続 マルコーニ

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 グリエルモ・マルコーニが短波通信で果たした功績のうち、後半(1924年の昼間波の発見~)の歴史をこちらに分けました(2017.09.17)。
 
以下の3つのページと合わせて「短波開拓史」となっていますので、そちらもご覧下さい。
◆コンラッドの短波における電離層反射の実用化(1923年11月)についてはコンラッドの短波開拓史のページをご覧下さい。
◆アマチュアによる短波の小電力遠距離伝播の発見(1924年秋~)についてはアマチュア無線家の短波開拓史のページをご覧下さい。
短波開拓史のフロントページにある、スーパーヘテロダインの発明者アームストロングの講演「発見の精神」は短波史上とても興味深く、御一読をお奨めさせて頂きます。
 
 1923年5-6月に電離層反射によりポルドゥー2YTの短波が、4130km離れたカーボベルデ諸島で、強力に受かることを確かめたあと、1924年春にはオーストラリアまで距離を伸ばしました。
 1924年7月28日、マルコーニ社は大英帝国通信網を受注しました。その年の8月、マルコーニは昼間でも通信できる「昼間波」の存在を調査する航海に出て、地中海東端のベイルートでそれを発見します(1924年9月)。この頃よりマルコーニ社は英国政府のビーム局建設に注力したため、短波開発の表舞台から姿を消しますが、1926年10月25日に英国-カナダ回線の営業を開始し、フランクリンアンテナ(フランクリン配列アンテナ)によるビーム通信の威力を世界中に知らしめました。
 1930年代になると超短波に手を付け、1933年2月11日、世界初となるUHF(500MHz)の実用化を達成したのもマルコーニです。
 1933年11月、マルコーニ夫妻が突然、日本観光を思い立ち、秩父丸で横浜港にやってきました。天皇陛下より勲一等旭日大綬章を授かったマルコーニ氏は、明治神宮、伏見桃山御陵および東陵の参拝、そして日光東照宮、鎌倉大仏、歌舞伎座、滋賀県日吉大社、京都の知恩院から野村別邸(碧雲荘)、奈良公園、春日大社、東大寺、大阪城などを観光されました。宿泊には帝国ホテル、京都ホテル、奈良ホテル、特急「富士」を利用された他に、日光金谷ホテル(日光)、鎌倉海浜ホテル(鎌倉)、甲子園ホテル(西宮)、山陽ホテル(下関)で休憩や食事をされています。その後、関釜連絡船で朝鮮へ渡り、京城、奉天、大連を観光して中華民国へ向かいました。
 マルコーニ氏の生の声は東京放送局JOAK(11/17)、大阪放送局JOBK(11/23)より全国へ中継されましたが、11月28日の関東庁大連における晩餐会では大連放送局JQAKが中継しています。
 
マルコーニのページが巨大化したため、分割しました】 ・・・2017.09.17
 超短波パラボラの実験(1896年)、短波の海上公衆通信(1900年~)、短波の開拓(1916年~)により、1923年春に3MHz巨大パラボラビーム(ポルドゥー2YT)による電離層反射通信の成功までの話題については「マルコーニ」のページをご覧ください。
 


マルコーニの功績 [後半] "昼間波発見による公衆通信実用化"

60) 技術者の予想と違っていた短波の性質 [Marconi編]

 1923年(大正12年)5-6月に4130km離れたカーボベルデ諸島で、電離層反射によりポルドゥー2YT波が強力に受かることを確かめました。この実験から5年後、逓信省の技師・技手らが共同で「無線科学大系」(誠文堂無線実験社,1928)をまとめました。1923年(大正12年)春のカーボベルデ試験の結果がその当時の技術者達の予想とまるで違っていたことが記されています。
マルコーニはフランクリン(C.S. Franklin)と共同して1923年の春、短波の性質、通達距離を多少組織的に研究する目的で、コーンウォールのポルヂュー(Poldhu)実験局より送信し、別に汽船エレットラ(Elettra)号に受信装置を搭載して、受信試験を行った。その時は電波長約97米、空中線電力約12キロを使用し、西班牙(スペイン)、モロッコ、マデイラ、ケープヴェルデの各港各地で受信した結果、昼間1,250浬(カイリ)まで容易に受信し得られ、夜間は2,320浬(カイリ)を隔たったケーブベルデ島では強感であって、実用距離はさらにこれ以上あることが予測された。
 当時の技術者の間では短波は(1)昼間通達距離ははなはだ短い、(2)夜間通達距離は時には著しく延長されることがあるかも知れないが、変化が多いから長距離の実用通信には使用できないであろう。陸上ことに山岳を通る場合は通達距離ははなはだ短くなるであろう等という意見であったが、この実験の結果、以上の考えは違っていて、少なくも100米近くの波長では昼間通達距離は短いものではなく、一般の予想より遥かに大であり、夜間の感度は変化少なく、予想を裏切る様な大きな通達距離を得られる事実を知ったのである。なおまた、空電に対しては当時長距離用としてもっぱら全盛であった長波に比べて短波はその妨害をこうむることが遥かに少ないことが知られた。 (竹林嘉一郎, 第六編短波長, 無線科学大系, 1928, 誠文堂無線実験社, p412)
 
 1936年(昭和11年)4月4-8日に開かれた工学会第三回大会(東京帝国大)の講演で、逓信省の小野孝氏は次のようにマルコーニ氏による短波の電離層反射の発見を称えました。 小野氏は官練J1PP, 検見川無線J1AAの短波無線電話送信機の設計者で、GHQ/SCAP占領下時代には「警察無線近代化の父」(30MHz帯FM)として無線界に名を残された方です。
探照灯の原理に従う指向性送信法の有利なるを確信し、これが完成に腐心し最初の無線電信の発明者マルコーニ氏は、実用的指向性空中線を考案し、これに要する10kW程度の短波を真空管式送信機によって求め、大正12年春 実験的に長距離通信用として有数かつ能率的なることを証明し、指向性短波無線通信法の先駆をなしたのであります。 (小野孝, 講演「国際通信」, 工学会大会記録 第三回, 1936.10, p624)
 
 この成功はコンラッド氏による短波の電離層反射通信の実用化(1923年11月22日)や、アマチュアらによる短波の大西洋横断通信(1923年11月27日)の半年前であって、減衰が激しいといわれた短波でも電離層反射により4,200kmもの遠距離まで(それも小電力なのに極めて強力に)届くことがマルコーニ氏によって実証されました。ただしそれが "巨大ビームの高輻射電力のおかげで電離層反射させることができた" のか、あるいは "そもそも短波が効率良く電離層に反射されるため" かについては、まだ切り分けが出来ていませんでした。


61) マルコーニ 大西洋横断無線通信に成功 (1924年2月) [Marconi編]

 1924年(大正13年)早々にマルコーニ社はポルドゥー2YTを入力17kWに増力、波長を92m(3.26MHz)に変更しました。
1924年 短波による大西洋横断試験
 そして2月にマルコーニ社のマチュー氏がニューヨークへ向かうホワイトスターラインの客船セドリック号(左図:Cedric, 呼出符号:MDC)に乗り込み、短波受信機を設置して、ポルドゥー2YTの聞こえ方を調査しました。エレットラ号の短波受信機を設計したのがマチュー氏ですから、エレットラ号の受信機とほぼ同型のものがセドリック号でも使われたと想像します。なおこの実験ではポルドゥー2YTのパラボラ反射器は降ろされ、輻射器だけでの送信でした。
 結果は上々で夜間であれば約5,200km離れたニューヨークの玄関口、ロングアイランドにおいても、まだ2YTの電波が強力に受信され続けていたのです。また途中1,400ノーティカルマイル(= 2,593km)までは昼間も受信できて、さらに太陽の水平線からの高さと、信号強度が反対の関係であることがはっきりと観測されました。昨年のカーボベルデへの航海では中間地点であるマデイラ諸島沖1,250ノーティカルマイル(= 2,315km)まで昼間通信でき、記録を更新しました。
 
『・・・(略)・・・February 1924 further tests were carried out covering the greatest distances on the earth. A receiver was installed on the S.S. Cedric and reception test were carried out by Mr. Mathieu on the voyage to and from New York.  Poldhu used no reflector during this test, transmitting on a wavelength of 92 metres.  The Poldhu transmitter was giving a radiation from the aerial of about 17 kilowatts. Using this wavelength the daylight range was found to be 1400 nautical miles, and it was confirmed that the signal intensity is proportional to mean altitude of the sun at all time. Signals of great intensity were received in New York by night. During these tests the Australian Campany were 』 (R.N. Vyvyan, Over Thirty Years, 1933, George Routledge & Sons LTD., p81)
一九二四年二月に大西洋航路セドリック号に受信機を設置してマルコーニ会社、技師マシューが乗船して受信試験を行った。この試験において、ポルデュー局は反射器を使用せずして九二米(3.26MHz)の波長を送信することとなった。この波長を用いて、昼間の通信距離は一、四〇〇浬(=2593km)であるを発見し、信号の強度は何時も太陽の平均高度に反比例することが確認された。紐育(ニューヨーク)において夜間に非常な強度の信号が受信し得た。  (岡忠雄, 英国を中心に観たる電気通信発達史, 1941, 通信調査会, p352)
 
In view of these rather encouraging results, further tests were made early in 1924 between Poldhu, using some 17 kilowatts of power and waves of 92 meters and a special receiver installed on the White Star Liner Cedric. The result showed that during the daytime signals could be received up to 1400 nautical miles and confirmation was obtained that their intensity was dependent on the mean altitude of the sun at all times. (Guglielmo Marconi, Will "Beam" Stations Revolutionize Radio?, Radio Broadcast Vol.7-No.3, July 1925, Doubleday Page & Company, pp326-327)
   
 マルコーニ氏はRoyal Society of Artsでの講演で、RCA研究所のH.H. Beverage技師の測定ではニューヨークにおける2YTの強さは平均90μV/mと報告しています。
Signals of great intensity were received at Long Island, New York, during the hours when darkness extended over the whole distance separating the stations, and of less intensity when the sun was above the horizon at either end, the intensity of the signals varying inversely in proportion to the mean altitude of the sun when above the horizon. According to the measurements carried out Mr. H. H. Beverage, Research Engineer of average strength of the signals at New York was 90 microvolts per metre. 』 (Guglielmo Marconi, "Results obtained over very long distance by short wave directional wireless telegraphy, more generally referred to as the beam system", Journal of the Royal Society of Arts, July 25. 1924, p613)


62) マルコーニは大西洋横断試験をなぜ後回しにしたのか?[Marconi編]

 マルコーニ氏は客船セドリック号の試験の話題をあまり積極的には取り上げていません。学会発表以外ではRadio Broadcast誌の1925年7月号に書いた記事で触れたぐらいでしょうか。まるで興味がなかったようにさえ見えます
1901年と1923年の実験
 セドリック号での試験は(マルコーニ自身ではなく、)部下のマチュー氏が行ったというのも理由のひとつかも知れませんが、私は1923年(大正12年)12月29日に米国ウェスティングハウス社KDKAの短波実験局8XSが、短波で英国へ番組中継を成功させ、さらに1924年(大正13年)1月1日午前00:00(GMT)よりウェスティングハウスの副社長が英国のリスナーへ、短波を使って新年の挨拶をした"新春特別番組"の直後でもあり、大西洋横断通信の値打ちが下がってしまったからだと想像しています。
【参考】 短波の大西洋越えの一番手はウェスティングハウス社KDKAのコンラッド氏の短波8XSで、1923年9月のことです。米仏アマチュアの短波による大西洋横断2Way交信は1923年11月27日でした。
 
 その前に、そもそもマルコーニ氏の短波による遠距離伝搬試験にはとても不思議に思えることがあります。
 ポルドゥー長波局MPDはマルコーニ氏が1901年12月12日にニューファウンドランド(カナダ)のシグナル・ヒルへの大西洋横断通信(中波による3400km)に成功した由緒ある無線局です。歴史的無線局として全世界の電波関係者に知られています。普通なら短波でも、再びポルドゥー局から大西洋を越えたいと考えるのが自然ではないでしょうか?
 当初、私はポルドゥー局の地形的な条件で、北米向けにビームを建設できなかったのかとも思いましたが、前掲のポルドゥー巨大ビームアンテナの写真を見ると、視界が360度開けていますので、そんな話でもなさそうです。ではなぜマルコーニ氏は巨大短波ビームの腕試し(1923年4月~)を大西洋横断通信として行なわなかったのでしょうか?
 
 アメリカと英仏のアマチュアが1921年2月から大西洋横断試験にチャレンジしているのは無線界では良く知られており、マルコーニ氏も知っていました。なんといってもマルコーニ社はアマチュアらの第1回大西洋横断試験(1921年2月実施)からのスポンサー企業のひとつですから・・・
 そんなアマチュア達の実験の場に、自分が12kW短波送信機にパラボラアンテナという強大な設備で乗り込むのは、さすがにまずかろうと考えたのではないでしょうか? これは私の想像に過ぎませんが、そう思えるのです。


63) 英-オーストラリア通信に成功 (1924年春) [Marconi編]

 1924年(大正13年)2月、マルコーニ社はオーストラリアのシドニーにある、Amalgamated Wireless (Australasia)社の実験局に技術者を派遣し、ポルドゥー2YTを受けるための短波受信施設を設けていました。マチュー氏がセドリック号に短波受信機を積み大西洋を往復しながら2YTの受信試験を行っていましたので、これに合わせてオーストラリアとカナダで受信を試みることになりました。
 1924年(大正13年)4月3日、AW社の実験局はポルドゥー2YTの3.26MHz波(電信)をキャッチすることに成功し、新聞各紙がこれを伝えました。なお人々は「短波」ではなく、「ビームシステム」の威力に驚きました。2YTの電波は06:30-08:30, 17:00-21:00(GMT)の時間帯に限って受信されました。カナダでも16時間聞こえたそうです。
During these tests the Australian Company were listening in, and reported that signals were received in Sydney, Australia, quite clearly and of good strength from 5 to 9 p.m. Greenwich mean time and also from 6.30 to 8.30 a.m.  In Canada it was possible to receive the signals for about 16 hours out of the 24. (R.N. Vyvyan, Over Thirty Years, 1933, George Routledge & Sons LTD., p81)
【注1】 新聞はマルコーニの「ビーム」と伝えましたが、実際にはポルドゥーの反射器は一旦降ろされたので反射器なしでのテストでした。
【注2】 最初に聴こえたのは3月6日とする文献もあります。 
 
1924年 ポルドゥーからシドニー
 そこでマルコーニ氏はポルドゥー2YTから無線電話でオーストラリアにメッセージ送ってみることにしました。
 1923年11月より米国のラジオ局KDKAが短波の無線電話を実用化し、年末から正月にかけて英国BBCへの国際中継放送も行われました。短波の無線電話ではKDKAに遅れをとっていたマルコーニ社ですから、ここで一気に地球の裏側のオーストラリアへ無線電話を送ろうと考えたのかも知れませんね。パラボラ反射器なしでオーストラリアまで届くことが分かっていましたので、今回も反射器は使いませんでした。
The results were so impressive that Marconi decided to attempt to telephone to Australia, still using the 92 metre wavelength and no reflector, with the result that good speech was successfully transmitted to Australia from England for the first time on the 30th May 1924. (R.N. Vyvyan, Over Thirty Years, 1933, George Routledge & Sons LTD., p81)
 電信よりも技術的な難度はアップしますが、一般人へのアピールとしては電話の方が効果的です。送信機に変調器を取付ける改造が施され、さらに送信入力を18kWに増力しました。
【注3】 送信入力28kWとする文献もありますが、マルコーニ社は真空管ごとの電力を示し、その「合計電力」が28kWだとプレス発表したためです。
 
 そして1924年5月30日、ついにシドニーへ「英国人の声」が届いたのです。もう大騒ぎです!6月3日に通信社がこのニュースを世界の報道機関へ配信しました。オーストラリアでは6月4日(以降の)新聞各紙が一斉にこの快挙を報じています(ビームを使ったかのように報じていますが、実はパラボラ反射器は使っていません)。
"AUSTRALIA HEARS ENGLAND" (The Register, p8, June 4,1924)
"Wireless Telephony. England and Australia." (The West Australian, p9, June 4,1924)
"WIRELESS TELEPHONY FROM ENGLAND TO AUSTRALIA" (The Brisbane Courier, p7, June 4,1924)
"ENGLAND TO SYDNEY. HUMAN VOICE TRANSMITTED. BY BEAM SYSTEM." (The Daily News, p8, June 4,1924)
"Wireless Telephony A SUCCESSFUL EXPERIMENT. SYDNEY TO ENGLAND." (Examiner, p5, June 4,1924)
"WIRELESS TELEPHONY. Marvelous Achievement. England Speaks to Australia."(The Mercury, p7, June 4,1924)
"TELEPHONY. VOICE FROM ENGLAND BY BEAM SYSTEM. ANOTHER ADVANCE IN WIRELESS" (The Sydney Morning Herald, p13, June 4,1924)
"ENGLISH VOICES. SYDNEY HEARS Wireless Phone NEW "BEAM" SYSTEM" (Evening News, p3, June 4,1924)
"WIRELESS TELEPHONY ENGLAND TO AUSTRALIA" (Singleton Argus, p2, June 5,1924)
"HELLO, LONDON Voice from Sydney HISTRIC MESSAGE LONDON" (The Newcastle Sun, p1, June 5,1924)
"WIRELESS TELEPHONY ENGLAND TO AUSTRALIA. SUCCESSFUL EXPERIMENTS." Kalgoorlie Miner, p5, June 4,1924)
"WIRELESS MARVELS. TALKING ACROSS THE WORLD LONDON HEARD IN SYDNEY" (The Advertiser, p9, June 5,1924)
"MODERN MARVEL VOICE TRANSMISSION SUCCESS FROM ENGLAND TO AUSTRALIA." Northern Star, p5, June 5,1924)
"WIRELESS WONDERS. TELEPHONE BETWEEN ENGLAND AND AUSTRALIA" (Townsville Daily Bulletin, p7, June 5,1924)
"VOICE FROM ENGLAND Heard in Sydney by Wireless A Remarkable Achievement" (Goulburn Evening Penny Post, p8, June 5,1924)
"WIRELESS TELEPHONY. ENGLAND AND AUSTRALIA" (Western Mail, p13, June 5,1924)
"WIRELESS TELEPHONY. ENGLAND HEARD IN SYDNEY" (The Longreach Leader, p20, June 6,1924)
"WIRELESS TELEPHONY. FROM ENGLAND TO AUSTRALIA SYDNEY" (The Queenslander, p19, June 7,1924)


64) 英濠通信成功の知らせで始まった日本の短波 [Marconi編]

 オーストラリアとの通信は日本にも早いタイミング(6月3日電)で伝えられたようです。
六月三日の外電によると、イギリスからオウストリア洲(原文まま)まで無線電話を通ずることに立派に成功したと伝えているが、その詳細は秘密として未だ発表されていない。 (田村昌四郎, カイゼルとマルコニー, 無電ロマン, 1924, 恵風館, p131)
 1924年(大正13年)9月、「家庭と無線」誌の創刊号(岡田定幸しにより創刊された無線雑誌。「無線と実験」のライバル誌?)には、逓信省通信局の畠山敏行局長の次の一文があります。
最近マルコニー氏は比較的僅少の電力をもって英国とシドニーとの間七千哩の実験通話に成功した。殊にこの際、氏は電波を四方に伝播せしめず、主として目的地の方向に通達する指向式通信方法に就ても、甚だ良好の成績を収め、無線電話技術の進歩は侵々乎たる状況である。 (畠山敏行, "無線電話の発達と其使命", 『家庭と無線』, 1924.9創刊号, 家庭と無線社, p5)
 
 逓信省がマルコーニ氏の短波ビームの実験に注目するのは当然のこととして、一般人に対しても伝わっていたのでしょうか?そこで私は1924年の日本の新聞を探してみたのですが、英濠通信成功の記事は見つかりませんでした。ちょうど1924年の4月から逓信官吏練習所無線実験室が(JOAKに先立って)中波ラジオの定時実験放送を開始し、世は「放送」の話題で持ち切りの時期ですので、短波の英濠通信成功は逓信省や一部の無線関係者しか注目しなかったのかもしれません。
 
1925年 マルコーニビームの記事
 しかし1925年(大正14年)になると、電気試験所の畠山孝吉氏が"ワイヤレース・ビームの原理"(無線と実験, 1925年6月号)という記事の中で英濠通信に触れられています。日本でもやはりポルドゥー2YTのパラボラビームにより英国からオーストラリアまで無線電話を飛ばしたと誤解されましたが、前述のヴィヴィアン技師の書籍によると、この実験にはパラボラ反射器は使用していないそうです。
光をサーチライトでただ一方向にだけやると同じ様に、無線の電磁波も現在では任意の方向に送る事が出来る様になりました。光の場合にはこれを集中するために、時にレンズを使用する事もありますが、これを更に一般的にいえば、反射器(レフレクター)というものを用いるのであります。
無線のビーム・ステーションでもまた反射器を使用するのでありますが、無線用の反射器は良く磨いた固体の金属板ではなくて、針金で作った一つのすだれであります。このすだれにも、曲線型になっているのもあれば、ただ平らな壁の様になっているのもあります。
 マルコニイ氏は(1896年にソールズベリー平原で行った)最初の実験で反射器を使用しましたが、その後は使用致しませんでした。ところが千九百十六年に至りまして、氏は再びこの問題に手を触れたのであります。
 マルコニイ氏は千九百十六年より今日(1925年)まで、連続的に短波長の実験を行っており、レフレクターも次第に改良され、遂に無線電波もこれがために、英国から米国に達し、大陸から大陸へ強い信号電波をもたらしたのであります。しかして英国とオーストラリア間で直接通話するために、短波長が使用されたのであります。 (畠山孝吉, "ワイヤレース・ビームの原理", 『無線と実験』, 1925.6, 無線実験社)
 
1925年 マルコーニ・
 さらに"ビーム方式電波の将来"(科学の世界, 1925年10月号)という記事も英濠通信に触れました。
『・・・(略)・・・ラヂオ波の特性の一つである反射性を応用して、あたかも探照燈で光線を一方向に投射すると同様にビームとして、電波を送射する事を、実際上に応用せんと考え出したのはつい近頃の事である。しかし、このビーム方式の無線送電を、はじめて大規模に試みたのは、かの無線電信の発明者として有名なマルコニーである。
 マルコニーは放物断面をもった、金属の反射器を高く立てて、その焦点に送信機を配置した。かくの如くすれば送信機から出た電波は、反射器によって反射せられ、反射圏内にある受信機のみがこれを受信し得て、圏外のものは、全く通信を受ける事が出来ない。マルコニーは、この方法によって任意の方向に電波を放射して、非常に有効な通信に成功した。
 現在マルコニー会社では、英国から濠洲への無線通信にこれを用い、三〇米(10MHz)内外の短波長によって、好成績を挙げている。この電波の指向発送ともいうべき、光線と同じく、反射や屈折を利用して所望の方向にのみ電波を送るビーム方式による短波長電波送信こそは、将来いろいろと興味あるそして有効なる方面に、応用され得る可能性を多分に持っているのである。例えば、戦時中にせよ、平和時にせよ、飛行機または飛行船にこの送信機を備えて・・・(略)・・・このほかまだいろいろとあるだろうが、とにかくビーム方式ラヂオ波の将来は実に多望なるものがある。  (平田正平, "ビーム方式電波の将来", 『科学の世界』, 1925.10, 科学の世界社, p88)
 
 1927年(昭和2年)になって大西洋を横断する無線電話が開業しましたが、日本の一般人にはこの頃まで、マルコーニ氏が1916年に短波の研究を始めたことや、英濠通信に成功したことはあまり知られてなかったとする、1928年(昭和3年)の雑誌記事もあります。
一九一六年、マルコニは初めて短波長と低電力の「ビーム方式」の研究を初め、一九二四年五月、氏はポルドウから濠洲シドニーに通話して明瞭に氏の声が濠洲で聴かれている。このことは大西洋横断電話の成功(1927年1月7日に開業した長波帯SSB方式の無線電話)までは余り世人に知られていなかったのである (丘野無線子, ラヂオの父 マルコニ, 科学雑誌, 1928.1, 科学の世界社, pp36-39) 【参考】1927年1月7日開業の大西洋横断SSB無線電話については「短波の実用化」のページを参照ください
 
 とはいえ英濠通信の成功は安中電機(現:アンリツ)や日本無線JRCのような老舗無線機メーカーの社史「アンリツ100年のあゆみ」(2001.6)や「日本無線55年のあゆみ」(1971)、および日本電気の七十年史(1972)の巻末年表には『大正13年(1924年) マルコーニ、イギリス~オーストラリア間短波無線電信に成功』と記録されていますし、また日本電信電話公社の「電信電話年鑑」や「自動電話交換二十五年史」、同公社関東電気通信局の「関東電信電話百年史[上]」(1968)にもそうあります。
 
 いわゆる電波を専門とする組織では、上記のようにマルコーニ社の英濠通信が記録されているのは当然として、一般向け図書(岩波書店)からも引用しておきます。
1959年マルコーニの本
マルコーニは一九二四年イギリスとオーストラリアの間を短波で連絡した。日本でも、一九二五年四月に、岩槻受信所の八十メートル送信機(J1AA)で、アメリカのハムとはじめて交信した。また、同年六月には当時の逓信官吏練習所(現在はない)に短波の電話(J1PP)をすえ、同年十二月に、三十五メートルの波長で、アメリカおよびブラジルのハムと通話した。 (関英男, 『エレクトロニクスの話: ラジオから電子計算機まで』, 1959, 岩波書店, p32)
 東工大・ハワイ大・電通大・千葉工大・東海大の教授を歴任された関英男氏のおっしゃるこの流れは、まさしく私がこのサイトで紹介してきた我国の短波開拓史の流れそのものです。
 
"我国にもマルコーニの英濠通信成功の知らせ(1924年夏)"
"稲田工務課長が岩槻建設現場に短波の受信試験を指示(1924年秋)"
"岩槻建設現場にJ1AA開局、米国6BBQと交信(1925年春)"
"官練無線実験室J1PPが短波無線電話開始、アメリカ・ブラジルと交信(1925年暮)"
 さらにこのあと日本の短波アマチュアの誕生や逓信省の国内短波回線の建設につながって行くのですが、それは後ほど取り上げます。とにもかくにも、日本の(逓信省の)短波史は「1924年の英濠通信成功の知らせ」に始まったのです。 【参考】 海軍省の短波の始まりはJ1AAのページをご覧ください
 
 1936年(昭和11年)に出版された「逓信省五十年略史」も上記の流れを記しています。
大正十三年 マルコニー氏が英濠間短波無線連絡に成功して以来、漸次欧米諸国に於て 長距離通信に短波を使用するに至ったが、本邦に於ては大正十五年 岩槻に其の仮装置を施して各国と試験通信を行へるを始とし、昭和二年春 東京・大阪・札幌・鹿児島・金沢および広島の各局に之を設備し、国内無線連絡に当たらしめて好成績を収めた。』 (逓信省編, 『逓信省五十年略史』, 1936, 逓信省, p117)

 ちなみにオーストラリアにおける短波開発ですが、Amalgamated Wireless (Australasia)社の短波実験局2MEがビーム送信を試したところ、1924年(大正13年)11月11日18時に英国のヘンドン局で受信されたのが最初です。


65) 南米ブエノスアイレスでも受信に成功 (1924年6月12日) [Marconi編]

1924年 ブエノスアイレスと短波で
 1924年(大正13年)6月12日、マルコーニ氏はローマのカンピドリオ(Campidoglio)で、「短波ビームを使えばこれまでの様々な課題を解決できる」と講演していました。
 ちょうどその6月12日、ポルドゥー2YTの電波がおよそ6000海里離れた南米アルゼンチンのブエノスアイレスでの受信試験も成功し、6月14日付ブエノスアイレス発「ロイター電」で世界に報じられました。
 この南米テストは波長92mで入力21kWでした。Radio News誌の記事を引用します。
On June 12 last, using 21 kilowatts his station at Poldhu, Cornwall, signaled easily to Buenos Aires. As a result of the ease of this communication over a distance of nearly 6000 miles the opinion is expressed that the new system is able to do in half a dozen hours what their present high power station can do in 20 hours. (E. Fairhurst, "Radio Overseas", Radio News, 1924.10, p580)
 
 日米ラヂオ商会の三橋磯雄理事が「家庭と無線」誌(1924年11月号)にこの件を取り上げています。
マルコーニのブエノスアイレス試験
従来遠距離その間の無線電信電話に使用されていた電波の波長は非常に長くて大きな無電局の放射電波は約十四哩(=22530m=13.3kHz)の波長を有する強力な電波を使用していた。
 しかるに去る七月中にマルコーニ氏とフランクリン氏の両人が試験した結果、今まで顧みられていなかった極く短波長の電波も充分役に立つことがわかった。しかもこの短波長の電波の方が波長の大きなものよりも遥かに有効で、かつ通信の速度も大きいということが解ったのである。
 この試験を行った場所はポルドゥと南米のヴエノスアイレス間でその距離は六千哩余である。しかもこの遠距離間の通話に使用した電波の長さはたった九十二米に過ぎず、しかも普通と比較して約十五分の一の電力で試みられたのである。この驚くべき電力の経済は探照燈の原理と同一原理によって細い幅に集中され直進する不可思議な電波を使用したのである。・・・(略)・・・マルコーニ氏の指摘する所によればこの方法によると、又その上、波長の異なる電波を発振せしめ、一個のアンテナから同時に数個の通信をすることが出来る。この短波長電波の集中は驚くべき性質を有し、為に我が無線電信電話界は一新紀元を画されることとなるであろう。 (三橋磯雄, "驚くべき無電の進歩", 『家庭と無線』, 1924年11月号, 家庭と無線社, p224,229)


66) マルコーニの1924年7月2日の発表に対する逓信省小松氏の驚き [Marconi編]

1924年 マルコーニ氏の短波開拓の発表
 1924年(大正13年)7月2日、マルコーニ氏はロンドンの英国王立技芸協会(Royal Society of Arts)で、短波を使ったカーボベルデへのビーム式伝播試験、セドリック号での大西洋横断試験、オーストラリアとアルゼンチンへの長距離通信の成功について講演し、それがJournal of the Royal Society of Arts(July 25, 1924)に掲載されました(左図)。これが3MHz巨大パラボラビーム実験の公式発表資料に当たります。

 昨年6月15日に行ったカーボベルデ通信成功のプレス発表でも、12月3日のマルコーニ社の年次総会の席上でも、(4,130kmの通信ができたことは発表したが)その詳細は伏せられていました。それが今、公にされたのです。これは英国の帝国通信網を受注するための作戦だったと考えられます。
【参考】英国王立技芸協会での発表は、Wireless World and Radio Review誌(1924年7月9日, pp441-442)にその要約記事 "Short Wave Directional Wireless Telegraphy" が掲載されています(下図)。要約されているので読みやすいです。
1924年7月9日号 WirelessWorld
 
 逓信省通信局電信課無線係長の小松三郎氏がこの7月2日の講演論文(Guglielmo Marconi, "Results Obtained Over Very Long Distances by Short-wave Directional Wireless Telegraphy, More Generally Referred to as the Beam System", Journal of the Royal Society of Arts, vol.72, July 25.1925, pp607-621)を読まれ、その感想を「家庭と無線」誌(1924年10月号)で発表されていますので引用します。
 冒頭で「マルコーニは過去の人だと思っていたが、マルコーニの天才ぶりは健在だった。」という率直な感想を披露されています。もちろんこれは小松氏個人の感想ではありますが、逓信省をはじめ世界中の無線研究者は同様の想いだったのではないでしょうか。
私はマルコニーの偉大な業績として、第一に一八九五年無線電信を発明したこと、第二に一九〇一年大西洋横断無線通信を異常なる熱誠をもって創設したことを挙げて、衷心から氏の人類の福祉に貢献したことの至大であることを欽仰(きんぎょう=尊敬し慕うこと)して措かざるものである。・・・(略)・・・しかしてその後のマルコニー氏は、欧州戦争中連合国側ことに祖国伊太利(イタリア)の為に軍用無線の調査をしていたり、戦後は火星との通信を研究していたりしたように伝えられたが、私は実は発明相次いで生じる無線界の跳躍的進歩の前には、彼はもう老大家として過去の人であると思っていた。
 ところが、彼が本年七月二日、英国ローヤルソサイテーオヴアーツで発表した彼の研究の結果を聞いて、その今度の研究の無線界に及ぼす効果の偉大さに驚き、彼の健在を衷心から祝福した訳である。その発表された要旨はおおよそ左の如きものである。
1924年 マルコーニの功績の記事
 
 二十八年前に彼が郵政庁技術長ウイリアムプリス氏に彼の発明無線電信機を実験して示したときに、電波の反射装置を使用したいわゆるビームシステムで短波長を使用してやると、当時一浬四分の三に達したが、不思議にも普通のアンテナでやっては半浬しか届かなかった。
 しかし、欧州戦争中無線通信の輻輳を体験した結果、長波長の研究にばかり没頭していてはしまいには、長波長の割り当てができなくなって、どうにもこうにもならなくなるであろうと考えた。
 一九一六年の初め伊太利(イタリア)である軍事上の目的で反射電波の研究を始めた。その結果この方式による短波長通信は長波長ばかり使かっている敵から邪魔せられたり、横取りせられたりすることも少なく、はなはだ有利であることを知った。ことに味方の無線電信との混信を除き得ることに有効であった。
 それから助手のフランクリン氏などと研究して、反射装置としては、アンテナに並列に放物曲線状に間隔を置いて、アンテナがその焦点となるように少数の針金を並べ、各線の振動電流のフェーズを同一に保持する為、特別の発電装置の各給電点にある発信機から各アンテナに同時に振動電流が発生するように、アンテナと反射用電線とは互いに並列グリッドを形成するような装置にした。またこの指向性短波長方式の為に真空管を使用することにも成功した。発受両地ともこの電波反射装置を使用するとき、これを使用せざるときに比し、受信勢力は実に二百倍に達することがわかった。
 しかして昨年(1923年)四、五、六月にわたる英国ポルヂウ局とヨット、エレットラ号との間の長距離試験の結果は、通信路に介在する陸地はなんらこの装置による電波の通達を妨げないことなども分かって、かの有名な(波長が短いほど減衰が高くなる)オースチン法則によるコエフイシエントは、この短波長通信に応用するには欠点があることを明瞭に発見した。
 この試験では、電波長九十七「メートル」(3.1MHz)、真空管八個並列、電力十二キロワット、発射電力九キロワットであったが、電波発射勢力を一地点に集中し、実際の電力は十二キロワットであったが、およそ百二十キロワットを必要とする程の勢力を発射し得たから、受信側はアンテナを切離し、またはヘテロダインをスイッチで切離して置いても明瞭に受信することができた。
 もし今後短波長による長距離通信が可能となるならば、有効に使用し得る電波長帯の非常な拡大を見るわけで、無線通信発達の前途は実に洋々たるものとなる。この意味においてマルコニー氏の短波長通信の成功を祈り、彼が三たび通信事業界にエポックメーキングの覇業を成就せられむることを嘱望するゆえんであって、既に半ばその三たび目の大事業に成功した彼の事績をここに予め頌讃しようと思うのである。 (小松三郎, "短波長に依る遠距離無線通信の成功", 『家庭と無線』, 1924年10月号, 家庭と無線社, pp86-87)
 
 短波開拓の意義を、「割当て周波数の拡大」と捉えているのは、さすが電波行政側の方ですね。


67) マルコーニ社が大英帝国無線通信網を受注 (1924年7月28日)[Marconi編]

 ビームアンテナによる商用通信を実用化させる自信を得たマルコーニ社は、英国郵政庁へ植民地・保護領を結ぶ大英帝国通信網に最適だと売り込んでいました。
マルコニー氏は短波長はパラポラ反射体を用い、一方向にのみ平行線として電波を反射し得ることに着想し、短波長持続電波(90-20メートル)を発生し、之を反射体でビームの形として発射し、ビーム式無線電信を発明し、これを宣伝した。 (中上豊吉, 短波長通信に就て, 電気雑誌OHM, 1926.1, オーム社, p395)
 
1924年 マルコーニビームの売り込み
 1924年7月2日にロンドンの英国王立技芸協会(Royal Society of Arts)にて、また7月10日にはローマの The Hall of the Horatii and Curiatii で、マルコーニ社の短波研究の成果が発表ましたが、これらは大英帝国通信網の受注するための宣伝を意識しつつ行われたようです。
 
 左図はNew York Times紙(1924年7月11日)にあるマルコーニ氏のローマでの講演(7月10日)の記事です。
Marconi Predicts Revolution in Radioマルコーニ氏が無線の大変革を予言
Says Very Short Wave Lengths at Small Cost Will Abolish High-Power Stations. (低コストの短波が長波の大電力無線局を駆逐する
 
(ポルドゥーとカーボベルデ通信の)あくる年(1924年)の五月には、ポルジュ―から出た短波は、オーストラリアのシドニーや、南アメリカのブエノスアイレス、リオデジャネイロまで届きました。・・・(略)・・・この成功で、短波を使った長距離通信は、費用の点でも確実さの点でも、海底電線を使う電信よりずっとすぐれていることが、はっきり証明されました。イギリス政府は、マルコーニのひとつづきの実験がちゃくちゃく成功をおさめるのをみると、はやくも一九二四年六月(注:7月の誤記)にマルコーニ無線電信会社と契約を結び、イギリス本土とカナダ、南アフリカ、インド、オーストラリアなどを結ぶ短波無電網を建設させることにしました。 (市場泰男, さ・え・ら伝記ライブラリー13『通信の開拓者たち』, 1966, さ・え・ら書房, pp209-210)
 
 1924年(大正13年)7月28日、英国郵政庁はマルコーニ社とビーム式無線電信局の建設契約に調印しました。英国からカナダ、南アフリカ、インド、オーストラリアの4地点との公衆通信回線の建設受注です。大規模でかつ世界中の電波主管庁が注目したという点で、この契約が短波公衆通信(電報)実用化への入口として取り上げられることが多いようです。


68) ビーム建設契約までの経緯とその内容 (~1924年) [Marconi編]

 1924年(大正13年)7月28日にマルコーニ社が英国郵政庁GPOと契約を結んだ短波ビーム通信網(Imperial Wireless Chain)は、間違いなく短波開拓史上における最重要トピックスのひとつです。この契約までの経緯と内容を説明します。
 まず郵政庁との契約(1924年)に至るまでのマルコーニ社の動きを引用しておきます。
そして、1910年の3月に、マルコーニ会社は、同社が建設し、運営する18の無線局を母体とする「帝国無線計画」の建議を具申しました。通信料金は、ケーブル会社が請求する料金の半分になりそうで、無線局も戦略上、重要な価値がありました。陸上の電信線は、外国の領土を横断していたり、海底ケーブルは敵国軍艦により、容易に切断可能だったからです。さらに、英国海軍の艦船と世界中で通信できるようになるのです。独占権を事業会社に授与することになるので、政府は、この提案に批判的でしたが、無線通信の準備をするように、帝国国防委員会から、強い圧力を受けていました。』 (キース・ゲデス/岩間尚義訳, 『グリエルモ・マルコーニ』, 2002, 開発社, pp68-69)
 実際にも、のちに起きる第一次世界大戦ではドイツが敷設していた大西洋の海底ケーブルを連合国側が切断しましたが、多くの無線回線を持っていたドイツにはダメージを与えられませんでした。

マルコーニ事件 

そして、1912年に、この契約は締結されましたが、・・・(略)・・・下院議会の裁可を待つ間に、シティで流布していた風説が噴出して、「マルコーニ事件」として知られるようになった大騒動になってしまったからでした。契約が締結されたのは、汚職によるものであり、マルコーニ会社の株式に投機をするために、政府の大臣たちは特権をもって、この計画が間もなく承認されるであろうという情報を知っていたという記事が、新聞で、すっぱ抜かれました。特別委員会が、事件の調査のために、任命され、長い審理の後で結論づけたのは、最初の告発は、完全に事実無根であり、その後の行動には、正直さを欠いたところはあるが、無分別であったことが、とがめられるだけというものでした。この非道徳な事件の間中、マルコーニ自身の清廉さは、全く問題にされることはないのに、自分の名前は、常に関わりをもたされたので、極めてつらい思いをしていました。1913年7月には、6局を建設する新契約が署名されましたが、1914年8月の戦争勃発時までには、1局も完成されておらず、この計画は断念されました。』 (キース・ゲデス/岩間尚義訳, 前掲書, p69)
 
 ようやくスキャンダル事件が沈静化し契約できたものの、今度は第一次世界大戦の勃発で中止になり、英国政府とマルコーニ社間にミゾが出来てしまいました。戦後になり英国政府は再び「帝国無線計画」の立案に着手しました。
この計画は、戦争後に、すぐに復活しましたが、完全な手詰まり状態になってしまい、三つの連続した委員会も、郵政省とマルコーニ会社間の利害関係を和解させられるような案を考え出すことができませんでした。合意が成立しないままに、郵政省は、マルコーニ会社の特許権の侵害を回避するような大電力無線局の建設を開始し、他方、マルコーニ会社は、海外の提携者を通じてオーストラリアと南アフリカ連邦に無線局を供給する契約をしました。もちろん、すべての無線局は、長波を使用するものでした。』 (キース・ゲデス/岩間尚義訳, 前掲書, pp77-78) (なおマルコーニ社が独自に契約していたオーストラリア回線と南アフリカ回線は、のちに結んだ郵政庁との短波ビーム回線契約に吸収合意されて解決しました。)
 
 そんな折りに、ポルドゥー局で実証した短波ビーム送信の威力と、長波局に対し建設費や運用経費が安く済むというメリットに自信をもったマルコーニは政府へ売り込むことにしました。
しかし、政府との合意を取り付けるためには、会社は失敗のすべての危険を会社自身が負担するような契約を提案せねばなりませんでした。そして、その危険は測り知れませんでした。性能の保証は、かつて調査したことのある(100メートル)だけを使って(注:ポルドゥーの97mのこと)行なわなければなりませんでした。そして、この波長帯は実際のところ、会社がいずれは開発していかねばならない、より短い波長(注:平面アレイビームによる32mのこと)の電波よりも、長距離通信には、ずっと適していない帯域でした。きつい日程の中で、全く新しい問題を呈した周波数で運用するような送信機、受信機、給電線とアンテナを設計しなければなりません。』 (キース・ゲデス/岩間尚義訳, 前掲書, p78)

ビーム建設契約

 その契約は一方的に政府の希望を取り入れた非常に厳しいものでした。まだ短波が使い物になるのか100%の保障がない中で、マルコーニは短波ビーム通信に社運を掛け、人生最大の大勝負に出たのです。世界中の電波関係者は実用価値のない短波を使うと決断したマルコーニを冷笑したことでしょう。以下に契約内容を引用します。
ビーム式無線電信局建設に関する郵政庁とマルコニー会社の契約抜粋(1924年7月28日)
対手局    カナダ、南阿
(南アフリカ)、印度(インド、パキスタン、バングラディシュ地区)、豪州(オーストラリア、ニュージーランド地区)
敷地     政府は送受信局の敷地を選定し、マルコニー会社の同意を得、決定す
ビーム式無線 同時送受可能たるべきこと(二重通信)
送信電力   20キロワット以上
       単一方向性を有しその発射電波は30度以外に出ざること。受信装置もビーム式空中線を用いること。
       ロンドン中央電信局より送受信局ともコントロールし得ること(中央集中方式)
完成期    敷地決定後26週以内(但しカナダでも同様期間に完成のこと)。
通信速度   100語(送受とも)以上。
試験及び支払 完成後七日間試験し良好なる時は半額を支払う。その後は局の運用は政府これを行う。
       更にその後6カ月実地試験良好なる時、全額の四分の一を支払う。
請負建設費  建設実費およびその5%を加え、更に請負者の利益金としてその10%を加えたるもの。但し建設費は左記を超過するを得ず。
        電力供給を受ける場合 44,920磅
(ポンド)
        自家発電の場合    50,420磅
(ポンド)
       一局分増設(送受とも)に対しては
        電力供給を受ける場合 29,106磅
(ポンド)
        自家発電の場合    31,406磅
(ポンド)
       この建設期は注文後一局に対しては6ヶ月、一局以上の場合は9ヶ月。
通信可能時間 英国、カナダ間通信, 一日中18時間。
       英国、南阿間通信, 一日中11時間。
       英国、印度間通信, 一日中12時間以上。
       英国、豪州間通信, 一日中7時間以上。
ロヤルティー 収入金の6.25%を政府よりマルコニー会社へ特許の存続期間中支払う。
電報料金   政府は会社と協議の上決定す。但しカナダ通信に対しては現行料金以内。欧州通信に対しては現行ケーブル料金の
       3分の2以内。官報に対しては特殊料金を定む権能を保留す。
効力発生   議会の協賛を経てのち効力発生するものとす。
 (中上豊吉, "短波長通信に就て", 『電気雑誌OHM』, 1926.1, オーム社, pp24-25)


69) マルコーニからアマチュアへ  (ママチュアへ短波開放 1924年7月24日) [Marconi編]

 1924年(大正13年)7月28日にマルコーニ社は郵政庁GPOと大英帝国無線通信網(カナダ回線、南アフリカ回線、インド回線、オーストラリア回線)の建設契約を結びました。
 この契約に基づき英国内ではボドミン(Bodmin, Cornwall州)が送信用に、ブリッジウォーター(Bridgewater Hill, Somerset州)が受信用の建設予定地として選ばれました。対手局のカナダ側ではドラモンドビル(Drummondvill)に送信局を、イヤマシッシュ(Yamachiche)に受信局を新設することになりました。
 なおボドミン送信局とブリッジウォーター受信局は南アフリカ回線も受け持つため、南アフリカ向けに方角の違うビームをそれぞれもう一基建設する必要がありました。
 一方インド回線のビーム局は英国の別の場所にグリムスビー送信局(Grimsby)とスケグネス受信局(Skegness)を、インド側はカーキ送信局とドンド受信局を建設することになりました。このグリムスビー送信局とスケグネス受信局はオーストラリア回線も担当しました。
 
 このように英国政府との契約に基づき各ビーム局の場所が決まり、その建設が始まったのは1925年(大正14年)4月でした。下図はブリッジウォーター受信局の建設現場です。
1925年 ブリッジウォーター局建設現場1
1925年 ブリッジウォーター局建設現場2
 これらはマルコーニ社の社運を掛けた建設工事で、もし郵政庁GPOの要求仕様を満たせなかった場合は、莫大な借金を負うことになります。マルコーニ氏の娘はこの受注について以下のように記しています。
1924年7月、父は英国政府と契約を結び、超スピードでイギリス中に商業ベースでの電波利用システムを普及させようとした。しかし状況はきわめて厳しく、(部下の)ヴィヴィアンは「マルコーニ社は膨大なリスクを負わなくてはならないだろう。いかなる商業分野にも前例のない新しいシステムが、効果的機能のものだと証明しなくてはならないのだから」と危惧していた。このシステムはまったく新しいため、(長波の)250メートルのアンテナが四本も立てられていた南アフリカの高価な基地の建設は中断を余儀なくされた。そして南アフリカ・マルコーニ無線電信会社は、この(長波)システムに代わる新しいタイプの短波局をつくるための特別契約を結ばなくてはならなかった。』 (デーニャ・マルコーニ・パレーシェ著/御舩佳子訳, 『父マルコーニ』, 2007, 東京電機大出版局, pp280-281)
 
 1925-26年(大正14-15年)にはマルコーニ社の精力をビーム建設に集中させました。そしてちょうどマルコーニ社と入れ替わるかの絶妙なタイミングで短波に登場したのがアマチュアでした。すなわちマルコーニ社は1924年(大正13年)7月28日のGPOからの受注を契機に(下図:[10]番)、以後短波開拓を(昼間波の研究を除き)縮小し、実用化建設へ舵を切りましたが、米国アマチュアは1924年(大正13年)7月24日に4つの短波バンド(80m, 40m, 20m, 5m)が開放されたことを契機に(下図:[14]番)、同年秋頃より80mバンドから使用をはじめました。するとアマチュアの低電力通信で次々とDXレコードが更新される事態となり、全世界の電波関係者を驚かせました。短波が最も注目された年、それは1925年(大正14年)でしたが、同時にマルコーニ社が不在の年でもありました。
短波開拓図


70) 昼間波を見つけなければケーブル会社に勝てる見込みなし [Marconi編]

昼間波
 当時は太陽の日陰側(夜側)では上空に電波を反射する層(1902年にその存在が予想されたケネリー・ヘビサイド層)が形成される(逆に昼側では日光がこの層を弱める)と考えられていました。
 これはA地点とB地点の途中経路が夜間であれば中波でも遠距離にまで伝播することをうまく説明できるため、無線界では広く受け入れられていました。
 英国BBC放送チーフエンジニアのピーター・エッカーズリー(Peter Pendleton Eckersley)氏が1923年(大正12年)に書かれた記事(および図)の一部を引用します。 【参考】 BBCのピーター・エッカーズリーの兄が、後述するマルコーニ社の技術者トーマス・エッカーズリーです。
Thus, in the accompanying diagram I have drawn a rough sketch of the world, with the sun shining full on one side, leaving the other in shadow. On the sunny side, what apparently is a swarm of flies is meant to represent electrified particles. On the dark or night side these particles have recombined near the earth, while many others have risen up to a height and are all huddled up together to form a sort of electrified layer, some 20 or 30 miles above the earth's surface. Daylight diffuses the layer which at night time forms above the earth. The layer was first assumed to exist by Heaviside, and is often known as the "Heaviside Layer." Near the sunrise or sunset region the diffusion is very great, owing to the sunlight being oblique to the air, and gradually toward the night side the air is cleared of particles, while toward the light side uniform diffusion sets in.  』 (Capt.P.P. Eckersley, "What Causes Fading?", Radio Broadcast, Nov.1923, Doubleday Page & Co., p49)
 そしてマルコーニ氏が試していた92m波(3.26MHz)の実験でも、やはり昼間だと遠距離通信は大きく制限され、結局この説を認めざるを得ない状況にありました。
 
 しかし電報の申込みは人々が活動する昼間に集中する事や、電報局や無線電信局の営業時間を考えると、短波が夜間通信しかできないのは大きな欠点です。いくら小電力で遠距離通信が可能でも、これでは海底ケーブル会社の遠距離通信市場を切り崩すことができません。なによりも郵政庁と契約した通信時間を満たせません(特にカナダ回線は1日18時間の契約でした)。マルコーニ氏はこの現状を打開するためには、何としても昼間波を見つけなければならないと考えました。
 
 1924年(大正13年)8月、昼間の通信制限を受けない未知の電波長を探すために、マルコーニ氏は再びエレットラ号で航海に出ました。
I therefore resolved to make further experiments between Poldhu and the Elettra, to see if some means could not be found to overcome the limitation of working hours imposed by daylight.  (Guglielmo Marconi, Will "Beam" Stations Revolutionize Radio?, Radio Broadcast, July 1925, Doubleday Doran Inc, p329)


71) マルコーニ ついに昼間波を発見する (1924年8-9月) [Marconi編]

 1924年(大正13年)8月、マルコーニ氏はまず大西洋のマデイラ諸島(Madeira)に向かいました。昨年、ここマデイラ諸島でポルドゥー2YTの波長97m(3.09MHz)のビーム波を測定しましたが、今回測定しても、同じ結果になることを確認しておこうという目的でした。
1924年 昼間波を探す航海
1924年 昼間波の発見
 ポルドゥーには波長92m(3.26MHz)に調整された反射鏡が取付けられました。
 マデイラでの波長92mの測定では(前回の97mより)日中の感度が少々上がったことが確認されましたが、日中の感度と波長の関係はまだ分かっていませんでした。
At Madeira it was ascertained that a reflector at the transmitting station increased the strength of the received signals in accordance with our calculations, but that, notwithstanding this increase of strength, when using a 92 metre wave the daylight range was only very slightly augmented.   (Guglielmo Marconi, Radio Communications, Journal of the Royal Society of Arts, Vol.73 - No.3762, Dec.26, 1924, pp127-128)
 
 マデイラでの比較測定を終えると、マルコーニ氏を乗せたエレットラ号はイタリアのナポリ(Napoli)に向かいました。ポルドゥーでは反射鏡を降ろして無指向性にしました。
1924年 昼間波発見の地図 マルコーニ
 そしてナポリを出港したエレットラ号は地中海を東進し、シチリア島のメッシーナ(Messina)、ギリシャのクレタ島(Crete)で測定しながら、地中海東端のベイルート(Beyrouth, レバノン)へ向いました。
The yacht proceeded to Spain, then to Madeira, and afterwards to Italy.  From Naples we sailed for Beyrouth in Syria, touching at Messina and Crete, and returning to Naples via Athens.  (Guglielmo Marconi, "Radio Communications", Journal of the Royal Society of Arts, Vol.73 - No.3762, Dec.26, 1924, p127)
 
 今回の実験でマルコーニ氏はポルドゥー2YTの送信波長を92m(3.26MHz)から60m(5MHz)へ、47m(6.4MHz)へ、32m(9.4MHz)へと短くさせながら測定を繰り返していましたが、波長を短くするほど昼間の不感時間帯が短縮することがわかりました。昨年の8- 9月に途中経路がほとんど海で約1,100海里(=2,037km)離れたマデイラの試験では昼間聞こえる期間は少ししかありませんでしたが、途中経路がほとんど約2,100海里(=3800km)離れたベイルートにおいて、ついに波長32m(9.4MHz)の電波が24時間連続受信できました。
I tried the effect of still further decreasing the wavelength, reducing it to 60, 47, and, finally, to 32 meters and I found that the opaqueness of space in the daytime diminished rapidly as the wavelength decreased. During these tests, which were conducted in August and September of last year, the 92-meter wave could not be heard for many hours in Madeira — a distance of 1100 miles entirely over the sea.  At Beyrouth, in the Mediterranean, the 32-meter waves were regularly received all day, although the distance was 2100 miles, practically all over mountainous land.   (Guglielmo Marconi, Will "Beam" Stations Revolutionize Radio?, Radio Broadcast, July 1925, Doubleday Doran Inc, p329)
At Madeira, and at other places, in the Atlantic and Mediterranean, comparative tests were carefully carried out with waves of 92, 60, 47 and 32 metres. These tests enabled us to discover that the daylight range of practical communication over long distances increased very rapidly as the wave length was reduced, the 32 metre wave being regularly received all day at Beyruth, whilst the 92 metre wave failed to reveal itself for many hours each day, even at Madeira, notwithstanding the fact that the distance between Poldhu and Madeira is 1,100 miles, entirely over sea, whilst that between Poldhu and Beyruth is 2,100 miles, practically all over mountainous land. 』 (Guglielmo Marconi, "Radio Communications", Journal of the Royal Society of Arts, Vol.73 - No.3762, Dec.26, 1924, pp128)
 
 日本語のものも、ご紹介しておきます。
再びポルデュー局とエレットラ号との間において試験を行うこととなったのであるが、今回は九二米、六〇米、四七米、三二米の四つの波長を使用して試験を行った結果は、長距離の昼間通信範囲は、波長を短くすれば、かえって拡大されることを発見した。すなわち三二米の電波は二、一〇〇浬のシリアの沿岸で二十四時間中受信することが出来た。 』 (岡忠雄, 英国を中心に観たる電気通信発達史, 1941, 通信調査会, p353)
1924年、再びエレットラ号でベイルート港へ赴いたマルコーニは、2400マイル(=2,100ノーティカルマイル=3,800km)離れたポルデュー短波局から32メートル波長で発信された信号を一日中受信可能なことを確めた。 (デーニャ・マルコーニ・パレーシェ著/御舩佳子訳, 『父マルコーニ』, 2007, 東京電機大出版局, p280)
 
 ベイルートからの帰りはギリシャのアテネ(Athens)経由で一端ナポリへ戻りました。
 マルコーニ氏による波長比較試験は、地中海と大西洋岸の様々な場所で2箇月以上行われ、大西洋上のマデイラ諸島経由で英国に帰国しました。この試験では波長100m(3MHz)から32m(9.4MHz)の範囲において、全てのケースで波長が短いほど昼間通信に有効であるという結果を得ました。マルコーニ氏は念願の昼間波を発見したと直感しましたが、もう少し追試を行うことにしました。
Comparative tests on different wave lengths were carried out for a period of over two months in a variety of places, and all observations went to confirm the fact that for waves between 100 metres and 32 metres the daylight absorption decreased very rapidly with the shortening of wave length.  These results were so interesting and satisfactory that I immediately decided to try further tests over much greater distances.  』 (Guglielmo Marconi, "Radio Communications", Journal of the Royal Society of Arts, Vol.73 - No.3762, Dec.26, 1924, pp128)


72) 有線会社を震撼させた 英・オーストラリア通信 23.5時間/日 (1924年秋) [Marconi編]

 1924年(大正13年)9月、ベイルートへの航海でついに昼間波を発見したかも知れない。マルコーニ氏は世紀の大発見に興奮しました。そしてイギリスに戻ると、ただちに昼間波(波長32m)の存在を検証するための大規模な遠距離試験を計画したのです。
These results were so interesting and satisfactory that I immediately decided to try further tests over much greater distances.  』 (Guglielmo Marconi, "Radio Communications", Journal of the Royal Society of Arts, Vol.73 - No.3762, Dec.26, 1924, pp128)
『 (ベイルートで昼間波を発見して)イギリスに戻ったマルコーニは、アルゼンチン、オーストラリア、ブラジル、カナダ、アメリカ合衆国の無線局に送信を開始することを伝えた。日中波(昼間波)の発見により、長波送信は過去のものになってしまった。こうしてマルコーニは、一人で(短波の遠距離到達性と昼間波の存在という)二つの重要な発見をした数少ない人物となったのである。』 (デーニャ・マルコーニ・パレーシェ著/御舩佳子訳, 『父マルコーニ』, 2007, 東京電機大出版局, p280)
 
 1924年(大正13年)10月から12月に掛けて、新波長32m(9.4MHz)を使って入力12kWで、ニューヨーク、モントリオール(カナダ)、リオデジャネイロ(ブラジル)、ブエノスアイレス(アルゼンチン)、オーストラリアとの昼間通信試験に次々と成功し、マルコーニ氏が発見した昼間波の存在は疑う余地のないもになりました。
 特に驚くべきことに、オーストラリアでは、一日24時間のうち23.5時間受信可能になりました。これは昼夜の区別なく電波が利用できるという意味であり、海底ケーブルを敷設し、その保守に莫大なコストを投下してきた有線系通信会社を震撼させました。
 
1924年 マルコーニが昼間波を発表
 1924年12月11日、マルコーニ氏は再びロンドンの王立技芸協会(Royal Society of Arts)で講演し、昼間波を求めてベイルートへ向かう航海で、ついにそれを発見したことや、秋から昼間波を使った伝播実験を行なったところ世界各地でそれが確認されて、「日が暮れないと遠距離通信できない時代は過去のものになった」ことをアピールしました。
 その講演論文"Radio Communications"が、左図Journal of the Royal Society of Artsに掲載されました(vol.73, 1924年12月26日, pp121-133)。
 
 これまでの常識では、夜になると上空にヘビサイド層と呼ばれる電離層が出来て、電波が遠方へ反射されると考えられていましたが、それが覆されたのです。そしてそれは無線がケーブルと対等に勝負できる可能性を予感させ、公衆通信の世界に衝撃が走ったのです。
 
 無線雑誌はこぞってマルコーニ氏の昼間波の発見を取り上げました。もう大騒ぎです。
 たとえばPopular Radio誌1925年(大正14年)5月号は「短波の重要な新実験(Important New Experiments With Short Waves)」と題して、「驚くべきことに、短波でもより短い波長ならば、昼間でもはるかに大きな通信圏を示すことが発見された。」と伝えました(下図)。
マルコーニの昼間波発見の記事
In August, 1924, Senatore Marconi began additional experiments between the transmitting station at Poldhu, England, and his yacht, the S.S. Elettra, to see whether this daytime deficiency of the short waves could be overcome. Comparative tests were carried out with waves of 92, 60, 47 and 32 meters. Surprisingly enough, it was found that the shorter waves showed much greater daylight ranges than did the longer ones. While the Electra was at Beyruth, at the eastern end of the Mediterranean, the 32-meter waves were received regularly all day while the 92-meter ones were lost altogether during a large fraction of the daylight. Encouraged by these successes, Senatore Marconi arranged a series of tests on 32 meters between the Poldhu station and especially installed receivers at Montreal, New York, Rio de Janeiro, Buenos Ayres, Sydney (Australia), Bombay and Karachi (India), and Cape Town (South Africa). All tests were successful, the daylight absorption of these short waves, either with or without the directed-beam reflectors, proving to be far less than the similar absorption of the waves of 92-meter wavelength or of the still longer ones. The power used at Poldhu was usually 12 kilowatts although powers between 9 kilowatts and 15 kilowatts were used in some of the tests.  ("Important New Experiments With Short Waves", Popular Radio, 1925.5, E.R. Crowe & Company Inc., p482)


73) 日本にも伝わったマルコーニの昼間波 [Marconi編]

 逓信省の技師・技手により共同編纂された「無線科学大系」ではマルコーニの昼間波の発見を次のように評価しています。
1924年7月マルコニーは倫敦においてその結果を発表し(7月2日の英国王立芸術協会で行ったカーボベルデへのビーム式伝播試験などの報告)、短波指向式送信法によれば小電力をもって、従来多大の経費を要していた長波長大電力局によるものよりも、より高速度の24時間通信が可能になるであろうという当時大胆と思われる様な予言をなしたのである。
 それからの短波の組織的実験研究は著しく進み、更に短い92, 60, 47, 32 米等で実験した結果、波長が短いほど昼間伝播が良好なことが初めて認められた。この事実は従来200米以上(1500kHz以下)の波長で認められていた事実と正反対であったので、短波に対する一般の興味は更に著しく喚起せられたのである。通信距離も益々延長せられ32米、12キロワットをもって英国からモントリール(カナダのモントリオール)、ロングアイランド(ニューヨーク)はもちろん、ベノスアイレス(南米アルゼンチン)、あるいはシドニー(オーストラリア)にも達する様になった。ここに最早短波の長距離通信としての偉力は疑うべからざるものになったのである。 (竹林嘉一郎, 第六編短波長, 『無線科学大系』, 1928, 誠文堂無線実験社, pp412-413)

● マルコーニの昼間波の発見が東京放送局JOAKの番組で取り上げられた

 1925年(大正14年)8月28日の朝、ラジオJOAKで東工大の竹内時男氏による「無線電波は何故に地球を廻るか」という講演番組が放送されました。そして1916年からのマルコーニ氏の研究成果として、32m波(昼間波)の発見が取り上げられました。
一九〇二年でありますが、マルコニーは長波長電波は昼夜によってその到達距離に相違があり、夜間の方が効果が多いことを発見しましたが、・・・(略)・・・最近までは長波長で強力な電波を用いなければ遠距離通信は不可能であるとせられまして、波長何万米、千何百馬力という発信所が建てられていましたが、昨年あたりよりかえって三十二米の短波長の方が有効な事がマルコニーによって確かめられました。この短波長では昼夜ほとんど到達距離に変化が無い事が明らかに成りました。この実験は一九一六年頃からマルコーニによって企てられており、鉛直な針金の一群をもって放物線形鏡の骨格をつくり、その鏡の焦点に発信器を置くのであります。ちょうど探照燈の原理に似ています。これがいわゆるビーム・システムなるものであります。イギリス - オーストリア間の通信には僅か十馬力で足ったそうです。この短波長はアンチボードまでへも届きます。この大発見はまさに将来の無線界を革新すべき者と信ぜられています。・・・(略)・・・以上をもって私の講演を終ります。さようなら。 (竹内時男, 『最近の物理学』, 1925, 興学会, pp155-156)
 
 さらに季節による違いを確認しておくために、ポルドゥー2YTでは1924年(大正13年)暮れから翌年にかけて波長25m(12MHz), 32m(9.4MHz), 60m(5MHz)で比較実験を行いました。高い周波数が使えればアンテナを小型にできて、それだけ建設コストが安く付くという魅力もあり、波長25m(12MHz)も実験に追加されました。
 昼間波の発見は「夜間にのみ形成される」という従来の電離層モデルに一石を投じる大発見でした。また無線ビジネス上でも、24時間通信できる可能性が示され、ようやく無線が永年のライバルであるケーブル会社と肩を並べることができたわけです。その意味において無線発展史上、マルコーニ氏の昼間波の発見は特筆すべき事項ではないかと私は感じるのです。1953年(昭和28年)にアームストロング氏が、これがマルコーニの大きな功績であると述べています。どうぞ短波開拓史のフロントページの最後にあるアームストロング氏の講演記事をご覧下さい。


74) 平面ビームアンテナの開発 (1923-25年) [Marconi編]

 マルコーニ氏にはもうひとつ課題が残っていました。
1924年 新型マルコーニビーム
 立体的な構造のパラボラ式ビームアンテナの簡素化です。そこでC.S. フランクリン技師がまず最初に試したアンテナが、多段コーリニア・アンテナに反射器を加えたものでした。
 しかし輻射器+反射器の1対の組み合わせだけでは期待するほどのビーム効果が得られず、もっとビームを鋭く絞るために、これをカーテン状に複数並べた平面ビームアンテナ(Franklin Array Antenna)へ進化させようと考えていました(左図)。図中で各エレメントの途中にあるのは1/2波長の電気長を持つコイルです。
 これを実現するためにフランクリン技師は同心円筒型給電線(Concentric Tube Feeders)と、各輻射エレメントへの整合分配器の設計・開発にも注力しました。
 
マルコニーの電波灯台
 そして1923年(大正12年)頃よりマルコーニ社のC.S. フランクリン技師が、ドーバー海峡のサウス・フォアランド(South Foreland)灯台の隣に実験施設を建てて、平面ビームアンテナの実用化試験を開始しました。ここは濃霧による海難事故が多発する海域で、1898年12月より、サウスフォアランド灯台とその沖合に停泊するイーストグッドウィン灯台船間の無線連絡回線が開設されたことでも知られる場所です。1924年(大正13年)にはC.S. フランクリン技師の平面ビーム実用化の目途がたったようです。
 1925年(大正14年)9月3, 4日、マルコーニ社(英国)はサウス・フォアランド(South Foreland)ビーム送信所の施設見学会とエレットラ号によるデモンストレーションを実施しました。日本からは帝国海軍の村上造船造兵監督官が派遣されています。つまり日本人として最初に平面ビームアンテナを見たのは海軍の村上氏ということになります。
 
 車両基地で見られた蒸気機関車の転車台と同様の構造で、回転台に乗せられた波長6.09m(49.3MHz)の平面ビームをクルクル廻しながら角度によって決められた符号を発射します(下図[左])。
無線灯台
 このサウス・フォアランド灯台の平面ビームは、前述したインチケイス島のメリーゴーランド型のパラボラビームと同じく、180度逆向きに2つのビームを作っています(左図[右])。
 中央に16本の反射エレメントを並べて、それを挟むようにして両側に輻射器(8エレ)を並べています。つまり中央列の反射器1-16が、左右列の輻射器A1-8, B1-8に共有されている、三列構造のデュアルビーム方式でした。
【参考1】 左図[右]の平面ビームは1926年頃のものです。短波開放の通達のページで紹介した1925年9月の木枠式から、両サイドにマストを建てて吊り下げるもの進化しています。どうぞ見較べてみて下さい。
【参考2】 この電波灯台は最終的には数年間実用に供されて、濃霧時のドーバー海峡を航行するマルコーニ社の船舶局に役立てられました。
 
 マルコーニ社は1924年(大正13年)7月28日に英国政府より受注した大英帝国通信網のビームアンテナに、この平面タイプのフランクリンアンテナを採用することに決めました(上記灯台用はデュアルビーム方式でしたが、公衆通信用にはシングルビーム)。それは短波用の巨大パラボラ時代の終焉を意味していました。
『・・・(略)・・・マルコニは短波を発生し、これを放物線形反射体によって、電波を反射し、ビームの形をもって一方向にのみ強勢に発射せしむることを工夫し、ビーム式と称していた。その後さらに有効なる(平面型の)ビーム・アンテナを考案し、長距離通信にこれを用いることとなり、この(平面)ビーム式短波装置は、英国郵政庁によって一九二四年(大正十三年)英本国と植民地(豪州、カナダ、印度等)との通信に採用せられるに至った。 (電波監理委員会編, 『日本無線史』第二巻, 1951, p229)
 
 後述しますが大正末から昭和初期に掛けて各国は競って平面ビームを考案しました。日本でも海軍技研の谷氏の海軍式ビームや、J1AA河原氏の逓信省式ビームアンテナが考案され依佐見無線や検見川無線で採用され、短波の固定通信で平面ビームが大いに活躍しました。世界の短波固定局のビーム・アンテナ・ブーム(?)の火付け役となったのがマルコーニ・ビーム(フランクリンの平面ビームアンテナ)でした。
 
 対手局の方角が不定の海岸局(銚子無線や落石無線)は別として、固定局(検見川無線や依佐美無線)による遠距離公衆通信(Point to Point)が長波から短波へ急速に置き換えられた最大の理由は、ケーブル会社と互角に勝負できる昼間波の発見と、高利得ビームアンテナの完成にあります。昼間波の発見はマルコーニ氏が、そして固定通信の実用アンテナの考案はフランクリン氏という点でも、マルコーニ社の短波開拓の功績は非常に大きいといえるでしょう。
 逓信省の稲田三之助(初代)工務局長や梶井剛(第2代)工務局長はのちになって次のように述べています。
しかしながら距離が大となれば、長波または中波による無線電話は巨大なる規模の大電力設備を要し、従って莫大なる資本をもってせねばならぬから、技術上よりもむしろ企業的検知よりの問題に左右せらるべく、現にこの長波施設としては(短波化の進行で)英米間無線電話設備に一回線存在するに過ぎない。しかるに、数年来指向性(平面型)空中線の発明により、比較的小電力をもって長距離通信を確保し得る短波無線設備が発達して、現在のごとき短波放送、短波無線電話の発展を見るに至ったのである。』 (稲田三之助, "世界に於ける長距離無線電話の現状", 『ラヂオの日本』, 1930.12, 日本ラヂオ協会, p411)
(マルコーニ氏は) ・・・数学者フランクリン氏の協力を得まして、一九二三年、今日実用に供せられている平面形のマルコーニ式短波ビーム空中線およびこれに用いる真空管式短波送信機なるものを創造し、(1926年以降)これが英国郵政庁によって英国と加奈陀(カナダ)、印度(インド)、豪州(オーストラリア)、南亜(南アフリカ) との間に採用せられまして、今日の短波無線通信の先鞭となり無線通信界に大革命をもたらしたのであります。 (梶井剛, "無線の父マルコーニ候を偲ぶ", 『逓信協会雑誌』, 1937.9, 逓信教会, p106)


75) 最適な通信周波数を解き明かす (1925年8月~26年5月) [Marconi編]

1925年 アンテナを吊るす前のブリッジウォーター局1
1925年 アンテナを吊るす前のブリッジウォーター局2
 左図[左]と[右]は違う場所から撮られたブリッジウォーター受信局です。丁字型マストが5本で1系統ですが、よく見ると2系統のビームがあります。
 ここブリッジウォーター受信局は方角の異なるカナダ回線(左図[右]:左奥手に向って並んだ鉄塔群)と南アフリカ回線(左図[右]:右方向へ並んでいる鉄塔群)を受け持つためです。
 まだ丁字型マストを建てただけで、平面ビームアンテナは吊り下げられていない時の写真です。
 

● 5-12MHzの伝搬調査 ポルドゥー2YT

 マルコーニ社ではビーム通信の開業にあたり、使用波長を決定する必要があり、1924年(大正13年)の暮れより、ポルドゥー局2YTから波長60m(5MHz), 32m(9.4MHz), 25m(12MHz)を発射し、伝搬比較試験を続けていました。アンテナ塔は建設できても、使用波長が決まらないと、この写真のようにいつになっても平面ビームアンテナを吊り下げられないからです。
 1925年(大正14年)2月26日、電気学会東京支部講演会で、欧米の大電力長波局を視察(1924.6-1925.1)して帰国した逓信省の中上豊吉技師は次のように語られています。
最近に実験した結果を聞きますと波長が始め100メートル位から90メートルと云うようなことをして居ったのでありますが、去年(1924年[大正13年])の十月、十一月頃になりまして50メートル及32メートル及もっと短いものを使うようになった。其の電力は12キロ及び15キロ位になって居るのであります。』 (中上豊吉, "世界に於ける四大無線電信会社", 『電気学会雑誌』, Vol.45-No.448, 1925.11, 電気学会, p1014)

● 12.5-30MHzの伝搬調査 チェルムスフォード2BR

 T. L. エッカーズリー氏は32才の1919年にマルコーニ社に加わった技術者でした(混同しやすいのですが、弟のP.P. エッカーズリー氏はBBC放送の技術者です)。マルコーニ氏が1924年に昼間波を発見したあと、彼が短波長の学術的な電波伝搬研究を任されました。
 1925年(大正14年)8月、T.L. エッカーズリー氏はチェルムスフォード(Chelmsford: ロンドンの北東30km)工場の研究室に短波実験局2BRを開設し、ポルドゥーでは発射していない高い周波数について伝播研究を開始しました。
 T.L. エッカーズリー氏がテストに選んだのは波長24m(12.5MHz), 20m(15MHz), 17m(17.7MHz), 15m(20MHz), 13.3m(22.6MHz), 12m(25MHz), 11.5m(26MHz), 10m(30MHz)で、上に行くほど波長間隔を詰めていますが、周波数でいえば12.5MHzから30MHzまでおよそ2.5MHz間隔で調査しようとしたのでしょう。そしてオーストラリアのシドニー、カナダのモントリオール、アルゼンチンのブエノスアイレス、南アフリカの各受信所と、欧州-シャンハイ航路の汽船Glenamoy号に短波受信機を設置して、各波の伝播状況を詳細に観測しました。この実験を1926年(大正15年)5月まで実施し、T.L. エッカーズリー氏は短波帯の上半分(高い周波数)の伝播特性を解き明かしました。1927年(昭和2年)6月に 電気学会で論文発表 "Short-Wave Wireless Telegraphy" [JIEE(Journal of the Institution of Electrical Engineering), June 1927, pp600-604] し、短波帯電離層伝播研究の第一人者として世に認知されました。
 
 そしてマルコーニ社は各地で建設中のビーム通信用の波長を選択することができたのです。ビーム実用局の開局第一号は次に述べるカナダ回線で、1926年10月25日開局でしたので、周波数の選択という超重要案件はギリギリの時期まで研究されていたわけです。以上のように短波帯の上半分の伝播特性の学術研究は、マルコーニ社のT.L. エッカーズリー氏によりなされましたが、もっとも、短波の伝播は多くの要素に左右され、非常に複雑だったため、その後も各国の研究者が短波の性質を探る研究が続けられました。


76) 短波ビームアンテナの効果が疑問視される [Marconi編]

 当時、短距離でのビーム通信の効果は認めるも、それが遠距離通信でも有効かを疑問視する声がありました。特に1924年(大正13年)秋頃よりアマチュアによる短波利用が本格化し、低電力かつ簡易なアンテナでも遠距離通信が可能なことが実証されると、わざわざビームアンテナを用いる必要はないという意見が急増しました。日本の逓信省でも、西海岸のRCA局が聞こえるときは弱いながらも西海岸のアマチュアも入感し、逆にアマチュアが全く聞こえないときはRCA局もほとんど受信できないことが多いという体験から、短波は送信電力や空中線にあまり依存しないのではないかとの見方がありました。
 
 海軍技研で短波ビームを研究していた谷氏でさえ、その効果については一歩引いた感じで記事を書かれています。
このビーム式の指向性は近距離に於いては確かに有効であって海岸における無線灯台として応用せられている。英国のサウスフォアランドにあるものもこの式によるものである。短波の指向送信は長距離に於いてはその効力疑問とせられているが・・・(略)・・・(建設を終えて)近く通信を開始するといわれているがその結果によりビーム式の長距離に於ける効果は明らかになるのである。 (谷恵吉郎, "短波の特質と其の利用", 『ラヂオの日本』, 1926.5, 日本ラヂオ協会, pp405-406)
 
 アマチュアによる「短波は低電力で遠距離通信可能」という大発見は、図らずしも「マルコーニビーム不要論」を増長させる方向に働きました。短波開拓の表舞台から姿を消していたマルコーニ社も、さすがにビームアンテナの効果を疑う声が広がることを恐れたのでしょうか、1925年(大正14年)に「モールスの高速度受信で、ビームアンテナを使えば、エコー伝播成分やフェージングで起きるエラー率が軽減できる」として、ビームによる高速度通信への効果を強調しました。
 
 そのころ、ドイツのテレフンケン社がナウエンPOZ(ベルリン)で15MHzの水平ダブレットに放物反射体を付けた独自のビームアンテナを建設していました。下図[左]はまだ骨組みだけの状態ですが、電離層に向けてかなり角度が付けられています。右下に人物が小さく写っていますが、これと較べれば大体の大きさが想像いただけるでしょう。また下図[右]は反射板を貼り合せた状態です。上に人が乗っていますね。
ナウエンビームアンテナ
 1926年(大正15年)5月、南米ブエノスアイレスLOZに向けてビームの試験送信したナウエンPOZの15MHz波が、予想外にも方向違いのレーニングラード(現:サンクトペテルブルク)やデアヴアなどでキャッチされました。そのためドイツの学会では短波のビームは遠距離になると広がってしまい効果は薄いのではないかとの意見が出ていました。 【参考】 このナウエンビームは1927年には波長11m(27.27MHz)で伝播試験を行なっています。
 
ナウエンビーム
 Über Raumstrahlung氏がZeitschrift für Hochfrequenz Technik誌(Bd.28, Ht.3, pp78-82)に書いた記事が、日本の電気学会で翻訳要約され学界時報に掲載されましたので引用します。訳者は電気学会の谷恵吉郎(海軍技研)氏です。
『 反射器は放物線面に作られその焦線の位置に水平ダブレット空中線が置かれるのである。送信電波長20米に対しダブレット空中線の両部は各4.6米にして反射器の幅11米、反射器をかたどる放物線の頂点と焦線との距離は四分の一波長、また放物線の通径は二分の一波長とせられている。反射器は銅版で造られ材料を節約するため鋼帯板をもって格子型に組合わせて作られ、その開孔における径は約一波長になっている。空中線と直角なる方向に電波は最大輻射をなすをもって、目的地点に向かう方向と直角に水平ダブレット空中線を横へ、反射器の軸は地平線と60度ないし80度の角度をなす様にす。
 この反射器付き水平空中線をもって今年5月、ナウエン、ブエノスアイレス間の通信試験を行なったが、その結果この空中線による時は普通の垂直空中線による場合に比し、平均二倍、最大四倍強の受信感度を得ることが出来、明らかにこの反射器付き水平空中線の優秀なることを示したのである。この試験の際に測定を容易ならしむる為、不減衰電波を用いずして、断続不減衰電波を用いている。
なおこの試験の際、奇妙に感ぜられるのは反射器はブエノスアイレスに向かう方向にのみ電波が輻射する様に放置せられたに拘わらず、これと正反対の方向、すなわち反射器で遮蔽せらるる方向にあるレーニングラード(1300キロ)、デアヴア(11000キロ)等において、垂直空中線による場合と同等くらいの受信感度を得たことである。これにより考えると指向送信電波も大気層を進行するに従い四方へ分散するものの様である。 (Über Raumstrahlung/ 谷恵吉郎訳, "空間輻射", 『学界時報』, 1927.1, 電気学会, p22)


77) ビーム通信テスト開始 (1926年夏) [Marconi編]

Bodmin送信所 マルコーニビーム
 左図が英国に建設中のボドミン送信所です。前述したブリッジウォーター受信局と対になっていて、カナダ回線と南アフリカ回線を受け持つ予定ですが、その工事はかなり遅れていました。マルコーニ社が郵政庁GPOと結んだ契約では、「英国政府の敷地選定後、26週(半年)以内に完成すること」とあるにも関わらず、もう1年以上が過ぎていました。
 
 マルコーニ氏の優秀な部下のひとりであるビビアン氏は、この仕事を受注した直後より、危惧していたといいます。
 『1924年7月、父は英国政府と契約を結び、超スピードでイギリス中に商業ベースでの電波利用システムを普及させようとした。しかし状況はきわめて厳しく、ヴィヴィアンは「マルコーニ社は膨大なリスクを負わなくてはならないだろう。いかなる商業分野にも前例のない新しいシステムが、効果的機能のものだと証明しなくてはならないのだから」と危惧していた。 (デーニャ・マルコーニ・パレーシェ著/御舩佳子訳, 『父マルコーニ』, 2007, 東京電機大出版局, p281)
 
 マルコーニ氏もついに誤ったのか?そんな雰囲気すら漂い始めていました。
 1926年(大正15年)、効果を疑われ始めたマルコーニ社のビームシステムの完成の知らせを、世界の電波主管庁は今か今かと待っていました。逓信省工務局の中上無線係長もそのひとりです。
1923年(注:1924年の誤記?)10月の試験結果によれば32米の短波長で電力12キロワットを使用し濠洲シドニーで受信せるに1日のうち23時間半も受信可能であったとの事である。なお最近の発表によると一日中24時間の連絡も出来たとの事で、その試用波長は30米内外、電力は約18キロワットを使用したそうである。かくの如くマルコーニ会社は発表しているが前に掲げた郵政庁との契約で見ても通信を保証する時間とは、大分距離もある事であるから24時間不断の連絡取ったということは、あるいは一時的の現象であるかもしれない。これが実証はビーム式の完成を待った上の実験に徴する外はない。 (中上豊吉/小野孝, 『短波長無線電信電話』, 1926, オーム社, p189)
 
1926年 マルコーニのビームアンテナ
1926年ボドミン局のビームパターン
 ついにその日が来ました。短波ビーム局の工事を終えた1926年(大正15年)夏頃より、ようやくビーム通信の試験が始まったのです。左図[右]は英国側ボドミン送信局のビームアンテナの水平面指向特性を波長26.086m(11.500MHz)で測定した結果です。非常にシャープな特性が出ています。
 実際に試してみると通信時間の確保においても、また高速度通信の性能においても、非常に優秀な数値が得られ、マルコーニ社はさっそくプレス発表しました。想像以上の成果を目の当たりにして、ビーム不要論者たちの声は一気に沈静化しました。
 
 前年(1925年)4月にはドイツのナウエンAGA, AGFが南米アルゼンチンのブエノスアイレスLPZと短波による公衆通信回線をスタートさせていました。アメリカRCA社のWGHもその数ヶ月前より公衆通信の試行運用をはじめています。しかしこれらは従来の長波回線の補助として使用を開始したものです。長波という保険がありました。
 ところがマルコーニ社は(長波を一切併用しない)短波一発勝負として「ビーム・システム」に社運を賭けたのでした。1924年7月以来、世界の電波界で「短波なんかに熱をあげて、もし会社を危機に陥れたらどうするのか・・・」とさげすむ様な意見と、「いやマルコーニが短波なら出来るというのだから、そうかも・・・」との意見が交錯してきた2年間でしたが、今ついにマルコーニのいうことが正しかったことが実証されたのです。このように短波のみで公衆通信を拓いたことから、短波帯公衆通信の実用化を達成したのはマルコーニ社だといわれています。


78) ビーム通信 営業開始 (1926年10月25日) [Marconi編]

1926年 マルコニービームの営業開始
 最初に落成検査に合格した英国-カナダ回線のマルコーニ・ビーム・システムは、契約締結から2年と少し過ぎた1926年(大正15年)10月25日に英国郵政庁GPOへ引き渡され、国営短波公衆通信の営業が始まりました。(他の回線は翌1927年に開業。短波の実用化のページ参照)
 左図は Wireless World誌 1926年10月27日号の"Current Topics"欄で報じられた記事です。注目された通信速度ですが、郵政庁からの要求仕様である毎分100語(=500字)を軽くクリアしました。
 英国側ボドミン(Bodmin)のコールサインはGBKで、カナダ側ドラモンドビル(Drummondville, モンリオール郊外)のコールサインはCG(のちにCGA)が割当てられました。使用波長は26m帯で、二重通信なので送受信別々にあるはずですが、開業よりしばらくは試行錯誤していたようです。1927年5月18日のデータでは、英ボドミンGBKは波長26.086m(11.500MHz)、加ドラモンドビルは呼出符号CGで波長26.269m(11.420MHz)と、呼出符号CFで32.0m(9.375MHz)でいずれも「Temporary」となっています(Wireless World, Aug 3rd 1927, p142)。また1931年の記録では英ボドミン局が26.1m(11.490MHz)、加ドラモンドビル局が26.0m(11.530MHz)です。
 つぎに受信ですが、英国側はブリッジウォーター(Bridgewater)に、またカナダ側はイヤマシッシュ(Yamachiche)にビーム局が建設されました。
 
 短波の時代の幕開けは日本の新聞でも報じられています。
無線電信の発明で有名なイタリアのマルコニー氏は従来の無線電信の放送式に改良を加え、短波長で直線的に一定の目的局にのみ放送を到達せしめる方法を発見し、これが発信局の試験に完全な成功を収めた旨をロンドンで発表した、英国逓信当局はこれが試験の結果に満足し差し当たりクロンウェル県のボドミンと、ソマーセットのブリッジウォーターの両無線電信局に直送無線電信実施の特許(注:免許の意)を与え、いよいよ十月廿五日からカナダとの通信事務を開始せしめることとなった。その他の英本国無電局も着々この新設備を施しているから、完成の暁には南アフリカ、インド、オーストラリア、南北アメリカと通信を交換し得るはずである。 (『東京朝日新聞』, 1926.10.22, 朝刊p11)
 記事はこのあと、逓信省を退官し日本無線電信の技師長に就任した佐伯氏の談話『軍事上に大有効 反射線の動かし具合で』が続きました。
 
 下の写真は開局した英国-カナダ回線の記事 "First Link in English  RADIO BEAM SYSTEM"(Radio News誌1927年3月号) に使われたボドミン送信局の平面ビームです。写真[左]は輻射器列と反射器列に挟まれた空間から撮られたもので、非常に珍しいものです。マルコーニビームの中に入ると、こんな感じに見えるのですね。写真[右]は輻射器への給電部(フィーダーシステム)です。平面ビームアンテナの各エレメントへの給電方法にもまたいろいろ課題と工夫があったそうです。
1926年ボドミン送信局の給電部
 
自動受信機
 左の写真はブリッジウォーターで受けたモールス信号の音響波形を記録するサイフォンレコーダーです。ペンレコーダーの元祖みたいなものでしょう。もともと有線電信の世界では古くから用いられてきましたが、無線電信の世界でも固定局間の大量高速度通信には、通信士の耳による音響受信ではなく、これが用いられていました(また固定局での送信は、さん孔紙テープ等を読み取る高速機械キーイングなので、たぶんアマチュア無線のイメージに近いのは通信士が電鍵で活躍する海岸局の方でしょうか・・・)
 
 1926年(大正15年)11月2日、松井在英大使が日本の幣原外務大臣へマルコーニビームが完成し郵政庁GPOに引き渡される件を報告しています。これをみると、英国が短波ビーム通信を実用化したことへの危機感が伝わってきます。
英本国属領間および英属領相互間を連絡すべき「ビーム」式無線に関しては・・・(略)・・・最近当国および加奈太間通信に使用せらるべき 英本国側Bodmin発信所並びにBridgewater受信所、加奈太側Drummond Ville発信所並びにYamachiche受信所それぞれ完成し、本月(1926年10月)7日より1週間にわたり右電台による試験的通信を行いたる結果、郵政省「マルコニー」会社間契約第6項規定通り毎日平均18時間の運用において、発受両信1分間毎にそれぞれ100語(各語5字より成る)を発受し得る成績を収めたるをもって、いよいよ本月25日より同無線による当国および加奈太間の通信を開始することとなれり。
右「ビーム」式無線の特長は
一、従来の強度なる電力に代え比較的弱度の電力を最も集中的に使用したること。すなわち今回の無線に使用せらる電力はわずか20kWにして、現存の「ラクビー」無線に使用せらるる電力1000kW余に比し、約50分の1なるも感電力100倍送信、速力5倍なり。現に前掲1週間の試験における1分間の送信能力は往復それぞれ1250字に達したり。
二、従来の長き電波(長波)に代え、短き電波(短波)を使用し、かつ「リフレクター」を用いたること比結果、遠隔の特定地点に電波を集中し得て、外部よりする通信妨害、通信盗取を至難ならしめ音信の秘密をほとんど完全に保ち得るに至れり・・・(略)・・・「ビーム」式無線はその設立費、経営費共に経済的なること、通信能率の高きこと並びに通信の秘密を比較的完全に保持し得ることにおいて従来の無線に一大改善を加えたるもの。実に通信界における画期的成功というも過言にあらず。既に世界海底電線の大半を支配する英国が今回又々他国に率先し「ビーム」式無線を設置して英帝国内に通信網を張り、更にこれを世界各地に拡張し、海底電線、無線両者を把捉し世界の通信機関を掌中に収めんとする企図は注目に値す。本件新聞切抜相添報告す。』 (英翻刻加奈太間「ビーム」式無線通信開始に関する件, 『在英特命全権大使松井慶四朗より幣原外務大臣宛て』, T15.11.2, 公第644号)
 
 また「ラヂオの日本」にも英国-カナダ回線の試験結果と、まもなく短波ビームによる大西洋横断通信の営業が開始されると速報され、日本の電波関係者達は「短波の時代」の幕開けを知りました。大倉商事はマルコーニ社の日本総代理店です。
ビーム式通信法による英国加奈陀間の通信試験は予想以上の好成績を示し、通信速度は七日間連続の平均は一分間一二五語、二重にして二五〇語、最大速度は一分間二五〇語、二重にして五〇〇語であった。英国郵政庁ではこのビーム局を引次ぎ本年十月二十四日より加奈陀との商業通信に使用するはず。(一九ニ六、一〇、二一、大倉商事会社着、ロンドン電報) (内外時報, 『ラヂオの日本』, 1926.12, 日本ラヂオ協会, p55)
 
 なおあまり注目はされませんでしたが開業の直後の1927年(昭和2年)1月にはこのカナダ回線で有線電話と接続した短波無線電話が試験されています。 これは米国AT&T社と英国郵政庁GPOが1927年1月7日より長波帯SSB(単側波帯)方式による国際無線電話(ロンドン-ニューヨーク回線)を開業したため、短波帯AM方式も試してみたのでしょう。逓信省の小野氏が1930年12月の電気学会東京支部講演会でこれに触れています。
短波送信機の発達はわずかこの十年来のことで、放送無線電話が隆盛ならんとするころ、ようやく短波の発生とその利用について研究され出したのですから、その進歩は実に急速でありました。そのトップを切ったのは例のマルコニ氏で、彼は十数年余の心血を注いだMarconi beam system による無線電信および電話の実験を1924年英本国と濠洲との間に成功しました。これを見て英国政府はこの方式を採用するに決し、1926年初めて英本国と加奈陀(カナダ)との間に本方式による無線電信を実用化したと同時に両所間の無線電話の試験にも成功しました。 (小野孝, "短波無線電話設備に就いて", 『電気学会雑誌』, 1931.7, 電気学会, p412)


79) マルコーニ社独自のビーム回線 [Marconi編]

マルコニービーム計画
1926年 建設中のドーチェスター送信局
 左図[左]はマルコーニ社が最初に建設したビーム回線の地図で、二つのタイプを含んでいます。ひとつは建設を終えると英国政府へ引き渡される、国営の大英帝国ビーム回線で、もうひとつはマルコーニ社が独自に営業を許された私設ビーム回線です。マルコーニ社は大英帝国に属さないアメリカや南米への短波公衆回線の免許を受けていました。
 
<英国政府との契約で建設中のも>
 カナダ回線、南アフリカ回線、インド回線、オーストラリア回線の4つが国営回線です。落成検査に合格した後は郵政庁に引き渡されてマルコーニ社の手を離れます。中でもオーストラリア回線は地球の真裏にあったためちょっと変わっています。シベリアからインドネシアを通るビームとは別に、イギリスから南西へ伸びる点線(南米大陸を縦断するコース)がありますが、これはオーストラリア向け第二ビームで、昼と夜でビーム方向を180度切替えることで通信可能時刻を稼ぎました。
 
<マルコーニ社として建設中のもの>
 北大西洋のカナダ回線にほぼ沿うように(直下に)引かれた線が「ニューヨーク回線」、南米へ伸びる2本の線はブラジル「サンパウロ回線」と、アルゼンチン「リオデジャネイロ回線」で、これらはマルコーニ社が独自に開設し営業する予定のものです。
 
 自社の短波固定局として英国のドーチェスター(Dorchester)に送信局を、サマーセットに受信局を建設していました。上記の写真[右]はドーチェスター送信局で、水平方向にメッセッンジャーを渡しただけで、平面ビームアンテナはまだ吊り下げられていない頃(1926年春頃?)のものです。ドーチェスター送信局は呼出符号GLGで波長15.740m(19.060MHz)と15.707m(19.100MHz)を試したあと、GLH(波長13.580m)などを追加しました。
 これら第一期のマルコーニビームに引き続いて、1928年(昭和3年)にはエジプト回線を開き、呼出符号GLL(波長21.962m)、GLM(波長37.783m)でエジプトのマアディ(Maadi)局とビーム通信しています。


80) ポルトガル政府もマルコーニ・ビーム通信を採用 [Marconi編]

 イギリスに続いてマルコーニ社の短波ビーム通信を植民地通信網に採用したのはポルトガル政府でした。1926年(大正15年)12月15日に開業しました。下図が首都リスボンに建設されたアルフランジテ(Alfragide)送信局PQSで、波長18.270m(16.420MHz)を使いました。ビームは南西方向(カーボベルデ・リオデジャネイロ回線)と南東方向(アンゴラ・モザンビーク回線)の2系統でした。画像が不鮮明ながら、かすかにマストがご確認いただけるかと思います。
1926年 ポルトガル
 下図左がリスボンから東へ80km程の場所に建設されたベンダッシュ・ノバシュ(Vendas Novas)受信局です。
1926年 ポルトガル受信局1926年 ポルトガルビーム通信網
 短波ビームによって通信対手局となるはポルトガル領東アフリカのロウレンソ・マルケス局(Lourenço Marques, 現:モザンビークのマプト)呼出符号CRHA、波長18.360m(16.340MHz)と、大西洋上のポルトガル領カーボベルデ諸島のプライア局(Praia)呼出符号CRHB、波長18.094m(16.580MHz)、そしてポルトガル領西アフリカのルアンダ局(Loanda, アンゴラ)呼出符号CRHC、波長18.182m(16.500MHz)の各ビーム局でした。この三局の開局時期は分かりませんが、少なくとも1927年(昭和2年)5月には稼動しているようです。
 詳しい開通日は分かりませんでしたが(1928年後期?)、カーボベルデ・ビームの延長線上にある旧ポルトガル領のブラジル(リオデジャネイロ)とも結びました。アルフランジテ送信局はブラジル回線においては別の呼出符号PQW(波長16.286m)を使い、ブラジルのサンタクルー送信局は呼出符号SPU(波長18.576m)でした。


81) DX上限周波数は30と37MHz間に横たわる! (1926年) [Marconi編]

 1925年(大正14年)8月1, 2日、逓信省は岩槻受信所工事現場のJ1AAを使ってアメリカのアマチュア団体ARRLが主催するMid Summer Testの5m部門に参戦しましたが、誰とも交信できませんでした。逓信省の中上係長らは電気学会へ次のように報告しています。
なおまた八月上旬米国ARRL(American Radio Relay League)主催の夏季短波長試験に於いて5メートルの短波長送受を試みたるが、この試験は不成績に終わりたり。その原因の奈辺にあるやは疑問中の疑問たり (中上豊吉/小野孝/穴沢忠平, "短波長と通信可能時間及通達距離との関係に就て", 『電気学会雑誌』第46巻第456号, 1926.7, 電気学会, p697)
 
 また電気試験所平磯出張所JHBBもこれに受信で参加しましたが、やはりダメでした。その当事者が回想されています。
前に申しましたARRL二十米試験と同じ目的で、二十米試験に引続いて八月一日からこの試験(5m試験)が行われましたが、真面目にこの試験に参加?したということは、今から考えますと無茶を通りこしておったということが出来るかも知れません。何しろ日本で米国の、しかも素人局から出す五米の短波を受信しようとしたのであります。そしてこれもただ、短波というものは小電力で遠距離通信が出来るということのみを知っておった故であろうと思われますが、今から見れば誠にお気の毒ともいいたくなるでありましょう。 (畠山孝吉, "短波の昔ばなし(三)", 『ラヂオの日本』, 1935.6, 日本ラヂオ協会, p44)
 
 さらに1926年(大正15年)1月26日から東京の海軍技研も佐世保海軍無線電信所を対手局として、波長5m(60MHz)の海軍式ビーム送信を試しました。しかし5m波は佐世保には届かず、発射電力を増してみたものの、遂に佐世保海軍無線電信所とは通信できませんでした。
 
 こうして「波長が短い程、遠距離に届くわけではない」ことが逓信省、電気試験所、海軍省に認識されました。すなわち波長20m(15MHz)と波長5m(60MHz)との間に遠距離通信が可能な限界周波数があると想定されたのです。しかし米国商務省が定めたアマチュアバンドは20mバンドの次が5mバンドだったため、逓信省の岩槻無線J1AAは、これまでのアマチュアを対手局とする短波研究の限界を知りました。1925年(大正14年)秋に、J1AAオペレーターの河原技手は岩槻局建設現場から本省に配置転換され、官練J1PPの無線電話開発のお手伝いにあたることになったそうです。以後岩槻J1AAの運用は不定期なものになりました。
 遠距離通信可能な最高周波数はどこにあるのか?日本の逓信省にとって、この謎解きはドイツ郵政省から協力要請がきている、ナウエン局が発射する高い周波数の受信試験が唯一の研究手段でした。
 
電離層反射の上限周波数
 1925年(大正14年)は世界中の短波研究者(アマチュアも含めて)が遠距離通信の上限周波数がどこにあるのかに興味を持っていました。そして早々とこの研究に着手したのがマルコーニ社のT.L. エッカーズリー(Thomas Lydwell Eckersley)氏でした。ちょうど中上氏ら工務課の面々が、予想に反して5m波が飛ばないので『その原因の奈辺にあるやは疑問中の疑問たり。』とした1925年8月のARRL Mid Summer Testの時期に、まったく影を潜めていたマルコーニ社ですが、実は水面下でさっさと伝播研究が行われていたのです。
 
 T.L.エッカーズリー氏は1925年(大正14年)8月から1926年(大正15年)5月にかけて、チェルムスフォード短波実験局2BRから波長24m(12.5MHz), 20m(15MHz), 17m(17.7MHz), 15m(20MHz), 13.5m(22.2MHz), 11m(27.3MHz), 10m(30MHz)の7波を使って伝播試験を行い、同社ビームシステムの昼間通信に最適な周波数を選定するうえで貢献した技術者です。
【参考】 1929年(昭和4年)、東京で万国工業会議が開催された際に来日し、日本の電波関係者と意見交換しています。
 
 1926年(大正15年)の後半にチェルムスフォード短波実験局2BRで8m波(37.5MHz)の伝播テストを実施して、「遠距離通信可能な上限周波数は30MHz(波長10m)と37.5MHz(波長8m)の間に横たわっている」と前述の論文"Short-Wave Wireless Telegraphy"(左図)の中で示したのです(参考:電気学会IEEの論文受領日付は1926年12月1日です)。
In daytime the short-wave limit does not seem to have been reached at 10 m. A recent experiment on 8 m (using the same transmitter and power as in the other short-wave experiments) seems to indicate that this is below the limit, as nothing was received in Sydney, Montreal, New York or South Africa, so that the limit appears to lie between 8 and 10 m. This short-wave limit has received a very natural explanation on the ray theory, i.e. it is supposed that the density in the upper layer is not sufficient to bend even the horizontally transmitted rays back to earth, so that all the rays escape. 』 (T.L. Eckersley, "Short-Wave Wireless Telegraphy", IEE Wireless Proceedings Vol.2 - No.5, June 1927, IEE, p118)
 
 この時期、大英帝国ビームシステムの建設に追われ、短波研究の表舞台から姿を消していたマルコーニ社ですが、なんと1926年(大正15年)中には "the Short-Wave Limit" 問題を解いていたのですから、まったくもって驚きです。やはり同社は短波研究の先頭を走っていました。


82) 郵政庁から受注したビーム回線の引渡しが完了[Marconi編]

 郵政庁から受注したビームシステムは1926年(大正15年)10月25日にカナダ回線が開業した後、少し間が空いて1927年春より次々と郵政庁に引き渡されました。それらを一括して御紹介します。
1927年 郵政庁へ引き渡されたマルコーニビーム局
 
●オーストラリア回線
 開業日:1927年4月8日
 英国側:グリムズビー(Grimsby)送信所・・・呼出符号GBH、周波数11.580MHz
      スケグネス(Skegness)受信所
 濠州側:バラン(Ballan)送信所・・・呼出符号VIZ、周波数11.660MHz
      キーラー(Keilor)受信所
 
●南アフリカ回線
 開業日:1927年7月5日
 英国側:ボドミン(Bodmin)送信所・・・呼出符号GBJ、周波数 [昼]18.580MHz, [夜]8.820MHz
      ブリッジウォーター(Bridgewater)受信所
 南ア側:クリフューヴァル(Klipheuval)送信所・・・呼出符号VNB、周波数 [昼]18.660MHz, [夜]8.900MHz
      ミルナートン(Milnerton)受信所
 
●インド回線
 開業日:1927年9月6日
 英国側:グリムズビー(Grimsby)送信所・・・呼出符号GBI、周波数 [昼]18.500MHz, [夜]8.780MHz
      スケグネス(Skegness)受信所
 印度側:カーキ(Kirkee)送信所・・・呼出符号VNW、周波数 [昼]18.420MHz, [夜]8.700MHz
      ドンド(Dhondo)受信所
 
すでに一九二〇年代の初めにマルコーニは短波を利用して、ビーム送信法を完成していた。一九二三年(注:1924年の誤記?)の末頃、マルコーニはイギリス政府のため、たった二〇キロワット(当時行われていた強力な(長波)無電局は一〇〇〇キロワット)で、三〇米の短波を出していた無電局によって、イギリスとカナダおよびオーストラリアとケープ・コロニイ(ケープタウンを首府とする南阿連邦の一州)とを結びつける仕事に着手した。その能力は当時イギリス政府が彼に出した条件より遙かに勝ったものであった。無電局は最初の一分から一週間休みなしで働きつづけ、その結果、遠距離を結ぶ無電はほとんどすべて長波が採用されなくなってしまったのである。  (ヘレン・C・カリファー, "善意の人マルコーニ", 『カトリックダイジェスト日本版』, 1948年7月号, 小峰書店, p18)


83) マルコーニ・ビームと日本の短波アマチュア誕生の関係?[Marconi編]

 ここで「風が吹けば桶屋が・・・」式のお話をひとつさせて下さい。
 マルコーニ社の英-豪間短波通信成功の知らせは日本へも届き、逓信省通信局の稲田工務課長を驚かせ、岩槻受信所の長波を建設中だった河原氏らへ短波をやるよう指示が出されました。これが1924年(大正13年)秋のことでした。
通信局工務課長の稲田三之助博士から「英国ではマルコニが短波通信の実験をやっている。濠州(オーストラリア)とも通信ができるということだ。岩槻でも傍受してみよ。濠州との通信には26m帯の波長が使われているらしい。」との指令がとどいた。長波の大電力を使っても英豪間のような遠距離通信はきわめて困難なのに、短波なんかでうまく通信がやれるはずがない。フリーク現象か何かで、ちょっと聞こえた程度だろう。何しろ今、岩槻は長波の建設を急がねばならないのだ、短波の受信機など作っているひまはない・・・ということで、現場の私たちは博士の指令を無視してしまった。濠州は英本国のアンチポールにあたるので、短波通信は極く容易にやれるのだということは後になって分かり後悔したが、生意気にも上司の命令にそむいて、短波の実験をおくらせたことは今も申訳けないと思っている。
 その年も終わらんとしている12月の初め頃、稲田博士から「なぜ短波の実験をやらんのだ!!」というきついお叱りが届いた。本省から穴沢技手がその課長命令をたずさえ岩槻にやってきての居催促だからこれにはまいった。荒川工事長からも急いで短波の実験をやれという指示がきた。さあ大変だ。何とかして受信機を作ろうと・・・(略)・・・』 (河原猛夫, "こちらJ1AA -アマチュア無線局開設当初の想い出-", 『放送技術』1974年12月号, NHK出版, pp122-123)
 稲田課長の一喝を喰らい短波受信機が大急ぎで作られましたが、マルコーニ社のビーム通信試験(英豪間)は聞こえず、お蔵入りとなりました。
2、30m帯といわれる英濠間の短波通信を探聴したが、さっぱり聞こえない。短波の波長計もなかったので、めくら探しにバリコンのダイヤルを回し、同調コイルのタップも色々と変えてやってみたが、昼も夜も何も聞こえない。とうとう大正13年は無為に終わって受信機はそのまま放置された。私は最初に作った短波受信機の機能は決して悪いものではなかったが、あいにくまだその時期には波長2,30m帯でオンエアしている局がなかったのだと思っている。 (河原猛夫, 前掲書, p123)
 
 1924年(大正13年)12月、マルコーニ社に遅れまいと、RCA社が西海岸-ハワイ間で短波試験を始めました。1925年(大正14年)2月頃、再び稲田課長の命が下されました。
大正14年の節分も過ぎた頃「米国のRCA社がサンフランシスコとハワイ間で短波通信をやっている。波長は90m帯だ。」という情報を入手した。それではと同調コイルを少し大きく作り替えて探聴したところ、今度はいとも簡単にカフクのW6XI(注:これは誤記で6XOが正しい)が入感した。その頃はまだ通信をやらず、調整符号dを連送し、時々サンフランシスコのW6XO(注:これは誤記で6XIが正しい)を呼ぶのが毎晩キャッチできた。 (河原猛夫, 前掲書, p124)
 この受信の直後に80m帯の米西海岸のアマチュアを偶然キャッチします。ちょうど日本へ輸入されたばかりのQST誌1月号には、前年10月18日にニュージーランド4AAは、英国ロンドン2SZが波長95m(3.16MHz)で交信に成功した記事などが掲載されていました。マルコーニ社が大電力とビームアンテナの力にものを言わせて英濠通信できたのはともかくとして、アマチュアが小電力で成功するとは信じがたい事だったようです。
今度は八十メートルのバンドを聞いてみたところがアメリカのアマチュアが、盛んに通信をやっているのが入ってきました。そして話を聞いてみると連中は、10ワットとか5ワットで通信しているとのことですね。こんな小さな電力で太平洋を横断して通信が聞こえるのが不思議でならないから、こういう電文で交信していますよということを、荒川さんの手もとに出しましたところ、それでは、実験用に使っている五〇ワットの中波の無線電信送信機があるから、それを改造して試験をやってみろということになりました。 (河原猛夫, 『追想 荒川大太郎』, 1980)
 河原技手から受信報告を受けた、逓信省の稲田課長、中上係長、荒川技師らは、「それが嘘か本当か、こちらからも送信して確かめてみよ」と命じ、1925年(大正14年)4月、岩槻J1AAが誕生し世界のハムとの交信試験を開始したのです。その岩槻J1AAの短波での活躍ぶりが1925年(大正14年)の「無線と実験」誌などで紹介されました。これが日本の科学青年達を大いに刺激して、やがて短波アンカバーが生まれ、そして1926年(大正15年)に日本アマチュア無線連盟JARLが創設されました。JARL創設の中心人物である笠原功一氏はJ1AAの向こうを張って3AAを名乗ったそうです。
私はこのころJ3AAというコールを使っていたのです。当時岩槻無線がJ1AAと号して短波で試験送信をはじめていたので、J3AAとしたのですから、その意気だけは盛んなものでした。 (笠原功一, "アマチュア無線の思い出とお願い", 『ラジオ科学』, 1953.3, ラジオ科学出版社, p63)
 このようにマルコーニ社の英濠ビーム通信成功の知らせが起点となり、JARLが創設されるまでの、日本の短波の歴史がつながっていくのです。


84) 電気試験所の難波 (元)平磯出張所長の講演 (1959年) [Marconi編]

 アマチュア局と実用局はそもそも目的とするところが違います。A地点とB地点の固定地間通信を確保しようとするとき、コンディションが悪くB地点が全く入感しなかったが、思わぬ遠距離のC地点が聞こえて来て、たまたま交信できた・・・。アマチュアの場合こういった偶然性も楽しみのひとつであります。しかし実用局の場合はあくまでも目的のB地点と(マルコーニ社の契約のように)一日あたり何時間以上かの確実な通信確保を考える必要があります。より遠方のC地点が入感しようとそれは迷惑な混信です。
 
 電気試験所平磯出張所長の高岸氏のあとを継がれた難波捷吾氏はアマチュア無線の良き理解者の一人です。難波氏は我国がGHQ/SCAPの占領下時代に、日本アマチュア無線連盟JARLの顧問を引受けられた方であり、また電気試験所平磯時代の1929年(昭和4年)には、同所に勤務していたJARL創設メンバー磯英治(1SO)氏とともに、離日して米国に向かった飛行船ツェッペリン伯号の短波を追跡受信した方でもあります。同氏が国際電信電話株式会社(KDD)時代の1959年(昭和34年)10月16日、電気通信学会全国大会特別講演で語られた次の一節を引用します。公衆通信をあずかる立場としての考え方がわかります。
無線の初期には、周波数3Mc程度以上の短波は、その地表波の距離に対する減衰が著しいので、遠距離通信には不適格とされていた。しかし素人無電技師の研究によって、事実は全く反対であって、短波の電離層伝ぱんの事実が明らかにされたことは、エピソードとしてよく知られております。しかし短波の商用通信を実現させたという見地からすれば、最大の功績は、やはり英国の Marconi Wireless Telegraph Co. に帰すべきものでありましょう。・・・(略)・・・かくて1926年英帝国が誇る大英帝国短波指向通信網(Empire Short-Wave Beam Service)が実現したのであります。英国逓信省が最初長波をもって計画した経費に比して1/5で足り、しかも、この目的に使用する電波の波長は16m, 32mの二つに過ぎなかったのであります。つまり2種類の波長を切替えるだけで上記の所要通信時間をカバーし得たのであります。この成功に刺激されて、世界各国の国際通信は、あげて短波無線時代となり、それから30年余をへた今日、短波はなお主力なのであります。』 (難波捷吾, "国際電気通信の動向"[論文番号3150], 『電気通信学会雑誌』第427号,第42巻第12号(昭和34年12月), p1158)
 
 短波の小電力遠距離伝搬を発見したのはアマチュアによる功績として高く評価されています。「飛ばない短波」を高輻射電力により実用化試験していたマルコーニ社には小電力伝搬は発見出来なかったかもしれません。しかしながら、短波を実用通信にもっていったのはマルコーニ社であり、アメリカではウェスティングハウス社などの民間無線会社でした。それはアマチュアの技術力が及ばなかったとか、そんな話ではなく、アマチュアと実用局では目的とするものが違うからでしょう。アマチュアはアマチュア通信の世界で短波を開拓したし、実用局は実用通信の世界で短波を開拓した。そういうことだと私は思います。
 
 ただし日本の逓信省に限っては海外アマチュアの協力で短波通信を立ち上げた面を否定できません。J1AAのページの最後の方でも書きましたが、短波のような遠距離試験を行なうのに、イギリスは地球の裏側にオーストラリア、ニュージーランド、マレーシア、シンガポールが、オランダにはインドネシアが、フランスにはベトナムなどのインドシナが、アメリカにはフィリピンがありました。そのため実験するに当たり通信対手局を身内で用意できました。しかし第一世界大戦に敗れ、太平洋の島々を失った(=日本の委任統治領になった)ドイツは対手局を自前調達できないため、日本の逓信省に受信を依頼してきました。
 日本もドイツと同じで遠い場所に植民地がなく、すなわち対手局が設定できないため、岩槻J1AAは世界のアマチュアを相手に通信試験を行ないました(どうしても相手が必要なときは、たとえばRCA社へ頭を下げてお願いをするという煩わしさが付きまといました)。ちなみに大正15年に短波を免許された東京電気JKZBなども対手局を設定できないため、海外アマチュアを交信相手としていました。電気試験所の平磯JHBBもそうです。
 また欧米のアマチュアは送受信機の回路図や試験結果を、隠すことなく、惜しみもなく雑誌で発表し、逓信省工務局では(短波に手を付けた初期の頃には)大いにそれらを参考にしたようです。そういうこともあってか稲田工務局長も中上無線係長も荒川技師も、工務局の人たちは1925-26年(大正14-15年)にアマチュアへ最大限の敬意を払った賛美の記事をたくさん書かれています。


85) 短波ビーム時代の到来とその開発競争 (1927年~) [Marconi編]

 こうしてビームアンテナの効果が証明されると、主要国はマルコーニビームを購入し、その解析にあたりました。短波による公衆通信(固定局間)業務は短波ビームアンテナとともに立ち上がりました。短波ビームの時代がやってきたのです。そして短波帯公衆通信業務の普及に貢献した最大の功労者は、(コンラッド氏でも、アマチュアでもなく)マルコーニ氏とフランクリン技師で間違いないでしょう。
英国は・・・(略)・・・マルコーニ会社の短波指向性通信による世界無線通信政策を授け、同社に同式によるドチェスター局の建設および対外通信を許可し、米、独、仏、日、和(オランダ)等の各国も研究的に各一組毎購入し、これを対照として同等以上の成績を挙げ得る独自の短波指向性通信施設を案出し、自主的短波無線設備を完成させました。 (小野孝, "国際通信", 『工学会大会記録 第三回』, 1936.10, 日本工学会, p625) 
【参考】ドチェスター・ビーム局は(英国郵政庁GPOとの契約で建設するビーム局ではなく)マルコーニ社独自の無線局で、南米回線やニューヨーク回線用です。
 
 富岡送信所(福島県)のフランスSFR社製短波送信機(呼出符号:JAN)は東京無線電信局第十装置として位置付けられ、1927年(昭和2年)暮れより試験をはじめて、1928年(昭和3年)3月より対米通信の補助用として使われました。しかしSFR社の短波送信機に付属品として付いてきた短波アンテナがビームアンテナだったとは分からなかったと、日本無線電信(株)の加藤安太郎氏が同社技術報で述べています。
富岡送信所で開始された短波通信は、ダブレットの外に小型のSFR式ビーム空中線が用いられたが、当時これが指向性を持っていることは一向良く認識されなかった。今から考えると誠に不思議のようであるが、とにかく短波空中線の指向性について注意が払われるようになったのはその後約2年たってからである。  (加藤安太郎, "国際無線通信用空中線の変遷", 『無線の研究』vol.2-No.3, 1938.7, 日本無線電信株式会社, p25)
【参考】日本無線電信(株)は対欧局の依佐見送信所の長波送信機をドイツのテレフンケン社のものにするか、フランスのSFR社のものにするか迷った末、(ドイツから第一次世界大戦の賠償金を購入資金の一部に充てる都合で)テレフンケン社製を選びました。しかしSFR社の営業が色々サービスしてくれたこともあり、気の毒だからとSFR社の10kwの短波送信機を購入することになったと、依佐見送信所の短波送信機を設計した元海軍技術少将の谷恵吉郎氏が対談会で明かしています(座談会電波界今昔, 電波時報, 1958.6, 郵政省電波監理局, p44)。
 
 そして1928年(昭和3年)12月より対欧局として依佐美送信所が稼働し、続いて福岡受信所、四日市受信所が開所した当初はダブレット式アンテナで満足していましたが、やがて電報取扱量が増えるにつれ、回線を少しでも長い時間確保したいという要求が芽生え、短波通信はビームアンテナ全盛期に入りました。
しかし短波通信の隆盛になるに従って、通信速度も増し、また24時間連続して良成績が要求されるようになったため、ダブレットも段々不完全であるのが認められ、ようやく次項に述べるビーム空中線が建てられるようになった。とはいえダブレットは全然顧みられなくなったわけではなく、その構造の簡単なため、今日でも通信の容易な回路および試験用等には用いられる。 (加藤安太郎, 前掲書, p25)
 
 国産短波ビームを実用化したのは海軍省です。
1929年 依佐美送信所 海軍式ビーム
 1926年(大正15年)1月に海軍技研の谷恵吉郎氏が波長20mと5mの海軍式ビームアンテナを試験しました。その後の海軍内でのビーム試験や配備の状況はよくわかりませんが、1929年(昭和4年)9月に対欧局依佐見送信所(日本無線電信株式会社)より委託され、海軍省式ビームアンテナ(19.000MHz, 15.720MHzの二基)が建設されました。
 左図は1929年8月30日に撮影された15.720MHzビームの全景とその構造図です。前面に8つの輻射エレメントがあり、1/4波長離した後方に8つの反射エレメントを配し90度の位相差で給電するものです。同年12月には10.160MHzのビームアンテナも完成しました。
我が国で短波ビーム空中線を大規模に実施したのはこれが一番最初であった様に思う。この空中線の設計は海軍の谷恵吉郎大佐(当時少佐)の手に成るもので、当時同氏の指導の下に建設および調整に従事された海軍技術研究所の方々および当社の草刈技師等の努力は、仕事が新しいものであっただけ大きく、永く記念さるべきものであろう。このビーム空中線の調整および動作を見て得た経験というものは、我々がそれまで雑誌等によって得ていたビーム空中線に関する知識に一段と正確な基礎を与え、なるほどビーム空中線とはこうすれば良いのだなと、目先が何となく明るくなった感がしたのを今でも忘れ得ない。・・・(略)・・・この空中線はその後、昭和7年(1932年)夏、依佐美送信所の対欧短波通信を改良するため、空中線を全部大型のものに改修する際、改造する運命に立ち至ったが、当初の設計の精神はそのまま採用され現在に至っている。  (加藤安太郎, 前掲書, pp25-26)
 
依佐美送信所のビームアンテナ
現在の考え方からかえりみれば、この国産の海軍式ビーム空中線を基礎として進んで差支えなかったように思われるが、ビーム空中線のそもそもの出発に際して、なお諸外国の方式および日本無線電信会社で考えられた諸方式を充分試験し、しかる後に最も良い型式を決定しようとの意向があったため、その後次表に示す各種の諸方式が対外無線電信のビーム空中線として採用され、国際通信の送受信所は、あたかも各種空中線の展覧会を催したかの感があった。  (加藤安太郎, 前掲書, p26)
 この記事中に掲げられた"次表"によれば、依佐美送信所では対欧向けとして、佐伯美津留技師長の提唱により蓄電式送信ビーム(上図[左] )が1929年秋より1932年まで試されました。
図には単に投射器だけを示してあるが、これと同じものが四分の一波長後方に反射器として張られている。この場合ビームの方向はエレメント配列面に直角の方向に出るべきものが斜め方向に二つに分かれた指向性が出やすく、これを矯正するのに空中に高く張り上げられた蓄電器を一々微細に調整する必要があり、これに非常に苦労が伴った。 (電波監理委員会編, 『日本無線史』第二巻, 1951, p239)
 また輸入したRCA社のBroadside式送信ビーム(上図[右])が1930年1月から1932年まで使われました。蓄電式よりも動作が確実でしたが、空中高くにあるコイルを調整する点では、やはり不便でした。なお蓄電器式の受信ビームは1930年2月から3年間ほど福岡受信所(埼玉県)で対米受信用に採用されています。
 
 逓信省式ビームは(J1AAのオペレーターだった)河原猛夫氏が開発し、実用新案登録(昭和4年実用新案公告第10536号)されたものです。1930年(昭和5年)に台北向けの波長20m用(15.760MHz)のものを、東京逓信局直営の検見川送信所に建設したのが始まりです(下図[左])。
逓信省式ビームアンテナ
 東京逓信局の満州国新京回線(6.080MHz,検見川送信所)、朝鮮京城回線(10.720MHz, 11.620MHz, 岩槻受信所)でも使われたほか、大阪逓信局の台北回線(12.900MHz, 8.605MHz, 明石受信所)などに採用されたのは当然としても、民営の国際電話(株)が逓信省よりライセンスを受けて、全面的に逓信式ビームを採用しました。
 λ/2の位相コイルに相当する、λ/2のワイヤーを折り返した構造になっています。河原氏はこのビームと受信機のAGCを実用化した功績で逓信大臣から表彰を受けています。
 また左図[右]はさらに数年のちになって国際無線電信(株)で考案された短波ビームアンテナです。
 この他に、研究としては電気試験所の高岸栄次郎氏が「指向性空中線の構造」 (出願1927.7.28/公告1927.9.23/特許1927.12.17第74849号)を発明されています。
 
 それではいくつか諸外国の短波ビームを紹介します。まず下図がフランスのSFR社が考案した平面ビームアンテナです。写真を良く見ると、給電線が接続された輻射エレメントのλ/4背後に、まったく同じ構成の反射エレメントが吊るされているのがお判りいただけます。
 1927年(昭和2年)に日本無線電信(株)が富岡受信所用にSFR社の短波送信機とその短波アンテナを購入しました。このアンテナこそがSFRビームの原型となるジグザグエレメントのソーティース空中線でしたが、指向性を有することに気付いていた技術者は僅かだったといわれています。
短波ビームアンテナ1
 
 マルコーニ社の初期の平面ビームアンテナはエレメントの途中に位相コイルを入れていましたが、やがて三線一組で下げて従来の位相コイル部分を碍子でうまくアイソレーションした"折り返しワイヤー"に置き換えた「ユニフォーム」式(下図[左])と呼ばれるタイプになりました(この図は輻射エレメントだけを示したもので、これと同型の反射エレメントが背後に吊り下げられます)。ユニフォーム式平面ビームは日本無線電信(株)の対英受信感度の改善を目的として購入したマルコーニ社の短波受信機に付属品として付いてきたもので、同社の四日市受信所において1930年(昭和5年)1月から1937年(昭和12年)12月まで使用されました。
 下図[右上]はドイツのテレフンケン社の平面ビームです。このナウエンビームの受信評価試験には逓信省外局の電気試験所平磯出張所が協力していました。
 下図[右下]はアメリカのRCA社のFish-bone式平面ビームアンテナで、日本無線電信(株)福岡受信所(埼玉県)の対米および対ハワイ用受信アンテナとして、1930年(昭和5年)10月から1933年(昭和8年)まで使用されました。指向性は理論通り尖鋭でしたが利得はあまり高くなかったようです。
短波ビームアンテナ
 1927年(昭和2年)より数年の期間に各国で短波の平面ビームが開発されましたが、もし興味がおありでしたら、無線電信電話(中上豊吉/小野孝, 1938, オーム社)をご覧下さい。
 
 こうして昭和の時代に入ると短波の固定局が行う公衆通信には、マルコーニ氏が発見した昼間波と、同社フランクリン技師が先鞭を付けた平面ビームアンテナに加えて、電気メーカ各社では盛んに大型水冷管が開発されて、大電力送信機を使うようになりました。

● プロはビームを回さない

 ところでアマチュア無線的な目線で言えば「こんな平面ビーム、どうやって回すの?」となるかも知れませんが、そんな心配は御無用です。検見川無線や依佐美無線などの「固定局」は通信対手局が決まっているので、先方の方角を計算し、そこに向けたビームアンテナを建設します。つまりアマチュア無線のように回す必要がありません。ただし方角の違う平面ビームを複数建てようとすると広い敷地が必要となりました。
 
PCJのロータリービーム
 なお銚子無線や落石無線などの「海岸局」は、通信対手局が船舶局(海上移動局)で、方向が一意ではないという点でアマチュア無線と似ています。海岸局では一般的には無指向性アンテナが用いられたようです。
無線局とアンテナの種類
【参考】 この他にも「固定局」は基本的に保守要員のみで、中央制御局からの高速機械キーイングとテープ記録受信だったのに対して、「海岸局」や「船舶局」では通信士が実際に電鍵と耳による音響受信するという違いがありました。従って検見川無線・依佐美無線などの「固定局」と、銚子無線・落石無線などの「海岸局」は意識的に区別して語ったほうが誤解が少ないでしょう。
 
 左図は1937年(昭和12年)に完成したフィリップス社の海外放送Huizen局PCJ(オランダ)のロータリービームです。高さ60m、重量18トンの木製マスト2塔からビームアンテナが吊るされていて、時間ごとに目的地へ向きを変えて放送しました。
 このような短波ロータリービームは例外に属するもので、短波ビームアンテナといえばビーム方向が固定されているのが当たり前でした。


86) マルコーニは 「実業家」か 「技術者」か? [Marconi編]

マルコーニの実験室
 1916年から短波を手掛けて、1920年代には短波の実用化に邁進したマルコーニ氏ですが、心底から電波の研究が好きだったようで、会社経営より、エレットラ号に作った自分の無線実験室(左図)にこもる事の方を好んだと伝えられています。マルコーニ氏は短波ビームの建設がひと段落すると、休む間もなく今度は超短波への挑戦をはじめました。マルコーニ氏は本当に開拓精神に溢れる無線研究者だったといえるでしょう。
 
 電気試験所の横山英太郎第四部長が1930年(昭和5年)にマルコーニ氏の人物像について次のように書かれています。同氏は1927年のアメリカ出張中にマルコーニ氏と歓談した経験もお持ちの方です。
彼はいま大マルコニー会社の社長です。で社長としてのマルコニーはどんな生活をしているのかとマルコニー会社の人に尋ねてみました。すると苦笑しながら「ミスターマルコニーは実業家ではない。彼はそろばん上の話をするとさも不愉快そうな表情を見せる。ところが技術上の話をしに行って見ろ。大喜びでいくらでも話し込むから・・・」と。そして寸暇をぬすんではエレットラー号に乗り込んで遥かの海上で心静かに新しい実験を試みることを何よりの楽しみとしているのだそうです。 (横山英太郎, "マルコニー 信念に突進む不屈の勇猛心", 『世界人の横顔』, 1930, 四條書房, pp251-252)


87) 短波でローマ教皇の声を全世界へ バチカン放送の開局 [Marconi編]

 1931年(昭和6年)2月11日、バチカン放送が開局しました。
1931年 バチカンラジオHVJ
1931年 バチカンの短波送信機
 左図[左]はマルコーニ氏が書いた記事(Guglielmo Marconi, "HVJ" ROME-ITALY Heard Around the World, Short Wave Craft, 1931年4・5月合併号, p425)で、ご自身が短波放送機を調整している写真(左図[右])を使っています。
 
 まず開局に至るまでの経緯を紹介しておきます。
 18世紀にイタリア政府が教皇領地を強制接収したことを発端に、教皇庁とイタリア政府は深く対立していました。しかし1929年(昭和4年)2月11日にローマ教皇ピウス11世とムッソリーニ首相が和解し、教皇庁がかつての教皇領地を放棄することを条件に、バチカンとして独立し、さらにその外に位置するラテラーノ大聖堂や教皇別荘ガンドルフォ城などを自由に使えるイタリアの治外法権地域としました。これはラテラノ条約と呼ばれ、1929年6月7日に批准寄託書がイタリア政府と教皇庁で交換され成立しました。そしてバチカン市国の基本的法律およびその他の5つの法律がこの6月7日に公布されました。
 ラテラノ条約ではバチカンの通信の自由も保障されており、短波放送で全世界の教徒と結ぶことが計画され、教皇ピウス11世はマルコーニ氏に協力を要請しました。敬虔なカトリック教徒であるマルコーニ氏は喜んでこの仕事を受けました。
 
1931年 バチカン放送のマルコーニビーム
 こうして開局したバチカン放送の呼出符号は"Holy See, Vatican, Jesus"からHVJ、周波数は5.970MHz(夜間波)/15.120MHz(昼間波)の2波を使い分けました。マルコーニ社の送信機ですが、音声放送の無変調搬送波電力はおよそ8-10kWで、この他に機械キーイングの高速電信に対応していて、その場合は搬送波出力15-13KWで使用しました。
 送信空中線には高さ61mの鉄塔を90m離して2塔建設し、そこに二波(昼間波・夜間波)両用式のマルコーニ・ビーム(左図)を吊るし、銅製の同軸管で給電されました。これとは別に無指向性の垂直アンテナも用意されたようです。
 さて全世界のカトリック教徒がこの国際放送計画に大きな期待を寄せていましたが、まだ短波放送の試みが始まったばかりの時期で、(アマチュア無線家を別として)短波受信機は一般家庭にはほとんど普及していませんでした。そのため米国の放送界では、バチカンHVJを短波で受けながら、自社の中波放送局で再送信することにしました。
 
HVJが放送を開始することは日本でも報じられています(下図[左]:東京朝日, 1931.2.12, 朝p7)。開局式は1931年2月11日16時30分(バチカン時間)から行うことになりました。これは米国東部時間で2月12日の朝10時30分です。下図[右]の中央が教皇ピウス11世。向かって左から二人目がマルコーニ氏です。
1931年 バチカン放送の開局
1931年2月11日 バチカン放送開局
時は一九三一年二月十二日、所はヴァチカン市国で二人の人がまさにラジオで全世界に呼びかけようと待ち構えていた。・・・(略)・・・法王ピウスの招請に応じて、マルコーニは今彼らが放送しようとしている強力な(短波)放送局をつくった。その建設のため、マルコーニは彼の盛大なマルコーニ無線電信会社の全資源を動員したのである。 (ヘレン・C・カリファー, "善意の人マルコーニ", 『カトリックダイジェスト日本版』, 1948年7月号, 小峰書店, p14)
 
 16時40分(米国東部時間10時40分)、まずマルコーニ氏がマイクの前に進み出ました。
やがて彼の口からイタリア語がもれた。
「約二十世紀の間、ローマ・カトリック教会の長(おさ)は彼の聖務の言葉を世界のあらゆる部分に聞かせて参りました。しかし、その声咳(けいがい)に全世界の人々が同時に接することができるのは、今が初めてであります。神秘きわまりない自然力の多くを人間の思うがままにゆだね給う神の御助力によって、私は法王の御声を耳にするという喜びを全世界の教徒に得させるところの、この機械(短波放送機)の準備をすることができました。」 こう言った後、彼は直接法王に向かって 「それでは聖下(ローマ教皇に対する敬称)の尊き御声を全世界の人々にお聞かせ下さいますようお願い致します」と付け加えた。 (ヘレン・C・カリファー, 前掲書, p14)
 
 16時49分(米国東部時間10時49分)、続いてピウス11世がマイクに向かいました。
ピウス十一世は「最高(いとたか)き所には神に光栄、地には御好意の人々に平安。」 と星の光に輝くベトレヘムの野に天使の大軍がはじめて述べたお告げを含んだ十二分間の講演をラテン語でなした。
 数百万の人々(放送リスナー)は科学が神に仕え、そのお役に立った奇跡に驚き、また常に聞き慣れていながら、常に新しいこの昔の聖言の感動的な挑戦にすっかり感動してしまった。 (ヘレン・C・カリファー, 前掲書, pp14-15)
 
 ニューヨーク地区WABC, WCDA, WEAF, WJZ, WNYC, WORをはじめとする、全米150のラジオ局が中波で再送信したと2月13日のNew York Timesが報じています(米国以外の国の事は分かりません)。


88) ITT/MT研の海峡横断デモ (1.67GHz) [Marconi編]

 マルコーニ氏がフランクリン技師とイタリアで短波ビームの研究を開始(1916年)してから、およそ7年後(1923年)にアメリカのコンラッド氏により短波中継放送が実用化され、さらにその3年後(1926年)にはマルコーニ氏による短波単独での公衆通信が実用化されました。ここに来るまで10年の歳月を要しています。
 
 しかし世界の無線技術は想像を遥かに超えて加速していました。1930年代に入るや、いきなり「ギガヘルツ」の通信試験へ飛び込んだのです。
1931年 ITT研究所のマイクロウエーブ1
 1931年(昭和6年)3月31日、英国ヘンドンのITTInternational Telephone and Telegraph Corporation)研究所と、仏国パリのMT(Le Matériel Téléphonique)研究所はドーバー海峡を挟んだドーバー(Dover, 英)とカレー(Calais、仏)間の40kmを波長18cm(1.67GHz)の双方向無線電話で結ぶ共同デモンストレーションに成功しました。
 
 この大ニュースは我国でも、東京朝日新聞4月9日の朝刊で報じられました。
【ロンドン特派員八日発】 最近における無電の発達は驚くべきものだが、中でも各国の競って研究している短波長無電については最近ドーバー海峡を隔てて英仏間に、僅か半ワットの電力で十八センチメートルの波長をもって送話の試験が行われ好成績を収めたところから斯界にセンセイションを起し早くも超短波時代の到来が叫ばれるに至った。右の試験はイギリスのインターナショナル・テレフォンテレグラフ研究所と、フランスのマテリエル・テレフォニックとの協力の下に行われたものであるが、これに対抗して目下ロンドンに滞在中の無電翁マルコニ氏も超短波無電につき同界をアッといわせるような設備を研究中だと伝えられ、非常に興味を引いている。 ・・・(略)・・・』 (『超短波時代』来る:成功すれば秘密談も出来る 『東京朝日新聞』 1931.4.9 朝刊p7)
 
1931年 ITT研究所のマイクロウエーブ2
 デモに招待されていた英国のWireless World誌の記者は1931年4月8日号のCurrent Topicsで、"18-Centimetre Telephony" (p377)と題した速報記事を載せたあと、翌週の4月15日号"Telephony on 18 Centimetres" (pp392-394)でその詳細を報じました。

 左図はドーバー近くのセントマーガレット・ベイ(St. Margaret's Bay)の崖の上に設置されたデモ装置です。直径3mのパラボラ反射器は風で揺さぶられないように三方および天井を板で囲まれました。
 同時通話を行なうために送信パラボラ(手前)と受信パラボラ(右奥)があります。送信用パラボラからの電波が受信用パラボラに回り込まないように、写真のように受信用パラボラは送信用パラボラの背後へ80ヤード(73m)離して設置されました。そしてフランスのカレー近くのブラン・ネ(Blanc Nez)にも同様のものが用意されました。
 さて右側の拡大写真で分かるように、送信用パラボラの中央には穴が開いていますが、受信用パラボラの中央に穴はありません(左図)。
  
1931年 ITT研究所のマイクロウエーブ実験3
 送信機を横から見たものが左図(a)です。
 小型発振器とダブレット(Doublet)から出た電波は、どんぶり型の副反射器(Hemispherical Reflector)に反射され、対向するように置かれた中華鍋型の主反射器(Paraboloidal Reflector)で跳ね返されます。輻射されたパワーは0.5W相当だったそうです。
 主反射器の中央にある穴の向う側には波長計(Wave Meter)が置かれていて、送信波長を18cmになるように較正しました。受信機を横から見た左図(b)にはこの穴はありません。
  招待客には対岸側と無線電話を実体験できる時間が与えられました。フェージングもなく電波状態は非常に安定しており、デモは大成功だったようです。
The two-way radio telephony circuit shows no sign of fading, and the quality is remarkably good. ("Telephony on 18 centimetres", Wireless World, Apr.15, 1931, p393)
 翌月には同じく英国の無線雑誌Experimental Wireless & The Wireless Engineer(1931年5月号)も記事"Telephony on 18 Centimetres"(p249)が掲載されました。偶然だとは思いますが、Wireless World誌(4月15日号)と同じタイトルですね。
 
1931年 ラジオニュース誌 UHF
1931年 ラヂオの日本 超短波特集
 また米国のRadio News誌(1931年8月号)もこのデモを報じました("Searchlight Radio with the New 7-inch Waves", pp107-109)。表紙にも使われ、中華鍋型パラボラアンテナが広く認知されるようになりました(左図[左])。またラヂオの日本(1931年9月号)も超短波特集を組んで、表紙にはITT/MT研の受信用パラボラアンテナの中央部を使いました(左図[右])。
 『フランスで行われた十八センチ短波長の実験 (発明, 1931.6, 帝国発明協会, p26)や、『ドーヴァー海峡の短波長通信 (軍務と技術, 1931.7, 陸軍技術本部, p72)等と異例の早さでこのニュースが取上げられ、1933年(昭和8年)には以下の専門書籍に収録されています。
 筆者は東京工業大学でBK(バルクハウゼンとクルツ)振動管による通信試験をされていた森田清氏です。
英仏海峡を波長一八・五糎(cm)、(入力数ワットの小真空管により発生)を以って、通信連絡に成功した話は有名でありますが、その送受信所カレー、ドーヴァーは、それぞれ海面上一四五米(m)、および一〇〇米(m)の高さにあり、両地点は海面の上を超えて直視可能であり、かつ送受信共に電波に対して鋭い指向性を与えることによって、あの成績がえられたのであります。(O)が発振真空管、(A)が第一次反射器たる半球面で直径五六糎(cm)、(B)は第二次放物線型回転体の形をしたアルミニューム製反射鏡で直径三米(m)であります。 (森田清, "極超短波による通信", 『ラヂオの応用知識』, 1933, 日本ラヂオ通信学校, pp59-60)
 
 この実験の立役者であるクラビール(Andre G. Clavier)氏は早くよりBK振動管の研究に着手し、1930年には米国ニュージャージーで10フィート(3m)のパラボラアンテナで実験を行っていました(J.H. Vogelman, "Microwave Communications", Proc. IRE, May 1962, p907) 。そして小型発振器(BK振動管)を "Micro Radion" と呼びました。
フランスのA・クラビールのグループは一九二九年にマイクロ波の研究に着手し、一九三〇年にはアメリカで直径三メートルの放物面鏡を用いて通信実験を行った。一九三一年には一七・一センチメートル波を発生し、放物面鏡を利用してフランスからイギリスへ四〇キロメートルのドーバー海峡通信に成功している。ドーバー横断実用回線は一九三三年に完成していた。このときクラビールはマイクロレイヨン(Micro Radion)の語をつかった。これがマイクロウェーブの語源である (徳丸仁, 『電波技術への招待』[ブルーバックスB-350], 1978, 講談社, p211)


89) マルコーニの超短波(UHF)開拓 [Marconi編]

 ITT/MT研グループに、お膝下のイギリスで(しかもお家芸である)ビームアンテナを試験されたマルコーニ氏の心はけして穏やかではなかったでしょう。ではマルコーニ社の超短波研究はどうだったのでしょうか?短波開拓史を少々拡張し、マルコーニ氏による高い周波数への取組みについても触れておきます。
【注】 なお当時のCCIRの定義では30MHz以上の電波は全て「超短波」でしたので、本ページではUHF(300MHz-3GHz)も含めて超短波と呼ぶことにさせて頂きます。
 
 マルコーニ氏は(ITT/MT研グループに2カ月遅れた)1931年(昭和6年)5月より、ジェノバ近郊の海岸町サンタ・マルゲリータ・リーグレ(Santa Margherita Ligure)で、エレットラ号を相手に超短波の試験を始めました。
1931年 マルコーニの初期型UHFビーム
 左図がその頃、マルコーニ社が試験していた初期型UHFビーム装置で、パラボラの背後にある箱が無線機(おそらくこの写真は受信機)です。この反射器をヘリンボーン(Herringbone)リフレクターと名付けました。
 このヘリンボーン・リフレクターを我国では「鯡骨形反射器」と呼びました(下図:日本ラジオ協会編, 『標準ラヂオ大辞典』, 1935, p292)。ちなみにこの反射器を考案したマチュー氏(G.A. Mathieu)は、1924年2月にセドリック号で短波による大西洋横断試験を行った技師です。
ヘリンボーンリフレクター(鯡骨形反射器)
 ヘリンボーン(鯡骨形)反射器を使った超短波ビームの実験が繰り返され、反射器を1列から5列まで変えたときのビームパターンが明らかにされています(下図)。一列の時は、輻射器を中心に上半分と下半分の反射器に分けていましたが、2列以上のときは隣合う反射器と反射器の間から輻射器を突き出す方式にしました。
マルコーニのUHFアンテナ
 
 1931年(昭和6年)10月上旬、マルコーニ氏はサンタ・マルゲリータ・リーグレ(Santa Margherita Ligure)のVilla Repelliniで、バルコニー(海抜50m)にB-K発振器をマルコーニ氏が独自に改良した送信機(an enhancement of the Barkhausen-Kurz electronic oscillator)とヘリンボーン・アンテナを設置し、また受信機を11マイル(=18km)離れたセストリ・レバンテの信号塔(海抜70m)に置いて、イタリア郵政庁に波長50cm(600MHz)のデモンストレーションを行い成功しました。
The first demonstration was given to representatives of the Italian Ministry of Communications early October, 1931, between Santa Margherita and Sestri Livante, near Genoa, a distance of 11 miles over sea. 』 (Guglielmo Marconi, "Radio on the Ultra Short Waves", Short Wave Craft, Apr.1933, Popular Book Corporation, p765)
 
 1931年10月29日に行なった第二回目のデモンストレーションでは受信機を改良型に交換して、非常に良好な通信品位が得られたため、さらに遠距離試験を計画しました。
On October 29, 1931, a second demonstration was given to the same experts and between the same places with an improved receiver, fitted with variable supersonic palate bias. (Guglielmo Marconi, 前傾書, p765)
1931年 マルコーニのUHFデモンストレーション
 1931年11月19-20日に第三回目のデモンストレーションが行なわれました。受信拠点を海岸沿いに約2倍離れたレバント(Lvanto)のホテルのバルコニー(海抜110m)に移し、22マイル(=35km)離れたサンタ・マルゲリータからの無線電話が受信できました。
The third demonstration took place on November 19, 1931, between the same experimental transmitting station at Santa Margherita and Levanto, a distance this time of 22 miles, mostly over sea. (Guglielmo Marconi, 前傾書, p765)
 なお三回目のデモの距離を25マイルとする文献もあります。
In the presence of representatives of the Italian Government, an official demonstration took place on November 19th in Italy, between Santa Margherita Ligure and Levanto - a distance of 25 miles - of the new Marconi quasi-optical, ultra-short wave radio-telephone system.  The wavelength used was only 50 centimetres (the same as that employed in the previous demonstration carried out between Santa Margherita Ligure and Sestri Levante over a distance of 11 miles), corresponding to the enormous frequency of six hundred million cycles per second. The success of the demonstration was all the more complete because, although the range had been increased from 11 to 25 miles, the margin in the signal strength was such as clearly to indicate to all present that the apparatus used was capable of covering a considerably greater distance. ("Ultra Short Wave Wireless Telephony", The Marconi Review, Jan.-Feb.,1932, Marconi Wireless Telegraph Company[UK], p30)
On November 20th telephony from the former point was successfully received at Levanti - twenty five miles distant - with an ample margin of strength. ("Half-Metre Telephony", Wireless World, Dec.2, 1931, p634)


90) マルコーニ バチカン回線(UHF)を受注 [Marconi編]

 1932年(昭和7年)4月6日、サンタ・マルゲリータの別荘Villa Repellini とセストリ・レバンテの11マイル(18km)間にて同時送受話の双方向通信に成功しました(1931年秋のデモは一方通行の無線電話)。そしてローマ市内のバチカン宮殿とその南東20kmにあるガンドルフォ城(Castel Gandolfo, 教皇の夏季避暑宮殿)間を結ぶ、同時送受話式の無線電話回線にマルコーニ氏のUHFが採用されることになりました。
 
1932年 マルコーニのUHFテストマップ
 1932年4月20日、事前試験としてバチカン宮殿サン・ピエトロ大聖堂の隣の建物の屋根に反射器が一列の送信機を設置し、(ガンドルフォ城から北東へ9kmほど離れた)モンテ・ポルツィオ・カトーネ(Monte Porzio Catone)のモンドラゴーネ寺院(Villa Mondragone)にあるカトリック・カレッジとの 間で通信試験を行いました。 バチカン宮殿からモンテ・ポルツィオ・カトーネのカトリック・カレッジまでの距離は20kmです。
 ヘリンボーン・アンテナはシンプルな反射器が1列のものを使いましたが、バチカン宮殿のアンテナは海抜50mで、カトリック・カレッジに仮設したアンテナは海抜451mもあり、視界的にも両地点は見透せる位置関係だったため、試験成績は大変良好でした。
 
【参考】 後日、最終目的とするガンドルフォ城の教皇宮殿でも試験を行いましたが、ガンドルフォ城のアンテナは海抜293mでカトリック・カレッジの時の2/3だったことと、バチカンから見透しが効かないため(距離は同じ20kmほどですが)電波はあまり強くは受かりませんでした。
 
1932年 バチカンUHF試験
 1932年4月26日、バチカン宮殿においてローマ教皇ピウス11世(Pope Pius XI)の前でUHF無線電話システムの公式デモンストレーションが行なわれました。
 左図[左]は屋根とほぼ同じ高さのテラスにUHFビームアンテナを設置しており、関係者一同が集まっている様子で、白服の人物がピウス11世です。この写真の右後方には有名なサン・ピエトロ大聖堂が見えています。
 左図[右]はそのテラスでヘッドフォンを付けたマルコーニ社の助手が反射器一列型のUHF送信機を調整しているところです。また右端の白服の人物がローマ教皇ピウス11世で、その左隣の黒服がマルコーニ氏です。今回の一連のUHF実験についてピウス11世に説明しています。


91) なぜか可視範囲より遠くまで届くUHF [Marconi編]

 マルコーニ氏はUHFに強い興味を示すところとなり、受注したUHF回線(バチカン宮殿-ガンドルフォ城)の建設とは別に、独自のUHF試験を開始しました。
エレットラ号UHF
エレットラ号のパラボラアンテナ
 1932年(昭和7年)7月、イタリア北部サンタ・マルゲリータの別荘Villa Repelliniのバルコニーに、反射器が5列もある強力なヘリンボーン・アンテナと送信機を設置しました。
 そしてエレットラ号のメインデッキの後尾には新設計の直径がおよそ2mの中華鍋型パラボラアンテナ(左図[左])と受信機を据付けました。後尾に後ろへ向けて取り付けたのは、送信点から遠ざかりながら受信試験するからです。これがマルコーニ社として最初の中華鍋型パラボラでした。
 左図[右]はパラボラアンテナの背部から見たところです。放物鏡の背部に取付けられている小さな箱が受信フロントエンドになります(Orrin E. Dunlap Jr., "Marconi, the man and his wireless", 1937, The Macmillan Company, p318)
 
 さてサンタ・マルゲリータの送信アンテナからの光学的な視界限界は14.6海里(=27km)でした。
1932年 マルコーニ UHFテスト
 しかし実際にエレットラ号で南へ向うと、11マイル(=18km)離れた地点から著しく強度が低下しましたが、なんと視界外の28マイル(=45km)まで聞くことができました。これはUHF波が地球の曲面に沿って曲がって進んだことになります。このとき体験した不思議な現象によりマルコーニ氏の実験家魂に再び火が付きました
These tests demonstrated that although the optical distance corresponding to the small height of the Santa Margherita station and the Elettra was only 14.6 nautical miles, the signals were still perceivable at a distance of 28 miles, well beyond the optical range and notwithstanding the intervening curvature of the earth.
 These signals began to lose strength noticeably at about 11 miles from Santa Margherita, that is, before reaching the optical limit, but after passing that position they were observed to decrease in strength only gradually, until no longer perceptible. (Guglielmo Marconi, "Radio on the Ultra Short Waves", Short Wave Craft, Apr.1933, Popular Book Corporation, p765)
 
 こうして中華鍋型パラボラ・アンテナの腕試しを終えたマルコーニ氏は、本命の試験を行うために、ローマの南東12マイル(=20km)のロッカ・ディ・パーパ(海抜750m)にある古い地震観測所を借りました。ここはガンドルフォ教皇宮殿のすぐ東側です。
 1932年7月末、サンタ・マルゲリータの送信機とアンテナをロッカ・ディ・パーパに運び込みました。
 下図[左・中]がこの実験に使われた反射器が5列もある大型ヘリンボーン・アンテナです。下図[中]はロッカ・ディ・パーパへ移設される直前にサンタ・マルゲリータのVilla Repelliniの別荘のバルコニーで、マルコーニ氏(向って左)とマチュー氏(向って右)が記念撮影したものです。マチュー氏(G.A. Mathieu)はヘリンボーン・アンテナの発明者であり、また1923年にポルドゥー2YTの巨大パラボラの性能試験の際に、エレットラ号に搭載する短波受信機を設計した技術者でもありました。 【注】 この撮影場所をロッカ・ディ・パーパのホテルだとする説もあります
1932年 五列反射器
1933年 サンタマルゲリータのUHF試験
1932年 ロッカディパーパでの超短波試験
 1932年8月2日、ロッカ・ディ・パーパの西方18マイル(=30km)の港町オスティア(Ostia)で待機するエレットラ号と通信試験がはじまりました。ロッカ・ディ・パーパからは超短波の波長57cm(526MHz)、エレットラ号からは短波の波長26.15m(11.470MHz, 呼出符号IBDK)を使ったUHF-HF二波による同時通話式の無線電話で連絡し合いました。ちなみにエレットラ号IBDK(波長26m)は早くも1930年のRadio Craft誌(Nov.1930, p284)に登場しますので、常設された実験用無線だったようです。
 
 同年8月6日、エレットラ号はサルデーニャ島のカポ・フィガリ(Capo Figari)の近くにあるゴルフォ・アランチ港(Golfo Aranci)を目指してオスティア港を出ました。
【注】 ところでロッカ・ディ・パーパからの超短波試験では文献によって通信距離の記述に結構な差がみられます。この試験結果を(後述しますが)12月2日の王立研究所で報告した論文が距離の単位を統一されないまま、Km、マイル、海里(ノーティカル・マイル)が使われているためかもしれません。参考までに論文(英語原文)も引用掲載しておきます。
 
 超短波の試験はロッカ・ディ・パーパから34マイル(=55km、もし34海里なら63km)離れた地点からはじまりました。58マイル(=93km、もし58海里なら108km)までは大変良好な同時通話ができました。この時点(58マイル)で視界限界を6マイルも超えていたといいますから、ロッカ・ディ・パーパからの計算上の視界限界は52マイル(=84km、もし52海里なら96km)ということなのでしょう。この58マイル以降では急激に受信状態が悪化し、80マイル(=129km、もし80海里なら148km)では深くゆったりしたフェージングに悩まされました。ところが87マイル(=140km、もし87海里なら161km)まで来たところで電界強度が急回復しました。それは46マイルの頃の強さと同じでした。100マイル(=161km、もし100海里なら185km)まで良好な状態が続いたあと、再び悪化しましたが最終的には110マイル(=177km、もし110海里なら204km)まで感知されました。
On August 6, the yacht with representatives of the Italian Government on board, moved on to the line Rocca di Papa - Golfo Aranci, Sardinia, for the purpose of carrying out a long distance investigation on the propagation of these waves. The tests started when the yacht was 34 miles from Rocca di Papa with excellent duplex telephonic communication, very strong signals being heard at both ends of the circuit. At 58 miles good duplex communication was still possible; that is to say, already 6 miles in excess of the optical range; but shortly afterwards the signals lost their strength rapidly, became erratic and suffered from slow and very deep fading until, at a distance of 80 miles, they could only be perceived at times.Listening, of course, continued, in spite of these poor conditions, when on reaching 87 miles, the average strength of the signal suddenly increased and soon reached practically the same strength as was observed at 46 miles. This return to good signal strength conditions lasted until the distance of 100 miles was reached, when the signals faded away again very rapidly, assuming a slow and deep fading characteristic.They were finally perceived for the last time at a distance of 110 miles. (Marconi, "Radio Communication by Means of Very Short Electric Waves", Proceedings of the Royal Institute of Great Britain, vol.22, 1933, p539)
 
 1932年8月10日、これまでの測定結果の再現試験を実施しました。最初の70マイルまでは同じ結果が得られましたが、そこからは差異がありました。72マイル点で急速に衰え、そのま110マイルまでほぼ一定でした。最終的にはロッカ・ディ・パーパから125海里(=232km)という距離を記録して、その日の夜、エレットラ号はサルデーニャ島のゴルフォ・アランチ港(Golfo Aranci)に到着しました。
カポフィガリ地図
 1932年8月11日の朝、ゴルフォ・アランチ港より東へ3kmほど離れたマルコーニ社のカポ・フィガリ局(Capo Figar、海抜340m)に受信機とアンテナを運び上げる作業が開始されました。そしてカポ・フィガリ局ではロッカ・ディ・パーパの方角に向けてパラボラ・アンテナを設置しました。
 その日の夕方16時よりロッカ・ディ・パーパからの超短波の送信が始まりました。UHFの電波は驚くほど強力に受かりました。この伝搬試験は深夜まで行われ、日没後は日中より少し電界強度が低くなることや、反射器を上下へ傾けてみたところ、水平方向から電波が飛んで来ていることが確認できました。
 カポ・フィガリ局からロッカ・ディ・パーパまでの距離は168マイル(=269km)ですが、送受信点の高度を考慮した視界限界は72マイル(=116km)でした。
On August 10, this important long distance test was repeated.Over the first 70 miles the results repeated themselves very well, but from that distance onwards they varied in regard to the following points. First, the signals instead of fading away rapidly to nearly complete inaudibility, at the distance of 72 miles assumed a character of very slow and deep fading but maintained an average intensity of signals nearly constant up to 110 miles from Rocca di Papa. Secondly, at that distance, instead of losing the signals altogether, they kept that slow, deep, fading characteristic with a progressive decrease of average strength until they became inaudible from time to time and were heard for the last time at a distance of 125 nautical miles from Rocca di Papa.
 The yacht arrived the same night at Golfo Aranci, Sardinia, and next morning the receiving apparatus was disembarked and installed on the tower of the signal station of Cape Figari, 340 metres above sea level. Rocca di Papa station had been requested to start transmission again at 4 p.m., and we had the great satisfaction of being able to pick up its signals almost immediately. The tests lasted until midnight, the signals, however, assuming the same slow, deep fading already observed on the yacht, excellent 100 per cent intelligible speech being received during the strong periods of the signals, but reaching practically inaudibility during the weak periods. The average signal strength appeared also better before sunset than after. The distance between Rocca di Papa and Cape Figari is 168 statute miles whilst the optical distance taking account of the height of the two place is only 72 statute miles.
 It is interesting to add that at Cape Figari the angle of reception was investigated several times by tilting the reflector and it was found that the waves from the distant station reached the receiving experimental station from a horizontal direction. (Marconi, "Radio Communication by Means of Very Short Electric Waves", Proceedings of the Royal Institute of Great Britain, vol.22, 1933, pp539-543)
 
 この不思議な現象は(8月13日、ローマ発として)ただちに米国にも伝わり、ニューヨーク・タイムス紙(8月14日の第1面)が速報しています(下図[左])。
1933年 マルコーニがUHFは曲がると発表
MARCONI HARNESSES ULTRA-SHORT WAVES : ‘Bending’ of Currents Surmounts Earth’s Curvature, Formerly Bar to Such Transmission.
EPOCHAL ADVANCE IS SEEN:
American Radio Scientists Says Achievement May Rank With Discovery of Wireless. (New York Times, Aug.14,1932, p1)
マルコーニの超短波利用:これまで伝送の障害だった地球の湾曲を越えて "曲がる"
 画期的な進化がみられる:無線界の大発見に値する偉業かもと米無線学者は語る」見出しはざっくりこんな感じでしょうか?

1932年8月 マルコーニ500MHz 270km
 米国ワシントンD.C.の新聞Evening Star(左図:8月13日の第1面)も、マルコーニ氏の57cm波(526MHz)の無線電話がロッカ・ディ・パーパから光学的直線距離を大幅に越え、270kmも離れたカポ・フィガリに届いたと大々的に取り上げています。
Marconi "BENDS" Ultra Short Waves, Perfecting New Radio
 Succeeds in Overcoming Curvature of Earth - May Revolutionize Present Industry. (Evening Star, Aug.13,1932, p1)
 
 また複数の無線雑誌でも取上げられました。下図[左]はWireless World誌(1932年8月26日号)で、「Ultra short wave Feat」という記事でマルコーニ氏のUHF試験を伝えました。アンテナがロッカ・ディ・パーパに移設される直前に、サンタ・マルゲリータのVilla Repelliniでマチュー氏と並んで撮影した写真が、プレスに公開されました。
1932年 曲がるUHF
 そのため、この写真の場所がロッカ・ディ・パーパだと誤解されることが多いですが、これはサンタ・マルゲリータです(但しホテル・ミラマーレではありません)
 左図[右]は月刊Short Wave Craft誌の1932年10月号です。編集長のHugo Gernsback氏がエディターページに「"Bent (曲がった) " Short Waves」と題する論評を書いています。
 
 すでに光など「波動」には回折作用があることが知られており、マルコーニ氏もそれが超短波でも起こり得ることを予想していました。しかしその想像以上に超短波が曲がるという現実を前にして、戸惑っているようにも見えます。
1932年12月2日 マルコーニの超短波
 1932年12月2日、マルコーニ氏は超短波が視界限界を超えた所まで届くことを英国の王立研究所で報告しましたが(Marconi, "Radio Communication by Means of Very Short Electric Waves", Proceedings of the Royal Institute of Great Britain, vol.22, 1933, pp509-544)、この時点ではまだ控えめな表現でした。
1932年12月2日、大英帝国 王立研究所での講演で父は次のように話している。
 「波長1メートル以下の電磁波を用いた場合、通信は送信機と受信機が互いに視界内にある時のみ可能であり、この制限のために電磁波の利用性が低くなると一般的に捉えられています。しかしながら、長い間の経験で、純粋に理論的あるいは計算上の考察にのみ基づいた<限界>を信じてはならないことを、私は学んだのです。実際、未知の要素に関する不十分な知識に基づいて理論や計算がなされることがしばしばあります。私個人としては、初めはたとえどんなに見込みが薄くても新しい方法を探るべきだと確信しています」
 これは父独特の言い回しである。彼の全生涯は、反対の予測や忠告、推論に対する新しい道を求めての探求の連続だった。この演説の最後を締めくくったのは、決定的結論を下すのは将来に託したいという実験者としての言葉だった。
 「マイクロ波伝搬の限界に関しては、まだ結論が出たわけではないのです。地球の曲線の一部を超えられることはすでに明らかにされており、理論上の予想を上回る距離に達しています。さらに1901年に私が初めて電波が大西洋を越えて送受信できることを証明した際、著名な科学者たちは、電波を使っての通信は165海里(約300キロメートル)以上離れたところでは不可能と主張してきたことを、今でも忘れておりません。」
 マイクロ波は、この距離の三分の二をすでに越えていた。  (デーニャ・マルコーニ・パレーシェ著/御舩佳子訳, 『父マルコーニ』, 2007, 東京電機大出版局, pp317-318)


92) 世界初のUHF実用回線が開通(1933年2月11日) [Marconi編]

 1932年11月末にバチカン宮殿とガンドルフォ教皇宮殿で実運用に向けた最終試験が始まりました。両所に据付けられたのは、反射器を4列並べた改良型ヘリンボーン・ビームアンテナでした。
1932年 本番用バチカンのUHFビームアンテナ
1931年のUHFビームアンテナ
 左図[左]がバチカン宮殿のビームアンテナで、(瓦屋根の向う)右手遠方にサン・ピエトロ宮殿の頂部が少しだけ見えています。
 
 左図[右]がガンドルフォ教皇宮殿のビームアンテナです。背面から見て左の2つの箱が送信機で、右側の少し背が高い箱が受信機です。4列ある反射器の隙間から送信アンテナと受信アンテナを突き出しています。
 同時通話式なので二波使用したはずですがその詳細は不明です。波長を56cm(536MHz)とする文献(Orrin E. Dunlap, "Marconi, the man and his wireless", 1937, The Macmillan Company, p323)や、57cm(526MHz)とする記事 『The set uses waves only fifty-seven centimeters (about twenty-one inches) in length. ("Ultra Short Wave Radio at Vatican", Popular Science, May 1933, p49) があります。
 
 1933年(昭和8年)2月11日、バチカン宮殿とガンドルフォ城の教皇宮殿を結ぶUHF無線電話回線が公式運用を開始しました。
1933年 UHFアンテナ
1933年2月11日 世界初のUHF実用局が開局
 米国のワシントンポスト紙(1933年2月11日, p14)が"Pope to Open New Radio Unit Today (ピウス教皇の新しい無線が本日開局)", "World's First Ultra Short Wave Plant Made by Marconi (マルコーニによる世界初の超短波施設)"というタイトルで、「ピウス11世とマルコーニは、世界初の超短波無線電話を、ラテラノ条約の調印から4周年を記念し、明日(2月11日)に開設する。・・・」と報じました(左図[右])。
Pope Pius XI and Guglielmo Marconi will formally inaugurate the world's first ultra short-wave radio telephone station tomorrow in celebration of the fourth anniversary of the Lateran peace treaty between the Vatican and Italy.
 It will be the first regular utilization of the plants, the latest invention of wizard by which he hopes to bring radio telephone service within reach of the masses of the people.  The plants have been installed in the Vatican and at the papal villa at Castel Gandolfo, 20 miles away, by Marconi engineers. 
 The Pope and the inventor will talk briefly from the Vatican with the custodian of the villa and with the Auxiliary Bishop of Albano, where the villa is situated. ("Pope to Open New Radio Unit Today", The Washington Post, Feb.11,1933, p14)
 
 翌日のニューヨーク・タイムス紙(1933年2月12日, p24)も"MARCONI INITIATES NEW RADIOPHONE (マルコーニが新無線電話を創始)", "The First Ultrashort Wave System Links Vatican and Papal Summer Home世界初の超短波回線がバチカンと教皇避暑宮殿を結ぶ)" という見出しで、世界初のUHF実用回線の開通を報じました。なお余談ですが、2年前の(短波の)バチカン放送HVJの開局式も、この2月11日に行なわれました。
 
1933年 バチカンUHF実用化
1933年 UHF送受信機
 左図[左]で向かって右手前がピウス11世です。装置の前でヘッドフォンを掛けて振り向いているのが(ヘリンボーン・アンテナの発明者)マチュー氏、左手前で立っているのがマルコーニ氏です。
 左図[右]はUHF主装置を背面と前面から見た写真です。ちなみに送信用の発振回路と、受信用のフロントエンド回路はアンテナ背後に直結した箱に納められています。
 
 前述した英仏海峡マイクロ回線の実用化(1934年1月26日)よりも1年も早く、マルコーニ氏がUHFの実用化を達成しました。
UHFの常設実用回線としてはこれが世界初です。しかし戦後の我国ではこの偉業を取上げる無線雑誌や関係書の筆者がほとんど現れず、いまやUHFを最初に実用化したのがマルコーニ氏だった事など忘れてしまったようです。マルコーニ氏は"長波・中波"だけの人ではありません。
『・・・(略)・・・1931年2月11日、法王庁からの要請でもう一揃いの機器(注:バチカン放送機器に次ぐ連絡無線という意味)を設置した父は、マイクの前のピオ11世の傍らに立っていた。法王は「マルコーニ侯爵、神の思し召しにより無線の分野での研究とその応用に成功されたことに対し祝福を送ります」 と述べた。
 父は次の言葉で応えた。 「今回のマイクロ波の最初の実用化は、私のイタリア人そして科学者としての心を、誇りと未来への希望で満たしてくれました。私のささやかな発明が、キリストの平和を世界に広めることに役立つことを願っています。」  (デーニャ・マルコーニ・パレーシェ著/御舩佳子訳, 『父マルコーニ』, 2007, 東京電機大出版局, p320)
 
 ちなみに常設施設によるVHFの実用化だと、1931年(昭和7年)暮れにハワイのMutual Telephone CompanyがRCA社と共同で、40MHz付近を使った無線電話による島嶼間公衆通信サービスを開始したものが最初といわれています("Ultra-short wave in Hawaii telephone service", Electronics, 1932.1, Mc Graw HillCompany, p27)
 マルコー氏は1930年春にサルデーニャ島のゴルフォ・アランチ(Golfo Aranci)に30.105MHzのビーム局を建設し、その対岸に位置するローマ郊外のフィウミチーノ(Fiumicino)で無線電話の受信試験を行っています。さらに1933年より数年間、ゴルフォ・アランチ(呼出符号IAG, 周波数30.610MHz)-フィウミチーノ(呼出符号IAF, 29.820MHz)で同時通話式無線電話回線の実用化試験へと発展しましたが、これが商用化されたかどうかは(私は)よく分かりません。


93) ついに山をも越えたUHF [Marconi編]

1933年 ホテルミラマーレ UHF試験
 1933年(昭和8年)8月2日、UHF波が視界限界の何倍もの場所まで届くことが不思議でならないマルコーニ氏は、サンタ・マルゲリータに呼んだ部下のマチュー氏やイステッド氏と、再びエレットラ号による洋上伝搬実験を行いました。
 8月2日から6日まではサンタ・マルゲリータのホテル・ミラマレの屋上を使用したことが知られていますが(左図)、8月7日以降の送信試験場所は(私には)よく分かりません。
 この実験では直進限界の5倍に相当する94マイル(151km)離れた場所と無線電話/電信による交信に成功しました。ただしそれ以遠への試験はビームの向きの都合で出来ませんでした。
 
 マルコーニ社のラドナー氏らが記した"Short Wave Communication [2nd Edition]"の日本語翻訳本"短波無線通信 第3巻 [改訂第二版]"からの引用と、参考までにその原文を記しておきます。
同氏は上記の結果に力を得て、同一の波長で長距離にわたって実験を継続した。1933年8月 ヨットElettra号上において、Santa Margheritaに置かれた50糎波(50cm波)送信機の信号を中絶する事なく可視範囲の五倍の距離まで受信した。この場合には送受信共、四波長の鏡経を持つ放物線型反射器を用い、前の場合より幾分大きい電力を使用した。可視範囲の五倍以上の距離では海岸線の関係上、船の方向を絶えず変更する必要があったため、従って反射器を送信機の方向へ向け続ける事が出来なかったため、連続した観測は不可能であった。  (ラドナー著, 水橋東作/松田泰彦訳, 『短波無線通信』第3巻[改訂第二版], 1935, コロナ社, p359)
 その原文です。
These results encouraged him to continue long distance range trials on such waves, and in August, 1933, uninterrupted reception was obtained on the yacht “Elettra” up to distances of five times the optical range from a 50 cm. transmitter at Santa Margherita.  In this case somewhat larger power was used, with parabolic reflectors of 4 wavelengths aperture at transmitting and receiving end. Beyond a range of 5 times the optical range it was not possible to carry out continuous observation, owing to the coast line necessitating the continual alteration of the ship's direction, and in consequence the reflector could not be kept directed to the transmitter.  (A.W. Ladner/ C.R. Stoner, Short Wave Wireless Communication [2nd Edition], 1934, John Wiley & Sons, p357)
 
 さらにサンタ・マルゲリータからの送信実験を続けていると、視界限界を超える161マイル(=258km)離れたポルト・サント・ステーファノ(Porto Santo Stefano)港に停泊していたエレットラ号で受信できました。不思議なことに経路上には障害物となるはずの""があったのです(下図[左]:「丘陵」と書かれている黒丸の2箇所)。
1933年マルコーニのUHF試験
 これについては月刊Short Wave Craft誌(1933年11月号, p397)が"Marconi Hears Ultra-Short waves Through Mountains!"という記事で驚きを持って伝えています。
1933年 UHFが山を越えた
 
1932年7月および8月、伊太利(イタリア)において50糎波(50cm波)について行った実験で、Marconi氏は幾何学的可視範囲の約二倍の距離まで、しかも両者間に丘が介在する時にさえ何等の妨害も受けずに出来る事を証した。・・・(略)・・・ しかし(1933年8月には) Santa Margherita から258粁(258km)の距離すなわち可視距離の9倍に当たる Porto Santo Stefano において、両者の間に17粁(17km)丘陵地帯を含むにかかわらず、Morse信号を受信する事に成功した。Marconi氏はかような波について存在すると考えられている回折および反射の影響を考慮に入れても、現在の理論をもってしては上記の現象は説明できないと述べている。 』 (ラドナー著, 水橋東作/松田泰彦訳, 短波無線通信第3巻[改訂第二版], 1935, コロナ社, p357,359)
 以下原文です。
During experiments carried out around Italy on a 50 cm. wave in July and August, 1932, Marconi established uninterrupted communication up to distances approximately twice the geometrical optical range, even between positions masked by intervening hills. ・・・(略)・・・ Morse signals were received, however, at Porto Santo Stefano, a distance of 258 km. from Santa Margherita, and nine times the optical range, although 17 km. of hilly ground intervened. Marconi suggests that such results cannot yet be explained by existing theory, even allowing for the diffraction and reflection effects that are known to exist on such waves. (A.W. Ladner/ C.R. Stoner, Short Wave Wireless Communication [2nd Edition], 1934, John Wiley & Sons, p357)


94) マルコーニが発表 「超短波は曲がる」 [Marconi編]

 1933年(昭和8年)8月14日、マルコーニ氏はローマの王立アカデミー(Royal Academy)において、この1年間にわたるUHF伝播実験の結果を報告し、確信をもって「超短波は曲がる」と発表しました。僅か25Wの電力しかない500MHz波が、山をも越えて161マイルまで届いたからです。
Into the Tyrrhenian Sea sailed the Elettra to conduct tests with inland Italy. On August 14, 1933, Marconi mounted the rostrum of the Royal Academy in Roma with the surprise announcement that both radiophone and telegraphic signals had been exchange with Santa Margherita 94 miles away. And while the Elettra was anchored at Porto Santo Stefano, 161 miles from Santa Margherita, faint code signals on the 60 centimeter wave were intercepted on the yacht, although two mountain promontories intervened, indicating that opaque objects do not block the waves. 』 (Orrin E. Dunlap Jr., Marconi, the man and his wireless, 1937, The Macmillan Company, p323)
 
UHFが山を越えた
山を越えたUHFへのマルコーニの手紙
 500MHzの電波が、まるで山を突き抜けたかのように反対側まで届いたことをマルコーニが発表したと、1933年8月15日付けのニューヨーク・タイムス紙が第一面で報じました(左図[左]:"Marconi Short Wave Heard Over Mountains, Proving Solid Objects Do Not Block Ray", New York Times, Aug.15,1933, p1)。
 同紙編集部は、さっそくマルコーニ氏へ問い合わせました。直ちに返答が得れた同紙はその全文を誌面で公開しました(左図[右]:"Marconi Sees New Era in Radio With Use of Ultra Short Waves", New York Times, Aug.17,1933, p1)。
 
 ニューヨーク・タイムス紙と特約を結んでいた朝日新聞社はそれを翻訳し、8月18日朝刊p2の1-3段目に『 無電の超短波に湾曲性を発見す マルコニ氏【手記】 』というタイトルで大きく報じました(下図)。そして日本の電波関係者を驚かせたのです。
1933年 マルコーニの手記
(私)の最近の実験の結果、超無線短波はある程度まで地球のわん曲線に追従せしめ得るということが解った。・・・(略)・・・昨年七、八月にわたり試みた実験においては超短波は地平線以下の地点で接受することが出来ないという理論は真実でないことを確め得た。というのは余(私)は右の理論によって設けられた最大限の一倍乃至二倍(1~2倍)の距離で呼びだしを聞くのに成功したからだ。
 それにしてもかかる(昨年夏の)実験は波長を曲げ得るかどうかということに関しては決定的ではない。何となればディフラクション(回折)の現象によっても同じ結果に説明がつくからだが、余(私)の最近の(今月の)実験においては今までの理論に許された最大限の五倍の距離においては極めて明瞭に又、九倍の距離の所ではいくらか明瞭さを欠き断続的ではあるが、とにかく呼びだし接受に成功した。こんなに遠くまで曲がることから)これは即ち超短波というものは曲げ得るということを極めて明瞭に実証したものと思う。
 だがここに注意すべきはこれら実験(1933年8月)の結果は、最初の実験(1932年7月)に用いられたものよりは余程進歩したものだが実質的には全く同じ装置によって得られたということだ。更に注意すべきはこの(今月の実験の発信所(サンタ・マルゲリータ)では二十五ワット発電機(発振器)というような極めて小さい電力を用いたにもかかわらず、呼びだしが(山を越えて)最長距離百六十マイルの距離(ポルト・サント・ステーファノ港)で接受されたことだ。
 余(私)はまだ如何なる原因が超短波を曲げるかということについては当て推量はしたくない。それはリフラクション(屈折)の現象かも知れないし、またディフラクション(回折)の現象かも知れないし、また超短波というものは長波と同様に空中の上層においてはエーテルによって反射されるのかも知れない。余(私)は今秋、再び実験をつづけ、これら電波の波及を支配する法則を一層徹底的に探求しようとしている。・・・(略)・・・』 ("無電の超短波に湾曲性を発見す", 『東京朝日新聞』, 1933.8.18, p2)
 
 すると8月21日の東京朝日新聞朝刊(p11)に『超短波の湾曲性 無線王を相手に先手の名乗り 仙台逓信局の成功』との見出しで、仙台逓信局が名乗りをあげました。以下引用します。
・・・同局では昨夏(1932年7-8月、東北帝大と仙台逓信局による実験)七、八メートルの超短波をもって管内山形県酒田飛島間四十キロの放送試験に成功し、この(1933年)九月からは両地間で正式に通信する手はずとなって無電界をアッといわせ、更に超短波の実験を続けるうち、この飛島の発信が函館で聴取される事が判明した。これは電波が地球の湾曲線に沿い屈折して進行するとしか解しようのない現象で、ただ理論的には究明されず実験の結果に過ぎないため確実性ある発表が出来なかった所、一、二ヶ月前から五百マイルを距てる京城(ソウル)の朝鮮逓信局(J8AA)発信の超短波を仙台でしばしば立派に受信出来たので、もはや超短波が湾曲して・・・(略)・・・
右につき長島工務課長は語る。
 外国電報が簡単でどの位の波長の短波長かハッキリ分からないから断言は出来ないが単に湾曲性を発見したというだけならこっちが先で七、八米の波長で実験に成功している。マルコニ氏のが三、四米のであれば意義はあるが、そうでない限り、かつ、かかる現象の理論的説明がなされないで、ただ実験の結果だけでいうのならこっちの方が正に本家本元だ
。』
【参考】 後になって、朝鮮逓信局J8AAの伝搬は「湾曲」ではなく、スポラディックE層による「電離層反射」だと判明しました。


95) ガリレオ「でも地球は動く」 マルコーニ「でも超短波は曲がる」 [Marconi編]

 結局マルコーニ氏の「超短波は曲がる」という説は、学会には受け入れられませんでした。自然の法則に反するからです。
 その昔、イタリアの科学者ガリレオが宗教裁判にかけられた時「でも地球は動く」とつぶやいたという逸話はよく知られています。超短波が曲がることを信じてもらえないまま1937年(昭和12年)にその生涯を終えたマルコーニ氏が、病床で「でも超短波は曲がる」といぶやいたかどうかは解りませんが、さぞや悔しかったでしょう。
 
 「超短波は曲がる」とのマルコーニ氏の発表があった1933年(昭和8年)8月の時点では、マルコーニ社が受注・建設した「バチカン市国-ガンドルフォ城」回線(1933年2月11日開局)が世界で唯一のUHF実用無線でした。このあと同業他社の手により、1934年(昭和9年)1月26日、ドーバー海峡の連絡回線(1.7GHz)が正式運用をはじめましたが、これらは固定局間の通信でした。
 この時代にあって、実用化して間もないUHF(500MHz)波の実験局を海岸沿いや山の上に建設し、ビームアンテナで海に向けて発射したUHF波を海上移動局(エレットラ号)で縦横無尽に移動観測するようなことができたのは、この地球上でマルコーニ氏をおいて他にいませんでした。周囲の学者たちは、自分が実験してみたわけでもないのに、「そんなことは自然の法則に反する」と、マルコーニ氏の報告には耳を傾けようとしませんでした。
 
 1953年(昭和28年)6月15日、スーパーヘテロダイン方式やFM通信の発明者として知られるコロンビア大学教授のアームストロング(E. H. Armstrong)氏が、米国電気学会AIEE夏季総会でマルコーニ氏の業績に関する講演を行いました。その日本語訳の記事から引用します。
『・・・(略)・・・翌32年(1932年)、有能助手G・マッシューの協力を得て、(超短波は直進するという)「自然の法則」が、一般に考えられているようなものかどうかを再度実験すべく、ローマ郊外の小高い丘に設備した60cmの電波(500MHz)で実験を行ったことが知られている。
 一方では他の人が過去にしたことで満足しきっている間にも、骨身惜しまず、大きな期待を心に抱きながら、知れるとも知れぬ答えを目ざして進んだマルコーニ。他人はお定まりの理論に対する皮相な(うわっつらだけの)観察を至上としている間にも、(マルコーニだけ)はおのが装置と四ツに組んで、論より証拠なる諺(ことわざ)を証明してくれた・・・(略)・・・
 このような実験を繰返して、マルコーニは遂に電波の屈折することを発見した。しかし、彼の発見は "眉つばもの" として一般に考えられ、(直進するという)視界説の牙城は崩れようともしなかった。彼のその発表があったとき、私の心に起こった反応を今でもアリアリと思い浮かべることができる。それは「昼間」波が存在するという噂を聞いたちょうどその時と同じだった。私の知る限りでは、そんなことは「自然の法則」に反することだった。・・・(略)・・・』 (E.H. Armstrong, 大沼雅彦抄訳, 『新電気』, 昭和29年1月号, オーム社, pp99-100)
 
 そしてアームストロング氏は、我々がマルコーニ氏と同じ結論に到達するのに20年も掛かったことを指摘されています。
今日われわれは、マルコーニが正しかったことを承知している。だが、彼の予言したその言葉が「正」であるというレッテルを貼られるまでに、何と20年もかかっているではないか!・・・(略)・・・われわれがあの伝搬に要したわずかな電力や、マルコーニが168マイルの伝播を完成したときの幼稚な装置を思い出し、第二次世界大戦の結果進歩した技術によって今日用いられるに至った幾多の優れた装置を考えるとき、不思議に思うのは、彼の予言がこうも長い間、注意されずに過ごされ、また過去何年かの研究調査が、こんなに長い間延び延びになっていたということである。
 むべなる哉(かな)。手に道具をにぎって、われわれは彼の予言に追いつくために長い時間かかってやってきたのだ。 (E.H. Armstrong, 大沼雅彦抄訳, 『新電気』, 昭和29年1月号, オーム社, p100)
 
 この件は短波開拓史のフロントページの最後にある、アームストロング氏の講演記事を御覧ください。


96) マルコーニ夫妻の日本観光 [Marconi編] ・・・2017年12月18日更新

 1933年(昭和8年)5月27日、シカゴで万国博覧会(下図[右])がはじまりました。
 万博は1851年(ロンドン)より開かれて来ましたが、国際博覧会条約に基づいた最初の大会が1933-34年に催されたシカゴ博で、「進歩の世紀 "A Century of Progress"」をテーマとしました(シカゴでの開催は1893年以来、2度目)。なお参考までに1970年(昭和45年)の大阪万博(テーマ:人類の進歩と調和)までを下図[左]に掲げます。
万国博覧会表
 
 シカゴ万国博覧会において10月2-7日を"Radio Progress Week"(無線の進歩週間)とし、初日10月2日を「マルコーニ・デー」と定めて記念イベントが企画されました。
1933年 マルコーニ夫妻 アメリカへ
 その特別ゲストとして無線の実演をすることになったマルコーニ氏は(1927年に再婚した)妻を伴い、1933年(昭和8年)9月21日、Conte di Savoia号(呼出符号:IBLI)でイタリアのジェノバを出ました。
 さっそく9月22日のThe New York Times紙が “MARCONI ON HIS WAY HEAR.  Scientist Sails From Genoa – Will Visit the Chicago Fair. ” という見出しで、マルコーニ氏がシカゴ博のMarconi Dayのためにジェノバからやって来ることや、ニューヨークなどで関係者とミーティングするために米国滞在は半月間になると伝えました。マルコーニ氏は10月14日ニューヨーク発のイタリア汽船Rex号(呼出符号:ICEJ)でイタリアに戻るつもりでした。
 また9月25日のThe Washington Post紙にも "Marconi Sailing to U.S. For Chicago Fair Honor" というマルコーニ氏が米国に向けて航海中という記事があります。
 
 1933年9月28日、夫妻はニューヨーク港に到着しました。The New York Times紙は夫妻の写真入で歓迎記事を載せました。
MARCONI FORSEES NEW ERA IN RADIO.
On Arrival From Italy He Talks of Great Vista Opening Up in Micro-Wave Spectrum.
MORE RESEARCH NEEDED”(The New York Times, Sep.29,1933, p.21)
 この記事の "見出し文” でも分かるように、夏に超短波(マイクロウエーブ)は曲がると発表したマルコーニ氏は、今や「超短波の人」なのです!
 
 9月29日はマルコーニ夫妻が宿泊しているリッツ・カールトン・ホテルでRCA社主催の歓迎ディナー会が催されました。そして9月30日にペンシルバニア鉄道(Pennsylvania Railroad)でニューヨークを発ち、翌10月1日の朝09:45シカゴ駅に到着しました。駅前には大勢の人々が集まり「ビバ・マルコーニ!」の歓声が10分間続いたといいます。ただちにドレイク・ホテル(Drake Hotel)に投宿し、イタリア系アメリカ人協会(Italian-American association)主催の歓迎昼食会に出席しました。
 
 シカゴ万博(下図[左]:公式パンフレット)会場で行なわれたマルコーニ・デー(1933年10月2日)のイベント(マルコーニ氏の手によるモールス符号"S"の地球一周リレー)は大成功でした。
1933年 シカゴ万博
1933年 マルコーニ・デーで贈られた記念像
「進歩の世紀」を記念した博覧会を機会に、当地では10月2日が公式に<マルコーニの日>とされた。・・・(略)・・・父は再びモールス信号のSの文字を打った。Sを意味する三つの点は、シカゴを出てニューヨーク、ロンドン、ローマ、ボンベイ、マニラ、ホノルルと地球を一周し、3分25秒で博覧会会場に戻ってきた。 (デーニャ・マルコーニ・パレーシェ著/御舩佳子訳, 『父マルコーニ』, 2007, 東京電機大出版局, p325)
 
 そしてイベント会場ではRadio Manufacturers Association(無線機器製造業者協会)の J.F. Allen氏より、マルコーニ氏の無線が(通信やラジオ放送で)「人類の生活を豊かにした」ことを称え、高さ28インチ(71cm)の記念ブロンズ像が贈呈されました(左図[右])。
 その台座には次のように刻まれています。" To Guglielmo Marconi, in Grateful Recognition of his Enduring Contribution to the Enrichment of Human Life. A Tribute from the Radio Industry of America. Presented by the Radio Manufacturers Association at the Exposition - Chicago, Oct. 2, 1933. "
 けして火花送信機とコヒーラ受信機で大西洋横断通信に成功したことの表彰ではありません。
 【参考】英国で最初の娯楽ラジオの試験放送は、1920年1月15日よりマルコーニ社のチェルムスフォード局MZXがスタートさせましたものです。詳細はコンラッドのページを御覧ください。
 
 10月2日のお昼前に万博会場に到着したルーズベルト大統領夫妻は、ただちに補佐官を通して、マルコーニ氏を昼食に誘いました。実はマルコーニ氏にとって、まったく予期せぬお誘いだったようですが、快くそれを受けて、大統領夫妻のもとへ駆け付けました。
1933年 シカゴ万博会場でマルコーニと大統領夫妻がランチ
 左はエレノア・ルーズベルト大統領夫人とフランクリン・ルーズベルト大統領に挟まれ、談笑しながら食事するマルコーニ氏です。このランチで大変会話がはずみ、ルーズベルト大統領はマルコーニ夫妻をホワイトハウスでの昼食会に招待しました(マルコーニ夫妻は翌週にワシントンD.C. を訪れています)。
 この予期せぬ大統領夫妻との昼食にはウラ話がありますので引用しておきます。
博覧会当局は彼に敬意を表する為、特に「マルコニ、デー」を設け、その当日西部技師協会はマルコニを午餐会に招待した。ちょうど協会員が着席した時に、これも当日博覧会の一賓客であったローズヴェルト大統領から書状が来て、マルコニにちょっと訪ねて来てくれとのことであった。マルコニは中座して二十分ほどしてから席に復したが、隣席のコンムトン博士に向かって、「私はどこであの人に逢ったかな? ローズヴェルトさんは一九一七年に会見した私のことを委しく話されたが、私にはどうしても思い出せない。 」と言った。
 マルコニがイタリー政府を代表して合衆国を訪問した一九一七年には、ローズヴェルト氏は海軍次官で、マルコニの為に催された歓迎会へ大勢の人々にまじって列席したのであるから、マルコニの方で覚えていなかったのも無理はない。 (Orrin E. Dunlap Jr.(著), Marconi: The Man and His Wireless, 小田律(訳) マルコニ伝, 『日本読書協会会報』1937年12月号, 日本読書協会, pp56-57)
 
 翌10月3日には地元のノースウェスタン大学(Northwestern University)で名誉学位を受けました。
 
 10月4日、マルコーニ氏はRCA社のデビット・サーノフ社長に誘われて、シカゴ万国博アマチュア無線カウンシル(The World’s Fair Radio Amateur Council)の常設展示場(Amateur Radio Exhibit, Travel and Transport Building)を訪れて、アマチュア無線家と交流したと地元のChicago Tribune紙(1933.10.5, p10)が報じています。どこに旅行しても、マルコーニ氏の頭から「無線」の二文字が消えることは無かったようですね。
1933年 シカゴ博覧会のW9USA
 ちなみにこの会場には万博記念アマチュア局W9USA, W9USBが開設されました(上図[左]:たくさんのQSLが貼られた展示コーナー、上図[中]:ガラス張りで囲まれたW9USA, W9USBの運用ルーム、上図[右]:ARRLの出展コーナーも見えます)。記念局は14.165MHzおよび14.200MHzで運用されたそうです(Jerome S. Berg, The Early Shortwave Stations: A Broadcasting History Through 1945, 2013, McFarland & Company,p105)
 
1933年 マルコーニ ナイアガラの滝 観光
 10月4日の夜、ニューヨークに戻るためにマルコーニ夫妻はRCA社のデビット・サーノフ社長夫妻とともに、ミシガン・セントラル鉄道(Michigan Central Railroad)でシカゴを発ちました。ちょうどシカゴとニューヨークの中間点には有名なナイアガラの滝があるので、そこに宿泊して観光したようです(左図:向って左からマルコーニ夫人、デビット・サーノフ氏、マルコーニ氏、デビット・サーノフ夫人)。
 
 なおRCA社(Radio Corporation of America)のルーツは米国マルコーニ社(Marconi Wireless Telegraph Company of America)です。1912年4月、米国マルコーニ社の無線通信士だったデビット・サーノフ氏はニューヨーク(陸上局)で最初にタイタニック号の遭難通信を受信したことでも知られています。
 
1933年 マルコーニ RCA見学
 1933年10月9日の早朝、マルコーニ氏はNY州ロングアイランドのロッキーポイントにあるRCA社の無線センターに向いました。デビット・サーノフ社長の案内でRCA社の新型ファクシミリ送信機のデモンストレーションを見るためです(左図:右がマルコーニ氏で、左がデビット・サーノフ社長)。またマルコーニ氏が研究中の超短波についても意見交換しました。
 翌日のThe New York Times紙がマルコーニ氏はRCA社見学のあと、ワシントンD.C. に立寄ってから西海岸への旅行を検討していると報じました。これはNBC社がニューヨークのマンハッタンに建設中の世界最大のスタジオの開所式(11月15日)に、マルコーニ夫妻が招待されたため、もしこれを受けるならば米国滞在期間を1箇月も延長する必要があるからです(当初は10月14日にニューヨーク発の船で帰国する計画でした)。
 1933年10月10日、ニュージャージー州カムデンにあるRCAヴィクター社の工場で、開発中のテレビジョンのデモンストレーションを見学したあと、10月11日に首都ワシントンD.C. に入りました。ワシントンD.C.到着時のインタビューでマルコーニ氏がマイクロウェーブの時代を語ったと地元Washington Post 紙(Oct.11)が伝えています。この日は13:00よりホワイトハウスでルーズベルト大統領夫妻と昼食会で、ロッソ駐米イタリア大使を初めとするイタリア関係者数名が招かれました。夜はロッソ大使とのディナーでした("Roosevelts Honor Marconi and Wife: Luncheon Given at White House for Italian Visitor", Washington Post, Oct.12,1933, p8)。10月12日は連邦無線委員会Federal Radio Commission(FCCの前身)が主催する歓迎パーティがワシントンD.C. のメイフラワーホテルであり、これに出席しました。
 
 1933年10月13日、マルコーニ夫妻は大陸横断鉄道で西海岸のロサンゼルスへ抜ける旅に出ました。
1933年 ヨセミテ公園
中西部のサンタフェとアルバカーキに宿泊しインディアンの観光集落を訪ねたあと、大陸横断路線から少し逸れてグランドキャニオン国立公園に立ち寄り(左図[左])、ここに二泊しています。再び大陸横断鉄道に戻り、終着駅ロサンゼルスではハリウッドやビバリーヒルズを観光しました。そのあと10月24日には北へ600kmほど離れたサン・フランシスコまで足を延ばしました。サン・フランシスコではAngelo J. Rossi市長の出迎えを受けています(左図[右])。
 10月27日、ヨセミテ渓谷(ヨセミテ国立公園)を観光中(左図[中])だったマルコーニ夫妻が、11月2日にサンフランシスコを出港する日本郵船の秩父丸で日本に向う意向を明かしたと、地元紙Oakland Tribune(Oct.28)などが報じました。日本でも東京朝日新聞(10月29日, 夕p2)が "無電王マルコニ氏が来る" という見出しで短く速報したのですが、あまりに突然の話だったので、日本では唖然としたようです。

 マルコーニ氏は太平洋を眺めているうちに、水平線の向うにあるハワイや日本を見たくなったのでしょうか?
1933年 シカゴ万博 日本館
 太平洋岸まで来てしまったことだし、このまま海を渡ってアジア経由で帰国するか・・・ということでしょうか?あるいはシカゴ万国博覧会で日本館(左図)を見学し、東洋の国、日本に興味をそそられた可能性も否定できませんね。真実はそれら全てが複合的に作用した結果のようです。
【参考】後年になってマルコーニ夫人が著書で日本の外務当局(サンフランシスコの日本総領事館?)から誘いを受けたと述べられていますが、私は検証できていません。たとえそうであったとしても、個人的な "お薦め" の言葉だと思われます。
 
 のちの11月25日の朝、京城(現:ソウル)に着いた夫妻が、京城日報の記者に対し、突然日本を訪問した訳を明かされていますので引用します。
  侯夫妻は朗らかに語り合う。「アメリカの歓迎を受け太平洋(側まで、米大陸)を横断してサンフランシスコに着いた時、この青い潮続きの東洋の君子国、ニッポンを訪問しようと思い立ち、(マルコーニ夫妻の旅行に秘書として同行している伊海軍中佐の)デ・マルコ氏の勧めもあって来たんだが、ねえ良かったね、お前、来て良かったと思うね。
 ところで「マルコーニ夫妻は世界一周旅行の途中で日本に立寄った」とするのは、少々ニュアンスが違いますね。日本に行くことにしたので(結果的に)世界一周になりました
   
秩父丸
 とにかくこのニュースに驚いたのは日本側です。マルコーニ社の日本代理店(極東アジア地区総代理店)である大倉商事でさえ知らされていなかったからです。
 秩父丸(左図)の乗船名簿にマルコーニ夫妻の名前があるかを日本郵船に問い合わせて、無電王の来日が確実になったことを知るや、無線局の許認可権を有する電波三省(逓信省・海軍省・陸軍省)はもとより、大蔵組、放送協会、学会、無線会社(東京電気、日本電気、日本無線、国際無線)などがマルコーニ夫妻をもてなしたいと次々に名乗りを挙げました。
 
1933年 船上のマルコーニ夫妻
 左図は秩父丸の甲板で撮影されたマルコーニ夫妻です。
 さてマルコーニ夫妻より「訪日の目的はプライベート観光で、東京には11月16, 17, 18日の3日間滞在する」と、秩父丸(呼出符号:JEZC)から落石無線を経由して電報が届きました(マルコーニ氏が昼間波を発見し、今や公衆通信は短波の時代でした)。ただちにイタリア大使館が18日の晩餐会は我々が主催すると表明したため、残る16日、17日の争奪戦となりました。そこで16日はマルコーニ社の日本代理店「大倉商事」を傘下に置く大倉組(大倉財閥)が歓迎会を主催し、17日に官民を一本化した合同歓迎会(逓信省、陸軍省、海軍省、鉄道省、日本放送協会、日本無線電信会社、国際電話会社、電気学会、電信電話学会、日本ラヂオ協会、学術研究会、電波研究委員会、電信協会、東京各新聞・通信社有志の共催)を催すことになりました。
 ちなみにマルコーニ夫妻の日本観光の一切を取り仕切ったのは、イタリア大使館と大倉財閥二代目総帥の大倉喜七郎氏(通称:大倉男、バロン大倉)でした。大倉喜七郎氏は英国のケンブリッジ大学を卒業された国際派です。
 
 また千葉の銚子無線も多忙を極めたそうです。読売新聞の千葉欄に下郷局長のコメントがありますので引用します。
下郷局長は語る。「マルコーニ侯爵は十六日横浜着の予定です。何しろ無電の発明者なので盛んに(短波長で)発信して来ます為めに、当局では普通の三増倍も多忙を極めています。」 』 (創造者に悩まされる:銚子無電局 マルコーニ侯の来朝近づき局長以下大多忙, 読売新聞[千葉], 1933.11.12, p8)
 
1933年 マルコーニ来日を知らせる週刊誌
 マルコーニ氏の突然の来日について、報知新聞社の「日曜報知」(11月12日)が伝えています(左図)。こうして歓迎ムードが高まってきました。
マルコニがやって来る。六十歳の老躯をひっ提げて、世界の無電の父マルコニが、はるばる伊太利から日本にやってくる。
 一八九五年、彼がはじめて無線電信の発明に成功したのは僅か二十二歳の若者であった。が、歎賞すべきはそれだけではない。以来四十年、わき目もふらず今日まで、ただ一筋に、無電の発達に精進して来た努力と、不抜の研究心とである。
電波は曲がる!
その発表で、彼がもう一度、世界をアッと言わせたのも、極く最近のことである。・・・(略)・・・ 』 (澤田譲, "無線電信の父マルコニ氏来る", 『日曜報知』, 1933.11.12, 報知新聞社, p11)
 
 マルコーニ氏の来日にあたり南逓信大臣と大隅海軍大臣が、広田外務大臣へ叙勲を推薦しました。そして11月15日に広田外務大臣が内藤総理大臣に推薦し、翌11月16日付けで内藤総理が叙勲の裁下を仰ぐ旨願いでました。
 
 1933年11月16日(木曜)
 正午、秩父丸が横浜にやってきました。検疫のために横浜港の入口で一旦停船していましたが、岸壁沿いの工場群の煙突から吐き出される黒煙を見て、想像以上の重工業の発展ぶりにマルコーニ夫妻は驚きました。まもなくすると日本郵船のランチ数隻でアウイッチ(Giacinto Auriti)イタリア大使、大倉喜七郎総帥、大倉商事の石田直吉取締役、高橋是彰氏、逓信省から荒川大太郎氏、学会から佐伯美都留氏、東京放送局JOAKから苫米地貢氏、そして新聞記者団らが秩父丸へ乗り込んできて、夫妻の日本訪問を歓迎するとともに海路の無事安着を祝いました(苫米地企画課長がJOAKを代表し出迎えに来たのは、「無線と実験」誌の主幹時代の欧米視察旅行でマルコーニ氏と面識があったため)
1933年 マルコーニ来日 秩父丸
 夫妻に贈られたバラの花束を抱いたプレス用の写真撮影では以下のようなこともありました(左図:マルコーニ氏を中心に、夫人[左]と大倉総帥[右])。
『 ・・・(略)・・・夫人と二人、Aデッキに並ばされて、カメラの注文でバラの花束を抱かされると「いやあ、俺はごめんこうむろう。花束はレディー・マルコーニだけ持っていればいいじゃないか。」と少々ばかり照れていた。 ("優しい眼の奥に理智のひらめき", 『時事新報』, 1933.11.17, p7)
 この日、東京湾は濃霧が発生し、楽しみにしていた富士山が見えなかったことをマルコーニ夫妻はとても悔しがっていました。
かねてあこがれの日本に来たことは実に喜ばしいが、霧が深くて有名な富士山や日本の美しい景色が見えなかったのは残念です。太平洋を東洋へ超えたのは初めてですが私の作った無線電信は日本をはじめ地球を常に廻っているのだと思う時、まことに愉快です。 ("富士が見えぬは残念 上陸第一歩の印象 無電王語る", 『報知新聞』, 1933.11.17, 夕p1)
 秩父丸の甲板からは、撮影したフィルムや速報原稿を運ばす為に新聞各社が連れてきた伝書バトが、ひっきりなしに飛び立っていたといいます。
 
 マルコーニ氏は13:00より以下の到着メッセージを記者団に発表したあと、13:30に秩父丸は第四号埠頭に接岸され、イタリア大使館の車に乗って横浜港をあとにしました。
私共夫婦は日本観光訪問にあたり日本官民各方面より非常に深厚なる歓迎を受けす事はまことに光栄、かつ欣快に堪えません。私も妻も日本が始めてです。しかし私には他国人の気持ちはありません。いま私には日本の皆様が懐かしい友達のように思われます。何となれば英国の私の工場で製造した放送機が東京、名古屋、大阪、熊本などにおいて日々皆様にラヂオの電波を送っているからです。
 明朗の日本、火山のある日本、殊に美しき富士山のある日本。我が祖国イタリアの国情に似たる日本に来る歓喜は無限のものがあります。(お集まりの記者の)皆さんの新聞を通じ、どうぞ日本の皆様へ私等の心情とお礼を伝えて下さい。
 
 一方、宿泊先の帝国ホテルの周辺の道路には無電王の姿に接しようと集まった群衆があふれ、ホテル玄関前では東京高等無線電信学校の全校生徒300名が一列に並んで待ち構えていました。15:05に夫妻を乗せた車が現れると、割れんばかりの拍手と歓声で迎えられました。ロビーでは一足先に横浜から戻った大倉喜七郎総帥夫人と二人の令嬢が出迎えました。ちなみにここ帝国ホテルも大倉財閥の傘下です(GHQ/SCAPの財閥解体・公職追放令で帝国ホテルを手放しましたが、のちにホテルオークラを建てて復活)。また大倉商事の玉木社長をはじめ、学会や日本を代表する無線・電気界の関係者と日伊両国旗の下で握手を交わしたのち、夫妻は南側二階204号室(スイートルーム)に案内されました。
 
 夫妻はほとんど休憩する間もなく、正装に着替え、大倉総帥と16:00に坂下門(下図)より宮中に参内しました。
1933年 坂下門でマルコーニが記帳
 天皇陛下は服喪中(直前の11月12日に叔母宮にあたる朝香允子内親王殿下の御葬儀があったばかり)で、拝謁を賜うことはできませんので、北御車寄せで天機奉伺ならびに御機嫌奉伺の記帳をなしたのち、大宮御所(皇太后陛下:大正天皇の皇后)、秩父宮御殿(天皇陛下の弟宮)に伺候して来朝のご挨拶を述べ、帝国ホテルへ戻ったのが16:40です。
聖上陛下には御服喪中にわたらせられるので謁見の御事なく御車寄せにて記帳して退出。 (無電王けふ来朝 廿一日京都へ, 京都日出新聞, 1933.11.17, 夕p1)
 これについてマルコーニ自身も次のように語っています。
聖上陛下には御喪中のため、拝謁の栄を得ませんでしたが、秩父宮様に拝顔の栄を賜り、有り難きお言葉までいただきました。 ("ようこそマルコーニ侯 半島へ第一歩 中学生の歓迎に感激", 『京城日報』, 1933.11.25, p7) 
 
 帝国ホテルには日本各地から歓迎の手紙と電報が山のように届いており、マルコーニ氏はこれらに返信するために急遽、専属タイピストを雇い入れました。しかし処理に3日も掛かったといいますから、その凄さが想像できましょう。
 さて短い休憩の後、記者団との会見がはじまりました。
やがて記者団の前に現れた候は「アイ・ム・マルコニ」と愛嬌たっぷり。「日本はなかなか立派なお国です。文化その他すべて世界の最前文明国です。ことに宮城(皇居)の荘厳さには胸をうたれました・・・」と印象談は結構づくめだ。はなしが無電のことにふれると「日本のラヂオは安く聴けますか」と真剣になって質問する。「もちろん安くて全く大衆化しています」と答えると、「それはいい!」とわが意を得たようにほほ笑む。 ("日本料理と畳にあぐらの喜び", 『読売新聞』, 1933.11.17, p7)
実はねえ、ミスター大倉が今晩の会はタタミの上に座るんだとおっしゃるんで、私も初めての経験ですから、せいぜい穴のない靴下をはきましたよ。ホラ。ハハハハ。」 と黒の靴下を手でたたいて見せながら、初めてゆったりした気持ちで入京の夜を語り出した。「東京がグングン成長していく近代的都市だということはどこでも聞かされましたが、いまちょっと見て来ただけでも、すっかり欧米化された多忙な都市という印象を深くしました。」   ("渦巻く歓迎の中を無電王帝都入り 天機奉伺、宮邸伺候", 『東京朝日新聞』, 1933.11.17, 朝p11)
 
1933年 紅葉館
 19:00より、大倉喜七郎総帥が主催する純日本式による歓迎会が催されました。場所は芝の高級料亭として知られる紅葉館です(戦災で焼けて、現在は東京タワーが建っています)。前逓信大臣だった三土忠造鉄道大臣や長岡半太郎博士ら各方面の関係者97名がこの歓迎会に招待されています。
 大倉総帥はマルコーニ夫妻をもてなすために新橋より特Aクラスの"綺麗どころ"を集めたそうです。マルコーニ夫妻は人生初体験の畳の部屋で日本料理と日本酒を振る舞われ、新橋芸者の長唄「土蜘蛛」、(日・伊)旗手踊り、紅葉踊りを楽しみました(左図:この写真では切れていますが、マルコーニ氏の手前隣には大倉総帥が座っています)。夫妻はその踊りの仕草について、大倉総裁やアウイッチ伊国大使に何度も質問しながら熱心に見入っていました。
 はじめてあぐらを組み、不器用ながらも箸を使ってテンプラなどの日本料理に舌鼓を打たれましたが、鼻にツーンとくるワサビの刺激だけは苦手だったそうです(なお箸の使い方は秩父丸での食事で練習されたそうです)。21:30に歓迎会を終わり、帝国ホテルに戻ったのは22時でした。
 
 マルコーニ氏は初日の出来事を次のように語っています。
さて東京についた。「これが東京なのか。本当にこれが東京なのか」 ― 明朗色の高層建築街 ― 「これを日本と思え」と無理じいにされても「いや日本はこれではない」と反発する用意がすでに余(私)の胸に出来上がっていたから(にわかには受け入れられなかったの)だ。
 大倉男爵に伴われて余(私)は宮中に参内し、秩父宮邸にも御挨拶に伺候し、感激のさめきらぬ間に余(私)はあわただしく、その夜の招宴を促された。紅葉館で開かれる大倉男の晩餐会である。タタミというカーペットの上に靴をぬいで座るのだそうで、貴紳淑女の前で大っぴらに靴下をさらけ出すのは生まれてはじめてである。靴下の孔というものにまで大きな関心を払わねば日本生活は出来るものでないと余(私)はこの時痛感した。
 箸をもって食事をすることは一種の芸術である。箸の扱い方は短時日では決して習得出来るものではない。しかしこの箸の巧みな使駆法を見ている間に、余(私)ははたと膝をうって珍奇な大発見をよろこんだ。細密な工芸品の発達している国は世界では何といっても日本と支那である。日本人と支那人とが箸を使っている。して見ると箸と工芸品との関係は、そのいづれが主客であるにしろ確かに一つの真理ではないか ― というのであった。 ("マルコニ候の日本印象談(中)", 『大阪毎日新聞』, 1933.11.24, 朝p11)
 
 1933年11月17日(金曜)
 帝国ホテルで日本最初の一夜を明かしたマルコーニ氏は(旅の疲れで起きられない夫人をホテルに残し)、10:30より大倉商事の原秘書の案内で明治神宮を参拝しました。その様子を報知新聞と読売新聞から引用します。
1933年 マルコーニ 明治神宮参拝
午前十一時、大倉組原秘書の案内で第一番に明治神宮に参拝した。金髪の手入れもよく、きちんとしたモーニング姿だ。社務所前に自動車を捨てた侯は有馬宮司と丁重な挨拶をかわし、手水をとって拝殿へ進むあたり、異国の人とも思えぬ。鬱蒼(うっそう)たる老杉古木の参道を侯はいかにも森厳の気に打たれた如く感慨深げに一歩々々と玉砂利を踏みしめる。直会(ならい)殿で山本主典の修祓(しゅうばつ)を受け、中門外石段上に至り、うやうやしく玉串を捧げ、頭をたれてしばし黙祷。信仰厚き科学の父、マ侯のゆかしさに主典以下別所いづれも襟を正した。
 参拝を終って侯は「神宮の荘厳さに打たれましたが、多数の参拝者を見て日本は神の国だという意味がよくわかりました。」と語った。  ("「科学の父」しばし神苑にぬかづく", 『報知新聞』, 1933.11.18, 夕p2)
 
心よい朝の秋陽が神域の紅葉に映えて目覚むるばかり。候ははじめて拝するその神々しさに心打たれ、しばし足を止めて白木の大鳥居を珍しそうに拝していたが、やがて玉砂利を踏んで拝殿に進み深くぬかずいた。神秘の尊厳は科学の候の胸を強く打ったのであろう。しばしは頭も上げ得ず沁々(しみじみ)と拝んだのち、山本主典の案内でわが国の心をしのぶ奉納の菊花を愛でた・・・(略)・・・』 ("紅葉映ゆる神宮参拝 入京第二日の無電王", 『読売新聞』, 1933.11.18, 夕p2)
 
 マルコーニ氏の明治神宮での感想を大阪毎日新聞が伝えています。
第二日目、明治聖帝の御威徳を偲び奉るために神宮に詣でた余(私)はその清浄幽邃(ゆうすい)の神苑に一歩を入れた時に、ひしひしと身にせまる大圧力を感じた。この形容はいかなる大文豪の筆をかりてもその一片をも描写出来ぬものであると信じている。
 余(私)はこの神宮において、黒い制服をまとい、茶褐のゲートルをまいた大学生が、数名の陸軍将校の指図によって整々と粛々と砂利道をふんで参詣する情景を目撃した。そして日本の大学生が如何なる精神的鍛練をなされつつあるかを推察した。故国イタリアにおいても青年、大学生の訓練は真に猛烈で果敢である。しかしこれと彼を対比して余(私)は非常に学ぶことがあった。イタリア人の愛国観念は「祖国のために」という句に基礎を置くに対し、日本人は「君(=天皇)のために」というにつきる。この世界無比なる観念が日本を今日のごとく世界最強の国にしたのであると信ずる。 ("マルコニ候の日本印象談(中)", 『大阪毎日新聞』, 1933.11.24, 朝p11)
 
 そして乃木坂のローマ法王庁支庁をはじめ、宮内省、陸海軍、鉄道の各大臣官邸に立寄って来朝の挨拶を述べました。マルコーニ氏は12:15に一旦ホテルに戻り、部屋で待機していた夫人を伴って再び出発したのが12:45です。
1933年 マルコーニ 勲章
 マルコーニ夫妻はアウイッチ大使とともに、13:00よりの重光外務次官が主催する歓迎昼食会に出席し、大橋逓信次官、大倉総帥、渡辺日仏協会長、元外交官の林権助氏、前駐イタリア大使の松田道一氏らと歓談しました。
 そのあと14:30に、夫妻とアウイッチ大使は南逓信大臣を訪ねました。天皇陛下よりマルコーニ氏への勲一等旭日大綬章(Grand Cordon of the Order of the Rising Sun)贈与の旨お沙汰があり、逓信大臣室でこれを拝受するためです。左図がその伝達式で、牧野逓信次官、大橋逓信次官、上ノ畑文書課長が列席しました。
マルコーニ候はさすがに晴れの光栄に満面の笑と興奮を抑え切れず、繰り返し、繰り返し感激の口調をもって謝辞を述べ終わって、午後三時、嬉し気に辞去した。 』 ("輝く勲一等  南逓相から伝達される", 『京都日出新聞』, 1933.11.18, 朝p3)
 
 また、マルコーニ氏に名誉会員になっていただくことを決めた電気学会は、16:00から帝国ホテルでマルコーニ氏を迎えて、名誉会員推戴式を行いました。過去には発明王エジソンも日本の電気学会の名誉会員に選ばれています。
 
マルコーニ宿泊マップ
 ところでマルコーニ夫人は夜の銀座の街を散歩してみたかったそうですが、あまりにも多い歓迎プログラムで叶いませんでした。それを知った大倉商事の大倉彦一郎夫人と高橋是彰夫人が、17:00に帝国ホテルのマルコーニ夫人を訪ねて、銀座の三越百貨店でショッピングしようと誘いました。マルコーニ夫人はこの申し出に大喜びでした。
 18:30から予定されている官民合同歓迎会はマルコーニ氏が天皇陛下より授かった勲一等勲章を燕尾服の胸に付けて出席するオフィシャル行事です。夫人は大急ぎでホテルに戻って薄ピンク色のイブニング・ドレスに着替え、帝国ホテルのすぐ近くにある東京会館へ駆けつけました。
 そのとき東京朝日新聞の記者のインタビューを受けた夫人は次のように語っています。
東京はどんな都かと幾度も心に描いて参りました。けれど、どれもこれもみんな私の想像とは違っておりました。さき程、少しばかりの暇を見つけて町へ出かけましたが、何という美しさの交錯でしょうか。「夢の国」ほんとうにそう思います。一番心をひかれますのは娘さん達のキモノの美、そして履物です。さっそくデパートで私のキモノと、それから私の可愛い今年三つの娘、エレットラに美しいキモノと履物を求めました。嬢やにこの着物を着せてもう一度この夢の国へ・・・これが本当の私の念願ですの。 ("夢の国・日本 無電王夫人の感想", 『東京朝日新聞』, 1933.11.18, 朝p11)
 
 そして東京会館二階宴会場には官民関係者約160名が集まり盛大に合同歓迎会が催されました。三曲合奏「都の春」(山室千代子ほか)や舞踏「越後獅子」(藤原静枝)などの余興のあと、デザート・タイムになって、南逓信大臣の歓迎の辞とマルコーニ氏の英語による謝辞がある20:30-21:00には、東京放送局JOAK発で全国に中継しました。
先ず南逓相の挨拶後、満場の拍手に迎えられて無電王、燕尾服に同日下賜された勲章を胸間に輝かしながら約廿分(20分)にわたり臨時に取付けられたマイクを前にし英語で謝辞を述べ、外務省加瀬事務官が通訳し、大阪帝大の長岡総長の挨拶があって盛会裡に九時四十分散会した。  ("無電王・カブキ見物", 『国民新聞』, 1933.11.18)
 
 下図の向かって右よりアウイッチ大使、大倉総帥夫人、立って挨拶するマルコーニ氏、陸軍次官代理の林中将、そして一番左側が大倉総帥です。席順からも大倉総帥夫妻が民間人ながら破格の扱いだったようですね。
 さていよいよ、謝辞の時間です。ラジオを通じてマルコーニ氏の生の声が日本中の茶の間に届きました。我国で "無電王マルコーニ" の知名度と人気が高かったのは、こういった事も影響しているのでしょうね。マルコーニ氏の挨拶を一部だけ紹介しておきます。
1933年 マルコーニ 官民合同歓迎会
日出づる御国へ参りたいとの多年の宿望が果たされて、今夕各位と歓びを共にし得るということは、妻ならびに自分にとり欣快(きんかい)の次第であるということは申すまでもないことでございます。我々の夢は実現されましたが、その出現はまた夢かと思うばかりでございます。
 書物および御国の著名なる方々との御交際により、御国に対し多少の知識を持ったと思っておりましたが、今この大都会を一督(いちべつ)して、我々が日本について有していた知識の貧弱なることが解りました。我々は美しき御国の魅力により恍惚と致しております。ただただ我々の滞在の余りに短きことを遺憾と致します。官民各位の御歓待は我々旅行中一番感激に堪えぬことでございました。
 いたる所で受けました熱誠なる歓呼の声は、自然に発せられたる心の底よりの叫びであって、これを聞いて自分はここでは外国人と思われていないという様な愉快なる感じを致しました。この光栄に対しては何と御礼申し上げて宜しいか解らぬ程で、この席よりラヂオを通じ日本全国の皆様に対し深厚なる感謝の意を申し上げます。・・・(略)・・・
 伊太利人(イタリア人)としまして、自分達夫婦は日本が我が伊太利(イタリア)と多くの類似点を有するのを見まして、まことに喜ばしさを禁じ得ないということを申しあげたいのであります。私共は御国に参りますには、たいへん長い途を来たのでありまして、日本および伊太利(イタリア)がかくも遠く離れていることは実に遺憾の事でありますが、(工業発展による)旅行のスピードアップは距離の隔絶を克服したのであります。
 私は日本および伊太利(イタリア)国民の間の友誼および敬愛の念慮が、日本人の伊太利(イタリア)訪問、および伊太利人(イタリア人)の日本訪問によりまして、更に堅く結ばれることを祈ってやまない次第であります。 』 (稲波季雄, "マルコーニ侯の来朝", 『逓信境界雑誌』, 1933.12, 逓信協会, p4)
 次いで長岡半太郎博士が挨拶に立ち、マルコーニ氏のことを「ミケランジェロ、ガリレオと並ぶイタリーの巨人」と称えました。
 
 NE式写真電送装置の開発者であり、東京電機大学の初代学長である丹羽保次郎(にわやすじろう)氏がこの歓迎会より20年ほど後に、次のように語っています。
昭和八年十一月十七日、電光も映い東京会館の大宴会場には電気通信に関係ある学会、官界、民間の多くの名士が朝野の有力者と共に礼装も美々しく集まっていた。世界周遊の途次、日本に立ち寄ったマルコーニの歓迎会が開かれたのである。前日受けた勲一等の大綬を美しく肩にした燕尾服のマルコーニは夫人と共に出席され、デザートにおけるマルコーニの挨拶は、会場より中継されてラジオの父の声を聞き得るというので全国のラジオファンの人気を呼んだのであった。
 私はその宴会に列してマルコーニの挨拶を親しく聴いたが、(その挨拶の言葉については)今何の印象も残っていない。それより開宴前にあの背の高い穏和な面影で、なれなれしい語調で憧れの日本に来た悦びと、日本の美しさとを語った対話に、人としての彼の懐かしさを感じたのである。 (丹羽保次郎, "マルコーニ", 『電気をひらいた人々:電聖物語による電気の歴史』, 1952, 電気学園出版部, p2)
 
1933年 歌舞伎鑑賞 マルコーニ
 さて21時40分に散会後、マルコーニご夫妻はアウイッチ大使らと歌舞伎座に向いました。左図が楽屋での記念撮影です。中央がマルコーニ夫人で、右端にマルコーニ氏が写っています。後方の向かって左から二番目がアウイッチ大使ではないでしょうか。
それより直ちに歌舞伎座に至り折から開演中の「雪暮夜入谷畦道(ゆきのゆうべいりやのあぜみち)」を見物。初めてのカブキに熱心に見惚れたが、幕あいに楽屋を訪問。片岡直次郎に扮した(市川)羽左衛門、三千歳の(尾上)梅幸、萬歳鶴太夫に扮した(尾上)菊五郎丈などと握手を交わした。夫人はさすがに女らしい観察で「不思議な位に美しいです。すべてが印象的に土産話になります。」と喜んでいた。 ("無電王・カブキ見物", 『国民新聞』, 1933.11.18)
 
なお候夫妻は大倉男の招待で九時五十分歌舞伎座に馳せ付け開演中の「直侍」から、大詰めの所作「乗合船」を見ず十一時廿分(23:20)帝国ホテルに引き上げた。 ("勲一等を胸に歓迎会へ", 『時事新報』, 1933.11.18, 朝p2)
 
 横浜の重工業の発展ぶりと東京で歌舞伎を見たマルコーニ氏は日本という国をどう捉えたらよいか分からなくなったといっています。
「三千歳」「乗合船」 ― これが生まれてはじめて見たカブキであった。「これが日本のカブキであるか。これが日本の劇場であるか。」余(私)は再び先入主にわずらわされて、(日本の)印象の目安がぐらぐらしてしまった。
 「日本はいずこにあるや」 ― 横浜入港に際して(沿岸部に林立する工場の煙突群から)得た第一印象、即ち重工業の盛観。「これこそ今日の日本なり」と即断して一時的に満足した余(私)も、一夜二夜と泊まり重なる間にますます濃厚なる日本の真実性の把握にあせりを感じだした。 ("マルコニ候の日本印象談(中)", 『大阪毎日新聞』, 1933.11.24, 朝p11)
 
 1933年11月18日(土曜)
 浅草雷門駅を朝10時発の東武電車で日光を観光する予定でしたが、夫人が日本の気候に少々体調を崩されたため、それを延期し、マルコーニ氏がホテルで各方面の重鎮と会談して一日を過ごしました。夜は予定通りイタリア大使館主催の歓迎晩餐会(帝国ホテル宴会場, 20:00-)が催され、アメリカ大使夫妻、中華民国公使、ルーマニア代理公使らも招待されました。
 
 当初の計画では16-18日の3日間が東京(18日は日光)で、19日の朝10:00に自動車で東京を出て、横浜と鎌倉を観光したあと、箱根の富士屋ホテルに宿泊。20日は箱根を観光したその足で十国峠へ向かい、富士山を眺めたあと、沼津駅に抜けて、そこから特急列車「富士」で京都へ向うつもりでした。
 そして20日夜に京都入し、21日に京都を観光後、奈良へ。22日は奈良・大阪観光したあと、夜に神戸港から船で遼東半島の大連に渡って、上海へ移動しイタリアに帰る案でした。ところが日本に来てみると「ぜひ朝鮮にも・・・」「ぜひ満州国にも・・・」との強いリクエストがあり、23日に関釜連絡船で朝鮮に渡り、24日に京城(ソウル)観光、25日に満州国奉天を訪ね、26日に大連へ向かうことにしました。
 
 しかし日光観光を明日19日にずらしたため、そのしわ寄せで箱根の宿泊は消えました。夫妻をもてなそうと準備していた箱根の富士屋ホテルの関係者はがっかりしたでしょうね。20日の朝に東京を自動車で出発して箱根の紅葉を車窓から愛でたあと、その日の内に十国峠を抜けて沼津駅から特急列車に乗り関西方面へ向うことにしました。
 
 1933年11月19日(日曜)
マルコーニ来日 上智大学
 今日は来日して最初の日曜日です。マルコーニ夫妻は日光観光をさらに延期して、この日の午前11時30分にアウイッチ大使、大倉組の原秘書とともに上智大学のキューエンブルグ院長を訪ね、隣接するイエズス会修院聖堂で日曜礼拝に参加しました。
 左図中央がマルコーニ夫妻(白っぽいコートがマルコーニ氏)です。マルコーニ夫人に向かって左側で手を前に組んでいるのがアウイッチ大使です。またマルコーニ氏に向かってその右が上智大学を設立されたヘルマン・ホフマン学長で、その右側に並んでいるのがカトリック中央出版部の田口師です。同行している大倉組の原秘書は一番左端の方ではないでしょうか?なお左から二番目でアウイッチ大使に話し掛けている長身の外国人らしき方と一番右端の方は私には分かりません。
 
  日曜礼拝の後、いったん帝国ホテルに戻って昼食をとりました。14:00よりマルコーニ夫妻はアウイッチ大使、ならびに大倉商事の高橋氏と自動車の車窓から横浜の街並みを楽しみながら、湘南方面へドライブに出かけました。まず葉山(神奈川県三浦半島)の秋景色を愛で、そのあと、一色海岸から風光明媚な逗子海岸を北上して鎌倉へ向かいました。
 
 一行は鶴岡八幡宮(下図[左])に参拝し、そして鎌倉大仏が鎮座する高徳院へ向かいました。
1933年 鶴岡八幡宮
1933年 マルコーニ 鎌倉観光
 高徳院の大仏様の前で撮った写真(左図[右])ですが、向って左からマルコーニ氏、大倉商事の高橋氏、マルコーニ夫人、そして右側に少し離れてアウイッチ大使が立っています。

 マルコーニ夫妻が語った、はじめて接した大仏様の感想を、東京朝日新聞や報知新聞は次のように伝えています。
(マルコーニ)候「なかなか立派だ」、夫人「まあ美男子のブッダですわね ("大佛様は美男にごわす", 『東京朝日新聞』, 1933.11.20, 朝p11)
 
マルコーニ夫人は「おお、これは石ですか」などなど驚きの眼を見張るなど異国風景に喜び・・・(略)・・・ 』 ("マルコーニ候鎌倉大仏へ", 『報知新聞』, 1933.11.20, p2)
 
1933年 鎌倉海浜ホテル
 そのあと南の由比ガ浜に向かい、モダンで格式高い名門「鎌倉海浜ホテル」(下図)で休憩しました。
【参考】このホテルは与謝野晶子、北原白秋、夏目漱石、芥川龍之介、高浜虚子、三好達治、堀辰雄ら、多くの文学者に愛されたことでも有名。昭和20年12月の失火のために焼失し、以後再建されることはありませんでした。
 
 さて帝国ホテルに戻ったのは18時過ぎで、この日も東京に一泊しました。マルコーニ夫妻の歓迎を準備していた京都・奈良・大阪の関係者よりスケジュール変更を心配する電報が次々に舞い込みはじめていました。すでに当初の予定より東京で2泊も超過しており、スケジュールの再考が必要でした。
 
 関係者で相談の結果、この日の夜遅くになって、マルコーニ氏は大阪府知事に対し、"大変申し訳ないが大阪には下車せず、通過だけにさせていただきたい"旨の電報を打ちました。おそらく京都から奈良に立ち寄ったあと、再び京都駅に戻って東海道・山陽線の寝台特急に乗る(東京→箱根→十国峠→沼津→京都→奈良→京都→下関)ことにしたのではないでしょうか?
 それにしても、まさか大阪を素通りするなんて、考えてもみなかった大阪府知事はびっくりしたでしょう。
 
 1933年11月20日(月曜)
1933年 マルコーニの訪日
 午前9時半、自動車で帝国ホテルを出発。浅草雷門駅を午前10時に発車する東武鉄道の列車で日光に向いました。12時半に下今市駅で下車して自動車に乗り換え、杉並木をドライブしながら日光金谷ホテルで昼食をとりました。
 そのあと東照宮や中禅寺湖をめぐり、全山紅葉に萌える晩秋の日光の景色を心ゆくばかり賞で、楽しまれましたが、この観光にはマルコーニ社の日本代理店大倉商事の高橋是彰夫妻らも同行しました(左図:向かって左より大倉商事取締役の石田直吉氏、マルコーニ夫妻、アウイッチ・イタリア大使、そして右端が大蔵商事の高橋夫妻)。
(マルコーニ)候、今回の来遊を迎えて、社命により私共夫婦の者が接待係として各所を案内するに至ったことは前に述べた通りである。幸いに侯爵夫妻におかれても頗る満足に思われた様子でその滞在中、私共は殆んど家族的に遇せられ朝夕を共にする迄の親しきをもってお相手を勤めた次第である。(高橋是彰, "マルコニー候を語る", 『ワット』, 1934.1, ワット社, p16)
 
 東京最後の日ということで、マルコーニ氏が突然、同行していた高橋氏の父上に挨拶したいと願われたため、午後2時ごろ高橋氏は日光から多忙の父に電話してスケジュールを調整してもらいました。
【参考】大倉商事の 高橋是彰氏はマルコーニ社(英国)の元社員です。また是彰氏の父・高橋是清氏は第20代内閣総理大臣も務められたことがある超大物政治家で、このときは大蔵大臣でした。
 そして日光観光を終えて、18:28に浅草雷門駅に到着すると、すぐに自動車で赤坂にある父の私邸へ急行しました。
蔵相は通訳ぬきで(息子)是彰氏が侯の会社で厄介になったお礼をいい、侯はまた「お目にかかれて非常にうれしい」こと、日光(観光)でひどく感心したことを打ちとけて話し、骨董の話までとんで二十分くらいの短時間だったが朗らかな会見を終わり、侯は七時四十分頃ホテルに引きあげた。 ("朗らかに会見 無電王と高橋蔵相", 『東京朝日新聞』, 1933.11.21, 朝p11)
 
 ところで大阪府知事は昨夜遅くにマルコーニ氏から「大阪を素通りさせていただきたく」との電報を受けたため、朝から関係者へ歓迎会中止の連絡に追われていました。何分あさって11月22日17時から、淀屋橋にある西洋館「大阪倶楽部」で大阪府、大阪市、商工会議所、大阪逓信局、放送協会の関係者により盛大なる歓迎会を催す予定でしたので、来阪中止の知らせに大阪の関係者達のショックは相当なものだったでしょう。
 大阪時事新報より引用します。
来朝中の無電王マルコーニ候夫妻の関西巡遊を控えて関係各方面では歓迎準備に大わらわであるが、大阪府知事より同氏に宛てた問合せに対し、廿日朝「身体の都合上、大阪通過の際は遺憾ながら停り難い」旨返電があり、関係者は深く失望している。 』 ("無電の父"は大阪素通り:身体の調子が悪く予定変更に関係者大失望, 大阪時事新報, 1933.11.21, 夕P2)
 
 マルコーニ夫妻が日光から帝国ホテルに戻ると、「わが大阪にも、お起こし下さい・・・」と、関西観光のスケジュールの再考を懇願する電報が山のように届いていました。明日の朝、自動車で東京を出発し車中から箱根を観光したあと、十国峠で富士山などの景色を眺めて沼津に抜けて、沼津駅15:23発の特急「富士」で京都へ向う予定でした。しかしたくさんの電報を前に、大阪を素通りするわけにはいかないことを悟ったマルコーニ氏は、再びスケジュールを調整しました。日光で紅葉の美しさに魅了された夫人は箱根観光を希望されていましたが、関西の過密スケジュールをこなすために体力を温存させる意味も含めて、それを諦めることにしました。
日光の紅葉に美しいニッポンの印象をこと更に深くしたマルコーニ候夫人は今一度箱根の秋をたぐりたいと希望したが、関西方面関係者からの待ちわびた歓迎の電報がひっきりなしに舞い込むので夫人のこの念願も叶わなかった訳。 ("名残惜しみつつ無電王退京 夫人の箱根行の願い達せず 「又来ます」と握手", 『東京朝日新聞』, 1933.11.22, 夕p2)
【参考】 特急「富士」はヨーロッパ・アジア連絡ルート(東京 - 下関 -[関釜連絡船]- 釜山 -[朝鮮縦貫鉄道]-[満州鉄道]-[シベリア鉄道]-欧州各都市)の一部をなす、日本が誇る特急列車です。まだ丹那トンネルの開業前で(小田原、熱海を通らない)御殿場経由でした。停車駅とその時刻は次の通りです。東京15:00発→横浜(15:25着・15:28発)→国府津(14:09着・14:14発)→沼津(15:18着・15:23発)→静岡(16:10着・16:13発)→浜松(17:19着・17:24発)→豊橋(17:58)→名古屋(18:57着・19:02発)→岐阜(19:30)→大垣(19:45)→米原(20:19着・20:24発)→京都21:24着。
 
 1933年11月21日(火曜)
 夫妻は自動車をキャンセルし、東京駅13:00始発の特急「富士」に乗車しました。またもや突然のスケジュール変更でしたが、大倉総帥夫妻とイタリア大使館員一同をはじめとする関係者が東京駅のホームに駆けつけて盛大に見送りました。
1933年 東京駅
 この時、偶然目にした光景をマルコーニ氏は次のように語っています。
東京駅のプラットホームで余(私)は非常に重大な情景を目撃した。手に手に細長い旗をもった多数の群衆が立錐の余地もなく立ちならんで、元気のよい声で簡単なメロヂーではあったが非常に荘重な歌を歌っているのであった。余(私)はそれが何であるか最初はただ奇異の感を受けたが、しかし妙に胸にこたえるので、側の人に尋ねた。「これは故郷の人々が入営兵士を送りに来ているのである」とその人は眉ひとつ動かさずに答えた。余(私)はまたその答えをした人の表情にならって、至極平然と何気なく装ったが、心の底に燃えたぎって来る赤い炎の如き感激を持ち扱いかねてしまった。 ("マルコニ候の日本印象談(下)", 『大阪毎日新聞』, 1933.11.25, 朝p11)
 
 マルコーニ夫妻に同行するのは、一緒に来日した世話役のデ・マルコ氏他2名と、大倉商事の高橋夫妻、原忠道氏の計6名です。特急「富士」は1両の荷物車と6両の客車という編成で、貸切った6号車(展望車)とは別に1等室を3つ確保し、アメリカや東京で買ったりプレゼントされた、山のような御土産と花束、それにトランクを入れました。さすが世界一周ともなると、その移動には大変な人手が掛かるようです。東京に二泊延泊しましたが、箱根泊を断念し、全体としては一日遅れでした。
 一方、マルコーニ夫妻が自動車で十国峠を抜けて、沼津駅から特急「富士」に乗ると聞いていたJOAKの苫米地氏ら一部の関係者は、沼津駅に先回りするため東京駅を午前の列車で出発していました。夫妻の自動車を駅前で出迎えて、さらにホームで御見送りするつもりだったのです。ところが実際には夫妻は東京駅から乗ってこられた訳ですが、沼津駅には5分間(15:18-15:23)停車しましたので、夫妻は一旦ホームに下りて、見送りに集まった人たちにお別れの挨拶をされたのではないでしょうか。
 
 この日は大変天気が良く、列車の窓から雄大で美しい富士山を存分に眺めることができたようです。沼津の次の静岡駅には3分間の停車(16:10-16:13)でしたが、マルコーニ氏が以下のように語ったと静岡民友新聞が報じています。
無造作に(静岡駅の)プラットホームに降り立った長身の無電王は茶色のソフトに同色のオーバーコートに身を包み静かに記者に語る。
今日、私を最も喜ばせたことは、よく空が晴渡っていたことです。そのためにニッポンのシンボル、フジヤマを充分に眺めることが出来ました。本当に、本当に、美しいですネ。これから古典の都、京都に行って種々美しい日本の風景を見る予定です。 ("フジヤマは美しい 静岡駅のホームに降り立った無電王マルコニ侯朗らかに語る",『 静岡民友新聞』, 1933.11.22, p8)
 
 名古屋駅のホームでは名古屋放送局JOCKの中林賢吾常務理事ら数名と、名古屋新聞の記者がマルコーニ夫妻を待ち構えていました。18:57に特急「富士」が到着し、ホームに降りてきた夫妻は中林常務より「七宝」の手土産を贈呈され大喜びでした。また名古屋新聞の記者には次のように語り、19:02に出発しました。
『・・・(略)・・・また「名古屋は中部日本の第一の都市だそうですが、このたび、お寄りできないのが残念です。」と遺憾そうであった。 ("名古屋に寄れぬのがまことに残念です", 『名古屋新聞』, 1933.11.22, 朝p7)
 名古屋駅を出ると一行は食堂車でディナーでした。そのあと米原駅を過ぎた20:30頃に、この6号車(展望車)に訪ねてきたのが、出張帰りの長岡半太郎阪大総長でした。
1933年 京都ホテル
 長岡総長は大きなソファーにマルコーニ氏と並んで座り、京都駅までのほんのひと時を楽しく雑談して過ごしました。
 21:24、特急「富士」が京都駅に到着しました。ホームで待ち構えていた神戸駐在のガスコ総領事、京都市役所の西田観光課長らがマルコーニ夫妻を出迎えて、ただちに川原町御池の京都ホテル(左図)に投宿しました。
 さっそくホテルを訪ねた京都日出新聞の記者に対し、マルコーニ氏は次のように語っています。
ホテルに訪ねれば非常な上機嫌で 「とうとう憧れの京都まで来てしまいました。何分時間が短いのでゆっくり落ち着く暇もありませんが、静かな京の空気を呼吸するだけで満足です。」 と語り、疲れているからと、直ちにベッドに入った。 』 ("マルコーニ候夫妻 晴やかに昨夜入洛", 『京都日出新聞』, 1933.11.22, 朝p3)
 
 1933年11月22日(水曜)
 朝、京都ホテルを訪ねた京都日出新聞社と染織日出新聞社より、マルコーニ氏へ黒紋付羽織が贈呈されました。アンテナ線を外輪とし、富士山と桜をあしらった紋章にマルコーニ氏は大喜びだったそうです。
廿二日は早朝起床ホテル屋上から京都市街を展望して静かな京の空気を呼吸し、千年の古都の奥床しさを賛美した。かくて午前九時半、ホテル玄関で本紙と染織日出新聞から贈呈する内田商店制作にかかる黒紋付羽織を伊藤工場主令嬢伊藤智子さん(一九)の手によって贈られたが、マルコーニ侯は大喜びで智子さんの手をかりながら、早々腕を通してカメラの前に立つなど、頗る上機嫌であった。 ("入洛の無電王夫妻 京の風光を嘆賞", 『京都日出新聞』, 1933.11.22, 夕p1)
目録(英訳も各一部宛)を添え贈呈した所、候は満面に喜色を湛えながら「武士道の国日本、キモノのミヤコ京都で日本臣民の礼装でありサムライ精神を象徴した羽織を京都における有力な指導機関であり報道機関である貴社から贈られたことに光栄を感じます。貴紙を通じ京都市民に敬意を表します。」と心から感謝の意を表し、・・・(略)・・・ 』 ("無電の父へ サムライのキモノ 黒紋付を贈呈", 『染織日出新聞』, 1933.11.24, 朝p1)
 
 この日の午前は二条離宮を拝観し、金閣寺から嵐山の紅葉観光の予定でしたが、それを変更して明治天皇・皇后両陛下の伏見桃山御陵(下図[左])と東陵へ参拝することとし、10:00に京都ホテルを出ました。御陵への方角が金閣寺や嵐山方面とは真逆になったため、嵐山の紅葉見学は中止です。
 桃山御陵・東陵を参拝したあと、夫妻一行を乗せた自動車は伏見の醍醐寺から山科、追分を抜けて滋賀県の大津市に出て、琵琶湖の湖畔を北へドライブしました。
1933年 伏見桃山御陵 日吉神社
1933年 滋賀県坂本を訪ねたマルコーニ夫妻
 そして比叡山(延暦寺側)の麓、滋賀郡坂本村にある日吉大社(全国の日吉神社・日枝神社・山王神社の総本山)で盛りの紅葉を賞でました。マルコーニ氏は特に日吉三橋付近の景観をマルコーニ氏は気に入り、ここでの記念撮影を自分から求められたそうです。
 滋賀県民のみなさん!まったくの予定外でしたが、夫妻は間違いなく滋賀県も訪ねていますよ。左図[右]は滋賀県坂本で車を降りたところのマルコーニ夫妻です(滋賀県坂本の紅葉を探るマ候夫妻, 神戸新聞, 1933.11.23, 朝p2)
 13:00にいったん京都ホテルへ戻り昼食にしました。全日本無線技士協会の大関源蔵代表が、マルコーニ氏を訪ね、日本刀を贈呈しています。午後は清水寺から円山公園、知恩院を見物の上、平安神宮に参拝し、禅寺境内の野村別邸(碧雲荘)で日本茶の供応を受けた後、土産物製造工場を見学して、京都駅を16:30発の特別列車で奈良に向かう予定でした。
1933年 マルコーニ 京都観光
 しかし旅の疲れが出たのでしょうか?清水寺と平安神宮の参拝をキャンセルし、16:00まで部屋で休憩したあと、円山公園、知恩院から野村別邸(碧雲荘)に向かい、庭園から暮色迫る東山連峰の眺めと、池の緋鯉(ひごい)たちが夫妻のまいた切り麩(ふ)に集まってくる動きを楽しみました(左図:野村別邸)。
 マルコーニ氏は横浜港に到着したときから、日本の無線局をぜひ見学したいとリクエストしていました。残念ながら日程の都合上、無線局の見学は実現しませんでしたが、この日の16:55に京都放送局JOOKを訪ね、廣江恭造常務と伊藤支所長の案内で局内の各部屋を見学することができました。
 そして御土産の木目込(きめこみ)人形を大切に抱えてホテルに戻り、出発の身支度を済ませると、京都駅18:40発の奈良電気鉄道(現:近鉄京都線)の特別列車に乗りました。奈良には19:25に到着し、奈良ホテルに投宿しました。
 
 ところでこの日、大阪朝日新聞がマルコーニ氏の来阪復活を報じています(注:23日付けの夕刊は22日夕方の発行です)
『・・・(略)・・・大阪府からの歓迎招待に対し、大阪には下車せずそのまま通過する旨の返電があったが、その後、放送協会関西支部その他から交渉した結果、二十三日奈良遊覧ののち午後三時十五分、上六着大軌電車で来阪・・・(略)・・・』 ("無電王あす来阪", 『大阪朝日新聞』, 1933.7.23, 夕p2)
 さらに大阪毎日新聞も来阪復活を伝えました。
マルコニ侯夫妻は廿三日、午後二時卅八分、奈良から大軌上六(大阪電気軌道の上本町六丁目駅)着で、いったん素通りときめた大阪を訪れ、まず大阪城天守閣にのぼって工業都市大阪の全貌を眺め・・・(略)・・・』 ("大阪へ立寄る マルコーニ侯夫妻", 『大阪毎日新聞』, 1933.11.23, 朝p5)
 
 1933年11月23日(木曜)
 静かな古都、奈良で一夜を明かしたマルコーニ夫妻ら一行は、10:00より統計学者の柳沢保恵伯、宮下県通訳官、久米県知事代理、石原奈良市長、坂田奈良市公園課長、剣持前奈良ホテル支配人の案内で奈良散策に出かけました。まず奈良ホテルから自動車で東へ進み、春日大社を参拝しました。
1933年 春日神社
 そのときのマルコーニ氏の感想を大阪毎日新聞が伝えています。
(マルコーニ氏は春日大社の回廊にて)日本にくる前に神道に関する本を読んでくればよかったと思う。日本の神社はいずれも幽邃絶塵(ゆうすいぜつじん)で非常に森厳である。鳥居をくぐった時から心身が洗われる気がする。信仰には清浄無垢の心境が悟入の第一である。その点から見ると日本の神社の構造は非常に当を得ている。カトリック教もこの点に留意しているが、まだまだあくどい感じが抜けきらぬ。この黒緑の森と朱塗りの回廊の調色などいかにも美しいではないか」と賛美する。 ("産業大阪をお天主から俯瞰 丹塗の回廊に嘆美を放って奈良で 「洗心」を語る", 『大阪毎日新聞』, 1933.11.24, 夕p2)
 
 春日大社回廊内の風宮(かぜのみや)神社の左側には、カゴノキを母樹として、ツバキ、ナンテン、ニワトコ、フジ、カエデ、サクラが風神の威力にて着生したと伝えられ、信仰の対象となっている七種寄木(なないろやどりぎ)があり、マルコーニ氏はこれに興味を示しました。
 そのあと若草山に沿って東大寺二月堂まで北上し、そこから大仏殿へ行く途中にある大釣鐘(東大寺の除夜の鐘として知られる大梵鐘)での、無電王らしいエピソードを引用します。
春日境内、一本の木に藤、桜、南天など七種がやどっているあの寄木を見て「ホー、共同の象徴(シンボル・オブ・コーポレーション)だね」その敏(さと)い一句、学者であるばかりでなく有力な事業家である候の半面が伺われる。
 三笠山、二月堂そして大仏の釣鐘に来たとき誰かが力一杯ついてみせた。それをじーと見ていた候は首をふって「あんなに顔を真っ赤にして力を入れなくても宜しいのに」 「いやそれほど重いのですよ」 「そんなことはない。では私がやってみましょう」と自動車を下りた候は太い綱を軽く引張りはじめた。撞木の波はだんだん大きくなる。そしてゴーン。古都の空に流れる美しい余韻に微笑みながらじっと耳を傾けたマルコーニ候「つまりこれはラヂオの電波と同じ要領で、震動の波にうまくのせるとライト・ムーブメント(軽い動き)で十分ことたりるのです 』 ("鐘つき理論一席 ラヂオ自動車にお褒めの言葉", 『大阪朝日新聞』, 1933.11.24, 夕p2)
 
1933年 大仏殿
 そして東大寺大仏殿に着きました。
大仏殿では夫人の方が大喜び。薄暗い堂内で飴色の眼鏡を取り出して「大きなブロンズの仏様」と、前から後ろから眺めまわす。型どおりワンダフルの賛辞。 』 ("鐘つき理論一席 ラヂオ自動車にお褒めの言葉", 『大阪朝日新聞』, 1933.11.24, 夕p2)
大仏の大きさに驚嘆しながら記者を顧みて「あちら(鎌倉)でもそうだが昔にさかのぼれば、さかのぼるほど肝をつぶすような大きなものを作っていたようだ・・・」と感嘆また感嘆。
 大仏殿の後ろの柱抜けを大倉組の原秘書がやって見せると「原君、君はゴクラクへ行くよ」としゃれをとばして上機嫌。 ("産業大阪をお天主から俯瞰 丹塗の回廊に嘆美を放って奈良で「 洗心」を語る", 『大阪毎日新聞』, 1933.11.24, 夕p2)
【参考】柱ぬけ(柱くぐり)とは大仏殿の直径120cmの大柱に大仏様の鼻の穴と同じ大きさといわれる30cm x 37cmの角穴があり、これを床に伏せて腕や足を使って「ほふく前進」の様にしてくぐり抜けると無病息災の御利益があるといわれる。
 
 さらに奈良国立博物館と猿沢の池にも立ち寄ったあと、久米奈良県知事が待つ県立公会堂へ向かいました。
1933年 奈良観光 マルコーニ夫妻
 公会堂では県知事主催の歓迎茶話会が開かれました。そして公会堂前の広場でマルコーニ夫妻が「鹿寄せ」を楽しまれている様子(左図)とその声を、(11月17日に逓信省より許可がおりたばかりの)大阪放送局JOBK自慢の放送中継車(1933年型シボレー改造)で、全国の茶の間に届けることになっていました。当初は11:00から4分間の中継だけを予定していましたが、18日よりフィールドテストを重ねたところ、21日午前の試験が良好だったため、中継番組(23日)を12:05から12:30までに変更しました。
 この25分間の実況を担当した島浦精二アナウンサー(のちのJOBK局長)が、15年後(1948年)の放送部長時代に次のように振り返っています。
昭和八年十一月にマルコーニ侯が日本に来た時、奈良でやった放送があります。丁度マルコーニ侯がマイクの前に来るまで、私は盛んに奈良の風景描写や状況を逐次アナウンスして居って、今マルコーニ侯がマイクの前に来て会話がかわせたらよいと思った瞬間、うまくマルコーニ侯が来てくれて、放送が思うツボにはまった時、うれしかったね。 ("対談 放送談義", 『ラジオ・オーサカ』, 1948年8月号, 大阪放送文化協会, p4)
 
 マルコーニ氏はマイクの前に立ちラジオ聴取者におよそ3分間メッセージを贈り、それを西本文芸部長が通訳しました。全国中継は大成功でした。
公会堂の横で特に候の為に催した名物鹿寄せと、今を盛りと咲きほこる菊花壇を巡ったが、BKではこの斯界の大恩人の奈良清遊の半日をキャッチして広く全国フアンに伝ふべく新鋭の放送自動車を派し、公会堂広場に据え、松田理事長、西本文芸部長等出迎へ、午後零時五分から三十分迄実況を放送し、遂に候の挨拶まで入れて大成功であった。 ("古都の秋にビユチフルを連呼:奈良の無電王 放送車に好機嫌で挨拶", 『大阪時事新報』, 1933.11.24, 夕p2)
 
JOBKではかつて兵庫県西宮市の甲子園球場に臨時中継施設(500W)を設置して16km離れた大阪上本町スタジオ(天王寺区上本町9丁目、現:近鉄タクシー(株)本社)への無線中継した実績を持っていました。しかし今回は放送中継車の貧弱なアンテナと出力(50-100W, 周波数1500kHz)なので、奈良公園から生駒山(624m高)越しに大阪上本町スタジオまで(30km)中継するのは無理だったようで、奈良のどこかに受信所を仮設し、そこから有線回線で上本町スタジオへ送ったようです。
 
 放送のあと、公会堂の裏庭に停めていた放送中継車を見学したマルコーニ氏がこれを賞賛し、それがJOBKの誇りとなりました。
この放送はこの日初めて(本番)出動した移動放送車を通じて行われたが「ぜひそれを見たい」という候の希望で、木陰に隠した放送車に案内すると、ただ一人真っ先に車内へ飛び込む。さすが専門家である。送信機のメーターなどを撫で廻して「こいつは全くすばらしい(ベリーファイン・インディード)」 鶴のひと声。ラヂオ自動車にとっては誰から褒められたよりも嬉しかったろう。 』 ("鐘つき理論一席 ラヂオ自動車にお褒めの言葉", 『大阪朝日新聞』, 1933.11.24, 夕p2)
 そこでJOBKはこの中継車にマルコーニ氏の名前を付けたいと願い出たところ快諾され、「マルコーニ号」となりました。
無線界の権威として有名なるグリエルモ・マルコーニ侯来朝を期としてBKにおいては拾一月廿三日奈良公園においてマルコーニ侯歓迎「鹿寄せ」の状況を放送した。その際使用せる移動放送用自動車は電力五〇ないし一〇〇ワット、周波数一四〇〇、一四五〇、一四九〇キロサイクルの放送機を搭載せるもので、(マルコーニ)侯はBKの依頼により、これをマルコーニ号と命名した。 』 (日本放送協会編, "BKマルコーニ号 移動放送車", 『ラヂオ年鑑』 昭和9年版, 1934, 日本放送出版協会, p330)
 
 このあと昼食で奈良ホテルに戻った時だか、朝一番だったのかは分かりませんが、お隣の三重県鳥羽から"真珠王" 御木本幸吉氏が(たぶんアポなしで)ホテルに訪ねています。御木本幸吉氏の四女の夫、乙竹岩造東京教育大教授が昭和25年に次のように書かれています。
1933年 無電王と真珠王
私は真珠には深い興味を持っているものであり、貴君(御木本幸吉)の芳名は、よほど以前からうかがっていましたが、今日、何の幸か親しくお目にかかる好機を得、また目の当り、自ら摘出された真珠を拝見して、真に驚喜の至にたえない
 これは昭和八年の暮、無線電信の発明者マルコニーが、その夫人と共に日本に来朝し、幸吉と会見したときの言葉です。幸吉は当時(三重県の)鳥羽にいたのですが、マルコーニが奈良に来たのを聞くや生けた真珠貝をたずさえて奈良ホテルにおもむき、自らこれを開き、光輝さん然たる真珠を取り出し、夫妻に示しました。生きた貝の中から、きらめく真珠のはさみ出されるごとに、夫人は驚きの声をあげて喜びました(乙竹岩造, "世界の眞珠王・御木本幸吉 マルコーニ夫妻との会見", 『中学時代』, 1950.4, 旺文社, p19)
【参考1】" 真珠王"御木本氏は渋沢栄一氏に紹介状を書いてもらって、1927年(昭和2年)2月25日にニューヨーク郊外にある"発明王"エジソンの研究所と自宅を訪れています。
【参考2】 "無電王"マルコーニと真珠王の左写真ですが、マルコーニとの記念写真が欲しかった御木本氏は現地の写真館を雇い、もし自分が夫妻と一緒にホテルから出てきたら撮影してくれと依頼していました。出入り口が二箇所あったため二つの写真館と契約し、それぞれに待機させていたと、御木本氏自身が後の対談記事で語っています。中央でマルコーニ氏と握手をしつつ、体を正面に向けて撮っています。御木本氏がこれほどまでに「記念撮影」にこだわったのは、たぶんエジソンとの写真がなかったからでしょうか?
【参考3】御木本商店はこの年のシカゴ万博の日本館特別室に真珠で作った模型を出品しており、マルコーニ夫妻がその作品を見ていたかもしれません。
御木本商店は本館内左側中央に特別室を設け「ワシントン」の家「マウント、ヴァーノン」の真珠白金製模型を出陳し時価五十万弗(ドル)と宣伝したるため、世界第一を愛好する米人の好奇心に的中し同室の前には常に群衆蝟集(いしゅう)し此の美麗なる出品物に賞賛の辞を惜まざりき。』 (商工省商務局編, 『一九三三年市俄古進歩一世紀万国博覧会政府参同事務報告』, 1934, 商工省商務局, p48)
昭和八年やはり米国シカゴの万国大博覧会に陳列したジョージ・ワシントンの住家の模型も、また異常の好評を博したものである。・・・(略)・・・骨組は南洋産の白チョウ貝で造り、間口一尺六寸(=48.5cm)、奥行八寸(=24.2cm)、高さ一尺八寸(=56.1cm)、原物の六十分の一で重量は六貫目(=22.5kg)、これに大小二万四千三百二十八個、重量三百匁(=1125g)の真珠をちりばめたもので、時価五十万ドル。博覧会閉館後は駐米大使出淵勝次を経て、ワシントン市の(スミソニアン)博物館にこれを寄贈した。』 (乙竹岩造, 御木本幸吉, 1948, 培風館, pp104-105)
 
 マルコーニ氏は古都奈良を観光し、これまでの道順の誤りに気付いたと語っています。
京都は静かな、美しい町である。「外人趣味の日本」がやたら雑多にそこに散らばっている。奈良は京都にもまして静かなむしろ悲しい古都である。この町で土塀の裂けているのをちらちらと見た。その間から柔和な鹿の顔がのぞいている情緒などはいかにも「古典日本」の風景であった。余(私)は京都と奈良とにおいて日本の味を満喫した。これで何も思いのこすことはない。ただひたすらに惜しむことは日程の切迫していることである。余(私)はここにおいて一週間のあわただしかりし過去をふりかえっていう。「余(私)は鮮やかに日本観光の道順を誤っていたのを悔いゆ」と ― 歴史的に見ても、観光の理解より見ても、東京を振り出しにして、奈良をあと廻しにすることは誤りであった。古典日本の奈良を賞し、外人趣味の日本京都を経て、現代日本東京に行くことが妥当である。 (マルコニ候の日本印象談(下), 『大阪毎日新聞』, 1933.11.25, 朝p11)
【参考】 1922年(大正11年)にアインシュタイン博士が来日した際には、神戸港から上陸し、京都観光を経て東京へ向かいました。
 
 13:00からの昼食を済ませたマルコーニ夫妻らは23日14:35発の大軌(大阪電気軌道, 現:近鉄奈良線)特別列車で大阪に向いました。マルコーニ侯は奈良県と大阪府の境にある生駒トンネルを抜けると、生駒山中腹から見下ろす大阪平野の景色を眺め続けたそうです。大阪朝日新聞より引用します。
奈良から大阪へ - 大軌の特別列車が生駒のトンネルにさしかかるころからマルコニー侯はもうじっとしていないで愛用のスリー・キャッスルをくゆらしたまま、前方の運転台に立ちはだかり、ガラス窓の外に変化する河内平野の冬仕度とレールの流れを凝視(ぎょうし)して大阪に着くまで約二十分間、ついにシートに腰をおろさなかった。熱心な探求欲、ことにわれわれにとって常識以下のあの電車シグナルが - 「グリーン」は速く、「オレンジ」はゆるく、「赤」はストップという配色の妙がことのほかお気に召して「おもしろいやり方だ。あれは自動式に働いているのかね?」など興味の瞳を輝かせた。  (甍に浮かぶ旅愁 ミラノへの幻想 無電王錦城の天守閣に, 『大阪朝日新聞』, 1933.11.24, 朝p11)
 
 11月23日15:17、夫妻は大軌の終着駅「上本町六丁目」に到着。モーニング姿の長岡半太郎大阪帝大総長、廣江恭造JOBK常務(元大阪中央電話局長)、松方正雄JOBK理事長ほか、関西の電波関係者と大阪ラヂオ組合員のおよそ100名が、イタリアの小旗を打ち振って万歳を歓呼しながら出迎えました。
 そしてマルコーニ夫妻一行を自動車で大阪城(左図[左])天守閣へ案内しました。
1933年 大阪城
 マルコーニ氏は天守閣から見おろした商都大阪に母国のミラノを重ねたようです。
天守閣楼上から大阪の甍々を見おろし 「すばらしい。活気のある大きな都会。私の国でいえばミラノですね。」と 』 (甍に浮かぶ旅愁 ミラノへの幻想 無電王錦城の天守閣に, 『大阪朝日新聞』, 1933.11.24, 朝p11)
 ただしこの日は霧が出ていて、あまり遠くまでは見渡せなかったようです。
天守閣上ではひどい夕霧で大産業都の展望が利かぬのが残念そう。夫人が金網を見て「何か?」と訊ねる。東導役の高橋是彰夫人から人の落ちるのを防ぐためだと聞いて「オオ」と肩をすぼめる。閣上で夫妻共記念帳に署名。そのページには支那公司蒋作実氏や満州国(陸軍)の干上将等と名前がならんだ。 (時を忘れさせた"お夏"の魅惑:夫妻、大阪に半日の清遊, 『大阪時事新報』, 1933.11.25, 朝p7)
 
 続けて本丸内にある天臨閣(旧称:紀州御殿、上図[右])の日本庭園を見学されました。大阪毎日新聞より引用します。
侯は初めて見る大(だい)大阪の繁華ぶりに驚き顔で自動車で上本町から大阪城へ。天守閣に登ったがあいにくの濃霧で展望が利かないのを残念がって「せっかく高いところへ登って日本の心臓を十分に見られんとは残念だ」とさすがの無電王もガスには顔まけ。名残惜しげに小手をかざしつつ展望台を一周し、夫婦揃ってサイン帳に署名のあと、天臨閣に入り夫人に腕をかしつつ静かな池畔に紅葉映えたる庭園をそぞろ歩いてあわただしい旅の中に枯淡な日本趣味を楽しんだ。  ("おおきれい"  八重ちゃんにお世辞 芝居見物とお茶の会へ - 大阪見物の無電王, 『大阪毎日新聞』, 1933.11.24, 朝p5)
 16:00よりこの天臨閣でJOBK主催の歓迎小宴が催され、関西の官民電波関係者(JOBK、大阪逓信局、市電気局、電気学会、宇治電気、ラヂオ組合ほか)と、大阪商工会議所の安宅副会頭、営林局の斎藤監督課長ら50余名との歓談が始まりました。終盤にさしかかり松方正雄JOBK理事長からの歓迎の言葉に応えて、マルコーニ氏は妻と共に大阪を訪ね得たことを嬉しく思うと英語で挨拶しました。この歓迎会のホストをJOBKが務めていることからも、マルコーニ夫妻の大阪訪問の復活は、JOBKの交渉が実を結んだものと想像できます。
 
1933年 マルコーニ 大阪歌舞伎座
 17:00に長岡阪大総長の発声による万歳で閉宴、マルコーニ夫妻ら一行は自動車で千日前の大阪歌舞伎座(現在:ビックカメラなんば店)に向いました。
 すっかり暮れた道頓堀の灯りを車窓より眺めつつ、大阪歌舞伎座には17:20に到着しました。マルコーニ夫妻一行を白井松竹社長が出迎えて、特等の二階正面席へ案内されました。
 そして日本通であるガスコ神戸総領事の説明を聞きながら、水谷八重子の "お夏清十郎" を熱心に観劇しました。
五時二十分、千日前歌舞伎座に自動車をとばし、ガスコ総領事らといっしょに折から上演中の水谷八重子の「お夏清十郎」舞台を二階正面からあぐらをくんで見学。ときどき傍らの夫人をかえりみて「きれいだね。役者もうまいよ!」など母国語で話しかけている。幕あいには奈落を通って舞台にのぼり、元禄髯のお夏(八重子)と堅い握手。そしてきれいなお夏から彼女の日記帳にサインをせがまれると、これも美しい夫人の手前、ちょっとはにかんだが「おお、よろしい」・・・・・
 約二時間のお芝居見物の印象をたずねると「東京では古い歌舞伎をみましたが、これは新派の俳優だそうですね。・・・(略)・・・私はお国の言葉がわからないから筋のはこびははっきりわからない。しかし、たとえばちょっと肩をふるわすにしても、足をふみ出すにしても西洋流に大きな動きを見せず静かなゼスチュアのうちに、いいしれぬ余情をただよわせています。暗示と想像。私は日本の舞台をみて強くそれを感じます。
 衣装の配色も非常に優れている。たとえば青と黄はわれわれヨーロッパ人の目に不快な色調だが日本の舞台ではそれを巧みにこなして快よいハーモニィを織り出しています・・・」とゆたかな鑑識眼をほのめかせた。  (甍に浮かぶ旅愁 ミラノへの幻想 無電王錦城の天守閣に, 『大阪朝日新聞』, 1933.11.24, p11)
 新派の歌舞伎に魅了されたマルコーニ氏は予定時間が来たのに「もう一幕みていこう」と、続く "但馬屋茶座敷の場" を最後まで鑑賞しました。
 
 19:30に大阪歌舞伎座をあとにし、自動車は夜の御堂筋ビル街の美しい灯りの中を走り抜け、阪神国道で兵庫県西宮市に向いました。非常に短い滞在でしたが、マルコーニ氏に素通りされることを回避できた大阪の電波関係者一同はほっと一息ついたことでしょう。
 20:00にマルコーニ夫妻は西宮市にあった西日本を代表する名門「甲子園ホテル」(下図[左])へ到着し、ここでディナーをとりました。 【参考】現:武庫川学院・甲子園会館
1933年 甲子園ホテル
1933年 三宮駅でマルコーニ夫妻を見送り
 22時まで休憩のあと、西へ20kmほど離れた神戸市の三宮駅へ自動車で向いました。そして22:25に三宮駅に到着。こんなに遅い時間にもかかわらず、駅前には神戸無線技士クラブ、大同ラジオ代表、海員協会会員、宝塚音楽歌劇学校のフェルナンド教授ら十数名の在神戸イタリア人、それに一般市民を含め百数十名が集まり、日伊両国の国旗を振り万歳を三唱で迎えました。マルコーニ夫妻は駅貴賓室で故国への便りをしたためた(歌舞伎座で買った)水谷八重子の写真はがきを託して、特急「富士」に乗りました(なお大倉商事の高橋夫妻は三宮駅でマルコーニ夫妻とお別れしました)。
午後十時四十七分、同駅発の特急富士最後部特別車に乗車。乱舞する歓迎神旗の嵐のなかに、はや習い覚えた日本語「マンサイ、マンサイ」を連呼しつつ下関に向かったが、廿五日京城(ソウル)着の予定である。』 (万歳に応えて「マンサイ!」賑やかに三宮駅発つ, 『神戸新聞』, 1933.11.24, 朝p7)
 
 1933年11月24日(金曜)
 朝09:00、マルコーニ夫妻一行を乗せた特急「富士」は小雨が降る終着駅「下関」(山口県)に到着しました(下図[左])。
1933年 下関に到着したマルコーニ夫妻
1933年 山陽ホテル
 下関駅では松井信助(下関)市長に加えて、九州側から後藤多喜蔵(門司)市長、安川財閥の安川第五郎氏らが出迎えました。そして一行は下関駅舎正面に向って右側に隣接する山陽ホテルで朝食をとりました。【参考】山陽ホテルは我国ステーションホテルの嚆矢であり、九州や大陸へ向う政官財界の多くの要人が立ち寄った。
(新聞記者に)もう一度ぜひ帰国へやって来るつもりだ」と固い握手を交わした。今回の日本訪問は日本の文化を見るのが目的であったが、東洋の旅行は初めてであるから、いわば新婚旅行のやり直しみたいなものだと、艶麗花のような夫人をかえりみて微笑する。 (さらば懐かしの日本よ:唯幸福の言葉のみ, 『福岡日日新聞』, 1933.11.25, 朝p2)
 
 夫妻は山陽ホテルのロビー(上図[右])で次のように日本最後のお別れの挨拶を記者発表しています。
日本に来ての感想はただ幸福であったという一言に尽きる。初めてみる日本の国は非常に偉大な国であり、あらゆる諸施設が完備しているのに感服した。その上各地で望外の歓迎にあずかり深く感謝する次第である。今日は雨の中を下関に着いたが、車窓から見た貴国の風光は故国イタリーに似ている点がすこぶる多く非常に懐かしく思い、今、日本を去るに臨み自分は再び日本を訪問したいとの希望でいっぱいだ。 (あなた方の新聞を通じ)どうぞ貴国の皆様によろしく。 (来朝の感想を「幸福」の一語に盡す, 『九州日報』, 1933.11.25, 夕p1)
【参考】 なお1942年(昭和17年)に関門海峡の海底トンネルが開通し、下関駅が本州最西端の鉄道終着駅の機能を失うと同時に、下関駅舎を別の場所へ移したため、ここに取り残された山陽ホテルはさびれたそうです。
 そしてマルコーニ夫妻一行は10:30の関釜連絡船へ乗り継ぎました。


97) マルコーニ夫妻の朝鮮・満州・関東州観光 [Marconi編] ・・・2017年12月19日更新

 1933年(昭和8年)11月24日、マルコーニ夫妻一行は大陸に渡りました。日本に着いた当初の計画では、東京を振り出しに京都・奈良を観光し、大阪に立ち寄ったあと神戸港から船で大連に向かうはずでしたが、朝鮮と満州国からの強いリクエストにより変更されました。
 
1933年 マルコーニの極東旅行
1933年 マルコーニ 釜山港
 関釜連絡船で玄海灘を越え、朝鮮の釜山港(左図[右])に到着したのはすっかり暮れた18:00でした。釜山桟橋には官民の有志と釜山中学の全校生徒600人が集まり、「ウエルカム・マルコーニ」と書かれた旗を打ち振りながら、万歳三唱で迎えられました。
 
 マルコーニ夫妻一行は出迎えの人達に丁寧に会釈しながら、春田駅長の先導で釜山桟橋駅貴賓室へ入りました。
 貴賓室では京城(現:ソウル)観光を楽しみにしているとコメントしています。
朝鮮についてはかねて幻の国として記憶にあるだけであったため、何の感想をも語ることはできません。これから京城で心ゆくばかり異国情緒を味わいたいと思っています。 』 (ようこそマルコーニ侯 半島へ第一歩 中学生の歓迎に感激, 『京城日報』, 1933.11.25, p7)
 
 さて釜山港に着くとすぐあとに接続する満州国奉天行きの国際急行「ひかり」に乗り換えて、京城(現:ソウル)駅には深夜3時過ぎに到着することになっていました。しかし二晩続けての車中泊となるためか(?)、釜山鉄道ホテルで少し体を休めて、遅い時刻の列車(第四列車の一等特別室)に乗車したようです。
 
 1933年11月25日(土曜)
 目を覚ますと列車はもう京城(現:ソウル)の手前の水原駅まで来ていました。マルコーニ氏は朝鮮の朝景色を眺めて京城までの時間を過ごしました。この時の感想を京城日報の記者には次のように話しています。
『 車窓から見た朝鮮の印象はと言う記者に、「ナント道路の立派なことだ。『幻の国』はすっかり成長した現実の文明国じゃないか。(幻のお国に開けた文化の粋よ. 『京城日報』, 1933.11.26, p2)
1933年 朝鮮ホテル
 朝08:25、京城駅に到着。松本誠京畿道知事、山本犀蔵朝鮮総督府逓信局長、小田安馬総督官房外事課通訳官のほか、国際親善会やランチョン・クラブ員らが出迎え、駅の貴賓室で挨拶を交わしたのち、総督府が用意した自動車で宿泊先である朝鮮ホテル(左図)に入りました。朝食を済ませたあと、京城の観光スケジュールを打ち合わせて、11時より短く記者会見しました。
京城ではアンテナに気をつけてみたい。今後は民衆の為、安く無電が利用されることを望んでいる。将来はラヂオじゃない。テレビジョンの時代だ。今、自分は他の現象(=空電や電離層の状態)によって何らの障害もこうむらない短波(=UHF)の特別な研究を進めているから、更に人類のために利益となろう。(幻のお国に開けた文化の粋よ. 『京城日報』, 1933.11.26, p2)
 
 11:20、マルコーニ氏はこげ茶色の背広に勲一等旭日章を付け、夫人同行でホテルを出て、朝鮮総督府の宇垣総督を表敬訪問しました。マルコーニ氏が車窓から見た朝鮮の美しい朝景色の話をすると、宇垣総督より「それならば、ぜひ金剛山観光を」と勧められましたが、これは時間がなくて実現しませんでした。
 
 ホテルに戻ると、予定されていた貞洞の外人学校の生徒60余名と夫妻の昼食会がスケジュールの都合でキャンセルとなり、あきらめがつかない生徒たちが夫妻の姿をひと目みようと朝鮮ホテル周辺に集まっていたそうです。
 さて食事を終えると、午後は京城観光です。マルコーニ夫妻は朝鮮神宮を参拝後、朝鮮総督府博物館を見学し、初めて触れた朝鮮文化を賞賛しました。次いで明治町の天主教会のラリボ司教(Larribeau)への挨拶と、李王職の昌徳宮にある仁政殿へ伺候し、その後苑である「秘苑」を拝観しました。そして最後に昌慶苑動物園(京城動物園)に立寄りて、一旦朝鮮ホテルに戻りました。
ローマ法王の姪という深い縁故から、半島最古の教会堂である明治町の天守公教会に礼拝・・・(略)・・・特に侯を感激させたのは素晴らしい朝鮮文化を秘めた本府(=朝鮮総督府)博物館で、新羅時代の『金環』でなど、「ホウ、これは立派だ。素晴らしいものだ。」と夫人と一緒に褒めちぎり、熱心に館内を見物・・・(略)・・・秘苑の閑寂から動物園へ。童心に立ち返った侯夫妻は、珍しい朝鮮産の『虎』や精悍な『ぬくて』(朝鮮狼)などに打ち興じ、市内に林立するアンテナに抑え切れぬ微笑を浮かべていた。 (マ侯 善政を誇る立派な博物館, 『京城日報』, 1933.11.26, p2)
 
1933年 マルコーニ 朝鮮旅行
 17:00より総督官邸で催された歓迎茶話会(左図)にはマルコーニ夫妻および大倉商事の原忠道・久保信次郎の両氏のほか、京城天主教会ラリボ司教、英国総領事・副総領事各夫妻、山田三良京城大学総長が招かれ、ホスト側は宇垣総督夫妻をはじめ、今井田清徳朝鮮総督府政務総監、山本犀蔵朝鮮総督府逓信局長、矢野総督秘書官夫妻、田中武雄官房外事課長夫妻、松本誠京畿道知事、井上清京城府尹ら、主客あわせて34名でした。
 左図の手前左から、マルコーニ夫人、マルコーニ氏、宇垣総督夫人、今井田政務総監夫人、宇垣総督、ロイス英国総領事夫人、今井田政務総監です。和やかな雰囲気で楽しいひと時を過ごし、宇垣総督からの歓迎の言葉に続き、マルーニ氏より謝辞があって18:30に散会しました。
 
 朝鮮ホテルで行われた夜の記者会見では、帰国予定についても触れて、帰国船(Conde Rosso号)に装備されている短波帯の無線電話でイタリアに残してきた娘エレットラと話ができことをとても楽しみにしている様子でした。
釜山の港についた時、小学児童の出迎えに・・・(略)・・・『ウエルカム・マルコーニ』の旗を見た時ばかりは涙が出るほど嬉しかった。我知らずそれ(=旗)にサインしほどだった。班のはっきりした『満州虎』『高麗雉(きじ)』など、なんと珍しかったことよ。・・・(略)・・・(記者に対し)君、もっともっと嬉しいことがあるんだよ」・・・とて、「満州国から支那の一部を見て十二月十二日上海から乗船するイタリーのコンデルース号(Conde Rosso)には故郷のホームの家族達と話を交換できる(短波の)無線電話が設備されてあることだ。」無電王が自らの発明に限りない思慕の情を感じる時、思い立った旅のエンドとなるのだ。なお帰途セイロン、ボンベイを経て印度を一寸覗いてみるそうである。 (帰りの船のうれしさはケビンと自宅のお話交換, 『京城日報』, 1933.11.27, p29)
(夫妻は)夕闇近まる頃、ホテルに帰ったが、夜はしばし窓から明るい灯の町、京城をしみじみ眺めて異国情緒にしたってから、午後十時過ぎ寝室へ。 (マ侯 善政を誇る立派な博物館, 『京城日報』, 1933.11.26, p2)
 この日は久しぶりにホテルのベッドでゆっくり眠れたことでしょう。
 
 1933年11月26日(日曜)
 京城駅を朝7時発の国際急行「ひかり」で満州国奉天へ向かうマルコーニ夫妻を、朝鮮総督府の小田総督官房通訳官と大勢の地元小学児童たち、そして(大倉財閥が創設した)善隣商業学校の生徒30数名らが見送りました。本当は松本京畿道知事も見送りに来るはずでしたが、手違いがあったようです。
一汽車まちがえて後から駆けつけた松本道知事は、さすがにガッカリとはるかの線路をしばし見送っていた。 (『京城日報』, 1933.11.27, p2)
 
1933年 安東 鉄橋
 一行を乗せた急行「ひかり」は平壌(現:ピョンヤン)を経由し北上を続け、国境の鴨緑江(おうりょくこう)の鉄橋(左図[左]:中央部が船を通すために旋回する可動橋)を渡たり、安東駅(満州国)に到着したのは夕方16:15でした。ここには35分間の停車です。
 待ち構えていた満州日報の記者が訪ねると、マルコーニ氏は機嫌よく自分たちの展望車両に招き入れてくれて、日本と朝鮮観光を振り返りました。このあと大連から中華民国に渡って、12月12日に上海より帰国するつもりであると話ました。
私は長い間、日本に憧れ、日本に関する書物もかなり読んできたが、今度初めて日本を訪問して、私は私の日本に関する知識とこれによって描いた想像よりも現実の日本はもっともっと進歩的で偉大な国であることを知った。天皇陛下には御服喪中のため拝謁を御願いできませんでしたが、勲一等旭日章を賜り非常に光栄に存じております。秩父宮殿下にお目にかかったことも大きな喜びであります。また日本の朝野を挙げての歓迎ぶりには実に感激に堪えません。日本の国民は非常に親切であることを特に感じました。
 私は帰国を急ぐ関係上、(首都の)新京(現:長春)を訪問することの出来ないことを残念に思っておりますが、奉天を訪問することの出来るのはせめてものことです。奉天から大連に行きますが、大連のプログラムはまだ作っておりませんが、旅順には行って戦蹟を弔いたいと考えております。今回の日本及び東洋訪問は全くビジネスをはなれてのプライベートの観光旅行である。大連から天津に行き、北平(現:北京)、南京を通って十二月十二日上海出帆の伊太利(イタリア)汽船コンテレンソ号(Conte Rosso)で帰国します。今私はテレビジョンとごく短い短波(超短波)無線の研究に没頭しております。テレビジョンの研究はもう完成に近づいておりますが、まだ発表するまでには行っておりません。・・・(略)・・・」と語り、沿道の女学生群の歓迎には夫妻とも非常に感激し、同五十分発、一路奉天に向かった。 (忙しい旅程だが旅順には行く, 『満州日報』, 1933.11.27, p3)
 
1933年 奉天ヤマトホテル
 国際急行「ひかり」は同夜22:50に奉天(現:瀋陽)駅に到着しました。ここは南満州鉄道の本線といえる連京線(大連-奉天-新京)に、日本・朝鮮方面からの安奉線(安東-奉天)が接続する交通の要所中の要所でもあります。
 秘書デ・マルコ中佐に続き、マルコーニ夫妻が列車から降り立つと、写真班のフラッシュが間断なく光り、ハルビンより駆け付けたマアフェ・イタリア領事夫妻をはじめ、藤原保明満州国交通部郵務司長、川崎寅雄宣化司長、泊郵務司総務科長、羽根田電郵科長、岩本満州電電MTT奉天中央電報局長らの出迎えを受けました。マルコーニ氏はすこぶる上機嫌で、駅貴賓室でみんなと挨拶を交わした際には、今回の日本旅行で覚えた日本語「ありがとう」を連発していたと大連新聞が伝えています。
すこぶる上機嫌で短時日の日本旅行で覚えたらしい『有難う』を連発。「満州国入りが夜になって残念だ。明日はゆっくり見物するつもりである。」と微笑してホテルさし廻しの自動車にのり疲れを癒すため、ヤマトホテル向かい、満州国最初の一夜を明かした。 (無電王奉天へ 昨夜十時五十分着, 『大連新聞』, 1933.11.27, p5 )
 夫妻一行は23時過ぎに奉天ヤマトホテル(左図)に入り旅装を解きました。なお「ヤマトホテル」は南満州鉄道が経営するホテルチェーンで、満州の主要都市および関東庁(大連、星ケ浦、旅順)にありました。
 
 1933年11月27日(月曜)
 首都新京(現:長春)から来ていた満州国交通部総長の丁艦修氏が、奉天ヤマトホテルを訪れ、11:00より20分間ほど中央広間でマルコーニ氏と歓談しました。
丁総長は「世界的の発明家たる貴下を満州国に迎える事が出来たのは絶大なるよろこびである。満州国は土地広く、交通の発達が充分ではない為、治安維持その他に関して無電に負うところ甚大である。」と述べると「おほめに預かってはなはだ恐縮です。日露戦争以来お馴染み深い奉天に来る事が出来たのは私たち多年の念願が叶った訳ではなはだ嬉しい。首都新京にお伺い出来ないのははなはだ残念である。」 』 (『大連新聞』, 1933.11.28, 夕p1)
1933年 マルコーニ 北稜観光
 ちなみに今夜予定されている晩餐会は丁氏が主催するものです。マルコーニ氏が発信する満州国内宛電報はすべて無料になりました(丁氏はこの4ヶ月後に交通大臣に就任した大物政治家)。
 そのあと11:30より『 満州見物は多年の希望でありましたが今回ようやくその希望がかなった訳で、ことに満州は日露戦争があった所なのでこの戦跡を見たいと考えております。満州国が成立して新京とかハルビンとか名称はよく聞いておりますが今回の旅行に際し、これらの地を見学しないで帰ることは甚だ遺憾に思っております。 (『満州日報』, 1933.11.28, p1)などと短く記者会見を済ませて、太宗文皇帝を葬った北陵(左図)と奉天市内の観光に出かけました。
太宗文皇帝の位牌を安置した堂に入るとマルコーニ候は脱帽し、夫人と共に頭をたれ感慨無量の態で偉大な科学者である半面、敬虔の念深きを思わしめた。案内役、駐哈(駐ハルビン)イタリー領事が「もう出ましょう」というと、「いやせっかく来たのだからお墓を拝んで行こう」と。三十分ばかり松の緑濃い境内を記者が「満州は寒いでしょう」と尋ねると、「そうでもありません。かえって思ったよりさっぱりして気持ちがよい。」と笑って北陵に別れを告げ、奉天城内各所を見物。 (北陵の美観嘆賞, 『満州日報』, 1933.11.28, p9)
 
 15:00に奉天ヤマトホテルに戻り、夜はここで19:30より満州国交通部が主催する歓迎晩餐会です。英、米、独、仏、伊の領事夫妻、井上清一守備隊司令官、蜂谷輝雄駐奉天総領事、宇佐美寛爾鉄路総局長、立川俊三朗奉天警察署長、粟野奉天地方事務局長らが招かれ、官民140名でマルコーニ夫妻を歓迎しました。
 丁交通部総長が歓迎の挨拶で無線がいかに満州で役立っているかを述べ、マルコーニ氏は次のように答えました。
無電がこの新興の満州国に少しでも役立っていることを聞いて私はもう非常に嬉しい。満州国に対してはこれまで余り知識もありませんでしたが、このたび奉天の一部だけ見物させて頂き、立派なものに出来上がりつつあるのを見て吃驚(びっくり)しました。なおこのまま去るのは遺憾に存じますが、またこの地へ参ることもありますのでその時はゆっくり見物させていただきます。 (新興国をみて無電王の喜び, 『満州日報』, 1933.11.30, p4)
 丁交通部総長の発声で万歳三唱し、22時頃散会すると、すぐに旅立ちの身支度をして、奉天駅22:45発の南満州鉄道の看板列車「はと」で大連(関東庁:日本の租借地)に向いました(流線型の特急「あじあ」は1934年(昭和9年)から運行開始でまだ乗れなかった)。この日は車中泊になりましたが、本当に過密スケジュールですね。
 
 1933年11月28日(火曜)
 山内静雄満州電信電話MTT総裁は一足先にマルコーニ夫妻を出迎えようと金州駅から急行「はと」に乗り込みましたが、連日の歓迎会の疲れで、マルコーニ氏が起きてきたのは終着駅大連の二つ手前の周水湖駅でした(下図[左])。すぐさま二人は「グッドモーニング」と堅い握手を交わしました。
1933年 マルコーニ 大連訪問
1933年 大連ヤマトホテル
 朝07:40、マルコーニ夫妻を乗せた急行「はと」が終着駅「大連」に滑り込むと、ホームに待ち構えていた満州電電MTT養成所の養成員200名がMTTの社旗を振って、あこがれのマルコーニ夫妻を歓迎しました。
 また八田嘉明南満州鉄道副総裁、御影池辰雄大連民政署長、小川順之助大連市長らが出迎え、マルコーニ夫人が市長の13歳になる娘小川容子さんより花束を贈られ記念撮影。そして迎えの自動車に乗り込み大連ヤマトホテル(左図[右])にチェックインしました。
 
 少し休憩してからの記者会見では『 一刻も早く勇士のねむる旅順の戦跡を弔いたい。それからあす乗る天津行きの船も見たい。(『大連新聞』, 1933.11.29, p2)と語り、11:30に自動車で出発。まず旅順港を見学して日露戦争を偲びました。
 12:30より旅順にある関東庁長官の官邸で旅順工科大学の野田清一郎学長、藤井崇治関東庁逓信局長、山内満州電電MTT社長、御厨信市官房外事課長代理(翻訳官)、高田隆一嘱託らによる歓迎昼食会が催されました。
 
1933年 マルコーニ 旅順観光
 昼食会を終えた13:50、山内MTT社長を含む一行6名は御厨外事課長代理(翻訳官)と高田嘱託の案内で長官官邸の裏手にある白玉山に登り、「表忠塔」(現:白玉山塔)と日露戦争でロシアの要塞を日本軍が陥落させた旅順攻囲戦(July 30, 1904 - Jan. 2, 1905)の戦死者を祀る「納骨祠」を参拝しました。
  次いでロシア陸軍最強の砦で、日本軍と4カ月もの死闘があった東鶏冠山北堡塁(ひがしけいかんざんきたほるい)へ赴き、マルコーニ氏は当時の戦況について熱心に聞き入っていました(左図)。
北堡塁に赴き当時の戦況を聴取した夫妻は「日本軍の勇敢なる事は承知していたが今現地を見学し一層その勇敢なるに感激する。自分は戦役当時、露都にあったがその際、露国官憲は等しく陸軍は相当戦う事が出来るが海軍の方はちょっとむづかしいと思うといっていた。今日この地に来て、当時を追想して感慨深きものがある。」と語り折からの寒風をものともせず熱心に見学。 (日露役を追想 当時露都にあり感慨更に深し, 『満州日報』, 1933.11.29, p9)
 最後に関東庁博物館を見学して、15:00に星ガ裏ヤマトホテルに立ち寄り小憩したのち、大連に戻りました。
 
 マルコーニ氏は夫人のことを気遣い、長平丸の客室の暖房の効き具合などを実際に見てから判断したいと大連汽船に伝えていました。もし設備が望む状況でなければ列車で北平(現:北京)に行くつもりだったのです。なおマルコーニ氏のことですから長平丸の通信室(呼出符号:JKPB, 375/425/500kHz, 900w)も検分したのでしょうね。
 16:30、自動車は大連港に到着しました。
好みに合わなければ船を取りやめて汽車にする」とマルコーニ候から、こうした申し出にびっくりしたのは予約を受けた大汽(大連汽船)当局。万一乗船中止なんてことになっては大変だと、候自身の下検分をまさに首の座になおるような気持ちで待っていたところ、二十八日午後四時半頃、マルコーニ候は言明通り来船。スチームの具合から食堂、ベッドのクッションからサロンの様子を詳細に検分して廻った。船長はじめ事務長、司厨長もこうなると懸命である。ところが「この位ならまあ結構。一番心配していたスチームの具合も上等だ。」との仰せに、一同の者ホッと一安心。特別室と他に三室使用する事に決定。二十九日午後三時半乗船する事に話がまとまったが、大汽としても顔をつぶさずに済んで大喜びの態である。 (汽船の下検分合格, 『満州日報』, 1933.11.29, p7)
 
 本来、満鉄が開発したリゾート地の星ケ浦にある「星ケ浦ヤマトホテル」で16:30より、満州電電MTTによる歓迎招宴が予定されていましたが、それを断ってまで大連港の長平丸を検分したかったのは夫人の体を思いやってのことでした。寒さが一番気になっていたと、大倉商事の高橋氏が次のように明かしています。
奈良見物の時であったが、侯が突然、私に向かって「御国の観光が済んだら今度は朝鮮と満州を見物して支那に赴くことになっているが、聞くところによると彼地は大変寒いそうである。私は妻の健康の事を考えるから、両地経由を見合わせ、直ちに支那に赴きたいと思うがいかが!」と半ば相談的に質問されたので、私はいささか即答に苦しんだが「鮮・満両地の気候はまだそれ程でもありますまい。せっかく東洋においでになった事でもあり、かつ先方の希望もあるでしょうから、急に予定を御変更になるのもいかがかと思われます。」との意味を率直にお答えしたような次第であった。
 要するにこれなども侯がいかに同情の念に富み、いかに夫人に対する思いやりの深い人であるかを物語るもので、ひとしおその人物の優しさが偲ばれるのである。 』 (高橋是彰, マルコニー候を語る, 『ワット』, 1934.1, ワット社, p16)
 
 19:30より大連ヤマトホテルの大ホールにて官民合同歓迎晩餐会が開かれました(下図)。小川大連市長夫妻、林博太郎南満州鉄道社長夫妻、山内満州電電MTT社長夫妻、御影池大連民政署長夫妻、日下辰太関東庁内務局長、瓜谷商議副会頭、張大連市商会会長、福本順三郎大連税関長など約150名もの超大物が集いました。
【参考】主催者側に名を連ねたのは、大連民政署、関東庁逓信局、大連市役所、商議、南満州鉄道、満州電電MTT、南満州電気、満州電気協会、満州電気技術協会、電気学会満州支部、大連新聞、満州日報です。
 下図では良く見えませんが、正装に勲一等旭日章を付けたマルコーニ氏と、真紅のイブニング・ドレスに純白のアメリカン・ファーをまとった夫人が並んで中央に着席し、その夫人の隣には林満鉄社長夫妻が座りました。
1933年 マルコーニ 大連 晩餐会
 大連放送局JQAKは「マ候歓迎の夕」という特別番組を企画しました。18:30より八田満鉄副総裁による「マルコーニ候を迎えて」という講演があり、次いでマンドリ・オーケストラや長唄などの歓迎演奏が流され、19:50より晩餐会会場からの実況中継番組がはじまりました。
 デザートタイムに入り、宴の最後を飾る小川大連市長の歓迎の辞と、マルコーニ氏の答辞が放送されました。
日本、朝鮮、満州を通過するに及び無電が想像以上に有用に使われているのに驚いた。満州は膨大なる地域、また日本は四辺環海という点よりするも、近き将来さらにその発達は必要なる感を深くした。・・・(略)・・・ことに今日訪れた旅順古戦場では日本の力強さなるものがそこで発揮された事を追想し、非常な感慨にうたれた。 (無電王を迎え, 『大連新聞』, 1933.11.29, p1)
 2o:40に散会後、マルコーニ氏らは別室へ移動して映画「満州国の全貌」(満鉄広報係製作)を鑑賞し、21:30にこの日の行事を全て終え、自分たちの部屋に戻りました。
 
 1933年11月29日(水曜)
 大連最後の日の昼、夫妻らは満鉄の招宴に出たあと、旅立ちの準備を済ませて、15:30に大連港に到着しました。日本からずっと案内してくれた大倉商事の原氏・久保氏は、ここ大連港でお別れです。小川大連市長、山内満州電電MTT社長、福本大連税関長とのお別れの挨拶に続き、あこがれの無電の父をひと目みたくて集まった大連の南満州工業専門学校無線科の学生20数名に対しても、マルコーニ氏はひとり一人、握手をして声を掛けてくれました。未来のマルコーニを目指す無線科の学生達は大感激です。
(大連新聞の記者が)侯爵に「今度はいついらっしゃいますか? 」と問えば、「そのうちにテレビジョンでまた元気な姿を見せますよ」とすましたもの。 (工専生のエールに送られ昨日満州に惜しい「サヨナラ」, 『大連新聞』, 1933.11.30, p9)
1933年 マルコーニ 大連 出帆
 そして16:00、長平丸(呼出符号:JKPA)の出帆時刻です。(左図:長平丸デッキの夫妻)
やがて出帆のドラが鳴る「マルコーニ候 万歳!!!」勇ましい工専生のエールがデッキに佇む夫妻に届いた。たえず微笑のマ候は帽子を打ちふりながら。
  - かくて船がおもむろに岸壁を離れると、期せずして「さよなら」、「グッドバイ」、「ボンボワイヤージ(ごきげんよう)」、「アジオス」等、別れを惜しむあらゆる言葉がいつまでもいつまでも船を追ってゆく。  - またあう日まで。さらば我等の無線王よ。  (同, 『大連新聞』, 1933.11.30, p9)
 
 11月30日午後、天津に入ったマルコーニ夫妻は、その日の夜のうちに列車で北平(Peiping、現:北京)に向かいました。12月6日朝、列車で首都南京に入り、夜は中華民国外務省・通信省による歓迎晩餐会に出席しました。そのあと直ちに夜行列車に乗車して更に南下。上海へ到着したのは翌12月7日でした。
 中華民国最終日(12月12日)にはマルコーニ氏が中国観光でもっとも楽しみにしていた、上海郊外の(RCA社の協力の下に建設された)真茹国際無電台を見学しました。そして最後の夜は上海マルコーニ社主催のカクテルパーティーと汎太平洋協会の歓迎会でした。終宴後イタリア公使など多数に見送られて深夜遅くにイタリアン・ラインの汽船コンテロッソ号(Conte Rosso、呼出符号:IBEJ、上海[中国]-トリエステ[伊] )に乗船し、出帆は深夜02:30になりました。
 夫妻を乗せたコンテロッソ号は香港を経由し、12月18日朝、シンガポールに到着しました。マルコーニ氏はシンガポール自治政府主催の昼食会で超短波の時代について語っています。そのあとセイロン(現:スリランカ)、ボンベイ(現:ムンバイ)等に寄港しながらスエズ運河を通って、イタリアのブリンディジ港(Brindisi、アドリア海側)に到着したのは、1934年(昭和9年)1月4日でした。冒頭でも書きましたが、マルコーニ夫妻は世界一周旅行の途中で日本に立ち寄ったというより、米西海岸を観光していたときに、突然日本へ行ってみたくなり、その結果として世界一周旅行になったというのが真相です。
 
 日本観光を共にした大倉商事の高橋氏はマルコーニ氏の発明家としての人柄を次のように語っています。
一体侯爵は物に偏せぬという性質の方であるが、それにも似ず事ひとたび専門的の話となると、その態度は一変してたちまち別人の如く、眉を上げ膝を乗り出してほとんど我を忘れるという熱心振りである。そしてこの時の候は、例えば小児の物をねだるが如くに最後まで理をつめねばやまぬというの有様で、遺憾なく発明家たるの本能を発揮されるのであるが、しかもその談話たるやいたずらに理論に走るが如きたぐいではなく、徹頭徹尾実際に則したものでないと承知されない。この点確かに世の学者や技術家と異なるところで、これあればこそ彼の空中電波による無線電信の発受信を発明し、またこれに伴う例の有名なるビーム式送受信法あるいは最近のマイクロウエイブ等の装置を完成されたのである。・・・(略)・・・
 侯爵今回の来朝はすこぶる偶然であり、かつ滞在期日の如きも誠に短日子であったにも拘わらず日本の科学文明が今日の如く長足の発達を遂げ、なお将来もたわみなく進歩すべき情態であることを目撃し、一驚と共に衷心より我国の前途を祝福された・・・(略)・・・ (高橋是彰, マルコニー候を語る, 『ワット』, 1934.1, ワット社, p17)


98) 勲一等旭日大綬章の推薦理由 [Marconi編]

 天皇陛下はマルコーニ氏に勲一等旭日大綬章を授けました。今さら30年以上も昔の「無線電信の発明」とか「大西洋横断通信成功」の功績によるものではないだろうとの想像は付きますが、「では何?」と問われると、答えに窮するのではないでしょうか?
 最初に叙勲を提案したのは逓信省と海軍省で、それぞれが外務省に推薦文を提出しました(外務省が申請窓口になったのはマルコーニ氏が外国人だからでしょう)。そして外務省は両省からの推薦文を合体・一本化し、1933年11月15日付けで斎藤内閣総理大臣に出した、「人普通第562号」および「別紙」を下に引用します。
「マルコーニ氏(社)から受けた便宜や好意の数々によって、わが日本の無線(真空管送信機や短波通信)が発展できた。」というのが叙勲の理由です。くれぐれも「無線通信の発明」とか、「大西洋横断通信の成功」の功績でと、WEB上に拡散させないでくださいね。
 
人普通第五六二号
 昭和八年十一月十五日
         外務大臣 廣田 弘毅
 内閣総理大臣子爵 斎藤 実 殿
           伊国上院議員侯爵「マルコニ」叙勲の件
伊国上院議員侯爵「グリエルモ、マルコニ」叙勲の儀 別紙の通上奏致候間至急可然御取計相成度此段申進候也
<別紙>
 伊国上院議員侯爵「グリエルモ、マルコニ」儀 別記の通 功績有之候所今回来朝可致趣をもって叙勲の儀 逓信大臣 南弘 海軍大臣 大角岑生より申立有之候に就ては此際右功労を御表彰被遊頭書の通 叙勲被仰出候様仕度此段謹で奏す
 昭和八年十一月十五日
外務大臣 廣田弘毅
            「マルコニ」無線電信株式会社社長
勲一等旭日大綬章  伊国上院議員侯爵グリエルモ、マルコニ
                 伊国「クーロンヌ」一等勲章
                 伊国「サン、モーリス、エ、ラザル」一等勲章
                 英国「ヴィクトリア」一等勲章
                 西班牙国「アルフォンソ」十二世一等勲章
                 所有
右者、世界無線通信界に於ける巨星として国際的に権威声望を有し、明治二十八年(1895年)歯僅に二十二歳にして無線電信に関する画期的大発明を成就し、もって今日必須の機関たる無線電信電話装置隆盛の基礎を築き、現代文化の開発に至大の貢献をなしたるは周知の事実にして、当時我国に於いてもこれが発明の報伝わるや親しく同人に師事し、あるいはその製作に係る機械を購入し、もってこれが実施拡充に努め、遂に本邦に於ける無線電信電話事業をして、今日他国に優越するの概況を示すに至らしめたるは実に同人の発明並びに指導の結果に負うところ至大なるものありと云わざるべからず。同人は更に爾後常に右発明の改良完成に努力し為に他国の方式に比し遙かに優秀なる地位を占むるに至らしめ、本邦に於いてもこの方式を採用したる結果、一般商業通信上ならびに海上人命保全上著しき効果を挙ぐるに至るものとす。
 
同人は後「マルコニ」無線電信会社を設立して同社の社長となるや、対外無線通信に力を尽くし、特に本邦との間は電波の伝播上もっとも困難なる無線通信回路なるに拘わらず、好意をもって大なる犠牲を払い設備を拡張し、ついに昭和五年(1930年)初頭より(短波ビームをもって)直接通信の交換を遂行し、国際親善上はたまた文化開発上貢献するところ大なるものあり。さらに同年一月二十五日には「ロンドン」に於ける海軍会議帝国全権委員として渡英中なりし若槻禮次郞が故国日本に向け中継放送を試みたる際には特に大なる好意を寄せ、同社の「ドーチェスター」に於ける無線局設備を無償提供し、この困難なる遠距離中継放送に大成功をもたらしたるが如き独り我国として感謝に堪えざるのみならず国際通信上また大書すべき事績といわざるべからず。また英国に次いで直通通信困難なる伊太利と日本との間にも同人の斡旋によりて近く通信開始を見るの運に至り右は目下試験中なるが、これが開始の暁には更に日伊親善上寄与する所甚大なるものあるは言うを俟たざる所とす。
 
また一面技術上に於いて同社の製作に係る優秀なる送受信装置および「マルコニ」第二の画期的発明とせらるる指向式空中線装置の譲渡に際しても我に多大の便宜を与え、我国対外無線施設上裨盆するところ大なるもあり。更にまた東京無線電信局検見川送信所の建設に当たりてはその主要装置として同社の五〇「キロ」および一五「キロ」送信機を採用したるが、同所が現に本邦無線通信網の中枢としてよくその任務を遂行しつつあるは全く同機の優秀なる性能によるものとす。なおまた大正十五年(1926年)我国に於ける最初の放送無線電話事業としての一「キロ」放送、および昭和三年(1928年)の十「キロ」放送の開始に当たりては何れも同社の放送機多数を採用したるが、その性能極めて優秀なりし結果、困難なる放送の開始上支障なきを得たるは全く同人の賜物といわざるべからず。
 
同人は平素我国に対し多大の好意を有し、我国より派遣せられたる出張員または研究員等に対し常に同社の設備を開放し、あるいは同社研究所に於いて長期滞留の便宜を与え、または有益なる参考資料を提供する等、特に調査研究上の便宜と援助とを与え来たれるが、今これを明治四十一年(1908年)以降に於ける我逓信部内の者のみについて観るも別記の如き多数を算し、これらリ派遣員が直接または間接に同人の指導により我国無線電信電話事業の向上発展に資したるところ、まことに少ならざるものあり。
他面また同人はその発明せる無線電信の学理および技術をもって我海軍に貢献せる功績顕著なるものあり。けだし通信は海軍戦闘力の重要なる要素にしてその精否優劣はただちに海軍の威力に影響すべく、しかも近世海軍に於ける通信は殆ど無線通信によるというを得るべきをもってなり。
我海軍に於いて前記同人の発明に刺激せられこれに学びて明治三十六年
(1903年)、初めて三六式無線電信送信機を製造することを得、これをもって日露の大戦を経たり。その後無線電信機の進歩は瞬滅火花式送信機となり、次で電弧式不衰減送信機の製造をみるに至れり。しかるにその後、三極電球を使用する電球式送信機の効率代にして同一力量にて通達距離著しく増大せるを知り、我海軍はこれが採用を欲したりといえども、当時米国「ジー、イー」会社はこれが提供に応ぜざりしに拘わらず、大正九年(1920年)十月海軍大佐服部正計、命を授けて渡英するや「マルコニ」の経営せる「マルコニ」会社は「チェルムスフォード」の同社工場および「カーナボン」「オンガー」送信所を見学せしめ、電球式送信機の優秀なる点を説明し、さらに同年十一月海軍技師松田達生、同社に赴き五ヶ月間滞在し電信機製造の工程監督に任ずるや、その計画製法等に関する樞要なる技術修得に関し多大の便宜を供与したり。
 
大正十年(1921年)二月、初めて「マルコニ」式1.5「ケー・ダブリュー(kW)」送信機を購入し、翌年度艦隊の一部に装備し、耐衝撃の実地試験を行い、その実用価値を調査し、その優秀なる事を確認せるをもって、七年式送信機の製造を中止し、「マルコニ」社製送信機の供給を受けると共に、さきに親しく同社にてその設計および製造法を研究せる松田技師はその修得せるところをもって海軍型電球式送信機の試製に着手し、一二式二号送信機、一二式三号、四号送信機を設計製造せり。爾来我海軍は幾多の実験研究により改良を加わえ、今日の優秀なる送信機を製造し得たるものにして、同社が我海軍無線電信機の進歩に貢献したるところ甚大なりとす。
 
また「マルコニ」は大正十一年(1922年)短波送信機が遠距離通信に至大の偉力を有することを発表し、大正十三年(1924年)には短波「ビーム」通信により英国、豪州間の通信に成功せる旨発表し、我海軍、今日の短波送信機の研究に貢献せり。
この間、米仏諸国が陸上無線施設を閉鎖し、なんら見学の機会を与えざるに、「マルコニ」会社は欧米視察の我が海軍士官にその経営せる「カーナボン」「オンガー」送信所、「プレントウード」受信所および「ラヂオハウス」管制所の視察を許し、対米、対豪州、対印度および対欧州大陸通信施設の状況を説明し我国陸上通信施設の計画に至大の便利を与えたり。また海軍技手淡近赳夫、命により大正十四年
(1925年)九月より同年十二月に至る四箇月間「マルコニ」経営の「チェルムスフォードカレッジ」に学びたる際はあらゆる便宜を与えその修学を援助し、もって我海軍に対する好意を尽くせり。
 
要するに「マルコニ」の研究に基づく「エム」式送信機は多数軍艦に装備し、我海軍無線通信施設の整備に寄与するところ大なるのみならず、その経営する各種施設は常に我海軍視察者に開放して、その有する技術および諸設備を懇切に見学せしめ技術上、用兵上、幾多貴重なる経験を教えたるものにして同人の直接間接我海軍に尽くしたる功績まことに大なるものあり。
 
同人はかねてより本邦訪問の意図を有し、しばしばその計画を発表したることありしも、常に他の事情により決行するに至らず、今回ようやく機を得て来朝の運びとなりたるものなり。
 
           マルコニ履歴書 (省略)
           逓信部内者出張及在留者調 (省略)
 
 斎藤総理大臣はこの推薦文をさらに要約したうえで、1933年11月16日に賞勲局総裁へ裁可を仰ぎました。余談ですが、上記「別紙」より1933年(昭和8年)の逓信省(あるいは海軍省)はマルコーニ氏の第二の画期的発明を「短波ビームシステム」だと考えていたことが読み取れます(ちなみに第一の画期的発明とは「無線電信」)


99) ドーバー海峡のUHF回線が開通 [Marconi編]

 (ところでマルコーニ社の事ではありませんが・・・)1931年3月31日に英国のITT社と、仏国のMT社がドーバー海峡でデモンストレーションした、あの有名な1.67GHzマイクロ回線は、その後どうなったのでしょうか?
1934年 ドーバー海峡横断 UHF無線
 実は英仏両国の航空当局により、ドーバー海峡横断マイクロ回線として採用されることになり、実用化に向けた建設工事が始まっていました。
 1933年秋、英国のドーバー近郊にあるラインプネ(Lympne)飛行場と、仏国のカレー近郊のサンタングヴェルト(St. Inglevert)飛行場間、38.2マイル(61.5km)の連絡用業務用無線として、波長17cm(1.78GHz)と18cm(1.67GHz)を使ったマイクロ回線の工事が完了しました。
 
 左図は英国のラインプネ飛行場に設置されたパラボラです。送信用と受信用のアンテナを少し離して設置しているのが確認できます(ビームの向きは左図[左]の写真で右方向です)。
 
  そして試験運用を繰返したあと、1934年(昭和9年)1月26日より無線電話とテレプリンターによる正式運用に移行しました[ラヂオの日本, 1934.4, p69]
 
英仏海峡のマイクロ波
 左図はRadio Engineering誌の1934年2月号です。雑誌の表紙にはフランスのサンタングヴェルト飛行場のアンテナ塔の写真が使われました。
 英国のラインプネ飛行場のアンテナは送信用と受信用をかなり離して建設されたのに対し、こちらは同じ鉄塔の上に並べて配置されています。
 
 また本文記"Anglo-French Micro-Ray Link"(A.G. Clavier / L.C. Gallant)では送受信装置も紹介されています(左図[右])。なおこの記事はElectrical Communications誌(1934年1月号)からの転載です。
 
 この海峡無線実用化のニュースは日本では読売新聞が『小型反射器を使った超短波ラヂオ =英国の新しい試み=』(1934年[昭和9年]5月8日,朝刊p4)というタイトルで、両飛行場間において超短波の無線電話が始まったことを伝えました。


100) マルコーニがUHFブラインド・ナビゲーションをデモ [Marconi編] ・・・2018年8月22日更新

 1934年(昭和9年)、マルコーニ氏は世界一周の観光旅行から帰国すると、ただちに超短波によるブラインド・ナビゲーション(無線航行)の実用化研究を始めました。指向性があまり先鋭ではない反射器一列式のヘリンボーン・リフレクターを用いた2本のアンテナの向きをわざと90度ずらして、ハート型の試行性を作りました。用いた周波数は500MHzです。
 下図で示した様に、ハート型ビームを(現代の扇風機のように)左右に15度スイング(スイングさせるセンターラインが船を誘導したいコースに相当)させます。このときアンテナが正面に向いてるときは無変調、左にスイング中なら高音、右にスイング中なら低音で変調するようにしたのです。
1934年 マルコーニのナビシステム
 船には高音と低音を低周波フィルターで分離できる受信機を設置します。もし船が誘導コース上を真っ直ぐに進んでいたならば、高音と低音が同じ長さだけ聞こえるというものです。単に受信音を聴くだけでなく、低周波フィルターの出力に応じて、センターゼロの電流計を左右に振らせて、視覚上でも誘導コースと船の進行方向がイメージしやすいように工夫しました。この場合、誘導コース上を正しく進むと、針の振れ幅は左右同じになりました。
In 1934, Marconi conceived of the idea of guiding a ship through a narrow entrance to a harbour in conditions of zero visibility. To demonstrate this he arranged to have mounted, at right-angles to one another, two broad-beam parabolic reflectors with their respective horizontal aerials energized in opposition from a common transmitter. In this way a very sharp zone of minimum signal was created in the centre of an otherwise broad region of high signal level. The whole aerial head was then made to oscillate to and fro by about plus and minus fifteen degrees so that the sharp minimum scanned a sector of thirty degrees. In addition, the transmitter emitted two tones alternately, the change over from one tone to the other taking place when the aerial minimum was directed exactly along the desired navigation course. On board the "Elettra" a four-valve receiver, which had been used no successfully in all previous experiments, was modified by incorporating two tone separators corresponding to the two modulation tones applied to the transmitter. The outputs from their respective detectors were then applied to a centre-zero-indicating instrument. By this arrangement, the pointer of the indicator was deflected left and right (port and starboard) according to the tone being received at that moment. When the 'beacon' head was scanning correctly left and right about the desired approach course, the indicating instrument would be deflected equally, also left and right, provided that the ship was correctly positioned on the approach course.  』 (G.A. Isted, “Guglielmo Marconi and the History of radio - Part II”, GEC Review(Vol.7-No.2), 1991, p120)
When swinging towards the left, the beacon sends a high note, when swinging towards the right it sends a low note. The change of note takes place when the zone of silence coincides with the line for entering the harbour. This arrangement makes it possible to ascertain immediately if the ship is either to the left or to the right hand side of the safety line for entering the harbour, or exactly on it.  』 ("Demonstration of New Micro-Wave Beacon", Marconi Review, July-August 1934, Marconi’s Wireless Telegraph Company Ltd. p28 )
 
 1934年7月28-30日、マルコーニ夫妻は英国とイタリアの船会社オーナー、海運関係者、軍関係者、プレス記者らをエレットラ号に招待し、超短波を使った船舶用「ブラインド・ナビゲーション」をデモンストレーションしました。 ゲストとともにエレットラ号でサンタ・マルゲリータを出港し、南へ18kmほどのセレストリ・レバンテ(Sestri Levante)港を目指しました(下図[左])。
 下図[右]はエレットラ号のデッキでゲスト(左)をもてなしている、マルコーニ氏(中)と同夫人(右)です。
1934 ブラインドナビゲーションのデモコース 1934 デモするエレットラ号
 
 さてセレストリ・レバンテ港が近づいてきました。デモンストレーション・タイムです。港の手前800mほど離れた水域には、90ヤード(=82m)離した2つのブイが固定されていました。窓をすべて目隠しされたエレットラ号の操舵室ではナビゲーション・システムだけを頼りに舵をとり、この2つのブイの間を難なく通り抜けてみせました。さらにこのナビゲーション・システムがあれば、素人でも安全に操縦できると、乗船したゲスト達にも操縦を体験させたのです。
一九三四年七月三十日に、マルコニは微細電波ラヂオ(超短波)の新しい応用を英伊両国の航海者に実験して見せた。それは濃霧の中で盲目航海が出来るようにする安全装置である。マルコニの実験用快走船「エレットラ」号は新機械の指示に従い、なんらの陸標を頼りとせずに、二つのブイの間の狭い水路を通ってセレストリ・レヴァンテの港へ入った。船長が普通の陸標に左右されるのを予防する為に、「エレットラ」号のブリッジに囲いをして前方の見えないようにしてあった。船が少しでも安全航行から逸れると、その逸れ方がパネルに取付けた機械によって直ちに合図され、船長はそれによって船の位置を正すことが出来た。 (Orrin E. Dunlap Jr.(著), Marconi: The Man and His Wireless, 小田律(訳) マルコニ伝, 『日本読書協会会報』1937年12月号, 日本読書協会, pp57-58)
 
1934年 ブラインド航法のデモ
 ゲストたちの反応は上々で、セレストリ・レバンテに上陸すると、マルコーニ氏は彼らをビーコン送信施設のある丘に案内しました。
 デモ用のビーコン送信機は縦横4フィート(約1.2m)、高さ6フィート(約1.8m)ほど、ヘリンボーン・リフレクターの開口長は3フィート(約90cm)で、セストリ・レバンテ港の後方の丘(海抜90m)に設置されました(左図[左]:左端がゲストをもてなすマルコーニ氏)。
 ちょっとこの写真では確認しづらいのですが、ヘリンボーン・リフレクターが90度の角度をもって2本取り付けられているのが見えます(ひとつは左やや後方へ向いており、もうひとつは手前方向のやや左へ向けられています)。
 
For the demonstration, the navigation beacon was installed on the promontory at Sestri Levante at a height of 90m above sea level. Two buoys were then anchored 90m apart at a distance of 800m from the shore to simulate a harbour entrance. On July 30th the 'Elettra' steamed out to sea from her anchorage at Santa Margherita with Marconi's guests on board. With all the blinds of the wheel-house drawn no that it was impossible for the navigator to see, the yacht was successfully steered between the two buoys solely by means of the indication given by the beacon. The manoeuvre required little skill and many of the guests took turns to do it themselves. (G.A. Isted, 前傾書, 1991, p120)
 
 大阪朝日新聞(左図[左]:1934.7.30)から引用します。
マルコーニのビーコン
【ロンドン特電二十九日発】 濃霧の海上を何の失敗もなく安全に航海し得る機械が無電王マルコニー侯爵によりまたまた発明されたと報ぜられる、マルコニー会社は三十日ゼノア(ジェノバ)附近のセエストリ・レヴァンテで英、伊両国の船舶関係者の前でマルコニー侯のヨット・エレタラ号にこの機械を装置して実験して見せるとのことでその際航海室はすっかり窓懸けを下して外が見えないようにし、その中で運転士はこの新装置だけを頼りにして安全に船を港内に航行して見せるはず。
 右発明はマルコニー侯が最近三年間超短波の波長の研究中に考えついたものでこの装置により如何にひどい濃霧の中でも港へ無事に航行することが出来るという、しかしてそのトランスメッターは六十センチメートル短波長(500MHz)をもって行われ、今日までの実験では気圧、雨、嵐、霧、雷など外気気象の妨害をこうむることなしに新装置の機械は完全にその機能を発揮するとのことである。 (新装置を発明, 『大阪朝日新聞』, 1934.7.30, p11)
 
 マルコーニ氏にとっては「開拓が終った短波」は "過去のもの" であり、いまや興味の全てが超短波に向けられていました。ところでこの1934年7月のデモンストレーションのあと(10月頃?)、最初の心臓発作がマルコーニ氏を襲いました。つまりマルコーニ氏は来日観光のちょうど1年後あたりから体調がすぐれなくなったようです。
(1934年)7月、再びエレットラ号で出発し、ラパッロとセレストリ・レヴァンテ間の計器航法の実験を行った。オブザーバーとして、古くからの友人でシカゴの著名な物理学者のアーサー・H・コンプトンをはじめ、英米の専門家たちを招待した。エレットラ号はジェノヴァから30海里ほどのセレストリ・レヴァンテ沿岸まで北上した。その辺りの水路は、航海者にとっては高度の技術を要する場所で、危険航路を示すブイが浮かんでいた。マルコーニは、船が濃い霧に包まれた場合を想定し、ラジオ・ビーコン(電波標識)のみの補助で計器航行することを提案した。春の日中の最悪の気象条件を想定してシミュレーションするために、船長が船の前方や側面がまったく目視できないように、操舵室の甲板側の窓にすべて幕を張った。コンプトンによれば、この間、父は落ち着いて機器の準備をしつづけ、またエレットラ号は航路を変更することもなく通常の速度で港に向かい、船長は計器の指示のみを頼りに何のミスもなく難しい航路を進むことができた。
その(1934年)夏は、父は健康状態も非常に良かった。しかし9月になると元気がなくなった・・・(略)・・・激しい心臓発作に襲われた。即刻ローマからフルゴーニ先生が呼ばれて、治療の結果、幸い順調に回復した。 (デーニャ・マルコーニ・パレーシェ著/御舩佳子訳, 『父マルコーニ』, 2007, 東京電機大出版局, pp326-327)


101) マルコーニがUHFレーダーのフィールドテストを開始 [Marconi編]

 大倉商事の高橋氏はマルコーニ氏の来日(1933年11月)時に次のように書かれています。ここでいう「ある種の新発明」とは、レーダーのことだと推察します。
最近のマイクロウエイブ等の装置を完成されたのである。そしてそれらの発明はいずれも実験に実験を重ねられた結果であって、決して理論や理屈で成ったもので無い事は世間周知の通りである。侯は目下、超短波マイクロウエイブに関するある種の新発明に没頭されつつあるが、過日その内容について私に考案の大要を内示されたのであった。侯爵が本研究についていかなる方法を執り、また苦心の結果がいかなる成績を挙げられたかは遺憾ながら玆所にお話出来ぬが、全ては遠からず偉大なる新発明として世界に発表せらるるであろう ・・・(略)・・・』 (高橋是彰, マルコニー候を語る, ワット, 1934.1, ワット社, p17)
 
 1934年(昭和9年)秋より心臓発作で療養していたマルコーニ氏ですが、1935年(昭和10年)3月16日に二度目の心臓発作に襲われました。しかし1月に発注していたUHF実験用装置が出来上がるため、マルコーニ氏は医者の言葉に耳をかさず、自分の命を縮めてまでもUHF実験を再開したかったと娘が著書で書いています。どうやらこの頃の実験はマルコーニ社としての正式なものではなく、マルコーニ氏が私費を投じていたようです。
(1935年)3月16日に再度発作が起きた。その後いく度となく激しい発作が続き、フルゴーニ先生は、(マルコーニに)すべての仕事を禁じる摂生を促した。ところが父は、自分自身の治療となると、頑として人の言うことを聞き入れなかった。早く実験活動を再開したくてがまんできず、また、イタリア王立学会と国立研究所の会長としての義務は果たすつもりだった。そして会合に出席するためそっと隠れて外出するようになった。 (デーニャ・マルコーニ・パレーシェ著/御舩佳子訳, 『父マルコーニ』, 2007, 東京電機大出版局, pp328-329)
 
1935年 マルコーニのレーダー試験
 1935年(昭和10年)4月、首都ローマの西北西50数kmに位置するサンタ・マリネッラ(Santa Marinella)の海岸にあるトッレ・キアルッチア局(Torre Chiaruccia)の高さおよそ20mの石塔(左図)を使って、マルコーニ氏はソラーリ氏とUHF波によるレーダーの基礎的なフィールドテストをはじめました。
  今をさかのぼること13年。渡米中だった1922年6月20日、無線技術者学会IRE(Institute of Radio Engineers)と米国電気学会AIEE(American Institute of Electrical Engineers)の共催の講演会においてマルコーニ氏が語った「レーダー」に、今ようやく手を付けたのです。
 
 「父マルコーニ」から引用しましす。
1935年1月、父はジェノヴァのマルコーニ製作所に、波長50センチメートル(600MHz)の小型送信機と自ら立案した精密な受信機を発注した。4月15日、ソラーリ(Luigi Solari)と共に、イタリア海軍の実験用無線電信局のあるローマ(Roma)とチヴィタヴェッキア(Civitavecchia)間のトッレ・キアルッチア(Torre Chiaruccia)に出かけた。この無線局は国立研究所に貸与されていて、父は自分の実験に利用していた。
1935年 マルコーニのレーダー試験
1935年 マルコーニのレーダー試験
1935年 マルコーニのレーダー試験
 機器類をチェックしてから、路上数キロをゆっくり双方向に行ったり来たり車を走らせた。ソラーリとマルコーニは、照射器が常に車の移動方向に向くようにしながら送信機と受信機とを交代で操作した。マイクロ波が車にあたるたびに、かつてヴァティカン-カステル・ガンドルフォ間のマイクロ波通信設備でも発生したように、受信機がそれを感知するとシューっと音を出した。これこそが、その後船舶や航空機に多大な効用をもって採用されたレーダーの原理だった。
 この実験は方法や場所を変えて繰り返し実施された。以前ワシントン在イタリア大使館の空軍武官をされていたチジェルツァ将軍は、若い時に、地上から父が航空機に向けてマイクロ波を送り出し、自分はティヴォリ(Tivoli)とフラスカーティ(Frascati)の上空を何時間も飛行したとのことだった。特にイタリアがエチオピアに侵攻(しようと)していた頃だったから、世間一般の人々にはこの種の活動は種々の誤解のもととなった。その地域の農民たちは、羊の群れが(マルコーニの)<死の光線>で殺されたと断言した・・・(略)・・・』 (デーニャ・マルコーニ・パレーシェ著/御舩佳子訳, 『父マルコーニ』, 2007, 東京電機大出版局, pp328-329)
 
 上記の話の中に登場する、「バチカン宮殿-ガンドルフォ城」UHF回線での不思議な経験も引用しておきましょう。この回線は同時通話式なので、送信波が庭師の手押し車に反射され、それが受信機に感応した音が「シュー」だったようです。
ある日、ヴァティカンの無線オペレーターが機器から、誰かが砂利道を足を引きずって歩いているような奇妙な音を聞き取った。わずか数分のことだったが、その後も毎日同じ時刻に聞こえた。好奇心に駆られて雑音の原因を探ろうと、機械が設置されている部屋の窓に面した庭を見ると、毎日音がするのと同じ時刻に、庭師がマイクロ波の通過するルートに沿ってゆっくりと手押し車を押していることに気づいた。この話を聞いた父はすぐにこの現象を調べたがったが、実際には1935年になって調査した。  (デーニャ・マルコーニ・パレーシェ著/御舩佳子訳, 『父マルコーニ』, 2007, 東京電機大出版局, p320)
 
1935年 マルコーニ レーダーのデモ
 1935年(昭和10年)5月14日、マルコーニ氏はムッソリーニ首相の面前でUHF波を使ったあるデモンストレーションを行いました。しかしその内容は軍事機密とされ非公開でした。
 日本では読売新聞が "噂レベル" という前置きを付けて報じましたので引用します(左図)。
イタリー軍部方面から探聞するところによれば無電の父マルコニー侯爵は最近飛行機や自動車などのエンジンを失速または停止せしめる驚くべき電波発生装置を発明し、十四日、ローマ郊外ボツシア要塞においてムッソリーニ首相の面前でそのテストを行い大成功を収めたといはれる (無電王マルコーニ候 驚異的電波を発明 飛行機や自動車を停める, 読売新聞, 1935.5.16, 朝p7)
 
 マルコーニ氏が5月14日にムッソリーニ首相に対して何らかのデモをしたのは事実ですが、その内容に関しては、「・・・といわれる」の域を出ません。引用を続けます。
この偉大なる発明に黒シャツ党首相は相好を崩して(=顔をほころばせて)「これさえあれば戦争も敢えて恐るるに足らぬ」と豪語した由である(・・・といわれる)。なおこのテストが行われている約卅分(30分)の間、ローマ市とその外港オスチア間の道路を疾走中の自動車はいづれも不意にそのモーターがピタリと停止し、運転手がいかに焦っても車は少しも動かなかったが、やがてテストが終るとエンジンが動き出したので事情を知らぬ彼らは全く狐につままれた思いであった(・・・といわれる)。  』 (無電王マルコーニ候 驚異的電波を発明 飛行機や自動車を停める, 読売新聞, 1935.5.16, 朝p7)
 以上はあくまで "噂レベル" です。裏付けを取るために、記者がマルコーニ氏に取材をしていますが、軍の機密なのでノーコメントでした。
マルコーニ候は「今回の発明について語ることは今のところ絶対に不可能だ。それは既にイタリー軍機の秘密に属し、事極めて重大な意味を有するからである。しかし何れ後になれば詳細に発表できるであろう。」と語った。 』 (無電王マルコーニ候 驚異的電波を発明 飛行機や自動車を停める, 読売新聞, 1935.5.16, 朝p7)
 
 これら根拠のない噂について、娘は次のように書いています。
奇妙な目に見えない光線のせいでオスティアの路上で自動車が何台か立ち往生したそうだと噂した。こうしたもっともらしい噂が流れ、中には真に受ける人たちもいたくらいで、第二次大戦後、ある新聞などは <マルコーニは法王に自分の罪を告白した後に自殺した> という根拠のない記事を載せたほどである。 (デーニャ・マルコーニ・パレーシェ著/御舩佳子訳, 『父マルコーニ』, 2007, 東京電機大出版局, p329)
 
 このデモンストレーションの半年後、1935年10月2日、イタリアのエチオピア侵攻が始まりました。その直後、マルコーニ夫妻がローマのラジオ局2ROを通じて米国へ次のように語りました。
今度は飛行中の飛行機を射止めたり、疾走中の自動車を停めたりする「無電殺人光線」を発明したとの噂が新聞紙の一面を賑わした。ローマ2RO局から、マルコニは対米放送を行なって、自国の立場への同情を求めた。彼は先ず「殺人光線」に関する噂を打消して、「遠距離から発動機の運転を止める新発明について、皆さんが私から説明を聞きたいと望んでおられるならば、私は皆さんを安心させる為に申上げておきたい。どうぞ御満足のいくまでお飛び下さい。貴方がたの飛行を停めるようなことはありませんから ― とにかく当分の間は。
 それから伊エ(エチオピア)戦争の話題に転じて、彼は言った。
欧州は過去十七年間、今にも大衝突を起こしかねない状態を続けて来ましたが、今やその危機を脱しつつあるのです。・・・米国の皆さんは、幸いにも国際連盟の埒外にあって、ジュネーブの息詰まるような空気とは少々異なった、二大洋と大空間の自由な空気を呼吸していられるのありますから、独自の公平な見解を形造ることがお出来になるでしょう。皆さんはイタリーの主張の公正を必ず認めて下さるでしょう。」と。
 マルコニ夫人も、国際放送において、ファシズム制度の下にイタリー婦人の社会的地位が向上ことを、
ムソリーニが現れてから、始めて、総ての職業が婦人に開放されました。・・・概して、イタリー婦人は政治にあまり関心を持っておりませんけれど、私共は建設的人間的努力には十分参加しております。今回の伊エ(エチオピア)戦争において、イタリー婦人はこの事を証明しました。 」と述べた。 (Orrin E. Dunlap Jr.(著), Marconi: The Man and His Wireless, 小田律(訳) マルコニ伝, 『日本読書協会会報』1937年12月号, 日本読書協会, pp58-59)
 1936年(昭和11年)5月にムッソリーニはエチオピアの併合を宣言しました。そしてイタリアは国際連盟の措置を不服として1937年12月に国連を脱退してしまいます。
【参考】 関東軍による柳条湖事件(1931年9月)を契機に満州事変が始まり、国際連盟が「日本の侵略行為」としたリットン調査団報告書を採択(1933年2月)したため、日本は先に国連を脱退しています。
 
 このように1935年よりイタリアが戦時体制に入ったため、マルコーニ氏のUHF研究は完全に機密扱いとなりました。そのため不審な噂がたえず飛び交う始末で、マルコーニ氏にはとても不幸な時期だったように思われます。
戦艦イタリアのレーダ
 研究や実験の詳細までは判りませんが、マルコーニ氏は軍用レーダーを開発していました。しかし激務だった1935年10月からのブラジルへの特命出張で病状がさらに悪化し、研究はほとんど進まなくなりました。
 マルコーニ氏のレーダーのアイデアから大いに刺激を受けていたイタリア軍は独自にウーゴ・ティベリオ(Ugo Tiberio)やネロ・カラーラ(Nello Carrara)らに研究させて、1936年(昭和11年)にはEC-1型レーダーを完成させました。
 その後も細々と改良が続けられ、1941年(昭和16年)からEC-3型(Gufo:フクロウ、周波数400-750MHz)の試験を開始し、1942-43年(昭和17-18年)に、イタリア海軍の軍艦15隻に実戦配備しました。左図は戦艦イタリア(旧名Littorio)に装備された"フクロウ"EC-3です。
 
 また一方で、イタリアでのマルコーニ氏のレーダー研究報告書は英国のマルコーニ社にも送付されていたため、英国のワトソン・ワット(Robert Watson Watt)がレーダー開発(1935年~)に着手した際、その資料も参考にされたといわれていますが、(私には)詳細は判りませんでした(なお1935年12月、英国政府より最初の空軍レーダー"Chain Home"5局のアンテナシステムの設計および製造をマルコーニ社が受注しています)。
戦時中のため、イタリア政府があらゆる科学の進歩に関する情報を秘密にしたことが、父の仕事についてさまざまな噂の流れる原因となった。ムッソリーニは父とは常に連絡を取り合い、個人的にもある実験に手を貸したほどだった。この件についてはロンドンのマルコーニ社に報告書が送られた。情報から取り残されていたのは、新聞社と一般市民だけだった。父が始めたその研究は、第二次大戦中、イギリスの科学者たちによって、レーダーの形で最初に世に出された。 (デーニャ・マルコーニ・パレーシェ著/御舩佳子訳, 『父マルコーニ』, 2007, 東京電機大出版局, p329)
【参考】 チェルムス・フォード郊外のグレート・バッドウ(Great Baddow)にあったマルコーニ研究所MRL(Marconi Research Laboratories)がレーダー開発に着手したのは終戦後の1946年(昭和21年)です。
 
 とにかく間接的ではありますが、マルコーニ氏のレーダー構想が(氏の没後に)現実のものになりました。


102) マルコーニ逝去 「長波」ではなく「短波」の研究が評価される [Marconi編]

 「無線通信の父」として称えられ、また短波通信の開拓者であり昼間波の発見者でもあるマルコーニ氏は1937年(昭和12年)7月20日午前3時45分に心筋梗塞で帰らぬ人となりました。63才でした。マルコーニ氏のことを「実業家」と呼ぶ人もいますが、人付き合いや会社経営は得意ではなく、とりわけ最後の2年半は心臓発作を繰り返す中、医者や家族の反対も振りきって超短波の実験に没頭していた技術者・開拓者でした。
 
 1937年7月20日18:00、第二の母国イギリス英連邦では弔慰を表して、国営電波を2分間止めました。
【補足】 「世界中の無線局」が停波したとするのは誤りです。マルコーニ氏の本拠地イギリスは、かつて「日の沈まない国」といわれたように、大英帝国の影響がおよぶ地域が全世界に広がっていたから、そういう表現になるのであって、日本の無線局もアメリカの無線局も黙祷の停波をしていません。
午後6時、郵政省(英国郵政庁)のすべての無線局が二分間送信を中止した。中央郵便局(GPO)の無線士たちは送信機の前で直立不動の姿勢をとり、国際無線通信局センターでは英連邦担当のオペレーターが起立し、黙祷を捧げた。父が無線通信によってつなげたイギリスおよび英国連邦では、その時刻、すべての通信の送受信が止められ、BBC(英国放送)でも全ラジオ局が放送を中断した。この二分間、全世界(に広がる大英帝国の領地で)はマルコーニの逝去を悼んで深い静寂に包まれた。(Degna Marconi Paresce著/御舩 佳子訳, 『父マルコール』, 2007, 東京電機大学出版局, p343)
 またローマではこの日に予定されていたラジオ番組がすべて中止され、厳粛な音楽を延々と流し続けたと当時の新聞が報じています。
 
1937年 マルコーニ氏 逝去の記事
 開発職で特許を出願される方ならご存知かと思いますが、発明協会が発行する「発明」という機関紙があります。その昭和12年8月号(p27)にマルコーニ氏の逝去を伝える囲み記事がありましたので引用します。
 無線電信の父として人類文化に一紀元を画した伊太利(イタリア)のグリエルモ・マルコーニ侯は客月二十日ローマの邸宅において逝去した。
 マルコーニ侯は一八九五年、年端わずかに二十二歳の弱冠をもってこの大発明を完成したのであるが、天資の鋭敏に加うるに常に不撓不屈(ふとうふくつ)の精神をもって研究に精進し、数々の輝かしき業績を挙げた。就中特筆すべきものは短波の研究であろう。
今日長距離通信には、短波は独断上の感があるが、当時長波万能時代で短波は閑却(かんきゃく)されてすこしも顧みられざりし秋にあたり、侯の慧眼(けいがん)つとにその用いるべきを察し、これが研究に没頭しつつあったが遂に確信を得て英本国とその植民地を連絡する、いわゆるイムピリアル・スキームに対し、長波をもってすれば数百キロワットの電力を要するものを、短波通信設備をもってすれば僅か十キロワット内外で足り極めて経済的なることを提言して、遂に一九二四年英国政府との間に工事契約を取り結んだ。これがそもそも今日の短波時代を招来した一歩である。
 侯の偉大さを物語るに足りる肩書きや栄誉は十指を屈するもなお余りあるが、その主なるものを挙げれば・・・(略)・・・ (無電の父 マルコーニ侯逝く, 『発明』, 1937.8, 発明推進協会, p27)
 
 マルコーニ氏の生前の功績はもちろん無線電信の発明ですが、発明協会としては同氏の特筆すべき功績に「短波の研究」を挙げています。1901年の中波による大西洋横断通信成功の話などではないのです。長波万能時代にあって、マルコーニ氏は短波に秘められた可能性を見抜き、これを研究し、1924年には大英帝国ビーム通信網を受注して短波時代幕開けの第一歩としたのだと称えています。
 1937年(昭和12年)というと、もう短波全盛時代ですから、「今日の短波」があるのはマルコーニ氏のおかげというわけで、「長波・中波のマルコーニ」よりも、「短波のマルコーニ」の方が評価される時代だったのではないでしょうか。
 
 朝日新聞に掲載された東京帝国大の隈部一雄氏の追悼記事から引用します。マルコーニ氏による短波開拓は、初期の無線実験の成功と同じく、高く評価されるべきものだとしています。
マルコーニは非常に若くして成功したにもかかわらず、晩年まで研究を止めなかった。一九二四年には短波を使って、指向性電波を出し、遠距離通信に成功し、現在のような盛んな国際通信を可能にした。・・・(略)・・・指向性短波を用いる遠距離通信の成功は、若年の頃の無電通信の成功と相並んで称えるべき、彼が人類に贈った偉大な賜物といわなければならない。短波については彼の研究の初期、一八九六年に、既に放物形の反射面を使って指向性を与えることを示しているが、世界大戦中、軍用の目的のために、指向性を持った近距離通信を行うため、短波の研究を始めた。
 その結果は意外にも昼夜を問わず、地球の対称点とさえも通話することが出来るという結果を生んだ。当時彼は「我々の電波に対する知識は進みはしたが、一時我々が思った程たくさんの事は未だ知っていない」と述懐している。
 火星と通信を試みようとしたほど独創的で実行力のあった彼を、未だ六十歳余りの若さで失ったことは誠に惜しい。晩年彼は超短波を医療に応用する希望を持っていた。この様な新方面の開拓にはなお彼に期待し得る所がはなはだ多かったと思われる。 (隈部一雄, 故マルコーニ候, 『東京朝日新聞』, 1937.7.24/25)
 
 なおマルコーニ氏は逝去の直前まで超短波を研究していたことから、それにも触れるものも多くあったようです。当時の逓信省の梶井剛工務局長による追悼記事には次のようにあります。
我、天皇陛下に於かれましても昭和八年、候の来朝せられた折、勲一等旭日章を授けられたのであります。その後の候は超短波通信の研鑽に専念されておりまして、この無線の新分野の開拓についてさらに候の力に俟つものが少なくなかったのであります。このたびの急逝によってその望みも絶たれた次第であります。 (梶井剛, 無線の父マルコーニ候を偲ぶ, 『逓信協会雑誌』, 1937.9, p106)
 
 また元郵政省電波研究所長の若井登氏は次のように述べています。
電波の利用は今なお限りなく広がっている。その中の通信に限っていうと、ヘルツの電波に実用の命を与え、それを育んで社会を豊かにしてくれたのはマルコーニである。彼は心臓発作で倒れる直前までUHF電波の実験をしていた。無線電信の発明者に相応しい63歳の終幕であった。 (若井登, マルコーニの実験レポート(その2), 『ARIB機関誌』, 1991.1, 電波産業界, p31)
 
 バチカン放送や教皇無線を設置したマルコーニ氏ですから、カトリック系の雑誌にも取りあげられています。
マルコーニの一生はその始めから終りまで不屈不撓(ふくつふとう)の努力の一生であった。晩年においては、彼は陸地でも小海峡でも限られた範囲内で、放物線状鏡によって放送され得る五〇糎(50cm, 600MHz)あるいはそれ以下の短波の応用に没頭した。これは濃霧に襲われた船を安全に港へおくりこむために考案されたものであるが、かかる電波はまた、医療の方面においても色々利用の道のあることが明らかにされた。
 彼は死ぬ二日前、何かしら漠然とした予感にかられてヴァチカンの友を訪れ、その日特別なお願いによって法王から祝福を授けられた。一九三七年七月二十日、終油の秘蹟(しゅうゆのひせき:カトリック教会の秘蹟のひとつ)を受けた後、彼は昇天した。ローマは喪に服し、全世界の人々は最愛の友を失って深い悲しみに陥った。 (ヘレン・C・カリファー, 善意の人マルコーニ, 『カトリックダイジェスト日本版』, 1948年7月号, 小峰書店, p20)
 
 多くの電波関係者からマルコーニ氏の短波開拓の功績が絶賛され、また超短波の研究が中断したことを惜しまれました。


103) マルコーニの功績 渋沢東京帝大名誉教授の講演 [Marconi編]

 1938年(昭和13年)11月22日18:00より、神田駿河台の明治大学記念講堂で日伊学会(1937年2月創立)がイタリア文化講演会を開催しました。
 これは相次いで亡くなったイタリアの偉人、無電王マルコーニ(1937年7月20日没)と詩人ダンヌンツィオ(1938年3月1日没)の業績に関する講演会で、東京帝大名誉教授の渋沢元治氏が「マルコーニに就いて」を発表されました。
 渋谷氏はかつて電気学会の会長を務められ(1924-1925)、また1933年に来日したマルコーニ氏を電気学会名誉会員に推戴した際の電気学会の役員でした。帝国ホテルで行われた推戴式でマルコーニ氏と面識があります。戦前の日本で、マルコーニ氏の業績が(特に電気学会筋から)どう評価されていたかを知ることができます。長文ですので講演記事から一部だけを引用します。ちなみに渋沢氏はこの講演の半年後(1939年4月1日)に開学した名古屋帝国大学の初代総長に就任されました。
ただ今ご紹介を頂きました渋沢でございます。今日この記念すべき日に、イタリア科学界の偉人であるマルコーニ侯についてお話するということは私の非常に光栄とする所であります。・・・(略)・・・これからマルコーニ侯がどういう仕事をなさったのかという、その主なることをかい摘んで申し上げたいと思います。これはたくさんあるのでありますが、それを大きく分けますと三つに分けられるかと思います。
 
 第一は無線電信の発明であります。・・・(略)・・・即ちイギリスの学士院というのは中々やかましい所であるが、そこでプリース卿がこのマルコーニの発明を発表してくれた。マルコーニという人が無線で通信が出来る発明をしたということを天下に裏書してそれを雑誌に出したのであります。これが世界に伝わった。私もまだその頃、学生時代でありましたが、その時分は世界の学生が眼を血のようにして無線の研究をしたものでございます。それから直ぐに会社を作って、どんどん実際の方に進んで参ったのであります。これが第一の無線電信の発明でございます。
 第二は大西洋の横断無線であります。 ・・・(略)・・・電波が遠くに行く。それは判った。判ったが真っ直ぐに行くだろう。真っ直ぐにいくならば地球は丸いから電波は真っ直ぐに行って、フランスから出た電波はアメリカには行かないで真っ直ぐに(宇宙へ)いってしまうだろうとあの時分の人は皆そう思っていたのであります。・・・(略)・・・
 第三にこれは少し学問的でむづかしいお話になりますが、しかし最近の無線というものに偉大なる影響をもたらした源でありますから、ごく分かり易く簡単に申し上げたいと思います。無線というものは放送でお聴きになるとお分かりになるように、一つの所から出ますと四方八方に散って行きます。ですから放送のようにどこでも同じことを聴くには非常に便利である。それと同時に四方八方に散ってしまうから自然、力が弱くなる。これが無線の良い所であり又、悪い所であります。そこでマルコーニはこれを遠くにやるに成るべく一方に力を寄せてやろうということを思い付かれた。これがビーム式であります。・・・(略)・・・短波になりますとこれをビームにしてやることが大変有効になる。そして小さな力でも遠くに届く。これを研究されたのであります。・・・(略)・・・今のビームの試験などは、船(エレットラ号)に乗っていて、しきりに実験をせられた。この研究が段々うまく参りまして、遂に一九二四年八月十三日イギリスとオーストラリアの間に、ちょうどあの間は一万二千粁(12,000km)程ありますが、無線電話で実行して、それがうまくいくということを確かめられたのであります。けだし遠距離の無線電話はこれが一番初めてでございます。
 
 終りに皆さんに申し上げておきたいと思いますことは、科学的な方面で、新しい文化を進めて行くにはどういう要件が必要であるかと申しますと、先ず理学、科学方面の科学界にいらっしゃる方が終始新しい研究をされて新しい自然現象を発見されて行く。これが第一の要素になります。次はそういうふうにして発見された現象をうまく総合してこれを必要なる方面に応用する。これが発明なのであります。マルコーニ侯の例で申しますれば、ヘルツやあるいはブランリーの見付けた現象を巧みに通信という方面に応用したのであります。・・・(略)・・・マルコーニという方は探照燈のビームのように電波もそう行くはずだということを考え付かれた。そういう応用の方面に偉い力のあるお方であった。・・・(略)・・・
要するにマルコーニという方は純科学者というタイプではなかったが、優れた発明家であり、かつそれを実用化する才能に富んだ方であった。そういう方がこの電波という所へ眼を付けて下さったため、今日のように無線界が発展してきたと申しても宜しかろうかと思います。甚だ簡単ではありますが、余り長くなりすぎてもなんですから、此の程度でマルコーニ侯をご紹介致したということにしたいと思います。 (澁澤元治, マルコーニに就いて, 『日伊学会会報』, 第2号(昭和13年度), 日伊学会, pp91-106)
【参考】1953年(昭和28年)の米電気学会AIEEにおいて、アームストロング氏はマルコーニ氏の功績として「①地中波の発見、②短波の昼間波の発見、③超短波の屈曲の発見」を挙げています。しかし三番目の「超短波の屈曲」は渋沢氏の講演があった1938年(昭和13年)の時点ではまだ受け入れられていませんでした。
 
 渋沢氏が選ばれた三番目の功績とは、短波のビーム式通信の実用化で、これによって1924年(大正13年)に遠距離無線電話の実験に成功したことを挙げられていますが、マルコーニ氏が昼間波を発見したことや短波公衆通信の実用化には一切触れていません。
 マルコーニ氏が1924年(大正13年)に昼間波を発見し、それによって短波の公衆通信時代が幕開けたのが1926年(大正15年)10月です(英-カナダ回線)。この講演のあった1938年(昭和13年)の公衆通信は、もう短波全盛の時代でした。そして短波が昼間でも遠くまで飛ぶのは、不思議なことでも何でもなく、当然だと思うようになりました。もはや14年前にマルコーニ氏が昼間波を発見し、電波界が大騒ぎした時のインパクトなど、どこかへ消え失せたようです。
 
 さらに第二次世界大戦後になると、渋沢氏が三番目の功績に挙げられた、短波ビーム通信の実用化と英-濠間の短波無線電話の成功ですら忘れられてしまいました
 
マルコーニの経歴
 現代の日本ではマルコーニ氏の経歴を左表のようにまとめられることが多いです。ここには彼が20歳代の、(きわめて古い)技術的話題しかありません。
 そのため日本では、マルコーニ氏といえば火花送信機やコヒーラ受信機の人」であり、「ブリキ板と接地式アンテナの人」とか、「長波・中波の人」、「大昔(無線黎明期)に大活躍した人」というような古典的なイメージがすっかり定着してしまいました。"マルコーニ"の名を聞いて、最先端だった「短波ビーム」や「UHFの実用化」を想起する人は(戦後は)とても少ないでしょう。
 
 しかしマルコーニ氏が無線にかかわった44年間(1894-1937)のうち、実に22年(1916-1937)もの期間が「短波・超短波の開拓」に当てられました。つまり彼が歩んだ "技術屋人生" の丸ごと半分が、この表では消えていることになり、ちょっとお気の毒な気分になります。


104) エレットラ号と船の無線に関する補足 ・・・おまけ

 WEB上では、『1899年12月エレットラ号(英国)に船舶無線電信装置が初めて設置された。』という記述が散見されます。しかしエレットラ号は第一世界大戦で英国海軍が接収していた同船を、終戦後の1919年にマルコーニ氏が購入したもので、20年も時間が食い違っており完全に誤りです。
 
 それでは船舶で無線が使われた歴史を振り返っておきましょう。無線機をはじめて艦船に搭載し通信試験を行ったのはマルコーニ氏ではなく、ロシア海軍水雷士官学校の教官ポポフだといわれています。
 1897年(明治30年)春、ロシア海軍の巡洋艦「ロシア」と「アフリカ」にポポフの無線機を設置し、ロシアの首都ペテルブルク(現:サンクトペテルブルク)の沖合い、フィンランド湾に浮かぶ島にあるクロンシュタット軍港内において、700mほどの通信試験に成功しました。しだいに距離を伸ばし、軍港を出てフィンランド湾内で実験するようになります。送信機は輸送艦「イェフロパ」に設置されました。同年12月にポポフは "無線電信について" と題した講義を海軍首脳に行いました。
 
1897年 マルコーニのイタリア海軍への無線デモンストレーション
 1897年7月11-18日の8日間にわたって、マルコーニ氏はイタリア政府およびイタリア海軍へ無線電信のデモンストレーションを行ないました。
 ジェノバから南東80kmに位置するラ・スペツィア(La Spezia)の軍港近くに送信機を設置し、3.6km離れた地点と「陸-陸」通信デモを3日間行ったあと、7月14日からは海軍タグボート第8号に受信機を設置して「陸-船」通信デモを始めました。さらに7月17日には受信機を装甲艦サン・マルチーノ(San Martino)へ移設し、受信アンテナを更に高くしました。
 
 左図[左]の地図で示されるように、ラ・スペツィア軍港の南にあるパルマリア島(Island of La Palmaria)の沖合い10数kmまで離れたりして試験しています。「船-船」試験も行ったとする文献もありますが、私にはよく分かりませんでした。最終的には通信距離18kmを記録しています。
 左図[右上]がラ・スペツィアの東岸、バルトロメオの海軍施設でデモをしているマルコーニ氏(中央)です。また左図[右下]は海軍タグボート第8号で受信機の調整をしているマルコーニ氏(中央)です。無線が海上通信に有効であることを実感したイタリア海軍は、これを採用する方向で検討に入りました。
 
 同じ年(1897年)の11月、英国でも海上試験を行いました。
1897年 ニードルス海岸局との海上試験
 マルコーニ氏は英国南岸のワイト島(Isle of Wight)西端のニードルス(Needles)に送信所を建設しました。まだ営業施設ではありませんが世界初の海岸局です。そして受信機をタグボートに積込み周辺海域で受信測定を繰り返したところ好成績が得られました。
 そこで対岸のボーンマス(Bournemouth、ニードルスから22km)とスワネジ(Swanege、ニードルスから30km)間を毎日運航している蒸気船に受信機を搭載して、ニードルスからの無線電報が届く様子を乗客にデモンストレーションしました。そして1898年(明治31年)1月にはボーンマスに2局目となる海岸局を建設し、ニードルス・ボーンマス間の実験回線を常設しました。
 
 ちなみに我国でもマルコーニ氏のイタリアでのデモに遅れること、わずか5ヶ月の時期に海上実験が実施されています。1897年12月24-25日に電気試験所の松代松之助氏らが、月島-金杉沖(1.8km)間においてパラボラ送信機とパラボラ受信機による通信実験に成功したことを、時事新報(1898年1月1日)が"無線電信の話"という記事で報じています。
 
 (以上はデモや実験用ですが)商業活動として無線機が船で使われたという意味だと、1898年(明治31年)7月20-21日にアイルランドのキングスタウンで開催されたヨットレースの無線中継をダブリン・デイリー・エクスプレス社(Dublin Daily Express)から受注しましたが、これが最初になるでしょう。このレースの決勝が沖合30数km点で行われるため、陸上の観客が勝敗を知るのは、既に勝負がついて、ヨットが港に戻ってからになるため、無線を使って速報しようとする試みでした。蒸気船フライング・ハントレス 号(Flying Huntress)号に送信機を設置し、各帆船の順位を浜辺の仮設受信所で受けました。メッセージは700通を超えたといいます。受信所からは有線電話でデイリーエクスプレス社へ逐次報告され、その一部は観客に速報として伝えられました。
ヨットがスタートを切ってしまえば、たちまちもう望遠鏡でもわからないレースの有様が、刻々告知板で観衆に知らされた。観衆はレースの勝敗以上に、無線の威力に熱狂した。当時の新聞は、無線の威力を讃えて、次のような意味のことを書いている。「- 先頭を切って矢のように走るヨットより少し遅れて汽船フライイング・ハントレス号が走って行く。その上で新聞社(Dublin Daily Express)の係員がレースの有様を小さな紙片に走り書きしては、マルコーニ氏に渡す。すると氏の右手が、エボナイトの電鍵のつまみの上で軽妙に踊る。係員の書いた文字をモールス符号で送っているのだ。短点の時には青い火花が金属球の間からチラッと飛ぶ。長点の時にはやや長く大きく飛ぶ。それと同時に符号は電波となって、風も霧もものかは一秒間に地球を七周半するという驚くべきスピードで、空間を縫って海岸の受信所に飛んで行く・・・云々 (大西薫, 『無線物語』, 1943, 歌と歌謡の社, pp84-85)
 なおこのレース中継はマルコーニ氏らが創業した無線電信通信会社の初受注Job(初めて収入を得た仕事)だったため、良く知られるところです。
 
1898年 マルコーニの無線をつけた王室ヨット オズボーン号
 ちょうどその頃、英国皇太子(のちのエドワード七世)が宮殿正面の大階段で転んで膝を脱臼し、母ビクトリア女王よりワイト島のオズボーン・ハウス(王室別荘)で療養するよう言われました。しかし皇太子は母の"世話焼き"を嫌って(?)、医者とともに王室ヨットのオズボーン号(左図:The Royal Yacht "Osbourne")で洋上療養生活に入りました。
 息子の様子が心配でならない母はフライング・ハントレス号がヨットレースを無線中継したという新聞記事を読み、さっそくマルコーニ氏を呼び寄せました。そしてオズボーン号に無線電信機を付けさせて、1898年8月3日より16日間で計150回の通信をオズボーン・ハウスと行った話は有名です。
この王室ヨット「オズボーン号」の無線の話が、後にマルコーニ氏が購入したヨット「エレットラ号」と混同され、WEB上で伝言ゲームのように広まったのでしょうか?ただしオズボーン号に無線を積んだのは1898年8月ですから、WEBで言われるところの「1899年12月」とは1年半もの時間差があります。この1899年12月が何を指しているのかは私には判りませんでした。
 このほか、1898年にはドナルド・キュリー(Donald Currie steamship line)社所属のキャリスブルック・キャッスル号(the Carisbrooke Castle)の処女航海の際に送信機を設置し、ボーンマス局への試験が行われています。また1898年12月にはドーバー海峡のサウス・フォアランド灯台とその沖合いのイースト・グッドウィン灯台船(East Goodwin lightship)に無線を装備し連絡通信を開始しています。
 
 1899年(明治32年)4月28日、イースト・グッドウィン灯台船は濃霧の中、航海していたR.F.マシューズ号に追突され、無線でサウス・フォアランド灯台無線局へ救助を要請しました。これが無線電信による初の救援信号です(3月17日に同灯台船が座礁したドイツの貨物船を発見し救援通報したとする記事もありますが、私はまだその事実確認ができていません)。なお灯台船とは同じ場所に停泊したままで、灯台の役目を果たすものなので、これを船舶無線と呼ぶには不適切かもしれません。
 1899年7月29日、英国海軍の巡洋艦ジュノーアレクサンドラヨーロッパ(HMS Juno, HMS Alexandra, HMS Europa)に無線機を仮設してデモンストレーションを行い、最大到達距離85マイル(=137km)を記録しました。172フィート(=52m)の垂直アンテナを用いましたので周波数的には1.5MHz付近でしょうか。
 
 1899年秋、マルコーニ氏はNew York Herald新聞社からヨットレース(America's Cup)の模様を無線中継して欲しいと依頼され、無線機器一式を持って訪米しました。
1899年 マルコーニの船舶無線
 そして1899年10月3日より蒸気船ポンス(Ponce)号からレースの模様の中継を開始しました。左図[左]イラストはポンス号です(San Francisco Call紙, Oct.4,1899, p2)。金属板を吊り下げたアンテナから電波が放射されていますが、これは誇張された図かもしれません。なおレース後半になるとグラン・デューケイス(Grande Duchesse)号から無線中継しています。
 マルコーニ氏はヨットレースのあと、米海軍の戦艦ニューヨーク(USS New York)と戦艦マサチューセッツ(USS Massachusetts)に無線機を取り付けてデモンストレーションしました。21マイル(=34km)では大変良好、最大で29マイル(=47km)届くことが確認されましたが、料金面で折り合いが付かず、売り込みは失敗でした。
 
 1899年11月8日、マルコーニ氏は英国に帰国するために乗船した蒸気船セントポール 号(Saint Paul)に無線機を仮設させてもらい、アメリカを出港しました。そして11月15日に英仏海峡のワイト島ニードルズ局の沖合いで通信試験に成功したと、The Sum紙(1899年11月26日)の第1面の記事"Got News While at Sea"が報じています(上図[右])。連絡が付いたのはニードルズ局から66海里(122km)の地点で午後4時45分でした。これは(一般乗客の電報を扱ったものではなく)マルコーニ社内部の通信試験でしたが、定期航路船からの無線としてはこれが最初です。またワイト島ニードルズ局が南アフリカ戦争の状況を知らせてきたため、船長の発案により、これを船内新聞にして1ドルで販売しました。これが無線を使った船内新聞の第一号にもなりました。
 しかしセントポール号がこのあとの航海でも公衆無線電報を取扱ったという記事や記録を私は発見できていません。これ限りの臨時的なものだった可能性が強いです。もしそうならば、公衆無線電報を扱う船舶無線の"恒久施設"としては、1900年(明治33年)2月にマルコーニ社が北独ロイド汽船所属のカイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセ 号(SS Kaiser Wilhelm der Große)号、およびボルクム・リフ灯台船(Borkum Riff Lightship)とボルクム島灯台局(海岸局)にマルコーニ局を設置し、1900年5月15日より公式に電報の取扱業務をスタートさせていますので、このカイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセ号が最初になると思います。


105) 国際マルコーニ・デー ・・・おまけ

 マルコーニ氏の無線界での大きな功績を称えて、今では氏の誕生日4月25日の前後の週末にアマチュア無線家による記念イベントが催されるようになりましたが、そもそも国際マルコーニ・デーの始まりは同氏が超短波を研究されていた1931年(昭和6年)12月12日でした。ちょうど大西洋横断通信成功(1901年12月12日)より30周年の節目にあたるため、米国の呼び掛けで世界15ヶ国・地域(日、米、加、英、仏、独、伊、ベルギー、ポーランド、ブラジル、スペイン、ベネズエラ、アルゼンチン、フィリピン、ハワイ)が無線中継網を駆使し、自国の無線通信界代表者によるマルコーニ氏への記念祝辞とその国を代表する音楽を交換し合いました(マルコーニ記念国際放送)。
 
 マルコーニ氏と助手のケンプ氏はロンドンBBCのスタジオにいました。そして世界へ向けて以下のように語りました。
『 この日、無線の父五十七歳のグリエルモ・マルコーニは、英京ロンドンのBBC放送局の一室にあって、マイクロホンを前に、地球をとりまく国々のラジオ聴取者に次のような挨拶を送った。
「三〇年前、私はニュー・ファウンドランドの丘の上のがらんとした建物の一室で、三〇〇〇キロ隔てた大西洋の彼方ポルデュ無線局から送られてくるはずのS字符号を、果たして受信できるかどうかあやぶみながら不安な気持で待っていました。そして、かすかながらこの耳に聞き取ることができたのであります。それから三〇年、ラジオはかくも立派に成長し、海を越え大陸をまたいで地球をつつむまでになりました。今、この三〇年の進歩を省みますと、まことに感慨無量なものがあります。三〇年の昔、私とともにあのS字符号を受信した私の助手のケンプ氏が、あの時と同様に、私のそばに今立っておりまして、私が世界中の皆様にお送りしている御挨拶を聞いております。私はケンプ氏とともに、皆様に心からの感謝をささげる次第であります。最後に本日の祭典の記念として、あのときに私たちが受信したS字符号を、皆様の耳にお伝えいたしますが、これはケンプ氏が電鍵を握って発信するのでございます。そのおつもりでお聞き下さるようにお願いします。」
 言葉が終わると、トン、トン、トンと三つの短信が電波に乗って送り出された。これはたちまちのうちに全世界幾億の聴取者の耳にとどき、深い深い感動をよび起こした。 (早野彦八郎, 『電波ものがたり』, 1959, 法政大出版局, p164)
 
 時差の都合で日本からの送信の番は13日早朝06:00-08:30でした。逓信省の稲田工務局長の英語スピーチが検見川送信所J1AAの13.080MHzで送り出され、米西海岸にあるRCA社のポイントレー受信所で受け、ボリナス送信所KKWから13.705MHzでハワイとフィリピンへ戻す一方、陸線で全米へ配信し各局で放送されると同時に、ニューヨークから長波で南米のブラジル, アルゼンチン, ベネズエラと、欧州のスペイン、英国へ送られました。そして英国から海底ケーブルと陸線で(スペインを除く)欧州大陸の参加国に送られ再放送されました。
 また日本が受信の時はボリナスKKWの13.705MHz波を岩槻受信所が受けて、陸線で東京中央電話局を経由し愛宕山の日本放送協会に送り、そこから各局へ配信されました。スペインだけが空中状態が悪く中継できず、やむなくニューヨークからスペイン音楽を送ったのが残念ですが、国際マルコーニ・デー全体としては大成功でした。
 なお前述しましたが、この2年後の1933年(昭和8年)のシカゴ万博では10月2日を「マルコーニ・デー」として記念行事が行われました。


106) 小学校の学級文庫に登場するマルコーニの超短波など ・・・おまけ

 1958年(昭和33年)、東京の日本書房が学級文庫(小学4・5年生向けシリーズ)の一巻として出版した「マルコーニ」(中正夫)という本があります。もしかすると「あっ。この本なら覚えがあるぞ」という方もいらっしゃるかもしれませんね。昭和33年に小学4-5年生(10-11歳)だとすれば、生まれたのが昭和22-23年で、いわゆる団塊世代をターゲットにした本でした。
 マルコーニ夫妻が1933年(昭和8年)に観光で来日された話の中で、ほんの少しですが超短波に触れる部分がありますので、参考までに引用します。なお文中のミリ波はセンチ波(50cm=600MHz)で、また超短波とあるのは短波のように思います。
1958年 学級文庫 マルコーニ
(来日した)マルコーニは、髪も白くなり、侯爵マルコーニとして、堂々の貫禄をそなえた老紳士であった。それでも元気は、はちきれるように、海軍の制服をつけ、しゃんとして、少しも衰えをみせない。「今でも先生は、やはり研究をつづけていらっしゃいますか。」
会見にきた記者が問うと、
「もちろんです。死ぬまで研究はやめません。ただいまは、ミリ波の研究をしています。」 (注:マルコーニ氏が研究していたのはミリ波ではなくセンチ波です)
ミリ波といいますと。」
極超短波です。わずかな電力で、どんなところへも通信できます。」
と。たゆまぬ研究心のほどをみせていた。マルコーニは、日本で、講演会をしたり、技術指導をしたり、また宮中に召されて、勲章も授けられたが、
「わたくしの祖国イタリアと、お国のニッポンとは、ともに古い歴史をもち、山水も美しく熱情をもつ国民が住み、たいへんよく似ています。その日本に、わたくしが発明するとすぐに(電気試験所の松代松之助技師が)立派な無線実験を行ったということは、ほんとうにうれしいことです。」
と、くりかえしていった。そして奈良や京都を見物し、日本には「日光を見ないで結構だというな」という、ことわざのあることをきくと、
「おお、わたしの国でも、ナポリを見ずに美しいというな、ということばがあります。」
とよろこび、もういちど日本へゆっくりと見物に来たいと、あわただしい旅を終って日本を去ったが、それから五年で、この巨人が世を去るとは、だれも思いがけなかったであろう。さて話は、もとにもどって、第一次世界大戦中には、マルコーニは、もっぱら超短波の研究に努力していた。 (注:第一次世界大戦のときに研究に着手したのは超短波ではなく、短波です) ・・・(略)・・・
 日本から帰ると「さ、いよいよ、いそがしくなるぞ。」と、古い友人のケンプとともに、ローマ郊外に設けたマルコーニ無線研究所にひきこもって、極超短波の研究に熱中していた。六十三歳と見えぬ若々しい情熱は、いつも新しい未知のものへの追求にそそがれ、助手たちが健康を気づかって、
「少しおやすみになったら---」とすすめても、
「わしはこうやって研究しているのが、いちばんの健康法だよ。」と元気に語っていた。しかし、そのころから、マルコーニは、なんとなく疲れやすいのを感じるようになり、時々、手をやすめて、ぼんやりと窓から空をながめている時がある。四十年間の長い生涯であった。 (中正夫, 『マルコーニ』, 1958, 日本書房, pp213-215, pp232-233)
 
 1957年(昭和32年)に偕成社から出された「ノーベル賞物語」(三石巌著)はマルコーニを単独で扱った本ではありませんが、彼が研究していたUHF波を殺人光線として噂された1935年ごろの事件に触れています。
1957年 マルコーニの殺人光線
- マルコーニ氏、無線殺人光線を発明 -
 - 飛行機や自動車をたちどころにとめてしまう光線
ある朝、こんな見だしの新聞記事が、イタリア市民のきもをひやしました。イタリアがエチオピアに攻めこんでいったころなので、一部の人たちには、このニュースは大もてでした。しかし、テレビ(の開発)にむちゅうだったマルコーニは、根も葉もないこのうわさを、たいへん悲しく思いました。
私は無線が戦争で使われるより、何か人の命をすくうことに使われるのを願っています」無線の発明いらい、マルコーニの変わらない気持はこれなのでした。
 
 平和な一九三七年の夏、夫人と七つになる娘マリアが避暑地にむかうのを見送って、マルコーニは汽車の窓をのぞきこんでいました。「パパもいっしょだといいのに」「そうだね元気だと行けたのにね
あら、パパ泣いてるの? 」「目にごみが入ったのさ。気をつけて行っておいで
駅から帰りの自動車の中で、マルコーニは、おさえていたなみだを遠慮なく流しました。
 その日の午後、暑さのためか急に気分が悪くなって、あくる日のあけ方、この大発明家は、しずかにしずかにいきをひきとりました。 (三石巌, "無線電信の創始者マルコーニ", 『ノーベル賞物語』, 1957, 偕成社, p212)
 
 また1962年(昭和37年)に「少年少女のための世界ノーベル賞文庫」第五巻として出版された"見えない光をとらえた"に収録されている「無電王マルコーニ」は、マルコーニ夫妻の日本訪問の話からはじまる異色本です。冒頭部を引用します。
 昭和27年(1952年)生まれ以降の方々が学校の図書室でお読みになられたものと想像します。
1962年 マルコーニの伝記
 無電王 マルコーニ
 あこがれの日本へ
 「私は長いあいだのゆめであった、あこがれの日本に、ただいま、やってまいりました。そのときにあたり、このようなさかんなかんげいをうけて、うれしくてなりません。私は日本がはじめてです。しかし、私には日本のみなさまが、みな、なつかしい友だちとおもわれてなりません。なぜならば、イギリスの私の工場でつくった放送機が、日本の各地で、みなさまにラジオの電波をおくっているからであります。
うつくしい、火山のある日本。ことにうつくしい富士山のある日本、そして、私のふるさとイタリアの国情ににている日本にくるよろこびは、かぎりないものがあります。

昭和八年(一九三三年)十一月十六日、世界一周旅行のとちゅう日本にたちよった無電王マルコーニは、横浜のはとばをうずめつくしたイタリア大使、電気通信にかんけいある有名な学者、正負のお役人をはじめ、放送局の人たちなど、たくさんのでむかえの人たちをまえに、このようなあいさつをしました。そこには、まだ、はれきらないきりのなかに、太平洋の荒波をこえてきた秩父丸が、おおきな船体をよこたえています。
「わあっ!」 「マルコーニ ばんざい!」
日の丸とイタリアの旗がおおきくゆれうごきました。こんのせびろに灰色の中折、実業家とも学者ともつかず、みるからに人のよい、おとなしそうなマルコーニは、おくられたみごとな花たばをむねにだいたまま、目をしばたたいています。となりには、黒のドレスに、はでな白黒のがいとうをはおった、うつくしいおくさんが、ニコニコしています。
やがてマルコーニ夫妻は、沿道のでむかえの人たちにこたえながら、車で帝国ホテルにつきました。ところがついてみると、マルコーニは、こんどは電報にでむかえにまたおどろいてしまいました。
「ブジ ニホン トウチャクオ シュクス」 マルコーニの到着をいわった電報が、日本の各地、ヨーロッパの各地、イタリアの会社、友だちなどからどしどしおくられてきて、マルコーニのへやは、みるまに電報に山になってしまったからです。マルコーニは、ニコニコわらいながら、さっそく、タイピストをやとって、返事の電報を、ひとつひとつうたせました。この電報が、いかにたくさんだったかは、タイピストが毎日うちづつけて、たっぷり三日もかかったということでおわかりでしょう。
「さすが、無電王ともなると、ちがったものだなあ。」 ホテルの人たちは、かおをみあわせて、はなしあうのでした。
あくる日、マルコーニには、勲一等旭日大綬章(くんいっとうきょくじつだいじゅしょう)という、最高のくんしょうがおくられ、かんげい会のもようは、ラジオから全国すみずみまで放送されました。
このように、マルコーニはどこへいっても、たいへんなかんげいをうけました。それは、無線電信の発明者であり、ラジオのうみのおやにたいする、人々のかんしゃのきもちのあらわれからでありましょう。
それでは、近代文明の恩人マルコーニとは、いったいどんなひとだったのでしょうか。
 
幸福なおいたち
 ググリエルモ・マルコーニは、一八七四年四月二十五日、いまから八十二年まえ、イタリアのポロニアというところでうまれました。
 ・・・(略)・・・ 』 (日本児童文芸家協会編, “無電王マルコーニ”, 『見えない光をとらえた』, 1962, 東西文明社, pp95-97 )
 

●さいごに・・・

 マルコーニ氏は1916年(大正5年)からフランクリン技師と短波へ回帰してゆきました。短波研究の着手は早かったのに、結局、短波の実用化はウェスティングハウス社のフランク・コンラッド氏に先を越されてしまいました(1923年、KDKAが短波中継を実用化)。しかしながら、ビームアンテナを開発し、そして昼間波を発見し、短波による公衆通信時代を築いたのはマルコーニ氏とフランクリン技師のお二人です。
 その後もマルコーニ氏は研究を続け、1933年(昭和8年)2月11日、世界初となるUHF回線の実用化を成し遂げ、またUHF波が見通し外へ曲がることを発表するなど、長年にわたり無線界の発展に多大なる貢献をされました。けして長波・中波だけの人ではありません。
マルコーニの一生は全く無線電信電話の為の一生であった。彼はそれを自分で発明し、そして一生をかけてその全発達史を創り上げたのである。 (岡忠雄, 『科学者の道』, 1948, 三笠書房, p267)
 
 私が工学部の学生の頃には、「素人はマルコーニの伝記を読み、彼を尊敬するだろうが、マルコーニは何か新しいものを発明したわけでなく、先人の研究を組み合わせただけだ。」とか、「マルコーニは科学者というより、実業家なんだよ。」などと、通ぶった発言をして得意がったものです。でも今考えれば、それらの話はマルコーニ氏が実験を始めた1894年より(ノーベル賞までの)15年間ほどの頃のことでしょう。これをもって、マルコーニ氏の無線人生の全体に当てはめるのは大きな間違いでした。
 またマルコーニ氏が「無線電信の発明者」かについて、様々な意見があることを私も承知しています。しかし(テスラ氏やポポフ氏らとは違って、)マルコーニ氏が44年間(1894-1937)もの長きにわたって現役の無線実験家であり続け、かつ研究成果も出し続けたことに、私は大いなる敬意を払いたいと思います。やはり「無電王」の名にふさわしいのはマルコーニ氏ではないでしょうか。
 
 戦前の日本ではマルコーニ氏の短波や超短波の開拓が伝えられ、無線のプロだけでなく、アマチュア無線家やラジオファンにもそれが認知されていたはずです。 
 飛ばないといわれていた短波をマルコーニ氏が開拓し、誰もがありえないと考えていた昼間波を発見したこと。ビーム通信法を確立させ、短波帯公衆通信時代を築いたこと。世界で最初にUHF回線を実用化したこと。そしてUHF波が曲がることを発見したこと。観光で妻と来日し、ラジオを通じ日本の一般家庭へ向けて挨拶したこと・・・等等、それら一切合切が、第二次世界大戦後の日本では急速に忘れられました。
 (理由はよく分かりませんが)終戦後の日本では、雑誌や書籍でこれらの話題を取上げる筆者が少なかった(すなわち記事が少ない)からでしょうか?「語らなければ、10年前の出来事でさえ消えていく。」歴史とはそういうもののようです。
 またマルコーニ氏の短波や超短波が取上げられても、それは単発トピックで、ほかに全体像を俯瞰できる資料・文献がないため、読者の心に刺さらなかったのかも知れません。そこで本ページではマルコーニ氏の短波を時間順に、そして網羅的に取上げるように努めました。
 
 このページをきっかけに、マルコーニ氏の短波や超短波がもっと雑誌や書籍で取上げられるようになり、結果、興味をもたれる方が増えて、Web上でもこの件がもっと話されるようになればと願っています。語りましょう。マルコーニ氏の功績が歴史から消えてしまわないように。

<その他の各ページへのリンク>
◆短波開拓史フロントページ: 概要編 (アームストロングの講演「発見の精神」など)
◆短波開拓史サブページ: コンラッド (短波の電離層反射の実用化)
◆短波開拓史サブページ: アマチュア無線家 (アマチュア無線の誕生)、続 アマ無線家(短波の小電力遠距離通信の発見)