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83) 津軽海峡で70MHz帯の3通話路回線の試験 (1936年2月)
1936年(昭和11年)2月、津軽海峡横断VHF無線の試験が行われた。
83b) 白馬岳と北城局にも (1936年夏)
『昭和10年には立山~富山間に超短波無線電話が開通し、公衆電報の取扱を開始したが、よく11年信越の地にも白馬岳~北城局(現白馬電報電話局)間に子の超短波によるはじめての無線電話が開通し、電報の取扱を行なうこととなった。使用した機器は名古屋逓信局の設計製作によるもので、機器を構成する部分品はいずれも再用品、不用品を加工し、または修理して製作したもので、特に電源は蓄電池を用いたので、山において充電するには多くの難点があった。しかし登山者にじん大な利便を与え、また遭難救助等に際しては敏速な通信の威力を遺憾なく発揮し、下界との連絡を全うして大いに喜ばれたことはいうまでもない。
その後昭和15年にいたり、乾電池を使用する超短波無線機が本省から交付され、一般公衆通話にも利用させることとなり、さらにすすんで北城、大町、松本の各市内電話加入者への一般通話が開始されたのであった。この無線機は出力1ワットで従来のものにくらべて四分の一にすぎなかったが、白馬(2,720メートル)~北城(685メートル)間は水平距離12キロで、その間しゃへい物もなく。比較的好条件をそなえていた関係上感度も良好であった。このとき東京、名古屋に対しても、通話試験が行われ予想外の好成績であったが、市外トラフィックの問題を考慮し通話範囲は上記3局(北城、大町、松本)にとどまった。
翌16年からは東京、名古屋、長野とも通話できるよう通話区域が拡張され。1万尺のアルプス山頂と東京、名古屋の大都会と居ながらにして話ができるようになり・・・(略)・・・こうして開設された白馬岳の無線電話も選挙区の重大化につれ、昭和18年8月を最後に26年6月の再開まで8年間のブランクとなった。』(信越電気通信局編, 『信越の電信電話史』, 1972, 日本電信電話公社信越電気通信局, p372)
84) 日本電池と日本電気が日電工業株式会社を設立 (1936年12月)
1936年(昭和11年)12月、日本電池株式会社は日本電気株式会社と共同で日電工業株式会社(仙台市長町宇山根街道南)を設立しました。日電工業は日電電波工業の超短波事業を継承し、携帯式の軍用超短波分野へも販路を拡大させました。
85) 新潟県 新潟-佐渡 VHF警察無線 着工 (1938年7月)
1938年(昭和13年)7月、新潟県庁(警察部)と佐渡の白瀬を結ぶVHF帯警察無線の建設が始まりました。
『 新潟県庁が警察無線として新潟佐渡島間に超短波装置を実施した時も同社(日電工業)が機器の製作並びに工事一切を引き受け、昭和十五年に完成した。両局間は海上六〇km、使用周波数は四三・五Mc及び三五・五Mc、送信出力は約二〇Wである。呼出装置により、且つ有線連絡装置を有し、各地と電話連絡をなし得るもので、簡便なところ特徴である。』 (電波監理委員会編, 日本無線史 第11巻, 1951, p132)
86) 千歳鉱山株式会社 初の陸上私設無線電話回線 (1938年11月)
1938年(昭和13年)11月11日。
87) 津軽海峡で70MHz帯の6通話路回線の試験 (1939年2月)
1939年(昭和14年)2月、再び津軽海峡横断VHF無線の試験が行われ、6通話路を達成しました。音声ベースバンドの2.4kHz帯域(300-2,700Hz)を34.0-36.4MHz(ch.1)、38.4-40.8MHz(ch.2)、42.8-45.2MHz(ch.3)、47.2-49.6MHz(ch.4)、52.6-55.0MHz(ch.5)、58.0-64.0MHz(ch6広帯域)で送れました。ch.6は6MHz帯域です。
88) 陸軍の超短波回線にも八木宇田ビーム (1939年8月)
1939年(昭和14年)5月1日、寺師義信陸軍軍医学校長は板垣征四郎陸軍大臣に同校(東京新宿)と富士山頂にある同校の分業室を結ぶ超短波回線を申請(医校第214号)し、同5月11日に開設を承認されました(陸普第2946号)。
この陸軍軍医学校衛生学教室の富士山分業室は、高空環境が飛行機のパイロットにどのような影響を与えるか、またどのような対策を講じるべきかを研究する「航空医学」の拠点として、1938年(昭和13年)8月に設置されたものです。
【参考】 戦前の日本では逓信大臣、陸軍大臣、海軍大臣の三名が、それぞれ所管の無線局に対する許認可権をもっていました。
納入された超短波無線機は日本無線史第11巻によると、日電工業の宇田式超短波無線機でした。
『宇田現象を利用した(呼出装置を装備している)超短波器は陸軍において富士山頂と東京戸山ヶ原軍医学校との間にて実用された。』 (電波監理委員会編, 日電工業株式会社, 日本無線史 第11巻, 1951, pp131-132)
工事要領別紙には開設の目的を新宿の陸軍軍医学校(60MHz, 呼出符号HGN)と、富士山の同校分業室(43MHz, 呼出符号YGN)間で行われる『航空医学に関する緊急なる連絡』としています(左図:クリックで拡大します)。
なおHGNはともかくとして、YGNは日本に割当てられた国際符字列にはありませんが、公衆通信を行わない無線局のコールサインの組立ては各国電波主管庁の自由ですから、YGNを使うのは問題ありません。
また空中線電力は10W、使用する空中線は次のように記されています。
『高さ約七米の木柱各八を軍医学校軍陣衛生学教室屋上および富士山観測所北方海抜約三、七五五米の地点に建設しこれに半波長の垂直空中線および反射器を装備す』(下図)。
木柱を8本も建てていますから導波器も含まれているように想像できますが、少なくとも反射器付きの八木・宇田ビームアンテナが日本陸軍で使われた初事例となりました。太平洋戦争開戦より2年以上前の出来事です。
89) 瀬戸内海 今治-魚島 宇田式超短波無線電話で試験
1939年(昭和14年)、宇田式超短波無線電話機で今治-魚島間の通信試験が行われました。
90) 8エレ八木宇田アンテナと遠隔制御機で 今治-魚島 開通 (1939年9月)
1939年(昭和14年)9月。
91) 宗谷海峡で超短波の伝播試験
1940年(昭和15年)。
91a) 津軽海峡の超短波多重電話回線が開通
『15年5月5日津軽海峡の石崎~当別間に60MHz(6CH)超短波多重電話回線が開通し、わが国の超短波時代の幕開けとなった。』(日本電信電話公社福岡無線通信部九州無線史編集委員会編, 『九州無線史』, 1984, 日本電信電話公社福岡無線通信部, p72 )
92) 八木宇田アンテナの特許期間が満了 (1940年5月)
1940年(昭和15年)5月。
92a) 朝鮮海峡を超短波が結ぶ
『九州における初の超短波回線の建設は旧国際電気通信株式会社で施工され、17年10月1日野北(福岡県糸島郡野北町)と釜山(現韓国)が対馬の厳原経由で結ばれた。この超短波回線は、日本~満州(満州:現在は中国東北部の地方)無装荷ケーブルのうち、朝鮮海峡海底ケーブル障害時あるいはふくそう時の救済用であり、津軽海峡に使用したものとほとんど同様の甲型設備(90MHz, AM方式)を使用した。また日本で初めての中間中継地を有する超短波回線でもあった。・・・(略)・・・終戦後、韓国側への部品の補給が絶え、ついに21年1月15日運用を停止した。』(日本電信電話公社福岡無線通信部九州無線史編集委員会編, 『九州無線史』, 1984, 日本電信電話公社福岡無線通信部, p72 )
93) 富士山-八丈島 (B29防空警報用)超短波回線が開通 (1944年11月)
1944年(昭和19年)11月30日に開通。
八丈島の三原山山腹の洞窟に超短波中継所が建設され、3回線(東部軍司令部、木更津航空隊、民間用)が確保された(山田平右エ門, 『戦時下の八丈島』, 八丈島老人クラブ連合会, 1996, p44-45)。