1948年(昭和23年)連合国の占領下にあった我国の逓信省は新しい「コールサインの割当基準」(Call Sign Allocation Standard, 1948.9.15, GHQ/SCAP CCS承認)を制定しました。これに従い1949年(昭和24年)1月1日より日本のアマチュア局のコールサインはJA2~JA9に決定しました(但しアマチュア無線は日本人には許可されず、米軍と英連邦軍BCOFの軍人、および米国からAFRS放送局やGHQ/SCAP職員として派遣されてきた米国民間人に限定された)。
さて「JA」プリフィックスは日本国に割当てられた国際呼出符字ですが、それがアメリカ合衆国直轄占領地だった硫黄島のアマチュア無線局にも指定されるという異例な事態が、2年間ほど存在します。
本ページではこのミステリアスな硫黄島のJAコールサイン(アマチュア無線)の話題をとりあげてみます。[2015.08.20新設ページ]
1) 北太平洋の島々のアマチュア局コールサイン 1929年
本題である硫黄島の話の前に、北太平洋の島々のアマチュア局の戦前のコールサインに付いて概観しておく。
アマチュア局のコールサインの頭に国際符字を付加することを決めたのは1927年(昭和2年)に開催されたワシントン会議(第三回国際無線電信会議)である。そしてこの会議で決めた無線規則が発効したのは1929年(昭和4年)1月1日だった。ここから振り返る。
米国では毎年7月30日付けで、商務省が"Amateur Radio Stations of the United States" というアマチュア局の免許人リスト(いわゆるコールブック)を出版していた。アマチュア局のコールブックは民間の雑誌社も出していたが、商務省のコールブック(左図はEdition: June 30, 1927)こそが最も信頼できる公式なものである。
商務省コールブックの1927年版と1928年版より、コールサイン6AFA~6AFHの部分を抜き出し、比較してみた。
1927年度版(下図[上])には数字6から始まる、古いスタイルのコールサインが掲載されている。これはアマチュア局が米国の国内法で法制化された1912年以来の「1数字+2ないし3文字」のものである。
アメリカ本土西海岸の南半分であるカリフォルニア州はディストリクト・ナンバー(エリア番号)「6」から始まるコールサイン。ハワイはカリフォルニアの(遥か彼方の)沖合いだから「6」とした。つまりコールサインからカリフォルニア局かハワイ局かは見分けが付かない。
【参考】また本土西海岸の北半分でワシントン州やオレゴン州はディストリクト・ナンバー「7」から始まるコールサイン。カナダを挟んで北西に位置するアラスカを「7」とした。同様にフロリダ州「4」の沖合に位置するプエルトリコは「4」。
1928年度版(上図[下])のコールサインは国際符字を前置した新しいものである。このとき米国本土をW、それ以外をKと定め、カリフォルニアはW6、ハワイはK6 とした。上図の例ではカリフォルニアの6AFA, 6AFB, 6AFCはW6AFA, W6AFB, W6AFCになり、ハワイの6AFD, 6AFFはK6AFD, K6AFFに代わった。米国ではワシントン会議の新規則が発効する3ヶ月前の1928年10月1日、国際符字WやKを前置した新しいコールサインへの完全移行を完了した。
【参考】アラスカとプエルトリコもWではなく、アラスカは(W7の後方に位置するので)K7、プエルトリコは(W4の沖合なので)K4である。
2) K6のプリフィクスを嫌ったグアム局
1898年に勃発したスペイン帝国との戦争に勝った米国は、スペイン帝国の植民地だったフィリピンとグアム島を獲得した。しかしフィリピンでは米国支配に反発し独立戦争が繰り広げられ、1916年には(総督は米国人だが)フィリピン人による議会や行政組織が作られ、限定的ではあるが自治政策がとられるようになった(なお自治領政府の発足は1935年)。
そのため1920年代のフィリピンのアマチュア局は米連邦通信委員会FCC規則を無視した超法規的な存在で、コールサインはハワイの「6」番ではなく、自由に「1数字+2文字」を名乗って運用していたようだ。
【参考】1931年、フィリピン議会が無線管理法(法律第3846号)を制定しアマチュア局を合法化。
もともとフィリピンとグアムは同じスペイン領だったが、自治独立路線のフィリピンはKA(アジアのA?)、米国支配のグアムはハワイのK6というように、両者はプリフィクス的には別の道を歩みだした。
グアムで最初のアマチュア局は1928年頃に開局した(グアム海兵隊の通信士である)OM1TBだといわれているが、公式なKプリフィクスがあるのに、あえてOM(O:オセアニア、M:マリアナ諸島)という非合法な2文字を使った。これは昔のアマチュアで流行った国際中間符号の流儀に従って彼らが命名したもので、複数のグアム局がOMコールに追従したが、やがてFCCの摘発を受けた。下図(Australian Amateur Radio Magazine, 1991年4月号)より引用する。
『The first amateur station on Guam was said to be OM1TB which operated in about 1928. ・・・略・・・Guam stations carried the OM prefix despite the official K prefix allocation. However, in the latter part of 1935, the FCC (Federal Communications Commission) ordered all unlicensed stations closed. The term “unlicensed” may come as a surprise to many of today’s operators, but in those days the numbers of unlicensed stations (especially in Europe) was enormous.
Guam stations were shut down for two months until the new K6 call was applied for.
There was some objection by Guam operators having to share the K6 prefix with Hawaii, since their countries were so far apart. 』(Ken Matcuett VK8TL, "QSLs FROM THE WIA COLLECTION (28)" Australian Amateur Radio Magazine, April 1991, pp48-49, Wireless Institute of Australia)
米本土ワシントンから遠く離れた太平洋のグアム島ではFCC規則への遵法精神が少々足りなかったようだが、その他にグアム局がFCCが指定するK6プリフィクスの使用を嫌ったのは、ハワイ周辺の「K6エリア」からグアムがあまりにも離れていたからだった。
3) ハワイK6 とグアムK6 を分断する南洋庁J9P
グアム局がハワイのK6プリフィックスを使いたくない、もうひとつの理由は、ハワイ・グアム間に日本の委託統治領である南洋群島「J9P」が位置し、これが両者を完全に分断していたことも大きいだろう。グアムK6だけが仲間外れでポツンと西太平洋にあった(下図参照)。
では日本の委任統治領「南洋群島」(カロリン諸島、マーシャル諸島、グアムを除くマリアナ諸島)について振り返る。
1914年(大正3年)第一次世界大戦が勃発すると、(日英同盟を結んでいた関係から)日本はドイツに宣戦布告し、ドイツ領だった太平洋の島々を無血で占領した。そして1918年(大正7年)戦争は終わった。
1919年(大正8年)、パリ講和会議の結果がヴェルサイユ講和条約として調印され、翌年に新たに発足させる国際連盟からの委任という形で、赤道以北の旧ドイツ領の島々を日本が統治することになった。
1922年(大正11年)、日本政府はパラオ島に「南洋庁」という役所を設置した。
【参考】赤道以南のドイツ領(現在のパプアニューギニアの一部)はオーストラリアの委任統治領になった。
4) 日本の太平洋の島々(小笠原, 硫黄, 南鳥島は J1)
ここで太平洋および南シナ海にある「日本の島々」のプリフィクスにも触れておこう。
1878年(明治11年)に伊豆諸島が静岡県から東京府に移管された。伊豆諸島との定期航路船は東京港から出ており、利便性を考えての措置だったようだ。さらに2年後には、内務省所管だった小笠原群島が東京府へ移管された。しかし小笠原群島よりもさらに南に位置する硫黄列島(別名:火山列島)はまだ帰属未定地だった。
1891年(明治24年)9月、硫黄列島を構成する三島の名称を北硫黄島、硫黄島、南硫黄島と定め、日本領として東京府に組み込んだ(下図:明治24年9月9日 勅令第190号)。
さらに1898年(明治31年)には南鳥島(マーカス島)も東京府に組み込まれた。これら小笠原・硫黄・南鳥島の島々は(当時アマチュア局は開設されなかったので交付実績があるわけではないが)、東京府であるからプリフィクスは「J1」だと考えられる。
【参考】沖ノ鳥島(あの7J1RLの沖ノ鳥島)はまだ帰属未定地で、日本により領有が宣言されて東京府に編入されたのは、意外と遅く1931年(昭和6年)である。
沖縄は九州の一部として「J5」。台湾総督府(台湾島、澎湖諸島、新南群島)および南洋庁(南洋群島)は「J9」。特に南洋庁(南洋群島)は「J9」の中でも「J9P以降」が指定された。
5) 沖ノ鳥島の領有宣言と東京府へ編入(1931年)
南海の孤島、沖ノ鳥島が日本領になったのは比較的遅く昭和になってからだった。1931年(昭和6年)閣議決定で領有方針が決まり、同年7月に沖ノ鳥島が東京府へ編入された(左図:昭和6年7月6日 内務省告示第163号)。
【参考】左図告示中にある「中ノ鳥島」はのちに再測量の結果、存在しないことが確認されて、削除された。いわゆる「まぼろしの島」である。
戦前の小笠原、硫黄、南鳥島、沖ノ鳥島に、もしアマチュア局が開設されたなら「J1」のコールサインだっただろう。この結果、地理的には台湾総督府「J9」と南洋庁「J9P」の間に、沖ノ鳥島「J1」が割り込んだ形となった。
なお1934年(昭和9年)、関東地方のJ1プリフィクスが東海地方のJ2へ統合され、東京府(小笠原、硫黄島、南鳥島、沖ノ鳥島)では「J2G以降」のコールサインになった。
6) グアム局が非合法OMコールからK6コールへ
1932年(昭和7年)頃より、グアムの一部のOMコール局の中に、正規のK6ライセンスで運用するものが現れた。下図は1932年発行の民間雑誌のコールブック(Radio Amateur Call Book Magazine, Fall 1932, Sep.1932, Radio Amateur Call Book Inc., pp181-182)である。
K6BLA、K6LG、K6LKなどが見られるようになった。
なおK6LGについては純粋なアマチュア業務というより、アマチュア局免許を隠れ蓑にして周辺住民への商業ラジオ放送として運用されたとする証言がWEB上で散見される。私にはその真偽は分からないが、なにぶん米本土ワシントンの連邦通信委員会FCCの監視の目から、遠く離れた西太平洋のグアム島なので、そういうことがあったとしても不思議ではないだろう。
7) 広範囲のK6を細分化(1938年)
1938年の終わりに、ハワイ以外の広いK6エリアがKB6, KC6, KD6, KE6, KF6, KG6, KH6に細分化された(またプエルトリコK4から米領バージン諸島KB4も独立)。(左図:"How's DX?", QST, Dec.1938, ARRL, p49)
そのほかロサンゼルスのRadio誌1938年12月号も"New Pacific Island Prefixes"という記事で伝えている。
これはフィリピンがKAだったので、まず隣のグアムをKB6と定め、そこから東へ、そして南へ、2文字目をアルファベット順にKH6まで割り付けた(下図参照)。KB6からKH6のアルファベット2文字目に特に意味はなく、機械的に割り振っただけである。
こうしてマリアナ諸島J9Pの中で、唯一米国領だったグアム島のプリフィクスはKB6となった。
8) 日本の南シナ海の島々(新南群島は J9)
新南群島は1939年(昭和14年)3月30日付けの台湾総督府第122号告示で、台湾総督府高雄州高雄市「新南群島区」に編入すると日本が宣言した、南シナ海の島々をさす当時の呼称である。北に中華民国と日本(台湾総督府)、西にフランス領インドシナ(現ベトナム、ラオス、カンボジア)、東は米国保護領のフィリピン、そして南方面は英国領のマレー半島・ボルネオ島北西部に接していた。
大正時代にラサ島燐礦株式会社が新南群島でリン鉱石採掘し、同社の関係者200名ほどが暮らしていた。大正末期、日本は不況期に入り、同社は業績不振により1929年(昭和4年)4月に採掘設備や住居を残したまま退去した。
1933年(昭和8年)、無人島化していた新南群島にフランス海軍が進出してきた。日本と外交ルートでの領有権争いが始まったが軍事的衝突に発展することもなく平行線をたどった(なお強い行動には出なかったが中華民国も領有を主張していた)。
1938(昭和13)年8 月10 日、日本は新南群島にコンクリート製の帝国先占碑を建て、12月23日に領有を閣議決定し奏請。12月27日、天皇陛下の裁可を受けた。
そして1939年3月30日の台湾総督府第122号告示で領有宣言した。結局この海域では軍事的な衝突はなく、無血で日本の島となった。(日本に編入されるまでの歴史を大雑把に紹介してみたが、歴史判断にはこの海域に関する他の研究文献をあたってほしい。)
なお新南群島は戦前における日本最西端と最南端の地である。台湾の高雄市に属することから、プリフィックスは台湾総督府の「J9」だと考えられる。
敗戦後の1951年(昭和26年)、サンフランシスコ講和条約の第二章「領域」の第2条(f) の項で『新南群島(スプラトリー諸島)及び西沙群島(パラセル諸島)に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する』としたが、新たな帰属先はここには明示されていない。
現在もこれらの島々は中国、台湾、フィリピン、ベトナム、マレーシア、ブルネイの6カ国で領有権が争われている。
9) 第二次世界大戦勃発 海外交信・移動運用禁止
1939年(昭和14年)9月1日、欧州で第二次世界大戦が勃発したが、アメリカは中立の立場をとり参戦しなかった。アメリカでは25年前の「欧州列強国の戦い(第一次世界大戦)」に巻き込まれたという反省から、1935年(昭和10年)8月に議会で中立法が成立していたからだ。
【参考】英連邦に属するカナダは1939年9月5日にアマチュア無線を禁止し、9月10日にドイツに宣戦布告した。
1940年(昭和15年)6月5日、連邦通信委員会FCCはOrder No.72 を発令して、米国アマチュア局の海外交信を禁止した。米国アマチュア局が海外局との交信で、スパイ的な活動を行ったり、不用意に政治的な発言や偏った思想的な発言をして、アメリカの戦争への中立性が疑われたりといった国益を損ねるような事態の発生を避けるためだ。したがって日米間のアマチュア交信は、(アメリカ側の理由により)太平洋戦争開戦の1年半前の時点で閉ざされたのである。
【参考】なお自治領フィリピンKAや、グアムKG6、パナマ運河地帯KZ5などの米海外領土で、アメリカ市民が正規許可を受けている局と、アメリカ本土間との交信は例外として許された。
さらに2日後の6月7日、FCC Order No.73 が発令され、アマチュアの移動運用が禁止され、免許状にある設置場所以外から運用ができなくなった。ただし28MHzバンド以下の短波帯が対象たったため、V/UHFバンド(56MHz, 112MHz, 224MHz, 400Mc帯)での移動運用は許された。ただし同日中に続けて出された 改正版Order No.73-A では公共の利益のために緊急通信を行う場合の移動運用も例外として追加された。
次いで6月19日に発令のFCC Order No.75 で連邦通信委員会FCCはプロ・アマを問わず全ての無線通信士に対し、所定の様式にて自己の市民権を証明し、8月15日までに提出するように求めた(2度の延長で最終的には1940年10月15日が期限となった)。これは "Form 725" と呼ばれる書類に、出生または帰化による市民権の証明と、近親者の国籍、自分の米国外での居住歴過、米国政府または外国政府での勤務に関する情報を記入し、指紋押捺のうえパスポートサイズの写真を添えた。
10) 日米開戦 アマチュア無線禁止(1941年)
1941年(昭和16年)3月、アメリカでは武器供与法が成立。連合国側を積極的に支援するようになっていた。そして1941年12月8日(ハワイ現地時間:12月7日朝)、日本軍による真珠湾攻撃を受けたアメリカは第二次世界大戦に参戦した。
1941年12月8日、The Board of War Communicationsの要請を受けて、連邦通信委員会FCCはアメリカの本土、海外領土、属領でのアマチュア業務の禁止を発令した(FCC Order No.87 )。 当時、アメリカには6万局弱のアマチュア局があって世界一のハム人口を誇っていた。
ORDER NO. 87
At a session of the Federal Communications Commission held at its offices in Washington, D. C., on the 8th day of December, 1941;
Whereas a state of war exists between the United States and the Imperial Japanese Government, and the withdrawal from private use of all amateur frequencies is required for the purpose of the National Defense;
IT IS ORDERED, that except as may hereafter be specifically authorized by the Commission, no person shall engage in any amateur radio operation in the continental United States, its territories and possessions, and that all frequencies heretofore allocated to amateur radio stations under Part 12 of the Rules and Regulations BE, AND THEY ARE HEREBY, WITHDRAWN from use by any person except as may hereafter be authorized by the Commission.
By order of the Commission:
- T. J. Slowie,
Secretary
同時にアマチュアのステーション・ライセンス(無線局免許状)の新規発行は停止された。ただし連邦通信委員会FCCは同日付の公示にて、「国防のために必要なアマチュア活動は、州政府などを通じて国防通信委員会DCB(Defense Communications Board)へ申請し、承認された場合」に限り特別許可を与えるとした。
そして再開を許された一部のアマチュア局が電波を出し始めたが、この特別許可の基準や運用管理が甘いのではないかと陸軍省が懸念を示した。そのため年末になって、国防通信委員会DCBはFCCに対し、アマチュア無線の特別許可を出すのを一旦待つように申入れた。FCCでは1月1日までに1,689局に特別許可を与え、さらに発行準備中のものが1,000局ほどあったが手続きを停止した。
1942年(昭和17年)1月8日、FCC Order 87 の改定版となるOrder 87-A を発令し、FCCはこれまで与えた特別許可を1月9日、すべて取り消した。特別許可を受けていたアマチュア団体ARRLの無線局W1AWをはじめとする米アマチュア局が完全停波したのである。
そしてアマチュア局としてではなく、アマチュア無線家が貢献できる「新しい無線システム」の創設について、民間防衛局OCD(Office of Civilian Defense)と連邦通信委員会FCCによる検討が始まった。
11) 局免許・従事者免許の更新を再開
当時のアメリカでは、ステーション・ライセンス(無線局免許状)もオペレーター・ライセンス(無線従事者免許証)も、その有効期間は3年で、その都度、免許更新手続きが必要だった。
太平洋戦争開戦で1941年12月8日よりアマチュア業務は禁止された(FCC Order No.87 )。無線局の免許はあくまで免許状に記載された日まで有効だが、今はその運用が禁止されているというステイタスである。
しかしアマチュア業務は禁止されていても、各人の免許の有効期限は順次やってくる。ステーション・ライセンス(局免)を失効させるのは、愛着あるコールサインを失うことだ。オペレーション・ライセンス(従免)を失効させるのは、無線技能の証を失うことを意味し、もし活動再開したくなったら再受験しなければならない。連邦通信委員会FCCの各地の事務所にはこれら免許の更新申請だけでなく、住所変更などの変更申請が毎日届いたが、手続きは保留されていた。
陸軍省と海軍省では入営兵士の配置先決定に際し、アマチュア無線のオペレーター・ライセンスの有無を通信技能の証明書として参考にしたいと考え、FCCへ免許事務の再開と、ライセンス試験の継続実施を求めた。
1942年(昭和17年)2月26日、FCCはアマチュア無線のステーション・ライセンスとオペレーター・ライセンスの更新・変更事務を再開した。またオペレーター・ライセンス試験もこれまで通り実施され、合格者には新規でオペレーター・ライセンス(従事者免許)が与えられることになった。だがステーション・ライセンス(局免許)の新規発行は不可である。こうして多くのアマチュア無線家が優先的に軍の通信部門へ配置された。
12) 戦時緊急無線WERS誕生(1942年)
1942年(昭和17年)5月28日、アマチュア無線家の機器と才能を民間防衛通信に活用する方策を検討してきた民間防衛局OCDと連邦通信委員会FCCは戦時緊急無線WERS(War Emergency Radio Service)の創設を提案し、国防通信委員会DCBが賛同した。そして6月上旬にFCCはWERS創設を発表し、これ以後、全米の各地域ごとに民間防衛通信隊を組織することになったのである。
アメリカ独自のアマチュアバンドである112-116MHz、224-230MHz、400-401MHzをWERS用の周波数に指定し、電波型式A0, A1, A3, FM、終段入力は25W以下とした。そしてアマチュア無線家より善意の寄付として112MHz帯の無線機が集まり、またボランティアのオペレーターとして地元の民間防衛組織に参加した。なおWERSはアマチュア無線とは全く別物の無線サービスである。
【参考】2.5mバンドは1938年12月1日に112-118MHzが暫定指定されたが、1939年4月13日より112-116MHzとなった。そして第二次大戦終結後の周波数再編で2mバンド(144-148MHz)へ移った。
13) アマチュアの送信機の実態調査
米国では有事に備えて、アマチュアの所有する無線送信機が、どこにどれくらいあるかを把握しておくことになった。
1942年(昭和17年)6月8日、連邦通信委員会FCCはOrder No.99 を発し、アマチュア無線のステーション・ライセンス(局免許)は失効してしまったが、今も無線送信機を所有している者は、6月28日までにFCCへその送信機を登録せよとした。
【参考】改訂版として同年6月27日にOrder 99-A、1943年10月5日にOrder 99-B を発令。
Order No.99 の11日後、6月19日にはFCC Order No.101 で、現在有効なアマチュア無線局の免許を持っている者に対しても、8月25日までに所有する全ての無線送信機の登録申請を行うことを求めた。
14) FCCが局免許の更新・変更事務を停止
1942年(昭和17年)9月15日、連邦通信委員会FCCはアマチュア局の運用停止命令(Order 87, 87-A )を再び改定するOrder 87-B を発令し、(この措置に関する新たなFCC Orderが発令されるまでの当面の間)アマチュアのステーション・ライセンス(局免許)の更新・変更を一時停止させた。
免許人が更新申請を行ったにも係わらず、免許更新の事務手続きが実行されないのはFCC側の(勝手な)都合であるため、もしこの間に免許満了日を迎えてしまっても、FCCはステーション・ライセンス(局免許)を失効させないとした。しかしアマチュア団体ARRLはFCCが更新手続きを行わないのが分かっていても、(念の為)これまで通り免許満了の60日前になったら更新申請書をFCCへ提出しておくことを会員に強く推奨している。
なおオペーレーター・ライセンス(従事者免許)の更新事務は通常通り行われていた。軍部からの要請により、FCCでは戦時下でもアマチュア無線のオペレーター・ライセンス試験を継続実施しており、合格者へライセンスの新規発行事務を行っていたこともあり、3年ごとの更新事務も同時に行われた。
15) 戦地からの局免許の更新申請は困難
FCCがステーション・ライセンス(局免許)の更新・変更事務を停止させた理由はなんだろうか?当時、全米で約6万のアマチュア局免許が発行済みで、仮に全局が免許の更新を希望するとしたら、(免許期間3年なので)年間2万件の申請がFCCに届くことになる。しかしFCCでは徴兵による職員数不足で、事務処理能力が大きく低下していた。とても年2万件の更新事務をこなせそうになかった。
一方、多くのアマチュア局免許人も徴兵で戦地にいたが、本国の自宅に置いてきた無線設備に関する資料が手元にないため申請書類の不備が続出していた。3ヶ月前にFCC Order No.101 を発令し、アマチュア局の免許人が所有する全ての送信機をFCCへ自己申告させたばかりなのに、戦地から送られてくる更新申請書には申告内容とは異なる送信機が記載されていたりした。更新申請書の内容と、Order 101 の申告内容との照合は事務作業の大きな負荷となった。
当時ステーション・ライセンス(局免許)の更新を申請するには、「引き続き無線局を運用できる証明」を要した。しかし日米開戦で軍部の要請に応えて所有する送信機を貸与してしまった愛国的アマチュア無線家の無線局は「運用を継続できる状態」とはいえず、FCCとしては、彼らの免許更新を拒否せざるを得なく、この問題もFCCを悩ませた。
更新申請をめぐる数々の問題は、戦地にいる兵士のアマチュア無線家だけではない。もともとアマチュア無線家には通信関連のエンジニアや研究者が多かった。そのため政府の要請で戦時プロジェクトへ招集され、自宅から遠く離れた工場や研究所に勤務するため単身赴任していたアマチュア無線家もいて、更新申請書の不備に拍車をかけていた。
こうしたことからFCCはステーション・ライセンス(局免許)の更新・変更事務を停止する代わりに、もし満了日が来ても免許失効とはしない特別措置をとった。これにより愛着ある自分のコールサインを他の人にとられるという不安は消えた。
16) 戦地からの従事者免許の更新も困難 失効者を救済
1943年度の『FCC年次報告書』には、多くのアマチュア無線家が出征し、彼らの通信技能を軍部が高く評価していたが、最前線で戦闘中のアマチュア無線家や故郷を離れて軍事施設で働くアマチュア無線家がオペレーター・ライセンス(従事者免許)を更新できない事例が頻発したと記録している。
『Thousands of amateur operators have entered the military services of the nation, where the experience they gained as operators of amateur stations has proven invaluable. Amateurs holding operator licenses issued by the Commission have received special recognition by military authorities who endeavor to assign them to communication branches of the services, where their special qualifications are most useful.
It became evident during the past year that many amateurs were unable to apply for renewal of operator licenses because of circumstances beyond their control as a result of the war. Service overseas, employment in war industries away from home, and other reasons made it difficult or impossible for amateurs to comply with the Commission's license renewal requirements. 』(FCC Annual Report 1943, FISCAL YEAR ENDED JUNE 30, 1943)
1943年(昭和18年)5月25日、FCCはOrder No.115 を発令し、失効させてしまったオペレーター・ライセンス(従事者免許)の救済措置を実施した。1941年12月7日(開戦前日)からこの日(1943年5月25日)までの間に失効させてしまったオペレーター・ライセンス(従事者免許)の満了日を3年間延長して、その免許を復活させたのである。たとえば1941年12月7日に満了した従事者免許は(3年後の)1944年12月7日が満了日だと便宜的に読み替えることにした。
さらに既に発行済のオペレーター・ライセンス(従事者免許)のうち、Order No.115 発令の翌日(1943年5月26日)から1944年12月7日に満了日を迎えるものは、その満了日を3年間延長するとした。すなわちオペレーター・ライセンス(従事者免許)の有効期間を戦時特別措置として6年間にしたのである。
17) アマチュア無線従事者免許の再延長措置
前述のとおりFCC Order No.115 で(たとえば)1944年(昭和19年)12月7日に満了するオペレーター・ライセンス(従事者免許)を、さらに3年間延長し1947年(昭和22年)12月7日まで有効とした。しかしその翌日1944年(昭和19年)12月8日以降に満了になる人にはOrder 115 が適用されないため満了日は延長されない。徴兵により事務職員数が手薄になっているFCCとしては、何らかの事務軽減策をとる必要があった。
1944年(昭和19年)11月28日、FCCはOrder 115 の改訂版Order 115-A を発令して、1944年12月7日から1945年(昭和20年)12月7日に満了を迎えるオペレーター・ライセンスを1年間だけ延長した。(3年延長ではなく)1年延長に留めたのは、戦況が米国優勢に転じており、近々戦争は終結するものと考えたのだろうか?
1944年6月19日、日本の信託統治領であるマリアナ諸島沖で日米の海軍が衝突し、帝国海軍は壊滅的な敗北を喫した。7月7日、サイパン島の守備隊が全滅。8月2日にはサイパンの南隣にあるテニアン島も米軍の手に落ちた。さらに8月11日には(1941年12月10日以来、日本軍が占領していた米領の)グアム島も米軍に奪還された。
マリアナ諸島のサイパン島、テニアン島、グアム島は日本本土を攻撃する爆撃機B29の発進基地となり、11月24日より日本各地が爆撃を受けるようになった。
さらに11月27日は日本の信託統治領を治める南洋庁が置かれていたパラオ諸島のひとつペリリュー島の守備隊の全員が玉砕し、米軍に占領された。 Order 115-A が発令されたのはその翌日である。
18) アマチュア無線の再開(1946年8月21日)
1945年(昭和20年)8月15日、日本がポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦は終わった。
同年8月21日、連邦通信委員会FCCはOrder No.127 で、戦時緊急無線WERSを同年11月15日(東部標準時午前3時)をもって終了させ、同時に112MHzアマチュア・バンド(112~116MHz)のうち、112~115.5MHzの周波数でアマチュア業務の再開を許可した。
なお運用許可は1945年8月21日から同年11月15日(東部標準時午前3時)までの期間限定措置だった。というのも112MHzバンドは廃止され新144MHzバンドへ移動することが決まっているからだ。
今回アマチュア局の運用が許されるのは、1941年12月8日(開戦日)から1942年9月15日(Order 87-B 発令日)の間にステーション・ライセンス(局免)が有効で、かつこれまで免許取り消し等の行政処分を受けていないアマチュア局である。こうしてWERS局へ貸与していた112MHzの無線機の返却を受けたアマチュア無線家らの声がお空に戻った。
左図は(別件の調査中に、たまたま見つけた)米国オハイオ州ヤングスタウンのローカル新聞の記事("Amateur Radio Station Returns to the Air", Youngstown Vindicator紙, 1945年9月2日, section3, p19)である。アマチュア無線家Arthur Grapentine氏W8RIOが112MHzバンドに戻ったことを紹介している。
しかし戦地にいたアマチュア無線家たちは、治安維持のため動員解除されることなく、そのまま各占領地に残っており、まだまだアマチュア無線を楽しめるような状況ではなかった。
19) アマチュア無線の各種戦時制限解除
112MHzバンドで再開されたアマチュア無線の運用期限である1945年(昭和20年)11月15日が近づいてきた。
11月9日、連邦通信委員会FCCはOrder No.130 (発効1945年11月15日)を発令した。太平洋地域を除くエリアで、28MHz以上のアマチュアバンドでの運用が許されることになったが、戦前におけるアメリカ独自の112MHzバンド、224MHzバンド、400MHzバンドは廃止された。
また戦前の56MHzバンドは6MHz低い方(50-54MHz)へシフトさせることが内定していたため翌年の3月1日(東部標準時AM3時)をもって使用停止になることが明示された。
また同時にアマチュアに課せられてきた以下の戦時制限がOrder No.130 で解除された。
1940年6月5日 Order No.72(外国のアマチュア局との交信禁止)
1940年6月7日 Order No.73 およびその改訂版(28MHz帯以下での移動運用の禁止)
1941年12月8日 Order No.87 およびその改訂版87-A(アマチュア無線の運用禁止)
1942年9月15日 Order No.87-B (局免許の更新・変更事務の停止)
特に自宅から離れた場所で暮らすアマチュア無線家には、FCC Order No.73が解除されたことで28MHz帯の運用が可能となり、大いに歓迎された(なおカナダも米FCCに歩調を合わせて、11月15日に28MHz帯以上での運用を許している)。
Order 130 の恩恵を受けられるのは、1941年12月7日(開戦前夜)から1942年9月15日(更新事務停止)までの期間中に局免許が有効であり(これまでFCCから取り消し処分を受けていない)すべてのアマチュア無線局で、その局免許は1945年11月15日から1946年5月15日(東部標準時午前3時)までの6か月間有効とみなすこととした。
20) ハワイK6や太平洋の島々KA~KH6でも解禁
1945年(昭和20年)11月9日に発令されたFCC Order No.130 では "except in Central, Southern and Western Pacific Ocean areas" (中・南・西太平洋を除く)としていた。
大戦では太平洋の島々が主戦場だったため、残留日本兵問題を抱える米海軍の合意がなかなか得られなかったが、11月14日になって海軍よりOKが出て、FCC Order 130-A により太平洋地区(ハワイK6, フィリピンKA, グアムKB6, ウェークKC6, ミッドウェイKD6, ジョンストンKE6, ベーカーKF6, パルミラ環礁KG6, アメリカン・サモアKH6)でも28MHz以上のバンド(除く112, 224, 400MHzバンド)が運用できるようになった。
もともとハワイに自宅がありFCCからK6のコールサインを受けていた地元アマチュアは直ちに再開できるが、たとえばハワイの海軍基地に従軍している米本土のアマチュア無線家の場合は少々事情が異なった。
FCC Order 73(移動運用の禁止)が解除されたため、米本土のアマチュア局がハワイで移動運用するのは合法だが、局免許を申請した送信機は自宅にあるため、実際にハワイで使用する送信機で設備変更の申請が必要だった。
21) 段階的にアマチュアバンドが拡張される
1946年(昭和21年)1月16日、FCCはOrder No.130-B で新アマチュアバンド430-440MHz(アンテナ輻射電力50W以下)と1,215-1,295MHzを追加した。
同年2月20日、FCCはOrder No.130-C を発令し、同年3月1日(東部標準時AM3時)をもって戦前からの56-60MHzバンドを、50-54MHz(FMは52.5-54MHz)へ4MHzシフトさせるとした。
同年3月13日、FCCはOrder No.130-D を発令し、新アマチュアバンド27,155-27,455kHz、235-240MHz、そして米国本土エリアのみで軍が使っていた80mバンドの上部3,700-4,000kHzを即日開放した。
同年3月29日、FCCはOrder No.130-E を発令し、アラスカ、プエルトルコ、バージン諸島を除く地域で4月1日より3,625-3,700kHzでの運用を追加した。
【参考】4月29日に発令されたOrder No.130-F はアマチュアバンドではなくオペレーターライセンスの有効期間に関するもの。
同年5月9日、FCCはOrder No.130-G を発令し、3,500-3,625kHzを同日(東部標準時AM11時)より開放した。これで80mバンド(3.5-4.0MHz)の全てが戻った。
同年6月28日、FCCはOrder No.130-H を発令し、7,150-7,300KHz(電信)、14,100-14,300kHz(電信)、14,200-14,300KHz(電話)を7月1日(東部標準時AM3時)より開放した。
22) コールサインKB6~KH6再編(1946年)
1946年4月1日、連邦通信委員会FCCはFCC規則の「アマチュア業務」に関する条項を大きく改定した。これにあわせて太平洋の島々のコールサインを、これまでのKB, KC, KD・・・といった機械的なアルファベット順から、地名由来のものに変更した。
すなわちKB6グアムはKG6(Guam)、KC6ウェークはKW6(Wake)、KD6ミッドウェイはKM6(Midway)、KE6ジョンストンはKJ6(Johnston)、KF6ベーカー他はKB6(Baker)、KG6パルミラ環礁他はKP6(Palmyra)、KH6アメリカン・サモアはKS6(Samoa)となった。
同様にK6ハワイはKH6(Hawaii)に、K7アラスカはKL7(Alaska)に代わった。新コールは同年7月1日より発給が始まり、半年ほどの間、新旧のコールサインが入り混じった状態だった。
【参考】またプエルトリコK4はKP4(Puerto Rico)、KB4(米領バージン諸島)はKV4(Virgin Islands)、K5のパナマ運河地帯はKZ5(Canal Zone)に代わった。なお古いプリフィックスのコールサインは同年12月31日をもって使用禁止となった。
第二次世界大戦の敗戦した日本は、本土を連合国GHQ/SCAP隷下の「第8軍」により占領統治されたが、小笠原群島、硫黄列島(火山列島)、南鳥島、沖ノ鳥島は、委任統治領の南洋群島とともにアメリカの直轄占領地となった。
当初、伊豆諸島は日本本土から切り離され、アメリカ合衆国の占領地となったが、すぐに連合国占領地へ組み戻された。米軍にとって戦略的価値がないと判断されたらしい。
23) ゆれる南洋群島(旧日本委任統治領)
太平洋戦争の終結から二ヶ月ほど経った1945年(昭和20年)10月24日、国際連合が新たに発足したため、国際連盟は1946年(昭和21年)4月に解散した。国際連盟が旧ドイツ領「南洋群島」の統治を日本へ委託していたのに、その委託者である国際連盟が解散したため「南洋群島」の帰属が注目された。
そこでアメリカは日本の委任統治領だった島々を、アメリカの信託統治領とする「信託統治協定」の草案作りに着手した。
国際連合での討議の様子は左図『YEARBOOK of the UNITED NATIONS 1946-47』国連年鑑1946-47年版("TRUSTEESHIP AGREEMENT FOR THE FORMER JAPANESE MANDATED ISLANDS(旧日本の委任諸島に対する信託統治協定)", pp394-400)に詳しく記録されているが、大筋は以下のようだった。
1947年(昭和22年)2月17日、アメリカが作った「信託統治協定草案」が国際連合事務総長へ提出され、2月26日の理事会の議題として取り上げられることになった。
2月26日の安全保障理事会第113回会合で、ソ連代表は(日本に南洋群島の統治を委託していた国際連盟の後継組織として)国際連合の安全保障理事会がこの問題を引き受ける考えを支持し、また日本を降伏させた最大の功労国はアメリカであるから南洋群島をアメリカの信託統治領とすることは適切だとした。
3月7日の第116回理事会で、オーストラリア代表は南洋群島の帰属問題は日本との講和条約で決められるべきものとして反対した。これは第一次世界大戦終結後、パリ講和会議・ヴェルサイユ講和条約で南洋群島を日本の委任統治領だと決めた前例を考慮したのであろう。また英国代表は、日本との講和条約による帰属の決着を待たず、いまアメリカの信託統治領にすることについて、少々法的な疑問があるが理事会の過半数が賛成なら、英国として反対はしないと述べた。
3月12日の第118回理事会にインド、ニュージーランド、極東委員会(日本占領の最高政策決定機関)が、さらに3月17日にはカナダ、オランダ、フィリピン、ブラジルの代表も加わり意見を述べたが、米国の信託統治に賛成する空気が優勢となった。
24) マリアナ・小笠原司令部 MARBO の困惑
1947年(昭和22年)1月1日、極東アジア、太平洋地域でアメリカ軍の大規模な組織再編が実施され、極東軍FEC(Far East Command)が誕生した。極東軍FECは日本、南朝鮮、沖縄、フィリピン、小笠原、マリアナを受持つ陸海空の統合軍で、司令官はダグラス・マッカーサーである。
そして極東軍FEC隷下の「マリアナ・小笠原(ボニン)司令部」MARBO(Marianas-Bonins Command)をグアム島に設置して、マリアナ諸島(含むグアム島)、小笠原諸島(含む硫黄列島、南鳥島、沖ノ鳥島)を担当した。なおボニンとは小笠原の別名である。
【参考】本ページでは聟島、父島、母島周辺の狭域を「小笠原群島」とし、これに硫黄列島、南鳥島、沖ノ鳥島を含めた広域を「小笠原諸島」と呼んでいる。
マリアナ諸島は日本の委任統治領だったが、敗戦でアメリカが占領している(なおマリアナ諸島で最大の島、グアムだけは第二次世界大戦前からアメリカ領)。
また小笠原諸島(含む硫黄列島、南鳥島、沖ノ鳥島)は日本固有の領土だが、敗戦でアメリカの直轄占領地となっていた。
前述したとおり、グアム島のアマチュア局のプリフィックスは1946年(昭和21年)にKB6からKG6へ変更された。マリアナ諸島で2番目に広いサイパン島や、3番目のテニアン島はアメリカが占領しているものの、まだアメリカの信託統治領として国連から承認されていない。もしアマチュア局を運用する場合、いかなるプリフィクスを名乗るべきかは誰にも分からない状態だった。
また小笠原諸島(含む硫黄列島、南鳥島、沖ノ鳥島)についてもアメリカが占領しているが、その帰属は日本との講和条約で決着させる方針で、それまでの間のアマチュア局のプリフィクスについてはどこの組織でも検討すらされてなかったようだ。
25) MARBOが米本国の陸軍省へ問合せ
マリアナ・小笠原司令部所属の軍人たちが、米本土の自宅で許可されたWプリフィックスで運用する事例は散見されるが、もし彼らがその駐屯地において正規の開設手続きをとるならば、発給されるコールサインはKプリフィクスである。なぜなら米国本土局はWコールで、ハワイ、アラスカ、プエルトリコ等、米本土以外のアマチュア局はKコールというのが、1928年(昭和3年)10月1日以来の大前提であるからだ。
前述の通り1947年(昭和22年)3月17日の国際連合安保理では、旧日本の委任統治領南洋群島が、日本との講和条約締結を待たずして、アメリカの信託統治領とする案の成立が現実味を帯びてきた。マリアナ・小笠原司令部MARBOとしては、アメリカの島となるマリアナ諸島で面積2位と3位のサイパン島、テニアン島のプリフィクスをどうすれば良いのか?さらにいえば(まだアメリカの島になるかは講和条約まで待たなければならないが)今後、硫黄島に駐留する軍人のアマチュア局はアメリカのKなのか、占領下の日本のJを使うべきかを知りたかった。
1947年(昭和22年)3月21日、ついに東京の極東軍FEC司令部はアメリカ本国の陸軍省へ、マリアナ・小笠原司令部MARBO管轄下の「硫黄島とマリアナ諸島のサイパン島・テニアン島の軍人が運用するアマチュア局のプリフィクスを決めて欲しい」と電報を送った(msg: WCL31220, date: 21 March 1947)。
25) 硫黄 KG6I、サイパン KG6S、テニアン KG6T
そのころ国連では、1947年(昭和22年)3月28日の第123回理事会でオーストラリア代表がついに妥協を表明したため、米国草案の一部を修正の上、同年4月2日の国際連合第124回安全保障理事会で南洋群島に関する信託統治協定が採択された。これで同年7月17日より、旧南洋群島は米国を唯一の施政権者とする太平洋信託統治領(Trust Territory of the Pacific Islands)となることが決まった。
極東軍FECからの電報を同年3月21日に受け取っていた米本国の陸軍省は、同年4月4日付けで「KG6IA-IZ(硫黄島)、KG6SA-SZ(サイパン島)、KG6TA-TZ(テニアン島)」を使うよう回答してきた(msg: ZX41618, date: 4 April 1947)。 米本国陸軍省の判断はマリアナ・小笠原司令部エリアはすべてグアム「KG6」で良いと考え、イニシャルに従ってKG6I(Iwo)、KG6S(Saipan)、KG6T(Tinian)へ分配したようだ。
小笠原諸島(含む硫黄列島、南鳥島、沖ノ鳥島)の最終的な帰属は、日本独立の講和条約の締結で決着させるはずだが、米陸軍省がそれを待たずにKプリフィックスを指定した点は注目に値するだろう。
26) カロリン諸島KC6、マーシャル諸島KX6
1947年(昭和22年)7月17日、マリアナ諸島(除くグアム)、カロリン諸島、マーシャル諸島からなる旧日本の委任統治領「南洋群島」は、アメリカの太平洋信託統治領として生まれ変わった。
マリアナ諸島と小笠原諸島は、同年4月4日には早々とグアムと同じKG6系プリフィクスが指定された。一方、同じ太平洋信託統治領にあるカロリン諸島とマーシャル諸島のプリフィックスはどうなったのであろうか?
私はその決定時期を追い込めてないが、カロリンKC6(Caroline)、マーシャルKX6(Marshall)と定められた。またなぜマーシャルKM6(Marshall)にならなかったかというと、1946年(昭和21年)にミッドウェイにKM6(Midway)を指定していたからだろう。
23) 琉球はKR6(Ryukyu)に
1947年(昭和22年)4月4日、米陸軍省は日本との講和条約を待たずに、小笠原諸島(含む硫黄列島、南鳥島、沖ノ鳥島)を米国の信託統治領としてKプリフィクスを指定したが、これが前例となり、占領中の琉球も講和条約の締結を待たずにKR6(Ryuukyuu)が指定された。
1946年(昭和21年)6月、アメリカの陸海空の三軍からなる合同電気通信委員会(Joint Communications-Electronics Committee)が組織された。合同作戦行動をとるために、三軍で共通の通信仕様や規定を策定する必要があったからだ。
この合同通信仕様JANAP121は頻繁に改正されている。1948年3月11日の改定差分10版に硫黄島のコールサインが確認できる。
JANAP121改訂10版の"Joint Communication Instructions, Part1 - General"のコールサインの規定(Article 1612 - "Call Sign and Delivery Group Assignment Plan")の中の、 「1612.9」 で"以下地域で米軍の管理下に置かれ(FCCの管理外となる)アマチュア局には軍司令部が該当地区の呼出符号を確保しており、その申請は現地司令部からエリア司令部を通じて行う。"と決められている(下図)。
『The following call signs have been reserved for assignment by the appropriate military commands to amateur radio stations located in areas under control of the U.S. Armed Forces and outside the jurisdiction of the Federal Communications Commission. Application by official correspondence is made through local commanders to area commanders:
KZ5AA through KZ5WZ ------ Canal Zone.
KG6IA through KG6IZ ------ Iwo Jima.
KG6SA through KG6SZ ------ Saipan.
KG6TA through KG6TZ ------ Tinian.
KC6AA through KC6ZZ ------ Caroline Islands.
KR6AA through KR6ZZ ------ Ryukyu Islands.
KX6AA through KX6ZZ ------ Marshall Islands. 』 (Change 10, JANAP 121, The Joint Chiefs of staff, March 11, 1948)
琉球は(表向きには「琉球国」の独立を促す)連合国占領地だが、実質的には米国の琉球軍ライカムの単独進駐だったため米国軍人向けにKR6コールが予約されていた。
なお私は、カロリンKC6、 マーシャルKX6、琉球KR6がいつ規定されたかを発掘できていないが、アメリカの太平洋信託統治領がスタートした1947年7月17日の前後の時期だと想像する。JANAP121の改定差分7版(7月21日)と改定差分9版(9月25日)ではないことが確認できたので、私が未発掘の改定差分8版かもしれない。
24) 終戦後の物資不足を救った立川JAMAと硫黄島
太平洋戦争末期、壮絶な地上戦 "硫黄島の戦い" の末、アメリカは硫黄島を手に入れた。そしてこの島を日本本土への空爆の発進基地として、またエンジントラブルをおこした事故機の不時着場として活用した。
敗戦で連合国軍の日本進駐がはじまると、米本国から膨大な物資が調達されるようになった。焼け野原となった日本では自給は不可能で、あらゆる物資が不足していた。進駐軍は占領統治にあたって必要な各種資材の補給の大動脈を円滑に運用するために、東京の陸軍立川飛行場を接収し、ここを整備して日本航空資材区JAMA(Japan Air Materiel Area)を設けた。搬送ルートは以下である。
米本国からハワイ → 米領ウェーク島 → 米国占領地 硫黄島 → 立川JAMA
やがて日本占領統治は順調に進み、硫黄島の各駐留部隊が縮小方向となる中で、資材補給中継点としての硫黄島の役割は益々高まっていた。
1948年(昭和23年)6月の時点で硫黄島には呼出符号API(陸軍)、API5(空軍)、NRT(沿岸警備隊)、WVTX(AFRS放送)の各無線局があった。空軍(呼出符号API5)が資材調達していた。
左図は1948年12月における米本国からの輸送資材18万4,400トンの司令部別分配比率である。
第八軍(本土4島)が52.3%、マルボ(マリアナ・小笠原)が22.3%、ライカム(琉球)が9.4%、フィルカム(フィリピン)が8.7%、USAFK(南朝鮮)が7.3%だった。日本本土宛の資材が約半数を占めている。
これらの重要中継所となったのが硫黄島だ。
アメリカは、終戦後もハワイ、ウェーク島を経由する日本への資材調達で、燃料補給や天候不良時の緊急退避先として硫黄島は大いに活用されていた。
25) 立川の FEAMCOM が硫黄島分室「中央空軍基地」を設置
1949年(昭和24年)7月1日、立川の日本航空資材区JAMAは(周辺エリアの施設を含めて)、極東空軍FEAF(Far East Air Forces)隷下の極東空軍補給司令部(フィンカムFEAMCOM:Far East Air Materiel Command)として再スタートを切った(注: Materialではなく Materiel )。
【参考】立川の米軍基地の「フィンカム」という呼称は地元では良く知られていた。1977年(昭和52年)、全面的に日本へ返還され、補給司令部の跡地は立飛企業株式会社や新立川航空機株式会社になっている。
今も「フィンカム」の名は生き延びており、2004年(平成16年)には左図のような書籍(窪田精, 『フィンカム ‐ 米極東空軍補給司令部』, 2004, 本の泉社)も出版されている。
1949年10月18日に極東空軍FEAFは、一般命令第80号(General Orders No.80)を発令し、立川の極東空軍補給司令部(フィンカムFEAMCOM HQ)の "分室"(sub-base) として硫黄島の基地を中央空軍基地(Central Air Force Base)と命名し、翌10月19日より立川フィンカムの指揮下に入った。
硫黄島の中央空軍基地Central AFBの呼出符号はAPI3になった(なお立川フィンカムはAPT3)。
【参考】 フィンカム関連の呼出符号: APD3(三沢/青森)、APF3(芦屋/福岡)、API3(硫黄島)、APL3(名古屋/愛知)、APO3(嘉手納/沖縄)、APQ3(Clark/Philippines)、APT3(立川/東京)、APV3(Harmon/Guam)、APW3(入間川/埼玉)、APX3(横田/東京)、APY3(白井/千葉)、APZ3(伊丹/大阪)
26) 硫黄島の中央空軍基地API3は、なぜ「中央」を名乗ったのか?
1949年(昭和24年)当時、下図の青線で囲ったエリアがアメリカの極東軍FEC(Far East Command)の担当エリアである。
連合国GHQ/SCAP(その隷下の8ty Army [日本]、usAFK [南朝鮮]、RYCOM [琉球])の占領地(オレンジ色)、アメリカ合衆国の直轄占領地(緑ライン)のうち北方にあるマリアナ諸島と小笠原諸島のマルボ(MARBO:Marianas-Bonins Command)地域(黄色)、そして米国から1946年に独立したばかりのフィリピンのフィルカム(PHILCOM:Philippines Command)地域を包含する広域軍である。
なおグアム島より南に位置するアメリカ合衆国の直轄占領地()
ところで硫黄島の中央空軍基地の「中央」とは何を指すのだろうか?米国本土から空輸されてくる大量の物資は太平洋のハワイ、ウエーク島を経由して極東軍FECエリアへ届けられていた。
ウエーク島から硫黄島を経由し、西方にはライカム(RYCOM:Ryukyus Command)の沖縄が、北方にはGHQ/SCAPの立川が、南方にはマルボ(MARBO:Marianas-Boninss Command)グアム島が、その他に南西にはフィルコム(PHILCOM:Philippines Command)のマニラへ向かう空輸ルートがあった。
このウエーク島ー硫黄島ー沖縄のラインを「東西線」、立川-硫黄島ーグアムのラインは「南北線」と呼ばれ、両ラインの中央に位置するのが硫黄島である。硫黄島中央空軍基地は米軍の物資輸送機の中継給油所として最重要基地だったのである。
【参考】 2014年11月9日、関空発グアム行きデルタ航空DL294便が、エンジン・トラブルで硫黄島に緊急着陸する事件があったが、航空機にとってこの島の存在は今も大きい。
27) なぜ硫黄島に立川の分室 sub-base が置かれたのか?
立川(東京都)の "分室" である、硫黄島の空軍基地が「中央」を名乗る理由は上記のとおりだが、もうひとつ疑問が残る。硫黄島は「米国の直轄占領地」であり、立川は「連合国の占領地」である。
もしかして米国占領地(硫黄島)内に連合国の "分室" 基地が作られたのだろうか?これはのちに硫黄島のアマチュア局がKコールではなく、JAコールを使ったのはなぜかという疑問にも重なる。
前述した通り、1949年10月18日に極東空軍FEAF(Far East Air Forces)は、GO 80(General Orders No.80)を発令し、立川の極東空軍補給司令部(フィンカムFEAMCOM)の "分室"(sub - base)として硫黄島の基地を中央空軍基地(Central Air Force Base)と命名した。
立川の極東空軍補給司令部は極東空軍FEAF内の組織で、その極東空軍FEAFは東アジア広域を受持つアメリカの極東軍FEC内の空軍である。一方、日本占領を担当した連合国最高司令官総司令部GHQ/SCAPの隷下「第8軍(8th Army)」は陸軍である。
そのため立川補給司令部は連合国の総司令部GHQ/SCAPではなく、極東軍の総司令部GHQ/FECの組織だった。つまりアメリカ軍の立川司令部が、アメリカの硫黄島に "分室"(sub - base)を作ったという形となり、これで矛盾しないのであろう。
とはいえ日本本土への資材発注・調達は、実際の占領部隊「第8軍」との間で行われたため、立川補給司令部は実務上において「第8軍」の作戦指揮を受けていたかもしれない。そもそも連合国最高司令官のマッカーサー元帥は、極東軍総司令官も拝命しており兼務していた。
【参考1】極東軍総司令部GHQ/FECは、連合国軍総司令部GHQ/SCAPの組織として組み込まれていたが、日本人にとっては両者区別なく "ジー・エッチ・キュー" である。
【参考2】 この地域の軍政権は米海軍にあり、小笠原・火山列島軍政府(Bonins-Volcanos Military Government)長官にはホノルル(ハワイ)の太平洋艦隊司令官が就任した。極東軍FECのマルボ(Marianas-Bonins Command)との二重支配のようにも思えるが、私はこの辺の事情に詳しくない。
28) 日本のアマチュアのDistrict Number(2-9)を再配置
1947年(昭和22年)のアトランティックシティ会議で日本に分配された国際符字列がJA-JS(JSは琉球用なので日本の使用は不可)に減じられたため、呼出符号の再編成が必要になった。逓信省はGHQ/SCAP民間通信局CCSの指導を盛り込みながら、呼出符号指定基準"Call Sign Allocation Standard"を完成させた。
1948年9月2日、逓信省は"Application for Alteration Plan of Call Signs Assigned to Japanese Radio Stations" (1948年9月2日, 逓信省LS第410号)でそれを申請し、同年9月15日に"Alteration of Call Sign Assigned to Japanese Radio Stations" (1948年9月15日, CCS/DR第160号)でCCSに承認された。逓信省が作成したアマチュア局の呼出符号の指定基準がいかなるものかをもう一度見てみよう。
◆アマチュア局
D. Call signs assigned to amateur stations will be formed as follows:
JA and a single digit followed by a group of not more than three letters.
The above digit agrees with the district number (2-9) given to 8 districts which divided Japan as shown on Separate Paper No. 2 so as to identify the locations of amateur stations.
日本語に訳すと以下のようになる。
D. アマチュア局のコールサインは次の通りとする:
JA+数字1桁+3文字以下
上記の数字はアマチュア局の場所により付図2で示される、日本を2番から9番の、8地域に分けたディストリクト・ナンバーに従う
左図が逓信省が制定したSeparate Paper No.2 (THE DISTRICT CHART FOR AMATEUR RADIO STATIONS JAPAN)には新District Numberだけでなく、新たな都道府県番号が振りなおされている。District 2エリアの1番2番が消えて判別できないが、地図から新潟県と長野県が読み取れる。
また代表的な島が各都道府県の直下に明記された。8 Tokyo-toには "Includes Oshima, Hachijo Island, etc"と伊豆諸島(伊豆大島、八丈島)が記録された。
1946年(昭和21年)8月29日より、逓信省では戦後の新しいDistrict Number(左図)を実験局の呼出符号に使用してきた。
数字の1を使わず関東・信越エリアを9番にしている点と、福井県が近畿エリアに含まれる点には要注意である。
今回(1948年9月15日)の改訂ではこれまでどおり数字の0と1を使用せず、関東・信越エリアを2番にしたため、全国の番号が玉突き状態でひとつズレた(左図)。
そしてアトランティックシティ会議の条約・規則が発効する1949年1月1日より実施した。ただし悲しいかなその対象となったのは、(未だ日本人のアマチュア局は認可されておらず)連合国の軍人および専門職として各機関(GHQ/SCAPやAFRS放送局)へ派遣されている民間人の技術スタッフのアマチュア局だけだった。
極東軍FECの各地域におけるアマチュア無線の許認可権限を明確化
講和条約が結ばれるまではイオージマ等は米国占領地という位置付けになるはずだが、コールサイン発給に関してはサイパン島やテニアン島と同列に「Kコールサイン」とした。
(Separate Paper No.2, "呼出符号指定基準", 逓信省, 1948.9)
1949年(昭和24年)1月1日の呼出符号の再編成を前にして、極東軍FECは各作戦地域におけるアマチュア無線に関する統一基準を制定することにした。 1948年(昭和23年)11月26日、極東軍総司令部GHQ/FECは"Amateur Radio Operation"(通達第49号)を発令した。対象となるのは極東軍FEC隷下の第八軍Eighth Army、朝鮮米軍USAFIK、フィリピン米軍PHILCOM、マリアナ-小笠原軍MAROBO、琉球軍RYCOM、極東空軍FEAF、極東海軍US Naval Force, Far Eastだった。
これにより各地域(日本、朝鮮、フィリピン、マリアナ-小笠原、琉球)ごとにアマチュア無線局の許認可権と、周波数・呼出符号を指定する権限者を明文化したのである。日本は第八軍司令官が、朝鮮は朝鮮米軍司令官が、琉球ではライカム(RYCOM:Ryukyus Command)司令官が免許権限を持ち、これらの地域では極東軍総司令部GHQ/FECがコールサインを発給する。独立が承認されたフィリピンではフィルカム(PHILCOM:Philippines Command)司令官が米軍関係者の免許権を持つが、コールサインの指定は新生フィリピン政府に委ねた。
そしてマリアナ-小笠原地域はマルボ(MARBO:Marianas-Bonins Command)司令官が免許権限を持つが、コールサインは米国本土の連邦通信委員会FCCが指定する。ここはアメリカ合衆国に順ずる扱いだった(下表)。ところでライカム地域(沖縄・奄美)のコールサインKR6の発給権はGHQ/FECで、マルボ地域(マリアナ・小笠原)のコールサインKG6の発給権はFCCというように、同じKコールでも発給権限者が別れた理由について私は次のように想像している。グアム島は戦前からアメリカ領で、1947年(昭和22年)にマリアナ諸島も米国信託統治領となり、マルボ地域の半分はすでにアメリカ化が完了しており、残るイオージマや小笠原も含めてマルボ地域のコールサイン発給権はFCCに委ねてもよかろうと判断したのではないだろうか。
JANAP121の告示では硫黄島を除く小笠原群島や南鳥島などのプリフィックスは未制定だったが、今後もしそれらの島で申請があれば、それを決めるのはFCCになった。
第八軍もアマチュア無線規則を改定し新District Number(2-9)を明文化
1949年(昭和24年)1月1日より日本本土のアマチュア局のコールサインが「J + District Number(2-7) + 3文字」から「JA + District Number(2-9) + 2文字」に指定変更された。逓信省は自分たち日本人にはアマチュア局が認められる可能性がないのに、コールサインの割当基準だけは作らされた。連合国としては、あくまでも「我々は日本の逓信省が作った規則に従って、アマチュアのコールサインを発行しているのだ」という体裁をとりたかったようだ。
連合国のアマチュア規則は占領部隊である第八軍が制定していたが、その改正は後回しにして、新コールサインへの移行だけは完了していた。そして1949年4月28日になってようやく規則改正が通達された。それは日本本土(新生日本国)エリアに限定するもので、改正前後のコールサインの規定は下表のとおりである。
改正前のアマチュア無線規則
改正後のアマチュア無線規則
1947年(昭和22年)11月26日
第八軍司令部HQ/Eighth Army 通達第188号
1949年(昭和24年)4月28日
第八軍司令部HQ/Eighth Army 通達第35号
SECTION I - REGULATIONS GOVERNING AMATEUR RADIO OPERATION BY ALLIED PERSONNEL IN JAPAN
・・・(略)・・・
9. Authorized Call Signs
All stations will be assigned Japanese district call signs issued by this headquarters. These call signs will consist of a “J” indicating Japan and a number indicating the zone as delineated in map, Inclosure 1, followed by three letters such as “J2ABC.”
Applicants desiring specific will be granted if the call letters have not previously been assigned to that zone.
10. ・・・(略)・・・
SECTION I - AMATEUR RADIO OPERATION BY ALLIED PERSONNEL IN JAPAN
・・・(略)・・・
11. Authorized Call Signs
All stations will be assigned Japanese district call signs issued by this headquarters. These call signs will consist of the “JA” indicating Japan and a number indicating the district as delineated in map, Inclosure 1, followed bytwo letters such as “JA2AL.”
12. ・・・(略)・・・
呼出符号に関する改正要点としては「J+付図1の番号+3文字」が「JA+付図1の番号+2文字」になったことと、もし希望する3文字(サフィックス)が空いていたらそれを指定できるとする文を削除したことだろう。これまではミドルネームを含めて自分の名前3文字のコールサインをもらう局も少なくなかった。
【参考1】 戦前の日本では「J+District Number+2文字」を使っていたので、終戦後は日本人局「2文字」、連合国人局「3文字」として住み分けた。
【参考2】 さらに日本人局は戦前に発行した呼出符号と区別するために、「J+District Number+ZA-ZZ」から再指定を始めて、Xまで進んだところで日本人のJコールサインは終了した(1947年2月20日)。
それでは付図1(Inclosure 1)を比較してみよう。
● 改正前の District Map 付図1
(Inclosure 1 to Circular 188, HQ/8th Army, 26 Nov 47)
まず古いほうだが、それまでは連合国進駐エリアのアマチュア規則は、極東軍FEC隷下の第八軍が代表して規定していた。英連邦軍BCOF(J4)、朝鮮米軍USAFIK(J8)、琉球軍RYCOM(J9)への免許発給は形式上では極東軍総司令部GHQ/FECだが、実務は第八軍司令部HQ/8th Armyが行なった。琉球軍RYCOMが「J9」の使用を開始した1946年8月27日以降は、旧日本信託統治領だった南洋群島では「J9」が使えなくなった。また戦前は「J5」だった北緯30度以南の奄美諸島とトカラ列島は日本国から切り離されて琉球軍ライカム・エリアに編入されたため「J9」に変わっている。
当初アメリカ合衆国の直轄占領地だった伊豆諸島(大島・八丈島等)が1946年(昭和21年)3月22日に連合国最高司令官総司令部GHQ/SCAPに移管され、第八軍の管理エリアに編入された。ところが上記の地図は伊豆諸島が含まれていない。1946年8月27日に始めて制定されたアマチュア規則(第八軍司令部HQ/Eighth Army 通達259号 "Regulation Governing Amateur Radio Operation by Allied Personnel in Japan")のDistrict Mapは、3月に編入されたばかりの伊豆諸島を地図に反映させるのを忘れていた。そして1947年(昭和22年)11月26日の規則改正の際に、伊豆諸島が抜け落ちている1946年8月27日のDistrict Mapを参照した結果が上図であろう。
ちなみに小笠原や硫黄島が載っていないのはそこが連合国占領地ではないからだ。第八軍にはアメリカ占領地の硫黄島のコールサインを決める権限などなかった。
● 改正後の District Map 付図1
(Inclosure 1 to Circular 35, HQ/8th Army, 28 Apr 49)
今回のアマチュア規則の改正で第八軍は、逓信省の呼出符号指定基準(1948年9月15日CCS承認)に添えられた District Chart (Separate Paper No.2)をそのまま採用した(違いは都道府県番号がない点のみ)。第八軍テリトリー=逓信省テリトリーであり、日本の規則・方針に従って、我々進駐軍のアマチュアは運用しているのだという体裁をとった。District 2のTokyo-Toには "Includes Oshima, Hachijo Island, etc"と伊豆諸島が盛り込まれているが、これは逓信省のDistrict Chart (Separate Paper No.2)にある文言と100%同じである。エリア境界が良く解らなかったのか(?)、北関東(2エリア)に少々東北(8エリア)が食い込んだり、能登半島を境界線が横断しているのが気になるが、各ディストリクト番号に都道府県名があるので問題ないだろう。
ここで注目して欲しいのは、タイトルの直下にある NOTE で、『 0 & 1 NOT USED FOR DISTRICT NUMERALS 』 (0と1はエリア番号に使わない)とある。これは第八軍が制定したアマチュア規則の付図なので、このNOTEは規則と同等の意味を持っていると考えてよいだろう。
極東軍マッカーサー司令官の名の下に、アメリカの中に「JA」局が特別認可された
1949年(昭和24年)、立川の極東空軍補給司令部フィンカム(FEAMCOM)はイオージマの分室(Central Air Force Base)で勤務している兵士のアマチュア無線局を申請した。通常通り、極東空軍補給司令部フィンカムFEAMCOM→極東空軍FEAF→第八軍司令部HQ/Eighth Army へ流したところ、1948年極東軍通達第49号"Amateur Radio Operation"(1948.11.26)に照らすと、第八軍司令官にはイオージマでのアマチュア無線局の許認可権がないことが判明した。
しかしイオージマの分室(Central Air Force Base)には立川フィンカムから派兵しており、その作戦指揮も立川フィンカムが執っていた。立川フィンカムはただちに極東空軍FEAFと協議に入り、「イオージマのアマチュア局は極少数で、その運用実態から第八軍で免許処理する方が合理的」との意見で一致したという。そしてこの問題を上位組織である極東軍総司令部GHQ/FECへ持ち込んだ。
1949年12月になって、極東軍総司令部GHQ/FECは「イオージマ中央空軍基地が第八軍により指揮コントロールされているのだから、その要員が運用するアマチュア無線の許可も第八軍司令官より行なわれる方が理論的だろう」との判断を示し、マッカーサー極東軍総司令官の名の下に、コールサインJA0AA-JA0ZZをイオージマで発給する権限を第八軍司令官に授けた。
『5. Call signs for amateur radio stations on Iwo Jima will be assigned by Commanding General, Eighth Army, from the block JA0AA through JA0ZZ. 』
参考までに全文を掲げておく。
GENERAL HEADQUARTERS
FAR EAST COMMAND
APO 500
AG 000.77 ( ) SC MC
SUBJECT: Amateur Radio Operation, Iwo Jima
To: Commanding General, Eighth Army, APO 343
Commanding General, Marianas-Bonins Commands, APO 246
Commanding General, Far East Air Forces, APO 925
1. Reference
a. Circular 49, General Headquarters, Far East Command, 26 November 1948.
b. General Orders No. 80, Headquarters, Far East Air Forces, 18 October 1949.
2. Reference 1a above establishes the policy regarding amateur radio operation within Far East Command. Indicated therein is the procedure for licensing amateur radio operators and amateur radio stations.
3. Reference 1b above establishes Central Air Force Base, Iwo Jima, as a sub-base of FEAMCOM Air Force Base. Far East Air Material Command has assumed the responsibility for staff functions and logistic support of Central Air Force Base. Therefore, the authority for licensing amateur radio operators and stations on Iwo Jima is withdrawn from the Military Licensing Authority, Marianas-Bonins Command, and assigned to the Commanding General, Eighth Army.
4. Applications for amateur privileges on Iwo Jima will follow established command channels for such matters. Upon receipt of applications, the Commanding General, Eighth Army, will take the necessary action to issue military amateur permits in accordance with the provisions of reference 1a.
5. Call signs for amateur radio stations on Iwo Jima will be assigned by Commanding General, Eighth Army, from the block JA0AA through JA0ZZ.
By COMMAND OF GENERAL MacARTHUR:
Mailed 16 Dec 49
Copies to:
Sig O (ret)
G-1
G-5
NOTE FOR RECORD:
1. GO 80, Hq, FEAF, 18 Oct 49, designated Central Air Force Base, Iwo Jima, as a sub-base of FEAMCOM AF Base. Staff supervision and all logistic support of Central AF Base was assumed by FEAMCOM, effective 19 Oct 49.
2. Cir 49, GHQ, FEC, 26 Nov 48, established policy and procedures for amateur radio operations within FEC. A joint board, consisting of Licensing Authority for the Marianas-Bonins Area.
3. GO 80, however, relived CG MARBO of any responsibility for the administration, operation or logistic support of Central AF Base. It has been determined from G-3 Section, GHQ, FEC (Maj. Von Rohr) that the entire military complement on Iwo Jima is Air Force personnel, assigned to Central AF Base. Therefore, Iwo Jima, while within the Marianas-Bonins Area, is considered as a Class II installation of FEAMCOM.
4. The licensing of amateur radio operators and stations, therefore, would follow usual command channels: Through FEAMCOM to FEAF. However, Cir 49, GHQ, FEC, designated CG, Eight Army, as the Military Licensing Authority for all military personnel in the Japan Area. Therefore, it would logically follow that CG Eighth Army should assume the licensing responsibility for FEAMCOM personnel on Iwo Jima.
5. This action withdraws from CG MARBO the authority for licensing amateur radio operators and stations on Iwo Jima and assigns it to CG Eighth Army.
6. This action has been discussed with FEAF (Maj. Cool, A-3 Comm) and Eighth Army (Mr. Bruntel, Sig Sec). It was agreed that, because of the small number of amateur operators on Iwo Jima licensing procedure as outlined is reasonable and workable.
7. Routed through G-1 and G-3 for concurrence; copies furnished.
J. D. F.
【注】 この指令書"Amateur Radio Operation, Iwo Jima"の日付は1949年12月16日(手書き)。
なぜ JA0 か? - 利用された「呼出符号指定基準」(逓信省)のサブパラグラフH
第八軍のアマチュア規則は逓信省の呼出符号指定基準に完全準拠している。そして逓信省の規則では日本全土をJA2-JA9に分割している。硫黄島はアメリカの島なので、極東軍FECが逓信省に圧力を掛けて、日本国の呼出符号指定基準(1948.9.15)に硫黄島を加えさせるのは到底不可能である。
では第八軍のアマチュア規則(1949.4.28)を改正して、付図1(Inclosure 1)にイオージマを追加できるかというと、第八軍の担当区域は新生日本国なので、これも簡単にはいじれない。そんなことをして、もし硫黄島は「連合国占領地域の飛び地」と解釈されようものなら、近く日本の独立を承認する際に、この島を新生日本国に引き渡さなければならなくなる可能性だってある。米国の軍部は占領した小笠原エリアの中で戦略的な価値があるのは硫黄島だけだと考えており、この島だけは絶対に日本に渡したくなかったといわれている(実際、戦略上の魅力がなかった伊豆諸島はさっさと連合国軍である第八軍へ引き渡している)。
そこで利用されたのが逓信省の「呼出符号指定基準」(1948.9.15, CCS承認)のサブパラグラフHの例外規定だった。
『H. The digits used for the formation of call signs will be other than 0 and 1 in case where they immediately follow a letter. The prohibition of the use of the digits 0 and 1, however, does not apply to the call signs of amateur attentions if necessary. 』
国際符字に続く最初の数字に0と1を指定することを禁じる規定は、アマチュア局には適用しないことが国際無線会議で取り決められており、このように逓信省の呼出符号指定基準にはそれが盛り込まれていた。これに目を付けた極東軍は、逓信省のサブパラグラフHに基づき、第八軍が「JA0」のコールサインを発行可能だと判断した。まさしく今が、if necessary だった。
ただしJA0をイオージマに指定する第八軍アマチュア規則の改正は絶対に無理なので、前述の軍内指令書(標題:Amateur Radio Operation, Iwo Jima、発信:GHQ/FEC マッカーサー極東軍総司令官、宛先:第八軍司令官、MARBO司令官、極東空軍司令官, Dec 16. 1949)で硫黄島アマチュア無線問題に決着を付けた。
【参考】 同じころ連合国GHQ/SCAPの民間通信局CCSでも逓信省のサブパラグラフHに着目していた。近く日本人によるアマチュア無線局を承認した場合、日本人無線局への免許権限を持つCCSとしては(日本人局へ)JA2-JA9を発給し、第八軍のアマチュア局にはサブパラグラフHの規定により「JA1」(+サフィックスの1文字目で所属組織を区分)を使ってもらうことを検討していた("Amateur Radio Operation in Japan", CCS Radio Division, 30 Jan. 1950)。
さて事実関係を整理すると、まず次のことがいえる。
1) 国際符字の「JA」は占領下の日本政府に分配されたもの (1947年アトランティックシティ会議, 1949.1.1施行)
2) 硫黄島は占領下の日本政府の施政権が及ぶ範囲から既に切り離されている (対日指令SCAPIN第677号, 1946.1.26)
3) 硫黄島には極東軍総司令部がKG6IA-KG6IZを指定した (ZX41618, 極東軍GHQ/FEC, 1947.4.4)
しかし1950年(昭和25年)初頭から日本独立(1952年4月28日)まで、硫黄島で少なくとも「JA0IJ」が運用されていたことが知られている。つまりKG6IA-KG6IZ の指定を受けていたアメリカの島から、日本国に割当てられた「JA」コールの電波の発射が許されていたのもまた事実である。
私には理解しにくい話だが、立川フィンカム(FEAMCOM)の「JA0△△」が、イオージマ(KG6I)に出張中に運用しております~という理屈だろうか???
占領下時代には理屈では説明しにくいことが他にも色々あったのだろう。・・・そういう時代だったと言ってしまえばそれまでだが、とにかく、"JA0"は逓信省の「呼出符号指定基準」にも、第八軍の「アマチュア規則」にも登場しない。いわゆるオモテの歴史ではイオージマ(Iwo Jima, 硫黄島)のコールサインはアメリカ合衆国のKG6IA-KG6IZであって、日本国のJA0AA-JA0ZZではない。