AFRS 進駐軍放送

進駐軍放送AFRS(Armed Forces Radio Service)は1945年(昭和20年)から1952年(昭和27年)までの連合国占領地域(本州、北海道、四国、九州、沖縄、朝鮮南部)で行われた英語放送です。進駐軍兵士や関係者に向け、ニュースや音楽などの娯楽番組を放送しました。

日本が主権を回復した1952年に、FEN(Far East Network)へ変わったあとも、音楽ファンにはとても重宝された放送局でした。しかし進駐軍放送AFRSはこれほど日本人に知名度が高かった割りに、その歴史的な情報は極端に少ないようです。

第二次世界大戦で無条件降伏を受け入れた日本本土エリアの電波行政は、連合国の無線局に関しては米太平洋陸軍US AFPAC(後の極東軍FEC)の直接統治で、実際には第八軍(東日本エリア占領担当)と第六軍(西日本エリア占領担当)の司令部が行いました。

また日本帝国の無線局に関してはGHQ/SCAP民間通信局CCSが統制権を握ったうえで、その実務作業を逓信院BOC(後の逓信省MOC、電波庁RRA、電波監理委員会RRC)に行わせる間接統治がとられました。

ですので進駐軍放送AFRSは米太平洋陸軍US AFPACの電波統制権下で周波数や出力を認可されるべきところです。しかしAFRSは日本放送協会BCJの放送施設を賃貸して運用したため、日本放送協会BCJの周波数や出力を許可していた民間通信局CCSの影響下にも置かれるという複雑な関係にありました。

そのため歴史的資料は米太平洋陸軍US AFPAC(後のFEC)側に残っていたり、あるいは民間通信局CCS側に残っていたりで、とても情報収集しにくい状況にあります。私がCitizens Radio Service の歴史を調査している中で、(意識したわけではありませんが)進駐軍放送AFRSに関する資料も自然に集まっていましたので、せっかくですから公開させていただくことにしました。

本ページは基本的には米国国立公文書館で公開された当時の進駐軍(AFPACやFEC)および政府機関(CCS, MOC, RRC等)の公式資料を情報ソースとしています。お役に立てば幸いです。どうぞご利用ください。

【Abstract】 各ページの概要とリンク

    • [Aug 1945 AFRS]

      • マニラのGHQ/AFPAC(米太平洋陸軍総司令部)の計画運用課P&O(Planning and Operation Section)において、日本における進駐軍放送AFRS(Armed Forces Radio Service)の運用方法が検討されました。

    • [Sep 1945 AFRS ]

      • 1945年9月23日に日本でAFRSが正式にスタートした頃の話題です。AFRSはBCJの施設によるものを基本とし、国際電気通信の短波中継施設のもの、またAFRS自身の自前施設によるものがありました。9月22日よりAFRSはUS AFPACの情報教育局I&E(Information and Education)の組織になりました。

    • [Oct 1945 AFRS]

      • 1945年10月2日にこれまでのGHQ/AFPAC(米太平洋陸軍総司令部)の上位組織としてGHQ/SCAP(連合国最高司令官総司令部)が設置され、その中に日本人の無線局を監督する民間通信局CCS(Civil Communications Section)が出来ました。日本放送協会BCJは運営面では民間情報教育局CIE(Civil Information and Education)の支配下に、電波面ではCCSの支配下になりました。逓信院BOCはCCSのエージェンシー(代行・実動部隊)に転落しました。AFRSはUS AFPACの情報教育局I&E下の組織ですが、BCJの第二放送ネットワークを利用することからCIEやCCSの影響力を強く受けるようになりました。

    • [Nov 1945 AFRS]

      • 1945年11月4日、GHQ/SCAP(連合国最高司令官総司令部)の民間通信局CCSは全国のBCJのラジオ放送局の承認リストを発表しました。この承認リストはGHQ/AFPAC(米太平洋陸軍総司令部)の情報教育局I&Eに属するAFRS放送を含めた形で発行されました。

    • [Dec 1945 AFRS ]

      • BCJの第二放送のない地方の進駐地においてAFRS中継局が続々と開局の準備が始まりました。課題はこれら地方のAFRSへ、東京キー局WVTRからの番組配信をどうするかでした。有線中継網が戦災でズタズタに切れており、当面はローカル運用と本国からの録音盤の放送が中心で、一部はWVTRからの短波中継による番組配信が行われました。また1945年12月に占領軍の大幅縮小が決まり、西日本の占領を担当した第六軍が動員解除され撤退し、第八軍が本土全域の占領を担当することになりました。

    • [Jan 1946 AFRS]

      • 1946年に入り、西日本各地で第六軍の段階的撤退が始まった。これに連鎖して後任部隊の移動が各地で起ったので、各地でAFRSは開局・廃止が頻繁におきるようになりました。つまり各地のAFRS置局の動向は、そのまま進駐部隊の動きに連動しているため、1946年はAFRSの実態を一番掴み難い時期だといえるでしょう。

    • [Feb 46 AFRS]

      • 1946年2月13日、逓信院BOC電波局は日本の無線局の「呼出符号周波数一覧表」を発行し、民間通信局CCSへ提出しました。この一覧表には13のAFRS局が日本の無線局として掲載されています。BCJの施設を使わない、AFRS自前施設によるものも含めて、日本の無線局として扱っています。

    • [Mar 46 AFRS]

      • 西日本の第六軍の撤退したあとの中国・四国地方の占領を英連邦軍BCOFが担当することになりました。BCOFは連合国最高司令官(SCAP)の直下ではなく、US AFPACの第八軍の作戦指揮下に入りましたので、周波数の分配は第八軍から受けました。いわゆる進駐軍放送というのはアメリカ軍(第八軍)によるものと、英連邦軍(BCOF)によるものがありました。