コンラッド

フランク・コンラッド(Frank Conrad)が果たした功績。それはラジオ局KDKAにより短波の電離層反射を実用化(1923年11月)したことです。"ラジオ放送の歴史"を絡めながら短波がラジオ放送用として実用化されていく様子をご紹介します。


ウェスティングハウス社(WH)の技術者コンラッドは1916年に個人的な実験局8XKを開局しましたが、まもなくアメリカの第一次世界大戦への参戦で中断しました。終戦後の1920年春、コンラッドは中波の1,200kHzで放送のようなものを始めますが、これが会社の副社長の目にとまり、1920年11月2日、ウェスティングハウス社は世界初の商業ラジオ放送局といわれるKDKAを開局しました。

翌1921年1月2日よりコンラッドは教会の日曜礼拝をラジオKDKAで中継放送する「教会サービス」を始めました。教会からスタジオまで有線で結んだ中継でした。1922年3月、第一回国内無線会議が開かれ、短波(2.0-3.0MHz)帯を放送業務に分配することが採択されました。そこで教会からの有線中継を短波の無線中継にしてみたところ大変良好でした。コンラッドは自社系列局への番組配信に有線通信会社を利用していましたが、短波を使えばそのケーブル使用料を回避出来るのではと考えました。

1922年6月、ウェスティングハウス社として短波中継の研究に正式着手し、1922年10月27日より短波の試験波の発射が始まりました。そして5箇月ほどの試験を終えて、1923年3月4日より。クリーブランドの自社系列ラジオ局KDPMへの短波中継の実用化試験がスタートしました(この3月4日を短波実用化の日とする文献もあります)。

1923年9月、ラジオKDKAの短波の無線電話(波長94m, 周波数3.2MHz)が大西洋を越えてイギリスで受信されました。しかし短波による安定した遠距離中継は困難を極め、改良に改良が重ねられました。

1923年11月22日、ヘイスティングスに開局した自社系列ラジオ局KFKXへの電離層反射を使った短波による番組中継がはじまりました。これが短波の実用化第一号だといわれています。12月に入り、ようやく安定的に番組中継を行えるめどがたち、1923年12月29日にイギリスBBC系列の各局への短波中継放送を成功させました。そして短波史上に残る、1923年の大晦日から元旦に掛けての「新春特別番組」を米英両国で同時放送したのです。

1923年(大正12年)は短波の利用が一気に進んだ年です。それを下図にまとめました。図中の赤字がコンラッドに関するものです。(青:マルコーニの短波、緑:アマチュア無線家の短波)

ラジオKDKAといえば中波商業ラジオの第一号(1920年11月)という話題ばかりが注目されますが、短波中継の実用化という面でも世界初でした。1924年には南米アルゼンチンや南アフリカへ、1925年に入るとオーストラリアやドイツへの短波中継にも成功しました。これらラジオKDKAの短波実用化を推進したのがコンラッドでした。

国際短波放送の始まりは1927年と言われています。しかし放送番組の短波中継はコンラッドにより1923年に実用化され、年末には国際短波中継にも成功しました。先方の地元ラジオ局が短波で受けて、それを中波に換えて近隣住民に放送する方法がとられました。家庭に短波受信機がない時代ですから、当然と言えば当然のやり方ですね。その代わり廉価版の鉱石ラジオでも遥か彼方の外国放送が聴けるという環境を生み出しました。

いつの間にか放送史から忘れられてしまい、今や注目されることのない短波中継ですが、外国のリスナーを沸かせた国際短波放送(1927年~)の前史ともいえるものが、1923-1926年に間違いなく存在したのです。そしてこれらの短波実用化の功績が認められたコンラッドは、エジソン・メダル(1930年度)を受賞しました。

1925年(大正14年)3月22日、日本でもラジオ放送(JOAK東京放送局)が始まりました。逓信省は将来の放送中継網を想定し、同年5月上旬に逓信官吏練習所無線実験室からJ1PP(波長20m, 周波数15MHz)で短波無線電話の研究をスタートさせました。また同年11月には電気試験所平磯分室でもJHBB(波長25m, 周波数12MHz)による無線電話の試験をはじめました。J1PPとJHBBはコンラッドが実用化したラジオKDKAの短波中継を目指したもので、東京放送局JOAKの番組音声を短波でサイマル送信する試験を繰り返したのです。

1926年(大正15年)1月にはJOAK自身にも中継試験のための短波実験局が認可されました。短波許可が一次棚上げにされていたこの時期に許可を得ることができたのは、KDKAの短波中継実用化が軍部の電波関係者にも良く知られており、島国である我国では放送番組を無線中継する必要性が高いことを理解していたからでしょう。

なお本ページの後半ではジェネラルエレクトリック社(GE)の短波中継、RCA社の短波による公衆通信への取組みと、アメリカ以外の国も含めた短波黎明期の様子にも簡単に触れておきました。どうぞご覧ください。

1) アーリントン海軍局の報時電波を聞く [WH編]

フランク・コンラッド(Frank Conrad)氏は16才(1890年)よりウェスティングハウス社で働きはじめました。

1912年(大正元年)10月28日、米海軍アーリントン局NAAの報時無線(タイムシグナル)の試験発射がはじまりました。コンラッドは自分の時計を合わせるためにさっそく受信機を組み立てましたが、これがきっかけとなり1915年頃にはすっかり無線の魅力に取り付かれていました。左図は1920年頃のアーリントンNAAです。

そして後述する1916年(大正5年)より実験局の免許を得て長波と中波の送信を試すようになります。

『同博士(コンラッド氏)の無線研究は一九一二年頃からのことであるが、研究の動機は、氏の時計を合わせるため、アーリントンに在るアメリカ海軍無線局の時報聴取を意図したことであった。氏はそのため、極めて簡易な小型受信機を組立てたが、他日、氏をして無線電話送信機の研究に没頭させるに至ったのは、全くこれが契機であった。

氏はこうした研究の結果、まだ不充分であったが、ともかくも送信機を完成し、いよいよこれを実験する段取りとなったのである。 (ウェスティングハウス副社長の)デヴィス氏の談話の通り、ウェスティングハウス会社の工場内とコンラッド氏宅内自動車小屋の階上に送受信局を置いたのはこの時のことであった。』 (『日本放送史/1951年版』, 日本放送協会, pp14-15)

2) コンラッドが8XKを開設して通信テスト (1916年7月) [WH編]

1914年(大正3年)夏に欧州ではじまった第一世界大戦の戦地向け軍用無線機の特需で米国のウェスティングハウス社はおおいに賑わっていました。

1916年(大正5年)7月、無線機の製造だけでなく国際通信事業への参入を目論む同社は、東ピッツバーグの工場と同社技術者フランク・コンラッド氏の自宅ガレージに実験局8XKを開設しました。そして新しい無線電信と無線電話の送信機や受信機の通信試験を始めました。

商務省電波局のRadio Service Bulletin(Aug.1,1916, No.20)の告示によれば、実験局8XKに許可されたのは中波450m(670kHz)と長波2000m(150kHz)、そしてVariable(可変)となっています(左図)。

実際にどのあたりの波長が試されたかについては不明ですが、少なくとも中波670kHzと長波150kHzを使用したのは間違いないでしょう。

【参考1】アメリカの参戦は遅く、1917年4月になってからです。 

【参考2】 実験局8XKの免許上の名義人はウェスティングハウス社ではなくフランク・コンラッド氏、個人でした。当時は会社の業務に使うものであっても、免許は個人が取るという事はよくあったようです。

【参考3】 商務省は国際符字の適用外である無線局の呼出符号「1数字+2文字」を、Radio District Numbers(俗にいうエリア番号)に続く文字で、無線局の種別をAA-WZ [アマチュア局]、XA-XZ [実験局]、YA-YZ [無線訓練学校実験局]、ZA-ZZ [特別アマチュア局]と区分していました。上表にも特別陸上局(Special Land Station)とあるとおり、XA-ZZの局は、アマチュア局(AA-WZ)とは扱いが異なります。これについては後述します。  

1916-18年ごろ、ウェスティングハウス社は政府より陸軍無線機の性能を向上させる仕事を請負っていました。

左図はウィルキンスバーグ(Wilkinsburg)にあるフランク・コンラッド氏の自宅です。手前にあるのが無線室として使ったガレージです。

日本放送史1951年版から引用します。

『・・・(略)・・・同社副社長デヴィス氏は、この当時の事情について、

"第一次世界大戦の勃発によって、各国政府は軍事通信上の必要から争って優秀な生産設備を有する大電気会社の援助を求めたのであるが、政府当局によって求められた援助の一つは無線電信電話送受信機の改善発達を図ることであった。しかし、これらの需要に応じるためには、まず送受信所を設ける必要がある。そこでわが社は戦争中政府の特許を受けて、ペンシルバニアのイースト・ピッツバーグの本社工場内とそこから四、五マイル離れたピッツバーグのフランク・コンラッド博士宅に送受信所を設けたのである。このコンラッド博士は当社の技術者としてこの研究に専念していた人であった。わが社は、莫大な資金を投じてこれらの設備を行い、多数のエキスパートを動員して、この困難な仕事を遂行してきたが、戦争終了後は特許などの関係もあって、これ以上この仕事を継続することが出来なくなった。"

と述べ、更に国際無線通信事業への進出を断念して、(放送事業へ)再転向を企図するに至った一面について次のように語っている。

"わが社は国際無線電信会社の利権を買収したが、当時数ヶ所に船舶向の海岸局を所有していたので、この海岸局と船舶との間にニュース放送を実施することを思いついたのである。しかしこの企図は船会社の賛同を得ることが出来なかったため、この新企画はここでまたもや一頓挫をきたしたが、如何にもして新事業に着手したいという熱望は、余(私)等の心中に絶えずこびりついていた。"

同社はこのように新事業への再転換に焦慮し、その打開のために不断の努力を傾倒していたのであったが、偶然にもコンラッド博士によって同社のために一大光明が投げ与えられた。(日本放送協会編, 『日本放送史/1951年版』, 日本放送協会, p14)

コンラッド氏は米軍の送信機SCR-69と受信機SCR-70を開発し、これらは欧州戦線で使用され、その性能の優秀さが高く評価されました。

しかし1918年(大正7年)11月11日、第一次世界大戦が終結して、軍用無線機の需要がなくなり、ウェスティングハウス社の通信事業は窮地に立たされたのです。コンラッド氏は電気スイッチの設計に、またコンラッド氏の助手だったリトル氏(Donald G. Little)は避雷器の設計に廻されるなど、通信関係の技術者達には別の仕事が与えられました。会社が通信分野から事業撤退することは避けられない状況でした。

3) コンラッドが再び実験局8XKを開局 (1920年春) [WH編]

1919年(大正8年)10月になり、ようやく民間無線の戦時制限が解かれました。そして1920年(大正9年)4月、コンラッド氏は再び実験局8XKの許可を受けました。

1920年5月1日の商務省電波局のRadio Service Bulletin(May.1,1920, No.37)で告示されています(左図)。

会社では無線の仕事がなくなり、余暇の時間を使った個人的な実験を自宅ガレージで始めたのです。

【参考】 1919年10月以降の地元新聞Pittsburgh Gazette Timesの記事を読んだところでは免許取得前に運用を再開したかに思えます。また一書によると8XKが免許されたのは1920年1月21日で、RSBの告示が5月まで遅れたのだとする説もあります。  

この時、コンラッド氏はアマチュア局開設の道を選んでいません。当時の規則ではアマチュア局(一般アマチュア局および制限アマチュア局)は1,500kHzより低い周波数(200mより長い波長)を使わない事と、送信機入力1kWを越えない事と定められていましたので、それらの制限を嫌ったものと推察します。

【参考】 アマチュアは1500kHz以上の周波数を自由に使えたのではなく、使いたい周波数を申請し許可を受ける方式で、もっとも低い1,500kHzの一波に集中しました。

そもそも無線局の免許上でも、対手局(いわゆる「通信の相手方」)の縛りがない時代ですから、もし実験局がアマチュア局と交信しても商務省から何のおとがめもありません。またアマチュア側も実験局(Xコール)、無線訓練学校局(Yコール)、Special Amateur局(Zコール)を仲間として受け入れる風土があり、その精神は後年になって官設の岩槻無線J1AAがアマチュア団体ARRLの無線コンテストに参加したり、J1AAのオペレーターであり逓信官吏である河原氏が米国西海岸のアマチュアを訪問した際には、同じ短波仲間として大歓迎を受けていることからも判ります。

4) 実験局(Xコール)とアマチュア局(A-Wコール)の違い (1920年春) [WH編]

ところで何十年もの昔より、コンラッド氏の8XKをアマチュア局だと誤認している文献やWebサイトが本家の米国でも後を絶ちません。8XKは実験局であって、アマチュア局ではありません。まずこの事を米国の無線規則に従って説明しておきます。

1912年8月13日、米国で無線通信取締法 Radio Act of 1912 (Public Law 264, 62nd Congress, "An Act to Regulate Radio-communication")が成立し、同年12月13日に施行されました。法に基づく具体的な施行規則は、1912年9月28日に無線通信施行規則(Regulations Governing Radio Communication, Sep. 28, 1912)が制定されました。

下図は軽微な改正があった1913年2月20日版(Regulations Governing Radio Communication, Feb. 20, 1913)です。

下図右側の上「Part1. Licenses - Apparatus 」をご覧ください。まず初めに無線局の種別を定義しました。陸上局で7種類あります。1は船舶との間で公衆電報を交わす海岸局。2はその他の商業局。3は実験局でコンラッド氏の8XKがこれです。4は無線訓練学校局。5は一般アマチュア局。6はSpecial Amateur局。7は制限アマチュア局で、軍用局周辺に開設されるアマチュア局のことです。

このうち5と7を合せて大括りに「アマチュア局」3,4,6を合せて「特別陸上局(Special Land Stations)」に分類されます。

これはコールサイン上でも明確に分けられ、「アマチュア局」にはAA-WZ(表中5)を、「特別陸上局」にはXA-ZZが指定されました。この「陸上特別局」はさらに"XA-XZ"を実験局(表中3)に、"YA-YZ"を無線訓練学校局(表中4)に、"ZA-ZZ"をSpecial Amateur局(表中6)に細分しました。

ここで注意を要するのはZA-ZZのSpecial Amateur局(特別アマチュア局)です。アマチュアという言葉を使っていますが、アマチュア局ではなく特別陸上局に分類される"別モノ"です

上図右側の下が「Part2 - License」で、無線局のオペレーター資格(Operators' license:無線従事者資格)を定めました。

Ⅰ.商業用(Commercial)、Ⅱ.アマチュア(Amateur)、Ⅲ.技術(Technical)の分類があり、コンラッド氏の実験局8XKの運用には「Ⅲ.技術」のExperimental and instruction grade の資格が必要でした。

実験局は商業グレードの資格があれば運用できましたが、目的とする実験内容が局によって多種多様なため個別審査によるものとされ、公衆通信(電報)に関わらない実験については、商業グレード資格がなくても、法規の知識と遭難信号SOSおよび "Keep-Out"信号のモールスを読み取る能力が無線検定官に認定されれば資格証が発給されました。

なおアマチュア局には毎分5ワード(25字)の試験が課せられます(第二級アマチュア資格は試験場から遠隔地に住む人が、試験に合格するまでの間、技能証明書を提出することで暫定的に運用を認められる制度)。

【参考】 商務省は民間無線への管理権限を与えられただけなので、海軍局や陸軍局の無線局は商務省の無線局統計には含まれません。

下図は商務省の『年次報告統計』(1913年版)からの抜粋で、これは電波の国家管理の初年度末に当たる1913年6月30日集計値です。これが米国の国家ライセンス第一期生といえるでしょう。

1.が無線局免許数でアマチュア局は1,312局で、特別陸上局(Special Land)はわずか17局でした。Special Amateur(ZA-ZZ)は、アマチュア局ではなく特別陸上局に計上されます。

2.が無線従事者で一アマ1,075人、二アマ766人ですから、資格者の7割が開局(1,312局)したことがわかります。Experiment and instruction級を取ったのは8名だけでした。

5) コンラッドが1200kHzで無線電話の定時試験 (1920年春) [WH編]

1920年(大正9年)春、コンラッド氏は中波1,200kHzの100W無線電話送信機を組立てて、500km離れたボストンに住む実験局仲間、James C. Ramsey氏に8XKの無線電話のモニターを依頼しました。

【参考】 大阪-福岡が約480km。名古屋-仙台が約490km。 東京-岡山が約540km。

当時、商務省標準局のフェージング現象の観測調査にアマチュア団体ARRLが協力していのですが、コンラッド氏ら実験局のグループも観測に協力したものだったようです。

これはあらかじめ定めた時刻に送話を開始する、いわゆる「スケジュール送信」であり、「放送的なもの」といえます。しかし夏季は信号が弱く、空電妨害もあり、非常に不確実な伝送となり実験を断念することもあったと、コンラッド氏は論文"Short-Wave Radio Broadcasting"(無線技術者学会IRE, Dec. 1924)で報告しています。

この論文は1920年(大正9年)に行われた8XK時代の放送的な実験について、あくまで個人的な興味(for a hobby)として、ボストンのRamsey氏に向けて送られ、そして1200kHz付近の電波を使っていたことを知ることができる大変貴重な資料といえます。

During the year of 1920 the author, for a hobby, maintained a radio transmission schedule with Mr. J. C. Ramsey, of Boston, with the power then available, that is, about 100 watts in the antenna; communication was very uncertain during the summer months and, in fact, had to be abandoned during the particularly unfavorable periods owing to the reduction of the received signal and the increased interference from strays. The radio frequency employed in these transmissions was about 1,200 kilocycles (250 meters).  』 (Frank Conrad, "Short-Wave Radio Broadcasting", Proceedings of the Institute of Radio Engineers, Volume12 Issue6, Dec.1924, P723)

コンラッド氏はアマチュア無線家が使う周波数1500kHzのすぐ下の1200kHzで、「放送」の様な無線電話の試験を行っていたところ、アマチュアたちの間でこの電波が評判になりはじめました。

ちょうどアマチュア無線免許による「放送」行為が、米国アマチュア無線家の間で大流行する、少し前の出来事でした。アマチュア団体ARRLの機関誌QST(1920年9月号)の表紙には8XKの無線室の写真が使われ、その無線設備の紹介記事が掲載されました。向かって右側が50W管2本を使った無線電話用送信機です。プレート電圧は1000Vでした。

The Transmitting on our cover, comprises a radio telephone set, a spark set, and an I.C.W. set. The telephone set, at the right of the photograph uses two 50 watt power tubes, the plate circuit of which is supplied by a 1000 volt D.C. generator, a 5 watt tube being used to amplify the audio-frequency current delivered by telephone transmitter. This set gives an antenna current of 3 1/2 amperes, when connected for telephone operation, - one of the tubes operating as oscillator and one as modulator. ("8XK, PITTSBURGH, PA", QST, Sep.1920, ARRL, pp32-33)

左図[左]はコンラッド氏のガレージの隣に建てられた逆L型アンテナです。よく見ると低い位置に、同様にカウンターポイズが張られているのが分かります。この頃より、中波では接地するよりもカウンターポイズを使用するようになりました。

上図[右]はフェージング観測試験に用いたパラレル接続された発信部の回路図です。同調コイルからアンテナおよびカウンターポイズをタップダウンしています。

コンラッド氏は1923年(大正12年)3月にKDKA-KDPM間で短波中継の実用化試験を行った際のKDKAの短波アンテナにもこの形式のものを使いました。さらに1923年11月に開局したヘイスティングスKFKXの短波アンテナにも、このタイプを採用しています(但し半年後に、強風でも揺れない銅製パイプを使った垂直ダイポール型に置き換わりました)。

このようにQST誌で紹介され、コンラッド氏の8XKは全米のアマチュアに知られました。左図は8XKの無線室があったガレージを正面から撮ったものです。商業広告放送はこのガレージの二階で誕生しました。

日本放送史1951年版からの引用を続けます。

『・・・(略)・・・デヴィス氏は次のように述べている。

"戦争終了により、無線局に対する政府の禁令も解かれたのでコンラッド博士は更に実験研究の歩を進め、ついに博士の送信機によって一、二種のプログラムの放送が可能となった。当時の聴取者は極めて少数であったことは勿論であるが、プログラムも大部分はレコードで、その間、講話や、ベース・ボール、フット・ボールのスコアーなどが挿入される程度のものである。"

大戦終了後、素人無線局が再び解放され、コンラッド氏の無線局が8XKとして再許可を得たのは、一九二〇年四月のことであった。最初は言葉だけを放送していたが、その後はレコード音楽を加えるようになった。そして同年の夏頃になると、このレコード放送はアマチュア達の非常な興味を呼んで、いよいよその数を増し、「毎夕定刻に放送を希望する」という定時放送要望の書面や電話が多数寄せられるようになった。そこで、コンラッド氏は、毎週水曜と土曜の両日、午後七時半から二時間、主としてレコードによる定時放送を行うこととした。(日本放送協会編, 『日本放送史/1951年版』, 日本放送協会, p15)

6) 地元デパートが8XKの受信機を販売 (1920年9月) [WH編]

二人の息子達もアナウンサー役で「放送もどき」を手伝ってくれるようになりましたが、やがてコンラッド氏の手持ちレコードだけではすぐにネタが尽きてしまいました。

そこで地元のハミルトン音楽店(Hamilton's Music Store: 815 Liberty Avenue, Pittsburgh)にレコードの貸し出を打診してみたところ、「今お聴きになった曲は、ハミルトン音楽店の提供です。」とアナウンスする条件で合意できました。実際8XKで流された曲と、そうでない曲では明らかにレコードの売り上げに差が出たそうです。

しかしコンラッド氏は放送のためレコードを購入する資力に乏しかったので、蓄音器店にレコードの貸出方を要望したところ、蓄音器店はその店名の放送を条件として氏の申出を応諾した。そこで借受けたレコードを送出する際、その蓄音器店の名をアナウンスしたので、その店がにわかに繁昌したということである。後年放送事業の最も特色ある一経営形態として発達した、広告放送を中心とする、いわゆるアメリカンシステムが、コンラッド氏と蓄音器店との間のこのような些細な思いつきに端を発していたことはまことに興味深い。 (日本放送協会編, 『日本放送史/1951年版』, 日本放送協会, p15)

【参考】 これが広告放送ビジネスの原始型ですが、実際の広告放送はAT&Tが経営するニューヨークのラジオ局WEAFが1922年8月28日17:00-17:10の10分間を不動産会社のクイーンスボロー社(Queensboro Corporation)に100ドルで販売したことを嚆矢とします(なおCM料金を50ドルとするものや、17:15から放送とする文献もあります)。

『 (17:00からの)十分間は音楽を用いずに広告の文句をクイーンスボロー会社のブレイクウエルなる者が語りつづけたのである。その要旨は "米国の偉大な小説家ナザニール・ホーソンの没後五十八年になるが、彼の追憶の為にクイーンスボロー会社はホーソン・コートと名付けた高級アパートメントを静寂な環境を背景として作ったからこれを希望者の申込みに応じる。 紐育(ニューヨーク)の雑踏した不潔の空気から逃れてこの別天地に住むことは健康上からも理想的であり、地下鉄を利用すれば、僅か二十分で紐育の商業中心地に達することが出来るから便利である。" というのであった。(岡忠雄, 米国の放送無線電話企業, 1942, 通信調査会, p51)

ウェスティングハウス社に放送事業の起業を決断させたのは、「受信機を販売するための放送」で、そのきっかけとなった出来事を紹介します。

1920年(大正9年)9月29日、ピッツバーグ最大手のジョセフ・ホーン百貨店(Joseph Horne Co. department stores)が地元紙The Pittsburgh PressThe Pittsburgh Sunに持っていた広告ページ"Horne Daily News"に次のような売り出し広告を掲載しました。

Victrola(ビクター社が製造販売していた蓄音器のブランド名)の音楽が無線電話でオンエアーされ、無線実験に興味あるリスナー達が設置した受信機で聴かれています。 これはウイルキンズバーグのコンラッドさんが木曜の夜10時頃から20分間ほど、近隣の受信機所有者達に行っている無線コンサートで、Victrolaに無線電話送信機を付けてオーケストラ曲と、ひときわ高らかに響き渡るソプラノ独唱、それに若者向きのおしゃべりを定期放送しています。当店ではこれが聴ける、メーカー組立て済みの受信機を10ドルからの価格で展示販売しております。(西地下売り場)

【参考】 ビクトローラ蓄音器には多くの機種がありますが、実際にコンラッド氏が所有していた機種は不明です。ここでは1910-1921年に製造された Victrola 10型を参考までに掲示します。

さて実際の記事(原文)は以下の通りです。

Air Concert "Picked Up" By Radio Here 

Victrola music, played into the air over a wireless telephone, was "picked up" by listeners on the wireless receiving station which was recently installed here for patrons interested in wireless experiments. The concert was heard Thursday night about 10 o'clock and continued about 20 minutes. Two orchestra numbers, a soprano solo - which rang particularly high and clear through the air - and a juvenile "talking piece" constituted the program.

The music was from a Victrola pulled close to the transmitter of a wireless telephone in the home of Frank Conrad, Penn and Peebles Avenue, Wilkinsburg. Mr. Conrad is a wireless enthusiast and "puts on" the wireless concerts periodically for the entertainment of the many people in this district who have wireless sets.

Amateur Wireless Sets, made by the maker of the Set which is in operation in our store, are on sale here $10.00 up.

-West Basement (左図:The Pittsburgh Press, Sep.29,1920, p11)

これはジョセフ・ホーン百貨店がウェスティングハウス社ではない電気メーカーと、提携して売り出した受信機でした。

この新聞広告を見たウェスティングハウス社のデヴィス副社長は驚きました。もちろん副社長はコンラッド氏が自宅で「放送もどき」をやっているのは知っていましたが、その受信機を家庭相手に販売することなど誰も思ってもみなかったからです。そして皆が聴きたくなる放送を提供すれば大衆向け受信機がビジネスになることを直感したのです。それはちょうど、聴きたいレコードがあれば蓄音機が売れるのと同じ理屈でした。

デヴィス副社長はさっそくコンラッド氏ら元無線設計者達を会議に招集しました。もっと本式な無線電話送信機で、より娯楽性・情報性に富んだ放送サービスを一般大衆に提供すれば受信機が売れるのではないかと・・・。

この社内会議は「ラジオ協議会」と呼ばれ、出席者のひとりはデヴィス副社長が次のように述べたと語っています。

列席者の一人、サムエル・キントナー氏(S.M. Kintner, Manager of Research Department)はその会合の模様の大約を次のように伝えている。 "デヴィスは協議会の席上で ・・・(略)・・・ コンラッド氏の放送は当座限りのものかもしれないのに、百貨店がそれを聴くための受信機の売り出し広告をしている。それは広告するだけの充分な利益のあることを見込んだためである。とすると、本社(当社)定期放送を行った場合、その経費を、本社(当社)の受信機の販売利益や、広告費などによって賄えない理由はあるまいと語り、さらにハーディング氏対コックス氏の選挙戦の報告に間に合うように十一月二日までに放送局を開設できるかどうかを、余(私=キントナー)らにただした。これに対し一同はその可能なことを断言した。"(日本放送協会編, 『日本放送史/1951年版』, 日本放送協会, p16)

熱く放送事業を語るデヴィス副社長の言葉にコンラッド氏らは奮い立ちました。困難なミッションでしたが、ウェスティングハウスの無線技術陣は一丸となり、放送施設の建設にあたりました。

7) 初の商業ラジオ局 KDKAが開局 (1920年11月2日) [WH編]

コンラッド氏の実験からビジネス・ヒントを得たデヴィス副社長は放送を事業として発展させることを決心し、商務省と交渉の末、1920年(大正9年)11月2日に世界初の商業ラジオ放送局KDKAを開局しました。KDKAの波長は360m(周波数833kHz)として知られていますが、開局当初よりそうだったかについては諸説あるようです。たとえば放送開始より数日間のコールサインは8ZZで波長550m(周波数545kHz)を用い、コールサインKDKAとしては波長330m(909kHz)でスタートし、波長375m(800kHz)を経て、1921年秋に波長360m(833kHz)に落ち着いたともいわれています。

しかし政府の公式な記録としては、商務省電波局の1920年11月1日付けRadio Service Bulletin(Nov.1,1920, No.43)"New Stations"(p.2)に、波長500m(600kHz)と波長3,200m(93.75kHz)が告示されていますので(下図)、私は「KDKAは波長500m(600kHz)で開局した。」で良いのではないかと考えています。

工場の屋上に仮設小屋を建てて、ここに送信機と変調器を置いて、毎晩20:30-21:30の定期放送が始まり、ウェスティングハウス社は近隣の関係者に受信機を無料で配りラジオ放送のPRに努めました(それが次に紹介するRA/DA受信機です)。

デヴィス氏は放送事業の開始に最もふさわしい最初の華々しい番組として、一九二〇年十一月二日に行なわれる全国選挙戦の結果発表を目標として、放送施設はもとより聴取宣伝その他、内外万端の準備を整えた。同年十月二十七日、商務省から同社のピッツバーグ放送に対し、アメリカ最初の放送免許証が下附され、歴史的なKDKAのコールサインがこの局に冠せられた。放送局は同社工場の屋上の仮小屋に設けられ、ここに五十ワット放送機二台と、同容量の変調機四台が据え付けられた。・・・(略)・・・同局からの放送は、その後引続き毎夕午後八時半から九時半まで行なった。しかし当時は受信機を所持しているアマチュアだけが、この局の放送を利用するにとどまり、まだ一般人の関心を買うに至らない実情であった。そのため同社では自社製の受信機を職員やその友人達に分配して、ようやく最初の聴取団体を作り上げたものである。 (日本放送協会編, 『日本放送史/1951年版』, 日本放送協会, pp16-17)

8) WH社の受信機販売と、ハムによるアマチュア放送ブーム (1921年春) [WH編]

しかし新しい放送リスナーはあまり増えず、KDKAの話題を取上げてくれる無線雑誌もほとんどありませんでした。1921年(大正10年)に入るとウェスティングハウス社は受信機の販売を全米に拡大する方策をたてました。 下図はウェスティングハウス社がRadio News誌(1921年4月号)に出したラジオ受信機の広告です。

左が選局チューナー「品名:RA」で、右が真空管(三球)式の検波+オーディオ2段増幅ユニット「品名:DA」です(価格はどちらも$65)。両者を組み合わせると高級受信機になります。一般向けに市販されたラジオ放送用の受信機としてはこれが最初のものです。

チューナーRAはアマチュア無線用の波長200m(1500kHz)を含めた、波長700-180m(430-1670kHz)の広い範囲をカバーしました。まだラジオ放送が認知されていませんので、チューナー部と検波オーディオ部をセパレート式にして、アマチュア無線家の受信機にも活用しやすくしています。家庭用とアマチュア無線用の兼用にしないと、販売のめどが立たなかったのではないでしょうか(QST1921年4月号にも同じ広告を打った)。

しかし家庭用ラジオとしても、波長200mのアマチュア電波をカバーさせることには意味がありました。アマチュア無線界では1921年よりラジオ放送を行うのがブームとなり、旧来からのモールスによる「交信派」ハムと、無線電話を一方的送信する「放送派」ハムが同じ波長200m(1500kHz)で大混信を起こす事態に発展していました。

このアマチュア無線の免許による放送は "Citizen Radio" と呼ばれ、まだラジオ局が開局していない地区ではアマチュア無線家によるラジオ放送を聞くことができました。波長200m(1500kHz)で定時放送を行っていたミシガン州デトロイトのアマチュア局8MKなどが有名です(のちにラジオ局の免許を取り、コールサインWBLを経て、現在はWWJです)。

それまでアマチュア団体ARRLの機関紙「QST」の表紙に記されていた"Amateur Radio"の看板文字も、この時期は"Citizen Radio"に差し替えられたほどです(左図:左からQST1922年5月号, 7月号, 8月号, 1923年4月号)

「放送派」ハムが「交信派」ハムを凌ぐ勢力にまで成長し、表紙のイラストや写真も、ラジオ放送を意識したものに変貌しています。一番左の1922年5月号の表紙はニュース原稿を読み上げているかの絵ですね。

ところが1921年と1922年の規則改正で、放送に関するルールが整備されたため、アマチュア免許では放送することが出来なくなり ”Citizen Radio” ブームは終焉を迎えました

そのため多くのアマチュア無線家が正規のラジオ局のライセンスを得て(経営者や技術者として)転向し、放送創生期における業界の発展に貢献しました。そしてQST誌表紙の看板文字も元の"Amateur Radio"に戻りました。放送がアマチュア無線から分家したというのは本当です

1976年(昭和51年)に出版された「アマチュア無線のあゆみ:日本アマチュア無線連盟50年史」の冒頭は次のように始まります。

第一章 JARLの創立まで

1.1 はじめに

本書ではアマチュア無線を相互に通信を行うものと考える。したがって、一方的に放送するものは、その範囲に入れないことにする

これは1922年(大正11年)に(濱地氏に次いで)私設無線電話の実験免許を得た本堂平四郎氏のことを指していると想像できます1976年当時のアマチュア無線像を半世紀前までさかのぼって適用したものだといえます。しかし1922年の米国では「放送するアマチュア無線」が大流行し、ARRLのQST表紙の文字までもが上記の有様で、米国電波事情を熟知する日本の逓信省や海軍省では本堂氏をアマチュア局としていました。アマチュア無線のあゆみ:日本アマチュア無線連盟50年史の "第一章 JARLの創設まで" とは「JARLが創設された1926年より昔の話」であり、アマチュア無線家により "ラジオ放送もどき" が盛んに運用されていた時代です。ですのでこの第一章において放送をアマチュア無線の範疇から除外すると宣言するのは、いかがなものでしょうかそれは本堂平四郎氏を我国のアマチュア無線の歴史から除外する意図があるのでは?と感じざるを得ません。

【参考】 米国アマチュア局のコールサインは数字に続くAA-WZの2文字が商務省より指定されます。コンラッド氏の8XKはアマチュア局ではなく実験局です。また8ZZもアマチュア局ではなく"Special Amateur"局です(Special Amateur局は上級のアマチュア局のことではなく、特別陸上局に分類される"別モノ" で、開局申請様式もアマチュア用とは異なりました)。繰り返しになりますが、コンラッド氏は"Citizen Radio"家(アマチュア無線家)ではありません。彼は実験局8XKのステーション・オーナーです。

9) 劇場やスポーツ中継番組の開発と、廉価版受信機の投入 (1921年) [WH編]

ウェスティングハウス社は視聴者の興味を惹きつける番組開発を怠りませんでした。

ラジオ電波に初めて著名人の声が乗ったのは、1921年(大正10年)1月15日、ピッツバーグのデュケイン倶楽部(The Duquesne Club)で行われた晩餐会でのフーバー商務長官(Herbert Hoover、のちの第31代米大統領)の講演中継です。

1921年3月10日、ピッツバーグのデイビス劇場(The Davis Theater)からソプラノ歌手ルース・ロイ(Ruth Roye)の歌声を中継したのが、劇場中継の始まりです。またラジオ放送初のスポーツ中継は1921年4月11日にピッツバーグのモーター・スクエア・ガーデン(Motor Square Garden)で行われた「ジョニー・レイ(Johnny Ray)対ジョニー・ダンディー(Johnny Dundee)」のボクシングの試合でした。野球中継ですと1921年8月5日にピッツバーグのナショナル公園で行われた試合の実況放送が最初です。

ラジオ受信機の販売が思うように伸びないウェスティングハウス社は、これら番組の開発と並行して、放送局を増やすこと(放送エリアを広げること)と、家庭用受信機のラインナップの増強にも努めました。

1921年7月、ウェスティングハウス社は価格を$25に抑えた、廉価版家庭用ラジオ受信機REを発売しました(下図[左]の2つ)。受信範囲は波長500-190m(周波数600-1580kHz)です。従業員からRE型の商品名を募り、1402件の候補名の中から"Aeriola Junior"が選ばれました(さらに12月には同じ箱で上級モデルの"Aeriola Seniors"も出しています)。

下図[中央]は同じ月に発売された鉱石検波器"Crystal Detector"($5)です。チューナーRAにこの鉱石検波器を付ければヘッドフォーンで放送が聞けることをPRしました。また下図[右]はWireless Age誌1921年9月号に打たれた1ページ広告で、同社のラジオ受信機のラインナップが紹介されています。RC型というのはチューナーDAと検波増幅器DAの接続が苦手な人向けに、合体してあるものです($130)。

これが1921年秋における家庭用ラジオ受信機でしたが、木箱ケースのAeriolaシリーズが登場したことにより、どうやらセパレート式RA/DAや一体式RCはアマチュア無線家や上級マニア向けという位置付けになったようです。

ウェスティングハウス社は1921年9月19日、マサチューセッツ州スプリングフィールド(Springfield)で同社第二局となるWBZの定期放送を開始し、10月1日にニュージャージー州ニューアーク(Newark)WJZ、11月11日にイリノイ州シカゴ(Chicago)KYWでも定期放送をスタートさせました。

しかし自社系列四局(KDKA-WBZ-WJZ-KYW)間で番組を共有するためには、有線通信会社へ多額の回線使用料の支払いが生じます。これがラジオ局を経営する上でネックとなりました。

10) 時報サービスの開発と、週刊番組ガイドの創刊 (1921年) [WH編]

1921年(大正10年)12月末には週刊番組ガイドの元祖である"Radio Broadcasting News"の第一号を出しました(下図)。1922年(大正11年)の1月1日(日)から1月7日(土)までのKDKA, WBZ, WJZ, KYWの放送予定番組を紹介しています(創刊号は全4ページでした)。

このRadio Broadcasting News 創刊号を見ると、KDKAは21:30の番組終了後、21:55-22:00の5分間、海軍NAA(アーリントン)が発する長波のタイムシグナルをリスナーに提供しています(上図[右])。

KDKAはアーリントンNAAのタイムシグナルを受ける長波受信機を設置して、その電波を中波で再送信していました(KDKAによるタイムシグナルの再送信サービスがいつ始まったかは未調査ですが、1921年の早い時期ではないでしょうか)。ある意味で、これが初の中継放送といえるかもしれません。

図[左]の右壁(額の下)に並べられているのが1921年当時のKDKAに装備されていたアーリントンを受ける長波受信機です。

左図[右]はアメリカ無線協会WAOAの創設者ガーンズバック氏が発行していたRadio News1920年12月号)の表紙です。

長波受信機を聞きながら置き時計の針を合せていますが、窓の向こうには薄っすらとパリのエッフェル塔が見えます。

実際に自分の時計の時刻を合せるためにわざわざエッフェル塔無線局FLの受信機(長波)を用意した一般人が1920年当時のフランスにいたのかは知りませんが、狂いがちだった置時計や懐中時計の針を合わせたいという潜在需要は昔からあったはずです。

今では電波時計の普及やインターネットのNTPサーバーのお蔭で、私たちは「時刻合わせ」という行為を忘れてしまいました。しかし20年程前まで、私たちはテレビやラジオの時報、そして急ぐ時には電電公社の「117」番の有料サービスにより「正確な時」を得ていましたよね。つまり "時刻サービス" はお金になったのです。

KDKAは米海軍のタイムシグナルを家庭へ無料配信する放送付帯サービスを思い付いたのです。そして多くのリスナーから重宝がられました。これも放送普及の重要な「ウリ」になりました。

11) 教会サービスを開発 リスナーより想像以上の大きな反響が! (1921年) [WH編]

上記Radio Broadcasting News 創刊号の番組表(左図)によると、1922年1月1日(日)午前10:45からは地元First Presbyterian教会のアレクサンダー神父の礼拝中継です。

ちょうど日曜礼拝の中継番組が開始されてから1年が経ちましたが、今ではこれがKDKAの看板番組となり新規ラジオ・ユーザー獲得の原動力となっていました。その経緯を紹介します。

そもそも地元カルバリ教会(Calvary Episcopal Church)の聖歌隊に入っていたウェスティングハウス社のある技術者が、同教会のヴァンエッテン(E. J. VanEtten)牧師に礼拝中継番組の許可を相談しました。

進歩的な考えのヴァンエッテン牧師はこれを許し、1年前の1921年1月2日(日)にはじめてCalvary Episcopal 教会より礼拝中継が行われました。すると強い信仰心があっても、病気や種々の事情により日曜礼拝へ出向けない人達から想像以上の大きな反響があり、以後、礼拝タイム(毎週日曜朝)のレギュラー番組になりました。これは「教会サービス」と呼ばれ、後続のライバル放送局も続々とこれをマネしてリスナーを集めました。

On January 2, 1921, the daring experiment, was made of broadcasting the services of Calvary Episcopal Church. This was successful, and was so well received that it, became a regular feature. (H.P. Davis, The History of Broadcasting in the United States, 1928, Westinghouse Electric & Manufacturing Co., p12)

左図がコンラッド氏らが開発したポータブル型のマイクアンプ付き有線電話回線接続装置です。これを教会に設置(あるいは放送直前に持込み)しておき、毎週日曜日の午前に教会サービス放送を行いました。

教会と無線局(KDKA)との間に、特別の電話線を引いて、教会に四個のマイクロホン(送話器)を置いて大教主の説教とオルガン、鐘、合唱等を一九二一年正月二日から放送を開始した。この説教の無線放送ほど一般公衆の注意をひいたものはなかった。会社の無線局KDKA)には毎日多数の聴衆から称賛や礼状が束になって来た。全国の新聞紙は教会説教の無線放送の大成功を報じた。この種の試みとしては、この局が最初であり、また無線の将来に一大光明を与えた。 (伊藤賢治, 『無線の知識』, 1924, 無線実験社, pp81-82)

12) レコード演奏だけでなく、生演奏番組を導入 (1921年) [WH編]

音楽番組もレコード演奏ばかりだと"直接レコードを聴く方が音質が良い"とリスナーが離れてしまうため、ウェスティングハウス社従業員クラブの吹奏楽団(Westinghouse Band)によるスタジオ生演奏を織り交ぜる作戦に出ました。

『 (工場の)屋上の仮放送室は極めて手狭まであったので、イースト・ピッツバーグの公会堂の一室に移転した。しかしこのスタジオで吹奏楽を演奏してみると、天井や窓などにその楽音が反響して音に歪みが生じた。そこでやむなく楽団を屋外に出して演奏させたところ、意外にも好結果を得た。こうしたことから音響の再生を効果的にするためには、特別設計の演奏室を必要とすることがわかったが、それなら、どんな設計によるべきかという現実の問題になると皆目見当がつかなかったばかりでなく、また経費の点も考慮されなければならなかった。(日本放送協会編, 『日本放送史/1951年版』, 日本放送協会, p18)

公会堂の屋上にテントを張って演奏スタジオ(下図[左])にしていましたが、屋内スタジオにテントを張ってみたところ大変良好で、これをきっかけに近代的な演奏スタジオが誕生しました(下図[右]:1922年初頭のKDKAの演奏スタジオ)。

やがて夏となり、放送室内の演奏は猛暑のため出演者を相当悩ませたので、屋上に風雨を凌げる程度のテントを張り、その中で演奏させてみた。これがまた案外成績が良かったので、テント張りのスタジオによって秋まで放送が続けられた。

ところがある晩の大嵐によってこのテントが吹き倒され、演奏室はどうしても屋内に移さなければならなかった。 こうしたことから公会堂の最高所の一室をさらに借り受け、試みにその室内にテントを張ってここで放送すると、屋外の場合と全く同様の良好な効果が現れたのであった。これが端緒となって天井や壁、窓、床上などをバーラップという極めて安価な一種の綿布で被覆したスタジオが生まれたのである。これこそ防音装置のある近代的スタジオの母胎となったのである。 (日本放送協会編, 『日本放送史/1951年版』, 日本放送協会, p18)

13) 番組開発の努力が実り、ついにラジオブームが到来 (1922年) [WH編]

このような放送の価値を高めるKDKAの各種の努力があって、徐々にラジオ放送が国民に認知されるようになりました。それに他社ラジオ局の参入で、1922年初頭には30局だったものが、年末にはなんと530局を超える状況となり、ラジオ受信機の売れ行きは爆発的な伸びを示しました。

日本放送史』より引用を続けます。

ウェスティングハウス会社のこうした放送開始がきっかけとなって、アメリカの放送事業は、俄然発展する気運を示し、殊に、政府が自由企業を認めたことは、その発展に一層拍車をかけることになった。・・・(略)・・・当時の雑誌はこの状態を次のように伝えている。

"受信機を購入するため、売場の前で幾重にも列を作って順番を待っている人達が、やっと売場に来たときには、すでに受信機は売切れで、予約注文しなければ手に入らない。またラジオ受信機の製造業者は、あたかも大戦勃発当時の軍需品製造業のように、突如として凄ましい需要に直面した。・・・(略)・・・"』 (日本放送協会編, 『日本放送史/1951年版』, 日本放送協会, p19)

コンラッド氏は1921年にアシスタントチーフエンジニアに昇格しました。ウェスティングハウス社は放送を提供し、その受信機を製造販売するという初期のビジネスモデルを軌道に乗せましたが、数年後には受信機需要が一巡しはじめ、米国放送界は長い時間を掛けながら広告放送モデルへ転換してゆきました。

14) 英国のラジオ [1] 無線電話の海上デモ (1913-14年) [WH編]

米国では1920年に開局したKDKAより以前に、フェッセンデン氏の無線電話の試験や、ヘロルド氏の定期実験局"San Jose Calling"、リー・ド・フォレスト氏の選挙放送、その他にも実験局やアマチュア無線局によるラジオ放送的な試みがいくつか知られるところです。しかしこれらに触れると短波から離れた話題が長く続きますので、それはまた別の機会にさせていただきます。

ラジオ放送における「短波」の利用には英国の メトロポリタン・ヴィッカーズ社 が大きく影響を与えました。そこで欧州(特に英国)におけるラジオ放送の初期を取り上げてみます。

 

1913年(大正2年)、マルコーニ社のH.J. Round氏が真空管式の発信機とそれを使った無線電話装置の研究に着手しました。1914年(大正3年)3月上旬、シシリア島(Sicily)の軍艦レジナ・エレナ(Regina Elena)から真空管による無線電話を発しながら、別の艦船でその受信試験を行い見事成功しました。最終的には対岸のナポリまでの45マイル(=72km)まで届きました。

Augusta, Sicily, March 13. - It is announced that the tests in wireless telephony made in the last week between warships of the Italian fleet by William Marconi on board the battleships Regina Elena, flagship of the Duke of the Abruzzi, were successful.  The Duke of the Abruzzi presided over the experiments and expressed his admiration of the results attained. ("Marconi Telephony a Success", New York Tribune, Mar.14, 1914, p1)

In March 1914 he had been in Italy where he, together with H.J. Round and K.W. Tremellen as assistants, carried out the first wireless telephony experimental tests on the high seas. The apparatus was installed on the Italian warships Regina Elena and Napoli and communication was established between the two up to a distance of forty-five miles. The equipment was designed by H. J. Round and incorporated his 'soft' type C valve. The valve telephony set used in the Italian tests was so successful that several were built for demonstration and sale in the U.S.A. and elsewhere. ( W.J. Baker, A History of the Marconi Company:1874-1965, 2013, Routledge, pp.170-171)

我国でも電気試験所の鳥潟氏が電気学会でこの件を報告されています。

マルコニー会社は大正三年(1914年)春、伊太利(イタリア)海軍に於いて巡洋艦に真空管式無線電話を装置し、空中線電流約〇・六アムペアを得て五十キロメートルの通話に成功せりとの発表があり。(鳥潟右一, "無線電話の同時送受話に就て", 『電気学会雑誌』, Vol.37-No.349, 1917, 電気学会, p653)

15) 英国のラジオ [2] 無線電話の(西向き)大西洋横断成功 (1919年) [WH編]

1918年(大正7年)11月11日、第1次世界大戦が終結。英国のマルコーニ社では無線電話送信機の各種(0.25KW型、1.5KW型、3KW型、6KW型)の生産を開始しました。

As the Marconi Company returned to peace time activities it commenced production of a range of high power wireless telephony transmitters (1/4Kw, 1-1/2Kw, 3Kw, 6Kw 'panel sets') and started design work on a range of high power valves. (Tim Wander, 2MT WRITTLE: The Birth of British Broadcasting, 1988, Capella Publications, p15)

1919年(大正8年)3月、マルコーニ社のH.J. Round氏がアイルランドにある同社バリーバニオン局(Ballybunion, 呼出符号YXQ)に波長3,800m(周波数79kHz)の真空管式2.5KW無線電話送信機を仮設しました。

そして無線電話の試験電波は大西洋の向こう側(およそ3,650km離れた)カナダのルイスバーグ(Louisbourg, Nova Scotia)で受けられました。

実は1915年にアメリカのアーリントン海軍局からフランスのパリまで無線電話が大西洋を「東向き」に横断していますが、無線電話が西向き」に(欧州から米国へ)横断したのはこれが最初です。

マルコーニ社のビビアン氏の著書より引用します。

In 1915 American wireless engineers built a transmitter using no fewer than 300 thermionic valves and succeeded in transmitting speech from the United States to Paris.

In 1919, after the war, Capt. Round transmitted speech during daylight from Ireland to Canada, using only 2.5 kilowatts with a wavelength of 3800 metres.  About this time the idea sprang up of broadcasting music, news, and speeches to the general public. (R.N. Vyvyan, Over Thirty Years, 1933, George Routledge & Sons, p202)

The transmitter operated on a relatively long wavelength of 3,800 metres and generated around 2.5 Kilowatts using just three main valves. This was sufficient to allow a Marconi engineer, W. T Ditcham, to become the first European voice to cross the Atlantic to a receiving station located at Louisbourg in Nova Scotia. The success of this initial experiment was to lead to far greater things. (Tim Wander, 2MT WRITTLE: The Birth of British Broadcasting, 1988, Capella Publications, pp15-16)

Marconi himself only made one further visit to Cape Berton, but Louisbourg retains a palce in company lore for having received the first east-west transatlantic voice transmission, from a Marconi station at Ballybunion, Ireland, in March 1919. (Marc Raboy, Marconi: The Man Who Networked the World, 2016, Oxford University Press)

16) 英国のラジオ [3] 英国初の定期ラジオ放送MZX (1920年2月23日開始) [WH編]

1920年(大正9年)1月15日、マルコーニ氏は英国郵政庁GPOの許可を得て、チェルムスフォードのニュー・ストリート工場(Marconi's New Street Works, Chelmsford)から波長2,500m(周波数120kHz)で不定期なラジオ放送の試験をはじめました。左図がチェルムスフォードの英国最初の放送用送信機(電力6kW)です。

郵政庁GPOは当初「放送」に難色を示していましたが、ロンドン無線協会の後押しにより実現したものです。呼出符号は3文字のMZXを使用しました。これは国際符字列で組立てた公衆通信用コールサインです。

【参考】欧州地域ではオランダのHans Idzerda氏が、1919年11月6日より波長670m(周波数448kHz)ではじめた放送(呼出符号PCGG)に次ぐものです。PCGGは1922年には日曜日15:00-18:00(GMT)に波長1,070m(周波数280kHz)で放送しています。

まもなく新型送信機(電力15kW)の準備が完了し、1920年2月23日から、1日2回(11:00-11:30と20:00-20:30)の定期放送が始まりました。番組はニュースと音楽が流されました。これは3月6日まで続けられ、それ以降は不定期な試験放送に戻ったようです。船舶局と通信するポルデュー海岸局と同じ波長2,500m(周波数120kHz)を使ったことから、英国ラジオの初期リスナー集団は船員たちでした。

Between 23 February and 6 March 1920 two daily programmes were “broadcast” from this transmitter on a wave-length of 2,500 metres.  Each programme lasted for half an hour, and consisted of news, musical items, and gramophone records.

The 2,500 metre wavelength was the same as that employed at Poldhu for telegraphically transmitting news to ships.  A large part of the first British “listening audience” consisted, therefore, of sailors miles away from their homes. (Asa Briggs, The Birth of Broadcasting: The History of Broadcasting in the United Kingdom [Volume 1], 1961, Oxford University Press, pp44-45)

ちなみにこの時のMZXの波長を2,800m(周波数107kHz)や、2,750m(周波数109kHz)だったとする文献もあります。

However, it was not until February 23rd, 1920, that the first concert were broadcast from MZX, these being continued until March 6th, 1920, on a wavelength of 2,800 meters, and a power of 15 kilowatts; there was then a break for further experimental work. ("POETRY AND BROADCASTING", Popular Wireless and Wireiess Review, Apr.5,1924, p195)

17) 英国のラジオ [4] 定期ラジオ放送の様子(1920年2月23日~3月6日) [WH編]

かつて英国留学していた関口定伸氏が大正14年(1925年)に書かれた『ラヂオのお話』という子供向け科学書の中で、1920年2月23日から3月6日まで行なわれた、英国初の定期ラジオ放送のことについて触れていますので、ご紹介しておきます。

『・・・(略)・・・英国のマルコーニ無線会社ではエツセツクスのチェルムスフォードという土地の無線局から音楽を放送し始めました。何千人という加入者が一時に会社に加入を申込んで、その音楽を聞いたのですが、一般の人々は新聞の広告を読んで毎日加入を申込みます。

一九二〇年の二月から三月迄の間に毎日チェルムスフォードから音楽が放送されて、ロンドンやケンブリッチその他の加入者は日中の疲れを夕方の音楽で慰めるのでした。その時の無線放送局の電力は十五キロワット(二十馬力)で、空中線は各々四百五十尺(=136m)高さを持つ二本の電柱で支えられたのです。

その音楽は一千五百マイル(1,500海里=2,778km)の遠きに聞こえ、北はノールウェーからスペインのマドリッド、南は伊太利(イタリア)のローマにまで届いたのです。この会社の加入者はただ英国ばかりでなく、西部ヨーロッパの人々、大西洋中の汽船などからも申込んだのです。(関口定伸, 『ラヂオのお話』-少年科学世界第3編, 1925, 廣文堂, pp165-166)

18) 英国のラジオ [5] 世界初の音楽ライブ放送(1920年615日) [WH編]

1920年3月6日で定期放送は一旦終了し、それ以降は不定期な試験放送が繰り返されました。中でも1920年6月15日の音楽番組は、初の音楽ライブ放送であり、かつ三カ国語による初の国際放送として有名です。デイリーメール(Daily Mail)社の企画でした。

英国のWireless World誌(1920年7月10日号)が"A Melba Recital by Wireless Telephony"という記事で、チェルムスフォードMZXのスタジオで、マイクの前に立って歌うオーストラリアのオペラ歌手メルバ夫人(Nellie Melba)の写真(図)とともに、6月15日に行なわれた音楽ライブ放送を報じました。

これは試験的な試みではなく、満足いく成功を確信して行われたものだといいます。この放送には波長2,800m(周波数107kHz)が使用されました。

No mere experiment this, but a performance undertaken confidently, with the assurance of satisfactory results. ・・・(略)・・・

Transmission was effected on a wavelength of 2,800 metres, the power employed being 15 kilo-watts, the rating if generator at the Marconi station at Chelmsford. ("A Melba Recital by Wireless Telephony", Wireless World, July.10, 1920, p269)

19) 英国のラジオ [6] これは世界初の国際放送だった  [WH編]

電波に国境はなく、他国へも飛んでいきます。下の地図を御覧下さい。チェルムスフォード(英国)からベルギーの首都ブリュッセルまでは280km、オランダの首都アムステルダムまでが300km、フランスの首都パリでも340kmしかありません。日本でいうと、東京-名古屋間が260kmで、東京-京都間が370kmです。つまりチェルムスフォードからパリは、東京-京都よりも近いことになります。

このように狭い範囲に多くの国のある欧州では、電波が勝手に隣国へ届くため、何をもって「国際放送」とするかは判断が難しいところです。

しかし6月15日のメルバ夫人のライブ番組に限っていえば、欧州大陸のリスナーにも配慮し、三カ国語で行っています。すなわち外国で受信される前提にたった番組という点に着目すれば、これが最初の国際放送(国際番組)といっても差し支えないでしょう)。

チェルムスフォードMZXのアナウンサーは次のように視聴者に語り掛けました。

Hello, Hello, Hello!  Dame Nellie Melba, the Prima Donna is going to sing for you, first English, then Italian, then French. (Brian Hennessy, The Emergence of Broadcasting in Britain, 2005, Southerleigh, p63)

メルバ夫人の三箇国語による歌声は欧州全土に届き、特に強く受かったデンマークのクリスチャニアでは有線電話回線に流し込んで新聞各社へ配信したり、パリではこのライブ放送をレコードに録音されたりしました。

On 15 June 1920 Dame Nellie travelled down to Chelmsford for what she told reporters was 'the most wonderful experience of my career'. In the presence of a distinguished audience, including Godfrey Isaacs and Northcliffe's friend, Sir Campbell Stuart, Dame Nellie sang in English, Italian, and French.  She began with a "long silvery trill", which she described as her "hello to the world", and ended with "God Save the King".

Melba's voice was heard by listeners all over Europe, and at places as far away as St. John's., New-foundland.  At Christiania the signals were so strong that an operator at a wireless station some distance from the town relayed the music by telephone to the principal newspaper offices.  In Paris a phonograph record of the broadcast was made in the radio operations room below the Eiffel Tower, while in the London office of the Daily Mail a press audience listened and admired. (Asa Briggs, The Birth of Broadcasting: The History of Broadcasting in the United Kingdom [Volume 1] , 1961, Oxford University Press, p47)

メルバ夫人の音楽放送については(我国ISM機器の創始者)伊藤賢治氏の文献が詳しいので引用します。

一九二〇年六月十五日にデーリーメール(新聞社)主催でメールバ夫人がピアノの伴奏者と共に三カ国の言葉(英語, 仏語, 伊語)をもって有名な独奏を無線によって放送した。その際に於ける聴衆はチェルムスフォード局から三千哩(3,000miles=4,828km)四方の各無線受信局によって聞かれた。大西洋の中心に於ける船舶や数千の受信者がこの有名なる音楽家の最初の放送を聞いたのである。この音楽放送がかくの如く大規模に行われた事は最初の試みであるから少しくその内容にわたって説明するのも無益ではあるまい。

その日の夕方七時を過ぐること数分、チェルムスフォード局から呼ぶ声が聞こえた。「紳士および淑女諸君ただ今から世界第一の歌劇女優メリーメルバ夫人が得意の歌劇の歌を唱ひます。最初は英語で、次が仏蘭西(フランス)語で、次が伊太利(イタリア)であります。」

しばらくすると長く振えた微妙な歌劇の歌が「私の愛する諸君よ」と云うてメルバ夫人の声がした。それから、ホームスイートホームと云う英国の古い歌が聞こえた。次に仏国の歌と伊太利の歌とが伴奏者も演奏と共に聞こえたその時に、世界的長象集(? 原文まま)に自分の声を聞かすと云う好奇心が更に二回の所望に依って演奏を続けた。

この演奏は完全なる明瞭さをもって全西部欧州の各地の無電受信者に聞こえた。ある巴里(パリ)の受信局にてはこの音楽を直ちに蓄音器に取って複製した所があった。 (伊藤賢治, 『無線の知識』, 1924, 無線実験社, pp101-102)

また米国のRadio News誌のガーンズバック編集長が1920年9月号のエディター欄で「6月15日、ロンドンのデーリー・メール社は有名なオペラ歌手メルバ夫人の歌声を広大な範囲へ送り届ける、初の"世界"コンサートを実現させました。その音楽の情景は、送信局から1000マイル(=1610km)以上も離れても聞こえた。メルバ夫人はロンドン近郊のチェルムズフォードの標準的な無線電話のマイクの前で歌いました。」と紹介ました。これを国際放送だと受け留めているようです。

On June 15th of this year the Daily Mail of London inaugurated the first "world” concert, in conjunction with the famous opera star, Madame Nellie Melba, transmitting her voice over vast distances;  the music in some instances was heard over a thousand miles away from the sending station. Madame Melba was performing at Chelmsford, near London, singing into the microphone of a standard radio telephone apparatus. (H.Gernsback, "Radio Concerts", Radio News, Sep.1920, Experimenter Publishing Co., p133)

【参考】ポーランドの首都ワルシャワや、北欧スウェーデンの首都ストックホルムまでが約860マイルの距離です。

20) 英国のラジオ [7] ビクトリア号での移動受信(1920年7-8月)  [WH編]

左図は英国のWireless World誌(1920年9月4日号)の"Wireless Telephony on the VICTORIAN" (pp414-417)という記事で使われた写真です。

7月20日にビクトリアン号で英国を出航し、ノバスコシア(カナダ)のシドニー港へ向っていた乗客らが、同船に用意された無線の聞ける音楽室でチェルムスフォードMZXからの音楽コンサート番組を聴いている様子です。

再び伊藤賢治氏の書籍より引用します。

『(別のものとしては)一九二〇年七月に米国オツタワに(8月5日に)開催された万国新聞会議に英国の代表者を搭載した汽船ビクトリヤ号の航海に於ける実験は有名なものであった。・・・(略)・・・毎日午後になるとチェルムスフォード局から音楽が放送されてビクトリヤ号の音楽室では千二百哩(1,200miles=1,931km)の距離にある英本土からの音楽を楽しむことが出来た。 (伊藤賢治, 『無線の知識』, 1924, 無線実験社, pp102)

【参考】 このビクトリアン号はカナダのシグナル・ヒル(St.Joh's, Newfoundland)にあるマルコーニ局と無線電話の双方向実験も計画していました。そして1920年7月24日、シグナル・ヒルまで1250mileの地点で受かり始めて、7月25日(距離600mile)には完全な会話の交換に成功したことをWireless Age 誌(1920年9月号, p8)が伝えています。

21) 英国のラジオ [8] 北欧で受信される(1920年7月30)  [WH編]

1920年7月30日デンマーク出身のテノール歌手、ラウリッツ・メルヒオール(Lauritz Melchior)氏が出演した音楽番組(左図:中央奥のマイクで歌唱中のメルヒオール)が放送されました。北欧のコペンハーゲン(デンマーク)、ストックホルム(スウェーデン)へも電波が届きました。そしてスカンジナビアの大きな都市では有線電話網への接続が試されたようです。

英国の無線雑誌WirelessWorld 誌(1920年9月4日号, p418)から引用しておきます(左図)。

On July 30th, when the Marconi Station at Chelmsford, working on a wavelength of 3,500 metres was in communication with the Scandinavian countries, the London correspondents of Nationaltidende (Copenhagen), Morgenbladet(Christiania), Aftonbladet (Stockholm), and the Morgenpost(Gothenberg), transmitted news messages to those journals, and afterwards Mr. Lauratz Melchior, the celebrated Danish opera tenor, gave a number of selections, including the anthems of Denmark, Norway, Sweden, and Great Britain.

By arrangement with the various telephonic departments, the telephone exchanges of the big Scandinavian towns were connected up with the wireless stations. The test was fairly successful, but was interfered with by atmospheric disturbances. Several wireless telephony messages, including one from Queen Alexandra and one from Senatore Marconi, were also transmitted from Chelmsford. ("Chelmsford Telephony Tests", Wireless World, Sep.4, 1920, p418)

22) 英国のラジオ [9] 大西洋を超えた英国ラジオ放送(1920年82日)  [WH編]

さらに1920年8月2日17:00より、チェルムスフォードMZXからデンマークの住民へ向けたデモンストレーション放送を、大西洋を越えカナダシグナル・ヒル)にあるマルコーニ局がキャッチしました。

チェルムスフォードMZXのH.J.Rounds氏の声やデンマーク語の楽曲4曲が途切れることなく聞こえたそうです。

When Chelmsford, England, was giving a wireless telephone demonstration to Denmark at 5 P. M. on August 2, the experimental station on Signal Hill, St. John's, N.F., picked up the sounds and heard, without interruption, the words uttered by H. J. Rounds, the manager at Chelmsford, who was talking with the operator in Denmark. Mr. Rounds was heard to tell Denmark that Melchior would sing. Signal Hill kept in touch and heard distinctly four songs sung in Danish, as well as the conversation that followed between Denmark and Chelmsford. Chelmsford and St. John's are 2,673 miles apart. 』 ("Result of Radiophone Experiment at Signal Hill Station", Wireless Age, Sep.1920, p8)

【参考】「無線電話」の大西洋越えは、米国AT&T社が海軍アーリントン局を借りて、フランスのパリと実験し、1915年10月15日に受信されたのが最初で、1919年3月にはアイルランドからカナダへの逆方向にも成功しています。しかし今回の成功は「無線電話」の試験ではなく、英チェルムスフォードMZXの「放送」が大西洋を超えて、カナダで受けられたものです(長波107kHz, 15kW)。

23) 英国のラジオ [10] 英国のラジオ放送MZXの終焉 (1920年11月23日)  [WH編]

しかしチェルムスフォードMZXの試験放送は既存無線サービスへ2つの混信問題を起こしました。

そのひとつが航空無線への混信です。1920年8月9日、英国空軍は「自分たちの軍用通信がチェルムスフォードMZXの試験放送により激しい混信妨害を受けている」と発表しました。そして英国の新聞Financier(8月25日)は濃霧の中、ドーバー海峡を飛行中のヴィッカース・ヴィミー(Vickers Vimy)重爆撃機のパイロットがラインプネ(Lympne)飛行場から気象と着陸情報を得ようとしたのに、パイロットの無線機にはチェルムスフォードMZXの音楽番組だったとし、パイロットたちのラジオ試験放送に反対する意見を報じました。

One of the legitimate services badly affected was the new Croydon air traffic control system; typical was an article in the Financier newspaper on the 25th August 1920. 

It reported that a few days previously the pilot of a Vickers Vimy aeroplane was crossing the English Channel in thick fog and was desperately trying to obtain weather and landing reports from Lympne, but all he could hear was a Chelmsford musical evening. (Tim Wander, "CHELMSFORD CLOSES DOWN", 2MT WRITTLE: The Birth of British Broadcasting, 1988, Capella Publications, p33)

もうひとつ、チェルムスフォードMZXの試験放送は、郵政庁GPOが対エジプト・インド・アメリカへの公衆通信用に新設したリーフィールド局(Leafield)へも混信を与えており、ラジオ放送の実験は中止するしかないと思いました。。

The Chelmsford broadcasts had also interfered with the Post Offices newly opened arc transmitting station at Leafield near Oxford carrying press and Foreign Office morse transmissions on 12,200m to Cairo, India and America.  Faced with these problems the Post Master General felt that he had no option but to close the Chelmsford station down. (Tim Wander, "CHELMSFORD CLOSES DOWN", 2MT WRITTLE: The Birth of British Broadcasting, 1988, Capella Publications, p33)

これらの混信問題は社会的にも大きな問題となり、1920年の秋以降、チェルムスフォードMZXの試験放送は停波に追い込まれました。そして1920年11月23日、郵政庁GPOは今後ラジオの試験放送は許可しないことを発表しました。

Despite the fact that entertainment broadcasting was rapidly gaining favour with the general public, on 23rd November 1920 the Postmaster General spoke to the House of Commons. He announced that the experimental broadcasts from Chelmsford were to be suspended on the grounds of 'interference with legitimate services' and for the time being no more trials would be permitted. .(Tim Wander, "CHELMSFORD CLOSES DOWN", 2MT WRITTLE: The Birth of British Broadcasting, 1988, Capella Publications, p33)

欧州各国にも注目された英国のラジオ放送でしたが、ここで一旦ストップし、アメリカに先を越されることになってしまうのです。



24) 英国のラジオ11・・・放送再開を許可 ライトル2MT (1922年2月14日) [WH編]

やがてアメリカでラジオ放送が人気になっていることが英国にも伝わると、ロンドン無線協会が中心となり放送許可運動が再燃しました。何度も繰り返される陳情で、ついに英国郵政庁GPOが折れて、軍用無線への混信を避けるために250Wの電力制限のもとに、ラジオ放送を再び認めることを決めました。

『 こうして一千九百二十一年に入って、間もなく、時の倫敦(ロンドン)無線協会会長ジェー・エル・スキレムレー博士は、マルコニー会社に向かって、毎週プログラムを放送する許可をあたえることを郵政当局に請求したが、郵政当局は、いかなる理由によってか、これを許さなかった。そこで倫敦無線協会は直ちに全国に飛檄(=檄を飛ばすこと)して、六十三の協会長のサインを得、これを提出して、ようやく当局の許可を得た。

マルコニー会社は、間もなく毎週火曜日の晩に音楽を放送することになったので、受信機の需要は益々増加した。 』 (ラヂオ協会編, "英国に於けるラヂオの発達", 『日本ラヂオ総覧』, 1929, ラヂオ協会, p24)

 

1922年(大正11年)2月14日より、毎週火曜日19時35分にマルコーニ科学機器社(Marconi Scientific Instrument Company, Ltd.)のラジオ局2MT(チェルムスフォード郊外のライトル)が試験放送をはじめました。その送信出力は250W(電話)でしたが、無線電信用としてなら最大1KWの搬送波が出せるものです。

『 The radiated power of the 2MT transmitter has often been debated, but the design is usually quoted at 250 watts. It is possible that the transmitter could have produced up to 1KW using morse code but the Writtle concerts were usually transmitted using 250 watts which struck a happy medium between reception range and valve life. 』 (Tim Wander, 2MT WRITTLE: The Birth of British Broadcasting, 1988, Capella Publications, p58)

 

【参考】 アメリカのラジオ局はKDKAやWJZのように国際符字列で組立てたコールサインが与えらていました。しかし国際規則では、「公衆電報を扱う局のコールサインを国際符字列で組立てる」と決められており、ラジオ放送局はその対象ではありませんでした。英国郵政庁GPOはラジオ放送局のコールサインを国際符字列で組立てる必要無しと判断し、(実験局やアマチュア局が使う)「数字+2文字」形式による2MTを発行しました。

後にオーストラリアなどいくつかの英連邦系の国がこの「数字+2文字」のコールサインを放送局に採用しました。逆に日本の逓信省はアメリカにならって国際符字列によるJOAK, JOBK, JOCKを採用しましたが、国際規則上でいえば、放送局にこのようなコールサインは不要です。1927年のワシントン会議で実験局やアマチュア局にも国際符字列を前置することに改正されましたが、放送局のコールサインは現在もなお国際符字列の対象外で、各国の電波主管庁の裁量に委ねられています。  

 

Wireless World誌1922年2月18日号に、放送開始の告知記事"Transmission of Calibration Waves and Telephony for Amateurs"(p729)があります。

「ロンドン無線協会の1月25日の年次総会の席上、郵政庁長官がアマチュア向けに受信機のダイアルの校正波とラジオ放送を毎週30分間の発射を認めたことが発表されました。・・・(略)・・・ロンドン無線協会の依頼を受けて、マルコーニ科学機器社がこれらの送信を請け負いました。下表は2月14日より毎週火曜日の午後7時から発射されるマルコーニ科学機器社の送信スケジュールで、コールサインは2MTが使われます。」

『At the Annual Conference of Wireless Societies convened by the Wireless Society of London, on Wednesday, January 25th, it was announced that the Postmaster-General had authorized the transmission of Calibration waves and Telephony for Amateurs for half an hour each week. ・・・(略)・・・ At the request of the Wireless Society of London, the Marconi Company undertook to transmit these signals from Chelmsford. The following is the programme of the transmissions which will be made under the direction of the Marconi Scientific Instrument Company, Ltd., every Tuesday evening at 7 p.m., commencing on Tuesday, February 14th. The call sign 2MT will be used. 』

郵政庁GPOの方針に基づき、校正用と放送用に各30分間の枠が設けられました(上表)。

 

上の表によると、プログラム前半(19:00-19:25)はアマチュア無線家向けの波長1000m(300kHz)でまずCQ呼び掛け"CQ de 2MT 2MT 2MT"(反復)、局名アナウンス"Here Marconi Scientific signals"(反復)、送信波長"Wavelength 1000 metres"、空中線電流の実測値"Aerial amperes ...."、モールス符号Vの最後の長音を特に長く伸ばした"・・・― []"、そしてコールサイン"2MT 2MT 2MT"の計5分間をワンセットにして、これを電力を替えながら3回くりかえしました(19:00-19:05 [1kW]、19:10-19:15 [500W]、19:20-19:25 [250W])。

【参考】 当時の英国では、船舶局と海岸局の国際的な波長600m, 300m(500kHz, 1000kHz)を保護するために、それから上下に離れた1000m(300kHz)と180m(1667kHz)の2波をアマチュア用にしていましたが、電力は最大10Wに制限されていました。 そしてプログラム後半(19:35-19:55)はラジオ放送で19:35より"Here the Marconi Scientific Instrument Company's Station at Chelmsford."のアナウンスではじめて、波長700m(430kHz)、電力250Wで、音楽などが19:55まで流されました。波長は春より400m(750kHz)に変更されました。

 

まだ一般人はラジオ受信機を持っていませんので、リスナーは受信機を自作していたアマチュア無線家や受信研究家らです。彼らにダイアル目盛りの校正波を提供することは、リスナーを増加させることにつながりました。

マルコーニ科学機器社は翌月のWireless World誌(1922年3月18日号)に1ページ全て使った、ラジオ2MTの広告を打ちました(左図をクリックすると拡大しますので、どうぞご覧ください)。この広告をよく見ると番組前半(19:00-19:25)にラジオ放送を行って、番組後半(19:35-19:40, 19:45-19:50, 1955-20:00)に校正電波を発射しており、どうやら放送順序を入れ替えたようです。

25) 英国のラジオ12・・・マルコーニ第二局 ロンドン2LO も開局 (1922年5月11日) [WH編]

1922年5月11日、マルコーニ社はロンドンのマルコーニ・ハウスの7階に第二局2LOを作り、火曜と木曜の夜に30分間の放送を始めました。左図[左]はマルコーニ・ハウスと屋上の送信アンテナです。当初の免許では軍用無線への混信が懸念され、放送時間を一日一時間以下、送信電力を100W以下に制限されました。

ちなみにマルコーニ・ハウスとはロンドン中心部のストランド(Strand)にあったマルコーニ社の本社ビルです。1912年3月25日にここへ移ってきました。

与えられたコールサイン2LOおよび放送設備は一式は、のちに誕生したBBCに引き渡されましたが、有名な「BBC中央局 2LO」は元々マルコーニ本社の中にあった同社のラジオ局だったのです。

 

なおライトル2MTは英国のラジオ放送を再開させるという役目を終え、翌1923年(大正)1月17日に閉局しました。

『 The station call-sign was 2MT, with a team of nine, led by Captain P.P. Eckersley.  It was Eckersley’s eccentric, attractive style of presentation that characterized the Writtle broadcasts, which went out on Tuesday evenings at 7.30pm from 14 February 1922 until 17 January 1923, thus forming Britain’s first scheduled broadcasting service. ・・・(略)・・・

Shortly after Writtle began broadcasting, the Post office issued a licence to Marconi’s to launch a second experimental station from their premises in London’s Strand.  The first broadcast from the new station, 2LO, was on 11 May 1922, and initially the transmissions consisted of two half-hour programmes broadcast on Tuesday and Thursday evenings, under the supervision of Arthur Burrows.  Burrows was a very different personality to Eckersley, and 2LO’s programmes were of a more sober nature, in marked constrast to Writtle’s “frivolity”. 』 (Sean Streets, A Concise History of British Radio:1922-2002, 2002, Kelly Publications, pp21-22)

26) 英国のラジオ13・・・メトロポリタン・ヴィッカーズ社 マンチェスター2ZY も開局 (1922年5月16日) [WH編]

マンチェスターのメトロポリタン・ヴィッカーズ社は主として重電分野の電気会社でしたが、新しく始まろうとしているラジオ放送用受信機の製造・販売に関心を寄せていました。

1922年5月16日、同社はラジオ放送用受信機を売るために、不定期ながらも試験放送(コールサイン2ZY)を始めました。なお送信機はマルコーニ社製ではなく無線通信社(Radio Communication Company)製を採用しました(左図の右側に写っているのが2ZYの入力800W中波送信機)。

こうして 1922年6月の時点で、英国には2MT, 2LO, 2ZYのラジオ局が生まれ、少し遅れてウエスタン電気ロンドン(Western Electric Co. Ltd. London)も試験放送(コールサイン2WP)を始めました。

 

しかし同年秋には英国郵政庁GPOは国内を代表する六大電気会社のマルコーニ社(Marconi W.T.)、メトロポリタン・ヴィッカーズ社(Metropolitan Vickers)、無線通信社(Radio Communication Company)、 ウエスタン電気ロンドン(Western Electric Co. Ltd. London)、ジェネラル・エレクトリック(General Electric)、英トムソン・ヒューストン社(British Thomson-Houston)に声を掛けて、アメリカのような放送局の乱立を避けて、政府の統制のもとに民間ラジオ放送を発展させるように促しました。

27) コンラッドの8XKで短波の伝播調査がはじまる (1921年春) [WH編]

さて、舞台をアメリカに戻します。

1920年(大正9年)春より、コンラッド氏は空電妨害に悩まされながらも、500km離れたボストンの実験家James C. Ramsey氏(のちの1XA)と1,200kHzによる無線電話の定時試験を繰り返しました。やがて他の無線局の高調波(=短波)をいくつか受信してみたところ、周波数を高くする方が空電妨害を避けられて、伝送には有利だとコンラッド氏は確信しました。これが短波へ進出する動機となりました。

『 Being aware of the reduction of atmospheric strays on the higher ranges of frequency then in use, and from some experiments in listening to harmonics from other transmitting stations, the author was convinced that there were greater possibilities of improvement in reliability of transmission by increasing the frequency than by decreasing it, as was the general tendency at that time. 』 (Frank Conrad, "Short-Wave Radio Broadcasting", Proceedings of the Institute of Radio Engineers, Volume12 Issue6, Dec.1924, P723)

 

1920年11月2日よりKDKAのラジオ放送が始まりました。

1921年(大正10年)春、会社から自宅までの約7kmを有線で結び、KDKAで放送中の音声を8XKの送信機に入力し、短波で同時再送信しながら、KDKAの中波360m波との受信比較を行いました。当時のKDKAの放送は20:30-21:30でしたので、この時間帯での比較試験です。

これには新たにボストンのマサチューセッツ工科大学MITの実験局1XMと、ボストン在住のアマチュア無線家J.R. Decker氏1RDが加わり双方から短波送信を試みました。Ramsey氏はまだ無線の送信免許を得ていませんので、ボストンの地元局に参加を呼び掛けてくれたものと想像します(Ramsey氏の家からDecker氏1RDの家まで数百mしか離れていません)。

ボストンの1XMと1RDに中波から短波までカバーする送信機がセットされ(MITの実験局1XMは波長300-100m[1.0-3.0MHz]、Decker氏のアマチュア局1RDは波長210-90m[1.4-3.3MHz])、周波数を変えながら発射し、それを500km離れたコンラッド氏が受信測定しました。

夜間伝送は信号強度の変動も大きいし、観測数も少なく、近似値ではありますが、1RDの信号は周波数が高いほど強く、空電の減少と相まって伝送の信頼度が向上することがわかりました。

『 Accordingly, a series of tests were run between Mr. Ramsey's station (1XA) in Boston and the author's station (8XK) in Pittsburgh.

The cooperation of the station of the Massachusetts Institute of Technology (1XM), and that of Mr. R. D. Decker (1RD), of Boston also was enlisted in the tests. These tests were made during the spring of 1921 and consisted of a series of transmissions from each of the Boston stations at various wave lengths and of measurements at Pittsburgh of the audibility of received signals. The curves in Figure 1 show the ratio of signal strength from the different stations at the various wave lengths operated on. The transmitters were adjusted to give a maximum output at each wave length, with a constant input to the oscillating tubes.

Owing to the great variability of the strength of night signals and the small numbers of observations taken, the results served as only crude approximations, but they indicated some gain of signal strength as the frequency was increased, which, coupled with the great reduction in interference from strays on the higher frequencies, would increase the reliability of transmission with a given antenna power. 』 (Frank Conrad, "Short-Wave Radio Broadcasting", Proceedings of the Institute of Radio Engineers, Volume12 Issue6, Dec.1924, P724)

【注1】文中"R.D. Decker(1RD)"とありますが、商務省発行のコールブックで確認したところ1RDの免許人は"J.C. Decker"です。

【注2】ボストンのJames C. Ramsey氏が波長150-350m(858-2,000kHz)の実験局1XAを開設したのは1922年2月でした(Radio Service Bulletin, No.59, March 1st, 1922, 商務省電波局)。

そして1XAは1922年5月に波長を75-350m(852-4,000kHz)の可変に指定変更を受けています(Radio Service Bulletin, No.61, June 1st, 1922, 商務省電波局)。コンラッド氏がIREで発表した論文にある上記[Figure1]には3局のデータがプロットされていますが、1XMと1RDの実験は1921年春のもので、1XAのグラフは1922年のもののようです。

 

ウェスティングハウス社のW.W. Rodgers氏はボストンやいくつかの場所ではKDKAの中波(360m)より、8XKの短波(100m)の方が良かったと書いています。

『 He then connected this telephone line to his 100 meter transmitting set and sent out KDKA's programs simultaneously with the broadcasting on 36o meters. In Boston and other places it was reported that this transmission was stronger than the signals received directly from KDKA on 360 meters! This was true, even though his station was much less powerful than the one at East Pittsburgh. 』 (W.W. Rodgers, "Is Short-wave Relaying a Step Toward National Broadcasting Stations?", Radio Broadcast, June 1923, Doubleday Page & Co., p120)

 

またコンラッド氏は商務省標準局(Bureau of Standards)無線研究所(Radio Laboratory)のF.W. Dunmore氏が行っていた短波伝播試験にも協力しました。

『Mr. Frank Conrad, of the Westinghouse Electric and Manufacturing Co., has kindly cooperated with us in making these tests by arranging to have an operator listen at his station, 8XK, in East Pittsburgh, Pa. 』 (F.W. Dunmore (Associate Physicist, Bureau of Standards), "A Method of Continuous Wave Transmission on 100 Meters", Radio Broadcasting Nov.1923)

 

コンラッド氏はみんなが思っているほど、短波は悪くないことを知ったのです。それも1921年という非常に早い時期にです。1921年といえば5月にマルコーニ氏が3MHzで北海横断無線電話を成功させ、12月にはロンドン-アムステルダム間の有線無線式国際電話のデモをしたり、8月にはヘンドン-バーミンガム間156kmの無線電話の試験回線を20MHzのパラボラビームで開通させた年です。短波に関しては後発のコンラッド氏がマルコーニ氏と並ぼうとしていました。

28) 終戦後で短波を使った最初の米国アマチュア1RD [WH編]

1907年ごろから始まった娯楽として相互通信を行うアマチュア通信は短波の10MHz付近で楽しまれていました。徐々に低い周波数へ下りてきて商業局や海軍無線とトラブルを起こすようになり、1912年8月に制定された無線通信取締法(Radio Act of 1912)以降はみんなが1,500kHzに集中して運用してきました。やがて第一次世界大戦でアマチュア無線をはじめとし民間無線が厳しく制限され、1919年に再開されてからはアマチュアの間でも真空管による持続電波が利用されるようになり、1,500kHzによる無線電話(放送)が流行りました。そもそも短波の住人だったアマチュアは今やすっかり短波を見捨てたかに見えます。

 

そんな時代背景の中でIRE学会のコンラッド氏の論文には試験に協力してくれたアマチュア(1921年春)としてボストンのデッカー氏(Decker)1RDが記録されています。波長90mまでの可変許可を得て8XKの実験に協力したようですが、(文献で確認できるものとしては)彼が終戦によりアマチュア無線が再開された後で、最初に短波を使った米国アマチュア局でしょう。なお(実験局-アマチュア局間の試験で)純粋なアマチュア通信ではないため、アマチュア界ではあまり着目されていないようです。

 

ARRLの機関誌QST(1922年3月号)に(コンラッド氏8XKの試験に協力した)ハートフォードのBoyd Phelps氏(アマチュア局1HX/9ALL/9ZT)が書いた記事がありますし、QST(1923年3月号)にもコンラッド氏とボストンのJames C. Ramsey氏(実験局1XA)が短波の伝播試験を行なったことや、これにR.D. Decker氏(アマチュア局1RD)が受信試験に協力したことが書かれています。

『・・・(略)・・・ However, in the spring of 1922, after Mr. Phelps(1HX/9ALL/9ZT) had joined the QST staff, he ran some further tests with Mr. J.C. Ramsey of 1XA and Mr. Frank Conrad of 8XK, with 1RD acting as listening station. 』 (S. Kruse, "Exploring 100 Meters", QST, 1923.3, ARRL, p12)

29) 放送用の周波数として833kHzに集約され始める (1921年秋) [WH編]

下図は1921年10月1日付け、商務省Radio Service Bulletin(No.54)により告示された商業陸上局(Commercial land Station)の新局です(9月に許可された局)。

無線電話により一方的に情報を発信する「放送」は、まだ無線法施行規則には規定されていないため、一般的な商業陸上局の一種として運用されるものと、波長200m(1,500kHz)を使うアマチュア局の運用形態のひとつとして行われるものの二種類ありました。後者のアマチュアによるものは"Citizen Radio"と呼ばれ、前述しましたので、ここでは商業陸上局について触れておきます。

左図新局の一番目WNYはRCA社の商業陸上局でPG(公衆通信)業務の局です。国際条約で規定される公衆通信用波長300, 600, 1800m(周波数1000, 500, 16.7kHz)の他に波長450m(6667kHz)が許可されています。米国では国際波の300mと600mの中間に位置する波長450mを国内用サブ波として使用していました。

二番目WFDはフォードモーター社の商業陸上局でPR(限定公衆通信)業務の局です。国際波300, 600m以外に波長385m(780kHz)と波長500m(600kHz)の許可を受けました。

1921年までは中波の電波は各種の商業陸上局に使用されていました。後半にあるWCJ、WDY、WBZは放送を目的とした商業陸上局で、ともに波長360m(833kHz)が許可されています。商務省が波長360m(833kHz)を放送する商業陸上局に指定するようになったのはこの1921年秋からでした。

まだ「放送」が無線規則で定義・規定されておらず、放送する局が公衆通信を取扱うことを禁止してなかった頃ですので、WCJとWDYにはモールス公衆通信用の波長300m(1,000kHz), 600m(500kHz)も許可されていますし、WBZ(ウェスティングハウス社のラジオ放送局)は実験局のように波長Variable(可変)も許されています。

「放送局(Broadcasting Stations)」という分類がないので、商務省のRadio Service Bulletinの商業陸上局の新局告示を見ても放送する局かを判断するのは困難です。これが明確になったのが1921年12月1日の改正でした。

30) 放送用周波数を833kHz と 619kHzの二波に (1921年12月) [WH編]

1921年(大正10年)12月1日、商務省は「放送」を規定し、放送と公衆通信の両方を扱うこと禁じる規則改正を行いました。放送の専業化です。また同時に波長360m(833kHz)と波長485m(619kHz)の二波を放送用に指定しました。

波長360m(833kHz)は報道・コンサート・講演(News, Concerts, Lectures)等の放送用で、波長485m(619kHz)は収穫情報・天気予報(Crop report, Weather forecast)の放送用になりました。

特に農務省(Agriculture Department)は多くの農家が作物市場の情報や明日の天気を新聞で得ているが、放送の導入でスピードアップできると期待していました。今回それが織り込まれて619kHzの専用波が用意されましたが、開局するラジオ局の大部分は音楽やニュースを扱うのが目的だったため、833kHzに集中しました。

 

1921年までは商業陸上局の中に、放送する無線局が埋もれていたため、商務省のRadio Service Bulletinの新局告示を見ても、放送する無線局を別けてカウントするのは難しい面がありました。

しかし1921年12月1日の改正でBroadcastingが定義され、波長360mまたは485mを許可されていれば放送局だろうという判断が出来るようになりました。

さらに商務省は左図の1922年(大正11年)3月10日付け「放送局一覧リスト」"List of stations broadcasting market or weathers (485 meters) and music, concerts, lectures, etc. (360 meters)." を発表しました。

ここには67局がリストされていて、商務省がどの無線局を放送局だと判断していたかが分かる最初の資料だといえるでしょう。

 

さて初の「放送局一覧リスト」(1922年3月10日)を、私が波長別に色分けたものが左図[左側]です。

黄色が波長360m(833kHz)の報道・コンサート・講演番組を放送する局、ピンクが波長485m(916kHz)の市場情報や天気予報番組を流す放送局です。

そして黄緑色は両波の免許を受けた局です。両波の免許を受けたといっても二波同時に出すのではなくて、音楽番組から天気予報に移る時には送信機の波長を833kHzから916kHzに再調整したため、大変な作業だったようです。また聴取者側にも受信ダイアルを合せ直すという煩わしさがありました。

 

とにかくこの初の「放送局一覧リスト」により商務省がどの無線局をラジオ放送局だと認識していたかが明確になりましたので、この表をベースにして、それぞれがいつ新局として告示されたかを調べてみました。

調査対象は商務省RSB(Radio Service Bulletin)のNo.54(Oct.1, 1921)からNo.60(Apr.1, 1922)です。

 

● RSB(Oct.1, 1921, No.54)にはWCJ, WDY, WBZの3局が告示されています。1921年9月分です。なお免許されたことと、開局したことはまた別ですのでご注意ください。

● RSB(Nov.1, 1921, No.55)にはKQV, KQL, WJX, WBLの4局がありました。WBLは翌3月にコールサインがWWJに変更されています。ここまでが1921年10月分です。

● RSB(Dec.1, 1921, No.56)にはウェスティングハウス社のKYWの告示のみです。ここまでが1921年11月分で、12月1日の規則改正前の商業ラジオ放送は10局だったと推定できます。なおこれとは別にアマチュア免許による波長200m(1500kHz)のラジオ放送(Citizen Radio)が全米に多数点在していました。

 

● RSB(Jan.3, 1922, No.57)には1921年12月分の新局が告示されましたが、ここからが改正された規則に基づくものです。KZM, KZY, WDM, KGC, KJQ, KQW, KVQ, KGB, WOU, KDN, KYJ, KFC, KWG, WHM, WDW, KJJ, KYY, WDT, WJH, KZCの20局が一気に許可されました。なおKZCは3月にKOGに指定変更されました。

● RSB(Feb.1, 1922, No.58)には1922年1月分の新局が告示されました。WNO, KLB, WLK, KLP, WDZ, WPB, WLB,WHAの8局が許可されました。(WDZ/WSZは不明点が多く現在調査中)

● RSB(Mar.1, 1922, No.59)には1922年2月分の新局が告示されました。WGI, WOR, WBU, WHK, WRK, WHU, KUO, WGY, WOH, WGL, WOC, WOS, WGH, WOZ, WOK, KGF, KFU, WFO, WHQ, WHW, WJK, KHQ, WOQの23局でした。

● RSB(Apr.1, 1922, No.60)には1922年3月分の新局が76局も告示されました。そのうち3月10日のリストに掲載されたのはKJS, WLW,KJR, KLS, KLZ, WRLの6局です。左図には表記しておりませんがこの他に70局が3月末までに許可されました。すなわち1922年3月31日には137局になりました。

 

ラジオ局の数は1921年12月から凄い勢いで増加を始め、その多くが波長360m(833kHz)の単一免許(左表黄色)でした。

そのため大都市圏では複数の放送局が波長360m(833kHz)の免許を得ていて、それぞれが使う時間を紳士協定せざるを得ない事態へと発展しました。

31) 国内無線会議で2.0-3.0MHzを商業放送用に決議 (1922年3月2日) [WH編]

米国のウォレン・ハーディング大統領は急増の兆しを見せ始めたラジオ放送用の周波数分配について関係者を招集して討議するようにハーバート・フーバー商務長官に命じました。そしてフーバー商務長官はラジオ関連者・団体を招集し、1922年(大正11年)2月27日から3月2日、アメリカの各種無線局の周波数分配を考える初めての会議Conference of Radio Telephony(第一回国内無線会議、First National Radio Conference)が開催されました。

『 本会議に出席した全部の委員は、合衆国が決定的なラジオ政策を必要とするという点に付いては異議のない所であった。しかしながら、それから先の事に関しては、出席者の意見はまちまちであり、商業的放送企業家は素人無線家の無責任な(混信)行為を非難し、素人無線家は商業的放送局所有者の利己的政策を逆襲し、各党派は他の党派の取締りを強固に要求する有様であって、・・・(略)・・・

各出席委員はそれぞれの代表機関の利益のみを擁護せんとした為に、会議は次第に激化した。警察は警察専用の特別放送波長を要求し、放送局を所有する新聞はこれに附帯する問題を有し、百貨店がラジオを通じて広告を行う傾向が非難され、またこれを擁護し、聴取状態の不良な送受信機製造業者は酷評され、ラジオ機器の製造会社の或るものが独占的傾向に在りと非難され、各人各説をとなえ喧々諤々として、何時はてるとも見えない有様であった。 』 (岡忠雄, 『米国の放送無線電話企業』, 1942, 通信調査会, p51)

 

関係者の合議によって周波数を分配するのは初めての経験だったので、きわめて利己的な会議になってフーバー商務長官を大いに嘆かせました。しかしそれでもなんとか妥協しあい、下表50kHzから3MHzまでのバンドプラン(推奨案)が作成されました。

以前より実施されていた海軍無線局による軍内慰安放送などの連邦政府放送(Government Broadcasting)や、州の政府機関、大学等により運営される公共放送(Public Broadcasting)用として周波数146-162, 200-285.7, 400-462, 606-619kHzが分配されました。

ただし400-462kHzバンドは船舶局と海岸局で交わされる船舶無線電話(Marine Radio Telephony)や、海上公衆通信の国際波である500kHzを妨害しないよう、ロケーションによる使用制限が付加されました。ちなみに米国にも長波放送(146-162kHzと200-285.7kHz)の構想があった点は注目に値します。

周波数1,052-1,091KHzは州政府や大都市が大規模災害の発生時に情報発信するための災害緊急放送(Public Safety Broadcasting)を企図して確保されました。

 

また、民間の商業放送(Private Broadcasting)や、AT&T社が目指した時間売り有料放送(Toll Broadcasting)には周波数618-1052kHzの約400kHzを割り当てました。この種の放送にはもっと多くの周波数帯を分配したい所でしたが、もうどこにも空きがなく、2.0-3.0MHzを商業放送・有料放送用に決議しました。

アメリカの電波行政史上において、2MHz以上の高い周波数に専用バンドを分配する案がなされたのは第一号はなんと「放送」だったのです。しかし民間放送事業者たちはこんな2.0-3.0MHzの"飛び地"より、618-1091kHzの放送バンドを高い方へ(1500kHzに向って)拡張して欲しかったでしょうね。

 

一方アマチュアは念願だった1.5MHzより低い周波数(1091-1500kHz)の分配が決議されましたので大喜びでした。ARRLの成果ということでしょうか。引き換えに短波の使用を申請できる権利を失うことになりますが、そもそも飛ばないといわれていた短波に、アマチュア達は興味がなかったようです。

 

この国内無線会議の決議は、(民間無線を管轄する)商務省と、(省庁無線を管轄する)IRACへ勧告案として送られました。

32) 大都市圏では放送用833kHzの運用で紳士協定 (1922年春) [WH編]

ニューヨークの近郊都市圏(ニューヨーク州マンハッタン地区と、川向こうのニュージャージー州ニューアーク地区)においては、1921年(大正10年)10月1日にウェスティングハウスのWJZ(ニューアーク, NJ)が定期放送を開始したのが最初です。しかしWJZの独占は長くは続きませんでした。

1922年(大正11年)2月、WJZと同じニューアーク地区でL. Bamberger & Co. がバンバーガー百貨店WORの許可を得ました。

『放送局はすべて同一波長を指定されたのである。・・・(略)・・・したがって同じ土地の二局が同じ波長を使うには、時間を分け合う他はない。商務省は時間の割当てまではしなかったので、局同士が自主的に話し合わねばならなかった。先に名前が出てきたバンバーガー百貨店(Bamberger depertment store)のWORが一九二二年初め開局したとき、WJZはWORとの交渉に応じて時間を分け合った。或る日はWORが日の出から日没まで、WJZは残る夜の時間。次の日はWJZが日の出から日没まで、WORは残余の時間という具合である。』( 堀田正男, 放送のはじまり 下(アメリカ放送史研究①), 『東海学園国語国文』43号, 1993.3, 東海学園女子短大国語国文学会, p36)

 

さらに翌3月にはマンハッタンのワナメイカー百貨店がWWZ、ニューアークのD.W. May(Inc.)がWBS、(ニューアークの北)リッジウッドのリッジウッド・タイムズ出版社がWHN、(リッジウッドの東)タリータウンのタリータウン無線研究所がWRWの許可を得ました。全局が833kHzの許可なので、兄貴分のWJZを中心に6局が集まり、使用時刻の協定を結びました。

 

(現代の常識ではちょっと驚きですが)聴取者は受信ダイアルを833kHzに合わせたままで、時刻によって聞こえてくる放送局が次々変わることに、あまり抵抗はなかったようです。いちいち選局する手間が要りませんから。

しかし放送局側としては良く聞かれる期間帯で放送枠を確保したいのは当然のことで、「833kHzの時間割り」は大変やっかいな問題でした。当然、複数波を放送用に確保するべきだとの声が放送界では強くなりました。

 

1922年4月になると、ニューアークのI.R. Nelson社にWAAM、ニューアークの北、パターソンにWireless Phone社のWBAN、マンハッタンの有線通信会社AT&TのWBAYに許可が下りました。もちろんこの三局も833kHzです。こうして新局が認められるたびに全社が集まって「833kHzの時間割り」を再協定しなければなりませんでした。

 

左図は1922年6月のメトロポリタン10局(下表)による協定タイムテーブルです。

【参考】10局目のWAAT(Jersey City, N.J.)は協定には参加したものの、結局開局できないまま消えました。 

左図の見方ですが上から下へ、時間枠(08:00-24:00)が並びます。そして左から右へ、Mon.(月曜)・Tues.(火曜)・Wed.(水曜)・・・Sun.(日曜)で、使用する放送局のコールサインが書き込まれています。

朝の08:00-09:00は各局の送信機の調整にあてられました。そして09:00-09:15の15分枠はメトロポリタンエリアで最初のステーションであるWJZが1週間すべてで確保しています。よくみると12:00-12:30、12:55-13:00、16:00-16:15もそうですね。

ところで日曜日の礼拝タイム(10:30-10:50)が空欄になっていますが、これは教会サービス(教会からの説法中継)の準備ができた局が名乗りを上げたのではないでしょうか。

 

夜の19:00-19:30(日曜は18:30-19:30)はやっぱりWJZですね。特に土曜の夜は19:00-24:00の放送終了までWJZの独占です。火曜日の夜19:30-21:00はマンハッタンのワナメイカー百貨店WWZが、木曜夜は19:30-24:00放送終了までAT&TのWBAYが確保しています。この「833kHzの時間割り」から放送局の力関係がなんとなく分かるような気がしますね。

 

そもそも海上公衆通信は国際波300, 600, 1800mのたった3波だけで、世界的に共有できたという実績が無線界の常識としてありました。ですから新しく誕生した「放送」も、二波の共有で済むのではと想定されましたが、ようやく今「放送には共有波はなじまない」ことがはっきりしました。この様に、かつて米国において紳士協定で833kHzがシェアされた時代があったことは放送史上でも特筆すべきものだと私は考えています。

33) コンラッドはなぜ短波に向ったのか? [WH編]

1922年(大正11年)3月2日、国内無線会議で618-1,052kHzバンドと2.0-3.0MHzバンドを商業放送に割当てる勧告案が採択されました。

しかし1922年6月30日におけるラジオ放送局は378局(833kHz単波:307局、619kHz単波:8局、833/619kHz複波:63局)に膨れ上がっていて、国内無線会議での増加予測を遥かに上回っていました。商務省が618-1052kHzバンドの具体的なチャンネルプランを検討している間にも、どんどん局数が増えるので、実行に移すタイミングを失っていました。

 

このままだと618-1052kHzバンドだけでは足りなくなることが予感され、電波行政当局(商務省)としては「2.0-3.0MHz放送バンド」の実用化開拓を促進したいところでしたが、市販のラジオ受信機は上限周波数が1.6や1.7MHzあたり迄なので、誰にも受信してもらえない2.0-3.0MHzで放送を望むラジオ局の経営者は現れませんでした。

そんな状況下で唯一、コンラッド氏だけは違っていました。コンラッド氏は8XKによる短波試験でいくつかの短波の利点を知りました。短波は火花局からの高調波妨害がなく、また(当然ながら)中波帯のように混雑しておらず広々としていることです。さらにフェージングも中波より軽減されるように感じていました。

 

もし3MHz付近の電波が放送局に与えられるのなら、1921年(大正10年)1月2日からレギュラー番組化している教会サービス(日曜礼拝の説教中継)で、これを現場中継用に使ってみようとコンラッド氏は考えました。全米で真っ先に短波の放送利用に手掛けたのはウェスティングハウス社のフランク・コンラッド氏でした。

KDKAは教会の協力を得て、説教音声を有線回線でスタジオに送っていました。左図はCalvary Churchと、KDKA職員がその教会内でマイクアンプ(調整器)を操作している様子です。

1922年にはKDKAはピッツバーグ市内の4つの教会とスタジオを結び、毎日曜の朝、このいずれか一つの教会から現場中継を行いました。

少なくともPoint Breeze Presbyterian Churchには有線と短波の両方を設備していたようで(時期は不明ですが1922年の夏頃だと想像します)。

『 When KDKA began broadcasting church services from the Point Breeze Presbyterian Church, there was more involved than a contribution to religion. Westinghouse arranged a wire connection with the church but also placed in the church steeple a 200-watt short-wave transmitter. Two ways of relaying the services to KDKA were thus available. When the short-wave link was in use, the engineers at each end conversed via the wire link, and vice versa. 』 (Erik Barnouw, A Tower of Babel: A History of Broadcasting in the United States [Vol.1 – to 1933] , 1966, Oxford University Press, p151)

コンラッド氏はリモートピックアップ業務(スタジオ外からの中継)に、なぜ短波を使ったのでしょうか?

教会から833kHzで音声を送って、KDKAが833kHzで受けた音声を、833kHzで放送することは出来きません。番組中継には放送と異なる周波数が必要です。618-1,052kHzバンドの分配方法や既存商業陸上局の移転策がまとまっておらず、開放される兆しが見えませんが、「2.0-3.0MHzの放送バンド」なら誰も使っていないので、実験局として免許を受けるのは簡単でした。

 

それともうひとつ、KDKAの番組をこの2.0-3.0MHzで系列局へ配信できるのではないか。そうすれば有線通信会社(AT&T)への回線使用料を回避できるとコンラッド氏は考えました。

1922年にはウェスティングハウス社は四つのラジオ局を持っていました(左図)。1921年9月19日に本放送を開始したスプリングフィールドのWBZ、10月1日にニューアークのWJZが、11月11日にシカゴのKYWが放送を始めました。親局KDKAをはじめとして、すべて波長360m(833kHz)です。

ですから例えばスプリングフィールドのWBZが、親局KDKA(833kHz)を受けて、それを再放送(833kHz)することは出来ません。別の電波が必要です。

せっかく勧告された618-1,052kHzの分配が進まず、1922年の米国放送界が、「833kHz一波」のままだったことにより、逆にコンラッド氏の短波へ進出を後押ししたように思えます。

34) クリーブランドでの短波実用化の検証実験を決定 (1922年6月) [WH編]

KDKAから北西に176km離れたエリー湖に面する都市、クリーブランド(Cleveland)ではKDKAの受信状態が劣悪でした。同社の技術陣が"デット・スポット"と呼んでいたエリアのひとつがこのクリーブランドです。

そこでウェスティングハウス社はKDKAの番組を短波でクリーブランドへ送り、中波で住民へ提供するという、本格的な検証実験を行うことを決定しました。

『 この(短波の)成功によって励まされたウエスチングハウス会社の無線技術者は、新しい領域の開拓に乗り出した。既に数年前から、米国のあらゆる州の或る部分に於いては、受信状態が不良の地域が存在していることに気がついていた。例えば、オハイオ州クリーヴランド市の如きは、三六〇メートルのKDKA放送局(在ピッツバーグ市)からの放送を満足に聴取することが出来なかったのに反し、クリーヴランド市より更に遠隔の地方では何等の困難なくこれを聴取することが出来たのである。そこでウエスチングハウス会社の技術者はクリーヴランド市を絶好の目標物として短波放送の実験を試みることとなった。 』 (岡忠雄, 米国の放送無線電話企業, 1942, 通信調査会, p89)

 

短波史上で重要なこの決定は1922年(大正11年)6月だったと、コンラッド氏の助手リトル氏が記しています。

『 In June, 1922, it was decided to conduct preliminary tests on a large scale by repeating, at Cleveland, Ohio, signals transmitted from East Pittsburgh, Pa. 』 (D.G. Little/F. Falknor, "KFKX, The Repeating Broadcasting Station", Radio Age, Mar.1924, Radio Age Inc., p37)

 

ウェスティングハウス社は短波中継の実用化試験のために(コンラッド氏名義の8XKではなく)会社名義の実験局免許を商務省に申請しました。研究成果によってはさらに高い周波数まで放送用に拡張できるかも知れず、コンラッド氏は短波に大きな希望を託して飛び込んで行きました。

35) 第三放送波 400m(750kHz)を追加 (1922年8月8日) [WH編]

1922年(大正11年)8月8日、国内無線会議の勧告を受けて商業放送バンド(618-1052kHz)創設へ向けた第一弾として、商務省は波長400m(750kHz)を放送用に指定する規則改正を行いました。

この規則改正では新たに「クラスB」と称する放送局を定義しました。クラスBはアンテナ出力が501-1000Wの局で、従前からの833kHzに対する第二のエンターテイメント波として750kHz(波長400m)を用意しました。

しかし商務省の思惑に反してクラスB(750kHz)の新規申請は思ったほど増えず、833kHz波の混信問題の解決にはなりませんでした。

 

下図は従前からの619kHzと833kHzの放送波と、創設勧告を受けた618-1052kHz放送バンドの関係を示したものです。

833kHzを放送バンドのセンターに据えて、また619kHzを放送バンドの下限として考えられたものが、618-1052kHz放送バンドです。

しかしこの周波数帯には国際公衆通信用の波長300m(1000kHz)や、国内用公衆通信用の波長450m(667kHz)があり、これを保護しなければなりません。それに618-1052kHz帯は放送以外の商業陸上局に割当てていたため、それらを移転させる必要があり、簡単に実行に移せるものではなく、とりあえず波長400m(750kHz)を放送に分配しました。

 

商務省電波局のRadio Service Bulletin(Oct.2,1916, No.66)で移転組の第一陣が告示されました(ただしAT&T社のWBAYは廃局し、WEAFで再開局)。

ウェスティングハウス社のKYW(シカゴ)が750kHzに引越しました。

RSBの翌11月号ではWBAP(Fort Worth, Tex., 750/619kHz)、WDAF(Kansas City, Mo., 750/619kHz)、WFI(Philadelphia, Pa., 750/619kHz)、WHB(Kansas City, Mo., 750/619kHz)、WOC(Davenport, Iowa, 750/619kHz)、WSB(Atlanta, Ga., 750/619kHz)の6局が告示されました。

結局1923年3月になっても750kHz(400m)の許可を得たのは27局に留まりました。旧来の833kHzと、新しい750kHzをうまく分離できない粗悪な受信機が一部にあり、833kHzと750kHzの共存を疑問視する放送局オーナーもいたようです。

36) 8XSで国際短波中継のアイデアが芽生える (1922年8月) [WH編]

1922年(大正11年)8月にはKDKA局の中に、WH(ウェスティングハウス)社を免許人とする短波実験局8XSの免許を受けました。

商務省電波局のRadio Service Bulletin(Oct.2,1922, No.66)で8XSが告示されています(左図)。今まではコンラッド氏の個人名義の実験局8XKで会社の仕事(短波の調査)を行ってきましたが、ここからはいよいよ会社名義の実験局8XSにより短波中継の試験に乗り出すことになります。

 

ちょうどそのタイミングで、英国から来客があり、KDKAの短波による国際中継の可能性が話し合われました。過去にWH社の資本系列にあった、メトロポリタン・ヴィッカーズ電気会社(Metropolitan-Vickers Electrical Company [旧:British Westinghouse], 英国マンチェスター)研究部門マネージャーのフレミング氏(A. P. M. Fleming)が、WH社開発部門を訪問しました。英国でまもなくスタートする英国BBC放送の発展について、放送先進国の老舗KDKAと意見交換するのが目的でした。

『In the summer of 1922, Mr. A. P. M. Fleming, manager of the research department of the Metropolitan- Vickers Electrical Company, visited the engineering department of the Westinghouse Company. During this visit, he talked with Mr. Conrad, Mr. Davis, and others of the officials interested in broadcasting and was told of the short wave tests and how this new medium promised great developments in the radio field. It was in a talk with Mr. Davis that the idea for this international broadcasting was started. 』 (W.W. Rodgers, "Broadcasting Complete American Programs to All England", Radio Broadcast, Mar.1924, Doubleday Page & Company, pp360-361)

 

デヴィス副社長やコンラッド氏らとのミーティングの中で、KDKAの番組を実験局8XKでサイマル送信し短波の伝播試験を行ったこと、そして新たに実験局8XSのライセンスを受けて短波中継の試験を始めようとしていることを聞いたフレミング氏は、番組制作面で経験豊富なKDKAの番組をそのまま英国へ中継できれば良いのにと思いました。このミーティングがデヴィス副社長とコンラッド氏を国際短波中継へ向かわせる大きなきっかけでした。

 

ウェスティングハウス社はもし短波による番組配信が実用になるならば、KDKAから米国西海岸まで結ぶ大陸横断無線中継回線を想定していました。しかしそれにはどこか中間地点で二段中継する必要があると考えていたので、実のところコンラッド氏は(米国西海岸よりもっと遠い)英国へダイレクトに中継できるとは思っていなかったのではないでしょうか?

37) 英国のラジオ8・・・英国ラジオ放送会社BBCの誕生 と 新たなビジネスモデル [WH編]

この時期、英国で大きな動きがありました。

1922年(大正11年)9月、メトロポリタン・ヴィッカーズ社は家庭向けラジオ受信機(鉱石式および真空管式)の販売を開始しました。左図はその同社製の鉱石ラジオ"Cosmos"です。

同社はラジオ放送を行う一方で、その受信機を住民に販売するという、米国のWH(ウェスティングハウス)社のビジネスモデルにならうつもりでしたが、政府主導で英国放送会社BBCが創設されることとなり、方向転換を余儀なくされました。

 

1922年10月18日、英国郵政庁GPOの音頭取りで六大電気会社の出資による英国放送会社BBC(British Broadcasting Company)が誕生しました。英国放送会社BBCの発足に伴い、メトロポリタン・ヴィッカーズ社のラジオ局2ZYとウエスタン電気ロンドンのラジオ局2WP)BBCへ移管されることになりました。やむなく放送事業を手放したのです。

【参考】 英国放送会社BBC(British Broadcasting Company)は、現在の英国放送協会BBC(British Broadcasting Corporation)の前身にあたります。

 

米国とはまったく異なる放送事業モデルが誕生しました。当サイトは「電波は誰のもの」を基本テーマとしていますので。少し寄り道になりますが。ご紹介します。

『英国の放送無電

米国では、この放送を、余りに自由にしたため、放送事業が非常の盛況を来して、これがため、近頃では、混信妨害に苦しみ、整理中であるが、英国はこうした前轍(ぜんてつ)を踏まぬよう、予め準備してかかった。即ち、郵政長官の斡旋によってマルコーニ会社やトムソン・ハウストン会社、ゼネラル・エレクトリック会社、メトロポリタン・ヴィッカーズ会社、無線通信会社、ウエスタン会社などが、主なる株主となって、新しい、英国放送無線電話株式会社(BBC)というのが組織せられ、そしてその会社に、英国内の放送を独占的に許可することにしたのである。

この会社の資本金は十万ポンドで、一株の払込一ポンド宛で、もちろん右会社以外の製造、販売業者も信用あるものは株主として、仲間入りが出来たのである。一方、この放送を聴取する一般側はというと、郵政長官はこの放送会社すなわち、B.B.C.のメンバーである会社が製造した受信機に限って許可証を与えることにしたのである。だから、受信機が、製作されたならば、どうしても、この郵政庁の証明を得なければならない。証明された機械には、郵政庁のレヂスターが貼付けられることになっている。

一般公衆が、この受信機を設置するには、更に施設の許可証を受ける必要があり、同時に税金として、十シリングを納入し、うち五シリングは政府の収入、五シリングは放送会社(BBC)へ放送費の一部として交付されることになっている。

さらに放送会社(BBC)に対し、製造、販売者は次のような歩合で、納金する仕組みである。

 

鉱石装置 七シリング 八ペンス

非真空管増音装置 七シリング 六ペンス

鉱石および一個真空管装置 一ポンド 七シリング 六ペンス

鉱石および二個真空管装置 二ポンド 二シリング 六ペンス

一個真空管装置 一ポンド

二個真空管装置 一ポンド 十五シリング

三個真空管装置 二ポンド 五シリング

四個真空管装置 二ポンド 十五シリング

受話器片耳 三シリング

高声器 二ペンス

 

即ち、放送会社(BBC)は、この納入金と政府の交付金によって、放送費を弁ずるのであるが、もし収益を得れば、七分五厘(7.5%)までは配当してよい事になっている。それから放送のプログラムは、主に、音楽、講演、新聞記事、商況、天気予報、などで、新聞記事はロイテル(ロイター通信)、セントラルニュース、エキスチェンジテレグラフ、プレスアソシエイションの四社から世界の出来事を放送するのである。』 (田村正四郎, ラヂオの知識とラヂオ商になる人の手引, 1924, 実業之日本社, pp25-27)

その後、日本では議論の末、この英国式の事業モデルが採用されました。

 

1922年11月、BBC放送として14日にロンドン2LO(361m[831kHz])、15日にマンチェスター2ZY(384m[781kHz])およびバーミンガム5IT(元2WP。移管直後にコールサインを5ITに変更し、放送波長を384m[781kHz]から425m[706kHz]に移した。)の三局が開局しました(下地図の黄緑局)。当初の放送は18:00-21:00の3時間だけでした。なおラジオ放送の先導役をはたしたライトル2MT(400m[750kHz])はBBCには参加せず、週一回(毎木曜20:00~)だけ音楽番組のみに縮小され、1923年1月17日の放送を最後に閉局しました。

やや遅れて、12月24日にニューカッスル5NO(312m[962kHz])、1923年2月13日にカーディフ5WA(353m[850kHz])、同3月6日にグラスゴー5SC(405m[741kHz])が続きました(下地図中のピンク局)。局数が増えたため周波数を下表のように改めました(なおBBC各局はこのあとも頻繁に周波数を変更しています)。

やがてBBC各局は専用陸線で結ばれましたが、基本的には各局単位での放送で、ロンドン市内で音楽演奏会がある際などに限り、中央局(2LO)発の中継番組が同時放送される程度でした。

38) 8XS と KDPM の機器調整が始まる (1922年9月1日) [WH編]

1922年(大正11年)8月、実験局8XSの免許を受けたウェスティングハウス社は実験設備の設置を終えました。そしてコンラッド氏は9月1日頃よりクリーブランド(Cleveland)への機器調整を始めました。この中継試験は翌年1月まで行われました。

『 Station KDKA was equipped to transmit at frequencies near 3,000 kilocycles while the Cleveland station's equipment consisted of a receiver for this frequency, and an 833 kilocycle transmitter. This apparatus was completely installed and ready for actual tests about September 1. Tests conducted between these two points, from September, 1922, until January, 1923, indicated that the use of a very high frequency as a primary carrier in a repeating system was not only highly desirable but entirely possible from a practical standpoint.  』 (D.G. Little/F. Falknor, "KFKX, The Repeating Broadcasting Station", Radio Age, Mar.1924, Radio Age Inc., p37)

 

250W真空管を4本パラレルにした自励発振器に、KDKAの放送音声を分岐してきた音声を、同じ250W真空管5本の変調器で直接AM変調を掛けるものです。約800W程をアンテナに供給できたとコンラッド氏はIRE学会の論文に記しています。

『 This transmitter was equipped with four 250-watt air-cooled oscillators and five modulators of similar type, the modulator tubes being disconnected when the set was operated for telegraphy. The four oscillators delivered approximately 800 watts to the antenna circuit. 』 (Frank Conrad, "Short-Wave Radio Broadcasting", Proceedings of the Institute of Radio Engineers, Volume12 Issue6, Dec.1924, P726)

 

また実験の目的とするところではありませんが、無線電信も発射できるように、時には変調器が切れるようにしました。しかし実際にキーイングしてみると、電波を断続させるたびにヒュ~ン・ヒュ~ンと周波数が1kHzも変動することから電波を断続させるには適さないことがわかりました。

 

空中線は工場の屋上に銅管式の自立垂直型アンテナを建てて、工場の建屋自体へ接地しましたが、工場内の作業による機材の動きなどが空中線の共振周波数を変化させ、それが自励発振回路にも影響し発射周波数をふら付かせることが判明しました(下図[左])。結局このアンテナは逆Lアンテナと、それを反転させた逆L型のカウンターポイズに取り換えました。これについては後述します。

左図[右]が今回試作された変調器(左)と短波発振器(右)です。工場内の振動を吸収させるために発振器はスプリング入りの台座に据えられ、さらに発電施設からの電源ラインを工場で使うのものとは分けました。これらの予防策は周波数の安定性に大きく貢献したとコンラッド氏は論文で発表しています。

こうして、ようやく放送中継の試験が実施できるレベルにまで漕ぎつけたのは10月下旬でした。

39) 8XS 短波中継の試験がスタート (1922年10月27日) [WH編]

1922年(大正11年)10月27日、夜20:00-22:00にクリーブランドへの最初の短波中継試験が行われました。

昼間でも夜間と同じ様に受かることが分かりました。

『 The first transmission experiments were carried on between Pittsburgh and Cleveland, attempts being made at Cleveland to pick up the high-frequency signals and relay them thru a small broadcasting set installed there. On the night of October 27, 1922, KDKA's program was first relayed in Cleveland from 8:00 to 10:00 P.M.

Cleveland is only about 110 miles (176 km.) from Pittsburgh by air line, but lies in one of those peculiar radio areas where reception of signals from Pittsburgh is comparatively difficult.

It was found that the signals received at Cleveland from this high-frequency transmitter were very much louder than those received from the regular broadcasting transmitter, having about the same power output. It also was found that the signals were nearly as loud during the daylight hours as at night. 』 (Frank Conrad, "Short-Wave Radio Broadcasting", Proceedings of the Institute of Radio Engineers, Volume12 Issue6, Dec.1924, P727)

実験を進める中で、波長91m(3.3MHz)で送信した場合は昼間より夜間の方がやや良好で。波長80m(3.75MHz)を使うと夜間より昼の方が強いことに気づき、以後実験には昼間は3.75MHz、夜間は3.3MHzに切り換えて行われました。

 

一番の問題はクリーブランドで受けた受信音が大きく歪んでいたことです。周波数の安定化には十分配慮したつもりでしたが、いざフィールド試験をやってみると、高速フェージングの影響も重なって、とても番組中継には使えないクオリティーになりましした。コンラッド氏は変調回路の微調整を繰り返し、どうにか運用に利用できるレベルになり実験が終了したのは翌年の1月でした。ところでウェスティングハウス社は1922年12月にクリーブランドで実験局8XO(波長:可変)の免許を受けたことが商務省のRSB No.69(Jan.2, 1923)で告示されています。クリーブランドでの最終テストの際に使われたものと考えられますが8XOの詳細は不明です。

40) 3.2MHzで短波中継実用化の検証実験が始まる (1923年3月4日) [WH編]

1923年(大正12年)3月4日、コンラッド氏は東ピッツバーグのKDKAからクリーブランド(Cleveland, Ohio)の系列局KDPMへ、実験局8XSの波長94m(3.20MHz)を使って短波中継の試験運用を始めました。これは実際にクリーブランドの住民に番組を提供することで、その実現性を見極めるためのものでした。

もしこれが成功すれば次はマサチューセッツ州スプリングフィールド(Springfield)の系列局WBZ(左図[右])にも短波受信機を施設して、東海岸方面への短波中継も試してみる予定です。

WBZはWH社としてKDKAの次に定期放送をスタートさせた老舗ラジオ局で、1921年9月19日に本放送を開始しました。さらに同年10月1日にニュージャージー州のニューアークでWJZが、11月11日にイリノイ州シカゴでKYWが本放送を始めて、「KDKA-WBZ-WJZ-KYW」のウェスティングハウス社のラジオネットワークを形成しました。(ただしWJZは1923年5月15日にRCA社へ売却)。

ウェスティングハウス社の最終目的は西海岸への「米国横断 短波中継回線」を建設し、西部進出の足掛かりにする事にあり、KDPMへの短波中継はそれを実現させるための事前テストの意味合いを持っていました。

 

3月4日に開始したKDPMへの短波による番組配信は世界で初めての試みでしたので、週刊Radio World(3月10日号, p22)は短波を使ったKDKAの短波番組中継がどういうものかを一般読者へ紹介しました(下図)。

左図[左]がKDKAの短波空中線で、写真中のAがアンテナで、Cがカウンターポイズでした。

40フィート(12m)離れたマスト間に、2本アンテナ線を平行に渡し、これを束ねて右のマストの中央部に引き下ろしています。アンテナ水平部の高さは35フィート(10.5m)でした。

またカウンターポイズCも全く同じ構造で、高さ12フィート(3.7m)の低い位置で、2本のカウンターポイズを平行に渡し、これを束ねて右マスト中央部に引っ張っています。

当初は左の写真のようにワイヤーで構成していましたが、アンテナ線が風で揺れるとフェージングの要因となることから、左のイラスト図のように(電信柱風に)全て腕木を出したマストにして、アンテナ線の揺れを最小限に抑えました。

 

このアンテナはウェスティングハウス社の標準的な短波空中線として、初期の実験で多用されたといいます。後述するヘイスティングスKFKXもこのタイプを用いました。

 

クリーブランドのKDPMの短波受信施設と、それを中波で再送信する接続器はエリー湖の湖畔、西58丁目に建設されました。

KDPMでは短波の受信アンテナが風で揺れて受信強度が揺らぐのを防ぐために、8フィート(2.4m)の正方形ループアンテナを採用し、それを屋内に設置しました(左図)。

中継放送試験の結果は上々で、クリーブランドの人達はまるで地元のラジオ局を聞いているような感覚でピッツバーグのKDKAが聴けるようになり大好評でした。しかしながら中継品位が空中状態に左右されるため課題も残ったようです。

 

またKDPMでの中継成功を受けてスプリングフィールドの系列局WBZでも短期間の短波中継が試されました。そして最終的にはおよそ20都市のアマチュア無線家や受信機研究家にKDKAの短波モニターを依頼しました。

彼らは所有する受信機の上限周波数をKDAKの3.2MHzまで拡張したところ、短波は放送受信に最適で、これを放送に使うにあたり欠点はないと全員が報告してきたと、WH社のW.W. Rodgers氏はWireless Age誌(1924年3月号, p39)に書いています。

『Then tests were made between East Pittsburgh and Springfield Mass.(WBZ), which also were successful, and finally, short wave or high-frequency receivers were installed in the homes of amateurs living in some 20 cities located so that they covered the country.

All holders of these sets reported that reception on short waves was very favorable and that there were none of the drawbacks to broadcast reception found on the higher wave lengths. 』 (W.W. Rodgers, "Will Short Waves Revolutionize Broadcasting?", Wireless Age, Mar.1924, Wireless Press, Inc., p39)

KDPMへの短波中継の成功で、コンラッド氏は大きな自信を得ました。

 

米商務省電波局のRSB(Radio Service Bulletin, Dec.1927)の "Important Events in Radio" に、この初の短波中継の成功が収録されました(左図)。 「1923年3月4日 ウェスティングハウス社のオハイオ州クリーブランドKDPMが、ペンシルバニア州東ピッツバーグKDKAからの短波中継に成功。これは史上初である。」

『On March 4, The Cleveland, Ohio (KDPM), station of the Westinghouse Electric & Manufacturing Co., successfully repeated shortwaves from the East Pittsburgh, Pa. (KDKA), station for the first time in history. 』 (Department of Commerce Radio Division, "Important Events in Radio", Radio Service Bulletin, Dec.31,1927, p14)

 

またラジオ放送25周年を記念して出版された"The first quarter-century of American broadcasting"の中の放送年表にも「1923年3月4日 ピッツバーグKDKAからの短波が、クリーブランドKDPMで(中波)再送信された」と記録されています(左図)。

『March 4  -  Short wave from KDKA, Pittsburgh rebroadcast by KDPM, Cleveland. 』 (E.P.J. Shurick, The first quarter-century of American broadcasting, 1946, Midland Publishing Company, p50)

実際に地元民への放送に短波中継が利用されていたのですから、KDPMへの中継を「短波の実用化の第一号」とするべきではないかと、私も悩みました。しかしウェスティングハウス社はKDPMへの中継を、あくまで実用化試験として位置付けているようで、とりあえず今は同社の判断に従うことにしました。(しかし将来、私の判断が変わって、KDPMへの中継放送の開始した1923年3月4日を短波実用化の日とするかもしれません。)

 

こうしてウェスティングハウス社は短波中継の実用化試験に踏み出したため、メトロポリタン・ヴィッカーズ社とも英国への国際中継の試験を実施について具体的に話し合うようになりました。

41) 第二回国内無線会議で中波放送バンドを強く勧告 (1923年3月24日) [WH編]

昨年の国内無線会議で放送バンドの創設が勧告されましたが、会議終了直後より想定以上の局数増加で、1922年の秋には勧告通りに618-1052kHzバンドを作ったとしても全局を収容するのは無理だと判断されて、実施を見送っていました。

1923年3月1日現在のラジオ放送局は556局に達していました(下図:RSB No.72, Apr.2, 1923, pp14-22より集計)。第三波の750kHzは周波数分散にはまったく効果がないため、いよいよ放送バンドを制定して各局に個別波を指定するのは避けられない状況でした。

 1923年3月20-24日、第二回国内無線会議が開かれ、放送局に550-1350kHzの800kHz帯を分配することを決議しました。

長波の海軍放送(Governmental Broadcasting)や公共放送(Public Broadcasting)を断念して、(550-1350kHz帯から追い出された)商業陸上局の引っ越し先として再編しました。また2.0-3.0MHz放送バンドの構想は一旦取り下げられて、2MHz以上の周波数の研究がもう少し進んでから分配案を策定することにしました。

アマチュア無線家にとって残念だったのは、せっかく低い周波数1,091-1,500kHzが手に入ると期待が高まっていたのに、放送バンドが1,350kHzまで上がってきたため、前回の合意が破棄されてしまったことです。

42) 中波放送バンドを創設 (1923年5月15日) [WH編]

1923年(大正12年)4月2日、第二回国内無線会議の中波放送バンド創設の勧告案をベースに、商務省は無線規則を改正して、4月4日付で告示しました。この新規則の施行日は1923年5月15日でした。

出力501-1000WのクラスB局(550-800, 870-1000kHz)と、出力500W以下のクラスA局(1000-1350kHz)を規定し、各局に個別周波数を指定することになりました。

しかし周波数の移転を望まない局には833kHzに留まることが認められ、これをクラスC局と定義し、クラスBバンドとの間にガード帯(800-870kHz)を作りました。

【参考】 海上公衆通信用の国際波1000kHzへの混信を避けるために、980-1040kHzは当面使用を保留とし、国際無線会議で国際波1000kHzが変更されるのを待ちました。

43) マルコーニ、アマチュアの短波 と コンラッドの短波 [WH編]

1923年(大正12年)5月15日は放送局が自由を勝ち取った日ともいえます。たとえばメトロポリタン地区では、WBSとWHNはクラスCとして833kHzに残留して運用時間の協定を続けましたが、その他のメトロポリタン各局は個別周波数へ移り、番組編成の自由を手に入れました(WBAYが610kHz、WJZが660kHz、WORが740kHz、WAAMが1140kHz、WBANが1230kHz ・・・etc)。

 

しかしその他の商業陸上局にとっては550-1350kHz帯から追い出された日でした。実用電波が1500kHzまでだったこの時代に、新参者の放送が800kHz帯域(550-1350kHz)を持って行ったのです。それも1500kHzしかない帯域の半分以上です!仕方ないとはいえ、これは通信界の危機であり、電波行政の観点からは短波長の実用化が"MUST"になりました。

マルコーニ氏は当初、指向性通信用として短波に注目しました。しかし実験の過程で長距離到達性に気付き、長波に変わる国際公衆通信を目指すように方向転換していました。またアマチュア無線家の興味も長距離到達性だったでしょう。短波開拓史においてマルコーニ氏とアマチュア無線家には"長距離"という共通のキーワードが思い浮かびます。

 

一方で放送畑のコンラッド氏は周波数不足問題の真っただ中にいたため、利用可能周波数の拡大という目線から短波に注目しました。教会サービス(教会からの現場中継)や系列局への番組配信を実現するには、放送により多くの周波数が必要だからです(833kHzで受信して、それを833kHzで再送信できない)。KDKAの中継国際放送の成功は後から付いてきた副産物といえます。

 

放送局が爆発的に増えた米国では長距離性能よりも、収容チャンネル増が切望されていたことは見逃せません。1928年(昭和3年)までJOAK, JOBK, JOCK の三放送局しかなかった日本では実感しにくい事ですが、米国での短波への進出動機は新周波数の開拓のためだったといえます。短波開拓史は長距離通信性能の話と、周波数枯渇の両面から語る必要があると私は思っています。

44) サイレントTime導入とアマチュアBand創設 (1923年6月28日) [WH編]

1923年(大正12年)6月28日、米国商務省は平日の20:00-22:30と、日曜日午前中の礼拝タイムに、アマチュアの電波発射を禁止する規則改正を行い、即日施行しました。ハム達は昼間の学校や仕事を終えて、夕食後にアマチュア無線を楽しんでいたので、アマチュア無線界には大打撃でした。

 

KDKA開局直後よりアマチュアとの混信がありました。

『 (当初は)この局(KDKA)の総電力は百ワットであったが、当時アメリカの素人無線局の電力に比較すると、相当強力なものであった。従ってこの局のため素人無線局間の連絡がかなり広範囲に妨害されたと同時に、火花送信機を使っていたこれらアマチュア局のため、KDKA局もまた相当の妨害を受けていた。このようなわけで電波の相互干渉妨害のため、同局と素人無線局との感情の対立は日増しに激しさを加えたが、ラジオ放送に対する社会的な関心がたかまるにつれて、後者(アマチュア)の立場は自然不利とならざるを得なかった。』 (日本放送史/1951年版, 日本放送協会, pp18-19)

 

分離性能の良くない鉱石ラジオの家庭も多く、1,500kHzでモールス符号を使って交信するアマチュア無線の電波が混信して、ラジオ放送が聴けないという苦情が商務省に多数寄せられていたからです。

昨年までならアマチュア無線免許でも放送することができたので、アマチュア無線用の周波数1,500kHzで"Citizen Radio"と呼ばれるラジオ放送を行うことが大流行し、まだ民間ラジオ局が開局していないエリアでは、アマチュア無線家の放送を聴く一般家庭もありました。しかし"Citizen Radio"が消滅した今は、アマチュア無線は迷惑な存在でしかなくなってしまったようです。

 

また6月28日に改正で、アマチュア無線の専用周波数帯として1,500-2,000kHzの500kHz幅が設けられました。世界初のアマチュアバンドの誕生です。これまでは1912年の規則により1,500kHz以上の周波数の中から、希望する周波数を許可してもらっていましたが、500kHz幅を自由に使える帯域免許となりました。

アマチュアには低い周波数の方が好まれていましたので、短波が使えなくなったことを気にするアマチュア無線家はほとんどいなっかったようです。

45) 西海岸方面への大陸横断中継計画が始動 (1923年7月) [WH編]

クリーブランドKDPMへの短波送信がいつまで行われたかは、いろいろ調査しましたがよく分かりませんでした。おそらく全米20都市での受信試験をもって、一旦終了し、不定期な中継になったものと想像します。

クリーブランドでの実用化試験の成功で自信を得たコンラッド氏は、兼ねてより温めていた西海岸方面への「大陸横断中継計画」をスタートさせることにしました。しかし東ピッツバーグから西海岸の海岸線までがほぼ3,600kmです。まだ短波の長距離到達性が知られていない時期でしたので、中間中継所を設けて二段中継により西海岸へ届ける計画です。【参考】東京-ハノイ(ベトナム)間が3,700km、1901年のマルコーニの大西洋横断が3,400km。

 

1923年7月より、KDKAの短波実験局8XSで波長94m(3.2MHz)を発射しながら、中間に位置する大都市セントルイス(KDKAから900km)とデンバー(KDKAから2,100km)の間において受信ポイントを変えながら地道な最適地探しが始まりました。コンラッド氏の助手リトル氏の記事を引用します。

『 In July, 1923, it was decided to attempt repeating over a greater distance, with the object of transmitting the programs of KDKA to the Pacific coast.  A series of tests was made between KDKA at East Pittsburgh and points intermediate between St. Louis, Mo. and Denver, Colo., to determine the maximum distance from KDKA that the secondary transmitter could be located.  』 (D.G. Little/F. Falknor, "KFKX, The Repeating Broadcasting Station", Radio Age, Mar. 1924, Radio Age Inc., p37)

現地踏査よりカンザスシティ(KDKAから1,300km)とデンバー(KDKAから2,100km)間で、カンザス州とネブラスカ州の境界あたりが良いことが分かりました。そして電力環境や建設敷地などを考慮した末、ネブラスカ州のヘイスティングスという小さな都市が浮かび上がり、ここに決定しました。

『 After the completion of this investigation, it was decided that the point in question was roughly near the center of the boundary line between Nebraska and Kansas.  The locating of a city or town having the desired facilities for power and suitable space available was next necessary.  The city of Hastings, Nebraska, seemed to meet all necessary requirements, and arrangements were made to locate the equipment at that place.  Hastings is located almost ideally for the purpose of repeating programs from Pittsburgh so that they may be heard with ordinary receiving equipment throughout all the middle west and can be heard on the Pacific coast with less elaborate equipment than is necessary to receive directly from KDKA. 』 (D.G. Little/F. Falknor, 前掲書, p37)

46) WH社とメトロポリタン・ヴィッカーズ社が大西洋横断試験に合意 [WH編]

もう一つ別の大きなプロジェクトが同時進行しました。

ウェスティングハウス社が短波中継の実用化に具体的に踏み出したことを知った、英国のメトロポリタン・ヴィッカーズ社はウェスティングハウス社に英国への番組中継試験を申込みました。メトロポリタン・ヴィッカーズ社は元ウェスティングハウス社の資本が入っていた古い兄弟ですので、両社は大西洋横断試験に合意しました。

しかし「短波は飛ばない」と考えられていた時代ですので、コンラッド氏は短波用の水冷式大電力真空管の開発に着手しましたが、大西洋越えの中継放送の可能性は低いと考えていたと想像します(仮に受信できても雑音やフェージングが多いと放送には使えないため)。

 

メトロポリタン・ヴィッカーズ社研究所のブラウン氏(B.J. Brown)が、Radio Broadcast誌(1924年6月号, pp115-119)に書かれた"The Inside Story of the British Broadcasting Experiments"から引用します。参考までに意訳してみますが、正確な英文解釈はご自身でお願いします。

「メトロポリタン・ヴィッカーズ社はWH社と緊密な技術提携を結んでいて、英国へKDKAの番組中継を試みることについて(横断試験の)数ヵ月前に合意した。WH社は波長100m付近で実験して、遠距離受信に有望なことを見つけたが、とはいえ短波は伝搬中に大きく減衰されるという理論に真っ向から反していた。」

 

『The Metropolitan-Vickers Company is in very close technical association with the Westinghouse Company, and several months ago it was agreed that a combined attempt should be made to relay the KDKA broadcasting programs in this country. The Westinghouse Company had been experimenting with short wavelengths around 100 meters and had found that they promised well for long-distance reception, though of course this is all against the theory of excessive absorption on short wavelengths. 』 (W.J. Brown, "The Inside Story of the British Broadcasting Experiments", Radio Broadcast, June 1924, Doubleday Page & Company, p115)

47) KDKAの短波が大西洋を越えた 5800km! (1923年9月) [WH編]

英国のメトロポリタン・ヴィッカーズ社はマンチェスター郊外のチェシャー州アルトリンチャム(Altrincham, Cheshire)に受信所を設けて、波長94m(3.2MHz)の受信機の製作と、アンテナの準備を行っていました。

1923年(大正12年)9月、双方の準備が整い横断試験が始まりました。

実際にやってみると、これまでの不安をよそに、アメリカの短波があっさり英国で受信できてしまいました。両社の関係者はさぞ驚いたことでしょう。

マルコーニ氏がこの年5-6月に英国ポルドゥー2YTと4130km離れた大西洋上アフリカ沖(カーボベルデ)のエレットラ号で、短波が超遠距離まで届くことを確認したことに次ぐ成功です。しかも短波による初の大西洋横断の成功です。KDKAは東海岸から内陸に入ったピッツバーグなので距離は5800kmにもなり、マルコーニ氏の記録を軽く超えてしまいました。

 

実際に短波中継波の受信を担当したメトロポリタン・ヴィッカーズ社研究所のブラウン氏(B.J. Brown)が、Radio Broadcast誌(1924年2月13日号, pp609-612)に書かれた"KDKA Experimental Work on the Relaying of American Broadcasting"から引用し、ざっくり訳しておきます。

「1923年9月、両社の共同調査が始まりました。WH社は波長100mの送信機を設置し、メトロポリタン・ヴィッカーズ社はチェシャー州のアルトリンチャムに必要な受信装置を設置しました。

当初の送信は比較的低出力でしたがそれでも受信は良好でした。300-500mのアメリカの中波放送と比較して、確かにとても満足な受信でした。それは一時的な異常伝播ではなく、日々そして刻々と夜間に信号が観測されたのです。特に、中波(300-500m)の信号が概して深夜1時か2時から聞こえるのに対して、短波は22時または23時には早くも受信できることがわかりました。また短波では火花式局からの妨害に大きな改善がみられました。」 ・・・こんな感じでしょうか。

『 In September, 1923, the joint investigation commenced. The Westinghouse Company installed at East Pittsburg a 100 metre transmitter, while the Metropolitan-Vickers Company equipped their station at Altrincham, Cheshire, with the necessary receiving apparatus.

As first the transmissions were of comparatively low power, but nevertheless good reception took place from time to time. As compared with the 300-500 metre American broadcasting, reception was indeed very satisfactory. Much greater constancy of signal strength was observed, both from day to day, and also from hour to hour during the night. In particular it was found possible to receive the 100 metre signals as early as 10 or 11 o'clock at night, while of course the 300-500 metre signals do not as a rule start coming through until about one or two o’clock in the morning. Great improvements were also obtained in the amount of interference from spark stations, “mush” and static. 』 (W.J. Brown, "KDKA Experimental Work on the Relaying of American Broadcasting", Wireless World and Radio Review, Feb.13,1924, Wireless Press, p610)

 

またBrown氏は前掲のRadio Broadcast誌(1924年6月号, p115)にも同様のことを書かれています。

「 1923年9月、WH社は波長326mの通常放送を波長100mで送信する実験を開始した。メトロポリタン・ヴィッカーズ社は波長100mの受信機を組立てて、チェシャー州オルトリシャンで受信した。 波長100mの方が波長326mよりも良好に大西洋を越えて来たことが、直ぐに明らかになった。」

 

『 In September, 1923, they commenced experiments with the Metropolitan-Vickers Company by transmitting their ordinary broadcast programs on 100 meters as well as on their normal broadcast wave-length of 326 meters. The Metropolitan-Vickers Co. built up a 100 meter receiver and listened to the transmissions at their experimental station at Altrincham in Cheshire. It was immediately apparent that the 100 meter transmissions came over the Atlantic better than the 326 meter wave-length. 』 (W.J. Brown, "The Inside Story of the British Broadcasting Experiments", Radio Broadcast, June 1924, Doubleday Page & Company, p115)

ブラウン氏はこれまで夜間にアメリカの中波局をピックアップできた時よりも、再現性良く何度も聞けたし、短波の方が混信もなく、またフェージングも少なかったと報告しています。短波が実は「素晴らしい世界」だったことを両社は実感しました。

48) KDKAの短波の大西洋横断を扱った他の雑誌・書籍など [WH編]

このように1923年(大正12年)9月にKDKAの電波は大西洋を越えて英国でみごと受信されました。

しかし放送分野ではこういった試験的なものよりも、本番放送における成功を重視するのでしょうか。1923年の大晦日に行われ成功した「新春特別番組」の国際中継を取上げる書籍はあっても、初の大西洋越えのトピックスを扱うものはあまり多くありませんので、他のものも紹介しておきます。

 

下図は英国の無線月刊誌Modern Wireless(1924年2月号)です。

「 ずっと前の1923年9月にウェスティングハウス社は、波長100 m、電力1.5kWの送信機を始動させ、ウェスティングハウス社と密接な技術協力関係にある(英国の)メトロポリタン・ビッカーズ社で(大西洋を越えてやって来る)KDKAの受信と報告が始まった。その日以来、入力電力は大幅に増え、それに応じて受信強度が向上しました。 」

以下が原文です。

『 As long ago as September, 1923, the Westinghouse Company inaugurated their 100-metre transmissions, with a power of 1-1/2 k.w., and the Metropolitan-Vickers Company, who are in close technical association with Westinghouse, commenced to receive and report on these broadcasts.   Since that date the power input has been considerably increased and the strength of reception has improved accordingly.  』 ("Pittsburg-Manchester Relay Broadcasting Experiments", Modern Wireless, p388)

 

また近年のものでは、Jerome S. Berg氏が2013年に出版されたThe Early Shortwave Stations: A Broadcasting History Through 1945 (McFarland & Company[London])でこのことに触れています(下図)。

このp26に1923年9月に成功した大西洋横断のことが記されています(下図)。

(Jerome S. Berg, The Early Shortwave Station, McFarland & Company, 2013, p29)

◆ ただし1923年8月だとする異説もある!

下図は1970年(昭和45年)にKDKAの開局50周年を記念してウェスティングハウス社が製作配布した It Started Hear : The History of KDKA Radio and Broadcasting です。このp13に大西洋横断の記事があります。

簡単ではありますが、本家本元であるウェスティングハウス社の記念出版物にも大西洋横断のことが書き残されているのです。

『 In July 1923, 8XS began regular short wave broadcasts of KDKA programs several hours each evening, and the following month reception was reported in England. When this reception continued in good quality the British Broadcasting Corporation arranged to rebroadcast special greetings from KDKA to Great Britain the following New Year’s Eve. 』

なおこの記述ではKDKA(8XS)の大西洋横断は1923年7月の翌月(the following month)ということですから、8月になります

 同時期の別の同社の資料Westinghouse Electric Corporation, Chronology of Radio Broadcastingでも「1923年8月に英国で受信された」という記述がみられます(下図)。これは上記50年史の編纂にあたってまとめられた社内内部資料のようです。

 実はもっと古い文献にも8月とするものがあります。1947年(昭和22年)にLlewellyn White氏が出した、ラジオ放送史THE AMERICAN RADIOに以下の記述がみられます。

『 In August, 1923, KDKA's short-wave broadcasts were clearly received in England. 』 (Llewellyn White, "Short-Wave and Radio Relay", THE AMERICAN RADIO:A Report on the Broadcasting Industry in the United States from The Commission on Freedom of the Press, 1947, The Unuversity of Chicago Press, p17)

もしかするとメトロポリタン・ヴィッカーズ社がまだアルトリンチャム受信所を建設中だった1923年8月に、短波受信機や受信アンテナを据え付けたり調整していると、不完全(?)ながらもKDKA(8XS)が聞こえたのかもしれません。しかし前述のとおり、実際に受信作業を行ったメトロポリタン・ヴィッカーズ社研究所の技術者ブラウン氏自身がThe Wireless World and Radio Review誌(1924年2月13日号)に「KDKAがアルトリンチャム受信所で受かったのは1923年9月だ」と書いており、内容も非常に具体的ですので、本サイトでは1923年9月を採用することにしました(また「アルトリンチャム受信所の正式開所が1923年9月だったので、KDKAの初受信が公式には9月ということになった」とも想像できます)。

 

それにしても短波の電波が最初に大西洋を越えたのは(無線電信ではなくて、)「無線電話」だったとは、なんという意外な事実でしょう。

49) ヘイスティングスに第二短波局9XW (1923年9月) [WH編]

1923年9月、ウェスティングハウス社はヘイスティングスに中波のKFKXと短波の再送信局9XWを建設する免許を得ました。同社では二つ目の短波中継局になります。

商務省電波局のRadio Service Bulletin(Oct.1,1923, No.78)で9XWが告示されています(左図)。ヘイスティングスでは東ピッツバーグKDKAの短波(8XS)を受けて、それをKFKXの中波と、9XWの短波で再送信する計画でした。

なおKFKXも同じ号(RSB, No.78)で告示されています(1050kHz, 500W)。

 

中波と短波の二波で同時再送信するのは初めての試みですが、短波to短波の再送信が可能なのかも大きな技術テーマでした。

当初より8XSを受ける短波受信機へ、9XW送信波の廻り込みを防止するのに困難が伴うだろうと予想されていましたが、それ以前のところでつまずいてしまったのです。

8XSと9XWで使用する予定の大電力送信機の変調がうまく掛からず、コンランド氏らは危機に直面しました。

50) KDKA(8XS)の大電力短波送信機が稼働 (1923年10月) [WH編]

メトロポリタン・ヴィッカーズ社より短波で受信できたとの報告を受けたKDKAでは大騒ぎだったでしょう。コンラッド氏ですら本当は英国まで飛ぶとは思っていなかったかもしれません。国際中継がにわかに現実味を帯びてきたといえるでしょう。

しかしアマチュア無線ではノイズすれすれの信号をピックアップして交信を成功させるのも醍醐味のひとつですが、放送中継には充分過ぎるほど充分な信号強度が欲しいものです。それにすべて生放送の時代ですから、いざ本番でコンディションが上がらないというのでは困ってしまいます。

短波が英国まで届くことがはっきりしたため、KDKAは送信機の大電力化に取り組み、6MHzまで動作する水冷式10kW送信管の試作は済んでいました(下図[左])。

 

1923年10月、KDKAの大電力短波送信機が完成しました(左図[右])。

最新の水冷式タングステン陰極の高出力管を使ったおよそ入力30kWの短波送信機で、空中線電力としては7kWだったとブラウン氏は書いています。

『・・・(略)・・・ the Westinghouse Company installed a high-power 100 metre transmitter especially for this transatlantic work. The Westinghouse Company’s high-power 100 metre set is capable of delivering 7 kilowatts to antenna, corresponding to an input nearly 30 kilowatts. 』 (W.J. Brown, "KDKA Experimental Work on the Relaying of American Broadcasting", Wireless World, Feb.13,1924, Wireless Press, p611)

 

写真では水冷管を4本使っているように見えます。コンラッド氏のIRE学会の論文によると、通常動作範囲を3.0-3.6MHzにして設計され、プレート電圧800Vで自励発振器と変調用に2本ずつ使ったと説明されています。入力は30kWではなく20kWではないでしょうか。ウェスティングハウス社は無線機メーカーでもありましたから、やると決まれば、こんな大電力の電話用短波送信機をすぐに作り上げてしまう技術力はさすがです。

51) GE社が短波2XAZで現場中継の実用化試験 (1923年10月21日) [WH編]

短波による新しい無線用途の開発がスタートしました。

米国ではラジオ放送事業が順調に伸びて、放送番組の研究も進みました。教会からの礼拝中継や、(楽団がスタジオに来て演奏するだけではなく)演奏会の会場から放送したい。そう思っても、スタジオ外から放送するには、その教会や劇場やコンサートホールへ専用陸線を臨時でひく必要があり、経費からも簡単なことではありませんでした。

1923年(大正12年)10月、スケネクタデイのラジオ局WGYを経営するジェネラルエレクトリック社(以下GE社)が、教会や劇場などから簡単に音声をスタジオに送れる可搬型短波送信機の実験局2XAZの免許を得て研究開発に乗り出しました。

商務省電波局のRadio Service Bulletin(Nov.1,1923, No.79)で2XAZが告示されています(左図)。この可搬型短波送信機は車両に装備することを目指しました。

 

また同時に、GE社は古くより持っていたスケネクタデイの実験局2XIで使用する据え置き型短波送信機の開発にも着手しました。

 

GE社のWGYは昨年1922年(大正11年)10月1日より教会サービス(日曜礼拝の現場中継番組)を開始しました。

1923年10月21日、この教会サービスで可搬型短波送信機2XAZの腕試しを行いました(左図:Broadcasting, May.15, 1962, p104)。しかしまだ音質面に改良の余地が残っていたようです。

 

ラジオ放送局が急増した米国では深刻な周波数不足に陥っており、現場中継用に新たな電波を割当てる余裕などありません。ちょうどウェスティングハウス社のKDKAがクリーブランドKDPMへ短波中継の実用化試験を行ったことが放送界では話題になっていたため、GE社でも短波中継の研究開発を進めるようになりました。

52) 明瞭度の改善に明け暮れる技術者たち (1923年10-12月) [WH編]

1923年(大正12年)10月より大電力送信機を導入したことでKDKA(8XS)の短波はパワフルに英国に届くようになり、フェージングの谷や、入感時間の面で明らかに効果が認められました。しかしなぜか明瞭度は良くありませんでした。

メトロポリタン・ヴィッカーズ社のアルトリンチャム受信所では連夜8XSを受けていましたが、充分な音量で受信できているのに、多くの場合でアナウンスの声が理解できない程でした。音声はKDKAの中波放送の変調器から分配してきたもので、中波と同じマイクとプリアンプを通過した信号なので低周波部での歪は考えられません。彼らはこの謎の歪を "Night Distortion" と呼びました。

 

しばらく試行錯誤が続く中、ついにアルトリンチャム受信所での測定で、8XSのAM波が、変調の深さに合わせて、搬送波の周波数が揺れていることを突き止めました。それは直ちにアメリカのコンラッド氏へ報告されました。

クリーブランドへの試作機の段階でも散々悩まされた問題が再燃したのです。前回の経験から8XSの新型送信機の発振コイル等は専用の固定軸に巻いて、振動でインダクタンスが変化しないように、また二次側との結合度に変化が起きないように、その剛性には配慮して設計され、送信機器類はスプリング入りの台座に乗せました。これらの対策を再度点検し、必要な追加対策を施しました。

さらにまた送信空中線もワイヤー式だと風で揺れてフェージングを誘発するだけではなく、発振回路へも影響しているのではないかと考えて、揺れない銅製パイプ製のエレメントも試されました。

 

それでも劇的な明瞭度の改善はみられず、コンラッド氏は変調方式の改良に注力するようになります。(KFKXの開局が目の前に迫っており、そちらへの番組中継の試験もあってか)改修された新回路での送話実験はKDKAの放送が終了した深夜に行われました。それは英国のアルトリンチャムでは夜明け前の時間帯にあたり、双方の技術者にとって過酷な作業でした。

『 This was due to the phenomenon of "night distortion," and is caused by slight changes of wavelength. To overcome this difficulty the associated companies arranged special experimental transmissions taking place in the early hours of the morning after 4 a.m.

Greenwich time, when the normal American broadcast programme had ceased. 』 ("Pittsburg-Manchester Relay Broadcasting, Experiments An Explanation", Modern Wireless, Feb. 1924, Radio Press Ltd., p388)

 

アルトリンチャム受信所では送られてきた新しい変調回路による受信音を評価して、ただちにアメリカのKDKAへ国際電報で報告しました。 大西洋横断の長波帯国際無線電話が開通したのは1927年(昭和2年)、電話用の海底ケーブルが開通したのは、更に30年あとの1956年(昭和31年)です。受信音の微妙なニュアンスを電報だけで伝えるのは非常に効率の悪い作業でしたが、これが唯一の方法でした。

 

さてアルトリンチャム受信所からの電報を受けたコンラッド氏らは、その内容を吟味して、その日の内に次ぎの改修に取り掛かります。そしてKDKAの放送が終るや、また新回路によるAM波を英国に送りました。毎日毎晩この繰り返しです。

連日の国際電報で料金も相当な金額になったでしょうが、KDKAとアルトリンチャムの技術者達は、まさしく不眠不休のような状態で改良作業を行いました。メトロポリタン・ヴィッカーズ社研究所のブラウン氏は前掲の記事で、それが2カ月ほど続いたと書かれています。

コンラッド氏のIRE学会への論文で新型送信機の回路図が明かされていますが、10kW水冷管2本による自励発振器に直接AM変調を行っていたため、短波の様な高い周波数ではFM成分が強調されたのではないでしょうか?(大正時代末期にJ1PPの短波無線電話実験を行った逓信省の小野技師も同様のトラブルに悩みました。)

 

1923年12月に予定されているアマチュアによる第四回大西洋横断試験の打合せで訪米していたフランスのデロイ氏8ABは、帰国の船に短波受信機を持ち込みワッチしていました。そして10月11日(NYから1000km)から10月15日(NYから1500km)にKDKAの短波(8XS)を聞いたとするレポートがQST誌(1923年12月号, p149)に掲載されています。ちょうど8XSが改良に明け暮れていたころの電波でしょう。

48) KFKX 短波の電離層伝播の実用化達成! (1923年11月22日) [WH編]

1923年(大正12年)11月22日、KDKAより実験局8XSの波長94m(3.20MHz)で番組供給を受けるヘイスティングス局KFKX 波長286m(1050kHz)が開局しました。

建設過程におけるヘイスティングスでの受信試験は、X線装置、電気マッサージ器、街路灯、エレベーターのモーター等々の多くの人工雑音によって、しばしば妨害されました。人口15,000人ほどの町でしたのでこれは全くの想定外でした。特にフェージングの谷では大きなS/N低下を招き放送には不適でした。

コンラッド氏らはその対応として4.8km離れた農村地域に第二の受信拠点を設け、それをKFKXから遠隔制御し、現代でいうダイバシティ受信法によって対策しました。左図がその短波受信機です。

このダイバシティ受信法は特定のケースでフェージングに対して大きな効果が認められたものの、完全なる解決策にはなりませんでした。しかし農村地帯の第二局のおかげで都市雑音の問題は解決しました。

 

短波で再送信する9XWの送信機まだ稼動していなかったのですが、中波KFKXで再送信した第三高調波3.15MHzの妨害も強く受けていたため、受信機のフロントにこれを阻止するトラップ共振回路を挿入して改善させました。数々のトラブルに遭遇しましたが11月22日の開局に間に合いました。下図[左]が中波送信機KFKXと短波送信機9XWです。

左図[右]はKFKXのパンフレットですが、誇らしげに "PIONEER REPEATING STATION OF THE WORLD" とあります。この局こそが短波実用化第一号です。

また(ここには示せていませんが)当時のKFKXのベリカード(QSLカード)にも "THE FIRST RE-BROADCASTING STATION IN THE WORLD" と印刷されています。

 

KDKAからの短波の受信アンテナは屋外に建設されました(下図)。写真が不鮮明で下部のカウンターポイズが判別できませんが、KDKAと同じ逆Lと天地ひっくり返した逆Lカウンターポイズが使われたはずです。

アルトリンチャム局で受けられたKDKAの受信音は陸線で12kmほど離れたマンチェスター市内のトラフォード・パーク(Trafford Park)にあるメトロポリタン・ヴィッカーズ社の研究所2ACへ送られ、さらに陸線で260km離れたロンドンのBBC中央局2LOへ送られたあと、BBCマンチェスター局2ZYをはじめとするBBC各局へ配信されました。なお研究所2ACとBBCマンチェスター2ZYは5kmほどしか離れていませんので、2LOを経由せず直接渡した可能性は充分ありますが、それを裏付ける文献は見当たりませんでした。

 

下図はメトロポリタン・ヴィッカーズ社に同居していた頃のBBCマンチェスター局2ZY(波長400m)です(2ZYはもともとメトロポリタン・ヴィッカーズ社のラジオ局でしたが、創設されたBBCへ譲渡された)。

2ZYは1923年8月の増力(5kW)のタイミングで市内の別の場所(Dickenson Street)に転居したため、そのあとをメトロポリタン・ヴィッカーズ社研究所の実験局2ACが使用しました。

従ってこのビルには既にBBCの専用回線が入っていて配信するには都合が良かったようです。なお写っているアンテナは2ZY時代の中波送信用ですが、2ACもこのアンテナを使ったのではないでしょうか。

こうしてKDKAの番組はBBCの専用線で通じて、2ZY(Manchester/400m)、2LO(London/365m)、6BM(Bournemouth/385m)、5WA(Cardiff/350m)、5SC(Glasgow/420m)、5IT(Birmingham/475m)、5NO(Newcastle/435m)、2BD(Aberdeen/495m) の8局で同時放送されたのです。地図右下の丸囲みが英国の拡大地図です。

【注】 この時期のBBC各局は毎月のように波長を微調整(変更)していますので、上記はタイムス紙1923年12月29日p6にあるラジオ番組欄によりました。

【参考】 公衆電報を扱わない無線局(放送局)の呼出符号は各国電波主管庁の裁量に任されていましたので、イギリスおよびカナダを除く英連邦諸国は実験局やアマチュア局と同じ「1数字+2文字」形式のコールサインを採用しました。

62) 英国のラジオ17・・・KDKAの短波中継をBBCがレギュラー番組化 (1924年2-3月) [WH編]

その後2月5日(火)と23日(土)にKDKAの中継を行いましたが、23日は空電が多く、惨憺たる結果に終わりました。そこで1924年(大正13年)3月1日より1カ月ほど、毎週土曜日23時(英国時間)からBBCはKDKA(8XS)のレギュラー中継を行いました。

2月のBBCの放送終了時刻は22:30で、ちょうど英国でKDKAの短波が受かりだすのもこの頃でしたので、23時からの中継でしたが、リスナーが聴きやすいように翌日が休みの土曜日が選ばれたようです。

『 For the broadcasting of the concerts at Pittsburgh radio station, Pennsylvania, U.S.A. (KDKA), the B.B.C. erected an aerial on Biggin Hill, Kent, England and picked up there the Pittsburgh waves of 100 meter wave-length. The currents were then strengthened by a six-valve amplifier and transmitter to the London station by special telephone wire, and thence also to the other British stations.

The listening-in in Great Britain began at 11 p.m. on Saturday, February 23, but was much marred by strong atmospherics. Nevertheless, the writer distinctly heard some of the songs. The experiment was repeated on Saturday, March 1, at 11 p.m., and was more successful.・・・(略)・・・』 (Dr. J.A.Fleming, "Radio Broadcasting in Great Britain", Radio News, 1924.6, ,p1726)

 

左図はKDKAを受信しているBBCのビギン・ヒル受信所です。左図[右]で、向かって左奥よりHonri氏(BBC)、Webb氏(週刊Popular Wireless誌)、そしてアシスタントチーフエンジニアで受信所長のWest氏です。

1924年2月23日のKDKA(8XS)の短波中継番組は、英国で中波により再送信され、その中波がインドのカルカッタでも明瞭に受信されました。

『 On February 5, a radio program broadcasted in the United States from the East Pittsburgh, Pa. (KDKA), station of the Westinghouse Electric & Manufacturing Co. was received and rebroadcast in England for the benefit of English station.

 On February 23, a concert broadcast by the same station and relayed from London, England, was heard clearly in Calcutta, India. 』 (Department of Commerce Radio Division, "Important Events in Radio", Radio Service Bulletin, Dec.31,1928, p22)

 

このレギュラー中継の話は、1925年(大正14年)9月15日から1926年(大正15年)2月11日まで、RCA社との技術者交換研修で渡米していた逓信省工務局の伊藤豊技師が雑誌に書いています。

『一九二四年の冬期を通じて、英国のBBC(注:ロンドン2LOの意味)が毎土曜日の定期放送の番組の中へこの局(KDKA)の放送を中継して送ったことであった。』 (伊藤豊, 米国に於ける短波長界の現況, ラヂオの日本, 1926.5, 日本ラヂオ協会, p32)

 

KDKAの短波は(BBCが中継する、しないに関わらず)、ヘイスティングスKFKXに向けて毎日発射されていることに目を付けた英国のマニアが短波の直接受信を試み成功した記事が英国の無線雑誌Wireless World(1924年4月2日号, p26)にあります。

 

また下図は英国の週刊無線雑誌Popular Wireless and Wireless Review(1924年4月5日号)で、p205の右半分はBower Electric社の真空管(Thorpe Valve)の広告 "KDKA: The famous Short Wave Station at E.Pittsburg: 3600 Miles Reception on One Valve" です。「Thorpe Valveの単球短波受信機を組み立ててKDKAを波長100mで聞くことが出来た。特に3月1日の夜は大変強力に受かり、BBCによる中波再送信より明瞭だった」とする、ユーザーから同社へ届いた感謝の手紙を広告に利用しています。同じ号のp207には"KDKA on the Valve"というKDKAを受信した単球短波受信機の記事があります(注:広告に利用された人物とは別人の受信機のようです)。

東ピッツバーグKDKAからヘイスティングスKFKXまでの距離は大圏コースで約1,600kmあり、これは日本の浜松から中国の上海に相当します(あるいは札幌-鹿児島の距離に相当します。ここに短波の電離層伝播が実用化されました。【参考】 5日後の1923年11月27日、米仏のアマチュアが短波での大西洋横断通信を成功させています。

 

短波中継の効果は素晴らしいものでした。KFKX開局初日の夜、KFKXのスタジオ発の番組に、KDKAからの中継番組を織り交ぜながら放送していたところ、KFKXの1,050kHz電波は700マイル(1,127km)離れたユタ州のソルトレイクシティでスピーカーを鳴らす強度で受信されました。

ソルトレイクシティは東ピッツバーグKDKAから1,700マイル(2,736km)の距離にありますので、KDKAのサービスエリアが格段に広がったことを意味しています。

『 The first program on the night of November 22, was given partly from Hastings and partly from East Pittsburgh.  The principal address delivered in the studio at East Pittsburgh was received with loud speakers at a convention in session at Salt Lake City, Utah, 700 miles distant from Hastings and 1,700 miles from Pittsburgh. 』 (D.G. Little/F. Falknor, "KFKX, The Repeating Broadcasting Station", Radio Age, Mar. 1924, Radio Age Inc., p38)

 

ちなみに前述のとおり、同年3月4日よりKDKAからクリーブランドKDPMへ始まっており、KDPMこそが短波実用の第一号ではないかという解釈もありますが、ウェスティングハウス社はKDPMへの短波中継を実用化第一号とは考えていないようです(あくまで実用化試験中継)。

【注】 実験局形式のコールサインではなく、普通の4文字コールKDPMですので、商務省の法的な解釈ではラジオ放送局です。

 

週刊Radio World誌12月10日号(p5)は"Westinghouse Relaying Station at Hastings, Nebraska, Starts New Era in Radio Broadcasting(ネブラスカ州へイスティングスにウェスティングハウスの中継局開局 放送新時代へ)"という記事に1ページを割き、次のように書き始められました。

「ネブラスカ州のへイスティングスは東ピッツバーグのパイオニアKDKAと西部各州および西海岸の人々を結ぶ初の中継局を置くために、ウェスティングハウス社選定した場所です。」・・・こんな感じでしょうか。

『Hasting, Nebraska, is the place selected by the Westinghouse Electric & Manufacturing Company for the location of its first radio relaying station to serve as the connecting link of the pioneer station at East Pittsburgh, Pa.-KDKA-with the people living on the Pacific Coast and also the citizens of the western states. 』 (Lloyd Jacquet, "Westinghouse Relaying Station at Hastings, Nebraska, Starts New Era in Radio Broadcasting", Radio World, Dec.8, 1923, Hennessy Radio Publications Corp., p6)

 

記事ではヘイスティングスKFKXが中波で再送信するだけでなく、将来は西海岸方面のパートナー局に向けて波長102m(2.94MHz)で再送信(2段中継)を行う意向であることを伝えました。ヘイスティングスでは短波実験局9XWの開設準備をしていたのです(8XSの新型送信機と同じものを製作)。

49) 短波中継車用の第三短波局8XP免許 (1923年11月) [WH編]

ウェスティングハウス社にもGE社と同様の悩みがあり、コンラッド氏はスタジオ外から放送音声をピックアップできる移動無線車両の開発を考えていました。もちろん周波数が広々とした短波です。

1923年11月にウェスティングハウス社は短波中継車両の実験局8XPの免許を得てGE社を追いかけました。商務省電波局のRadio Service Bulletin(Nov.1,1923, No.79)で2XAZが告示されています(左図)。ウェスティングハウス社としては8XPが三番目の短波局となりました。

 

長波スパーク局の高調波妨害がなく静かな短波は中継に最適なうえ、特に長いアンテナが張れない自動車には波長の短い電波の方が好都合で良い事尽くめでした。

短波の開拓・実用化というと、とかく遠距離通信(遠距離到達性能)のことばかりに目が行きがちですが、遠くへ飛ぶとか、飛ばないよりも、とにかく新しい周波数が強く求められていたことを忘れてはならないでしょう。なんといっても1,500kHzまでが実用(商業用・軍用)周波数だったこの時代に、(わずか3年前に現れたばかりの新参者の)放送に半分以上もの周波数帯を割かざるを得ない状況だったのですから。

50) Transatrantic Broadcasting Tests (大西洋横断放送試験)実施 (1923年11月25日-12月1日) [WH編]

無線電話の大西洋横断は1915年(大正4年)秋にアメリカ電話電信会社(AT&T)がアーリントンの海軍無線局を借りて、フランスへの送話試験をしたのが最初で、1915年10月12日にパリでわずかに聞き取られ、10月20日にはパリだけでなく太平洋のハワイでも単語が聞こえたといいます。周波数は長波です。

1923年(大正12年)1月15日、米国のAT&Tと英国郵政庁(GPO)が長波55.5kHzのSSB方式(単測波帯)による大西洋横断無線電話の実用化試験を始めました。実際にこの試験回線を運用するのはロッキーポイントのRCA社(米国:送信担当)と、ニューサウスゲイトのウエスターン電気社(英国:受信担当)で、一方通行の送話試験でした。 【注】 4年間の実用化試験を経て、1927年1月7日より大西洋横断公衆無線電話(SSB方式)を開業しました。

 

中波の無線電話ですが、1922年(大正11年)になり米国に中波ラジオ放送局が続々と開局したことで、受信機やループアンテナを研究していた英国の受信マニア(現代でいうBCL)により米国のラジオ放送がキャッチされるようになっていました。米英間で中波の空中状態が良くなりはじめるのは、たいてい21時(米国東部時間)前後からで、これは英国の深夜2時でした。英国の受信マニア達は深夜遅くに、競って米国ラジオを探索していたのです。

一方、米国にも多くの受信マニアがいたはずですが、どんな状況だったのでしょうか。

英国BBC放送の放送終了時刻は22時から23時あたり(米国東部時間でいうと、まだ夕方17時から18時)でした。つまり大西洋越えが可能な時間帯にならないうちに英国側の放送が終了するため、自然の成り行きに任せている限り、空中状態と時差の都合によって、米国のDXファンが英国BBC放送をキャッチするチャンスはありませんでした。

この状況に一石を投じたのが米国の出版会社のダブルデイ氏でした。

 

1930-40年代に英語圏で最大の出版社だったダブルデイ・ドラン社の前身である、ダブルデイ・ページ社(Doubleday, Page & Company)のダブルデイ社長(F.N. Doubleday)は熱心なラジオファンであるとともに、米英親善を推進していた人物です。

1923年(大正12年)夏ごろ、ダブルデイ社長は同じ英語圏であるアメリカとイギリスがラジオ放送での結び付きを強めるべきとの考えから、自社で出版している月刊誌"Radio Broadcast"の編集長に、米英間の双方向放送試験の可能性を検討するように命じました。Radio Broadcast編集部は英国の無線誌Wireless Worldのポコック編集長(Hugh S. Pocock)にこの件を相談しました。そしてポコック編集長がBBC放送にこの企画を持込んでみたところ、BBCのチーフエンジニアであるエッカーズリー氏(Captain E. P. Eckersley)の賛同を得ることができたのです。

こうして米英の友好とラジオ放送の価値を高めるために、Radio Broadcast編集部(米国)、Wireless World編集部(英国)、そしてBBC放送(英国)の三社が組んで大西洋横断放送試験を行うことが決定しました。

その第一報をWireless World誌(1923年11月21日号, p256)の記事"The Transatrantic Broadcast Tests"で発表し(左図[上])、受信レポートをWireless World誌またはRadio Broadcast誌へ送るように求めました。続くWireless World誌11月28日号"The Transatrantic Broadcasting"(p270)"ではさらに詳細に説明されました(左図[下])。

 

米国東部時間の1923年11月25日22:00(英国時間では26日03:00)からテストを開始し、感謝祭(Thanksgiving Day)を休んで12月1日を最終日としました。

ロンドンのWirelessWorld編集部には英国ラジオファンからの受信レポートが続々と集まりました。同誌12月5日号の第一報(pp321-324)に続けて、12月12日号、12月19日号、12月27日号で以下およそ30放送局の受信報告が発表されました(なお、この中にはコールサインをミスコピーしたものを含むと考えられます)。

KSD(St.Louis,Mo. [550kHz, 500W])、KDKA(East Pittburgh, Pa. [920kHz, 1000W])、WGY(Schenectady, N.Y. [790kHz, 1000W])、WJZ(New York, N.Y. [660kHz, 500W])、WOC(Davenport,Iowa [620kHz, 500W])、WOR(Newark,N.J. [740kHz, 500W])、WSY(Birmingham, Ala. [833kHz, 500W])、WAAD(Cincinnati,Ohio [833kHz, 25W])、WABM(Saginaw,Mich. [1180kHz, 100W])、WBAH(Minneapolis,Minn. [833kHz, 500W])、WCAE(Pittsburgh, Pa. [650kHz, 500W])、WDAP(Chicago, Ill. [833kHz, 500W])、WDAR(Philadelphia,Pa. [760kHz, 500W])、WEAF(New York, N.Y. [610kHz, 500W])、WEAR(Baltimore, Md. [833kHz, 50W])、WFAM(St.Cloud, Minn. [833kHz, 20W])、WGAR(Fort Smith,Ark. [833khz, 20W])、WHAB(Galveston, Tex. [833kHz, 200W])、WHAC(Waterloo, Iowa [833kHz, 20W])、WHAD(Milwaukee, Wis. [1070kHz, 100W])、WHAS(Louisville, Ky. [750kHz, 500W])、WHAV(Wilmington, Del. [833kHz, 50W])、WHAZ(Troy, N.Y. [790kHz, 500W])、WJAZ(Chicago, Ill. [670kHz, 20W])、WKAD(East Providence, R.I. [833kHz, 100W])、WMAF(Dartmouth, Mass. [833kHz, 500W])、WMAK(Lockport, N.Y. [833kHz, 500W])、WNAC(Boston, Mass. [833kHz, 100W])、WNAV()

これまでもWGYなど米国の大電力ラジオ局は英国でキャッチされていましたが、こんなに多数の局がピックアップされたのは初めてです。

● 中波無線電話の双方向交信も

最終日である1923年12月1日は「中波による、無線電話の大西洋横断双方向通信」を達成するために、五分間づつ双方から呼びかけることにしました。前述した米国AT&T(送信担当:RCA)と英国郵政庁GPO(受信担当:ウエスターン電気)の大西洋横断無線電話試験は、SSB(単側波帯)方式という目新しさはありますが、米国から英国への一方通行です。またアマチュアが目指していた大西洋横断試験は双方向通信ですが、無線電信です。そこで無線電話による双方向通信に挑戦することになったのでしょう。

「放送局同士で交信する」のは、現代的に考えれば違和感がありますが、まだ「放送」と「通信」が現代ほど明確に区別されておらず、放送局といえども「無線局」の一形態として捉えられており、そんなにおかしな企画ではなかったようです。

初日の夜はBBC(英国)が送信する番です。Radio Broadcast編集部はBBC放送が混信なく受かるよう、米国の各ラジオ局に2200より停波して欲しいと協力を要請しました。そしてRadio Broadcast誌の無線実験室にPaul F. Godley氏ら米国DX受信界の重鎮が集まり受信試験が行われました。

 

Transatrantic Broadcasting Tests(大西洋横断放送テスト)は大成功でした。この成功はアマチュア局や海岸局が(遭難通信を除き)沈黙要請に応じてくれただけでなく、全米放送事業者協会NAB会長らの理解が得られて全米ラジオ放送局が22時から沈黙したことによると、Radio Broadcast誌(1924年1月号)は記事"The Transatlantic Broadcasting Tests and What They Prove"(pp183-191,195-196)で総括しています。特に最終日(12月1日)はほぼ完全な沈黙が得られたそうです。

『 Of this, no greater proof could be had than the fact that during the entire week not a single complaint against amateur interference was made. ・・・(略)・・・

Five minutes before the first transmission from England began, we communicated with the Marine Superintendent of the Radio Corporation and requested that he send a service message to his ships asking them to remain silent for the half-hour period of the tests, except in case of an emergency. Our request was complied with and interference from this source during the week was practically negligible. ・・・(略)・・・

Our most serious problem was to secure the cooperation of the broadcasters themselves. With approximately six hundred broadcasting stations in the country, this seemed an almost hopeless task. Mr. Eugene F. McDonald, Jr., President of the National Association of Broadcasters, and Mr. Paul B. Klugh, the Association's executive chairman, were apprised of the campaign and their help was enlisted. ・・・(略)・・・

Our attempts to keep the American broadcasters silent on the first two nights of the English transmission were only partially successful. We appealed to the President of the National Association of Broadcasters to communicate with all his member stations by telegraph. He advised them to broadcast an announcement requesting listeners-in to communicate with other stations in their vicinity asking them to remain silent during these eventful half-hours. That night, at our own laboratory, we heard this message flung out over the country.

The result was almost absolute silence on the last and most important night of the tests.  』 ("The Transatlantic Broadcasting Tests and What They Prove", Radio Broadcast, Jan. 1924, pp186-187)

51) アマチュアの大西洋横断交信が1923年11月27日に行なわれた理由 [WH編]

アマチュアによる大西洋横断試験は波長200m(周波数1,500KHz)を使って、1921(大正10年)2月にはじめて行われました。同じ年の暮れに行った第二回テストで米国→英国の1way通信に成功し、1922年(大正11年)暮れの第三回テストでは米・英のそれぞれで1way通信に成功したことで、電波界からそれなりの評価が得られていました。

 

しかし1922年に米国で多くの中波放送局が誕生し、英国のラジオマニア達により次々と受信報告がなされるようになったため、アマチュア無線家による大西洋横断試験の価値が下がってしまいました。夜間に800kHz前後の放送波が大西洋を越えるのは常識になってしまったからです。2年前より1500kHz附近の電信で大西洋横断試験を手掛けてきたアマチュア無線家としては一刻も早く小電力2Way交信を成功させたいところでしょう。

さらに追い討ちをかけるように、1923年(大正12年)7月11日のニューヨークタイムズ紙が"Marconi Predicts Revolution in Radio(マルコーニが無線の大変革を予言)"という記事で、同氏が指向性短波無線を使って4,130km離れたカーボベルデまで低電力で通信することに成功したと報じました。この4,130kmという距離は太平洋横断を超えていたこともあって、横断試験に挑戦しているアマチュア達に焦る気持が芽生えていたかも知れません。

【参考】 1923年9月にはKDKAの短波が大西洋を越えてメトロポリタンヴィッカーズ社(英国)により受信されていますが、この時点(1923年11月)では世に公表されていません。

 

さてアマチュアによる大西洋横断通信(2way QSO)が、フランスの8ABデロイ氏とアメリカの1MOシュネル氏により、1923年11月27日の米国東部時間22:30(GMTでは11月28日の03:30)になされたことは有名です。

しかし四度目の大西洋横断通信テストが1923年(大正12年)12月21日から1924年(大正13年)1月10日に予定されていたのに、デロイ氏が突然「11月26日03:00GMTから100mで送信してみる」とシュネル氏に電報を打った件はどうにも腑に落ちません。この突然の不可解な行動について考えてみます。

 

海外のアマチュア無線史研究の第一人者である小室圭吾氏は1972年(昭和47年)のCQ誌の連載「ものがたり・・・・・アマチュア無線史」で次のように紹介されました。

『 実は1923年の12月22日から1月10日(英国時間でいうので日が一日ずれることがある)にかけて、第四回の大西洋横断テストが計画されており、その翌日(1月11日)に英米間で初交信が行われるスケジュールだったのです。しかし大西洋横断をただひとつの目的として生き、考え、行動し、はたらいたデロイ、そしてアメリカのシュネルとライナルツ、また続々と増加していたイギリスのアマチュア達にとっては、スケジュールなどはあまり念頭になかったのでしょう。

特に、デロイはその年の夏にアメリカへ直接出かけて、新しい無線技術を習得するというものすごい熱心さで、機器がうまく動作するようになると、もういても立ってもおられず、11月26日0300GMTから100mで送信してみるとシュネルに電報を送ったのは無理もないことです。しかしシュネルのほうは、予定の計画どおりに準備を進めていたため、100mを使用する特別免許はまだもらっておらず、この電報を受けてあわてて許可をとりに走りまわりました。 』 (小室圭吾, "ものがたり・・・・・アマチュア無線史", 『CQ ham radio』, 1972.4, CQ出版社, p418)

 

フランスの8ABデロイ氏は10月中旬まで米国に滞在し、大西洋横断試験について綿密な打合せを行いました。そして帰国の船に短波受信機を持ち込み、大西洋上でKDKAの100m試験波(8XS)をワッチしながら帰ったことをQST誌へレポートし、それがQST12月号(p149)掲載されています。第四回テストの実施要綱(QST, Dec.1923, p10)によれば波長220-180m(1.36-1.67MHz)を使うことになっていましたが、デロイ氏は短波の方に可能性を見出したようです。

 

私はデロイ氏がWireless World誌(11月21日号)の、「11月26日の深夜3時GMTからBBCがアメリカ向けに放送するので、これを受信できた方は編集部に報告して欲しい」とする記事にヒントを得たのではないかと想像しました。

過去三回のアマチュアによる大西洋横断試験において最大の敵は混信でした。BBCが送信開始する11月26日03:00GMT(米国東部時間11月25日22:00)はアメリカの「お空」が静かになるかも知れない・・・。デロイ氏はそう考えて、BBCと同じ時刻に送信することを思い付き、シュネル氏に電報を打ったのではないでしょうか。

 

あいにく米国のアマチュアBandは中波の1,500-2,000kHzですから、短波を使うには特別免許が必要で、デロイ氏がいう11月25日には間にあいませんでした。急遽、商務省に申請して、100m波の特別免許を得た1MOシュネル氏は、米国東部時間11月27日2230に8ABデロイ氏と大西洋横断交信に成功しました(この27日もBBC側が送信する日でした)。米国では家庭用ラジオ受信機をアマチュア無線の混信から保護するために、平日の20:00-22:30はアマチュアが禁止(サイレントタイム)されていましたので、デロイ氏が一方的に連続送信して、(サイレントタイム終了の)22:30に受信に切り替えるや、シュネル氏の応答がキャッチできたため、2230が双方向通信の成立時刻です。

52) 英国のラジオ9・・・鉱石受信機でもアメリカが聴ける! 国際中継の予告 (1923年12月1日) [WH編]

再び大西洋横断国際中継の話題です。

1923年(大正12年)12月1日、英国の新聞「タイムス」は"The Broadcasting Experiments:Relaying of Programmes Sent From U.S." というタイトルでBBCが米国のラジオ番組の国際中継を計画していると報じました。いつそれが行われるかは、まだ決まっていないが、もしこれが実現すれば、高価な多球式受信機を使わなくても、鉱石受信機で大西洋の反対側の放送が地元局を通じて聴けるのだと記事を締めくくりました。

 

中継がいかなるものかは分からなくても、とにかく庶民にとってはとても魅力的な話ではありませんか。国際中継はラジオ放送リスナーを増やすのにも貢献したでしょう。

『 If the relaying is successful owners of crystal sets, through their local B.B.C. station, will be able to hear music played on the other side of the Atlantic. 』 ("The Broadcasting Experiments", The Times, Dec.1st,1923, p7)

こういう記事が現れるということは、11月下旬には明瞭度を改善できる見通しがたったとも考えられます。

 

ところでマルコーニ氏にとってはBBCがアメリカの放送を中継するというのは、あまり愉快な話ではなかったかもしれません。というのも英国マルコーニ社ポルドゥー2YTの電波を西アフリカのカーボベルデ諸島で受信に成功したことを7月にプレス発表した際に、近くアメリカの東海岸でも2YTの受信試験をすると語っていましたが、実行には移していませんでした。

12月5日付けのニューヨークタイムス等が、マルコーニ氏がアメリカで実験する計画を練っていることを伝えました(これは実際年明けに実行されました)。

53) 英国のラジオ10・・・メトロポリタン・ヴィッカーズがアルトリンチャム受信所を開所 [WH編]

大西洋横断中継の受信所についても紹介しておきます。

メトロポリタン・ヴィッカーズ社が米国からの中継波の受信拠点としていたのがアルトリンチャム受信所(Altrincham)で、マンチェスターの市街地中心部より南西に12kmほど離れた場所にあり、自動車からの人工雑音も少なく遠距離受信に適していました。メトロポリタン・ヴィッカーズ社とは陸線で結ばれていました。

 

8XSが新型送信機の改良に明け暮れる中、アルトリンチャム受信所では最も優れた受信結果を出せる受信機と様々なアンテナを試していました。最終的には等身大の16フィート(=1.8m)平方のループアンテナが最も良い結果を示し、これが用いられました。

 

左図はループアンテナが置かれた受信室で、後方には受信セットの一部が見えます。また受信機は受信状態によって6段から12段増幅を使い分けたそうです。

『 During the preceding two months many different forms of receiver and various antenna systems had been tried out, to determine the most satisfactory method of reception. During the whole of the relaying period, however, a frame aerial some six feet square was used for picking up the signals while the receiving set employed a number of high frequency stages varying from six to twelve according to the prevailing conditions of reception. 』 (W.J. Brown, "The Inside Story of the British Broadcasting Experiments", Radio Broadcast, June 1924, p117)

 

1923年10月に創刊されたばかりの英国の月刊Experimental Wireless誌(1924年1月号)が、大晦日の深夜にメトロポリタン・ヴィッカーズ研究所2AC(波長400m, 電力1.5kW)が米国KDKAの番組を中継する予定で、船舶無線などへの悪影響がないかが懸念されていると伝えています。

『 The Metropolitan-Vickers Electrical Company are making their first attempt on New Year's Eve to pick up the American Broadcasting Station "KDKA," and retransmit it on 400 metres from Manchester. They will use 1-1/2 kilowatts and the call sign will be 2AC.

It will be interesting to note what effect the broadening of the band of wave-lengths used by the British Broadcasting Stations will have upon jamming. The problem presents many difficulties, as the new wave-lengths seem, in some cases, to be affected by ship work, D.F. stations and harmonics. At the time of going to press the wavelengths now adopted are as follows :-

495 Aberdeen. 475 Birmingham. 435 Cardiff. 420 Glasgow. 400 Manchester. 385  Bournmouth. 370 Newcastle. 350 London. 303 Sheffield(Relay). 』 ("Experimental Notes and News", Experimental Wireless, Jan 1924, PERCIVAL MARSHALL & CO., p117)

54) 英国のラジオ11・・・メトロポリタン・ヴィッカーズがKDKAの中継に成功 (1923年12月29日) [WH編]

新型送信機の明瞭度は両社技術陣の努力で克服されました。ブラウン氏の記事では "special forms of modulation" とされるのみで、その詳細は明らかではありません。後発のジェネラル・エレクトリック社のラジオ局WGYも短波中継に取り組み始めていたので、対策方法は社外秘だったのでしょう。

 

1923年(大正12年)12月29日、(米国東部時間ではまだ28日)英国マンチェスターのメトロポリタン・ヴィッカーズ社が、波長94m(3.2MHz)で受信したKDKA(8XS)の番組をロンドン中央局2LOへ陸線で送り、ここからBBC各局へ配信し同時放送しました。大晦日から元旦に掛けて行う「新春特別番組」の予行演習でしょう。

大西洋を横断する無線電話は長波のSSBで1927年(昭和2年)に、海底ケーブルは第二次世界大戦後の1956年(昭和31年)に開通しました。まだ人の声や音楽が大西洋を越えることが不可能なこの時代に、米英で同時放送が行われたのですから、とてもセンセーショナルな出来事だったと思います。

 

左図[左]はRadio Broadcast誌1924年3月号(p362)です。

『 So the Metropolitan-Vickers Company sent the program out through "Merrie" England and the European continent for the first time, December 29, 1923. The other seven British broadcasting stations were linked in by land phone with the result that all of them were broadcasting KDKA's concerts, a feat never before accomplished. 』

 

そして左図[右]はBoy's Life誌1924年4月号(p50)です。

『 On December 29th, 1923, KDKA broadcasted to England, a complete program on 94 meters! This was picked up by the Metropolitan-Vickers Electrical Company's station in Manchester, England, amplified, and rebroadcasted from that station and eight other English transmitters linked by telephone land lines! 』

55) 英国のラジオ12・・・BBCが独自のビギン・ヒル受信所を開所 [WH編]

BBCにはウェスティングハウス社とメトロポリタン・ヴィッカーズ社による国際中継への試みとは全く独立して、アメリカからスポーツなど各種番組の国際中継を考えている技術者がいました。

 

はじめは中波による中継研究に手を付けました。1923年12月、BBCのアシスタント・チーフエンジニアのウエスト氏(A.G.D. West [左図])と部下のホンリ氏(Baynham Honri)はロンドン市内東南部、ビギン・ヒル(Biggin Hill)空軍管理地内にあった12フィート(3.7m)x 33フィート(10m)の小屋を借り受け、ここに米国の中波放送を受信するためにアンテナを建てて、12段増幅の受信機を組立てました。

 

夜間になると中波で米国局がキャッチできましたが、同時に欧州大陸からの無数のモールス信号や長波火花局の高調波による妨害を受けました。

『 The attempts at reception at Biggin Hill, in December, 1923, were made during blizzards. A twelve-valve high-frequency receiver was used, and the American programmes were received at full strength; but the set also recorded all the Morse stations in Europe, practically every storm that was raging in the world, and the harmonics of most of the high-power stations. 』 ("Early Efforts", Wireless World and radio review, Jan.13,1926, p66 )

結局、これらの混信があるため、中波では番組中継できる品位を確保するのは困難だと考えられました。

 

そこでKDKAが中波放送と同時に波長100m(3MHz)付近でサイマル送信していることに着目し、短波受信機を組み立ててみたところ、長波の火花局からの妨害や高調波の混信もなく、短波には想像以上のメリットがあることを知ったのです。

『 West and Honri tried picking up the 100-metre transmission with a small set. Rather to their surprise they found that the shorter wavelength had distinct advantages. Atmospherics were not so deafening, and there was less interference from spark transmitters and from the harmonics of high-power C.W. stations. 』 (BBC Engineering - No.92, Oct.1972, BBC, p23)

56) 英国のラジオ13・・・BBCが独自にKDKAを国際中継 (1923年12月29日) [WH編]

ウエスト氏とホンリ氏の短波試験を全面支援していた無線雑誌Popular Wireless(1924年1月12日号)にウエスト氏自身、および同誌の記者アリエル氏が、ビギン・ヒル受信所(下図[左:3人の中央がウエスト氏])での実験の様子を詳しく記しています。アリエル記者はテストの1週間、ウエスト氏とホンリ氏と行動を共にしました。

短波アンテナは垂直部が45フィート(13.7m)、水平部が30フィート(9.4m)のTゲージ型で、いろんな受信回路を試し、最終的に高周波6段、検波、低周波2段増幅の9球短波受信機としました。また短波の欠点とされた周期的なフェージング現象は、アンテナが風で揺れて、受信機の入力回路の共振点がふら付くのが原因だと考えられたため疎結合の入力回路としました。

『They placed at my disposal an aerial specially designed for short wave-lengths, about 45 ft. high and 30 ft. long, being of the T cage type. I could use either a counterpoise or an earth connection.  After making experiments with various types of circuits, including simple reaction circuits, super-heterodyne, and a high-frequency amplifier, I decided on the latter as being most suitable for our purpose.  The amplifier has six high-frequency valves and one detector valve. It is of the well-known transformer-coupled type, mounted in a tin box for screening purposes. There is a capacity reaction for bringing up strength, the set being perfectly stable. This amplifier was very loosely coupled to the aerial circuit, which was made aperiodic to avoid any possible changes of wave-length due to swaying of the aerial, and this was a very wise precaution, because up at Biggin Hill, which is the highest point in Kent, the wind does know how to blow when it feels inclined. 』 (A.G.D. West, "How We Relayed U.S. Broadcasting", Popular Wireless. Jan.12,1924, Amalgamated Press Limited, p727)

 

1923年12月22日(土)に最初の中継試験を行おうとしましたが、空のコンディションが非常に悪く断念しました。

12月24日(月)夜、KDKAがほど良い音量で受かりました。しかし空電妨害がKDKAを上回ることがあり、中継品位を満たすものとはいえませんでしたが、試験的にBBCの中波で再送信を行いました。

『 On Monday evening we received KDKA with good volume, but atmospherics were louder than the music; but as a matter of interest it was broadcast to listeners. 』 (Ariel, "Adventures at Biggin Hill", Popular Wireless. Jan.12,1924, Amalgamated Press Limited, p728)

 

12月27日(木)は空中状態が良く、23:10には非常に強力に受かるようになったため、ビギンヒル受信所からBBC中央局(ロンドン2LO)へ電話し、大慌てでKDKAの中継開始の準備をしているうちに、KDKAが放送終了となり、ウエスト氏、ホンリ氏はガッカリしたそうです。

『 At about 11:10 we heard KDKA very distinctly, and without any atmospherics or trouble.With feverish haste I rang up 2LO and told the engineers that we were going to relay KDKA through, and asked them to make an announcement.  But, alas ! before I had finished talking to the announcer KDKA, the Westinghouse station at East Pittsburg, closed down, or in the American term, "Signed off."  And it would be difficult to imagine our disappointment. 』 (Ariel, "Adventures at Biggin Hill", Popular Wireless. Jan.12,1924, Amalgamated Press Limited, p728)

 

12月28日(金)23:30、自慢の9球短波受信機(6RF-1DET-2AF)でKDKAを強力にキャッチしました。そして29日(土)に変わった午前0時過ぎ、BBCの中波でKDKAが中継されました。最初に中継されたのは戯曲『秘密はうたう A Song at Twilight』で、次にオペラ『オベロン Oberon』でした。KDKAは01:00で停波し、中継は終わりました

『 At about 11:30 we got results, but the atmospherics were very had, and Honri, who was inclined to be a little superstitious, advised us to close down, as Friday was an Unlucky day !  But we cried him down and decided to try again.  We notified London, and the programme was sent over at a minute past twelve.  The results were much better, as the atmospherical trouble had been reduced.  It was necessary for Captain West to put his hand near the reaction to give more selective tuning.  Honri again remarked that Friday was unlucky, but now that it was Saturday the results were better !

Success at Last.  The first item to come through was the "Song at Twilight," followed by an overture, "Oberon”.  Towards the end of KDKA's programme they made a long announcement which was clearly received.  This surprised us, inasmuch as this was the first time American broadcasting had been successfully relayed, and they were not aware of our experimental work or what we were doing.  They signed off at one o'clock, after asking all listeners to write a report of their programme. 』 (Ariel, "Adventures at Biggin Hill", Popular Wireless. Jan.12,1924, Amalgamated Press Limited, p728)

 

英国BCLファン向けの週刊"Wireless Weekly"誌(1924年1月9日号, p158)もBBC独自の中継試験に触れていて、12月22日は空中状態が悪く放送にならななかったが、12月29日の中継試験は大成功だったと伝えています。

57) 英国のラジオ14・・・12月29日は2つの国際中継 [WH編]

12月31日(月)の英国の新聞「タイムス」が "American Concert by "WIRELESS." : Successful "TEST" on Saturday. "というタイトルで、この国際中継の成功を速報しています。日付が29日(土)に変わった午前0時頃から電波状態が良くなったので中継を始め、KDKAから送られてきた「ターキッシュ・パトロール」などの楽曲が数曲続けてBBCで流れたと報じています。

そして新聞記事の最後では「 (BBC直営の)ビギン・ヒルで受けて、陸線でロンドン2LOへ送り、2LOから様々な局に配信し再送信された。」と記しています。

『 The telephony was first picked up by a receiving set installed at Biggin Hill aerodrome, and employing six high-frequency, one detector, and two low-frequency valves. From there it was relayed by telephone wire to London and thence retransmitted to the various broadcasting stations. 』

前述のとおり12月29日にはメトロポリタン・ヴィッカーズ社(アルトリンチャム受信所)がBBCへKDKAの番組を配信したとする記事もあり、これは一体どういう事なのでしょうか?

 

私は次のように考えています。

KDKAからの「新春特別番組」を元旦に放送する計画だったBBCが、(いきなり本番ではなく)メトロポリタン・ヴィッカーズ社のアルトリンチャム受信所の信号で全国中継の予行演習を行うのは当然です。ですから12月28日(金)遅くから29日(土)に掛けてアルトリンチャムの信号でBBCへ中継していたところ、この日はとてもコンディションが良くて、ビギン・ヒル受信所でも良好に受かったため、ロンドン中央局2LOがビギン・ヒル受信所からの受信音も一部使って、各局に配信中継したのではないでしょうか。つまり両受信所とも良好だったため、両ソースが用いられたと想像します。

 

左図はBBC年鑑の初版(1928年)です。

そのP197でごく簡単にこの初の国際中継に触れていますが、KDKAからの電波を受けたのがビギン・ヒル受信所(BBC)か、アルトリンチャム受信所(メトロポリタンヴィッカーズ社)かについての明言はありません。

『 The first successful re-broadcasts in Great Britain of American programmes were carried out on December 28th and 29th, 1923. The actual re-transmission was also picked up and heard very distinctly in South Africa. 』 (BBC Handbook, 1928, BBC, p197)

 

1923年12月28日20:50から翌29日00:10(英国時間)まで、南アフリカのミデルブルグ(Middelburg)でロンドン2LOの中波が受信されたとの記事"2LO Heard in South Africa : The Pittsburg Tests"(ロイター通信社発)が、1924年1月1日の英国新聞「タイムス」(P14)にあります。やはり12月28日の夜はすごくコンディションが良かったのでしょうね。

「ピッツバーグKDKA →(短波)→ ロンドン2LO →(中波)→ 南アフリカ」と中継される大記録が生まれました。

 

なおビギン・ヒル受信所では短波のフェージング現象を少しでも軽減しようと、受信アンテナが風で揺れないように(左図の)室内ループ・アンテナに変更しています。

またビギン・ヒル受信所はあくまで仮設の実験施設でしたので、正規の受信所の建設がロンドン郊外のケストン(Keston)で始まりました。そして1925年(大正14年)9月にケストン受信所が完成すると、ビギン・ヒル受信所は役目を終えて閉鎖されました。

58) デヴィス副社長が短波(8XS)で英国へ新年挨拶 (1924年元旦) [WH編]

1923年(大正12年)12月31日米国東部時間の19:00(ロンドンでは新年の1924年1月1日00:00)よりKDKAは英国へ「新春特別番組」を国際短波中継しました(3.2MHz)。英国で中継波の受信を担当したのはマンチェスター郊外にあるメトロポリタン・ヴィッカーズ社のアルトリンチャム受信所です。メトロポリタン・ヴィッカーズ研究所の実験放送局2ACだけでなく、ケーブルでBBCへも配信されました。

 

ロンドン時間00:00、まず英国国歌(God Save the King)と "The Lost Chord" の二曲が流れ、しばらくの沈黙のあとウェスティングハウス社デヴィス副社長(H. P. Davis)の新年を祝うメッセージがはじまりました。

「大晦日の英国の皆さん。私はアメリカからご挨拶とアメリカの人々の願いをあなたに伝えます。・・・」

 

これは放送史上で、また短波開拓史上での記念すべき出来事ですので、デヴィス副社長による英国への呼び掛け部分を紹介します。

『 To the people of Great Britain in this New Year's Eve, I send greetings from America and express to you the wish of every American ― that Great Britain and her European neighbors may enjoy a prosperous, peaceful, and progressive New Year.

That the means of communication have been greatly advanced during the past year is fitly shown by the fact that I am able to speak directly to you, across an intervening ocean. This achievement will ultimately result in making known to you American's daily events and your everyday happenings known us.

A year ago such an achievement seemed beyond belief. With such advancement in the radio art an established fact, no man dares predict what developments will take place before another New Year.

It is a wonderful thing for the world -this achievement which enables the peoples of one continent to " listen in" on the activities of the peoples of another continent -for the friendship of nations is founded on closer under- standing among the various peoples and in no way can different nations better understand each other and become more closely in touch with each other than by improved means of rapid and accurate communication.

It is also fitting that Westinghouse Station KDKA, the pioneer broadcasting station of the world, should be the first station to develop a means for the repeating of its programs to you, the peoples of other continents, for it was here, and by this station, from which I am now sending this message, that radio broadcasting was first undertaken. This feat is only another progressive step in the development of this great utility.

 On behalf of the people of America, it is my great privilege, therefore, for the first time in history, by means of the spoken word, to speak directly to you the wish for a happy and prosperous New Year. ・・・(略)・・・』 (W.W. Rodgers, "Broadcasting Complete American Programs to All England", Radio Broadcast, Vol4, March 1924, Doubleday Doran Inc., pp359-364)

 

さらに女性二人からの挨拶があった後、バンドの生演奏がはじまり、英国愛国歌"Rule Britannia"や歌が、英国民に届けられたのです。この新春特別番組はおよそ1時間続きました。

59) 短波による国際中継成功のニュースで1924年が幕開ける [WH編]

1月2日付の英国の新聞「タイムス」(左図[左], p12) "Broadcast Messages From America : Reception in Cheshire"が英国での再送信の状況を伝えました。

ざっくり訳すと、こんな感じでしょうか。

「昨日(1月1日)の早朝、メトロポリタン・ヴィッカーズ社のチェシャ―州ヘイル(アルトリンチャム)にある補助施設が、米国ペンシルバニア州の放送を受ける経験は、同社が米国ウェスティングハウス社のKDKA局と行ってる共同実験の価値を証明しました。この実験は米国で一般的に使われる波長350m(860kHz)などではなく、空電妨害が避けられると考えられている短波帯の波長100m(3MHz)を用いています。大晦日の夜はひどい混信がありましたが、ロンドン時間の1月1日午前0時には"God Save the King"がはっきり聞こえました。続く"The Lost Chord"のあと、ウェスティングハウス社のデイビス副社長の新年のあいさつがメトロポリタン・ヴィッカーズ社にありました。・・・(以下略)・・・」

 『 The experience of “listening in” to Pittsburg, Pennsylvania, at the Metropolitan Vickers Company’s auxiliary station at Hale, Cheshire, in the early hours of yesterday morning was proof of the value of the experiments which are being carried on by this British firm in association with the related Westinghouse Electric Company of America, the proprietors of the KDKA station at Pittsburg. 

The experiments are based at present on the use of short wave length of 100 metres in preference to the 350 metre length customary in American broadcasting, because it is believed that by this means a great deal of the trouble caused by “atomospheries” can be avoided.

Up till midnight the transmission was, however, badly interfered with, but at 12(British time) “Goad Save the King” came through clearly, following the announcement that the station was speaking.  “The Lost Chord” was also heard, and a little later H.P. Davis, Vice President of the Westinghouse Company, offered New Year greetings to the Metropolitan Vickers Company.

About 1 o’clock there was a long address by a woman, and a second woman — the clearest of all the speakers — followed with a children’s fairy tale.  Then a band played “Rule Britannia,” and Mr. S.J. Nightingale, a member of the staff at Trafford Park, who has been in Pittsburgh for some months, sang three songs, each of which was distinctly recognized by his mother and sister, who were among the listeners-in at Hale. 』 ("Broadcast Messages from America : Reception in Cheshire", The times, Jan.2,1924, p12)

 

上記タイムス紙の記事タイトルにあるCheshire(チェシャ―州)や文中のHale(ヘイル)というのはメトロポリタン・ヴィッカーズ社のアルトリンチャム受信所がある地域名です。この新年番組はBBC各局にも配信されました。

 

また米国では一部のラジオファンによりKDKAの短波中継が聞かれていたかも知れませんが、この放送がうまくロンドンで再送信されたかは、米国のラジオファンには知りえないことでした。その結果は想像以上に早く米国に知らされました。

放送終了後、ロンドンより「米国KDKAの新年番組が英国で再送信された」というニュース配信を受けた、米国のニューヨークタイムス紙は直ちに"Pittsburgh is Heard Clearly in England : Plant in Cheshire Gets Westinghouse Concert Arranged on a Short-Wave Length. " というタイトルで、この放送史における歴史的快挙を速報しました(1924年1月2日, p19)。

 

このように、米英両国では短波による国際ラジオ(中継)時代の幕開けを感じさせるこのニュースで1924年がスタートしたのです(なお内容的には英国のタイムス紙の記事と、米国のニューヨークタイムの記事に大差ありませんでした)。そして実際このあと、次々と大西洋を越える国際中継が行われました。

 

デヴィス副社長が1928年(昭和3年)にRCA社副社長のデビッドサーノフ(David Sarnoff)氏や、AT&T社副社長のジューウェット(F.B. Jewett)氏らほか豪華メンバーと共同で書きあげた、"The Radio Industry: The Story of its development"(無線工業史)の第七章「米国放送史」(担当:デヴィス氏)には、この「新春特別番組」の件がきちんと記録されています。

『GREAT BRITAIN RELAYS KDKA

On New Year’s Eve, 1923, through previous arrangement, KDKA transmitted a short-wave program to Great Britain. This program was rebroadcast to Btitish Listeners through a station operated by the Metropolitan Vickers Company at Manchester, England, and was the first internationally broadcast program, as well as the first to rebroadcast. 』 (H.P. Davis, The Radio Industry, 1928, A.W. Shaw Company, pp216-217)

 

1924年(大正13年)はKDKAにとって、いや放送界にとって、国際短波中継の幕開けの年となりました。

 

まだラジオ放送がはじまっていない我国ですが、元早稲田大学教授の辻井眞氏が大正13年8月に出版された「居ながらにして知る無線電信無線電話」(左図)で、デヴィス副社長の写真と共にこの「新春特別番組」を取り上げています。

『 放送無線電話を今日のように通俗化した元祖ともいうべきエーチ・ピー・デヴィス君。彼は自分の支配している米国ウエスティングハウス電気会社のKDKA放送局から一九二四年元旦かなり長い挨拶を、大西洋を越えた彼方の英国および欧州諸国に向かって放送した。それが英国で非常によく聴こえたというので無線界の自慢話になっている。 』 (辻井眞, 『居ながらにして知る無線電信無線電話』, 1924, 文洋社, p63)

60) 英国のラジオ15・・・メトロポリタン・ヴィッカーズ研究所2AC 独自試験 [WH編]

1923年(大正12年)12月29日のBBC各局への中継を成功させたあと、年末から年始へ掛けた一週間はマンチェスターのメトロポリタン・ヴィッカーズ研究所の中波送信機2AC(波長400m, 1.5kW)を使って独自のKDKAの中継試験を実施しました。左図が2ACの送信機です。

【注】大晦日から元旦の「新春特別番組」の国際中継はBBCの扱いですが、これは2ACの独自試験です。

 

2ACの独自中継は23:30前後より始められ、深夜03:00(米国東部時間22:00)にKDKAが米海軍アーリントンNAAのタイムシグナル(波長2,650m)を短波で送って来たものを中波で放送して終わります。深夜3時にもかかわらず欧州のリスナーにはNAAのタイムシグナルが新鮮だったそうです。なお実験を23:30から開始したのはBBCのマンチェスター局2ZYの放送終了を待ったからだと想像します。

【参考】 タイムス紙の1923年12月のラジオ番組欄を調べてみましたが、2ZYの最終番組は22:30からでした(放送終了時刻は未記載)。また英国の週間Wireless Weekly誌(1924年1月2日号)および月刊Modern Wireless誌(1924年2月号)によるとBBC各局の放送時刻は、平日が15:30-16:30および17:00-22:30、日曜が15:00-17:00および20:30-22:30です。

 

1924年1月5日(土)に行われた試験では、メトロポリタン・ヴィッカーズ研究所2ACには英国はもちろんのこと、フランス、ベルギー、スイスそしてスカンジナビアから受信報告が届いたという記事が、英国のWireless World誌(1924年1月23日号)にあります。

『On Saturday, January 5th, the entire evening performance from Pittsburg was re-radiated from 2AC.  As a result a large number of letters has been received by the Metropolitan-Vickers Company from listeners in all parts of the British Isles, France, Belgium, Switzerland and Scandinavia, commenting on the surprisingly good quality of the re-radiation. 』 (Pittsburg-Manchester Relay Broadcasting, The Wireless World and Radio Review, Jan.23,1924, Wireless Press, p544)

同様の記事は英国のModern Wireless誌(1924年2月号)にもみられました。

また1月6日付のニューヨークタイムス紙(p14)は"Crystal Sets in England Hear Pittsburgh"という記事で、12月29日以降、英国のBBC各局やメトロポリタン・ヴィッカーズ2の実験局ACで中継されているピッツバーグKDKAの番組は鉱石ラジオユーザーにも聞かれたのだと伝えました。

 

メトロポリタン・ヴィッカーズ社のブラウン氏は米国の中波ラジオが、辛うじて中継できる品位で受かるのは週にせいぜい2-3時間なのに対し、この実験では実績値として週18時間の短波中継を行ったことから、もし実験時間の制限を付けていなければ、「短波は中波より中継の機会を10倍に増やした」といえるだろうと述べています。

61) 英国のラジオ16・・・KDKA(8XS)-2AC-BBCの短波中継網 [WH編]

Radio Broadcast誌(Vol4, March 1924, Doubleday Doran Inc., pp359-364)が6ページにわたる、大西洋横断短波中継成功の特集記事を組みました(下図)。

そのp360より引用した下図で説明します(地図はクリックで拡大します)。

地図中央にKDKA(ピッツバーグ)があります。ここから雷マークが西方のKFKX(へイスティングス)に伸びています。また地図の右上へ雷マークが伸びており、英国の地図にメトロポリタン・ヴィッカーズ2ZY(マンチェスター)と書かれていますが、正確にいうとこれは少し違います。

英国の受信点はマンチェスター郊外、チェシャー州アルトリンチャム(Altrincham)にあるメトロポリタン・ヴィッカーズ社の受信所です。

KDKAの短波の影響で、(BBCの中波再送信にとどまらず)英国のラジオ・マニア達の興味が一気に短波へ向かったようです。

63) ジェネラルエレクトリックGE社2XIの短波施設 [WH編]

スケネクタデイ(ニューヨークの北240kmほど)のジェネラルエレクトリック社(以下GE社)が、古くから運用していた実験局2XIに短波用無線電話送信機に増設する準備を開始したのは昨年(1923年)晩秋でした。

年末にはウェスティングハウス社のKDKAがヘイスティングスKFKXへのレギュラー中継を実用化したり、英国BBCへの国際中継を実用化していますので、GE社としてもラジオ局WGYの中継機の完成を急いでいました。そして短波送信機の開発と平行して英国BBCへ短波中継放送を申し込んでいました。

 

下図[左]はスケネクタデイにあるGE社の航空写真です(中央に見える鉄塔二基がWGYのアンテナでしょうか?)。

ここから1マイル(1.6km)ほど離れた(周囲に建物がない)場所に実験棟(左図[右下])を建てて、2XIの短波の試験はここで行われていました。大地の導電性が良いと考えられる、川がカーブしている場所の横を選びました。

 

左図[右上]は扇型アンテナと実験棟の全景で、扇上部の幅は60フィート(=18.3m)、高さは80フィート(=22.4m)でした。古典的な扇アンテナと違ってアンテナ線には3/8インチ(=9.5mm)の麻紐に細い銅線を何本も編み込んだものが用いられています。

なお写真ではよく見えませんが、アンテナの真下にはカウンターポイズが張られました。

 

下図は2XIの送信機です。向って左側から見たものが下図[左]、右側から見たものが下図[右]です。

左図[左]が発振部のクローズアップですが、発振回路のコンデンサーには一辺3フィート(=91cm)のアルミ板に硬質ゴムを挟み、コイルは幅2インチ(=5cm)の銅製リボンを1 1/2回巻きました。

左図[右]の送信機の横に立っている人物が持っているのが水冷式真空管です。この写真では送信機の発振にこれが2本使われていて、冷却水を流すホースが接続されているのが見えます。

変調器に水冷管4本を使用しました。高周波の廻り込みが起きないように厳重にシールドされ、入力コードにはシールド線が用いられました。発振器と変調器はスプリング入りの台座に置いて振動による周波数の変動を防ぐようにしました。

そしてBBCのビギン・ヒル受信所の協力を得て、1924年(大正13年)1月より送信試験をはじめて、日々改良を続けていたところ、次に紹介する腕試しのチャンス(WGYからKDKAへの国内短波中継)が巡ってきました。

64) 西海岸から英国まで 短波中継デモ大成功! (1924年3月7日) [WH編]

1924年(大正13年)3月7日、マサチューセッツ工科大学OB校友会のディナーパーティーがニューヨーク市内のウォルドーフ・アストリア・ホテル(Waldorf-Astoria hotel, 34st. 5th Ave.)で盛大に催され、米国電気界で活躍する大物技術者が勢揃いしました。

そしてGE社、RCA社、ウェスティングハウス社が協力して、パーティー会場でのスピーチやバイオリン演奏など、会場の模様を米国西海岸(KGO)と英国BBC各局へ短波中継するデモンストレーションが行なわれました。これは短波開拓史上でも特筆すべき出来事のひとつです。

 

「短波の力」によって、ついに太平洋岸からヨーロッパまで同時中継放送が実現したのです!この放送を聞いた英国からカリフォルニアまでの住民は驚き、新しい時代の到来を感じたことでしょう。

『Listeners-in from England to California were amazed to hear the announcement, "This program is being broadcast by station WJZ New York City, WGY in Schenectady, KDKA in Pittsburgh, KFKX in Hastings, Nebraska, and KGO, Oakland, California." 』 ("Radio Relay Makes World Wide Broadcasting Possible", Radio News, 1924.6, p1729)

 

ホテルの会場にマイクロフォンを設置したRCA社は、自社のラジオ局WJZ 波長455m(660kHz)で放送しました。

左図のビルの屋上にアンテナ塔が見えますが、これがニューヨーク市内(Lofty tower, 42st., between 5th and 6th Ave.)にあるWJZの新社屋です。WJZは昨年5月にウェスティングハウス社からRCA社に売却されたばかりです。

さらに信号は陸線でニューヨーク北部のスケネクタディ(Schenectady)のGE社に送られ、GE社のラジオ局WGY 波長360m(833kHz)で放送されました。左図はWGYの中波アンテナ塔と中波送信機室です。

そしてWGYから陸線で1マイル程離れた短波実験棟へ送り、実験局2XI 波長100m(3.00MHz)で東ピッツバーグのKDKAへ向けてサイマル送信されました。GE社は昨年の暮れより短波無線電話の開発に乗り出していましたが、これが本番での腕試しとなります。

 

このGE社の100m波(3.00MHz)はウェスティングハウス社のKDKAで受けられ、中波の波長326m(920kHz)で放送されるとともに、実験局8XSの波長98m(3.06MHz)でサイマル送信されました。【注】 KDKAはこれまで通り波長94m(3.2MHz)を使ったとする文献もあります(Radio World誌, 3月29日号)

 

KDKA(8XS)が発射した98m波は、英国のメトロポリタン・ヴィッカーズのアルトリンチャム受信所で受けて、同社研究所2ACよりBBC専用陸線に流し、BBC系列各局から中波放送として英国民に届けられました。

またKDKA(8XS)の98m波はウェスティングハウス社のへイスティングKFKXでも受けて、波長286m(1050kHz)で地元へ放送すると同時に、実験局9XWの波長104m(2.88MHz)で西海岸のカリフォルニア州オークランドに開局(1924年1月8日)したばかりのGE社のラジオ局KGO へ送られました。

 

そして太平洋岸の住民へKGOが中波の波長312m(960kHz)で同時放送しました。なんと2XI(3.00MHz)→8XS(3.06MHz)→9XW(2.88MHz)→KGO(960kHz)という放送史上初の三段中継でした。

 

なおKGOではKFKXの中波も同時に受信できましたが中継品位ではなかったそうです。左図はKGOのスタジオから離れた郊外に建設したアンテナと送信機室です。KGOは西海岸にあることから"Sunset Station"(日沈のラジオ局)と呼ばれました。

65) 日本にも伝わった超広域の短波中継放送 [WH編]

この短波中継の話題は一年遅れた1925年(大正14年)春に日本でも紹介されました。筆者は逓信OBの玉木繁治氏です。

『 KDKA局は最新式の設備を有し最近では再放送(Rebroadcasting)ということを行っている。再放送とはある放送局から送られてきたものを受信して、それをそのまま、その放送局より放送する所の方法である。・・・(略)・・・米国では実際この再放送が次の様な方法で行われているそうである。

ニューヨーク市にある中央放送局(WJZ)調整室の拡大盤から有線電話で音楽や演説をスケネクタデイのWGY局へ送り、局からは二つの異なった発信機で発信される。一つの発信機からは普通電波長三六〇米突(833kHz)で発信される。此一〇〇米突(3.0MHz)の短波長による発信は一般の聴取機には受信は出来ないが、KDKA局の特殊受信機では受信できる。受信せられたプログラムをそのままKDKA局の二種の異った発信機で発信せられ一つはKDKA局の普通電波三六〇米突(注:326m :920kHzの誤記)で、他は九八米突(3.06MHz)の短波長で送られる。そしてネブラスカにあるヘースチングのKFKX局や英国マンチェスターのQAC(注:2ACの誤記)と共にKDKA局に連結して、QAC(注:2ACの誤記)局では英国の他の七つの局を連絡するのである。KFKX局もKDKA局と同様に再放送局として働き、オークランドのKGO局に対しては一〇四米突(2.88MHz)の短波長で発信している。 』 (玉木繁治, 『無線電話受話装置の原理と組立て』, 1925.5, 鳳生社, pp68-69)

 

ちなみにカリフォルニア州オークランドのKGO局はこの中継の5ヶ月後の1924年(大正13年)8月30日に日本向けに3kWの特別増力放送(中波)を行い、電気試験所平磯出張所でその受信に成功しました。おおげさに言えば、ニューヨークWJZ発の番組がWGY(2XI), KDKA(8XS), KFKX(9XW) の短波で中継され、KGO、平磯を経由し、東京JOAKで放送が行なえる可能性があったわけです。

しかし日本では短波どころか、中波ラジオ放送さえ始まっていませんでした。東京芝の官練無線実験室からの定期実験放送開始が1924年(大正13年)4月15日、これが露払いとなって東京放送局JOAKの仮放送がスタートしたのが翌1925年(大正14年)3月22日です。日米格差を痛感せざるを得ません。

アマチュアによる短波通信への本格参入はこの年(1924年)の秋ですから、1923年11月22日にWH社のコンラッド氏らによりなされた短波の実用化が、いかに先進的だったかが分かります。

 

1925年10月には青少年向け科学雑誌『科学の世界』(科学の世界社)10月号で紹介されました。

『中継放送に就て

中継とは各所に放送局を置く代わりに中継所を設けて遠距離にまで放送する方法なのですが、「アメリカ」では昨年初めてこれを行ってから今日まで好成績を挙げています。わが国でも近く各放送局を利用してこの中継放送を行うようになることでしょう。最近図に示すように次の各地帯の範囲内で、六つの放送局がこの中継放送を試みました。すなわち、その地帯は「アメリカ」全土、「カナダ」、「メキシコ」、「イギリス」、並びに「ヨーロッパ」西部を網羅したものです。

この中継放送では、僅かに数哩(マイル)の電話線が使われただけです。すなわち「ニューヨーク」の「オルトルファーアストリア ホテル」から「ニューヨーク」WGY放送局ならびにここから。更に「ニューヨーク」WGY放送局をつなぐために使われたのです。この新しい試みには短波長の送話ならびに受話が応用されました。この中継放送に参加した各局名および各地の放送時刻は図に示す通りです。・・・(略)・・・』 (中継放送に就て, 『科学の世界』, 1925年5月号, 科学の世界社, p33)

 

さらにカリフォルニアのKGOの中波がオーストラリアで受けられ、また英国で再送信された中波がトルコのコンスタンチノーブル(現:イスタンブール)で受けられたとする記事もあります。

『 本年三月七日にニューヨークでマサツセツ研究所卒業生の工業家の合議の席上で放送したものが、殆んど英語を話す国のオーストラリアからコンスタンチノーブルまでも放送された。それはニューヨークの米国無線会社のWJZ局から放送し、GE会社のWGY局がそれを受け、又ピッツバーグのウエスチング会社のKDKA局が継いで、それを再びカリホルニヤのGE会社のKGO局が受けて放送したものを、オーストラリアで聴いたものだ。また一方、大西洋を越えて英国マンチェスターのZAC局(2ACの誤記)に至って、そこで再放送されて土耳古(トルコ)までも及んだものだ。 』 (高橋正忠, 『欧米通信叢話』, 1925, 南郊社, p336)

66) KDKA スペイン語放送で南米中継の事前調査 (1924年3月27日) [WH編]

1924年3月27日の20:30-22:00、KDKAはスペイン語放送を行いました。

これは東西ルート(対英国)の国際中継に成功したことから、南北ルート(対中米・南米)の国際中継の可能性を探るためです。中波のKDKAはこれまで南米から受信報告を受けたことがありましたし、キューバのラジオ局2EVを資本下に置いており、KDKAの電波が中米から南米まで届いていることは分かっていましたが、詳しい調査を行っていませんでした。

もしスペイン語圏の住民がKDKAをキャッチしても、言葉が分からなければ、それがアメリカのKDKA放送局であることに気付かないだろうという事で、わざわざスペイン語で1時間半の番組を編成したのです。放送スケジュールを事前公表し、もし聞こえたら受信報告を送って欲しいとプレス発表しました(KDKAでは毎日ヘイスティングスKFKXへ短波で送っていますの、このために特別の電波を用意するというわけではありません)。

しかし結果はあまり芳しくなく、南北中継はもう少し研究を要する、ということになりました。

67) GE社2XI 大西洋横断放送を予告 (1924年4月1日) [WH編]

1923年(大正12年)の晩秋より短波送信機を開発していたGE社は英国BBCに短波の共同試験を申し込んでいました。1924年(大正13年)1月より、米-英間短波中継試験を開始し、本番放送のチャンスを狙っていました。 1924年3月7日のGE・ウェスティングハウス・BBC三社共同短波中継デモンストレーションで英国への中継を担当したのは実績のあるウェスティングハウス社のKDKA(と英国のメトロポリタン・ヴィッカーズ)でしたので、GE社としても英国への中継実績を作りたいところでしょう。

 

米国で百貨店王と称されるジョン・ワナメイカー氏(John Wanamaker)はニューヨークにワナメイカー百貨店(John Wanamaker Store, 営業時刻:09:00-17:30)とワナメイカー・ホール(Wanamaker auditorium, 客席数:1300)を持っていました。

【参考】 百貨店王ワナメイカーは子供向けの偉人伝にも取上げられています。興味ある方は"不思議な広告(ワナメイカー) -百貨店の創始" (大山広光, 偉人物語 : 努力の人々, 1930, 文教書院, pp125-130)をクリックして御覧ください。

 

ジョン・ワナメイカー氏はラジオ放送に強い興味を持っていて、1922年にはフェラデルフィア本店にWOO、ニューヨーク店にWWZを開設していたほどです(WWZは1923年、WOOは1928年に閉局)。

まだラジオ放送が始まっていない日本ですが、これを紹介する記事もありました(1924年)。

『 (米国では)大都市のデパートメントなど大商店では、自家広告の目的で放送局を設置して、毎日有名な音楽家の演奏などを放送する。また受話器(放送受信機)製造会社は自家製の受話装置を販売するために、自家の放送局を持って居って盛んに広告をするという状態である。』 (松崎英男, 無線電話の知識, 1924, 聚芳閣, p68)

 

1924年、春の大売り出しに合わせて"Radio Festival"が企画されました。ワナメイカー・ホールで大物演奏家による音楽会を開き、百貨店への集客を狙ったもので、(すべてがライブ放送の時代ですので)夜のラジオ放送時間帯にもう一度演奏してもらい、それをRCA社のラジオ局(WJZおよび第二局WJY)を通じて家庭に届けるものでした。この"Radio Festival"にRCA社の大株主であるGE社も参画しました。いま米英の人々の間で話題沸騰中の国際中継を行うためです。

 

ワナメイカーはこの放送を"Transatlantic Broadcasting"(大西洋横断放送)と呼びました。

左図はニューヨークタイムズ紙にあるワナメイカー社の広告"The John Wanamaker Store News"(1924年4月1日)です。

この日はフランスの大物オルガニストMarcel Dupre氏を招いての演奏会を14:30から開くと告知しています。

そして夜にもMarcel Dupre氏のオルガン演奏(21:30-)と、ワナメイカー・オーケストラの演奏(21:55-)があり、RCA社のニューヨーク第二局WJY(波長405m, 周波数740kHz)と、(陸線で配信を受けた)スケネクタデイのGE社のWGY(波長380m, 周波数790kHz)が21:15-22:15の一時間枠で放送することになっていました。

さらに左図"Europe Listens In Tonight - berween 9.30 and 10.15 New York Time" という見出しをつけて、今夜WGYが波長105m(実験局2XI)を使って、欧州へ大西洋横断放送(Transatlantic Broadcasting)を行うことを告知しました。

68) 英国のラジオ18・・・1924年4月1日の短波送信は初の短波国際放送? [WH編]

1924年(大正13年)4月1日夜、予告通り、ワナメイカーとGE社による「大西洋横断放送」が行われました。ワナメーカーは翌4月2日のニューヨークタイムズ紙の自社広告欄で、大西洋横断放送の成功を誇らしげに発表しました(下図)。

要点部分のみを意訳するとこんな感じでしょうか。

「 Marcel Dupreのリサイタルはワナメーカー・オーケストラとともに、ニューヨークWJYとスケネクタディWGYにより放送されて、ヨーロッパでだけではなくアメリカの至る所でも聞かれました。 2つの大陸の人々が同時に聴取したのです。

ヨーロッパにもフェスティバルに参加させ聴取されたことは、ラジオ放送と受信機販売の先駆者ワナメイカーのもう一つの偉業です。 」

『 London Hears by Radio the Wanamaker Auditorium Broadcasts

The occasion was last evening’s farewell organ recital of Marcel Dupre, famous French organist, who sails for France today after a very successful tour of America.  The organization of the French War Veterans in New York were our guests in Auditorium.  Prominent residents of London were our guests in the Wanamaker London House.  The recital, together with the Wanamaker Orchestra, was broadcast by WJY in New York and Schenectady and was heard not only in Europe, but all over America.  Two continents listened in at the same time.・・・(略)・・・

These broadcasts are being made all this week during the Radio Festival which is interesting thousands of people daily. To have Europe join in the festival and to hear the concerts is another triumph of radio and of the Pioneer Radio Store - Wanamaker’s 』

 

さらにロンドン支社(London Wanamaker House)から逐一打たれ続けた電報(受信報告)も4月2日のニューヨークタイムズ紙の広告欄で発表しました。

● 電報:London Wanamaker House発 [April 2, 02:33]

HEARD PRELIMINARY SPEECH ANNOUNCING DUPRE;  SOMEWHAT DISTORTED.

(デュプレ氏の演奏前スピーチが入感したが多少歪がある。)

● 電報:London Wanamaker House発 [April 2, 02:40]

CONGRATULATIONS SUCCESSFUL BROADCASTING;  HEARD RECITAL VERY DISTINCTLY.

(放送成功バンザイ。演奏会はとても明瞭に聞こえる。)

● 電報:London Wanamaker House発 [April 2, 02:45]

SIMPLY WONDERFUL CONCERT, COMING THROUGH VERY CLEARLY, LOUD SPEAKER, HEARING IT ALL OVER BUILDING.

(素晴らしい演奏会だ。非常にクリアーに届いて、ビル中に響いてる。)

● 電報:London Wanamaker House発 [April 2, 02:50]

END FIRST PART RECITAL 2:48;  HEARD SPEECH FOLLOWING;  CONTINUING LISTENING SECOND PART RECITAL.

(02:48に第一曲目終了。スピーチがあり、第二曲目を聴取。)

● 電報:London Wanamaker House発 [April 2, 03:15]

THIRD PIECE 2:50;  FOURTH PIECE 2:56;  APPLAUSE 2:58; END FOURTH PIECE 3:05;  HIGH NOTES WONDERFULLY CLEAR SPEECH, AND VERY LOW NOTES SLIGHTLY DISTORTED.  3:09 WANAMAKER ORCHESTRA HEARD DISTINCTLY AS IF BEING BROADCASTED BY LOCAL ORCHESTRA IN LONDON.  TO OBVIATE MISUNDERSTANDING WOULD POINT OUT THIS IS BEING RECEIVED DIRECT ON OUR SET IN MR. WANAMAKER’S PRIVATE ROOM.

(02:50第三曲目、02:56第四曲目、02:58拍手が入り、03:05に演奏終了。高音は素晴らしくスピーチをクリアにしているが、低音は少々歪む。 03:09ワナメイカーオーケストラの演奏が、まるでロンドンの地元オーケストラの放送のように聞こえた。誤解の無い様に言うと、これはワナメイカー氏のプラベートルームでの直接受信です。)

 

左図はWireless World誌(1924年4月16日号, p86)です。ロンドン時刻の4月2日深夜、ワナメイカー・ロンドン・ハウス(26 Pall Mall, London)でニューヨークからの2XI(107m, 2.8MHz)を明瞭に受けたとのことです。受信機はB. Clapp氏がセットして操作しました。

『 A “house to house” broadcasting transmission, from the well-known Wanamaker Store in New York to the firm’s offices in Pall Mall, London, was the subject of an experiment conducted during the early hours of Wedenesday, April 2nd.

An organ recital by M. Marcel Dupré and selections by the Wanamaker orchestra were broadcast through WGY on 107 metres, and pick up clealy on a three-valve set installed and operated by Mr. B. Clapp, of Messrs. Hambling, Clapp & Co., 11, Agar Street, Strand, London, W.C.2.

Mr. Clapp would be pleased to hear from any amateurs in this country who were successful in picking up the transmission. 』 (Another Transatlantic Broadcasting Experiment, Wireless World, Apr.16, 1924, p86)

 

ごく一部のラジオ受信マニアやアマチュア無線家しか短波受信機を持っていない時代ですし、英国時刻で02:30-03:15の放送で、リスナーがどれほどいたのか疑問ですが、「使用波長、放送時刻、番組内容、放送先」を事前に新聞で告知し、そして予告通りに短波放送が実行されたのはまぎれもない事実です。これが初の短波(直接受信)の国際放送でしょうか?

69) GE社WGYも2XIで短波中継に成功 (1924年4月5日) [WH編]

1924年(大正13年)4月5日の土曜夜(ラジオフェスティバル最終日)、ニューヨークのブロードウエイにあるワナメイカー・ホール(Wanamaker auditorium, 客席数:1300)のコンサートが再び短波送信されました。今度はBBCの協力で中波で再送信されました。

 

左図[左]は4月5日のニューヨークタイムズ紙に掲載されたワナメイカーの告知広告です。RCAのニューヨーク地元局WJZが20:00より中波450m(660kHz)で放送し、陸線で受けたGE社のスケネクタデイWGYは19:30より中波380m(833kHz)と英国向けに実験局2XIの短波107m(2.8MHz)で送信しました。

左図[右]は4月7日の同紙、ワナメイカーの広告です。空のコンディションは前回よりずっと良好だったようです。

今回は英国BBCのビギン・ヒル受信所が受けて、ロンドン中央局2LOからBBCの陸線で系列局へ配信して、中波でイギリス家庭へコンサートの模様を届けましたが、アメリカからの短波の直接受信はより明瞭に聞こえました。

『 London Again Hears Wanamaker Broadcast

 Public transatlantic broadcasting by Stations WJZ and WGY from Wanamaker Auditorium at the close of the Radio Festival Saturday night was even more successful than the broadcast on Tuesday.  The organ recital of Charles M. Courboin, the singing of John Barnes Wells, the playing of the Gloria Trumpeters and the speaking of Marion Davies were plainly heard in London.  The program was picked up by the British Broadcasting Station at Biggin Hill, near London, and relayed over Great Britain, but the concert was heard even more plainly direct from America.

2XIはGE社の水冷管による短波無線電話送信機で波長107m(2.8MHz)を使いました。 (W.J. Purcell, The Rebroadcasting Set at WGY, Radio Broadcast, Sep.1924)

 

またロンドン支社(London Wanamaker House)から打たれ続けた電報(受信報告)もこの広告中で発表しています。米国での放送はニューヨーク時間の5日19:30-20:45で、英国時間の6日00:30-01:45ですが、2XIはそのまま02:05(NY time: 21:05)まで両国の国家などを演奏して放送を終わりました。

● 電報:London Wanamaker House発 [April 6, 00:35]

HEARD PRELIMINARY ANNOUNCEMENT IN LONDON HOUSE DIRECT.  VOICE MORE DISTINCT THAN LAST TUESDAY.

(ロンドン・ワナメイカー・ハウスで演奏前のスピーチが聞こえた。4月1日、火曜日よりもはっきりした声だ。)

● 電報:London Wanamaker House発 [April 6, 00:50]

ORCHESTRA WONDERFULLY DISTINCTLY ON LOUD SPEAKER.  RECEPTION ON FOUR VALVES.

(オーケストラは大音量で素晴らしく明瞭。受信機は四球式。)

● 電報:London Wanamaker House発 [April 6, 01:04]

ORGAN SPLENDID, EXCEPT LOW NOTES.  WE ARE RECEIVING DIRECT BETTER THAN FROM BRITISH BROADCASTING STATION.  HIGH NOTES REMARKABLY CLEAR.

(低音を別とすれば素晴らしいオルガンだ。英国局が再送信する中波より、短波の直接受信の方が良い。高音は目立ってクリア。)

● 電報:London Wanamaker House発 [April 6, 01:17]

STRONG APPLAUSE.  JOHN BARNES WELLS’S VOICE COMING THROUGH VERY GOOD.

(盛大なる拍手。ジョン・バーンズ・ウェルズの声が良好に聞こえてくる。)

● 電報:London Wanamaker House発 [April 6, 01:20]

VOICE WONDERFUL;  ALSO PIANO ACCOMPANIMENT;  RECEIVING ON TWO VALVES ONLY.

(素晴らしい声。ピアノ伴奏。二球式でも受かる。)

● 電報:London Wanamaker House発 [April 6, 01:22]

STRONG APPLAUSE AFTER WELLS’S FIRST SONG;  PROLONGED APPLAUSE AFTER HIS SECOND SONG.(大きな拍手の後、ウェルズの一曲目のあと大きな拍手。二曲目のあとにも長い拍手が。)

● 電報:London Wanamaker House発 [April 6, 01:26]

TRUMPETS COMING THROUGH SPLENDIDLY.  CAN SAFELY SAY BEST EVER HEARD.

(トランペットは申し分なく聞こえてくる。これまでで最高だと安心して言える。)

● 電報:London Wanamaker House発 [April 6, 01:34]

TURNED ON LOUD SPEAKER, USING FOUR VALVES.  HEARING EXTRAORDINARILY WELL ALL OVER HOUSE.

(四球式ラジオのスピーカーをオンにした。ビルの外まで充分に響いた。)

● 電報:London Wanamaker House発 [April 6, 01:35]

NOW APPLAUDING.

(拍手)

● 電報:London Wanamaker House発 [April 6, 01:40]

STILL ON FOUR VALVES, LOUD SPEAKER.  ORGAN COMING THROUGH EVEN BETTER.

(四球式ラジオにスピーカーだが、オルガンもさっきより良く聞こえる。)

● 電報:London Wanamaker House発 [April 6, 01:46]

HEARD MARION DAVIES SAY, “HELLO! CAN YOU HEAR ME?”  SORRY WE COULDN’T REPLY.  HOPE TO LATER.

(マリオン・デイヴィースが「ハロー。聞こえるかい?」と尋ねてくれたのに返事が出来なくて残念。いずれまた。)

● 電報:London Wanamaker House発 [April 6, 01:51]

WELLS SANG “DRINK TO ME ONLY WITH THINE EYES.”

(ウェルズの歌。“DRINK TO ME ONLY WITH THINE EYES")

● 電報:London Wanamaker House発 [April 6, 01:54]

WELLS SIMPLY MARVELOUS.

(とても素晴らしいウェルズ)

● 電報:London Wanamaker House発 [April 6, 01:55]

APPLAUSE.  NEXT SONG BETTER THAN EVER LOUD APPLAUSE.

(拍手。次の曲は大歓声。)

● 電報:London Wanamaker House発 [April 6, 01:58]

“GOD SAVE THE KING” (“My Country, 'Tis of Thee,” has the same music).  ALL AS CLEAR AS IF PLAYED IN LONDON.

(英国国歌“GOD SAVE THE KING”。まるでロンドンで演奏されているように完璧にクリアだ。)

● 電報:London Wanamaker House発 [April 6, 02:00]

“STAR SPANGLED BANNER” STILL CLEAR.

(米国国家“STAR SPANGLED BANNER”。これもクリアだ。)

● 電報:London Wanamaker House発 [April 6, 02:10]

TRANSATLANTIC TEST FROM WANAMAKER AUDITORIUM BY WGY ON 107 METRES, STATION 2XI SIGNING OFF, EASTERN STANDARD TIME 9:05.  CONGRATULATE YOU ON WONDERFUL ACHIEVEMENT, WHICH HAS GIVEN US UNBOUNDED PLEASURE AND SATISFACTION.

(WGYが波長107mでワナメイカーホールから放送した大西洋横断テストは米国東部時間21:05、2XI送波終了。私たちに限りない喜びと満足感を与えたあなたの素晴らしい業績を祝福する。)

 

なお"The Business Biography of John Wanamaker Founder and Builder"(Joseph H. Appel, 1930, The Macmillan Company[New York], p416)には「フランスでも受信された」と記されています(BBCの中波か、2XIの短波かは不詳)。

 

この放送の翌日にはKDKAが心臓の鼓動をロンドンに中継したことが、4月8日の読売新聞で取り上げられています。KDKAとしては2XIの成功に焦っていたのでしょうか?

『心臓の鼓動が米国から英国まで無電で聞こえた

(ロンドン六日 国際発) 本日米国ペンシルヴァニア州のピッツバーグから心臓の鼓動を無線電話で放送したが夫(それ)が当地でも聞き取れた。』 (心臓の鼓動が米国から英国まで無電で聞こえた, 『読売新聞』, 1924.4.8, 朝刊p5)

70) WGY(2XI)の短波が南アフリカで受信される (1924年5月15日) [WH編]

さらに1924年(大正13年)5月15日にスケネクタデイWGYが中波と同時に波長107m(2.8MHz)でサイマル送信していたところ、南アフリカのヨハネスブルクでWGYのオペラ番組が受信されました。スケネクタデイ(米国)からヨハネスブルク(南アフリカ)まで8,034マイル(およそ1万3000Km)もあり、放送分野における遠距離短波中継の記録を更新しました。

 

GE社のエンジニアでWGY局に勤務するW.J. Purcell氏がRadio Broadcast誌に書かれた記事を引用します。

『 WGY was informed recently on excellent authority that the Gilbert & Sullivan comic opera "The Mikado" produced in the Schenectady studio and broadcast on both 107 and 380 meters had been heard in Johannesburg, Africa, May 15. The short wave signals were received. This constitutes a new distance record for WGY as Johannesburg is 8,034 miles from Schenectady. 』 (W.J. Purcell, "The Rebroadcasting set at WGY", Radio Broadcast, Sep.1924, Doubleday Page & Co., p388)

 

なおオハイオのThe Cincinnati Enquier紙(July 27, 1924)によると、4月22日に受信されたのが最初だったようです。

71) ポータブル短波中継  [WH編]

Radio Broadcast誌(May 1924)は祝日ワシントン誕生日(Washington's Birthday)のクーリッジ大統領のスピーチをシカゴ局が放送しなかったことを取上げました。大統領の10分間ほどのスピーチの中継に有線電話会社AT&Tより$2,500の料金を提示されたラジオ局側が、それではコストが見合わないと中継を断念した事件です。記事は中継コスト低減対策としてウェスティングハウス社やGE社の短波中継の試みを伝えました。

昨年よりウェスティングハウス社は8XP、GE社は2XAZの免許を得てポータブル短波中継機を開発していましたが、この頃には試用が始まっていたと思われます。

『 The Westinghouse engineers, with their short wave transmission from Pittsburg to Nebraska have solved, to a certain extent, the question of remote modulator control but, of course, the Chicago station could not very well set up a short wave transmitter at the White House, to relay the speech to Chicago. The General Electric Company has used a small portable short wave transmitter to actuate WGY from points a few miles away. Such a scheme is possible, but not yet as desirable as a good telephone line connection.  』 ("Expensive Service", Radio Broadcast, May 1924, p23)

なお記事では放送中継用の使用料が一般電話通話料金の20倍近くするのは、技術者による高品位で信頼性の高い専用回線を提供するためで、ラジオ局は放送事業での収益を有線電話会社に分配するのは仕方ないとしています。

72) KDKAがアルゼンチンへ短波中継 (1924年6月) [WH編]

1924年(大正13年)6月24日、KDKAの短波はアルゼンチンの首都ブエノスアイレスにあるモンテグランデLOZへの短波中継に成功しました。Radio News誌1924年11月号(左図)はアルゼンチンとチリではKDKAの短波が毎晩良く聞こえると伝えています。

 

ドイツのテレフンケン報(1924年10月号)にもKDKAの短波がブエノスアイレスへ非常にクリアに中継された記事(A. Esau, "Kurze elektrische Wellen und lhre Bedeutung für die drahtlose Telegraphie", Telefunken Zeitung, Okt. 1924)があり、日本の電気学会で翻訳要約され学界時報(大正14年5月)に掲載されていますので引用します。訳されたのは電気学会・編集担当の荒川大太郎氏(逓信省通信局)です。

『1924 のはじめに米国の送信局 Pittsburgh が約90米の波で無線電信電話の実験に成功して、以来(これは欧州のみならず伝達距離8000キロ以上の地にある Buenos Aires(ブエノスアイレス)において優秀でかつ、はなはだ一定不変の強度で受信された)短波の意義に対する興味はなお専門家間においても惹起され、今や全世界において商業上の世界的通信を行なわしめようとしてある。』 (A. Esaue/荒川大太郎訳, "短波長と無線電信に対する意義", 『学界時報』, 大正14年5月, 電気学会, pp101-105)

73) 8XSが短波の北極伝播試験に成功 (1924年夏) [WH編]

前年(1923年)6月から今年9月までの予定で、極地に向かったマクミラン(McMillan)探検隊の一行は、波長300/220m(周波数1MHz/1.36MHz)に加えて波長の短い180m(周波数1.67MHz)が出せる無線設備と、同行してくれる無線オペレータについてアマチュア団体ARRLに協力を要請し、その支援を受けました。またアマチュアはマクミラン探検隊(呼出符号WNP)の追跡受信で協力し、1923年(大正12年)8月27日の11:35EST、マサチューセッツ州チャタムのアマチュア無線家R.B. Bourne氏1ANAが、北緯78度30分にいるWNPの信号をキャッチし、最北地点の受信記録を作りました。このとき、波長220mの信号は混信で聞き取りにくかったが、波長180mはクリアに聞こえました。波長180mは1,667kHzの中波ですが、当時は波長200m(1500kHz)でもショートウェーヴと呼ぶのは珍しくなく、古い文献を読むときには注意を要します。

 

さてこれに影響を受けたかは存じませんが、ウェスティングハウス社KDKAのGeorge A. Wendt氏は、電波の飛びが良くないといわれる極地方面への、正真正銘の短波3.2MHzの伝播試験を計画しました。

1924年(大正13年)8月、カナダ政府の汽船北極号(S.S. Arctic)がカナダのケベックを出港し、グリーンランドのエタ(Etah)に向かいました。北極号にはKDKAを受信するための短波受信機と波長120mの2kW送信機(呼出符号VDM)が装備され、またKDKAの実験局8XSは8月5日より毎週月曜日22:30-23:30に短波で送信しました。その結果、北極点から11度の地点(北緯79度)で8XSの短波が受信され、最北地点の受信記録を塗り替えました。

 

この出来事はワシントン・ポスト紙をはじめとする新聞各紙で報じられました。

● KDKA'S SHORT WAVES RECEIVED IN ARCTIC

Toronto Operator in North Greenland Hears All of Wills-Firpo Fight. (The Washington Post, Oct.12,1924)

 

また商務省電波局の無線業務月次報告書RSB(Radio Service Bulletin)の "Important Events in Radio" にも収録されました

『During the period from August 5 to September 24 the East Pittsburgh, Pa. (KDKA), station maintained communication with the ship ARCTIC while on its expedition to Arctic regions. Upon the ship’s return it was reported that messages sent on short waves by the East Pittsburgh station were received at Cape Sabine within 11 degrees of the North Pole. This is the farthest north radio messages have been received. 』 (Department of Commerce Radio Division, "Important Events in Radio", Radio Service Bulletin, Dec.31,1927, p15)

 

なおウェスティングハウス社は1924年8月にさらに実験局8XAUの免許を受けています。商務省電波局のRadio Service Bulletin(Sep.2,1924, No.89)で8XAUが告示されていますが、8XAUの目的や、8XSとの役割分担については(私は)分かりませんでした。

74) 放送中継専用バンドを決定 (1924年10月) [WH編]

1924年(大正13年)10月6-10日に開かれた第三回国内無線会議(Third National Radio Conference)では64MHzまでの業務別周波数分配が行われ、放送中継業務(Relay Broadcasting)として、5つの短波バンド(2.750-2.850MHz、4.500-5.000MHz、5.500-5.700MHz、9.000-10.000MHz、11.000-11.400MHz)が与えられました。

18MHz以上は(5m Amateur Band を除き)マルコーニが開発中の固定局間指向性通信(Beam Transmission Band)としました。

75) 放送中継車の活躍 [WH編]

アンテナが短くて済むという短波の特徴を生かす新たな試みとして、GE(ジェネラル・エレクトリック)社は自社が経営するラジオ放送の番組を豊かにするために、取材現場からのライブ中継に利用することを考えました。

1923年10月に2XAZの免許を得て、開発に着手していました。

 

Radio Broadcast誌(1924年12月号, p258)に、GE社が実用化した短波による放送中継車の記事があります(左図[左])。アンテナらしきものが延びているのが、かろうじて確認できます。教会や公共ホールから有線回線で中継していたものを、短波で直接WGY局へ送ることができるようになりました。

『This small truck is equipped with a low powered short wave transmitter which picks up programs from churches and public halls. The main station at WGY picks up these signals and they are radiated in the regular manner. The small transmitter takes the place of the usual telephone line connection between the outside hall and the broadcasting station. 』 (Radio Broadcast, Dec.1924, p258)

Radio News誌(1925年1月号, p1149)には、この中継車のコールサインは実験局2XAZで波長は100mとあります。

『GOES AFTER ITS PROGRAMS

Portable station 2XAZ picks up programs within a radius of 50 miles of station WGY and transmits them on a wave of 100 meters. The programs are picked up by WGY and rebroadcast. The two photos above show an interior and exterior view of 2XAZ. Note the antenna atop the Ford. 』 ("Goes After Its Programs", Radio News, 1925.1, p1149)

 

またウェスティングハウス社も1923年11月に8XPの免許を得て、短波中継車を研究していました。

上図[右]は1924年に作られたKDKAの短波中継車です。波長53m(5.660MHz)が用いられました。初期の自動車無線という観点からも興味深く、少々長く成りますがその仕様を引用しておきます。

『This transmitter is a quarter kilometer set, mounted on a one - ton truck and is complete in every detail. The power to run the set is obtained from the 110 volt lighting circuit in the building or location from which the program is to be broadcast. A flexible power lead 250 feet long is a part of the truck's regular equipment and brings the power from the building to the truck. As 110 volt A.C. power is available practically everywhere, this takes care of the problem of power supply.

A power transformer on the truck is used to get the necessary high voltage to operate the set. The power at this high voltage is passed through a vacuum tube rectifier, making use of two quarter -kilowatt air cooled rectifier tubes giving single phase full wave rectification. The output of these tubes is passed through a brute force filter of chokes and condensers, which delivers 2000 volts D.C. power to the transmitter. Means are provided for changing the voltage applied to the rectifier tubes to take care of variations in the voltage of the lighting circuit, thus assuring unvarying supply to the transmitter.

The transmitter itself makes use of the standard oscillator circuit with Heising modulation, using a quarter - kilowatt modulators. The tank circuit of the oscillator is a standard inductance of the usual solenoid type, wound with heavy copper strap, and an oil immersed variable condenser is used to tune this circuit to the desired wave. The wave band from 51.7 to 54.5 meters is the one used and the set is ordinarily operated on about 53 meters. 』 (C.J. "Burnside, Portable Short Wave Transmitter", Wireless Age, June 1925, Wireless Press Inc., p27)

 

このように1924年(大正13年)は短波帯に放送中継バンドが正式に認められた年です。中継用アンテナが大きく出来ないことから短波は最適でした。放送事業者は番組取材範囲を大きく広げられる可能性から中継車に着目し、短波中継業務の実用化が推進されました。 下図は1925年(大正14年)春に撮影された中継車WGMUで使用波長63m(4.760MHz)です。中波ラジオ局WAHGとWBOQに使用されました。短波といえばまず遠距離通信が思い浮かびますが、実は開拓期の頃から陸上移動体通信(近距離)用としても利用されました。

76) 南ア・濠・独への短波中継にも成功 (1924年10月~) [WH編]

免許上では長らくコンラッド氏の名義のままだった短波実験局8XKは1924年(大正13年)6月に、WH社名義に書き換えられました。同年10月11日、KDKAはこの8XK(波長63m, 出力50kW)で、南アフリカのヨハネスブルグ・スター・ラジオ局JBへの中継に成功しました。

1925年(大正14年)1月13日、波長63mでオーストラリア(シドニー局2FC)への短波中継を試みましたが、この日はコンディションが悪く、とても実用にはならない品位だったため中止されました("KDKA", Examiner, Jan.15, 1925, p3)。そして2月の5, 6, 7日の三日間(シドニー時間の20-21時)、シドニーの新興局2BL(850kHz)が中継を行いました。品的には決して自慢できるようなものではなかったが、まだ開局して日の浅い2BL局はよく頑張ったとオーストラリアの無線週刊誌The wireless weekly(左図:1925年2月13日号, Australasian Radio Relay League, p3)が評価しています。

  さらに1月31日にドイツ(シュトゥットガルト局)へ中継されました。

 

前掲の逓信省伊藤豊技師の報告には次のようにあります。

『そのほか南亜(南アフリカ)のトランスヴァールのヨハネスバルグ、独逸(ドイツ)のストラットガルト、濠州(オーストラリア)のシドニーなどでも時々この局(KDKA)の曲目を中継して放送したとの事である。またKDKAを再放送する為にネブラスカル ヘースチングにあるKFKXでも短波長装置を設けて、種々試験をしているのである。』 (伊藤豊, 前掲書, p32)

 

Radio News誌の記事によると、KDKAのドイツ・シュトゥットガルト(Stuttgart)への第一回中継は1925年1月31日で、第二回中継は3月21日だったようです。

『The first regular, publicly announced relay of KDKA was carried on the night of January 31.  It was the first event of the kind to take place on the continent of Europe. ・・・(略)・・・The second regular relay of KDKA was carried out on March 21 and was also very successful. 』 (S. McClatchie, "KDKA Rebroadcast in Germany On a Single Tube", Radio News, Sep. 1925, Experimenter Publishing Company, p273)

 

1925年から翌26年にかけては、中継には63m(4.8MHz, KDKA)を、実験には67m(4.5MHz, 8XS)と96m(3.1MHz, 8XS)を使用していました。

他社の例も挙げると、1925年(大正14年)にはRCA社がNBC系中波ラジオ局WJZの短波中継を、ニュージャージーのバウンド・ブルック実験局が扱い始め、米国では短波による放送中継の実用化試験が一気に花咲きました。欧州の各国と比べると、米国の国土は遥かに広く、有線通信会社を利用した場合、番組配信の経費が馬鹿にならないからです。

77) 短波による「放送無線パーティー」に大統領も [WH編]

KDKAのあるピッツバーグにはトマト・ケチャップなどで有名な老舗食品メーカー ”ハインツ”の本社がありました。 1924年(大正13年)10月11日、同社社員と来賓あわせた1万人による創立祝賀会が「放送無線パーティー」として行われ、短波中継の新たな試みとして注目されました。

『In 62 cities of the United States, Canada and Great Britain, 10,000 diners met simultaneously October 11 at the world's first international radio banquet to celebrate Founder's Day by the H. J. Heinz Company, radio being used as the medium to tie into a unit these scattered banquets.・・・(略)・・・ 』 ("10,000 DINERS IN 62 CITIES HEAR SAME SPEAKERS BY RADIO", Radio News, 1925.1, pp1314-1315)

 

創業者ハインツ(H.J. Heinz)氏、ならびに主賓として参列した鉄鋼王シュワップ(C.M. Schwab)氏、ペッパー上院議員(G.W. Pepper)、そしてホワイトハウスにいるクーリッジ(Calvin Coolidge)大統領が電話回線を経由し祝辞を述べました。その様子はピッツバーグKDKAで中波と短波で送り出され、同時にヘースティングKFKXが短波で受け、波長の異なる短波で西海岸へ再送信しました。米国・カナダにあるハインツ社の各支店のパーティー会場には中波または短波受信機が準備され、祝辞が流されただけでなく、シカゴのKYWやスプリングフィールドのWBZは受けた短波を中波で再送信しました。また英国ではロンドンで短波を受けて特別回線の陸線でリバプール、ハル、ブリストルの各支店へ伝送しました。

 

安中電機製作所の赤坂常務がこの放送無線パーティーを紹介されていますので、引用します。

『千九百二十四年十一月十一日(原文まま:1924年10月11日の誤記)米国のハインツ会社がその創立五十五周年に当たるので創立者エッチ、ゼー、ハインツ氏のために祝賀会を開いた。この会社は合衆国、英国、および加奈陀(カナダ)に六十二箇所の本支店を有するが、その六十二箇所が同時刻に宴会を開く計画をした。この辺はちょっと日本人とは考え方が違っている。さて六十二箇所同時刻におのおの食卓に向かうというのであるが、米国と英国ではその端と端との間には八千哩(マイル)からの距離があり約八時間の時差がある。従って同時といっても英国と加奈陀、米国ではそれぞれ食卓を開く時刻が異なっている。すなわちピッツバーグの晩六時は倫敦(ロンドン)では夜半の十二時、桑港(サンフランシスコ)では反対に午後三時半になるわけだ。そこで時差を計ってあらかじめ時刻を定め六十二の都市の本支店で一斉に食卓につき祝杯を挙げたところで社長のハインツ氏が挨拶をするというのである。ところが一人で六十二箇所の人々に同時に挨拶するには無線放送による外はないというので前に述べた放送の嚆矢(こうし)たるKDKA局を通じて行なう事になった。』 (赤坂東司, "中継放送", 『常識無線講座』, 1924, 大阪毎日新聞社, pp97-98)

 

ちなみに1924年(大正13年)10月といえば、日本ではまだ東京放送局JOAKのラジオ放送は始まっておらず、逓信官吏練習所無線実験室が実験放送を行っていた時期です。またこの年の7月24日に米国アマチュアに短波が開放されたばかりで、今まさにアマチュアによる「短波の小電力遠距離通信」が発見されようとしていた頃でもあります。

78) コンラッドが短波実用化の功績でモーリス・リーブマン賞を受賞 [WH編]

1924年(大正13年)12月の無線技術者学会IRE(現:IEEE)誌[Volume12,Issue6] に、コンラッド氏が提出していた論文"Short-Wave Radio Broadcasting"が掲載されました(IREの受付けは1924年4月16日)。

 

これまでKDKAの短波技術については共同研究を行ったメトロポリタン・ヴィッカーズ社研究所のブラウン氏が無線雑誌の記事を通じて発表したものだけでした。

コンラッド氏はIREの論文で、1920年(大正9年)に波長250m(1,200kHz)で行った中波ラジオの実験放送から、1924年1月1日に米国から英国へ短波中継された新春記念番組(メトロポリタンヴィッカーズが受けて、自社の2ZYで放送する傍ら、BBC系7局が同時サイマル放送を実施した記念放送)に成功するまでの短波を実用化していく4年間の道程を明らかにしました。

彼が開発した大電力用の同調コイルやコンデンサーなどの主要部品、そして送信機の構成および回路図、さらに使用した短波空中線も写真入で公表しました。

 

1926年(大正15年)1月18日、無線技術者学会IREの年次総会で、コンラッド氏に 『For his research work in the short wave transmitting and receiving field』 として、1925年(大正14年)度のモーリス・リーブマン記念賞(Morris Liebmann Memorial Prize)と賞金$500を贈りました。左図は国立標準局NBS(現NITS)のデリンジャー博士(Dr. John H. Dellinger)より賞金の小切手を受け取っているコンラッド氏(向かって右側)です。

この賞はマルコーニ社のフランクリン技師が1922年(大正11年)に短波ビームの研究で受賞していますが、これに続く短波開拓史上での快挙だといえるでしょう。ちなみに日本人としては、1961年(昭和36年)に江崎玲於奈氏がこの賞を受けました。

 

本サイトでは短波はマルコーニ、コンラッド、アマチュアの三者により拓かれたという解釈をとっています。しかし1925年の時点においてマルコーニ氏は大英帝国のビームシステムを建設中で、まだ世の中に何も貢献もしていません。アマチュアも(1924年秋に、短波なら小電力で遠距離通信できることを発見し、)1925年に入るやDXレコードを連発して賑わいをみせていましたが、それは具体的に何かが社会へ還元されるような性質のものではなく、あくまで趣味の活動でした。

そう思うと、コンラッド氏は誰よりも早く短波で大西洋を越え(1923年9月)、1923年11月22日には東ピッツバーグKDKAからヘイスティングスKFKXへの短波中継を実用化し、ヘイスティングスの住民に娯楽を提供しました。さらに1924年(大正13年)には国際中継を実現し、鉱石ラジオしか持てない海外の人達にも、米国のコンサートやショー番組を届けました。

大西洋横断海底ケーブルは電信専用なので、まだ通話や放送番組は海を越えられない時代でした。大西洋間に国際無線電話(長波帯SSB波)が開通したのが1927年(昭和2年)1月ですから、その3年も前に国際短波中継を実用化したのは本当にすごい事だと思います。コンラッド氏はラジオ放送に短波を応用するという偉業を成し遂げ、多くの人々に夢と喜びを与えたからこその受賞だったのでしょう。

 

さらに短波実用化の技術開発が高く評価されたコンラッド氏は、1928年(昭和3年)3月にピッツバーグ大学(ジョン・G・ボウマン学長)から名誉博士号を与えられました("Engineer Receives Science Degree",  New York Herald Tribune, Mar.11,1928、“Pioneer Engineer Presented Degree”, Oakland Tribune, Mar.23,1928, p35)。

79) J1PP, JHBB, JOAK(短波) 誕生の真意は [WH編]

1924年(大正13年)4月より約半年間、逓信官吏練習所から官営のラジオ試験放送が行われたあと、1925年(大正14年)3月22日より、東京放送局JOAKによるラジオ放送が始まりました。

これまでもKDKAの短波中継放送は断片的に伝えられてきた日本ですが、ようやくその価値に気が付いたようです。

 

1925年5月11日に安藤博氏が出版した"放送ラヂオ"の中で、次のように中継放送(安藤氏は"再放送"という言葉を使用)を語っています。

『 ・・・(略)・・・かくなる受信機の発展は、一面放送事業に一新生面(しんせいめん)を開くに至った。それは再放送と称せらるるもので、たとえばハワイにはよい音楽家がいないので、その地の一放送局はサンフランシスコ、ロスアンゼルス等の約三千里隔てた所の放送を受けてそのまま自分の放送機に入れ、前と異なった波長で再び放送するのである。

無線の開祖といわれるKDKA局では、近来新しい設備をして、ピッツバーグで二つの電波を出し、その一つ即ち長波長の方は附近の住民のために送り、他はネブラスカで再放送し、更にサンフランシスコでも再放送する。また他方遠く隔たったロンドンでも再放送しているということであるが、ロンドンでは常に再放送は不可能であろうが、とにかく中々面白いことである。』 (安藤博, 『放送ラヂオ』, 1925, 早稲田大学出版部, p147)

 

1925年6月10日に出版された"誰にもわかるラヂオの政策と原理"で、著者原田三夫氏は日本でも中継が必要になるとはっきり指摘しています。

『 なお、最近に研究されて、好結果を得たのは中継放送(リブロードキャスティング)である。それは、遠方から放送されたものを受信装置でうけると同時に送信装置にかけて、強くして放送するものであって、これによって、近距離用の受信機を持った人も、遠方の放送を聞くことができるのである。その実験の中、特に人の注意を引いたのは、前記米国のKDKAで放送したものを、英国のロンドンの放送局で中継放送して成功したことである。なお、この方法は目下研究中であるが、これが進歩したならば、世界中の人が、同時に一放送局のプログラムを聞くこともできるわけである。

わが国でも、地方放送局が出来た暁は、演奏者が少ないからプログラムの編成に困難を感じ、中心地からの放送を中継することでもしなければ、やりきれないであろう。』 (原田三夫, 『誰にもわかるラヂオの製作と原理』, 1925, 誠文堂, pp170-171)

 

まったく原田氏の指摘どおりで、島国日本では例えば札幌に放送局を作り、東京のJOAKから番組を送るには、電話用の海底ケーブルを津軽海峡に敷設しなければなりません。さらに植民地の台湾や朝鮮の放送局へ番組を送りたくても、モールス電信用の海底ケーブルでは必要な帯域が通りません。我国で放送を拡充させるには、やがてこの課題に直面するだろうと逓信省は早くから考えていて、KDKAなどの短波中継の動向を興味深く見守っていました。しかし自分たちにはまだ短波のノウハウがありませんでした。

 

東京放送局JOAKの開局から2週間ほどが過ぎた、1925年4月6日夜、埼玉県の岩槻受信所建設現場に仮設した逓信省通信局のJ1AAが、波長79m(3.8MHz)で米国の西海岸フランク・マシック氏6BBQと初交信に成功しました。翌日以降も次々と海外アマチュアと交信できたため、"もしかすると我々もKDKAのような短波中継が出来るのではないだろうか?" と、期待が膨らんだことでしょう。

今まで指を加えてKDKAの短波中継を見守ってきましたが、ようやく試せる時が来ました。1925年5月上旬、逓信官吏練習所に短波無線電話送信機を据えてコールサインJ1PPで短波の無線電話の研究をスタートさせました。JOAKの開局から1.5カ月しか経っていない時期です。

さらに11月上旬に電気試験所平磯出張所JHBBが短波無線電話の実験を開始し、1926年1月になると京城(ソウル)の朝鮮逓信局J8AAも短波の無線電話実験を始めました。日本の短波無線電話研究は官設J1PP, JHBB, J8AAの三局が先鞭をつけたのです。

 

また当事者ともいえるJOAKも短波中継が将来必要になることを充分理解していて、J8AAと同時期より研究を始めました。

1926年(大正15年)1月26日、社団法人東京放送局に無線電話の実験局が免許されました。呼出名称「東京放送局実験装置」で、波長15m(20MHz), 30m(10MHz), 35m(8.57MHz), 60-70m(4.29-5.0MHz)の短波と、 210-240m(1.25-1.43MHz), 360-390m(769-833kHz)の中波を与えられました。下図がその短波無線電話送信機です。官報には3日後の1月29日(逓信省告示第173号)に掲載されました。

これは1926年7月10日の短波開放の通達(電業第748号)よりも先に短波が民間許可された例外中の例外です。すでにKDKAの短波中継が良く知られており、それが我国にも必要なことを、電波三省会議の陸軍省・海軍省も理解した証だといえるでしょう。

80) コンラッドが短波実用化の功績でエジソンメダルを受賞 [WH編]

無線雑誌Radio Craftの1930年(昭和5年)6月号の表紙はコンラッド氏でした。KDKAの生みの親であり、短波を実用化した男です。半年後に素晴らしいことがありました。

コンラッド氏はこれまで果たしてきた短波実用化への功績が認められて、米電気学会AIEE(現:IEEE)から『For his contributions to radio broadcasting and short wave radio transmission』として、1930年度のエジソン・メダル賞(Edison Medal)を受賞したのです。権威あるこのエジソンメダルの受賞者例として、1914年:グラハム・ベル、1915年:ニコラ・テスラ、そして1930年:コンラッドの後には、1942年:エドウィン・アームストロング、1947年:リー・ド・フォレストなど超大物技術者を挙げる事ができます(マルコーニは未受賞)。

1931年(昭和6年)1月25日のニューヨークタイムス紙(p2)は明日から開催されるAIEE大会でコンラッド氏がエジソンメダルを受賞すると報じました。そして下図は受賞後の1月29日(p4)の記事"Frank Conrad Gets 1930 Edison Medal" (New York Times)です。

 

終戦直後のJARL理事長を務められた大河内正陽(J2JJ)氏が訳者のひとりである「電子工業史」から引用します。

『ウェスティングハウス社のなしたもっとも影響範囲の大きい貢献は、フランク・コンラッド博士による、放送についての初期の実験である。すばらしい成功をおさめた娯楽放送についての彼の当初の努力のほかに、コンラッドはまた短波通信について先駆者としての仕事をなしている。つづいて、固定地間の通信に使われていた大電力の長波局は、短波による方がさらに経済的でより確実であるため、すべて廃止された。この先進的な仕事により、コンラッドはつぎのような表彰の言葉とともに、エジソン賞を受けた。「見すてられていた領域を骨身おしまず観察し、研究することにより、コンラッドは、遠距離通信に対する短波の特性を発見し、無線通信と放送を国際的なものとした。」 』 (Maclaurin著, 山崎俊雄/大河内正陽 訳, 『電子工業史 - 無線の発明と技術革新』, 1962, 白揚社, p202)

 

英国の無線雑誌Wireless World(1931年1月28日号)はコンラッド氏にエジソンメダルが贈られたことを速報しました(左図)。

米国のRadio News誌も(少し遅れましたが)これを報じています。

『Dr. Frank Conrad a pioneer broadcaster and assistant chief engineer of the Westinghouse Company, who has just been awarded the Edison medal for his contribution to radio broadcasting and short-wave radio transmission. 』 (KDKA, Radio News, 1931.4, p872)

 

エジソンメダルの受賞が決まる直前のShort Wave Craft誌(1930年10-11月合併号)の表紙には、コンラッド氏が設計したKDKAの新しい短波中継用アンテナのイラストが使われています(左図表紙の円の中)。

まるでストーンヘイジのように建設されたアンテナ群は"Spray Antenna"とも呼ばれ、実験局W8XKのコールサインで試験をおこないました。

 

【参考】 コールサインの変遷

歴史ある8XKはコンラッド氏が放棄し、ウェスティングハウスが継承しました(その時8XSを廃止)。そしてワシントン会議の決定により1929年3月にW8XKに指定変更されたあと、1939年にWPITになりました。

また1930年1月、スプリングフィールドに開局したW1XAZは、1935年にW1XKに変更しましたが、やはり1939年にWBOSとなりました。そして1940年にWPITはボストンに移設され、翌1941年にはWBOSを吸収して一本化されました。

 

このアンテナ写真だけを見ると、まるでKDKAは短波ラジオ局ですね。

左図はW8XK(1929-1939)が発行していたベリカードです。これは1935年(昭和10年)のもので、次のように周波数が印刷されています。

『LICENSED POWER 40 KILOWATTS BROADCASTS THE PROGRAMS OF KDKA

49 METERS - 6140 KC - DAILY 4:30 P.M. TO 1:00 A.M.

25 METERS - 11870 KC - DAILY 4:30 P.M. TO 10:00 P.M.

19 METERS - 15210 KC - DAILY 9:00 A.M. TO  4:30 P.M.

14 METERS - 21540 KC - DAILY 7:00 A.M. TO  9:00 A.M.

(TIME LISTED ARE EASTERN STANDARD TIME) 』

しかしKDKAの短波は国際放送という位置付けではなかったので放送史にもほとんど登場しません。また短波の歴史を通信分野(公衆通信)から振り返る場合でも、番組中継用の短波は取上げられることがなく、ちょうど放送分野と通信分野の狭間に落ちて歴史から忘れ去られているようです。

81) KDKA 火星へ向けて放送 [WH編]

いったん短波が開拓されると技術開発に加速度が付き、1930年代に入るやすぐに、各無線会社で超短波の研究が始まりました。イタリアではマルコーニ氏がバチカン教皇向けに波長50cm(周波数600MHz)無線電話の実用化試験をやっていましたが、コンラッド氏らウェスティングハウス社の技術開発陣は波長42cm(周波数714MHz)のパラボラビームで放送中継の研究をしていました。この実験局の呼出符号はW8XIです。

 

「火星のみなさん、こんにちは。こちらは地球。KDKA放送局です・・・」

と、アナウンスしたのかは知りませんが、1932年(昭和7年)1月、東ピッツバーグにあるKDKA技術研究所の屋上にE.I. Mouromsteff氏が開発した垂直ダイポールとパラボラ反射鏡をセットして火星に向けて放送しました。

使用した波長42cm(714MHz)は地球を取巻くヘビサイド層(電離層)を突き破り、遠く3万マイル離れた火星にも届いているはずで、もし火星に知的生物がいるならばこの放送が聞かれているだろうとプレス発表し、新聞や雑誌に取上げられました。

 

● ULTRA SHORT WAVE PASSES RADIO TEST; Ordinary Set Is Used as Parabolic Mirror Catches 42-Centimeter Beam at Pittsburgh. (The New York Times, Jan.26,1932, p21)

● TALK TO MARS' SUGGESTED Reported Ability to Penetrate Heaviside Layer Said to Indicate a 30,000,000-Mile Range. (The New York Times, Jan.26,1932, p21)

● ' HI,  MARS,  EARTH CALLING! ' ; Research Expert Creates Radio Waves Almost Identical With Light for Long-Distance Communication (The New York Times, Jan.31, 1932)

 

日本でも朝日新聞が"もしもし火星さん 聞こえますかね?"(1932年5月19日, 朝刊p9)というタイトルで報じたほか、帝国発明協会の機関誌『発明』にも"超短波暗光線で火星通信の試み"(1932年5月号, 発明ニュース, p42)という記事があります。どちらも上記の写真が用いられました。

 

KDKAは海外向け国際放送を行ないませんでしたが、人類初の「火星向け放送」のデモをしました。写真を見る限り大真面目にマイクへ向かって話しかけていますね。双眼鏡をのぞく人は火星を見ているのでしょうか?しかしこれは同社の超短波研究を世の中により効果的に伝えるための演出(?)ではないかと私は想像します。この装置の本当の目的は同社が準備中のテレビジョン放送の中継装置の研究だったようです。

82) ギガヘルツ帯へ研究を進めたウェスティングハウス社 [WH編]

1933年(昭和8年)になると、ウェスティングハウス社は波長9cm(周波数3.3GHz)を使った、音声中継試験を行いました(下図)。

 

左図の左側が波長9cm送信機です。少なくとも20マイル(=32km)の距離で使えることが確認されました。

『 "BEAM-CASTING" ON 9-CENTIMETER WAVES

During trials of the above pictured apparatus, developed at the Westinghouse plant at E. Pittsburgh, speech and music were transmitted, with indications that reception by this system is possible at a distance of at least 20 miles. These waves are not reflected by the Heaviside layer. 』 (Irving J. Saxl, "Radio Echoes from Space", Radio News, Sep. 1933, p136)

左図の右側がその波長9cm用の受信機です。空電や人工雑音の影響がないことを確認しました。

『 RECEIVING 9-CENTIMETER WAVES DURING TESTS

The receiver set-up, showing the reflector, for picking up ultra-short waves from the transmitter shown on opposite page.  The tests show that signals are not disturbed by atmospherics, man-made static, fogs, sleet or rain. 』 (Irving J. Saxl, "Radio Echoes from Space", Radio News, Sep. 1933, p137)

 

左図は側面パネルを外して内部を見えるように撮影されたものです。中華鍋型パラボラ・アンテナと無線機筐体が一体化されているのがわかります。 このように短波のパイオニアであるウェスティングハウス社は常に先頭集団で走っていました。

 

コンラッド氏は、1933年に人類の生活を豊かなものにした科学者・技術者に与えられるジョン・スコット・メダル(John Scott Medal)を受けました。【参考】 キュリー夫人、エジソン、ライト兄弟らが過去に受賞しています。

また米国電気学会AIEEから(無線分野ではありませんが)『 for his pioneering and basic developments in the fields of electric metering and protective systems. 』 として、1936年(昭和11年)度のランメ・メダル(Lamme Medal)を受賞しています。彼が得た特許は無線以外の分野でも交流電圧計・交流電流計、電力計、電気時計など200以上あり、電気産業全般への貢献が評価されたものです("Dr. Conrad of Westinghouse Awarded 1936 Lamme Medal", Electrical World News Issue, March 6,1937, p820)(ENGINEER: Lamme Medal Award Recalls First 'Big Broadcast', Newsweek, Mar.13, 1937, pp35-36)。

83) 「ラジオ放送の父」逝去 1941年(昭和16年)12月10日 [WH編]

1940年(昭和15年)10月6日のピッツバーグ・プレス紙が"The Father of Radio Broadcasting"(ラジオ放送の父)フランク・コンラッド氏に対して、ウェスティンハウス社より勤続50周年とその間の輝かしい功績を称え“A Diamond-Studded Gold Emblem”が贈られたと報じました(p31)。

左がその贈呈式の写真ですが、ウェスティングハウス社のチーフエンジニアであるR. E. Hellmund博士(右)より受取っています。このニュースはただちに無線雑誌Shortwave Craft誌("Pioneer Honored", 1940年12月号, p455)や、Electrical World誌など、複数誌に取り上げられました。

 

そしてコンラッド氏はウェスティングハウス社を引退されましたが、翌年に心臓発作を起こし、1941年(昭和16年)12月10日に逝去されました。67歳でした。地元紙ウィルキンズバーグ・ガゼット("World Mourns Frank Conrad Who Died Yesterday In Miami; He Was The Father Of Radio," Wilkinsburg Gazette, Dec.12,1941, p1,p6)はもとより、ニューヨーク・タイムス("Dr. Frank Conrad, Radio Pioneer, Dies", New York Times, Dec.12, 1941, p25)など全米の各紙がこれを報じました。偶然ですがマルコーニ氏(4月25日生まれ)とコンラッド氏(5月4日生まれ)は共に1874年(明治7年)のおうし座生まれです。

 

短波を開拓したのに中・長波の古い昔話ばかりのマルコーニ氏、そして短波の電離層反射をいち早く実用化して栄えあるエジソンメダルを受けたのに、世界初の商業ラジオ局KDKA(中波)の話題しか取り上げられないコンラッド氏。日本では、二人の評価にそういう共通点もありました。

 

下図は終戦直後の頃のRadio Mirror誌の1950年(昭和25年)1月号の表紙(下図[左])と、それに掲載された"Radio's Own Life Story"(pp22-23, 78-80)という記事です。

見開きページの左側上の写真はマルコーニ氏とケンプ氏で、その下は米国マルコーニ社時代のデビット・サーノフ氏です。そしてフランク・コンラッド氏が実験局8XKで放送実験を行った自宅とガレージのイラストが描かれていますね。

右側のページの上にはアメリカのラジオ放送技術に貢献した4名の偉人の顔写真があります。左から右へ、リー・ド・フォレスト氏、アームストロング氏、フランク・コンラッド氏、デビット・サーノフ氏の4名が取り上げられています。

アメリカの放送技術史におけるフランク・コンラッド氏はなくてはならない重鎮なのです。日本での知名度は低いかも知れませんが、アメリカの放送業界では"The Father of Radio Broadcasting"であり、短波の実用化(放送中継)を成し遂げた技術者として広く知られています。

84) 日本のアマチュア界から忘れられたKDKAの短波 (おまけ) [WH編]

KDKAの短波は日本でも1925年(大正14年)末より逓信省工務局の荒川技師がラジオファン向けに執筆され、翌春に出版された「短波長電波の話」に写真入りで登場します。この本は大正末期における短波アマチュア(アンカバー)のバイブルともいえる存在でしたから、笠原氏ら当時のJARL創設メンバーの方々もお読みになったことでしょう。アマチュア界におけるKDKAやマルコーニの短波の認知率は100%だったと思われます。

 

『米国に於いては、スケネクタデーのゼネラル電気会社(WGY局)や、イースト、ピッツバーグのウェスティングハウス電気会社(KDKA局)等では二百ないし四百米による放送の外、これと同時に短波長でも放送を行い、中継放送試験を行なっている。口絵に示すKDKAの百米附近のものは、欧州において受話されて中継放送を同時になしており、又ネブラスカ州のへスチング(KFKX局)でもこれを受話し、さらにまた短波長で放送を行なう実験を続けているようである。』 (荒川大太郎, 『短波長電波の話』, 1926, 科学知識普及社, pp66-67)

 

GHQ/SCAP占領下時代の1949年(昭和24年)に笠原功一氏(3AA, JIXI, J3DD)は自著「世界と語るDX アマチュア無線」でKDKAの短波に触れています。

『1923年(大正12年)11月7日(注:27日の誤記)、波長110メーターではじめての大西洋横断QSOは完成されたのである。米国側はシュネル氏、ライナルツ氏で、相手は仏のデロイ氏であった。(Schnell, 1MO、Reinartz, 1QP,1XAM、Deloy, 8AF)

この当時欧州では、英仏にややまとまってアマチュアが存在したが、米国の影響で(のちに)メキシコ、キューバ等が正式に許可を下すに至り、またニュージーランドやオーストラリアにも(1924年から)急激な発達が見られた。世界はようやく短波(Short Wave)の存在に気付き、その真価に驚きだした。

米国ピッツバーグの放送局KDKAが、波長100メーターで放送を行い、欧州ラジオ・ファンの血をわかしたのもこのころ(すなわち1923年11月~)で、短波は今や全無線界の注目を受けるに至った。』 (笠原功一, "大戦後1923年まで", 『世界と語るDX アマチュア無線』, 1949, 日本放送出版協会, p21)

 

1959年(昭和34年)、日本アマチュア無線連盟が社団法人になったのを契機に、日本のアマチュア無線の歴史をまとめておこうという事になり、郵政省電波監理局編集の電波時報11月号より「日本アマチュア無線史」の連載がスタートしました。これが我国のアマチュア無線の歴史をまとめた最初のものとなりました。

以下に引用しますが、その第一回は上記の河原氏の「世界と語るDX アマチュア無線」をネタ本にしたようです。なお小文字()は私の注釈です。また特に赤字は笠原氏の文にはなく、「日本アマチュア無線史」において加筆された部分です。どうぞ上と見比べながらご覧ください。

『・・・(略)・・・11月7日(注:27日の誤記)、110メートル波長で大西洋横断のQSOに成功した。大西洋横断テストとしては三度目(注:4度目の誤記)である。アメリカ側は(短波を使う特別許可を受けた)1MOシュネル氏(Schnell, 現コールW9UZ)と1XAMライナルツ氏(Reinartz, 現コールK6BJ)の二人、欧州側はフランスの8ABデロイ氏(Deloy)であった。短波のとびらは開かれた。たたいたのはアマチュアである。しかし、独占は許されなかった。開拓したばかりの短波に、世界が注目した。

当時のアマチュア無線の分布は、アメリカ、イギリス、フランスのほかメキシコ、キューバ、ニュージーランド、オーストラリアなどの国に及んでいた。そして、各国のハムが短波の世界に飛び込んでいった(注;アメリカは1.5-2.0MHzがアマチュアバンドなので短波には飛び込めなかった)。

1920年(大正9年)、中波の放送をはじめた世界で最初の放送局アメリカのピッツバーグのKDKA局が、100メートル波長で放送をはじめ、欧州のラジオ・ファンを感激させたのもそのころである。短波をねらったのはピッツバーグ放送局だけでない。 200メートル以下にはてんでハナにもひっかけなかった商業局が、アマチュアに浅瀬を教えられどしどし使い出した。』 (小林幸雄, "日本アマチュア無線史[1]", 『電波時報』, 1959.11, 郵政省電波監理局, p35)

 

赤字部分の加筆により、短波一番乗りは単独アマチュアだという事にしたようです。社団法人化を記念して電波時報編集部から連載の機会を与えられたJARLとしては、社団法人としての責任の重さや、今後のさらなるアマチュア無線の発展を願い、おおいに張り切るのはよく分かりますし、大風呂敷を広げて盛り上げるのも、まあ趣味の世界の話ですからよしとしましょう。

 

この電波時報の連載「日本アマチュア無線史」(昭和34年)は、1972年(昭和47年)1月よりJARLニュース(新聞形式で月3回発行)にも転載されました。当時学生だった私はこのJARLニュースへの転載版で「日本アマチュア無線史」を読んで感動しました。はやく続きが読みたくて次号の配達が待ち遠しかったことを今でも鮮明に覚えています。

 

社会に出て電気/電子/通信関係に携われたアマチュア無線家は数多くいらっしゃいます。私は電子立国日本の推進力としてアマチュア無線家が貢献した面はけして少なくないと信じています。

 

もし「日本アマチュア無線史」が、"アマチュアとKDKAが同じ頃に短波へ飛び込んだ"という趣旨の、笠原氏の文章(昭和24年)のままだったならば、何十万人ものアマチュア無線家の中から、「であればKDKAの短波とはどんなものだったのだろうか?」と調べる人たちが現れ、そして昭和50年以降にはKDKAの短波に触れた学術論文、書籍、雑誌が登場したかも知れません。「日本アマチュア無線史」は、見事なまでにマルコーニ氏の短波開拓をスルーしましたが、KDKAの短波には注目されるチャンスがあったわけです。

しかし現実はそうではありませんでした。赤字の加筆部分は「アマチュアが大西洋横断交信に成功したら、あとからKDKAが短波を "ねらって"やって来た」といわんばかりです。つまりKDKAはあとからやってきた商業局の中の「その他大勢」に埋没させられました。これでは誰もKDKAの短波に興味など湧きませんし、調べようともしないでしょう。KDKAの短波は日本のアマチュア界から忘れ去られたようです。