マルコーニ 1924-1925
帝国ビーム回線の受注 昼間波の発見
帝国ビーム回線の受注 昼間波の発見
1924~1925年 目次
1923年(大正12年)5-6月に4,130km離れたカーボベルデ諸島で、電離層反射によりポルドゥー2YT波が強力に受かることを確かめました。まずこの話題を振返っておきます。
この実験から5年後、逓信省の技師・技手らが共同で『無線科学大系』(誠文堂無線実験社,1928)をまとめました。 カーボベルデ試験の結果がその当時の技術者達の予想とまるで違っていたことが記されています。
『マルコーニはフランクリンと共同して1923年の春、短波の性質、通達距離を多少組織的に研究する目的で、コーンウォールのポルヂュー実験局より送信し、別に汽船エレットラ号に受信装置を搭載して、受信試験を行った。
その時は電波長約97米、空中線電力約12キロを使用し、西班牙(スペイン)、モロッコ、マデイラ、ケープヴェルデの各港各地で受信した結果、昼間1,250浬(カイリ)まで容易に受信し得られ、夜間は2,320浬を隔たったケーブベルデ島では強感であって、実用距離はさらにこれ以上あることが予測された。
当時の技術者の間では短波は(1)昼間通達距離ははなはだ短い、(2)夜間通達距離は時には著しく延長されることがあるかも知れないが、変化が多いから長距離の実用通信には使用できないであろう。陸上ことに山岳を通る場合は通達距離ははなはだ短くなるであろう等という意見であったが、この実験の結果、以上の考えは違っていて、少なくも100米近くの波長では昼間通達距離は短いものではなく、一般の予想より遥かに大であり、夜間の感度は変化少なく、予想を裏切る様な大きな通達距離を得られる事実を知ったのである。なおまた、空電に対しては当時長距離用としてもっぱら全盛であった長波に比べて短波はその妨害をこうむることが遥かに少ないことが知られた。』 (竹林嘉一郎, "第六編短波長", 『無線科学大系』, 1928, 誠文堂無線実験社, p412)
1936年(昭和11年)4月4-8日に開かれた工学会第三回大会(東京帝国大)の講演で、逓信省の小野孝氏は次のようにマルコーニ氏による短波の電離層反射の発見を称えました。 小野氏は官練J1PP, 検見川無線J1AAの短波無線電話送信機の設計者で、GHQ/SCAP占領下時代には30MHz帯FMシステムを立上げ「警察無線近代化の父」として無線界に名を残された方です。
『探照灯の原理に従う指向性送信法の有利なるを確信し、これが完成に腐心し最初の無線電信の発明者マルコーニ氏は、実用的指向性空中線を考案し、これに要する10kW程度の短波を真空管式送信機によって求め、大正12年春 実験的に長距離通信用として有数かつ能率的なることを証明し、指向性短波無線通信法の先駆をなしたのであります。』 (小野孝, "講演「国際通信」", 『工学会大会記録 第三回』, 1936.10, p624)
減衰が激しいと思われていた短波が、電離層反射で4,200kmもの遠距離へ(それも小電力なのに極めて強力に)届くことがマルコーニ氏によって実証されました。ただしそれが "巨大ビームのおかげで電離層反射させることができた" のか、あるいは "そもそも短波が効率良く電離層に反射されるため" かについては、まだ切り分けが出来ていませんでした。
さて1924年(大正13年)早々。マルコーニ社はポルドゥー2YTを入力17kWに増力、波長を92m(3.26MHz)に変更しました。
そして1924年2月にマルコーニ社のマチュー氏がニューヨークへ向かうホワイトスターラインの客船セドリック号(左図:Cedric, 呼出符号MDC)に乗り込み、短波受信機を設置して、ポルドゥー2YTの聞こえ方を調査しました。
エレットラ号の短波受信機を設計したのがマチュー氏ですから、エレットラ号の受信機とほぼ同型のものがセドリック号でも使われたと想像します。なおこの実験ではポルドゥー2YTのパラボラ反射器は降ろされ、輻射器だけでの送信でした。
結果は上々で夜間であれば約5,200km離れたニューヨークの玄関口、ロングアイランドにおいても、まだ2YTの電波が強力に受信され続けていたのです。また途中1,400ノーティカルマイル(= 2,593km)までは昼間も受信できて、さらに太陽の水平線からの高さと、信号強度が反対の関係であることがはっきりと観測されました。昨年のカーボベルデへの航海では中間地点であるマデイラ諸島沖1,250ノーティカルマイル(= 2,315km)まで昼間通信できた記録を今回更新しました。
『 一九二四年二月に大西洋航路セドリック号に受信機を設置してマルコーニ会社、技師マシューが乗船して受信試験を行った。この試験において、ポルデュー局は反射器を使用せずして九二米(3.26MHz)の波長を送信することとなった。この波長を用いて、昼間の通信距離は一、四〇〇浬(=2,593km)であるを発見し、信号の強度は何時も太陽の平均高度に反比例することが確認された。紐育(ニューヨーク)において夜間に非常な強度の信号が受信し得た。 』 (岡忠雄, 『英国を中心に観たる電気通信発達史』, 1941, 通信調査会, p352)
『・・・(略)・・・February 1924 further tests were carried out covering the greatest distances on the earth. A receiver was installed on the S.S. Cedric and reception test were carried out by Mr. Mathieu on the voyage to and from New York. Poldhu used no reflector during this test, transmitting on a wavelength of 92 metres. The Poldhu transmitter was giving a radiation from the aerial of about 17 kilowatts. Using this wavelength the daylight range was found to be 1400 nautical miles, and it was confirmed that the signal intensity is proportional to mean altitude of the sun at all time. Signals of great intensity were received in New York by night. 』 (R.N. Vyvyan, Over Thirty Years, 1933, George Routledge & Sons LTD., p81)
マルコーニ氏は月刊Radio Broadcast(1925年7月号)にこれまでのビーム開発について、9ページにまとめた記事を書きました。
その中で、1924年2月の短波による大西洋横断試験についても触れていますので引用します。
『 In view of these rather encouraging results, further tests were made early in 1924 between Poldhu, using some 17 kilowatts of power and waves of 92 meters and a special receiver installed on the White Star Liner Cedric.
The result showed that during the daytime signals could be received up to 1400 nautical miles and confirmation was obtained that their intensity was dependent on the mean altitude of the sun at all times. 』 (Guglielmo Marconi, "Will "Beam" Stations Revolutionize Radio?", Radio Broadcast Vol.7-No.3, July 1925, Doubleday Page & Company, pp326-327)
マルコーニ氏は英国王立技芸協会Royal Society of Arts(ロンドン)での講演(1924年7月2日)で、米国のRCA研究所のH.H. Beverage技師の測定によれば、ニューヨークにおけるポルドゥー2YTの強さは平均90μV/mと報告しています。
『 Signals of great intensity were received at Long Island, New York, during the hours when darkness extended over the whole distance separating the stations, and of less intensity when the sun was above the horizon at either end, the intensity of the signals varying inversely in proportion to the mean altitude of the sun when above the horizon. According to the measurements carried out Mr. H. H. Beverage, Research Engineer of average strength of the signals at New York was 90 microvolts per metre. 』 (Guglielmo Marconi, "Results obtained over very long distance by short wave directional wireless telegraphy, more generally referred to as the beam system", Journal of the Royal Society of Arts, July 25. 1924, Royal Society of Arts [London UK], p613)
そもそもマルコーニ氏の短波による遠距離伝搬試験にはとても不思議に思えることがあります。
ポルドゥー長波局MPDはマルコーニ氏が1901年12月12日にニューファウンドランド(カナダ)のシグナル・ヒルへの大西洋横断通信(中波による3400km)に成功した由緒ある名門無線局です。歴史的無線局として全世界の電波関係者に知られています。
であれば短波でも、再びポルドゥー局から大西洋を越えたいと考えるのが自然ではないでしょうか?当初、私はポルドゥー局の地形的な条件で、北米向けにビームを建設できなかったのかとも思いましたが、ポルドゥー巨大ビームの下写真を見ると、視界が大きく開けた岬に建設されたので、そんな話でもなさそうです。
ではなぜマルコーニ氏は巨大短波ビームの腕試し(1923年4月~)に、大西洋横断通信を選択しなかったのでしょうか?
一番の理由はエレットラ号で海上を縦横無尽に移りながら受ける方が、(固定点受信よりも)多くのデータを集められるからでしょう。その気持ちの方が、「大西洋横断成功」の栄誉よりも勝ったのでしょう。
二番目の理由。アマチュア無線家が1921年2月から大西洋横断試験にチャレンジしていたことは無線界では良く知られており、マルコーニ氏も知っていました。なんといってもマルコーニ社はアマチュアらの第1回大西洋横断試験(1921年2月実施)からのスポンサー企業のひとつですから。そんな「アマチュア達の実験の場」に、自分が12kW短波送信機にパラボラ・アンテナという強大な設備で乗り込むのは、さすがにまずかろうと考えたのではないでしょうか? もちろん私の想像ですが・・・
さて真意は分かりませんが、とにかくマルコーニ氏は大西洋横断試験はあと回し(結果的に1924年2月)にし、南大西洋にビームを向けてカーポ・ベルデ諸島方面で巨大ビームの洋上受信試験を行いました。
1923年(大正12年)当時、マルコーニ氏が短波の開拓のトップ・ランナーであることは揺らぐことのない事実でしたが、急激に追い上げてきた二番手の走者がフランク・コンラッド氏(米国の中波ラジオ局KDKAの技術者)です。KDKAは英国の会社と「ラジオ番組を短波で大西洋横断中継する」共同実験をスタートさせました。そして1923年9月にKDKAの短波実験局8XSが短波3MHzで無線電話の短波中継に成功しましたが、明瞭度に問題がありこのニュースはまだ非公表でした。
【参考】 アマチュア無線家の「短波による大西洋横断」2Way交信は1923年11月27日でした(無線電信)。
1923年12月29日に米国KDKAの短波実験局8XSが、ついに実用的なクオリティーで英国への番組中継を成功させました。1924年(大正13年)1月1日午前00:00(GMT)、「新春特別番組」と称して、KDKAオーナーのウェスティングハウス社副社長が、短波中継で英国のリスナーへ新年の挨拶しました。
いうまでもありませんがマルコーニ社は英国にあり、マルコーニ氏は英国に住んでいました。米国KDKAから短波中継された番組を、英国ラジオ局が中波でサイマル送信してくれるので、高級受信機が買えない、鉱石受信機の人々でも米国KDKAの番組が聴けるようになりました。これは英国の一般人にもっとも分かりやすい短波の有効性でした。しかしコンラッド氏のKDKAに先を越されてしまったマルコーニ氏には、けして愉快な話ではなかったようです。
そういうこともあり、気分があがらないのでしょうか? マルコーニ氏は1924年2月のセドリック号の試験の話題を積極的には取り上げていません。英国王立技芸協会Royal Society of Artsでの発表と、上記Radio Broadcast誌(1925年7月号)に書いた記事くらいだと思います。
1924年(大正13年)2月、マルコーニ社はオーストラリアのシドニーにある、Amalgamated Wireless (Australasia)社の実験局に技術者を派遣し、ポルドゥー2YTを受けるための短波受信施設を設けていました。マチュー氏がセドリック号に短波受信機を積み大西洋を往復しながら2YTの受信試験を行っていましたので、これに合わせてオーストラリアとカナダで受信を試みることになりました。
1924年(大正13年)4月3日、AW社のシドニー実験局はポルドゥー2YTの3.26MHz波(電信)をキャッチすることに成功しました。またカナダでも16時間聞こえたそうです。
『During these tests the Australian Company were listening in, and reported that signals were received in Sydney, Australia, quite clearly and of good strength from 5 to 9 p.m. Greenwich mean time and also from 6.30 to 8.30 a.m. In Canada it was possible to receive the signals for about 16 hours out of the 24. 』 (R.N. Vyvyan, Over Thirty Years, 1933, George Routledge & Sons LTD., p81)
【参考】 新聞はマルコーニの「ビーム」と伝えましたが、実際にはポルドゥーの反射器は一旦降ろされたので「反射器なし」でのテストでした。また最初に聴こえたのは3月6日とする文献もあります。
そこでマルコーニ氏はポルドゥー2YTから無線電話でオーストラリアにメッセージ送ってみました。
1924年正月にかけて米国KDKAから英国BBCへの国際中継放送も行われました。短波の無線電話ではKDKAに遅れをとっていたマルコーニ社ですから、ここで一気に地球の裏側のオーストラリアへ無線電話を送ろうと考えたのかも知れませんね。パラボラ反射器なしでオーストラリアまで届くことが分かっていましたので、今回も反射器は使いませんでした。
『The results were so impressive that Marconi decided to attempt to telephone to Australia, still using the 92 metre wavelength and no reflector, with the result that good speech was successfully transmitted to Australia from England for the first time on the 30th May 1924. 』 (R.N. Vyvyan, Over Thirty Years, 1933, George Routledge & Sons LTD., p81)
電信よりも技術的な難度はアップしますが、一般人へのアピールとしては電話の方が効果的です。送信機に変調器を取付ける改造が施され、さらに送信入力を18kWに増力しました。
【参考】 送信入力28kWとする文献もありますが、マルコーニ社は各真空管ごとの電力を示しながら、その「合計電力が28kW」だとプレス発表したのですが、それを「(終段)送信入力が28kW」だと誤解され伝わったためです。
そして1924年5月30日、ついにシドニーへ「英国人の声」が届いたのです。もう大騒ぎです!6月3日に通信社がこのニュースを世界の報道機関へ配信しました。なお地元オーストラリアでは以下のように、6月4日の新聞各紙が一斉にこの快挙を報じています(ビームを使ったかのように報じていますが、実はパラボラ反射器は使っていません)。
"AUSTRALIA HEARS ENGLAND" (The Register, June 4,1924, p4)
"Wireless Telephony. England and Australia." (The West Australian, June 4,1924, p9)
"WIRELESS TELEPHONY FROM ENGLAND TO AUSTRALIA" (The Brisbane Courier, June 4,1924, p7)
"ENGLAND TO SYDNEY. HUMAN VOICE TRANSMITTED. BY BEAM SYSTEM." (The Daily News, June 4,1924, p8)
"Wireless Telephony A SUCCESSFUL EXPERIMENT. SYDNEY TO ENGLAND." (Examiner, June 4,1924, p5)
"WIRELESS TELEPHONY. Marvelous Achievement. England Speaks to Australia." (The Mercury, June 4,1924, p7)
"TELEPHONY. VOICE FROM ENGLAND BY BEAM SYSTEM. ANOTHER ADVANCE IN WIRELESS" (The Sydney Morning Herald, June 4,1924, p13)
"RADIO TRIUMPH, England to Australia, VOICE HEARD" (The Daily Telegraph, June 4,1924, p8)
"WIRELESS TELEPHONY ENGLAND TO AUSTRALIA. SUCCESSFUL EXPERIMENTS." (Kalgoorlie Miner, June 4,1924, p5)
"WIRELESS TELEPHONY. A SPEECH TRANSMITTED FROM ENGLAND TO AUSTRALIA" (Barrier Miner, June 4,1924, p4)
"ENGLISH VOICES. SYDNEY HEARS Wireless Phone NEW "BEAM" SYSTEM" (Evening News, June 4,1924, p3)
"Distance No Bar, Marconi's Wireless Claim In Touch With Australia" (The Telegraph, June 4,1924, p3)
翌6日にもオーストラリアの多くの新聞が、英国の無線電話が聞こえたことを取りあげました。
"HELLO, ENGLAND! THE WONDERS OF WIRELESS ENGLAND AND AUSTRALIA. CONVERSATION CLEARLY HEARD. NO LIMIT TO DISTANCE. " (Tweed Daily, June 5,1924, p3)
"MARCONI INTERVIEWED" (Daily Examiner, June 5,1924, p5)
"WIRELESS TELEPHONY ENGLAND TO AUSTRALIA" (Singleton Argus, June 5,1924, p2)
"HELLO, LONDON Voice from Sydney HISTRIC MESSAGE LONDON" (The Newcastle Sun, June 5,1924, p1)
"WIRELESS MARVELS. TALKING ACROSS THE WORLD LONDON HEARD IN SYDNEY" (The Advertiser, June 5,1924, p9)
"MODERN MARVEL VOICE TRANSMISSION SUCCESS FROM ENGLAND TO AUSTRALIA." (Northern Star, June 5,1924, p5)
"WIRELESS WONDERS. TELEPHONE BETWEEN ENGLAND AND AUSTRALIA" (Townsville Daily Bulletin, June 5,1924, p7)
"VOICE FROM ENGLAND Heard in Sydney by Wireless A Remarkable Achievement" (Goulburn Evening Penny Post, June 5,1924, p8)
"WIRELESS TELEPHONY. ENGLAND AND AUSTRALIA" (Western Mail, June 5,1924, p13)
"WIRELESS TELEPHONY. England and Australia. Successful Experiments. " (The Mercury, June 5,1924, p7)
"WIRELESS TELEPHONY England to Australia SUCCESSFUL EXPERIMENT. London, Tuesday." (The Ballarat Star, June 5,1924, p1)
"HULLO, LONDON New Telephonic Era. MARCONI CONFIDENT." (Toowoomba Chronicle and Darling Downs Gazette, June 5,1924, p5)
"WORLD-WIDE TELEPHONES. MARCONI INTERVIEWED. Possibilities of the "Beam" System." (The Age, June 5,1924, p8)
"England to Sydney HUMAN VOICE TRANSMITTED. FIRST SUCCESS." (The Albany Despatch, June 5,1924, p2)
"VOICE FROM ENGLAND Heard in Sydney by Wireless A Remarkable Achievement" (Goulburn Evening Penny Post, June 5,1924, p8)
ちなみにオーストラリア側における短波開発ですが、Amalgamated Wireless (Australasia)社の短波実験局2MEがビーム送信を試したところ、1924年(大正13年)11月11日18時に英国のヘンドン局で受信されたのが最初です(オーストラリアからの短波送信)。
英国-オーストラリア間の無線電話のニュースは日本にも早いタイミング(6月3日電)で伝えられたようです。
『六月三日の外電によると、イギリスからオウストリア洲(原文まま)まで無線電話を通ずることに立派に成功したと伝えているが、その詳細は秘密として未だ発表されていない。』 (田村昌四郎, カイゼルとマルコニー, 『無電ロマン』, 1924, 恵風館, p131)
1924年(大正13年)9月、岡田定幸氏により創刊された無線雑誌『家庭と無線』創刊号(『無線と実験』のライバル誌?)には、逓信省通信局の畠山敏行局長の次の一文があります。
『最近マルコニー氏は比較的僅少の電力をもって英国とシドニーとの間七千哩の実験通話に成功した。殊にこの際、氏は電波を四方に伝播せしめず、主として目的地の方向に通達する指向式通信方法に就ても、甚だ良好の成績を収め、無線電話技術の進歩は侵々乎たる状況である。』 (畠山敏行, "無線電話の発達と其使命", 『家庭と無線』, 1924.9創刊号, 家庭と無線社, p5)
私は1924年の日本の新聞を探してみたのですが、英濠通信成功の記事は見つかりませんでした。ちょうど1924年の4月から逓信官吏練習所の無線実験室が(JOAKに先立って)中波ラジオの定時実験放送を開始し、世は「放送」の話題で持ち切りの時期ですので、短波による英濠通信成功は逓信省や一部の無線関係者しか注目しなかったのでしょうか。
1925年(大正14年)、電気試験所の畠山孝吉氏が"ワイヤレース・ビームの原理"(『無線と実験』, 1925年6月号)という記事で英濠間の短波ビーム通信について書きました。
『光をサーチライトでただ一方向にだけやると同じ様に、無線の電磁波も現在では任意の方向に送る事が出来る様になりました。光の場合にはこれを集中するために、時にレンズを使用する事もありますが、これを更に一般的にいえば、反射器(レフレクター)というものを用いるのであります。
無線のビーム・ステーションでもまた反射器を使用するのでありますが、無線用の反射器は良く磨いた固体の金属板ではなくて、針金で作った一つのすだれであります。このすだれにも、曲線型になっているのもあれば、ただ平らな壁の様になっているのもあります。
マルコニイ氏は(1896年にソールズベリー平原で行った)最初の実験で反射器を使用しましたが、その後は使用致しませんでした。ところが千九百十六年に至りまして、氏は再びこの問題に手を触れたのであります。
マルコニイ氏は千九百十六年より今日(1925年)まで、連続的に短波長の実験を行っており、レフレクターも次第に改良され、遂に無線電波もこれがために、英国から米国に達し、大陸から大陸へ強い信号電波をもたらしたのであります。しかして英国とオーストラリア間で直接通話するために、短波長が使用されたのであります。』 (畠山孝吉, "ワイヤレース・ビームの原理", 『無線と実験』, 1925.6, 無線実験社)
さらに"ビーム方式電波の将来"(『科学の世界』, 1925年10月号)という記事もこれを取り上げました。
『ラヂオ波の特性の一つである反射性を応用して、あたかも探照燈で光線を一方向に投射すると同様にビームとして電波を送射する事を、実際上に応用せんと考え出したのはつい近頃の事である。しかしこのビーム方式の無線送電を、はじめて大規模に試みたのは、かの無線電信の発明者として有名なマルコニーである。
マルコニーは放物断面をもった、金属の反射器を高く立てて、その焦点に送信機を配置した。かくの如くすれば送信機から出た電波は、反射器によって反射せられ、反射圏内にある受信機のみがこれを受信し得て、圏外のものは、全く通信を受ける事が出来ない。マルコニーは、この方法によって任意の方向に電波を放射して、非常に有効な通信に成功した。
現在マルコニー会社では、英国から濠洲への無線通信にこれを用い、三〇米(10MHz)内外の短波長によって、好成績を挙げている。この電波の指向発送ともいうべき、光線と同じく、反射や屈折を利用して所望の方向にのみ電波を送るビーム方式による短波長電波送信こそは、将来いろいろと興味あるそして有効なる方面に、応用され得る可能性を多分に持っているのである。例えば、戦時中にせよ、平和時にせよ、飛行機または飛行船にこの送信機を備えて・・・(略)・・・このほかまだいろいろとあるだろうが、とにかくビーム方式ラヂオ波の将来は実に多望なるものがある。 』 (平田正平, "ビーム方式電波の将来", 『科学の世界』, 1925.10, 科学の世界社, p88)
戦後の一般向け図書からも引用しておきます。1959年(昭和34年)に関英男氏が岩波書店から出された『エレクトロニクスの話: ラジオから電子計算機まで』です。
『マルコーニは一九二四年イギリスとオーストラリアの間を短波で連絡した。日本でも、一九二五年四月に、岩槻受信所の八十メートル送信機(J1AA)で、アメリカのハムとはじめて交信した。また、同年六月には当時の逓信官吏練習所に短波の電話(J1PP)をすえ、同年十二月に、三十五メートルの波長で、アメリカおよびブラジルのハムと通話した。』 (関英男, 『エレクトロニクスの話: ラジオから電子計算機まで』, 1959, 岩波書店, p32)
マルコーニ社の英-豪間短波通信成功の知らせは日本へも届き、逓信省通信局の稲田工務課長を驚かせ、ちょうど埼玉県で岩槻受信所を建設中だった河原氏らへ短波の実験をやるよう指示が出されました。これが1924年(大正13年)秋のことでした。
『通信局工務課長の稲田三之助博士から「英国ではマルコニが短波通信の実験をやっている。濠州(オーストラリア)とも通信ができるということだ。岩槻でも傍受してみよ。濠州との通信には26m帯の波長が使われているらしい。」との指令がとどいた。長波の大電力を使っても英豪間のような遠距離通信はきわめて困難なのに、短波なんかでうまく通信がやれるはずがない。フリーク現象か何かで、ちょっと聞こえた程度だろう。何しろ今、岩槻は長波の建設を急がねばならないのだ、短波の受信機など作っているひまはない・・・ということで、現場の私たちは博士の指令を無視してしまった。濠州は英本国のアンチポールにあたるので、短波通信は極く容易にやれるのだということは後になって分かり後悔したが、生意気にも上司の命令にそむいて、短波の実験をおくらせたことは今も申訳けないと思っている。
その年も終わらんとしている12月の初め頃、稲田博士から「なぜ短波の実験をやらんのだ!!」というきついお叱りが届いた。本省から穴沢技手がその課長命令をたずさえ岩槻にやってきての居催促だからこれにはまいった。荒川工事長からも急いで短波の実験をやれという指示がきた。さあ大変だ。何とかして受信機を作ろうと・・・(略)・・・』 (河原猛夫, "こちらJ1AA -アマチュア無線局開設当初の想い出-", 『放送技術』1974年12月号, NHK出版, pp122-123)
稲田課長の一喝を喰らい短波受信機が大急ぎで作られましたが、マルコーニ社のビーム通信試験(英豪間)は聞こえず、お蔵入りとなりました。
『2、30m帯といわれる英濠間の短波通信を探聴したが、さっぱり聞こえない。短波の波長計もなかったので、めくら探しにバリコンのダイヤルを回し、同調コイルのタップも色々と変えてやってみたが、昼も夜も何も聞こえない。とうとう大正13年は無為に終わって受信機はそのまま放置された。私は最初に作った短波受信機の機能は決して悪いものではなかったが、あいにくまだその時期には波長2,30m帯でオンエアしている局がなかったのだと思っている。』 (河原猛夫, 前掲書, p123)
1924年(大正13年)12月、マルコーニ社に遅れまいと、米国のRCA社が西海岸-ハワイ間で短波試験を始めました。1925年(大正14年)2月頃、再び稲田課長の命が下されました。
『大正14年の節分も過ぎた頃「米国のRCA社がサンフランシスコとハワイ間で短波通信をやっている。波長は90m帯だ。」という情報を入手した。それではと同調コイルを少し大きく作り替えて探聴したところ、今度はいとも簡単にカフクのW6XI(注:これは誤記で6XOが正しい)が入感した。その頃はまだ通信をやらず、調整符号dを連送し、時々サンフランシスコのW6XO(注:これは誤記で6XIが正しい)を呼ぶのが毎晩キャッチできた。』 (河原猛夫, 前掲書, p124)
ついに岩槻無線建設現場において、ハワイのRCA実験局6XIを短波でキャッチすることに成功しました。1925年2月過ぎでした。日本の短波は「1924年の英濠通信成功の知らせ」をきっかけに、逓信省の稲田課長の指示で始まったのです。
【参考】 海軍省の短波の始まりは「J1AAのページ」をご覧ください
岩槻無線建設現場では、ハワイ6XI受信の直後に80m帯の米西海岸のアマチュアを偶然キャッチします。
『今度は八十メートルのバンドを聞いてみたところがアメリカのアマチュアが、盛んに通信をやっているのが入ってきました。そして話を聞いてみると連中は、10ワットとか5ワットで通信しているとのことですね。こんな小さな電力で太平洋を横断して通信が聞こえるのが不思議でならないから、こういう電文で交信していますよということを、荒川さんの手もとに出しましたところ、それでは、実験用に使っている五〇ワットの中波の無線電信送信機があるから、それを改造して試験をやってみろということになりました。』 (河原猛夫, 『追想 荒川大太郎』, 1980)
河原技手から受信報告を受けた、逓信省の稲田課長、中上係長、荒川技師らは、「それが嘘か本当か、こちらからも送信して確かめてみよ」と命じ、1925年(大正14年)4月、岩槻J1AAが誕生し世界のハムとの交信試験を開始したのです。
その岩槻J1AAの短波での活躍ぶりが1925年(大正14年)の『無線と実験』誌などで紹介されました。J1AAの活動が日本の科学青年達を大いに刺激して、やがて短波アンカバーが生まれ、そして1926年(大正15年)6年に日本素人無線連盟JARLが創設されました。JARL創設の中心人物である笠原功一氏はJ1AAの向こうを張って3AAを名乗ったそうです。
『私はこのころJ3AAというコールを使っていたのです。当時岩槻無線がJ1AAと号して短波で試験送信をはじめていたので、J3AAとしたのですから、その意気だけは盛んなものでした。』 (笠原功一, "アマチュア無線の思い出とお願い", 『ラジオ科学』, 1953.3, ラジオ科学出版社, p63)
このようにマルコーニ社の英濠ビーム通信成功の知らせが起点となり、JARLが創設されるまでの、日本の短波アマチュアの歴史へとつながっていくのです。
1926年(大正15年)になると、逓信省は逓信官吏練習所、北海道の落石無線、東京無線電信局(検見川送信所・岩槻受信所)、短波通信の実用化試験を推進し、各地で短波実用化試験局の建設を始めました。
そしてJARL結成の11箇月後には国内初の短波公衆通信網の運用をスタートさせました。1936年(昭和11年)に出版された『逓信省五十年略史』から国内通信網を引用しておきます。
『 大正十三年 マルコニー氏が英濠間短波無線連絡に成功して以来、漸次欧米諸国に於て 長距離通信に短波を使用するに至ったが、本邦に於ては大正十五年 岩槻に其の仮装置(J1AA)を施して各国と試験通信を行へるを始とし、昭和二年春 東京・大阪・札幌・鹿児島・金沢および広島の各局に之を設備し、国内無線連絡に当たらしめて好成績を収めた。』 (逓信省編, 『逓信省五十年略史』, 1936, 逓信省, p117)
英豪通信成功の知らせから、日本素人無線連盟JARL結成、そして短波公衆通信網の完成までの流れを、以下にまとめておきます。
1924年(T13)夏:我国にもマルコーニの英豪通信成功の知らせ
1924年(T13)秋:逓信省の稲田工務課長が岩槻無線建設現場に短波の受信試験を指示
1925年(T14)4月:岩槻無線建設現場にJ1AA開局、米国6BBQと交信
1925年中頃:日本でも短波の無線電信を実験するアマチュアが現れる
1925年(T14)12月:官練無線実験室J1PPが短波無線電話開始、アメリカ・ブラジルと交信
1926年(T15)4月:検見川無線に実用化試験用の短波送信機(12MHz, 6KW)を配備
1926年(T15)6月:東西の短波愛好家により日本素人無線連盟JARLを結成
1927年(S2)5月:逓信省が短波による国内無線網(東京・大阪・札幌・鹿児島・金沢・広島)の運用開始
日本の「短波の夜明け」を作った "マルコーニ氏の英濠通信成功"は、公衆通信サービスに携わってきた組織・会社・メーカーの歴史書の巻末年表などに『大正13年(1924年) マルコーニ、イギリス~オーストラリア間短波無線電信に成功』と、しっかりと刻まれています。
安中電機(現:アンリツ):社史「アンリツ100年のあゆみ」(2001.6)
日本無線JRC:「日本無線55年のあゆみ」(1971)
日本電気:「七十年史」(1972)
日本電信電話公社:「電信電話年鑑」「自動電話交換二十五年史」
同公社関東電気通信局の「関東電信電話百年史[上]」(1968)
さてマルコーニ氏の短波実験の話題に戻します。
1924年(大正13年)6月12日、マルコーニ氏はローマのカンピドリオ(Campidoglio)で、「短波ビームを使えばこれまでの様々な課題を解決できる」と講演していました。
ちょうどその6月12日、ポルドゥー2YTの電波がおよそ6000海里離れた南米アルゼンチンのブエノスアイレスでの受信試験も成功し、6月14日付ブエノスアイレス発「ロイター電」で世界に報じられました。この南米テストは波長92mで入力21kWでした。
以下Radio News誌の記事を引用します。
『On June 12 last, using 21 kilowatts his station at Poldhu, Cornwall, signaled easily to Buenos Aires. As a result of the ease of this communication over a distance of nearly 6000 miles the opinion is expressed that the new system is able to do in half a dozen hours what their present high power station can do in 20 hours. 』 (E. Fairhurst, "Radio Overseas", Radio News, 1924.10, p580)
日米ラヂオ商会の三橋磯雄理事が『家庭と無線』(1924年11月号)にこの件を取り上げています。
『従来遠距離その間の無線電信電話に使用されていた電波の波長は非常に長くて大きな無電局の放射電波は約十四哩(=22530m=13.3kHz)の波長を有する強力な電波を使用していた。
しかるに去る七月中にマルコーニ氏とフランクリン氏の両人が試験した結果、今まで顧みられていなかった極く短波長の電波も充分役に立つことがわかった。しかもこの短波長の電波の方が波長の大きなものよりも遥かに有効で、かつ通信の速度も大きいということが解ったのである。
この試験を行った場所はポルドゥと南米のヴエノスアイレス間でその距離は六千哩余である。しかもこの遠距離間の通話に使用した電波の長さはたった九十二米に過ぎず、しかも普通と比較して約十五分の一の電力で試みられたのである。この驚くべき電力の経済は探照燈の原理と同一原理によって細い幅に集中され直進する不可思議な電波を使用したのである。・・・(略)・・・マルコーニ氏の指摘する所によればこの方法によると、又その上、波長の異なる電波を発振せしめ、一個のアンテナから同時に数個の通信をすることが出来る。この短波長電波の集中は驚くべき性質を有し、為に我が無線電信電話界は一新紀元を画されることとなるであろう。』 (三橋磯雄, "驚くべき無電の進歩", 『家庭と無線』, 1924年11月号, 家庭と無線社, p224,229)
1924年(大正13年)7月2日、マルコーニ氏はロンドンの英国王立技芸協会(Royal Society of Arts)で、短波を使ったカーボベルデへのビーム式伝播試験、セドリック号での大西洋横断試験、オーストラリアとアルゼンチンへの長距離通信の成功について講演し、それがJournal of the Royal Society of Arts(July 25, 1924)に掲載されました(左図)。
これがマルコーニ氏の3MHz巨大パラボラ・ビーム実験(世界初の短波による遠距離通信)の公式発表資料に当たります。もし短波開拓の歴史を研究されていて、出典文献をお探しになるのでしたら、これを入手されると良いでしょう。
1923年(大正12年)6月15日に行ったカーボベルデ通信成功のプレス発表の時も、また同年12月3日のマルコーニ社の年次総会の席上でも、(短波を使って4,130kmの遠距離通信成功に触れましたが)その実験内容の詳細については伏せられていました。それが今(1924年7月2日)になり、やっと公にされたのです。
これはマルコーニ社が英国の帝国通信網を受注するために、短波の威力をより効果的に公表するタイミングを見計らっていたと考えられます。実際このあと7月28日に英国郵政庁GPOから帝国通信網の受注を果たしました。
もし英国王立技芸協会のJournal of the Royal Society of Arts(July 25, 1924)が入手が困難でしたら、その発表要約が無線雑誌Wireless World and Radio Review(1924年7月9日, pp441-442) "Short Wave Directional Wireless Telegraphy" (左図)や、無線雑誌Wireless Weekly(1924年7月16日号、23日号)にも掲載されています(共に英国の雑誌)。
マルコーニ氏の1924年7月2日の講演論文(Guglielmo Marconi, "Results Obtained Over Very Long Distances by Short-wave Directional Wireless Telegraphy, More Generally Referred to as the Beam System", Journal of the Royal Society of Arts, vol.72, July 25.1925, Royal Society of Arts [London UK], pp607-621)を読まれた小松三郎氏(逓信省通信局電信課無線係長)が、その感想を雑誌『家庭と無線』(1924年10月号)で発表されていますので引用します。
まず冒頭で『マルコーニは過去の人だと思っていたが、マルコーニの天才ぶりは健在だった。』という率直な感想を披露されています。
『私はマルコニーの偉大な業績として、第一に一八九五年無線電信を発明したこと、第二に一九〇一年大西洋横断無線通信を異常なる熱誠をもって創設したことを挙げて、衷心から氏の人類の福祉に貢献したことの至大であることを欽仰(きんぎょう=尊敬し慕うこと)して措かざるものである。・・・(略)・・・しかしてその後のマルコニー氏は、欧州戦争中連合国側ことに祖国伊太利(イタリア)の為に軍用無線の調査をしていたり、戦後は火星との通信を研究していたりしたように伝えられたが、私は実は発明相次いで生じる無線界の跳躍的進歩の前には、彼はもう老大家として過去の人であると思っていた。
ところが、彼が本年七月二日、英国ローヤルソサイテーオヴアーツで発表した彼の研究の結果を聞いて、その今度の研究の無線界に及ぼす効果の偉大さに驚き、彼の健在を衷心から祝福した訳である。その発表された要旨はおおよそ左の如きものである。
二十八年前に彼が郵政庁技術長ウイリアムプリス氏に彼の発明無線電信機を実験して示したときに、電波の反射装置を使用したいわゆるビームシステムで短波長を使用してやると、当時一浬四分の三に達したが、不思議にも普通のアンテナでやっては半浬しか届かなかった。
しかし、欧州戦争中無線通信の輻輳を体験した結果、長波長の研究にばかり没頭していてはしまいには、長波長の割り当てができなくなって、どうにもこうにもならなくなるであろうと考えた。
一九一六年の初め伊太利(イタリア)である軍事上の目的で反射電波の研究を始めた。その結果この方式による短波長通信は長波長ばかり使かっている敵から邪魔せられたり、横取りせられたりすることも少なく、はなはだ有利であることを知った。ことに味方の無線電信との混信を除き得ることに有効であった。
それから助手のフランクリン氏などと研究して、反射装置としては、アンテナに並列に放物曲線状に間隔を置いて、アンテナがその焦点となるように少数の針金を並べ、各線の振動電流のフェーズを同一に保持する為、特別の発電装置の各給電点にある発信機から各アンテナに同時に振動電流が発生するように、アンテナと反射用電線とは互いに並列グリッドを形成するような装置にした。またこの指向性短波長方式の為に真空管を使用することにも成功した。発受両地ともこの電波反射装置を使用するとき、これを使用せざるときに比し、受信勢力は実に二百倍に達することがわかった。
しかして昨年(1923年)四、五、六月にわたる英国ポルヂウ局とヨット、エレットラ号との間の長距離試験の結果は、通信路に介在する陸地はなんらこの装置による電波の通達を妨げないことなども分かって、かの有名な(波長が短いほど減衰が高くなる)オースチン法則によるコエフイシエントは、この短波長通信に応用するには欠点があることを明瞭に発見した。
この試験では、電波長九十七「メートル」(3.1MHz)、真空管八個並列、電力十二キロワット、発射電力九キロワットであったが、電波発射勢力を一地点に集中し、実際の電力は十二キロワットであったが、およそ百二十キロワットを必要とする程の勢力を発射し得たから、受信側はアンテナを切離し、またはヘテロダインをスイッチで切離して置いても明瞭に受信することができた。
もし今後短波長による長距離通信が可能となるならば、有効に使用し得る電波長帯の非常な拡大を見るわけで、無線通信発達の前途は実に洋々たるものとなる。この意味においてマルコニー氏の短波長通信の成功を祈り、彼が三たび通信事業界にエポックメーキングの覇業を成就せられむることを嘱望するゆえんであって、既に半ばその三たび目の大事業に成功した彼の事績をここに予め頌讃しようと思うのである。』 (小松三郎, "短波長に依る遠距離無線通信の成功", 『家庭と無線』, 1924年10月号, 家庭と無線社, pp86-87)
小松氏が短波開拓の意義を、小電力とか指向性とかよりも、第一に「割当て周波数の拡大」と捉えているのは、さすが電波行政側の方ですね。
当時、長波の通信チャンネル数が枯渇し、各国の電波主管庁がその争奪戦を繰り広げていたという時代背景を抜きにして、短波開拓を語れません。
ビームアンテナによる商用通信を実用化させる自信を得たマルコーニ社は、英国郵政庁へ植民地・保護領を結ぶ大英帝国通信網に最適だと売り込んでいました。
『マルコニー氏は短波長はパラポラ反射体を用い、一方向にのみ平行線として電波を反射し得ることに着想し、短波長持続電波(90-20メートル)を発生し、之を反射体でビームの形として発射し、ビーム式無線電信を発明し、これを宣伝した。』 (中上豊吉, "短波長通信に就て", 『電気雑誌OHM』, 1926.1, オーム社, p395)
1924年7月2日にロンドンの英国王立技芸協会(Royal Society of Arts)にて、また7月10日にはローマの The Hall of the Horatii and Curiatii で、短波研究の成果が発表されましたが、これらは大英帝国通信網の受注するための宣伝を意識しつつ行われたようです。
左図はNew York Times紙(1924年7月11日)にある、マルコーニ氏の7月10日のローマでの講演の記事です。
Marconi Predicts Revolution in Radio (マルコーニ氏が無線の大変革を予言)
Says Very Short Wave Lengths at Small Cost Will Abolish High-Power Stations. (低コストの短波が長波の大電力無線局を駆逐する)
日本の書籍からも、大英帝国無線通信網の受注を引用しておきます。
『 (ポルドゥーとカーボベルデ通信の)あくる年(1924年)の五月には、ポルジュ―から出た短波は、オーストラリアのシドニーや、南アメリカのブエノスアイレス、リオデジャネイロまで届きました。・・・(略)・・・この成功で、短波を使った長距離通信は、費用の点でも確実さの点でも、海底電線を使う電信よりずっとすぐれていることが、はっきり証明されました。イギリス政府は、マルコーニのひとつづきの実験がちゃくちゃく成功をおさめるのをみると、はやくも一九二四年六月(注:7月の誤記)にマルコーニ無線電信会社と契約を結び、イギリス本土とカナダ、南アフリカ、インド、オーストラリアなどを結ぶ短波無電網を建設させることにしました。』 (市場泰男, さ・え・ら伝記ライブラリー13『通信の開拓者たち』, 1966, さ・え・ら書房, pp209-210)
1924年(大正13年)7月28日、英国郵政庁はマルコーニ社とビーム式無線電信局の建設契約に調印しました。英国からカナダ、南アフリカ、インド、オーストラリアの4地点との公衆通信回線の建設受注です。大規模でかつ世界中の電波主管庁が注目したという点で、この契約が短波公衆通信(電報)実用化への入口として取り上げられることが多いようです。
1924年(大正13年)7月28日にマルコーニ社が英国郵政庁GPOと契約を結んだ短波ビーム通信網(Imperial Wireless Chain)は、間違いなく短波開拓史上における最重要トピックスのひとつです。
郵政庁との成約(1924年)に至るまでのマルコーニ社の動きを紹介します。まずはマルコーニ事件です。
『そして、1910年の3月に、マルコーニ会社は、同社が建設し、運営する18の無線局を母体とする「帝国無線計画」の建議を具申しました。通信料金は、ケーブル会社が請求する料金の半分になりそうで、無線局も戦略上、重要な価値がありました。陸上の電信線は、外国の領土を横断していたり、海底ケーブルは敵国軍艦により、容易に切断可能だったからです。さらに、英国海軍の艦船と世界中で通信できるようになるのです。独占権を事業会社に授与することになるので、政府は、この提案に批判的でしたが、無線通信の準備をするように、帝国国防委員会から、強い圧力を受けていました。』 (キース・ゲデス/岩間尚義訳, 『グリエルモ・マルコーニ』, 2002, 開発社, pp68-69)
実際にも、のちに起きる第一次世界大戦ではドイツが敷設していた大西洋の海底ケーブルを連合国側が切断しましたが、多くの無線回線を持っていたドイツにはダメージを与えられませんでした。
● マルコーニ事件
『そして、1912年に、この契約は締結されましたが、・・・(略)・・・下院議会の裁可を待つ間に、シティで流布していた風説が噴出して、「マルコーニ事件」として知られるようになった大騒動になってしまったからでした。契約が締結されたのは、汚職によるものであり、マルコーニ会社の株式に投機をするために、政府の大臣たちは特権をもって、この計画が間もなく承認されるであろうという情報を知っていたという記事が、新聞で、すっぱ抜かれました。特別委員会が、事件の調査のために、任命され、長い審理の後で結論づけたのは、最初の告発は、完全に事実無根であり、その後の行動には、正直さを欠いたところはあるが、無分別であったことが、とがめられるだけというものでした。この非道徳な事件の間中、マルコーニ自身の清廉さは、全く問題にされることはないのに、自分の名前は、常に関わりをもたされたので、極めてつらい思いをしていました。1913年7月には、6局を建設する新契約が署名されましたが、1914年8月の戦争勃発時までには、1局も完成されておらず、この計画は断念されました。』 (キース・ゲデス/岩間尚義訳, 前掲書, p69)
ようやくスキャンダル事件が沈静化し契約できたと思ったら、今度は第一次世界大戦の勃発で中止になり、英国政府とマルコーニ社間にミゾが出来てしまいました。
第一次世界大戦が終わると英国政府は再び「帝国無線計画」の立案に着手しました。
『この計画は、戦争後に、すぐに復活しましたが、完全な手詰まり状態になってしまい、三つの連続した委員会も、郵政省とマルコーニ会社間の利害関係を和解させられるような案を考え出すことができませんでした。合意が成立しないままに、郵政省は、マルコーニ会社の特許権の侵害を回避するような大電力無線局の建設を開始し、他方、マルコーニ会社は、海外の提携者を通じてオーストラリアと南アフリカ連邦に無線局を供給する契約をしました。もちろん、すべての無線局は、長波を使用するものでした。』 (キース・ゲデス/岩間尚義訳, 『グリエルモ・マルコーニ』, 2002, 開発社, pp77-78) (なおマルコーニ社が独自に契約していたオーストラリア回線と南アフリカ回線は、のちに結んだ郵政庁との短波ビーム回線契約に吸収合意されて解決しました。)
そんな折りに、ポルドゥー短波局2YTで実証した短波ビーム送信の威力と、長波局に対し建設費や運用経費が安く済むというメリットに自信をもったマルコーニは政府へ売り込むことにしました。
『しかし、政府との合意を取り付けるためには、会社は失敗のすべての危険を会社自身が負担するような契約を提案せねばなりませんでした。そして、その危険は測り知れませんでした。性能の保証は、かつて調査したことのある(100メートル)だけを使って(注:ポルドゥーの97mのこと)行なわなければなりませんでした。そして、この波長帯は実際のところ、会社がいずれは開発していかねばならない、より短い波長(注:平面アレイビームによる32mのこと)の電波よりも、長距離通信には、ずっと適していない帯域でした。きつい日程の中で、全く新しい問題を呈した周波数で運用するような送信機、受信機、給電線とアンテナを設計しなければなりません。』 (キース・ゲデス/岩間尚義訳, 前掲書, p78)
これはマルコーニ社にとって大きな賭けでした。
英国政府が示した通信網建設契約は一方的に政府の希望を取り入れた非常に厳しいものでした。まだ短波が使い物になるのか100%の保障がない中で、マルコーニ氏は短波ビーム通信に社運を掛け、人生最大の大勝負に出たのです。世界中の電波関係者は実用価値のない短波を使うと決断したマルコーニ氏を冷笑したことでしょう。以下に契約内容を引用します。
『ビーム式無線電信局建設に関する郵政庁とマルコニー会社の契約抜粋(1924年7月28日)
対手局 カナダ、南阿(南アフリカ)、印度(インド、パキスタン、バングラディシュ地区)、豪州(オーストラリア、ニュージーランド地区)
敷地 政府は送受信局の敷地を選定し、マルコニー会社の同意を得、決定す
ビーム式無線 同時送受可能たるべきこと(二重通信)
送信電力 20キロワット以上 単一方向性を有しその発射電波は30度以外に出ざること。受信装置もビーム式空中線を用いること。ロンドン中央電信局より送受信局ともコントロールし得ること(中央集中方式)
完成期 敷地決定後26週以内(但しカナダでも同様期間に完成のこと)。
通信速度 100語(送受とも)以上。
試験及び支払 完成後七日間試験し良好なる時は半額を支払う。その後は局の運用は政府これを行う。更にその後6カ月実地試験良好なる時、全額の四分の一を支払う。
請負建設費 建設実費およびその5%を加え、更に請負者の利益金としてその10%を加えたるもの。但し建設費は左記を超過するを得ず。電力供給を受ける場合 44,920磅(ポンド)、自家発電の場合 50,420磅(ポンド)。一局分増設(送受とも)に対しては、電力供給を受ける場合 29,106磅(ポンド)、自家発電の場合 31,406磅(ポンド)。この建設期は注文後一局に対しては6ヶ月、一局以上の場合は9ヶ月。
通信可能時間 英国、カナダ間通信, 一日中18時間。英国、南阿間通信, 一日中11時間。英国、印度間通信, 一日中12時間以上。英国、豪州間通信, 一日中7時間以上。
ロヤルティー 収入金の6.25%を政府よりマルコニー会社へ特許の存続期間中支払う。電報料金 政府は会社と協議の上決定す。但しカナダ通信に対しては現行料金以内。欧州通信に対しては現行ケーブル料金の3分の2以内。官報に対しては特殊料金を定む権能を保留す。
効力発生 議会の協賛を経てのち効力発生するものとす。』 (中上豊吉, "短波長通信に就て", 『電気雑誌OHM』, 1926.1, オーム社, pp24-25)
1924年(大正13年)7月28日にマルコーニ社は郵政庁GPOと大英帝国無線通信網(カナダ回線、南アフリカ回線、インド回線、オーストラリア回線)の建設契約を結びました。
この契約に基づき英国内ではボドミン(Bodmin, Cornwall州)が送信用に、ブリッジウォーター(Bridgewater Hill, Somerset州)が受信用の建設予定地として選ばれました。対手局のカナダ側ではドラモンドビル(Drummondvill)に送信局を、イヤマシッシュ(Yamachiche)に受信局を新設することになりました。
なおボドミン送信局とブリッジウォーター受信局は南アフリカ回線も受け持つため、南アフリカ向けに方角の違うビームをそれぞれもう一基建設する必要がありました。
一方インド回線のビーム局は英国の別の場所にグリムスビー送信局(Grimsby)とスケグネス受信局(Skegness)を、インド側はカーキ送信局とドンド受信局を建設することになりました。このグリムスビー送信局とスケグネス受信局はオーストラリア回線も担当しました。
このように英国政府との契約に基づき各ビーム局の場所が決まり、その建設が始まったのは1925年(大正14年)4月でした。下図はブリッジウォーター受信局の建設現場です。
これらはマルコーニ社の社運を掛けた建設工事で、もし郵政庁GPOの要求仕様を満たせなかった場合は、莫大な借金を負うことになります。マルコーニ氏の娘はこの受注について以下のように記しています。
『 1924年7月、父は英国政府と契約を結び、超スピードでイギリス中に商業ベースでの電波利用システムを普及させようとした。しかし状況はきわめて厳しく、(部下の)ヴィヴィアンは「マルコーニ社は膨大なリスクを負わなくてはならないだろう。いかなる商業分野にも前例のない新しいシステムが、効果的機能のものだと証明しなくてはならないのだから」と危惧していた。このシステムはまったく新しいため、(長波の)250メートルのアンテナが四本も立てられていた南アフリカの高価な基地の建設は中断を余儀なくされた。そして南アフリカ・マルコーニ無線電信会社は、この(長波)システムに代わる新しいタイプの短波局をつくるための特別契約を結ばなくてはならなかった。』 (デーニャ・マルコーニ・パレーシェ著/御舩佳子訳, 『父マルコーニ』, 2007, 東京電機大出版局, pp280-281)
1925-26年(大正14-15年)にはマルコーニ社の精力をビーム建設に集中させました。そしてちょうどマルコーニ社と入れ替わるかの絶妙なタイミングで短波に登場したのがアマチュアでした。すなわちマルコーニ社は1924年(大正13年)7月28日のGPOからの受注を契機に(下図:[10]番)、以後短波開拓を(昼間波の研究を除き)縮小し、実用化建設へ舵を切りましたが、米国アマチュアは1924年(大正13年)7月24日に4つの短波バンド(80m, 40m, 20m, 5m)が開放されたことを契機に(下図:[14]番)、同年秋頃より80mバンドから使用をはじめました。するとアマチュアの低電力通信で次々とDXレコードが更新される事態となり、全世界の電波関係者を驚かせました。短波が最も注目された年、それは1925年(大正14年)でしたが、同時にマルコーニ社が不在の年でもありました。
当時は太陽の日陰側(夜側)では上空に電波を反射する層(1902年にその存在が予想されたケネリー・ヘビサイド層)が形成される(逆に昼側では日光がこの層を弱める)と考えられていました。
これはA地点とB地点の途中経路が夜間であれば中波でも遠距離にまで伝播することをうまく説明できるため、無線界では広く受け入れられていました。
英国BBC放送チーフ・エンジニアのピーター・エッカーズリー(Peter Pendleton Eckersley)氏が1923年(大正12年)に書かれた記事(および上図)を引用します。
【参考】 BBCのピーター・エッカーズリーの兄が、後述するマルコーニ社の技術者トーマス・エッカーズリーです。
『 Thus, in the accompanying diagram I have drawn a rough sketch of the world, with the sun shining full on one side, leaving the other in shadow. On the sunny side, what apparently is a swarm of flies is meant to represent electrified particles. On the dark or night side these particles have recombined near the earth, while many others have risen up to a height and are all huddled up together to form a sort of electrified layer, some 20 or 30 miles above the earth's surface. Daylight diffuses the layer which at night time forms above the earth. The layer was first assumed to exist by Heaviside, and is often known as the "Heaviside Layer." Near the sunrise or sunset region the diffusion is very great, owing to the sunlight being oblique to the air, and gradually toward the night side the air is cleared of particles, while toward the light side uniform diffusion sets in. 』 (Capt.P.P. Eckersley, "What Causes Fading?", Radio Broadcast, Nov.1923, Doubleday Page & Co., p49)
そしてマルコーニ氏が試していた92m波(3.26MHz)の実験でも、やはり昼間だと遠距離通信は大きく制限されるという現実があり、結局この(電離層は日光で弱まる)説を認めざるを得ない状況にありました。
しかし電報の申込みは人々が活動する昼間に集中する事を考えると、短波が夜間通信しかできないのは、埋めようのない大きな欠点です。いくら小電力で遠距離通信が可能でも、これでは海底ケーブル会社の遠距離通信市場を切り崩すことができません。なによりも郵政庁と契約した通信時間を満たせません(特にカナダ回線は1日18時間の契約でした)。マルコーニ氏はこの現状を打開するためには、何としても昼間波を見つけなければならないと考えました。
スーパーヘテロダイン方式やFM通信の発明者として知られるアームストロング氏は、1923年11月からの1年間ほど、アマチュア無線家が短波(2.5~3MHz)の小電力遠距離到達性能を証明してみせても、なおも商業通信界が静観していたのは、それが夜間通信に限られたからだと指摘されています。
つまり昼間に学校や仕事があるアマチュア無線家にとっては、夜間にさえアマチュア無線を楽しめればそれで事が足ります。しかし商業通信の世界だと、それでは商売なりません。これは「短波通信の商用化」の歴史を考える上でとても重要な視点です。
「必要は発明の母」ということわざがあります。
1924年(大正13年)8月、マルコーニ氏は昼間でも通信制限を受けない未知の電波を求めて、再びエレットラ号で航海に出ました。
『 I therefore resolved to make further experiments between Poldhu and the Elettra, to see if some means could not be found to overcome the limitation of working hours imposed by daylight. 』 (Guglielmo Marconi, "Will "Beam" Stations Revolutionize Radio?", Radio Broadcast, July 1925, Doubleday Doran Inc, p329)
1924年(大正13年)8月、マルコーニ氏はまず大西洋のマデイラ諸島(Madeira)に向かいました。昨年、ここマデイラ諸島でポルドゥー2YTの波長97m(3.09MHz)のビーム波を測定しましたが、今回測定しても、同じ結果になることを確認しておこうという目的でした。ポルドゥーには波長92m(3.26MHz)に調整された反射鏡が取付けられました。
マデイラ諸島での波長92mの測定では(前回の97mより)日中の感度が少々上がったことが確認されましたが、日中の感度と波長の関係はまだ分かっていませんでした。
『 At Madeira it was ascertained that a reflector at the transmitting station increased the strength of the received signals in accordance with our calculations, but that, notwithstanding this increase of strength, when using a 92 metre wave the daylight range was only very slightly augmented. 』 (Guglielmo Marconi, "Radio Communications", Journal of the Royal Society of Arts, Vol.73 - No.3762, Dec.26, 1924, Royal Society of Arts [London UK], pp127-128)
マデイラ諸島で比較測定を終えると、マルコーニ氏を乗せたエレットラ号はイタリアのナポリ(Napoli)に向かいました。ポルドゥーでは反射鏡を降ろして無指向性にしました。
昼間波を求めてエレットラ号はイタリアのナポリを出港しました。そして地中海を東進し、シチリア島のメッシーナ(Messina)、ギリシャのクレタ島(Crete)で測定しながら、地中海東端のベイルート(Beyrouth, レバノン)へ向いました。
『The yacht proceeded to Spain, then to Madeira, and afterwards to Italy. From Naples we sailed for Beyrouth in Syria, touching at Messina and Crete, and returning to Naples via Athens. 』 (Guglielmo Marconi, "Radio Communications", Journal of the Royal Society of Arts, Vol.73 - No.3762, Dec.26, 1924, Royal Society of Arts [London UK], p127)
今回の実験でマルコーニ氏はポルドゥー2YTの送信波長を92m(3.26MHz)から、60m(5MHz)へ、47m(6.4MHz)へ、32m(9.4MHz)へと順に短くさせながら測定を繰り返していましたが、波長を短くするほど昼間の不感時間帯が短縮することが分かってきました。昨年の8- 9月の試験だと、ポルドゥーから約1,100海里(=2,037km)離れた大西洋のマデイラ諸島における、波長97m(周波数3.09MHz)の電波が聞こえる昼間の時間帯は、ほんの僅かしかありませんでした。しかし今回、波長32m(周波数9.4MHz)を使ってみたところ、約2,100海里(=3800km)離れたベイルートにおいて、ポルドゥー2YTを24時間連続受信できました。マルコーニ氏は昼間にもかかわらず遠距離まで届く魔法の波長をついに発見したのです。
『 I tried the effect of still further decreasing the wavelength, reducing it to 60, 47, and, finally, to 32 meters and I found that the opaqueness of space in the daytime diminished rapidly as the wavelength decreased. During these tests, which were conducted in August and September of last year, the 92-meter wave could not be heard for many hours in Madeira — a distance of 1100 miles entirely over the sea. At Beyrouth, in the Mediterranean, the 32-meter waves were regularly received all day, although the distance was 2100 miles, practically all over mountainous land. 』 (Guglielmo Marconi, "Will "Beam" Stations Revolutionize Radio?", Radio Broadcast, July 1925, Doubleday Doran Inc, p329)
『 At Madeira, and at other places, in the Atlantic and Mediterranean, comparative tests were carefully carried out with waves of 92, 60, 47 and 32 metres. These tests enabled us to discover that the daylight range of practical communication over long distances increased very rapidly as the wave length was reduced, the 32 metre wave being regularly received all day at Beyruth, whilst the 92 metre wave failed to reveal itself for many hours each day, even at Madeira, notwithstanding the fact that the distance between Poldhu and Madeira is 1,100 miles, entirely over sea, whilst that between Poldhu and Beyruth is 2,100 miles, practically all over mountainous land. 』 (Guglielmo Marconi, "Radio Communications", Journal of the Royal Society of Arts, Vol.73 - No.3762, Dec.26, 1924, Royal Society of Arts [London UK], pp128)
日本語のものも、ご紹介しておきます。
『 再びポルデュー局とエレットラ号との間において試験を行うこととなったのであるが、今回は九二米、六〇米、四七米、三二米の四つの波長を使用して試験を行った結果は、長距離の昼間通信範囲は、波長を短くすれば、かえって拡大されることを発見した。すなわち三二米の電波は二、一〇〇浬のシリアの沿岸で二十四時間中受信することが出来た。 』 (岡忠雄, 『英国を中心に観たる電気通信発達史』, 1941, 通信調査会, p353)
『 1924年、再びエレットラ号でベイルート港へ赴いたマルコーニは、2400マイル(=2,100ノーティカルマイル=3,800km)離れたポルデュー短波局から32メートル波長で発信された信号を一日中受信可能なことを確めた。』 (デーニャ・マルコーニ・パレーシェ著/御舩佳子訳, 『父マルコーニ』, 2007, 東京電機大出版局, p280)
ベイルートからの帰りはギリシャのアテネ(Athens)経由でイタリアのナポリ港へ戻りました。
マルコーニ氏による波長比較試験は、地中海と大西洋岸の様々な場所で2箇月以上行われ、大西洋上のマデイラ諸島経由で英国に帰国しました。この試験では波長100m(3MHz)から32m(9.4MHz)の範囲において、全てのケースで波長が短いほど昼間通信に有効であるという結果を得ました。マルコーニ氏は「もしかして、ついに昼間波を発見できたかも知れない。」と世紀の大発見を予感しました。
『 Comparative tests on different wave lengths were carried out for a period of over two months in a variety of places, and all observations went to confirm the fact that for waves between 100 metres and 32 metres the daylight absorption decreased very rapidly with the shortening of wave length. These results were so interesting and satisfactory that I immediately decided to try further tests over much greater distances. 』 (Guglielmo Marconi, "Radio Communications", Journal of the Royal Society of Arts, Vol.73 - No.3762, Dec.26, 1924, Royal Society of Arts [London UK], pp128)
1924年(大正13年)9月、ベイルートからの帰路、マルコーニ氏はとても興奮していました。そしてイギリスに戻ると、昼間波(波長32m)の存在を検証するために地球的大規模な遠距離試験を計画したのです。
『 These results were so interesting and satisfactory that I immediately decided to try further tests over much greater distances. 』 (Guglielmo Marconi, "Radio Communications", Journal of the Royal Society of Arts, Vol.73 - No.3762, Dec.26, 1924, Royal Society of Arts [London UK], pp128)
『 (ベイルートで昼間波を発見して)イギリスに戻ったマルコーニは、アルゼンチン、オーストラリア、ブラジル、カナダ、アメリカ合衆国の無線局に送信を開始することを伝えた。日中波(昼間波)の発見により、長波送信は過去のものになってしまった。こうしてマルコーニは、一人で(短波の遠距離到達性と昼間波の存在という)二つの重要な発見をした数少ない人物となったのである。』 (デーニャ・マルコーニ・パレーシェ著/御舩佳子訳, 『父マルコーニ』, 2007, 東京電機大出版局, p280)
1924年(大正13年)10月から12月に掛けて、新波長32m(9.4MHz)を使って入力12kWで、ニューヨーク、モントリオール(カナダ)、リオデジャネイロ(ブラジル)、ブエノスアイレス(アルゼンチン)、オーストラリアとの昼間通信試験に次々と成功したのです! 昼間波の存在は疑う余地のないものになりました。
これまでの無線に対する科学者たちの常識を覆し、電波の中には「日中でも遥か遠方まで届くもの」が存在することが、マルコーニ氏によって実証されたのです。
特に驚くべきことに、シドニー(オーストラリア)では、一日24時間のうち23.5時間受信可能になったのです。これは昼夜の区別なく電波が利用できるという意味であり、海底ケーブルを敷設し、その保守に莫大なコストを投下してきた有線系通信会社を震撼させました。
1924年12月11日、マルコーニ氏は再びロンドンの王立技芸協会(Royal Society of Arts)で講演しました。
昼間波を求めてベイルートへ向かう航海で、ついにそれを発見したことや、昼間波を使った伝播の追試を行なったところ世界各地でそれが確認されたと発表したのです。日が暮れないと遠距離無線通信ができない時代は過去のものになりました。
その講演論文"Radio Communications"が、下図Journal of the Royal Society of Arts(vol.73, 1924年12月26日, pp121-133)に掲載されました。
12月11日にマルコーニ氏が発表した「昼間波ビーム通信」の成功を、1オーストラリアの新聞各紙が大きく報じています。
波長32mを使うと、ポルドゥー(英国)からシドニー(オーストラリア)へ1日24時間のうち23.5時間も通信できてしまった当事国ですから、注目が集まったのは当然ですよね。左図ブリスベーンのDaily Standard紙(1924年12月12日)を引用します。
『 Poldhu, using 12 kilowatts, and a 32 metre wave length, had successfully communicated with Sydney for 231/2 hours out of 24, as an experiment. 』 ("BEAM WIRELESS: Secrecy and Economy: Claimed by Signor Marconi.: SUCCESSFUL EXPERIMENTS.", Daily Standard, Dec.12, 1924, p1)
これまでの常識では、夜になると上空にヘビサイド層と呼ばれる電離層が出来て、電波が遠方へ反射されると考えられていました。つまり24時間通信が可能な「ケーブル」と比較すると、夜にならないと遠くへ飛ばない「電波」は所詮、1日の半分(12時間)しか使えないという、致命的な欠陥があるとされていたのに、それが覆されたのです。無線がケーブルと対等に勝負できる時代を予感させたため、公衆通信の世界に衝撃が走りました。
短波の遠距離到達性よりも、「電波は昼間も遠距離通信に使える」という発見の方が公衆通信業界に大きなインパクトを与えました。無線雑誌はこぞってマルコーニ氏の昼間波の発見を取り上げ、大騒ぎです。
たとえばPopular Radio誌1925年(大正14年)5月号は「短波の重要な新実験(Important New Experiments With Short Waves)」と題して、「驚くべきことに、短波でもより短い波長ならば、昼間でもはるかに大きな通信圏を示すことが発見された。」と伝えました(下図)。
『In August, 1924, Senatore Marconi began additional experiments between the transmitting station at Poldhu, England, and his yacht, the S.S. Elettra, to see whether this daytime deficiency of the short waves could be overcome. Comparative tests were carried out with waves of 92, 60, 47 and 32 meters.
Surprisingly enough, it was found that the shorter waves showed much greater daylight ranges than did the longer ones. While the Electra was at Beyruth, at the eastern end of the Mediterranean, the 32-meter waves were received regularly all day while the 92-meter ones were lost altogether during a large fraction of the daylight. Encouraged by these successes, Senatore Marconi arranged a series of tests on 32 meters between the Poldhu station and especially installed receivers at Montreal, New York, Rio de Janeiro, Buenos Ayres, Sydney (Australia), Bombay and Karachi (India), and Cape Town (South Africa). All tests were successful, the daylight absorption of these short waves, either with or without the directed-beam reflectors, proving to be far less than the similar absorption of the waves of 92-meter wavelength or of the still longer ones. The power used at Poldhu was usually 12 kilowatts although powers between 9 kilowatts and 15 kilowatts were used in some of the tests. 』 ("Important New Experiments With Short Waves", Popular Radio, 1925.5, E.R. Crowe & Company Inc., p482)
逓信省の技師・技手により共同編纂された「無線科学大系」ではマルコーニの昼間波の発見を次のように評価しています。
『1924年7月マルコニーは倫敦においてその結果を発表し(7月2日の英国王立芸術協会で行ったカーボベルデへのビーム式伝播試験などの報告)、短波指向式送信法によれば小電力をもって、従来多大の経費を要していた長波長大電力局によるものよりも、より高速度の24時間通信が可能になるであろうという当時大胆と思われる様な予言をなしたのである。
それからの短波の組織的実験研究は著しく進み、更に短い92, 60, 47, 32 米等で実験した結果、波長が短いほど昼間伝播が良好なことが初めて認められた。この事実は従来200米以上(1500kHz以下)の波長で認められていた事実と正反対であったので、短波に対する一般の興味は更に著しく喚起せられたのである。通信距離も益々延長せられ32米、12キロワットをもって英国からモントリール(カナダのモントリオール)、ロングアイランド(ニューヨーク)はもちろん、ベノスアイレス(南米アルゼンチン)、あるいはシドニー(オーストラリア)にも達する様になった。ここに最早短波の長距離通信としての偉力は疑うべからざるものになったのである。』 (竹林嘉一郎, "第六編短波長", 『無線科学大系』, 1928, 誠文堂無線実験社, pp412-413)
1925年(大正14年)8月28日の朝、ラジオJOAKで東工大の竹内時男氏による「無線電波は何故に地球を廻るか」という講演番組が放送されました。そして1916年からのマルコーニ氏の研究成果として、32m波(昼間波)の発見が取り上げられました。
『一九〇二年でありますが、マルコニーは長波長電波は昼夜によってその到達距離に相違があり、夜間の方が効果が多いことを発見しましたが、・・・(略)・・・最近までは長波長で強力な電波を用いなければ遠距離通信は不可能であるとせられまして、波長何万米、千何百馬力という発信所が建てられていましたが、昨年あたりよりかえって三十二米の短波長の方が有効な事がマルコニーによって確かめられました。この短波長では昼夜ほとんど到達距離に変化が無い事が明らかに成りました。この実験は一九一六年頃からマルコーニによって企てられており、鉛直な針金の一群をもって放物線形鏡の骨格をつくり、その鏡の焦点に発信器を置くのであります。ちょうど探照燈の原理に似ています。これがいわゆるビーム・システムなるものであります。イギリス - オーストリア間の通信には僅か十馬力で足ったそうです。この短波長はアンチボードまでへも届きます。この大発見はまさに将来の無線界を革新すべき者と信ぜられています。・・・(略)・・・以上をもって私の講演を終ります。さようなら。』 (竹内時男, 『最近の物理学』, 1925, 興学会, pp155-156)
ポルドゥー2YTでは、さらに季節による違いを確認しておくために、1924年(大正13年)暮れから翌年にかけて波長25m(12MHz), 32m(9.4MHz), 60m(5MHz)で比較実験を行いました。もっと高い周波数が使えればアンテナを小型にできて、それだけ建設コストが安く付くという魅力もあり、波長25m(12MHz)も実験に追加されました。
昼間波の発見は「夜間にのみ形成される」という従来の電離層モデルに一石を投じる大発見でした。また無線ビジネス上でも、24時間通信できる可能性が示され、ようやく無線が永年のライバルであるケーブル会社と肩を並べることができたわけです。
その意味において無線発展史上、マルコーニ氏の昼間波の発見は特筆すべき事項であり、1953年(昭和28年)にアームストロング氏が、これがマルコーニの大きな功績だと述べています。どうぞ短波開拓史のフロントページの最後にあるアームストロング氏の講演記事をご覧下さい。