マルコーニ 1895-1896

パラボラ無線機の実験ブリキ板からパラボラ・アンテナへ

マルコーニのパラボラ・アンテナ

短波から中波へ

海上公衆通信の商用化

短波開拓の成果を学会発表

短波の電離層反射を確信

昼間波を発見する

平面ビームで短波通信網

超短波の湾曲性を発見

短波の実用化

船舶無線ほか

戦後の日本で流行ったある評価ほか

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1895~1896年 目次

1) 接地式ブリキ缶アンテナからパラボラ・アンテナへの転向(1896年) [Marconi編]

マルコーニ氏が無線実験を始めた頃を振り返ってみましょう。

1895年6月、彼は(イタリアで)ヘルツ・ラジエーターの代わりに空中線に重要な工夫をこらすこととし、誘導コイルの二時側の火花電極の一方を地上に横たえた接地板に、他方の電極を柱の上からつるしたブリキ缶にそれぞれ接続した。・・・(略)・・・またパラボラ反射器を使って電波の指向性の実験も行った。これは彼が無線電信の研究を思い立ってからわずか1年半足らず(1896年夏から秋の英国で)のことである。(大野茂/津村孝雄, 日本の艦艇・商船の電気技術史, 『船の科学』, 1988.7, 船舶技術協会, pp94-95)

● 超短波~短波帯 接地式ブリキ缶アンテナの発明(イタリア時代)

1895年(明治28年)春よりマルコーニ氏はイタリアでブリキ缶アンテナとアースを使った火花無線の実験を何度も繰り返しました。最初は25cmの立方体ブリキ缶アンテナの高さが2mで到達距離30mだったものが、高さを4mにすると距離100mに、さらに高さ8mでは距離は400mに伸びました。そして試しにブリキ缶を1m立方へ大きくしてみたところ、なんと同じ高さ8mなのに、距離1.5マイル(2.4km)を記録したのです。

LC同調回路を有さず、スパークギャップに接地と垂直アンテナを直結した初期の「非同調式」送信機では、アンテナ線の長さの四倍の波長がもっとも強く輻射されます。ブリキ缶(キャパシティーハット)の効果を勘案しても、この程度の高さ(長さ)ですから、周波数的には短波を使ったと推測されます。このように着々と成果を積み上げたにも関わらず、マルコーニ氏の無線電信機の価値はイタリアでは理解されませんでした。

● 1GHz帯 パラポラ・アンテナの開発と実験(イギリス時代)

そんなイタリアに落胆したマルコーニ氏は、1896年(明治29年)2月に英国へ移住しました。その春より、英国郵政庁GPO(General Post Office)のプリース(William H. Preece)技師長の支援を受けながら無線研究を続けました。そして1896年夏、マルコーニ氏はパラボラ反射器が付いた火花送信機とコヒーラ受信機を完成させたのです。

実はマルコーニ氏は「パラボラ使いの実験家」として世にデビューしました(もちろん当時の日本にも "マルコーニ氏のパラボラ" が伝えらていますが、すっかり忘れ去られました)。イタリアでは接地型のブリキ板アンテナを熱心に研究していたマルコーニ氏ですが、なぜかイギリスへ渡ってからのしばらくは非接地型のパラボラ・アンテナに注力していました。

マルコーニのパラボラ写真を使った雑誌記事

ところでマルコーニ氏のパラボラ反射器は日本ではあまり知名度が高いとはいえませんが、科学雑誌ニュートン』1985年(昭和60年)3月号の記事 "グリエルモ・マルコーニ"(もりいずみ, p132)で、その写真が使われたことがあります(左図:この写真は後述するレオナルド・ダ・ヴィンチ科学技術博物館所蔵のレプリカ送信機でしょう)。

しかし記事中ではまったくパラボラについて言及されていません。ただ写真の下部に "短波通信の実験に使われたパラボラ反射器" との説明が付けられているだけで、このパラボラ反射器がいつどんな実験に用いられたかについて、一切触れられていないのです。まずはマルコーニ氏のパラボラ反射器付き無線機とそれを使った公開実験の話題を追ってみます。

2) パラボラ反射器付き超短波無線機の最初のデモ (1896年7月27日) [Marconi編]

1896年6月、まず郵政庁を初めとする関係者へ街頭実験を披露したマルコーニ氏は、翌7月よりSt Martins-le-Grandの郵政庁GPOビル屋上にパラボラ送信機、Queen Victoria Streetの(郵政庁が経営する)貯蓄銀行の屋上にパラボラ受信機を設置して、テストを始めます。 

1896年7月27日には、プリース技師長の計らいで、マルコーニ氏と助手ケンプ氏は郵政庁と貯蓄銀行の屋上に設置したパラボラ式無線機の公開デモンストレーションを行ないました。パブリックな無線通信のデモはこれが最初です。

"A History of the Marconi Company"

1970年(昭和45年)にロンドンで出版された"A History of the Marconi Company"(左図)より引用します。

『 ・・・(略)・・・and the first official tests took place in June 1896. These were followed by further demonstrations in July and August, conducted between the Post Office building at St Martins-le-Grand and a station erected on the roof of the Savings Bank Department in Queen Victoria Street.  』 (W.J. Baker, A History of the Marconi Company 1874-1965, 1970, Methuen[London], pp28-29)

マルコーニ出版社が発行していたThe Year Book of Wireless Telegraphy and Telephony(無線電信電話年鑑)の 1922年版にある、無線開発年表 "Record of the Development of Wireless Telegraphy"の「1896年の出来事」には、はっきりと『using reflector (パラボラ反射器を使った)』と記録されています(下図)。

The Year Book of Wireless Telegraphy and Telephony(1922)

On July 27th the first demonstration of directional wireless, using reflectors, was given on the roof of the G.P.O., London. Record of the Development of Wireless Telegraphy, The Year Book of Wireless Telegraphy and Telephony, 1922, Marconi Press Agency Limited, p27)

3) パラボラのデモ を手伝った、助手ケンプ [Marconi編]

マルコーニ氏とその優秀な助手ケンプ氏の出会いについて、『父マルコーニ』から引用します。この7月27日のデモンストレーションに向けて郵政庁ビルの屋上でマルコーニ氏がパラボラ・アンテナの準備をしていた時のことです。

『 (郵政庁の)ウイリアム・プリースは、マルコーニにとって何者にも代えがたい、ふところの広い支援者だった。初対面から幾日もたたないうちに、自分の研究室を自由に使うことも認めてくれている。・・・(略)・・・さらに重要なことは、自分(プリース氏)の最も有能な助手の一人、ジョージ・スティヴァンス・ケンプをグリエルモにつけてくれたことである。その時の経緯を父が話してくれた。

セント・マーティンス・ル・グラン通りの郵政省の屋上から、クイーン・ヴィクトリア街のセーヴィングス・バンク事務所に信号を送るための、最初の実験(1896年7月27日のパラボラ試験)の準備をしていた時だった。屋上の石の手すりからちょっと身を乗り出してみると、赤毛の男が何やらもの珍しそうに上を見ていた。彼は私が見ていることに気がついて、<上で何をやっているんですか?>と叫んだので、<上がってらっしゃい、お見せしますよ>と言ったんだよ。そして彼はあっという間に私のところにやってきたんで、あまりに早いから雨どいをよじのぼって来たのかと思ったよ。この男がジョージ・ケンプだったのさ。元海軍士官の彼は、当時は郵政省本庁の職員で、プリースの助手をしていたんだ。

屋上に上ってくるとすぐさまマルコーニと作業をはじめた彼は、こうしてその後の人生を最後までマルコーニと共に働くことになる。(デーニャ・マルコーニ・パレーシェ著/御舩佳子訳, 『父マルコーニ』, 2007, 東京電機大出版局, pp53-54)

1896年7月27日のパラボラ付き無線機のデモンストレーションは大成功でした。郵政庁ビルと貯蓄銀行ビル間はおよそ400mあったといいますので、もはやマルコーニ氏ひとりでは対応出来ません。優秀な助手ケンプ氏がパラボラ付き無線機の取り扱いをマスターし、実験のお手伝いをしたからこその成功です。

4) なぜイタリア時代のブリキ缶アンテナを使わなかったのか? [Marconi編]

マルコーニ氏はイギリスに移住するとパラボラ式のアンテナに注力していました。尊敬するGPOのプリース技師長から「まずはヘルツ氏のパラボラ反射器を試しておきなさい」と助言を受けたからなのでしょうか?

でも私は以下のように推理しています。

図はSt Martins-le-Grandにあった当時の郵政庁ビルの写真です。このビルの屋上でデモが行われました。

郵政庁ビル

周辺道路は石畳なので、うまく接地(アース)が確保できなかったとか、郵政庁GPOビルの屋上からさらに高く垂直線(イタリア時代のブリキ缶アンテナ)を安全かつ堅牢に建設するのは、作業の都合上で困難だったのかもしれません。

つまりロンドンのように発達した市街地での無線実験には、接地型のブリキ缶アンテナよりも、非接地型のパラボラ・アンテナの方が都合良かったように思えます。

5) マルコーニが英・米で無線の特許を登録 [Marconi編]

マルコーニ氏は1896年に英国(6月)と米国(12月)に、無線の特許を出願しました(特許登録されたのではありません!)。

一八九六年にマルコーニは無線電信回路及び送信機に関する最初の英国の特許(一八九六年番号第一二〇三九号)を得た。(岡忠雄, 『英国を中心に観たる電気通信発達史』, 1941, 通信調査会)

のように1896年に「特許を得た」(特許登録)だと伝える記事を時折見受けますが、それは誤りです。特許性の審査期間があり、英・米ともに出願申請から1年後(1897年)に特許登録されています。


下図[左上]が英国特許で、1896年6月2日に英国出願され(1897年3月2日に補正手続きを終え)、1897年7月2日に登録 [特許番号No. 12,039/1896] されました。

下図[左下]が米国特許で、1896年12月7日に米国出願され、1897年7月13日に登録 [特許番号No. 586,193]されました(その後、1901年4月1日に再申請[No.53,896]し、1901年6月4日に再度、登録[特許番号No. 11,913] )。

英国の場合、特許番号に "出願年" が付記(No. 12,039/1896)されるため、この "1896" を特許登録の年 だと勘違いされる事例が散発しているようです。これら英・米での出願明細書に下図[右]の二種類のアンテナ図面が添えられています。

マルコーニの英・米への特許出願資料

右側の上にある図面は、非接地式である「パラボラ反射器付き無線機」です。その側面図で分かるように曲面を上下方向にとった、英国で開発したパラボラです。

そして右側の下の図は、イタリア時代の「接地式ブリキ板無線機」で、スパークギャップにブリキ板と接地がとられています。

6) マルコーニ式とヘルツ式 パラボラ反射器の違い [Marconi編]

ヘルツのパラボラアンテナ(垂直偏波)
マルコーニのパラボラアンテナ(水平偏波)

ここで電波実験の先駆者であるヘルツ氏のパラボラと、マルコーニ氏のパラボラを比べてみましょう。

左図[上]はヘルツ氏が1888年に製作したパラボラ式送信機です。輻射部を縦方向にし垂直偏波としたため、パラボラ反射器の曲面を左右方向にとっていました。

下図[左]はマルコーニ氏が1896年に製作したパラボラ式送信機です。輻射部が水平方向に置かれたため、パラボラ反射器の曲面を上下方向に取っています。

ここがヘルツ氏とマルコーニ氏のパラボラ反射器の外観における一番の違いです。この頃の火花送信機にはまだLC同調回路が使われておらず、いわゆる「非同調式」と呼ばれるもので、輻射波長は輻射部の主導体の長さで決まりました

両氏ともに相当高い周波数で実験していたことが伺えます。

7) 日本の松代式 パラボラ反射器は? [Marconi編]

松代松之助のパラボラアンテナ

[左]パラボラ付き火花送信機    [右]パラボラ付きコヒーラ受信機

マルコーニ氏のパラボラ試験に遅れること1年の1997年(明治30年)秋、我国の電気試験所の松代松之助氏も超短波無線機を完成させました。

松代氏はヘルツ氏のものを手本にしたため、パラボラの曲面を左右方向にとりました(垂直偏波)。

このパラボラ無線機は逓信省構内で屋内実験を重ねたあと、11月に東京湾で初のフィールド試験を行いましたが、送信機のパラボラ・アンテナを常に船(受信)の方に向けるのが一苦労だったといいます。

松代は明治30年(1897年)の11月に、受信機を築地の海岸に置き、送信機を団平舟(だんぺいぶね:荷物運搬用の堅牢な和舟)に乗せて、いろいろと距離を変えながら東京湾内で通信実験を行なった。陸上で使ったパラボラ反射板つきアンテナは、指向性があるので船の向きに注意しなければならなかったが、そのアンテナよりも、竹竿から吊り下げた被覆銅線アンテナの方が感度が良く便利なので、パラボラはすぐ使われなくなった。(若井登, 日本の無線電信機開発(その2)-松代松之助の業績-, 『ARIB機関紙』, 1997.8, ARIB, p55)

 1897年12月13日には読売新聞社の記者を招き、逓信省構内でパラボラ式無線機(上図)のデモンストレーションを行ない、それが12月15日の新聞記事になっています。少なくともこの1897年12月のデモまでは、日本でもパラボラ式送信機とパラボラ式受信機が使用されました。

無線は長波から始まって高い周波数へ発展したように想像されがちですが、実はその逆です。無線は(極)超短波からスタートして、短波→中波→長波へと向いました。

8) マルコーニのパラボラ無線機は1GHz帯 [Marconi編]

1932年(昭和7年)12月2日、マルコーニ氏は自分が没頭しているUHF(500MHz)波の研究に関し、ロンドンのRoyal Institution of Great Britainで発表した"Radio Communications by Means of Very Short Electric Waves"の冒頭で、1896年のパラボラ式送信機に触れて、その周波数を約1GHz(1000MHz)としました。

マルコーニ社が発行するThe Marconi Review誌(1932年11-12月号、1933年1-2月号)から引用します。

The Marconi Review誌(1932年)

私が1896年に郵政庁の技術者たちにデモして、反射器で1.75マイルの通信に成功した電波は、今日マイクロウェーブと呼ばれる30cm - 1,000,000kHz(1GHz)波だった。その後距離は2.5マイルにまで伸びた。

この反射器実験の成果はプリース技師長により1896年9月の英国協会で発表され、その後のレクチャーなどでも紹介された。そして1899年3月3日、私が電気学会で詳細報告したのである。

・・・ざっくり訳すと、こんな感じでしょうか。以下が原文です。

In 1896, I was able to demonstrate to the Engineers of the Post Office that waves of the order of 30 centimetres - corresponding to a frequency of approximately one million kilocycles, and now sometimes termed microwaves - could be successfully used for telegraphic communication over a distance of 1 3/4 miles by employing suitable reflectors.  Later this distance was increased to 2 1/2 miles.

These early results were described by the late Sir William Preece at a Meeting of the British Association in September, 1896, and at subsequent lectures, and were referred to in greater detail in a Paper which I read before the Institution of Electrical Engineers on the 3rd of March, 1899. (G. Marconi, "Radio Communications by Means of Very Short Electric Waves", The Marconi Review, Nov.-Dec. 1932, Marconi Wireless Telegraph Company [UK], p1)

 この論文の冒頭にあるとおり、マルコーニ氏はソールズベリー平原でパラボラ反射器による1.75マイルの記録を打ち立てました(1896年9月2日)。

そしてそれが英国協会のミーティング(同年9月22日)で公表され、全世界に「パラボラ反射鏡使いのマルコーニ」としてデビューを果たしました。これについては後ほど詳しく紹介します。

9) 電波は高い周波数から低い方へ発展した [Marconi編]

無線は長波から始まったと思われがちですが、実は違うのです。電波実験はまず高い周波数から始まりました。

19世紀の電波偉人といえる、ヘルツ氏、マルコーニ氏、そして我が日本の松代氏も、 (極)超短波の領域で実験を重ねたあと、電波界は短波へ、中波へ、最後に長波へと発展しました。そして第一次世界大戦後の1920年代より再び高い周波数へとUターンし始めました

この1920年代の長波からの高い周波数へのUターンした時期を電波発展史の起点として書き始める記事が多いためか(?)、「電波は長波から高い周波数へ向かって開発された」という誤解が生じているように思います。本当はそうではありません

ですからまだUターンが始まったばかりの1920年代は、電波「高い周波数から低い周波数へ発展した」という認識が電波関係者には共有されていたように思えます

たとえば米国の無線雑誌Radio News誌(1925年9月号)に、ヘルツ氏は30cm波(1GHz)、リギ氏は2.5cm波(12GHz)で実験し、1896年から97年のマルコーニ氏は10インチ波(1.18GHz)を使ったとする記事が見受けられます。

It was by means of very short waves and parabolic reflectors that Hertz carried out his experiments and laid the foundation of radio, and it is recorded that he produced waves of 30 centimeters in length, which he concentrated into a single beam. It is also recorded that Senator Righi produced waves as short as 2.5 centimeters, while Senator Marconi used waves of ten inches in length in 1896-97. (A.H.Morse, "History of Radio inventions", Radio News, Sep.1925, Experimenter Publishing Company, p297)

10) 元郵政省電波研究所所長は1.2GHzと推定 [Marconi編]

マルコーニ氏自身が「1896年のロンドンでの実験は1GHzを使った」と発表しているのですから、疑う必要はないと思いますが、日本ではマルコーニ氏の実験周波数について、どう考えられていたのでしょうか。

我国の電波研究の頂点ともいえる郵政省電波研究所の所長を勤められた若井登氏が、1995年に雑誌記事で、マルコーニ氏の特許出願図面に描かれたパラボラ送信機の輻射部のサイズから送信周波数は1.2GHzだと推定されています。

マルコーニは何故か特許明細書に、波長二五cm(周波数一 ・二GHz)に共振する素子とヘルツ式パラボラ反射鏡の図面を添えている。もしかするとロンドンでの実験は、この極超短波で行われたのではないか。ところが市内の建物が邪魔になって通達距離が延びないので、(1896年9月2日の実験は)見通しの良い(ソールズベリー)平原に場所を移した。そして成功し面目を保った、というのが私の推理である。(若井登, 電波史発掘, 『情報通信ジャーナル』, 1995.1, 電気通信振興会, p47)


元電波研究所の所長である若井氏は「世界の電波黎明期」についても研究されていました。1995年に英国電気学会で「日本の電波黎明期」の研究発表のために渡英されました。そして学会地下書庫で、マルコーニ氏がプリース技師長に宛てた手紙群を発見されました。

マルコーニは無線電信機の発明者といわれている。しかし異論も数々ある・・・(略)・・・私は、この事を追跡している内に、マルコーニが1896年から1899年にかけて英国郵政庁(GPO)のプリース技師長宛に送った22通の手紙に行き当たった。その内容の大半は実験報告であるが、純情なイタリア青年が馴れない英語で書き綴った沢山の手紙を読んでみて、これこそ無線電信機の発明者の証しと言えるのではないかと思うようになった。それをご披露しようというのが本文の趣旨である。

私は、無線通信百年記念国際カンファレンスが1995年ロンドンの英国電気学会(IEE)で開かれた時、「日本における電波技術の黎明」と題する論文を発表した。その折たまたま同学会の地下の書庫で発見したのがその一連の手紙である。・・・(略)・・・ 』 (若井登, マルコーニの実験レポート(1) -電信機発明者の証し-, 『ARIB機関紙』, 1998.11, 電波産業界, pp32-33)

帰国後しばらくし、この様に電波業界雑誌を通じてマルコーニ氏に関する記事を発表されています。

11) イタリアにあるレプリカ [Marconi編]

イタリアではマルコーニ氏のパラボラ無線機のレプリカが作られ、ミラノにある国立レオナルド・ダ・ヴィンチ科学技術博物館(Museo Nazionale Scienza e Tecnologia "Leonardo da Vinci" tutti i diritti riservati)にて展示されています(同館へのリンク:「パラボラ送信機」「パラボラ受信機」)。

マルコーニのパラボラ(レプリカ)

国立レオナルド・ダ・ヴィンチ科学技術博物館にあるマルコーニ氏のパラボラ無線機のレプリカは、ボルタ電池で有名なイタリアの物理学者アレッサンドロ・ボルタの没100周年記念祭(1927年)の時に製作されたといわれています(なお私は検証できていません)。

これまで、世に出回っている、マルコーニ氏のパラボラの「カラー写真」は、まず間違いなくこのレオナルド・ダ・ヴィンチ科学技術博物館所蔵のものだと考えられます。

12) 雑誌の追悼記事で使われた写真 [Marconi編]

マルコーニ氏は1937年(昭和12年)7月20日に、母国イタリアで亡くなりました。当時イタリアで最も人気があった写真週刊誌 I'llustrazione Italiana (1937年7月25日号)にその追悼記事が掲載されました。

めずらしいマルコーニのパラボラアンテナの写真

左図は追悼記事 "L'invenzione fondamentale di Marconi (マルコーニの基本的な発明)" で使われた9枚の写真の中のひとつです(送信機[左]、受信機[右])。筆者は、マルコーニ氏が中学生の頃からの友人であり、またマルコーニ氏のUHF波レーダーの実験を手伝っていたルイージ・ソラ―リ(Luigi Solari)氏です。

このパラボラ写真がいつどこで撮られたものかの説明はありませんが、イタリアにあった「レプリカ」が、何かの展示会に出展された時のものではないかと私は考えてます。

では筆者ソラーリ氏が所有していた「思い出の写真」の数々ら、なぜこの写真が(雑誌に使用した9枚中のひとつに)選ばれたのでしょうか?「イタリアの田舎青年マルコーニが、大都会ロンドンに出て来て、成功へのスタートラインになったもの。それがこのパラボラ無線機なのだ。」ソラーリ氏は、そういう意味でこれをピックアップされたのではないか?私にはそう思えてなりません。

このパラボラ・アンテナの写真が引用された事例として、私が知る限りでは、イタリアのアマチュア無線家Carlo Amarati(I4ALU)氏がイタリアの趣味の無線雑誌 elettronica viva (1983年9月号, p60)に投稿した、マルコーニゆかりの地を訪ねる英国旅行記"Pellegrinaggio Londinese alla ricerca dei luoghi Marconiani"の中で使われた1例のみです。写真としてはレアなものだと思います。

13) 実は英国にもレプリカがあった? [Marconi編]

ファラデー生誕100周年祭

1931年(昭和6年)9月23日から10月3日まで、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールにおいて、電磁誘導の法則で有名な英国の物理学者であるマイケル・ファラデー(Michael Faraday, Sep.22,1971 - Aug.25,1867)の生誕100周年祭が開かれました(左図:記念祭会場の様子)。

マルコーニ社が出版する『マルコーニ・レビュー』誌(1931年9-10月号)がこの記念祭会場で、「1896年、マルコーニがソールズベリー平原にて1 3/4マイルの超短波通信を行ったパラボラ送信機とパラボラ受信機、それにリーギの発信器」を展示したと紹介しています(下図:ショーケース)。

ファラデー生誕100周年祭に出展されたマルコーニのパラボラアンテナ

At the Faraday Exhibition: A Righi Oscillator and replicas of transmitter and receiver with parabolic reflectors as used by Marchese Marconi for communication with ultra-short waves over a distance of 1 3/4 miles on Salisbury Plain in 1896. ("Faraday Centenary", The Marconi Review, Sep.-Oct.,1931, Marconi Wireless Telegraph Company[UK], p28)

これは英国にあるマルコーニ社が1931年に開催されたファラデー祭に出展したものです。つまり「イタリアに存在するレプリカ」とは別のパラボラ(本物かレプリカかは分かりませんが)が英国にもあったことが分かります。

14) 本物が2004年になって突如一般公開へ [Marconi編]

2004年12月、(創業本家よりの継承会社)新マルコーニ社(Marconi Corporation PLC)は、19世紀末の創業時より長年管理・保存してきた、無線発展史を振返るうえで貴重な歴史的資料(機材や書類)の数々を、一括してオックスフォード大学(英国)付属の「オックスフォード科学史博物館(History of Science Museum)」に寄贈しました。

そして同博物館ではそれを「Marconi Collection」として管理・公開しています。そこには1896年に製作された本物のパラボラ送信機と受信機。それにレプリカのパラボラ送信機と受信機があります。以下にそのサイズを示します。

マルコーニのパラボラ送信機

送信機(1896年製)

820高 x620幅 x395奥(mm)

Inventory Number: 53586

レプリカ送信機

800高 x610幅 x290奥(mm)

Inventory Number: 59943

マルコーニのパラボラ受信機

受信機(1896年製)

820高 x620幅 x395奥(mm)

Inventory Number: 31092

レプリカ受信機

800高 x610幅 x300奥(mm)

Inventory Number: 40344

イタリアの国立レオナルド・ダ・ヴィンチ科学技術博物館にあるレプリカは送受共820(H) x 620(W) x 300(D) なので、それとも違いますね。それにしても、まさか21世紀の現代になって、19世紀に実験された本物のパラボラが姿をみせることになるとは驚きです。

「マルコーニといえばイタリア」。多くの無線ファンがそんなイメージをお持ちかと存じますが、よくよく考えてみると彼の無線活動の拠点は英国でしたね。オックスフォードは首都ロンドンから西へ八十数kmほど離れた場所にある学園都市です(東京からだと熱海、大阪からですと姫路くらいの距離でしょうか)。英国へ旅行や出張される無線ファンの方で、もしお時間があれば、立ち寄られてはいかがでしょう。でも「所蔵していること」と「訪問時に展示されていること」は別の話でしょうから、事前に同館へ問い合わせされますように。また名前が似ている「オックスフォード自然史博物館(Museum of Natural History)」の方へ(間違って)行ってしまうツーリストも多いそうですので、この点にもご注意を。

【参考】 マルコーニ氏は何かオックスフォード大学と "ご縁" があったのかな?と調査してみたところ、1904年(明治37年)に同大学より名誉理学博士号を授与されていました(下図: "Personal", Electrical World and Engineer, Vol44-No.1, July 2nd,1904, McGRAW Publishing Co.[New York], p46))。

オックスフォード大学から名誉理学博士号を受けたマルコーニ(1904年)

また英国の新聞The Timesによると、その授与日は1904年6月22日でした。("The Encenia at Oxford", TheTimes, June 23, 1904, p8)

マルコーニ氏がその生涯において、複数の大学より名誉学位を与えられたことは良く知られていますが、それらはすべて同氏がノーベル賞(1909年)を受賞された後での出来事だろうと、私は思っていました。でもオックスフォード大学はノーベル賞より、5年も前にマルコーニ氏へ名誉博士号を授けていたのですね。つまりマルコーニ氏は想像以上に早い時期から「科学者」として高く評価されていたようです。

15) これが実験当時の写真か? [Marconi編]

1945年(昭和20年)、IEEE(Institute of Electrical and Electronics Engineers、アイ・トリプルイー)の前身組織のひとつである無線技術者学会IRE(Institute of Radio Engineers)が、1926年までの無線開拓史をまとめたRadio Pioneers 1945を発行しました。

【参考】IEEE Journals & Magazine, 1984 (Vol:CE-30, Issue:2), pp111-174 にも再掲されています。 

めずらしいマルコーニのパラボラ写真

この記念本にはとても珍しいマルコーニ氏のパラボラ式送信機(左図:左側)とパラボラ式受信機(左図:右側)が並べられた写真が収録されていますRadio Pioneers 1945, IRE, 1945, p49)

撮影場所の説明がありませんので詳細は不明ですが、デモが行われた1896年頃の写真ではないでしょうか?

この本はIREの編集委員が音頭をとり、各方面に点在していた無線開拓の歴史的資料を集め、1945年11月8日にマンハッタンのコモドール・ホテル(現:グランド・ハイアット)で行った無線パイオニアクラブ記念式典で配られました。

【参考】RCA(Radio Corporation of America、アメリカ・ラジオ会社)、VWOA(Veteran Wireless Operators Association、ベテラン無線通信士協会)、ARRL(American Radio Relay League、アメリカ無線中継連盟)も歴史的資料の提供に協力しています。個人としては無線史研究家のGeorge H. Clark氏からの資料提供や、1909年1月にアメリカ無線協会WAOA(Wireless Association Of America)創設して、米国のアマチュア無線家を組織化したヒューゴー・ガーンズバック(Hugo Gernsback)氏らも編集に加わりました。

 16) ソールズベリー平原でのデモ (9月2日)と、英国協会でのデビュー(9月22日) [Marconi編]

1896年7月27日のロンドン市内におけるパラボラ無線機のデモの後、翌8月も試験は継続され、マルコーニ氏より「安定した通信ができる」との報告を受けたプリース技師長は、ロンドン市街地を離れて、もっと広い場所で大規模な実験を行うようマルコーニ氏に話しました。

それが有名な1896年9月2日にソールズベリー平原のThree Mile Hillで行なわれたパラボラ式無線機のデモンストレーションです。

ケンプが立ち会った最初の実験(7月27日のパラボラ試験)は、その場にいた者には天啓のようなものだった。ほぼ1キロも離れた地点から発信された信号は、途中にある建造物の壁面にもまったく影響されることなくはっきりと送られた。この実験結果をみてプリースは、もっと広い地域で、より大規模なテストを行うようマルコーニに要請した。・・・(略)・・・起伏のあるソールズベリーの平原で、発信機は、皆がバンガローと呼んでいるバラックのような小屋に設置された。一方、受信機は、移動性を考慮して手引きの軍用荷車に乗せられた。発振装置の両側には、やっとのことで組み立てられたパラボラ反射板が取りつけられた(デーニャ・マルコーニ・パレーシェ著/御舩佳子訳, 『父マルコーニ』, 2007, 東京電機大出版局, p55)

 

1896年9月17-23日、リバプールで英国協会The British Association for the Advancement of Science(現:British Science Association)の第66回大会が開かれました。分科会Section "A"(Mathematical and Physical Science)の9月22日のミーティングにおいて、プリース氏がディスカッション中に"マルコーニの無線実験"について少々触れました。ところが意外なことに、その電波実験がみんなの注目を集めるところとなり、翌9月23日の新聞The Times紙が「英国協会大会」の記事の中でマルコーニ氏のことを報じました(下図)。

マルコーニのデビュー記事

自分が助言しているイタリア人の青年マルコーニが、ソールズベリー平原でパラボラ反射鏡(parabolic mirror)を用いてヘルツ波の試験を行い、1-1/4マイル(=2km)まで届いた。」という趣旨の発言です。

Mr. W.H. Preece stated that a young Italian, Signor Marconi, described to him experiments in which he had, by means of Hertzian waves, transmitted signals to a great distance.  With the speaker’s assistance Marconi had continued his experiments in London and on Salisbury plain he had succeeded in producing electric waves and reflecting them from one parabolic mirror to another one and a-quarter mile distant.  At the latter place they fell on a receiving apparatus, which actuated a relay and produced Morse signals.  The experiments had been made with crude apparatus and without using any great amount of energy of radiation. ("The British Association", The Times, Sep.23, p8)

これまで英国の一部関係者にしか知られていなかった"マルコーニの無線"が、英国の新聞The Times(9月23日)を通じて一般の人々 にも紹介されたのです。9月23日がマルコーニ氏の公式デビューの日となりました。

17) ソールズベリー平原での実験の絵の誤り [Marconi編]

ソールズベリー平原の実験

さてマルコーニ氏がソールズベリー平原で実験する有名な絵があります(左図)。よく見るとイタリア時代の接地式ブリキ板アンテナが描かれているではありませんか!

前述したとおり英国を代表する大新聞The Times紙が、「マルコーニ氏の実験はパラポラ反射器によるものだった」と報じているのに、これはどうしたことでしょう。

元郵政省電波研究所長で、無線黎明期の研究における我国の第一人者である若井登氏が、この絵の誤りを指摘されています(=これは画家の想像図であろう)。

マルコーニは、1896年6月にプリースの目の前で初めて100ヤード程の距離の無線電信を実演した。そして7月と8月には郵政庁や陸海軍の関係者を招いて、ロンドン市内の郵政庁の建物と、400mほど離れた銀行との間で実験を行なった。同年9月2日にはロンドンの西100kmほどのソールズベリー平原で大勢の観客を前に、2.8kmの通信に成功した(図2、注: この送信機とアンテナはイタリアで初めて実験に成功したものであり、これでは2.8km届かないはずである。 画家の想像図であろう)(若井登, マルコーニの実験レポート(1) -電信機発明者の証し-, 『ARIB機関紙』, 1998.11, 電波産業界, pp34)

私も念入りに文献調査してみましたが、マルコーニ氏がイタリア時代に試したブリキ板送信機をソールズベリー平原の実験で使用したという記録は全くありませんでした。この絵が、誤解を生じさせたのは間違いないと考えます。

ソールズベリー平原での実験はパラボラでその周波数は1GHz付近ですが、「マルコーニ氏=長波無線」という誤ったイメージが今も日本にあるのは残念です。

18) ロシアの無線のパイオニア「ポポフ」に伝わる [Marconi編]

マルコーニと並ぶ無線電信の実用化のパイオニアである、ロシアの海軍水雷士官学校の教官アレクサンドル・ポポフは、このタイムズ紙の記事でマルコーニのことを知ったようです。ソ連の国立レニングラード大学へ留学経験のある、東工大の梶氏がつぎのように述べられています。

ポポフがマルコーニの実験を初めて知ったのは96年9月のことである。ポポフにはマルコーニのような恵まれた条件はなかったが、それでも自分の装置の改良を進めながら船舶間の通信実験(1897年春)を続け、同じ分野の研究者にひけを取らないと自負することができた。(梶雅範, ポポフ:無線電信の実用化のパイオニア, 『KDD テクニカルジャーナル』(No.27), 1997.1 [冬号], KDDクリエイティブ, p3)

  電気通信大の冨澤氏の論文にも同様の記述があります。

1896年秋、イギリスからの短い新聞記事を読んだポポフは、マルコーニの通信実験について知った。だがその装置の詳細は不明であった。それでもポポフはマルコーニが自分と同じ道を歩んでいるものと推察して、自身の方針にしたがって研究を続けた。(冨澤一郎, 日本海海戦:その情報通信からの視点1 -海戦をめぐる情報通信環境とA.S. ポポフ-,『太平洋学会誌JPS』通巻第94号(第28巻第1号), 2005.5, 太平洋学会, p26)

ポポフの切手
講義中のポポフ教授

私は勉強不足でポポフ氏(左図[左])のことを良く存知ませんが、電気学校の教授に就任した1901年(明治34年)以降になると、フィールド実験はほとんどできなくなったそうです(左図[右]:学生達に無線実験を見せているポポフ教授)。

しかし、1901年にペテルブルグの電子工学専門学校物理学教授になってからは教育負担から研究はほとんどできなくなった。5年(1905年)同校の校長に選出され、第一次ロシア革命の激動の中、6年1月(1906年1月13日)脳溢血で亡くなった。 (梶雅範, ポポフ:無線電信の実用化のパイオニア, 前傾書, p3)

19) 英国でデビューしたマルコーニ [Marconi編]

マルコーニ氏のことを伝えたのは新聞だけではありません。英国の週刊電気専門誌The Electrician(1896年9月25日号, Notes, p685)にも掲載されています(下図)。

マルコーニを伝える英国雑誌

At the Tuesday(9月22日) meeting of  Section A, Mr.Preece stated in the course of the discussion on Prof. Chunder Bose's Paper on "Electric Wave Apparatus," that a young Italian, Signor Marconi, had described experiments in which he had, by means of Hertzian waves, transmitted signals over a considerable distance, and as a result Mr. Preece had assisted Signor Marconi to continue his experiments in London and on Salisbury Plain.  Signor Marconi has now succeeded in producing electric waves and reflecting them from one parabolic mirror to another one and a-quarter mile distant, the waves falling on a receiving apparatus, which actuated a relay and produced Morse signals; ・・・(略)・・・』 The Electrician No.958, Sep.25, 1896, p685)

マルコーニを伝える英国雑誌(ネイチャー)

また英国の科学雑誌Natureが、マルコーニ氏と助手のケンプ氏が、1-1/4マイルを達成したと伝えています(左図)。

Signals have been transmitted (by Signor Marconi, working with Mr. Kempe) across a distance of one and quarter miles on Salisbury Plain; further experiments are to be made on the Welsh hills. Nature 1896年10月8日号, Physics at the British Association, p567)

この二人の名前が並んだ記事はおそらくこれが最初でしょう。

 20) マルコーニの名前がアメリカに伝わる(パラボラ反射鏡の無線実験家として) [Marconi編]

特に注目したいのは、いくつかのアメリカの専門誌がマルコーニ氏のソールズベリー平原での実験を紹介したことです。つまり無名だったイタリアの一青年の名前が、1896年10月中旬から下旬には大西洋を越えてアメリカにまで届いたのです。

それも「パラボラ反射鏡(parabolic mirror)を使う実験家」としてです。マルコーニ氏がイタリア時代に考案した「接地式のブリキ板やブリキ缶アンテナ」は、まだ世間には知られていなかったのです。

下図[左上]の週刊電気専門誌The Electrical Engineer(1896年10月14日号, "Morse Relay Signaling by Means of Hertzian Waves", The Electrical Engineer[New York], p379)、下図[左中]のThe Electrical World(1896年10月17日号, "Transmitting Signals with Hertzian Waves (Without Wires)", The W.J. Johnston Company[New York], p466)、下図[右]のScientific American Supplement(1896年10月31日号, Electrical Notes, Munn and Co.[New York], p17376)、下図[最下]のElectricity(1896年10月21日号, "Telegraphing by Means of Hertzian Rays", Electricity Newspaper Company[New York], p233)がマルコーニ氏のパラポラ実験を伝えています。いずれも米国雑誌です。

マルコーニを伝えるアメリカ雑誌

また1896年11月8日付けの日刊紙The Indianapolis Journal(p12, 米国インディアナ州)に、「マルコーニ氏がパラボラ反射鏡を使って1 - 1/4マイルの無線通信に成功」したことを紹介する記事を見つけました。私は腰を据えて調べたわけではありませんが、いくつかの米国の新聞でも取り上げられたと想像します。

 21) ロンドンのトインビーホールで発表 [Marconi編]

ところでマルコーニ氏のパラボラ実験をほんの少し紹介しただけなのに、想像以上に反響があったことに対して、一番驚いたのはプリース氏自身だったようです。プリース氏はこのあと(12月12日)、ロンドンのトインビーホール(Toynbee Hall)で"Telegraphy without Wires"という講演を行い、マルコーニ氏の実験を大々的に紹介しました。

つまりマルコーニ氏の無線は1896年12月12日のトインビーホールの講演で注目されるようになったというよりも、9-10月において世界的に注目されるようになったから、トインビーホールで紹介されたというのが真相のようです。

マルコーニは1896年の6月から9月にかけて、何回か無線電信の公開実験をした。特にソールズベリー平原において行った9月2日の実験は、パラボラ反射板による指向性制御が目的であった。この結果を含むそれまでの実験結果について、12月12日にプリースがロンドンのトインビーホールで講演し、マルコーニの無線電信機の実演をした。(無線百話出版委員会編, 『無線百話』, 1997, クリエイト・クールズ, p63)

21) パラボラ実験の到達距離の不思議 [Marconi編]

1896年9月22日、GPOのプリース技師長が開催中の「英国協会大会」でマルコーニ氏の無線実験を紹介した際にはその通信距離は1-1/4マイル(2.0km)とされ、この数字が世界に報じられました。

ところが現代の文献では、どれも1-3/4マイル(2.8km)なっています。

ここでは彼が次々と通信距離を伸ばしていった足どりを追ってみる。1896年6月の初めての公式実験では100ヤードであった。マルコーニは郵政局、陸軍や海軍からの要請に応え、7月と8月にもロンドン市内で実験したが、その際の距離の記録はない。次の実験は同年9月2日ソールズベリー平原で行なわれ、ヘルツ式パラボラ反射鏡を使って1.75マイル(=1-3/4miles=2.8km)の通信に成功したとある。(若井登, 電波史発掘 - 無線電信の本当の発明者は誰か, 『情報通信ジャーナル』, 1995.1, 電気通信振興会, p47)

"A History of the Marconi Company"(下図)などの海外書籍でも、1896年9月2日のソールズベリー平原でのデモでは、パラボラ反射器を使って1-3/4マイル(2.8km)を記録したと書かれています。

"A History of the Marconi Company"

This took place on 2 September 1896, from a building on the Three Mile Hill, Salisbury Plain, with the objective of establishing the feasibility of directional control by means of metallic reflectors. A range of one and three-quarter miles was recorded.  (W.J. Baker, A History of the Marconi Company 1874-1965, 1970, Methuen[London], p29)

とても不思議ですよね。この件を次に説明します。

22) ロンドンの電気学会で到達距離を修正 [Marconi編]

結論から先に述べると、1899年(明治32年)3月2日、マルコーニ氏はロンドンの電気学会IEEで、これまで自分が行ってきた無線研究の成果を発表しました(なお、その内容については後述します)。

過去の振り返りの中で、マルコーニ氏はプリース技師長が3年前に述べた到達距離「1-1/4マイル(2.0km)」を、「1-3/4マイル(2.8km)」だと修正しました(下図)。

1896年の英国協会のミーティングでプリース氏が言及した、パラボラ反射器で得られた結果は1-3/4マイルでした。

Journal of the Institution of Electrical Engineers [No.28], 1899

It was by means of reflectors I obtained the results over 1-3/4 miles mentioned by Mr. Preece at the British Association meeting of 1896. (G. Marconi, "Wireless Telegraphy", Journal of the Institution of Electrical Engineers [No.28], 1899)

 このあたりの事情については、まだまだ研究の余地がありますが、とにかく現在では、ソールズベリー平原のパラボラ式無線機の到達距離は2.8km(1-3/4マイル1.75マイル)というのが定説となっています。なにぶん実験を行った当事者であるマルコーニ氏の発言ですから。

23) 到達距離修正を雑誌が紹介 [Marconi編]

マルコーニ氏がロンドンの電気学会で研究発表(3月2日)をした直後の1899年3月27日に英仏海峡横断試験を成功させました。

の成功を受けて雑誌McClure's Magazine 6月号(The S.S. Mc'Clure Co.)がマルコーニ無線電信の特集記事"MARCONI'S  WIRELESS  TELEGRAPH:Messages sent at will through space - Telegraphing without wires across the English Channel" (Cleveland Moffet, pp99-112) を掲載しました。

この記事は3月2日のマルコーニ氏の講演を参考にしており、ソールズベリー平原でのパラボラ反射器の試験に触れる部分があり、さっそく「1896年の試験は2.8km(1-3/4マイル)だった」との新しい見解が採用されています。

マルコーニは電文を特定方向だけに送るのが望ましいと考えていました。英仏海峡横断通信に使った高く懸垂したワイヤー式アンテナとは全く異なる種類のものを実験していました。それは直径2-3フィートの銅製パラボラ反射器の焦点にリーギ発振器を置きましたが、輻射する波はほんの2フィート程のもので、懸垂ワイヤー式のものに比べて、たいしたことはありません。

ソールズベリー平原で行なった試験では1-3/4マイル(=1.75miles=2.8km)で完全に通信でき、反射器を向けた方向へ電文を送ることができました。目には見えませんがヘルツ波が反射器で細く収束されています。そして反射器がほんの少しずれても届かなくなることが分かりました。

ざっくりこんな感じでしょうか。以下原文です。

Marconi realizes, of course, the desirability of being able in certain cases to transmit messages in one and only one direction. To this end he has conducted a special series of experiments with a sending-apparatus different from that already described. He uses no wire here, but a Righi oscillator placed at the focus of a parabolic copper reflector two or three feet in diameter. The waves sent out by this oscillator are quite different from the others, being only about two feet long, instead of three or four hundred feet, and the results, up to the present, are less important than those obtained with the pendent wire. Still in trials on the Salisbury Plain, he and his assistants sent messages perfectly in this way over a distance of a mile and three-quarters, and were able to direct these messages at will by aiming the reflector in one direction or another. It appears that these Hertzian waves, though invisible, may be concentrated by parabolic reflectors into parallel beams and projected in narrow lines, just as a bull's-eye lantern projects beams of light. And it was found that a very slight shifting of the reflector would stop the messages at the receiving end. In other words, unless the Hertzian beams fell directly on the receiver, there was an end of all communication. (Cleveland Moffet, McClure's Magazine, June 1899, The S.S. Mc'Clure Co., pp107-108)

24) 到達距離修正はどのように浸透していったか? [Marconi編]

従来からの到達距離2km(1.25マイル)が、新たに修正された2.8km(1.75マイル)へ急に置き換わったというよりも、当初は1.75マイルを丸めた「約2マイル」という表現が好まれたようです。

1899年にロンドンで初版が出された無線技術史 A History of Wireless Telegraphy, 1838-1899 に、さっそくこの修正が反映されていますが、「ほぼ2マイル」といように丸められています(下図)。

A History of Wireless Telegraphy, 1838-1899

The first experiments in England were from a room in the General Post Office, London, to an impromptu station on the roof, over 100 yards distant, with several walls, &c., intervening. Then, a little later, trials were made over Salisbury Plain for a clear open distance of nearly two miles. In these experiments roughly-made copper parabolic reflectors were employed, with resonance plates on each side of the detector (see figs. 37, 39). (John Joseph Fahie, A History of Wireless Telegraphy 1838-1899, Blackwood[Edinburgh], 1899, p211)

 さらに1904年(明治37年)に出版された The Story of Wireless Telegraphy(左図)にも記録されましたが、やはり2マイルという表現でした。

The Story of Wireless Telegraphy

These having proved successful, his system was submitted to a more critical test on Salisbury Plain, with a clear distance of two miles between the sending and receiving stations. In these experiments parabolic reflectors and resonance plates were used.(A.T.Story, The Story of Wireless Telegraphy, 1904, D. Appleton and Company, p147)

 

この部分は海軍大学の木村駿吉氏が、早くも1905年(明治38年)に日本へ紹介しています。

マ氏の英京(ロンドン)に於ける研究は、明治廿九年(1896年)七月に始まれり。第一の試験は、逓信省の壁を隔てて百呎(フィート)の通信をなし、次にソールズベリー平原に於て、銅製放物面鏡と同調板なるものを用い、二哩(マイル)の通信をなせり。(木村駿吉, 『世界之無線電信』, 1905, 内田老鶴圃, pp9-10)

ということは、当時の日本では到達距離を2マイルと修正されたということです。

短波から中波に降りてくる