米沢高等工業学校

日本における超短波無線の開拓とその実用化は、東北帝国大学の宇田新太郎研究室の名前がまず頭に浮かびますが、米沢高等工業学校(現: 山形大学工学部)の大高庄右衛門(おおたか・しょうえもん)研究室でも盛んに研究が行われました。1933年春には超短波通信を研究するために逓信省より「周波数30MHz以上」という超短波帯の包括的な免許を得ています。

1934年4月に独自考案の「B型結線法」(プレートのB電源を高抵抗を通してグリッドに接続)を応用した、可搬式トランシーバー(PTT)を試作し、フィールドテストを繰り返して、1934年7月にはついに津軽海峡の横断試験にも成功しました。

米沢高等工業学校は1910年(明治43年)に設立された官立の旧制専門学校で、1949年(昭和24年)に発足した新制山形大学の工学部になりました。超短波研究においては東北帝国大の宇田氏があまりにも有名だったため、同じ東北にあった米沢高工の大高氏による津軽海峡横断試験の成功などはすっかり忘れ去られた感がありますが、同氏は戦後も山形大学で研究を続け、工学部長にも就任されています。残念ながら1956年(昭和31年)に63歳という若さでこの世を去られました。

日本の超短波が実用化されていく過程を時系列にまとめてみました。無線ファンや研究家のお役に立てれば幸いです。

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アンテナは水平にして実験しました。ただし4月28日の試験では、アンテナを垂直にした時との比較を行いました。結果は水平偏波の方が良好でした。

61) 日本初のVHF警察無線 明石町-第五台場 自前技術で開局 (1934年5月7日)

1934年(昭和9年)5月7日、明石町にある東京水上警察署JHS2(28.6MHz, 電話2.5W)と、台場見張所JHS(31.6MHz, 電話2.5W)を結ぶ超短波無線電話の運用がはじまりました。

これまで警察は自分たちで警察電話(有線)を設計・建設・運用してきましたので、自前の技術者により超短波無線機を完成させました。28.6/31.6MHzの二波を使う同時送受話式の無線電話装置で、宇田式と同じく、超再生検波特有のクエンチングノイズが電波の到来で消えることを利用した呼出ブザー回路を装備していました。

JZコールサインのページで詳しく書きましたので、そちらを御覧下さい。なおVHF帯を使った警察無線の実用局としてはこれが日本初になります。

62) 米沢高工J6BCの海上伝搬試験 (1934年6月12-19日)

米沢高等工業(現:山形大学工学部)J6BCは4-5月にフィールド・テストしたものをさらに小型化した二号機を試作しました。

4月に船坂峠へ移動試験を行った経験から、実験装置のさらなる小型軽量化が望まれたようです。試作改良機(試作2号機)には左の回路図のように4回路2接点の「送受切り替え」スイッチを使って、マイクアンプと低周波増幅を1本の真空管で共用させました。

そのため真空管UX12A型を4本で済ませることが実現し、バッテリーの持ち時間を少しでも長くできるというメリットが生まれ、かつ筐体の高さが少し低くなり(幅23cm, 奥23cm, 高31.5cm)、より運搬しやすい形状になりました(下図[左])。なお運用時に三脚に乗せて使うのはこれまでと同じです。波長は前回と同じく5.28m(周波数56.8MHz)で、空中線電力は0.3Wです。真空管を別のもの(UX30やUX31A)に変えてもましたが、UX12Aの方が良好でした。

トランシーバー重量は前回より2.1kgも軽量化されて、5.4kgになりました。バッテリーなども背負って移動しなければならない実験者の負担軽減の意味で装置の軽量化はとても重要だったようです。また筐体背面に取り付ける金属ロッド(空中線)も長さ81cmの短いものに変更されました。

背面の空中線取り付け機構により、2本の金属ロッドを垂直方向にも、水平方向ににも固定できます(下図[右])。ただし垂直にした場合、三脚が空中線に大きく影響し、さらに運用者のボディエフェクトも顕著にみられ、好ましい結果にはなりませんでした。

『失敗に属する経験から述べてみると、ボディーエフェクトは垂直ダイポールの場合に甚だしく、最初は調整困難となる原因が分からず苦しんだのであるが、空中線の調整によって解決することができた。・・・中略・・・五六・八メガサイクルの実験をの時に使用した装架用鉄三脚は偶然長さ一一三糎(cm)で空中線一本の長さに略等しく、共振現象を生じ、垂直の場合は鉄三脚に人体が接近することにより受話音に高低の生じるのを発見した。・・・中略・・・人体は案外吸収または反射の作用をするもので、垂直空中線を使用する時はなはだしい。ある波長である身長の人は非常にこの現象を呈し、機器からある距離に立っていてもらうと受話能率を上げることができ、その位置から動かれると反対に不良になり、ずっと遠ざかると普通の通話状態が得られる様な場合が往々あった。』 (長谷川太郎, "超短波無線電話装置[下]", 『ラヂオの日本』, 1935.10, 日本ラヂオ協会, p361)

1934年(昭和9年)6月12から19日まで試験を行いました。まず6月12日に学校と船坂峠中腹で試作2号機の動作確認のあと、宮城県松島湾へ移動し海上伝搬試験を開始しました。

6月17日午後、金華山発の石巻行き定期船と、塩釜行きの定期船にそれぞれ1号試作と2号試作を分置しました。船上では雨で調整がうまくできず、良好に通信できたのは距離10km程度で終わってしまった。その日の夜は松島海岸の観光旅館白鵬楼(標高30m)を基地局とし、8km離れた野蒜の赤崎(標高30m)と試験しました。松島白鵬楼では赤崎からの通話はうまく聞き取ることが出来ないほどの雑音(ハム)妨害を交流配電線から受けたが、赤崎では松島白鵬楼の電波はすこぶる良好に受かったといいます。

6月18日と19日は松島湾の島々を巡る遊覧船に移動局を置き、初日は野蒜金山(標高40m)と、二日目は塩釜の南方にある高地(標高15m)と通信試験を行いました。船が島陰に入ると急激に感度が低下し、島影を抜けると直ちに回復する予想道理の現象が確認できました。全体を通して海上との試験は極めて良好で、超短波がどこまで届くかを知りたかったが、残念ながら波が高く、船が20km以上離れることはありませんでした。

60) 米沢高等工業J6BCの超短波試験 (1934年4月25-5月5日)

1933年春に逓信省から超短波実験の免許を受けていた米沢高等工業(現:山形大学工学部)の大高研究室は、1934年春に独自考案の「B型プッシュプル発振回路」を用いた移動用超短波トランシーバーを試作しました。

左図がその回路図です。

「B型プッシュプル発振回路」の高抵抗Rを最適化することで、送信波の発振と受信用検波を同時に動作させるようにしたものです。これを幅23cm、奥行23cmで高さが41.5cmの筐体に収納しました。いわゆる四角柱型をしていて重量は7.5kgあります。使用した真空管は全てUX112Aです。回路図ではレシーバーとマイクを別々に書いていますが、実際には有線電話用の受話器(一体式)を用いました。空中線電力は0.3Wです。

このトランシーバーを三脚に乗せて実験しました。使用するアンテナはケースの背面に取り付けられるようになっており、長さが110cm(2本)の金属ロッドを水平方向に取り付けたり、(上下に向け)垂直に付けたりできるような構造になっています。使用波長は5.28m(周波数56.8MHz)ですので半波長よりかなり短めで、発振回路のタップ位置と結合コンデンサーで最良点を探したようです。

なおJ6BCの超短波免許はもともと空中線電力2W以下で周波数30MHz以上という包括的なものでしたが、1934年春に空中線電力20W以下で周波数14.200MHz、28.400MHz、56.800MHz、300MHz以上(包括)の変更許可を受けました。

1934年(昭和9年)の4月25日から5月5日まで下表の表なフィールド試験を行いました。下図[左]がその位置関係を示す米沢盆地の地図です。

左図[右]で三脚に乗せられた「黒い箱」がこの6球式トランシーバーで、有線電話の受話器を耳に当てて通話試験をしている様子です。トランシーバーの中央には発振/検波器のプレート電流計が付いています。またアンテナは背面から水平に取り付けられています。

米沢高等工業の大高研究室が、東北帝大のは宇田研究室をどの程度意識されていたのかは、まったく分かりませんが、日電電波工業が発売している宇田式超短波無線電話機が2波使う「同時通話」方式であるのに対して、米沢高等工業のトランシーバーが交互にしゃべる「プレス・トゥ・トークPTT」方式だったためか(?)、大高研究室の長谷川太郎氏がPTT方式はけして不便ではないと以下の様に記されています。

『切り替えによって交互に話を交換するのであるから多少不便に感ぜられるが、慣れると一向不便を感ぜず、かえって一方よりの送話を落ち着いて聞き得るので、命令・指令等を伝える場合には誤りを防ぐことが出来て都合がよい。』 (長谷川太郎, "超短波無線電話装置[下]", 『ラヂオの日本』, 1935.10, 日本ラヂオ協会, p359)

米沢盆地の南端に位置する船坂峠中腹と、同盆地北端の赤湯町間の距離25~27kmでは非常に強力かつ明瞭にに通話できました。

この実験で陸地では水平偏波が、海上では垂直偏波の方が良好でした。遮蔽物のない見通し間では25km迄なら十分実用(30km迄は通話可能)だろうと推定しましたが、最大通話距離を試すために津軽海峡の横断試験を計画しました。

63) 鉄道省 新鶴見操車場で宇田式超短波無線を試験 (1934年6月22-23日)

1934年(昭和9年)6月22日、神奈川県の新鶴見操車所にてTM3型宇田式超短波の試験が行われました。

『 操車場の複雑な移動作業の能率化と保安のために、操車場用無線設備に対する試験が昭和9年6・7月ごろ、東北大学宇田新太郎博士の創案になる次のような無線機によって新鶴見・吹田(大阪)の両操車場で行なわれた。

○送信機 (電話用であったが電信にも使用可能)

型 式 TM3型可搬型

周波数 28.4~60Mc

発振方式 メニー式プッシュプル

送信出力 4W

真空管 UX171A 4個

寸 法 幅30cm、奥行25cm、高さ40cm

重 量 約14kg

○受信機

周波数範囲 28.4~60Mc

選択度 分離可能周波数差 0.5~2Mc

検波回路 メニー式プッシュプル、超再生検波

真空管 検波用 UX12A 2個

局発用 UX201A 1個

低周波増幅 UX12A 1個

寸 法 幅25cm、奥行40cm、高さ20cm

重 量 10kg

これは送受信機両者を同一場所に取り付け、送受信周波数にわずかな差を設ければ、同時に送受話ができるものであった。新鶴見操車場ではこの無線機により、電源は蓄電池を使用した。また空中線は、機関車においては炭水車の両側上方に車両限界いっぱいに、半波長の水平ダブレットの空中線を張った。基地局は操車場本屋に置き、地面に近く垂直ダブレットを設置し、使用波長は移動局約10.5m(28.6MHz)、基地局は約5.3m(56.6MHz)で操車場構内亘長5kmの全般にわたる通話試験で、主として機関車の騒音、振動等の妨害、鋼製車体の影響、地形、道路、橋および建物の遮蔽作用、電化施設による電気的妨害、付近に集中する送電線および変電所からの誘導についての調査が実施された。』 (日本国有鉄道編, 『日本国有鉄道百年史 』第九巻, 1972, pp403-404)

この実験は共立社の月刊無線専門誌『DEMPA』(1934年9月号)と、日本ラジオ協会の月刊無線専門誌『ラヂオの日本』(1934年9月号)表紙にもなりました(下図[左]、[右])。それほど無線界で注目された試験です。


64) 宇田式超短波電話 新型の京都嵐山試験 J3FH

1934年(昭和9年)7月3-7日、日電電波工業、日本電池、大阪逓信局は、京都の嵐山で伝播試験を行いました。観光スポットとして有名な渡月橋附近を基地として、ここにJ3FH(第一装置, 33.333MHz, 5W)を設置し、嵐山の山中5箇所のJ3FH(第二装置, 42.860MHz, 0.75W)と同時送受話試験を行い、1kmほどの距離ですが良好な結果を得ました。

山中に入るために大阪営林局・京都営林局の協力により実現したものです。山中に移動する第二装置は背負い式でおよそ15kg。電源バッテリーは100V1Aと6V15Aで8時間連続使用できます。バッテリーの重量もやはり15kgあり背負い式で運びました。

日電電波工業の菊池亀一郎氏の記事から引用します。

『 風光明媚、山紫水明の境として名高い京都嵐山において私達は七月三日より五日まで三日間、大阪逓信局の監検のもとに、大阪営林局ならびに京都営林署の御支援を戴いて、嵐山国有利の山中と、大堰川(おおいがわ)渡月橋の上流の川畔との間に宇田式超短波の同時通話試験を行いました。

嵐山の紫の影うつしゆるく流れる大堰川の岸近く、渡月橋の上流約一六〇米(160m)の地点を第一装置場所と定め第一図の如く宇田式超短波TM3型送信機とR3型受信機を設置いたしました。・・・(略)・・・空中線 送受信共、第一図の様な簡単なもので竹竿を支持竿として垂直半波長空中線を使用いたしました。

次に相手局となる嵐山山中の第二装置は五ヶ所にそれぞれ機器を設置いたしました。なおこの五ヶ所は第二図(注:左図[左])に示す場所でありまして超短波的にコンデションの良い場所、悪い場所を特に選んでおります。装置機器は各所宇田式超短波送受信機TMR1型を使用いたしました。・・・(略)・・・以上の装置をもって第二図の関係において同時通話試験を行ったのですがなんと言っても最大距離が1粁(1km)位のものなので最悪な場所として選定した音無谷の中でさえ完全な通話成績を見ました。それに実験中雷雨に見舞われましたが、ぴかぴかの瞬間のみクリックを感じただけで何ら通話に支障を来たしませんでした。』 (菊池亀一郎, 超短波による無線電話同時通話試験, 『ラヂオの日本』, 1934.10, 日本ラヂオ協会, pp7-8)

これまで日電電波工業の宇田式超短波は送信機と受信機が別筐体でしたが、今回山中に持って入った新型のTMR1はトランシーバーです。ちなみに以前アマチュア無線の経験があった菊池氏は、嵐山テストより2ヵ月後の9月14日にアマチュア局J6DCの免許を取られて再開されました。

65) 札幌逓信局 上川-層雲峡にVHF臨時公衆回線を設置

大日本山林会の総裁である梨本宮殿下は1934年(昭和9年)7月22日に開催される第43回大会(於:北大中央講堂)に臨席するため、7月19日に上野駅を立たれました。大会後は道内各地を視察され、7月28日は大雪山層雲峡に立寄り、休息をとられることになっていました。

その層雲峡滞在中(7月28-29日)の殿下ご警衛用連絡通信を確保するために、札幌逓信局は上川-層雲峡間に臨時公衆回線を設営することになったのです。しかし陸線を上川から渓谷沿いに層雲峡まで短期間で敷設するなど到底無理な話です。現代の国土地理院の地図ですが、上川-層雲峡の位置関係を左に示します。

今春、羽幌-焼尻島間で超短波による臨時公衆回線を成功させて自信を得ていた札幌逓信局は、ここでも超短波を使うことにしました。

1934年7月13日、札幌逓信局は上川-層雲峡間に38.5MHz/43MHzの臨時公衆回線を開設しました。

『 次で同年(1934年)七月十三日 梨本宮殿下 層雲峡へお成りの際、層雲峡上川間(距離二三KM)に再び超短波による無線電信事務取扱を開始した。この時の使用周波数は三八・五Mc及び四三Mcで送信機(第七・九二図)は発振管UX二三一、弐個よりなるプッシュ・プル発振管で陽極同調回路に可変蓄電器(バリコン)を使用せず、左右真空管陽極端子より各一本の組立式銅管をを互に一部平行するように並べ、その分布容量により閉回路を構成した上、これを直ちに空中線として使用したものである。変調は同じく並列に接続されたUX二三一をもってフェーヂング変調を行った。受信機は(第七・九三図)はUX二三〇、四個より成る低周波一段付超再生式受信機である。』 (電波監理委員会編, 『日本無線史』第一巻, 1950, p416)

7月27日夜、釧路から富良野線で旭川に到着した梨本宮殿下は旭川偕行社(現:市立彫刻美術館)貴賓室に一泊され、翌朝は隣接する(将校の子弟教育を行う)北鎮小学校(現:市立北鎮小学校)と、陸軍第七師団司令部に立寄ったあと、第七師団の旭川衛戍病院(現:国立道北病院)の戦傷者を慰問されました。

7月28日午前9時35分の汽車で上川へ移動し、そこから自動車で層雲峡へ向かわれました。そして殿下は大雪山を望む渓谷をご探勝され、この地に一泊されたのです。

そして殿下に何事もなく、翌朝には苫小牧に向かわれ、札幌逓信局はVHF回線により、任務を全うしました。しかし「陸続きの定地点間通信はすべて有線で」を基本政策としていた逓信省ですので、これは極めて例外的な措置でした。

66) 宇田式超短波電話 東京湾横断試験 J2KV, J2KW

1934年(昭和9年)7月23-25日、日電電波工業と日本電池は東京湾を挟む横浜-木更津(28.5km)で、TM3型送信機およびR3型受信機による伝播試験を行い成功しました。送信機の電源は80V1Aの電池が3個と6V30Aが1個。受信機の方は95V1Aを1個と6V30Aを1個使っています。また空中線には送受共に半波長の垂直型を用いており、その空中線最下部における海抜は横浜局が23m高、木更津局が14m高ほどです。また給電線の長さは横浜局が送信6.2m長、受信5.5m長。木更津局は送信9.2m長、受信5.3m長でした。

この実験のために逓信省から指定されたコールサインは横浜局がJ2KV(周波数34.483MHz、空中線電力2.8W)で木更津局がJ2KW(周波数37.975MHz、空中線電力2.8W)で、送受信機は横浜局では2.7m、木更津局では3m離して置きました。最初の二日間は横浜局と木更津局の双方に「呼出装置」を取り付けて、通常の電話の様に相手を呼び出しながらの試験を行いました。

日電電波工業の菊池亀一郎氏の記事から引用します。『 嵐山の試験に続いて、私達は第四図のごとき場所を選んで宇田式超短波の通話試験を施行いたしました。七月廿三日より三日間、一局を神奈川県横浜市神奈川会館(神奈川公園の北角)四階に、相手局を千葉県木更津町水産会三会堂二階に設置いたし同時通話試験をいたしましたが、両局間直線距離約三十粁(30km)、両局使用機器は同型式のもので嵐山の第一装置と同様TM3型送信機、R3型受信機、これに宇田博士独特の呼出装置CU型を付加いたしました。・・・(略)・・・この試験は最初から都会地のしかも東京湾をまたいでの試験』 (菊池亀一郎, 超短波による無線電話同時通話試験, 『ラヂオの日本』, 1934.10, 日本ラヂオ協会, pp9-10)

電信電話学会雑誌19341年12月号で日電電波工業の関知四郎が、横浜J2KVでは『常にバリバリと極く低い雑音が入って来た。自動車、電車等は通話試験上苦にならなかった。ただ港にいる船の強烈なる火花送信機によっては時として通話不明瞭となる事がある。』、そして木更津J2KWでは『一日に一回か、二回バリバリという雑音をピックアップしたが通話上問題とならなかった。ただ近所の床屋さんの電気バリカンよりは大なる雑音をピックアップした。』と報告しています(関知四郎, "宇田式超短波送受話装置", 電信電話学会雑誌, 1934.12, 電信電話学会, pp.912-917)。

67) 米沢高工J6BC 津軽海峡横断の事前試験 (1934年7月24日)

米沢高等工業J6BCはさらなる改良を加えたトランシーバー第三号機(幅23cm, 奥23cm, 高35cm、重量6kg)を完成させ津軽海峡横断試験を計画しました。これまで56MHzを使ってきましたが、今回は28.4MHz(真空管UX12A、出力0.3W)に変更しています。

1934年(昭和9年)7月27日、現地入りした米沢高工の一行は東北帝国大学臨海実験所の協力を得て、陸-海間の事前テストを行いました。東北帝大臨界実験所の生物標本採取用の発動機船を借りて、船は浅虫を出発しました。超短波無線機を積んだ船は対岸の後潟を経由し、平館海峡にある平館を目指しました。陸奥湾を北上しながら浅虫にある臨界実験所屋上の基地局とを結んだ海上交信は極めて明瞭のまま、船は平館に到着しました。

VHF波の海上伝搬は極めて強力で、平館まで全く問題がなく、船はふたたび平館を出て海を北上しました。宇田沖を越えたあたりから感度が低下しだしましたが、(時間の都合があったため)浅虫の臨海実験所屋上の基地局からおよそ45km離れた網不知沖での試験通話を最後に事前テストを打ち切りました。この最終45km点での交信は大変良好で、見通しさえ利けば、まだまだ距離を伸ばせそうな感触を得ました。

(7月27日午後、超短波無線機)一基を浅虫の東北帝大臨海実験所屋上に設置し、他の一基を海洋生物標本採取用小型発動機艇に設置し、図示浅虫起点航路の様に陸奥湾平潟海峡を移動した。津軽半島北端網不知沖との間四五粁(45km)の通話は極めて良好であった。この実験は一根拠地と四方に出る小漁船間の連絡等に対する有効さを充分物語っていると思う。』 (長谷川太郎, 超短波無線電話装置[下], 1935.11, 日本ラヂオ協会, p360)


68) 米沢高工J6BC 津軽海峡横断試験(陸ー海)失敗 (1934年7月27日)

青森県浅虫(東北帝大臨海実験所)での事前テストを終えた米沢高工の函館実験班は機材とともに北海道へ渡りました。

そして函館に隣接する湯の川海岸を試験地に選び、ここに実験局を設置しました。7月27日朝、函館発―青森行きの青函連絡船第二便の甲板に無線機をセットし、函館(湯の川海岸)と通信試験を行いました。

函館港を出た連絡船と湯の川海岸の実験局は(湯の川海岸より)58km離れた場所まで極めて良好に通話できました。しかし湯の川海岸のグループは、先発隊を追いかけて午後の連絡船に乗船する予定になっていましたので、ここで実験を中止し、機材の撤収作業に移りました。したがって陸-海58kmという記録で終わりました。24日の事前試験が陸-海45kmでしたから、それを上回ることはできました。

ちょうどこの第二便(函館発―青森行き)と津軽海峡上ですれ違う第54便(青森発―函館行き)にも別班が乗船し実験局を開設しており、両船間で海-海通信の試験に移りました。すれ違った後、互いに離れていく両船ですが、90kmほど離れたあたり(航路の約8割の距離)まで通話できました。連絡船の無線電信局が業務を開始したため超短波実験を一時中止している間に、第二便が先に青森港に到着してしまい。海-海90kmという記録を作って終了です。

同じ日の午後、函館(湯の川海岸)班が、連絡船で函館港から青森に向かっていました。一方青森では青森港ターミナルの屋上に実験局を仮設し、函館から戻ってくる連絡船との通話を試みたところ、連絡船が海峡の真ん中あたりに来たあたりから受信できました(55km)。しかし連絡船側では(連絡船の煙突の影響が懸念されていたものの、特に問題なく)連絡船の各所に設備されている通風用直流モーターの整流子面で起きる火花から生じる雑音電波の方に邪魔され、青森港からの電波がキャッチできない状態に陥っていました。青森港からの声が聞き取れるようになったのは連絡船が37kmまで近付いてからです。

以後青森港に到着するまで、極めて明瞭に交信できましたが、津軽海峡横断通信は叶いませんでした。

69) 米沢高工J6BC 津軽海峡横断試験に成功 湯の川ー平館68km (1934年7月29日)

1934年(昭和9年)7月29日、陸-陸でフィールド・テストを行いました。

7月29日の試験は、津軽海峡横断試験(陸―陸)でした。北海道側の試験地は先日と同じ湯の川海岸で、青森側は平館灯台海岸が選ばれました。

そしてみごと68kmの津軽海峡横断通信に成功しましたが、無線機および空中線は湯の川・平館ともに海抜1.5mというほとんど海面と変わらぬ高さ(波打ちぎわ)ですので、電波が屈曲することを証明する結果となりました。

『平館灯台海岸と函館郊外湯の川海岸(共に波打際)との通話はこれまた良好で、見事海峡七〇粁を越えての通話に成功した。・・・略・・・

陸上では少々の凹凸も遮蔽の影響大であるが、海上では(光学的)見通し不能限界距離の数倍の間、地上波を受けて通話することが出来る。これは緩曲線に沿っては相当の回折現象があるからである。陸上でも峻立した山を挟んでは通話は出来ないが、緩かな斜面の山を挟んでなら通話できる。また松島湾の場合の如く、遮蔽の直後にいても遮蔽の前方が広々と開けている方向から来る電波は受けることが出来る。見通し得る距離内での感度は出力の大小によって左程の影響はないが。遮蔽の影にての通話は出力の大なるほど回折波が多いようである。』 (長谷川太郎, 超短波無線電話装置[下], 1935.11, 日本ラヂオ協会, pp360-362)

◎ 失敗に終わった「陸(湯の川の高地)-陸(蟹田の高地)」試験

この成功に気を良くして、もう少し記録を伸ばそうと、双方の機材をより海抜の高い「湯の川の高地」(15m)と、「蟹田の高地」(80m)へ移して試しましたが、これは失敗に終わりました。

『平館灯台と湯の川で行った実験の時、浪打際でも充分良好な結果が得られたので、高所を選べば一層良好な結果が得られるだろうと想像し、双方打ち合わせて付近の高所に昇って実験したところ見事に失敗した。高所必ずしも良好ならずという結論を得た。しかしこれは見通し可能なところまで高く昇った訳ではないから見通しの問題とは区別して考えていきたい。同じく高所を選んでかえって失敗した例は、函館工業学校屋上および青森公会堂屋上(共にコンクリート)に機器を設置した時である。』 (長谷川太郎, 超短波無線電話装置[下], 1935.11, 日本ラヂオ協会, pp360-362)

◎ 陸(湯の川海岸)-海(海峡連絡船)104kmに成功

7月30日、最終テストとして湯の川海岸から青森へ向かう連絡船との交信再試験を行うことにしました。これは7月27日午前の試験では、次の試験の準備の都合から57km離れたところでテストを打ち切ったからです。本当はどこまで交信できるのかを最後まで試さなかったことが心残りだったのでしょう。

上記地図では説明用に①~⑤の区間に分けました。区間③で若干感度が低下するも、104km(青森港まであと数km)の距離まで交信することに成功しました。再試験して良かったですね。

米沢高工の一行は次の目的地である新庄駅(山形県)へ向かいました。

70) 米沢高工J6BC 操車場無線と列車無線の試験 (1934年8月1日-2日)

津軽海峡横断試験(7月27-30日)を終えた米沢高工大高研究室のメンバーは、帰り道に山形県北部の新庄駅で操車場での連絡無線を想定したフィールドテストと、楯岡駅(現:村山駅)では列車無線の試験を行いました(下図は現代の国土地理院地図に両駅の位置を書き込んだもの)。

使用した無線機は津軽海峡で使用したもの(周波数は28.4MHzで、出力0.3W)です。

『山形県新庄駅構内では入替用機関車に積み込んで、信号所と機関車間の連絡、指令伝達等をこの無線電話で行いつつ、貨物列車編成を遂行する実験を行い好結果を得た。この際、空中線をL型ダイポールとしてみたところ大変具合良く、機関車には適当せる空中線方式だと愚考する。構内延長四粁(4km)位の入換えへ、機関車用ならこの位の電力の簡単な装置で充分だと思われる。この種の用途には切り換えで交互に話し合う方式(PTT方式)の方が指令伝達上有効の様であった。

(また楯岡駅での列車無線の実験の場合)垂直ダイポールの下方をカウンターポイズとして列車定規以内の寸法とし、鉄道用として実験を行った際は平地で約八粁(8km)の間は、切り取りや小丘陵、林などはたいして遮蔽の影響がなかったが、山間の曲線路、山嶽重畳の個所では結果充分でなかった。・・・中略・・・鉄道線路に沿って移動した時、相当回線の多い電線路も感度にたいした影響はないが、非常時用引出線のある電柱の脇は感度極めて低下するのを経験した。』 (長谷川太郎, "超短波無線電話装置[下]", 『ラヂオの日本』, 1935.11, 日本ラジオ協会, pp360-362)

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