マルコーニ 西日本観光
京都、奈良、大阪から 大陸経由で帰国
京都、奈良、大阪から 大陸経由で帰国
1933年9月、マルコーニ夫妻はシカゴ万国博の「マルコーニ・デー」(1933年10月2日)に出席するために渡米しました。 10月中にイタリアに戻るつもりでした。しかし米国西海岸方面を観光しているうちに、海を越えて日本へ行くことを思い立ったそうです。
そして11月20日、マルコーニ夫妻が初来日。東京の明治神宮、京都の桃山・東山御陵への参拝や、日光東照宮、鎌倉大佛、知恩院(京都)、東大寺(奈良)、大阪城などを見学されました(下図:奈良公園で鹿に餌を与えている夫妻)。
マルコーニ氏の生の声は、官民合同歓迎晩餐会(11月17日夜, JOAK中継担当)と奈良公園鹿寄せ(11月23日昼, JOBK中継担当)で、ラジオの電波に乗せられ、日本全国の茶の間に届けられました。昔の日本で無電王マルコーニの知名度が高かったのはこういう事も影響しているのかも知れません。
↑ 本ページの前編です。イタリア出国(1933年9月21日)から、アメリカ、ハワイを経由して、横浜港に来た夫妻の東京、鎌倉、日光観光を紹介しています。
「マルコーニ 西日本観光」
本ページでは、マルコーニ夫妻が京都、滋賀、奈良、大阪を観光。そして関釜連絡線で大陸へ渡り、朝鮮、満州、関東州、中国を経由しイタリアへ帰国(1934年1月4日)するまでを紹介します。
夫妻の全旅程(訪問地ごとに色分けしました)。
西日本観光 目次
1933年11月21日(火曜)
計画ではこの日の朝、自動車で東京を出発し車中から箱根を観光したあと、十国峠で富士山などの景色を眺めて沼津に抜けて、沼津駅15:23発の特急「富士」で京都へ向う計画でした。しかし中止された大阪観光を復活させるために、午前の箱根観光をキャンセルして身体を休めて、東京駅(13時始発)から特急「富士」に乗車することにしました。
【参考1】 特急「富士」は戦前のヨーロッパ・アジア連絡ルート(東京 - 下関 -[関釜連絡船]- 釜山 -[朝鮮縦貫鉄道]-[南満州鉄道]-[シベリア鉄道]-欧州各都市)の一部をなす、日本が誇る最高級特急列車です。
【参考2】 当時は丹那トンネルの開通前で(小田原、熱海を通らない)御殿場経由でした。まだ本州ー九州を結ぶ関門トンネルは着工すらされていない時代ですので、下関が本州最西端の終着駅です。
【参考3】 特急「富士」(下関行き)の京都までの停車駅とその時刻は次の通りです。東京13:00発→横浜(13:25着・13:28発)→国府津(14:09着・14:14発)→沼津(15:18着・15:23発)→静岡(16:10着・16:13発)→浜松(17:19着・17:24発)→豊橋(17:58)→名古屋(18:57着・19:02発)→岐阜(19:30)→大垣(19:45)→米原(20:19着・20:24発)→京都21:24着。(以後下関へ)
またもや突然のスケジュール変更でしたが、13:00の発車時刻前には大倉総帥夫妻、イタリア大使館員一同をはじめとする関係者が東京駅のホームに駆けつけて盛大に見送りました。
この時、偶然目にした光景をマルコーニ氏は次のように語っています。
『 東京駅のプラットホームで余(私)は非常に重大な情景を目撃した。手に手に細長い旗をもった多数の群衆が立錐の余地もなく立ちならんで、元気のよい声で簡単なメロヂーではあったが非常に荘重な歌を歌っているのであった。余(私)はそれが何であるか最初はただ奇異の感を受けたが、しかし妙に胸にこたえるので、側の人に尋ねた。「これは故郷の人々が入営兵士を送りに来ているのである」とその人は眉ひとつ動かさずに答えた。余(私)はまたその答えをした人の表情にならって、至極平然と何気なく装ったが、心の底に燃えたぎって来る赤い炎の如き感激を持ち扱いかねてしまった。 』 ("マルコニ候の日本印象談(下)", 『大阪毎日新聞』, 1933.11.25, 朝p11)
マルコーニ氏は、この東京駅のプラットフォームでの光景に強く感動し、大きな衝撃を受けたようです。
『 東京に居る間「真の日本はどれか?」の自問に答えることが出来なかったが、この軍隊に入営する兵士を送る群衆の様を見た時「これが真の日本だ!」と絶叫せずには居られなかった。私は長い間探し求めていたものを発見した嬉しさに満ちた。東京駅に集まって居たあの時の群衆の姿こそ真の日本人の姿の現れであり、これが偉大なる日本の根底になっているものであるとつくづく思った。 』 ("私の日本観:マルコニ無電王 日本旅行の印象記", 『布哇報知』, 1934.2.27, p6)
マルコーニ夫妻に同行するのは、一緒に来日した世話役のデ・マルコ氏他2名と、大倉商事の高橋夫妻、原忠道氏の計6名です。
特急「富士」は1両の荷物車と6両の客車という編成で、貸切った6号車(展望車)とは別に1等室を3つ確保し、アメリカや東京で買ったりプレゼントされた、山のような御土産と花束、それにトランクを入れました。さすが世界一周ともなると、その移動には大変な人手が掛かるようです。東京に二泊延泊しましたが、箱根泊を断念し、全体としては一日遅れでした。
一方、マルコーニ夫妻が自動車で十国峠を抜けて、沼津駅から特急「富士」に乗ると聞いていたJOAKの苫米地氏ら一部の関係者は、沼津駅に先回りするため、東京駅を午前の列車で出発していました。夫妻の自動車を駅前で出迎えて、さらにホームで御見送りするつもりだったのです。
ところが実際には夫妻は東京駅から列車に乗ってこられ、沼津駅には5分間(15:18-15:23)停車しましたので、夫妻は一旦ホームに下りて、見送りに集まった人たちにお別れの挨拶をされたのではないでしょうか。
11月21日は大変天気が良く、列車から雄大で美しい富士山を存分に眺めることができました。
マルコーニ夫妻の西日本への旅が行われた当時の東海道線は、現代とは違って、神奈川県の国府津(こうづ)駅から(箱根山を迂回するために)90度北へ進路を変え「御殿場まわり」(現:JR御殿場線)で沼津に出ていました。丹那トンネルがまだ開通していなかったからです。
そのためマルコーニ夫妻は列車が箱根を越えて、御殿場駅(通過駅)が近付くに連れて、大迫力で目の前にせまり来る富士山の美しさを楽しむことが出来たようです。
大倉商事の高橋夫妻がこの旅に同行しましたが、国府津(14:14発)-沼津(15:18着、15:23発)-静岡(16:10着)間の様子を次の様に伝えています。
『 箱根の山を越えた頃から、それこそ素晴らしい富士山が見えてきた。自分は今迄に此処をたびたび通ったが、未だかつてこの如き、よき富岳を見たことがない。侯爵ご夫妻のお喜びは大したものであった。』 (高橋是彰, "マルコニ侯爵の日本観光に随行して", 『ラヂオの日本』, 1934.2, p121)
いまも新幹線で沼津―静岡間を通過する際に、美しい(南側からの)富士山を見ることができますが、マルコーニ夫妻らは旧ルートで東側から富士山に接近し、徐々に富士山の南側へ回り込むことで、刻々と移り変わる富士山の豊かな表情を堪能されました。
【参考】 マルコーニ夫妻が来日された次の年、1934年(昭和9年)に念願の「丹那トンネル」が開通し、海沿いを快適に走る「国府津-小田原-熱海-丹那トンネル-沼津」の現ルートに変わり所要時間を圧縮できました。しかし「フジヤマ」をとても楽しみにされていたマルコーニ夫妻にとっては、この旧ルートで良かったのでしょう。
静岡駅には3分間の停車(16:10-16:13)でした。その時のごきげんなマルコーニ氏について静岡民友新聞が報じています。
『 無造作に(静岡駅の)プラットホームに降り立った長身の無電王は茶色のソフトに同色のオーバーコートに身を包み静かに記者に語る。
「今日、私を最も喜ばせたことは、よく空が晴渡っていたことです。そのためにニッポンのシンボル、フジヤマを充分に眺めることが出来ました。本当に、本当に、美しいですネ。これから古典の都、京都に行って種々美しい日本の風景を見る予定です。」 』 ("フジヤマは美しい 静岡駅のホームに降り立った無電王マルコニ侯朗らかに語る",『 静岡民友新聞』, 1933.11.22, p8)
特急「富士」でマルコーニ夫妻と共に過ごされた大倉商事の高橋夫妻は、マルコーニ氏の事を次のように記しています。
『 侯爵ご夫妻と、我々との家族的な旅行が始まったのである。ご夫妻と我々四人で食堂車の小さなテーブルを囲んだとき、・・・(略)・・・話は自然と専門的の事になったが、一旦話題が無線の事になると、あの静かな侯爵がまるで別人のように賑やかな人になり、手ぶり口まねをして御自分の新しい発明に関する説明をされる。それはまるでラヂオに熱中した青年が、ラヂオを語るそれと少しも変わらない。実に熱心なものであった。』 (高橋是彰, "マルコニ侯爵の日本観光に随行して", 『ラヂオの日本』, 1934.2, p121)
マルコーニ氏が実業家として無線を『ビジネスの道具』だと考えていたというよりも、彼は根っからの技術屋だったのではないかと想像できるエピソードですね。
11月21日18:57、特急「富士」は名古屋駅に停車しました。ホームでは名古屋放送局JOCKの中林賢吾常務理事、上野技師長ら数名と、名古屋新聞の記者がマルコーニ夫妻を待ち構えていました。ホームに降りてきたマルコーニ夫妻は中林常務より「七宝」の手土産を贈呈され大喜びでした。左図はマルコーニ氏と握手している中林常務です。
名古屋新聞の記者には次のように語り、19:02に出発しました。
『・・・(略)・・・また「名古屋は中部日本の第一の都市だそうですが、このたび、お寄りできないのが残念です。」と遺憾そうであった。 』 ("名古屋に寄れぬのがまことに残念です", 『名古屋新聞』, 1933.11.22, 朝p7)
名古屋駅を出ると一行は食堂車でディナーでした。そのあと米原駅を過ぎた20:30頃に、この6号車(展望車)に訪ねてきたのが、大阪大学総長の長岡半太郎氏でした。長岡総長は大きなソファーにマルコーニ氏と並んで座り、京都駅までのほんのひと時を楽しく歓談して過ごしました。
公式には出張帰りの長岡総長が乗り合わせて歓談したと報じられましたが、長岡総長の真の目的は(一旦中止になった)大阪訪問の復活スケジュールについて最終確認と調整することだったのではないでしょうか?
1933年11月21日の21時24分、特急「富士」が京都駅に到着しました。
京都駅のホームで待ち構えていた神戸駐在のガスコ総領事、京都市役所の西田観光課長らがマルコーニ夫妻を出迎えて、ただちに川原町御池の京都ホテル(左図)に投宿しました。
京都ホテルで待機していた京都日出新聞の記者に、マルコーニ氏は次のように語っています。
『 ホテルに訪ねれば非常な上機嫌で 「とうとう憧れの京都まで来てしまいました。何分時間が短いのでゆっくり落ち着く暇もありませんが、静かな京の空気を呼吸するだけで満足です。」 と語り、疲れているからと、直ちにベッドに入った。 』 ("マルコーニ候夫妻 晴やかに昨夜入洛", 『京都日出新聞』, 1933.11.22, 朝p3)
1933年11月22日(水曜)
朝、京都ホテルを訪ねた京都日出新聞社と染織日出新聞社より、マルコーニ氏へ黒紋付羽織が贈呈されました。アンテナ線を外輪とし、富士山と桜をあしらった紋章にマルコーニ氏は大喜びだったそうです。
『 廿二日は早朝起床ホテル屋上から京都市街を展望して静かな京の空気を呼吸し、千年の古都の奥床しさを賛美した。かくて午前九時半、ホテル玄関で本紙と染織日出新聞から贈呈する内田商店制作にかかる黒紋付羽織を伊藤工場主令嬢伊藤智子さん(一九)の手によって贈られたが、マルコーニ侯は大喜びで智子さんの手をかりながら、早々腕を通してカメラの前に立つなど、頗る上機嫌であった。 』 ("入洛の無電王夫妻 京の風光を嘆賞", 『京都日出新聞』, 1933.11.22, 夕p1)
『 目録(英訳も各一部宛)を添え贈呈した所、候は満面に喜色を湛えながら「武士道の国日本、キモノのミヤコ京都で日本臣民の礼装でありサムライ精神を象徴した羽織を京都における有力な指導機関であり報道機関である貴社から贈られたことに光栄を感じます。貴紙を通じ京都市民に敬意を表します。」と心から感謝の意を表し、・・・(略)・・・ 』 ("無電の父へ サムライのキモノ 黒紋付を贈呈", 『染織日出新聞』, 1933.11.24, 朝p1)
この日の午前は二条離宮を拝観し、金閣寺から嵐山の紅葉観光の予定でしたが、急遽それを変更して明治天皇・皇后両陛下の伏見桃山御陵(左図)と東陵を参拝することとし、10:00に京都ホテルを出ました。
大倉商事大阪支店長である皆川多三郎氏が案内役を努められています。来日したマルコーニ夫妻に対し、大倉商事が全面的にアテンドしていること分かりますね。
さて伏見桃山御陵が、(当初の見学予定だった)金閣寺や嵐山方面とは真逆の方角になったため、嵐山の紅葉見学は中止になりました。
御陵を参拝したあと、夫妻一行を乗せた自動車は、伏見の醍醐寺から山科、追分を抜けて滋賀県の大津市に出ました。そこから琵琶湖の湖畔を北へドライブしました。
そして比叡山(延暦寺側)の麓、滋賀郡坂本村にある日吉大社(全国の日吉神社・日枝神社・山王神社の総本山)で盛りの紅葉を賞でました。特に日吉三橋付近の景観を気に入られたマルコーニ氏は、ここでの記念撮影を自分から求められたそうです。
滋賀県民のみなさん!
まったくの予定外でしたが、夫妻は間違いなく滋賀県も訪ねています。左図は滋賀県坂本で車を降りたところのマルコーニ夫妻です("滋賀県坂本の紅葉を探るマ候夫妻", 『神戸新聞』, 1933.11.23, 朝p2)。
これで中止になった箱根の紅葉鑑賞の埋め合わせができましたので、マルコーニ夫人もお喜びのことでしょう。
13:00にいったん京都ホテルへ戻り昼食にしました。全日本無線技士協会の大關源蔵代表が、マルコーニ氏を訪ね、日本刀を贈呈しています。
午後は清水寺から円山公園、知恩院を見物の上、平安神宮に参拝し、禅寺境内の野村別邸(碧雲荘)で日本茶の供応を受けた後、土産物製造工場を見学して、京都駅を16:30発の特別列車で奈良に向かう予定でした。
しかし旅の疲れが出たのでしょうか?清水寺と平安神宮の参拝をキャンセルし、16:00まで部屋で休憩したあと、円山公園、知恩院から野村別邸(碧雲荘)に向かい、庭園から暮色迫る東山連峰の眺めと、池の緋鯉(ひごい)たちが夫妻のまいた切り麩(ふ)に集まってくる動きを楽しみました(左図:野村別邸)。
マルコーニ氏は横浜港に到着したときから、日本の無線局をぜひ見学したいと強くリクエストしていました。残念ながら日程の都合上、無線局の見学は実現しませんでしたが、この日の16:55に京都放送局JOOKを訪ね、廣江恭造常務と伊藤支所長の案内で局内の各部屋を見学することができました。そして御土産の木目込(きめこみ)人形を大切に抱えてホテルに戻り、出発の身支度を済ませると、奈良電気鉄道(現:近鉄京都線)の京都駅に向かいました。
夫妻は奈良電気鉄道京都駅を18時40分発の特別列車に乗り、奈良駅には19時25分に到着しました。夫妻一行は迎えの自動車で奈良公園に近く、鉄道省直営の奈良ホテルに向かいました。ここは11年前の1922年(大正11年)に物理学者アインシュタイン博士も宿泊されています。
1933年11月23日(木曜)
静かな古都「奈良」で一夜を明かしたマルコーニ夫妻ら一行は、10:00より統計学者の柳沢保恵伯、宮下県通訳官、久米県知事代理、石原奈良市長、坂田奈良市公園課長、剣持前奈良ホテル支配人の案内で奈良散策に出かけました。
まず奈良ホテルから自動車で東へ進み、春日大社を参拝しました。そのときのマルコーニ氏の感想を『大阪毎日新聞』が伝えています。
『 (マルコーニ氏は春日大社の回廊にて)「日本にくる前に神道に関する本を読んでくればよかったと思う。日本の神社はいずれも幽邃絶塵(ゆうすいぜつじん)で非常に森厳である。鳥居をくぐった時から心身が洗われる気がする。信仰には清浄無垢の心境が悟入の第一である。その点から見ると日本の神社の構造は非常に当を得ている。カトリック教もこの点に留意しているが、まだまだあくどい感じが抜けきらぬ。この黒緑の森と朱塗りの回廊の調色などいかにも美しいではないか。」と賛美する。 』 ("産業大阪をお天主から俯瞰 丹塗の回廊に嘆美を放って奈良で 「洗心」を語る", 『大阪毎日新聞』, 1933.11.24, 夕p2)
春日大社回廊内の風宮(かぜのみや)神社の左側には、カゴノキを母樹として、ツバキ、ナンテン、ニワトコ、フジ、カエデ、サクラが風神の威力にて着生したと伝えられ、信仰の対象となっている七種寄木(なないろやどりぎ)があります。マルコーニ氏はこれに興味を示しました。
『春日境内、一本の木に藤、桜、南天など七種がやどっているあの寄木を見て「ホー、共同の象徴(シンボル・オブ・コーポレーション)だね」』("鐘つき理論一席 ラヂオ自動車にお褒めの言葉", 『大阪朝日新聞』, 1933.11.24, 夕p2)
そのあと若草山(=三笠山)に沿って東大寺二月堂まで北上し、そこから大仏殿へ行く途中にある東大寺鐘楼(東大寺の除夜の鐘として知られる大梵鐘)での、無電王らしいエピソードを引用します。
『 三笠山、二月堂そして大仏の釣鐘に来たとき誰かが力一杯ついてみせた。それをじーと見ていた候は首をふって「あんなに顔を真っ赤にして力を入れなくても宜しいのに」 「いやそれほど重いのですよ」 「そんなことはない。では私がやってみましょう」と自動車を下りた候は太い綱を軽く引張りはじめた。撞木(=鐘をつく棒状の木)の波はだんだん大きくなる。
そしてゴーン。古都の空に流れる美しい余韻に微笑みながらじっと耳を傾けたマルコーニ候「つまりこれはラヂオの電波と同じ要領で、震動の波にうまくのせるとライト・ムーブメント(軽い動き)で十分ことたりるのです」 』 ("鐘つき理論一席 ラヂオ自動車にお褒めの言葉", 『大阪朝日新聞』, 1933.11.24, 夕p2)
『 随行中の一人が鐘の撞木に取り付き、満面に朱を注ぎ玉の汗してか(顔を真っ赤にし、玉のような汗をかきながら)鐘を撞いて、その韻々と響く音を御聴きに入れた。するとその音に聴きいっておられた候は、自分も撞いてみようと言われ、皆が中々力がいるからと止めるのも聞かれず、撞木の綱を手に取られ、調子をとって楽々とひとつき撞かれた。その音は前の人が玉の汗して撞いたのより遥かに大きかった。侯爵は自分を顧みられ、「君。これを撞くには少しも力はいらない。無線のセルフ・ヘテロダインの原理を応用し、撞木の運動に合わせて、正しい時に少しづつ力を入れてやれば、いかに重い大きな撞木でも、大きな運動をさせる事ができる。自分はそう思ったからちょっと実験してみたのだ。」と言われた。このような事にも候は持ち前の研究心をだされるのである。』 (高橋是彰, "マルコニ侯爵の日本観光に随行して", 『ラヂオの日本』, 1934.2, p122)
そして一行は東大寺鐘楼をあとにして、東大寺大仏殿(左図)に着きました。木造軸受建築としては世界最大規模を誇ります。
『 大仏殿では夫人の方が大喜び。薄暗い堂内で飴色の眼鏡を取り出して「大きなブロンズの仏様」と、前から後ろから眺めまわす。型どおりワンダフルの賛辞。 』 ("鐘つき理論一席 ラヂオ自動車にお褒めの言葉", 『大阪朝日新聞』, 1933.11.24, 夕p2)
『 大仏の大きさに驚嘆しながら記者を顧みて「あちら(鎌倉)でもそうだが昔にさかのぼれば、さかのぼるほど肝をつぶすような大きなものを作っていたようだ・・・」と感嘆また感嘆。
大仏殿の後ろの柱抜けを大倉組の原秘書がやって見せると「原君、君はゴクラクへ行くよ」としゃれをとばして上機嫌。 』 ("産業大阪をお天主から俯瞰 丹塗の回廊に嘆美を放って奈良で「 洗心」を語る", 『大阪毎日新聞』, 1933.11.24, 夕p2)
【参考】柱ぬけ(柱くぐり)とは大仏殿の直径120cmの大柱に大仏様の鼻の穴と同じ大きさといわれる30cm x 37cmの角穴があり、これを床に伏せて腕や足を使って「ほふく前進」の様にしてくぐり抜けると無病息災の御利益があるといわれる。
マルコーニ夫妻ら一行は、さらに奈良国立博物館と猿沢の池(左図)にも立ち寄ったあと、久米奈良県知事が待つ県立公会堂へ向かいました。公会堂では県知事主催の歓迎茶話会が開かれました。
そして公会堂前の広場でマルコーニ夫妻が「鹿寄せ」を楽しまれている様子(左図)とその声を、(11月17日に逓信省より許可がおりたばかりの)大阪放送局JOBK自慢の放送中継車(1933年型シボレー改造)で、全国の茶の間に届けることになっていました。
当初は11:00から4分間の中継だけを予定していましたが、18日よりフィールドテストを重ねたところ、21日午前の試験が良好だったため、中継番組(23日)を12:05から12:30までに変更しました。
この25分間の実況を担当した島浦精二アナウンサー(のちのJOBK局長)が、15年後(1948年)の放送部長時代に次のように振り返っています。
『 昭和八年十一月にマルコーニ侯が日本に来た時、奈良でやった放送があります。丁度マルコーニ侯がマイクの前に来るまで、私は盛んに奈良の風景描写や状況を逐次アナウンスして居って、今マルコーニ侯がマイクの前に来て会話がかわせたらよいと思った瞬間、うまくマルコーニ侯が来てくれて、放送が思うツボにはまった時、うれしかったね。 』 ("対談 放送談義", 『ラジオ・オーサカ』, 1948年8月号, 大阪放送文化協会, p4)
マルコーニ氏はマイクの前に立ちラジオ聴取者におよそ3分間メッセージを贈り、それを西本文芸部長が通訳しました。全国中継は大成功でした。
『 公会堂の横で特に候の為に催した名物鹿寄せと、今を盛りと咲きほこる菊花壇を巡ったが、BKではこの斯界の大恩人の奈良清遊の半日をキャッチして広く全国フアンに伝ふべく新鋭の放送自動車を派し、公会堂広場に据え、松田理事長、西本文芸部長等出迎へ、午後零時五分から三十分迄実況を放送し、遂に候の挨拶まで入れて大成功であった。』 ("古都の秋にビユチフルを連呼:奈良の無電王 放送車に好機嫌で挨拶", 『大阪時事新報』, 1933.11.24, 夕p2)
JOBKではかつて兵庫県西宮市の甲子園球場に臨時中継施設(500W)を設置して16km離れた大阪上本町スタジオ(天王寺区上本町9丁目、現:近鉄タクシー(株)本社)へ無線で野球中継した実績を持っていました。
しかし今回は放送中継車の貧弱なアンテナと出力(50-100W, 周波数1500kHz)なので、奈良公園から生駒山(624m高)越しに大阪上本町スタジオまで(30km)中継するのは無理でした。
そこで奈良県側のどこかに受信所を仮設し、そこから有線回線でJOBKの上本町スタジオへ送ったようです。
中継終了後、公会堂の裏庭に停めていた放送中継車を見学したマルコーニ氏がこれを賞賛し、それがJOBKの誇りとなりました。
『 この放送はこの日初めて(本番)出動した移動放送車を通じて行われたが「ぜひそれを見たい」という候の希望で、木陰に隠した放送車に案内すると、ただ一人真っ先に車内へ飛び込む。さすが専門家である。送信機のメーターなどを撫で廻して「こいつは全くすばらしい(ベリーファイン・インディード)」 鶴のひと声。ラヂオ自動車にとっては誰から褒められたよりも嬉しかったろう。 』 ("鐘つき理論一席 ラヂオ自動車にお褒めの言葉", 『大阪朝日新聞』, 1933.11.24, 夕p2)
そこでJOBKはこの中継車にマルコーニ氏の名前を付けたいと願い出たところ快諾され、「マルコーニ号」となりました。
『 無線界の権威として有名なるグリエルモ・マルコーニ侯来朝を期としてBKにおいては拾一月廿三日奈良公園においてマルコーニ侯歓迎「鹿寄せ」の状況を放送した。その際使用せる移動放送用自動車は電力五〇ないし一〇〇ワット、周波数一四〇〇、一四五〇、一四九〇キロサイクルの放送機を搭載せるもので、(マルコーニ)侯はBKの依頼により、これをマルコーニ号と命名した。 』 (日本放送協会編, "BKマルコーニ号 移動放送車", 『ラヂオ年鑑』 昭和9年版, 1934, 日本放送出版協会, p330)
このあと昼食で奈良ホテルに戻った時だか、朝一番だったのかは分かりませんが、お隣の三重県鳥羽から"真珠王" 御木本幸吉氏が(たぶんアポなしで)ホテルに訪ねています。御木本幸吉氏の四女の夫、乙竹岩造東京教育大教授が昭和25年に次のように書かれています。
『 「私は真珠には深い興味を持っているものであり、貴君(御木本幸吉)の芳名は、よほど以前からうかがっていましたが、今日、何の幸か親しくお目にかかる好機を得、また目の当り、自ら摘出された真珠を拝見して、真に驚喜の至にたえない。」
これは昭和八年の暮、無線電信の発明者マルコニーが、その夫人と共に日本に来朝し、幸吉と会見したときの言葉です。幸吉は当時(三重県の)鳥羽にいたのですが、マルコーニが奈良に来たのを聞くや生けた真珠貝をたずさえて奈良ホテルにおもむき、自らこれを開き、光輝さん然たる真珠を取り出し、夫妻に示しました。生きた貝の中から、きらめく真珠のはさみ出されるごとに、夫人は驚きの声をあげて喜びました。 』 (乙竹岩造, "世界の眞珠王・御木本幸吉 マルコーニ夫妻との会見", 『中学時代』, 1950.4, 旺文社, p19)
【参考1】" 真珠王"御木本氏は渋沢栄一氏に紹介状を書いてもらって、1927年(昭和2年)2月25日にニューヨーク郊外にある"発明王"エジソンの研究所と自宅を訪れています。
【参考2】 マルコーニとの記念写真が欲しかった御木本氏は現地の写真館を雇い、もし自分が夫妻と一緒にホテルから出てきたら撮影してくれと依頼していました。出入り口が二箇所あったため二つの写真館と契約し、それぞれに待機させていたと、御木本氏自身が後の対談記事で語っています。御木本氏がこれほどまでに「記念撮影」にこだわったのは、たぶんエジソンとの記念写真がなかったからでしょうか?
【参考3】御木本商店はこの年のシカゴ万博の日本館特別室に真珠で作った模型を出品しており、マルコーニ夫妻がその作品を見ていたかもしれません。御木本商店の出品については以下のような記録が残っています。
『 御木本商店は本館内左側中央に特別室を設け「ワシントン」の家「マウント、ヴァーノン」の真珠白金製模型を出陳し時価五十万弗(ドル)と宣伝したるため、世界第一を愛好する米人の好奇心に的中し同室の前には常に群衆蝟集(いしゅう)し此の美麗なる出品物に賞賛の辞を惜まざりき。』 (商工省商務局編, 『一九三三年市俄古進歩一世紀万国博覧会政府参同事務報告』, 1934, 商工省商務局, p48)
また御木本幸吉氏の四女の夫、乙竹氏も記録されています。
『 昭和八年やはり米国シカゴの万国大博覧会に陳列したジョージ・ワシントンの住家の模型も、また異常の好評を博したものである。・・・(略)・・・骨組は南洋産の白チョウ貝で造り、間口一尺六寸(=48.5cm)、奥行八寸(=24.2cm)、高さ一尺八寸(=56.1cm)、原物の六十分の一で重量は六貫目(=22.5kg)、これに大小二万四千三百二十八個、重量三百匁(=1125g)の真珠をちりばめたもので、時価五十万ドル。博覧会閉館後は駐米大使出淵勝次を経て、ワシントン市の(スミソニアン)博物館にこれを寄贈した。』 (乙竹岩造, 『御木本幸吉』, 1948, 培風館, pp104-105)
マルコーニ氏は古都奈良を観光し、これまでの道順の誤りに気付いたと語っています。
『 京都は静かな、美しい町である。「外人趣味の日本」がやたら雑多にそこに散らばっている。奈良は京都にもまして静かなむしろ悲しい古都である。この町で土塀の裂けているのをちらちらと見た。その間から柔和な鹿の顔がのぞいている情緒などはいかにも「古典日本」の風景であった。余(私)は京都と奈良とにおいて日本の味を満喫した。これで何も思いのこすことはない。ただひたすらに惜しむことは日程の切迫していることである。
余(私)はここにおいて一週間のあわただしかりし過去をふりかえっていう。「余(私)は鮮やかに日本観光の道順を誤っていたのを悔いゆ」と ― 歴史的に見ても、観光の理解より見ても、東京を振り出しにして、奈良をあと廻しにすることは誤りであった。古典日本の奈良を賞し、外人趣味の日本京都を経て、現代日本東京に行くことが妥当である。 』 ("マルコニ候の日本印象談(下)", 『大阪毎日新聞』, 1933.11.25, 朝p11)
【参考】 1922年(大正11年)に来日したアインシュタイン博士は、神戸港から上陸し、京都観光を経て東京へ向かいました。
11月23日、ちょうどマルコーニ夫妻らが奈良観光されている頃、大阪では訪問キャンセルが撤回されて一行の歓迎ムードが高まっていました。この日の『大阪毎日新聞』朝刊から引用します。
『 マルコニ侯夫妻は廿三日、午後二時卅八分、奈良から大軌上六(大阪電気軌道の上本町六丁目駅)着で、いったん素通りときめた大阪を訪れ、まず大阪城天守閣にのぼって工業都市大阪の全貌を眺め・・・(略)・・・』 ("大阪へ立寄る マルコーニ侯夫妻", 『大阪毎日新聞』, 1933.11.23, 朝p5)
11月23日午前の奈良観光を終えるとホテルで昼食を済ませ、13:00から移動の身支度をして大軌(大阪電気軌道、現:近鉄奈良線)奈良駅へ向かいました。マルコーニ夫妻らは14:35発の上本町六丁目(大阪)行き特別列車に乗車しました。
マルコーニ侯は奈良県と大阪府の境にある生駒トンネルを抜けると、生駒山中腹から見下ろす大阪平野の景色を眺め続けたそうです。大阪朝日新聞より引用します。
『 奈良から大阪へ - 大軌の特別列車が生駒のトンネルにさしかかるころからマルコニー侯はもうじっとしていないで愛用のスリー・キャッスルをくゆらしたまま、前方の運転台に立ちはだかり、ガラス窓の外に変化する河内平野の冬仕度とレールの流れを凝視(ぎょうし)して大阪に着くまで約二十分間、ついにシートに腰をおろさなかった。熱心な探求欲、ことにわれわれにとって常識以下のあの電車シグナルが - 「グリーン」は速く、「オレンジ」はゆるく、「赤」はストップという配色の妙がことのほかお気に召して「おもしろいやり方だ。あれは自動式に働いているのかね?」など興味の瞳を輝かせた。 』 ("甍に浮かぶ旅愁 ミラノへの幻想 無電王錦城の天守閣に", 『大阪朝日新聞』, 1933.11.24, 朝p11)
11月23日15:17、夫妻は大阪電気軌道の終点「上本町六丁目駅」(通称:うえろく)に到着しました。左図大軌ビルディング(地上7階、地下2階)の中に駅のホームがあり、三笠屋百貨店も一体になった、奈良・吉野・伊勢方面からの "大阪の玄関口" です。
【参考】この三笠屋百貨店は日本初の駅ビル・デパートです。1936年(昭和11年)に大軌百貨店となり、現在は近鉄百貨店上本町店。1970年(昭和45年)、難波まで近鉄が延伸されるまでは、ここが起点駅の地位にありました。上本町六丁目駅から大阪市電に乗り換えると、西方面は難波やミナミ繁華街、北方面は大阪城や府庁、南方面は四天王寺や鉄道省の天王寺駅へ短時間移動できる最高の立地条件にありました。大阪万博の昭和45年に谷町筋の拡幅が完了し、地下鉄谷町線が開業するまでは、上町筋の方が幹線道路でした。
モーニング姿の長岡半太郎大阪帝大総長、廣江恭造JOBK常務(元大阪中央電話局長)、松方正雄JOBK理事長ほか、関西の電波関係者と大阪ラヂオ組合員のおよそ100名が、イタリアの小旗を打ち振って万歳を歓呼しながら出迎えました。
そしてマルコーニ夫妻らを自動車で大阪城(左図)天守閣へ案内しました。マルコーニ氏は商都大阪にミラノを重ねたようです。
『 天守閣楼上から大阪の甍々を見おろし 「すばらしい。活気のある大きな都会。私の国でいえばミラノですね。」と 』 ("甍に浮かぶ旅愁 ミラノへの幻想 無電王錦城の天守閣に", 『大阪朝日新聞』, 1933.11.24, 朝p11)
ただしこの日は霧が出ていて、あまり遠くまでは見渡せなかったようです。
『 天守閣上ではひどい夕霧で大産業都の展望が利かぬのが残念そう。夫人が金網を見て「何か?」と訊ねる。東導役の高橋是彰夫人から人の落ちるのを防ぐためだと聞いて「オオ」と肩をすぼめる。閣上で夫妻共記念帳に署名。そのページには支那公司蒋作実氏や満州国(陸軍)の干上将等と名前がならんだ。 』 ("時を忘れさせた「お夏」の魅惑:夫妻、大阪に半日の清遊", 『大阪時事新報』, 1933.11.25, 朝p7)
『大阪毎日新聞』からも引用します。
『 侯は初めて見る大(だい)大阪の繁華ぶりに驚き顔で自動車で上本町から大阪城へ。天守閣に登ったがあいにくの濃霧で展望が利かないのを残念がって「せっかく高いところへ登って日本の心臓を十分に見られんとは残念だ」とさすがの無電王もガスには顔まけ。名残惜しげに小手をかざしつつ展望台を一周し、夫婦揃ってサイン帳に署名のあと、天臨閣に入り夫人に腕をかしつつ静かな池畔に紅葉映えたる庭園をそぞろ歩いてあわただしい旅の中に枯淡な日本趣味を楽しんだ。 』 ("「おおきれい」 八重ちゃんにお世辞 芝居見物とお茶の会へ - 大阪見物の無電王", 『大阪毎日新聞』, 1933.11.24, 朝p5)
続けて本丸内にある天臨閣(旧称:紀州御殿、左図)の純日本式の日本庭園を見学されました。
そして16:00よりこの天臨閣にて大阪放送局JOBK主催の官民合同歓迎祝宴が催されました。
出席したのは関西の官民電波関係者(JOBK、大阪逓信局、市電気局、電気学会、宇治電気、ラヂオ組合ほか)と、大阪商工会議所の安宅副会頭、営林局の斎藤監督課長ら50余名で、終盤にさしかかり松方正雄JOBK理事長からの歓迎の言葉に応えて、マルコーニ氏は妻と共に大阪を訪ね得たことを嬉しく思うと英語で挨拶しました。
【参考】 天臨閣は1947年(昭和22年)9月12日、接収中の進駐軍の失火により焼失。
JOBKが合同歓迎会の主催者になったのは、マルコーニ夫妻の大阪訪問復活の影の立役者が大阪放送局JOBKだったからのようです。『大阪朝日新聞』の記事を引用します。
『・・・(略)・・・大阪府からの歓迎招待に対し、大阪には下車せずそのまま通過する旨の返電があったが、その後、放送協会関西支部その他から交渉した結果、二十三日奈良遊覧ののち午後三時十五分、上六着大軌電車で来阪・・・(略)・・・』 ("無電王あす来阪", 『大阪朝日新聞』, 1933.11.23, 夕p2)
17:00に長岡大阪大学総長の発声による万歳で閉宴、マルコーニ夫妻ら一行は自動車で「上方歌舞伎の殿堂」千日前の大阪歌舞伎座(下図)に向かいました。
すっかり暮れた道頓堀の灯りを車窓より眺めつつ、17:20、自動車は大阪歌舞伎の正面玄関に横付けされました。マルコーニ夫妻一行を白井松次郎松竹社長が出迎えて、特等の二階正面席(上図[右])へ案内されました。
【参考】大阪歌舞伎座は1932年[昭和7年]開業。九階建てのビルディングで、のちに千日デパートとなりましたが、1972年[昭和47年]5月にビル火災史上最悪(死者118名、負傷者81名)の「千日前デパート火災」が発生し焼失しました。長く焼け焦げたままでしたが火災から11年後、ようやくビルは建替えられて、現在では「ビックカメラなんば店」です。
大阪歌舞伎座での鑑賞会は、マルコーニ夫妻が東京で熱心に歌舞伎を鑑賞されたと聞きつけた、神戸駐在のガスコ総領事の発案により実現しました。そして日本通であるガスコ総領事の説明を聞きながら、ご夫妻は水谷八重子の "お夏清十郎" を熱心に観劇されました。
『 五時二十分、千日前歌舞伎座に自動車をとばし、ガスコ総領事らといっしょに折から上演中の水谷八重子の「お夏清十郎」舞台を二階正面からあぐらをくんで見学。ときどき傍らの夫人をかえりみて「きれいだね。役者もうまいよ!」など母国語で話しかけている。
幕あいには奈落を通って舞台にのぼり、元禄髯のお夏(八重子)と堅い握手。そしてきれいなお夏から彼女の日記帳にサインをせがまれると、これも美しい夫人の手前、ちょっとはにかんだが「おお、よろしい」・・・・・
約二時間のお芝居見物の印象をたずねると「東京では古い歌舞伎をみましたが、これは新派の俳優だそうですね。・・・(略)・・・私はお国の言葉がわからないから筋のはこびははっきりわからない。しかし、たとえばちょっと肩をふるわすにしても、足をふみ出すにしても西洋流に大きな動きを見せず静かなゼスチュアのうちに、いいしれぬ余情をただよわせています。暗示と想像。私は日本の舞台をみて強くそれを感じます。
衣装の配色も非常に優れている。たとえば青と黄はわれわれヨーロッパ人の目に不快な色調だが日本の舞台ではそれを巧みにこなして快よいハーモニィを織り出しています・・・」とゆたかな鑑識眼をほのめかせた。 』 ("甍に浮かぶ旅愁 ミラノへの幻想 無電王錦城の天守閣に", 『大阪朝日新聞』, 1933.11.24, p11)
やがて大阪を出発すべき時刻になりましたが、新派の歌舞伎にすっかり魅了されたマルコーニ氏は「もう一幕みていこう」と、結局、続く "但馬屋茶座敷の場" を最後まで鑑賞されました。
19:30に大阪歌舞伎座をあとにし、自動車は夜の御堂筋ビル街の美しい灯りの中を走り抜け、阪神国道で兵庫県西宮市に向いました。非常に短い滞在でしたが、マルコーニ氏に素通りされることを回避できた大阪の電波関係者一同はホッと一息ついたことでしょう。
20:00にマルコーニ夫妻は西宮市にあった西日本を代表する名門「甲子園ホテル(左図)」(現:武庫川学院甲子園会館)に到着。ガスコ総領事、大倉商事大阪支店長の皆川氏らとディナーをとりました。
神戸でお別れとなる高橋夫妻にとっては、ここ数日間のいろんな出来事が沸々と湧き上がってきたのでしょうか? 前掲書『ラジオの日本』(1934年2月)に、マルコーニ夫妻との甲子園ホテルでの最後の晩餐が『何となく淋しい気がした。』と、その時の気持ちを高橋是彰氏が書き残されています。
22時まで休憩のあと、西へ20kmほど離れた神戸市の三宮駅へ自動車で向いました。そして22:25に三宮駅に到着。
遅い時間にも係わらず、駅前には神戸無線技士クラブ、大同ラジオ代表、海員協会会員、宝塚音楽歌劇学校のフェルナンド教授ら十数名の在神戸イタリア人、それに一般市民を含め百数十名が集まり、日伊両国の国旗を振り万歳を三唱で迎えました。
マルコーニ夫妻は三宮駅貴賓室で(歌舞伎座で買った)水谷八重子の写真はがきに故国への便りをしたため、それを託すと特急「富士」に乗り込みました。発車は22:47でした(大倉商事の高橋夫妻は三宮駅に残りました)。
『 午後十時四十七分、同駅発の特急富士最後部特別車に乗車。乱舞する歓迎神旗の嵐のなかに、はや習い覚えた日本語「マンサイ、マンサイ」を連呼しつつ下関に向かったが、廿五日京城(ソウル)着の予定である。』 ("万歳に応えて「マンサイ!」賑やかに三宮駅発つ", 『神戸新聞』, 1933.11.24, 朝p7)
1933年11月24日(金曜)
24日の朝09:00、マルコーニ夫妻一行を乗せた特急「富士」は小雨が降る終着駅「下関」(山口県)に到着しました(下図)。
下関駅では松井信助(下関)市長に加えて、九州側から後藤多喜蔵(門司)市長、安川財閥の安川第五郎氏らが出迎えました。そして一行は下関駅舎正面に向って右側に隣接する山陽ホテルで朝食をとりました。
【参考】山陽ホテルは我国ステーションホテルの嚆矢であり、九州や大陸へ向う政官財界の多くの要人が立ち寄った。
『(新聞記者に)「もう一度ぜひ帰国へやって来るつもりだ」と固い握手を交わした。今回の日本訪問は日本の文化を見るのが目的であったが、東洋の旅行は初めてであるから、いわば新婚旅行のやり直しみたいなものだと、艶麗花のような夫人をかえりみて微笑する。』 ("さらば懐かしの日本よ:唯幸福の言葉のみ", 『福岡日日新聞』, 1933.11.25, 朝p2)
山陽ホテルのロビー(左図)でお別れの挨拶を記者発表しています。
『 日本に来ての感想はただ幸福であったという一言に尽きる。初めてみる日本の国は非常に偉大な国であり、あらゆる諸施設が完備しているのに感服した。
その上各地で望外の歓迎にあずかり深く感謝する次第である。今日は雨の中を下関に着いたが、車窓から見た貴国の風光は故国イタリーに似ている点がすこぶる多く非常に懐かしく思い、今、日本を去るに臨み自分は再び日本を訪問したいとの希望でいっぱいだ。 (あなた方の新聞を通じ)どうぞ貴国の皆様によろしく。 』 ("来朝の感想を「幸福」の一語に盡す", 『九州日報』, 1933.11.25, 夕p1)
【参考】 なお1942年(昭和17年)に関門海峡の海底トンネルが開通し、下関駅が本州最西端の鉄道終着駅の機能を失うと同時に、下関駅舎を別の場所へ移したため、ここに取り残された山陽ホテルはさびれたそうです。
1933年(昭和8年)11月24日、マルコーニ夫妻一行は朝10:30の関釜連絡船へ乗り継ぎ、玄界灘を渡たり朝鮮の釜山へ向かいました。
サンフランシスコを出港したばかりの時点では、東京を振り出しに京都・奈良を観光し、大阪に立ち寄ったあと神戸港から船で大連を経て中国に向かうつもりでしたが、朝鮮と満州国からの強いリクエストにより立寄ることになりました。
関釜連絡船で玄海灘を越え、朝鮮の釜山港(左図[右])に到着したのはすっかり暮れた18:00でした。釜山桟橋には官民の有志と釜山中学の全校生徒600人が集まり、「ウエルカム・マルコーニ」と書かれた歓迎旗を打ち振りながら、万歳三唱で迎えられました。
マルコーニ夫妻一行は出迎えの人達に丁寧に会釈しながら、春田駅長の先導で釜山桟橋駅貴賓室へ入りました。貴賓室では京城(現:ソウル)観光を楽しみにしているとコメントしています。
『 朝鮮についてはかねて幻の国として記憶にあるだけであったため、何の感想をも語ることはできません。これから京城で心ゆくばかり異国情緒を味わいたいと思っています。 』 ("ようこそマルコーニ侯 半島へ第一歩 中学生の歓迎に感激", 『京城日報』, 1933.11.25, p7)
以下のように19時55分の国際急行「ひかり」に乗車したとする記事もありますが、実際には予定変更があり、乗車されていません。
『マルコニ候夫妻は廿四日夜入港の関釜連絡船で釜山上陸。官民、釜山中学生らに出迎えられ駅貴賓室で小憩、同七時五十五分(発のひかりで)京城へ向った』("釜山上陸", 『大阪毎日朝鮮版』, 1933.10.25, p1)
当初の予定では釜山港に着くと、すぐあとに接続する19時55分発の満州国奉天行きの国際急行「ひかり」に乗り、京城(現:ソウル)駅には翌朝6時45分に到着することになっていました。この国際急行は半年前の4月1日よりスタートしたものです。
しかし特急「富士」で三宮駅を発って以来、二晩続けての車中泊となるためか、釜山鉄道ホテルで少し体を休めて、遅い時刻の第四列車の一等特別室に乗車したようで、京城到着は翌朝8時25分でした。「ひかり」は関釜連絡船からの乗り継ぎのために釜山桟橋駅からの出発ですが、第四列車の始発駅は、釜山桟橋駅から渡り廊下で徒歩3分ほど離れた釜山駅でした。
『無電の父マルコニー夫妻は予定を変更 二十五日午前八時二十五分京城駅着』("科学も大切だが歴史文化の研究も大切だ:京城に来たマルコニ候夫妻", 『大阪朝日新聞附録朝鮮朝日』, 1933.10.26, 1933.10.26, p1)
『無電王マルコニ侯夫妻は予定より一列車遅れて廿五日午前八時廿五分・・・略・・・京城駅着』("マルコニ候 京城を見学:内地の歓迎攻めに疲れて一切の招待を辞退", 『大阪毎日新聞 朝鮮版』, 1933.10.26, p1)
1933年11月25日(土曜)
目を覚ますと列車はもう京城(現:ソウル)の手前の水原駅まで来ていました。マルコーニ氏は朝鮮の朝景色を眺めて京城までの時間を過ごしました。この時の感想を京城日報の記者には次のように話しています。
『 車窓から見た朝鮮の印象はと言う記者に、「ナント道路の立派なことだ。『幻の国』はすっかり成長した現実の文明国じゃないか。」 』 ("幻のお国に開けた文化の粋よ",『京城日報』, 1933.11.26, p2)
朝08:25、京城駅に到着(左図)。
松本誠京畿道知事、山本犀蔵朝鮮総督府逓信局長、小田安馬総督官房外事課通訳官のほか、国際親和会やランチョン・クラブ員らが出迎えました。
駅の貴賓室で挨拶を交わしたのち、総督府が用意した自動車で宿泊先である朝鮮ホテル(下図)に入りました。この日の朝は南山公園の京城駅側にある朝鮮神社を参拝し、さらに(マルコーニ夫人がローマ法王の姪にあたるため)明治町の天主公教会を訪ねる計画でした。明治町とは現在の明洞で、今は「明洞聖堂」として知られています。
そして博物館に立ち寄ったあと、午前11時に朝鮮総督府を訪問したあと、一旦朝鮮ホテルに戻り、ランチョンクラブや国際親和会などの共催の昼食会に出席するはずでした。しかしこの昼食会は夫妻の疲れからキャンセルとなりました。
『京城駅着、朝鮮ホテルに入ったが同夫妻は内地で非常な歓迎攻めにあひ疲れているからとて、国際親和会、ランチョンクラブ、電気協会等の招待を一切辞退』("マルコニ候 京城を見学:内地の歓迎攻めに疲れて一切の招待を辞退", 『大阪毎日新聞 朝鮮版』, 1933.10.26, p1)
ホテルで朝食を済ませたあと、京城の観光スケジュールを打ち合わせて、午前11時より短く記者会見しました。
『 京城ではアンテナに気をつけてみたい。今後は民衆の為、安く無電が利用されることを望んでいる。将来はラヂオじゃない。テレビジョンの時代だ。今、自分は他の現象(=空電や電離層の状態)によって何らの障害もこうむらない短波(=UHF)の特別な研究を進めているから、更に人類のために利益となろう。 』 ("幻のお国に開けた文化の粋よ", 『京城日報』, 1933.11.26, p2)
11時20分、マルコーニ氏はこげ茶色の背広に勲一等旭日章を付け、夫人同行でホテルを出て、朝鮮総督府の宇垣総督を表敬訪問しました。マルコーニ氏が車窓から見た朝鮮の美しい朝景色の話をすると、宇垣総督より「それならば、ぜひ金剛山観光を」と勧められましたが、これは時間がなくて実現しませんでした。総督府をあとにして、マルコーニ夫妻は朝鮮総督府博物館を見学し、初めて触れた朝鮮文化を賞賛しました。
『総督府に宇垣総監を表敬訪問、なごやかな挨拶を交わし、ついで博物館に入り半島の古典文化に目を瞠はりながら「科学も大切だけれど歴史的文化の研究を行ってはならない、私の国のムッソリーニも大いに古典の研究をやっている」と語り・・・(略)・・・』("科学も大切だが歴史文化の研究も大切だ:京城に来たマルコニ候夫妻", 『大阪朝日新聞附録朝鮮朝日』, 1933.10.26, 1933.10.26, p1)
『 特に侯を感激させたのは素晴らしい朝鮮文化を秘めた本府(=朝鮮総督府)博物館で、新羅時代の『金環』でなど、「ホウ、これは立派だ。素晴らしいものだ。」と夫人と一緒に褒めちぎり、熱心に館内を見物』 ("マ侯 善政を誇る立派な博物館", 『京城日報』, 1933.11.26, p2)
そして南山公園の中腹にある朝鮮神宮を参拝。ここから京城の街並みを楽しみました。そして明治町の天主公教会のラリボ司教(Larribeau)へ挨拶に向かいました。
『総督府に宇垣総督を訪問、ついで景福宮総督府博物館を見物し、朝鮮神社に参拝、京城府内を俯瞰し、マルコニ候夫人がローマ法王の御親族である関係から正午過ぎ明治町フランス教会を訪れてホテルに引返し』("マルコニ候 京城を見学:内地の歓迎攻めに疲れて一切の招待を辞退", 『大阪毎日新聞 朝鮮版』, 1933.10.26, p1)
『 (マルコーニ夫人は)ローマ法王の姪という深い縁故から、半島最古の教会堂である明治町の天守公教会に礼拝』 ("マ侯 善政を誇る立派な博物館", 『京城日報』, 1933.11.26, p2)
一旦ホテルに戻ると、予定されていた貞洞の外人学校の生徒60余名と夫妻の昼食会がキャンセルとなり、あきらめがつかない生徒たちが夫妻の姿をひと目みようと朝鮮ホテル周辺に集まっていたそうです。
しばしの休憩後、16時に李王宮殿「昌徳宮」にある仁政殿へ伺候し、その"後苑"である朝鮮庭園「秘苑」(左図)を拝観しました。
そして最後に昌慶苑動物園(京城動物園)に立寄り、一旦朝鮮ホテルに戻りました。
『同四時昌徳宮に赴き古典趣味と神秘を好む夫人はオペラグラスで頻りに天井を眺めベリーサインを繰り返し頻りに感嘆する。そして奈良、京都の自然美を満喫した夫妻は昌徳宮秘苑を自動車をって拝観したが玉流川の畔で車を下りてその絶景を賞し、それから動物園に歩を運び五時総督官邸における茶の会に臨んだ』("科学も大切だが歴史文化の研究も大切だ:京城に来たマルコニ候夫妻", 『大阪朝日新聞附録朝鮮朝日』, 1933.10.26, 1933.10.26, p1)
『 秘苑の閑寂から動物園へ。童心に立ち返った侯夫妻は、珍しい朝鮮産の『虎』や精悍な『ぬくて』(朝鮮狼)などに打ち興じ、市内に林立するアンテナに抑え切れぬ微笑を浮かべていた。 』 ("マ侯 善政を誇る立派な博物館", 『京城日報』, 1933.11.26, p2)
11月25日17:00より総督官邸で催された歓迎茶話会にはマルコーニ夫妻および大倉商事の原忠道・久保信次郎の両氏のほか、京城天主公教会ラリボ司教、英国総領事・副総領事各夫妻、山田三良京城大学総長が招かれました。
ホスト側は宇垣総督夫妻をはじめ、今井田清徳朝鮮総督府政務総監、山本犀蔵朝鮮総督府逓信局長、矢野総督秘書官夫妻、田中武雄官房外事課長夫妻、松本誠京畿道知事、井上清京城府尹ら、主客あわせて34名でした。
左図手前左から、マルコーニ夫人、マルコーニ氏、宇垣総督夫人、今井田政務総監夫人、宇垣総督、ロイス英国総領事夫人、今井田政務総監です。
和やかな雰囲気で楽しいひと時を過ごし、宇垣総督からの歓迎の言葉に続き、マルーニ氏より謝辞があって18:30に散会しました。
朝鮮ホテルで行われた夜の記者会見では、帰国予定についても触れて、帰国船(Conde Rosso号、呼出符号:IBEJ)に装備されている短波帯の無線電話でイタリアに残してきた娘エレットラと話ができことをとても楽しみにしている様子でした。
『 「釜山の港についた時、小学児童の出迎えに・・・(略)・・・「ウエルカム・マルコーニ」の旗を見た時ばかりは涙が出るほど嬉しかった。我知らずそれ(=旗)にサインしたほどだった。班のはっきりした「満州虎」「高麗雉(きじ)」など、なんと珍しかったことよ。・・・(略)・・・(記者に対し)「君、もっともっと嬉しいことがあるんだよ」・・・とて、「満州国から支那の一部を見て十二月十二日上海から乗船するイタリーのコンデルース号(Conde Rosso)には故郷のホームの家族達と話を交換できる(短波の)無線電話が設備されてあることだ。」無電王が自らの発明に限りない思慕の情を感じる時、思い立った旅のエンドとなるのだ。なお帰途セイロン、ボンベイを経て印度を一寸覗いてみるそうである。』 ("帰りの船のうれしさはケビンと自宅のお話交換", 『京城日報』, 1933.11.27, p29)
『(夫妻は)夕闇近まる頃、ホテルに帰ったが、夜はしばし窓から明るい灯の町、京城をしみじみ眺めて異国情緒にしたってから、午後十時過ぎ寝室へ。 』 ("マ侯 善政を誇る立派な博物館", 『京城日報』, 1933.11.26, p2)
この日は久しぶりにホテルのベッドでゆっくり眠れたことでしょう。
1933年11月26日(日曜)
京城駅(下図)を朝7時発の国際急行「ひかり」に乗り、満州国奉天へ向かうため、早朝よりあわただしく朝鮮ホテルをチェックアウトし、京城駅へ急ぎました。この列車はもともと24日に乗車するはずだった、釜山桟橋19:55発、京城06:45着の奉天行きの「ひかり」で、京城駅には15分間停車しました。
【参考】「ひかり」は東京から満州国奉天を2泊3日で結ぶルートの一部を担う国際急行でした。東京13:00発「富士」→下関08:50着、下関10:30発(関釜連絡船)→釜山18:30着、釜山桟橋19:55発「ひかり」→奉天22:50着。(左図:「ひかり」一等展望車の外・内)
京城駅(左図)には、朝鮮総督府の小田総督官房通訳官と大勢の地元小学児童たち、善隣商業学校(現:善隣インターナショナル高等学校)の生徒30数名が夫妻一行を見送りにきていました。
【参考】善隣商業学校は大倉喜七郎の父・喜八郎が1899年に京城に創設。ちなみに1929年に明治大学を卒業したあと、1931年に『丘を越えて』 『酒は涙か溜息か』を大ヒットさせた新鋭の作曲家、古賀政男氏はここ善隣商業の卒業生です。
定刻07:00、マルコーニ夫妻は皆の大歓声で見送られながら「ひかり」で京城駅をあとにしました。本当は松本京畿道知事も見送りに来るはずでしたが、どうやら手違いがあったようです。
『 一汽車まちがえて後から駆けつけた松本道知事は、さすがにガッカリとはるかの線路をしばし見送っていた。 』 (『京城日報』, 1933.11.27, p2)
一行を乗せた急行「ひかり」は平壌(現:ピョンヤン)を経由し北上を続け、満州国との国境の川「鴨緑江」(おうりょくこう)のほとりの新義州駅に着きました。
国境の鉄橋(左図[左]:中央部が船を通すために旋回する可動橋)を渡たり、安東駅(満州国)に到着したのは夕方16:15でした。ここには35分間の停車です。
なお16:15着というのは満州標準時で、朝鮮時間でいうと17:15ですので、朝07:00に京城を出発し、満州国との国境を超えるまで10時間15分かかったということです。
安東駅で待ち構えていた満州日報の記者が訪ねると、マルコーニ氏は機嫌よく自分たちの展望車両に招き入れてくれて、日本と朝鮮観光を振り返りました。このあと大連から中華民国に渡って、12月12日に上海より帰国するつもりであると話ました。
『 「私は長い間、日本に憧れ、日本に関する書物もかなり読んできたが、今度初めて日本を訪問して、私は私の日本に関する知識とこれによって描いた想像よりも現実の日本はもっともっと進歩的で偉大な国であることを知った。天皇陛下には御服喪中のため拝謁を御願いできませんでしたが、勲一等旭日章を賜り非常に光栄に存じております。秩父宮殿下にお目にかかったことも大きな喜びであります。また日本の朝野を挙げての歓迎ぶりには実に感激に堪えません。日本の国民は非常に親切であることを特に感じました。
私は帰国を急ぐ関係上、(首都の)新京(現:長春)を訪問することの出来ないことを残念に思っておりますが、奉天を訪問することの出来るのはせめてものことです。奉天から大連に行きますが、大連のプログラムはまだ作っておりませんが、旅順には行って戦蹟を弔いたいと考えております。今回の日本及び東洋訪問は全くビジネスをはなれてのプライベートの観光旅行である。大連から天津に行き、北平(現:北京)、南京を通って十二月十二日上海出帆の伊太利(イタリア)汽船コンテレンソ号(Conte Rosso)で帰国します。今私はテレビジョンとごく短い短波(超短波)無線の研究に没頭しております。テレビジョンの研究はもう完成に近づいておりますが、まだ発表するまでには行っておりません。・・・(略)・・・」
と語り、沿道の女学生群の歓迎には夫妻とも非常に感激し、同五十分発、一路奉天に向かった。』 ("忙しい旅程だが旅順には行く", 『満州日報』, 1933.11.27, p3)
国際急行「ひかり」は11月26日22:50に終着駅奉天(現:瀋陽)に到着しました。ここは南満州鉄道の本線ともいえる連京線(下図青色:大連-奉天-新京)に、日本・朝鮮方面からの安奉線(下図緑:安東-奉天)が接続する交通の要所でもあります。
秘書デ・マルコ中佐に続き、マルコーニ夫妻が列車から降り立つと、写真班のフラッシュが間断なく光り、ハルビンより駆け付けたマアフェ・イタリア領事夫妻をはじめ、藤原保明満州国交通部郵務司長、川崎寅雄宣化司長、泊郵務司総務科長、羽根田電郵科長、岩本満州電電MTT奉天中央電報局長らの出迎えを受けました。マルコーニ氏はすこぶる上機嫌で、駅貴賓室でみんなと挨拶を交わした際には、今回の日本旅行で覚えた日本語「ありがとう」を連発していたと大連新聞が伝えています。
『 すこぶる上機嫌で短時日の日本旅行で覚えたらしい『有難う』を連発。「満州国入りが夜になって残念だ。明日はゆっくり見物するつもりである。」と微笑してホテルさし廻しの自動車にのり疲れを癒すため、ヤマトホテル向かい、満州国最初の一夜を明かした。 』 ("無電王奉天へ 昨夜十時五十分着", 『大連新聞』, 1933.11.27, p5 )
そして23時過ぎに奉天ヤマトホテル(左図)に入り旅装を解きました。
【参考】「ヤマトホテル」は南満州鉄道が経営する高級ホテルチェーンで、満州の主要都市および関東庁(大連、星ケ浦、旅順)にありました。
1933年11月27日(月曜)
満州国の首都新京(現:長春)から来ていた交通部総長(交通大臣)の丁艦修氏が、奉天ヤマトホテルを訪れ、11:00より20分間ほど中央広間でマルコーニ氏と歓談しました。丁総長は次のように述べました。
『世界的の発明家たる貴下を満州国に迎える事が出来たのは絶大なるよろこびである。満州国は土地広く、交通の発達が充分ではない為、治安維持その他に関して無電に負うところ甚大である。」と述べると「おほめに預かってはなはだ恐縮です。日露戦争以来お馴染み深い奉天に来る事が出来たのは私たち多年の念願が叶った訳ではなはだ嬉しい。首都新京にお伺い出来ないのははなはだ残念である。』 (『大連新聞』, 1933.11.28, 夕p1)
ちなみに今夜予定されている歓迎晩餐会はこの丁氏の主催によるものです。また丁氏の計らいで、マルコーニ氏が発信する満州国内宛て電報はすべて無料になりました(丁氏は大物政治家で、この4カ月後には交通大臣にに就任しています)。
歓談のあと11:30よりホテルで記者会見です。
『 満州見物は多年の希望でありましたが今回ようやくその希望がかなった訳で、ことに満州は日露戦争があった所なのでこの戦跡を見たいと考えております。満州国が成立して新京とかハルビンとか名称はよく聞いておりますが今回の旅行に際し、これらの地を見学しないで帰ることは甚だ遺憾に思っております。 』(『満州日報』, 1933.11.28, p1)
そして自動車で太宗文皇帝を葬った北陵(下図)と、奉天市内の観光に出かけました。
『 太宗文皇帝の位牌を安置した堂に入るとマルコーニ候は脱帽し、夫人と共に頭をたれ感慨無量の態で偉大な科学者である半面、敬虔の念深きを思わしめた。
奉天城内の城壁跡
案内役、駐哈(駐ハルビン)イタリー領事が「もう出ましょう」というと、「いやせっかく来たのだからお墓を拝んで行こう」と。三十分ばかり松の緑濃い境内を記者が「満州は寒いでしょう」と尋ねると、「そうでもありません。かえって思ったよりさっぱりして気持ちがよい。」と笑って北陵に別れを告げ、奉天城内各所を見物。 』 ("北陵の美観嘆賞", 『満州日報』, 1933.11.28, p9)
15:00に奉天ヤマトホテルに戻り、19:30よりここで満州国交通部(丁氏)が主催する歓迎晩餐会です(11月27日)。英、米、独、仏、伊の領事夫妻、井上清一守備隊司令官、蜂谷輝雄駐奉天総領事、宇佐美寛爾鉄路総局長、立川俊三朗奉天警察署長、粟野奉天地方事務局長らが招かれました。満州国側からは曹省長代理、斉警察庁長、郵政間局長ら官民120名でマルコーニ夫妻を歓迎しました。
終盤のデザートタイムとなり、丁交通部総長が歓迎の挨拶をしました。
『交通経済的発展に無電が如何に貢献して居るか喋々述べる所でもありませんが殊に満州は僻地に至る一部、電信電話を除く外、無電の御厄介となって居る事は多大なもので、その恩人マルコーニ氏を奉天に迎え聊(いささ)か感謝の意を表するためこのような宴を催しましたところ、御多忙中にも拘わらずかよう多数ご出席下さいまして私も非常に喜んでいる次第であります。』("新興国をみて無電王の喜び", 『満州日報』, 1933.11.30, p4)
続いてマルコーニ氏は次のように答えました。
『 無電がこの新興の満州国に少しでも役立っていることを聞いて私はもう非常に嬉しい。満州国に対してはこれまで余り知識もありませんでしたが、このたび奉天の一部だけ見物させて頂き、立派なものに出来上がりつつあるのを見て吃驚(びっくり)しました。なおこのまま去るのは遺憾に存じますが、またこの地へ参ることもありますのでその時はゆっくり見物させていただきます。 』 ("新興国をみて無電王の喜び", 『満州日報』, 1933.11.30, p4)
丁交通部総長の発声で万歳三唱し、22時頃散会しました。
すぐに旅立ちの身支度をして、マルコーニ夫妻一行は奉天駅(左図)へ急ぎました。そして22:45発の南満州鉄道の看板列車「はと」で満州国をあとにし、大連(関東庁:日本の租借地)へ旅立ったのです。
この日は車中泊になりましたが、本当に過密スケジュールですね(なお流線型で有名な特急「あじあ」は1934年(昭和9年)から運行開始でまだ乗れなかった)。
1933年11月28日(火曜)
早朝、山内静雄満州電信電話MTT総裁は一足先にマルコーニ夫妻を出迎えようと金州駅から急行「はと」に乗り込みました。しかし連日の歓迎会の疲れで、マルコーニ氏が起きてきたのは終着駅大連の二つ手前の周水湖駅でした(下図)。すぐさま二人は「グッドモーニング」と堅い握手を交わしました。
朝07:40、マルコーニ夫妻を乗せた急行「はと」が終着駅「大連」に滑り込むと、ホームに待ち構えていた満州電電MTT養成所の養成員200名がMTTの社旗を振って、あこがれのマルコーニ夫妻を歓迎しました。
また八田嘉明南満州鉄道副総裁、御影池辰雄大連民政署長、小川順之助大連市長らが出迎え、マルコーニ夫人が市長の13歳になる娘小川容子さんより花束を贈られ記念撮影。そして迎えの自動車に乗り込み大連ヤマトホテル(左図)にチェックインしました。
少し休憩してからの記者会見では『 一刻も早く勇士のねむる旅順の戦跡を弔いたい。それからあす乗る天津行きの船も見たい。』(『大連新聞』, 1933.11.29, p2)と語り、11:30に自動車で出発。まず旅順港を見学して日露戦争を偲びました。
12:30より旅順にある関東庁長官の官邸で旅順工科大学の野田清一郎学長、藤井崇治関東庁逓信局長、山内満州電電MTT社長、御厨信市官房外事課長代理(翻訳官)、高田隆一嘱託らによる歓迎昼食会が催されました。
昼食会を終えた13:50、山内MTT社長を含む一行6名は御厨外事課長代理(翻訳官)と高田嘱託の案内で長官官邸の裏手にある白玉山に登り、「表忠塔」(左図、現:白玉山塔)と日露戦争でロシアの要塞を日本軍が陥落させた旅順攻囲戦(July 30, 1904 - Jan. 2, 1905)の戦死者を祀る「納骨祠」を参拝しました。
次いでロシア陸軍「最強の砦」で、日本軍と4カ月もの死闘があった東鶏冠山北堡塁(下図:ひがしけいかんざんきたほるい)へ赴きました。マルコーニ氏は当時の戦況について熱心に聞き入っていました(下図[右])。
『(東鶏冠山の)北堡塁に赴き当時の戦況を聴取した夫妻は「日本軍の勇敢なる事は承知していたが今現地を見学し一層その勇敢なるに感激する。自分は戦役当時、露都(モスクワ)にあったがその際、露国官憲は等しく陸軍は相当戦う事が出来るが海軍の方はちょっとむづかしいと思うといっていた。今日この地に来て、当時を追想して感慨深きものがある。」と語り折からの寒風をものともせず熱心に見学。 』 ("日露役を追想 当時露都にあり感慨更に深し", 『満州日報』, 1933.11.29, p9)
最後に旅順港の近くにある関東庁博物館(左図)で古代の土器や古鏡などを見学し、予定されたの観光スケジュールを終えました。
11月28日15:00、観光のあとは満鉄が開発したリゾート地の星ケ浦にある「星ケ浦ヤマトホテル」(下図)に立寄り、しばしの休憩をとりました。
本来ならばここ星ケ浦ヤマトホテルで16:30より、満州電電MTTによる歓迎招宴が予定されていましたが、マルコーニ氏にはどうしてもやっておきたい仕事があって、歓迎会を断わり、大連港に向かいました。
マルコーニ氏は夫人のことを気遣い、乗船を予定していた大連汽船「長平丸」の客室の暖房の効き具合などを実際に見てから判断したいと大連汽船側に伝えていました。もし設備が望む状況でなければ列車で北平(現:北京)に行くつもりだったのです。なおマルコーニ氏のことですから、きっと長平丸の通信室(呼出符号:JKPA, 375/425/500kHz, 900w)も検分したのでしょうね。
16:30、マルコーニ氏一行を乗せた自動車は大連港に到着しました。
『 「好みに合わなければ船を取りやめて汽車にする」とマルコーニ候から、こうした申し出にびっくりしたのは予約を受けた大汽(大連汽船)当局。万一乗船中止なんてことになっては大変だと、候自身の下検分をまさに首の座になおるような気持ちで待っていたところ、二十八日午後四時半頃、マルコーニ候は言明通り来船。
スチームの具合から食堂、ベッドのクッションからサロンの様子を詳細に検分して廻った。船長はじめ事務長、司厨長もこうなると懸命である。ところが「この位ならまあ結構。一番心配していたスチームの具合も上等だ。」との仰せに、一同の者ホッと一安心。特別室と他に三室使用する事に決定。二十九日午後三時半乗船する事に話がまとまったが、大汽としても顔をつぶさずに済んで大喜びの態である。 』 ("汽船の下検分合格", 『満州日報』, 1933.11.29, p7)
マルコーニ氏は夫人の体を思いやり、寒さが一番気になっていたと、大倉商事の高橋氏が次のように明かしています。
『 奈良見物の時であったが、侯が突然、私に向かって「御国の観光が済んだら今度は朝鮮と満州を見物して支那に赴くことになっているが、聞くところによると彼地は大変寒いそうである。私は妻の健康の事を考えるから、両地経由を見合わせ、直ちに支那に赴きたいと思うがいかが!」と半ば相談的に質問されたので、私はいささか即答に苦しんだが「鮮・満両地の気候はまだそれ程でもありますまい。せっかく東洋においでになった事でもあり、かつ先方の希望もあるでしょうから、急に予定を御変更になるのもいかがかと思われます。」との意味を率直にお答えしたような次第であった。
要するにこれなども侯がいかに同情の念に富み、いかに夫人に対する思いやりの深い人であるかを物語るもので、ひとしおその人物の優しさが偲ばれるのである。 』 (高橋是彰, "マルコニー候を語る", 『ワット』, 1934.1, ワット社, p16)
11月28日19:30より大連ヤマトホテルの大ホールにて官民合同歓迎晩餐会が開かれました(下図)。小川大連市長夫妻、林博太郎南満州鉄道社長夫妻、山内満州電電MTT社長夫妻、御影池大連民政署長夫妻、日下辰太関東庁内務局長、瓜谷商議副会頭、張大連市商会会長、福本順三郎大連税関長など約150名もの超大物が集いました。
下図では良く見えませんが、正装に勲一等旭日章を付けたマルコーニ氏と、真紅のイブニング・ドレスに純白のアメリカン・ファーをまとった夫人が並んで中央に着席し、その夫人の隣には林満鉄社長夫妻が座りました。
【参考】主催者側に名を連ねたのは、大連民政署、関東庁逓信局、大連市役所、商議、南満州鉄道、満州電電MTT、南満州電気、満州電気協会、満州電気技術協会、電気学会満州支部、大連新聞、満州日報です。
大連放送局JQAKは「マ候歓迎の夕」という特別番組を企画しました。18:30より八田満鉄副総裁による「マルコーニ候を迎えて」という講演があり、次いでマンドリ・オーケストラや長唄などの歓迎演奏が流され、19:50より晩餐会会場からの実況中継番組がはじまりました。
デザートタイムに入り、宴の最後を飾る小川大連市長の歓迎の辞と、マルコーニ氏の答辞が放送されました。
『 日本、朝鮮、満州を通過するに及び無電が想像以上に有用に使われているのに驚いた。満州は膨大なる地域、また日本は四辺環海という点よりするも、近き将来さらにその発達は必要なる感を深くした。・・・(略)・・・ことに今日訪れた旅順古戦場では日本の力強さなるものがそこで発揮された事を追想し、非常な感慨にうたれた。 』 (”無電王を迎え”, 『大連新聞』, 1933.11.29, p1)
20:40に散会後、マルコーニ氏らは別室へ移動して映画「満州国の全貌」(満鉄広報係製作)を鑑賞し、21:30にこの日の行事を全て終え、自分たちの部屋に戻りました。
1933年11月29日(水曜)
大連最後の日の昼、夫妻らは満鉄の招宴に出たあと、旅立ちの準備を済ませて、15:30に大連港に到着しました。日本からずっと案内してくれた大倉商事の原氏・久保氏は、ここ大連港でお別れです。小川大連市長、山内満州電電MTT社長、福本大連税関長とのお別れの挨拶に続き、あこがれの無電の父をひと目みたくて集まった大連の南満州工業専門学校無線科の学生20数名に対しても、マルコーニ氏はひとり一人、握手をして声を掛けてくれました。未来のマルコーニを目指す無線科の学生達は大感激です。
『(大連新聞の記者が)侯爵に「今度はいついらっしゃいますか? 」と問えば、「そのうちにテレビジョンでまた元気な姿を見せますよ」とすましたもの。 』 ("工専生のエールに送られ昨日満州に惜しい「サヨナラ」", 『大連新聞』, 1933.11.30, p9)
そして16:00、長平丸(呼出符号:JKPA)の出帆時刻です。(下図:長平丸デッキの夫妻)
『 やがて出帆のドラが鳴る「マルコーニ候 万歳!!!」勇ましい工専生のエールがデッキに佇む夫妻に届いた。たえず微笑のマ候は帽子を打ちふりながら。
- かくて船がおもむろに岸壁を離れると、期せずして「さよなら」、「グッドバイ」、「ボンボワイヤージ(ごきげんよう)」、「アジオス」等、別れを惜しむあらゆる言葉がいつまでもいつまでも船を追ってゆく。 - またあう日まで。さらば我等の無線王よ。 』 (同, 『大連新聞』, 1933.11.30, p9)
1933年11月30日(木曜)
16時30分、マルコーニ夫妻らを乗せた大連汽船の長平丸が(関東州大連港から)、中華民国の天津日本租界埠頭に到着し、多くの学術関係者らに迎えられました。夫妻は天津にあるイタリアをはじめとする各国の租界地を見学しました。
『(三十日北平発)無電王マルコニー候夫妻は三十日午後天津に着、夕刻北京に向かったが同地滞在三日の後上海へ向かう予定である』 ("無電王上海へ", 『新嘉坡日報』, 1933年12月2日, p3)
しかし天津には乗り換えのために2時間ほどいただけで、列車で北平(Peiping、現:北京)に向かいました。
【参考】 当時の天津を日本で例えれば、東京に対する横浜、大阪に対する神戸といった存在であり、「北平(北京)に対する天津」だったようです。天津城の南東には日本租界があり、多くの日本人が暮らしていました。
北平に到着したのは30日の23時15分。列車から降りると大きな花束が贈られました。北平市の社会局長らが出迎えましたが、なにぶん到着時刻が遅いうえ、寒さも一段と厳しく、これまでの(米国や日本の諸都市での)出迎えに比べると集まった人は少なかったそうです。駅で到着の挨拶を済ませると、イタリア公使館の車に乗込み、深夜の北平の街へ消えました。
1933年12月1日(金曜)
朝の記者会見で、初めて見た中国(天津)の印象と、これから始まる中国ツアーをとても楽しみにしていることなどを語ったあと、いよいよ北平観光のスタートです。
イタリア公使館の書記官と北平陸軍の外交事務官による案内で、まず訪ねたのは、1420年に明の永楽帝が建設したとされる天壇公園でした。
園内にある記念殿(左図)は、歴代皇帝が五穀豊穣を祈った場所として有名です。
そしてお昼が近くなると一行はイタリア公使館に立寄り、ここで身内による気さくな歓迎昼食会が行われました。
1日午後はボスカレッリ(Raffaele Boscarelli)イタリア公使も同行して、(北平の中心に位置する)「故宮」の北隣、景山公園に登って(左図)、ここから下界に広がる北平の街並みを楽しみました。
その後、東へ1.5kmほど離れた観象台(15世紀に建てられた国立天文台)を見学、さらに孔子廟(文廟)とチベット仏教寺院のひとつである黄寺(現:西黄寺)を訪ねました。
【参考】ボスカレッリ公使は3ヵ月前に中華民国に着任したばかりで、これが最初の「大きな仕事」だったかも知れませんね。
1日の夜20時からは中華民国政務整理委員会の黄郛 [こう、ふ] 委員長が主催するマルコーニ夫妻の歓迎ディナー会が外務ビルで催されました。
1933年12月2日(土曜)
12月2日午前、ローマ教皇庁との所縁が特別に深い、輔仁大学(輔仁カトリック大学)では、訪れたマルコーニ夫妻ら一行を1,000人近くの学生が出迎えました。
11時15分、学長がホールに集まった学生たちに夫妻を紹介すると大歓声が起こり、マルコーニ氏はみんなが歓迎してくれたことへの謝辞と、中国の美しい風景について挨拶(英語)しました。そのあと多くの学生から記念のサインと握手を求められるなど、夫妻は大歓迎を受けつつ、13時30分に学校を出ました。
そして昼食後、天安門の西隣にある中山公園を見学したあと、国立北平図書館(現:中国国家図書館)に立寄っています。夜19時からはイタリア公使ボスカレッリがホストとなり、マルコーニ夫妻と北平の政財界の要人達を公使館に招き晩餐会が開かれました。
1933年12月3日(日曜)
3日目の午前は市街地の北はずれに位置する頤和園(いわえん)を観光しました(現在は世界遺産に指定されています)。
ここは清朝六代皇帝が母親の還暦を祝って造営した広大な皇室庭園で、面積は日本の皇居の二倍ありますが、その七割以上を昆明湖(人口湖)が占めます(左図は昆明湖にかかる玉帯橋)。
午後は頤和園内の万寿山にある景福閣(かつて清朝の西太合が外国からの使者をもてなす宴に好んで使った館)で、袁良 [えん、りょう] 北平市長夫妻が主催する歓迎昼食会が開かれました。北平大学の蔣夢麟 [しょう、むりん] 学長夫妻や同大学文学院の胡适 [こ、てき] 院長夫妻ら約20名が集いました。
さて14時に散会となり、北平中心部へ戻りました。
そして(景山公園の西にある)左図の北海公園で五龍亭からの美しい景観や、白塔を見学したあとイタリア公使館に戻って休憩したのが16時でした。
1933年12月4日(月曜)
4日は学術関係者による歓迎昼食会が欧米同窓会館(留学帰国者たちの会館)で催されました。北平大学の蔣夢麟学長と同大学文学院の胡适院長、清華大学の梅貽琦 [ばい、いき] 学長、北平師範大学の李蒸学長と同大学の常道直教務長らをはじめとする著名人40名が集まりました。
1933年12月5日(火曜)
5日朝、ホテルを出て北平駅に向かいました。朝8時、マルコーニ氏らは南へ1,000km以上も離れた首都南京へ特別寝台列車で31時間の旅に出ました。
左図赤線で示すルート(北平~天津~済南~臨城~徐州~蚌埠~南京/浦口駅)のルート車窓より広大な中国の景色を存分に楽しまれたでしょう。
この日は車中泊となりました。この頃からマルコーニ氏には旅の疲れが蓄積し、体調が芳しくなくなりだしたようです。
1933年12月6日(水曜)
12月6日15時、一行を乗せた特別寝台列車が終着駅「浦口」に到着しました。川幅が約1kmの長江(揚子江)を鉄道連絡船で渡ると対岸に南京駅(下図)があります。
【参考】1968年に南京長江大橋が完成するまでは、この浦口駅が北部方面からの南京終着駅でした。
マルコーニ夫妻ら一行は中華民国外交部(外務省)、交通部(逓信省)からの政府関係者、南京市の幹部、上海マルコーニ社、新聞記者ら数十人により盛大に出迎えられました。
そして車でイタリア公使館に向かい、少し休息をとると、17時より林森 [りん、しん] 国家主席、汪兆明 [おう、ちょうめい] 行政院長に面会し挨拶をしました(左図:"馬可尼抵京情形"(マルコーニ南京到着),『天光報』, 1933年12月7日, p1)。
19時30分より中華民国の交通部朱家驊 [しゅ、かか] 部長(日本でいえば逓信大臣)と南京市の石瑛 [せき、えい] 市長が主催する合同歓迎会に招かれました。石瑛市長の歓迎スピーチを受け、マルコーニ氏も挨拶しています。そして歓迎会のあとラジオ局(中央広播電台, コールサインXGOA)を見学し、中国の歓迎ぶりに対するお礼のスピーチが放送されました。ラジオを通じ、マルコーニ氏の肉声が南京市民へ届けられたのです。
マルコーニ夫妻の記事がシンガポールの日系新聞『新嘉坡日報に』(左図)にありました。
『無電王マルコーニ候夫妻は五日北平(現:北京)を発し六日午後盛大なる歓迎裡に南京へ到着、夜は政府の歓迎宴に臨み即夜上海にむかったが十二日帰国の途に就く予定。』("マルコーニ候支那見物", 『新嘉坡日報』, Dec.7, 1933, p3)
マルコーニ夫妻らは12月6日23時、上海へ向けて南京駅(下図)を出発しました。結局のところ首都の南京には8時間ほど滞在しただけです。
当初の計画では(上海の手前の)蘇州で一旦下車し、観光する予定だったのですが、マルコーニ氏の風邪でこれはキャンセルとなりました。風邪をひいたうえに、この日も車中泊だったため、マルコーニ氏にとっては辛い移動だったようです。ボスカレッリ公使は上海まで夫妻に同行しています。
1933年12月7日(木曜)
1933年12月7日朝8時、列車が上海北駅(現:上海鉄路博物館)に到着しました。中華民国の最高学術研究機関である中央研究院、中国最大の科学団体の中国科学社(Science Society of China )、工学系学術機関の中国工程師学会、上海各大学連合会、中国無線電工程学校、上海市教育局など、14の学術・教育機関の代表者と新聞記者らおよそ30名が出迎えました。
左図キャセイ・ホテル(Cathay Hotel、現:フェアモント和平飯店北楼)のスイート・ルームに5泊しました。ここは国賓クラスが利用する中華民国でも最高クラスのホテルです。マルコーニ氏が風邪で体調を崩されているため、この日の各種歓迎行事が中止となり、氏はホテルの自室で静養となりました。
各社の記者がホテルに詰めていましたが、本人は定時記者会見に姿を見せず、秘書のマルコ氏が代わって対応したようです。
1933年12月8日(金曜)
12月8日、在上海のイタリア人クラブ主催の昼食会が予定されていましたが、キャンセルされました。本来なら昼食会のあと、理系大学の名門、上海交通大学において、中国学術関係者らによる歓迎式典が行われることになっていました。はたして体調を崩されたマルコーニ氏が「来てくれるのか?、ダメなのか?」・・・と大学側が大いに気を揉んでいました。
いよいよ式典は無理かなと思われた午後四時、マルコーニ氏ら一行を乗せた車が大学正門をくぐると、待ち構えていた何百人もの学生から大きな拍手と歓声があがりました。中華民国における最高学術研究機関である「中央研究院」の蔡元培 [さい、げんばい] 院長、上海交通大学の黎照寰学長が到着したマルコーニ一行の車を出迎えて、100名を超える学術関係者が待つ式典会場へ案内しました。
会場で着席した、マルコーニ氏(写真[左])、同夫人(写真[中央])、蔡元培院長(写真[右])です。
そして蔡元培院長、黎照寰学長からの挨拶がありました。これに応えて、マルコーニ氏は英語で中国関係者の歓迎への感謝と、中国の美しい景色を称賛し、「今回は旅程の都合ゆっくりできなかったが、ぜひまた中国を訪問したい。」と述べました。
さて歓迎ティー・パーティのあと、みんなで工学部校舎前の広場に移動しました。そして垂直式の無線アンテナに見立てた「長い銅製のマスト」を、事前に掘られた穴にマルコーニ氏が差し込み、シャベルを手にしてこれを埋めると、周囲から拍手が沸き起こりました。
左図中央で棒のようなものを持っている黒服紳士がマルコーニ氏です。これは記念植樹を模して、接地型垂直アンテナを建てたもの(植柱?)で、学生たちのアイデアによる記念イベントでした。
2007年に上海交通大学開校111周年記念事業の一環とし、この"馬可尼銅柱"(マルコーニ記念柱、https://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%A9%AC%E5%8F%AF%E5%B0%BC%E9%93%9C%E6%9F%B1)が修復・整備されました。しかし今や、この奇妙な形のモニュメントの意味を知る学生は少ないそうです。この日はまだ全快とはいえなかったマルコーニ氏ですが、交通大学での歓迎行事にすこぶるご機嫌だったことでしょう。
1933年12月9日(土曜)
12月9日午前は静養し、15時から上海イタリア海軍主催の歓迎茶会に出ました。この時、停泊中だったイタリア海軍の巡洋艦クアルト(Quarto)に乗船し、艦長と乗組員より大歓迎を受けました。
この日の夜は上海市の呉鉄城 [ご、てつじょう] 市長がホスト役となり、孫科 [そん、か] 立法院長、宋子文 [そう、しぶん] 元財政部長、それに上海に領事館を置く各国の外交官、上海経済界の要人、著名学会関係者による、マルコーニ夫妻をもてなす歓迎ディナーパーティーが上海市のゲストハウスで開かれました。これは総勢300名という大規模な歓迎会となりました。
1933年12月10日(日曜)
翌10日にはマルコーニ氏が上海の政財界要人および上海の外交官をホテルに招待して、お礼の会を催しています。
1933年12月11日(月曜)
12月11日、マルコーニ氏ら一行に中華民国交通部(郵政省)の顔任光 [がん、にんこう] 電政司長が同行し、上海郊外にある真茹(しんにょ)国際無電台へ向かいました。そして一行を出迎えた温敏慶 [おん、びんけい] 無電台長の案内で、ここで稼働しているマルコーニ社製の20kWの短波送信機2台、短波受信機4台ほか、各種無線設備を興味深く見学しています。この見学会はマルコーニ氏が中国訪問で最も楽しみにしていた行事のひとつで、当初12月9日に予定されていましたが、氏が体調を崩して上海に到着されたため、この日に延期されていました。
中華民国観光の実質的な最終日となるこの日は、結構な過密スケジュールとなりました。真如国際無電台の見学が終わると上海市内に戻り、イタリア領事館でボスカレッリ公使が主催する送別昼食会に出席したあと、ホテルの自室で帰国の準備です。
その夜は宿泊しているキャセイ・ホテルで、上海マルコーニ社のW. J. Richards社長が主催するカクテルパーティーがあり、それが終わるや、ガーデン・ブリッジにある古色蒼然たる趣のアスター・ハウス・ホテル(Astor House Hotel)へ車を飛ばしました。
20時15分、アスター・ハウス・ホテルに到着すると環太平洋協会(Pan Pacific Association)による送別ディナーパーティーが開幕しました。中国政府関係者や各国の駐上海の外交官、駐上海のイタリア海軍司令官、英国や米国の商工会会長、中国経済界要人など300名を超える人たちが集まり、マルコーニ夫妻との別れを惜しみました。まず中華民国財政部長(日本でいう財務大臣)であり、行政院の副院長でもある孔祥熙 [こう しょうき] 氏より偉大な発明家とイタリア国を称賛する挨拶があり、それにマルコーニ氏、そしてボスカレッリ公使の挨拶が続きました。
いよいよ東洋ツアーも終わりと云うこともあってか(?)、マルコーニ氏のスピーチはいつにも増して長くなったそうです。その様子は地元ラジオ局により生中継されました。
『真如国際無電台を訪問し、次いでキャセイホテルで催された上海マルコーニ無電会社支配人のリチャード氏司会のコクテールパーチに臨み、夜はアスターハウスで開かれた汎太平洋協会の歓迎会に出席した。』("無電王けふ離滬" 『上海日日新聞』1933.12.13 夕p1)
1933年12月12日(火曜)
ついに帰国する日が来ました。上海滞在中に御世話になった関係者たちをもてなすために、イタリア公使館を借りて最後の昼食会を開きました。
そして散会。港までボスカレッリ公使やイタリア海軍司令官、イタリア商工会議所長らに送ってもらい、イタリアン・ラインの汽船コンテ・ロッソ号(S.S. Conte Rosso、呼出符号:IBEJ)に乗船したのは15時頃でした。
埠頭には上海に住む民間イタリア人らも見送りに集まっていました。15:30、出帆です。マルコーニ夫妻は皆に大きく手を振り、別れを惜しみながら帰国の途につきました。
ちなみにこの12月12日は、32年前の1901年12月12日に中波の電波で大西洋横断試験に成功した日です。もしかして最後の昼食会などでこの件が話題になったのではないかと、当時の中国新聞の記事を探してみたのですが、そのような発言を(私は)見つけられませんでした。この頃のマルコーニ氏は "曲がる超短波"と、"テレビジョン"のことしか興味がなかったように思います。
【参考】コンテロッサ号の出航を12月12日、早朝02:30(ロイター伝では"at 3 am, Tuesday," )とする記事もあり、継続調査とします。
1933年12月14日(木曜)
コンテ・ロッサ号が最初の寄港地である香港(英国租借地)に到着したのは、12月14日の13時でした。本来なら午前に到着し、ウィリアム・ピール(Sir William Peel)香港総督の公邸で昼食会が予定されていたのですが、あいにくの延着で中止となりました。
港ではアルベルト・ビアンコーニ (Alberto Bianconi)伊国総領事、香港電波関係者、新聞記者、イタリア系香港人らが出迎え、接舷されたコンテ・ロッサ号に乗り込みました。記者たちはラウンジでイタリア人客たちと雑談中のマルコーニ夫妻を見つけ近付きました。そしてインタビューを求めると、「今はくつろいでいるので仕事の話はしたくない」としながらも、短く応じてくれました。
『He had pleasant time in shanghai and his stay in Peiping too, was extremely enjoyable. The Marchese remarked that he was sorry he could not stay longer in the Colony, but he was already very much impressed with our harbor. Hong Kong, the Marchese said, made a very pretty picture from the deck as the a liner steamed into port. (上海や北平はとても楽しかった。香港にもっと長く滞在したいができないのが残念です。香港の港に入った時のデッキからの景色は素晴らしかった。)』("Our Celebrate Visitor", Hong Kong Daily Press, Dec.15, 1933, p8 )
下船するとすぐに伊国総領事が手配した自動車で市内観光を始まりました。夫妻一行は香港仔(Aberdeen) にあるビクトリア女王像(the bronze statue of Queen Victoria)や繁華街を見学したあと、16時半に浅水湾大酒店(Repulse Bay Hotel)に到着し、イタリア系コミュニティーによる歓迎茶会に出席しました。
さらにそのあと、ウィリアム・ピール香港総督がマルコーニ夫妻を公邸に招き(中止になった昼食会に代えて)歓迎お茶会を催し、夫妻はその日の晩にコンテ・ロッサ号で香港を出港しました。
マルコーニ夫妻が香港を出ると、シンガポールの日系新聞『南洋日日新聞』が18日にシンガポールを訪れることを報じました。
『十八日午前(シンガポールに)入港の伊太利汽船で、日本支那を巡遊したマルコニ―夫妻が寄港し同日午後五時出帆する。』("マルコニー候十八日当地寄港", 『南洋日日新聞』, Dec.16, 1933, p3)
1933年12月18日(月曜)
コンテ・ロッサ号は予定より1時間はやい午前7時、英領シンガポール(海峡植民地)に到着しました。
『昨日午前七時当地寄港の伊太利郵船コンテロツソ号には米国より日本及び満支の観光をなし帰国の途にあるマルコニー公夫妻および前中国次長にして新駐独公使劉崇傑氏及家族並に・・・(略)・・・』 ("無電王や劉公使ら寄港", 『新嘉坡日報』, 1933年12月19日, p2)
マルケシ(Marchesi)伊国総領事、ブルネッリ司祭をはじめ多くの現地イタリア系著名人らが出迎えに来ました。ラッフルズホテル(Raffles Hotel)で休憩後、夫妻らを乗せた自動車は市内の名所を巡りました。マルケシ総領事が同行しガイド役を務めたようです。
総督官邸ではカールデコット(Caldecott )海峡植民地総督次官とシンガポール自治政府による昼食会に出席したマルコーニ氏は、この席上で"超短波の時代" や "テレビジョン" について語っています。またシンガポール大学で講演を行い、その日の夕方17時に出港しました。
地元紙『マラヤ・トリビューン』の記者がマルコーニ氏に「テレビがラジオを以上に普及するか?」と訪ね、マルコーニ氏は「そうは思わない。"映像"の価値は"言葉"を超えることはないだろう。」と答えています。
『Asked whether he thought television would ever become as popular as radio, the Marchese said that he did not think so. He agreed that it was very pleasant to be able to receive pictures and to transmit them but he did not think that the value of a picture would ever be as great as that of the spoken word. The Press, he agreed, often required pictures of world events, but pictures were of no use without the captions beneath them. Television could never be sacrificed to the study of wireless in its original form.』 ("Marconi in Singapore", Malaya Tribune, Dec.18,1933, p10)
1930年頃までは(弁士が映像に合わせて語る)無声映画時代でしたので、「テレビ=映像、ラジオ=言葉」というイメージでの質問と、答えだったのでしょうか?
でものちに実用化したテレビ放送は有声の映画(トーキー)と同じ「映像+言葉+文字」ですから、このマルコーニ氏の返答に、私はちょっと違和感を覚えます。
1933年12月22日(金曜)
12月22日、英領セイロン(現:スリランカ民主社会主義共和国)のコロンボに寄港し、セイロン総督による歓迎会に招かました。
そのあとマルコーニ夫妻は古都キャンディ(Kandy)に向かい、お釈迦様の歯が祀られているとされる「仏歯寺」(ダラダー・マーリガーワ寺院)と、四千種類以上の植物が集められたペラデニア植物園を観光しています。帰路にはアダムス・ピーク高原地帯に立寄って、海に沈む壮大な夕日を鑑賞しました。
また、『エレットラ号による超短波の試験をやり残しているので帰国しないといけないが、オーストラリアに立寄れなかったのがとても残念である。』とマルコーニ氏が語ったことを、Sunday Mail("Marconi's Hope - Visit to Australia", Dec.24, 1933, p3)、Tweed Daily("Visit Australia - Marconi is Hopeful" Dec.26,1933, p4)、The New castle Sun("Marconi and Australia", Dec.26, 1933, p1)、Townsville Daily Bulliietin("Signor Marconi - Hope to see Australia", Dec.26, 1933, p5)、Daily Mercury("Marconi's Hope - Visit to Australia", Dec.28,1933, p6)など、オーストラリアの新聞各紙がこぞって報じています。
「超短波の実験をやり残している」というマルコーニ氏の発言に、すぐさま記者が『次は(超短波による)爆撃機の撃墜でしょ。』と意地悪な質問をしましたが、『そんな方法を私は知らないし、(超短波は)人類へ貢献するだろう。』と答えています。
さてインド洋上を航海中のコンテ・ロッソ号では、船長主催のクリスマス・パーティーが催され、マルコーニ夫妻も大いに楽しまれたようです。
1933年12月26日(火曜)
12月26日の午前、コンテ・ロッソ号は英領インドのボンベイ(現:ムンバイ)の港に到着し、自動車に乗り換えて観光に出かけました。一般には非公開だったゾロアスター教の鳥葬施設「沈黙の塔(Towers of Silence)」の見学を特別に許可されました。
その後マルコーニ夫妻は、インドで盛んだったポロ競技を観戦しています。
なお数時間の滞在でしたので、AP通信社による到着直前のインタビューでは、『初めてのインド訪問だが滞在時間を延ばせないのが残念だ。来年、もう一度インドを訪問したい。』とマルコーニ氏は語っています。
そしてボンベイを出たあとは、英領のアデンに立ち寄りながら、アラビア半島の南端(現:イエメン)で英国海軍基地のあるアデン港へ向かいました(アデン港に到着した日を調査しましたが、私には分かりませんでした)。
【参考】このように戦前は、上海を出たあと、英国領とその租借地に寄港するだけで地中海まで行くことが出来ました。
1934年1月1日(月曜)
コンテ・ロッソ号はアデンから紅海に入り、1月1日にようやくスエズ運河入口のスエズに到着しました。ここでも船長主催のニューイヤー・パーティーが開催されたようです。
そして運河を半日かけて進み、エジプト地中海側のポートサイド港を目指しました。なお航海中、コンテ・ロッソ呼出符号IBEJの短波無線電話でイタリアに残してきた娘エレットラとも通話したそうです。
1934年(昭和9年)1月4日、マルコーニ夫妻を乗せたコンテ・ロッソ号はイタリア南部のブリンディジ港(Brindisi)に到着しました。 ブリンディは長靴の形をしたイタリア半島のヒールにあたります。
なおコンテ・ロッソ号はこのあとイタリア北部のヴェネツィア経由でトリエステ(終点)へ向いますが、夫妻一行はここで下船しました。
そしてマルコーニ氏は直ちにムッソリーニ首相に「帰国挨拶」の電報を打っています。
1月5日の(イタリア最大の)新聞La Stampaがブリンディジでの地元住民の出迎えの様子や、マルコーニ夫妻が各国で受けた歓迎ぶりなどを紹介しています。("Marconi reduce dal suo viaggio parla dell'ammirazione del mondo l'Italia", La Stampa, Jan.5, 1934, p5)
シンガポールの日系新聞『新嘉坡日報』にもマルコーニ夫妻の帰国記事が見つかりました。
『極東旅行から帰国したマルコニー候は帰還早々の会見談中に支那国民の知的覚醒の顕著なるを称賛し、北平南京及上海では夫々大決意を以て重大諸問題に面して居ると語り、且つ日本官民も熱誠なる歓迎をなし天皇陛下より特に旭日大綬章を賜った旨を附言した。』("無電王帰伊:支那の覚醒を語る", 『新嘉坡日報』, Jan.9, 1933, p2)
こうして旅を終えてから4カ月近く過ぎた1934年4月25日、マルコーニ氏の満60歳誕生日を祝う祝宴会がイタリアのローマで開催されました。その会場でサンフランシスコのロッシ市長代行のトリンチエリ教父より「サン・フランシスコ名誉市民」の贈呈式が行われました。サンフランシスコの日系紙『新世界日日新聞』が伝えています。
『(ローマ二十六日)無電王マルコニ侯は二十五日六十回の誕生日を迎え、伊太利(イタリア)アカデミーで盛大な祝宴会を開いたが、席上昨年秋来桑(サンフランシスコ)の際決定した桑港(サンフランシスコ)の名誉公民権の贈呈式がロツシ市長を代表してトリチエリ教父の手によつて行われた。・・・(略)・・・』("無電王マルコニ侯:再び来桑か:桑港公民権贈呈式にて", 『新世界日日新聞』, 1934年4月27日, P3)
また米国でも報じられました。
「マルコーニ、60歳の誕生日を迎える:サンフランシスコ市民権を授与され、発明家として世界から賞賛される」("Marconi honored on 60th birthday : San Francisco's Citizenship is bestowed on him as world acclaims inventor", New York Times, Apr.26, 1934)
以上、本ページでご紹介したとおり、マルコーニ夫妻は「世界一周旅行の途中で日本に立ち寄った」というよりも、米西海岸を観光していたときに、突然日本へ行ってみたくなり、その結果として世界一周旅行になったというのが真相です。
日本観光を共にした大倉商事の高橋氏はマルコーニ氏の発明家としての人柄を次のように語っています。
『一体侯爵は物に偏せぬという性質の方であるが、それにも似ず事ひとたび専門的の話となると、その態度は一変してたちまち別人の如く、眉を上げ膝を乗り出してほとんど我を忘れるという熱心振りである。そしてこの時の候は、例えば小児の物をねだるが如くに最後まで理をつめねばやまぬというの有様で、遺憾なく発明家たるの本能を発揮されるのであるが、しかもその談話たるやいたずらに理論に走るが如きたぐいではなく、徹頭徹尾実際に則したものでないと承知されない。この点確かに世の学者や技術家と異なるところで、これあればこそ彼の空中電波による無線電信の発受信を発明し、またこれに伴う例の有名なるビーム式送受信法あるいは最近のマイクロウエイブ等の装置を完成されたのである。・・・(略)・・・
侯爵今回の来朝はすこぶる偶然であり、かつ滞在期日の如きも誠に短日子であったにも拘わらず日本の科学文明が今日の如く長足の発達を遂げ、なお将来もたわみなく進歩すべき情態であることを目撃し、一驚と共に衷心より我国の前途を祝福された・・・(略)・・・』 (高橋是彰, "マルコニー候を語る", 『ワット』, 1934.1, ワット社, p17)