1945

1945年にFCCはCB無線構想を発表しました。このニュースは通信社を経由して、多くの先進国にも配信され、そして報道されたようです。おそらくCB無線がもっとも世の中から注目された年でしょう。(無線オペレーター資格が不要で、)一般市民に電波を解放する画期的な制度であるばかりか、FCCも干渉せず利用者団体の自主ルールで運用させようとするものでした。

ところでなぜFCCはこの無線制度の名前をCitizens' Radiocommunication Service としたのでしょうか?アメリカにはかつて、国家のものでもなく、特許権者のものでもなく、一般大衆のための電波利用を意味した Citizens Radio という言葉がありました。「みんなの無線」=Citizens Radio はアメリカ国民の知名度の点でもこの制度の名にピッタリでした(狭義ではCitizens RadioとはAmateur免許で行う放送行為)

しかしFCC(当時は商務省)はラジオ局からおこされた訴訟の結果、国には電波を規制する権限はないとする判決が下されて、電波が無法地帯化(ラジオ・カオス)したという苦いを経験しています。本当は制度名を Citizens Radio にしたいと考えていたが、この過去の悪夢が再来しないようにCitizens' Radiocommunication としたといわれています。7月28日のSaturday Evening Post誌での構想発表でも、放送行為を禁止すると強く述べています。

また年回りも悪く、1945年は初のラジオ局KDKA誕生から25年目で、全米の主要都市でCitizens Radio 25周年を祝う記念式典が計画されていた年でした(アメリカは25, 50, 75, 100年のクオーター周期に重きを置くため)。やはり Citizens Radio という単語を使うのは刺激が強すぎるとの判断があったのではないでしょうか。

SUMMARY この年の出来事

Jan. 15, 1945 - Citizens' Radiocommunication ServiceがFCC Docket#6651に盛り込まれる。

Jan. 16, 1945 - FCC Docket#6651を発表。新聞各紙がWalkie-Talkie制度創設を報道。

May 25, 1945 - FCC Docket#6651 Final Report。分配案が確定した。

July 28, 1945 - FCCのE.K.JettがSaturday Evening Post誌で、国民にCitizens' Radiocommunication Serviceを説明。

Nov 12, 1945 - FCCがCtizens' Radiocommunication Serviceの開始時期を、来年夏と発表。

  • FCCの公式見解

世界で最初にCitizens Radio Service(CRS)を創設したのは、米国の連邦通信委員会(FCC:Federal Communications Commission)である。創設者であるFCC自身は、CRSの始まりを以下のように説明している。

1)Jan.15,1945。戦後の周波数分配案(Docket #6651)に、E. K. JettがCRSを織り込んだ。

2)July 28,1945。E. K. Jettがこの新制度の意義を、Saturday Eveningpost誌で国民に直接伝えた。

(FCC Report, 1979,page454)

これまでCitizens Radio の前史にあたる諸事件を紹介してきたが、これ以降のページでは、このFCCの公式見解に沿ってCRSの歴史を説明していくことにする。

  • Jan.15, 1945 (FCC Docket No.6651の記者発表)

1938年のカイロ会議では300MHzまでの周波数分配が国際合意されていた。とはいうものの23MHz以上の分配は留保され、300MHzまでの電波の国家管理を各国合意で宣言したに過ぎない。(ただしAmateurに23MHz以上の電波を勝手気ままに使用させないために、28-30MHz, 56-60MHzのAmateur Bandだけは取り決めた)

しかし第二次世界大戦の勃発で、アメリカは電波関連の技術開発に国家の総力を注いだ。その結果きわめて短期間に驚異的に技術レベルが上昇していた。戦後の新たな周波数分配を見据えて、1944年夏には30GHzまでの周波数分配案(FCC Docket No.6651)が発表された。そして同年秋より各利害関係団体を招集して公聴会が始まったのである。(Docket No.6651の狙いはもうひとつあった。第二次世界大戦の終結後に開催が予定されている周波数分配の国際会議で主導権を握るために、23MHz以上の周波数における「新しい分配プラン」をどの国よりも先に示したかった。)

1945年1月15日の朝、新ポスト・オフィス・ビル(New Post Office Building)の小さな会見室にはおよそ50名の報道記者たちが集まっていた。FCC報道官、海軍・陸軍将校、そしてE. K. Jettが「Docket No.6651」と書かれた分厚い灰色のドキュメントを手に登場し、記者会見が始まった。FCCは公聴会での意見を加味して、"Docket No.6651 Report of Proposed"を発表した。正式なドキュメントタイトルは "Allocations of frequencies to the various classes of non-governmental services in the radio spectrum from 10 Kilocycles to 30,000,000 Kilocycles" である。

このReport of Proposed には460-470MHz Bandを市民無線通信業務(Citizens' Radiocommunication Service)に分配することが含まれていたのである。

記者会見では市民無線通信業務(Citizens' Radiocommunication Service)とは戦地で使われているWalkie-Talkie(携帯無線機)の技術を転用し、民間の個人的用務に無線利用の道を開くものであるとして、以下の様なユースケースを挙げた。

この大戦では陸軍のWalkie-TalkieやHandie-Talkieが実用化されたが、市民無線通信業務の無線機は、それらではない。CIAの前身である戦略情報局OSS(OSS:Office of Strategic Services)の諜報活動用Walkie-Talkieである。

1944年、Al GrossはFCCのE. K. Jettに対して、"OSS Walkie-Talkie"をデモンストレーションした。Al GrossのWalkie-Talkieに惚れ込んだJettは、民間転用のフィールドテストのためにライセンス(W10XVX, W10XVY)を与え、その実験結果に満足し、市民無線通信制度の創設を決意した。しかしOSSの諜報活動は国家機密であったため、記者会見ではこの事は意図的に伏せられた。ちなみに"OSS Walkie-Talkie"が機密指定が解除されたのは1976年になってからである。これについては1942-1943 および 1944-1945 のページを参照されたい。

またFCCがCitizens Radio Serviceではなく、あえて "Radiocommunication" という長ったらしい言葉を採用した背景には、1920年代初頭に大ブームになった"Citizens Radio" (放送行為)が再び許可されると国民に誤解を与えないように配慮したためだと思われる。

  • Jan.16, 1945 (新聞報道で大反響)

各社の記者達は、電波を個人用務に開放するこの制度が、画期的な電波新時代の幕開けを意味すると捉え、'Walkie-Talkie' という見出しで大々的に伝えた。それまで電波は私企業の商船およびその海岸局、ラジオ放送局、個人のアマチュア無線局などを除き、政府や軍の専有物であったことから、それがごく普通の一般市民も使って良いという斬新な考え方が驚きとともに伝えられたのである。

本来なら40MHz帯のFMラジオ放送の周波数がより高い周波数へ変更になることのほうが、(一般リスナーに受信機の買い替えを強要することになるため、)重要な事件なのであるが、Walkie-Talkieがそれを食ってしまった。CB無線70年弱の歴史の中で、これほどメディアから、そして米国民から注目された日は他にはない。

"Era of Walkie-Talkie Radios For Civilians Predicted by FCC"

(The Washington Post, Jan.16,1945,page7)

"NEW BAND FOR FM PROPOSED BY FCC"

"Post-War Channels Outmode 500,000 Receivers -Impetus Given to 'Walkie-Talkie' "

(The New York Times, Jan.16,1945,page1)

“Civilian 'Walkie-Talkie' Slated When War Ends”

(The Christian Science Monitor, Jan.16, 1945)

またウォール・ストリート・ジャーナル紙は、タイトルにWalkie-Talkieという文字こそ使わなかったがPrivate Channels Recommended という表現で市民無線通信制度の創設案をアメリカ国民に伝えている。

"Big Expansion of Radio Sectrum For Government, Private Channels Recommended in Report by FCC"

(The Wall Street Journal, Jan.16, 1945)

一般の日刊紙でさえこれほど大きな扱いなので、電波メディア専門の週刊紙ではWalkie-Talkie制度がより詳細に説明されたことはいうまでもない。

◆ "'Walkie-Talkies' for Citizenry Included in Spectrum Proposal"

(Broadcasting, Jan.16, 1945)

日付は違うが、週刊ビルボードやサイエンス・ニュース・レターズも詳細に報じている。

"Subscription radio, facsimile, by-passed but walkie-talkies get FCC smile"

(The Billboard, Jan.20, 1945, page13)

◆ "Civilian "Walkie Talkie" "

(Science News Letter, Jan.27, 1945)

Walkie-Talkieという言葉を各紙が好んで用いているのは、記者会見では、Citizens' Radiocommunication Service という正式名よりも、もっぱらWalkie-Talkieの語が用いられたためのようである。とにかく70年弱のCB無線の歴史の中で、もっともメディアに注目されたのが1945年1月16日の報道である。

  • March 1945 (FCCのARRLへの説明)

FCCはAmature団体ARRLへ、Citizens' Radiocommunication Service 構想がいかなるものかを、1月15日の記者会見より詳しく説明して、その理解を求めた。それがARRLの機関紙QST(March)に掲載されたが、新聞各紙の報道より詳しく述べられている部分だけを紹介する。

市民無線通信局(CRS)の免許は(Amateurと同じく)、個別周波数を各人に許可する方式ではなく、包括帯域(バンド指定)免許としたいと考えていること。そしてその運用は平野部と山岳部、都市部と農村部で大きく電波事情が異なるだろうから、(ARRLの主導の元に、Amateur の運用が規律運用されている様に)市民ラジオの運用にはFCCは介入せず、それぞれの地域のコミュニティ団体の自主規制ルールに任せてみようと考えていることを伝えた。

つまり E. K. Jett は(わずか460-470MHzの10MHzの空間ではあるが)、電波を国家管理から、再び民衆の手に返還しても良いと考えていたのだ。これゆえにアメリカのCRSが革新的な制度なのである。電波の国家占有が当然とする、欧州や日本で本当に国民に電波を委ねたのは1980年代だった。ここは非常に大切な部分なのでどうか心に留めておいて欲しい。

この他にもリピーターを認めたいや、局免許証はカードサイズのものにしたいなどのアイデアも含まれていた。

    • May 9, 1945 (ヨーロッパ戦線終結)

イタリアに次いで、ドイツも無条件降伏。CBトランシーバーの元祖であるOSS Walkie-Talkie SSTC-502もその役目を終えた。

【注】太平洋戦争にはOSS Walkie-Talkieは使用されていない

  • May 25, 1945 (Docket No.6651 最終案)

さてDocket No.6651提案(Proposed)についての公聴会が2月14日より再開された。Citizens' Radiocommunication Service には特に反対意見はなく、5月25日に最終案(Final Report) として発表され、460-470MHzをCitizens' Radiocommunication Service に割当てる案が確定した。

ところが1月15日のProposedから、5月25日のFinal Report の4ヶ月の間にAmateur無線家にはとんでもない災難が起きた。1月15日のProposedでは10meter Amateur Bandは下表のように28.0-30.0MHzだった。

それが5月25日のFinal Report では10meter Amateur Band は28.0-29.7MHz(300kHz削減)に修正されていた。その原因はISM筋の周波数獲得への強烈な巻き返しである。

ISM筋は27.320MHzを中心に上下2MHzの25.320-29.320MHz(4MHz幅)を要求していた。カイロ条約で南北アメリカ大陸地域に分配されている25.0-27.0MHz放送バンドが、放送用には適していないことが明らかとなり、11m放送バンドの廃止が見込まれていたからだ。しかしFCCはその要求を却下し、ISMを27.320MHzの上下15kHzの27.305-27.335MHz(30kHz幅)とした。4MHz帯域の要求に対するFCCの回答はその1%にも満たない30kHz帯域だったため、怒りに燃えたISM筋が猛反撃に出た。

ついにFCCが屈して、27.320MHzを中心とする270kc幅のISM Band(27.185-27.455MHz)を新設することにした。すると1月のProposedで27MHz帯に配置するつもりだった無線局の周波数が不足し、FCCは10m Amateur Bandの上端300kHzを削減して、周波数を確保するしかなかった。

Docket No.6651の成案に協力してきたアマチュア団体ARRLは「話が違う!」とFCCに対して怒りをあらわにしたが、FCCは取り合わず27MHz ISM BandをAmateurが2次業務として共用しても良いとの(Amateurには割りに合わない)補償を示唆した。これが11m Amateur Band誕生のいきさつだ。詳しくはOld 27MHzのISMのページで述べる。

  • June 30, 1945 (FCC年次報告書にCB実験局の記述が)

FCCは米国議会に対して年次報告書を提出する義務を負っている。1945年度(July 1, 1944 - June 30, 1945)の活動がまとめられた第11次報告書によると、Citizens' Radiocommunication Service の開発のために、5つのクラス1の実験局を承認していたことが報告されている。だがその詳細については解らない。

(FCC 11th Annual Report)

  • July 28, 1945 (E. K. Jett が国民に向けて市民無線通信業務を説明した)

FCCのE. K. JettがSaturday Evening Post誌6月28日号にて、市民無線通信業務(CRS: Citizens' Radiocommunication Service)がいかなるものかを国民へ直接説明した。これには "Phone Me by Air" というタイトルが付けられた。

前述したようにこの記事はCB無線の起源のひとつとして、FCC自身が最重要視しているCB無線に関するドキュメントである。

ここにはCB無線の原点がいかなる発想によるものかが詳細に語られている。何をさておいてもCB研究家ならぜひ目を通しておいて欲しい資料である。

これを読めばもともと460MHz帯のCitizens Radio は企業向けの「業務無線」を目的としたもので、それを一般市民が気楽に使えるものにしたくて27MHz帯にClassDのCB無線制度を作ったという、ありがちなCB史観が実は誤りであることがお分かり頂けよう。

E. K. Jett と Al Grossが目指したものは現代の27MHzのCB無線よりも、もっともっと一般市民の生活に密着したユートピア的無線制度だったのである。460MHz帯こそが真の「市民の生活のための無線バンド」になるはずだったのである。

しかしJettとGrossが夢描いた、FCCも干渉せず自主運用に任された市民無線の理想郷は実現しなかった。生まれるのが早すぎたのだ。そして結果的には世界中のCBersから、上記のような誤った歴史観で総括されるに至ってしまった。さぞかし創始者の二人は無念だろう。

以下に引用して要旨を紹介するが、私の意訳なので、CB史研究家ならばぜひ原文をご覧いただきたい。

記事ではまず市民ラジオの想定されるユースケースを物語調に2例紹介したあと、第二次世界大戦で無線技術が格段に進歩したことを受けて、30Gcまでの周波数を分配することになったと説明したうえで、市民ラジオ制度の核心の解説に入る。

◆なぜ460Mcの様な高い周波数になったか?

『一般的にいえば周波数が低いほど、技術的には容易ですし、製造コストも抑えられ、実現性が高まります。今回の周波数分配プランの策定では、FMラジオ放送、テレビ放送、警察無線、航空無線、政府機関無線など、各方面からの電波の分配要求を加味した結果、市民無線通信業務に分配できる周波数の中で、もっとも低い周波数が460Mcでした。ですがこの周波数は、この戦争用に開発された無線機で得られた経験を生かせば実用化できます。

そしてこの周波数は電波伝播上は昼も夜も無く、安定して、常に見通し距離しか届かないため、同じ周波数をより多くの人々で共用できるメリットがあります。この国を何千もの小ゾーンに分けて、市民無線通信の周波数を上手に共用するかもしれません。各ゾーンごとに70から100チャンネルを割り当てます。ひとつのチャンネルあたりに平均で10から20の加入者が利用しますが、それぞれの通信時間は1日の中のごく僅かですので共用は可能でしょう。』 この小ゾーン無線システムの思想から、E.K. Jett やAl GrossはCeller Phone(小ゾーンセル式の携帯電話システム)の発明者とも呼ばれている。

◆ユースケースについて

『広く国民の家々に市民無線通信業務が浸透すれば、市民無線機に「緊急通報機能」を追加することで、女性は平穏で安全な生活を送れます。自動車の利用者ならば、オフィスと車中のセールスマンとの間で、あるいは自宅と車中の家族間で常に連絡が取れます。休暇シーズンには2台以上の自動車で旅行中に、1台の車が突然の都合で別行動を始める時に連絡ができます。そして目的地に着いたた後も、昼間はそれぞれが別行動を取っても、常に市民無線機で連絡が取れますし、もし事故が起きても救助を求められます。狩りに行くグループが市民無線機を持ち寄れば、単独行動している一人が獲物を見つければ、すぐ仲間を集められます。この件はペンシルバニア州でのクマ猟で充分に実証されました。』 このようにペンシルバニアでの熊猟で、実際にWalkie-Talkieの有効性が試されたと記されているが、おそらくはAl GrossのW10XVX, W10XVYによるフィールドテストのことであろう。

『 また何百台もの無線機が個人に普及することで、戦時下における民間防衛システムとしても機能するでしょう。医者は市民無線機を使った緊急連絡で、迅速に現場へ急行できますし、刻々と伝わる新しいメッセージに従い臨機応変に巡回ルートを効率良く組み替えできるので、無駄な運転が減少します。さらに医師は(有線で固定式の)電話器のそばで待機することから解放されるでしょう。

これは車を使うあらゆる業務で同じことが言えます。市民無線機を使うことで配送車両の走行距離を減らすことになるでしょう。小さな都市のタクシー会社はガソリンやタイヤの消耗を押さえられます。大きな工場の建設現場では、たくさんの作業員に一斉に指令をだせます。自衛消防団ではリーダーが各団員から状況報告を受け、みんなに的確な指示を与えます。

ところで460Mcの電波は高層ビルにさえぎられて、通信距離が短くなりますが、大都市で通信範囲が都市全体に広がるように、さまざまな地点に中継無線局を建設し、この問題は解消されるでしょう。

また市民ラジオが車に組み込まれると、あなたの車が自宅に近付くとガレージの照明が灯り、扉が開き、室内であなたの帰宅を待つ家族にベルで知らせるでしょう。これは商業施設や大邸宅のガレージに特に有効です。また市民無線機による盗難警報システムの可能性もあります。このリモートコントロール機能は、有線が敷設できない地形や、経済的な理由のときにおおいに役立つでしょう。』

◆市民無線のウォーキー・トーキー

『市民無線装置は最新の陸軍のWalkie-Talkieとは異なります。軍用無線機のような厳格な技術仕様を求めないために、陸軍のそれよりも簡単で安価な装置です。市民無線のWalkie-Talkieがどんなものかは軍事安全保障上の理由から話せませんが、機密ではない部分を少し紹介しましょう。

Walkie-Talkieは携帯型タイプライターのような小型ケースで運ばれ、2Wで通信距離は3から5マイル(5から8km)です。また0.5WのHandie-Talkieなら1から2マイルの通信距離でしょう。バッテリーについても、この戦争で随分と改良されています。

我々は軍用のWalkie-TalkieやHandie-Talkieの開発により、多くの技術的な知見を得ましたが、市民無線用の装置はまだ完成してません。軍用無線機の周波数は460Mcではないため、技術者が460Mcで動作するように設計変更したり、Walkie-Talkieが量産できるようにするために、これからいくつかの実験を行う必要があります。

市民無線装置はまだ机上のプランですが、やがて大量生産が始まれば、Walkie-Talkieで$100に、Handie-Talkieで$50になるだろうと、ある大手メーカーは予想しています。

さてあなたが市民無線機のユーザーになった時、いつ来るかわからない呼び出しを逃さないように、常に待機しないで済む機材もあります。特定のブザー音の組み合わせだけに反応させるものや、特定の電信パルスの組み合わせにだけに反応させる機材です。それを使えばWalkie-Talkieは(有線の)電話器とまったく同じように機能して、あなたは静かに呼び出しを待つことができます。しかしそのような機能のために、真空管の維持と、電気のコストを払うのは、限定的な使い方の一般ユーザーには受け入れられないでしょう。不要な出費を回避するためには、毎時はじめの5分間を通信時間とするように、お互いスケジュールを決めた使い方になるでしょう。』

◆自己運用ルール

『市民無線通信業務のWalkie-Talkieは、家庭のラジオ放送用の受信機と同じくらい操作は簡単ですので、技術知識は必要ありません。誰でも市民無線機を使えますが、FCCのライセンスだけは必要です。唯一の特別な制限は「外国人には許可しない」ことです。

ライセンスの有効期間は5年間で、費用は無料です。しかしライセンスは使う周波数の所有権を付与するものではありません。市民無線通信用の周波数をみんなで共用する権利が与えられるだけなのです。市民無線通信用の周波数の使い方をみんなの自由に任せると、10Mcもある周波数なのに、特定の周波数が大混雑になる一方で、まったく使われていない周波数が出てくることは十分に考えられます。

周波数の効率的な利用を促進するために、FCCは地域団体のような組織を通して自主運営されることを推奨するでしょう。そして各ゾーンの地域団体は、市民無線通信の利用者の便宜を図るための、使用周波数と運用時間が書かれた「電話帳」のようなものが発行されることでしょう。そしてまた地域団体はそのゾーンの地域性に応じた運用規則を採用するでしょう。FCCはそれらを支援するために準備します。

FCCはそれぞれの州政府が市民無線通信をうまくコントロールしていくと思っていますが、今のところ2つだけ全国的な規制を考えています。電報業務の受託のように通信料をとってメッセージを送信することと、放送局のように一般大衆に向けて放送を行うことを禁止します。もし必要ならさらに制限を追加します。』 Jettは市民無線通信業務へのFCCの規制は最小限に留めて、州の規則や民間の運用ルールに任せようと考えていた。このような方針は欧州や日本では在り得ないものである。たとえばCitizens Radio をまねた日本の簡易無線は一般人にも免許しようというだけであって、その運用規則までもをユーザーに任せる考えはなかった。

◆人々の声

『最後に読者のみなさんにぜひ覚えておいて欲しい事があります。通信法(Communications Act of 1934)に照らし合わせて、国民にとってこの市民無線通信制度には利便性があり、必要なものであることが立証されなければなりません。人々の要求が充分でなければFCCはそれを廃止しますし、必要性が増すと、より多くの周波数が使えるようになるのです。

市民無線通信業務は様々な生活シーンで役立つだけでなく、アメリカの高い雇用水準を維持するのにも役立つはずです。メーカーは何十万台もWalkie-Talkieが売れ、そしてその量産効果で価格が下がれば、さらに人気が高まっていくでしょう。無線機メーカーの労働者だけではなく、卸売業者、小売業者、営業マンなど、あらゆる分野で大規模ビジネスが創出されて、雇用が拡大します。戦地で無線技術に携わってきた何千人もの退役軍人は、無線機の修理屋さんとして地元で暮らせるようになるのです。』 実際のところE.K.Jettの言葉どおり、1950年代に入ると利用率が一向に上がらない460-470MHz市民無線バンドは大幅カットされてしまうのである。

  • Aug. 15, 1945 (ポツダム宣言受諾・・・日本)

1945年(昭和20年)8月15日、日本帝国政府はポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦が終了した。なお終戦直後の日本の電波界の状況についてはGHQ/SCAP CCSのページを参照されたい。

  • Sep. 10, 1945 (W6XAGが許可)

1945年9月10日、FCCはAl Gross に対してClass 1 Experimental (W6XAG)が許可し、市民用Walkie-Talkieの研究開発が始まった。

Al Grossは1945年にW6XAF, W6XAG, W6XAHの3つのClass 1 Experimental Station の許可を得ているが、そのうち詳細が明らかなのはこのW6XAG だけである。移動範囲をオハイオ州内に制限されたPortable またはPortable-Mobileで、電波型式は無線電話のA3,F3、周波数はその都度FCCから別途指定を受けることになっている。

  • Oct. 2, 1945 (GHQ/SCAP, CCSが日本の無線局の一切の新設・変更の権限を掌握・・・日本)

1945年10月2日、連合国総司令部総司令官GHQ/SCAP(SCAP:Supreme Commander for the Allied Powers)一般命令第11号で民間通信局CCS(Civil Communications Section)が設置された。日本の無線局は9月2日と9月3日付けの対日指令により現状固定が命じられていた。今後新たに無線局を開設したり、指定事項を変更するには、その都度CCSの承認を得なけらばならなくなった。

  • November 1945 (日比谷にCIE図書館が開設される・・・日本)

連合国総指令部GHQの下部組織である民間情報教育局CIE(Civil Information and Education Section)の図書館の第一号が東京の"日比谷"に開設された。

連合国による占領下の時代は日本国民の海外渡航は原則禁止されていたが、市民ラジオ制度の動向情報はアメリカとほぼ同時に日本へも伝わっていたのである。アメリカ文化を日本へ浸透させるために、日本各地の主要都市にCIE図書館が開設されて、アメリカのあらゆる分野の書籍や、雑誌、新聞が自由に、そして無料で閲覧できたからだ。特に学生や研究者、企業の開発技術者には宝の山だった。もちろんE.K.Jettの市民無線通信業務の創設に関するSaturday Evening Postの記事も多くの日本の無線関係者の目に留まっているはずだ。

  • Nov. 12, 1945 (市民無線制度は来年夏と見通しを発表)

1945年11月12日、E. K. Jett はA.P.通信社とのインタビューで市民無線通信(Citizens' Radiocommunication Service)制度の準備状況について語った。

Jettは"Walkie-Talkie" は来年の夏頃には発売になり、25,000台ほど使われているだろう。さらに1年後には25万台に達するだろうと語り、ワシントンポストやロサンジェルス・タイムスで記事になった。

"Walkie-Talkie to Be Sold To Civilians by Mid-Summer"

(The Washington Post, Nov.13, 1945, page4)

"WALKIE-TALKIES MAY BE AVAILABLE BY NEXT SUMMER"

(Los Angeles Times, Nov.13, 1945, page2)

しかし残念ながら、このJettの目論み通りに事は運ばなかった。