NHKも気象庁も

我国の超短波無線は1930年(昭和5年)9月より帝国海軍の艦隊内連絡無線として"90式無線電話機"(40.0-50.0MHz)の配備が始まったのを嚆矢とします。

しかし非軍用無線としては宇田氏の協力のもと1932年(昭和7年)8月27日に仙台放送局JOHKが塩釜ボートレースの模様を超短波中継したものが民間で実用に供された初のものになります。しかし常設局による定期運用という意味においては同年8月31日に文部省(中央気象台)の富士山頂観測所JGY(61.2MHz)と三島支台JGZ(71.4MHz)の連絡用として開設されたものが第一号だといえるでしょう。僅か4日違いです。中央気象台の超短波は逓信省電気試験所の研究からヒントを得たそうです。

日本放送協会の超短波研究は技術研究所(現:NHK放送技術研究所, 東京都世田谷区砧)が将来のVHFテレビジョン放送を念頭に置いたものです。しかし仙台放送局JOHKは日々の放送における実況中継用として活用しようとするもので、大きく目的が異なりました。JOHKには東北帝大の宇田新太郎氏が全面的に協力しましたが、宇田氏はVHFを学術研究の対象とするのみならず、これの実用化を常に念頭に置かれていたようです。

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20) 日本放送協会の超短波放送研究 (1932年5月)

1932年(昭和7年)5月、日本放送協会は砧(現:東京都世田谷区)にある技術研究所より超短波37.500MHzと42.860MHzの75W無線電話を発射し伝搬試験を行いました。協会では1931年(昭和6年)秋より、東條民二技手、鈴木武二技手らがVHF研究に着手しましたが、この3月に逓信省より免許されたため、さっそく実験を行ったものです。東京工業大と放送協会技術研究所が超短波界における "免許の昭和七年組"です。

これといった障害物のない西方の25.4km離れた拝島村(現:東京都昭島市)や、23.55km離れた昭和村宮沢(現:東京都立川市)でも受信できました。しかし東方の市街地方向だと、代々木練兵所中央(距離8.4km、現:渋谷区代々木公園)までは強力だったものが、四谷見附(同11.5km、新宿区)、戸山ヶ原(同11.75km、新宿区)、靖国神社境内(同13.4km、千代田区)では僅かにビート音が聞こえるのみで、神田明神公園(同15.75km、千代田区)、墨田公園(同19km、墨田区)、小松川荒川放水路傍(同24km、江戸川区)では全く受信不能でした。


『三三ないし五〇メガサイクル(九ないし六米)の超短波は建築物等に依り遮蔽作用を受けること割合に少く、また跳躍現象を示さぬ為一都市内等小区域の放送に適するものである。当所に於ては昭和六年秋からその研究準備に取掛り、五ワットおよび七五ワット放送機の組立、再生受信機および超再生受信機の組立等を終了したので、地上一二米および四五米の高さに架設した半波長ダブレットから三七・五メガサイクル(八米)及四二・八六メガサイクル(七米)の電波を発射して、平地、市街地、丘陵等に於ける受信感度試験を施行し、充分放送の目的に使用し得ることを確めた。』 (技術研究業績の概要, 『昭和八年ラヂオ年鑑』, 日本放送協会, p582)

【参考】 当時、無線電話の実験局のコールサインは "呼出名称" で「放送協会砧村研究所」でしたが、法改正により1934年(昭和9年)2月1日よりJ2JXに変更されました。

21) 広島高等工業が超短波の包括的実験免許J4BAを得る (1932年5月末?) ・・・2020年1月20日更新

1932年(昭和7年)6月4日付け官報で、広島高等工業学校に「周波数30MHz以上、出力5W以下、無線電信呼出符号:J4BA、無線電話呼出名称:ひろしまこうこう」を許可したことが告示されました(昭和7年 逓信省告示第1044号)。戦前の官報では免許日は明らかにされませんでしたが、通例では官報告示の数日前が免許日です。

これまで屋内試験で波長54cm(周波数MHz)から波長12cm(周波数MHz)の発振に成功したことが電気学会誌を通じて発表されていた。

*園田忍 / 高山恒太朗, "超短電磁波の発生に就て[一]", 『電気学会雑誌』52巻522号, 1932.1, 電気学会,pp69-72

*園田忍 / 高山恒太朗, "超短電磁波の発生に就て[二](T.V.V. - D.K.型(日東無線)三極真空管により発生さるる各種電子振動について)", 『電気学会雑誌』52巻523号, 1932.2, 電気学会, pp153-155

*園田忍 / 高山恒太朗, "超短電磁波の発生に就て[三](サイモトロンUF-101型(東京電気製)三極真空管により発生さるる各種電子振動について)", 『電気学会雑誌』52巻525号, 1932.4, 電気学会, pp331-33)

この免許は屋外でのフィールド試験に備えて、広島高工が逓信省に申請したものと想像します。

22) 日本初の60MHz超短波放送の一般公開試験

1932年(昭和7年)6月25日-7月4日、東北帝大J6BAの宇田先生と有坂氏は仙台放送局の協力を得てVHF無線電話の一般公開デモンストレーションを実施しました。一般人向けのVHF公開試験としては日本初のものだといわれています。

『数米超短波に依る放送試験は筆者の一人が既に昭和二年以来折々実験を為したところで別に珍らしい事ではないが、当時は未だ不完全で一般に公開する程度ではなかった。最近私共の装置で、五米超短波を用い、仙台市に於て放送し、一般に公開する機会を得、且つその成績も極めて良好であった。旁々(かたがた)我国としては超短波放送による最初の公開実験と思い、本欄を拝借して之を記録に残すことにした。

送信機は出力約十数ワットで、東北帝国大学工学部電気工学科宇田実験室に設置した。送信用空中線には煙突より屋内に引き込める普通のラヂオ受信空中線を借用した。受信機は仙台市公会堂に開かれた仙台放送局主催のラヂオ展覧会(加入者百万突破記念ラヂオ展覧会)第一会場内に置いた。送信所との距離は約一粁半(1.5km)で、この間市街を横断する。受信空中線は単に屋内に引ける導線を用い、その長さも勝手な値とした。

去る六月廿五日より七月四日に至る十日間、毎日午前は十一時より十二時まで、午後は五時より六時まで一時間づつ二回に渡り談話及びレコードを放送し、之を一般に公開したのである。・・・(略)・・・本実験に於ては距離も近かった関係上波長五米の超短波を用いたが、実際の放送目的で、ずっと到達距離も増そうというのであれば、超短波でも七米ないし九米という比較的長い方がよろしい。これらに関しても私共の研究もあり、其の一部は本会雑誌に寄稿中(未発表)であるからそれを御参照ありたい。 最後に連日の実験に終始熱心にあたって下さった關知四郎君、佐藤常壽君、小畑榮治君及び実験の機会と便宜を与えて下さった仙台放送局の方々に厚く感謝する次第である。(昭和七年七月七日受付)』 (宇田新太郎/有坂磐雄, "超短波に依る市街放送公開実験記録", 『電気学会雑誌』, Vol.52-No.529 研究速報, 1932.10, 電気学会)

23) VHF無線電話の離島への実用化試験を開始

1932年(昭和7年)、東北帝大の宇田研究室(宇田、有坂、關)はVHF無線電話を離島-本土間の連絡通信に応用するための研究をスタートさせました。将来の実用化を見据えて、伝播上で有利な見晴らしの良さよりも、実際に電報と電話を取扱う市街地にある郵便局で送受することに留意した試験でした。

なぜ離島無線を実用化しようとしたかについて宇田氏は次のように記されています。

『これらの島に参りまして先ず感じますことは、分化の恵みから遠く置去りにされた住民の生活のいかにみじめであるかという事です。海がしけて参りますと、舟が一月に一回か二回しか出ないことも珍しくないそうです。私共がちょうど飛島にいた八月五日に低気圧が襲来し、舟が出ずに閉口しましたが、後で新聞を見ますと、その日酒田より南寄りにある加茂港に避難せんとして、発動機船が三隻転覆し、十数名の人命があたら海底の藻屑となった由を伝えて居りました。海が大しけとなり出漁の舟が予定の日に帰島しないと島では大騒ぎで、ことにその家族の心配は想像のほかで、舟が他の港に避難し、安全でも通信機関がないため、これを知るに由なく、毎日泣いて明かすということも聞きました。またせっかくたくさんの漁獲があっても相場もわからず陸へ持って行くのでありますから、足元を見られ、ほとんど捨て値同様で売らねばならないそうです。

今でこそラヂオがありますから、そんなこともないでしょうが、少し前までは本土で起ったことが、島では数ヶ月後にやっとわかり、甚だしきは年号が改まってもそれを知らず、あとで慌てて書類の日付などをすっかり書直すという滑稽もあったそうです。これらは一二の例に過ぎません。通信機関のないために島の人々はいか程の不便を受けて居るかは、蓋(けだ)し想像のほかです。

これらの気の毒な人々にも多少なりと文化の恵みに浴せしめることは私ども人としての努めだろうと思います。・・・(略)・・・使用した送信機および受信機は商工省の発明奨励費をいただいて製作しましたもので、極めて簡易に実用向きに出来ています。アンテナ出力は約十ワットです。女川、江の島、出島間ではこれでも出力が大に過ぎるので、発振管に一七一Aを使用した出力数ワットの送信機を使い電力低下試験も行いました。』 (宇田新太郎, "超短波無電の実用時代へ", 『発明』, 1932.12, 帝国発明協会, p3)

24) 宮城県女川-江島14kmでのVHF実用化試験 (1932年7月)

1932年(昭和7年)7月14-17日、東北帝大J6BAの宇田助教授と有坂氏・關氏は宮城県牡鹿郡女川町を拠点として、その沖合の江島および出島との間で通信試験を行いました。

宇田助教授は江島を次のように紹介しています。

『江の島、金華山の北方約10粁(km)の海上に横わる一小島で、・・・(略)・・・人口は約千数百、住民は漁業を専門とし作物は僅かの野菜位のものである。定期船とては別になくただ漁業組合の所有である小さな発動機船が対岸との連絡にあたっているが、それこそ浪が荒ければ、幾日間も出ない事が多いので、住民の不便は蓋(けだ)し想像のほかである。』 (宇田新太郎, "超短波無線電話", 『電気工学』, 1932.11, 電気工学社, p548)

まず最初に女川-江島間(14km)が試されました。波長は女川が8.8m(周波数34MHz)を、江島が7.7m(周波数39MHz)を発射する同時通話式で、終段202Aの送信出力約10Wでした。また受信機は超再生方式です。

『女川では最初第二図A点(左図)で実験した。ここは海に面し、遠く江の島を望むことが出来る地点である。試験の結果は予想に違わず好成績を得ることが出来たので、次に送受信機を女川郵便局(第二図B地点)に移した。この場合は第二図、第三図中M(左図)で示した岬の陰に入るため、江の島への見通しは利かないが、通話上何ら差支えなかった。』 (宇田新太郎/小原武顯/有坂磐雄/關知四朗, "超短波に依る離島と本土間の通話試験に就いて", 『電気学会雑誌』, Vol.52-No.536,1932.11, p868)

論文ではあえて伝播上で不利な場所を選んだのは、将来の実用化を考慮にいれると、無線局は逓信局管下の郵便局に設置すべきとの考えからだったと報告しています。送信管を202Aから小型の171Aに代えて、さらにプレート電圧を順次下げていくと出力0.96Wまで通話明瞭で、出力0.48Wでは通話は不能だが電信なら可能な状態となり、出力0.21Wでは電信でも聞こえなかった。

『空中線にはラヂオ聴取用に用いられていると同様な引込式のアンテナを用いた。』 (宇田新太郎/小原武顯/有坂磐雄/關知四朗, 前掲書, p869)

25) 宮城県女川-出島7.5kmでのVHF実用化試験 (1932年7月)

出島での実験は崖の上と、海岸の両方で試されましたが、意外な事に海岸の方が良好でした。そしてもっと不思議な事に途中に山があったのに良好に通信できたことです。マルコーニ氏が1933年(昭和8年)に「超短波は曲がる」と発表していましたが、それよりも早い時期に、東北帝大のグループがこの現象を経験していたことになります。この現象を次のように報告しています。

『この実験で面白い事は女川、出島間では途中に278米の山を横断することである。距離が10km内外というように比較的近距離であり、送受信地の直前が相当に開けて居れば、途中にある山などは実際上余り問題にならないことは注目すべきである。』 (宇田新太郎/小原武顯/有坂磐雄/關知四朗, 前掲書, p869)

電力低減試験も行われ、空中線電力を0.5Wにしても明瞭に通話出来て、さらに0.2Wに下げると通話は困難でしたが電信なら明瞭でした。

26) 山形県酒田-飛島40kmでのVHF実用化試験 (1932年7-8月)

日本海の孤島飛島にはまだ電気がなく、ランプ生活を余儀なくされる厳しい環境でした。のちに逓信省工務局の高瀬芳卿氏が次のように紹介されています。

『酒田市は米および石炭の集散地として日本海方面に知られている港で、最近市制が施かれた都会である。

飛島は酒田より焼く四〇粁(40km)の地点にある周囲わずかに二粁(2km)の一孤島で、人口は約二〇〇〇あり、小学校、役場、郵便局がそれぞれ一つ宛ある。全島ほとんど丘陵で地味肥えざるため全く農作物には恵まれず、漁業のみによって島民は生活している。電灯設備の無いことは色々の点からして止むを得ないが、その不便さと火災の危険が思いやられる。そのため、全国に魁(さきがけ)をなして女消防なるものが組織されている。交通は酒田より隔日に約三〇頓(30t)ばかりの飛島丸という発動機船が通っているが、冬季の日本海はことに波高く同船にては危険なる場合が往々あるとのことである。従って天候によっては一ヶ月位交通の杜絶する場合も少なくなく、そんな時にこそ無線設備あるのが、島民にとってどれほど心強さを与えるか計り知れないものがある。併し常時においては、無線設備は主として漁業取引の打合せ用として使用せられるはずである。』 (高瀬芳卿, "酒田、飛島間の超短波無線設備", 『逓信協会雑誌』, 1933.12, 逓信協会, p29)

1932年(昭和7年)7月28日から8月7日に、東北帝大の宇田グループは日本海側の新潟県酒田へ移動して、沖合の孤島、飛島間の40kmで試験を行いました。

宇田助教授は飛島を次のように紹介しています。

『飛島は酒田を距てる海上約40粁(km)の日本海上の孤島で、通信機関のないために、島民の不便損失は、我々の想像以上に大きいので、今回の試験の際も島民から非常の歓迎を受けたのである。・・・(略)・・・(有線電話との接続)実験は絶えず公開し、町や島の有志の方々に話をして頂いた事も一再(:一度や二度)ではなかった。』 (宇田新太郎, "超短波無線電話", 『電気工学』, 1932.11, 電気工学社, p550)

波長8.8m(34MHz)と7.7m(39MHz)による出力約10Wの同時通話方式で、今回は特に有線電話回線と相互接続するために仙台逓信局工務課小原武顯氏の協力を得ました。

飛島では海岸の飛島郵便局を使おうとしましたが手狭でしたので、隣接する飛島村役場(左地図のS地点)の2階を試験室として借り、アンテナも村役場の敷地内に仮設しました。

酒田では日本海へ眺望がきく水上警察署(左地図のA地点)と酒田郵便局(左地図のB地点)で試験した。なお酒田郵便局の場合、通信経路上に日和山(左地図のM地点)がありましたが、高さ31mほどの山でしたので支障は全くなかったといいます。

そして酒田郵便局では仙台逓信局工務課の協力で、有線加入者回線と接続しました。また電力低減試験では4Wまでしか下げませんでしたが極めて良好でした。

『飛島と酒田町内の一般加入者及び山形、秋田、仙台と通話することが出来た。特に酒田町内、山形、秋田との通話の際は非常の好成績にて一般有線電話となんら劣らない成績を得た。』 (宇田新太郎/小原武顯/有坂磐雄/關知四朗, 前掲書, p871)

『特にこの試験には有線電話に中継し、酒田町内の一般加入者はもとより山形、秋田、仙台とも通話を致し、非常な好成績を挙げたのであります。超短波による有線無線の中継は我国としてはもちろん最初の試みであります。・・・(略)・・・特に有線無線連絡し、飛島村長と酒田町長と談話して頂き、その結果極めて好成績であったことは私共一同の深く満足とする所であります。』 (宇田新太郎, "超短波無電の実用時代へ", 『発明』, 1932.12, 帝国発明協会, p3)

この他、連絡船「飛島丸」に受信機とアンテナを付けて、海上伝播試験を行いました。酒田の出発点(地図のC地点)でも、既に受信できていたが弱々しく、港外に出たとたん急に強くなり、飛島まで明瞭に受話出来ました。

『私共はまた飛島で送信し、酒田より飛島行きの船に四米ほどの小さな空中線を張り、受信試験を致しましたが、酒田港を出るや否や受話極めて明瞭となり、飛島に近づくにつれ、次第に強勢になる様子がよく分かったのであります。』 (宇田新太郎, "超短波無電の実用時代へ", 前傾書, 帝国発明協会, p4)

<飛島-酒田試験に使われたアンテナ>

最終的に空中線は引込式から垂直ダブレットに代えられました。

空中線

飛島および酒田の送受信とも最初斜に張れる引込式の空中線を使用した。この場合は受信感度が一般に低く、かつ空中線の長さ及その架設方向によってかなり影響を受ける。高さが高くともかえって悪い場合も起り得る。現に飛島に於ては高台の上(海面上約50m)、その中腹、海岸の各所に移動して実験したが、海岸がかえってよいという結果を与えたこともあった。つまりかくの如き空中線(引込式空中線)は一般に高い高調波で励振される関係上、電波発射の方向がいくつかに分割されかつ高角度の性質を有し、目的地に発射される電波がかえって弱いということが起り得るからである。しかもそれが励振される高調波の番数、空中線の張り方、大地との関係位置によって種々変り、これをtestせずに予定する事が一般に困難である欠点がある。

試験の結果最も簡単にして、有効であった空中線は第十三図に示す如きダブレット垂直空中線である。結局かくの如き空中線を送受信につかうことによって現在の局と局の間に於てもなおかつ通話に差支ない程度の充分なる受信感度を得ることが出来る確信を得た。』 (宇田新太郎/小原武顯/有坂磐雄/關知四朗, 前掲書, pp870-871)

日本無線史第一巻にも次のように記されています。

(昭和七年の試験は)空中線は送受共簡単なダブレットを使用し、波長は七・七米及び八・八米であった。』 (電波監理委員会編, 『日本無線史』第一巻, 1950,電波監理委員会, p415)

27) 電気試験所の富士山試験所J1AJ オールジャパンVHF試験 (1932年8月9-13日)

電気試験所は1932年(昭和7年)8月中旬に富士山頂からの超短波試験を計画し、関係方面の各機関へ受信協力を打診していました。そして7月29日に楠瀬雄次郎電気試験所第四部長名で正式な協力要請書が送られました。下図がその要請書に添えられた試験要項です。

読みやすいように私が下に転記しました。この試験では逓信本省より電話用の "呼出名称"として「富士山試験所」、電信用の "呼出符号"「J1AJ」の指定を受けています。周波数は水晶式の8m(37.5MHz)と8.2m(36.6MHz)で出力はおよそ0.3Wでした。

超短波無線電話試験

逓信省電気試験所

一、送信場所 富士山頂中央気象観測所

二、送信波長 八・〇米或ハ八・二米

三、送信電力 十ワット以下

四、送信時間

(1) 八月九日、十日、十一日、十二日ノ四日間ハ毎日左記時間送信ス

第一回 自〇九〇〇 至一〇〇〇

第二回 自一四〇〇 至一五〇〇

(2) 八月十三日ニ限リ同日〇九〇〇ヨリ翌十四日〇八二〇迄毎時ノ始二十分ヅツ送信ス

五、局名 「富士山試験所」 (電信符号J1AJ)

六、送話ノ内容ハ試験ニ必要ナル事項ノ外朗読、蓄音機ニヨル奏学等トス

まず東京の中央気象台と富士山頂に建設中の観測所に送信機と受信機を設置し、相互通信が行われました。ところで電気試験所の実験局のコールサインですが、第四部J1AF、平磯J1AG、磯浜J1AHの次が富士山のJ1AJに飛ぶことから、私は東京の中央気象台に臨時で施設された電気試験所の超短波実験局が "中央気象台試験所" J1AIではないかと考えています(・・・残念ながらその物証は発掘できておりません)。

中央気象台からの波長7m(42.9MHz, 出力1W)は富士山で大変良く受かりましたが、中央気象台では富士山頂からの波長8/8.2m(37.5/36.6MHz, 出力0.3W)は都市雑音に邪魔され、安定的な通信は望めないことが分かりました。

『・・・(略)・・・(中央気象台では)一一二Aプッシュ・プル主発振機(波長一四米)の第二高調波をとって之を増幅した出力約一W陽極変調方式の送信機を使用して通話試験を行ったが、山頂側の送受信機設置点が賽の河原の陰になっているにも拘わらず、山頂で受信した場合は受信状態は極めて良好で、各スイッチを入れただけで東京と通話することが出来、いつも高声器で聞き得た。ただし気象台側においては予想外の甚だしい雑音で感度を上げることが出来ず。かなり受信をを妨げられたが強度はビートでR6程度あったから通話には充分であった。』 (電波監理委員会編, 『日本無線史』第1巻, 1950, 電波監理委員会, pp414-415)

『通信はまず富士山頂と東京市内中央気象台との間で行われた。・・・(略)・・・山頂で東京からの電話を受けた成績は第二表の如く極めて好成績であった。東京で山頂からの電話を聴く場合には、受信場所が都市の中心にあったために予想外の激しい雑音の妨害をこうむり、受信音がR6程度であったにも拘らず、成績はようやく実用通信に差支えないという程度に過ぎず到底完全な成績を挙げることは困難であった。勿論雑音の原因は受信機固有のものではなくて附近の自動車、電車その他種々の電気設備より発するものである。中央気象台附近は特に雑音が著しいものらしく、五反田の電気試験所屋上で受話した場合には雑音の妨害は気象台に於けるよりも相当軽減された。』 (中井友三/木村六郎/上野茂敏, "超短波通信に関する実験", 『電気学会雑誌』 Vol.52-No.533, 1932.12, 電気学会, pp975-976)

<東海道線列車での受信試験(大垣駅より東行き)

『東海道線第36列車(大垣発午前7.20, 東京着午後6.34)の最後部に木造二等車を連結して試験した(鉄道省と共同)。浜松あたりからようやくビートが聞こえ始め、静岡付近で電話が分かり、御殿場付近で最も強感であったが、国府津以東はほとんど不感に終った。電化区間は雑音が著しいが(中波の)放送波における如く激烈ではない。列車内の試験に際して雑音の最も著しいものは踏切のブザー、発車合図のベル等で、レールの側にある丘、樹木、人家等は顕著な遮蔽作用を与え、トンネル内では全く不感であった。』 (難波啑吾, 富士山頂よりの超短波放送試験, 『電気学会雑誌』vol.52-No.530, 電気学会, p739)

<大洋丸 横浜-神戸航路での受信試験(横浜港より西行き)

『大洋丸の横浜神戸間航路は第一図(下図)に示した如くである。出帆後相模湾までは極めて明瞭であったが伊豆半島の陰では強度は、あるいは強く、あるいは弱く複雑な変化をなし、遠州灘に進むと共に再び強感となり山頂より約220kmの点で不感になった。以後神戸まで全く不感であった。船内には不良発電機がありその雑音に悩まされた。』 (難波啑吾, 富士山頂よりの超短波放送試験, 前傾書)

そのほか富士山頂からのVHF波の受信要請を受けたのは日本放送協会技術研究所、東京電気、東北帝国大、逓信官吏練習所、海軍技術研究所、海軍通信学校、陸軍科学研究所、陸軍通信学校などで、(東北帝大は別として)およそ東京近郊で超短波を受信し得る全ての機関が、その垣根を超えて電気試験所の試験に協力しました。まさしくVHFオールジャパン試験だったといって良いでしょう。

読売新聞が下山した平磯出張所の難波氏にインタビューし、『好成績を収めた富士山からの超短波放送』 (『読売新聞』, 1932年9月20日, 朝刊p4)というタイトルでこのVHF試験を紹介しています。

この年の7月上旬より中央気象台の手で富士山頂無線局の建設がはじまっていましたが、そもそも中央気象台の無線技術陣に超短波のノウハウを指南したのは電気試験所平磯出張所でした(短波JGSは8月1日、超短波JGYは8月31日に運用開始)。そういう経緯からこの8月9日より行われた電気試験所の富士山テストには、気象台が自力で建設中のVHF局を、師匠である平磯のメンバーが支援する目的が水面下にあったかも知れません。

電気試験所が山頂に到着した時には、既に7.24MHzで中央気象台へ観測データを送る短波局JGSが運用を開始していました。電気試験所「富士山試験所(J1AJ)」の超短波は中央気象台では(前述のとおり)雑音が多くてあまり良い成績ではありませんでした。

28) 東北帝大J6BAの富士山試験所J1AK受信試験

東北帝大による受信試験の記録が残されていますので紹介します。

東北帝国大の宇田氏らは8月7日に新潟での実験を終えると、すぐさま仙台に戻り、休む間もなく電気試験所の富士山超短波試験を受信するために八木山(9-10日)と金華山(12-15日)に向いました。明言はありませんが、おそらく有坂氏もお供したものと想像します。

『八月九日より十五日にかけて、逓信省電気試験所によって富士山頂より放送された八米(37.5MHz)超短波無線電話の受信の依頼を受け、金華山に参りました(第九図参照)。これは超短波は前にも申した如く、余り遠方に参らないのでありますが、万一到達すれば、記録すべきことなので、一生懸命に実験をやったのであります。その結果富士山よりのものは受信できなかったのでありますが、序でに私共の実験もやりました。即ち学校の屋上に八メートル送受信機を置き、金華山で受信し、アンテナを種々に変えて実験しました。』 (宇田新太郎, "超短波無電の実用時代へ", 『発明』, 1932.12, 帝国発明協会, p4)

この第九図というのが左図ですが、テントに「J6BA」というコールサインプレートが吊られているのが見えます。東北帝大は移動先ではこのようにコールサインを掲示していたのでしょうね。とても珍しい写真です。

この東北帝大の自前の実験では偏波面の違いによる影響と、水平空中線の指向性など、今日では明らかになっている当然ともいえる事象が試験により確認されました。

『八月九日、十日は仙台市郊外八木山に於て、同十二日より十五日までは金華山に於て、何れも富士山頂より放送さるる逓信省電気試験所の8米(37.5MHz)超短波無線電話の受信試験をなした。その傍ら、金華山に於て同じく8米超短波を用い、当方の実験を行ったのである。発振器は蓄電器を挿入し、ある程度波長を変え得るものを用いた。これは空中線との連結により波長が幾分変るから、正しく8米に調整する必要があったからである。送信機は東北帝国大学屋上に置き、金華山(距離60km)では受信のみを行った。・・・(略)・・・金華山頂上(高さ445米)に於ては送信側に垂直、水平何れの空中線を用いるも、受話強度極めて大、150米、88米の中腹に於ても電話明瞭、50米の高さに於ては、送信側が垂直空中線の時のみ受話可能で、水平空中線の時は全く不能であった。頂上は眺望がきくも、他の三地点はすべて樹木が生繁り、眺めが全くきかない所である。

受信側に於ても空中線を種々変えて試験した。送信側が垂直アンテナの時は受信側が矢張り垂直がよく、水平になると感度が殆どなくなる。送信側が水平空中線の時は受信側も水平空中線の方がよろしい。但し頂上に於ける実験では送信側が水平空中線の時、受信側を垂直空中線にしても相当の感度があったが、88米の高さに於ける実験では、送信側水平の時、受信可能で、垂直空中線では受信不能であった。

次に送信側を水平空中線にすると、受信側では極めて容易に方向探知が出来る。試みに頂上で、(受信用の)水平空中線を用い、之を水平面内に回転すると、空中線が仙台(東北帝大)方向と正しく一致する時に感度零となった。』 (宇田新太郎/小原武顯/有坂磐雄/關知四朗, "超短波に依る離島と本土間の通話試験に就いて", 『電気学会雑誌』, Vol.52-No.536,1932.11, p872)

29) 東北帝大と仙台JOHKのボート選手権中継でVHFの実用 (1932年8月27日)

1932年(昭和7年)8月27-28日、日本漕艇協会東北支部が主催する「大日本固定席艇選手権大会」が塩釜築港コースにて行われました。その模様を仙台放送局JOHKが実況中継しましたが、これには宇田助教授らが超短波装置で協力しました。あくまで臨時の中継施設ですが、民間無線に於いて超短波が実用に供されたという意味ではこれが日本初となります。

日本放送協会技術局の土生英二氏の記事を引用します。

超短波を無線中継放送に使用したのは昭和七年八月二十七、八両日仙台放送局が松島湾内において行われたるボートレースの実況を中継放送するに際して使用したのが最初であって、この時には放送用には8m(37.5MHz)、打合用には8.5m(35.3MHz)を用いた。』 (土生英二, "中継放送の話[1]", 『DEMPA』 1934.8, 共立社, p357)

『 この屋外中継放送の方法としては、主として有線連絡によって実施されるものでありますが、観艦式の実況放送の如き有線放送の途なきもの、或は端艇競漕の如き、一地点よりの連絡放送のみをもってしては余り効果がないような現場放送は、当然無線中継をなさなければなりません。無線中継の方法は必要なる場所、例えば観艦式の如き場合は移動する艦船内へ、また端艇競漕のときの如きは競漕しつつある艇に従って追移するモーターボートの如きものに、小規模の放送機を据付け、マイクロフォン設備をなし、ここより放送し、別に適当なる地点を選定し、受信所を設け受信機設備をなし、中継せんとする放送音を受信し、この受信音を有線にて放送局へ送り届けて再放送するのであります。この無線中継放送には普通の場合、短波長を利用していましたが、七年の八月末、仙台松島湾内のボート競漕の実況放送には初めて超短波を利用されました。 』 (若城正太郎, "第二節 搬送波中継、屋外中継", 『ラヂオの基礎知識』, 1933, 日本ラヂオ通信学校出版部, pp100-101)

【注】 民間の常設局によるVHF実用化第一号は、四日後(8月31日)に運用開始した中央気象台の富士山頂JGYと三島測候所JGZです。

『仙台放送局JOHKに於ては、東北大学の超短波送受信機を借用して、我国最初の試みたる8米(37.5MHz)超短波を用い、無線中継により、その実況を放送し、申分のない好成績を挙げることが出来た。・・・(略)・・・放送の目的にはArticulation(明瞭度)が最も大切なる事はいうまでもないが実況放送に於てはそのほかによく実感が出るよう特に周囲の音響を吸収(ピックアップ)することが必要である。即ち吸収用マイクロフォンを別に設け、アナウンサーの声と吸収とが適当な割合に入るようにする事が大切である。この放送に使用された送信機は以上の要求を充分に満たすべく、注意して特別に組立てたものである。』 (宇田新太郎/小原武顯/有坂磐雄/關知四朗, 前掲書, p871)

モーター・ボート→(37.5MHz)→塩釜臨時無線中継所→(陸線)→仙台放送局JOHKという流れで、リアルタイムに放送されましたが、放送用とは別に塩釜臨時無線中継所→(35.3MHz)→モーター・ボートの連絡用回線も用意していました。なお塩釜臨時無線中継所はレース・コースからおよそ3kmほど離れた場所にありました。

『 第二十一図は送信機及びマイクロフォンを載せたモーター・ボート、第二十二図は塩釜に設置された臨時無線中継所である。・・・(略)・・・別にモーター・ボートと中継所の連絡用の無線装置も用意したので、テストの終了後、モーター・ボートを走らせて、ことさら島影をぬい松島まで行き、通話試験を行ったが、常によく中継所と連絡をとることが出来た。中継所に置いた送信機は波長8.5米(35.3MHz)で、発振管に171-Aを使ったごく小型のものである。』 (宇田新太郎/小原武顯/有坂磐雄/關知四朗, 前掲書, p871)

こうして日本初のVHFによる実況中継は大成功を収めました。月刊「電気工学」誌(1932年11月号, 電気工学社)と帝国発明協会の機関誌「発明」に掲載された宇田氏の記事を引用します。

『第七図は送信機およびマイクロフォンを載せたモーター・ボートで、第八図はその内部を示す。これで力漕せる(選手たちの)ボートを追って実況を放送したものである。

選手の掛声、ボートの波を切る音、応援、歓声、その他スタート、ボールインの有様がよくあらわれ、大成功で、有線中継に劣らない好成績を得たのである。・・・(略)・・・この企ては我国に於ける超短波実用の最初の第一歩を画した点で、極めて重要な意義を有するので玆に特記しておきたい。』 (宇田新太郎, "超短波無線電話", 『電気工学』, 1932.11, 電気工学社, p551)

『最後に特に申し上げたきは仙台放送局JOHKが私共の装置によりまして、我国最初の試みたる超短波移動無線中継により、・・・(略)・・・大日本固定席艇選手権大会の実況を放送した事であります。これは超短波実用の第一歩を記した点で誠に有意義な企てでありました。しかもその結果は極めて好成績で、非常な好評を博したのであります。・・・(略)・・・実況放送でありますから、実感が出るよう、アナウンサーの声のほかにある程度まで周囲の音響を吸収しなければなりません。私共は特にこの目的に適するようセットを組立てたのであります。幸い非常な好結果で、マイクロフォンを載せたモーター・ボートは力漕せるボートを追いながら、実況放送をやったのでありますが、選手の掛声、応援や審判艇の走る音まで入り実感が大変よくあらわれ、申分のない成績を得たのであります。将来この方面の利用にも超短波の適することを如実に示してくれました。

以上で最近東北帝国大学を中心に行われました超短波研究の状況を述べました。終りに超短波は今や実用時代に力強く入らんとしつつある事を特に申上げてこの稿を終りたいと思います。』 (宇田新太郎, "超短波の実用時代へ", 『発明』, 1932.12, 帝国発明協会, pp5-6)

30) 富士山頂観測所JGY と三島支台JGZでVHF実用化 (1932年8月31日)

1932年(昭和7年)8月31日、我国初となる超短波の民間無線の常設実用無線局が富士山で運用を開始しました。中央気象台の「臨時富士山頂気象観測所」JGY(A2/A3, 65.2MHz, 3W)と、「三島支台」JGZ(A2/A3, 71.4MHz, 3W)です。無線電信の呼出符号は「JGY」と「JGZ」ですが、無線電話には呼出名称「富士山観測」と「三島気象」が指定されています。

記念すべき常設実用化VHFの第一号ですので3日後に告示された官報を掲載しておきます。

中央気象台は富士山頂で通年観測を行う計画を立てましたが、夏季は臨時に有線電話が架設されますが、それ以外のシーズンは通信手段がなく、1月の事前調査で超短波回線が望まれました。そして平磯J1AGの協力を得て、気象台の無線陣が自前で超短波無線機を完成させました。

『中央気象台の無電陣は、これ(VHF無線)を自ら研究、開発しつつ世にさきがけて実用に供しようとし、さきに、世界にさきがけて気象放送専用の無線施設を設けた岡田(中央気象台長)を喜ばせた。彼(岡田)の進取の気性は衰えるところを知らず、この案を推進した。勿論、市販品などはなかった。主任の曽我をはじめ、森脇、柳本、桂、山本などの若い技術者は張り切って、(以前富士山で超短波の実験を行った)平磯試験所の木村の実験を見学したり、文献をあさり試作を重ねたりして、送受信機二台を自作した。周波数は六・五二(65.2の誤記)と七・一四(71.4の誤記)メガサイクルの二つであった。時代の先端を行くこの器械は、その後ズッと故障もなく作動し、山頂勤務者にはかり知れない心強さを与えた。』 (須田瀧雄, 『岡田武松伝』, 1968年, 岩波書店, p319)

日本無線史第三巻から引用します。

『昭和七年八月三十一日、富士山頂に於ては前記本台(東京)との(短波の)連絡通信機の外、その予備装置を兼ね、静岡県三島測候所(現:静岡県三島市東本町2-5-24)間に中央気象台無電係自作の、プッシュ・プル自励発振陽極変調方式の超短波無線電話を装置した。使用周波数は山頂A1(A2,A3の誤記) 六五二〇〇kc、三島はA1(A2,A3の誤記) 七一四〇〇kc、真空管は送受共UX一二A(一一二Aの誤記)又は二〇一Aを使用した。』 (電波監理委員会編, 『日本無線史』第三巻, 1951, 電波監理委員会, pp347-348)

気象庁が1975年(昭和50年)に編纂した『気象百年史』(資料編 第13章富士山観測所, p374)からも引用します。

『・・・(略)・・・送受信機2台を自作して山頂に上げ8月31日には運用にこぎ着けた(逓信省告示は9月2日)。これは我が国で超短波無線電話が実用化された最初のものである。周波数は65.2MHz、出力5W、呼出符号は電信電話それぞれJGY・富士山観測(山頂)、JGZ・三島気象(三島)で、保守は大変であったが、よくその役目を果たした。』 (気象庁編, 『気象百年史』[資料編], 1975, 日本気象学会, p374)

マイクと並列にブザーがあり、これを電鍵で操作すれば可聴音で変調された電信になるようです。アンテナは全波長の垂直ダブレット式です。

(気象台が完成させVHF実用局第一号送信機と受信機の回路図: 『日本無線史』第三巻, p347)

超短波無線と一緒に据えつけられた短波送信機(富士山-東京の直通回線)の方は8月1日から運用され、観測データを富士山頂JGSから中央気象台JGRへ短波の電信(A1)で送られました(超短波ではありません)。

この短波無線は逓信省告示第1535号(8月13日)で、中央気象台JGAの第三装置(東京)と第四装置(富士山頂)として公表されていますが、コールサインの記載はありませんでした。開局当初には中央気象台と富士山頂は共にJGAのコールサインを使っていたと考えられなくもありません。しかし双方が同じコールサインJGAで交信するのは不便極まりないでしょうから、私は8月1日の運用開始時よりJGRJGSが使われたと考えています。

【参考】 逓信省の官報告示には免許(承認)日の項目はありません。免許(承認)の翌日から場合によっては数ヵ月経過したのちに国民にその事実が告示されました。従って告示は8/13ですが承認された日付はもっと早いです。

『昭和七年八月一日から、国際的に実施せらるべき国際極地及び高層気象観測通報に、本邦も参加する事となり、中央気象台では富士山頂に臨時観測所を設け山頂気象観測を本台(東京)に通報せしむる事とし、左の如き装置を増設した(注:中央気象台JGAは第一装置・第二装置で既に気象放送を実施中)

(一) 中央気象台に第三装置(呼出符号JGR?)として、日本無線電信株式会社製出力五〇W単信式真空管発振機、周波数三八〇〇kc、使用真空管は発振管としてS一〇〇S型、整流管はHK八五〇型二個を用いた。

(二) 山頂観測所には第四装置(呼出符号JGS?)として、水晶制御持続電波単信式送信機一台、周波数七二四〇kc、使用真空管は発振真空管としてUX二〇二A一個、電力増幅真空管として、同じくUX二〇二A二個を用いた、周波数は七二四〇kcで、出力は二五W以下であった。』 (電波監理委員会編, 『日本無線史』第三巻, 1951, 電波監理委員会, pp346-347)

気象庁が1975年に編纂した『気象百年史』(資料編)にある臨時富士山頂気象観測所に関する記述は、1974年に富士山測候所がまとめた『富士山の気象観測90年』から圧縮転載されたものです。その『富士山の気象観測90年』から引用します。

『一方中央気象台との短波は日本無線電信KK製で、山頂7.24MHz 10W(12月に25Wに増力)、東京3.80MHz 50Wの電信回線で8月1日から運用を開始した(逓信省承認は8月13日)。官舎の東側にはこのアンテナが着水保護用の板枠に収められて長く伸びていた。・・・(略)・・・極年観測は8月1日からであったが、観測は7月1日から開始された。最初に観測に従事したのは妹田、三浦、出渕、矢木の4名でこの一行に曽我、桂も加わって無線機の設置工事にあたり、7月28日藤村、水野、田島、村瀬と交替した。臨時富士山頂観測所の所長は中央気象台長岡田武松が兼任したが、実質的な責任者は関口鯉吉であった。・・・(略)・・・観測の成果は(8月1日より短波JGSの)無線電信で毎日3回(6, 12, 18時)本台に通報された。』 (富士山測候所編, 『富士山の気象観測90年』, 1974, 富士山測候所, pp17-18)

Web上では「山頂から超短波で中央気象台へ観測データが送られた」との記述が散見されますが、それは誤りです。東京の中央気象台へは短波7.24MHzの無線電信で送られました。超短波が三島回線だったことは前述の昭和七年逓信省告示第1632号で明らかですし、また上記の写真は「富士山の気象観測90年」(p17)からの引用ですが、これにも超短波は三島回線で、短波が東京回線であることがはっきりと記されています。

アンテナを木枠で覆ったのはアンテナ線にツララ等が成長するのを避けるためで、非常に珍しい写真だといえるでしょう。VHFアンテナは、65.2MHzの送信用と、71.4MHzの受信用の2本あります。短波の富士山頂JGS-東京JGR回線の方を主線とした理由は、安定性の面では超短波の富士山頂JGY-三島JGZ回線の方が優れていたが、三島支台(三島測候所)を経由して東京へ送る手間があったからだと想像します。

ちなみに富士山頂観測所と共に、我国の実用VHF無線の発祥の地である「三島測候所」は国の登録有形文化財となり、2009年(平成21年)4月1日より一般公開されているそうです。

31) 日本初の実用VHF無線の裏話

日本初の民間の実用VHF無線は技術開発面や高所での建設作業面での苦労だけではありませんでした。富士山は神の山、聖地だったからです。『岡田武松伝』から引用します。

(富士山での)通年観測開始のパイオニア(岡田中央気象台長)の苦難は、思わぬところにもあった。

富士山頂に俗人が永住するようなことは、富士山を神とする宗教心の厚い潔癖な人々の癇(かん)に触れた。お山はご神体として冒すべからざる聖地であった。浅間神社当局は、何回か訪問した岡田の人格や気象事業の公共性を理解してはいたが信仰上の大問題とした。岡田の謙虚な態度だけでは事は運ばず、庶務係で建設を担当した三浦喜一は、山頂と富士宮市の浅間神社との間を何回となく往復するという羽目になった。岡田をはじめ関係者の誠意と熱意は、ついに神社当局の心の線にひびき、建設は了承された。だが、問題はそれだけではなかった。

あるとき、国粋主義の大物、笹川臨風が中央気象台へ殴り込みをかけてきた。観測所建設は神聖な山頂を冒涜するので怪しからんというのである。彼は仕込杖(座頭市が持っていたような刀)を持っていたようであった、と田島節夫は噂に聞いたという。いきり立つ笹川に対して、岡田が直接会ったか、観測係主任の三浦栄五郎などが、代理人として対応したか、詳らかでないが、結局暴力は撃退された。後に、軍人におどかされたときに見られるように、このような場合の岡田の態度は誠に豪胆で少しも驚かず、そこには、臆病とも見えるほど自動車に気をつける彼の面影は見られなかった。』 (須田瀧雄, 『岡田武松伝』, 1968年, 岩波書店, p317)

こんな苦労も跳ね除けて、世界でも例をみない高所での通年観測と、観測データを送る超短波無線が実用化されました。

世界的な極年観測は1938年8月で終了するため、中央気象台では同年12月31日まで観測を続行することを決めていました。しかし山頂での観測に従事した熱心な所員たちが、せっかくの観測をぜひとも継続したいと岡田台長に訴えていました。この熱意に動かされ岡田台長は次年度予算要求を決意しましたが、それが認められたとしても執行できるまで1年間の空白期間が生じることになります。藤原咲平予報課長が百方奔走し、三井報恩会から1年分の山頂維持費7,000円の寄付を取付けることに成功し、山頂の「臨時」観測所は継続できることになりました。

つづく>> (1932年11月~1933年4月)「宇田式超短波無線」のページへ