コールサイン

実験局、警察無線、鉄道無線、ラジオ放送局、占領軍(進駐軍)のアマチュア局などのコールサイン(識別信号・呼出符号)の話題を集めました。各サブページはなるべく時代順に並べるようにしました。Citizens Radio(CB無線)以外にあまり興味のない方には、12番目の"AC会議に向けて" 辺りからをご覧いただくと良いかもしれません。プリフィクスのJKは簡易無線(Kan-i Musen)の頭文字から取ったという俗説が正しくないことがお解りいただけると思います。また番外編としてアマチュア無線のDX通信を真似る不法無線集団が使う国籍番号を冠したコールサインの始まりについては、最後の"illegal DX" にまとめる予定です。

コールサインの歴史

無線黎明期のように自己の送信機と受信機の間での実験や、2局間だけで交信実験を繰り返していた時代には特にコールサインの必要性はありませんでした。(他に誰もいないから)2人で「おーい」「はーい」で済んでしまうからです。しかし3局以上になったとたん、それぞれをコールサインで識別する必要が生じます。

では最初に定められたコールサインとはどんなものだったのでしょうか?また無線局を識別するこの符号(コールサイン)を公式に何と命名したのでしょうか?それではコールサインの歴史を、複数の無線局で試験するようになった頃より、振返ってみましょう。

1) 日本初の無線規則「無線電信通信取扱規則」制定

1901年(明治34年)11月13日、我国初の無線規則 『無線電信通信取扱規則』 が海軍省により定められました。

無線電信通信取扱規則当分ノ内別冊ノ通定ム 但シ別冊ハ之ヲ要スル向ニ配布ス』 (明治34年11月13日、海軍省内令第143号)

そして以下の6つの無線局(2海岸局と4船舶局)のコールサインを指定しました。これが日本の公式コールサインの第一号です。

【参考】 豆酸(つつ)無線電信所は長崎県対馬の南端にある雌龍良山(メタテラヤマ)南方の高嶺に建設

また同規則ではコールサインのことを『固有略符号』と命名しましたが、これがそもそもの正式名称でした。

日本で最初に無線の通信ルールを定めたのは海軍省です。日本の無線研究は1896年(明治29年)に逓信省(電気試験所)が手掛けたのがそもそもですから、「えっ、逓信省が先ではないの?」と思われたかもしれません。しかしそうではないのです。逓信省は無線の実用化を海軍省に譲ったのです。

 

海軍省が兵器としての無線応用を逓信省(電気試験所)に相談してみたところ、「逓信省では有線通信網の拡充を急務としているので、お急ぎならば無線研究者をそちらへ出しましょうか」ということになり、松代松之助ほか逓信省の技術者が海軍に出向し、1900年(明治33年)2月9日に海軍省内に「無線電信調査委員会」が誕生しました。

翌1901年(明治34年)に逓信省の実験機を改良した「海軍三四式無線電信機」が6セット完成しましたが、それと並行して試験運用を始めるにあたり、秩序ある通信ルールの策定にも注力していました。このとき制定された「無線電信取扱規則」は海軍省海軍軍令部が日露戦争を総括した公式報告書『明治三十七八年海戦史』(防衛省防衛研究所所蔵)に以下のように記録されています。

『我が海軍は、該電信の軍事上将来極めて必要なるを察し、三十三年(1900年)二月九日、山本海軍大臣は、海軍中佐外波内蔵吉に無線電信調査委員長を命じ、海軍大尉田中耕太郎に同委員を命じ、別に松代通信技師に同委員を嘱託して、これが調査に従事せしめ、次いで同三月七日第二高等学校教授理学博士木村駿吉、海軍教授に任せられたるをもって、同九日また同教授にこれが委員を命ぜり。

じ来これら諸君は、専心研究に従事し、三十四年(1901年)九月四日従来実験し得たる結果をもって、山本海軍大臣に報告し、同大臣は同年十月十八日無線電信機を我が海軍の兵器に採用し、(これを便宜上三十四年式無線電信機と称す)同十一月十三日無線電信通信取扱規則(備考文書第一号参照 【注】第6号の誤り )を定めたり。』 (海軍軍令部編, 明治三十七八年海戦史 第四部 巻四, 第三章 無線電信/第一節 開戦前に於る無線電信/第一目 無線電信の研究, 1911, p105)

 

以下に「無線電信通信取扱規則」の一部条文を引用掲載します。

(読者の便宜をはかるために新仮名使いにしました)これが日本初の無線規則です。

無線電信通信取扱規則

第一章 総則

第一条 無線電信をもって通信を取扱うには本規則による


第二条 無線電信所に於いて普通電信により受信したるものを無線電信にて発信するには所定の式紙に書き改め伝送するものとす 普通電信に関することは一般の規定による


  第二章 電報書法 ・・・(第三から十二条 略)・・・

  第三章 電報電送 ・・・(第十三、十四条 略)・・・


第十五条 無線電信の装置を有する各艦船望楼等を呼出すには各その固有略符号(第五号表)による


第十六条 同時に艦隊艇隊等を呼出すには左の呼出略符号を用いるものとす

  艦隊を呼出すには       A  

  駆逐隊を呼出すには      E  

  艇隊を呼出すには       Z  

  総望楼を呼出すには      Q  

  総艦船、望楼を呼出すには   T  

 

第十七条 艦隊、駆逐隊、艇隊および総望楼の中その二者もしくは三者を同時に呼出すには前条の略符号を併用するものとす

その例左の如し

  艦隊および艦隊を同時に呼出すには        AZ   イフ

  艦隊駆逐隊および総望楼を同時に呼び出すには   AEQ  イヘネ


第十八条 電報電送に用いる添送符号および略符号は左の如し

添付符号

  発信者名の始    ホホ  -・・-・・

  番号        タナ   -・・-・

  字数        ヤ   ・--

略符号

  始信および終信       ・-・・・

  誤謬            ・・・・・・・(注:7短点です)

  送信を中止せよ       --・・-

  緊急電報      キウ  -・-・・、・・-

(~目の)字を連送せよ メ   -・・・-

  今一度繰り返せ   イク  ・-、・・・-

  本文の始      ホネ  -・・、--・-

  承諾        ヨイ  --、・-

  受くべし      ウケ  ・・-、-・--

  待つべし      マテ  -・・-、・-・--

  送るべし      クレ  ・・・-、---

  しかり       ソウ  ---・、・・-

  否         イナ  ・-、・-・

  汝は誰か      タレ  -・、---

  通信終了      M   --

  ここに在り     ハイ  -・・・、・-

  故障(危険あり)  ナラ  ・-・、・・・

  溺者あり      レハ  ---、-・・・

  中継信       X     -・・-


第十九条 数字のみを照校するときもしくは他の文字と混乱する憂いなき場合に限り左の略符号を数字および帰徐線に用いることを得

一 ・   二 ・・     三 ・・・     四 ・・・・   五 -    六 -・

七 ・-  八 -・・    九 ・・-     〇 --     帰除線 ---


  ・・・(第二十、二十一条 略)・・・

第二十二条 無線電信の発信を要するときは先ず受信者の固有略符号を緩々分明(かんかんぶんめい:ゆっくりはっきりと)に連送すること五回にして直ちにその応信を俟つ(まつ:いそがないで待つ)べし

おおよそ一分の後に至るも応信を得ざるときは応信を得るまで同一の手段を反復すべし


第二十三条 前条の呼出しを受けたる受信者は発信者の連呼終わるを待ち速やかに(ここに在り)の略符号の下に自己の固有略符号を加え三回これを連送すべし


第二十四条 発信者前条の応信を受けたるときは直ちに自己の固有略符号を送信し引続き(受くべし)の略符号を一回送り速やかに電報を送信すべし


  ・・・(第二十五から三十九条 略)・・・

  第四章 電報中継 ・・・(第四十から四十四条 略)・・・

  第五章 電報接受 ・・・(第四十五条 略)・・・


第六章 雑則

第四十六条 総て通信機は毎朝起床後ただちに各部の手入れをなし次になるべく遠距離と通信試験を交換すべし但し場合により所在先任艦発信者となり便宜(べんぎ)通信試験を交換せしむることを得


  ・・・(第四十七、四十八条 略)・・・


第四十九条 無線電信の装置を有する各艦船望楼等には日誌ならびに月報を備え無線電信に関する必要の事項を詳細記入すべし但し月報は毎月の初めに於いてその前月のものを海軍艦政本部へ送付すべし

 

第五十条 前条の場所には自己の固有略符号および固有応信時間を第四号様式により又総て他の固有略符号および固有応信時間を第五号様式により備え置くべし

 

第五十一条 無線電信に使用したる着信紙および中継紙にはその欄外に受信機名を記載し置くを要す

2) 日本の公式コールサイン第一号 1901年(明治34年)

上記「無線電信通信規則」第15条で固有略符号(コールサイン)を用いることが定められ、具体的には第五号表が添えられました(下図)。

そして無線を搭載した4艦に栄えある日本初の公式コールサインが与えられました。第5号表の右から、初瀬「C」、八雲「I」、笠置「K」、磐手「H.1」の4艦です。

海上移動局(艦船)のコールサインはC, D, F, H, I, J, K, L, N のアルファベット1文字コールサインと、次にピリオドと1が付くコールサイン(注:ピリオドは表記上だけで、實通信では使わなかったのかも知れません)C.1, D.1, F.1, H.1, I.1, J.1, K.1, L.1, N.1、さらに数字の2を付けてC.2, D.2, F.2, H.2, I.2, J.2, K.2, L.2, N.2、という具合に数字の4までの 9 x 5 = 45局分が将来に備えてこの表で確保されました。

一方、上記4艦船と交信する陸上海岸局として、長崎県に建設する(対馬南西端豆酸無線電信所「P」、(平戸島北端の白嶽の)平戸無線電信所「X」に付与されました。九州北部建設を急いだのはロシアとの海戦を意識していたのでしょう。

陸上海岸局(望楼)のコールサインはO, P, R, S, U, V, W, X, Y で、同じくピリオド1、ピリオド2、ピリオド3、ピリオド4付きまでの 9 x 5 = 45局分が将来に備えて確保されました。

参考】このように逓信省の銚子無線JCSよりも7年も前に、海軍省の豆酸Pと平戸Xが政府公式コールサインの発給を受けています。

通信例1) 軍艦初瀬Cが平戸無線電信所Xを呼出すケース

通信例2) 豆酸無線電信所Pが艦隊を(一括で)呼出すケース

一括呼出しおいて上表2), 3)の応答が混信しないように各局に「固有応信時間」(八雲は40秒、笠置は50秒)が定められています。

翌1902年(明治35年)からは新たに艦船に無線が施設される都度、海軍省は内令で、上記の第五号表を更新する方法をとりました。『内令第七号

軍艦敷島外三艦無線電信ノ通信ニ使用スヘキ固有略符号及固有応信時間左ノ通定ム

明治三十五年二月十二日 海軍大臣 山本権兵衛』

左図[左側]のように2月12日(明治35年 海軍省内令第7号)に

敷島・・・N、 千歳・・・J.1、 宮古・・・C.2、 八島・・・H.4 が、

また左図[右側]の4月1日(明治35年 内令第44号)には

浅間・・・I.4、 高砂・・・I.2

の二艦のコールサインを定めました。

この後に、常盤・・・F.2、高千穂・・・K.1、松島・・・D、厳島・・・C.1、橋立・・・N.1、のコールサインが1903年(明治36年)中に定められています。ちなみに松島D、厳島C.1、橋立N.1は日本三景から名前を付けたことから「三景艦」と呼ばれました。

 

第46条で毎朝の点検と試験通信、第48条で無線電信に関する業務日誌が義務付けられました。また第50条では無線室に第4号様式の自局のコールサインプレートと、第5号表(いわゆるコールブック)の掲示を求めています。

コールサインプレートの規定は次の通りです。

『備考 実物は黄銅製とし固有略符号および固有応信時間は深彫し固有略符号は赤色、固有応信時間は藍色にて色著けす。本様式に示したるCおよび20は特に一例を示したるものなり。』

これは軍艦初瀬のコールサインCと初瀬の往信時間20秒を示しています。コールサインプレートの掲示は通信士に徹底させる目的だったと想像します。

ちなみに逓信省は完全に無線研究を中断した訳ではなく、電気試験所の佐伯美津留技師が研究を続け、長崎-台湾間という長距離通信に成功するまでに力を付けていましたが、あいにく日露戦争(1904-05年)がはじまり海軍無線への混信防止上から逓信省の無線研究は中止になりました。

そういう事情もあり逓信省の無線実用化(公衆通信の開業)は1908年(明治41年)までずれ込み、逓信省が無線規則(無線電報取扱規定, 1908.4.9)を制定したのは、海軍省の規定より7年近くもあとでした。海軍無線は日露戦争で大活躍し日本を勝利に導いたのですから、これは立派な「無線の実用」でしょう。日本における「無線規則の制定」と「実用化」は、海軍省によりなされたといえます。

2) 世界では好き勝手から3文字「早い者勝ち」ルールへ移行

1906年(明治39年)に第一回国際無線電信会議がベルリンで開かれ、公衆無線電報を扱う海岸局と船舶局の国際ルールについて話合われました。そして「国際無線電信条約 付属業務規則 Règlement de service annexé à la Convention radiotélégraphique internationale, (英訳:Service Regulations Affixed to The International Radio Telegraph Convention)」第4条第1項の(2)で無線局を識別する符号を "Indicatif D'appel"(英訳では"Call Letters")と定めました。そして加盟各国の電波主管庁が3文字でそれを構成し、スイスのベルン総理局が登録窓口となり「無線局名録」を発行することで、重複指定を避けることとしました。これが国際的に取り決められた無線局を識別するための符号の始まりで、3文字による「登録が早い者勝ち」ルールでした(それまでは1~3文字の好き勝手なものを使っていました)。

なお英語ではこの符号を「コール・レターズ」としました(まだ「コール・サイン」という呼び方ではありません)

(1906年 国際無線電信条約 附属業務規則 第4条第1項(2) 上:仏語原文、下:英訳文)

 

1908年(明治41年)、我国でも公衆無線電報サービスが始まりました。銚子海岸局JCSJapan ChoShi)と天洋丸TTYの(Toyokisen TenYou-maru)の「局名符号」が国際登録されました。ここで突然「局名符号」という言葉を使ったので補足しますが、上記ベルリンで定められた条約および規則を批准するために帝国議会に送られた日本語訳文上では、無線局を識別する符号"Indicatif D'appel"の事を「呼出符号」としていました(この訳語を作ったのは外務省でしょうか?私には分かりません)。しかし逓信省はこの訳語を採用しませんでした。

逓信省は我国でも公衆無線電報サービスを開始するにあたり『無線電報取扱規定』(公達第341号, 明治41年4月9日, 逓信省)を定めました。この規定において国際無線電信条約附属業務規則で言う"Indicatif D'apple"(英訳:コール・レターズ)を、日本語で『局名符号』としました。以後、逓信省は無線局に関する公達において『局名符号』を用いました。

3) 国際符字列による3文字コールサイン

1912年(明治45年)、ロンドンで開催されていた第二回国際無線電信会議で "Indicatif D'appel" の英訳を"Call Signal (またはcall-signal)"にしました。「コール・レターズ」から「コール・シグナル」に変わりました。そして1912年7月4日、ロンドン会議の技術小委員会で、3文字「コール・シグナル」を「早い者勝ち」ルールで登録するのではなく、事前に各国に文字列を分配しておき、その中から各国の電波主官庁が3文字「コール・シグナル」を構成し、ベルン総理局に登録申請する方式に変更すると決めました。この1912年7月4日が初めて呼出符字列を国際分配した記念の日で、我国には「J」(JAA-JZZ)の文字が与えられました。

すでに銚子無線JCSなど日本の海岸局は頭文字に「J」を使っていましたが、それは国際符字として分配された「J」ではなく、単に「早い者勝ち」ルールで登録を済ませたものに過ぎません。無線局数からいっても海岸局は一桁ですから「J」は極少数派でしかありません。「J」ではない船舶局の方が圧倒的に多いにも関わらず、JCS、JOSなどの海岸局のコールサインの方が露出頻度が高いため、ここは誤解しやすく注意が必要です。頭文字が「J」ではなかった日本の船舶局の局名符号は「J」から始まる3文字に改められ、1913年(大正2年)1月1日より実施されました。詳細は私設実験局のページをご覧下さい。

この国別の文字列は現在では一部数字も使うようになり、国際電気通信連合ITU(International Telecommunication Union)が無線通信規則の中で割り当てていますが、1927年(昭和2年)のワシントン会議までは国際無線電信連合IRU(International Radiotelegraph Union) の総理局(実態は有線電信の万国電信連合International Telegraph Unionの総理局に委託) が委託した万国電信連合の総理局の権限で追加や改正が繰り返されていました。興味がおありの方は「私設実験局」のページをご覧下さい。

(1912年 国際無線電信条約 附属業務規則 第5条第2項(2) 上:仏語版、下:英語版)

 

ちなみに無線局を識別する符号を「コール・レターズ(1906年)」から「コール・シグナル(1912年)」を経て「コール・サイン」としたのは1927年(昭和2年)の第三回国際無線電信会議(ワシントン)でのことです。また国際呼出符字列の分配が、ベルン総理局による業務から、国際無線電信会議の合議事項に移されたのもこのワシントン会議でした。

(1927年 国際無線電信条約 附属業務規則 第14条 左:仏文、右:英文)

 

コールサイン変遷における主要事件

我国の呼出符号の変遷を大きなくくりで示したものが下図です。1915年(大正4年)から1945年(昭和20年)の敗戦までと、電波法が施行された1951年(昭和26年)以降については、官報で検索すれば(テンポラリーな局は別として)ほとんどを知ることができます。しかし1915年(大正4年)の無線電信法施行以前は呼出符号は逓信公報による公達で発表されていましたし、またGHQ/SCAPの民間通信局CCSによる電波統治時代は、対日指令SCAPINで無線局の承認発令しており官報には掲載されませんでした(国民生活に密着した放送局など一部を除いて)。

ではこの二つの時期に使われたコールサインが全然知られていないかというと、そうではありません。いろんな出版物に点在しています。明治時代の船舶局第一号天洋丸の呼出符号は頭文字が「J」ではない「TTY」だったことはWEBで検索しても出てきます。終戦後のCCS統治時代の鉄道関係の月刊誌にはJAコールサインが鉄道で使われていることも記事になっています。しかしそれぞれの分野でその範疇のコールサインが記録されているだけですので、本サイトで網羅的に紹介してみようと思います。

(といってもCCS統治時代の話題が中心です。)無線電信法が施行される以前の「明治時代の局名符号(コールサイン)」に関しては、「私設実験局」のページで呼出符号が決められてゆく国際的な経緯と、1913年(大正2年)1月1日に国際符字「J」による、いわゆる国際規格のコールサインへの新旧対照表なども掲示しました。どうぞご覧下さい。

我国のコールサインの大きな節目といえば、以下の三つではないでしょうか

明治時代の呼出符号からロンドン会議での提案に沿った新呼出符号へ

上図の黄色が1906年のベルリン会議の決定に従い、各国が自由に決めたコールサインをベルン総理局へ登録し重複しないように調整していた時代です。日本では逓信省が頭文字J, Y, T, O, S, Mを、海軍省が頭文字G, K で始まる三文字コールを使いました。

1912年のロンドン会議で呼出符号を各国の持分にあらかじめ分配しておく提案が技術小委員会でありました。この委員会としての議決をみたものの、各国間の調整の必要があり、それをベルン総理局が引継ぎました。そして我国では1913年(大正2年)1月1日に国際符字「J」を使った新呼出符号に切替えました。

全無線局がマッカーサー元帥により承認された呼出符号に

1945年11月20日、対日指令SCAPIN第321号電波統制令でGHQ/SCAPの民間通信局CCSによる統治が始まりました。そして1946年8月29日の対日指令SCAPIN第1166号で日本の全無線局がSCAP(マッカーサー元帥)による承認を与えられ、このとき呼出符号と周波数が大きく再編されました。

AC会議で日本への割当が減じられたため呼出符号を再編

つぎの節目はアトランティックシティ(AC)会議での国際符字に沿った再編で、放送局は1948年(昭和23年)7月1日に、その他の無線局は1949年(昭和24年)1月1日にJA-JRに収容するよう切替えられました。影響を受けた局数では日本無線史上で最大規模の変更でした。なお「JS」は国際的には日本に指定されていたにもかかわらず、日本の無線局は立ち退きさせられましたが、1952年(昭和27年)4月28日、日本の独立で「JS」がようやく返還されました。

【Abstract】 このカテゴリーの各サブページの概要とリンク

アメリカのFCCが発行したCBコールサインは3種類ありました。最も初期のExperimental CB 時代のW2XQDという形式のもの。検定合格機の登場に合わせて発給が始まった19W0001という数字から始まるもの。そしてKから始まる3文字(後年は4文字に拡張)+数字のもので、このページはそういう話題を取上げるために作ったものでした。

しかし日本のSimple Radio(簡易無線)のコールサインが、なぜJKシリーズの、それも22番というような中途半端な数字からスタートしたかを書いてみると、国際的な呼出符号の組立て規則や、1948年9月に定められた日本初のCall Sign Allocation Standard についても触れないと、うまく説明できませんでした。するとAllocation Standard が定められる前のコールサインはどうなっていたか?という前振りもあった方が解りやすいし・・・という具合に、当サイトの主テーマであるCitizens Radio 以外の話題の方が膨れ上がってしまいました。