続 アマ無線家

アマチュア無線家の芽生え・誕生から第一次世界大戦までの話題は「アマチュア無線家」のページを御覧ください。

1) アマチュア無線再開と低い周波数への侵入 (1919年) [アマチュア無線家編]

1917年(大正6年)4月7日、アメリカもドイツに宣戦布告し、第一次世界大戦に参戦しました。そのため同年4月17日よりアマチュア無線は禁止になりました。1918年(大正7年)11月に終戦しましたが、アマチュア無線の再開は認められませんでした(受信に関しては1919年4月12日より再開)。しかし戦線で通信兵として活躍した多くのアマチュアの貢献が評価されるようになり、1919年(大正8年)10月1日にようやく再開が認められ、再び波長200m(1500kHz)に活気が戻ってきました。

【参考】 まれに「1919年に米国政府はアマチュアに電波を開放した」とする文献に出会うことがあります。これは戦争で一時禁止されていたものが、この年に再び認められたことを指すもので、誤解を招きやすい表現ですね。

そんなアマチュア無線再開直後の様子が"Amateur Ethics" 「アマチュアの道徳(倫理)」という記事に書かれています(下図:Radio Amateur News, 1919年12月号)にあります。

筆者はアマチュア無線家に対し、「波長200mを超えてはいけない」という基本中の基本を遵守して送信波長をよく調整し、低い周波数に入らないように呼び掛けました。

1919年12月号にこういう記事があるという事は、アマチュア無線の再開(10月1日~)と同時に、多くの局が波長200mを越える(1,500kHzより低い周波数の)電波を発射していたものと想像されます。

【参考】Radio Amateur News誌は、最古の大衆無線機「Telimco」の生みの親、ガーンズバック氏が1919年7月に創刊しました。

またこの筆者は第一世界大戦の前から、より遠くへ電波を飛ばそうと波長600m(500kHz)や400m(750kHz)を使うアマチュア無線家にしばしば気付いていたそうです。

Before the war, the writer often noted amateurs working on 400 and 600 meters, particularly those in remote sections, resorting to this practice, no doubt, in order to cover greater distances. (Pierre H. Boucheron, "Amateur Ethics", Radio Amateur News, 1919.12, p296)

確かに第一次世界大戦前のQST誌(アマチュア団体ARRL機関誌)にも低い周波数を使う局の摘発記事が見受けられますので、無線通信取締法の施行(1912年12月13日)で波長200mに立てられた進入禁止標識を守らないアマチュア無線家がそれなりにいた事が伺えます。

2) アマチュアへの商務省とARRLの対応 (1920年) [アマチュア無線家編]

1919年10月よりアマチュア無線が再開されると、200mより長い波長(1,500kHzより低い周波数)での運用が目立ちました。しかし電波を監督する商務省も、アマチュア団体ARRLも、この周波数侵犯行為がさらに過熱するとは思っておらず、まだ強い指導は行っておりません。

◎商務省の反応

1920年(大正9年)2月、商務省は同省電波局が発行するRadio Service Bulletin(Feb.2, 1920, Vol.34)の "Miscellaneous"(雑款)の中で、アマチュアの200m波(1,500kHz)遠距離伝播について触れました。

1920年1月21日、コネチカットにある電波局事務局はワシントンのアマチュアが発する200m波を受信できた。装置が200mに効率的に調整されてさえいれば、200m波でもこんな到達距離を示すのだ。』・・・まあ意訳すれば、こんな感じでしょうか。商務省は直接的な警告を行わず、「1,500kHz未満の方が良く飛ぶから」と、低い周波数に立ち入るアマチュア達を暗に戒めたようです。

◎ARRLの反応

まったく同じ頃、アマチュア団体ARRLでも「低い周波数へ侵入行為が目立つこと」を認識しています。

これはけっして"故意"に行われているのはなく、高価な市販波長計を買えないアマチュアが自分の発射波長を測定できないために起きていると考え、ARRLの機関誌QST(1920年1月号)に"Wave Meter Construction and Operation"という4ページにわたる波長計製作の特集を組みました(下図[左])。

この記事は単なる製作方法だけでなく、較正の仕方までもが、とても丁寧に解説されたものでした。しかしアマチュア達の低い周波数への思い入れは強く、"1500kHz未満への侵入"はなかなか収まらなかったようです。

そもそも無線法が施行された1912年(大正元年)12月13日までは、どの周波数でも一切の縛りがなく自由に使えたのですから、古参のアマチュア無線家は現行法に大きな不満を持っていたかもしれませんね。

【参考】1912年の無線法施行後は1500kHz以上の中から希望する単一周波数を許可をもらう方式で、事実上、ほぼ全員が「1500kHz」一波の免許。アマチュアは1500kHz以上を自由に使える帯域免許ではありません

◎機関誌QST読者の投稿

ARRL機関誌QST(1920年3月号)の読者欄に「200mへ帰れ!」"QSY 200 Meters !"という記事が掲載されました(下図)。

オハイオに住む一読者(8EZ, 8IX)より、波長235-465m(645-1277kHz)で運用するアマチュア達の「コールサイン」と「その波長」が投稿されました(Roy Stanley Copp, "QSY 200 Meters!", QST, Mar. 1920, ARRL,p48)

これは1920年1月19日の夜に(投稿者が所有する)波長計で較正して受信したもので、波長410m(732kHz)、波長455m(659kHz)、波長460m(652kHz)なんて強者も報告されています。投稿者(8EZ, 8IX)はこの記事で波長がズレて運用しているアマチュア達が目を開いてくれればと訴えました。

I hope this will open the eyes of some of the amateurs, who probably think they were on a leagal wave length, and keep them from tangling with the inspector.

それにしても、ここまで周波数を低く調節していると、”それ、故意でしょ?”って疑いたくなりますよね。

そしてQST編集部は投稿者(8EZ, 8IX)の貴重な情報投稿に感謝を述べるとともに、投稿者の意見に強く賛同し、違反者は襟を正すべきだとコメントを付けました。

The Editor is sure that we are all highly appreciative of this valuable information. It is truly an eye-opener, and the stations mentioned who are outside the pale should take due notice thereof and govern themselves accordingly.

3) 大多数が1500kHzより低い周波数で運用! (1920年) [アマチュア無線家編]

1920年(大正9年)4月、Radio Amateur News 誌は再びマチュア無線家に警告を発しました(下図:"Two Hundred Meters and What It Means")。前回記事"Amateur Ethics"と同じ筆者によるものです。

参考までに意訳してみますが、私の訳文は当てにならないので、正確な英文解釈は皆さんご自身でお願いします。記事は次のように始まります。

最近の記事(1919年12月号)で筆者は、遊びであっても必要な道徳とでも呼ぶべきものを一般のアマチュア無線家に伝えることを試みました。すなわち今日のアマチュア無線の運用実態に関して、思慮分別を持つ必要性を指摘しようとしたのです。

同時に容易な実行計画の概要を述べ、その言葉が賢明に充分届くことを期待しました。

しかしその後、全米のいろんな地域、特に人口密度の高い地区(ニューヨーク, ボストン, ニューオーリンズ, サンフランシスコ, ロサンジェルス)のRadio Traffic Centerで受信されたところでは、アマチュア無線家の大多数は送信機を調整する態度が、かなりいいかげん(rather lax)であることが示されました。

In a recent article the writer attempted to convey to the general radio amateur what may be called the ethical side of the game; that is, he tried to point out the necessity for applied common sense in reference to present day amateur operating conditions. At the same time he briefly outlined a constructive plan of action, hoping that a word to the wise was sufficient. Since then, however, notices from various parts of the United States and particularly from thickly populated radio traffic centers, such as New York, Philadelphia, Boston, New Orleans, San Francisco, Los Angeles, have been received, showing that a considerable number of amateurs are rather lax in the manner in which they tune their transmitters.  (Pierre H. Boucheron, "Two Hundred Meters and What It Means", Radio Amateur News, 1920.4, p584)

ざっくり言うならば、合法の波長200m以下に収まるよう調整された送信機は、100台のうち(10に近い)数十だけのようです。平均的なアマチュアは波長250m(1200kHzから375m(800kHz)あたりまで無頓着に運用するように見えます。

商業通信や公衆通信が使う、アマチュアには法外な波長に立ち入るのは、結局アマチュア自身に否定的な法律をもたらすかもしれません。ですから単刀直入に話をしましょう。最初に重要なアマチュア規則から振り返ります。(a) 一般アマチュア局は波長200mを超えてはならず、また入力1kWを超えないよう制限される ・・・(略)・・・若い紳士の皆さん、足元を良く見なさい。200mの境界線を踏み越えないように。

『・・・Broadly speaking it would seem that the small numbers of ten out of every hundred transmitters are tuned on the happy and safe side of 200 meters. The average amateur transmission wavelengths seem to run nonchalantly from 250 to 375 meters. This condition is rather deplorable, as such excessive wavelengths are altogether too close to commercial and official traffic, and may eventually result in drastic laws negative to the welfare of the amateur. For this reason, let us indulge in a straight-from-the-shoulder talk. First, let us review some of the most important existing laws and regulations concerning amateur operation. 

(a) General amateur stations are restricted to a transmitting wavelength not exceeding 200 meters and to a transformer input not exceeding 1 kw. ・・・(略)・・・Watch your step, young gentlemen, and do not overstep the bounds of safety.  (Pierre H. Bovcheron, 前傾書, p584)

そして自分の受信機を200mで感度がでるように調整しなさいと促します。

いくらかのアマチュアの間では、200mを超える波長(低い周波数)を使うと、すごい遠距離通信ができるとの誤った想いがあります。これは完全に誤りで、合法200m以下でも同様の結果が出せるかもしれません。みんながそれを発見できないのは送信機ではなく受信機のせいです。多くのアマチュアは遠距離受信するために低い周波数用として受信機を設計し、波長200mを効果的に受信することに注意を払うことをしません。もし受信機が波長200mや175mまで効果的受けられるように設計され、調整していれば良い結果がだせることを発見します。たぶん読者のみなさんは、今やニューヨークとボストンのアマチュアが真空管を使って波長175m(1.71MHz)や150m(2.0MHz)の持続電波の送信が達成されているのをご存じないのでしょう。

There is an erroneous impression among some amateurs, who really ought to know better, that much greater distances can be covered by employing wavelengths above 200 meters. This is entirely wrong, for just as good results may be secured on 200 meters or less. The reason many amateurs do not find this so lies with the receiver and not the transmitter. Many amateurs design their receivers for long wave, long distance reception and few pay any attention to the efficient reception of 200 meter wavelengths. If a receiver is properly designed for short wave reception, making it possible for the operator to effectively tune down to 200 or 175 meters, he will discover that just as good results will be possible. Perhaps some of you do not know that dependable undamped transmission is now being accomplish between New York and Boston amateurs on the comparatively low wavelengths of 150 and 175 meters by the use of Vacuum tubes. (Pierre H. Bovcheron, 前傾書, p584)

記事はこのあとアマチュアに良く較正された波長計(Wave Meter)を自作するか、もし自信がなければ完成品を購入することを強く勧めて、法を遵守するように呼びかけました。

【参考1】 1920年代初期は500kHzまでを長波(Long Wave)、それ以上を短波(Short Wave)と呼ぶことが多いです。

【参考2】 当時のアマチュアは概ね周波数500kHz~1700kHzをカバーするように受信機を組んだようです。 

第一次世界大戦の開戦の頃から技術革新で三極真空管が登場していました。1920年にはアマチュアでも容易に入手できるようになり、手軽に持続電波を発振できて、また受信機も真空管による再生検波方式により飛躍的に感度が向上しようとしていました。記事にあるように、中には175m(1.71MHz)や150m(2.0MHz)で持続電波を研究したアマチュアもいたようですが、それは例外的であり、境界線200m波の人気が衰えることはありませんでした。

また火花電波から、真空管式の持続電波が使えるようになり、その持続電波に音楽や音声を乗せ一方的に送信するアマチュアが登場したのも1921-1922年頃でした。彼らもやはり中波200m波のアマチュア免許で放送を行うようになり、これを"Citizen Radio" と呼びました。しかし1922-23年にラジオ放送に関する無線規則が整備され、アマチュア免許では「放送」をすることができなくなりました。アマチュア放送実験家は、アマチュア無線から分家し、放送局のオーナーや技師となり、初期のラジオ放送の発展を支えました。アマチュアによる放送ブームは1912-1923のページをご覧ください。

ということで、戦後のアマチュア無線再開より中波の全盛期を迎えていたといえるでしょう。アマチュアの低い周波数への固執はなおも続き、1922年春に開催された第一回国内無線会議ではアマチュアの波長を275m(1091kHz)まで拡大する勧告案が採択されました。

【注】しかしこれは実施には至りませんでした。

4) 戦争になって長波が注目される [アマチュア無線家編]

長波固定局はその空中線や送信電力の規模の大きさから注目されますが、例えば当時日本にあった、たった2局(1915年開局の海軍船橋無線JJC, 1921年開局の逓信省磐城無線JAA)の話であって、無線局数としては圧倒的大多数の船舶局と、それを相手にする各地の海岸局が取り扱う「中波の公衆通信」こそが長らく無線の中心でした。 

では早い時期から遠距離まで飛ぶことが確認されていた長波帯の利用はどうなっていたのか10年ほど時計を戻してみましょう。長距離公衆通信は海底ケーブル会社の独断場でした。無線電報の送受両端では結局のところ陸線通信会社に接続せざるを得ないというという大きな弱点がある上に、巨大空中線と巨力送信機の建設費が高くつくため、長波無線での市場参入は容易ではありませんでした。それでも1910年代に入り、長波の実用化(ビジネス化)が粛々と進められるようになりましたが、それにブレーキが掛かる事件が相次ぎ起きたのです。 英国ではスキャンダル事件に巻き込まれながらもマルコーニ社が、1912年に大英帝国とその植民地を結ぶ長波の「帝国無線通信網」を受注しましたが、1914年(大正3年)の第一次世界大戦の勃発で契約解消されてしまいます。同様に他国でもようやく長波による遠距離通信が整備されはじめた時に、第一次世界大戦が起きて中断しました。我国でも1913年(大正2年)にドイツのテレフンケン社の技術により、長波固定局の海軍船橋無線電信所JJCの建設に着工しましたが、翌年の開戦でドイツと敵対関係になったため、テレフンケン社の技術者が図面を焼却して帰国する事件がありました。

左図は欧州大戦の経験(大日本文明協会編, 1916, p380)から引用した1914年7月時点の軍用局を含めた海岸局および船舶局(中波)と、遠距離用無線局(ほとんどが軍用長波局)の数です。

なお1912年のロンドン会議で船舶公衆通信にも例外的に長波1800m(167kHz)の使用が認められ1913年7月1日より施行されていますので、緑の一部に長波が含まれると考えられますが、たとえそれを勘案したとしても、第一次世界大戦前の無線の中心は「中波」でした。

世界大戦(1914-1918年)でドイツ帝国は連合国に海底線を次々切断されたにも関わらず長波大電力無線で通信を確保し続けました。(実際の被害は少なかったのですが)連合国側も、もしドイツの潜水艦に海底ケーブルを切断されると、離れた植民地との一切の通信連絡が途絶するリスクを再認識し、大戦中に長波大電力無線局の建設に奔走するようになりました。

1920年(大正9年)に戦勝5大国で開かれたワシントン予備会議では長波帯の周波数分捕り合戦となり、以来各国は長波帯大電力固定局を建設し既得権の獲得を目指します。長波大電力「陸-陸」通信の黄金時代のはじまりです。つまり無線は短波→中波→長波(→その後、再び短波へ)と推移しました。

一九二〇年(大正九年)にワシントンにおいて、条約改正の予備会議を開くことにした。・・・(略)・・・論議のうち一番問題となったのは、長波無線の波長(周波数)割当の問題であった。それは、戦時中ドイツのベルリン付近にあるナウエン無線局が、連合国側により完全に包囲されていたにもかかわらず、その長波大電力の無線をもって、世界各地に宣伝力ある放送を続け、また、各地に潜入している機関に対し、指令を行いつづけ、その効果が非常に大なることが、世界各国に認識せられたためで、各国、特に強国は早くもこの種の大無線局を建設し、その割当周波数を確保するのに懸命であった。 (追想 荒川大太郎, 長波大電力無線局の建設と日本無線電信株式会社, 荒川大太郎追想委員会編, 1980, p132)

5) 新企画、中波による大西洋横断試験を発表 (1920年9月) [アマチュア無線家編]

以上の様な時代背景のアメリカでは"General Amateur"(一般アマチュア)と"Restricted Amateur"(制限アマチュア: 基地周辺の一般アマチュア)は200mを超える波長(周波数1500kHz未満)を使ってはならないという規則がありました。

法的な定義上ではアマチュア局に区分されない"Special Amateur"(特別アマチュア:数字の次がZの局)か、実験局(数字の次がXの局)でなければ1500kHz未満の電波は出せませんでした。

誰もが長い波長ほど遠くへ届くと信じていた長波黄金期ですから、当然一般アマチュアも同じ考えでした。少しでも飛ばしたいという思いから、こっそり波長200mより長い領域に侵入する行為があとを絶ちませんでした。そんな時期に、中波200m(1500kHz)に秘められた可能性を追求する国際的なビッグイベントが企画されました。

1920年(大正9年)9月、無線雑誌 Everyday Engineering Magazine が懸賞金スポンサーを募り、「大西洋横断試験」を来年2月1日より実施する準備をしていると発表しました。

Experimental Transatlantic Sending Tests

The Next Long Distance Record for a 200-Meter Set Will be Transmitting Across the Atlantic. “Everyday Engineering” is Making Arrangements for the Tests ("Experimental Transatlantic Sending Tests", Everyday Engineering magazine, Vol.9-No.6, Sep.1920, p544)

まだ中波時代ですから波長200m(1500kHz)が用いられることになります。しかしこのコンテストこそが(後年に)アマチュアが短波に再進出するきっかけとなったイベントで、アマチュア短波史の本当の意味での出発点です。記事を引用しておきましょう。

Announcement is made now to give everyone sufficient time to prepare for the tests, which will start on February 1, 1921. The elements of the contest are as follows:

 ("Experimental Transatlantic Sending Tests", Everyday Engineering magazine, Vol.9-No.6, Sep.1920, p544)

アメリカ側が送信役、欧州側が受信役となることから、欧州側においてEveryday Engineering Magazine誌のこの企画をお手伝いしてくれる組織が必要でした。そしてそれに答えたのが英国の無線専門誌 Radio ReviewのPhilip R. Coursey 副編集長でした。

ただしRadio Review 誌はどちらかというと電気学会寄りの学術発表の月刊誌でしたので、アマチュアの大西洋横断試験に関する告知は、同じく英国の無線専門誌であるWireless World誌を通じて行なわれました。

Wireless Worldの第一報は1920年9月18日号でした("Transatlantic Tests for Amateur Receivers", Wireless World, 1920.9.18, p459)

【参考】 Radio Review 誌は、1922年4月1日よりWireless World 誌へ吸収され、雑誌名を "Wireless World and Radio Review" としました。

6) 英国でも大西洋横断試験が告知される(1921年1月) [アマチュア無線家編]

英国のWireless World誌(1921年1月22日号, p737)に"The Trans-atlantic Amateur Tests.  Present Arrangements."というタイトルで、米国のEveryday Engineering Magazine誌が企画している大西洋横断テストの、現時点における計画スケジュールが告知されました。 英国側は1921年(大正10年)2月2, 4, 6日の深夜03:15(グリニッジ時刻)より波長200m(周波数1,500kHz)で米国からの信号を受けることになりました。

これは送信役の米国東部時刻では2月1, 3, 5日の22:15からに当たります。

また英国側でのコンテストの懸賞金(品)ですが、アメリカの信号を受けようと最善の努力をするアマチュアを奨励するために次の企業が気前良く賞品の提供を申し出てくれたと発表しました(マルコーニの関連会社も協賛しています)。英国側では1,500kHzが受けられる受信機さえあれば参加できました。

In order to encourage amateurs to put their best efforts into the reception of the American signals, the following firms have generously offered the prizes detailed below: - 

("The Trans-atlantic Amateur Tests", Wireless World, 1921.1, p737)

7) ARRL公表 アマチュアの平均波長は240m(1250kHz)! (1921年1月) [アマチュア無線家編]

低い周波数はアマチュアにとって垂涎の的でした。ARRLはQST(1921年1月号)アマチュアが発射する波長は平均すると法令違反の240m(1250kHz)なので、「波長を切り詰めよ」と警告を発しました。

大西洋横断試験が無線界から注目されるようになっており、連盟としては多くのアマチュアが1500kHzより低い周波数で違法発射しているという自慢できない現実を、きちんと是正しておこうと考えたのではないでしょうか。

ARRLのページに "Get Down to 200 Meter !" 波長を200mへ下げよ!(=周波数を1500kHzへ上げよ!)という警告文が掲載されました。

とりあえずざっくりと意訳してみますが、正確な解釈はご自身で願います。

みなさん。波長に関する法を遵守することへの我々のかなり大きな怠慢によって、自分自身を深刻なトラブルにさらしています。法では一般アマチュア局は200mを超える波長を使ってはならないとしています。あなたはこの法を遵守しているといえる局はどれ程だと聞いていますか?対して遵守しない局がどれ程だと聞いていますか?私たちの監視受信によれば、実際に法律を守っている局はあまりにも少な過ぎです。ARRLの監視受信では一般アマチュア局が合わせている波長は間違いなく平均で240m前後(1250kHz)だという悲しい事実を誰にでも示すことができます。・・・(略)・・・

もしあなたの波長が240mならば、あなたは連邦法に違反しています。あなたは起訴の対象となり、執行されると勝てません。波長を減らしなさい! もしあなたの波長が230mや、220mや、210mなら、あなたは発射してはいけない。波長を切り詰め、良い仕事を達成しなさい。ARRLは、誰であっても法を無視する権利があるとは考えていませんし、私たちは懸念をもって現在の状況を見ます。私たちはアマチュア無線仲間のひとり一人に、アマチュア無線のこの危機を排除するために自分の役割を果たすよう頼みます。それは全員が個別に気を配る問題です。法律に従いなさい ― 200mまで降りなさい(1500kHzへ上がりなさい)

Get Down to 200 Meters!

Men, we are laying ourselves open to serious trouble by our pretty wide failure to obey the wave length law. The law says that a general amateur station shall not use a wave length in excess of 200 meters. How many stations do you hear that you can say are obeying this law? How many do you hear by comparison who are disobeying it? Our observation is that there are all too few who are really complying with the law. It is a sad fact, that observation will show any of you, that the average general amateur tune is right around 240 meters. ・・・(略)・・・

If your wave length is 240 meters, you are violating Federal law. You are subject to prosecution and if action is taken against you, you won’t have a leg to stand on. Reduce! If your wave length is 230 meters, or 220 meters, or 210 meters, you MUST NOT operate. Cut ’er down. It can be done, and good work accomplished. The A.R.R.L. does not feel that any individual whatsoever is entitled to disregard the law, and we view the present situation with concern. We ask every one of you, Fellow Amateurs, to do your part in eliminating this danger to Amateur Radio. It is a matter for every man to attend to individually. Obey the law – get down to 200 meters. ("Get Down to 200 Meters!", QST, 1921.1, ARRL, pp32-33)

もしアマチュアが大西洋横断試験に成功して、それが1500kHzより低い周波数だったことが世間に発覚するような事態になると、アマチュア界全体のイメージダウンにつながります。ARRLにはそういう懸念もあっただろうと想像します。

8) ARRLが引き受けたが横断試験は失敗 (1921年2月) [アマチュア無線家編]

新たなる目標が登場し、また懸賞金(品)というご褒美もあって、このコンテストはアマチュアや個人の実験家の注目を集めました。しかし実施直前になって Everyday Engineering Magazine誌が休刊に陥る事態となってしまったのです。残念でならない同誌のM.B. Sleeper編集長はこの企画をアマチュア団体ARRLで引き受けてくれないかと相談しました。

そしてARRLはSleeper氏の大西洋横断通信試験というアイデアは、アマチュア無線界の発展のためになるとして、この企画を継承することを快諾しましたQST,1921年2月号, p20)。そもそも(第一回)大西洋横断試験はARRLの企画ではありませんでしたが、このような事情によりARRLで行われることになったのでした。

ARRLが引き受けた大西洋横断試験が1921年(大正10年)2月1, 3, 5日夜に行なわれました。実施日が一日おきなのは中波が夜間に遠くまで飛ぶことから、徹夜する参加者の健康に配慮した結果だったと想像します。

【注】上図は英国のWireless World 誌1921年3月5日号(p827)ですが、米国局が波長200mで送信したことが記されています(赤下線)。なお英国側では深夜で日付が変わり2月2, 4, 6日です。

スケジュールタイムになり、アメリカ東海岸沿いの25の選抜局が入力1kWの中波200m(1,500kHz)波を発射しました(下表25局:アマチュア22局、特別アマチュア1局、実験局1局)。

イギリスでは250施設ものアマチュアや実験者が協力し、アメリカからの200m波に耳を傾けました。しかしながら地元の商用局や軍事局からの混信妨害が多く、ついにキャッチできず、残念ながら第一回大西洋横断試験は成就しませんでした。

8) 特別アマチュア局2ZLについて [アマチュア無線家編]

第一回大西洋横断試験のアメリカ側の送信担当のひとつ、2ZLは特別アマチュア局(サフィックスZ)です。"アマチュア"という言葉から「アマチュアの上級局」のような印象を受けますが、実は局種分類上(1,500kHz未満の低い周波数の発射も許可される)特別陸上局に分類されますので、これはアマチュア局ではありません

商務省から年1回発行される局リストCommercial and Government Radio Station of the United States(1921年7月1日付)の免許情報では2ZLの許可波長200/ 250/ 275/ 325m(1,500/ 1,200/ 1,091/ 923kHz)です(下図)。

2ZLが新局として告示されたのは商務省Radio Service Bulletin No.45(Jan. 3, 1921)ですから、初めて免許されたのは1920年12月だったのでしょう。そして1921年2月にこの第一回大西洋横断試験に送信局として参加しました。この横断試験に失敗した直後に、送信機を改造して波長175m(1.71MHz)を試験した記事"C.W. Below 200 Meters" (The Wireless Age, July 1921, pp30-31)が見受けられます。しかし前述のとおり、7月1日時点の免許は波長200/ 250/ 275/ 325m(1,500/ 1,200/ 1,091/ 923kHz)ですので、2ZLの波長175m(1.71MHz)の試験は一時的なもので終わったようです。

2ZLは次に紹介する1921年12月の第二回大西洋横断試験に波長325m(923kHz)で参戦していますので、やはり低い周波数の方に望みを掛けたのでしょう。

9) 波長を守ろうとしない大多数のアマチュアにARRLが再警告! (1921年2月) [アマチュア無線家編]

アメリカのアマチュア団体ARRLとしては、QST(1921年1月号)で波長200mリミットを守るように注意喚起しした。しかし残念ながら、アマチュア達は法遵守の行動を起こさなかったのです。そこでARRLは再びQST(左図:1921年2月号)でアマチュア達に警告しました。

ざっくり意訳すると、カナダのアマチュアは波長50m未満(6MHz以上)の制限があるし、英国のアマチュアは10Wしか認められず、アンテナも制限されている。それにアマチュア無線が認められていないフランスやドイツのことを思えば、我々アメリカのアマチュア無線家は無線法にとても恵まれていることを分かっているのか?

それを有り難く思っているにしては、無線法を守っている者が余りにも少な過ぎるだろう。 波長200mを守っているのは10%以下だ。 これで感謝しているといえるだろうか。 トラブルに発展する前に止めるべきだ。波長を短くせよ。200mが君たちのリミットなので、そこまで戻ってきて、そこに留まりなさい。」と強く是正を求めました。

そして大文字の"YOU"を五回も使って、「この問題を他人事だと思ってはいけない。"あなた"の波長が長過ぎるから、私達は"あなた"に話しているのだ。"あなた"の局を是正できるのは"あなた"だし、その責任を負っていることを自覚すべきだ。」と、アマチュア無線の名声を汚さないために周波数1500kHz(波長200m)へ上がるよう、読者に強く迫り、「ARRLはみんながこの重要案件で義務を果すことを期待します」と締めくくりました。

参考までに全文を引用しておきますので、正しい英文解釈はご自分でお願いします。

Are We Appreciative ?

Are we - of the wonderful privileges which we American citizens have under the law which permits us to practice amateur radio? You will answer a careless "Yes", but are we? Do you know that this is the only country on the whole wide globe where citizens can engage in radio to anything like a reasonable extent? Consider Canada with its 50 meters, Britain with its 10 watts and restricted aerials, France with its ban on everything except meteorological information, Germany with its absolute "verboten". In this land of the free we have the glorious privilege of operating undisturbed in our little domain if we comply with certain simple requirements - but how many of us comply? All too few, fellows, and it is therein that we say we are not properly appreciative, for if we were we would rigidly live up to the spirit of the wave length and decrement law.

Because a Republican Congress did not give a Democratic administration enough funds to fully enforce the radio laws, we have been allowed to drift. And in drifting we have unconsciously taken a few meters here, a few there, until today the average amateur tune will be found many meters above the legal 200. Men, if the law were enforced as it should be, over 90 percent of you would be shut down at once, and many of you with too-long aerials could not reopen until considerable rebuilding had been done. Of the general amateur stations we hear here, we should say that less than 10 percent are within the legal 200 meters. Is this appreciative? It is not - it is carelessness, and it must be stopped before we get into trouble.

Fellows, the wave length must go down. 200 meters is your limit. Get down there and stay there. Don't think that this is something that we're printing for the other fellow - that it doesn't apply to you.  It does - if you are an average amateur. Your wave is too long and it's YOU to whom we are talking. YOU must realize that this is a thing that YOU are responsible for and that YOU alone can remedy as far as your own station goes. For the good name of Amateur Radio it is up to YOU to get busy at once and you’re your wave down to 200.

The A.R.R.L. expects every man to do his duty in this important matter. ("Are We Appreciative?", QST, 1921.2, ARRL, p29)

10) 容易ではなかった波長遵守 ARRLの苦悩 [アマチュア無線家編]

しかしQST(2月号)の記事を読み、波長侵犯を是正しようとした会員は一部に過ぎませんでした。ARRLは会員に波長を順守させるのがいかに難しいことか悟ったことでしょう。

翌月のQST(3月号)でも、エディターページ(左図)のトップで会員に訴えました。ざっくり意訳します。

アマチュアの平均波長が200mを越えているという侵犯問題をきちんと考えなさい。そしてアマチュア無線を許可する法令に、私達アマチュア無線家は従わなければならない。

本当のところ、あなたの波長はいくらですか?もし自分の波長が分からないのなら、それは(商務省の仕事ではなく)あなたが調べるべきものです。そしてもし波長200mを越えているのならば、それを切り詰めなさい!当然ながら、その作業を終えるまでは運用停止です。」と再度、会員に呼び掛けました。

こちらも全文引用しておきます。

Downward, Ho!

Did it over occur to you that the average wave length used today by general amateur stations is much what it should be if the low said that no amateur should use a wave length less than 200 meters? Think about that for a minute, and then reflect that what the law says is that no general amateur station shall use a wave length in excess of 200 meters. See the difference? This radio law is the document that permits our existence, and its provisions must be obeyed.

Much improvement has resulted in this situation since we started talking on the subject in QST but there are many of you men who still think it's the other fellow to whom we are talking. Honestly now, what's your wave length? If you don't know, it is your business to find out. If it's over 200 meters you should cut it down - yes, stop operation until you get it fixed.

We can write editorials on this topic "until our mind changes" and do no good unless we succeed in impressing each individual reader with the idea that it is really essential for the good of Amateur Radio that each individual do his part and make sure that his wave length is not over 200 meters. That is the idea, fellows: each of you must take this thing to heart and become aware that the A.R.R.L. considers no amateur a good one who uses in excess of 200 meters on a general amateur license.

It's the order of the day, O.M. ("Downward, Ho!", QST, 1921.3, ARRL, p29)

"隣の芝生は青く見える"といいますが、アマチュアにとって1,500kHzより低い周波数は、良く飛ぶ憧れの電波であり、低い周波数への侵犯行為は結局、ほとんど改善しませんでした。つまりアマチュアは高い周波数(短波)に見向きもしなかったようです。この時代にあって、飛ばない短波の実用化に本腰を入れて取り組んでいたのは英国のマルコーニ氏だけでした。

11) 中波による大西洋横断テスト(1way)成功(1921年12月) [アマチュア無線家編]

1921年2月の第一回大西洋横断テストは失敗したため、米国のアマチュア団体ARRLは1921年(大正10年)11月15日、特別アマチュア免許を持つポール・ゴッドレイ(Paul Godley)氏2ZEに最高峰の受信機を持たせ、イギリス(スコットランド)に派遣しました。米国選抜局からの電波を受けるためです。 

また2月の第一回テストでは参加条件を平等にするため、特別アマチュア局(Zコール)や実験局(Xコール) に1500kHzより低い周波数での参加を認めませんでした(特別アマチュア局も実験局も1500kHzを使用)が、今回はその制約が外されました。

つまりZコールやXコールの局は1500kHz未満の周波数が許可されているなら、それを使ってもよいことにしました。とにかく成功させることを最優先させたのでしょうか。

左図選抜局リストQST, Feb.1922, p10)には1,500kHz未満が許可されている、Zコール特別アマチュア局(Special Amateur)や、Xコールの実験(Experimental)もこの試験に参加しており、使れた波長は375-200m(800-1500kHz)の中波でした。

なお1AWや1BCG(チーム)は一般アマチュアのコールサインですが、その波長からスペシャルアマチュアのライセンスを得ていたか、この試験限りの特別許可だと想像します。

1921年12月7日、スコットランドの海岸に受信拠点を設けたゴッドレイ氏は、みごといくつかの米国とカナダ局をキャッチできました(結果的にいえば選抜局以外の方が多く受信されました)。

ARRLの機関誌QST図:1922年1月号)の表紙は、スコットランドで受信された局が(SPARK式とCW式別に)掲示板に掲げられたイラストが使われましたが、アマチュアの喜びの大きさが伝わってきますね。

このイラストで一目瞭然ですが、ちょうど火花電波(Spk: Spark)から持続電波(CW:Continuous Wave)への過渡期でしたが、この試験によりあらためて真空管持続電波のほうが優秀であることが証明されました。

そもそも火花電波は同調式であってもスペクトラムが先鋭ではないため、一口に「200m波」といっても1,500kHzの上下に成分が広がった電波です。1922年頃より真空管持続式によるピュアな電波が主流となり、はじめて(サブ波として)175m波や150m波も使われだしたようです。裏返していうと1920年代初頭まで米国アマチュアは商務省の免許証上では波長200mの一波のみだったと考えてよさそうです。

【注】 まだ「中波」という言葉は一般的ではなく、電波は「長い波」 "Long Waves" か、「短い波」 "Short Waves" の2つでした。おおむね国際的な公衆通信用の波長600m以下(500kHz以上)を「短い波」と呼ぶことが多く、1924-25年(大正13-14年)頃までの文献がいう「短波」や「Short Waves」という文字に騙されないように、必ず使用波長を数字として確認しておくべきです。もし波長数が確認できない場合は、それは現代でいう「中波」だと思ってまず間違いないでしょう。 私もずいぶん痛い目に遭いました。

12) お互いの局種にはこだわりがなかったアメリカの実験家達 [アマチュア無線家編]

ところでQSTに事前発表された選抜局リスト(上図)をよく見るとアマチュア局だけでなく、特別アマチュアやウェスティングハウス社のコンラッド氏の実験局8XKなどが含まれています。

Xコールは(アマチュアのような波長や電力の制限を受けない)実験局です。海外サイトでも時折「ウェスティングハウス社のKDKAの前身は、"アマチュア局"の8XK(または8ZZ)である。」という記述を目にしますが、8XK8ZZも商務省の分類ではアマチュア局ではなく特別陸上局です。

特別陸上局とは、実験局(Xコール、訓練学校局(Yコール)、特別アマチュア局(Zコール)です。またゴッドレイ氏の2ZEも200mより低い周波数が使える特別アマチュア局で、これは「上級」のアマチュア局ではなく、特別陸上局に属します。

逓信省工務局の実験局J1AAは大正14年にARRLのサマーテストに参戦しましたし、大正15年にJ1AAの河原技手が渡米した際には、官設局のオペレーターなのにアマチュア仲間としてみんなに受け入れられています。大正時代のARRLにはそういう事へのこだわりはなく、「来るもの拒まず」ですべてを無線実験仲間として受け入れており、この点は日米のアマチュアで認識が大きく異なるようです。

本ページでは1921年12月に中波の大西洋横断受信を成功されたゴッドレイ氏2ZEや、1923年11月に(シュネル氏1MOに次いで)大西洋横断交信に成功されたライナルツ氏1XAMアマチュア局としませんでした。米国商務省の公的な定義ではそうなっているのでこれに従いました。

しかしながらこの時代には『通信の相手方』というしばりがなアマチュア局(A-W)、実験局(X)、訓練学校局(Y)、特別アマチュア局(Z)はごく普通に交信し合っていました。そういう時代背景を思うと、その人の商務省ライセンスが実験局であっても、訓練学校局であっても、特別アマチュアであっても、一般アマチュア無線家と仲良く電波実験していたのなら「同じ実験仲間という括り」で良いのかも知れない?との想い少々あります。(なにぶん1920年代の米国式の考え方で、私達日本は馴染みがないため、いつも私の揺れています。)

13) マルコーニの短波と重なったゴッドレイの横断試験(受信)成功の報道 [アマチュア無線家編]

このゴッドレイ氏による初のアマチュア大西洋横断通信(中波)の成功は、世界最古の日刊紙であるイギリスのThe Times 紙(1921年12月19日)にも "Transatlantic Wireless Test" と題して取り上げられました(図:赤線囲み部分)。

ところがゴッドレイ氏の記事の真上に、別の無線記事がかぶりました。それが、よりによって強烈インパクトあるニュースなのです。

"A WIRELESS LINK. ― Gap Between Trunk Lines Bridged. ― Telephone Talks With Holland."無線リンク。 幹線間のギャップを埋めた。 オランダと電話。

1921年(大正10年)12月18日にマルコーニ社がロンドン(英国)と欧州大陸のアムステルダム(オランダ)北海横断部分を波長100m(3MHz)の双方向式短波無線で結んだうえ、それぞれの有線電話網と連結したのです。ロンドンー(有線)ー<北海横断短波無線>ー(有線)ーアムステルダムというルートで国際電話試験に成功した記事です。

これは1920年(大正9年)よりマルコーニ社チェルムスフォード研究所のH.J. ラウンド氏のグループが波長100m付近(3MHz)の二波を使った同時通話試験を行っていたもので、ようやく英国-オランダ間で実用化試験の段階に入ったことを報じるビッグ・ニュースでした

偶然、同じ日の同じ紙面で記事になってしまい、ちょっと影が薄くなりゴッドレイ氏にはお気の毒です。ゴッドレイ氏は中波の一方通行の無線電信。マルコーニ氏は短波の無線電話。現実としてはこのようにマルコーニ社が短波の開拓を着々と進めていました。マルコーニのページ参照

ゴッドレイ氏による中波受信の成功は、『朝日新聞』(12月19日)にも掲載されましたが、アマチュア無線がうまく理解されてなく「無電工事家」の試験と伝えられました。

低電力無線電信試験 十七日国際直電倫敦(ロンドン)

低力の電流設備をもって大西洋を横断する無線通信を発受し得るや否やを確かめるために米国無電工事家間に行われた試験は首尾よく成功し米国および加奈陀(カナダ)の四十三の無線電信所の発信を蘇格蘭(スコットランド)のアルドロッサン局に於て正確に受信した。(『朝日新聞』, 1921.12.19)

14) なぜアメリカが送信役で、英国が受信役に徹することになったのか? [アマチュア無線家編]

これら大西洋横断試験において、イギリス側が受信役に徹していたのには訳があります。

下図で示すようにイギリスでは、船舶局と海岸局の国際的な波長600m, 300m(500kHz, 1000kHz)を保護するために、それから上下に離れた1000m(300kHz)と180m(1667kHz)の2波をアマチュア用にしていました。

送信電力は(公共無線への混信防止のため)最大10Wに制限されていたため、アメリカに届く見込みなしと判断されました。

それがイギリス側が受信に徹して、(送信入力1.5kWまでの)アメリカ側が送信に徹した理由です。

しかし波長900m(333kHz)を使用していた政府局や空軍の無線電話局に、アマチュアの波長1000m(300kHz)がかぶるため、翌1922年になると新規アマ局には波長1000m(300kHz)の代わりに波長440m(682kHz)の中波が暫定指定されるようになりました。

1922年秋には波長440m(682kHz)が正式にアマチュア周波数に追加(波長1000m波は免許満了とともに自然消滅)されましたが、送信電力10Wの制限は緩和されることはありませんでした。

15) ついに商務省がアマチュアに警告を告示(1921年12月1日) [アマチュア無線家編]

アマチュア団体ARRLより、周波数を守るよう指導があったにも関わらず、アマチュア達による低い周波数への侵入は中々収まりませんでした。 そもそも「1,500kHzなんて高い周波数が遠くまで飛ぶはずがない。もっと低い周波数を使いたい。」そういう強い思い入れがあり、ついつい発射波長を長め長めと、ずらしてしまうようです。

しかし事態は深刻化していました。アマチュアのこの違法行為が商業局への不要な混信を引き起こし、商務省へ多くの苦情が寄せられるようになっていました。

1921年(大正10年)12月1日、商務省はついにRadio Service Bulletin(No.56)"Miscellaneous"(雑款でアマチュアへの警告「WARNING TO AMATEURS」を告示しました。

アマチュア団体ARRLとしては自分たちの指導で、アマチュア局が1500kHzより低い周波数へ侵犯する行為は減りつつあるが、不充分な面も承知してるので今後も指導を頑張りますというスタンスでした。

しかし商務省としては中々改善が進まないARRLの指導に不満があり、ついにしびれを切らして「アマチュアへの警告」を告示するに至りました。

ざっくり訳すと「アマチュアによる200mを超える波長の発射が商業局へ混信を与えており、アマチュアは可能な限り、法に違反しないように自分の波長を測定しなければならない。」という事です。さらにオーバーパワー行為についても指摘しました。以下原文です。

The Bureau has received a number of complaints recently of amateur stations using wave lengths in excess of those authorized in their licenses which has resulted in much unnecessary interference.  Amateurs should, if possible, have their wave lengths measured to avoid violating the law.  Attention is invited to the 15th regulation, section 4, act of August 13, 1912, and the penalties provided in this section, following the 19th regulation on page 13, Radio Laws and Regulations.

 It has also been reported that a number of amateur stations are using more power than necessary, which is a violation of 14th regulation, section 4, act of August 13, 1912.  The penalties noted above apply to violations of this character. ("Warning to Amateur", RSB No.56, 1921.12.1, Department of Commerce)

さて商務省による直接的な警告の効果はどうだったのでしょうか。商務省告示から4か月ほど過ぎたRadio News 誌(1922年4月-5月合併号, p1050)が商務省の警告 "WARNING TO AMATEUR" の全文を転載しました(下図)。

この時期に至ってもまだ低い周波数(1500kHz未満)への侵入を沈静化できなかったようですね

結局、商務省はアマチュアに1500kHzより低い周波数を、正規に認める方向へと動きました。

16) 一般アマチュアに1500kHzより低い周波数を勧告(1922年3月) [アマチュア無線家編]

1922年(大正11年)2月27日から3月2日、アメリカの各種無線局の周波数分配を考える初めての会議Conference of Radio Telephony(第一回国内無線会議、First National Radio Conference)が開催されました。

急増する放送用の周波数分配が焦点で、50kHzから3MHzまでのバンドプランが作成されました。 そしてA-Wコールサインの一般アマチュアと制限アマチュア(基地周辺地区のアマチュア)には1091-2000kHzが、Zコールサインのスペシャルアマチュアには968kHzが、Yコールサインの技術訓練学校局には1091-1500kHzを分配することで関係省庁が合意し、勧告案が決議されました。なおXコールサインで始まる実験局は、目的によって試したい周波数が違うことから、特定の周波数帯を定めず、申請者の希望する周波数をその都度、商務省が審査する方式です。

アマチュア無線家にとっては初のアマチュアバンドの制定です。

それに念願の「良く飛ぶ周波数」(1500kHzより下)が獲得できる見込みとなり、みんな大喜びでした。これで違法行為に走らず、正々堂々と低い周波数に出られます。しかしこの勧告案は中々実施されませんでした。

17) 日本にも中波アマチュアが誕生(1922年2月27日) [アマチュア無線家編]

ここで日本のアマチュアにも触れておきます。1921年(大正10年)、東京市京橋区の濱地常康氏が真空管式無線電話の実験を行なっていることが新聞に取り上げられ話題になっていました。1900年(明治33年)10月10日の逓信省令第77号で、「電信法を無線電信に準用する」と定めて以来、電波は国のものでした。しかし1915年(大正4年)11月1日より施行された無線電信法では、法一条で電波の国有化を宣言する一方、法二条において私設無線を認める例外を規定しました。

その法二条第五号には『無線電信又ハ無線電話ニ関スル実験ニ専用スル目的ヲ以テ施設スルモノ』とあり、企業・個人を問わず私設の実験局を認めました。濱地氏は法二条第五号を根拠に私設実験局(いわゆるアマチュア局)を申請していましたが、1922年(大正11年)1月になって逓信省は免許する方針に決し、同年1月26日付けで(逓信大臣と同様に免許権を握る)軍部への賛否を照会し、その賛同を得て、私設実験局「東京1番」「東京2番」を免許(1922年2月27日, 話第1215号, 逓信省)しました。

【注】 官報での告示は3月1日にありましたが、免許日はあくまで大正11年2月27日です。誤解されませんように。

濱地氏が免許された波長は長波1,500-1,650m(182-200kHz)と中波200-230m(1,300-1,500kHz)でした。その半年後には東京市麹町区の本堂平四郎氏にも法二条第五号の私設実験局「東京5番」「東京6番」が波長200-230m(1,300-1,500kHz)で免許されました。濱地氏と本堂氏に許可された中波はほぼ米国アマチュアの波長に沿ったものでしたが、本堂氏を免許する際に海軍省は逓信省に「本堂氏への許可に異存はないが、アマチュア無線は1,500kHz以上に限定すべき」だとクレームを付けました。

素人無線用としては一般に電波長を二百米以下に限定し置くを可と認む。(逓信省通信局長宛「実験用私設無線電話施設ニ関スル件」, 軍第431-2号, 1922年8月1日, 海軍省軍務局長)

しかし逓信省はこれを無視し、1,300-1,500kHzを本堂氏に許可しています。

18) マルコーニの短波開拓がQST誌でも紹介される(1922年9月号) [アマチュア無線家編]

1922年(大正11年)は短波が無線界の注目を集めた年でした。マルコーニ氏と、同社フランクリン技師が、これまで研究してきた「短波」について公表を始めました。(マルコーニのページ参照

6月20日には渡米中のマルコーニ氏が、無線技術者学会IRE(Institute of Radio Engineers)と米国電気学会AIEE(American Institute of Electrical Engineers)の共催の講演会で「短波研究の成果」を明らかにし、波長1m(300MHz)のビームシステムでデモンストレーションを行なったのです。アマチュアの中には昼間は無線会社で働く技術者も多いことから、業務として出席された方も少なくないでしょう。

米国のアマチュア団体ARRLの機関誌QSTの1922年9月号(pp30-31)にマキシム会長(Hiram Percy Maxim)が"The Greatest of All Amateurs"という記事を書き、その後半部(左図赤囲み部)にエディターノートという形で、マルコーニ氏の講演内容の要約が掲載されました。講演会に参加していないアマチュアにも「マルコーニの短波」情報がインプットされたはずです。

このQSTの記事ではロンドン(ヘンドン)とバーミンガム間の97マイル間でマルコーニ社が波長15m(20MHz)の短波送信機(入力700W)とパラボラ反射器を使い無線電話を実験している事も書かれています。

A telephone circuit over 97 miles between London and Birmingham is providing good clear speech at all times on a wavelength of 15 meters by virtue of such reflectors. The aerial itself in this case is somewhat over a half wave length long. The radiation efficiency at such small wavelengths is amazing high, about 300 watts being actually radiated into space from an anode input of 700 watts. (QST, 1922.9, ARRL, p31)

【参考】これが短波開拓史フロントページの末尾にある、アームストロング氏が言われる「失われたチャンス」になります。どうぞそちらもご覧下さい。

しかしアマチュアは飛ばない短波にはまったく無反応でした。なにしろ3月の第一回国内無線会議でアマチュアの周波数を低いほうへ向かって1091kHz(波長275m)まで拡張する勧告案が決議された直後です。近く開放されるであろう低い周波数に関心が集まっていたからです。

19) 1922年(大正11年)頃のアマチュアの周波数 [アマチュア無線家編]

1912年に商務労働省が電波を管理するようになり、1913年には商務労働省から商務省が分離されました。そして同年より商務省が無線局のコールブックを発行してきましたが、アマチュア局の場合、免許情報としては住所・氏名・コールサイン・許可電力の4点だけで、波長は掲載されませんでした。

前述のマルコーニ氏の講演の頃のアマチュアの運用周波数の実態が掴めないものかと思っていたところ、1922年度版のコールブック Amateur Radio Stations of the United States (Edition June 30, 1923, Department of Commerce, Bureau of Navigation, Radio Service)に、アマチュア局(呼出符号第一文字がAからWの許可波長は不掲載ですが、1922年6月30日時点のスペシャルアマチュア(第一文字がZ)、実験局(第一文字がX)、技術訓練学校局(第一文字がY)の許可波長が公開されていました(左図pp288-295)。 

【参考】 商務省の事業年度が毎年7月1日から6月30日なので、年度末の6月30日で集計し、発行されていました。

さてこれを調べてみると、全米のスペシャルアマチュアの中で波長100m(3MHz)のライセンスを得ている方が二人いました。

昨年末、大西洋横断通信のために英国へ渡たり大活躍したニュージャージーのポール・ゴッドレイ氏(2ZE, 波長100, 150, 200, 375mと、ワシントンD.C.に住むW.A. Parks氏(3ZW, 波長100, 150, 200, 250m)です。

次にこの1922年版コールブックよりスペシャル・アマチュア局だけを抜き出し、彼らに許可されている波長でまとめてみました(下表)。

波長375m(800kHz)はスペシャル・アマチュアに用意された専用波長なので、これと一般アマチュア用の波長200m(1500kHz)の二波の許可を取るのが一般的だったことが分かります。これを見る限り、1922年(大正11年)当時のスペシャル・アマチュア局はまだ短波への興味を示していないようです。

それにしても全米でもたったこれだけの局数しか許可されていないのですから、スペシャルアマチュアとは本当に「スペシャル」なライセンスだったのでしょうね。なおスペシャル(特別)アマチュアとはいわゆる「上級アマチュア」ではなく、法的には特別陸上局に分類される無線局で、アマチュア局ではありません。しかしこの時代は一般アマチュア局(A-Wコール)も、実験局(Xコール)も、スペシャルアマチュア局(Zコール)も、技術訓練学校局(Yコール)も自由に総合通信していましたから、精神面での互いの垣根は低かったと想像します。ARRL自身も「来るものは拒まず」という態度だったようです。

2ZE3ZWが100m波の許可を受けた日付までは分かりませんが、スペシャル・アマチュア局は商務省の発行するもうひとつのコールブック(Commercial and Government Radio Station of the United States) にも収録されますので、そちらで調べてみました。

はじめて周波数3MHz以上の短波の許可が登場したのは、1920年版でサンフランシスコのD.B. McGown氏(6ZE)で75, 200, 300, 375, 600mが許可されていました。1921年版も同じ内容で、1922年版では短波は止めてしまい200mと375mのみになっています。1921年版から登場したのが上記ゴッドレイ氏(2ZE)で100, 150, 200, 375, 600mの許可でした。1922年には600m(500kHz)はスペシャルアマチュアには許可されなくなったのか消えています。Parks氏(3ZW)は1922年版での初登場でした。従って1920年に6ZE(75m)、1921年に2ZE(100m)、1922年に3ZW(100m, 1922年)という順番でした

69) 中波で大西洋横断 1way が「双方」で成功(1922年12月) [アマチュア無線家編]

1922年(大正11年)12月12-31日、ARRLは第三回大西洋横断試験を実施しました。前半の12-21日は米とカナダが送信、後半の22-31日は英仏が送信するスケジュールでした(英国アマチュアは10Wに電力制限されていたが、この試験期間に限定した波長200m, 1kWの特別許可を得た)。

その結果ですが、欧州側の85局が315の米国・カナダのアマチュア局を受信できただけでなく、米国側の20局がフランス1局(8AB, Nice)、英国2局(5WS /SW, Londonと、 2FZ, Manchester)を受信できました。双方で受信に成功したのですから、次回(1923年)の横断テストで2way QSO成功への期待が高まりました。

 

ただし今回も中波が用いられて、短波には挑戦しませんでした。

QST誌1923年2月号や、Wireless World誌1923年(大正12年)2月24日号の結果報告の記事から判断すると、ほとんどが波長200m(1500kHz)で、ごくわずかに波長240m(1250kHz)から波長180m(1667kHz)が使われた様です。

Wireless World編集部がARRLのトラフィック・マネージャーであるシュネル氏より受取った欧州局の受信状況の報告書を以下のように詳しく伝えています(左図)。

<1922年12月22日>

02:18GMT、2FZ(200m[1,500kHz], UK)→9DRR(USA)

03:33GMT、2FZ(???m, UK)→3HS(USA)

03:45GMT、2FZ(250m[1,200kHz], UK)→8AMD(USA)

04:00GMT、8AB(240m[1,250kHz], France)→8FO(USA)

<1922年12月24日>

01:56GMT、5WS(???m, UK)→1RU(USA)

02:00GMT、5WS(???m, UK)→3BEC(USA)

02:20GMT、5WS(215m[1,395kHz], UK)→2BBB(USA)

02:20GMT、5WS(???m, UK)→1ANA(USA)

02:30GMT、5WS(???m, UK)→1XP(USA)

02:30GMT、5WS(200-210m[1,500-1,430kHz], UK)→L.D.Warner(Schenectady, N.Y. USA)

<1922年12月25日>

01:50GMT、8AB(240m[1,250kHz], France)→8FQ(USA)

04:35GMT、2FZ(200m[1,500kHz], UK)→2BSK(USA)

04:40GMT、2FZ(200m[1,500kHz], UK)→8FQ(USA)

04:45GMT、5WS(???m, UK)→1ANA(USA)

<1922年12月26日>

00:25GMT、2FZ(245m[1,220kHz]、UK)→2CQO(USA)

01:54GMT、5WS(???m, UK)→1MO(USA)

<1922年12月30日>

03:10-04:10GMT、8AB(190m[1,580kHz], France)→C.A. Service(South Manchester, Conn., USA)

 

残念ながらアマチュアはマルコーニ氏の"短波への招待"メッセージを見逃してしまったといえるかもしれません。

この試験の目的は「短波の有効性を発見するため」ではありません。大西洋を横断するアマチュア通信(2Way QSO)をなんとか成立させたいというのが、精鋭部隊みんなの願いだったわけで、波長選定はその手段のひとつに過ぎません。もし今回の中波200mで2Way QSOに成功していたら、アマチュアの短波進出はもっと遅くなったかもしれない。そういう見方さえできます。

20) 米国のラジオが英国で聴かれ、大西洋横断試験の価値低下(1922年) [アマチュア無線家編]

1921年(大正10年)2月にスタートしたアマチュアによる大西洋横断試験ですが、1922年になるとその価値が急低下していました。というのも、1922年にアメリカで多くの中波ラジオ放送局が誕生し、その電波が英国のDX-BCLファンより次々とキャッチされたからです。深夜になると(上空に電波を反射するヘビサイド層が出来て)米国の中波のラジオ波が大西洋を越えて欧州にまで届くのは "特別なことではない" と考えられはじめました。

 

BCLファンから多くの受信報告が寄せられていたWireless World and Radio Review誌(英国)は、アマチュアの大西洋横断試験が行なわれた1922年12月前後の中波のコンディションを確認するために、読者からのBCLレポート(1922年11月23日から1923年1月17日)を集計し、それを1923年1月27日号で発表しました(下図)。

その結果、12月のコンディションが特別悪かったわけではなく、波長360m(833kHz)のニューアーク(ニューヨークの隣)WJZをはじめとする米国局が英国のラジオファンに受信されていました。となると、やはりラジオ局のようにもっと低い周波数を使うか、あるいは出力を増やさない限り、アマチュアが1500kHzで2WayQSOにめぐまれる確率は低いと考えられました。

ラジオ放送の登場で"大西洋横断通信"の価値がどんどん低下する中、アマチュアらは一刻も早くこの試験に決着を付けてしまいたいと思っていたでしょう。しかし現状を打開する新たな試みがアマチュアらには必要でした。

71) ARRL短波キャンペーン開始 しかし失速・・・(1923年3月) [アマチュア無線家編]

1923年(大正12年)になりARRLは組織として短波を推進させることを決めました。マルコーニ氏が盛んにPRしている短波に望みを託したのです。

左図QST(1923年3月号)の"Exploring 100 Meters"という記事で、まず多くのアマチュアが標準的に使っている送信機や受信機は波長170m以下(周波数1760kHz以上)でも充分動作することを力説し、みんなが使っている1500kHz周波数よりもっと高い周波数を使うことで、これまで大西洋横断テストでいつも障害となっていた商用局や軍事局より受けていた混信から解放されることを示しました。

『To our pleased surprise we found that our regular sets would work easily below 170 meters if anyone could be induced to get down and listen for them. 』 ("Exploring 100 Meters", QST, 1923.3, ARRL, p12)

 

そしてQST(1923年3月号)は東ピッツバーグのコンラッド氏の実験局8XKに協力し、いくつかのアマチュアが短波実験を行ったことを紹介しましたが、少々補足します。

もともと1920年(大正9年)春よりコンラッド氏の実験局8XKが1200kHzでラジオ放送の実験をはじめて、それをボストンに住む無線研究家、ラムジー氏に受けてもらってていました。そして1920年11月にはラジオ放送局KDKAとして開局しました。

次にコンラッド氏8XKは(将来KDKAの番組中継に応用するために)短波実験を計画し、翌1921年春からはラムジー氏の御近所さんのマサチューセッツ工科大学の実験局1XMとデッカー氏のアマチュア局1RDがこの試験に協力しました。第一世界大戦後で短波を最初に手掛けたアマチュアはこのデッカー氏1RDではないでしょうか。

さらに1922年には実験局1XAの免許を得たラムジー氏や、アマチュア局1HK(9ALL/9ZT)のPhelps氏も、コンラッド氏8XKによる短波実験に加わりました。短波が混信もなく予想外に良好なことに驚いたPhelps氏はQST(1922年3月号)で200m以下(1500kHz以上)の短波の記事を書きました(下図)。ざっくり意訳してみます。

「嘆かわしい事だが、すべてのアマチュアが波長200m(1500kHz)に集まり、そして波長を正確に合わせるほど混信が激化するため、低い方へ周波数を調整する不法行為が横行しています。・・・(略)・・・混信については、波長150m(2000kHz)を使えば、スペシャル・アマチュアのZコールサイン局の波長375mと同等です。まだしばらく低い周波数へ動くでしょうが、空電の少なさ等から波長200m(1500kHz)以上の方に我々の打開策があるように思います。」・・・こんな感じでしょうか。

『 It is a very lamentable fact that all general amateurs should have to try to tune to 200 meters. It would be much worse if all of them were tuned to exactly this wave. The result is that many of them are tuned somewhat above 200 to get away from the QRM that would result if everyone was on the same wave. This tendency towards lawlessness is fast hurting citizen wireless. ・・・(略)・・・

Working on 150 meters now is equivalent to a “Z call” and 375 meters, as far as interference is concerned. It is not expected traffic will move on low wave lengths for a while yet, but with the sharpness of tuning, the great decrease in atmospheric disturbances, and the crowding on and just above 200 meters, it appears that getting below is the logical solution of our problem. 』 ("Boyd Phelps, Radio Below 200 Meters," QST, 1922.3, ARRL, pp24-26)

 

せっかくPhelps氏1HK(9ZT)がQST(1922年3月号)で短波を紹介したのですが、(運悪くというか・・・)ちょうど第一回国内無線会議(2月27日-3月2日)で波長275-150m(1,091-2,000kHz)をアマチュアバンドにする推奨案が決議されたため、みんなの関心が1,091kHzまでの低い周波数に向いてしまい、この記事は空振りに終わりました。では話をもう一度QST(1923年3月号)に戻します。 

1923年1月より、1HX(9ALL/9ZT)Phelps氏はシカゴ無線研究所の主任技師R.H.G. Mathews氏(ゼニス社の創始者)のスペシャルアマチュア局9ZNが波長200m(1.5MHz)から波長100m(3MHz)まで、波長10m刻みで送信し、それを受信測定する試験をはじめました。

現在これにライナルツ氏のアマチュア局1QPをはじめ、3ALM, 3JJ, 3APV、実験局3XMも加わって100m波の受信試験をしているとQST1923年3月号は伝えました。

【参考】左図はPacific Radio News 1920年7月号(p439)にあるシカゴ無線研究所の受信機の広告です。社名の下に『Testing Station 9ZN』とありますので、9ZNは受信機開発のために開設されたスペシャルアマチュア局だと考えられます。

 

第一回国内無線会議では1,091-2,000kHzをアマチュアバンドに推奨しました。念願の低い周波数が手に入るかわりに、2MHz以上の短波を手放すはずでした。しかし想定以上にラジオ局が増加する見通しとなり、周波数の分割推奨案を一旦棚上げし、第二回国無線会議で仕切り直すことになりました。

2MHz以上を手放す案が保留になったこともあり、あらためて短波の可能性を再考してみようという流れに変わったのが1923年初頭でした。そもそも短波試験はフランク・コンラッド氏8XKの実験に、1921年からアマチュア1RDが参加し、それがアマチュア仲間で広がりだしたものです。ただしそれはわずか数局のアマチュアによる試みであって、大多数のアマチュアの目は依然として低い周波数に向いていました。

ARRLはなんとか短波へのムーブメントを起こせないかと考えました。そしてQST(1923年3月号)で現在進行中の試験によれば、波長170m以下(周波数1,760kHz以上)の伝播が優秀だったと、短波の魅力を訴えたのです。

『Why all these logs? For this reason - in every single test, with one solitary exception, the best signals were heard at some wave length below 170 meters. 』 ("Exploring 100 Meters", QST, 1923.3, ARRL, p12)  ・・・いわゆる短波啓蒙キャンペーンですね。

 

さらにその上でARRLトラフィックマネージャーのシュネル氏1MOが、みんなを短波へ進出させるために「100 meter CQ Party」を3月24, 25日に行なうとして、参加を呼び掛けたのです。使用波長は100mまたは「その附近(thereabouts)」という表現でした。

『For the benefit of those stations which think they can get down to 100 meters or thereabouts with both transmitter and receiver; a 100 meter CQ Party is arranged for the nights of March 24th and 25th. 』 ("Exploring 100 Meters", QST, 1923.3, ARRL, p12)

 

結果はQST(5月号)の「Calls Heard」のページに発表されました。第7エリアを除く全米から二百局(含むZ:スペシャルアマチュア局、X:実験局、Y:技術訓練学校局)ほどのコールサインが「聞こえた」と掲載され、200m以下(1500kHz以上)を本格的に使ってみた初のイベントは大成功でした。

『BANG!! - and the reports echoed from coast to coast. The CQ Party held by the members of the ARRL on March 24th and 25th was a great success, fellows. The gang is absolutely "nuts" about short waves. We have actually made use of the waves below 200 meters. 』 ("Calls Heard", QST, 1923.5, ARRL, p75)

私はQST(3月号)での急な呼び掛けにもかかわらず、100m波を発射する許可が、よく3月24日に間に合ったものだな?と不思議に思いました。どうやら実態は自分たちが通常使用している200m波(1500kHz)より少しでも短い波長を使えば参加できると解釈したようで、参加者の波長は80mから190mに分散していたそうです。

『All of the calls heard during the CQ Party were copied between 80 and 190 meters. 』 ("Calls Heard", QST, 1923.5, ARRL, p75)

80mなど本物の短波の発射はコールサインがXで始まる実験局によるものが中心で、一般アマチュアの場合は通常波200m以外に追加波として170m波などの許可を既に得ていた人達が参加したものと想像します。

 

内情はともかく、アマチュアの世界でもようやく短い波長にスポットライトが当てられた記念すべきイベントでした。しかし「100 meter CQ Party」初日の1923年(大正12年)3月24日は、第二回国内無線会議の最終日でもありました。この会議で米国のアマチュアの周波数を1.5-2.0MHzにする勧告案が採択されたのです。まったく皮肉なことに、ARRLによる組織的な短波啓蒙イベントの初日が、アマチュアを中波専属と決めた日になりました。せっかくの短波啓蒙キャンペーンは出鼻をくじかれた形になってしまいました。

72) 国内無線会議でアマチュアに1.5-2.0MHzを勧告 (1923年3月) [アマチュア無線家編]

1923年(大正12年)3月20-24日、第二回国内無線会議(Second National Radio Conference)が開かれました。利害関係団体としてARRLからマキシム会長らも出席しました。1年前の第一回国内無線会議では波長275-200m(1,091-1,500kHz)を一般アマチュア(A-Wコール)と技術訓練学校局(Yコール)の共用帯域に、さらに波長200-150m(1,500-2,000kHz)を一般および制限アマチュア(A-Wコール)専用帯域とする勧告案が決議されました。

しかし電波ニーズの高まりがあまりにも急ピッチで進行していたため、第一回会議の勧告案はすぐさま陳腐化してしまい、その実施は見送られていました。ARRLとしては一般アマチュアが1500kHzより下の「良く飛ぶ周波数」を使えるように、第一回会議の約束事を速やかに実行してくれるよう求めたでしょう。(第一回会議の詳しい分配表は200m & downのページ参照

 

第二回会議の最大の課題は、新たに登場した「ラジオ放送」に分配する専用周波数を(それもかなりの帯域を)いかに捻出するかでした。 その結果、ラジオ放送に中波550-1350kHzを分配したため、アマチュアがもらえるはずだった1091-1350kHzの部分は放送用となりました。そして1,350-1,500kHzは技術訓練学校局(Yコール)とスペシャルアマチュア(Zコール)局用になり、一般および制限アマチュア(A-Wコール)には1,500-2,000kHzを指定する勧告案がまとめられました。低い周波数を手に入れるというアマチュア達の長年の夢は破れました。

 

ARRLの機関紙QST(5月号)がこのニュースを伝えています。

『Heretofore we amateurs have been assigned define wave lengths, generally 200 meters and occasionally with one or more specified additional waves such as 175 or 150 meters.

Under the new plan we would be permitted to operate anywhere within the amateur band. 』 ("The Second National radio Conference", QST, May 1923, p13)

意訳すればこんな感じでしょうか・・・『これまで我々アマチュアは、一般的(generally)に200m波の割当てを受けてきました。時折(occasionally)追加波として175m波や150m波の許可を受けていましたが、今回の改正案では、そういう追加波の申請を気にせずに200-150mを帯域免許として自由に使えるのです!』

スペクトラムが広がった火花送信機時代は皆が200m一波を使いましたが、1920年代に真空管式持続電波が扱えるようになって、200m波の他に175m波や150m波も使うようになってきました。

73) 米国で初めてアマチュアバンドを制定 (1923年6月28日) [アマチュア無線家編]

国内無線会議の勧告を受けて1923年(大正12年)6月28日、商務省は一般アマチュアバンドとして200-150 meters(1,500-2,000kHz)をRadio Service Bulletin No.75(July.2, 1923)で告示しました(下図)。

(Department of Commerce, Regulations Governing General and Restricted Amateur Radio Stations and Amateur Operators, June 28,1923, Radio Service Bulletin, No.75, p16, July.2,1923)

【参考1】1912年(大正元年)8月13日制定(同年12月13日施行)の無線通信取締法(Radio Act of 1912)ではアマチュアバンドを規定せず「200mを超えてはならない」とだけ示し、申請者の希望波長を個別審査する方式でした。また1500kHz以上はアマチュア以外でも許可される「みんなの周波数」でした。

【参考2】スペシャルアマチュア局(Z局)と技術訓練学校局(Y局)には、低い220-200meters(1,350 - 1,500kHz)部分が分配されましたが、逆にいうとスペシャルアマチュア局は従来認められていた375m(800kHz)のような、さらに低い周波数は出せなくなり、中波ラジオ放送にはじき出された形でした。

 

これまで商務省はアマチュアに対し「200mを超える波長で、申請者が望む単一波長」を個別に免許してきました。結局アマチュア達は誰もが一番低い波長200m(1,500kHz)を申請して許可を得たため、事実上アマチュアの周波数は1,500kHzの一波でした。今回は商務省の周波数分配プランを2.3MHzまでに拡大して、1.5-2.0MHzの500kHzをアマチュア帯としました。

 

アマチュア団体ARRLの機関誌QSTもこの初のアマチュアバンド制定のニュースを伝えています(下図:The New Amateur Regulations, QST, August 1923, pp13-15,)。

『 On June 28th new amateur regulations were signed by the Department of Commerce and issued in the form of General Letter No.252 adressed to Supervisors of Radio and others concerned, thereby ending several months of watchful waiting on the part of the whole amateur fraternity. ・・・(略)・・・ The day of a definite specified wave length on an amateur license is gone ― we have a band now, and under our new licenses it will be leagal to change our operating wave as we desire, ・・・』

『単一の波長指定だったアマチュア免許の時代は終わった。そして私達はバンド(帯域免許)を手に入れた。新しい免許状のもとで、(バンド内ならば)私達が望むように周波数を動かすことは合法なのだ・・・』と、当時としては画期的な「帯域免許の獲得」を素直に喜んでいます。

● なぜ日本では世界初の Amateur Band が紹介されないのか?

余談になりますが、1923年6月28日に世界初のアマチュアバンド(1.5-2.0MHzの帯域免許)が制定されたことは、日本のアマチュア界ではあまり取上げられていません。今では米連邦通信委員会FCCのWEBサイトで、どなたでもRSB No.75(上図:July.2, 1923)が閲覧できますし、QST(上図:Aug. 1923)にも大きく掲載されているのに、どうしてなのでしょうか?

もし中波アマチュアバンドの制定(1923年6月23日)の話題に触れたならば、同年11月27日に成功した米仏間大西洋横断通信で「なぜ使えないはずの短波を使うことが出来たのだ?」という新たな疑問に答える必要が生じるからかも知れません。

これは手強そうな「疑問」のようにも感じますが、実はその答えが(日本でも)40数年前に明かされています。(後述しますが)CQ ham radio 誌(1972年4月号)で「大西洋横断通信は短波の特別免許によった」と、読者に伝えられています。

しかしその後の日本のアマチュア界で、これがうまく伝承されず「大西洋横断通信成功」だけが独り歩きして、「短波を使うには特別に許可が必要だった」件は歴史の片隅に置き去りにされた感があります。

また「1912年のRadio Actの制定でアマチュアは "短波に追いやられ"、苦労して短波を開拓していたところ、実は短波はDXの楽園だったのだ!」とする痛快大逆転の"物語"にとっても、中波アマチュアバンド制定の話しは馴染みが良くありませんから、当面出番はないのかもしれませんね。

● 2.05MHzを実用局 KYI, KYJ, KJA に免許

さて話題を戻しましょう。商務省は翌月のRSB No.76(1923.8.1)で波長146m(2.05MHz)をカリフォルニア州のGoldwyn Producing Corp.(呼出符号:KYI, KYJ)と、ワシントン州のMerill & Ring Lumber Co.(呼出符号:KJA)に免許したと告示しました(下図[左])。そのコールサインで分かるように実験局(Xコール)ではなく、これらは実用局です。

わざわざこの波長をこのタイミングで実用局に免許したのですから、アマチュア達が2MHzより上へはみ出さないよう、アマチュアバンドを周知させる意味が込められていたと推測します。

 

この規則改正に関する電波界の反応はどうだったのでしょうか。左図[右]は無線専門誌「Radio」の1923年8月号のアマチュア無線のコーナー(With The Amateur Operators, p40)のトップにある『Radical Changes in Amateur Regulations(アマチュア規則の根本的改正)』という記事です。

記事は商務省の改正規則を淡々と伝えるだけで、アマチュアが手放すことになった短波(2MHzを越える周波数)の重要性など一切触れられていません。当時の各種無線雑誌はどれもそうでした。

 

では当事者のアマチュア側の反応がどうだったかというと、帯域免許になったことは大歓迎されましたが、2MHzを越える高い周波数が除外されたことは特に話題になりませんでした。2.0MHzを越える周波数はマルコーニ氏から刺激を受けた極々少数の実験局が試したり、フランク・コンラッド氏の短波試験に少数のアマチュアが協力していただけです。

● サイレントタイム(平日20:00-22:30, 日曜午前の礼拝タイムの運用禁止)

またこの規則改正では一般家庭のラジオ受信機への混信を防止するために、毎晩20時から22時30分と、日曜日の午前中(礼拝時間)の電波の発射を禁止しました。今回のバンドプラン改正は「ラジオ放送バンドの制定」と、「放送受信障害からの保護」が焦点だったからです。

当時のアマチュアには(短波を失うことよりも)毎晩20:00-22:30と日曜午前の礼拝時間にサイレントタイムが制定されたことの方が大事件だったようです。仕事から帰宅し、夕食を済ませるや、そそくさと趣味の無線を20時まで楽しむか、さもなくば22時30分から夜更かしするしかありません。

サイレントタイムが制定されたのはラジオ放送が普及するにつれて、分離性能の良くない家庭の鉱石受信機に1,500kHzで運用するアマチュアのモールス信号が混信するという苦情が数多く商務省に寄せられるようになった為でした。

アマチュア無線の歴史の中で、米国アマチュアのサイレントタイムの話題は、運用周波数の話題に匹敵するほど大きなトピックスです。日本のアマチュア界でも、この1923年6月28日の規則改正が紹介されると良いのにと思います。

 

今回の改正で米国アマチュアは専用帯を手にしましたが、同時に短波を申請できる資格を失ったのです。これで米国アマチュアの短波進出の道は閉ざされました。

74) QST誌がWH社の短波中継の試みを伝える (1923年7月) [アマチュア無線家編]

経緯はコンラッドのページをご覧いただくとして、1923年(大正12年)3月4日より始まったウェスティングハウス社の短波中継について商務省標準局Bureau of StandardsのF.D. Dunmore氏がQST7月号に寄稿しています。

東ピッツバーグのラジオ局KDKAが中波360mと短波100mで同時送信し、360m波の不感地帯だったクリーブランド(KDPM)でKDKAの100m波を受けて、それを中波360mで再送信するものでした。中波で届かないエリアに、短波ならば届くこと示す好例で、アマチュアの興味を刺激したと想像しますが、「時、すでに遅し」で米国アマチュアは短波の申請資格を失っていたのです。

『An interesting application of the use of a wave length of approximately 100 meters has recently been reported to have been made by the Westinghouse Electric & Manufacturing Co. The report states that Cleveland, Ohio, is located in a so-called “dead-spot” with respect to the 360 meter broadcasts from KDKA in Pittsburgh, Pa. It was found that this dead spot did not exist when wave lengths of 100 meters were used. Accordingly simultaneous broadcasts were made from KDKA on 360m and 100 meters. The 100 meter signals were received clearly in Cleveland (where KDKA’s 360 meter signal did not “break in”) amplified and sent out again on 360 meters from a station in Cleveland. Local listeners in Cleveland were therefore enabled to hear KDKA on their 360 meter receiving sets. 』 (Francis W. Dunmore, Bureau of Standards Explores Short-Wave Region, QST, 1923.7, pp75-76)

 

【参考】 KDKAではKDPMへの短波実験とは別に、およそ1,600km離れた中部の都市へースティングに建設中の新局KFKXへ短波の電離層反射を利用した番組中継を予定していました。これが短波の開拓者マルコーニを追い越して、短波の実用化第一号(1923年11月22日)となります。

75) WWVがアマチュアに周波数較正させる (1923年10月) [世界のハム編]

波長計の目盛りを較正させるためにフランスは1917年(大正6年)から、イギリスは1921年(大正10年)より標準電波を発射していましたが、アメリカではまだ実施していませんでした。(詳細は標準電波の歴史のページ参照)

今回バンドプランを実行するにあたり、各無線局が所有する波長計を較正させて、自分の周波数を守らせることを目的とし、商務省標準局Bureau of StandardsがコールサインWWVで標準電波を発射することになりました。バンドプランの遵守と、正確な波長測定がワンセットとの考えに基づくものです。

1923年(大正12年)1月29, 30日に試験発射したあと、3月6日のEST23:00より第一回のWWV公式発射を行いました(左図)。1波15分間をワンセットとして、EST(東部時間)23:00より周波数550kHz(波長550m), 500kHz(600m), 440kHz(680m), 380kHz(790m), 320kHz(940m), 260kHz(1150m), 200kHz(1500m)の順に深夜01:15まで送信しました。

 

標準電波WWVの発射仕様は以下の通りです(Department of Commerce, RSB, Feb. 1923, p20)。

1) General Call "QST de WWV Standard Wave Signals" (無線電信と無線電話で5分間繰り返して送信)

2) Standard Signal 無線電信でコールサインWWVを5分間繰り返して送信

3) Announcements 再び電信および電話で今発射した電波の実測波長を5分間繰返して送信

 

WWVの標準電波は発射スケジュールを、その都度公表する方式をとっていました(非定期発射)。その点、同じ1933年(大正12年)の8月3日から船橋海軍無線電信所JJCで始まった標準電波の定期発射(毎月第一金曜日13:00-15:00)の方が現代のイメージに近いですね(大正12年軍536号, 海軍公報部内限, 1933.8.3)。すなわちWWVに5ヶ月の遅れをとった日本の標準電波JJCではありますが、定期発射という意味ではフランス、イギリスに次いで世界で三番目の実施になります。

【注】日本の標準電波の始まりはJJYからではありません。海軍省の船橋無線JJCの方が先です。

第十回目(6月11日)からは発射時刻を5分早めてE.S.T.(東部標準時)22:55から発射しました。

 

● 10月7日は「アマチュア・デー」

10月7日の深夜01:50からはアマチュア局に特化した標準電波が発射されました。長年、周波数の侵犯を繰返してきたアマチュア達に新設した1,500-2,000kHzバンドを遵守させるためです。

まずスペシャルアマチュア局(Zコール)と技術訓練学校局(Yコール)向けに周波数1,350kHz(波長222m)を出しました。これがスペシャルアマチュアや技術訓練学校局に発射が許される下限波長だからです。

次に一般アマチュア(A-Wコール)向けに周波数1500KHz, 1600kHz, 1700kHz, 1800kHz, 1900kHz, 2000kHzの順番で深夜03:41まで発射されました。

 

このあと10月20日が166.5-666kHz、11月5日が500-100kHz、11月20日が150-570kHz、12月5日が500-1700kHzのレンジでしたので、10月7日はアマチュア・デー(わざわざアマチュアのために発射した日)だったことがお分かりいただけるかと思います。

76) 突然きまった「短波」での横断テスト (1923年11月) [アマチュア無線家編]

1923年(大正12年)夏、今度こそ大西洋横断2Way QSOを成功させようと、フランスのデロイ氏8ABは6月13日から10月28日まで渡米していました。そしてアメリカ側のライナルツ氏1XAMらと協議し、アメリカ製の無線機材を購入して帰りました。デロイ氏はこのときアメリカ式のアマチュア通信を学びました。

 

四度目の大西洋横断通信テストは1923年(大正12年)12月21日から1924年(大正13年)1月10日に予定されていましたが、突然その準備を11月25日より始めることになりました。海外のアマチュア無線史研究の第一人者である小室圭吾氏は1972年(昭和47年)のCQ誌の連載「ものがたり・・・・・アマチュア無線史」で次のように伝えていました。

『25日から試験したいとフランスの8ABがARRLのSchnellに申し入れ、波長は100mとのことで、Schnellも100m使用の特別免許を受け待機した。・・・』 (小室圭吾, ものがたり・・・・・アマチュア無線史, CQ ham radio, 1972.1, CQ出版社)

そして同年4月号の連載記事では『イギリスの歴史書によると』とし、さらに詳しく述べられました。

『実は1923年の12月22日から1月10日(英国時間でいうので日が一日ずれることがある)にかけて、第四回の大西洋横断テストが計画されており、その翌日(1月11日)に英米間で初交信が行われるスケジュールだったのです。しかし大西洋横断をただひとつの目的として生き、考え、行動し、はたらいたデロイ、そしてアメリカのシュネルとライナルツ、また続々と増加していたイギリスのアマチュア達にとっては、スケジュールなどはあまり念頭になかったのでしょう。特に、デロイはその年の夏にアメリカへ直接出かけて、新しい無線技術を習得するというものすごい熱心さで、機器がうまく動作するようになると、もういても立ってもおられず、11月26日0300GMTから100mで送信してみるとシュネルに電報を送ったのは無理もないことです。しかしシュネルのほうは、予定の計画どおりに準備を進めていたため、100mを使用する特別免許はまだもらっておらず、この電報を受けてあわてて許可をとりに走りまわりました。』 (小室圭吾, ものがたり・・・・・アマチュア無線史, CQ ham radio, 1972.4, CQ出版社, p418)

 

フランスのデロイ氏8ABが突然、波長100m(3MHz)の短波で送信すると連絡してきましたが、アメリカのアマチュアバンドは波長150-200m(1.5-2.0MHz)なので、シュネル氏1MOは慌てて商務省に波長100m(3MHz)を使うための特別許可のお願いに行きました(シュネル氏は12月22日からの実験なので特別許可の申請はもう少しあとで良いと考えていたのでしょうか?)。そしてデロイ氏の方は電報どおり、26日に波長100mで一方的に送信しました。

『11月26日のデロイの送信は、シュネルとレイナルツのところで完全に受信でき、すぐ電報でデロイに報告されました。』 (小室圭吾, 前掲書, p418)

● デロイ氏はラジオ放送の大西洋横断試験日(11月25日)にかぶせてきた?

なぜデロイ氏8ABが突然短波実験したい旨、電報を打ったのでしょうか?

その理由として、ウェスティングハウス社KDKA(8XS)が11月22日より米国中部のへースティングKFKXへ短波中継を開始したことが挙げられます。短波の電離層反射を利用して1,600kmの距離を結び、日々の放送で実用に供し始めたのです(日本の浜松から中国の上海の距離に相当)。これが短波の実用化第一号です。デロイ氏はウェスティングハウス社の短波中継開始の知らせに、少々がっかりしていたのかもしれません。

またデロイ氏が11月26日03:00GMT(米国東部時間では25日22:00)を主張したのは、Radio Broadcast誌(米国)、Wireless World誌(英国)、BBC放送(英国)の3社で企画された中波ラジオの大西洋横断放送試験(Transatlantic Broadcasting Tests)への相乗りが目的だったとも考えられます。このラジオ放送の大西洋横断試験のスタートは11月26日GMT03:00で、英国BBC各局が一斉に米国へ向けて送信することになっていました。デロイ氏はこの時刻は米国の「お空」が静まり返り、混信妨害が少ないと考え、同じ日の同じ時刻に自分も送信してみようと思ったのかも知れません。この推測については「コンラッドのページ」に詳しく書きましたので、そちらを御覧下さい。

 

ここで一応念のため、第4回大西洋横断テストの実施要綱を再確認しておきました(左図)。

1923年12月22日から1月10日で使用波長は中波200m(周波数1.50MHz)を中心に前後20m(周波数1.36-1.67MHz)を使うことになりました。混信で潰しあわないようスケジュールタイムを守り、静かにするよう求めています。また賞金(品)が3,500ドルにも達していることも書かれています。

『The American Radio Relay League makes an appeal to the American and Canadian transmitting amateur. The A. R. R. L., in co-operation with the leading radio societies of Europe, is conducting the fourth Trans-Atlantic Tests from December 22, 1923, to January 10, 1923(注:1924の誤記では).

It appeals to the transmitting amateur asking him to please keep his transmitter silent during the period of the tests. An absolutely quiet air every night during the test is desired. The American and Canadian amateurs are not scheduled to transmit at any time during the tests as the league desires to lend its best efforts at receiving European amateurs and to try to establish two-way Trans-Atlantic Amateur Communication.

First of all, Americans must show that they can copy foreign amateur signals.

Hours of transmission by European amateurs (French and British) will be from 0100 to 0600 Greenwich Mean Time; 8:00 p. m. to 1:00 a. m., Eastern Standard Time; 7:00 p. m. to Midnight, Central Standard Time; 6:00 p. m. to 11:00 p. m. Mountain Standard Time; 5:00 p. m. to 10:00 p. m., Pacific Standard Time. Wave lengths will be from 180 to 220 meters. The tests are open to the broadcast listener who is able to copy the code. The European transmissions will be at no more than ten words a minute. Over $3,500.00 worth of prizes will be awarded for the best reception reports turned into A. R. R. L. Headquarters, 1045 Main Street, Hartford, Conn. 』 ("Appeal to Amateurs", Radio Age, Dec.1923, Radio Age Inc., p44)

77) シュネルが短波を使う特別許可を得る [アマチュア無線家編]

さて話をシュネル氏に戻します。幸い商務省の迅速な処理で、11月27日にはこの横断通信試験のために短波を使う特別許可が下りたことがCQ ham radio誌 1972年(昭和47年)4月号で日本の読者にもはっきりと伝えられています。

『これ(26日の電波が受信できたとういうアメリカからの電報)に気をよくしてデロイは再び送信を続けたのですが、11月27日にはアメリカ側に特別許可がおり、双方がオンエアを始めました。こうして0330GMTの初交信となるのですが、これがイギリスやフランスで組織的にテスト、準備を行っていた人達から見ると、抜けがけということになるわけです。この交信が予定外のものであったため、この日、米仏間で交わされた電文は数も少なく、もっぱら個人的なものでした。』 (小室圭吾, 前掲書, p418)

 

アマチュアが短波を使うには「特別な許可」が必要だったという事実が日本で紹介されたのは、これが最初ではありませんでした。小室氏は1963年(昭和38年=東京オリンピックの前年)に、初歩のラジオ誌の連載「ジュニアJARLハム教室」でもこの件について書かれています。

『・・・(略)・・・11月27日の朝(注:夜の誤記です)10時30分、これまで約1年間にわたりテストをくりかえし、受信には何度も成功してきた、ARRLのシュネル、ライナルツ組とフランスのデロイ(8AB)によって横断試験に成功しました。波長は彼らに特別に許されていた100mでした。』 (小室圭吾, "ジュニアJARLハム教室", 『初歩のラジオ』, 1963.12, 誠文堂新光社, p123)

 

1936年(昭和11年)にARRLがアマチュア無線の歴史をまとめた "Two Hundred Meters and Down"からも引用しておきます。ボストンにある商務省の出先機関から波長100mを使用する特別許可(Special Permission)を得たことが記されています。前述のとおり、1923年6月28日よりアマチュアバンドが波長200-150m(1500-2000kHz)に設定され、アマチュアは短波を使えなくなっていたからです。

『Schnell had secured special permission from the Supervisor of Radio at Boston to use the 100 meter wavelength, and everything was in readiness. 』 (Clinton Desoto, Two Hundred Meters and Down, 1936, The American Radio Relay League, p86)

 

なお初交信時刻の03:30GMTに付いてですが、これは米国東部標準時でいえば22:30です。6月28日の規則改正で米国アマチュアは20:00-22:30がサイレントタイム(沈黙時間)でしたので、フランスのデロイ氏は米国のサイレントタイムが終わる1時間前(米国東部時間の21:30、GMTでは02:30)から送信をはじめ、米国のシュネル氏1MOらは事前にその電波をキャッチしていました。

そしてサイレントタイムが終る米国東部時間22:30(03:30GMT)に、デロイ氏8ABが受信に切替え、すぐさま米国から応答が返ったので、米国東部時間22:30(03:30GMT)が初交信時刻ということになりました。

78) 横断テストに短波を思い付いたのは誰? [アマチュア無線家編]

ところで、アマチュアによる大西洋横断試験に短波を使おうと思い付いたのは、そもそも誰だったのでしょうか?またどういう理由からでしょうか?

1921年と1922年の横断試験では1way通信(中波200m)を成功させ、さあ次は相互通信ということですが、送信入力には制限があり、これ以上どうにもならない。そこで彼らが思いついた作戦は・・・

 『1キロワットという電力の制限があったのでは、これ以上強い電波は出せまい。受信機ももっと改良していかねばだめだ。アマチュアたちは大陸間QSOの夢を画きながら、新しい道の開拓にのり出した。もしかすると、波長をかえてみたらうまくいくのではないだろうか。といって200メートル(1.5MHz)という壁があって上(1.5MHz以下の中・長波)には入れない。道はひとつ。下(1.5MHz以上の短波)だけだ。当時、まったく無価値と捨てられていた短波を狙うしかない。』 (小林幸雄, "日本アマチュア無線史(1)", 『電波時報』, 1959.11, pp35)

今から60年近くも前(昭和34年)の電波時報に連載された "日本アマチュア無線史" では、試験に短波を採用した理由をこのように説明しています。たぶんそういう事でしょうが、もっと具体的な短波を使うに至った動機を調べてみました。

【注】なお記事には「無価値として捨てられていた短波」とありますが、マルコーニ社やウェスティングハウス社(コンラッド)により、短波実用化への試みが着々と進んでいましたので、読者を盛り上げるのは良いのですが、この表現が日本のアマチュアに誤解を与えたかもしれませんね。

 

フランスで正式にアマチュアが認められたのは1921年(大正10年)秋で、Wireless World誌(Apr.1, 1922, p17)にはその認可第一陣として4局(8AB, 8AD, 8AE, 8AH)のアマチュアの免許情報が掲載されました(下図)。デロイ氏8ABだけには波長200m以外に525m(570kHz)と1000m(300kHz)が許可されていました。しかし短波の許可はなく、この時点ではまだ短波に興味を抱いてなかったと考えられます。

 

いろんな資料を調べてみた結果、Radio News 1924年3月号にLaurence S. Lees氏がデロイ氏の自宅を訪ねて直接取材した記事の中で、彼の短波との出会いが明らかにされていました。

これによるとデロイ氏8ABは1923年(大正12年)に仏軍が45mの短波伝搬試験をする際に、科学雑誌を見て受信機を短波に改造し、これを受信しました。さらに英国マルコーニ社の短波実験局ポルドゥー2YTが受信できたことで短波の威力に驚き、熱烈なファン(very enthusiastic)となり、シュネル氏1MOやライナルツ氏1XAMらと大陸横断試験の打合せに渡米する3日前の、1923年6月10日に波長100mを使おうと決心したそうです。

またデロイ氏はフランスのアマチュアの中で唯一、波長1000m以下(300kHz以上)を自由に実験できる特別免許を得たそうです。その彼が横断試験の波長に仏軍が使った45mの方を選ばなかったのは「マルコーニのポルドゥーが100m波を選んだのだから、こちらの方が有効かも?」と考えたのかも知れませんね。

『 In April, 1923, the French Military Radio started sending on a 45 meter wave for experimental purposes. The most bewildering circuits were published in the technical journals here, but laughing at them all, M. Deloy, with his old set, was able to hear them all. He also heard Poldhu working on 100 meters. By this time, M. Deloy was becoming very enthusiastic on the subject of short wave-lengths. ・・・(略)・・・He was granted a license by the French government which allows him to experiment on all wave-lengths from 1,000 meters down. No other amateur in France has such a license. The only other license to be granted before his (it was only granted a few hours before) was 8AA, and that was granted to what is really a semi-commercial concern. On June 10, 1923, Mr. Deloy, three days before his departure for the States, decided to experiment with the 100 meter waves. 』 (Laurence S. Lees, "Another Historic Event in Amateur Radio", Radio News, 1924.3, p1290)

 

またデロイ氏8ABが「実験しよう」とシュネル氏1MOに送った最初の電報では実験時刻を知らせただけだったので、デロイ氏は100m(3MHz)で送信し、シュネル氏は190m(1.58MHz)で待機したため失敗しました。そして2回目の電報では11月26日(米国では11月2)と波長100mを明記し、米国側でうまく受信されました。その翌朝「 COPIED SOLID, CONGLATULATIONS. 」との電報がデロイ氏に届きました。

『On this occasion, however, he was not heard, as M.Schnell was trying to get him on 190 meters and of course F8AB was transmitting on 100. M.Deloy, therefore, sent another cable asking that vigil be kept for his signals beginning at 2 o'clock G.M.T on November 26, at 100 meters. Mr.Deloy repeated his signals continuously from 2 to 3 &clock G.M.T. with only a five-minute pause at the end of the first half hour. When he awoke the next morning he found the following cable awaiting him: HARTFORD, CONN. 25 NOV. 22.30 via UNION. COPIED SOLID, CONGRATULATIONS. He was naturally overjoyed. 』 (Laurence S. Lees, 前掲書, p1294)

シュネル氏が波長190mで待機した理由は分かりませんが、1923年の横断試験の使用波長は180-220mで、混雑する200m波を外して190m波を使おうとする幹事仲間内での合意があったのではないでしょうか?

 

左図はQST誌1923年12月号に掲載された第四回大西洋横断試験(1923年12月22日から1924年1月10日)実施要項の使用波長を告知する部分です。結局は今回もまた中波200m前後(180-220m)を使うことに決まっていました。

『On each night of the tests there will be an European free-for-all period (0100 to 0300 GMT) during which time both French and British amateurs will transmit on wave-lengths between 180 and 220 meters, with 200 meters the objective. 』 (F.H. Schnell, "The Fourth Transatlantic Tests", QST, 1923.12, ARRL, p10)

 

デロイ氏はこの1923年の中頃に短波も発射できる包括的な特別免許を得ましたが、フランス郵政庁の無線規則ではアマチュアは200m(1.5MHz)一波のみで100W以下に制限されていましたし、英国のアマチュアは波長1000m(300kHz)、440m(680kHz)、180m(1.67MHz)の3波で10W以下という制限です(なお波長1000mの新規許可は停止中)。もし大西洋横断テストに短波を使うことにすると政府の特別免許を必要とするため、一般のアマチュアは参加できなくなります。

【注】フランスではこの秋に新規則が制定され、1923年12月より入力100W以下、波長200-180m(1.5-1.67MHz)のアマチュアバンドが施行されました("The New French Offical Regulations for wireless stations", Experimental Wireless, Apr.1924, pp387-388)。おそらく米国に次いで世界で二番目に誕生したアマチュアバンドでしょう。

 

ということは・・・短波による大西洋横断試験は、組織的なイベントとして行なわれた大西洋横断試験ではなくて、幹事役のデロイ氏やシュネル氏、ライナルツ氏の仲間内の実験だったようですね。これは私も知りませんでした。

79) ライナルツとシュネルの短波への想いは? [アマチュア無線家編]

デロイ氏8ABと短波で横断交信に成功した、ライナルツ(John L. Reinartz)氏の動きも調べてみました。 無線研究家として有名なライナルツ氏はアマチュア局1QPの免許を取得していただけでなく、1920年9月から1922年3月まで1XTというコールサインで波長200m, 300m, 375m, 600m(周波数1500kHz, 1000kHz, 800kHz, 500kHz)の実験局の許可を得ていたことがあります(1XTのコールサインはのちにBristol Co.へ再指定)。

 

左図は商務省電波局が毎月発行するRSB(Radio Service Bulletin)第75号(1923年7月2日発行)の特別地上局(Special Land Station)の新局リストのページです(1922年6月30日版コールブックに対する追補)。ライナルツ氏は1923年6月に実験局1XAMとして波長150-220m(1.36-2.0MHz)の許可を受けました。しかし米国では1923年6月28日にアマチュアバンド(波長150-200m)がスタートし、アマチュア局1QPで150-200mの帯域免許が得られるのに、わざわざ実験局1XAMを申請した理由は何だったのでしょうか?

 

両者の違いは1XAMならスペシャルアマチュア用の200-220m(1.36-1.5MHz)の部分の許可も得ていること。また1XAMならアマチュア局のサイレントタイム(20:30-22:00)の適用を免れること。そして1XAMならアマチュア局の最大入力1kWという制限を受けないことなどが考えられます(実際に1XAMが免許された電力は不明です)。そして1XAMの許可が下りた頃にデロイ氏が訪米してきて波長100mを使いたいという相談を受けたのではないかと想像してみました。もっと早く聞いていたなら波長100-220mで申請していたでしょうね。

 

ところがライナルツ氏の実験局1XAMにとってラッキーな事件が起きました。 左図は商務省電波局のRSB第76号(1923年8月1日発行)の特別地上局の新局リストのページです(1923年6月30日版コールブックに対する追補)。この号より「波長(Wave lengths)」の欄が消えていることにご注目下さい。そして脚注には以下のように書かれています。

『Note. - Wave lengths between 150 and 220 meters are used by special amateur and technical and training school stations. Experimental stations use variable wave lengths. 』

 

局種分類上ではアマチュア局に属する「一般アマチュア局(A-Wコール)」が個別の "単一波長免許" から波長150-200mの "帯域免許" に変わったのに同期して、特別陸上局(Special Land Station)に属する、「スペシャルアマチュア局(Zコール)」、「技術訓練学校局(Yコール)」も波長150-220mの "帯域免許" になりました。同じく特別陸上局に属する「実験局(Xコール)」はそれぞれの事情に応じて "単一波長免許" か、"可変(Variable)免許" でしたが、全て "可変免許" に変わったのです。つまりラッキーなことにライナルツ氏の実験局1XAMはそのまま100mの短波も実験できるようになりました。【注】実験局を一律 "可変免許" にする方式は数年後に見直され元の許可波長指定に戻っています。少なくともライナルツ氏が実験局1XAMの免許を申請した時点(1923年の春)では、短波を使う気がなかったことはこの免許内容で明らかです。

 

またシュネル氏1MOは中波200mに貼り付いているアマチュア達を短波に誘導する目的で、「100 meter CQ Party」(1923年3月24-25日)の企画者でしたが、「11月25日から波長100mで試験したい。」との電報をデロイ氏8ABから受取るまで、短波の特別免許を申請していませんでした。もしシュネル氏に短波への興味や情熱が残っていたのなら、さっさと短波の特別許可を得て、あーでもない、こーでもないと事前研究をしてもよさそうなものです。やはり6月28日の中波アマチュアバンドの制定が彼に影響を与えたのでしょうか?

ARRLのトラフィックマネージャーという立場にあったシュネル氏1MOとしては、特別免許を得ることができた選ばれし者による短波ではなく、会員に平等に与えられた中波(アマチュアバンド:1.5-2.0MHz)で成功させたいとの想いがあったかもしれませんね。 以上を総合して考えると、短波に一番熱い想い入れを持っていたアマチュア無線家はフランスのデロイ氏8ABだったように私は思いました。

 

【参考】 しかしシュネル氏1MOについては全く別の見方もできます。QST誌1923年12月号p149の"Calls Heard"(読者の受信報告コーナー)にフランスに戻るデロイ氏8ABが洋上での波長100mの受信成績を投稿しています。そこには10月12日(ニューヨークから300マイル)に8CHV, 1ARYと KDKA短波中継電話、10月13から14日(NYから614マイル)に掛けて1CMP, 1FD, 1KC, 1MO, 1RR, 2AMOと KDKA短波中継電話、10月14から15日(NYから947マイル)に掛けて1MOと KDKA(キャリアのみ)が報告されています。これが事実ならシュネル氏1MOも短波を出していたことになります。

これは商務省にこっそり内証の発射(デロイ氏8ABがうっかりQSTに投稿してしまった?)であって、11月になって正式な特別許可を得たのでしょうか?それに10月に1wayながらも大西洋上でこれだけの局が受信されていたのなら、もっと話題になってもよさそうなものですし、彼らが大西洋横断試験に登場しないのも変です。考えられる事としては、当時のアマチュアは波長200mで運用していましたから、デロイ氏が受信したのは(KDKAを除き)波長200mのアマチュアの2倍高調波(波長100m)だったかもしれませんね。私にはこれ以上分かりません。

80) 短波で大西洋横断 2Way QSO に成功 (1923年11月27日) [アマチュア無線家編]

こうして1923年(大正12年)11月27日米仏間でアマチュアによる大西洋横断双方通信に成功しました。QST誌1924年1月号の記事(左図)によると27日には波長110m(2.7MHz)と115m(2.6MHz)を使ったようですが、タイトル"Transatlantic Amateur Communication Accomplished ! (大西洋横断アマチュア通信が実現!)"で分かるように、目的は大西洋横断する2WayQSOであって、短波はその手段に過ぎません。この時点ではまだ短波の真の威力に気付いておらず、それが分かったのは1924年(大正13年)秋より、続々と小電力で遠距離交信が成立してのことでした。

【参考】またこの時のQSLカードの記載データでは、8ABは波長103mを、1MOは波長115mを使ったとしています。

 

『Meanwhile 1MO got permission from the Supervisor of Radio to test on the short wave, and the following night, the 27th, was in readiness. Deloy came on at 9:30 and for an hour called America and sent two more messages. At 10:30 he signed off, asking for a QSL, 1MO gave him a long call on 110 meters, and European and American amateurs were working for the first time, for Deloy came right back! It brought the thrill that comes but once in a lifetime. Deloy’s first words were:

 R R QRK UR SIGS QSA VY ONE FOOT FROM PHONES ON GREBE FB OM HEARTY CONGRATULATIONS THIS IS FINE DAY MIM PSE QSL NR 1 2.

Then Schnell asked him if he would take some messages, and greetings were sent to General Ferrie, director of French military radio, and to Dr. Pierre Corret, president of the French Joint Transatlantic Committee. Meanwhile 1XAM (1QP on special license) called 8AB on 115 meters simultaneously with 1MO and Deloy acknowledged receipt, asking him to QRX. 』 (Transatlantic Amateur Communication Accomplished! , QST Jan. 1924, p10)

 

短波の特別免許をうけたアメリカ(シュネル氏1MO, ライナルツ氏1XAM)とフランス(デロイ氏8AB)間で11月27日に成功させた大西洋横断双方向通信は、実は組織的な試験を前になされたものでした。12月8日にはシュネル氏1MOと英国の2KF間で米英初交信が行われ、(あらかじめ成功したときのために用意していた、)ARRLからマルコーニ宛ての電文が送達されました。

81) 当時の日本のアマチュア界の現状は? [アマチュア無線家編]

参考までに大西洋横断2WayQSOの頃の我国のアマチュア界はどうだったかを振り返っておきます。濱地常康氏(東京1,2番)、本堂平四郎(東京5,6番)に続いて、3人目の中波アマチュアが1923年(大正12年)4月11日に免許されました。東京市四谷区に住む早稲田大学の学生、安藤博氏です。

【注】 「アマチュア無線のあゆみ - JARL50年史」(1976年)では "安藤研究所"に対する免許であるかのような表現で記載されましたが、それは誤りで安藤氏個人への免許です。

電信は波長1550-1700m, 500-550m, 300-400m(呼出符号JFWA)で、電話は波長1550-1650m, 300-340m(東京9番)でした。半年後には第二装置が追加されJFPA, 東京19番も許可されました。無線電信を扱えるという意味での日本初のアマチュアです。

 

苫米地貢氏(のちの「無線と実験」誌主幹, 1924年創刊)が著書「趣味の無線電話」の中で、1923年(大正12年)2月4日に安藤氏が米国のラジオ放送(740-1000kHz附近)の受信に成功したことを記しています。

『今春(1923年)二月四日払暁(ふつぎょう:明け方)青年無線家 安藤博君が米国の某無線局から三〇〇-四〇〇米(750-1000kHz)の間の波長で送信したのを受けたという事です。受けた安藤君の器械の優秀操作の熟練は勿論ですが太平洋を越えて電話を送り得る米国の進歩は実に羨ましい限りです。』 (苫米地貢,  『趣味の無線電話』, 1 924,  誠文堂書店,  p6)

 

安藤氏はさらに高い波長200m(1500kHz)付近を探索していたところ、同年10月になってついに米国のアマチュア局もキャッチできました。さっそく愛読していたARRLのQST誌へ受信レポートを送ったのです。

1923年12月号のQST誌Calls Heardのコーナーに安藤氏が1AW, 1KC, 1YK, 2FB, 2ZL, 2ZN, 2BIR, 4FT, 6TU, 6ZH, 6BAW, 7OM, 7ZF, 9DGWの14局を受信したことがコーナーのトップに掲載されました(下図[左])。日本からの珍しい報告に編集部も驚いたのでしょうね。安藤氏の受信機は当時としては最新式の8球式スーパーヘテロダインでした。

さらに翌1924年(大正13年)1月号では実験室の写真付きでかなりのスペースを割いてJFWAが紹介されました(下図[右])。これは日本人アマチュアのシャックの写真がQSTに掲載された第一号です。

(左:QST1923年12月号の安藤氏からの受信報告、 右:QST1924年1月号の安藤氏JFWAのシャック)

 

QST 1月号の記事によるとJFWAは1923年12月上旬に英国の2SHと通信試験を行なったとのこと(注:成功したとは書かれていない)。またJFWAは東京時間の20:00-20:30に波長300m(1,000kHz)、1kWの持続電波の電信でオンエアーしているそうです。

そして興味深いのが日本には500局ほどライセンスを持たないアマチュアがいて、そのほとんどは波長200-400m(750-1,500kHz)で5W以下だと紹介していることです。このQSTの記事は大正12年頃の日本の中波アマチュアの実態を伺い知ることができる貴重な資料でしょう。

『Despite the restrictions, there are around 500 amateurs in Japan. They work on wavelengths from 200 to 400 meters generally and use either a spark coil transmitter or a hard receiving tube as a C.W. transmitter of less than 5 watts. 』 ("Japanese Experimenter Hears U.S. Hams", QST, 1924.1, ARRL, p45)

 

「世界に語るDX アマチュア無線」 (笠原功一, 日本放送出版協会, 1949)には『わが国アマチュア無線家としては、安藤博氏がまず記されるべきかと思う。同氏が1923年ころ、わが国で米国のアマチュア無線を受信していたのは確実のようであるが、1924年には濱地常康氏が米国との交信(少なくとも先方で受信した)の記録を立てられた。しかし本格的なアマチュア無線の起こったのは、1925年(大正14年)のころから、短波電信による国際通信に参加した以降のことであった。・・・(略)・・・しかし当時は、未だわが国の法的にはアマチュア無線は認められていなかった。否 認める途がわざと閉ざされていたのであった。ここにアマチュア無線家の苦しみがあった。』とあるように、JARL創設メンバーの一人、笠原功一氏はせっかく私設実験局(いわゆるアマチュア無線)を規定する「法二条第五号」があったにも関わらず、逓信省にコネのある人達(濱地氏、本堂氏、安藤氏)にしか適用されない不平等な法運用だったとおっしゃっているようです。

82) 勝因は静かな短波だから? [アマチュア無線家編]

アマチュア精鋭部隊により行われた試験は大成功でした。米国ウェスティングハウス社の短波実験局8XSが波長94m(3.2MHz)で英国へKDKAの番組中継に成功したのが12月29日ですから、それよりも一ヶ月も早く、アマチュアにより短波が大西洋を越えたのです。三度目の挑戦までは短波を使えた時代なのにそれを使わず、短波が使えなくなった四度目の挑戦の時になって、特別免許で短波を使った結果でした。

【注】 まだ本放送ではありませんが、「受信できた」という意味では、すでに9月にはKDKAの短波が大西洋を超えて英国で受信されています。

QST誌1924年1月号(左図)でトラフィックマネージャーのシュネル氏は、協賛してくれた無線機会社などから集まった第四回大西洋横断試験の懸賞金(品)が総額で$4,000に達したことを発表しました。

100年近く昔の4千ドルが一体どれくらいの価値があるのか私には想像が付きませんが、1920年9月にEveryday Engineering Magazine誌が企画し、ARRLが継承した大西洋横断試験は無線界から注目される大きなイベントとして発展していたのは間違いないでしょう。

 

左図はRadio Broadcasting誌1924年3月号です。米仏のアマチュアによる大西洋横断通信成功の記事が掲載され、一般ラジオファンにも紹介されました。2ページ半に渡るこの記事は次のように結ばれました。

『There is a strong opinion among A.R.R.L. officers that the short wave made the transoceanic accomplishment possible and that it might have been extremely difficult on a wave length of 200 meters owing to the interference from other stations in this country. 』 ("Amateur Shake Hands Across Atlantic", Radio Broadcasting, 1924.3)

これまで自分達が使ってきた200m波は混信が多く、それに対して短波は静かで遠距離通信には最適な環境だった点が、大西洋横断通信の成功要因だったと分析したようです。つまり1924年(大正13年)の初頭においては、まだ「短波が良く飛ぶ」との確信にまで至っていないようです。

世界のアマチュアの圧倒的大多数を占めるアメリカにおいて、アマチュアバンドは波長200-150m(1.5-2.0MHz)でしたので、全体的に眺めるならば大西洋横断通信成功をきっかけとしたアマチュアの短波への大移動には進展しませんでした。

83) 日本での大西洋横断通信の記事 [アマチュア無線家編]

参考までに、アマチュアによる大西洋横断通信試験の一連の試みが、詳細に日本の無線ファンに伝えられたのがいつかを調べてみました。すると創刊されてからまだ間もない「無線と実験」誌の1924年(大正13年)11月号にある"MS生"氏による外国雑誌からの翻訳記事が見つかりましたので紹介しておきます(左図)。なお出典は明記されていませんでした。

 

『懸賞素人無線 大西洋横断無線通話と其(その)受信機の説明

十弗(10ドル)のセットにて千弗(1000ドル)の賞金を 』 (MS生訳, 『無線と実験』, 1924.11, pp39-43,123) です。

 

1921年2月の第一回試験は失敗でしたので、記事は同年12月の第二回試験で米国の電波をキャッチできた話からはじまります。さらに1922年の第三回試験では双方1Way が実現しました。これが2Way QSOに至らなかったのは、米国側アマチュアが一番強く聞こえた英国ロンドンの5WSばかりに気をとられ、他の欧州局を受信しようとしなかったからだと説明しました。

『今から丁度二年前(1921年)、蘇格蘭(スコットランド)のアードロサツンに於ける、ポール、ゴットレー氏は波形アンテナ ビベレージ式空中線に特別なスーパーヘテロダイン受信機を接続して、約廿七カ所のアメリカ素人無線のスパーク及び持続電波を一週間も連続して聴取するを得た。

次の年(1922年)の冬には、約三百の素人無線家の信号が英、仏、端(スイス)、オランダ及び独逸(ドイツ)の諸国に於て聴取せられた。此の大成功は半ば、米国側に於ける送信装置の進歩と半ば対手者方面の受信設備の改善とによるものである。此の実験中、米国側からの送信が修了するとすぐ、欧州から送信を開始するのであったが、その一部は非常なる不成功と記録せねばならなかった。その主なる理由は米国側の素人無線家は此の試験中、微弱なる信号には、余り興味を持たずして、主にその内の一番強勢なる信号のみ聴取したるによるものである。此の試験中倫敦(ロンドン)の"5WS"局は一段と光彩を放って、すこぶる強勢であった。多数の米国側素人無線家はこれを専ら受話した。』 (前掲書, pp39-40)

さらに記事は1923年6月28日の法改正で米国にアマチュアバンド(1.5-2.0MHz)が制定された際に、20:00-22:30が送信禁止(サイレントタイム)となったことが、"じっくりと欧州局をワッチする態度" につながったと分析しました。

 

ではいよいよ1923年秋です。記事の筆者も2wayQSO成功の時にデロイ氏8ABを聴いていたといいます。この記事の筆者は米国アマチュアのようで、やはり混信はなく短波は静かだったと振返っています。

『昨年(1923年)十一月末(廿七日と記憶す)が仏蘭西(フランス)のニースにある"F8AB"局と米国コンネクチカット州ハートフォードの"1MO"局間に相互に通話が出来た。その際使用電波長は一一〇メートルであったが、少しも混信妨害はなかった。筆者は歴史的に記念すべき時において仏国側の発振局"F8AB"局の二十五サイクルの信号を聴取したるにすこしも困難を感じなかった。』 (前掲書, p40)

 

1923年11月23日の2Way QSO成功は第四回大西洋横断試験の前ですから、入賞の対象にはなりません。1923年12月21日からが本番です。波長は例年同様、中波の200m(1500kHz)だったようですが、当時は1500kHzも短波と呼んでいました。

『実験は十二月廿一日午後八時から始まった。その当夜は大体受信に好適の日和ではなかった。しかし「F8AB」局は同十五分にかなり強く感じて来た。彼は自分の符号をおもむろに、しかして注意して送話して来た。幸いその波長に近いものは何もはいらなかった。送信波長は丁度二百メートル(1500kHz)であった。

かくて数分の後、英国の「2FG」局が弱く消える様に聞えた。しかしその言葉(電文)は充分了解する事が出来た。この実験により二〇〇メートルの短波長で、簡単なる受信機で聴取可能が判明したので多少刺激を得る様になった。』 (前掲書, p41)

 

1923年12月21日20:00より第四回大西洋横断試験が始まりました(1924年1月10日まで)。米国側はこの年より、20:00-22:30が法律上のサイレントタイムですので、入賞を目指す米国アマチュア達は落ち着いて交信パートナーを探すことができたでしょう。そして22:30になりました。送信の解禁です。

『十時三十分。 (全米はサイレントタイムで波長200mは静まりかえっており、もし何か聞こえたら、それは米国以外からの電波だが、波長200mには)他の外国無線局は記録せられざりし。同時刻となるや待ち構えた数百の米国素人無線家は一時に発振を開始するから(無線での夕方と呼ぶ事にした)多数の者は妨害を醸成し、QRT(送信中止)を他へ通じていたが、強電力の者のみ依然として継続していた。そのある者は一八〇ないし二〇〇メートル波長(1500-1667kHz)所有者の全部をかく乱してしまったが、幸い自分(筆者)の位置より約百浬以内には何もなかったから大した影響を受けなかった。

しかし最悪の妨害は商業用の局所からの混信である。なかんづくチャザムにある、レヂオ、コーポレーション会社(RCA社)の局"WIM"はかなり強電力をもって発射するので、自分の六〇尺の受信用アンテナにもスパークを誘発せしむ程であった。もっともこれは当然の事である。何しろ送信所から約四〇〇呎(400feet=123m)しか離れておらないからである。それで同局の発信中は如何ともする事が出来なかった。

またバー、ハーバーに於ける海軍無線所の"NBD"のスパーク符号も、何れの受信波長にしても聞える。約七〇メートル位にまで調子はずれ(200-70=130mとすれば800kHzの離調)にしても、なおかつ聞えた。

なおこのほか一打(1ダース=12)以上の放送からの合調音響その他の肉声が。最も有効な電波帯を占有して、強勢に感じて来る。この為、一夜の如き欧州の三無線素人家の符号は全く消されてしまった事があった。』 (前掲書, p41)

● 静かな短波

200m波は相当の混信だったようですが、最大の妨害はサイレントタイムを守らないアマチュア仲間からのものでした。複数の標準時間を使う米国では、解禁時刻の22:30が米大陸東海岸から西へ進んで行きますが、それを待てない者がいた様です。これは法令違反です。

『しかし最も妨害となるものは米国中部および西部における素人無線家が、時間の異なるためおのおのの静止時間(サイレントタイム)中にも拘わらず、発振するのである。加州(カリフォルニア)やテキサス州に於ける素人無線家は自己のCW電波が、東部に於いて英国や仏蘭西(フランス)の同輩の信号を受信している仲間の妨害を醸成していると聞いてはさぞや驚く事であろう。かくの如き場合はしばしばあるのである。』 (前掲書, pp41-42)

● 第四回試験中にオランダの短波試験が傍受される

ところでアマチュアの第四回試験の最中に波長100m付近でオランダの短波実験が報告されています。

『第三日目の晩、近距離にある(注:原文を見ないとなんとも言えませんが「短波」の事ではないでしょうか?)一〇〇メートルの電波長を探っていると"PCII"という局が丁度終了を告げる符号が急に入って来た。この呼出符号から察するに和蘭(オランダ)の局なる事が判った。その後しばしば受信したが、自分の推測は確かであった。』 (前掲書, p42)

また筆者はアメリカのラジオ局KDKAの短波中継波や、WGYの短波テストも受信しています。

『この受信機の波長は七〇メートルより二二五メートルであるが、・・・(略)・・・それで一〇〇メートル前後の波長を有する"KIKA"(=KDKAの誤植か)及び"WGY"を聴くのに甚だ有用であった。』 (前掲書, p123)

84) 着々と進む短波の実用化と短波標準電波の必要性 [アマチュア無線家編]

そのころアマチュアの周囲では短波運用の実績が着々と積み上げられていました。時代背景を確認しておきましょう。

1923年(大正12年)11月22日にピッツバーグ(東部)のKDKAからへースティング(中部)のKFKXへの短波中継回線が実用化されました。12月29日にはKDKAから大西洋を越えて短波中継が行なわれ、1924年(大正13年)1月から3月に掛けて、繰り返し番組が国際中継されました。

そして1924年3月7日に開かれたマサチューセッツ工科大学のOB校友会が主催したディナーパーティーの模様がピッツバーグのKDKAから波長100mの短波で、西は太平洋岸のカリフォルニアのKGO、東は大西洋を越えてイギリスのBBC各局へ、同時中継されるという衝撃的な出来事がありました。また4月5日になるとジェネラルエレクトリック社(GE)も波長107mの短波でスケネクタデイWGYから、大西洋を越えてイギリスのBBC各局へニューヨークで行なわれているコンサート番組が中継されました。

こうして短波は放送中継業務用として実用化されましたが、短波がコンディション次第で小電力でも遠くまで届くことに、(短波中継に携わっていたプロの無線技術者達でさえ)まだ気付いていませんでした。

 

商務省は中波放送局の爆発的な増加で、深刻な周波数不足に直面しており、放送中継業務だけでなく各業務局を短波へ誘導したいと思っていました。そして各自の割当て周波数を遵守させるには、正確な短波の周波数計を所持させる必要があり、それを校正するための短波標準電波の発射が不可欠でした。しかしワシントンDCの標準局WWVは2.0MHzまでの発射なので、当面はその高調波の受信で校正させるとしても、広い米国をWWVたった1局でカバーするのは無理があり、これも課題でした。

商務省が毎月発行するRadio Service Bulletin Vol.81(Jan.2, 1924)で、西海岸カリフォルニア州のスタンフォード大学に実験局6XBMを免許したことが告示されました(左図)。

この実験局がどんな使命を帯びて許可されたものかは、まだ明かされていませんが、実はこれがWWVの西海岸分室的な役割を演じることになるのです。

85) 150m以下(2.0MHz以上)を発射する違法運用に警告(1924年5月1日) [アマチュア無線家編]

以上のように放送界での短波実用化と平行しつつ、1924年(大正13年)に入ると世界の先進的な少数アマチュアにより2MHz帯の試行も始まりました。これを当サイトでは「2MHz時代」と呼ぶことにします。アマチュアバンドが200-150m(1.5-2.0MHz)の米国アマチュア無線家には、このあと商務省が短波を開放(1924年7月24日)するまでの八ヶ月間は、じっと我慢のつらい時期だったといえるでしょう。

● 高い周波数への違法侵入

しかし我慢できなくて、こっそり波長150m以下(2.0MHz以上)の電波を違法発射するアマチュアが後を絶たず、1924年5月1日付けで商務省Bureau of Navigationがアマチュア団体ARRLへ"Watch Your License(許可証をよく見よ)"という警告文を送りました。

これはQST誌1924年7月号のRadio Communications by the Amateursコーナーに掲載されました。正しい英文解釈は皆さんご自身にお願いするとして、ざっくり要約すると、「許可波長200-150m(1.5-2.0MHz)に違反して、150m以下(2.0MHz以上)を発射するアマチュアの報告を多数受けている。中には200m(1.5MHz以上)の任意の波長を使っても良いと、思い違いしている者もいるようだが、その考えは誤っており修正されなければならない。また150m以下(2.0MHz以上)の発射が高調波の輻射だったケースもあり、許可波長の違反ではないが、高調波除去にはもっと努力すべきである。ごく一部の不心得者による違法行為ではあるが、この状態が繰り返されるなら、ライセンスの停止処分が必要だ。」 こんな感じでしょうか。

 

『The Bureau has received a large number of reports of amateurs operating on wave lengths below 150 meters in violation of the terms of their licenses.

In some of these cases the amateurs have admitted doing so and gave as their excuses that they had received information that there was no objection to their using any wave length they desired below 200 meters. This is an erroneous impression and should be corrected.

In some cases it appears that the amateur reported did not violate the terms of his license but was received on his first harmonic. This condition is not confined as you know to amateur stations only but the amateurs should make every reasonable effort to eliminate such harmonics.

The Bureau is satisfied that a very small percentage of the amateurs knowingly violate the law but where they are found to be doing so and are notified of this fact and the violation is repeated, it is necessary that they be restrained though a suspension of their license in order to not only carry out the intent of the law but to protect the law abiding amateurs. 』 ("Watch Your Licence", QST, ARRL, 1924.7)

86) 2MHz時代幕開け 米アマチュアが150mに殺到(1924年前半) [アマチュア無線家編]

1924年(大正13年)5月22日、アルゼンチンのブエノスアイレス在住のCarlos Braggio氏CB8(のちに政府発給のDA8に変更)と、ニュージーランド北島のギスボーン在住のIvan O'Meara氏2ACの間(5,750マイル)で初の太平洋横断交信成し遂げられました。

アマチュア通信として初めて1万kmの大台に乗せる世界記録となりました。大西洋横断通信の場合は、英国から一番近いカナダのニューファウンドランドまで約3,400km、米国東海岸のニューヨークと英国ロンドンでも約5,500kmですから、いかにすごい記録かがお分かりいただけるでしょう。ちなみに1924年4月3日にマルコーニ社のポルドゥー2YTが波長92m(3.2MHz)でオースラリアへ1万7,000kmの通信に成功したり、5月15日に米国のGE社が波長107m(2.8MHz)で、スケネクタデイ(米国)WGYからヨハネスブルク(南アフリカ)の放送局へ、1万3,000kmの遠距離中継を行なっていますが、やはりアマチュアの小さなアンテナとCB8(TX入力100W)と2AC(TX入力50W)のパワーを考えれば、特筆すべきもののひとつだといえるでしょう。

 

Radio News 1924年9月号に両氏の特集記事(pp310-311, 400)が組まれました。それによるとアルゼンチンCB8は波長118m(2.54MHz)で、ニュージーランド2ACは波長125m(2.4MHz)を使ったとあります。(まったくの余談ですが1925年(大正14年)に岩槻受信所建設現場のJ1AAがこの2ACと交信しています。)

ニュージーランドでは1914年(大正3年)7月に改正された規則以降、実験局やアマチュアを許可しないことになっていました。1923年(大正12年)1月の改正でアマチュア無線制度がスタートし、初級局は140m(2.14MHz)一波の5Wですが、上級局には低めの180-150m(1.67-2.00MHz)の中から希望波が50Wで許されたようです。しかし2ACは125m波(2.4MHz)を使ったとのことですから、1924年になると波長の許可は結構融通が利いたのでしょうか?

 

ちなみにカナダでも改正があり、最新のアマチュア規則がQST誌(1924年6月号p64)に掲載されています。

『Many American amateur have wondered "how come" that so many Canadians are operating around 125 meters. 』という疑問に答える形で、カナダのアマチュアには220-200m(1.36-1.50MHz)と、150-125m(2.0-2.4MHz)の2つの帯域と、スポット波長として175m(1.71MHz)が唯一火花送信を許さており、また無線電話は200m(1.5MHz), 175m(1.71MHz), 150m(2.0MHz)の三波に限定されていると紹介されています。カナダでは上限周波数2.4MHzが人気でした。

 

米国のアマチュアはこれまで一番飛びが良いと信じていたアマチュアバンド200-150m(1.5-2.0MHz)の下端200m(1,500kHz)付近に集中して運用してきました。ところが11月27日の大西洋横断通信の成功で、もしかすると短い波長の方が良く飛ぶのかもしれないと疑いはじめたところへ、このアマチュアによる太平洋横断通信(アルゼンチン-ニュージーランド間)成功の知らせです。KDKAのように本格的な設備でなくても遠距離通信できる可能性が見いだされたのです。アメリカのアマチュアは上端の150m(2,000kHz)付近に殺到し、今度は150m波の人気が赤丸急上昇となったそうです。

1923年11月27日に成し遂げられた短波帯3MHz付近での米仏アマチュアの初交信は特別免許により行なわれました。裏返せば本来なら3MHzは使えない周波数ですから、米国では後に続く者がいませんでした。しかし1924年前半に「アマチュアの2MHz帯時代」とでもいえる、(短波3MHz以上)へ進出するまでの過渡期が一部存在しました。

87) 3.5MHz時代へ 短波バンド創設(1924年7月24日) [アマチュア無線家編]

1924年(大正13年)7月24日、米国商務省はアマチュアに、4つの短波バンドを与えました(下表赤字)。ただし短波での無線電話は認めませんでした。

 1923年の第二回国内無線会議では急増するラジオ放送用に550-1350kHzという広い周波数帯域を捻出せざるを得なかったのですが、そのため新たな無線需要に振り分ける周波数不足が問題になっていました。当然ながら短波へ向かうしかありません。商用無線局の短波進出を加速させたのは実は中波ラジオ放送の勃興でした。

そんな中でウェスティングハウス社KDKAでは1923年3月4日よりクリーブランドKDPMへの短波中継試験を開始し、1923年11月22日にはへースティングに開局したKFKXへの短波中継を実用化しました。さらにGE社のWGYも短波中継に参入するなど、短波利用が本格化する兆しをみせていることから、1924年秋に開催予定の第三回国内無線会議では、一気に64MHzまでの周波数を各種業務へ分配することになっていました。

 

しかし商務省はこの会議を待たずに、暫定的(=会議の決議を得ずにという意味)にアマチュアへ短波を先行開放しました。

なぜそんなに急いだのかは分かりませんが、第三回国内無線会議に先立ってアマチュア達に短波の様子を探らせようとしたのか、あるいはアマチュアの短波違法発射に手を焼いていた商務省として、好き勝手な周波数で無秩序に違法電波を出されるぐらいなら、アマチュアが使ってもよい周波数範囲を決めておいて「その範囲内で、おとなしくしてろ」とする方が得策だと判断したのかも知れませんね。

ただし短波の使用には、割当てられた周波数を遵守できるだけの道具や能力が不可欠だと商務省は考えていましたので、短波の標準電波を発射・提供できるめどが立っていたからこその"先行開放"だったと想像します。もうこの頃には、ラジオ放送が娯楽として普及し、また長波帯で単側波帯SSB方式の無線電話による大西洋横断試験が行われたり、無線写真伝送の大西洋横断試験の準備も始まっていて、無線通信は完全に発展期に移っていました。黎明期の火花送信のように、闇雲に電波を発射しながら、届いた届かないといった実験が許される時代ではありませんでした。

 

さてアマチュアにとって朗報だったのは、追加された短波バンドはサイレント・タイム(毎晩20:00-22:30と日曜日午前中)の適用外とされたことです。短波なら中波ラジオ受信機への混信の恐れはないだろうとの商務省の判断ですが、アマチュアにとっては「夜8時を過ぎてもアマチュア無線が楽しめるのなら短い波長を試してみるか・・・」と、短波への呼び水となりました。この他の改正ポイントとしてはアマチュアの火花送信が全面的に禁止になりました。

 

週刊Radio Digestの7月26日号の第一面で"HEARS ENGLAND ON LOOP" "FLEWELLING GETS POLDHU ON ONE TUBE"という見出しで、シカゴに住む無線研究家E.T. Flewelling氏がループアンテナと単球再生式受信機で英国マルコーニ社のポルドゥー2YT(94m, 3.2MHz)をキャッチしたことを報じました。

これまで米国アマチュアは、この種の記事を悔しい思いで読んでいたかもしれませんが、もう大丈夫です。これからは正々堂々と米国アマチュアは短波運用の免許が得られます。

しかし包括免許ではなく、別途使いたい短波バンドを追加申請して商務省の許可を得る必要があったため、実際にアメリカのアマチュアが短波を使い始めるまでには少々時間を要しました。

● 開放後、初の80m DX QSOかと思ったら・・・ 

めでたく米国でアマチュアに短波が開放され、1924年(大正13年)9月21日には米国カリフォルニア(6BCP, 6CGW)がニュージーランドのFrank Bell氏(4AA)との間で太平洋横断交信に成功しました。・・・と思ったのですが、QST誌(左図)をよく調べてみるとこれは短波と呼ぶには微妙な波長でした。ニュージーランドの4AAは130m(2.3MHz)ですが、アメリカ側の6BCPは157m(1.9MHz)、6CGWは150m(2.0MHz)を使ったらしく、これは新しく開放された80m Band ではなく、古い200m Band の上端でした。

『This work was not done on short waves. Bell, 4AA, is reported to have been on 130 meter. 6BCP used 157, and 6CGW was on 150. 』 ("Communication with New Zealand", QST, 1924.11, ARRL, p15)

88) WWVと6XBM が短波標準電波を発射開始(1924年10月21日) [アマチュア無線家編]

WWVを運用していた米標準局Bureau of Standardsは西海岸サンノゼ近郊にあるスタンフォード大学(Palo Alto, Calif.)の協力を取り付け、ここからWWVと同じ標準電波を短波を含めて発射すると発表しました。前述したとおり1924年1月に告示があった実験局6XBMです。これまでの事前試験で東部のWWVと、西海岸の6XBMがそれぞれの不感地帯を補い合うことが確認できたため本運用に移行するというものです。

1924年(大正13年)9月5日より6XBMも加わって、300-666kHzの8波を発射し、9月22日に550-1500kHzの8波、10月8日に1350-2000kHzの8波を出した後、10月21日に初の短波標準電波(1.9MHz-3.2MHzの8波)を発射すると9月/10月分のスケジュールを明らかにしました(下表)。

なお下表では東部のWWWと西海岸の6XBMは、同時刻に同電波を発射しように見えますが、実際にはWWVは「東部時間」の午後11時開始で、6XBMは「西部時間」の午後11時開始だったのでは、同じ瞬間に発射されたのではありません。

 

10月になると、12月までの発射スケジュールが公開されました(下表)。11月5日に3.0MHz, 3.4MHz, 3.8MHz, 4.2MHz, 4.6MHz, 5.0MHz, 5.5MHz, 6.0MHzの標準電波を出した後、11月20日には、低い125kHzからに戻りました。

こうしてWWVと6XBMは125kHzから6.0MHzまでの64波を8波づつ、事前に告知した月2回のペースで発射されました。最高発射周波数は6MHzまでですが、それ以上の周波数での波長計の校正は、各波の高調波を使って行われました。

商務省としては第三回国内無線会議の前に、短波の標準電波を発射する準備が整っていることを公にしたかったのかもしれませんね。またスタンフォード大学からの標準電波は実験局形式のコールサイン6XBMのままで運用が続けられました。商務省としてはまだ短波がどのように発展していくか未知数であることから、当面は6XBMのままでいくことにしたようです。【参考】 6XBMは1926年に停波

以上のように米国では新しい電波長の使用は、新しい標準電波の発射とワンセットだという考えに基づきましたので、米国の短波開放は、短波標準電波WWV/6XBMの開始を条件に認められたといっても良いでしょう。

89) 第三回国内無線会議で全短波を分配 本格利用開始 [アマチュア無線家編]

1924年(大正13)10月6-10日開催の第三回国内無線会議(米国)では、新しいアマチュアバンドを1.5-2.0MHz, 3.5-4.0MHz(軍と共用), 7.0-8.0MHz(軍と共用), 14.0-16.0MHz, 56-64MHzに拡張することを決め、1925年(大正14年)1月5日より施行されました。

【注】 短波のフォーンバンドとしては1925年12月7日より3.5-3.6MHzの100kHz帯域に限り認められました。

80mと40mは2倍の[3.75-4.0MHz]→[3.5-4.0MHz]、[6.98-7.5]→[7.0-8.0MHz]になり、20mも[13.64-15.0MHz](1.36MHz帯域)→[14.0-16.0MHz](2MHz帯域)と1.5倍になりました。5mだけは60-75MHz→56-64MHzと47%減でしたが、これは世界中で注目されている「ビーム通信」用の周波数帯(Beam Transmission Band: 18-56MHz と64MHz以上すべて)を将来に備え確保したためです。アマチュア暫定バンド(1923年7月24日施行)の権益は、正規バンド(1924年1月5日施行)へ無事に(いやそれ以上に増えて)引き継がれました。

 

またスペシャルアマチュア(Zコール)の1350-1500kHz帯が消滅しました。1912年の無線通信取締法の施行以来、特別に認められてきた200mを超える波長(1500kHz未満の周波数)を使用できるスペシャルアマチュアの特権は急増する中波ラジオ放送局に奪われてしまったのです(しかしラジオ放送を最終目的としていたスペシャルアマチュアの正規ラジオ放送局への転向がかなり進行していましたので、もはや1350-1500kHzバンド廃止の影響は少なかったのかもしれません)。

この会議で上表のとおり64MHzまでの(正確には64MHz以上も)周波数が分配されました。Public Serviceとは公衆電報通信(遠距離固定局や海岸局、船舶局)、Mobileとは無線車両などの陸上移動局です。1924年秋、これまで実験局ベースで進められていた商用局の短波利用の完全解禁が決まりました。

90) アマチュアによる短波小電力遠距離通信の発見 (1924年秋~) [アマチュア無線家編]

米国では大西洋を横断する短波中継放送が実用化されており、短波が遠くまで届くことは既に多くの人々に認知されていました。1923年(大正12年)11月27日のアマチュアの短波3MHzによる大西洋横断通信も一時話題を呼びましたが、「たまたま何かの異常伝播でアマチュア達の小電力でも届いたのだろう」との解釈も少なくありませんでした。しかし1924年(大正13年)5月にアルゼンチンとニュージーランド間でもアマチュア交信が成立(2.5MHz)したため、学界筋の大先生や電波関係者が首をかしげていました。

大体この1924年の前半期がアマチュアの2.0-2.5MHzあたりでの活躍で、同年後半期より現代の私たちがいうところの「短波」である3MHz帯へ進出がはじまります。

 

1924年7月24日に4つの短波バンドが開放されました。9-10月頃より一番低い短波バンドである80m(3.75-4.00MHz)からボチボチと使いだしたところ、次々と遠距離交信に成功するものが現れて、QST誌へそれが投稿されました。

1924年(大正13年)10月18日、ニュージーランドのFrank Bell氏4AAと、英国ロンドンのCecil Goyder氏2SZが、波長95m(3.16MHz)で交信に成功し、アマチュア通信としては11,900マイル(約19,200km)の大記録を打ち立てたと、QST誌12月号が速報"Antipodes Linked by Amateur Radio"しました。これは正真正銘の短波通信です。半年前の1924年(大正13年)4月3日に、マルコーニ社のポルドゥー2YT(英国)の波長92m(3.26MHz)波がオーストラリアのシドニーで受信されて電波関係者の注目を集めましたが、アマチュアの低電力かつ簡易なアンテナでもニュージーランドと英国間の2Way QSOできたのです。これは驚嘆に値する快挙でした。

 

左図はQST誌(1925年1月号)で組まれた4ページにもわたるDX記録の特集 "Super DX" です。アマチュアによる短波通信成功の知らせが続々報告されてきたのでアマチュア界は大騒ぎです。まだ短波への進出を迷っていた多くのアマチュア達も、競って無線機を短波へ改造するようになりました。

続くQST誌2月号でも "The Month's International DX" という3ページ半の記事があり、1924年11月13日にイギリスの2ODがオーストラリアの3BQとQSOして新記録となったことを伝えました。ついに世界レベルでアマチュア短波通信が幕開けたのです!

 

アマチュアを軽く見ていた電波関係者達も、このQST誌1月号の特集記事で短波の威力(小電力遠距離通信)に目を見張ったことでしょう。1924年(大正13年)秋からアマチュアによる遠距離通信が相次いで報告され、学界筋の大先生たちも特異現象だろうの一言では片付けられなくなりました。もはや「短波は低電力で遠距離通信可能」というのは動かぬ事実となったのです。

この1924年秋以降になされたアマチュアのDX通信の数々をまとめて「短波が小電力でも遠距離通信できることの発見(または証明)」と呼ばれています。大電力を使うのが前提の商用短波局だと、この短波の特性に気付くまでにはもっともっと時間を要したかもしれません。

【参考】アマチュアが発見したのは「短波の遠距離到達性」ではなく、それが「小電力であっても可能」だという点です。

●日本の安藤氏JFWAの高調波が英国で受信された?

1924年秋から1925年(大正14年)初旬は3MHz帯のコンディションがとても良くて、英国のアマチュア界でも2ODが濠洲と交信成功させて大騒ぎになっていました。下図は英国の無線雑誌Experimental Wireless & The Wireless Engineer(1925年4月号)にあるDX特集"Long-Distance Work"で、アマチュア無線家Hugh N. Ryan氏5BVの記事です。1-2月の記録と、2-3月の記録について、英国の各地域別に紹介しています(p441からp443の計3ページ)。

その1-2月のところに、『私が最も興味深いのは北部地区のバークデールに住む2AUIが日本の安藤博氏JFWAを受信確認したことです。』という記述が見られます。

日本のアマチュア無線家として時おりQSTに名前があがっていた安藤氏は英国アマチュア界でも良く知られていたようで、その彼を英国で受信できたことを喜んでいます。

『In the North I think the most interesting report is that of the confirmed reception of Japanese JFWA, Tokio, by 2AUI of Birkdale. We have been reading about this Japanese station, owned by Mr. Hiroshi Ando, in American papers for a long time, and are very glad that he has been heard over here. 』 (Hugh N. Ryan(5BV), "Long-Distance Work", Experimental Wireless & The Wireless Engineer, Watergate, p442)

もしこれが事実なら、安藤氏が好んで使っていた波長300m(1MHz)の3倍高調波(3MHz)の電信が英国で受信されたのではないでしょうか。

 91) カナダも短波にアマチュアバンドを創設 (1925年4月1日) [アマチュア無線家編]

1925年(大正14年)4月1日、カナダは米国のアマチュアバンド(1.5-2.0MHz[フォーンバンド:1.67-1.76MHz], 3.5-4.0MHz, 7.0-8.0MHz, 14.0-16.0MHz, 56-64MHz)をそっくりそもまま自国でも認め施行しました。1924年(大正13年)7月24日に短波をアマチュアに開放したアメリカに遅れること僅か8カ月でした。

それまでカナダのアマチュアには電話:1.5MHz, 1.71MHz, 2.0MHz、火花電信:1.71MHz、持続電信:1.36-1.50MHz, 2.0-2.4MHzが許可されていました。特に150-125m(2.0-2.4MHz)がDX交信用として人気が高かったため、波長120m(2.5MHz)の一波だけは継続して使用が認められましたが、それはカナダ国内通信に限定されました。

 

Wireless World(1925年6月3日号)に掲載されたカナダのトロント在住のKeith Russell(ARRLのカナダのカントリーマネージャー)からの投稿記事を引用します。

『The new waves for Canadian amateurs. effective April 1st, are as follow :- 4.69 to 5.35(56-64MHz), 18.7 to 21.4(14-16MHz), 37.5 to 42.8(7-8MHz), 75.0 to 85.7(3.5-4MHz). 150 to 200(1.5-2MHz).

120 metres(2.5MHz) is also authorized for Canadian stations operating across Canada and for intercommunication work between Canadian stations only. It is not to be used for communication with stations in the United States. ICW and radiophone are restricted to the wave band between 170 metres(1.76MHz) and 180 metres(1.67MHz).

In particular, European amateurs wishing to hear Canadian stations should listen for them on 120 metres every Thursday morning, starting, at 5 a.m. G.M.T., as at that time weekly we hold what is known as "the Wednesday night prayer-meeting of Canadian amateurs," in which as many as possible across the country join. 』 (Keith Russell, "CANADIAN AMATEUR WAVELENGTHS", Wireless World, June 3, 1925, p560)

92) 国際アマチュア無線連合IARUの結成大会 (1925年4月14-18日) [アマチュア無線家編]

1925年(大正14年)4月14-18日、フランスのパリにおいて国際アマチュア無線連合(IARU: International Amateur Radio Union)が結成されました。16日から日本代表として陸軍の四王天延孝少将(当時)と、在仏大使館の宇佐美珍彦書記官のおふたりが参加しました。

戦前の日本では、軍用電信法および無線電信法により、陸軍大臣・海軍大臣・逓信大臣がそれぞれ所管する無線局の許認可権を有していた関係で、無線関係の国際会議にはこの三省から政府委員を選出していました。ちょうどジュネーヴの国際連盟軍事委員会の日本陸軍代表として四王天少将がパリに駐在勤務していたため、急きょ三省の代表として同少将が外務省の宇佐美書記官とともに出席されたようです。

 

この会議のことは雑誌『無線と実験』や一般新聞でも報じられましたが、中でも『無線タイムス』紙の報道記事が最もまとまりが良いのでこれを引用します。 

『仏蘭西(フランス)のラヂオファンの各団体が連合主催となって、四月十四日から十八日の五日間巴里(パリ)で、無線電話アマチュア世界大会が開催された。

世界大会の目的

この大会に参加した国は廿一ヶ国であった。開催した目的は、代表者を参加せしめた二十一ヶ国のアマチュアで世界ユニオンを組織して共同目的に対して相互に協力する制度と機関を作ろうというのである。開会と共に会は法制部とアマチュア部の二つに分かれた。日本側の出席者は中、(宇佐美)大使館員らは法制部の委員になり、アマチュア部には国際連盟の陸軍委員である国際連盟の陸軍委員である四王天延孝氏が列席した。

設立の諸問題

国際連盟を組織する時に必ず遭遇しなければならない問題と、同様に、ラヂオ大会においても各代表の間に論争となったのはアマチュアの定義についてであった。激しい議論の結果、国際連盟(IARU)のアマチュアの定義は米国側の勝利となってアメリカンラヂオ、リレーリーグの規則を踏襲することとなった。この規定によると、会員は送受信のあらゆる試みにおいて短波長による受信と送信とをやっている者、但し興行用(商業用・営業用)無線電話を除くということに決したのである。

連盟組織の主意

アマチュアの連盟を組織した主意目的は、ラヂオ技術の進歩、送受信の発達と統一にあるは勿論である。さらに国際的諸会議におけるラヂオアマチュアの利益を代表するのみならず、必要と認めらるる方針に向かって活動することは当然である。

大会の決議案

大会に提出された議題として論議された主なる問題は、

一、インタアナチョナル、アマチュア、ユニオンの成立

二、アマチュア放送波長協定

三、補助国際語としてエスペラントを採用する議案であった。

該議題に対する各国代表者の議論の結果は以下の如くに決定するに至った。

ラヂオと国際語

委員会に付議されたラヂオ国際語の問題は予期されたように各国代表者の大論争を惹起するに至った。英語、イド、エスぺランド、インテリンダァと会派に別れて可否の議論が上下された。日本側の委員大使館宇佐美書記官は、エスぺランド語を採用することを主張した。採決の結果エスぺランド語を採用することに確定するに至ったのである。

採用する送信波長

法制部とアマチュア部との合同本会議で、アマチュアの送信波長を議題に供された。これについては各国委員は帰国後、単にサヂェスチョンとしてこれを政府へ報告するに過ぎないという了解を前提に、採用することになった波長は・・・(略)・・・』 (各国代表持寄議案でラヂオ世界大会―日本側四王天少将出席―, 『無線タイムス』, 1925.6.5, p6)

 

●IARU推奨のアマチュアバンド

この会議、自分達で勝手に世界を4つの地域に分け、アマチュアバンドを取り決めました。もっとも実際にこれが実行されるかは各国の電波主管庁の判断ですから、これはIARUからの「提案」に過ぎません。

送受信の周波数を合致させる現在の交信スタイルとは違いますので、周波数が異なっても相互交信はできます(CQを出したら、受信機のダイアルを下から上まで廻して自分を呼んでくれる局を探す方式)。

これは単純にお互いの送信波が重ならないように、地域ごとに分けておこうというものです。2.5-4.0MHzあたりを通常波(Usual Band)とし、まだ未開拓の特別短波長(Extra short band)を7-8MHzに定めました。それにしても欧州・英連邦はまだ2MHz帯へのこだわりがあるようですね。

米国やカナダのアマチュアは1.5MHz, 3.5MHz, 7MHz, 14MHz, 56MHz, (400MHz Bandは1925年3月17日に米国のみで追加)が政府より与えられているのに、IARUの会議の決議には3.5MHz帯と7MHz帯しかありません。まだ高い周波数の使用が一般化していないため、協議対象の外だったのでしょうか。

93) 80mから 40, 20, (6m) へ移動する(1925年春) [世界のハム編]

岩槻J1AAが波長79mで米国6BBQと交信に成功したのが1925年(大正14年)4月6日ですから、J1AAの波長79mのデビューはけして遅いものではありません。世界のアマチュアに遅れる事およそ半年での参戦です。ちょうど80m Band 最盛期の最終列車に飛び乗ったというタイミングでした。

1925年(大正14年)4月より世界のアマチュアは波長80mから波長40mへと移り出したため、岩槻J1AAもアマチュア達と行動を共にしました。同年5月になると波長20mにチャレンジする局も増えて、5月3日には英国のE. J. Simmomds氏2ODとオーストラリアのChas D. Maclurcan氏2CMが20mで昼間通信に成功しました(昼間波の受信だけなら1924年12月に20mでコネチカットからカリフォルニアの記録があります)。

しかし夏が終わると、アマチュア界では再び低い周波数へ戻るムーブメントが起きて、官練無線実験室J1PPはこれに合わせて周波数を下げる改造を施した件は「J1PP J8AA」のページでご紹介した通りです。米国アマチュアが短波を使い出したのが1924年(大正13年)秋頃からですから、ここにきて、ようやく1年間オールシーズンを通した短波伝播を経験したわけです。

 

この1925~26年(大正14~15年)に世界のアマチュアと行動を共にされたJ1AAの河原猛夫技手が『科学知識』(大正15年7月号)にその様子を語られていますので引用します。原稿は大正15年の4月頃に書かれたものではないでしょうか。

『アマチュア間の短波長実験は最初は比較的長い波長から使用せられ、昨年(大正14年)の五、六月頃にはもっぱら八〇米帯が全盛であったけれど、夏季に近づくに従い漸次空電妨害多くなり、かつ八〇米帯の通達距離が減縮されて来たので、八月以降はボツボツ四〇米帯が試みられ、かつこの波長帯は八〇米帯に比して遥かに遠距離通信に適することが実証されたから、その後はもっぱら四〇米帯が用いられる様になった。二〇米帯も四〇米帯と並行して研究され、昼間の遠距離通信に適するとの理由から一時はアマチュア間に大分騒がれたけれども、送受信機の調整が困難なのと、かつその通達距離も未だ判然としておらぬ等の為に今では余り多くは使用されていない。四〇米帯は夜間の遠距離通信に適するので、その使用者は益々増加し、現今では混信妨害に悩まされるような状態ともなったのと、一方八〇米帯に於いて米国のアマチュアが無線電話の送話を許可された等の理由から、今後の実験は再び初めの八〇米帯に逆戻りするのではないかと言われている。』 (河原猛夫, 短波長受信機の組立, 『科学知識』, 1926.7, 科学知識普及会, pp74-75)

94) アマチュア局が討議されたが合意に至らず (1927年) [アマチュア無線家編]

1927年(昭和2年)10月4日から11月25日まで、米国ワシントンに世界の代表が集まり、第三回国際無線電信会議が開催されました。 これまでの第一回(1906年, ベルリン会議)、第二回(1912年, ロンドン会議)は無線電報の取扱い規則と料金を取り決める会議でした。しかし無線技術の進歩で新たな無線局種も誕生しており、この第三回目が本当の意味での無線全般に関する最初の世界会議でした。

 

しかしアマチュア局を世界レベルで法制化しようとしましたが、ことアマチュアに対して、各電波主管庁の考え方に大きな隔たりがあり一筋縄ではいきませんでした。国際無線電信条約 附属一般規則(General Regulations Annexed to The International Radiotelegraph Convention of Washington,1927.)の第一条:定義(ARTICLE1: Definitions)で新たな無線局種をいくつか定義しましたが、結局アマチュア局(Amateur Station)は見送られました。従ってアマチュア局に関する詳細規則の制定は断念されましました。

 

その代わりに Private Experimental Station(私設実験局)の定義のパラグラフ(2)として、アマチュアが書き加えられたのです。国際的な定義ではアマチュアは「私設実験局:Private Experimental Station」の一部ということになり、たとえばマルコーニ社の巨大短波パラボラ局のポルドゥー2YTや、ウェスティングハウス社の短波実験局8XS、日本なら東京電気の短波実験局JKZBといった私設実験局(Private Experimental Station)の傘下にアマチュア局が組み込まれた形です。

【参考】この会議で私設実験局は「国籍+数字+文字」という呼出符号に決まりました(1929年1月1日施行)

 

アマチュア局の定義や詳細規則の制定は見送られましたが、他の業務局との混信妨害を避けるために、アマチュアが使ってもよい周波数だけは、はっきり決めておくことになりました。

この第三回国際無線電信会議の主催ホスト国であるアメリカは401MHzまでの周波数分配案(但し64-400MHz, 401MHz以上を保留)示しました。その中には下表の非公衆通信(電報)用バンドが含まれていました(アマチュアへの割当は内政問題としてこの範囲の中から各国が決定)。なおアマチュア無線の原点というか、故郷とでもいうべき波長200m(1500kHz)を非公衆通信用に含めることが出来なかったのには、米国政府の国際的な駆け引き(作戦)があり、後述します。

また世界最大のアマチュア大国でもあるアメリカ政府は、アマチュア団体ARRLを会議に招へいし意見を述べさせるなど、アマチュアの周波数確保にはとても協力的でした。下表はARRLおよび国際アマチュア無線連合IARUの共同案として提出された非公衆通信用バンドです。1.775-1.975MHzの完全高調波関係にあり、この中から各国主管庁の判断で任意のアマチュア用周波数を選べばどうかとの提案でした。

 

また英国政府は、下表の6つの周波数(帯域は明文化されていませんが各100kHz幅程度の提案といわれています)をアマチュア用に提案しました。2.75MHzを起点に44MHzまで高調波関係にあります。一見すると3.66MHzが独立しているように見えますが、3.66MHzの3倍が11MHzにあたります。各100kHz幅とすると2.7/3.6/5.5/11/22/44MHzの7バンドでわずか600kHz帯域でしかありません。利害が絡む周波数分配のような現実問題では、米国以外の電波主管庁はアマチュアに寛大ではありませんでした。

 

最終的には米国商務省が既に実施しているアマチュバンドとほぼ同じ、IARU/ARRL案を基調として利害調整が進められました。その結果、7MHzバンドは狭くなりましたがアマチュア専用帯として確保され、また14MHzバンドが大きく削られた代わりに、28MHzバンドの2MHz幅が新設されました。

【注】 米国以外では必ずしもこれらの周波数をすべてアマチュアに渡したわけではなく、例えば英国郵政庁が会議直後に整備した国内法では、1,740-1,970kHz、7.050-7.250MHz、14.060-14.340MHzの3バンドのみで、特別な事情が認められた場合のみ、28.100-29.900MHz、56.150-59.850MHzの許可を与えるとしました(3.5MHz帯なし)。

 

●アマチュア周波数帯域の収支計算

 

結果的に世界のアマチュアには下表[右]のように7.485MHz帯域もの広い周波数が承認されました。世界的見地からいえばアマチュアの大勝利なのですが、唯一米国のアマチュアには不満が残りました。米国アマチュアには元々13MHz帯域あったからです(400-401MHzは1925年(大正14年)3月17日に米国商務省が追加したバンドで、米国ではそのまま存続)。それが13MHz帯域→8.485MHz帯域(含む400-401MHz)で、35% も失ったと捉えたのです。たとえ短波(3.5, 7, 14, 28)バンドに限定して計算しても、3.5MHz帯域→3.2MHz帯域で、9%も削られたじゃないかという見解でした。

【参考】 Web上では「アマチュアには200m以下(1.5MHz以上)の全てが与えられていたのに・・・皆に奪われた。」とする被害者的な記述もみられます。しかし個別の波長を申請して商務省の許可をもらう方式でしたので、「かつて1.5MHz以上の周波数がアマチュアに与えられていた」というのは言い過ぎ(誤解)です。

95) CCIRで討議するも合意できず、地域協定に (1929年) [アマチュア無線家編]

世界レベルでのアマチュア規則の制定に関する問題は未決着のまま、ワシントン会議での条約および規則の発効日(1929年1月1日)を通り過ぎてしまいました。

1929年(昭和4年)9月18日-10月2日にオランダのハーグ(Hague)で開かれた第一回国際無線通信諮問委員会CCIRの第11号議案「素人局の許可名義人に課すべき技術的条件の可及的統一」として定義統一分科会において協議されました。議長はフランスのフェリエ大将、副議長はロシアのヒルシェフエルド博士です。逓信省からは工務局の中上豊吉氏と電務局の竹林嘉一郎氏が政府委員として出席しました。

アマチュア無線は国際的に規定する必要なしと主張する英国と、統一を必要とするフランスなどの欧州諸国、そして国際統一など事実上不可能だとするアメリカの意見がありました。

 

その討議の様子を逓信省電務局編『第一回国際無線通信諮問委員会復命書』(現代でいう出張報告書)から引用します(下図)。

『第八節 議題第十一

素人無線局の許可条件を国際的に一致せしめんとする問題は各国共おのおの国情を異にするものありを華府条約会議(1927年ワシントン会議)の際と同様容易に意見の一致を見るに至らず、審議の結果遂に世界各国に適用し得る設けることは実際上不可能にして特別の地方的協定または国内規定によるべきものとの結論に到達せり。

まず九月二十日午後第三回定義統一分科会に於いて本議案の審議に入らんとし、議長はまず特別委員会にて原案起草のことを諮りたるが、米国は声明をなし地方的には協定の必要を認め得るも、各国の事情異なるをもってこれ国際現行華府(ワシントン)規則以上には国際的規定を設ける必要なしと主張し、加、「ソ」連邦および西(スペイン)これに和し、また英国は地方的協定さえも必要なしとの異向を述べたり。これに反し仏国は欧州には必要なることを述べ、その他の欧州大陸諸国、独、蘭、「チェッコ」等も大体仏国と同意見を述べ、双方意見の一致を見ず、やむを得ず規定を必要と認むる国の委員のみにて起案することとなる於之、独、白、「ベルギー、コンゴー」、仏、伊、日、「モロッコ」、諾(ノルウェイ)、蘭、波(ポーランド)、羅(ルーマニア)、「チェッコ」、「チュニス」の各国にて特別委員会を作り審議するところあり、九月二十四日午後の会合にて一の成案(後掲特別協定と大体同一のもの)を得たり。

次いで同日午後第五回定義統一分科会において右特別委員会の議長は同会にて作業したる草案を提出し説明をなしたるが、米国は本案は行政的事項をも含み時刻現行規則に反するものにして自国には適用し難し。もし各国に対し単なる参考の性質を有するものならば之を認め得るもCCIRよりの勧告とすることには反対なりと述べたり。

加奈陀、「ソ」連邦、「ボリビア」、愛蘭(アイルランド)、墨西哥(メキシコ)、「コスタリカ」は直ちに米国意見に賛成し、又英国は本問題は国内的に規定すべきものなり、かつ原案は技術会議の権限を越えるものさえありと指摘し米国の意見に賛成す。次いで支那、「コロンビア」もこれに賛成せり。これに対し国際協定とすることに賛成すものなく、分科会に於いては此案は否決となりCCIRの決議となさず単に欧州大陸諸国ならびにその植民地等の二十三主管庁間の特別協定に止むることとなる。即ちの決議としては米国の趣旨を採用せしこととなれり。 』

結局世界統一は断念され、共通ルールが必要だとする欧州大陸およびその植民地からなる23電波主管庁だけで、会議後半の1929年9月27日に「アマチュア局の許可規定に関する国際特別協定」(Arrangement international particulier concernant la réglementation des licences damateurs)を結び、それをベルン総理局へ送付しました。

そして米国が、CCIRとしてアマチュア局に関する勧告を行うことに反対すると表明し、この意見が通り、CCIRの声明は中身のないものになってしまいました。

『 CCIRは世界各国全部に適用し得べき素人局の許可に関する規則を設けることは現実不可能なること及び本問題は地方的協定もしくは一国の決定となすべきことを認めたり 』 (逓信省編, 『第一回国際無線電気通信技術諮問委員会発表意見及研究問題』, 1934, 電波統制協議会, p28)

【参考】 これまで「短波長」という言葉が指す周波数帯は曖昧でしたが、この会議において「短波とは6-30MHz」としました(長波:-100kHz、中波:100-1500kHz、中短波:1.5-6MHz、短波6-30MHz、超短波:30MHz-)。この定義は第二次世界大戦後(1947年)のアトランティックシティ会議で「短波:3-30MHz」に改訂されるまでの続きました。

96) マドリッド会議でついにアマチュア局が国際承認される (1932年) [アマチュア無線家編]

1932年(昭和7年)のマドリッド第四回国際無線電信会議の規則第三委員会において、アマチュア問題が討議されました。

その討議の様子を逓信省編『馬徳里萬国電信会議及国際無線電信会議復命書』から引用します(下図)。

『 第七節 素人局および実験局(第八條)

本條は規則第三章委員会にて審議せられたるが、表題を「素人局」のみとし実験局は別の條項により規定すべしとの提案ありしも、審議に当たっては華府(1927年ワシントン)規則を基礎とせるをもって結局素人局および実験局を含むこととなり表題および内容においてこの両者を明記することとなりたり。

素人局に関しては米国は関係主管庁が承認すれば一般通信をも取扱い得るべしとする提案(提案六七一Rおよび六七三R)をなし、これが採択せられんことを力説せるも「ホンヂュラス」国を除き総員の反対ありたるため否決せられたり(文書一八〇R参照)。しかして本條は華府(ワシントン)規則を新定義に適合するよう字句の修正に止むることとなれり。しかるに総会(文書六六〇R参照)に於いて和蘭(オランダ)委員は本問題に関し素人連合(IARU)がその使用する用紙中に素人局の所有者は一般公衆の国際無料通信を取扱い得る旨記載しある例を挙げ、この例は規則違反なる点を指摘し参加国にして斯くの如き方法を許可する国ありとすればこれを公示すべしと要求し、なお右は規則の精神に反するをもって第六條中に明瞭にこれを禁止する項の挿入を要すと述べ、これに対し国際素人連盟(IARU)は各主管庁ことに欧州各主管庁は第三者の通信を取扱うことを禁止し居るもこれは現行の如く各国内規則にて制限すれば可なり。もしある数主管庁が第三者の重要ならざる通信の取扱いを許すならば素人局はこの権利を当然享有す。もし主管庁が許さざるならば許可証にその旨記入すれば可ならずや答え、伊国(イタリア)委員は一主管庁内にて素人局が第三者の通信を取扱い得るや否やを定むるは各国の自由なるも国際的にこれを取扱うは規則の精神に反するをもって第六條第二項の末尾に「素人局の名義人は第三者より託信する通信を送信することを禁ず」と追加すべしと提案し、米国は小委員会の再審議に移すべしと提議せるも成立せずに一旦伊(イタリア)案により修正することを可決せるが米国は更に次の総会(文書六九九R参照)に於いて本項に関し前段中「関係国が相互間に別段の協定を為さざる限り」を削除し、伊国修正案の末尾に「上記規定は関係主管庁間の特別協定により変更することを得」と追加する新提案をなし可決せらる。

右のほか規則第三委員会(文書一八〇R参照)に於いて華府(ワシントン)規則第五條第一八項(二)(三)および(四)は主として素人局に関する規定をもってその字句を第六條中に移すことを決定せられ、そのまま総会を通過す。

素人局に関しては欧州各国は電力制限および従事者の資格に関し第六條中に規定するを要すと主張するもの多かりしも、この問題は各主管庁の採択に委し必要あらば地方的協定により処理すれば可なりとし本條中には規定せざることとなれり。(文書一八〇参照) 』 (逓信省編, 『馬徳里萬国電信会議及国際無線電信会議復命書』, 1933, pp280-282)

 

この頃になると、各国の電波主管庁のアマチュア局への理解も深まり、問題はアマチュアが第三者の公衆通信を扱っても良いかの一点に集中し審議されました。またアマチュア局の送信電力や従事者資格に関する国際合意を断念することで、私設実験局(Private Experimental Station)から、アマチュア局(Amateur Station)が独立定義されました。

『第三節 定義(第一條)

現行一般規則第一條において・・・(略)・・・

一〇、素人局 現行一般規則第一條中「私設実験局」の一種類として掲げられたるを改めて、全然私設実験局と異なる範疇に属するものとしたるも、その定義は変ぜず。

一一、私設実験局 現行規則第一條中、素人局と併せて私設実験局の一種となせる私設局のみを私設実験局とすることとしたるも、その定義は変ぜず。

一二、無線通信私設局(私設無線通信局) 他の同種の局との間に、単に免許者の専用通信を交換することを許可せられ公衆通信を取扱わざる私設局として新たにこれを掲ぐることとせり。』 (逓信省編, 『馬徳里萬国電信会議及国際無線電信会議復命書』, 1933, pp265-268)

 

なお呼出符号の数字は私設実験局は0と1の使用を禁じましたが、アマチュア局は除外することになりました。

『第十三節 呼出符号(第十四條)

呼出符号に関する規定については・・・(略)・・・放送局は必ずしも呼出符号を必要とせざるものと認むるに一致し、・・・(略)・・・

(ニ)私設実験局および私設無線通信局の場合

現行規則において私設実験局に対して認むる一文字または数文字(国籍を示す)、一数字、次に三文字以下の集合より成るものを、一文字または二文字、一数字(〇および一を除く)、次に三文字以下の集合により成るものとし英国案(R八九九)の数字の使用に関する制限を容れ、これを新たに私設無線通信局に対しても認むるととし、最初を三文字と為さんとする仏蘭西(フランス)案(R八九八)は採らざることとなれり。

(ホ)素人局の場合

議長案においてはこれを私設実験局等と同様に定めんとしたるも、素人局について現に〇を使用し、又は一を使用しつつある諸国の実情はこれが変更を容易とせざるに鑑み、この場合に限り〇および一を使用することとして私設実験局等と同様の構成によることを認る。』 (逓信省編, 『馬徳里萬国電信会議及国際無線電信会議復命書』, 1933, pp301-305)

この規則は1934年(昭和9年)1月1日に発効しました。こうして「アマチュア局」が国際的に認められた一人前の無線局種の仲間入りを果たしましたが、1924年(大正13年)に長年使ってきた古巣の中波から短波へ進出し、短波の小電力遠距離通信を発見して以来、10年間もの年月を要しただけに、アマチュアの地位向上に尽力された関係者には喜びもひとしおだった事でしょう。 

97) 短波開拓の手柄独り占め?? 日本アマチュア無線史(昭和34年) [アマチュア無線家編]

世界で一番最初に「飛ばないと考えられていた短波」を使って大西洋横断をもしのぐ超遠距離通信(約4130km)を実証してみせたのはマルコーニ氏で、それは1923年(大正12年)5-6月のことでした。

同年11月22日にはウェスティングハウス社の技術者コンラッド氏がラジオ放送局KDKAから系列局KFKXへの短波を使った番組配信を実用化させています。日本の浜松から中国の上海に相当する距離です。さらに1ヶ月後の12月29日にはKDKAは大西洋を超えて英国へ番組中継させました。モールス通信ならともかく、ノイズすれすれの品位ではラジオ番組になりません。KDKAが発射する短波のAM変調波がそれなりの電界強度で受かるまで、日々改良と試験を重ねてきた上での放送だろうと想像します。マルコーニ氏もコンラッド氏も波長100m付近を使いました。

 

1923年11月27日、米仏のアマチュアが同じく100m付近の特別免許を受けて大西洋横断通信に成功しましたが学界筋ではアマチュアのような貧弱な設備とパワーでも交信できた事への学術的な説明が付けられず、偶然なにかの異常伝播現象で届いたのだろうと考えられました。

しかし1924年(大正13年)7月24日、米国で短波がアマチュアに解禁されると、同年秋から次々と超遠距離通信の成功がQST誌で発表され、1925年(大正14年)にはもう当たり前のように小電力DX通信が行なわれて、これは異常現象ではなかったことがついに実証されたのです。短波にはそういう威力が秘められていました。

「短波が遠距離に届くこと」・・・それは既にマルコーニ氏やコンラッド氏らが実証し、実用化していましたが、まさかそれが「小電力でも可能」とは誰も思いもしなかった大発見でした。

ではアマチュアが短波のQRP遠距離通信を発見したからといって、実用局の世界でQRPがはやったのでしょうか?そんなことはありませんでした。確実な通信こそが使命の実用局が、短波でも可能な限りハイパワーで安定通信を目指すのは当然のことです。となると短波のQRP-DX通信を発見したアマチュアの功績とは何だったのでしょう?

 

その前に少し寄り道させてください。1972年(昭和47年)1月より、JARLニュースに1959年(昭和34年)に書かれた「日本アマチュア無線史」が転載されることになりました。「日本アマチュア無線史」は、1959年(昭和34年)にJARLが社団法人として認可されたことを記念して、『電波時報』(郵政省電波監理局編)に1959年11月号から1963年4月号まで連載されたものです。

まず連載第一回(1959年11月号)の記事冒頭で梶井会長は次のように述べておられます。

『・・・(略)・・・アマチュア無線は、現在では電波法によって保護育成されているが、いつごろから日本で発生し、育成されたかについては、いままで一貫した記録がなかったところ、今回編集の機を与えられることになった。大方の御愛顧を切にお願いする次第である。』

 

後世のために、そろそろ日本のアマチュア無線の歴史をまとめておこうという企画で、JA1AN原氏がJARL創設メンバーを集め、座談会形式で昔を語ってもらい、それをもとに朝日新聞社の記者小林氏が物語り調に仕上げられたものです。さすがはプロで、読者の心をぐいぐい引き付ける素晴らしい作品となっています。

 

そしておよそ12年間が経過した、1972年(昭和47年)1月。日本アマチュア無線連盟が、上記『電波時報』(1959-1963年)に連載されていた『日本無線史』を機関誌『JARL ニュース』へ転載するようになりました。当時は新聞形式の機関誌『JARL ニュース』が郵便で月3回、送られて来ましたが、偉人の伝記ものが大好きだった私はこの転載された「日本アマチュア無線史」を読み、OM諸先輩の活躍に胸を熱くしました。特に笠原氏3AAが落石無線JOCと偶然交信できてしまった話に感動し、何度も読み返しながら次号の連載記事を心待ちにしていた事を今でもはっきりと覚えています。

 

実際には『JARLニュース』の紙面の都合で所々割愛された "圧縮版としての転載" でしたので、正確に引用を手繰りたい方は、国立国会図書館等で『電波時報』の方をご確認ください(なお『電波時報』の原文の方は、一部ですが200m & downのページで引用しています)。『電波時報』(昭和34年)の『日本アマチュア無線史』をご覧になったアマチュアは限定的でしょうし、ここではより多くアマチュア無線家に読まれ、そして語り継がれたであろう、昭和47年の『JARLニュース』転載版の方より引用します。なお小さい( )の文字は私の補足です。

『ハムの電波が大西洋を横断

1921年の12月、ARRLはひとつのテストをやった。(第二回)大西洋横断通信である。ARRLきってのベテラン、ポール・ゴドレー氏を欧州大陸へ派遣、アメリカからの電波を受信させたのである。結果は上々だった。その時、ゴドレー氏はアメリカ国内の30局の電波をキャッチした。200m以下の波長でも大西洋を渡れる。アマチュア無線家にとって、これは大変な発見だった。

1922年に同じテストをやってみたら、今度は315局の電波を受信することができた。そして、もっとすばらしいことは、アメリカ側で、フランス局が1局、イギリス局が2局(=1kWの特別免許)受信できた。受信だけではおもしろくない。なんとか交信してみたいと、アメリカでも欧州側でも考えた。これは当然のことだった。(米国には最大入力)1kWという電力制限があったのでは、これ以上強い電波を出せまい。受信機ももっと改良していかなければだめだ。もしかすると、波長を変えてみたらうまくいくのではないだろうか。道はひとつ。当時まったく無価値と捨てられていた(アマチュアさえも見捨てていた)短波をねらうしかない。まず130mのテストが行なわれた。1922年(大正11年)、ボストンとハートフォード間でのテストは見事に成功した(前述したボストンの実験局1XAらのテスト)。そして同じ年の11月7日(注:1923年11月27日の誤記)、110m波長で大西洋横断のQSOに成功した。大西洋横断テストとしては三度目(1921年2月から数えると四度目)である。アメリカ側は、(短波特別免許の)1MOシュネル氏と(短波実験局免許の)1XAMライナルツ氏の二人、欧州側はフランスの8ABデロイ氏であった。

 

世界中が短波に注目!

(1MO/1XAMと8ABの交信で) 短波のとびらは開かれた。たたいたのはアマチュアである。しかし、独占は許されなかった。開拓したばかりの短波に、世界が注目した。当時のアマチュア無線の分布は、アメリカ、イギリス、フランスのほかメキシコ、キューバ、ニュージーランド、オーストラリアなどの国に及んでいた。そして、各国のハムが短波の世界にとび込んでいった(しかし米国のアマチュアは1.5-2.0MHzがハムバンドなので短波に飛び込めませんでした)。1920年(大正9年)、中波の放送をはじめた世界で最初の放送局アメリカのピッツバーグのKDKA局が、(1923年3月4日より)100メートル波長で放送をはじめ、欧州のラジオ・ファンを感激させたのもそのころ(1923年12月29日より)である。

短波をねらったのはピッツバーグ放送局だけでない。 200メートル以下にはてんでハナにもひっかけなかった商業局が、アマチュアに浅瀬を教えられどしどし使い出した。100m付近も、アマチュアにとって住みよい世界ではなくなった。そして1924年7月、アメリカ政府が、アマチュア無線の波長を公認した。200~150m、80~75m、43~40m、22~20m、5~4mの5波長で、現在のアマチュア無線のあり方の基礎をきずいた。』 (小林幸雄, "日本アマチュア無線史[2]", 『JARLニュース』, 第573号, 1972.2.7, p2, [電波時報1959.11よりの転載])

 

日本のアマチュア無線界の古事記・日本書記といってもよい「日本アマチュア無線史」(昭和34年)を、大人になった今読み返してみると、「短波が遠距離まで届くことをアマチュアが発見するや、後から実用局が続々とやってきて、功労者であるアマチュアは短波の限られた場所に追いやられた」かの物語りで、マルコーニ氏を完全スルーし、コンラッド氏(KDKA)は後から狙って、やって来た人にしています。本サイトはマルコーニ、コンラッド、世界のハムの三者が短波の功労者であるとの解釈ですので、アマチュアの"手柄独り占め"話にはちょっと閉口させられますが、まあ趣味の世界だけでの話ですからよしとしますか・・・

98) 短波QRP-DX通信の発見でアマチュアが果たした功績とは [アマチュア無線家編]

では短波のQRP遠距離通信の発見でアマチュアが果たした功績とは一体何だったのでしょうか?この話題についてまとめながら、本ページを締めくくっていきます。

結論から先に申し上げますと、私はアマチュアが「短波は小電力でも遠距離通信できること」を発見(証明)した功績とは、やはり短波のブランド価値を "大きく" 向上させたことに尽きると考えます。そして短波を開拓したマルコーニ社でもなく、短波を実用化したウェスティングハウス社でもなく、アマチュアだったからこそ、それができたと信じます。

"短波ブランド" の価値を向上させたことが形として現れたのは、『商業局がアマチュアに浅瀬を教えられてどしどし使い出した』 (前傾書)に代表される「成功者に続く、二番煎じのブーム到来~」のような話ではなく、直近の国際無線電信会議においてラジオ放送用バンドが大きな混乱もなく中波の550-1500kHzに世界統一されたことであり、その結果ラジオ放送が各国で順調に発展し、人々の暮らしに大きな恩恵をもたらしたことではないかと思うのです。

● 周波数の国際分配は1.5MHzまで

1920年代の電波は波長200m(1,500kHz)までが実用に供されており、その一番てっぺん、1,500kHzを使っていたのがアマチュアです。第一次世界大戦で第三回国際無線電信会議の開催が見送られていましたが、1918年の終戦を受けて、1919年にパリで無線専門委員会(戦勝四大国)が開かれ、1920年のワシントン予備会議(日本を含む戦勝五大国)を経て、1921年のパリ準備技術委員会(日本を含む戦勝五大国)で波長200m(1,500kHz)までの業務別周波数分配表[案]が作成されました(使われていない1,500kHz以上をどうするかは各国の自由と決議)。 J1AAのページ参照。

すなわち1921年(大正10年)時点では1,500kHzまでが人類の電波の全てで、またその後もしばらくそうでした。

● 米国で異変が始まる

1920年11月にアメリカで初の商業ラジオ局KDKAが産声をあげました。まだ誰もこのことが周波数不足の始まりになるとは思ってもみませんでした。日本放送協会の日本放送史1951年版よりラジオ放送の発展について引用します。

『商務省の記録によると一九二一年七月頃から、翌二二年四月頃までの一年足らずの間に、新設された放送局数は実に二百八十六局の多きに及んでいる。これを年代別に見ると。二一年における六ヶ月間(7-12月)の五十八局に対して、翌二二年は四ヶ月間(1-4月)で二百二十八局というほとんど四倍に達する置局を見た事実は、放送の企業熱が時の経過とともにいかに盛んになってきたかを示すものである。・・・(略)・・・こんなふうに、放送局が各所に設けられると、当然混信の問題が起こって来た。たとえば同年(1922年)五月のことであるが、ニューヨーク市では WJZ、WBS、WAAM、WOR という四局が放送していた。しかも当時は事実上、同一波長によって放送したものである。仮に波長を変えたところで、送信機そのものが一定の周波数を維持できないので、全く混乱状態にあったといってよい。その上、商務省には、同一地域に在る放送局に対して、周波数を割当てる権限が与えられていなかったため、混乱は一層はなはだしかった。そこで同年の夏頃であったが、ニューヨークでは、各放送局が紳士協定をして、それぞれの放送時間表を相互に作成した。従って新たに出来た放送局も自然、その放送時間の制限を受けなければならなくなった。』 (『日本放送史/ 1951版』, 日本放送協会, pp19-20)

 

公衆通信(電報)を行なう海岸局と船舶局はその局数がどれだけあっても波長1800, 600, 300mを共用してきましたが、そういった電波長をシェアするという考え方がラジオ放送には適用できないことが明らかになり、電力別に放送局のクラスを決め、そのクラスごとにそれなりの周波数帯域を確保することになりました。それが前述した1923年(大正12年)3月に開かれたアメリカの第二回国内無線会議です。

1923年5月頃には全米で590局台に達する状況でしたから、ラジオ放送用に800kHz帯域(550-1350kHz)を捻出せざるを得なくなったのです。1,500kHzまでが電波の全てだった時代に、まだ3才になったばかりの幼児の「放送」に半分を取られてしまいました。

● 欧州の状況 

欧州のラジオはどうだったのでしょうか。

『ヨーロッパで最初に放送事業を始めたのはフランスである。アメリカのド・フォーレ氏がパリのエッフェル塔で無線電話を実験したのは一九〇八年で、アメリカのKDKA局が放送を開始した時から十二年前のことである。このようにフランスはヨーロッパにおける放送の実験的発達に相当貢献した国であった。そしてエッフェル塔から定期放送を開始したのが一九二一年で、実にヨーロッパにおける放送事業化のトップを切ったのである。フランスに次いで翌一九二二年にはイギリス、スイス、ソ連、一九二三年には、ドイツ、ベルギー、スエーデン、一九二四年にはスペイン、イタリア、チェコスロバキア、一九二五年、デンマーク、ハンガリー、ノルウェーなど、相次いで、放送事業を開始するに至った。ところで、ヨーロッパにおける斯業発展の実態をたどってみると、イギリスや、ドイツ、スエーデン、デンマークなどの各国では、目覚しい発達をしたが、フランス、イタリア、スペインなどの諸国ではその発達は遅々とした状態であった。』 (『日本放送史/ 1951年版』, 日本放送協会, pp26-27)

大体1923年頃までに先進国各国で放送が始まりましたが、その数は1ヶ国あたり、ほんの数局に過ぎませんでした。しかし欧州各国の国土はせいぜいアメリカのひとつの州ほどなの広さなので、欧州地域全体としてみれば、将来それなりの局数に発展して、混信防止上から米国のように800kHz帯域もの電波を捻出する事態も予期されました。

● もう短波に行くしかない・・・

今後の新しい用途での無線利用の増加に応えるためには短波を開拓するしかありませんでした。そういうひっ迫した状況から、1923年頃より先進国の研究機関や無線会社の研究所で短波に手が付けられるようになりました。1916年(大正5年)より短波開発を進めたマルコーニ社は別格の存在だとしても、1923年から1924年に掛けてのほぼ同時期に、各国それぞれ独立的に短波の研究が始まったのは、決して偶然ではないでしょう。

マルコーニ氏は1922年(大正11年)春に短波の有効性を説き、さらに1923年(大正12年)5-6月には短波92m(3.1MHz)の電離層反射でイギリスからカーボベルデまでの4130kmもの遠距離通信を成功させました。でもそんなことが有ろうが無かろうが、どの道、みんなで短波に向かうしかなかったのです。短波通信の勃興は必然だったと考えます。

● 放送浸透の格差と、国際周波数分配の合意取り付け問題

事態は益々悪化(?)し、米国では1924年(大正13年)秋の第三回国内無線会議で放送バンドを550-1500kHzに拡大しました。0-1,500kHzの実用電波スペクトラムの実に2/3を「放送」に当て、同時に短波利用を促進させるために一気に64MHzまでを分配しました。いやそうしないと、もう収まりが付かないでしょう。

米国としては次回の国際無線電信会議では、すでに自分が実施している550-1500kHz帯の放送への分配を各国にも賛同してもらわなければなりません。これは絶対に成功させなければならないミッションなので、各国に次回の会議(ワシントン)では短波の周波数分配も協議しようと呼び掛けました。しかし放送局がここまで増加してしまった米国と、まだ1ヶ国あたり10に満たない欧州各国との間には、放送への周波数分配に対する考え方に少々温度差が生じていました。欧州各国の電波主管庁は将来に備えて、それなりの周波数帯を放送用に確保することに理解を示すものの、既に中波に(公衆通信以外の)移動局を配置していたため、放送ばかりを優遇することには慎重な態度でした。

● アマチュアが短波は小電力で遠距離通信できることを発見!

そんな状況の中、1924年秋から世界のアマチュア達が、ビームアンテナも大電力送信機も使わないで、次々に短波でDX通信を成功させ始めました。それも財力こそないが、短波の神秘に魅了され、意気に燃える科学青年らによる成功です。1925年(大正14年)になると彼らの通信実績はさらに積み上げられてゆきました。超高級車に乗るマルコーニ社の成功よりも、自転車に乗ったアマチュアらの成功の方が、短波のブランド価値を高めるのには効果的でした。

【参考】逓信省工務課の実験局J1AAが世界のアマチュアを対手局として通信試験を開始したのが1925年春で、ちょうどその頃です。

● 第三回国際無線電信会議で放送バンドの協議が始まる

延期に延期を重ね、ようやく1927年(昭和2年)秋に第三回国際無線会議(米国ワシントン)が開かれました(まるで皆が短波の有効性に気付くまで、米国が意図的に引っ張ったかのように感じます。私見ですが・・・)。そしてアメリカが示した周波数分配表の550-1500kHzの部分には以下の脚注7が付けられていました。

『Note (7)

The frequencies between 550 and 1600 kc/s (wave length between 545 and 200 meters) shall not be used by mobile station no as to interfere with the communication of any nation which signifies to the international bureau its intention to use this band exclusively for radiotelephone broadcasting.

注(七)

五五〇乃至一五〇〇キロサイクル(五四五-二〇〇米)ハ此ノ周波数ヲ無線電話放送ノミニ使用スルコトヲ総理局ニ通知シタル国ノ通信ヲ妨害セサル為移動局ニ於テ使用セラルルモノトス 』 (田中外務大臣宛ての米国案の現地日本政府委員翻訳, 1927.10.9)

 

つまり「既に放送を実施している国に混信を与えなければ、移動局が使うことを容認するから、ここを放送バンドにしようよ」という米国案でした。さらに550-1500kHzを放送用にする代わりに、短波研究の後発国のために1500-2000kHzのアマチュアバンドを放棄(他業務へ分配)する提案(なおARRLは1775-1975kHzを存続させたい意向)でした。これらの妥協策が功を奏し、550-1500kHzを世界的に放送業務バンドとすることに成功したのです。

短波進出への技術の力量差は先発国と後発国で大きな隔たりがありました。世界会議において、米国が、まだ放送を実施していない国々からも550-1500kHzの放送帯設定に賛同票を集め、円滑なる短波へのシフトを合意形成出来たのは、短波が、先端技術を有するマルコーニ社でなければ使いこなせない代物ではなく、また巨額の資金を要するものでもないことを証明してみせた「世界の若いハム達」のおかげだった。私はそう思うのです。

そういう意味でいえば本ページ冒頭で紹介した「無線科学大系」にある、短波開拓者マルコーニに劣らない、「アマチュアの功績は世界に短波利用の気運を与えた事」とする記述は、それ以上でもそれ以下でもなく、等身大の、実にうまく言い当てた言葉ではないでしょうか。

長波の分配では遂に妥協点を見い出せず、欧州地域では放送業務に一部分配されることになりました。世界統一分配の失敗です。

しかし中波では条件付きにしろ世界統一の放送バンドが合意され、ラジオ受信機製造業者にはどの国へも販売できる大量生産とコストダウンが実現しました。その後ラジオ放送が広く全世界に浸透・発展し、私たちの暮らしや社会に多大なる変革と恩恵をもたらした事はいうまでもありません。

 

【補足】 最終的には短波後進国でも手が付けやすい低い短波に人気が集まったため、3.5-4.0MHzはアマチュアと他業務が共用となりましたが、(一旦は米国政府が放棄した1.5-2.0MHzのうち)1.715-2.000MHzが共用ながらアマチュアにも使えることになりました。

99) マルコーニは元祖アマチュア無線家か?・・・おまけ [アマチュア無線家編]

かの有名なマルコーニ氏が「我々アマチュア無線家の元祖なのだ」とおっしゃるハムは日本だけに限らず、世界中にいらっしゃいます。しかしながら「違うだろう」とおっしゃるハムの方が、おそらく多数派でしょう。この話題を少し考えてみました。

 

1897年(明治30年)7月20日に従兄が社長となり、マルコーニ氏も参画した「無線電信信号会社」(Wireless Telegraph and Signal Company)が誕生しました。少なくともこれ以降のマルコーニ氏を「プロ」の無線家だとすることには、どなたも異論はないでしょう。

では会社設立前のマルコーニ氏は「アマチュア的」だったのでしょうか?1896年(明治29年)2月、英国に渡ったマルコーニ氏は郵政庁のプリース技師長にお世話になりながら無線研究を行いました。郵政庁の実験機材や実験室を自由に使えただけでなく、プリース技師長は自分の助手のひとり、ケンプ氏をマルコーニ氏に付けてくれました。この頃のケンプ氏の身分は郵政庁の職員ですから、公務員がマルコーニ氏の初期実験を手伝っていたことになります。また1896年7月27日に、助手のケンプ氏と郵政庁ビルの屋上に自慢のパラボラ無線機を設置し、デモンストレーションしましたが、このように一般人が実験しようとしても実現不可能な環境がマルコーニ氏には特別提供されています。そういったことを勘案すると、会社設立前であっても英国渡航後のマルコーニ氏は「ハム」っぽくないと思います。

 

きっと見解が分かれるのはイタリア時代のマルコーニ青年のことでしょう。確かにイタリア時代のマルコーニ青年の電波実験は理論が先行する学問的なものではなく、カット・アンド・トライを主体とするアマチュア精神に溢れたものでした。ですので"イタリア時代"に限定するのであれば「マルコーニが元祖アマチュア無線家」というのも分からなくはありません。

しかし「"イタリア時代の"マルコーニ氏は元祖アマチュア無線家である」とわざわざ明示する人は少ないです。それに亡くなる直前まで超短波の実験をしていたマルコーニ氏が無線にかけた総時間を分母にすれば、初期のイタリアでの実験など僅かな時間でしかなく、やはり彼のイメージは「プロ」です。

 

マルコーニ氏を元祖にして、弟子のアマチュア無線家が誕生したというような継承が見受けられません。たとえば1898年(明治31年)、マルコーニ氏がアイルランドのダブリン(Royal Dublin Society Theatre)で無線のレクチャーとデモンストレーションを行った際に、これを聴講したMeade Dennis氏がマルコーニ氏の実験装置に類似した無線機を、見様真似で組み立てて(左図)、わずか70ヤード(=64m)ですが無線通信に成功しています。しかしMeade Dennis氏はマルコーニ氏の弟子ではありませんし、さらにMeade Dennis氏の無線の継承者はおらず、ここで途切れています。

 

(英国でぼちぼち現代的なアマチュア無線が誕生したのは1910年頃ですが)マルコーニ氏がアマチュア無線を楽しんだという話もなければ、アマチュア無線家たちの輪の中に飛び込もうとしたという話も聞きません。1909年にノーベル賞を受けた彼からは「アマチュア無線家」の香りがしてこないのです。

たとえば日本のアマチュア無線家の元祖といわれる濱地常康氏は、アマチュア研究家に向けて無線雑誌を発行し、無線部品を販売しました。大正末期の中波アンカバー達は「濱地チルドレン」と呼んでも良いのかもしれません。また濱地氏は無線書籍を出版したり、「無線と実験」誌に記事を寄稿したりしており、常に一般の研究家と非常に近いところにいました。この距離感がマルコーニ氏と濱地常康氏ではぜんぜん異なります。

 

もし仮にマルコーニ氏を元祖アマチュア無線家として祀り上げて、アマチュア無線の歴史を(マルコーニのイタリア実験の)1895年までさかのぼらせても、そのあとに続くハム達の歴史がなく、アメリカで1905年に大衆無線、1907年に現代的なアマチュア無線が生まれるまでの10年以上もの長い空白期が生じます。1895年はアマチュア無線年表上の孤立点(飛び地)になってしまいます。

 

以上を総合して「マルコーニ氏は我々の仲間ではない」という見解になるのではないでしょうか。

<各ページへのリンク>

◆短波開拓史フロントページ: 概要編 (アームストロングの講演「発見の精神」など)

◆短波開拓史サブページ: マルコーニ (短波の開拓 [~1923])、続マルコーニ(昼間波の発見 [1924~])

◆短波開拓史サブページ: コンラッド (短波の電離層反射の実用化)