マルコーニ 1933-1937

世界初の超短波UHF実用回線が開通

パラボラ式無線機の実験

短波から中波へ

海上公衆通信の商用化

短波開拓の成果を学会発表

短波の電離層反射を確信

昼間波を発見する

平面ビームで短波通信網

超短波の湾曲性を発見

マルコーニ 超短波UHFを実用化

船舶無線ほか

戦後の日本で流行ったある評価ほか

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1933~1937年 目次

1) 世界初のUHF実用回線の試験開始(1932年11月) [Marconi編]

1932年11月末にバチカン宮殿とガンドルフォ教皇宮殿間で建設工事中だったUHF回線の実運用に向けた最終試験が始まりました。

【参考】1929年(昭和4年)に開かれた第一回国際無線通信諮問委員会CCIRにおいて電波の区分呼称が定められ、30MHz以上は一括りに「超短波」としました。現代のように、30~300MHzを超短波VHF、300MHz~3GHzを極超短波UHF・・・等と細分化し定義したのは、1947年(昭和22年)の国際無線通信会議です(新定義の発効は1949年1月1日)。

従って当時の定義で500MHzは超短波ですが、本サイトでは1930年代にマルコーニ氏が数々のテストを行い実用化した500MHz帯を、原則「超短波」としつつも、現代式に「UHF」を併記しています。

図[左]がバチカン宮殿のビーム送受信機です。瓦屋根の右手遠方にサン・ピエトロ宮殿の頂部が少しだけ見えています。

図[右]がガンドルフォ教皇宮殿のビーム送受信機です。背面から見て左の2つの箱が送信機で、右側の少し背が高い箱が受信機です。4列ある反射器の隙間から送信アンテナと受信アンテナを突き出しています。

バチカン宮殿とガンドルフォ教皇宮殿には送信機と受信機を一体型のように横に並べ、それに「一体化された4列ヘリンボーン・リフレクター」を取り付けています。

これまで非常に難しかった対手局との「ビーム軸合わせ」がとても簡単になりました

同時通話式なので二波使用したはずですがその詳細は不明です。波長を56cm(536MHz)とする文献(Orrin E. Dunlap, Marconi, the man and his wireless, 1937, The Macmillan Company, p323)や、波長57cm(526MHz)とする記事『The set uses waves only fifty-seven centimeters (about twenty-one inches) in length. ("Ultra Short Wave Radio at Vatican", Popular Science, May 1933, p49) もあります。

1932年12月、英国の無線雑誌Practical Wireless 誌("First Ultra Short-wave Station", 1932年12月17日号, p577)はマルコーニ氏が建設中の超短波無線電話の開通が近いことを報じています。

ローマ教皇庁の新聞オッセルバトーレ・ロマーノ(L'Osservatore Romano)によると、現在バチカン宮殿とガンドルフォ教皇宮殿間を波長60センチメートルの超短波で結ぶ、無線電話・無線電信の施設をマルコーニが建設しているが、この種の無線局としては世界初となる。』

この回線がUHF波を利用した実用無線として世界初」になることに関心が集まりました。

2) 世界初の超短波UHF実用回線が開通(1933年2月11日) [Marconi編]

1933年(昭和8年)2月11日、バチカン宮殿とガンドルフォ城の教皇宮殿を結ぶUHF無線電話回線が公式運用を開始しました。

米国の『ワシントンポスト』(1933年2月11日, p14)が"Pope to Open New Radio Unit Today (ピウス教皇の新しい無線が本日開局)", "World's First Ultra Short Wave Plant Made by Marconi (マルコーニによる世界初の超短波施設"というタイトルで、「ピウス11世とマルコーニは、世界初の超短波無線電話を、ラテラノ条約の調印4周年を記念し、明日(時差の関係で米国からすれば"明日")に開設する。・・・」と報じました(左図)。

Pope Pius XI and Guglielmo Marconi will formally inaugurate the world's first ultra short-wave radio telephone station tomorrow in celebration of the fourth anniversary of the Lateran peace treaty between the Vatican and Italy.

It will be the first regular utilization of the plants, the latest invention of wizard by which he hopes to bring radio telephone service within reach of the masses of the people. The plants have been installed in the Vatican and at the papal villa at Castel Gandolfo, 20 miles away, by Marconi engineers.

The Pope and the inventor will talk briefly from the Vatican with the custodian of the villa and with the Auxiliary Bishop of Albano, where the villa is situated. ("Pope to Open New Radio Unit Today", The Washington Post, Feb.11,1933, p14)

『ニューヨーク・タイムス』(1933年2月12日, p24)も "MARCONI INITIATES NEW RADIOPHONE(マルコーニが新しい無線電話を創始)", "The First Ultrashort Wave System Links Vatican and Papal Summer Home 世界初の超短波回線がバチカンと教皇避暑宮殿を結ぶ)" と、世界初のUHF実用回線の開通を報じました(左図)。

英国の無線雑誌Practical Wireless 誌(1933年2月25日号)は"Vatican Ultra Short-wave Transmitter"という記事で世界初の超短波局の誕生を伝えました(左図, p1978)。

1972年にマルコーニ社のW.J. Baker氏が出したA History of the Marconi Companyにも『これは波長1m以下(周波数300MHz以上)で運用された最初の商用回線であった。』と記されています。

This was the first commercial link ever to operate on a wavelength below one metre. (W.J. Baker, A History of the Marconi Company, 1972, St. Martin's Press Inc.[New York], p293)

【参考】ちなみに常設施設によるVHFの実用化だと、1931年(昭和7年)暮れにハワイのMutual Telephone CompanyがRCA社と共同で、40MHz付近を使った無線電話による島嶼間公衆通信サービスを開始したものが最初といわれています("Ultra-short wave in Hawaii telephone service", Electronics, 1932.1, Mc Graw Hill Company, p27)。 この世界初のVHF実用回線(ハワイ)ついては「宇田新太郎」のページを御覧ください。

マルコー氏は1930年5月にサルデーニャ島のゴルフォ・アランチ(Golfo Aranci)に30MHzのビーム実験局を建設し、その対岸に位置するローマ郊外のフィウミチーノ(Fiumicino)で無線電話試験を始めています。1933年より、ゴルフォ・アランチ(呼出符号IAG, 周波数30.610MHz)-フィウミチーノ(呼出符号IAF, 29.820MHz)で同時通話式無線電話回線の商用化試験へと発展したとする文献が多い中で、1930年8月14日に公衆通信の取扱いを開始したとするイタリアの雑誌Radiocorriere(1933年3月26日号)の記事もあります。しかしその使用周波数については(短波と超短波の境界の)波長10mとあるだけですので、本サイトでは超短波の商用第一号は40MHzを使ったハワイの島嶼間無線としました。

3) 世界初の超短波UHF実用回線の開局式の様子 [Marconi編]

2月12日は、イタリアがバチカンの独立を認めた「ラテラノ条約」の調印日であり、バチカン市国にとってはとても大切な記念日です。2年前の(短波の)バチカン放送HVJの開局式も、この日に行なわれました。今回の超短波無線開局式も条約調印4周年にあたる、この日に合わせたようです。

図[左]で向かって右手前が教皇ピウス11世です。装置の前でヘッドフォンを掛けて振り向いているのが(ヘリンボーン・アンテナの発明者)マチュー氏、左手前で立っているのがマルコーニ氏です。

図[右]は今回製造されたUHF無線の主装置および有線電話との接続装置を、背面と前面から見た写真です。ちなみに送信用の発振回路と、受信用のフロントエンド回路はここではなく、アンテナ背後の箱に納められています。

こうして前述した英仏海峡マイクロ回線の実用化(1934年1月26日)よりも1年も早く、マルコーニ氏がUHFの実用化を達成し開局式が始まりました。UHFの常設実用回線としてはこれが世界初です。

『(超短波実用局として)これは世界最初の施設であって、マルコーニから法皇への献上の辞が、一九三三年二月十一日、全ヨーロッパ及びアメリカへ放送された。

マルコーニ候の斯界における研究と応用の成功を神の御名により祝福する。」と法皇が述べるとマルコーニはこう答えた。

極超短波マイクロウエーブを初めて実用化することができまして、私の心はイタリー人として、また科学者としての誇りと、未来に対する新しい希望とに満たされております。私の貧しい仕事が今世紀の真のキリスト教的平和に貢献せんことを希(こいねが)う次第であります。 (O.E.ダンラップ著/森道雄訳, 『マルコーニ』, 1941, 誠文堂新光社, pp313-314)

またマルコーニ氏の娘デーニャも以下のように記しています。

『 (バチカン放送局HVJの開設から)二年後の1933年2月11日、法王庁からの要請でもう一揃いの機器(注:バチカン放送機器に次ぐ「連絡無線の機器」という意味)を設置した父は、マイクの前のピオ11世の傍らに立っていた。

法王は「マルコーニ侯爵、神の思し召しにより無線の分野での研究とその応用に成功されたことに対し祝福を送ります」と述べた。

父は次の言葉で応えた。「今回のマイクロ波の最初の実用化は、私のイタリア人そして科学者としての心を、誇りと未来への希望で満たしてくれました。私のささやかな発明が、キリストの平和を世界に広めることに役立つことを願っています。(デーニャ・マルコーニ・パレーシェ著/御舩佳子訳, 『父マルコーニ』, 2007, 東京電機大出版局, p320)

そしてマルコーニ氏の挨拶が終わると、ガンドルフォ城との良好な通話が披露され、世界初のUHF実用局の誕生を祝いました。

イタリアの無線雑誌LA RADIO(1933年2月26日号)は"LA CITTA' DEL VATICANO INAUGURA LA STAZIONE A ONDE ULTRA CORTE(バチカン市国が超短波局を開設)"という記事で、超短波無線電話局開局式を報じています。

そしてマルコーニ氏が遠距離通信は不可能と考えられている波長1m以下の電波が湾曲する地球に沿って、最大で269km(【注】記事中では369kmとなっていますが、正しくは269kmです)遠方まで届くことを証明してみせたこと、また今回のバチカンの無線はこの種のものとしては初めてだと紹介しています。

イタリアの週刊誌Radiocorriere(1933年2月18日号, p4)にも"MARCONI E LA RADIO VATICANA AD ONDE ULTRACORTE(マルコーニとバチカンの超短波無線)"という記事があります。

4) ついに山をも越えた超短波UHF [Marconi編]

1933年(昭和8年)8月2日、超短波UHF波が視界限界の何倍もの場所まで届くことが不思議でならないマルコーニ氏は、サンタ・マルゲリータ・リーグレに部下のマチュー氏やイステッド氏(G. A. Isted)を呼び寄せ、再びエレットラ号による洋上伝搬実験を行いました。

上)現在の同ホテル

8月2日から6日まではサンタ・マルゲリータ・リーグレの海岸沿いにあるホテル・ミラマレ(Grand Hotel Miramare)にアンテナを設置し、伝搬実験したことが知られていますが(左図)、8月7日以降の送信試験場所は(私には)よく分かりません。

この実験では直進限界の5倍に相当する94マイル(151km)離れた場所と無線電話および無線電信による交信に成功しました。ただしそれ以遠への試験はビームの向きの都合で出来ませんでした。

マルコーニ社のラドナー氏らが記した Short Wave Communication [2nd Edition] の日本語翻訳本『短波無線通信 第3巻 [改訂第二版]』からの引用と、参考までにその原文を引用しておきます。

同氏は上記の結果に力を得て、同一の波長で長距離にわたって実験を継続した。1933年8月 ヨットElettra号上において、Santa Margheritaに置かれた50糎波(50cm波)送信機の信号を中絶する事なく可視範囲の五倍の距離まで受信した。この場合には送受信共、四波長の鏡経を持つ放物線型反射器を用い、前の場合より幾分大きい電力を使用した。可視範囲の五倍以上の距離では海岸線の関係上、船の方向を絶えず変更する必要があったため、従って反射器を送信機の方向へ向け続ける事が出来なかったため、連続した観測は不可能であった。 (ラドナー著, 水橋東作/松田泰彦訳, 『短波無線通信』第三巻[改訂第二版], 1935, コロナ社, p359)

その原文です。

These results encouraged him to continue long distance range trials on such waves, and in August, 1933, uninterrupted reception was obtained on the yacht “Elettra” up to distances of five times the optical range from a 50 cm. transmitter at Santa Margherita. In this case somewhat larger power was used, with parabolic reflectors of 4 wavelengths aperture at transmitting and receiving end. Beyond a range of 5 times the optical range it was not possible to carry out continuous observation, owing to the coast line necessitating the continual alteration of the ship's direction, and in consequence the reflector could not be kept directed to the transmitter. (A.W. Ladner/ C.R. Stoner, Short Wave Wireless Communication [2nd Edition], 1934, John Wiley & Sons, p357)

サンタ・マルゲリータ・リーグレからの送信実験を続けていると、視界限界を超える161マイル(=258km)離れたポルト・サント・ステーファノ(Porto Santo Stefano)港に停泊していたエレットラ号でその電波が受ったんのです。

これは想像を遥かに超えた距離(光学的視界限界の9倍)でした。

さらに不思議なことに経路上には障害物となるはずの"山"(左地図に「丘陵」と記した黒の2箇所)があったのです。

1932年7月および8月、伊太利(イタリア)において50糎波(50cm波)について行った実験で、Marconi氏は幾何学的可視範囲の約二倍の距離まで、しかも両者間に丘が介在する時にさえ何等の妨害も受けずに出来る事を証した。・・・(略)・・・ しかし(1933年8月には) Santa Margherita から258粁(258km)の距離すなわち可視距離の9倍に当たる Porto Santo Stefano において、両者の間に17粁(17km)の丘陵地帯を含むにかかわらず、Morse信号を受信する事に成功した。Marconi氏はかような波について存在すると考えられている回折および反射の影響を考慮に入れても、現在の理論をもってしては上記の現象は説明できないと述べている。 (ラドナー著, 水橋東作/松田泰彦訳, 短波無線通信第3巻』第三巻 [改訂第二版], 1935, コロナ社, p357,359)

以下原文です。

During experiments carried out around Italy on a 50 cm. wave in July and August, 1932, Marconi established uninterrupted communication up to distances approximately twice the geometrical optical range, even between positions masked by intervening hills. ・・・(略)・・・ Morse signals were received, however, at Porto Santo Stefano, a distance of 258 km. from Santa Margherita, and nine times the optical range, although 17 km. of hilly ground intervened. Marconi suggests that such results cannot yet be explained by existing theory, even allowing for the diffraction and reflection effects that are known to exist on such waves. (A.W. Ladner/ C.R. Stoner, Short Wave Wireless Communication [2nd Edition], 1934, John Wiley & Sons, p357)

5) 確信したマルコーニが再び発表 「超短波は曲がる」(1933年8月14日) [Marconi編]

1933年(昭和8年)8月14日午前10時より、マルコーニ氏とイステッド氏はローマの王立アカデミー(The Royal Academy of Italy)において、この1年間にわたるUHF伝播実験の結果を報告し、確信をもって「超短波は曲がる」と発表しました。僅か25Wの電力しかない500MHz波が、山をも越えて161マイルまで届いたからです。

Into the Tyrrhenian Sea sailed the Elettra to conduct tests with inland Italy. On August 14, 1933, Marconi mounted the rostrum of the Royal Academy in Roma with the surprise announcement that both radiophone and telegraphic signals had been exchange with Santa Margherita 94 miles away. And while the Elettra was anchored at Porto Santo Stefano, 161 miles from Santa Margherita, faint code signals on the 60 centimeter wave were intercepted on the yacht, although two mountain promontories intervened, indicating that opaque objects do not block the waves. (Orrin E. Dunlap Jr., Marconi, the man and his wireless, 1937, The Macmillan Company, p323)

マルコーニ氏が初めて「超短波の屈曲性」を発表したのは1年前の1932年8月13日でした。今回(1933年8月14日)は「超短波が山を越えた」と発表したため、さらに世間を驚かしました。日付が1年違いの8/13と8/14で非常に似ているため、これを混同されているのWeb上の記事を目にするこがありますし、私も油断するとすぐに間違えそうになります。どうぞご注意ください。

500MHzの電波が、まるで山を突き抜けたかのように反対側まで届いたことをマルコーニが発表したと、1933年8月15日付けの『ニューヨーク・タイムス』紙が第一面で報じました(図:"Marconi Short Wave Heard Over Mountains, Proving Solid Objects Do Not Block Ray", New York Times, Aug.15,1933, p1)。

同紙編集部は、さっそくマルコーニ氏へ問い合わせました。直ちに本人より返答を得た同紙はその全文を誌面で公開しました(左図:"Marconi Sees New Era in Radio With Use of Ultra Short Waves", New York Times, Aug.17,1933, p1)。

ニューヨーク・タイムス紙と特約を結んでいた『東京朝日新聞』はそれを翻訳し、"無電の超短波に湾曲性を発見す マルコニ氏【手記】" というタイトルで大きく報じました(下図:8月18日朝刊p2の1-3段目)。そして日本の電波関係者を驚かせたのです。

(私)の最近の実験の結果、超無線短波はある程度まで地球のわん曲線に追従せしめ得るということが解った。・・・(略)・・・昨年七、八月にわたり試みた実験においては超短波は地平線以下の地点で接受することが出来ないという理論は真実でないことを確め得た。

というのは余(私)は右の理論によって設けられた最大限の一倍乃至二倍(1~2倍)の距離で呼びだしを聞くのに成功したからだ。

それにしてもかかる(昨年夏の)実験は波長を曲げ得るかどうかということに関しては決定的ではない。何となればディフラクション(回折)の現象によっても同じ結果に説明がつくからだが、余(私)の最近の(今月の)実験においては今までの理論に許された最大限の五倍の距離においては極めて明瞭に又、九倍の距離の所ではいくらか明瞭さを欠き断続的ではあるが、とにかく呼びだし接受に成功した。(こんなに遠くまで曲がることから)これは即ち超短波というものは曲げ得るということを極めて明瞭に実証したものと思う。

だがここに注意すべきはこれら実験(1933年8月)の結果は、最初の実験(1932年7月)に用いられたものよりは余程進歩したものだが実質的には全く同じ装置によって得られたということだ。更に注意すべきはこの(今月の)実験の発信所(サンタ・マルゲリータ)では二十五ワット発電機(発振器)というような極めて小さい電力を用いたにもかかわらず、呼びだしが(山を越えて)最長距離百六十マイルの距離(ポルト・サント・ステーファノ港)で接受されたことだ。

(私)はまだ如何なる原因が超短波を曲げるかということについては当て推量はしたくない。それはリフラクション(屈折)の現象かも知れないし、またディフラクション(回折)の現象かも知れないし、また超短波というものは長波と同様に空中の上層においてはエーテルによって反射されるのかも知れない。余(私)は今秋、再び実験をつづけ、これら電波の波及を支配する法則を一層徹底的に探求しようとしている。・・・(略)・・・』 ("無電の超短波に湾曲性を発見す", 『東京朝日新聞』, 1933.8.18, p2

6) マルコーニの「超短波は曲がる」という発表に世界で反響が [Marconi編]

すると8月21日の『東京朝日新聞』朝刊(p11)"超短波の湾曲性 無線王を相手に先手の名乗り 仙台逓信局の成功" との見出しで、仙台逓信局が名乗りをあげました。以下引用します。

『・・・同局では昨夏(1932年7-8月、東北帝大と仙台逓信局による実験)七、八メートルの超短波をもって管内山形県酒田飛島間四十キロの放送試験に成功し、この(1933年)九月からは両地間で正式に通信する手はずとなって無電界をアッといわせ、更に超短波の実験を続けるうち、この飛島の発信が函館で聴取される事が判明した。これは電波が地球の湾曲線に沿い屈折して進行するとしか解しようのない現象で、ただ理論的には究明されず実験の結果に過ぎないため確実性ある発表が出来なかった所、一、二ヶ月前から五百マイルを距てる京城(ソウル)の朝鮮逓信局(J8AA)発信の超短波を仙台でしばしば立派に受信出来たので、もはや超短波が湾曲して・・・(略)・・・

右につき長島工務課長は語る。

外国電報が簡単でどの位の波長の短波長かハッキリ分からないから断言は出来ないが単に湾曲性を発見したというだけならこっちが先で七、八米の波長で実験に成功している。マルコニ氏のが三、四米のであれば意義はあるが、そうでない限り、かつ、かかる現象の理論的説明がなされないで、ただ実験の結果だけでいうのならこっちの方が正に本家本元だ。

【参考】 後になって、朝鮮逓信局J8AAの伝搬は「湾曲」ではなく、スポラディックE層による「電離層反射」だと判明しました。

いうまでもありませんが地元イタリアでも、無線雑誌LA RADIO(1933年8月27日号,p158)が"Marconi rende conto di recentissime esperienze sulle micro-onde"という記事でマルコーニの超短波伝搬に関する発表を1ページ全面を使い詳しく取り上げ、大きな反響を呼びました(下図)。

米国の月刊Short Wave Craft 誌(1933年11月号, p397)"Marconi Hears Ultra-Short waves Through Mountains !"という記事で、超短波が山を越えたことに驚きを持って伝えています。

7) ガリレオ「でも地球は動く」 マルコーニ「でも超短波は曲がる」 [Marconi編]

結局マルコーニ氏の「超短波は曲がる」という説は、学会には受け入れられませんでした。自然の法則に反するからです。

その昔、イタリアの科学者ガリレオが宗教裁判にかけられた時「でも地球は動く」とつぶやいたという逸話はよく知られています。超短波が曲がることを信じてもらえないまま1937年(昭和12年)にその生涯を終えたマルコーニ氏が「でも超短波は曲がる」と病床でつぶやいたかどうかは解りませんが、さぞや悔しかったでしょう。

【注】ガリレオとマルコーニは別紙幣

「超短波は曲がる」とのマルコーニ氏の発表があった1933年(昭和8年)8月の時点では、マルコーニ社が受注し、建設した「バチカン市国-ガンドルフォ城」回線(1933年2月11日開局)が世界で唯一のUHF帯実用無線でした。

このあと同業他社の手により、1934年(昭和9年)1月26日、ドーバー海峡の連絡回線(1.7GHz)が正式運用をはじめましたが、これらは固定局間の通信です。この時代にあって、UHF(500MHz)波の実験局を海岸沿いや山の上に建設し、ビームアンテナで海に向けて発射したUHF波を海上移動局(エレットラ号)で縦横無尽に移動観測するようなことができたのは、この地球上でマルコーニ氏をおいて他にいませんでした。周囲の学者たちは、自分が実験してみたわけでもないのに、「そんなことは自然の法則に反する」と、マルコーニ氏の報告には耳を傾けようとしなかったといいます。

8) アームストロング教授の言葉 [Marconi編]

1953年(昭和28年)6月15日、スーパーヘテロダイン方式やFM通信の発明者として知られるコロンビア大学教授のアームストロング(E. H. Armstrong)氏が、米国電気学会AIEE夏季総会でマルコーニ氏の業績に関する講演を行いました。その日本語訳の記事から引用します。

『・・・(略)・・・翌32年(1932年)、有能助手G・マッシューの協力を得て、(超短波は直進するという)「自然の法則」が、一般に考えられているようなものかどうかを再度実験すべく、ローマ郊外の小高い丘に設備した60cmの電波(500MHz)で実験を行ったことが知られている。

一方では他の人が過去にしたことで満足しきっている間にも、骨身惜しまず、大きな期待を心に抱きながら、知れるとも知れぬ答えを目ざして進んだマルコーニ。他人はお定まりの理論に対する皮相な(うわっつらだけの)観察を至上としている間にも、彼(マルコーニだけ)はおのが装置と四ツに組んで、論より証拠なる諺(ことわざ)を証明してくれた。

・・・(略)・・・このような実験を繰返して、マルコーニは遂に電波の屈折することを発見した。しかし、彼の発見は "眉つばもの" として一般に考えられ、(直進するという)視界説の牙城は崩れようともしなかった。彼のその発表があったとき、私の心に起こった反応を今でもアリアリと思い浮かべることができる。それは「昼間」波が存在するという噂を聞いたちょうどその時と同じだった。私の知る限りでは、そんなことは「自然の法則」に反することだった・・・(略)・・・』 (E.H. Armstrong, 大沼雅彦抄訳, 『新電気』, 昭和29年1月号, オーム社, pp99-100)

アームストロング氏は、我々がマルコーニ氏と同じ結論(=超短波は曲がる)に到達するのに20年も掛かったことを指摘されています。

今日われわれは、マルコーニが正しかったことを承知している。だが、彼の予言したその言葉が「正」であるというレッテルを貼られるまでに、何と20年もかかっているではないか!

・・・(略)・・・われわれがあの伝搬に要したわずかな電力や、マルコーニが168マイルの伝播を完成したときの幼稚な装置を思い出し、第二次世界大戦の結果進歩した技術によって今日用いられるに至った幾多の優れた装置を考えるとき、不思議に思うのは、彼の予言がこうも長い間、注意されずに過ごされ、また過去何年かの研究調査が、こんなに長い間延び延びになっていたということである。

むべなる哉(かな)。手に道具をにぎって、われわれは彼の予言に追いつくために長い時間かかってやってきたのだ。 (E.H. Armstrong, 大沼雅彦抄訳, 『新電気』, 昭和29年1月号, オーム社, p100)

この件は「短波開拓史のフロントページ」の最後にある、アームストロング氏の講演記事を御覧ください。

9) ドーバー海峡の他社UHF回線が開通 [Marconi編]

(ところでマルコーニ社の事ではありませんが・・・)1931年3月31日に英国のITT社と、仏国のMT社がドーバー海峡でデモンストレーションした、あの有名な1.67GHzマイクロ回線は、その後どうなったのでしょうか?実は英仏両国の航空当局により、ドーバー海峡横断マイクロ回線として採用されることになり、実用化に向けた建設工事が始まっていました。

1933年秋、英国のドーバー近郊にあるラインプネ(Lympne)飛行場と、仏国のカレー近郊のサンタングヴェルト(St. Inglevert)飛行場間、38.2マイル(61.5km)の連絡用業務用無線として、波長17cm(1.78GHz)と18cm(1.67GHz)を使ったマイクロ回線の工事が完了しました。(なお『科学画報』1936年4月号p.31にある記事 "英仏海峡を挟んで建つ超短波局" では、使用波長を17cmと17.5cmと伝えていますので、波長に変更があったかも知れません。)

左図は英国のラインプネ飛行場に設置されたパラボラです。送信用受信用のアンテナを少し離して設置しているのが確認できます(ビームの向きは左図[左]の写真でいうと右方向です)。

そして試験運用を繰返したあと、1934年(昭和9年)1月26日より無線電話とテレプリンターによる正式運用に移行しました(『ラヂオの日本』, 1934年4月号, p69)。左図はラインプネ飛行場でテレプリンターを運用している様子です。

Radio Engineering 1934年2月号)の表紙にはフランスのサンタングヴェルト飛行場に建設されたパラボラアンテナ鉄塔が採用されました(下図[左])。

その2月号の記事 "Anglo-French Micro-Ray Link"(A.G. Clavier / L.C. Gallant)で、ラックに収められた送受信装置と背面からの内部の様子も公開されました。

英国のラインプネ飛行場のアンテナは送信用と受信用をかなり離して建設されたのに対し、フランス側はこの表紙写真のように同じ鉄塔上に並べて配置されています。ちなみにこのRadio Engineering 誌の本文記事はElectrical Communications 誌(1934年1月号)から転載されたもののようです。

日本では『読売新聞』(1934年5月8日,朝刊p4)"小型反射器を使った超短波ラヂオ =英国の新しい試み="というタイトルでドーバー海峡を挟む英仏両飛行場において超短波の連絡無線が実用化されたことを伝えました。

10) UHFブラインド・ナビゲーションの開発 [Marconi編]

1934年(昭和9年)、マルコーニ氏は(日本を含む)世界一周の観光旅行から帰国すると、ただちに超短波によるブラインド・ナビゲーション(無線航行)の実用化研究を始めました。指向性があまり先鋭ではない反射器一列式のヘリンボーン・リフレクターを用いた2本のアンテナの向きをわざと90度ずらして、ハート型の指向性を作りました。用いた周波数は500MHzです。

そしてハート型ビームを(現代の扇風機のように)左右に15度スイングさせます。下図ではスイングさせるセンターラインが船を誘導したいコースに相当このときアンテナが正面に向いてるときは無変調にスイング中なら高音にスイング中なら低音で変調するようにしたのです。

船には高音と低音を低周波フィルターで分離できる受信機を設置します。もし船が誘導コース上を真っ直ぐに進んでいば、高音と低音が同じ時間だけ聞こえるはずです。

単に受信音を聴くだけでなく、低周波フィルターの出力に応じて、センターゼロの電流計を左右に振らせて、視覚上でも誘導コースと船の進行方向がイメージしやすいように工夫しました。この場合、誘導コース上を正しく進むと、針の振れ幅は左右同じになりました。

In 1934, Marconi conceived of the idea of guiding a ship through a narrow entrance to a harbour in conditions of zero visibility. To demonstrate this he arranged to have mounted, at right-angles to one another, two broad-beam parabolic reflectors with their respective horizontal aerials energized in opposition from a common transmitter. In this way a very sharp zone of minimum signal was created in the centre of an otherwise broad region of high signal level. The whole aerial head was then made to oscillate to and fro by about plus and minus fifteen degrees so that the sharp minimum scanned a sector of thirty degrees. In addition, the transmitter emitted two tones alternately, the change over from one tone to the other taking place when the aerial minimum was directed exactly along the desired navigation course. On board the "Elettra" a four-valve receiver, which had been used no successfully in all previous experiments, was modified by incorporating two tone separators corresponding to the two modulation tones applied to the transmitter. The outputs from their respective detectors were then applied to a centre-zero-indicating instrument. By this arrangement, the pointer of the indicator was deflected left and right (port and starboard) according to the tone being received at that moment. When the 'beacon' head was scanning correctly left and right about the desired approach course, the indicating instrument would be deflected equally, also left and right, provided that the ship was correctly positioned on the approach course. (G.A. Isted, “Guglielmo Marconi and the History of radio - Part II”, GEC Review(Vol.7-No.2), 1991, p120)

When swinging towards the left, the beacon sends a high note, when swinging towards the right it sends a low note. The change of note takes place when the zone of silence coincides with the line for entering the harbour. This arrangement makes it possible to ascertain immediately if the ship is either to the left or to the right hand side of the safety line for entering the harbour, or exactly on it. "Demonstration of New Micro-Wave Beacon", Marconi Review, July-August 1934, Marconi’s Wireless Telegraph Company Ltd. p28 )

11) マルコーニがUHFブラインド・ナビゲーションをデモ [Marconi編]

1934年7月28-30日、マルコーニ夫妻は英国とイタリアの船会社オーナー、海運関係者、軍関係者、科学者、プレス記者らをエレットラ号に招待し、超短波を使った船舶用「ブラインド・ナビゲーション」をデモンストレーションしました。 古くからマルコーニ氏と親交があった(コンプトン効果を発見し、1927年にノーベル物理学賞を受賞した)アメリカのアーサー・コンプトン(Arthur H. Compton)博士も招待され、このデモに立ちあっています。

ゲストとともにエレットラ号でサンタ・マルゲリータを出港し、南へ18kmほどのセレストリ・レバンテ(Sestri Levante)港を目指しました(左図)。

エレットラ号のデッキではマルコーニ氏と同夫人が招待客をもてなしました(下図[左])。下図[右]では左右に取付けられた受信用ヘンリボーン・アンテナ(ANT-1, ANT-2)を振り返りながらマルコーニ氏が仕組みを説明しています。このアンテナには風防が被せられており、エレメントがそこから突出ているため、まるでムカデみたいですね。

さてセレストリ・レバンテ港が近づいてきました(下図)。いよいよデモンストレーション・タイムです。港の手前800mほど離れた水域には、90ヤード(=82m)離した2つのブイが固定されていました。

船室の窓をすべて目隠しされたエレットラ号の操舵室ではナビゲーション・システムだけを頼りに舵をとり、この2つのブイの間を難なく通り抜けてみせました。さらにこのナビゲーション・システムがあれば、素人でも安全に操縦できると、乗船したゲスト達にも操縦を体験させたのです。

一九三四年七月三十日に、マルコニは微細電波ラヂオ(超短波)の新しい応用を英伊両国の航海者に実験して見せた。それは濃霧の中で盲目航海が出来るようにする安全装置である。マルコニの実験用快走船「エレットラ」号は新機械の指示に従い、なんらの陸標を頼りとせずに、二つのブイの間の狭い水路を通ってセレストリ・レヴァンテの港へ入った。船長が普通の陸標に左右されるのを予防する為に、「エレットラ」号のブリッジに囲いをして前方の見えないようにしてあった。船が少しでも安全航行から逸れると、その逸れ方がパネルに取付けた機械によって直ちに合図され、船長はそれによって船の位置を正すことが出来た。(Orrin E. Dunlap Jr.(著), Marconi: The Man and His Wireless, 小田律(訳) マルコニ伝, 『日本読書協会会報』1937年12月号, 日本読書協会, pp57-58)

12) ゲストたちをビーコン送信施設へ案内 [Marconi編]

ゲストたちの反応は上々で、エレットラ号からセレストリ・レバンテに上陸すると、マルコーニ氏は彼らを丘の上にあるビーコン送信施設へ案内しました。

デモ用のビーコン送信機は縦横4フィート(約1.2m)、高さ6フィート(約1.8m)ほど、ヘリンボーン・リフレクターの開口長は3フィート(約90cm)で、セストリ・レバンテ港の後方の丘(海抜90m)に設置されました。

この写真ではちょっと確認しづらいのですが、ヘリンボーン・リフレクターが90度の角度をもって2本取り付けられているのが見えます(左やや後方向きと、手前やや左向き)。

これが左右に15度づつスイングします。

For the demonstration, the navigation beacon was installed on the promontory at Sestri Levante at a height of 90m above sea level. Two buoys were then anchored 90m apart at a distance of 800m from the shore to simulate a harbour entrance. On July 30th the 'Elettra' steamed out to sea from her anchorage at Santa Margherita with Marconi's guests on board. With all the blinds of the wheel-house drawn no that it was impossible for the navigator to see, the yacht was successfully steered between the two buoys solely by means of the indication given by the beacon. The manoeuvre required little skill and many of the guests took turns to do it themselves. (G.A. Isted, “Guglielmo Marconi and the History of radio - Part II”, GEC Review(Vol.7-No.2), 1991, p120)

図[左]は1934年7月31日のNew York Times 紙("Device by Marconi: Guides Ship in Fog", July 31,1924, p1)と、Washington Post 紙("Marconi Invents Radio Beam: To Steer Ships Through Fog", July 31,1924, p1)です。

左図[右]の『大阪朝日新聞』(1934年7月30日)から引用します。

【ロンドン特電二十九日発】 濃霧の海上を何の失敗もなく安全に航海し得る機械が無電王マルコニー侯爵によりまたまた発明されたと報ぜられる、マルコニー会社は三十日ゼノア(ジェノバ)附近のセエストリ・レヴァンテで英、伊両国の船舶関係者の前でマルコニー侯のヨット・エレタラ号にこの機械を装置して実験して見せるとのことでその際航海室はすっかり窓懸けを下して外が見えないようにし、その中で運転士はこの新装置だけを頼りにして安全に船を港内に航行して見せるはず。

右発明はマルコニー侯が最近三年間超短波の波長の研究中に考えついたものでこの装置により如何にひどい濃霧の中でも港へ無事に航行することが出来るという、しかしてそのトランスメッターは六十センチメートル短波長(500MHz)をもって行われ、今日までの実験では気圧、雨、嵐、霧、雷など外気気象の妨害をこうむることなしに新装置の機械は完全にその機能を発揮するとのことである。 』 (新装置を発明, 『大阪朝日新聞』, 1934.7.30, p11)

またアメリカの無線月刊誌 Radio Craft1934年10月号)でも、イタリアでこのブラインド・ナビゲーションシステムのデモンストレーションが成功("Marconi's New Invention", Radio Craft, Oct.1934, Continental Publication,Inc., p199)したことを伝えています。

【注】イタリアの無線雑誌 L'Antenna (1947年4-5月号)のマルコーニ特集では、1934年7月のセレストリ・レバンテのデモは波長63cm(周波数476MHz)を用いたとしています(p176)。

13) マルコーニの技術的関心事と心臓発作 [Marconi編]

マルコーニ氏にとって短波は、開拓が終った "過去のもの" となり、いまや彼の技術的な関心事は、以下3点に移っていました。

  1. 超短波の伝播特性の研究(曲がる超短波や、超短波のフェージング現象について)

  2. 超短波の反射作用の実用化(レーダー)

  3. 超短波によるテレビジョン放送の実用化

ところが1934年(昭和9年)7月末にブラインド航行システムのデモンストレーションを行った直後(10月頃?)、最初の心臓発作がマルコーニ氏を襲いました。これはマルコーニ氏の来日観光より、ちょうど1年後あたりでした。

『 (1934年)7月、再びエレットラ号で出発し、ラパッロとセレストリ・レヴァンテ間の(ブラインド)計器航法の実験を行った。オブザーバーとして、古くからの友人でシカゴの著名な物理学者のアーサー・H・コンプトンをはじめ、英米の専門家たちを招待した。エレットラ号はジェノヴァから30海里ほどのセレストリ・レヴァンテ沿岸まで北上した。その辺りの水路は、航海者にとっては高度の技術を要する場所で、危険航路を示すブイが浮かんでいた。マルコーニは、船が濃い霧に包まれた場合を想定し、ラジオ・ビーコン(電波標識)のみの補助で計器航行することを提案した。春の日中の最悪の気象条件を想定してシミュレーションするために、船長が船の前方や側面がまったく目視できないように、操舵室の甲板側の窓にすべて幕を張った。コンプトンによれば、この間、父は落ち着いて機器の準備をしつづけ、またエレットラ号は航路を変更することもなく通常の速度で港に向かい、船長は計器の指示のみを頼りに何のミスもなく難しい航路を進むことができた。

その(1934年)夏は、父は健康状態も非常に良かった。しかし9月になると元気がなくなった・・・(略)・・・激しい心臓発作に襲われた。即刻ローマからフルゴーニ先生が呼ばれて、治療の結果、幸い順調に快復した (デーニャ・マルコーニ・パレーシェ著/御舩佳子訳, 『父マルコーニ』, 2007, 東京電機大出版局, pp326-327)

幸いに無事体調を戻すことができたマルコーニ氏ですが、UHF波(500MHz帯)の伝播を継続的に観測するために、試験送信所と試験受信所の建設に着手しました。

1935年(昭和10年)2月、(これまで頻繁に送信実験を行ってきた)サンタ・マルゲリータからずっと内陸に入った「モンタレグロの聖母の聖域」(Sanctuary of Our Lady of Montallegro)にあるモンテローサMonte Rosaの頂上近く(標高680m)の斜面に小さな小屋を建てました(左図)。

そして南東の方角へUHF波(500MHz)の試験電波の送信を開始したのです。発射されたUHF波は海を挟んで130km以上離れた、ピサPisaの南方、リボルノLivorno郊外のモンテネロMontenero(標高200m)に作られた受信所で観測されました。

マルコーニ氏によるこの観測試験に関しては、(簡単ではありますが)イタリアの週刊ドメニカ・デル・コリエール誌("Le nuove esperienze di Marconi", La Domenica del Corriere, Sep.22, 1935)が伝えています

14) マルコーニがUHFレーダーのフィールドテストを開始 [Marconi編]

二つ目のマルコーニ氏の関心事「レーダー開発」について紹介します。大倉商事の高橋氏はマルコーニ氏の来日(1933年11月)時に次のように書かれています(ここでいう「ある種の新発明」とは、レーダーのことだと私は推察しています)。

最近のマイクロウエイブ等の装置を完成されたのである。そしてそれらの発明はいずれも実験に実験を重ねられた結果であって、決して理論や理屈で成ったもので無い事は世間周知の通りである。侯は目下、超短波マイクロウエイブに関するある種の新発明に没頭されつつあるが、過日その内容について私に考案の大要を内示されたのであった。侯爵が本研究についていかなる方法を執り、また苦心の結果がいかなる成績を挙げられたかは遺憾ながら玆所にお話出来ぬが、全ては遠からず偉大なる新発明として世界に発表せらるるであろう ・・・(略)・・・』 (高橋是彰, マルコニー候を語る, 『ワット』, 1934.1, ワット社, p17)

◎ 病に伏しても無線実験をしたがったマルコーニ

1934年(昭和9年)秋より心臓発作で療養していたマルコーニ氏ですが、1935年(昭和10年)3月16日に二度目の心臓発作に襲われました。しかし1月に自社に発注していたUHF実験用装置がまもなく納品されるため、マルコーニ氏は医者の言葉に耳をかさず、自分の命を縮めてまでもUHF実験の再開を強く望んだと娘が著書で書いています。

昔より日本には「マルコーニは技術屋というよりも実業家だろう」という意見もありますが、電波の不思議に魅せられ、無線実験が好きで好きでたまらない「生涯実験家」だったように私は思えてなりません。それにどうやらこの頃の実験はマルコーニ社としての正式なものではなく、マルコーニ氏が私費を投じていたようです。

『 (1935年)3月16日に再度発作が起きた。その後いく度となく激しい発作が続き、フルゴーニ先生は、(マルコーニに)すべての仕事を禁じる摂生を促した。ところが父は、自分自身の治療となると、頑として人の言うことを聞き入れなかった。早く実験活動を再開したくてがまんできず、また、イタリア王立学会と国立研究所の会長としての義務は果たすつもりだった。そして会合に出席するためそっと隠れて外出するようになった。 (デーニャ・マルコーニ・パレーシェ著/御舩佳子訳, 『父マルコーニ』, 2007, 東京電機大出版局, pp328-329)

1935年(昭和10年)4月、首都ローマの西北西50数kmに位置するサンタ・マリネッラ(Santa Marinella)の海岸にあるトッレ・キアルッチア局(Torre Chiaruccia)の高さおよそ20mの石塔(左図)を使って、マルコーニ氏はソラーリ氏とUHF波レーダーの基礎実験を開始ました。

今をさかのぼること13年。渡米中だった1922年6月20日、無線技術者学会IRE(Institute of Radio Engineers)と米国電気学会AIEE(American Institute of Electrical Engineers)の共催の講演会においてマルコーニ氏が語った「レーダー」に、今ようやく手を付けたのです。

「父マルコーニ」から引用しましす。

1935年1月、父はジェノヴァのマルコーニ製作所に、波長50センチメートル(600MHz)の小型送信機と自ら立案した精密な受信機を発注した。4月15日、ソラーリ(Luigi Solari)と共に、イタリア海軍の実験用無線電信局のあるローマとチヴィタヴェッキア(Civitavecchia)間のトッレ・キアルッチア(Torre Chiaruccia)に出かけた。この無線局は国立研究所に貸与されていて、父は自分の実験に利用していた。

機器類をチェックしてから、路上数キロをゆっくり双方向に行ったり来たり車を走らせた。ソラーリとマルコーニは、照射器が常に車の移動方向に向くようにしながら送信機と受信機とを交代で操作した。

マイクロ波が車にあたるたびに、かつてヴァティカン-カステル・ガンドルフォ間のマイクロ波通信設備でも発生したように、受信機がそれを感知するとシューっと音を出した。これこそが、その後船舶や航空機に多大な効用をもって採用されたレーダーの原理だった。

この実験は方法や場所を変えて繰り返し実施された。以前ワシントン在イタリア大使館の空軍武官をされていたチジェルツァ将軍は、若い時に、地上から父が航空機に向けてマイクロ波を送り出し、自分はティヴォリ(Tivoli)とフラスカーティ(Frascati)の上空を何時間も飛行したとのことだった。特にイタリアがエチオピアに侵攻(しようと)していた頃だったから、世間一般の人々にはこの種の活動は種々の誤解のもととなった。その地域の農民たちは、羊の群れが(マルコーニの)死の光線>で殺されたと断言した・・・(略)・・・』 (デーニャ・マルコーニ・パレーシェ著/御舩佳子訳, 『父マルコーニ』, 2007, 東京電機大出版局, pp328-329)

上記の話の中に登場する、「バチカン宮殿-ガンドルフォ城」UHF回線での不思議な経験も引用しておきましょう。この回線は同時通話式なので、送信波が庭師の手押し車に反射され、それが受信機に感応した音が「シュー」だったようです。

ある日、ヴァティカンの無線オペレーターが機器から、誰かが砂利道を足を引きずって歩いているような奇妙な音を聞き取った。わずか数分のことだったが、その後も毎日同じ時刻に聞こえた。好奇心に駆られて雑音の原因を探ろうと、機械が設置されている部屋の窓に面した庭を見ると、毎日音がするのと同じ時刻に、庭師がマイクロ波の通過するルートに沿ってゆっくりと手押し車を押していることに気づいた。この話を聞いた父はすぐにこの現象を調べたがったが、実際には1935年になって調査した。 (デーニャ・マルコーニ・パレーシェ著/御舩佳子訳, 『父マルコーニ』, 2007, 東京電機大出版局, p320)

15) マルコーニが飛行機や車のエンジンを止める電波兵器を発明??? [Marconi編]

1935年(昭和10年)5月14日、マルコーニ氏はムッソリーニ首相の面前でUHF波を使ったあるデモンストレーションを行いました。しかしその内容は軍事機密とされ非公開でした。

日本では『読売新聞』が報じましたので引用します(左)。

イタリー軍部方面から探聞するところによれば、無電の父マルコニー侯爵は最近飛行機や自動車などのエンジンを失速または停止せしめる驚くべき電波発生装置を発明し、十四日、ローマ郊外ボツシア要塞においてムッソリーニ首相の面前でそのテストを行い大成功を収めたといはれる無電王マルコーニ候 驚異的電波を発明 飛行機や自動車を停める, 『読売新聞』, 1935.5.16, 朝p7)

さらに『読売新聞』5月18日(左図[右]:朝刊p10)5月19日(朝刊p9)の2日間、"マルコーニ候発明の「殺人電波」の正体 =物凄い驚異的新兵器の出現="という刺激的なタイトルで殺人電波兵器の解説を掲載しました。

執筆を依頼されたのは陸軍省兵器局長で工学博士の多田禮吉氏でした。


さてマルコーニ氏が5月14日にムッソリーニ首相に対して "何らかの" デモをしたのは事実ですが、その内容に関しては、「・・・といわれる」というウワサの域を出ていません。5月16日の記事から引用を続けます。

この偉大なる発明に黒シャツ党首相は相好を崩して(=顔をほころばせて)「これさえあれば戦争も敢えて恐るるに足らぬ」と豪語した由である(・・・といわれる)。なおこのテストが行われている約卅分(30分)の間、ローマ市とその外港オスチア間の道路を疾走中の自動車はいづれも不意にそのモーターがピタリと停止し、運転手がいかに焦っても車は少しも動かなかったが、やがてテストが終るとエンジンが動き出したので事情を知らぬ彼らは全く狐につままれた思いであった(・・・といわれる)("無電王マルコーニ候 驚異的電波を発明 飛行機や自動車を停める", 『読売新聞』, 1935.5.16, 朝p7)

以上はあくまで "噂レベル" です。裏付けを取るために、記者がマルコーニ氏に取材をしていますが、軍の機密なのでノーコメントでした。

マルコーニ候は「今回の発明について語ることは今のところ絶対に不可能だ。それは既にイタリー軍機の秘密に属し、事極めて重大な意味を有するからである。しかし何れ後になれば詳細に発表できるであろう。」と語った。 ("無電王マルコーニ候 驚異的電波を発明 飛行機や自動車を停める", 『読売新聞』, 1935.5.16, 朝p7)

米国ノースキャロライナの新聞 The Times-News(1935年8月28日)は第一面でマルコーニが飛行機を止める光線を実験しいるようだと伝えています図[]:"Marconi working to halt planes in air with ray", Aug.28,1935, p1)

また同8月29日のオーストラリアの新聞 Geraldton Guardian and Express もエンジンを止める新型光線を実験しているとマルコーニが話したと伝えていま(左図[右]:"A new ray to stop engines", Aug.29, 1935, p4)

1935年10月18日の『ニューヨーク・タイムズ』紙も下図 "Marconi Ready to Take Micro-Wave to War; Said to Have Tested Halting Planes in Air"(p17)という記事で、マルコーニ氏が飛行中の飛行機のエンジンを止めるマイクロウエーブ兵器を試験したと言われていることを報じています。

16) マルコーニが無電 「殺人光線」を開発中との噂が広まる [Marconi編]

さらにマルコーニ氏が電波による「殺人光線」を開発していると噂されるようになりました。

今度は飛行中の飛行機を射止めたり、疾走中の自動車を停めたりする「無電殺人光線」を発明したとの噂が新聞の一面を賑わした。(Orrin E. Dunlap Jr.(著), Marconi: The Man and His Wireless, 小田律(訳) マルコニ伝, 『日本読書協会会報』1937年12月号, 日本読書協会, pp58)

左図は米国の無線月刊誌 Radio Craft1935年8月号, p70)です。「マルコーニが "DEATH RAY"(殺人光線の実験を行ったため、ローマとオスティア間でたくさんの自動車のエンジンが止まり、1マイルの渋滞が起きた。」と噂されていることを伝えました。

このように世界各国で報じられた「根拠のない噂」について、マルコーニ氏の娘は次のように書いています。

奇妙な目に見えない光線のせいでオスティアの路上で自動車が何台か立ち往生したそうだと噂した。こうしたもっともらしい噂が流れ、中には真に受ける人たちもいたくらいで、第二次大戦後、ある新聞などは <マルコーニは法王に自分の罪を告白した後に自殺した> という根拠のない記事を載せたほどである。 (デーニャ・マルコーニ・パレーシェ著/御舩佳子訳, 『父マルコーニ』, 2007, 東京電機大出版局, p329)

1935年10月2日、イタリアのエチオピア侵攻が始まりました。その直後、マルコーニ夫妻がローマのラジオ局2ROを通じて米国へ次のように語りました。

ローマ2RO局から、マルコニは対米放送を行なって、自国の立場への同情を求めた。彼は先ず「殺人光線」に関する噂を打消して、「遠距離から発動機の運転を止める新発明について、皆さんが私から説明を聞きたいと望んでおられるならば、私は皆さんを安心させる為に申上げておきたい。どうぞ御満足のいくまでお飛び下さい。貴方がたの飛行を停めるようなことはありませんから ― とにかく当分の間は。

それから伊エ(エチオピア)戦争の話題に転じて、彼は言った。

欧州は過去十七年間、今にも大衝突を起こしかねない状態を続けて来ましたが、今やその危機を脱しつつあるのです。・・・米国の皆さんは、幸いにも国際連盟の埒外にあって、ジュネーブの息詰まるような空気とは少々異なった、二大洋と大空間の自由な空気を呼吸していられるのありますから、独自の公平な見解を形造ることがお出来になるでしょう。皆さんはイタリーの主張の公正を必ず認めて下さるでしょう。」と。

マルコニ夫人も、国際放送において、ファシズム制度の下にイタリー婦人の社会的地位が向上ことを、

ムソリーニが現れてから、始めて、総ての職業が婦人に開放されました。・・・概して、イタリー婦人は政治にあまり関心を持っておりませんけれど、私共は建設的人間的努力には十分参加しております。今回の伊エ(エチオピア)戦争において、イタリー婦人はこの事を証明しました。 」と述べた。(Orrin E. Dunlap Jr.(著), Marconi: The Man and His Wireless, 小田律(訳) マルコニ伝, 『日本読書協会会報』1937年12月号, 日本読書協会, pp58-59)

17) 日本では映画の邦題に「殺人電波」が [Marconi編]

1936年7月29日にアメリカ映画「You May Be Next」(製作・配給:コロンビア・ピクチャー社、原作:ヘンリー・ウェールズ/ファーディナンド・ライヤー、監督:アルバート・ロージェル、主演:アン・サザーン/ロイド・ノーラン)が日本で封切られました。

この映画に付けられた邦題は「殺人電波」(左図:その広告)でした。当時、マルコーニ氏が発明したと噂される「殺人電波」は、わが国でも国民の関心が高かったからでしょうね。

しかしこの映画、飛行機や自動車のエンジンをめたりする電波は登場しません。停める対象は「放送」でした。無線技術者を誘拐し強力な無線送信機を使って全米のラジオ放送にジャミング妨害を掛け、放送局からお金を脅し取ろうとする悪党団の話なのです。まったく「殺人電波」などではありませんので、この邦題には強い違和感を覚えます。実にまぎらわしいです。


もしかすると無線ファンには楽しめる映画なのかも知れませんので、あらすじを紹介している記事を引用しておきます。

略筋 ― 何処から発信されるか判らない強力な電波がアメリカ中の放送会社を悩まし始めた。酷い雑音のため聴取不可能で、放送会社は破産への道を辿るのみである。この怪電波の送り主は最近、ある放送会社を解雇された電信技師ニール・ベネットと思われたが、実はあるカフェの持ち主ガードナーが放送会社から金を巻き上げるためで、ニールを監禁し、金を獲たらニールを殺す計画だった。カフェの女歌手フェイはニールと恋仲で、これもガードナーには癪(しゃく)だった。

ニールは苦心の末、自分の監禁場所を友人ハウスに送信した。ところがハウスはその暗号電信を解読できない。一方、怪電波の放送妨害は激しくなり、放送会社の中には要求の金を払うと言い出した。ガードナーは乾分(こぶん)に命じて、ニールを殺し、金を集めるように言いつける。その時、ハウスはフェイの助力を得て、ニールの暗号電信を判読した。

ハウスはガードナーと同じ電波を使って官憲にむかってSOSを放送した。ガードナーはそれを知って駆けつけ、ニールとフェイが危機一髪のところに、官憲が乗り込み。ついにガードナー一味は捕縛(ほばく)された。かくてニールとフェイは相擁(あいよう)することが出来た。 (『キネマ旬報』, 1936年7月号, キネマ旬報社, p46)

18)言論統制を敷いたイタリア [Marconi編]

この時期にマルコーニ氏の「悪い噂」が絶えなくなった大きな理由として、1936年(昭和11年)1月にイタリアのムッソリーニ首相が言論統制を敷いたことが挙げられるでしょう。マルコーニ氏は研究発表を行わなくなり、報道メディアと距離を置くようになってしまったのです。

(ロンドン六日) デイリー・ヘラルド紙ローマ通信によれば、ムッソリニ首相の伊国新聞に対する記事差止めは極度に達し、新聞報道の自由は全く沒却さるるに至つた。記事差止め事項中には左の如きものあり。

  • エチオピア戦線に於ける伊軍敗戦及伊国軍反乱に関するもの。

  • 埃及反英運動に関しては大ニュースとせず詳報せざること。

  • 無電王マルコニー侯の病気については報道せざること。

  • ローマにおいて行われる伊太利軍人の反乱及びその軍法会議の記事は一切禁止す。

等にして最近伊太利には不気味な気運みなぎり政府も厳重な警戒を加へたちり。殊にスパイの活躍を極度に注意している。(”伊太利国内の空気 – 不気味”, 『新世界朝日新聞』[サンフランシスコ], 1936.1.7, p1)

1936年5月、ムッソリーニ首相はエチオピアの併合を宣言しました。さらに国際連盟による経済制裁の措置を不服とし、翌1937年(昭和12年)12月、イタリアは国連を脱退してしまいました。戦時体制に入ったイタリアでは、マルコーニ氏のUHF研究はもとより、候の体調に関することさえも完全に機密扱いとなりました

そのため不審な噂がたえず飛び交う始末で、マルコーニ氏にはとても不幸な時期だったように思われます。

【参考】 当時の日本も似たような情勢にありました。関東軍による柳条湖事件(1931年9月)を契機に満州事変が始まり、国際連盟が「日本の侵略行為」としたリットン調査団報告書を採択(1933年2月)したため、我国はイタリアよりも先に国連を脱退しています。

19) マルコーニ逝去 1937年7月20日 [Marconi編]

1937年7月19日。2日後に7回目の誕生日を迎える愛嬢マリア・エレットラと夫人クリスチナが海岸の避暑地へ出かけるのを停車場に見送ったが、帰りの自動車に乗るとき涙を流していた。彼は運転手に言い訳のように「年をとると子供のようになる」といった。その日の午後、気分が悪いといって寝込んだが、翌日(7月20日)の未明、医師がコンデッテイの邸にかけつけた時はすでに重体であった。 (丹羽保次郎, "マルコーニ", 『新電気』, 1948.10, オーム社, p50)

1937年(昭和12年)7月20日早朝3時45分、「無線通信の父」として称えられ、また短波通信の開拓者であり、昼間波の発見者でもあるマルコーニ氏(63歳)は心筋梗塞で帰らぬ人となりました。偶然ですが7月20日は娘エレットラの誕生日でした。

マルコーニ氏のことを「実業家」と呼ぶ人もいますが、人付き合いや会社経営は得意ではなく、とりわけ最後の2年半は心臓発作を繰り返す中、医者や家族の反対を振りきって超短波の実験に没頭していた技術者であり、開拓者でした。

翌21日の夕方「無電王 マルコーニ」の棺を乗せた馬車を、数千人のローマ市民が見送りました(左図)。


そして18:00、葬式が始まるとイタリア国営ラジオが5分間、イギリスではBBCラジオ国営無線局が2分間しました。英国と英連邦間の公衆通信もこの2分間取扱いを停止したため、これは地球規模での停波です。

On the evening of the following day, thousands of mourners followed the coffin at the State funeral, while the Italian radio services observed a five-minute radio silence. In Britain, operators and engineers through out the Post Offices of the nation maintained a two minutes’ silence from 6 p.m., the hour of the funeral. The B.B.C. stations likewise fell silent and throughout the Empire the beam stations handled no traffic. The radio silence which Marconi had interrupted when he switched on his first transmitter, came down again in sorrow at his passing. (W.J. Baker, A History of the Marconi Company, 1972, St. Martin's Press Inc.[New York], p295)

午後6時、郵政省(英国郵政庁)のすべての無線局が二分間送信を中止した。中央郵便局(GPO)の無線士たちは送信機の前で直立不動の姿勢をとり、国際無線通信局センターでは英連邦担当のオペレーターが起立し、黙祷を捧げた。父が無線通信によってつなげたイギリスおよび英国連邦では、その時刻、すべての通信の送受信が止められ、BBC(英国放送)でも全ラジオ局が放送を中断した。この二分間、全世界(に広がる大英帝国の領地で)はマルコーニの逝去を悼んで深い静寂に包まれた。(Degna Marconi Paresce著/御舩 佳子訳, 『父マルコール』, 2007, 東京電機大学出版局, p343)

【参考】 この本の「世界中の無線局」が停波したとするのは誤りです。マルコーニ氏の本拠地イギリスは、かつて「日の沈まない国」といわれたように、大英帝国の影響がおよぶ地域が全世界に広がっていたから、そういう表現になるのであって、日本の無線局は黙祷の停波をしていません。

無電王マルコーニ候の逝去の報は、直ちに全世界へ伝わりました。日本でも7月21日の東京朝日新聞朝刊(図[左])、読売新聞朝刊(図[])、東京日日新聞(図[右])など、各紙が一斉にこれを報じました。

世界無電界の父、イタリー学士院院長グリエルモ・マルコニ候は二十日午前三時四十五分、心臓麻痺のためローマ、コンドッチの別邸で急逝した。享年六十三、遺骸は直ちにムソリニ首相以下内外名士の弔問が引きも切らぬ有様である。葬儀は二十一日午後一時、国葬をもって執行の予定。・・・略・・・』 ("無電王マルコニ候", 『東京朝日新聞』, 1937年7月21日, 朝p13)

なおローマではこの日に予定されていたラジオ番組がすべて中止され、厳粛な音楽を延々と流し続けたそうです。また生前のマルコーニ氏の希望により、遺体は汽車でボローニャへ運ばれ埋葬されました。

私が知る限りでは、マルコーニ自身による最後の執筆記事となったのは、無線月刊誌 Radio Craft(1937年3月号) "My First Transatlantic Wireless Signal" (Radio Craft Publications, Inc., p.530,p.544)ではないでしょうか。

おそらくRadio Craft 誌の編集部よりの依頼でマルコーニ氏が執筆されたものと想像します。いくつかの歴史的写真とともに大西洋横断通信を振り返っておられます。

20) 戦前日本におけるマルコーニのイメージは? [Marconi編]

近年の我が国では、マルコーニ氏のイメージとは「火花送信機の人」であり、「初の大西洋横断通信成功の人」であり、また周波数的にいえば「長波の人」かも知れません。

しかし戦前の記事を見ると、大西洋横断通信の成功と同しぐらいに、「短波帯公衆通信の実用化」や「超短波の研究」に言及する記事も数多くみられます。

発明協会の機関誌「発明」の追悼記事

開発職で特許を出願される方ならご存知かと思いますが、発明協会が発行する機関誌『発明昭和12年8月号, p27)にマルコーニ氏の逝去を伝える囲み記事がありましたので引用します。

無線電信の父として人類文化に一紀元を画した伊太利(イタリア)のグリエルモ・マルコーニ侯は客月二十日ローマの邸宅において逝去した。

マルコーニ侯は一八九五年、年端わずかに二十二歳の弱冠をもってこの大発明を完成したのであるが、天資の鋭敏に加うるに常に不撓不屈(ふとうふくつ)の精神をもって研究に精進し、数々の輝かしき業績を挙げた。就中特筆すべきものは短波の研究であろう。

今日長距離通信には、短波は独断上の感があるが、当時長波万能時代で短波は閑却(かんきゃく)されてすこしも顧みられざりし秋にあたり、侯の慧眼(けいがん)つとにその用いるべきを察し、これが研究に没頭しつつあったが遂に確信を得て英本国とその植民地を連絡する、いわゆるイムピリアル・スキームに対し、長波をもってすれば数百キロワットの電力を要するものを、短波通信設備をもってすれば僅か十キロワット内外で足り極めて経済的なることを提言して、遂に一九二四年英国政府との間に工事契約を取り結んだ。これがそもそも今日の短波時代を招来した一歩である・・・(略)・・・』 (無電の父 マルコーニ侯逝く, 『発明』, 1937.8, 発明推進協会, p27)

マルコーニ氏の生前の功績はもちろん無線電信の発明ですが、発明協会としては同氏の特筆すべき功績に「短波の研究」を挙げています。1901年の中波による大西洋横断通信成功の話などではないのです。長波万能時代にあって、マルコーニ氏は短波に秘められた可能性を見抜き、これを研究し、1924年には大英帝国ビーム通信網を受注して短波時代幕開けの第一歩としたのだと称えています。

1937年(昭和12年)というと、もう短波全盛時代ですから、「今日の短波」があるのはマルコーニ氏のおかげというわけで、「長波・中波のマルコーニ」よりも、「短波のマルコーニ」の方が評価される時代だったのではないでしょうか。

東京朝日新聞の追悼記事

また東京朝日新聞に掲載された東京帝国大の隈部一雄助教授(当時)の追悼記事から引用します。隈部氏は内燃機関の研究者で、のちに我国の自動車工学の礎を築かれました。

その隈部氏が、マルコーニ氏による短波開拓は、初期の無線実験の成功と同じく高く評価されるべきものだとしています。

マルコーニは非常に若くして成功したにもかかわらず、晩年まで研究を止めなかった。一九二四年には短波を使って、指向性電波を出し、遠距離通信に成功し、現在のような盛んな国際通信を可能にした・・・(略)・・・指向性短波を用いる遠距離通信の成功は、若年の頃の無電通信の成功と相並んで称えるべき、彼が人類に贈った偉大な賜物といわなければならない。短波については彼の研究の初期、一八九六年に、既に放物形の反射面を使って指向性を与えることを示しているが、世界大戦中、軍用の目的のために、指向性を持った近距離通信を行うため、短波の研究を始めた。

その結果は意外にも昼夜を問わず、地球の対称点とさえも通話することが出来るという結果を生んだ。当時彼は「我々の電波に対する知識は進みはしたが、一時我々が思った程たくさんの事は未だ知っていない」と述懐している。

火星と通信を試みようとしたほど独創的で実行力のあった彼を、未だ六十歳余りの若さで失ったことは誠に惜しい。晩年彼は超短波を医療に応用する希望を持っていた。この様な新方面の開拓にはなお彼に期待し得る所がはなはだ多かったと思われる。 (隈部一雄, "故マルコーニ候", 『東京朝日新聞』, 1937.7.24/25)

◎ 逓信協会の機関誌「逓信協会雑誌」の追悼記事

当時の逓信省の梶井剛工務局長による追悼記事には次のようにあります。

我、天皇陛下に於かれましても昭和八年、候の来朝せられた折、勲一等旭日章を授けられたのであります。その後の候は超短波通信の研鑽に専念されておりまして、この無線の新分野の開拓についてさらに候の力に俟つものが少なくなかったのであります。このたびの急逝によってその望みも絶たれた次第であります。(梶井剛, "無線の父マルコーニ候を偲ぶ", 『逓信協会雑誌』, 1937.9, p106)

このように多くの電波関係者などからマルコーニ氏の短波開拓の功績が称えられ、また超短波の研究が中断したことが惜しまれました。異色なものとして、しばらく時が経った終戦直後の1948年(昭和23年)ですが、カトリック系の雑誌にも取り上げられています。バチカン短波放送局や、教皇無線電話(530MHz)を建設したのがマルコーニ氏だからでしょう。

マルコーニの一生はその始めから終りまで不屈不撓(ふくつふとう)の努力の一生であった。晩年においては、彼は陸地でも小海峡でも限られた範囲内で、放物線状鏡によって放送され得る五〇糎(50cm, 600MHz)あるいはそれ以下の短波の応用に没頭した。これは濃霧に襲われた船を安全に港へおくりこむために考案されたものであるが、かかる電波はまた、医療の方面においても色々利用の道のあることが明らかにされた。

彼は死ぬ二日前、何かしら漠然とした予感にかられてヴァチカンの友を訪れ、その日特別なお願いによって法王から祝福を授けられた。一九三七年七月二十日、終油の秘蹟(しゅうゆのひせき:カトリック教会の秘蹟のひとつ)を受けた後、彼は昇天した。ローマは喪に服し、全世界の人々は最愛の友を失って深い悲しみに陥った。(ヘレン・C・カリファー, "善意の人マルコーニ", 『カトリックダイジェスト日本版』, 1948年7月号, 小峰書店, p20)

しかし残念ながら戦後もしばらく経つと、マルコーニ氏の短波や超短波での功績は徐々に忘れられていくのですが、元郵政省電波研究所長の若井登氏は1991年(平成3年)に次のように記されています。

電波の利用は今なお限りなく広がっている。その中の通信に限っていうと、ヘルツの電波に実用の命を与え、それを育んで社会を豊かにしてくれたのはマルコーニである彼は心臓発作で倒れる直前までUHF電波の実験をしていた。無線電信の発明者に相応しい63歳の終幕であった(若井登, "マルコーニの実験レポート [その3]", 『ARIB機関誌』, 1991.1, 電波産業界, p31)

21) マルコーニの功績 渋沢東京帝大教授の講演 [Marconi編]

1938年(昭和13年)11月22日18:00より、神田駿河台の明治大学記念講堂で日伊学会(1937年2月創立)がイタリア文化講演会を開催しました。

これは相次いで亡くなったイタリアの偉人、無電王マルコーニ(1937年7月20日没)と詩人ダンヌンツィオ(1938年3月1日没)の業績に関する講演会で、東京帝大教授の渋沢元治氏が「マルコーニに就いて」を発表されました。

【参考】また同時に渋谷氏は電気学会の会長も務めておられましたが(1924-1925)、マルコーニ氏が来日した1933年時点でも電気学会の役員でした。11月16日夜に芝の紅葉館で開かれた大倉男爵主催の純和式歓迎会や、翌17日夕に帝国ホテルで行われた(マルコーニ氏に対する)電気学会名誉会員推戴式でマルコーニ氏と面識があります。

本講演より戦前の日本において、マルコーニ氏の業績が(特に電気学会筋から)どう評価されていたかを知ることができます。長文ですので講演記事から一部だけを引用します。ちなみに渋沢氏はこの講演の半年後(1939年4月1日)に開学した名古屋帝国大学の初代総長に就任されました。

ただ今ご紹介を頂きました渋沢でございます。今日この記念すべき日に、イタリア科学界の偉人であるマルコーニ侯についてお話するということは私の非常に光栄とする所であります。・・・(略)・・・これからマルコーニ侯がどういう仕事をなさったのかという、その主なることをかい摘んで申し上げたいと思います。これはたくさんあるのでありますが、それを大きく分けますと三つに分けられるかと思います。

第一は無線電信の発明であります。・・・(略)・・・即ちイギリスの学士院というのは中々やかましい所であるが、そこでプリース卿がこのマルコーニの発明を発表してくれた。マルコーニという人が無線で通信が出来る発明をしたということを天下に裏書してそれを雑誌に出したのであります。これが世界に伝わった。私もまだその頃、学生時代でありましたが、その時分は世界の学生が眼を血のようにして無線の研究をしたものでございます。それから直ぐに会社を作って、どんどん実際の方に進んで参ったのであります。これが第一の無線電信の発明でございます。

第二は大西洋の横断無線であります。 ・・・(略)・・・電波が遠くに行く。それは判った。判ったが真っ直ぐに行くだろう。真っ直ぐにいくならば地球は丸いから電波は真っ直ぐに行って、フランスから出た電波はアメリカには行かないで真っ直ぐに(宇宙へ)いってしまうだろうとあの時分の人は皆そう思っていたのであります。・・・(略)・・・

第三にこれは少し学問的でむづかしいお話になりますが、しかし最近の無線というものに偉大なる影響をもたらした源でありますから、ごく分かり易く簡単に申し上げたいと思います。無線というものは放送でお聴きになるとお分かりになるように、一つの所から出ますと四方八方に散って行きます。ですから放送のようにどこでも同じことを聴くには非常に便利である。それと同時に四方八方に散ってしまうから自然、力が弱くなる。これが無線の良い所であり又、悪い所であります。そこでマルコーニはこれを遠くにやるに成るべく一方に力を寄せてやろうということを思い付かれた。これがビーム式であります・・・(略)・・・短波になりますとこれをビームにしてやることが大変有効になる。そして小さな力でも遠くに届く。これを研究されたのであります。・・・(略)・・・今のビームの試験などは、船(エレットラ号)に乗っていて、しきりに実験をせられた。この研究が段々うまく参りまして、遂に一九二四年八月十三日イギリスとオーストラリアの間に、ちょうどあの間は一万二千粁(12,000km)程ありますが、無線電話で実行して、それがうまくいくということを確かめられたのであります。けだし遠距離の無線電話はこれが一番初めてでございます。

終りに皆さんに申し上げておきたいと思いますことは、科学的な方面で、新しい文化を進めて行くにはどういう要件が必要であるかと申しますと、先ず理学、科学方面の科学界にいらっしゃる方が終始新しい研究をされて新しい自然現象を発見されて行く。これが第一の要素になります。次はそういうふうにして発見された現象をうまく総合してこれを必要なる方面に応用する。これが発明なのであります。マルコーニ侯の例で申しますれば、ヘルツやあるいはブランリーの見付けた現象を巧みに通信という方面に応用したのであります。・・・(略)・・・マルコーニという方は探照燈のビームのように電波もそう行くはずだということを考え付かれた。そういう応用の方面に偉い力のあるお方であった。・・・(略)・・・

要するにマルコーニという方は純科学者というタイプではなかったが、優れた発明家であり、かつそれを実用化する才能に富んだ方であった。そういう方がこの電波という所へ眼を付けて下さったため、今日のように無線界が発展してきたと申しても宜しかろうかと思います。甚だ簡単ではありますが、余り長くなりすぎてもなんですから、此の程度でマルコーニ侯をご紹介致したということにしたいと思います。(澁澤元治, "マルコーニに就いて", 『日伊学会会報』, 第2号(昭和13年度), 日伊学会, pp91-106)

【参考】1953年(昭和28年)の米電気学会AIEEにおいて、アームストロング氏はマルコーニ氏の功績として「①地中波の発見②短波の昼間波の発見③超短波の屈曲の発見」を挙げています。しかし三番目の「超短波の屈曲」は渋沢氏の講演があった1938年(昭和13年)の時点ではまだ受け入れられていませんでした。

22) 忘れ去られたマルコーニの28年間 [Marconi編]

前記、渋沢氏が選ばれたマルコーニ氏の三番目の功績とは、「短波のビーム式通信の実用化」で、これによって1924年(大正13年)に遠距離無線電話の実験に成功したことを挙げられています。

しかしマルコーニ氏が「昼間波を発見した」ことや、「短波公衆通信の実用化」には一切触れていません。なぜでしょうか?まず第一に、渋沢氏は学者であって、現に公衆通信サービスを運用している逓信関係者らとは視点がやや異なるのでしょう。

第二点として、この講演があった1938年(昭和13年)の国際公衆通信は、短波全盛時代だという点も影響しているように思います。世間では短波が昼間でも遠くまで飛ぶのは、不思議なことでも何でもなくなっていました。かつて科学者の誰もが「電波は夜間に遠くへ届くもの」と信じていたのに・・・

近年、日本ではマルコーニ氏の経歴を左表のようにまとめる事がおおいです。ノーベル賞を受賞したあと、28年間をすっ飛ばして、いきなり逝去ですか?それはないでしょう! 彼の中後期の功績が一切無視されているではありませんか!

ノーベル賞は長年の研究や活動などが人類に貢献したと評価された人に贈られます。その意味でいえは、受賞する前の期間にこそ、「受賞に値する研究や活動があった」と考えるのは当然のことです。だから表のように受賞のあとの出来事には無関心で、いきなり逝去になってしまうのかも知れません。

しかしマルコーニ氏の場合はちょっと違うのです。ノーベル賞の受賞は「無線人生の中のひとつの通過点」に過ぎず、彼は受賞後(1909-1937)においても、受賞前(1894-1909)に匹敵するような成果を出し続けました。これは凄いことですね。ところが終戦後の日本では受賞後の功績をすっかり忘れてしまい、マルコーニ氏に「火花送信機やコヒーラ受信機の人」、「ブリキ板と接地式アンテナの人」、「長波・中波の人」、「大昔(無線黎明期)に大活躍した人」といった古典的イメージが定着していきました。

いまや"マルコーニ"の名を聞いて、当時最先端だった「短波ビーム」や「UHFの実用化」等を想起されるのは、戦前生まれの無線技術者・関係者など、極少数に留まるのではないでしょうか。マルコーニ氏が無線にかかわった時期を、1894年以降とすると44年間(1894-1937)です。そのうち「短波・超短波の開拓」だけに限定したとしても22年間(1916-1937)もの長期間にわたり、その研究に没頭しています。

そういう観点で上表をもう一度ご覧ください。彼の"技術屋人生"44年 の真半分が、この表では消えており、ちょっとお気の毒な気分になります。

23) マルコーニのレーダーが姿を変えて実現 [Marconi編]

研究や実験の詳細までは判りませんが、マルコーニ氏は軍用レーダーを開発していたようです。ところが激務となった1935年10月からのブラジルへの特命出張で病状がさらに悪化してしまい、1936年になるとレーダーの研究開発はほとんど進まなくなりました。

しかしマルコーニ氏のレーダーのアイデアから大いに刺激を受けていたイタリア軍は独自にウーゴ・ティベリオ(Ugo Tiberio)やネロ・カラーラ(Nello Carrara)らの技術者に研究させて、1936年(昭和11年)には初期モデルEC-1型レーダーを完成させました。

その後も細々と改良が続けられ、1941年(昭和16年)からEC-3型(Gufo:フクロウ、周波数400-750MHz)の試験を開始し、1942-43年(昭和17-18年)に、イタリア海軍の軍艦15隻に実戦配備しました。左図は戦艦イタリア(旧名Littorio)に装備された"フクロウ"EC-3です。

また一方で、イタリアでのマルコーニ氏のレーダー研究報告書は英国のマルコーニ社にも送付されていたため、英国のワトソン・ワット(Robert Watson Watt)がレーダー開発(1935年~)に着手した際、その資料も参考にされたといわれていますが、(私には)詳細は判りませんでした(なお1935年12月、英国政府より最初の空軍レーダー"Chain Home"5局のアンテナシステムの設計および製造は英国のマルコーニ社が受注しています)。

戦時中のため、イタリア政府があらゆる科学の進歩に関する情報を秘密にしたことが、父の仕事についてさまざまな噂の流れる原因となった。ムッソリーニは父とは常に連絡を取り合い、個人的にもある実験に手を貸したほどだった。この件についてはロンドンのマルコーニ社に報告書が送られた。情報から取り残されていたのは、新聞社と一般市民だけだった。父が始めたその研究は、第二次大戦中、イギリスの科学者たちによって、レーダーの形で最初に世に出された。 (デーニャ・マルコーニ・パレーシェ著/御舩佳子訳, 『父マルコーニ』, 2007, 東京電機大出版局, p329)

とにかく間接的ではありますが、マルコーニ氏のレーダー構想が(氏の没後に)現実のものになりました。

【参考】 英国チェルムス・フォード郊外のグレート・バッドウ(Great Baddow)にあったマルコーニ研究所MRL(Marconi Research Laboratories)がレーダー開発に着手したのは終戦後の1946年(昭和21年)です。

超短波の湾曲性を発見

船舶無線ほか