれ型"パラボラにして、接地式垂直アンテナを取り囲むことを考案しました。
 
 図[Fig.2] には7本のマストで地面に立体的に建設されたパラボラアンテナのイラストが描かれていますが、その各マストは途中で接ぎ木して延長されているのが見て取れます。つまり図[Fig.2]はかなりの「巨大パラボラアンテナ」だろうと考えられます。
 
 このイラストより1915-16年頃のマルコーニ氏が、すでに低い周波数(短波)でのビーム通信を考えていたことが伺えます。最終的には船舶無線で同社が長年使っていた周波数3MHz付近でのパラボラ実用化を想定していたのでしょうか?


29) 短波の開拓は 高い周波数から低い周波数へ向った [Marconi編]

 しかし、いきなり低い周波数(3MHz)に到達できたのではありません。まず1916年に150MHz(波長2m)と100MHz(波長3m)の特殊火花送信機で、短波の再開拓に着手し、1917-1918年頃には100MHzを、1920年からは電波灯台用に75MHz(波長4m)で実用化試験を行いました(番外編ですが、1922年の学会でのデモには300MHz(波長1m)のビームシステムが披露されました)。
 一方真空管式の短波送信機は無線電話を目的として1919年にまず20MHz(波長15m)機を試作して、カーナボンとホーリーヘッド間32kmの通信に成功しました。翌1920年にアイリッシュ湾横断試験を行い、1921年に対向させた20MHzパラボラアンテナで有名な、ヘンドン-バーミンガム間の無線電話による試験回線が完成しました。
 同じ1921年、マルコーニ氏はようやく古巣の3MHz(波長100m)まで降りてきました。3.06MHz(波長98m)と3.19MHz(波長94m)の二波を使った同時通話式の北海横断国際無線電話回線(英国-オランダ)を建設したのです(ただし無指向性アンテナを使用)。
 そして1922年にポルドュー短波局2YTの3.1MHz(波長97m)巨大パラボラの建設が始まり、1923年春の試験では電離層反射によりポルドゥーから4,130km離れた西アフリカのカーボベルデで受信されるという大記録を成し遂げました。
 
注目すべきは、費用対効果があがらない"ダメ長波" が第一次世界大戦によって見直され、人気急上昇していたこの時期にあって、なんとマルコーニ氏は飛ばないと考えられた"ダメ短波" の方を選択したという点です。プロもアマチュアも、より低い周波数へ向かっていた1916-1922年において、マルコーニ氏は逆方向に進んだのです。
 ではマルコーニ氏の短波(再)開拓について詳しく紹介してまいります。


30) 英カーナボンでの 100MHz ビーム試験 (1917年) [Marconi編]

 翌1917年(大正6年)、戦争でマルコーニ氏が不在の間は、英国のカーナボン(Carnarvon:現Caernarfon)の湾岸地帯でC.S. フランクリン技師が波長3m(100MHz)でビーム通信の実験を続けました。
1917年 マルコーニビーム試験100MHz
 "マルコーニの短波" といっても、この時期にはフランクリン技師が主として開発と実験を行なっていましたので、マルコーニ「社」 の短波と呼ぶほうが適切かもしれませんね。なおカーナボンはマルコーニ社の対米長波通信の拠点でもありました。
 さて火花送信機(波長3m, 周波数100MHz)とビーム空中線による実験結果ですが、海抜600フィート(180m)に置き、7マイル(11km)離れた水上での受信強度よりも、距離20マイル(32km)離れた海抜300フィート(90m)で受信した方がずっと強く、さらに送受共に海面の高さに置くと到達距離はわずか4マイル(6km)になってしまったのです。
 
In 1917, using a wavelength of 3 metres a range of 20 miles was obtained from Carnavon, with reflector at the transmitting end only. (R.N. Vyvyan, Over Thirty Years, 1933, George Routledge & Sons LTD., p79)
マルコーニはフランクリン(C. S. Franklin)に委嘱して短波の伝播性を研究せしめた。一九一七年(大正八年)にカーナヴォン局から二〇哩(20マイル=32km)の距離に於いて三米(100MHz)の波長をもって、反射器は送信所においてのみ使用して通信が出来た。 (岡忠雄, 『英国を中心に観たる電気通信発達史』, 1941, 通信調査会, p351)
 
(1916年にイタリアで試験したあと)1917年には英国のCarnarvon で続いて試験したが、送信機器は改良した圧搾空気火花発信機を用い、三米(100MHz)の電波長で反射器の高さ電波長の一倍半Apertureは、電波長の二倍として20哩(32km)の距離まで達することが出来た (荒川大太郎, 無線電信の新しき用途, 『無線』, 1923.2, 逓信省倶楽部, p8)
 
一九一七年に英国カナボンで実験された波長は、火花間隙送信装置を、改良して三米とし、また二波長の開きを有する送信反射器を、地上一・五倍波長の高さに据えて、二十哩(マイル)の距離で受信反射器なしで聞き得た。この実験の結果、通信距離は、送信反射器の地上の高さによって大いに影響ある事を認め、距離は高さに比例して増加する事が確かめられ・・・(略)・・・』 (福田庚子郎, 短波長指向式無線電話, 『現代之電機』, 1922.12, 工業教育会, p24)
 
 今では高い場所が有利なのは良く知られる所ですが、長波による遠距離通信が全盛のこの時代に、波長に対する空中線の高さと、電界強度の関係式を見出したのです。マルコーニ氏も1890年代の実験でアンテナを高くすると到達距離が伸びることに気付きましたが、C.S. フランクリン技師により、さらに科学的に検証されました。例えば長波1000m(300kHz)で10波長相当分(10km)の地上高でテストしようとするとエベレスト山(8848m)を超えてしまい不可能ですが、使用波長が3mなら10波長分でも30mです。高い周波数だからこその実験でした。
Tests were made at different levels on a hill situated at this point, and it was found that signals steadily increased in strength with height. Accurate measurements were not possible with the portable receiver, but the increase of strength of the field at a height of 10 wavelengths was estimated to be 6 or 7 times. Further tests on this effect have shown that the increase of strength with height is not always uniform. 』 (C. S. Franklin, "Short-Wave Directional Wireless Telegraphy", The Wireless World and radio review, May 20, 1922, The official organ of the wireless society of London, p220)


31) 三種類のすだれ型パラボラ反射器を出願 (1917年8月29日) [Marconi編]

 1917年(大正6年)8月29日、フランクリン技師は、これまでのパラボラアンテナの研究成果をまとめて、3種類のパラボラ反射器の英国特許"Improvements in Reflectors for use in Wireless Telegraphy and Telephony"を出願しました。そして1919年(大正8年)7月3日に英国特許No.128,665として登録されています。
 また米国へは1919年2月26日にマルコーニ氏と連名にして出願し、1919年4月22日に米国特許No.1,301,473 "Reflector for use in Wireless Telegraphy and Telephony"として登録されました。 
1919年9月 ワイアレスエイジ誌 パラボラ特許
 それを紹介する記事"Marconi and Franklin's Directive Radio System(マルコーニとフランクリンの指向性無線システム)"が無線月刊誌Wireless Age(1919年9月号, p20)に載りました(左図)。
 
 下図が出願明細書にあるパラボラの図です。
Fig1,2,3(下図[左])で示される垂直偏波用リフレクターと、Fig4,5,6(下図[中])で示される水平偏波用リフレクターを基本とし、その応用型がFig7,8,9(下図[右])で示されるものです。
1917年 マルコーニとフランクリンのパラボラ特許
 なにしろ第一次世界大戦(1914-1918)で "海底ケーブルは、いとも簡単に敵国に切断され、通信が杜絶する。" ことを経験し、(ケーブル偏重が見直されて)長波無線が脚光を浴びるようになった時代ですから、両氏の短波パラボラ研究に対して読者には「マルコーニもフランクリンも変わったことに熱を上げているなあ・・・」としか伝わらなかったようです。二人の地道な短波ビーム研究が数年後に花開き、一気に短波の時代になろうとは誰も思ってもみませんでした。
 
 C.S.フランクリン技師はこのカーナボンでの100MHzビーム試験の後(1918年頃?)、ポーツマスでも試験していたことが知られていますが、詳細は不明です。下記は1924年7月2日にRoyal Society of Artsでマルコーニ氏がポルドゥー2YTの巨大ビームによる短波実験結果を発表した際の質疑応答の記録です。
Mr. C.S. Franklins said he had worked with and for Senator Marconi on the subject of short waves for some eight years, first of all in Italy, than at Carnarvon, then at Portsmouth, then again at Carnarvon, and after that at Inchkeith, Hendon, Birmingham, and finally Poldhu.  He had published, in 1922, a paper before the Institution of Electrical Engineers which described some of results which had been obtained. ("Results obtained over very long distances by short wave directional wireless telegraphy, more generally referred to as the beam system", “Discussion”, Journal of the Royal Society of Arts, Vol.72 - No.3740, Royal Society of Arts, July 25, 1924)


32) 真空管式 20MHz 無線電話送信機完成 (1919年) [Marconi編]

1919年 マルコニービーム試験
 一般的に短波は飛びが悪いと信じられ、誰も手を付けようとしなかったとされていますが、逓信省電務局の竹林嘉一郎氏は著書の中で、短波に中々着手できなかったもう一つの理由として、「短波で持続電波を作るすべがなかった」ことを挙げています。長波では電弧式やアレクサンダーソンらが発明した高周波発電機により持続電波(CW:Continuous Wave)を生成できるようになりましたが、これらの方式ではその構造上から短波を作ることができなかったからです。短波の持続電波は高い周波数でも安定して動作する真空管の改良を待つしかありませんでした。
その後電弧式、発電式等の発明があり、長波長持続電波を利用される傾向になった。・・・(略)・・・発電式とか電弧式はその構造上短波長振動の発生が不可能であったので、長距離通信用としては益々短波長電波は顧みられなくなってしまったのである。 (竹林嘉一郎, 第六編短波長, 『無線科学大系』, 1928, 誠文堂無線実験社, p410)
 
 三極真空管の登場で中波帯まで持続電波を作れるようになり、無線界では持続波に音声を乗せる「無線電話」の試みがぼちぼちと行なわれるようになっていました。マルコーニ社では1913年(大正2年)より、三極管の製造研究に手掛け、1914年(大正3年)には真空管式無線電話を開発しました。そして1918年(大正7年)11月に第一次世界大戦が終結するや、C.S. フランクリン技師は真空管式"短波"無線電話の開発に着手しました。いきなり短波の20MHzで、それも無線電話を開発しようというのですから、とてつもなく困難なプロジェクトだった思います。
 
 この時のフランクリン技師らによる短波用大電力真空管の開発に関する記事を引用します。
一九一九年に同じくカナボンで、送信装置として真空球を用い、波長十五米として実験し、一個の送信球は、二百ワットで・・・(略)・・・このごとき短波長は普通の真空球で容易に出す事が出来るが、ただその非常に高周波なる為に大なる電流がグリッドやプレートに流れ込むため、その封じめなどを大きくせなければならぬ。また確かな真空球の製作や、同様の性質の真空球を数多作る事は困難な事であり使用された真空球の能率も六〇乃至五パーセント位のものもある様になり、従って不良な真空球にも同様な大なるパワーを加えるため、その不良の真空球の硝子(ガラス)は溶けてしまう様な種々なる困難を感じた。』 (福田庚子郎, 短波長指向式無線電話, 『現代之電機』, 1922.12, 工業教育会, p25)
 フランクリン氏はこの困難な開発を成功させることができたのは、R. H. White氏、E. Green氏、A. W. Hall氏の協力のおかげであり、特にカーナボンで使用した短波20MHzでも長時間安定動作する真空管への改良にはE. Green氏の貢献が大きかったとしています。
 
 1919年(大正8年)、数々の試行錯誤の末、波長15m(20MHz)で入力200Wの単球短波送信機が完成しました。波長が15mと長くなったので反射器は使いませんでしたが、いくつもの技術的課題を乗り越えて、ついに20マイル(32km)離れたホーリーヘッド(Holyhead)で明瞭に受話することができました。
After some trials a single valve transmitter was arrived at talking about 200 watts with a 15 metre wave, and giving 1 ampere in the centre of a half wave aerials. A heterodyne receiver with supersonic beat note was employed. After gaining some experience, and solving many small practical difficulties, very strong speech was obtained at Holyhead, 20 miles away. The strength was such that shadows produced by small hills and buildings were hardly noticeable, unless the stations were close behind them. (C. S. Franklin, "Short-Wave Directional Wireless Telegraphy", The Wireless World and radio review, May 20, 1922, The official organ of the wireless society of London, p221)
 
 このとき途中に障害物があっても、その真後ろでない限り、受信強度に大きな影響がないことを知ったC. S. フランクリン技師は、短波でも地平線の下(向こう)まで届くのだろうかという疑問を持ちましたが、それを実験する手段がありませんでした。


33) 20MHz アイリッシュ湾横断試験 (1920年6月) [Marconi編]

1920年アイリッシュ湾横断テスト
 1920年(大正9年)6月、「イギリス-アイルランド」間の郵便船(The Dublin Steam Packet Company's boat)に受信機を設置して、カーナボンの電波がどこまで聞こえるかを試すチャンスがやって来ました。
 ホーリーヘッド港を出発した船は、対岸アイルランドにあるキングスタウン港(Kingstown Harbour, 現Dun Laoghaire Harbour)に向かいました。そしてカーナボンから発する20MHzの無線電話は70ノーティカルマイル(130km)離れたキングスタウンに入港するまで聞こえ続けました。すなわち船から見て、カーナボンが水平線の下に入っても短波の強度は急減しないことが確認されたのです。
The next point was to test the maximum range, and particularly to find whether such waves would carry over the horizon, and whether there would then be a rapid falling off of strength.
Permission was kindly given for a test to be made on the Dublin Steam Packet Company's boats running from Holyhead to Kingston, and this was done in June, 1920. During this test speech was received right into Kingston Harbor, 70 nautical miles from Carnarvon, and the point was proved that there was no rapid diminution of strength after passing the horizon line from Carnarvon.
 (C.S. Franklin, "Short-Wave Directional Wireless Telegraphy - The radio Lighthouse of the Future", Radio News, Nov. 1922, p906)
 
During further tests and utilizing a wavelength of 15 metres, clear and strong speech was received at Kingston Harbour, 78 miles from Carnarvon. (R.N. Vyvyan, Over Thirty Years, 1933, George Routledge & Sons LTD., p79)
フランクリンは更に研究の結果、一五米(20MHz)の波長を使用して明澄(めいちょう)な強い演説をカーナヴォンから七八哩(78マイル=130km)のキングストン・ハーバーに於いて聴取することが出来た。  (岡忠雄, 『英国を中心に観たる電気通信発達史』, 1941, 通信調査会, p351)
 
なお英蘭間の郵便船で試験した結果、Carnarvonから78浬離れたKingstown港でも聞くことが出来た (荒川大太郎, 無線電信の新しき用途, 『無線』, 1923.2, 逓信省倶楽部, p8)
 
 この結果を受けて内陸地でも同様の実験を行う事を決め、ロンドン市内北部のヘンドン(Hendon)に20MHz実験施設の建設がはじまりました。その話題に入る前に、フランクリン技師が同じ1920年に立ち上げた、通信用とは別の短波プロジェクトを紹介しておきます。


34) 新用途開拓 75MHz 電波灯台の試験 (1920年11月17日) [Marconi編]

 1920年(大正9年)、マルコーニ氏とC.S. フランクリン技師は短波ビームアンテナの用途として、電波灯台への応用を具体化しました。これはマルコーニ氏が1899年3月の電気学会で発表していたものです。
1920年 インチケイスの最初のビーム
1920年 インチケイスの電波灯台
 スコットランドのエディンバラに面するフォース湾(Firth of Forth)に浮かぶ、インチケイス(Inchkeith)島に、灯台設計施工会社 "D & C Stevenson" 社と北部灯台委員のご厚意のもと、電波灯台(回転するビームアンテナ)を建設することになりました。 
 
Through the courtesy of Messrs. D. & C. Stevenson, Consulting Engineers to the Northern Lights and the Commissioners of the Northern Lights, trials are being made with a revolving reflector erected on InchKeith Island. Credit is due to the author's assistant, Mr. N. Wells, who has been superintending this work on the island - very often under strenuous conditions.  (C. S. Franklin, "Short-Wave Directional Wireless Telegraphy", Journal of the Institution of Electrical Engineers, Vol.60-No.312, Aug. 1922, p933)
 
 左図がその1920年に建設された電波灯台の初代(シングル)ビームで、灯台の隣にありました。パラボラビームは転車台のようなものに載せられています。これで方向を変えながら75MHzの標識電波を超短波火花送信機から送信しようと考えました。
 
 そしてフォース湾内を航行する船舶に受信機を設置して、この電波灯台のサービスエリアを確認するフィールドテストを計画しました。
1920年 電波灯台 試験マップ
 1920年(大正9年)11月17日、汽船ファロス号(Pharos)に波長4m(75MHz)受信機を設置し、フォース湾内を航行しながらインチケイス電波灯台から発する75MHz波の海上伝搬性能を検証しました。左図[左]は汽船Pharos号の航路を示す地図です。
 11月17日午後2時に、オックスカーズ灯台の北沖(フォース湾の中央付近)を出発して、船を西(地図上の左)へ進めました。午後2時24分にインチケイス島から7海里(13km)の地点に来ましたが、ここが実用限界距離であることがわかりましたので、進路を東(地図上の右)へ反転させました。インチケイス島の南東に来たのが午後3時10分でした。
 
 そこからインチケイス島の周囲をくるりと周りました。
 すると不思議なことにファロス号が島に近づくほど、島からの電波が弱くなることに気付きました。このことから、フランクリン技師は送信ビーム局の標高をもっと低くする必要があると考え、送信ビームアンテナの建て直すことにしました(Radio News, Nov.1922, p910)。
 
1920年 垂直ダイポールを採用
 受信アンテナは無指向性の垂直ダイポールアンテナ(75MHz)でした(左図[右])。汽船ファロス号上の見晴らしのきく場所(左右2箇所)に、アンテナが取付けられていますが(左図[左])、これは船体の影響を受けて75MHzの垂直ダイポールに指向性が生じてしまうため、受信機を2セット用意しました。受信機は単球式のものでした。
 
 1920年は接地式アンテナ全盛の時代ですから、この半波長の垂直ダイポールはとても珍しいものだったようです。


35) 20MHz ビームアンテナと移動受信試験 (1921年2月) [Marconi編]

 これまでマルコーニ社の短波試験は海岸や海上で行なわれて来ました。短波は光の性質に近いと推測されるものの、1920年のカーナボンとキングスタウン港間の海上移動試験では、船が水平線の下に入っても急激には弱まらないことから、光とは振る舞いが違うと認識されました。そこでマルコーニ社は内陸地における障害物の影響について研究することになり、合わせて20MHz用のビームアンテナを設計・建設し、その性能試験をおこないました。
 
1921年 ヘンドン短波試験
 1921年(大正10年)ヘンドン(Hendon, ロンドン市内北部)に三本のタワーを建てて、そこからパラボラを吊り下げました。ビームは北西(バーミンガムの方角)に向けられ、波長15m(20MHz)の送信機はさらに改良されて入力700W(終段陽極4000V, 175mA)になりました。
 同年2月、自動車に搭載したポータブル短波受信機で各所へ移動して、ヘンドンからの20MHz波の受信試験を繰り返しました。その結果、いろんな障害物のある内陸地においても最大で66マイル(106km)の距離まで観測されたのです。
地上短波長反射式の通達距離測定の為に発電所(発信所)をヘンドンに設置し反射器と送信装置をバーミングハムに向けて設け、一九二一年二月に受信装置を自動車上に置き実験したるに、六十六哩(マイル)に到るも充分に通話が出来、バーミングハムの附近でも立派に通話し得た。』 (福田庚子郎, 短波長指向式無線電話, 『現代之電機』, 1922.12, 工業教育会, p24)
A site was chosen at Hendon, and a reflector and transmitter for 15 metre waves erected with the reflector pointing towards Birmingham. Tests were commenced in February, 1921, from Hendon to a portable receiver on a motorcar. Very good speech was received up to 66 miles, and fair speech in the neighborhood of Birmingham. (C. S. Franklin, "Short-Wave Directional Wireless Telegraphy", The Wireless World and radio review, May 20, 1922, The official organ of the wireless society of London, p221)
 
 マルコーニビームは150MHz(1916年)→75MHz(1920年)→20MHz(1921年)といった具合に、より低い周波数を目指していました。


36) 3MHz 北海横断無線電話試験 (1921年5月11日) [Marconi編]

 ところで「実用化に向けた短波試験」が最初に(一般の人々に)伝えられたのはいつ頃だったのでしょうか?たぶん、これがそうだろうと考えられるのが、マルコーニ社が1921年春に行なった北海横断無線試験です。
1920年 チェルムスフォードとサウスエンドの短波実験
 マルコーニ社は将来、英国と欧州大陸を短波無線による電話回線で結ぼうと考えていました。そして無線電話を有線電話に接続するために、マルコーニ社のチェルムスフォード研究所では同時通話式の短波無線電話の研究を始めました。
 まず事前テストとして1920年に、チェルムスフォード研究所のH.J. ラウンド氏が波長100m付近(3MHz)の二波を使い、研究所から南へ10数km離れたサウスエンドとの間で同時通話試験をおこない良好でした。
 マルコーニ氏が書いた記事によると、この試験は1921年まで継続的に行われたようです。
Then, in 1921, following the successful tests of telephony on 100-meter waves between Chelmsford and Southend, stations were erected using only 1 kilowatt of energy in the aerial circuit. (Guglielmo Marconi, "Thirty-Seven Years of Radio Progress", Radio News, Jan 1932, Teck Publishing Corporation, p608)
 
1921年5月 北海横断通信
 この成功を受けて、次に北海を横断する国際同時通話(duplex telephony)試験を計画しました。
In 1920 experiments were carried out by Captain H. J. Round with duplex telephony on a 100 metre wave between Chelmsford and Southend, and the experiments were so successful that early in 1921 two stations which had been erected at Southwold and Zandvoort on the Dutch coast were put into commission experimentally, Southwold Station utilising about one kilowatt to the aerial. (Guglielmo Marconi, "Radio Communications", Journal of the Royal Society of Arts, Vol.73 - No.3762, Dec.26, 1924, pp125-126)
 
 準備を整えたマルコーニ社は世界最古の日刊紙である英国のThe Timesと共同で公開実験を行うことにしました。
 1921年(大正10年)5月11日、英国サウスウォールド(Southwold)と対岸オランダのザンドヴォールト(Zandvoort)に完成した無線電話実験局に、The Times紙の特派員を招き、無線電話のデモンストレーションを行なったのです。距離はおよそ200kmで、この波長100m(3MHz)を使ったため反射器は用いませんでした。
 
 北海を挟んだ両実験局間での短波無線電話は非常にクリアに聞こえ、現地で立ち会った記者は興奮気味に以下の見出しで2日間記事を書きました。
1921年 短波による北海横断試験
 左図[左]: The Times, 1921.5.12, p10
Talking by Wireless  A North Sea Telephone   Successful Test by "The Times" (from our Special Correspondent)  ● Circling of The World
 
 左図[中]:The Times, 1921.5.13, p10
Wonders of Talk by Wireless  New Business Link with Europe  Secrecy Secured  Shorter Waves Cabinet by Wireless
 
 このタイムズ紙が報じたニュースは1921年(大正10年)5月17日の『朝日新聞』に掲載されましたので引用します(上図[右])。
長距離無線電話成功  五十分間の通話  十二日タイムス社発
タイムス編集局員の一団はサフォーク郡サウスワルド、和蘭ザンドヴールト間、百二十五哩の長距離を五十分間無線電話にて交話して成功せり・・・(略)・・・』 (長距離無線電話成功, 『朝日新聞』, 1921年5月17日, 朝刊p6)
 
 ・・・ですが朝日新聞の記事にはマルコーニ社が使用した波長が書かれていないのです。実はタイムズ紙の記事は12日と13日の2回に分けて書かれましたが、使用波長は13日の記事にありました。朝日新聞は12日のタイムズ紙をもとにすぐに記事にしたため、使用波長には触れられていません。多くの日本人がこの新聞記事を読んだと思われますが、短波を使ったとは認識されなかったことになります。短波開拓史のページという当サイトの立場からいうとちょっと残念です。
【参考】 もちろん13日のタイムズ紙には波長100m(3MHz)とあります。
The wave lengths employed in the transmission of speech between Southwold and Holland were a hundred meters, ・・・(略)・・・』 (Shorter Waves, The Times, 1921.5.13, p10)


37) 長波の時代が到来 ワシントン予備会議 (1920年10月) [Marconi編]

 ここで一年ほど時計の針を戻します。
 第一次世界大戦で連合国に次々と海底ケーブルを切断されたドイツは、長波の大電力無線を駆使し遠距離連絡通信を確保し続けました。(実際の被害は少なかったのですが)連合国側も、ドイツの潜水艦に自国の海底ケーブルを切断される恐れがあるため、各国は大電力長波局の建設に奔走しました。技術面においても既に電弧式やアレクサンダーソンの発電機式が発明されており、(長波であれば)持続電波が得られるようになっていたことも好都合でした。マルコーニ氏により無線通信が拓かれてからおよそ20年が経ちましたが、今ようやく長波の黄金時代がやってきたのです。
 
 しかし長波帯は帯域が広くないため、限られた通信チャンネル数(通信用個別波の数)にしか分割できません。さらに公衆通信を扱う固定局(Point to Point)は時間当たりの通信量を増やすために、1回線につき2波を使った送受同時通信が採用されるに至り、長波チャンネルの不足が懸念されるようになりました。
 世界大戦(1914-1918)が終るや、スイスのベルン総理局には各国の電波主管庁より「この未登録チャンネルを我々が使いたい」と、次々登録申請が行なわれ、ついにチャンネルの奪い合いに発展しました。1920年(大正9年)10月8日-12月15日、日本を含む戦勝五大国だけでワシントン予備会議を開いて、長波チャンネルの(自分たちの)分配比率を協定しました。いわゆる五大国の「談合」です。このとき積み残した技術仕様面の協議は、再度パリで専門会議を開くことになりました。


38) パリ準備技術委員会 談合破棄 実績重視へ (1921年6月) [Marconi編]

 1921年(大正10年)6月21日より、再び五大国が集まり開かれたパリ準備技術委員会では、一転して各国の長波局の稼動実績数および建設計画数を重視してチャンネル分配することになりました。つまり前年の「談合」の破棄です。この方針変更に日本政府委員は慌てました。
 
 我国の公衆通信(電報)を扱う国際長波局は1915年(大正4年)に開所した海軍船橋無線電信所(千葉)の設備を逓信省が時間借用して1916年(大正5年)11月16日に開業した船橋無線電信局JJCの1局のみでしたが、(このパリ会議の3ヶ月前の)1921年(大正10年)3月36日にようやく逓信省自前の岩城無線電信局JAA(福島)が開業したばかりでした。このように稼動実績数を問われるのは日本にとって非常に不利でしたが、幸い建設計画中のものもカウントに入れてよいため、日本委員は帰国するや、電波三省(海軍省, 陸軍省, 逓信省)の関係者を集めて対策会議を開き、長波大電力局の建設整備計画が練られました(このときに建設が決まったのが対外地(植民地)局の検見川無線や、対欧局の依佐美無線です)。
【注】 すでに銚子無線JCSや落石無線JOCなどの海岸局も長波を装備する時代に入っていましたが、海岸局-船舶局間の海上公衆通信には国際波長として300m(1000kHz)、600m(500kHz)、1800m(167kHz)の3波が指定されており、どれだけ混雑しようがこの3波を世界で共用するルールで、ここでいう「長波チャンネル分捕り合戦」とは関係しません。無線の歴史書をお読みになる際には、船橋無線JJC, 岩城無線JAAの「固定局」(Point to Point通信)の話題と、銚子無線JCS, 落石無線JOC等の「海岸局」の話題は意識的に区別しておかれるとよろしいかと思います。またアマチュア無線で使う「固定局(場所を変えない局)」「移動局(場所が変わる局)」という対義語的な用法とは異なる点にも要注意ですね。
 
 さてパリ準備技術委員会(1921年6月21日-8月22日)はマルコーニ社の短波(3MHz)による北海横断通信成功の直後で、短波の利用についても話合いましたが、委員達の興味はあくまで長波チャンネルの獲得にあったので、国際的な業務別波長分配表案は1500kHz(波長200m)までが作られ、「1500kHz以上の周波数は各国電波主管庁の自由」と決議して終りました。この時代、マルコーニ氏以外に短波に興味を示す人や組織はなかったようです。
【注】 1500kHz未満の低い電波の「電波の質」については推奨事項が決められました。1500kHz以上は本来、各国の自由ですが、とはいえ非同調式のスパークギャップにアンテナとアースを直結することは不可とし、非同調式火花送信機の使用は完全に終焉を迎えました。
 
 パリ準備技術委員会の終了間際になり、日本委員の逓信省組に欧米の無線事情を視察して帰国するよう指示がきました。長波チャンネル争奪戦を日本に有利に展開するために、欧米先進国の大電力長波局の建設状況を確かめておこうという作戦でした。逓信省稲田工務課長の随員として参加した工務課穴沢忠平氏の記事を引用します。穴沢氏は後に稲田課長の命を受けて河原猛夫技手とともに岩槻J1AAを運用された方です。
パリ会議の終了は8月末であったが、その直前に(逓信組の)稲田委員長、佐伯技師、長井氏および私には、3か月間欧州の無線事情視察のための出張命令が発令されたので、直ちに帰朝する者がなく、パリで報告書の作成、印刷(そのころパリではあまり使用していないコンニャック版の道具を苦心して探し出し、ホテルのガルソンまで動員)して日本に郵送し、それが済んでから私は佐伯技師のお供をして、英国、オランダ、ドイツ、イタリアの旅行を続けマルコーニ社、フィリップ社、テレフンケン社およびSFR社の大電力送信施設の視察をした。 (郵政省電波監理局編, 穴沢忠平, "国際会議回想", 1970.6, 『電波時報』, 電波振興会, p21)


39) 逓信省 佐伯技師ら マルコーニの短波を視察 (1921年秋) [Marconi編]

1921年 短波の北海横断試験
 1921年(大正10年)秋、いろんな大電力長波局を訪問する中で、佐伯技師らは話題になっていたサウスウォールドでテスト中の北海横断無線電話試験も見学しました。左図が逓信省の一行が訪れた当時のサウスウォールド局です。
 左図[左]が送信所で、絶縁された送信アンテナ基部[左の左]と送信所全景[左の右]です。また左図[右]が少し離れた場所に建設された受信局です。
この旅行で特に印象の深かったのはマルコーニ社が当時行っていた英国海岸局とアムステルダム間の短波(90m)実験と大西洋横断の無線電話実験であった。』 (郵政省電波監理局編, 穴沢忠平, "国際会議回想", 1970.6, 『電波時報』, 電波振興会, p21)
(ここでいう大西洋横断の無線電話実験が何を指すのか分かりませんが、とにかく)マルコーニ氏の短波の無線電話実験が穴沢氏にはとても印象的だったようです。
 
 佐伯技師が帰国後、電信電話学会で発表されたものから引用します。
英蘭間無線電話試験
 マルコニ会社は倫敦(ロンドン)アムステルダム間を有線無線電話連絡に付、試験中でありましたが、同通話の英国側海岸局 Southwold を視察致しました。通話対手はアムステルダム附近の海岸Zandvoortにあります。送信用空中線としては高さ八十(80フィート = 約24mで使用する波長の1/4に相当)の鉄柱を基礎およびステーと絶縁して建設したものでありまして、柱をそのまま空中線として使用しております。接地は地上約二呎(60cm)位の高さに二十本のカウンターポイズを張りまして大地は使用しておりません。送信用バルブはレクチファイアー2個、コントロール用レクチファイアー2個、サブコントロール、コントロール、及パワー用各一個を使用しまして、空中線電流は普通四、五アムペアを出しておりますが八アムペアまでは出し得ます。送信室より約五十間(91m)距りたる所に接続室がありまして倫敦(ロンドン)から来る陸線と無線電話送受話機とを接続しております。第二十二図はその接続を示すものでありまして・・・(略)・・・
送受両空中線の距離は約半哩(0.5マイル = 800m)ありまして、使用波長百米突(100m = 3MHz)に対して数米突の差があれば、同時送受に差支えが無いと云うております。また百米突の様な短波長でも昼夜の影響は少しも無いそうでありますが通信距離の短いせいでありましょう。また将来は十五米突(15m = 20MHz)位の短波長を使用して反射作用を利用する見込だと云うておりました。
 受話装置は高周波増幅器九段(かくのごとく段数は余り効果なしという)にて増幅したるものをSeparate heterodyne によって三十万サイクル(300kHz)にモヂュレートします。その理由は百米突の様な短波長では増幅を行う事が困難なためでありまして、モヂュレートしたためspeech modulation にdistortion を与える様な事は無いそうです。なお使用バルブは何れもラウンド氏特許の小型バルブでありまして、このバルブでないとバルブのCapacity が多すぎて、かくのごとく小電波長には有効に使えないと申しておりました。(ラウンド氏バルブはCapacity 二センチメートル、フレンチバルブは八センチメートル)これのモヂュレートされた三十万サイクルを更に六段の)高周波増幅器によって拡大し、更に三段の低周波増幅器でSpeech modulation を拡大します。通話試験を実際やってみましたが中々よく出来ておりました。』 (佐伯美津留, 演説 欧米無線電信視察談(予稿), 『電信電話学会雑誌』,  第33号 1922.8, pp326-328)
 
 佐伯氏も穴沢氏と同じようにマルコーニの短波無線電話を高く評価していますので、その完成度はかなり高かったと想像します。


40) ヘンドン-バーミンガム 20MHz 無線電話回線完成 (1921年8月) [Marconi編]

 一旦ヘンドンビームの話題に戻します。マルコーニ社はヘンドンから97マイル(156km)離れたバーミンガム(Birmingham)のフランクレイ(Flankley)にも同様のビーム局を建設しました。バーミンガムのビームは南東のヘンドンに向けられました。下図[左]はヘンドン局とバーミンガム局で使われた20MHz, 入力700Wの無線電話送信機と受信機です。
1921年 ヘンドン バーミンガムの送信機と受信機
1921年 ヘンドンとバーミンガム間試験
 1921年(大正10年)8月、無線電話で試験を行なったところ、双方ともにビームアンテナを使ったためか、驚くほど強力に送受できて大成功でした。またパラボラを使わない時との比較試験も行なわれ、ビーム通信の絶大なる効果が確認されたのです。内陸地における短波の固定局間通信としては、これが最初のものになります。詳細は分かりませんが同時通話方式なので15m付近の2波が使用されたと想像します。
 
 この20MHzビーム試験に関しては逓信省の荒川大太郎氏の記事を引用しておきます。短波の実用化には、まず短波でも安定して動作する真空管の開発が不可欠です。マルコーニ社の真空管製造技術者達のたゆまぬ改良努力により、同社は波長12m(25MHz)でkWクラスの三極管を製造できるまでに力を付けていました。
1921年 ヘンドンとバーミンガムのパラボラビームアンテナ
1919年 マルコニービームのパターン
今日においてはHendon(London) Birmingham 97哩(マイル)間の通話が、両方に反射器を置いた結果、強く、明瞭に行なわれているのである。その設備は、バルブの入力は約700ワットで、空中線は電波長の半分よりやや長く、そのRadiation Resistanceははなはだ高い。全体の能率は50ないし60%で、300ワットほど放射される。
 受信は随分強くハッキリと来るので、60オームの受話器に1/2オームの分路をいれても聞こえる程である。 しかるに反射器なしでは受話器の分路の抵抗をとってもほとんど聞こえぬ位で、Franklin氏の測定した結果によると、反射器を用いれば約200倍の強さで到達させることが出来る。
 第二図(注:左図[右], 波長14.8m/20.3MHzにて測定)はHendon局のPolar Diagramを実測した結果であるが、局の周囲を廻って測定するときは、時や樹木等の関係で相対的ではない。ゆえに回転的の反射器を作って試験する必要が起こってきた。それを用いた結果によればPolar Diagramは距離に無関係に、いつも同一の結果を得る事が証明できた。
 
マルコーニのヘンドンのパラボラビーム
 送信のバルブは今日、12米以上の波長で数キロの物が作られ、それらを並列に使用することが出来る。そしてCarnavonで試験中、送信空中線を送信に使用中にもかかわらず、受信も同時に行なった結果、現今、これをHendon - Birmingham回線にも使用しているが、数多の開閉器を省略することができた。
 反射器を使用する事は方向的に有効であり、エネルギーの経済からいっても必要なことであるが、全く予期されなかった結果のひとつとして、非方向性の物に比較し、(無線電話の)言葉が少しも崩れないという利点がある。また今日、Broadcasting の流行につれ通信の秘密を保つ上において、この新しき方式を取ることも急務のひとつであろう。 (荒川大太郎, 無線電信の新しき用途, 『無線』, 1923.2, 逓信省無線倶楽部, p8)
 
 彼らがひとつの空中線で同時送受信が可能であることを発見したのは、カーナボンでの実験中でした。その知見が今回のヘンドン-バーミンガム回線に採用され、送信しながら受信することが実現しました。ただし一部送信波の廻り込みなど実用面のトラブルもあり苦労したようです。
『 During the continuous wave tests at Carnavon it was found that reception was quite possible on the transmitting aerial while the transmitter was operating. This has been used successfully for duplexing between Hendon and Birmingham, and eliminates all switching. The heterodyne may be either the transmitter, or an independent small heterodyne in the receiver. Both the transmission and the reception utilize the same aerial and reflector, and the transmitter is left going and can be operated while receiving. There is no reduction in strength while the transmitter is on, but a practical trouble has appeared. Owing to the comparatively large power, strong currents are induced in all conducting structures and circuits close to the reflector and transmitter, such as the supporting towers and buildings, and every variable contact produces a noise. 』 (C. S. Franklin, "Short-Wave Directional Wireless Telegraphy", The Wireless World and radio review, May 20, 1922, The official organ of the wireless society of London, p223)


41) 3MHz ロンドン-アムス 有線無線 国際電話の試験 (1921年12月18日) [Marconi編]

 実用的な三極真空管が生産されるようになった1910年代には持続電波が簡単に得られるようなり、それに音声を乗せる無線電話が広まり、さらに同時送受信や有線電話と無線電話の真空管式接続装置(後にいうボーダス装置)が各国で研究されました。世界初の有線無線接続装置は1917年(大正6年)に、電気試験所の丸毛登技手(無線担当)と堀江貞治郎技手(有線担当)が開発したもので、同年10月にプレスへデモンストレーションし、翌月には東京湾上の大成丸と東京市内加入者線間の相互接続試験に成功しました。その後も改良を加えながら1920年(大正9年)2-7月には神戸港で実用化試験を行ないました。これらの実験波長は不明ですが現代でいう長・中波だと推察します。
【参考】 ちなみに1914年(大正3年)12月に三重県鳥羽に開設されたTYK式無線電話の場合は、鳥羽灯台が波長850m(353kHz)、神島灯台が波長1,200m(250kHz)、答志村役場が波長1,080m(278kHz)を使いました(鳥潟右一, 伊勢湾無線電話に就て, 『電気学会雑誌』 Vol.35 No.319, 1915, 電気学会, pp143-144)。 国際的に公衆通信用(無線電信)に指定されている波長600m(500kHz)や300m(1,000kHz)へ、電話の混信を与えないよう、これを避けたようです。
 
 さて話を短波に戻しましょう。
マルコーニの短波の国際電話回線
 1921年(大正10年)12月18日午後、英国ロンドンと欧州大陸アムステルダム間の北海横断部分を短波で補う有線無線電話試験が行われ大成功を収めました。このマルコーニ社の快挙は12月19日ロンドンThe Times発として世界各国で報じられました。米国のThe New York Times紙も同日付けで伝えています。
この時代から無線電話と有線電話の連絡が真空球式継電機の完成によって出来るようになった。一九二一年十二月にマルコニー会社はこの問題の解決に成功した複式無線電話をサウスウールドとサツフォルク及びザンドボート(和蘭)との間に英国とオランダ郵便局との共同によって、倫敦(ロンドン)とアムステルダムとの間を有線無線連絡通信に成功した。この場合、倫敦およびアムステルダムにおいては普通の電話器を用い英国と和蘭(オランダ)との海上一一五哩(マイル)の間は無線電話を使用した。』 (伊藤賢治, 『無線の知識』, 1924, 無線実験社, p99)
 なお短波開拓史フロントページで紹介したマルコーニ社による短波開拓年表では、"1921 Aug.   Southwold - Zandvoort 100-metres telephone tests" とあることから有線電話への接続テストは1921年8月より始まったようです。
 
 19世紀より海底ケーブルは世界中の海に敷設されてきましたが電信専用で、1891年に英仏海峡に敷設された電話用ケーブルがあるぐらいでした。1音声用海底ケーブルにはまだ多くの研究課題が残っていたようです。
 そんな時代背景でしたので、同年12月18日のロンドン・アムステルダム回線(有線無線式国際電話)の試験成功の知らせは、英国同様に島国である我国逓信省の有線電話と無線関係者に大きな衝撃を与え、逓信省が1940年(昭和15年)に編纂した逓信事業史にも記録されました。
一九二一年マルコニ会社はロンドン-アムステルダム間を有線無線連絡を行なうため、わずか一〇〇メートルの短波を使用し、北海横断無線電話を実験して良好なる成績を得た。 (逓信省編, 世界に於ける無線電話発達の概況, 『逓信事業史』第四巻, 1940, 逓信協会, p712)
 
1922年ロンドンーアムステルダム試験の記事
 無線専門誌Wireless World(1922年1月7日号, pp626-628)は有線電話と短波無線電話を相互接続について取材し"Duplex Wireless Telephony with Holland" を書きました。
 イギリスのサフォークのサウスウォールド(Southwold)側は送信に波長98m(3.06MHz)を、受信に波長94m(3.19MHz)を使いました。また対岸のオランダのザンドヴォールト(Zandvoort)側はその逆で送信が波長94m、受信が波長98mになります。
 送信機から空中線に送り込まれた電力は500Wで、電話用ですので同時通話が求められ、干渉を避けるために両地点の送信所と受信所はそれぞれ700ヤード(640m)離されました。同じ時期に試験していたヘンドン-バーミンガム回線では、ひとつのアンテナで20MHzを同時に送受信する方式だったので、それとは異なる開発チームによるものと想像します。
1921年 ロンドン-アムステルダム回線テスト
 私たちが中学校の理科の授業で教わったフレミングの左手の法則・右手の法則や二極真空管の発明で高名な John. A. フレミング氏は王立協会フェローFRS(Fellow of the Royal Society)であり、またマルコーニ社の技術顧問でもありました。1921年12月および1922年1月、同氏はロンドンの王立科学研究所(the Royal Institution)で無線電話技術の研究発表を行ないました("Christmas Lectures on Electric Waves and Wireless Telephony" )。その内容を再構成した記事が雑誌に連載掲載されていますので引用します。
This was done in the case of the wireless telephone demonstrations across the North Sea conducted by Marconi's Wireless Telegraph Company between Southwold on the east coast of England and Zandvoort, near Haarlem, in Holland, in 1921. The distance between these places is 112miles (注:112海里). At each place a transmitting and receiving station was established about 700 yards apart. Let us call these stations T1 and R1 in England, and T2 and R2 in Holland. The station T1 telephones to station R2 with a wave of 98 meters wave -length, and the station T2 transmits to R1 with a wave 94 meters wavelength. This difference of wavelength (4 meters) was found to be sufficient to prevent the transmitter "jamming" the near-by receiver on the same side. At each transmitting station there was a valve transmitter made as above described, and a transmitting aerial 18 meters high, in which was created an aerial current of 5 - 8 amperes, which was modulated by an ordinary telephone exchange microphone.  (Dr. J.A. Fleming, "Electrons, Electric Waves and Wireless Telephony", Wireless World, 1923.2.10, p626)


42) マルコーニの短波の無線電話がノルウェイで受信される [Marconi編]

 波長98-94mを用いたため放物反射体を使いませんでしたが、結果は大成功で、オランダのザンドヴォールトからの電波はバーミンガムとヘンドンの短波受信機にも感応しただけでなく、遠く離れたノルウェイ(オスロ)でも受信されたのです。これは全くの予想外でした。もしビームアンテナを使っていたなら、方角が違うのでオスロで受信されることはなかったでしょう。Marconi Wireless Telegraph Co., のA.W. Ladner氏とC.R. Stoner氏が書かれた "Short Wave Wireless Communication" より引用します。
1922年 オスロでマルコーニの短波が聞こえた
Later in the same year a telephone circuit was set up between Southwold (Suffolk) and Zandvoort (Holland), using 100 metres without reflectors.  The tests were very successful, and it was particularly noticed that on most nights and on some days good signals could be obtained at Oslo, Norway – a quite unexpected result at the time. (A.W. Ladner/C.R. Stoner, Short Wave Wireless Communication, 1933, John Wiley & Sons Inc., p12)
 上記の日本語翻訳本からも引用しておきます。
同年」これに遅れて、Southwold(Suffolk)とZandvoort(和蘭)の間に100米の電波を用い反射器なしの電話回路(回線)が開かれた。この試験は非常な成功であったが、なお諾威(ノルウェイ)Osloで夜間はほとんど確実に、また昼間でも時々充分に受信出来たという事は特に注目に値する。こんな事はそれまで夢想だも出来ない事であったのである。 (ラドナー著, 水橋東作/松田泰彦翻訳, 『短波無線通信』, 1933, コロナ社, p12)
 
 オスロでは夜間のみ受かりましたが、ノルウェイの南端クリスティアンサン(Kristiansand [Christiansund], Norway)では昼夜受信、良好に受信できました。
Experiments were carried out, transmitting from these two stations to Norway in August, 1921, and at Christiansund day and night telephony was easily received from both stations. At Christiania, about 700 English miles, very loud and constant signals were received during the hours of darkness and in the daytime on certain days, apparently when the barometer was low. 』 (Guglielmo Marconi, "Radio Communications", Journal of the Royal Society of Arts, Vol.73 - No.3762, Dec.26, 1924, p126)
 
バーミングガム受信試験
 また20MHzでヘンドン(ロンドン郊外)局とパラボラアンテナの試験を行っていたバーミンガム局が、別のアンテナでこの3MHzサウスウォールド-ザンドヴォールトの無線電話を傍受してみたところ、とても不思議な現象に遭遇しました。
 時によって、バーミンガムから240km離れたサウスウォールドから伝わってきた電波よりも、440km離れたザンドヴォールトから伝わってきた電波の方が、強く観測されることがあったのです。
 特にバーミンガム、サウスウォールド、ザンドヴォールトの3局はほぼ一直線の位置関係にあったため、これはまったく不可解な現象でした。まるでザンドヴォールトからの電波がサウスウォールドの上空を飛び越えてくるようでした。これは短波もヘビサイド層(電離層)に反射されることを予感させましたが、バーミンガム局にはヘンドン局(ロンドン郊外)との20MHzパラボラアンテナの試験がありましたので、この件は追究されないままとなりました。


43) フランクリンが短波開拓の成果を公表 (1922年5月3日) [Marconi編]

 これまでマルコーニ社の短波研究は非公開でした。しかし昨年5月の3MHzを使った北海横断無線電話試験や、12月のロンドン-アムステルダム間の有線・無線電話成功を公表したところ大きな反響があり、マルコーニ社は1922年(大正11年)春より研究成果を次々とオープンにするようになりました。
 
 1922年5月3日、ロンドンの英国電気学会IEE(Institution of Electrical Engineers)、22nd Meeting of The Wireless Section において、C.S. フランクリン技師はカーナボン、ヘンドンビーム、インチケイス電波灯台で行ってきた試験について報告し、その結果得られたパラボラ反射器の開口長、使用周波数そしてビームパターンの関係について発表しました(下図)。
甚だしき短波長をもって一方向に送信する無線電信方に関し、英国において重要なる研究行なわれつつあるが、五月三日、倫敦(ロンドン)電気工師会において、マルコニ無線会社試験技師C.S. Franklin氏は講演をなし、従来発表せられざる事項を公表せり。僅かに十五メートルの電波長を使用し、倫敦(ロンドン)-バーミンガム間に二重無線電話行なわれ、試験に関係せる特殊装置局においてのみこれを聞く事を得たり。・・・(略)・・・』 (米村嘉一郎, 欧米電波事情 指向式短波無線電話, 無線, 1922.11, 逓信省無線倶楽部)
1922年 フランクリンの短波パラボラビームの論文
 この論文はJIEE誌("Short-Wave Directional Wireless Telegraphy", Journal of the Institution of Electrical Engineers, Vol.60-No.312, Aug. 1922, pp930-934)に掲載されました。これが短波史の世界では有名な"Flanklin's Paper"と呼ばれるもので、1916年から1921年に行われたマルコーニ氏とフランクリン技師による短波開拓が明らかにされました。
 
 このフランクリン技師の歴史的論文は英国のThe Electrician誌(5月19日号)やWireless World誌(5月20日号)、それに米国のRadio News誌(11月号)を通じて、一般無線愛好家へも伝えられました(下図)。三誌は何れも原論文と同じタイトルでほぼ同じ内容ですが、Wireless World誌が論文には無かった写真をいくつか追加しています。
1922年 フランクリンペーパーの転載記事
 
 また、ちょっと毛色が異なりますが、英国の科学雑誌Nature(Vol.110-No.2754, 1922年8月12日号, pp220-223)がフランクリン技師の論文を取り上げました(下図)。
フランクリン技師の論文を掲載したネイチャー


44) マルコーニが短波の有効性を説き 300MHzビームをデモ (1922年6月20日) [Marconi編]

 マルコーニ氏もこれまで歩んできた短波開拓の道を公表し、短波の将来性を説きました。
1922年 マルコーニの講演会
 米国のGE社との会議のために渡米したマルコーニ氏は、1922年6月20日に無線技術者学会IRE(Institute of Radio Engineers)と米国電気学会AIEE(American Institute of Electrical Engineers)の共催の講演会において、1896年にイギリスで行ったパラボラアンテナの試験の話にはじまり、1916年にイタリアで着手した短波のビーム実験とこれまでの成果について発表しました。
 さらに会場では波長1m(300MHz)のビームシステムのデモンストレーションを行ないました。左図は会場に用意された波長1m(300MHz)の超短波パラボラ付きビーム送信機で、円形の回転式台座(ターン・テーブル)に載せられており、パラボラを左右に振りながら指向性のデモをしました。
 また左図[右]は送信アンテナの放射部の拡大写真です。
 
1922年6月20日 マルコーニの短波講演会
 左図[左]が会場に用意された300MHzの受信機の全景です。
 左図[中]は300MHzの受信アンテナを右手に持ち講演中のマルコーニ氏です。送信パラボラがマルコーニ氏に向けられた時だけ感応しました。向かって左側でお手伝いをしている人物は、ニューヨーク市立大学のAlfred N. Goldsmith教授です。
 また左図[右]は(パラボラ反射器を除いた)受信アンテナに対して、手にした(同じ周波数に共振している)エレメントを近づけたとき急激に受信感度が低減する位置があることを説明しているところです。

 来場者がパラボラ反射器に大きな興味を抱いたことは言うまでもないのですが、このアンテナ単体部も注目されました。現代の私達からすれば見慣れた垂直ダイポールです。しかし中波・長波のアンテナは(受信用ループアンテナを別とし)接地式アンテナが全盛の時代でしたので、来場者には非接地式の垂直ダイポールがとても斬新なものとして映ったようです。
 
 マルコーニ氏の講演会は定員1,000名の会場(マンハッタンのUnited Engineering Societies Building)に1,160名が入り、少なくとも500名は入場できなかったといわれるほどの盛況ぶりでした。ここでマルコーニ氏は短波について熱弁をふるったのです。
短波の研究は、これまでの無線の歴史のなかで不幸にして無視されてきたとはいえ、今後想像以上に多方面での発展と新分野の研究成果が期待できると、私は確信しています。故に、特にこの点にご注目いただきたいのです  (デーニャ・マルコーニ・パレーシェ著/御舩佳子訳, 『父マルコーニ』, 2007, 東京電機大出版局, p276)
 長波が注目されていた当時の"無線界の常識"に反して、世界で最初に 「長波よりも短波に有効性がある」 と説いたのがマルコーニ氏でした。
 
 さっそく翌日のThe New York Times紙はそれについて以下の見出しを付け、大きく報じました。記者の目には300MHzのパラボラアンテナがまるで赤ん坊のベッドにある転落防止の柵のように見えたようです。
MARCONI, WITH NEW DEVICE, GUIDES RADIO IN CHOSEN DIRECTION;  Hurls Waves Straight to Point He Desires in Test Before 1,000 Engineers Here.
EXHIBITS WITH "BABY" SET Uses One-Meter Wave Length in Demonstration With Semi Circular Receivers.
MAKES IMPULSES REBOUND Shows How Ships Can Learn Nearness to Lighthouse
  --Gets Medal Amid Ovation. America Leads in Radio Field.  Enormous Speed Possible.
MARCONI WITH NEW DEVICE GUIDES RADIO Could Avoid Collisions.  Will Bring New Opportunities.
 
 講演論文はIRE誌("Radio Telegraphy", Proceedings of the Institute of Radio Engineers, Vol.10-No.4, Aug.1922, pp215-238)と、AIEE誌("Radio Telegraphy", Journal of the American Institute of Electrical Engineers, Vol.41-No.8, Aug.1922, pp561-570)に掲載されました。これらは短波史の世界で"Marconi's Paper" として知られています。
【参考】 このIREAIEEが1963年(昭和38年)に合併してできたのがIEEE(アイ・トリプル・イー)です。
1922年 マルコニー・ペーパー(IRE誌)
1922年 AIEE マルコーニ(AIEE誌)
 さらに当時のメジャーな無線雑誌であるRadio News(8月号)、Radio Age(7/8合併号)、Wireless Age(7月号)、Radio World(7月29日)、Radio Broadcast(8月号)、Radio Magazine(8月号)、Radio(8月号)などにもその要旨が掲載され、マルコーニ氏の短波研究が無線ファンに知られるところとなりました。

● アマチュア無線家の反応

 この講演記事はアマチュア団体ARRLの機関誌QST9月号にも載りました。
 しかし同年3月の第一回国内無線会議で、アマチュアの周波数を現行の1,500kHz(波長200m)から、低い1,091kHz(波長275m)まで拡張し、1,091-2,000kHzをアマチュアバンドとして創設する勧告案が決議された直後で、アマチュア無線家は "飛ばないとわれる短波" には無関心でした。
 長年の夢である低い周波数(1091-1500kHz)が使えるかもしれないと、おおいに期待が高まっていた事と、勧告案では2MHz以上の高い周波数(短波)を手放すことになっていましたので、マルコーニ氏がいくら短波の可能性を説いても、もはやアマチュア無線家の心に "短波" は届かなかったようです。


45) この講演でマルコーニがレーダーのアイデアを披露 (1922年6月20日) [Marconi編]

 またこの講演で、マルコーニ氏はレーダーにつながるようなアイデアも披露し、短波ビームが海難事故の防止に役立つ可能性を示唆しました。
講演の終わりに電波のもう一つ別の利用の可能性 - 実現の暁には航海者にとって計り知れない価値を持つでしょう - を指摘しておきます。
 ヘルツが最初に証明したように、電波は導体によって完全に反射できます。私のいくつかの実験でも電波の反射効果および数マイルも離れた場所の金属物質によって電波が屈折することに注目しました。船にビームをどの方向にでも放射、あるいは照射できるような装置を船に作ることは、私は可能だと思っております。このビームが例えば船のような金属製の障害物に遭遇した場合、受信機にその障害物が投影されるでしょう。これにより、船にたとえ無線装置が配備されていない場合でも、霧や悪天候下で直ちに他船の存在、位置がわかるのです。
 これはすでに、レーダーの概念だった。
 (デーニャ・マルコーニ・パレーシェ/御舩佳子訳, 『父マルコーニ』, 2007, 東京電機大学出版局, p277)
 
 逓信省の荒川大太郎技師も以下のように翻訳して、これを伝えています。
なお電波が金属に当たって反射することから、丁度ヘルツの実験のように、濃霧の際に一つの船から電波を発射し、もしそれが反射し戻ってきたならば附近にいる船とその方向が知れて便利である。電波の反射はその距離が一マイルもあって充分作用することが実験されているから適当な設計さえすれば、実用になること明らかである。これはまた特に附近の船が無線を持っていない時に用いて有効のものである。
 
 これら1922年に発表された"Franklin's Paper"と"Marconi's Paper"は、今もなお多くの雑誌・書籍の短波史解説に繰り返し引用され続けています。


46) 忘れられていたパラボラ反射器に脚光 (1922年) [Marconi編]

 1899年3月2日、ロンドンの電気学会(Institution of Electrical Engineers)でマルコーニ氏は「1896年にパラボラを使って1-3/4マイル(2.8km)の通信に成功したが、結局、垂直ワイヤーアンテナに切り換えた」と語っています。接地型のワイヤーアンテナをより高くあげることで電波がさらに遠方に届くことが分かると、実験には不便なパラボラアンテナを使わなくなりました。
It was by means of reflectors I obtained the results over 1-3/4 miles mentioned by Mr. Preece at the British Association meeting of 1896.  I have, however, dedicated more time to the other system ie., the vertical wire system.  (G. Marconi, "Wireless Telegraphy", Journal of the Institution of Electrical Engineers [No.28], 1899, pp283)
 そしてワイヤーアンテナで使用周波数が超短波→短波→中波→長波と低い方へシフトして行き、人々はパラボラアンテナの事を忘れていました。
 
 前述のとおり、マルコーニ社のフランクリン技師が1922年(大正11年)5月3日、英国電気学会(IEE)1916年からの短波開拓およびパラボラ反射器について発表しました。その質疑応答・ディスカッションの場にいたマルコーニ氏は次のように発言しています。
短い電波は最も初期の頃に私が一番に実験したものです。26年前に英国に来た私が故プリース技師長に示せた1-3/4マイル届いた短い波は反射器を使ったもので、ワイヤー式のものだと半マイルだったことを思い出します。
Senatore G. Marconi: ・・・(略)・・・ Short electric waves were the first with which I experimented in the very earliest stages of radio-telegraphy, and I might recall the fact that when, 26 years ago, I came to England, I was able to show the late Sir William Preece, then Engineer-in-Chief of the Post Office, the transmission of intelligible signals over distances of 1-3/4miles utilizing short waves with reflectors, and only about half a mile by means of the elevated wire system. 』 ("Short-Wave Directional Wireless Telegraphy - Discussion before the Wireless Section, 3 May, 1922", Journal of the Institution of Electrical Engineers, Vol.60-No.312, Aug. 1922, p934)
 
 同年6月20日、今度はマルコーニ氏が無線技術者学会(IRE)と米国電気学会(AIEE)の共催の講演会にて短波ビームの研究発表を行った際にも、26年前(1896年)のパラボラアンテナの実験のことに触れ、回路図を示しました。これらにより、「・・・そういえばマルコーニの最初の特許にパラボラがあったな」と、みんなの記憶が呼び覚まされたのでした。
1896年 マルコーニのパラボラ実験
 その6月20日の講演論文が掲載された学会誌("Radio Telegraphy", Proceedings of the Institute of Radio Engineers, Vol.10-No.4, Aug.1922, pp215-238)からパラボラに関する部分を引用します。Fig3がパラポラ付き送信機の回路図、Fig2がパラポラ付き受信機の回路図です(左図: p226)。
 
 1923年(大正12年)、この論文を読まれた荒川大太郎逓信技師が、逓信省無線倶楽部の機関誌「無線」でマルコーニ氏の初期のパラボラ試験を紹介されています。
かのHertzもその実験に短い電波を使用し、反射等の法則を研究した。Marconi氏も26年前、当時英国政府の技師長であった故Preece氏の下に行なった実験において、反射器を使用した短波長通信が13/4 (1-3/4マイル=2.8km)も成功したにも拘わらず、高い(注:高く上に伸ばした)空中線を使用した結果は半哩も達しなかったのである。 (荒川大太郎, 無線電信の新しき用途, 『無線』, 1923.2, 逓信省無線倶楽部, p6)
 
 この学会発表がきっかけで、初期のパラボラ実験の話題が、再び取上げられるようになりました。下記は無線月刊誌Wireless Ageの1924年(大正13年)12月号にある記事"The Beam System"です。
Over 28 years ago, Marconi transmitted and received intelligible signals over a distance of 1-3/4 miles, using a beam system employing short waves and reflectors and showed how it was possible to project the waves in a beam, in one direction only, instead of allowing them to spread out from the transmitter in all directions.  (K. M. MacILVAIN, The Beam System, Wireless Age, 1924.12, p44)
 
1937年 マルコーニのパラボラ試験の紹介
 もちろん雑誌だけではありません。
 マルコーニ氏が逝去された1937年(昭和12年)に出版された書籍 Marconi, The Man and His Wireless(左図)でも、ソールズベリー平原で1896年に行われたパラボラによるビーム試験の事を紹介しています。
Surprisingly, Marconi was able to send the messages at Salisbury(ソールズベリー) in a more or less definite direction. By aiming aerial reflectors he projected beam-like waves. The Hertzian energy was concentrated by a parabolic cooper reflector or bowl, two or three feet in diameter, thereby shaping the waves into narrow strips, in much the same way that a searchlight stabs a streak through the darkness. 』 (Orrin E. Dunlap Jr., Marconi, the man and his wireless, 1937, The Macmillan Company, p55)


47) フランクリン技師 "短波ビームの研究"でモーリス・リーブマン記念賞を受賞 (1922年) [Marconi編]

1922年 短波ビームの功績でフランクリンがML受賞
 無線技術者学会IREはフランクリン技師がなした、これまでの短波ビーム研究の学術的な貢献を認め、『For his investigations of short wave directional transmission and reception』として、1922年(大正11年)度のモーリス・リーブマン記念賞(Morris Liebmann Memorial Prize)を贈ることを決めました。
 ちなみに1925年(大正14年)度にはアメリカのコンラッド氏も短波開拓の功績『For his research work in the short wave transmitting and receiving field』で受賞されました。マルコーニ社のフランクリン氏とウェスティングハウス社のコンラッド氏は "短波開拓史上で忘れてはならない技術者" です。 コンラッドのページ参照。
【参考】 日本人としては1961年(昭和36年)に江崎玲於奈氏が初受賞されました。この賞は1964年(昭和39年)からIEEEに引き継がれ、"Morris N. Liebmann Memorial Award" として2000年まで続きました。
 
 その一方でマルコーニ氏は「短波開拓の功績」に関しては、国際的な学術賞を受けていません。しかし1918年に第一次世界大戦が終結して以来、世界は敵国に海底ケーブルを切断される恐れのない長波帯大電力無線局の建設に奔走していたこの時期に、波長的に真逆の短波帯に着目したマルコーニ氏の眼力には驚かされます。彼は周囲の冷ややかな目を気にも留めず、ひたすら短波の可能性を信じて、短波ビームによる公衆通信実現の夢を追いかけ続けました。そしてマルコーニ氏の予言どおり1930年代初頭になると、せっかく大金を掛けて建設してきた各国の大型長波局は短波へ転換を余儀なくされました。
 逓信省電務局の竹林嘉一郎氏の言葉を引用します。
挙世、長波へ長波へと向かう内にあって、マルコニーは深くこの指向式送信法の利点に想を致し、その実現を期すべく努力したのである。 (竹林嘉一郎, 第六編短波長, 『無線科学大系』, 1928, 誠文堂無線実験社, p411)
 
 やはりまた、逓信省の松前重義氏と西崎太郎氏も、1938年(昭和13年)に同様の考えを述べておられます。
かくして商用通信としては、まさに長波の独断場を呈したのであるが ・・・(略)・・・ 一方マルコニーは、つとにかかる情勢に着目し、長波全盛のまっただ中にあって敢然として進路を転向し黙々として短波の研究、特に指向性空中線の研究に没頭していたのである (松前重義/西崎太郎, 『電気通信概論』, 1938, コロナ社, p18)


48) 二代目電波灯台とその試験 (1922-3年) [Marconi編]

 C.S.フランクリン技師はインチケイス島に建設した電波灯台(75MHz)について、ロンドンの英国電気学会IEE(1922年5月3日)で発表しましたが、一般の無線ファンに向けてRadio News誌(1922年11月号)にも解説記事を書きました(下図[左])。その号の表紙にもなっていますが、まるでメリーゴーランドですね。
1922年 Radio News
1920年 インチケイス電波灯台
 (前述しましたが)電波灯台は1920年(大正9年)にインチケイス灯台の隣に建設されました。そして1920年(大正9年)11月17日、ファロス号に受信機を積んで75MHz波の海上伝播測定を行いました。
 するとインチケイス島の近くではかえって電波が弱いことが明らかとなり、ビームアンテナをもっと標高の低い位置に移設することになりました。その移設に合わせてパラボラをワイヤー式にして軽量化したメリーゴーランド型ビームアンテナが開発されました。
 左図[右]が1922年(大正11年)春に完成した新しい電波灯台の(デュアル)ビームアンテナで、今も多くの書籍で使われているとても有名な写真です。写真の右後方に小さく灯台が見えていますが、灯台よりもかなり低い場所にアンテナを移しました。
 前述した5月3日のフランクリン技師の学会発表ではまだインチケイスの二代目ビームの件には触れていませんが、マルコーニ氏の学会発表(1922年6月20日)では二代目ビームの写真とその試験が始まっていることを紹介しています。5月末か6月上旬頃に完成したのでしょうか?
At a later date a new reflector was designed and erected and is now being tested. ("Radio Telegraphy", Proceedings of the Institute of Radio Engineers, Vol.10-No.4, Aug.1922, p234)
 
 船舶を使った本格的な実用化試験のスタートは(明確な時期は特定できていませんが、Wireless World誌1923年3月31日号pp859-860で紹介されたことから)1922年後半あるいは1923年初頭だと思われます。協力したのは地元エジンバラとロンドン間の汽船を運航していたLondon and Edinburgh Shipping Co., Ltd.で、同社のロイヤル・スコット号(Royal Scot)に受信アンテナと受信機が取り付けられて、濃霧時の船の安全航行に有効であることが確かめられました。この試験はおよそ1年間続けられました。
ロイヤル・スコット号の実用化試験
 (←左図イラストにも灯台から離れた低い場所に回転ビームが描かれています。)
 
ロイヤル・スコット号の受信機
電波灯台用受信機 1924年
 そして左図[左側]がロイヤル・スコット号に装備された波長4m(75MHz)の超短波受信機です。4つの押しボタンのようなものが見えますが詳細は不明です(ちなみに左図[右側]は更に改良された1924年頃の新型受信機の内部構造)。
 なおこのロイヤル・スコット号による1年間にわたる実用化試験には波長6m(50MHz)が用いられたとする文献もあります。
In the following year a rotating parabolic 6-metre beam was fitted at Inchkeith, firth of Forth, and run for 12 months, testing with the Royal Scot, a Leith to London coasting steamer. (A.W. Ladner/C.R. Stoner, Short Wave Wireless Communication, 1932, John Wiley & Sons, p11)
 
  下図[左]はPopular Science誌1924年12月号の解説イラストです。実はこのビームアンテナは放物反射器をちょうど背中合わせした構造で、ゆっくり回転しながら左右へ2つの電波を放射します(火花送信機も左右それぞれにある)。
1920年 インチケイスの電波灯台解説図
1920年 インチケイスの方位信号
使用波長を四米とし、火花間隙送信となし、反射器の開きは八米で、一個の受信真空球で受信距離は七海里(13km)に及んでいる。反射器は二分毎に一回転をなし、二分の一点毎に信号を発射し、これによって船舶は、その方向を四分の一点、すなわち二度八分以内の正確さで知る事が出来るという』 (福田庚子郎, "短波長指向式無線電話", 『現代之電機』, 1922.12, 工業教育会, p26)
 
 左図[右]のように64方位ごとに送信するモールス符号を定めてあります。図の外周に書かれた点はモールス符号で、北:M(--)、北北東:Z(--・・)、北東:K(-・-)、東北東:F(・・-・)、東:G(--・)、東南東:P(・--・)、南東:V(・・・-)、南南東:U(・・-)、南:O(---)、南南西:D(-・・)、南西:B(-・・・)、西南西:X(-・・-)、西:W(・--)、西北西:L(・-・・)、北西:R(・-・)、北北西:C(-・-・)です。さらにその間を2点ごとにI(・・)、4点ごとにT(-)が回転しながら自動送信されます。
 パラボラを背中合わせにした理由は回転台のバランスをとるためと、ある方角に対して半周(180度)ごとに発射の順番がくるので、回転速度を半分にできるからです。2分間で1回転させており、船側では1分間に一度、受信できる計算です。ビームには幅がありますから徐々に聞こえ始め、そして消えて行きます。もしそれが T→I→B→I→T なら、真ん中のB(南西)になります。


49) 電気学会でも話題になったマルコーニの短波 (1922年11月30日) [Marconi編]

 マルコーニ氏とフランクリン技師の短波研究が公にされたことは日本にも直ぐに伝わり、彼が再び短波に向おうとするその真意を測りかねていました。
大正11年 電気学会でもマルコーニの短波
 1922年(大正11年)11月30日、電気学会東京支部で欧米諸国を2年間(1920.3-1922.3)視察して帰国された東京高等工業学校(現:東京工業大学)の山本勇氏が欧米における無線電信電話の概況について講演されました(その予稿は電気学会雑誌大正11年11月号に掲載)。ここでマルコーニの短波研究についても報告されています。電気学会雑誌大正12年4月号に掲載された講演録から引用します。
 
私は去る大正九年の三月から大正十一年の三月まで欧米諸国に滞在して居りまして其間、研究の余暇に無線電信電話の方面を視察いたしました。なお其後雑誌其他の印刷物等によりて発表せられたる事項を参考に致しまして今夕皆様の前に欧米に於ける現時の無線電信の概況について御話しすることになりました。・・・(略)・・・
 
(e) Short Wave Wireless Telephony(短波無線電話:
 Marconi会社が近頃になって熱心に此Short Wave Radio Telephonyを研究していることは注目すべきことであります。Short Waveを使用すれば下の如き利益がある。
  (i) 他のWaveとのInterferenceを減少すること
  (ii) 無断聴取を実際上禁止し得ること
  (iii) Reflectorを使用してDirective transmission
(指向性送信)を行ひ得ること
などで、Reflectorを発信受信両側に使用すればEnergyの経済なることは勿論でMarconi会社の或る実例に徴しても、之れがためにReceiving Powerが200倍に増加しています。併(しか)し現今Marconi会社でShort Wave Radio Telephony を研究していることはPowerの経済ということよりも寧ろ無線電話の秘密漏洩を防ぐ目的でやっているように見える。
 
 近頃無線電話は技術的には殆んど実用に供せらるる程度に達したのであるが、Broadcastingは別問題として、個人間の通話の場合には其通話の秘密を保持すべき方法が無いために英国などでは無線電話の実用的価値をあまり重大視しないような傾きがあり、現に英国のSub Committee on Radio Telephony of Radio Research Board の最近に発表した報告書でも、無線電話は其秘密漏洩防止の問題が解決せざる限り一般化することは甚だ困難であると結論してあります。・・・(略)・・・200哩(注:200mの誤記かも?)程の無線電話は実用に供せらるべき可能性を有するも併(しか)し乍(なが)ら普通の無線電話に於ては秘密漏洩防止が出来ないから之れを有線電話の代用としてRecommendすることは出来ないということを述べ、唯此際(このさい)に将来望み多いものは所謂(いわゆる)短波長無線電話であるという議論になっています。
 つまり10meterとか15meterとの甚だ短い波長を使用すると普通のAmateurなどのReceiverでは之れに同調せしむることが出来ないから甚だしく其無断聴取者の数を減ずることが出来、なお又、Sending StationでReflectorを使用すればSignaling Waveは一方的にしか行きませんから之れによってなお無断聴取者の範囲を或一地にのみ限ることが出来ることになります
 Marconi会社では現に100meterの波長を用いてAmsterdamと無線電話を行っているそうで其成績も宜しいとのことです。そして将来は15meterとか20meterとか短波長にするらしく思われます。波長が斯ように短くなると下の如き点で困難が起ります。
  (i) 地表面海面等のAbsorptionが多いこと
  (ii) 送信側に於てOscillationを起すことが容易でないこと
  (iii) 受信側に於てElectron Tube其自身のinternal capacityのためにAmplificationが困難なること
Marconi会社では(iii)の問題を解決するために極めて小型なTubeを用いるということであります。
 
 Short Waveを最初に、Marconiが伊太利(イタリア)で実験したのは余程古い話で、其時には2米、3米の短波長を使用していた。其後Carnavonで1917年に3米の波長で火花式発振器で実験していましたが大なる進歩もなかったのでありましたが、1919年にはHendonとBirmingham間97哩の距離を15meterの波長、300 watts outputで行って成功しています。此場合に発信受信両側にReflectorを設けてやりました。それからMarconi会社では4meter程度の波長を使用してRadio lighthouse(電波灯台)の試験を行い、己にEdinburghの近くのInchkeith島に備付けてWave beamが二分間毎に一回転する具合になって居り、その近辺を運行する船舶は直ちにlighthouseの位置を認知し得るのであります。 (山本勇, "現時欧米(英仏独米)に於ける無線電信電話概況", 『電気学会雑誌』, Vol.42-No.417, 1923.4, 電気学会, pp345-347)
 日本ではマルコーニ氏の短波研究は無線電話の秘密保護(短波ならアマチュア無線家が受信機を持っていないし、ビーム送信すれば傍受者が大幅に少なくなる)が目的だと解釈されたようです。


50) 短波が長波を駆逐する 3MHz 巨大ビームアンテナ (1922年) [Marconi編]

 以上のように1916-21年(大正5-10年)の5年間の短波研究成果を世に公表したマルコーニ氏は、1922年(大正11年)より新たなステージに短波開拓のコマを進めました。長波より短波の方に有効性があると公言した以上、それを実証しなければなりません。
 
1922年 ポルジュウ無線局MPD閉局
1922年 マルコーニビームの建設
 1922年(大正11年)8月、マルコーニ社は大ブリテン島の南西端のポルドゥー(Poldhu)局MPDの公衆通信業務を終了し、ここに放物線上に反射線を配列した短波ビームアンテナを建設することにしました。使用波長は97m(3.1MHz)です。アマチュアは低い周波数(1.5MHz)から始めて、高い周波数(3.0MHz)を試しました(1923年)。一方マルコーニ氏はビーム通信を高い周波数(150MHz)から始めて、低い周波数(3.1MHz)を目指しました。最終的には両者そろって3MHz付近にたどり着いた点は、興味深いところです。マルコーニ氏は電波の反射作用によるビーム通信を実現するために、物理的な事情から高い周波数を使っただけで、本心としてはなるべく低い周波数を使いたかったようです(なぜなら周波数が低いほど減衰が少なく遠くまで届くと信じていたからでしょう)。
 
 巨大放物反射体の建設地として選出されたポルドゥー長波局MPDは1901年にマルコーニ氏が、世界初の大西洋横断通信に成功した記念すべき無線局です。 「短波が長波を駆逐する」の事始めですが、世界に名が知られる名門ポルドゥーが長波局MPDの看板を下ろして、短波実験局2YTになるのですから、短波開拓史上のエポックメイキングな出来事といえるでしょう。これは1922年(大正11年)に起きた事件で、まだアマチュアが短波で大西洋横断交信に成功(1923年)する前です。
 上記左図はWireless Age誌(Aug. 1922)の記事"Clifden Replaces Poldhu"です。このニュースは翻訳され日本でも報じられました。
英国ウェールス、コーンウオル州の有名たるマルコニ無線局ポルヂューは閉鎖され、十九年の間船舶局員が聴馴れたる呼出符号MPDは最早聞くことを得ずなりぬ。従来ポルヂューを経由せる電報は今や愛蘭(アイルランド)クリフデン局MFTにて取扱うこととなれり、ポルヂュー局はマルコニ氏指導の下に建てられたる最初の強力無線局にして、千九百一年十二月十二日初めて大西洋横断通信をなしたる歴史的なものなるが、この栄光ある局の将来は不明なるも、恐らく実験用に併せらるることとなるべし。 (竹越忠雄, "海外無線界の進歩 ポルヂュー無線閉鎖", 『無線』, 1923.2, 逓信省無線倶楽部, p32)
 
 下図は1923年(大正12年)に撮影されたポルドゥー(Poldhu)の巨大パラボラアンテナです。この有名な巨大パラボラの写真は(フランクリン技師と短波用真空管を開発した)R.H. White氏が英国のWireless World誌(1925年3月18日号, pp178-180)に書いた記事 "The Wireless Beam: An Explanation of the Theory of the System(ワイヤレス・ビーム:その理論解説)"、およびマルコーニ御本人が米国のRadio Broadcast誌(1925年7月号, pp323-331)に書いた記事 " Will "Beam" Stations Revolutionize Radio?(ビームは無線界に革命をもたらすか?) "で公開されたものです。
 ちなみにこの写真は、1933年(昭和8年)にコロナ社から翻訳出版された『短波無線通信 第一巻 (ラドナー著, 水橋東作/松田泰彦翻訳)の p13でも使われました。まだ短波の解説書が少ない時代ですので、アマチュア無線のOT方々に愛読されたはずです。きっと戦前の日本のアマチュア無線界では良く知られていた短波ビームの写真だったのでしょうね。
1923年 ポルドゥーの短波ビームアンテナ
 
1923年 巨大ビームの手前の建屋
 左図は上図の一番手前に小さく写っている建屋の拡大です。どういう役割の建物かは分かりませんが、これと比較して遠方にある3MHzパラボラアンテナの巨大さが、ご想像頂けるかと思います。100年近く経った今みても、圧倒されますね。
 パラボラ反射鏡は99m高もある木製の4本のマストで支えています。中心部より輻射用垂直アンテナを1本吊り下げ(その根元には送信室)、その周囲を囲むようにパラボラ反射器が並べて下げられました。ビームの方角は南南西で、後述しますが西アフリカ沖のポルトガル領カーボベルデ諸島へ向けて建設されました。マルコーニ社のヴィヴィアン氏(R.N. Vyvyan)のOver Thirty Yearsから引用します。
Marconi therefore decided to carry out experiments on a larger scale. A short wave transmitter of 12 kilowatts input was erected at Poldhu and a parabolic reflector was built, supported by masts 325 feet high(325フィート=99m), so that wavelengths could be tried from 97 metres downwards. (R.N. Vyvyan, Over Thirty Years, 1933, George Routledge & Sons LTD., pp78-79)
マルコーニはさらに大規模の実験を試みることとなり、まずポルデューに一二キロワットの送信機と放物線的の反射器を三二五呎(325フィート=99m)の木柱によって支えて設置した。 (岡忠雄, 英国を中心に観たる電気通信発達史, 1941, 通信調査会, p351)
 
 下図は反射鏡内の中央輻射器の直下に置かれた送信室と、その内部です。短波実験局ポルドゥー2YTの設計責任者はフランクリン技師でした。発振機はマルコーニ社のMT2型真空管を8本パラ(入力12kW)で輻射器へ9kWが供給され、パラボラ反射器により120kW相当になると見積もられました。
The radiation from the aerial was approximately 9 kwatts. The parabolic reflector concentrated the energy towards Cape Verde and gave a strength of field in that direction which would have required a radiation of approximately 120 kwatts. from the aerial without a reflector to produce.  』 (Guglielmo Marconi, "Results obtained over very long distances by short wave directional wireless telegraphy:  more generally referred to as the beam system", Journal of the Royal Society of Arts, Vol.72 - No.3740, July 25, 1924, p611)
ポルドゥービーム送信室
【参考】 このあとフランクリン氏により平面ビームが開発されて、各国も独自方式の平面ビームを開発したため、いつしか巨大パラボラアンテナは忘れられてゆきました。平面ビームが真っ盛りの1932年(昭和12年)、マルコーニ社のA.W. Ladner氏とC. R. Stoner氏による書籍 Short Wave Wireless Communication(John Wiley & Sons, Inc, 1932) で上記の全景写真が使用されました。
 
ポルドゥー2YTのビームアンテナ
 また左図はWireless World誌(1924年7月9日号, pp441-442)の "Short Wave Directional Wireless Telegraphy" という記事で使用されたポルドゥー2YTの巨大パラボラの別写真です。
 マルコーニ氏が1924年7月2日にロンドンの英国王立技芸協会(Royal Society of Arts)で、カーボベルデへのビーム式伝播試験、セドリック号での大西洋横断試験、オーストラリアとアルゼンチンへの長距離通信の成功について講演したものをWireless World誌が速報した記事でした。
 
 以上のように一般ラヂオファンが購読する無線月刊誌で、マルコーニ氏の3MHz巨大ビームアンテナの姿が世に公開されています。
 
【参考】 アマチュア無線家のページで紹介しましたが、実はフランスのアマチュア無線家デロイ8AB氏は1923年春に短波受信機を組立てて、まだ建設・試験中だったポルドゥー2YTの100m試験波をキャッチしたことが「短波にのめり込むきっかけ」だったそうです。そして彼は大西洋横断試験をポルドゥー2YTと同じ100m波で試すことを決断し、1923年11月27日に成就しました。


51) マルコーニの海上実験室エレットラ号 [Marconi編]

 マルコーニ氏は1923年(大正12年)4月から6月に実験航海を計画しました。目的は以下の三点です。
(1) それなりの長距離における、100m(3MHz)波の信頼性について、反射鏡が有り・無しの場合で確かめる。
(2) 短波の伝搬を調査し、送信した電力・波長における日中および夜間の実用最大距離を確かめる。
(3) 特に長距離ビーム通信サービスを行う可能性について、放射ビームの角度や広がりを決定しておく
The principal objectives of these tests were:-
(1) To ascertain the reliability of signals transmitted on approximately a 100 metre wave over considerable distances with or without the use of a transmitting reflector.
(2) To investigate the conditions which affect the propagation of short waves, and to ascertain the maximum reliable ranges obtainable by day and by night in respect to the power and wave length employed at the sending station.
(3) To investigate and determine the angle or spread of the beam of radiation when employing a transmitting reflector, especially with regard to the possibility of establishing long distance directional wireless services.
 (Guglielmo Marconi, Results obtained over very long distances by short wave directional wireless telegraphy, more generally referred to as the beam system, Journal of the Royal Society of Arts, Vol.72 - No.3740, July 25, 1924, p610)
 
エレットラ号
1923年 マルコーニのエレッタ号の試験
 そして航海に出て、ついに短波の遠距離電離層反射を発見するのですが、その話の前に、マルコーニ氏の電波実験といえば蒸気エンジン付き大型ヨット「エレットラ」号(700トン)の無線実験室が有名ですので、まずそれについて紹介しておきます。
 
大戦が終わると、フランクリンは、こんどは三極真空管を使い、反射鏡も改良して、ずっと強力な短波をつくりだしました。いっぽうマルコーニは、一九一九年に、あるオーストリアの貴族がもっていたエレットラ号という大型ヨットを買いとり、これを改造して、海にうかぶ実験室として使うことにしました。エレットラ号は、長さ七十メートルもあるりっぱな帆船で、マルコーニはこれに何か月間も住める快適な設備をととのえ、電波実験用の装置もたっぷりそなえつけました。マルコーニはその後十五年にわたって、毎年のようにこの船で大洋にのりだし、電波を受けたり発射したりして、いろいろな実験をくりかえしました。かれの研究はおもにこの船の上ですすめられたのです。(市場泰男, さ・え・ら伝記ライブラリー13「通信の開拓者たち」, 1966, さ・え・ら書房, p209)
 
 エレットラ号に装備された波長97m(3.1MHz)の短波受信装置はマチュー氏(G.A. Mathieu)が設計を担当しました。受信機はスーパーヘテロダイン方式で、空中線はシンプルな垂直型とし、頂部の高さは海面から20mでした。
 1923年(大正12年)4月11日、いくつかの予備試験を終えてエレットラ号はファルマス港(ポルドゥーから北東20km)を出港し、最初の目的地であるスペインのフィニステレ岬(Finisterre)を目指しました。 フィニステレ岬はスペイン・ポルトガルから成るイベリア半島の北西角にあり、ポルドゥー2YTから840kmほどの距離です。 【参考】 東京-札幌、東京-北九州ほどの距離
1923年 フィニステレ岬での試験
 左図を御覧下さい。ポルドゥーからイベリア半島の北西角をかすめるようにグレーの線をひいてみました。(この図に向かって)グレーの線より右側(欧州大陸側)のポルトガルの海岸線沿いは、ポルドゥー2YTからはイベリア半島の山岳部の影になります。
 短波は直進性が強く障害物の後ろでは大きな減衰を受けると考えられていました。ほんとうに影エリアに廻り込むと聞こえなくなるのだろうか?マルコーニ氏はまずそれを試しておくつもりだったため、ポルドゥー2YTの反射鏡を降ろさせて、無指向性にしておきました。
 そしてエレットラ号はポルドゥー2YTを受けながらフィニステレ岬を曲がりました。・・・さて、どうなったのでしょうか。結局みんなの予想に反して、ポルドゥー2YTの短波に大きな減衰は起きなかったのです。
After carrying out a few preliminary tests in Falmouth Harbour on the 11th April, the "Elettra" sailed for Cape Finisterre (Spain). A first series of tests was carried out without the transmitting reflector. After rounding Cape Finisterre it was anticipated that the intervening land would have cut off signals during daytime and also would have considerably weakened them during the night. These expectations were not verified. (Guglielmo Marconi, Results obtained over very long distances by short wave directional wireless telegraphy, more generally referred to as the beam system, Journal of the Royal Society of Arts, Vol.72 - No.3740, July 25, 1924, p611)


52) 山岳地帯の真後ろなのに聞こえ続けた短波 (1923年4月) [Marconi編]

 マルコーニ氏を乗せたエレットラ号はイベリア半島の南部(ジブラルタル海峡の北)にあるセヴィーリャ(Seville)を目指して、ポルトガルの海岸線沿いを南下しながら測定を続けました。この付近はイベリア半島の山岳部が障害物となるはずなのにポルドゥー2YTの信号は昼夜ともに聞こえ続けたのです。特に夜間は強力でした。
Signals during the day weakened according to the distance and the altitude of the sun, but were received right up to Seville (780 miles from Poldhu) although practically the whole of Spain, consisting of over 300 miles of high and mountainous land, intervened between the sending and receiving stations.  (Guglielmo Marconi, Results obtained over very long distances by short wave directional wireless telegraphy, more generally referred to as the beam system, Journal of the Royal Society of Arts, Vol.72 - No.3740, July 25, 1924, pp611-612)
 
1923年 イベリア半島の山岳部を超える短波
 マルコーニ氏らはセヴィーリャ(Seville)で休息をとるためエレットラ号でグアダルキビル川をのぼりました。左図[左]を御覧下さい。このあたりはイベリア半島の山岳地帯がポルドゥー2YTの方角を完全に覆い隠す位置関係にあり、2YTの電波は聞こえないだろうと予想されていた場所です。
 
 そのうえエレットラ号は川の土手が高く、見通しの利かない(受信には不都合な)場所に係留されました。驚くべきことにそんな不利な条件にも拘わらず、夜になるとファルマス港を出港するときと同じくらい強力にポルドゥー2YTが受かり始めました!短波は障害物の後ろにも届くことが確認されました。
 
 セヴィーリャでの受信観測の結果は、短波が空から降ってくるとしか説明が付きませんでした。マルコーニ氏は短波も(中波のように)電離層に反射されることを確信したようです。
【注】まだその存在は証明されていませんでしたが、上空に電波を反射するヘビサイド層(電離層)があるとする学説は、無線界で広く支持されていました。
We started off from Falmouth, and even when we reached Seville and were anchored in the Gudalquivir River, a very unfavorable position for reception, as the banks of the river were high and covered with trees and buildings, we found that the night signals were almost as strong as they had been in Falmouth Harbor, 12 miles from Poldhu, although at Seville, the whole of Spain, consisting of over 300 miles of high and mountainous land intervened between the sending and receiving stations. (Guglielmo Marconi, Will “Beam” Stations Revolutionize Radio?, Radio Broadcast Vol.7-No.3, July 1925, Doubleday Page & Company, p326)
 
 そのあとマルコーニ氏は、欧州・アフリカの両大陸に挟まれたジブラルタル海峡に移動しました。セヴィーリャで2YTが想定以上の強さで受かったため、同じことが再現するかを試すためです。そしてジブラルタル(Gibraltar)、タンジェ(Tangiel)、少し離れたカサブランカ(casablanca)で、2YTの短波がイベリア半島の山岳部を乗り越えてやってくることをマルコーニ氏は確認しました。 【参考】 ポルドゥーからセヴィーリャが1,440kmで中国の上海-大阪間ほどの距離、カサブランカだと1,800kmで上海-東京間の距離に相当。
 もうひとつの成果は日中の実用距離は一定ではなく、太陽の高度に連動して変化することに気が付きました。すなわち(単に波長が短いほど減衰が大きくなるとする)有名なオースチン=コーエン実験式は短波には適用できないことを発見しました。
 
 これらの試験はこれで完了として、いよいよ巨大ビームの性能試験の番です。
 カサブランカ滞在中に、マルコーニ氏は反射鏡を取り付けるようポルドゥーへ電報を送りました。そしてマルコーニ氏を乗せたエレットラ号は最初のビーム試験場であるポルトガル領マデイラ諸島のフンシャル(Funchal)に向いました。
At Gibraltar (820 miles), notwithstanding the greater distance, a better strength of signals was noticed during the hours of daylight, probably in consequence of the fact that the yacht was anchored in a more open space, and therefore in a more favourable position. Similar results were also obtained at Tangiers (840 miles) and at Casablanca (970 miles).
I find it almost unnecessary to refer to the night signals, as these were always, and in all places throughout the whole of the cruise, extraordinarily strong and capable of being received at all times without using an amplifier, with the aerial out of tune, or disconnected, or without using the heterodyne. At Casablanca I telegraphed instructions to hoist the reflector aerials at Poldhu.
 (Guglielmo Marconi, Results obtained over very long distances by short wave directional wireless telegraphy, more generally referred to as the beam system, Journal of the Royal Society of Arts, Vol.72 - No.3740, July 25, 1924, p612)


53) 巨大ビームの威力やいかに? (1923年5-6月) [Marconi編]

 マデイラ諸島はポルドゥーとカーボベルデを結ぶ直線の上にほぼありました。そして距離的にもポルドゥー・カーボベルデ間の中間点に近く、マルコーニ氏はマデイラ最大の都市フンシャル(Funchal)に停泊しました。 【参考】 ポルドゥーからフンシャルの距離は約2,200kmで、東京から中国の北京や、台湾の台北までが約2,100km。
 
 1923年(大正12年)5月17日、ポルドゥー2YTのアンテナに反射鏡が取り付けられて、試験が始まりました。この島には標高1861mもあるルイボ山があり、ポルドゥー波が来る方向を塞いでいました(下図[右])。しかし夜間になると2YTが強力に受かり、目の前のルイボ山は邪魔にならないようでした。
1923年 フンシャル カーボベルデ 短波試験
 昼間の伝播測定は場所を変えて行われ、12kWの送信機ならば最大1,250Nautical Miles(= 2,315km)まで昼間通信が可能だと判断されました。フンシャルから南へ100km付近まででしょうか。
1923年 マデイラでの受信試験
The "Elettra" then proceeded to Madeira, but at Funchal was obliged to anchor in a very unfavourable position for the reception of wireless signals from England, being at the far end of the island and immediately under the mountains of Madeira, some of which rise to heights of over 6,000 feet.
 On the 17th of May tests were recommenced between Poldhu and the "Elettra," but although the night signals were, as always, extremely strong, I considered it desirable to carry out daylight tests in positions not so completely screened by the immediate vicinity of mountains. Thus it was ascertained that signals could be received from Poldhu by day up to 1,250 nautical miles when that station was using 12 kw of energy. (Guglielmo Marconi, Results obtained over very long distances by short wave directional wireless telegraphy, more generally referred to as the beam system, Journal of the Royal Society of Arts, Vol.72 - No.3740, July 25, 1924, p612)
 
 1923年5月21日、最終目的地であるポルトガル領カーボベルデ諸島のセントビンセント (St. Vincent [São Vicente])へ向かいました。ここは欧州(ポルトガル)-南米(ブラジル)回線の海底ケーブルの中間陸揚げ地であり、またここからアフリカ大陸方面へも海底ケーブルを分岐させていました。つまりセントビンセントは大西洋上における通信回線の要所だったのです。
マルコーニがセントビンセントで短波試験
 カーボベルデ(セントビンセント)では昼間は聞こえなくなりましたが、日没の少し前から聞こえ出しました。夜間は非常にパワフルに入感し、そして夜が明けた後も数時間は2YTが聞こえていました。これらは中波で経験済みの現象に類似しているように思いました。
 夜間の強度は非常に強力で、スーパーヘテロダインのIFアンプをOFFにしても聞こえるほどだったとマルコーニ氏は報告しています。短波受信設備の設計担当マチュー氏はカーボベルデにおける2YTの夜間の電界強度を400から500μV/mだと推定しました。
 夜間強度はフンシャルの時と大差ないように感じましたが、フンシャルまでの距離(1,250海里=2,315km)に比べて、カーボベルデまでの距離(2,230海里=4,130km)は二倍近くも伸びているので、距離とその強度が体感覚的に反比例していないのはとても不思議なことでした。
 また英国のリーフィールド(Leafield)郵便局からカーボベルデへ届けられる国際電報はしばしば誤字脱字で判別できないことがあったため、マルコーニ氏は自分宛のメッセージはすべて2YTの短波で直接送るように指示しました。それほど2YTの短波が強力かつ信頼できる受信状態だったということです。
On the 21st of May we sailed for St. Vincent, Cape Verde Islands, and although at St. Vincent our anchorage was at a position partly screened by mountains, day-light reception was still possible for a few hours after sunrise and for some time before sunset. The night signals continued to arrive from Poldhu at all times with apparently unabated strength, notwithstanding that our distance had increased to about double what it was at Madeira, that is, to 2,230 nautical miles. At St. Vincent, as at Madeira, the Poldhu signals could always be received with the heterodyne or I.F. amplifier switched off.  Mr. Mathieu estimated the strength of the night signals at St. Vincent from 400 to 500 microvolts per metre in the aerial, ・・・(略)・・・
At St. Vincent the signals received from the Post Office at Leafield were weak and often unreadable. I therefore gave instructions that all wireless messages addressed to me should be transmitted by our short wave experimental station at Poldhu. No difficulty was ever experienced in the accurate reception of these messages.   (Guglielmo Marconi, Results obtained over very long distances by short wave directional wireless telegraphy, more generally referred to as the beam system, Journal of the Royal Society of Arts, Vol.72 - No.3740, July 25, 1924, p612)
 
 数日間測定を繰り返し、同一条件下なら常に同じ結果が得られ、一時的な現象ではないと考えられました。このほかに実験では周期の短いフェージングが観測されました。その原因についてマルコーニ氏は2YTの送信機の周波数の不安定さと、波に揺られるエレットラ号のスーパーヘテロダイン受信機の周波数の不安定さに起因するものではないかと考えました。
The signals by night or by day did not appear to be subjected to lengthy fluctuations in strength, nor inclined to give what have been termed freak results. The results obtained could always be repeated over the same distances under similar conditions in respect to the sun's altitude.
 Short periodical fluctuations of strength, lasting less than a minute, were constantly observed, but I believe that these variations were mainly caused by slight changes of the wave length determined by imperfections of the arrangements in use at Poldhu, and also by the movements and rolling of the ship at the receiving end.  (Guglielmo Marconi, Results obtained over very long distances by short wave directional wireless telegraphy, more generally referred to as the beam system, Journal of the Royal Society of Arts, Vol.72 - No.3740, July 25, 1924, p612)


54) 2YTをアマチュア局と同じ入力1kWまで減力してみた [Marconi編]

 ポルドゥーからカーボベルデ諸島の南沖合い海域にいたエレットラ号までの到達距離は2,230Nautical Miles(= 4,130km)で、これは大西洋横断以上の距離にあたります。残念ながらこれ以上(カーボベルデ諸島海域より)、南下する航海計画を立てていなかったため、短波がどこまで届くかの試験はできませんでした。もしさらに南下していたなら、もっと凄い遠距離記録を樹立していたことでしょう。
 
1925年7月号 マルコーニの記事
 そこでマルコーニ氏はポルドゥー2YTの送信機の電力を序々に減力するように指示しました。すると送信電力を1kWにまで下げても、まだ英国自慢の超大電力(200-300kW)長波局(英国の長波局カーナボンなど)よりも強く受かったのです。
 月刊Radio Broadcast誌(1925年7月号)でマルコーニ氏は次のように報告しています。
It is interesting to note that these night signals, received at St. Vincent, even when Poldhu was using only 1 kilowatt, were much stronger than those which could be received from the high-power station at Carnarvon or the British Government at station at Leafield (using 200 to 300 kilowatts) or from any of the other European or American high-power stations. (Guglielmo Marconi, Will “Beam” Stations Revolutionize Radio?, Radio Broadcast Vol.7-No.3, July 1925, Doubleday Page & Company, p326)
 マルコーニ社のヴィヴィアン技師も同じ事を述べています。
The signals were far stronger than those received on the long wave from either the Post Office station at Leafield, or the high power long wave station at Carnavon, even when the power of the transmitter at Poldhu was reduced to 1 kilowatt. (R.N. Vyvyan, Over Thirty Years, 1933, George Routledge & Sons LTD., pp80-81)
 
 ここでいう1kWとは"入力"です。マルコーニ社のラドナー氏の文献に、はっきり"入力"とあります。アマチュア局と同じ電力を試しました。
『・・・(略)・・・昼間は夜間に較べれば遥かに弱くはあったが、ほとんど24時間を通じて商業通信に充分使用できる位に受信できた。これらの結果はPoldhuの送信機の入力が僅かに1kWで得られたのである。距離に応じて減衰が変化する模様からみて、夜間はブラジルとの間に確実な商業通信を行うことが出来るであろうという事が推論された。この試験の結論として、100米以下の電波はかなりの長距離通信に使用しても信頼でき、夜間は特に確実である事が分かった。 (ラドナー著, 水橋東作/松田泰彦翻訳, 短波無線通信, 1933, コロナ社, p15) 
 Ladner氏の原書のほうも引用しておきます。
『・・・(略)・・・were sufficiently good for commercial traffic purposes during nearly the whole 24 hours, although they were much stronger by night than by day. These results could be obtained with only 1 kW. Input power at Poldhu. From the way in which the attenuation varied with distance it was deduced that a reliable commercial service could have been worked to Brazil during the hours of darkness, and the tests showed conclusively that waves below 100 metres were capable of giving reliable results over considerable distances, especially at night. (A.W. Ladner/C.R. Stoner, Short Wave Wireless Communication, 1933, John Wiley & Sons Inc., p15)
 
 1年前にIRE/AIEE講演会で短波の有効性を公言したマルコーニ氏は、この1923年春にわずか入力が1kWしかない短波が電離層反射で遠距離まで届くことを実証しました。それも "小電力+パラボラビームの短波" が、"大電力の長波" より勝っていたといいます。


55) 逓信省のドキュメントにも記録された巨大短波ビームの威力 [Marconi編]

1931年 世界の無線電信と米国無線電信政策
 マルコーニ氏の巨大短波ビームとエレットラ号の実験は、逓信省が1931年(昭和6年)にまとめた「世界の無線電信と米国無線電信政策」にも収録されていますので、その部分を引用します。
一〇〇「メートル」以下の短波長は、それによって送られる信号の受信が不規則なるの故をもって、永らく貧弱で効果なきものと考えられていたが、疑いもなく有用なものなることが判ってきた。
 千九百十六年、これらの短波についての実験はその発電機関たる真空管送信機の発明により開始された。・・・(略)・・・距離を延長せしむるものは何でも「マルコニ」の心を惹いた。そしてその間自己の「ヨット」の「エレットラ」号に乗って長い航海をしながら、新現象を探求し専心した。
 信号の力を増大させるためには、彼は彼の初期の実験に試みた様なものに(それは実に「ヘルツ」自身が試み完成したものである)逆戻りしようと思った。 ― 彼は空中線の後に一個の電気反射器を装置することにより、信号を一方向に集中させようと思った。・・・彼はこの集中された信号を無線「ビーム」と名付けた。
 千九百一年、彼の大西洋横断「S」を送信した無線局の所在地たる「ポルデュ」に彼は千九百二十三年新短波「ビーム」実験局を建設した。彼は電力十二「キロワット」、九十七「メートル」の波長で同局から送信されるのを、日中は一二五〇哩(1,250海里)、夜間は二三二〇哩(2,320海里、【注】2,230の誤記か?)の距離にて聴取した。空電は長波長の場合に聞こえるよりも遙かに減少された。 (逓信省電務局編, 世界の無線電信と米国無線電信政策, 1931,  pp102-103)
 
1928年 マルコーニを紹介する書籍
 逓信省は夜間2,320哩(マイル)と記録していますが、これは2,230海里の誤記です。
 ちょっと気になったので、この件を調査してみたところ、逓信省が利用したネタ本"The Electric Word - The Rise of Radio"(1928年出版)が見つかりました(左図)。逓信省の記述と対応させて引用しておきます。どうやら原書の方に誤りがあったようです。
The short waves, down below 100 meters, which had long been considered poor, inefficient, because of the irregularity with which signals carried by them had been received, had been revealing themselves capable of unsuspected achievements.
 Experiments with these waves had been begun in 1916, following the advent of the tube transmitter which made their generation feasible. ・・・(略)・・・ Anything that would increase distance attracted Marconi, and in those years he was hard at work, investigating the new phenomena, taking long cruises in his yacht Elettra.
 To increase the strength of the signals, he proposed to go back to something he had tried in his earliest experiments (that, indeed, Hertz himself had tried and accomplished) - he proposed to focus them in one direction by placing an electrical reflector behind his antenna . . . he called this focused signal a radio "beam."
 At Poldhu, site of the station which had sent his 1901 trans-Atlantic "S," he erected a new short-wave "beam" experimental station in 1923. He heard signals sent from it on 97 meters at 12 kilowatts power 1250 miles by day, 2320 miles(注:2230海里の誤記) by night . . . static was reduced far below that heard on long waves. 』 (Paul Schubert, The Electric Word - The Rise of Radio, 1928, The Macmillan Company [New York], p270)
 
 正しくは昼間が1,250海里(2,315km)で、夜間が2,230海里(4,130km)です。下記書籍が正解です。
従来の実験によると、短波長による通信距離は昼間は極めて変化しやすく、かつ短距離であり、夜間の通信距離もまた非常に変化しやすいというのが定説であった。しかしながら、エレットラ号上の実験はこの定説が誤りであることを証明した。マルコーニは南大西洋のセント・ヴィンセントまで航行して実験した結果は、昼間試験においてポルデューを去る一、二五〇浬(=2315km, マデイラ付近)の距離で信号を受信し、夜間試験においては二、二三〇浬(=4130km)の距離において驚くべき程の強度をもって受信した。  (岡忠雄, 英国を中心に観たる電気通信発達史, 1941, 通信調査会, p352)
 
 ただし次にご紹介するとおり、マルコーニ氏は帰国直後(1923年)のプレス発表では「2,250海里」と語っています。過去の文献を引用する際に2,230海里のものと、2,250海里のものがあるのはそのためです。1924年以降のマルコーニ氏は「2,230海里」(4,130km)と発表していますので本サイトもそれに従っています。


56) 当初は省電力・ローコストばかりを強調したマルコーニ社 [Marconi編]

 1923年(大正12年)6月14日、カーボベルデから英国サウスハンプトンに戻ったマルコーニ氏は、ポルドゥー2YTの電波をカーボベルデで受けたことをプレス発表しました。そしてこの長距離通信成功の大ニュースは英国だけでなく全世界へ報じられたのです。
 
1923年 カーボベルデで受信成功の記事
 左図は6月16日付けのオーストラリアの日刊紙The Daily Newsです。
 航海から戻ったマルコーニ氏が「私達は、2250浬(2250カイリ= 4170km)の距離まで、従来に比べて、より早く、より低電力でメッセージを送信できました。現在パリ-ロンドン間で使っている電力よりも、小さいパワーをカーボベルデ-ロンドン間で使ったのです。これは電波を効率的に作ることで行われました。
 私達の発見は、将来、長距離無線局が低コストで建設されて、現在よりもずっと安価で高速にメッセージが送られることを意味しています。プレスや市民は、最終的に値下げされた料金で恩恵を受ける可能性があります。」と語ったと伝えています。
 マルコーニ氏は短波ビームを使用したことには触れず、"more efficient production of waves"(効率的な電波の生成)と説明し、長波と比べて小さな電力で済むので通信コストの低減が期待できると強調しました。
 
LONDON, June 15.
 Signor Marconi has returned after a two months' cruise, in which he carried out a series of important experiments in wireless. He says the results were most satisfactory, and constitute a great forward step.
 “We transmitted,” he said, “messages for a distance up to 2,250 miles with a much smaller power and at a faster rate than ever before. We used less power in sending more rapid messages between Cape Verde and London than we are now using between Paris and London. This was done by more efficient production of waves. Our discoveries mean that long-distance wireless stations in the future will be built at reduced cost, and signals sent much cheaper and faster than now. It is possible the Press and public will ultimately benefit by the reduced charges.”
 (”Wireless Wonders: Marconi’s Latest: Smaller Power, Faster Rate.” The Daily News, June 16, 1923, p16)
 
マルコーニが帰国
 左図は英国の無線週刊誌Wireless World(1923年6月23日号)です。マルコーニ氏が(マデイラの)フンシャルとカーボベルデでの実験を終えて、6月14日にサウスハンプトンに戻ってきたと伝えています。
Senatore Marconi's Experiments.
 On June 14th Senatore Marconi arrived at Southampton on his yacht Electra after two months' experimenting at Funchal and Cape Verde. It is understood that his researches have been devoted to directional wireless telegraphy and the elimination of interference. 』 (Senatore Marconi's Experiments, Wireless World and Radio Review, June 23, 1923, p388)
 
1923年 ラジオワールド誌のマルコーニの記事
 米国の無線週刊誌Radio World(1923年6月30日号)の記事ではエレットラ号が廻った地名の中にカナリア諸島だと思われるテネリフェ(Tenerife)が含まれています。その真偽も含めて、詳しいことはわかりません。
During this cruise the yacht "Electra," on which the experiments were conducted, touched at Seville(セヴィーリャ), Gibraltar(ジブラルタル), Tenerife(テネリフェ), Tangier(タンジェ), Casablanca(カサブランカ) and Madeira(マデリア). Thence the yacht went to St. Vincent, Cape Verde Islands(カーボベルデ). (Marconi Experiments With Directive Radio on New Wave, Radio World, June 30, 1923, p2)
 
  当初、このカーボベルデへの遠距離試験に関して、マルコーニ社は指向性通信と混信除去の実験だとするだけで、使用した波長(周波数)には触れていませんでした。


57) 「短波開拓の栄誉」と引き換えに、家族を失ったマルコーニ  [Marconi編]

 ところでカーボベルデでの観測開始の明確な日付は明らかになっていません。
 1923年5月17日から21日までマデイラのフィンシャルで実験し、カーボベルデに向っています。カーボベルデではX日間滞在し試験を繰り返しました。フィンシャルでは5日間滞在したことから、カーボベルデには同等かそれ以上いたのでしょう。そして6月14日には英国に帰国したことが新聞や雑誌記事ではっきりしています。
 
 またのちに娘デーニャが出版した書籍「父マルコーニ」によれば、マルコーニ氏が妻ベアトリスに送った6月6日付けの手紙には「ケープ・ベルデまでの船旅は素晴らしかった」と過去形で書かれています。カーボ・ベルデでの実験を終えた帰路に、食料や燃料の補給で立ち寄った、どこか・・・(例えば)ジブラルタル等の港町で投函された手紙ではないでしょうか。
 『 その(1922年の)夏、父が私たちと過ごしたのは週末一度だけだった。・・・(略)・・・私が14歳になった時(1922年秋)、父はもう私たちに会いに来なくなり、家族の一員であることをやめたとしか思えなくなった。母は私たちの将来についても父に相談せず、自分一人で決めることにしたのだと、私は理解した。・・・(略)・・・
奇妙なことに父は、自分の妻の感情に気づいていない様子だった。短波実験は続行していて、大規模な開発のためエレットラ号でアフリカ沿岸沖にあるケープ・ベルデ島に向った。現在私の手元に残っている1923年6月6日付の手紙を読むと、その時点でもなお父は、母が献身的に自分の仕事の苦楽を共にしてくれていると、信じきっていたことが窺える。・・・(略)・・・
親愛なる(妻)ベアトリスへ
ケープ・ベルデまでの船旅は素晴らしかった。かけた時間と費用に値する特筆すべき成果
(短波の電離層による低電力遠距離ビーム通信)だった。前回の十分の一のエネルギーで2500マイル先まで信号が送れるようになり、一方向のみへの送信も可能になった。 ・・・(略)・・・
 1923年、まさにこれら一連の実験を行っている最中、母は父に離婚を求めたのである。ここ数年家族を省みなかったとはいえ、父は離婚など考えてもみなかったに違いない。 (デーニャ・マルコーニ・パレーシェ著/御舩佳子訳, 父マルコーニ, 2007, 東京電機大出版局, pp278-281)
 
 以上を勘案すると、1923年5月末から6月初頭に掛けてカーボベルデで観測試験をしていたと想像できます。
1918年 マルコーニとその家族
 このようにマルコーニ氏は1916年以来、短波の開拓に全精力を注ぎ、1923年5-6月にはついに電離層反射による低電力遠距離ビーム通信に成功しました。
 しかし家庭を省みなかったマルコーニ氏は「短波開拓の栄誉」と引き換えに、家族を失いました。左の写真は短波ビームに没頭しはじめた1918年に撮影された家族写真です。
● 左端:Denga [長女, 1908 - 1998]
● 中:Beatrice [妻, 1882 - 1976]
● その右:Gioia [次女, 1916 - 1996]
● 右端:Guglielmo Marconi [マルコーニ本人, 1874 - 1937]
● 後方:Giulio [長男, 1910 - 1971]


58) 短波ビームによる遠距離通信だったと公表 (1923年12月3日) [Marconi編]

 1923年12月3日、マルコーニ氏は自社の株主に向けて、春におこなったカーボベルデへの実験航海は短波によるもので、その成果を次のように説明しました。
In an address to the shareholders of Marconi's Wireless Telegraph Company, Limited, on December 3, 1923, Senator Guglielmo Marconi made the following statement in reference to beam signalling:
"This system is, I believe, destined to bring about somewhat of a revolution in the methods hitherto employed for communicating by wireless with distant countries.  According to this system the electric waves which carry the messages are projected and propagated in a beam in any desired direction only, instead of being allowed to spread around in all directions. The advantages of the new method are at least four-fold, because:
"1. Due to the better utilization and concentration of power a much smaller amount of electrical energy need be employed for a given distance, resulting in a substantial economy in capital and working expenses.
"2. Only stations inside a certain restricted angle or sector are enabled to receive, and this increases the privacy and secrecy of communication, besides greatly reducing the possibility of mutual interference with other stations.
"3. Owing to the employment of comparatively short waves, the speed of transmission and reception can be several times greater than what is attainable with existing long-distance systems.
"4. The disturbance caused by the effects of atmospheric electricity are greatly minimized.
"During the tests which I have already referred to, communication was successfully carried out on this system between England and many places abroad, including St. Vincent (Cape Verde Islands), up to a distance of 2,250 nautical miles, by the employment of only a fraction of the electrical energy hitherto found necessary to cover such distances. I am now completing, arrangements which will enable me to give this system a thorough test between England and the United States of America."
 (A.H.Morse, "History of Radio inventions", Radio News, Sep.1925, Experimenter Publishing Company, pp296-297)
 ざっくり訳すとこんな感じでしょうか。
1) 輻射電力を集中させれば、より低出力の送信機で事が足りるため、経済効率が高まる。
2) 対手局へビームを絞るので、通信の秘密性が向上する。また受信においても他からの混信が減る。
3) それは
短波により行われ、従来の長距離間通信に対して、単位時間あたりの通信量の向上が期待できる。
4) 短波は長波に比べて空電妨害が劇的に減少する。
 私が既に行ったテストでは、英国から2250海里離れたカーボベルデを含む各所において、通常必要な電力に比べて、ビースシステムだとほんの僅かの電力ですみました。そして私は英国とニューヨーク間で徹底的な検証を行う準備が完了しております。
 
 こうして短波ビームを用いることで、マルコーニ氏が1kWというアマチュア並みの小さな電力で遠距離通信に成功したことは戦前の日本電気通信史話に記されています。
マルコニーは短波の研究に於て、西暦一九二三年(我大正十三年[注:原文まま。大正12年の誤記])ビーム式空中線即ち電波を一方向に集中発射する空中線および之に用いる短波送信機を考案し、小電力を以て遠距離通信を容易に行うことに成功した。 (奥谷留吉, 日本電気通信史話, 1943, 葛城書店, p231)
 
 1923年5-6月の成功ですから、マルコーニ氏の方がアマチュアより先に、短波による小電力遠距離通信を実証しています。しかしそれが「巨大パラボラの力」なのか、「短波の力」なのかは分かっていませんでした。
 それを明らかにしたのは1924年秋~25年(大正13年秋~14年)のアマチュア無線家達です。アマチュア達は「小電力+無指向性アンテナ」で遠距離通信を次々と成功させたからです。ただし確実性が求められる商業通信では小電力というわけにもいかず、このあと専ら「大電力+ビームアンテナ」の道を進むことになります。
 
 1930年(昭和5年)に発行された逓信省の「無線電信無線電話事業ノ沿革及現況」にある"無線電信無線電話年表"の1923年には以下のように記録されています。
大正12年(1923年) マルコニー、短波ビーム式の効果を予言す。 (逓信省編, "無線電信無線電話年表", 『無線電信無線電話事業ノ沿革及現況』, 1930, 逓信省, p13)


59) カーボベルデ通信を紹介する戦後の記事 [Marconi編]

 ポルドゥー2YTの巨大パラボラによるカーボベルデへの遠距離試験について、第二次世界大戦後では、我国の電波正史ともいえる日本無線史(第五巻)が、これを記録しています。
日本無線史 第五巻 マルコーニビーム
一九二三年(大正十二年)頃より世界各国は競って短波無線の研究に努め、一九二四年(大正十三年)マルコニが一八キロワットの電力を以って英豪(オーストラリア)間短波無線通信に成功したのを始めとして、一九二五年(大正十四年)頃よりは大西洋横断通信に長波の補助として短波が実用されるようになった。
 マルコニは探海燈を照らすに用いられたと同種の反射鏡を使用して短波を一定の方向にのみ強力に発射する指向式無線電信に成功した。一九二四年(大正十三年)
(注:1923年の誤記)マルコニがポルデュ局でケープ・ヴァ-ドとの実験に使用した反射鏡はこの型であった。
 この実験の結果、同年夏、郵政庁とマルコニ会社との間に契約を締結し英国に於いて短波指向式無線局(ビーム式無線局)を同会社の手で建設し、同じく会社によってカナダ、豪州、南阿
(南アフリカ)、印度(インド)に建設される同様の無線局との間の通信にも使用する契約が成立した。・・・(略)・・・
 長波時代に於いては長距離通信上有効な波長帯は僅かに一五〇を出でず、世界各国をして波長の先取争奪のために猛烈な競争を行わしめることとなったのであるが、短波の実用化によって、世界の長距離通信は大なる相互混信を惹起することなく、通信事業経営上にも負担の軽減をきした。   (電波監理委員会編, 日本無線史 第五巻, 1951, p280)
【注】これにある「ケープ・ヴアード」とはCape Verde(カーボベルデ)の昔の読み方です。
 
 そしてその後も、これを伝えるいくつかの書籍や翻訳本が出版されていますのでご紹介します。 
 サイエンスライター/翻訳家として著名な市場泰男氏が1966年(昭和41年)に出版された「通信の開拓者たち」は、"有線電信のモールス"、"有線電話のベル"、"無線電信のマルコーニ"、"無線電話のド・フォレスト"の4名にスポットライトを当てた伝記本です。日本のマルコーニ氏の伝記本がどれもノーベル賞を取る(1909年)までの話で終ってしまう中にあって、マルコーニ氏の短波開拓まで話題が続く、異色の一冊です。
 下図[右]の写真は1932年にバチカンとガンドルフォ城間を結ぶUHF無線電話回線の4列ヘリンボーン反射器の前に立って、電界強度を測定しているマルコーニ氏の写真です。本文中では1930年代のUHF開拓には触れていませんが、この写真を使っていることから筆者の市場氏はマルコーニ氏の文献を相当読み込まれているように思います。
マルコーニの本
(第一次世界大戦にイタリアも参戦し)愛国心にもえるマルコーニは、専門の無線電信でいくらかでも国のお役にたちたいと考えました。今までの無電は、戦場の通信にたいへん役立ちますが、電波を四方八方へ送り出しますので、ぬすみ聞きするのは簡単ですし、敵の電波で妨害を受けやすいのです。マルコーニは、敵にぬすみ聞きされないような新しい無電の方法を実用化したいと思いました。・・・(略)・・・
 マルコーニは、イタリアで自分の研究をすすめるいっぽう、イギリスにいる研究所の技師チャールズ・フランクリンに命じて、短波を使った通信の技術を研究させました。若いフランクリンは、一九一六年からこの研究をはじめ、はやくもあくる年には、ロンドンとバーミンガムのあいだで、短波通信の実験に成功しました。・・・(略)・・・
 マルコーニとフランクリンの努力のおかげで、一九二三年春には、イギリスのポルジューから出た波長九十七メートルの短波が、電離層に反射して、四千キロもはなれた西アフリカのダカール沖、(カーボベルデの)サンビセンテ島にいたエレットラ号までとどきました。このとき発信局(ポルドゥー2YT)の電力は、わずか十六馬力でした。あくる年の五月には、ポルジューから出た短波はオーストラリアのシドニーや、南アメリカのブエノスアイレス、リオデジャネイロまでとどきました。その十月には、波長三十二メートルの短波を使い。ポルジューとブエノスアイレス、ニューヨーク、モントリオール、シドニーのあいだで、昼間も自由に通信をつづけることができました。このときの電力はたった十二馬力でしたが、もしも長波でおなじ通信をしたら、その一万倍以上の電力が必要だったろうといわれます。
 この成功で、短波を使った長距離通信は、費用の点でも確実さの点でも、海底電線を使う電信よりずっとすぐれていることが、はっきり証明されました。』 (市場泰男, さ・え・ら伝記ライブラリー13「通信の開拓者たち」, 1966, さ・え・ら書房, pp209-210)
 
マルコーニの短波を紹介する本
 海軍鑑政本部の技術少佐だった田丸直吉氏が、海軍無線の開発の歴史を明治・大正・昭和の三期に分けてまとめたもので、海軍無線史研究者の間では有名な1979年(昭和54年)に出版された書です。ごく一部ですがマルコーニ氏の短波にも触れています。
大正時代の後半に真空管が実用期に入った。この真空管というものが出来てから色々な周波数の発振が容易に得られるようになり、当然の帰結として電磁波の広範囲な領域にわたって各種の実験が行われるようになった。・・・(略)・・・
 大正9年(1920年)にマルコーニは(ホーリーヘッドでのアイリッシュ湾横断試験など)15メートル(20MHz)の波長で通信試験を行ったという記録はあるが、この当時はまだ真空管も良いものが得られず定性的な実験しか行われなかった。
 大正12年(1923年)になって彼は100メートルの波長の電波の伝播状況を調べるためにヨット「Elettra」に受信機をつみ込んでポルドゥからの発射電波を受けながら距離を計っていった。その結果昼間でも1200マイル迄完全に信号を受けることが出来た。そして間にはこの倍以上の距離でも充分に感度のあることが確認された。明治35年にケネリーおよびヘビサイド両氏によって提唱された電離層存在説はじらい一つの仮説として扱われていたが、その考えの正しいことがこの頃になってようやく実証される段階になって来たのである。 (田丸直吉, 兵どもの夢の跡(日本海軍エレクトロニクス開発の歴史), 1979, 原書房, p141)
 
マルコーニの本1
 マルコーニ研究家であり、JARL評議員としても活躍されたJR1TRW岩間尚義氏も、「グリエルモ・マルコーニ」 (Keith Geddes, "Guglielmo Marconi, 1874-1937", [London] Her Majesty's. Stationery Office, 1974)の翻訳者としてマルコーニ氏の短波開拓を日本に紹介されました。またハムフェアでは(クラブブースを通じて)アマチュア界へマルコーニ氏の啓蒙活動にも尽力されたそうです。なお筆者のキース・ゲデス氏は数学者として有名です。
波長97メートルで運用する実験用送信機がポルデューに建設されて、大きなパラボラ型反射器で、南西方向への指向性が信号に与えられました。
 そして、マルコーニは1923年の4月に、受信調査のために、出港しました。距離が遠くなると、信号強度は、初めは、急速に低下し、次いで元に戻ること。そして4,000キロメートル離れたエレットラでの航海で、最も遠い地点では、夜間におけるポルデューの短波送信機からの信号は、その電力を1キロワットに減らしても、英国の何処の大電力長波送信機からの信号よりも、強力であることが、判明しました。 (キース・ゲデス著/岩間尚義訳, グリエルモ・マルコーニ, 2002, 開発社, p77)
 
マルコーニ本2
 この他に翻訳ものとしては、「父マルコーニ」 (Degna Marconi Paresce, "Marconi, mio padre", [Milano] A. Mondadori, 1967)があります。短波に関するトピックスはアームストロング氏の「失われたチャンス」から引用している部分が多いように思えますが、娘が筆者ということでマルコーニ氏の私生活を克明に伝えた珍しい書籍です。
1923年春ケープ・ベルデ島への旅で、ポルデュー短波局に設置されている短波送信機から97メートル波長で発信された電波の受信に成功した。日中は1400マイルからの信号はフェーディングしたが、夜間には2500マイルという距離でも、長波局から発信された信号よりポルデュー短波局の信号強度の方がずっと強かった。
 マルコーニは、信号はポルデューの日の出の数分後まで続き、ケープ・ベルデ島の日没少し前に再び受信できることに注目した。何らかの未知の現象が短波帯に作用するのではないかと考えたマルコーニは、イギリスに戻るとさらに広範囲な実験計画を練った。』 (デーニャ・マルコーニ・パレーシェ著/御舩佳子訳, 父マルコーニ, 2007, 東京電機大出版局, p280)

● 本ページが巨大化したため、後半を「続 マルコーニ」に分離しました [2017.11.17]
 このあとマルコーニ氏は短波帯の昼間波を発見し、短波公衆通信を実用化します。そして超短波の開拓にも着手し実用化を達成したあと1933年(昭和8年)秋には観光で日本を訪れています。それらの話題は「続 マルコーニ」をご覧ください。

<その他のページへのリンク>
◆短波開拓史フロントページ: 概要編 (アームストロングの講演「発見の精神」など)
◆短波開拓史サブページ: コンラッド (短波の電離層反射の実用化)
◆短波開拓史サブページ: アマチュア無線家 (アマチュア無線の誕生)、続 アマ無線家(短波の小電力遠距離通信の発見)