マルコーニ 1925-1930

平面ビームアンテナと帝国ビーム回線完成

パラボラ式無線機の実験

短波から中波に降りてくる

海上公衆通信の商用化

短波開拓の成果を学会発表

短波の電離層反射を確信

昼間波を発見する

平面ビーム

超短波の湾曲性を発見

超短波の実用化

船舶無線ほか

戦後の日本で流行ったある評価ほか

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1925~1930年 目次

1) 平面ビームアンテナの開発 (1923-25年) [Marconi編]

帝国ビーム通信網を完成させるにあたり、マルコーニ氏にはもうひとつ課題が残っていました。立体的な構造のパラボラ式ビームアンテナの簡素化です。

【参考】各エレメントの途中にあるのは1/2波長の電気長を持つコイルです。

部下のC.S. フランクリン技師がまず最初に試したアンテナは、多段コーリニア・アンテナに反射器を加えたものでした。しかし輻射器+反射器の1対の組み合わせだけでは期待するほどのビーム効果が得られず、もっとビームを鋭く絞るために、これをカーテン状に複数並べた平面ビームアンテナ(Franklin Array Antenna)へ進化させることを思い付きました(左図)。

これを実現するためにフランクリン技師は同心円筒型給電線(Concentric Tube Feeders)と、各輻射エレメントへの整合分配器の設計・開発にも注力しました。

そして1923年(大正12年)頃よりマルコーニ社のC.S. フランクリン技師が、ドーバー海峡のサウス・フォアランド(South Foreland)灯台の隣に実験施設を建てて、平面ビーム・アンテナの実用化試験を開始しました。

以前、インチケイス島で実験していたパラボラ式電波灯台と同じく、180度逆向きの2つのビームを発射できる最新型の平面ビーム・アンテナです

ここは濃霧による海難事故が多発する海域で、1898年12月より、サウスフォアランド灯台とその沖合に停泊するイーストグッドウィン灯台船間の無線連絡回線が開設されたことでも知られる場所です。1924年(大正13年)にはC.S. フランクリン技師による平面ビーム実用化の目途がたったようです。

The first of these, designed by C. S. Franklin, was erected at Inchkeith, Firth of Forth, in 1921, and operated on four metres using a rotating antenna with a parabolic reflector. An improved version was erected at South Foreland in 1923-4, upon which further development work was done. (W.J. Baker, A History of the Marconi Company, 1972, St. Martin's Press Inc.[New York], p250)

2) 平面ビーム・アンテナ式の電波灯台をデモ(1925年9月) [Marconi編]

1925年(大正14年)9月3, 4日、マルコーニ社(英国)はサウス・フォアランド(South Foreland)ビーム送信所の施設見学会とエレットラ号によるデモンストレーションを実施しました。

日本からは帝国海軍の村上造船造兵監督官が派遣されています。つまり日本人として最初に平面ビーム・アンテナを見たのは海軍の村上氏す。

中央に16本の反射エレメントを並べて、それを挟むようにして両側に輻射器AとB(各8エレ)を並べています。つまり中央列の反射器1-16が、輻射器AとBに共有されている、三列構造のデュアルビーム方式でした。

車両基地で見られた蒸気機関車の転車台と同様の構造で、回転台に乗せられた波長6.09m(49.3MHz)の平面ビームをクルクル廻しながら角度によって決められた符号を発射します。招待客は回転ビーム装置を視察(下図)したあと、エレットラ号に乗船し、海上から電波灯台の利便性を体験しました。下図[左]に招待客らが写っていますね。

【参考】 この電波灯台は数年間、濃霧時のドーバー海峡を航行するマルコーニ船舶局に利用されました。

3) 大英帝国通信網に平面ビーム・アンテナを採用 [Marconi編]

マルコーニ社は1924年(大正13年)7月28日に英国政府より受注した大英帝国通信網のビームアンテナに、この平面タイプのフランクリンアンテナを採用することに決めました(上記灯台用はデュアルビーム方式でしたが、公衆通信用にはシングルビーム)。短波用の巨大パラボラ時代が幕を閉じました。

『・・・(略)・・・マルコニは短波を発生し、これを放物線形反射体によって、電波を反射し、ビームの形をもって一方向にのみ強勢に発射せしむることを工夫し、ビーム式と称していた。その後さらに有効なる(平面型の)ビーム・アンテナを考案し、長距離通信にこれを用いることとなり、この(平面)ビーム式短波装置は、英国郵政庁によって一九二四年(大正十三年)英本国と植民地(豪州、カナダ、印度等)との通信に採用せられるに至った。 (電波監理委員会編, 『日本無線史』第二巻, 1951, p229)

後述しますが大正末から昭和初期に掛けて各国は競って平面ビームを考案しました。日本でも海軍技研の谷氏の海軍式ビームや、J1AA河原氏の逓信省式ビーム・アンテナが考案され依佐見無線や検見川無線で採用され、短波の固定通信で平面ビームが大いに活躍しました。世界の固定局用の短波ビーム・アンテナ・ブーム(?)の火付け役となったのがマルコーニ・ビーム(フランクリンの平面ビームアンテナ)でした

対手局の方角が不定の海岸局(銚子無線や落石無線)は別として、固定局(検見川無線や依佐美無線)による遠距離公衆通信が長波から短波へ急速に置き換えられた最大の理由はケーブル会社と互角に勝負できる昼間波の発見と高利得ビームアンテナの完成にあります。昼間波の発見はマルコーニ氏が、そして固定通信の実用アンテナの考案はフランクリン氏という点でも、マルコーニ社がなした短波開拓の功績は非常に大きいといえるでしょう。

逓信省の初代工務局長の稲田三之助氏や第2代工務局長の梶井剛はのちにな次のように述べています。

しかしながら距離が大となれば、長波または中波による無線電話は巨大なる規模の大電力設備を要し、従って莫大なる資本をもってせねばならぬから、技術上よりもむしろ企業的検知よりの問題に左右せらるべく、現にこの長波施設としては(短波化の進行で)英米間無線電話設備に一回線存在するに過ぎない。しかるに、数年来指向性(平面型)空中線の発明により、比較的小電力をもって長距離通信を確保し得る短波無線設備が発達して、現在のごとき短波放送、短波無線電話の発展を見るに至ったのである。 (稲田三之助, "世界に於ける長距離無線電話の現状", 『ラヂオの日本』, 1930.12, 日本ラヂオ協会, p411)

『(マルコーニ氏は) ・・・数学者フランクリン氏の協力を得まして、一九二三年、今日実用に供せられている平面形のマルコーニ式短波ビーム空中線およびこれに用いる真空管式短波送信機なるものを創造し、(1926年以降)これが英国郵政庁によって英国と加奈陀(カナダ)、印度(インド)、豪州(オーストラリア)、南亜(南アフリカ) との間に採用せられまして、今日の短波無線通信の先鞭となり無線通信界に大革命をもたらしたのであります。(梶井剛, "無線の父マルコーニ候を偲ぶ", 『逓信協会雑誌』, 1937.9, 逓信教会, p106)

4) 最適な通信周波数は? ポルドゥー2YTで実験継続 [Marconi編]

図の[][]は違う場所から撮られたブリッジウォーター受信局です。さて左図[]をご覧下さい。丁字型マスト5本で1組(回線)ですが、カナダ回線(左手奥向って並んだ鉄塔群)と南アフリカ回線(右方向へ並んでいる鉄塔群)の2系統あることが分かります。

そして丁字型マストを建てただけで、平面ビーム・アンテナはまだ吊り下げられていない時の写真です。最適使用周波数見極めるには更なる実験の積み上げが必要でした。

マルコーニ社では1924年(大正13年)の暮れより、ポルドゥー局2YTから波長60m(5MHz), 32m(9.4MHz), 25m(12MHz)の波を発射し、伝搬比較試験を続けていました。大英帝国ビーム通信網のアンテナ塔建設が完了ても、使用波長が決まらないと、この写真のようにいつになっても平面ビームアンテナを吊り下げられないからです。

欧米の大電力長波局を視察(1924.6-1925.1)して帰国した逓信省の中上豊吉技師は、1925年(大正14年)2月26日、電気学会東京支部講演会で次のように報告しました

最近に実験した結果を聞きますと波長が始め100メートル位から90メートルと云うようなことをして居ったのでありますが、去年(1924年[大正13年])の十月、十一月頃になりまして50メートル32メートルもっと短いものを使うようになった。其の電力は12キロ及び15キロ位になって居るのであります。(中上豊吉, "世界に於ける四大無線電信会社", 『電気学会雑誌』, Vol.45-No.448, 1925.11, 電気学会, p1014)

5) チェルムスフォード2BR12.5~30MHzを調査(1925年8月~26年5月) [Marconi編]

T. L. エッカーズリー氏は32才の1919年にマルコーニ社に加わった技術者でした(混同しやすいのですが、弟のP.P. エッカーズリー氏はBBC放送の技術者です)。マルコーニ氏が1924年に昼間波を発見したあと、彼が短波長の学術的な電波伝搬研究を任されました。

1925年(大正14年)8月、T.L. エッカーズリー氏はチェルムスフォード(Chelmsford: ロンドンの北東30km)工場の研究室に短波実験局2BRを開設し、ポルドゥーでは発射していない高い周波数について伝播研究を開始しました。

T.L. エッカーズリー氏がテストに選んだのは波長24m(12.5MHz), 20m(15MHz), 17m(17.7MHz), 15m(20MHz), 13.3m(22.6MHz), 12m(25MHz), 11.5m(26MHz), 10m(30MHz)で、上に行くほど波長間隔を詰めていますが、周波数でいえば12.5MHzから30MHzまでおよそ2.5MHz間隔で調査しようとしたのでしょう。そしてオーストラリアのシドニー、カナダのモントリオール、アルゼンチンのブエノスアイレス、南アフリカの各受信所と、欧州-シャンハイ航路の汽船Glenamoy号に短波受信機を設置して、各波の伝播状況を詳細に観測しました。

この実験を1926年(大正15年)5月まで実施し、T.L. エッカーズリー氏は短波帯の上半分(高い周波数)の伝播特性を解き明かしました。1927年(昭和2年)6月に 電気学会で論文発表 "Short-Wave Wireless Telegraphy" Journal of the Institution of Electrical Engineering, June 1927, pp600-604し、短波帯電離層伝播研究の第一人者として世に認知されました。

そしてマルコーニ社は各地で建設中のビーム通信用の波長を選択することができたのです。ビーム実用局の開局第一号は次に述べるカナダ回線で、1926年10月25日開局でしたので、周波数の選択という超重要案件はギリギリの時期まで研究されていたわけです。以上のように短波帯の上半分の伝播特性の学術研究は、マルコーニ社のT.L. エッカーズリー氏によりなされましたが、もっとも、短波の伝播は多くの要素に左右され、非常に複雑だったため、その後も各国の研究者が短波の性質を探る研究が続けられました。

6) 短波ビームアンテナの効果が疑問視されだす [Marconi編]

当時、短距離でのビーム通信の効果は認めるも、それが遠距離通信でも有効かを疑問視する声がありました。特に1924年(大正13年)秋頃よりアマチュアによる短波利用が本格化し、低電力かつ簡易なアンテナでも遠距離通信が可能なことが実証されると、わざわざビームアンテナを用いる必要はないという意見が急増しました。日本の逓信省でも、西海岸のRCA局が聞こえるときは弱いながらも西海岸のアマチュアも入感し、逆にアマチュアが全く聞こえないときはRCA局もほとんど受信できないことが多いという体験から、短波は送信電力や空中線にあまり依存しないのではないかとの見方がありました。

海軍技研で短波ビームを研究していた谷氏でさえ、その効果については一歩引いた感じで記事を書かれています。

このビーム式の指向性は近距離に於いては確かに有効であって海岸における無線灯台として応用せられている。英国のサウスフォアランドにあるものもこの式によるものである。短波の指向送信は長距離に於いてはその効力疑問とせられているが・・・(略)・・・(建設を終えて)近く通信を開始するといわれているがその結果によりビーム式の長距離に於ける効果は明らかになるのである。(谷恵吉郎, "短波の特質と其の利用", 『ラヂオの日本』, 1926.5, 日本ラヂオ協会, pp405-406)

7) 独 ナウエン・ビームの意外な受信事例が [Marconi編]

そのころ、ドイツのテレフンケン社がナウエンPOZ(ベルリン)で15MHzの水平ダブレットに放物反射体を付けた独自のビームアンテナを建設していました。

下図[左]はまだ骨組みだけの状態で地上に置かれています、電離層に向けてかなり角度が付けられています。向かって右端に人物が小さく写っていますが、これと較べれば大体の大きさが想像いただけるでしょう。

また下図[右]は骨組みの上に金属反射板を貼り、パラボラ全体を支持柱に乗せ、真上に向けた状態です。反射鏡面の中央部に人が立いて、右下から見上げている人物のいますね。電波を反射する上空の電離層への打ち上げ角を自由に調整できるようになっており、定量的な電離層反射の測定が計画されました。

【参考】 このナウエンビームは1927年には波長11m(27.3MHz)で伝播試験を行なっています。

1926年(大正15年)5月、南米ブエノスアイレスLOZに向けてビームの試験送信したナウエンPOZの15MHz波が、予想外にも方向違いのレーニングラード(現:サンクトペテルブルク)やデアヴアなどでキャッチされました。

そのためドイツの学会では短波のビームは遠距離になると広がってしまい、その効果は薄くなるのではないかとの意見が出ていました。

これに関しZeitschrift für Hochfrequenz Technik誌(Bd.28, Ht.3, pp78-82)にÜber Raumstrahlung氏が 書いた記事を、日本の電気学会で翻訳要約され『学界時報』に掲載されましたので引用します。訳者は電気学会の谷恵吉郎(海軍技研)氏です。

反射器は放物線面に作られその焦線の位置に水平ダブレット空中線が置かれるのである。送信電波長20米に対しダブレット空中線の両部は各4.6米にして反射器の幅11米、反射器をかたどる放物線の頂点と焦線との距離は四分の一波長、また放物線の通径は二分の一波長とせられている。反射器は銅版で造られ材料を節約するため鋼帯板をもって格子型に組合わせて作られ、その開孔における径は約一波長になっている。空中線と直角なる方向に電波は最大輻射をなすをもって、目的地点に向かう方向と直角に水平ダブレット空中線を横へ、反射器の軸は地平線と60度ないし80度の角度をなす様にす。

この反射器付き水平空中線をもって今年5月ナウエンブエノスアイレス間の通信試験を行なったが、その結果この空中線による時は普通の垂直空中線による場合に比し、平均二倍、最大四倍強の受信感度を得ることが出来、明らかにこの反射器付き水平空中線の優秀なることを示したのである。この試験の際に測定を容易ならしむる為、不減衰電波を用いずして、断続不減衰電波を用いている。

なおこの試験の際、奇妙に感ぜられるのは反射器はブエノスアイレスに向かう方向にのみ電波が輻射する様に放置せられたに拘わらず、これと正反対の方向、すなわち反射器で遮蔽せらるる方向にあるレーニングラード(1300キロ)、デアヴア(11000キロ)等において、垂直空中線による場合と同等くらいの受信感度を得たことである。これにより考えると指向送信電波も大気層を進行するに従い四方へ分散するものの様である。 (Über Raumstrahlung/ 谷恵吉郎訳, "空間輻射", 『学界時報』, 1927.1, 電気学会, p22)

8) ビーム通信テスト開始 (1926年夏) [Marconi編]

左図が英国に建設中のボドミン送信所です。ブリッジウォーター受信局と対になっていて、カナダ回線と南アフリカ回線を受け持つ予定ですが、その工事はかなり遅れていました。マルコーニ社が郵政庁GPOと結んだ契約では、「英国政府の敷地選定後、26週(半年)以内に完成すること」とあるにも関わらず、もう1年以上が過ぎていました。

マルコーニ氏の優秀な部下のひとりであるビビアン氏は、この仕事を受注した直後より、危惧していたといいます。

1924年7月、父は英国政府と契約を結び、超スピードでイギリス中に商業ベースでの電波利用システムを普及させようとした。しかし状況はきわめて厳しく、ヴィヴィアンは「マルコーニ社は膨大なリスクを負わなくてはならないだろう。いかなる商業分野にも前例のない新しいシステムが、効果的機能のものだと証明しなくてはならないのだから」と危惧していた。(デーニャ・マルコーニ・パレーシェ著/御舩佳子訳, 『父マルコーニ』, 2007, 東京電機大出版局, p281)

マルコーニ氏もついに誤ったのか?そんな雰囲気すら漂い始めていました。

1926年(大正15年)、効果を疑われ始めたマルコーニ社のビームシステムの完成の知らせを、世界の電波主管庁は今か今かと待っていました。逓信省工務局の中上無線係長もそのひとりです。

1923年(注:1924年の誤記?)10月の試験結果によれば32米の短波長で電力12キロワットを使用し濠洲シドニーで受信せるに1日のうち23時間半も受信可能であったとの事である。なお最近の発表によると一日中24時間の連絡も出来たとの事で、その試用波長は30米内外、電力は約18キロワットを使用したそうである。かくの如くマルコーニ会社は発表しているが前に掲げた郵政庁との契約で見ても通信を保証する時間とは、大分距離もある事であるから24時間不断の連絡取ったということは、あるいは一時的の現象であるかもしれない。これが実証はビーム式の完成を待った上の実験に徴する外はない。(中上豊吉/小野孝, 『短波長無線電信電話』, 1926, オーム社, p189)

ついにその日が来ました。短波ビーム局の工事を終えた1926年(大正15年)夏頃より、ようやくビーム通信の試験が始まったのです。

左図は英国側ボドミン送信局のビームアンテナの水平面指向特性を波長26.086m(11.500MHz)で測定した結果です。非常にシャープな特性が出ています。 実際に試してみると通信時間の確保においても、また高速度通信の性能においても、非常に優秀な数値が得られ、マルコーニ社はさっそくプレス発表しました。

想像以上の成果を目の当たりにして、ビーム不要論者たちの声は一気に沈静化しました。

短波帯公衆通信時代の幕開けは、東京朝日新聞でも報じています。

無線電信の発明で有名なイタリアのマルコニー氏は従来の無線電信の放送式に改良を加え、短波長で直線的に一定の目的局にのみ放送を到達せしめる方法を発見し、これが発信局の試験に完全な成功を収めた旨をロンドンで発表した、英国逓信当局はこれが試験の結果に満足し差し当たりクロンウェル県のボドミンと、ソマーセットのブリッジウォーターの両無線電信局に直送無線電信実施の特許(注:免許の意)を与え、いよいよ十月廿五日からカナダとの通信事務を開始せしめることとなった。その他の英本国無電局も着々この新設備を施しているから、完成の暁には南アフリカ、インド、オーストラリア、南北アメリカと通信を交換し得るはずである。(『東京朝日新聞』, 1926.10.22, 朝刊p11)

無線雑誌『ラヂオの日本』が英国-カナダ回線の試験結果と、まもなく短波ビームによる大西洋横断通信の試験を伝えました。日本の電波関係者達は「短波の時代」の幕開けを知りました。大倉商事はマルコーニ社の日本総代理店です。

ビーム式通信法による英国加奈陀間の通信試験は予想以上の好成績を示し、通信速度は七日間連続の平均は一分間一二五語、二重にして二五〇語(=1250字)、最大速度は一分間二五〇語、二重にして五〇〇語であった。英国郵政庁ではこのビーム局を引次ぎ本年十月二十四日より加奈陀との商業通信に使用するはず。(一九ニ六、一〇、二一、大倉商事会社着、ロンドン電報)(内外時報, 『ラヂオの日本』, 1926.12, 日本ラヂオ協会, p55)

前年(1925年)4月にはドイツのナウエンAGA, AGFが南米アルゼンチンのブエノスアイレスLPZと短波による公衆通信回線をスタートさせていました。アメリカRCA社のWGHもその数ヶ月前より公衆通信の試行運用をはじめています。しかしこれらは従来の長波回線の補助として使用を開始したものです。長波という保険がありました。

ところがマルコーニ社は(長波を一切併用しない)短波一発勝負として「ビーム・システム」に社運を賭けたのでした。

1924年7月以来、世界の電波界で「短波なんかに熱をあげて、もし会社を危機に陥れたらどうするのか・・・」と疑問視されたり、「いやマルコーニが短波なら出来るというのだから、そうかも・・・」との意見が交錯してきた2年間でしたが、今ついにマルコーニのいうことが正しかったことが実証されましたこのように短波のみで公衆通信を拓いたことから、短波帯公衆通信の商用化を達成したのはマルコーニ社だといわれています。

9) ビーム通信 営業開始 (1926年10月25日) [Marconi編]

最初に落成検査に合格したのは英国-カナダ回線のマルコーニ・ビーム・システムでした。契約締結から2年と少し過ぎた1926年(大正15年)10月25日に英国郵政庁GPOへ引き渡され、国営短波公衆通信の営業が始まりました。注目された通信速度ですが、郵政庁からの要求仕様である毎分100語(=500字)を軽くクリアする1,250字でした("Current Topics - New Dominion Beam Service", Wireless World, 1926年10月27日号)

英国側ボドミン(Bodmin)のコールサインはGBKで、カナダ側ドラモンドビル(Drummondville, モンリオール郊外)のコールサインはCG(のちにCGA)が割当てられました。使用波長は26m帯で、二重通信なので送受信別々にあるはずですが、開業よりしばらくは試行錯誤していたようです。

1927年5月18日のデータでは、英ボドミンGBKは波長26.086m(11.500MHz)、加ドラモンドビルは呼出符号CGで波長26.269m(11.420MHz)と、呼出符号CF32.0m(9.375MHz)でいずれも「Temporary(暫定)」となっていますWireless World, Aug 3rd 1927, p142)。また1931年の記録では英ボドミン局が26.1m(11.490MHz)、加ドラモンドビル局が26.0m(11.530MHz)です。

つぎに受信ですが、英国側はブリッジウォーター(Bridgewater)に、またカナダ側はイヤマシッシュ(Yamachiche)にビーム局が建設されました。

下の写真は開局した英国-カナダ回線の記事 "First Link in English RADIO BEAM SYSTEM"(Radio News 誌1927年3月号) に使われたボドミン送信局の平面ビームです。写真[左]は輻射器列と反射器列に挟まれた空間から撮られたもので、非常に珍しいものです。マルコーニビームの中に入ると、こんな感じに見えるのですね。写真[右]は輻射器への給電部(フィーダーシステム)です。平面ビームアンテナの各エレメントへの給電方法にもまたいろいろ課題と工夫があったそうです。

左の写真はブリッジウォーターで受けたモールス信号の音響波形を記録するサイフォンレコーダーです。ペンレコーダーの元祖みたいなものでしょう。もともと有線電信では古くから用いられてきましたが、無線電信でも固定局間の大量高速度通信には、通信士の耳による音響受信ではなく、これが用いられていました。また固定局での送信は、さん孔紙テープ等を読み取る高速機械キーイングです。

10) 松井駐英大使が幣原外務大臣へマルコーニ・ビーム完成を報告 [Marconi編]

1926年(大正15年)11月2日、松井英大使が日本の幣原外務大臣へマルコーニビームが完成し郵政庁GPOに引き渡される件を報告しています。これをみると、英国が短波ビーム通信を実用化したことへの危機感が伝わってきます。

英本国属領間および英属領相互間を連絡すべき「ビーム」式無線に関しては・・・(略)・・・最近当国および加奈太間通信に使用せらるべき 英本国側Bodmin発信所並びにBridgewater受信所、加奈太側Drummond Ville発信所並びにYamachiche受信所それぞれ完成し、本月(1926年10月)7日より1週間にわたり右電台による試験的通信を行いたる結果、郵政省「マルコニー」会社間契約第6項規定通り毎日平均18時間の運用において、発受両信1分間毎にそれぞれ100語(各語5字より成る)を発受し得る成績を収めたるをもって、いよいよ本月25日より同無線による当国および加奈太間の通信を開始することとなれり。

右「ビーム」式無線の特長は

一、従来の強度なる電力に代え比較的弱度の電力を最も集中的に使用したること。すなわち今回の無線に使用せらる電力はわずか20kWにして、現存の「ラクビー」無線に使用せらるる電力1000kW余に比し、約50分の1なるも感電力100倍送信、速力5倍なり。現に前掲1週間の試験における1分間の送信能力は往復それぞれ1250字に達したり。

二、従来の長き電波(長波)に代え、短き電波(短波)を使用し、かつ「リフレクター」を用いたること比結果、遠隔の特定地点に電波を集中し得て、外部よりする通信妨害、通信盗取を至難ならしめ音信の秘密をほとんど完全に保ち得るに至れり・・・(略)・・・「ビーム」式無線はその設立費、経営費共に経済的なること、通信能率の高きこと並びに通信の秘密を比較的完全に保持し得ることにおいて従来の無線に一大改善を加えたるもの。実に通信界における画期的成功というも過言にあらず。既に世界海底電線の大半を支配する英国が今回又々他国に率先し「ビーム」式無線を設置して英帝国内に通信網を張り、更にこれを世界各地に拡張し、海底電線、無線両者を把捉し世界の通信機関を掌中に収めんとする企図は注目に値す。本件新聞切抜相添報告す。("英翻刻加奈太間「ビーム」式無線通信開始に関する件", 『在英特命全権大使松井慶四朗より幣原外務大臣宛て』, T15.11.2, 公第644号)

【参考】なお1927年(昭和2年)1月にはこのカナダ回線で有線電話と接続した短波無線電話が試験されています。 これは米国AT&T社と英国郵政庁GPOが1927年1月7日より長波帯SSB(単側波帯)方式による国際無線電話(ロンドン-ニューヨーク回線)を開業したため、短波帯AM方式も試してみたのでしょう

逓信省の小野氏が1930年12月の電気学会東京支部講演会でこれに触れています。

短波送信機の発達はわずかこの十年来のことで、放送無線電話が隆盛ならんとするころ、ようやく短波の発生とその利用について研究され出したのですから、その進歩は実に急速でありました。そのトップを切ったのは例のマルコニ氏で、彼は十数年余の心血を注いだMarconi beam system による無線電信および電話の実験を1924年英本国と濠洲との間に成功しました。これを見て英国政府はこの方式を採用するに決し、1926年初めて英本国と加奈陀(カナダ)との間に本方式による無線電信を実用化したと同時に両所間の無線電話の試験にも成功しました。(小野孝, "短波無線電話設備に就いて", 『電気学会雑誌』, 1931.7, 電気学会, p412)

11) マルコーニ社独自のビーム回線 [Marconi編]

左図[左]はマルコーニ社が最初に建設したビーム回線の地図で、二つのタイプを含んでいます。ひとつは英連邦に所属する地域(カナダ回線、南ア回線、インド回線、オーストラリア回線)と結ぶもので、建設を終え、落成検査に合格すると英国政府へ引き渡される、「国営」の大英帝国ビーム回線で【参考】オーストラリア回線だけは180度逆向きにも発射する2ビーム方式、南米を通過する点線のビームが追加されました。

また地図をよく見ると、英連邦に属さないニューヨーク回線(アメリカ)、サンパウロ回線(ブラジル)、リオ・デジャネイロ回線(アルゼンチン)の線が見えます。これはマルコーニ社が独自に営業を許された私立の公衆通信回線です。

自社の短波固定局として英国のドーチェスター(Dorchester)に送信局を、サマーセットに受信局を建設していました。左図ーチェスター送信局で、水平方向にメッセッンジャーを渡しただけで、平面ビームアンテナはまだ吊り下げられていない頃(1926年春頃?)です。

ドーチェスター送信局は呼出符号GLGで波長15.740m(19.060MHz)と15.707m(19.100MHz)を試したあと、GLH(波長13.580m)などを追加しました。

これら第一期のマルコーニビームに引き続いて、1928年(昭和3年)にはエジプト回線を開き、呼出符号GLL(波長21.962m)、GLM(波長37.783m)でエジプトのマアディ(Maadi)局とビーム通信しています。

12) ポルトガル政府もマルコーニ・ビーム通信を採用 [Marconi編]

英国に続いてマルコーニ社の短波ビーム通信を植民地通信網に採用したのはポルトガル政府でした。1926年(大正15年)12月15日に開業しました。下図が首都リスボンに建設されたアルフランジテ(Alfragide)送信局PQSで、波長18.270m(16.420MHz)を使いました

ビームは南西方向(カーボベルデ・リオデジャネイロ回線)と南東方向(アンゴラ・モザンビーク回線)の2系統でした。画像が不鮮明ながら、かすかにマストがご確認いただけるかと思います。

が首都リスボンから東へ80km程の場所に建設されたベンダッシュ・ノバシュ(Vendas Novas)受信局です。

短波ビームによって通信対手局となるはポルトガル領東アフリカのロウレンソ・マルケス局(Lourenço Marques, 現:モザンビークのマプト)呼出符号CRHA、波長18.360m(16.340MHz)、大西洋上のポルトガル領カーボベルデ諸島のプライア局(Praia)呼出符号CRHB、波長18.094m(16.580MHz)、そしてポルトガル領西アフリカのルアンダ局(Loanda, アンゴラ)呼出符号CRHC、波長18.182m(16.500MHz)の各ビーム局でした。この三局の開局時期は分かりませんが、少なくとも1927年(昭和2年)5月には全局が稼動しているようです。

のちに(1928年後期?)、カーボベルデ・ビームの延長線上にある旧ポルトガル領のブラジル(リオデジャネイロ)とも結びました。アルフランジテ送信局はブラジル回線においては別の呼出符号PQW(波長16.286m)を使い、ブラジルの対手局であるサンタクルー送信局は呼出符号SPU(波長18.576m)でした。

13) 遠距離通信が可能な最高周波数は? [Marconi編]

短波の周波数をどんどん高くしていくと、振る舞いは光に近づくと考えられるため、どこかで遠距離通信が出来なくるポイントがあることは予想できますが、具体的には何も分かっていませんでした。

1925年(大正14年)8月1, 2日、逓信省は岩槻受信所工事現場のJ1AAを使ってアメリカのアマチュア団体ARRLが主催するMid Summer Testの5m部門に参戦しましたが、誰とも交信できませんでした。逓信省の中上係長らは電気学会へ次のように報告しています。

なおまた八月上旬米国ARRL(American Radio Relay League)主催の夏季短波長試験に於いて5メートルの短波長送受を試みたるが、この試験は不成績に終わりたり。その原因の奈辺にあるやは疑問中の疑問たり。(中上豊吉/小野孝/穴沢忠平, "短波長と通信可能時間及通達距離との関係に就て", 『電気学会雑誌』第46巻第456号, 1926.7, 電気学会, p697)

また電気試験所平磯出張所JHBB同じARRLのMid Summer Testの5m部門に受信で参加しましたが、やはりダメでした。その当事者が回想されています。

前に申しましたARRL二十米試験と同じ目的で、二十米試験に引続いて八月一日からこの試験(5m試験)が行われましたが、真面目にこの試験に参加?したということは、今から考えますと無茶を通りこしておったということが出来るかも知れません。何しろ日本で米国の、しかも素人局から出す五米の短波を受信しようとしたのであります。そしてこれもただ、短波というものは小電力で遠距離通信が出来るということのみを知っておった故であろうと思われますが、今から見れば誠にお気の毒ともいいたくなるでありましょう。(畠山孝吉, "短波の昔ばなし(三)", 『ラヂオの日本』, 1935.6, 日本ラヂオ協会, p44)

さらに1926年(大正15年)1月26日から東京の海軍技研佐世保海軍無線電信所を対手局として、波長5m(60MHz)の海軍式ビーム送信を試しました。しかし5m波は佐世保には届かず、発射電力を増してみたものの、遂に佐世保海軍無線電信所とは通信できませんでした。

こうして「波長が短い程、遠距離に届くわけではない」ことが逓信省、電気試験所、海軍省に認識されました。すなわち波長20m(15MHz)と波長5m(60MHz)との間に遠距離通信が可能な限界周波数があると想定されたのです。

これまで世界のアマチュア局を相手に短波実験してきた逓信省の岩槻無線J1AAでしたが、当時のアマチュアバンドは20mバンドの次が5mバンドだったため、アマチュアを対手局とする短波研究の限界を知りました。

【参考】当時のアマチュアバンドは14MHzの次がいきなり56MHzでしたので、アマチュアによる短波の開拓とは短波帯の下半分(80m, 40m, 20m)のことです。

遠距離通信可能な最高周波数はどこにあるのか?日本の逓信省にとって、この謎解きはドイツ郵政省から協力要請がきている、ナウエン局が発射する高い周波数の受信試験が唯一の研究手段でした。

14) DX上限周波数は30と37MHz間にある! (1926年) [Marconi編]

1925年(大正14年)は世界中の短波研究者(アマチュアも含めて)が遠距離通信の上限周波数がどこにあるのかに興味を持っていました。そして早々とこの研究に着手したのがマルコーニ社のT.L. エッカーズリー(Thomas Lydwell Eckersley)氏でした。ちょうど中上氏ら工務課の面々が、予想に反して5m波が飛ばないので『その原因の奈辺にあるやは疑問中の疑問たり。』とした1925年8月のARRL Mid Summer Testの時期に、まったく影を潜めていたマルコーニ社ですが、実は水面下でさっさと伝播研究が行われていたのです。

T.L.エッカーズリー氏は1925年(大正14年)8月から1926年(大正15年)5月にかけて、チェルムスフォード短波実験局2BRから波長24m12.5MHz), 20m15MHz), 17m17.7MHz), 15m20MHz), 13.5m22.2MHz), 11m27.3MHz), 10m30MHz)の7波を使って伝播試験を行い、同社ビームシステムの昼間通信に最適な周波数を選定するうえで貢献した技術者です。

【参考】同氏は1929年(昭和4年)10月29日より、東京で開催された万国工業会議(World Engineering Congress)に出席するために来日し、日本の電波関係者と意見交換しています。

1926年(大正15年)の後半にチェルムスフォード短波実験局2BRで8m波(37.5MHz)の伝播テストを実施して、「遠距離通信可能な上限周波数は30MHz(波長10m)と37.5MHz(波長8m)の間に」と前述の論文"Short-Wave Wireless Telegraphy"(図)の中で示したのです(参考:電気学会IEEの論文受領日付は1926年12月1日です)。

In daytime the short-wave limit does not seem to have been reached at 10 m. A recent experiment on 8 m (using the same transmitter and power as in the other short-wave experiments) seems to indicate that this is below the limit, as nothing was received in Sydney, Montreal, New York or South Africa, so that the limit appears to lie between 8 and 10 m. This short-wave limit has received a very natural explanation on the ray theory, i.e. it is supposed that the density in the upper layer is not sufficient to bend even the horizontally transmitted rays back to earth, so that all the rays escape. (T.L. Eckersley, "Short-Wave Wireless Telegraphy", IEE Wireless Proceedings Vol.2 - No.5, June 1927, IEE, p118)

この時期、大英帝国ビームシステムの建設に追われ、短波研究の表舞台から姿を消していたマルコーニ社ですが、なんと1926年(大正15年)中には "the Short-Wave Limit" 問題を解いていたのですから、まったくもって驚きです。やはり同社は短波研究の先頭を走っていました。

15) 郵政庁から受注したビーム回線の引渡しが完了[Marconi編]

郵政庁から受注したビームシステムは1926年(大正15年)10月25日にカナダ回線が開業した後、少し間が空いて1927年春より次々と郵政庁に引き渡されました。それらを一括して御紹介します。

オーストラリア回線

  • 開業日:1927年4月8日

  • 英国送信所:グリムズビー(Grimsby)呼出符号GBH、周波数11.580MHz

  • 英国受信所:スケグネス(Skegness)

  • 州送信所:バラン(Ballan)呼出符号VIZ、周波数11.660MHz

  • 豪州受信所:キーラー(Keilor)

南アフリカ回線

  • 開業日:1927年7月5日

  • 英国送信所:ボドミン(Bodmin)呼出符号GBJ、周波数 [昼]18.580MHz, [夜]8.820MHz

  • 英国受信所:ブリッジウォーター(Bridgewater)

  • 南ア送信所:クリフューヴァル(Klipheuval)呼出符号VNB、周波数 [昼]18.660MHz, [夜]8.900MHz

  • 南ア受信所:ミルナートン(Milnerton)

インド回線

  • 開業日:1927年9月6日

  • 英国送信所:グリムズビー(Grimsby)呼出符号GBI、周波数 [昼]18.500MHz, [夜]8.780MHz

  • 英国受信所:スケグネス(Skegness)

  • 印度送信所:カーキ(Kirkee)呼出符号VNW、周波数 [昼]18.420MHz, [夜]8.700MHz

  • 印度受信所:ドンド(Dhondo)受信所

すでに一九二〇年代の初めにマルコーニは短波を利用して、ビーム送信法を完成していた。一九二三年(注:1924年の誤記?)の末頃、マルコーニはイギリス政府のため、たった二〇キロワット(当時行われていた強力な(長波)無電局は一〇〇〇キロワット)で、三〇米の短波を出していた無電局によって、イギリスとカナダおよびオーストラリアとケープ・コロニイ(ケープタウンを首府とする南阿連邦の一州)とを結びつける仕事に着手した。その能力は当時イギリス政府が彼に出した条件より遙かに勝ったものであった。無電局は最初の一分から一週間休みなしで働きつづけ、その結果、遠距離を結ぶ無電はほとんどすべて長波が採用されなくなってしまったのである。(ヘレン・C・カリファー, "善意の人マルコーニ", 『カトリックダイジェスト日本版』, 1948年7月号, 小峰書店, p18)

(G. Marconi, "Radio Communication", Proceedings of The Institute of Radio Engineers, Jan. 1928, Institute of Radio Engineers, pp40-69)

以上のように1916年より始まったマルコーニ氏の短波開拓は、1927年のマルコーニ・ビーム回線開業で一応の一区切りが付きました。マルコーニ氏の短波開拓史のダイジェスト版ともいえるものがIRE学会誌1928年1月号で発表された"Radio Communication"(左図)です。最低限の出来事がコンパクトな30ページにまとめられていますので、手っ取りばやくその過程を手繰りたい方にお薦め致します。

16) 電気試験所の難波 (元)平磯出張所長の講演 (1959年) [Marconi編]

アマチュア局と実用局はそもそも目的とするところが違います。A地点とB地点の固定地間通信を確保しようとするとき、コンディションが悪くB地点が全く入感しなかったが、思わぬ遠距離のC地点が聞こえて来て、たまたま交信できた・・・。アマチュアの場合こういった偶然性も楽しみのひとつです。しかし実用局の場合はあくまでも目的のB地点との確実な通信確保を考える必要があります。より遠方のC地点が入感しようとそれは迷惑な混信です。

電気試験所平磯出張所長の高岸氏のあとを継がれた難波捷吾氏はアマチュア無線の良き理解者の一人です。難波氏は我国がGHQ/SCAPの占領下時代に、日本アマチュア無線連盟JARLの顧問を引受けられた方であり、また電気試験所平磯時代の1929年(昭和4年)には、同所に勤務していたJARL創設メンバー磯英治(1SO)氏とともに、離日して米国に向かった飛行船ツェッペリン伯号の短波を追跡受信した方でもあります。同氏が国際電信電話株式会社(KDD)時代の1959年(昭和34年)10月16日、電気通信学会全国大会特別講演で語られた次の一節を引用します。公衆通信をあずかる立場としての考え方がわかります。

無線の初期には、周波数3Mc程度以上の短波は、その地表波の距離に対する減衰が著しいので、遠距離通信には不適格とされていた。しかし素人無電技師の研究によって、事実は全く反対であって、短波の電離層伝ぱんの事実が明らかにされたことは、エピソードとしてよく知られております。しかし短波の商用通信を実現させたという見地からすれば、最大の功績は、やはり英国の Marconi Wireless Telegraph Co. に帰すべきものでありましょう。・・・(略)・・・かくて1926年英帝国が誇る大英帝国短波指向通信網(Empire Short-Wave Beam Service)が実現したのであります。英国逓信省が最初長波をもって計画した経費に比して1/5で足り、しかも、この目的に使用する電波の波長は16m, 32mの二つに過ぎなかったのであります。つまり2種類の波長を切替えるだけで上記の所要通信時間をカバーし得たのであります。この成功に刺激されて、世界各国の国際通信は、あげて短波無線時代となり、それから30年余をへた今日、短波はなお主力なのであります。 (難波捷吾, "国際電気通信の動向"[論文番号3150], 『電気通信学会雑誌』第427号,第42巻第12号(昭和34年12月), p1158)

短波の小電力遠距離伝搬を発見したのはアマチュアによる功績として高く評価されています。「飛ばない短波」を高輻射電力により実用化試験していたマルコーニ社には小電力伝搬は発見出来なかったかもしれません。しかしながら短波を実用通信・商用通信にもっていったのはマルコーニ社であり、アメリカではウェスティングハウス社などの民間無線会社でした。それはアマチュアの技術力が及ばなかったとか、そんな話ではなく、アマチュアと実用局では目的とするものが違うからでしょう。アマチュアはアマチュア通信の世界で短波を開拓したし、実用局は実用通信の世界で短波を開拓した。そういうことだと私は思います。

ただし日本の逓信省に限っては海外アマチュアの協力で短波通信を立ち上げた面を否定できませんJ1AAのページの最後の方でも書きましたが、短波のような遠距離試験を行なうのに、イギリスには地球の裏側にオーストラリア、ニュージーランド、マレーシア、シンガポールが、オランダにはインドネシアが、フランスにはベトナムなどのインドシナが、アメリカにはフィリピンがありました。そのため実験するに当たり通信対手局を身内で用意できました。しかし第一世界大戦に敗れ、太平洋の島々を失った(=日本の委任統治領になった)ドイツは対手局を自前調達できないため、日本の逓信省に受信を依頼してきました。

日本もドイツと同じで遠い場所に植民地がなく、すなわち対手局が設定できないため、岩槻J1AAは世界のアマチュアを相手に通信試験を行ないました(どうしても相手が必要なときは、たとえばRCA社へ頭を下げてお願いをするという煩わしさが付きまといました)。ちなみに大正15年に短波を免許された東京電気JKZBなども対手局を設定できないため、海外アマチュアを交信相手としていました。電気試験所の平磯JHBBもそうです。

また欧米のアマチュアは送受信機の回路図や試験結果を、隠すことなく、惜しみもなく雑誌で発表し、逓信省工務局では(短波に手を付けた初期の頃には)大いにそれらを参考にしたようです。そういうこともあってか稲田工務局長も中上無線係長も荒川技師も、工務局の人たちは1925-26年(大正14-15年)にアマチュアへ最大限の敬意を払った賛美の記事をたくさん書かれています。

17) 短波ビーム時代の到来と開発競争 (1927年~) [Marconi編]

こうしてビームアンテナの効果が証明されると、主要国はマルコーニビームを購入し、その解析にあたりました。短波による公衆通信(固定局間)業務は短波ビームアンテナとともに立ち上がりました。短波ビームの時代がやってきたのです。そして短波帯公衆通信業務の普及に貢献した最大の功労者は、(コンラッド氏でも、アマチュアでもなく)マルコーニ氏とフランクリン技師で間違いないでしょう。

英国は・・・(略)・・・マルコーニ会社の短波指向性通信による世界無線通信政策を授け、同社に同式によるドチェスター局の建設および対外通信を許可し、米、独、仏、日、和(オランダ)等の各国も研究的に各一組毎購入し、これを対照として同等以上の成績を挙げ得る独自の短波指向性通信施設を案出し、自主的短波無線設備を完成させました。(小野孝, "国際通信", 『工学会大会記録 第三回』, 1936.10, 日本工学会, p625)

【参考】ドチェスター・ビーム局は(英国郵政庁GPOとの契約で建設するビーム局ではなく)マルコーニ社独自の無線局で、南米回線やニューヨーク回線用です。

18) 活用できてなかった「SFR式ビーム」(富岡受信所) [Marconi編]

1927年(昭和2年)、日本無線電信(株)は富岡受信所(福島県)に対米予備回線用としてフランスSFR社製短波送信機(呼出符号:JAN)を購入しました。この送信機は東京無線電信局第十装置として位置付けられ、購入の際に付属品として付いてきたジグザグ・アンテナと共に、同年暮れより試験をはじめて、1928年(昭和3年)3月より対米通信の補助用として実運用に供しました。

SFR型空中線は我社において最初に使用したビーム空中線で、・・・(略)・・・当時は未だ空中線技術が未熟のために、この空中線は充分にその機能を発揮させ得ず、昭和6年11月対米通信の小山送信所移転に伴い廃止された・・・(略)・・・』 (国際電気通信株式会社社史編纂委員会編, "無線技術",『国際電気通信株式会社社史』, 1949, p323)

SFR社の短波送信機に付属品として付いてきたアンテナが指向性を持ったビームアンテナだったとは分からなかったと、日本無線電信(株)の加藤安太郎氏が当時の同社技術報で述べています。

富岡送信所で開始された短波通信は、ダブレットの外に小型のSFR式ビーム空中線が用いられたが、当時これが指向性を持っていることは一向良く認識されなかった。今から考えると誠に不思議のようであるが、とにかく短波空中線の指向性について注意が払われるようになったのはその後約2年たってからである。 (加藤安太郎, "国際無線通信用空中線の変遷", 『無線の研究』vol.2-No.3, 1938.7, 日本無線電信株式会社, p25)

【参考】日本無線電信(株)は対欧局の依佐見送信所の長波送信機をドイツのテレフンケン社のものにするか、フランスのSFR社のものにするか迷った末、(ドイツから第一次世界大戦の賠償金を購入資金の一部に充てる都合で)テレフンケン社製を選びました。しかしSFR社の営業担当が色々サービスしてくれたこともあり、気の毒だからとSFR社の10kWの短波送信機を購入することになったと、依佐見送信所の短波送信機を設計した元海軍技術少将の谷恵吉郎氏が戦後の雑誌対談会で明かしています("座談会電波界今昔", 『電波時報』, 1958.6, 郵政省電波監理局, p44)

下図はさらに改良が加えられたSFR社の平面ビームアンテナです。写真および図面を良く見ると、給電線が接続された輻射エレメントのλ/4背後に、まったく同じ構成の反射エレメントが吊るされているのが見えます。

【注】上図は富岡受信所のビームではありません。

1928年(昭和3年)12月より対欧局として依佐美送信所が稼働し、続いて福岡受信所、四日市受信所が開所した当初までは主にダブレット式アンテナで満足していました。やがて電報取扱量が増えるにつれ、回線を少しでも長い時間確保したいという要求が芽生え、短波通信はビームアンテナ全盛期に入りました。

しかし短波通信の隆盛になるに従って、通信速度も増し、また24時間連続して良成績が要求されるようになったため、ダブレットも段々不完全であるのが認められ、ようやく次項に述べるビーム空中線が建てられるようになった。とはいえダブレットは全然顧みられなくなったわけではなく、その構造の簡単なため、今日でも通信の容易な回路および試験用等には用いられる。 (加藤安太郎, "国際無線通信用空中線の変遷", 『無線の研究』vol.2-No.3, 1938.7, 日本無線電信株式会社, p25)

19) 依佐美送信所に初の国産短波ビーム空中線 「海軍式ビーム」 [Marconi編]

日本で初めて短波ビームを国産・実用化したのは海軍省です。そしてそれが民間へ転用されました。逓信省の無線とは別に、独自の発展をなした帝国海軍の無線技術が相当高かったことが分かります。

1929年(昭和4年)9月、海軍省が日本無線電信(株)より依佐見送信所の短波ビーム建設を委託され「海軍省式ビームアンテナ」(19.000MHz, 15.720MHzの二基)が完成しました。続く1930年(昭和)には小山送信所にも採用されました。

この(海軍式ビーム)空中線は我国最初の大規模国産短波ビーム空中線として所期の成果をあげ得たものである。この好成績に基き、引続き昭和5年、小山送信所に対ジャワ(蘭領インドネシア)用空中線3個を建設した。 ・・・(略)・・・海軍式ビーム空中線の給電方法は分岐給電線の整合及び分岐給電線と主給電線との間の電力分配整合等、いずれも集中常数を用い、調整は甚だ複雑であった。現在では分布常数回路を用い調整、その他構造の点もかなり簡素化されているが、この空中線の調整を行いその動作を検討して得た経験は、我社空中線技術の基礎となったばかりでなく、我国短波空中線技術の急速な進歩の契機となったものとして永く記憶されるべものである。(国際電気通信株式会社社史編纂委員会編, "無線技術",『国際電気通信株式会社社史』, 1949, p325)

【参考】 海軍式ビーム・アンテナは1926年(大正15年)1月、海軍技研の谷恵吉郎氏が波長20m(15MHz)と波長5m(60MHz)のものを試験し完成させたのが始まり。

図は1929年8月30日に撮影された、15.720MHz用海軍式ビームの全景とその構造図です。

まず前面に8つの「輻射エレメント」があり、1/4波長離した後方に8つの「反射エレメント」を配し90度の位相差で給電するものです(左図[左])。

同年12月には10.160MHz用のビームアンテナも完成しました。

我が国で短波ビーム空中線を大規模に実施したのはこれが一番最初であった様に思う。この空中線の設計は海軍の谷恵吉郎大佐(当時少佐)の手に成るもので、当時同氏の指導の下に建設および調整に従事された海軍技術研究所の方々および当社の草刈技師等の努力は、仕事が新しいものであっただけ大きく、永く記念さるべきものであろう。

このビーム空中線の調整および動作を見て得た経験というものは、我々がそれまで雑誌等によって得ていたビーム空中線に関する知識に一段と正確な基礎を与え、なるほどビーム空中線とはこうすれば良いのだなと、目先が何となく明るくなった感がしたのを今でも忘れ得ない。・・・(略)・・・この空中線はその後、昭和7年(1932年)夏、依佐美送信所の対欧短波通信を改良するため、空中線を全部大型のものに改修する際、改造する運命に立ち至ったが、当初の設計の精神はそのまま採用され現在に至っている。(加藤安太郎, "国際無線通信用空中線の変遷", 『無線の研究』vol.2-No.3, 1938.7, 日本無線電信株式会社, pp25-26)

20) 「蓄電式ビーム」と「RCA社Broadside式ビーム」 依佐美送信所 [Marconi編]

現在の考え方からかえりみれば、この国産の海軍式ビーム空中線を基礎として進んで差支えなかったように思われるが、ビーム空中線のそもそもの出発に際して、なお諸外国の方式および日本無線電信会社で考えられた諸方式を充分試験し、しかる後に最も良い型式を決定しようとの意向があったため、その後次表に示す各種の諸方式が対外無線電信のビーム空中線として採用され、国際通信の送受信所は、あたかも各種空中線の展覧会を催したかの感があった。(加藤安太郎, "国際無線通信用空中線の変遷", 『無線の研究』vol.2-No.3, 1938.7, 日本無線電信株式会社, p26)

この記事中に掲げられた"次表"によれば、依佐美送信所では対欧向けとして、佐伯美津留技師長の提唱により"蓄電式送信ビーム"(図[左] )が1929年(昭和4年)秋より1932年(昭和7年)まで試されました。

図には単に投射器だけを示してあるが、これと同じものが四分の一波長後方に反射器として張られている。この場合ビームの方向はエレメント配列面に直角の方向に出るべきものが斜め方向に二つに分かれた指向性が出やすく、これを矯正するのに空中に高く張り上げられた蓄電器を一々微細に調整する必要があり、これに非常に苦労が伴った。(電波監理委員会編, 『日本無線史』第二巻, 1951, p239)

また輸入したRCA社のBroadside式送信ビーム(上図[右])が1930年(昭和5年)1月から1932年まで依佐美送信所で使われました。これは日本無線電信(株)がRCA社製短波送信機と一緒にBroadside式送信ビームを3波に対応させるために3つ購入しました。佐伯技師の蓄電式(上図[左])よりも動作が確実でしたが、空中高くにあるコイルを調整する点では、甚だ面倒でした。

さらにRCA社のFishbone式受信ビームは1930年2月から依佐美送信所で、また1930年10月から福岡受信所(埼玉県)において対米受信用と対ハワイ受信用して採用されています。

文字通り「魚の骨(Fish-bone)」のような見た目のビームアンテナですね。理論通り鋭い指向性が得られましたが、利得はさほど高くはでもなかったようです。この受信ビーム・アンテナは依佐美送信所と福岡受信所で1933年(昭和8年)まで使用されました。

21) 「逓信省式ビーム」 検見川送信所 [Marconi編]

逓信省式ビームは(J1AAのオペレーターだった)河原猛夫氏が開発し、実用新案登録(昭和4年実用新案公告第10536号)されたものです。1930年(昭和5年)に台北向けの波長20m用(15.760MHz)のものを、東京逓信局直営の検見川送信所に建設したのが始まりです(下図[左])。

東京逓信局の満州国新京回線(6.080MHz,検見川送信所)、朝鮮京城回線(10.720MHz, 11.620MHz, 岩槻受信所)でも使われたほか、大阪逓信局の台北回線(12.900MHz, 8.605MHz, 明石受信所)など、官営無線局に採用されたのは当然ですが、日本無線電信(株)小山送信所が逓信省よりライセンスを受けて、この逓信式ビームを採用しました。

小山送信所の建設に伴い、海軍式ビーム空中線と共に対米通信用として逓信省型空中線が3個建設された。・・・(略)・・・マルコニ式ビーム鉄塔にならって高さ85mの鉄塔4基の間に懸架した極めて大規模のものであって、その中 18.6Mc 用のものは半波長エレメント96本、反射器付きで利得は約22.5dbあり、我国の短波通信用空中線としては空前のものであった。(国際電気通信株式会社社史編纂委員会, "無線技術",『国際電気通信株式会社社史』, 1949, 国際電気通信株式会社, p325)

逓信省式ビーム(下図[左])はエレメント途中で(λ/2の位相コイルに相当する)λ/2のワイヤーを折り返した構造になっています。この図の状態だと水平ダイポールと同様にエレメントに対し垂直方向に強く輻射される(前後への8の字特性)ため、単方向性にするには1/4波長離して同様の反射エレメントを配置しました。河原氏はこのビーム・アンテナの発明と受信機のAGCを実用化した功績で逓信大臣から表彰を受けています。

また左図[右]は1931年(昭和6年)になって、日本無線電信(株)の加藤安太郎氏と草刈鉄太郎氏が考案した短波ビーム・アンテナ(出願:昭和6年5月5日、特許登録:昭和6年11月19日「特許第93,663号」)で、のちに「国際式」と呼ばれるようになりました。

この他に、1927年(昭和2年)に電気試験所の高岸栄次郎氏がジグザグ型のビーム・アンテナを発明されています(出願:昭和2年7月28日、特許登録:昭和2年12月17日「特許第74,849号」)。

22) 「マルコーニ・ビーム」 四日市受信所で採用 [Marconi編]

初期のマルコーニ・ビーム・アンテナはエレメントの途中に半波長に相当する位相コイルを入れていました。やがて鉄塔間のメッセンジャーからエレメントを三線一組で吊下げて、(碍子でうまく絶縁しながら、位相コイルの代用として)半波長相当の"折り返しワイヤー"に置き換えた「ユニフォーム」式(図[左])と呼ばれるタイプに進化しました(この図は輻射エレメントのみを示していますが、この背後に反射エレメントが吊下げられます)。

1929年(昭和4年)4月18日、マルコーニ社のミラー技師が同社の短波受信システムのデモンストレーションのために来日しました。そしてミラー技師が11MHz帯および19MHz帯ユニフォーム式マルコーニ・ビーム各一基を日本無線電信株式会社四日市(海蔵)受信所に建設し、5月15日からマルコーニ社短波受信機RC-24L型による試験がはじまりました(本試験は6月20日から7月6日)。

【参考】この四日市受信所のRC-24L型短波受信機の設計者マチュー氏は、1923年5-6月に英国ポルドゥー2YTの短波ビーム波を4,130km離れたカーポ・ベルデで見事に捕らえた短波受信機の設計者でもあります。1931年(昭和6年)に四日市受信所が追加購入した改良型RC-24Vもまたマチュー氏の設計です。後述しますがマチュー氏は1930年以降はマルコーニ氏の超短波開拓を強力に支えました。

東京朝日新聞』(6月28日)より引用します。

四日市市外海蔵村、日本無線電信(株式会社所属の)対欧受信所では去る四月十八日から英国マルコーニ会社のミラー技師が来朝し、同会社ビーム式短波受信機を設備して、五月十五日から非公式に、本月(6月)二十日から七月六日まで公式に英国ドルケスター(Dorchester)無線電信局(ロンドンの西百三十マイル)と日英間直通受信試験を開始している。この試験は近き将来における日英両国間無電直通通信の前提となるもので、現在日英間の通信はポーランドのワルソー局またはドイツのベルリン局中継で行っているが、いよいよイギリスにおける設備さえ完備さるれば海蔵受信用の設備は今回増設した八台の短波長機械によりじ十分受信し得ることになっている。・・・(略)・・・

公式試験一週間の成績について倉知無電所長は語る。「(6月)二十日から毎日一ニ時間づつ昼夜交代に十五メートル(英国GLX: 19.680MHzか?)と二十六メートル(英国GLY: 11.420MHz)の両短波長によっておこなっているが、空電の影響もなく非常なな好成績である。英字で最高一分間四百字を受けて明瞭に受信し、遠距離としては大成功である。この試験によってイギリスとの直接通信を始めるか否かは(当社=日本無線電信株式会社が決めるのではなく)逓信省の命令によるから不明であるが、両国直接通信の必要は議論の余地はない。」 』 ("日英間直通のラヂオ試験:四日市外の対欧受信所で非常な成績をあぐ",『東京朝日新聞』, 1929.6.28,朝刊p11 )

1929年9月、このデモンストレーションでユニフォーム式マルコーニ・ビームとマルコーニ社短波受信機の優秀性を確認した逓信省と日本無線電信(株)は、対英受信用としてこれら設備一式を正式発注しました。

左図、四日市受信所に建設されたマルコーニ・ビームの側面図と真上から見た平面図をごらんください。距離を150m離した高さ85mの鉄塔二基間に、マルコーニ・ビームの受信エレメント12本と、それに並行した反射エレメント24本を懸架しました。反射側の素子数は2倍あります。これが我国における実用回線のマルコーニ・ビーム第一号(周波数11.420MHz)で、1930年1月に完成しました。

四日市受信所は昭和三年九月廿日からドイツ、フランス、ポーランド等と直接受信事務を開始したが、英国より直接受信し得たのは本年(1930年)一月マルコニー式ビーム空中線の完成直後である。 (『中外財界』, 1930年5月号, p1)

昭和5, 1, 9 四日市受信所において(英国)GLY 11,420kc用マルコニ式ビーム・アンテナの建設終了し、10 及 12(日)の両日、英国GLYの受信試験を行う。結果良好。(日本無線電信(株)編, "日本無線技術クロニクル(其三)",『無線の研究』, 1937年10月号, 日本無線電信(株), p25)

マルコーニ・ビームは四日市受信所1937年(昭和12年)12月まで使用されました。

23) その他のビーム空中線 [Marconi編]

それではいくつか諸外国の短波ビームを紹介します。

下図はドイツのテレフンケン社が開発した平面ビームです。ドイツ郵政庁からの協力依頼により、ナウエン無線局(ドイツ)がテレフンケン・ビームで送り出された信号を、日本の電気試験所平磯出張所が受信試験をしていました。

日本ではテレフンケン・ビームに比べて分岐整合器と分岐給電線が要らない逓信省式ビームが開発されたため、我国の実用回線で使われる事はありませんでした。水平ダイポールと同じくエレメントと垂直方向の前後へ輻射するため、単方向で使いたい場合には、輻射器と同様の反射器を平行に並べて懸架しました。

また下図[左]はアメリカのAT&T社が開発したステルパ式です。米AT&T社と英国郵政庁で、大西洋横断回線にも使われたものです。下図[右]のブルース式は英国郵政庁で受信用に採用されました。

このほかにも1927年(昭和2年)より数年の期間に、いろんな短波平面ビームが各国で開発されました。

こうして短波の固定局が行う公衆通信には、マルコーニ氏が発見した昼間波と、同社フランクリン技師が先鞭を付けた平面ビームアンテナの各種に加えて、電気メーカ各社で大型水冷管が開発され、大電力の送信機を使うようになりました。

24) プロはビームを回さない [Marconi編]

ところでアマチュア無線的な目線で言えば「こんな平面ビーム、どうやって回すの?」と疑問に思われるかも知れませんが、そんな心配は御無用です。

検見川無線や依佐美無線などの「固定局」は通信対手局が決まっているので、先方の方角を計算し、そこに向けたビームアンテナを建設します。

つまりアマチュア無線のように回す必要がありません。ですが新たな地域との営業回線が追加される場合には方角の異なる平面ビームを別に建てるため、広い敷地が必要となりました。

なお銚子無線や落石無線などの「海岸局」は、通信対手局が船舶局(海上移動局)で、方向が一意ではないという点でアマチュア無線と似ています。海岸局では一般的には無指向性アンテナが用いられたようです。

【参考】 この他にも「固定局」は基本的に保守要員のみで、中央制御局からの高速機械キーイングとテープ記録受信だったのに対して、「海岸局」や「船舶局」では通信士が実際に電鍵と耳による音響受信するという違いがありました。従って検見川無線・依佐美無線などの「固定局」と、銚子無線・落石無線などの「海岸局」は意識的に区別して語ったほうが良いでしょう。

左図は1937年(昭和12年)に完成したフィリップス社の海外放送Huizen局PCJ(オランダ)のロータリービームです。高さ60m、重量18トンの木製マスト2塔からビームアンテナが吊るされていて、時間ごとに目的地へ向きを変えて放送しました。

このような短波ロータリービームは例外に属するもので、短波ビームアンテナといえばビーム方向が固定されているのが当たり前でした。

25) マルコーニは 「実業家」か 「技術者」か? [Marconi編]

1916年から短波を手掛けて、1920年代には短波の実用化に邁進したマルコーニ氏ですが、心底から電波の研究が好きだったようです。

会社経営より、エレットラ号に作った自分の無線実験室にこもる事の方を好んだといわれています。

マルコーニ氏は短波ビームの建設がひと段落すると、休む間もなく今度は超短波への挑戦をはじめました。マルコーニ氏は本当に開拓精神に溢れる無線研究者だったといえるでしょう。

電気試験所の横山英太郎第四部長が1930年(昭和5年)にマルコーニ氏の人物像について次のように書かれています。横山氏は1927年のアメリカ出張時にマルコーニ氏と歓談した経験もお持ちの方です。

彼はいま大マルコニー会社の社長です。で社長としてのマルコニーはどんな生活をしているのかとマルコニー会社の人に尋ねてみました。すると苦笑しながら「ミスターマルコニーは実業家ではない。彼はそろばん上の話をするとさも不愉快そうな表情を見せる。ところが技術上の話をしに行って見ろ。大喜びでいくらでも話し込むから・・・」と。そして寸暇をぬすんではエレットラー号に乗り込んで遥かの海上で心静かに新しい実験を試みることを何よりの楽しみとしているのだそうです。(横山英太郎, "マルコニー 信念に突進む不屈の勇猛心", 『世界人の横顔』, 1930, 四條書房, pp251-252)

昼間波を発見する

超短波の湾曲性を発見