国際呼出符字列

国際呼出符字列分配表は1912年(明治45年)7月4日、ロンドン会議(第二回国際無線電信会議)技術小委員会で決議され、同年8月31日のベルン総理局通達第37号で使用が始まりました。これは呼出符号の組み立てに使えるアルファベットを事前に各国に分配しておこうという趣旨でした。国際呼出符字列表が作られた時代背景と、第一世界大戦やロシア革命で大きく塗り替えられた分配表の変遷を紹介します。

(関連する明治の呼出符号のページもご覧下さい)

国際呼出符字列 目次

1) 登録制(早いもの勝ち)だった国際公衆通信の呼出符号

1906年(明治39年)10月3日-11月3日、ドイツ皇帝の呼び掛けで 第一回国際無線電信会議(通称:ベルリン会議)が開かれ、国際公衆通信(無線電報)の取り扱いルールを決議した(発効は1908年7月1日)。

このとき定められた「国際無線電信条約附属業務規則」から呼出符号に関する部分を抜粋する。

第4条

第1項 総理局はその任務として条約第一条に掲げたる無線電信局局名録を作成す 【注】条約第一条の無線局とは公衆通信業務(電報)を扱う船舶局と海岸局

この局名録には各局につき左の事項を記載するものとす

(2) 呼出符号(符号は互に異なることを要し かつ各三字の連集よりなることを要す)

第38条

総理局は無線電信局に関する同一符号の採用を避くることに注意するものとす

電報取扱い上のミス防止から、国際公衆通信(=無線電報)を扱う船舶局や海岸局の呼出符号をアルファベット3文字に統一し、万国電信連合のベルン総理局(スイス)国際登録することが定められた。

「早いもの勝ち」ルールであり、以下の流れでコールサインが決まった。

  1. 各無線会社(国営なら政府)が自局の3文字コールを考案する。

  2. (自国の電波主管庁経由で)その3文字コールをベルン総理局へ登録申請する。

  3. 受理した総理局は、その呼出符号が既に使われていないかをチェックする。

  4. もし重複がなければ、総理局は無線局名録の原簿に追加登録する。

  5. 総理局はその事実を加盟各国の電波主管庁へ通知する(変更・廃止も同じ)。

  6. 新規局がある程度まとまると、総理局は「局名録追補録」を発行する。

  7. さらに追補録がまとまると、総理局は「無線局名録」の新版を発行する。

2) 呼出符号の国際登録がスタート(1908年)

1908年(明治41年)7月1日、 国際無線電信条約および附属業務規則発効。

ベルン総理局は各国・各無線会社より登録申請のあった3文字コールサインの重複チェックを行い、局名録(コールブック)の発行業務を開始した。

マルコーニ社はMarconiの頭文字Mで始まる3文字を登録した。イギリスでもアメリカでも、世界中どこへ行ってもマルコーニ社はMコールなので、実務上(国籍識別よりも)社名識別は使い勝手が良い。しかし早いもの勝ちルールであるため、Mコール必ずしもマルコーニ社の無線局でなく、例え東京高等商船学校の練習船大成丸はこの時期に呼出符号 MTSを国際登録し獲得してい

【参考】 米国だけは少々事情が異なた。ベルリン会議(1906年)で定めた国際無線電信条約および付属業務規則の最終議定書にサインはしたものの、国内の無線法が未制定(電波国家管理未導入)だったため、この条約および業務規則の批准が進まなかった。そのため米国ではベルリン会議の条約・規則が発効した後も、無線会社が独自に決めた昔からの2文字コールサインを使い続けた。米国による条約批准は(国内無線法制定のめどがたった)1912年(明治45年)5月25日である。そして米国政府ベルン国際呼出符字列分配表(修正第二版)に基づくコールサイン発給することを告示したのは、1913年(大正2年)5月9日で、無線先進国の中で一番最後に実施された

こうして始まった呼出符号登録制度だったが、登録局が増加するにつれ、の方式の限界が認識されるようになった

3) ロンドンで第二回国際無線電信会議を開催(1912年)

1912年6月4日から7月5日まで、ロンドンで第二回世界無線電信会議(通称:ロンドン会議)が開かれ、国際無線電信条約および付属業務規則が改定された。

日本政府代表として海軍省から黒瀬清一少佐が、陸軍省から井出謙治大佐が、逓信省から坂野鉄次郎逓信管理局長と中山龍次逓信技師の計4名が参加した(坂野氏は第一委員会の副議長に選出された)。

【参考】戦前は逓信大臣、海軍大臣、陸軍大臣がそれぞれが所管する無線局の許認可権を持っていたため、この三省から政府委員が選抜された。

4) 早いもの勝ち式の登録制の懸念点

前回(ベルリン, 1908年)の附属業務規則第38條では 『総理局は無線電信局に関する同一符号の採用を避くることに注意するものとす』としていたが、今回のロンドン会議でも同じ文面を附属業務規則第44條として採用することになった。ただし総理局の重複チェックの運用方法については懸念点があった。

ベルン総理局では国際登録された「無線局名録」(コールブック)を発行し、各国の電波主管庁はこれを見ながら空いている3文字コールを総理局に登録申請する。そして総理局はそのコールサインが重複するものではないことを確認して登録する。

しかし「局名録」そのものは、初版(1909年8月)と第二版(1911年4月)の過去二回作成されただけで、新規局の追加や廃止等はその都度、総理局から各国に告示され、それがある程度まとまると「追補録」が作られた。もし今後、無線局数が飛躍的に増加したならば、はたしてこの方法で対処できるのかと懸念されたのである。

5) ロンドン会議の技術小委員会で国際呼出符字列を討議

ウェブスター氏

ロンドン会議最終日の前日(7月4日)、アーサー・G・ウェブスター(Arthur G. Webster)博士(左図)を議長とする技術小委員会において、呼出符号と、Q符号や「CQ」などの通信略号が討議された。呼出符号に関しては「各電波主管庁が自国に事前分配された文字列で3文字呼出符号を構成し、それを総理局へ登録する方式へ転換すべき」との議案説明があった。

「早いもの勝ちルール」が各国の電波主管庁の計画的なコールサイン発行の障害になっているは誰の目にも明らかだし、事前に各国へ頭文字を分配しておけば、重複チェックは申請国の電波主管庁の仕事でもあり、総理局の重複チェック義務(規則第38條[旧]・第44條[新])の負担軽減となる。各国の電波主管庁にとっても計画的にコールサインを使用できるメリットがある。まさに両者両益の名案で、ただちに受け入れられた。

ちなみに新コールサインだと国籍が一意に特定できるため、アマチュア無線の国際通信でその利便性は高いが、そもそもは呼出符号で国籍識別するのが目的ではなかった(実務上では国籍が分かるよりも、Mなら世界どこでもマルコーニ社というように社名が分かるほうが便利だった)。

6) ロンドン会議における国際符字列の各国の要求

ロンドン会議における各委員会の公式報告書はITUのWebサイトで閲覧できる。

1912年7月4日の技術小委員会の報告書(下図)によると出席したのは、独、米、仏、英、伊、オランダ、ロシア、オーストリア=ハンガリー、ベルギーの9ヶ国と、電信連合事務局およびいくつかの無線会社の代表だった。さて各国のわがままな要求の結果が下図右である。

各国の符字列要求

出席9ヶ国でほぼ全ての文字を奪い合ってしまい、残ったのは「J」と「X」だけだった。Q符号との混同を避けるため、呼出符号へのQの使用は当初より除外。また「J」が残されたのはこの会議を欠席していた日本への配慮ではないだろうか?

なお同年3月のベルン総理局の通達ではI列(IAA-IZZ)は国際的な特別な用途に指定するとされていたが、イタリアがこの通達を無視し自国への分配を要求した。

7) ロンドン会議で、呼出符号の国際符字列分配を決議

しかし空きが「J, X」だけだと、日本、ルーマニア、スウェーデン、トルコなど欠席国の需要に応えらないため、英国のG.ロリング氏(G. Loring)より、お互いに要求を縮小しようとの提案があり、各国はそれに従い、英(B, M)・独(A, D)・米(N, W)が各2つ、仏(F)・伊(I)・露(R)が各一つになった。

こうして最終合意に至った国際呼出符字の分配が下図である(幸い日本には「J」のすべてが指定された)。

国際呼出符字列分配表(初版, 1912.7.4)

文字Qは通信略号に使うため呼出符号の構成文字から外されたが、上表最下部にあるとおり、文字E, G, H, K, L, P, V, X, Y, Z およびCXA-CZZ, OUA-OZZ, TNA-TZZ が将来に残された。

【参考】ロンドン会議ドキュメント集(Documents de la Conférence Radiotélégraphique Internationale de Londres)7月4日 技術小委員会報告書(Rapport de la deuxième Sous-Commission technique, 4 Juillet 1912)国際呼出符字の導入とその分配に合意したことが記録され、ITUのWebサイトで公開されている。

8) これが初の国際符字列分配表 1912年7月4日

上記の通り当時の原文では国別に分配文字が記録された。現代の我々が見慣れたアルファベット順ではないのでちょっと見難い。

そこで(私が)に文字列をアルファベット順に並べなおした表が以下である。これが最初の国際符字列分配表になる。

(黄色は独占。緑が複数国で分け合った文字。白は未分配。灰はQ符号用なので呼出符号として分配せず)。

9) 米国の「先走り報道」?

私には背景情報が不足していて、きちんと説明できないが、興味深い記事があるので紹介しておく。

図はアメリカのPopular Mechanics 誌(1912年8月号)の記事である。 新しいコールサイン秩序として、ベルン総理局が米国に K, W, R, N の頭文字を与えることに同意し、Kを大西洋航路船舶、Wを太平洋航路船舶、RをRevenue Cutters(税関監視船?)、Nを海軍に割当てるとしている。

Popular Mechanics, Aug. 1912

In view of the recent ratification by the Senate of the Berlin convention, the Berne bureau has consented to assign calls to American ships in advance of London radio-telegraphic conference.

The System now adopted gives a series of three letters for each call. The letter K, as the first, is assigned to American vessels on the Atlantic Coast, and W, to vessels on Pacific. R remains the first letter in all calls for American revenue cutter, and N, for vessels of the United States Navy. The list of shore stations with their call has not been completed. ("New Wireless Calls for American Vesseles", Popular Mechanics, Aug. 1912, p156)

たしかにロンドン会議でアメリカはK, W, R, N の4文字を要求したが、そのうち「K」はドイツも要求し、また「R」はロシアも手を上げている。その結果、アメリカは「K」と「R」を獲得出来なかったわけで、この8月号の記事はいわゆる "先走り" なのだろうか?

【追記2015/8/14】 業界専門誌Telegraph and Telephone Age("System of Call Letters in Radio Service", Dec.16, 1912, No.24, p826)によると 、1912年7月1日付で米国船舶局に上記の様に(先行して)呼出符号を割当てたが、獲得できない文字(KやR)があったため修正するとのこと。またTelegraph and Telephone Ageの記事では米国への分配はN、WとKOA-KZZとなっている。このKOA-KZZについては後述する。

10) CQやQ符号のルール化

1912年7月4日の技術小委員会では「CQ等の通信略号」、「Q符号」、「国際符字列分配表」が決議されたが、この3つはそれぞれ異なる形でルール化された。

略号CQはロンドン会議の「国際無線電信条約附属業務規則」第25条(3)に直接盛り込まれた。

自局の通信圏内にある船舶の名を知らざるも これと通信を開始せんと欲する局は-・-・ --・-なる符号(探呼符号)を使用することを得

またQ符号は「国際無線電信条約附属業務規則」第22条に参照先を示す形をとった。

無線電信業務に関する事項を通知または承合するため局は本規則付録に掲載せらるる符号を使用することを要す

官報「国際無線電信条約附属業務規則」

そして規則第二十二条付録「無線電信に使用すべき略号表」の方でQ符号が一括掲載された。つまり規則本文には盛り込まれていない。

左図は1913年(大正2年)6月30日に日本が「国際無線電信条約附属業務規則」を批准した際の官報告示である。このように規則の一番最後に「付録の表」として掲載されている。

【参考】ロンドン会議で採択されたQ符号は45だが、この規則が発効(1913年7月1日)した際にはQSZとQTAが増えて47に増えている。

QSZとQTAはロンドン会議の閉会後にベルン総理局から各国へ追加が通告されたものである。Q符号が規則本文中ではなく、「付録の表」の方にあったため、会議後の追加が簡単にできたのかもしれない。

11) 国際符字列分配表の使用開始(1912年8月31日 ベルン総理局通達第37号)

しかし7月4日に同じ委員会で採択された呼出符号の国際符字列分配表は「国際無線電信条約附属業務規則」に含められなかった。どうしてだろうか?

付属業務規則には以下の通り、局名録にコールサインを承認と登録はベルン総理局に委託された業務であることが明記されており、その具体的な指定方法まで規則文中で立ち入らないとの判断だろうか?

国際無線電信条約附属業務規則

  • 第5條二 総理局は條約第一條に掲げたる無線電信局の局名録追加修正定期附録作成刊行す此の局名録には各局に付左の事項を記載するものとす

第二 呼出符号(符号は互いに異なることを要し且各三字の集合より成ることを要す)【参考】第一:位置(緯度経度)、第三:サービス距離、第四:方式、第五:波長、第六:取扱業務、第七:運用時間、第八:タイムシグナル・気象情報提供の有無、第九:料金 


  • 第44條総理局は無線電信局に関する同一符号の採用を避くることに注意するものとす

私は一番の理由「実施時期の都合」ではないかと想像している

ロンドン会議の「国際無線電信条約および附属業務規則」は各国の議会で批准されるまでの期間をおき、1年後の1913年7月1日に発効させることになっていた(前述の通り、日本の場合、発効日の前日6月30日に帝国議会で批准している)。

【参考】前回ベルリン会議のときも閉会より1年8ヶ月後に発効日が設定された。

もしロンドン会議の技術小委員会で承認された「国際符字列」が、「国際無線電信条約附属業務規則」に含められと、の発効が1年もあとになる。総理局としてはそこまで待てない切迫した状況だったのではないだろうか。

1912年(大正元年)8月31日、ベルン総理局は通達第37号で、ロンドン会議で決議された国際符字列の使用を開始した。はやくもロンドン会議の閉会翌月には実施されたのである。

以上のように「CQ等の通信略号」、「Q符号」、「国際符字列分配表」は同じ日、同じ委員会で議決されたにもかかわらず、前者2つは1913年7月1日が発効日となり、国際呼出符字列分配表だけが先行して1912年8月31日から運用開始された。

12) 日本も国際符字Jコールの使用開始(1912年11月29日)

1912年8月31日、ベルン総理局は国際符字列の使用開始を通達した。スイスのベルン総理局から日本の逓信省にこの書状が届いたのがいつ頃かは分からないが、船便でそれなりの時間がかかっただろう。さっそく逓信省は海軍省と「新Jコールサイン」への切り替えについて協議に入った。両省が使うアルファベットの分配が協議され、JG, JJ, JL・・・などが海軍用になった。

1912年(大正元年)11月29日、逓信省は台中丸(新規開局)に対し、国際呼出符字に基づく「Jコールサイン」JTCを指定した。

これまで慣例に従えば、大阪商船所属の台中丸は呼出符号をSTC(osakaSyosen TaiChu)になる。船舶局の呼出符号の1文字目は所属船会社を示していたが、逓信省はその方針を廃し、JTC国際符字JTaiChu)をベルン総理局に送り国際登録した。

日本が国際呼出符字列によるJコールサインに移行した日はこの1912年11月29日である。

ちなみに1908年5月16日に開業した銚子無線JCSJapan ChouSi)をはじめとし、我国の海岸局はJで始まるコールサインを既に使っていたが、厳密にいうなら、そのJは「国際符字のJではない。たまたま逓信省が「Japanの頭文字J」を冠した呼出符号をベルン総理局へ国際登録していただけである(国際符字列が定められたのは1912年のロンドン会議)。

13) 既設局(逓信省/海軍省)の切替えは1913年1月1日より

国際符字列Jコールの第一号は新設局の台中丸JTCである(1912年11月29日)。では既設局のコールサインはいつ切替わったのだろうか?

逓信省は1912年11月21日の公達第206号で逓信省所管の既設無線局の「新Jコールサイン」を告示し、1913年(大正2年)1月1日に一斉に切り替えることにした。ただし逓信省の海岸局はたまたま頭文字にJを使っていたので変更はなく、船舶局が対象となった。

また海軍省は1912年12月27日の海軍省達第72号で海軍省所管の既設無線局の「新Jコールサイン」を告示し、同じく1913年1月1日をもって一斉に切替えた。

これら日本でのコールサイン切換えの話題は「明治の呼出符号」のページを参照。

14) 1912年12月21日 国際呼出符字列の修正第一版

1912年のロンドン会議後は国際無線電信連合が委託した万国電信連合「ベルン総理局」の権限により各国要求を調整しつつ、1927年のワシントン会議(第三回国際無線電信会議)まで分配表の修正・追加を行った。

1912年(大正元年)12月21日、ベルン総理局は通達第45号を発し、ロンドン会議で決議した符字列を大きく修正した(下図)。

国際呼出符字列分配表(修正第一版, 1912.12)

これが国際呼出符字列分配表のいわゆる「修正第一版」である。

(私の想像だが)ロンドン会議ではC列S列を細かく分けて、無線局数の少ない国々にそれらを機械的に割り振ったため、そうされた国々から不満の声が上がった事による修正ではないだろうか。

15) 国際符字列分配表 初版と修正第一版の比較

上表(修正第一版)をアルファベット順に並べ替えて、さらにロンドン会議で決議した初版(July 4, 1912、使用開始Aug.31, 1912) との違いを表にしたものを下に掲げる。

英国はG系列GAA-GZZを獲得して世界最大の符字列保有国になった。GはグレートブリテンのGでもあるため、当初より英国が狙っていたが、修正第一版で手に入れたものだった。

またK系列はロンドン会議(7月4日)ではドイツ帝国とアメリカの両国が手をあげたため、いったん保留になっていたが、今回ドイツKAA-KCZアメリカKIA-KZZで分け合っている。

国際呼出符字列分配表の比較表

【注】 前述のTelegraph and telephone Age 誌(1912年12月16日号, p826)の記事ではKOA-KZZの12シリーズが米国のものとして書かれてる。これが誤植ではないなら、11月下旬の時点でベルン総理局と米国商務省の間でKOA-KZZ追加が合意されていた可能性がある。

実際には12月21日の通達第45号で、米国は(さらに積み増しされ)KIA-KZZ18シリーズを正式に獲得した。この件は調査継続としたい。

オランダSAA-SMZ(13シリーズ)を総理局へ返し、空き地のPAA-PMZ(13シリーズ)を得た。オランダのフランス語名であるペイバ(Pays-Ba)Pが欲しかったと想像する。

オランダが返したSAA-SMZスウェーデンが獲得し、スウェーデンは持っていたSNA-SOZ(2シリーズ)とUNA-UZZ(13シリーズ)を返却。このUNA-UNZオーストリア=ハンガリー帝国に与えられた。

スペインSXA-SZZ(3シリーズ)を返し、空き地のEAA-EGZ(7シリーズ)を得た。やはりスペインはエスパニアのEが欲しかったのだろう。ギリシャはスペインが返したSVA-SWZを得て、同国の割当をSVA-SZZ(5シリーズ)に拡張された。

ブラジルSPA-SPQ(2シリーズ)を返し、空いていたEPA-EZZ(11シリーズ)を得た。デンマークSSA-STZ(2シリーズ)を返し、空いていたOUA-OZZ(6シリーズ)を得た。このほかメキシコCPA-CPZ(1シリーズ)をチリに渡し、空き地のXAA-XCZ(3シリーズ)を得たため、チリCOA-CPZ(2シリーズ)に拡張された。

Marconigraph英国版1913年2月号

ノルウェーCRA-CTZ(3シリーズ)をポルトガルに渡し、空き地のLAA-LHZ(8シリーズ)を得た。但しポルトガルは元々持っていたCUA-CUZ(1シリーズ)を総理局へ返した。

さっそくマルコーニ無線電信会社が発行するマルコーニグラフ(Marconigraph)英国版が1913年2月号p.495で新しい国際符字列を速報している(左図)。

16) 1913年4月23日 国際呼出符字列の修正第二版

1913年(大正2年)4月23日、ベルン総理局よりの修正第二版として通達第55号が発せられた。

国際呼出符字列分配表(修正第二版, 1913)その1
国際呼出符字列分配表(修正第二版, 1913)その2

まず新規追加としてはシャム(現:タイ)HGA-HHZが挙げられる。英国植民地枠CAA-CMZを返し、V系列(VAA-VZZ)を獲得し英連邦に振り分けた米国は念願であった未分配のKDA-KHZを手に入れた。オーストリア=ハンガリー帝国OAA-OMZ(13シリーズ)のうちOAA-OFZ(6シリーズ)を、空いていたHAA-HFZ(6シリーズ)と交換した。ハンガリーのHの文字が欲しかったのだろうか。

またオランダPJA-PJZオランダ領キュラソーPJA-PJMオランダ領スリナムPJN-PJZに細分化した。興味深いのは3文字目のちょうど半分であるMNの間に境界線を引いたことだ。このようにハーフシリーズと呼ばれる分配は現代でもあるが、国際符字列の制定初期から行なわれていた

ブルガリアSRA-SRZ1シリーズ)を返し、空いていたLXA-LZZ3シリーズ)を得た。ブラジルはなぜかEPA-EZZ(11シリーズ)を返しSNA-STZ7シリーズに減らされている

17) 国際符字列の導入が遅れた米国(1913年5月9日)

1913年(大正2年)5月9日、米国商務省はベルン総理局の同年4月23日通達第55号による国際呼出符字に従い、内の無線局の呼出符号を指定すると告示した("Radio Call Letters", Department of Commerce, May 9, 1913)。

"Radio Call Letters", May 9, 1913

米国はベルン総理局が決めた国際符字列の修正第二版からの参加だった。日本は1912年(大正元年)11月21日の逓信省公達第206号で国際符字Jコールサインへの移行を告示したが、なぜ米国はこんなに遅い時期になってしまったのだろうか。

米国には政府が無線を管理するための法律がなかった(政府が無線局に対し呼出符号を指定する権限ない)ためである。米国で「無線通信取締法 Radio Act of 1912施行されたのは、なんと1912年12月13日だった

18) 国際コールサイン導入までの米国の無線史

1906年(明治39年)のベルリン会議で「公衆通信を扱う船舶局と海岸局は3文字コールサインを使う」と定められ、米国も調印したが、まだ国内の無線法を制定していなかったため、その批准が棚上げになっていた。米国局のコールサインは(国家による指定ではなく)各無線会社が決めていため、昔からの2文字コールを使い続けた局も多かった。そして米国はベルリン会議の条約・規則の発効日1908年7月1日を越えても、これを批准できないという状況が続いていた。

電波を自由に使えた米国では、1909年(明治42年)頃よりアマチュアによる商業局や海軍局への混信事件が急増したため、欧州各国のように国家が電波を管理すべきという意見が台頭した。しかしアマチュアを代表するアメリカ無線協会WAOAのガーンズバック氏やジュニア・ワイアレス・クラブのストークス会長による反対運動もあり、無線法の制定はなかなか進まなかった。

1912年初頭、「無線法案」S-6412の承認がほぼ確実となったことから、ベルリン会議の条約・規則は(同年4月3日に上院通過、同年4月22日に大統領が批准に同意し、)同年5月25日に批准宣言された。

一方、米国の無線法案」の方は同年5月7日に上院を通過し一部修正されたあと、同年8月13日に無線通信取締法 Radio Act of 1912 (Public Law 264, 62nd Congress, "An Act to Regulate Radio-communication")として成立した。そして1912年12月13日より施行されたが、電波先進国の中で一番遅国家管理スタートだった。

米国商務省が、無線従事者ライセンスや無線局免許を発行するようになったが、いわゆる「呼出符号指定基準」をまだ制定していなかった。国家管理がはじまったばかりで、方針が定まっていなかったのかもしれないが、考えられる別の要因として、ベルン総理局の国際符字列分配表への不満がある。

米国は夏に開催された第二回ロンドン国際無線電信会議でW, N, K の3つの文字を要求したが、Kはドイツも手を挙げたため、結局どちらのにも指定されなかった。それが1912年12月21日の国際符字列(修正第一版)でドイツKAA-KCZの3シリーズが、米国KIA-KZZの18シリーズが追加分配された。

米国としては残る未指定枠のKDA-KHZ5シリーズ)をなんとか獲得したかった。しかしドイツは1905年に制定した無線規則により、DまたはKを頭文字とするコールサインを使ってきたという事情から、やはり強くKを欲していた。

あくまで私の想像だが、米国商務省はKの件が決着するまで、いわゆる米国局の「呼出符号指定基準」の制定を遅らせたということはないだろうか?

1913年4月23日の国際符字列(修正第二版)で最後の空き地KDA-KHZを獲得するや否や、米商務省は"Radio Call Letters"(1913年5月9日)でベルン分配表に従ったコールサインを発給することを国内に告示したのである。

【参考】ドイツとのコールサイン上の国境線に当たるKDAは直ちに使用された。同年7月1日付けで商務省より出版された全無線局リスト"Radio Stations of the United States"によると、Atlantic & Caribbean Steam Nabigation Co.(Red D Line)社のフィラデルフィア号(旧呼出符号DA)とカラカス号(旧呼出符号DB)の頭にKを付けて、国際コールサインKDAKDBを与えている。

【注】当時American Lineにも無線を積んだフィラデルフィア号があるがそれとは別

19) 1914年4月1日 国際呼出符字列の修正第三版

1914年(大正3年)4月1日付の総理局通達第68号でいくつか修正された。

新規で割当てられたのがボリビアCPA-CPZコロンビア共和国HJA-HKZドミニカ共和国HIA-HIZの三ヶ国。またブラジルPNA-PZZが追加されたほか、チリCOA-CPZの2シリーズからCAA-CEZの5シリーズに、メキシコXAA-XCZの3シリーズからXAA-XDZの4シリーズに拡張された。

国際呼出符字列分配表(修正第三版, 1914)その1
国際呼出符字列分配表(修正第三版, 1914)その2

ところで日本がJ系列を独占したため、(1913年6月までの時期に)ジャマイカのボウデン(Bowden)海岸局JCAは英領系コールのVPHに、またペルシャのジャースク(Jask)海岸局JKRも英領系コールのVTJへ変更された。日本に返されたJCAJKRは空きコールとして取り置かれ、1914年(大正3年)8月12日になって香取丸にJKRKatoRi)が指定された。

この他に日本へ引き渡された「J」三文字コールサインとしては、船舶局のJAR(S.S. Ragnvald, Norway, LDJへ変更)、JBH(S.Y. Lounger II, USA)、JBL(S.S. Jan Bredel, Belgium)がある。

20) 1915年8月1日 国際呼出符字列の修正第四版

その次の変更は1915年(大正4年)8月1日付の総理局通達第76号だった(表)。

国際呼出符字列分配表(修正第四版, 1915)

イギリスは未分配のY系列(YAA-YZZ)Z系列(ZAA-ZZZ)を独占獲得することに成功した。

【注】 Y列については、いきなり全てをもらえたのではなく、この改訂の直前にYYA-YZZの2シリーズだけを先行して分配を受けている(暫定指定?)。


このほかドイツが未分配ゾーンのTNA-TZZを獲得したり、英植民地枠V系列の中から英領ニューファンドランドVXA-VXZを細分化した。

またベルン総理局による「局名録」第四版(5,490局収録)が1915年8月に出版されている。

21) 中国へ国際符字列 XNA-XSZ が分配されるまで

当時はアジアの東エリアで独立を保てたのは日本、タイ、中国の三ヶ国だけだった。日本は1912年(明治45年)のロンドン会議にて「J」の分配を受けたし、タイもそのすぐ後にHGA-HHZを得ている。

しかし中国清朝は外国からの侵略を受け弱体化する中、1911年10月に辛亥革命が起きて国の存亡にかかわる危機に直面していた。実際1912年1月1日に南京で中華民国が樹立され、2月12日に清の皇帝溥儀が退位し清朝が滅亡した。このような国内の混乱で国際公衆通信の整備に出遅れてしまった。

中華民国の成立から2年半が経った1914年(大正3年)7月7日、中華民国政府はベルン総理局に対して、近く3つの海岸局(広州, 福州, 呉淞)を建設して国際公衆通信ビジネスを開始することを届け出た。

1915年(大正4年)4月19日、中華民国政府が(有線・無線)電信条例を公布・施行したことから、総理局は未分配ゾーンXEA-XZZの中から、暫定措置としてCanton局(広州)にXNP、Foochow局(福州)にXOW、Woosung局(呉淞)にXSGの呼出符号を使うことを認めた。

【注】Canton局ならXNOが妥当のような気がするが、なぜXNPになったか(私には)わからない。

そして1915年8月1日の通達第76号(修正第四版)をもって、中華民国XNA-XSZの6シリーズが正式分配された。なおXEA-XMZ, XTA-XZZは未分配ゾーンのまま残された。

【参考1】福州無線電信局(呼出符号XOW, 波長600/1200/1600m, 出力5kW, 取扱時間0800-2200)が、ドイツ製無線機を導入し、1916年(大正5年)1月1日より、海上の外国船舶局との公衆電報の取扱を開始したが、これが中国自前の国際公衆通信の最初らしい。なお外国の無線局としては米海軍が北京公使館内に開設したNPPのほか、英国の香港租借地BZA、仏国の広州湾租借地FWAなどの無線局が数年前より自国籍の船舶との電報を扱っていた。

【参考2】中華民国が無線電信条約に加盟したのは1920年だが、(有線の)電信条約の改定で、電信条約にさえ加盟していれば、無線電信条約には入らなくても公衆無線電報の発受が認められていた。

22) 第一次大戦でコールサインは激動・混乱期へ

1914年7月28日に第一次世界大戦が勃発したため、1917年に開催されるはずだった第三回国際無線電信会議(ワシントン)は延期になった。また総理局による「局名録」(第五版)が1918年4月に出版された。

1918年(大正7年)11月11日、最後まで残っていたドイツ帝国もついに連合国と休戦協定を結び、ここに同盟国(ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ブルガリア王国)の敗北で第一次世界大戦が終結した。

国が消滅したり、あるいは新たに誕生したりで、ここから数年間にわたってコールサインの分配修正が繰返され、総理局は多忙を極めた。

あまりにも頻繁すぎて正直なところ、私にはその日付や通達番号追い込めていないが、とにかくこの激動期のコールサインの変遷の様子を順を追って記しておく。

23) 1918年末・・・終戦直後の国際符字列分配表

まず「国際呼出符字列ぶん捕り合戦」のオープニングを、(国名が当て字で読みにくいという難点も多々あるが)日本語の分配表で紹介する(下図)。

それにしても表頭にある『瑞西国(スイス)ベルン市万国電信連合総理局は国際無線電信条約加盟国に対し呼出符号頭文字を下記の如く割当て居れり』との説明文を目の当りにすると、あらためて新参者の「無線」は、「有線」には頭が上がらなかったんだなあ・・・という気分になる。(国際無線電信連合を結成したにも関わらず、有線の万国電信連合に総理局を委託せざるを得なかった事情は、明治の呼出符号のページを参照されたい。)

最初は未分配符字列の分配から行われた。しかしその多くを英国、スペインなどが持って行き、新興国には極わずかしか割当られなかった。

国際呼出符字列分配表(1918年末)
  • 未分配 [CFA-CMZ] → 英国CFA-CKZ、スペインCLA-CMZ

  • 未分配 [COA-COZ] → 英国COA-COZ

  • 未分配 [CUA-CUZ] → ポルトガルのCRA-CTZに統合し、CRA-CUZ(4シリーズ)に拡張。

  • 未分配 [CXA-CZZ] → スペインCXA-CXZメキシコCYA-CZZ

  • 未分配 [EHA-EZZ] → スペインのEAA-EGZに統合し、EAA-EHZ(8シリーズ)に拡張。英国EIA-EZZ

  • 未分配 [HLA-HZZ] → スペインHLA-HNUニューヘブリデスHNV-HNZ仏・仏領HOA-HZZ

  • 未分配 [LSA-LWZ] → 英国LSA-LUZグアテマラ(新規)LVA-LVZノルウエーLWA-LWZ

  • 未分配 [OAA-OFZ] → ペルー(新規)OAA-OBZ英国OCA-OFZ

  • 未分配 [XEA-XMZ] → 英国XEA-XMZ

  • 未分配 [XTA-XZZ] → 英国XTA-XZZ

英連邦で使ってきたV系列だが、英保護領ニューファウンドランドVOA-VOZ, VXA-VXZの2シリーズのうちVXA-VXZを一旦、地域保留とした。

また理由はよく分からないが、ブラジルが持っていたPNA-PZZの13シリーズが「ブラジルPNA-PPZ、未分配PQA-PSZ、ブラジルPTA-PVZ、未分配PWA-PZZ」になった。

24) 符字列分配表とは「コールサイン分配表」そのものだった

上表のHNA-HNZだが、スペインニューヘブリデスの境界がHNUHNVの間に引かれ、21:5という変則的な分割になっている。ただちにニューヘブリデスのポートビラ海岸局がHNVの使用を開始し権利を行使すると、スペインは慌てて?(将来境界が見直されて侵食されまいと?)自国の汽船Armuru号に呼出符号HNUを発給し、分配境界において両国が対峙した。符字列の分配は無線界における国境画定のようなものだったのだろう。

1913年の修正第二版から「蘭領キュラソーPJA-PJM蘭領スリナムPJN-PJZ」のように3文字目を半分の13字ずつ(A-MN-Zに)分割する例はあったが、本例のように21字(A-U)と5字(V-Z)という中途半端な分け方はこれが最初だった。

ところでアマチュア無線界では1927年のロンドン会議で「国際符字(1-2)+数字(1)+文字(1-3)」というサンドイッチ形式の特殊な組立て方が採用されて以来、「国際呼出符字列分配表」は呼出符号の"プリフィックス"(接頭文字)という捉え方がある。そのためアマチュア界では例えば三文字でJAA-JSZと表記するより、JA-JSの二文字表記のほうが(利便性があるし)馴染みやすい。

しかし、そもそも「符字列分配表」は(プリフィックス表ではなく)「呼出符号分配表」そのものだった。上記のように符字列が21字と5字に分割されたのは、すなわちHNA-HNUの21局のコールサインと、HNV-HNZの5局のコールサインに分割されたことをダイレクトに示している

後述するがイタリアから分離独立したフューメ自由国はイタリアの持ち分の中からIQBが分離指定された。そのため「符字列分配表」上では"IAA-IQA:イタリアIQB:フューメIQC-IZZ:イタリア"と表記されたのだが、これも良く考えてみればイタリアがフューメ自由国に「IQB」というコールサイン1つを譲ったという意味である。

25) 1919年春ごろの国際呼出符字列分配表

1919年(大正8年)1月18日から勝戦5大国(英・仏・伊・日・米)を中心としてパリ講和会議が始まり、ベルサイユ条約締結へ向けて動き始めた。下表がその頃の分配表だが、基本的にはまだ前述日本語によるものと大差はない。

敗戦国のドイツ帝国A全部, D全部, KAA-KCZ, TNA-TZZ)、オーストリア=ハンガリー帝国HAA-HFZ, UOA-UZZ)、オスマン(トルコ)帝国TAA-TMZ)、ブルガリア王国LXA-LZZ)を「Note A」として欄外へ移し、今後変更されることを匂わせた。

NOTE A. - The calls beginning with A, with D, from KAA to KCZ, and from TNA to TZZ were reserved for Germany and possessions and are subject to change involved in results of the Versailles Treaty of Peace. The same applies to calls from HAA to HFC(HFZの誤植?) assigned to Hungary, LXA to LZZ to Bulgaria, OGA to OMZ to Austria, TAA to TMZ to Turkey. UOA to UZZ to Austria-Hungary.

また脚注1ではイギリスのBAA-BVCの扱いの変更について触れている。

1 The call letters BAA to BVC are no longer assigned to British vessels of war. Accordingly, all the calls from BAA to BVC may be canceled. The call letter BXZ henceforth designates any vessel of the British Navy whatsoever.

国際呼出符字列分配表(1919年春)

今回の変更点はまず第一次世界大戦の結果、崩壊した敗戦国オーストリア=ハンガリー帝国が持っていたUNA-UZZの中から、ボスニア=ヘルツゴビナ地域に対してUNA-UNZを分離している。同地域から至急を要する指定要請があったのだろうか。これが敗戦国の呼出符字列を再構成する跡地利用の最初だった。

それと前回、地域保留とした元ニューファウンドランドVXA-VZZ英国植民地・保護領枠VYA-VZZに統合され。

また前回、ブラジルが返上させられPQA-PSZ PWA-PZZだが、前者はポルトガルに、後者はオランダに分配された。

【注】 上表ではポルトガルPQA-PQZ の次がブラジルPTA-PVAなので、これだとPRA-PSZ が抜け落ちている。私はポルトガルに与えられたのはPQA-PSZが正しくて、上表のPQA-PQZは誤植だとみたが(確証はないので)引用される場合にはご注意願いたい。

26) 1919年中後期ごろの国際呼出符字列分配表

1919年(大正8年)の中後期になるとさらに分配が進んだ(下表)。第一次世界大戦の敗戦国から符字列を召上げて、再分配されたものは以下の通りである。

国際呼出符字列分配表(1919年中後期)
  • 崩壊したオーストリア=ハンガリー帝国HAA-HFCを、新生ハンガリーHAA-HAZスイスHBA-HBZ未分配HCA-HFZに分割。

  • 敗戦国オスマン帝国TAA-TMZ13シリーズはTAA-TEZ5シリーズ)に減じ、アイスランド新規)TFA-TFZギリシャTGA-THZスペインTIA-TMZに分配。アイスランドはレイキャビクとフラトエイ島に海岸局(TFA, TFB)を建設した。

  • 敗戦国ドイツ帝国TNA-TZZを没収し、未分配TNA-TPZノルウェイTQA-TTZ未分配TUA-TUZオランダTVA-TZZに分配。その代りにオランダPWA-PZZの中からPWA-PWZキューバへ新規分配した。キューバは1921年までに6つの海岸局(PWA, PWB, PWC, PWD, PWE, PWF)が誕生した。

<その他の変更>

  • アルゼンチンLIA-LRZの中から、LOA-LOZ(1シリーズ)をノルウェーに譲った。

  • いったん分離したボスニア=ヘルツゴビナUNA-UNZが元にもどった。

  • 英国・英国領CFA-CKAを、カナダCFA-CFZ, CHA-CHZ, CJA-CJAオーストラリアCGA-CGZ英領ニーファウンドランドCIA-CIZに細分。

  • ポルトガルCRA-CUZを、植民地用CRA-CRZ本国用CSA-CUZに細分。

  • 英国領VXA-VZZを、植民地VXA-VXZ英領ニューファウンドランドVYA-VYZオーストラリアVZA-VZZに細分。

27) 1919年末ごろの国際符字列分配表

そして1919年(大正8年)の暮れから1920年(大正9年)2月頃に出されたと思われる総理局の改正通達が図である(通達番号不明)。

国際呼出符字列分配表(1919年末)

敗戦国オーストリア=ハンガリー帝国のものだったOGA-OMZUNA-UZZが召上げられ、新生オーストリアUOA-UOZが与えられ、残りは未分配ゾーンとなった。これで旧オーストリア=ハンガリー(HAA-HFZ, OGA-OMZ, UNA-UZZ)は分裂崩壊して、新生オーストリアUOA-UOZ1シリーズ)と、新生ハンガリーHAA-HAZ1シリーズ)だけが与えられた。

内戦状態になった敗戦国のオスマン帝国TAA-TMZ13シリーズ)からTAA-TEZ5シリーズ)に減じられた。敗戦国ブルガリア王国LXA-LZZ元々3シリーズだけだったので、そのまま残された。

敗戦国ドイツ帝国から召上げられ未分配になっていたTNA-TPZ3シリーズ)のうち、TNA-TOZの2シリーズがスペインに与えられた。しかしA系列D系列を独占しているドイツ帝国の本格的な分割はこのあと着手されるのである。

28) コールサイン不足問題が表面化

1919年は戦時制限を受けていた民間の無線が終戦とともに一気に活動を再開したこと、また戦争で無線技術が進んだこともあり、先進国を中心に多くの無線局新設が計画され、コールサイン不足(割当て符字列の不足)が危惧されるに至った。

実際にも登録無線局数は総理局年報1921年版によると5,860局(1916年)→6,113局(1917年)→6,242局(1918年)→6,623局(1919年)→13,694局(1920年)と急増したのである。

(紆余曲折があり、最終的にコールサインを4文字化することになる。)

29) 1920年 ワシントン予備会議について

1919年(大正8年)6月28日、フランスのベルサイユ宮殿において、第一次世界大戦の講和条約署名が行われた。いわゆるベルサイユ条約である。同時期に、時代遅れになっている国際無線電信条約と附属規則の改定の検討を目的とし、パリで戦勝四大国による米・仏・英・伊の無線専門委員会がひらかれ、米仏英伊 国際無線電信議定書("EU-F-GB-I Radio Protocol" of August 25, 1919)付属議定書("Annexes to Protocol" of April 15, 1919)がまとめられた。

この流れを受けて1920年(大正9年)10月8日-12月15日には日本も加わった戦勝五大国(米・仏・英・伊・日)で上記議定書が吟味され、主として長波帯の通信チャンネルの分配などが話し合われたが、呼出符字列の不足問題も討議され、各国の持ち分を削減しようと合意した(日本はJAA-JMZ)。

五大国だけで、あの国は6シリーズでいいよね、この国は3シリーズだね。俺たちはこれもらおう。・・・と談合したのがワシントン予備会議である。なお技術分野についてはさらに話し合うことになり1921年(大正10年)6月21日-8月22日にパリ準備技術委員会を開いた。

しかし1919年パリ無線専門委員会議にしろ、1920年ワシントン予備会議にしろ、1921年パリ準備技術委員会にしろ、(第一回ベルリン会議や第二回ロンドン会議のような条約加盟各国を招集した国際無線電信会議ではなく)大国だけで話合った(いわゆる幹事会的な)もので、ここでの決議案が他の条約加盟国に承認されることもなく、実際の符字列分配に何ら変化を与えるものではなかった。

【参考】 本サイトで何度も取り上げている逓信省の中上係長が国際会議デビューしたのがこのワシントン予備会議である。中上氏は帰国後、長波チャンネルをより多く獲得するために無線局の実績作りが重要であると説き、それが検見川・岩槻の新設として実った。その岩槻建設現場でたまたま短波実験局J1AAが運用され、1927年春には短波による公衆通信の実用局の運用が始まった。

30) 1920年末ごろの国際呼出符字列分配表

1920年(大正9年)後期から1921年(大正10年)の前半に掛けて、戦争終結による国際符字の再分配合戦はいよいよ最終ステージに入った。

下図が1920年末ごろの分配表である。なお理由は分からないが大戦終戦後、ペルーに指定されてきたOAA-OBZに脚注が付いて暫定指定になっている。

国際呼出符字列分配表(1920年末)

ドイツ帝国まずTNA-TZZ召し上げられたが、A系列D系列KAA-KCZ3シリーズ)は残されていた。そして遂にA系列にもメスが入ドイツは半分の13シリーズ(AAA-AMZ)とされ、残りはオランダ領インドネシアANA-APZノルウェーAQA-AWZ未分配AXA-AZZになった。

またドイツ帝国KAA-KCZ3シリーズ)中、KCA-KCZ1シリーズ)が独立したラトビアに渡されて、リガ海岸局KCAリエパーヤ海岸局KCBが運用を始めた。

ドイツから召し上げ未分配のままだったTPA-TPZノルウェーに指定されたため、ノルウェーがアルゼンチンからもらったLOA-LOZを返した。アルゼンチンは元の連続したLIA-LRZに戻った。

オーストリア=ハンガリー帝国から召し上げ、未分配になっていたHCA-HFZOGA-OGMUNA-UNZUPA-UZZは、新規にエクアドルHCA-HCZオランダHDA-HEZ、分離独立したセルビアHFA-HFZUNA-UNZデンマークOGA-OIZ、(ロシア帝国崩壊の混乱期にロシアから)分離独立したフィンランドOJA-OJZ、(旧オーストリア=ハンガリー帝国から)分離独立したチェコスロバキアOKA-OKZオランダOLA-OMZイタリアUPA-UZZに分配された。

イタリアは元々ドイツ帝国およびオーストリア=ハンガリー帝国と三国同盟を結んでいたので、参戦せずにしばらく中立の立場をとっていた。

そこへ英仏が「イタリアの領土を拡大してあげるから」と甘い密約を持ちかけたため、イタリアは連合国側に付き参戦した。そして戦後に密約どおりイタリアはトリエステ、南チロル、イストリアの新領土と、呼出符字列UPA-UZZの11シリーズを獲得した。

ちなみに「イタリアが符字列を貰ったのなら、同じ戦勝国として我が日本にも・・・」という声があったか、どうかは知らないが、日本への分配はなかった。やはり連合国の一員として後から参戦したアメリカも追加の符字列を貰っていない。

31) 1923年中ごろの国際呼出符字列分配表

国際呼出符字列分配表(1923年中頃)

左が1923年(大正12年)中頃の分配表である。まずはこの表をもって第一次世界大戦に関連したコールサインの戦後処理はほぼ完成したとえいるだろう。

敗戦国の領土縮小や新国家の独立、コールサイン・マップが大きく塗替えられた。

しかし東アジアにおける英領インド、仏領インドシナ、蘭領インドネシア、米領フィリピンの支配は戦後も依然として続いたし、勝戦国である日本は、ドイツから南洋群島を国連委任統治領として獲得したにも係らず、旧ドイツの符字列の分配を受けなかった。

(ロシアの縮小については後述する)

図と同じものが安藤博氏(JFWA/JFPA)の著書無線電話之研究("18.無線電信呼出符号国別表", 早稲田大学出版部, pp260-265, 1925.1)にも掲載され、我国の一般の無線ファンにも知られるところとなった。

【参考】近代デジタルライブラリー( http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1016578/146?tocOpened=1)で閲覧できます。私が知る限りでは(専門書を除き)これが日本で一般人に紹介された「最初の国際呼出符字列分配表」です。

32) AまたはBから始まる国際符字列の扱い

1920年(大正9年)の後半頃に総理局はドイツ帝国から召上げ、まだ未分配のままだったAXA-AZZを、独立したポーランドAXA-AXZと、新規にべネズエラAYA-AYZへ分割した。

1920年に戦勝五大国だけでひらいたワシント予備会議では「AまたはBから始まる呼出符号は万国信号書の地理の部のために使わないでおこう」との合意もあったのだが、その会議は総理局が国際無線電信条約加盟国を招集した「国際無線電信会議」ではないし、またここでの合意は他の加盟国の賛同を得たものでもない。従って国際無線電信連合より呼出符号の国際管理を委任されているベルン総理局がこれに同調することはなかったし、もちろん国際無線電信連合の総理局という立場からも(加盟国が同意してもいない取決めに)同調するわけにはいかないだろう。

新たに誕生した国で、艦船に無線施設を導入したとする。しかしコールサインがないと近隣国との公衆電報の送受はできない。特に商業局なら誰しも、すぐにでも営業に入りたいはずだ。この時期の総理局は多忙を極め、世界のコールサイン・マップを次々と塗り替えていたが、ベネズエラへの新規割当に関し興味深い記述があるので紹介する。

ベネズエラは旧ドイツAYA-AYZを割当てられる前に、フランス(及びその植民地)に分配されているHOA-HZZの中から、HRB, HRE, HRF, HRG, HRH, HRI, HRK, HRMのコールサインで先行営業していた。

A系列の国際符字

開局を急ぐ理由があったのだろうが、フランスから正式に借用したのかは分からない。総理局より正規の割当を受けた後はAYAからAYHのコールサインに変わった。

It will be noted that new call letters assigned by the Berne International Radio Bureau have recently gone into effect, superseding the old call letters temporarily assigned by the Venezuelan Government. (George H. Clarke, "The Progress of Radio Communication in Venezuela", The Wireless age, Wireless Press, Jan.1922, page21)

この他の変更として、ベルサイユ条約で独立が保障されたダンツィヒ自由国(Danzig)にはドイツ持ち分の中からDTA-DTZKAZ を分離調達した。ダンツィヒ海岸局KAZ(火花2.5kW/持続1kW, 波長1800-300m)は自国の17船舶局のほか、ドイツ(ベルリン)やラトビアのリガKCA/リエパーヤKCBを対手局とした。

戦前にはKAA-KCZは全てドイツのものだったが(ダンツィヒKAZを、ラトビアKCA-KCZを渡したため)、KAA-KAYKBA-KBZに分断されてしまった。

33) ロシア崩壊と跡地分配による再編劇のはじまり

前述した1923年の分配表のR系列(ロシア)に御注目願いたい。ロシアRAA-RQZに縮小されている。

第一次世界大戦の最中、1917年(大正6年)3月15日にロシアのニコライ二世が退位させられた(二月革命)。ロシア帝国の滅亡である。それ以来、政情混乱が続いていたロシアでソビエト社会主義連邦共和国が樹立されたのが、1922年(大正11年)12月30日だった。ソビエト連邦には、旧ロシア帝国が独占していたR系列からRAA-RQZの17シリーズだけが指定された。その結果、RRA-RZZの9シリーズの空き地が誕生し、ロシア帝国崩壊による符字列の再分配が始まった。

その前にロシア帝国崩壊(1917年3月)からソビエト連邦樹立(1922年12月)までの5年間を簡単に説明する。二月革命で帝政を終結させたロシア新政府だが、ドイツとの戦争で敗退を続け国内がすっかり疲弊しており、食料や燃料の供給もままならない状況を一向に好転させることが出来なかった。そのため新政府は国民の支持を集められずに、半年後の十月革命でレーニン率いる社会主義革命政権(ボリシェビキ)にその座を譲った(この混乱に乗じて独立したフィンランドは3年後に総理局からOJA-OJZを与えられた)。

1917年12月22日、戦争をする余裕などないボリシェビキ政府は敵である同盟国(ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ブルガリア王国)と和平交渉を開始した。1918年3月3日、ボリシェビキ政府はポーランド、ウクライナ西部、バルト三国などへの権利を事実上ドイツに割譲する非常に不利な講和条約を同盟国と結び、第一次世界大戦から離脱してしまったのである。ロシアと停戦したドイツは東部戦線(対ロシア方面)の戦力を西部戦線(対フランス方面)へ集中させたため、英仏軍が苦境に陥った。連合国(協商国)側からすればこれは「ロシア新政府の重大なる裏切り行為」だった

1918年1月、欧州の連合国側は日本とアメリカへ極東ロシアへの派兵を要請してきたが、両国ともに慎重な態度だった。やがて連合国がロシアにいるチェコ人の保護を口実に挙げたため派兵の大義名分ができ、1918年8月に(帝政崩壊による政情混乱が続いていた)ロシアへの派兵が始まった。といっても主役は日本軍(日本軍:約7万兵、米軍約8千兵、加軍約4千兵、伊軍約2千兵、英軍1.5千兵、仏軍0.8千兵)で大谷喜久蔵陸軍大将が連合軍総司令官となり、ロシア沿海州ウラジオストックから鉄道沿いにバイカル湖までの内陸部と、沿海州、北樺太(薩哈嗹州)を占領した。これが日本では「シベリア出兵」と呼ばれる戦争で、その実態は「連合国による社会主義政権打倒の干渉戦争」だったとも評される。もちろん天皇制の日本としても、帝制を転覆したボリシェビキ政府の思想は受容れ難いものだった

【参考】1918年(大正7年)11月11日に第一次世界大戦が終結したため、連合国は1920年(大正9年)までにシベリアからの撤退を完了したが、唯一日本だけはその後も占領を続けたため領土拡大の野心有りと国際非難を受けた。そして大陸からは1922年(大正11年)10月に撤退したが、北樺太には帝国陸軍の「薩哈嗹(サガレン:現代の表記ではサハリン)州軍政部」が設置されて、日本の軍政統治下におかれた。薩哈嗹州軍政部は日本人の産業を興し、日本人尋常小学校を建設したりし、内地の日本人にはパスポートなしでここに渡航できるようにしたが、1925年(大正14年)になってようやくソビエト連邦に返した。

さてこの「ロシアの裏切り行為」が国際符字列分配に影響したかは定かではないが、1920年秋に開かれたワシントン予備会議ではロシアのボリシェビキ政府にはRAA-RGZの7シリーズで良いだろうと話し合われた。そしてソビエト連邦樹立後の1923年になって総理局からRAA-RQZの17シリーズだけが指定された。ロシアのR系列独占は取り消されてしまったのである。

34) 1924年ごろの国際呼出符字列分配表

1923年(大正12年)の後半に旧ロシアの跡地RRA-RZZ)から、パナマRXA-RXZと、メーメル・テリトリー(Memel:リトアニアの南端地域)RYA-RYZを暫定指定したほか、エストニアにはドイツ帝国から召上げたAZA-AZZを与えた。これでA系列の未分配ゾーンは完売となった(下図)

またフューメ自由国(Fiume:イタリアの北東海岸)にはイタリアからIQBを分離調達した。これは3文字コール「IQB」1局分(仮に4文字コールを使うにしてもIBQA-IQBZの26局)だけの分割を意味する無線史上で珍しい事例だろう。

国際呼出符字列分配表(1924年)

アイルランド自治国にはイギリスが4文字コールでGWBC-GWJZを分割したため、英本国の持ち分はGAAA-GWBB, GWKA-GZZZになった。つまりGWBA, GWBB英本国で、GWBCからがアイルランドという風変わりな境界線を引いた。そのためアイルランドは3文字コールGWBを使えず、3文字で構成できるのはGWC-GWJの8局分である。

すでに無線先進国では4文字コールの暫定使用が始まっていたが、今回のイギリスのように4文字の中途半端なところでアイルランドとの境界をひいたため、分配表上に4文字で明示されるという初の事例となった。

かつて英国はコールサイン不足対策として3文字コールの頭に「T」を付ける提案をしたことがあるが、英国にはコールサインによる国籍識別など、どうでも良かったのかもしれない。重要なのは国籍識別ではなく、自分が扱った電報料金の請求書を何という無線会社に送付するか、つまり料金回収あっての公衆通信ビジネスだから、コールサインの独自性(重複のないユニーク性)の保障が最重要事項だったのだろう。

35) ベルン総理局による最後の国際呼出符字列分配表(1926-1927年頃)

第三回国際無線電信会議(ワシントン会議)が始まったのは1927年(昭和2年)10月4日である。下図はその直前1927年6月30日に米国商務省Radio Divisionが発行した"Commercial and Government Radio Stations of The United States"(June 30, 1927)からの引用で、これが総理局通達により追加・改定が行われてきた「最後の分配表」だと考えられる。

国際呼出符字列分配表(1926-27年)

2年ほど時間を戻すと、1925年(大正14年)後半にメーメル・テリトリーは削除され、RYA-RYZリトアニアに指定変更した。またフューメ自由国は1924年(大正13年)3月16日にイタリアに併合されたため、その1年ほどのちに分配表から削除されている。

1926年(大正15年/昭和元年)から1927年(昭和2年)初頭に掛けて、旧ロシア帝国の未分配地RRA-RWZのうち一部を新規国のペルシャRVA-RVZホンジュラスRWA-RWDニカラグアRWE-RWK未分配RWL-RWSアルバニアRWA-RWZに分配した。

またイギリスはGAAA-GWBBの細分化を進めて、GAAA-GTLA: Great BritainGTLB-GTNZ: New ZealandGTOA-GTPA: Great BritainGTPB-GTZY: CanadaGTZZ-GVBB: Great BritainGVBC-GVZY: Great Britain colonies and protectoratesGVZZ-GWBB: Great Britain、これに先行分配済みのGWBC-GWJZ: Free State of IrelandGWKA-GZZZ: Great Britain を加え、G系列をさらに複雑なものにした。

すなわちGTLAは「英国」だがGTLBニュージーランドGTPAは「英国」だがGTPBカナダGTZYカナダだがGTZZは「英国」、GVBBは「英国」だがGVBC英国領GVZY英国領だがGVZZは「英国」、GWBBは「英国」だがGWBCアイルランドというように境界が非常に分かりにくい。そもそもは無線局の国籍を識別し易くするために、国際呼出符字列が定められたわけではないので、こういう分け方もあるのだろう。

36) 1927年秋 ワシントン会議で国際呼出符字列を討議

1927年(昭和2年)10月4日、(当初の予定から10年遅れて)ワシントンで第三回国際無線電信会議が開かれた。日本は電波三省(逓信省・海軍省・陸軍省)による「華府無線会議議題ニ関スル陸海逓三省打合会議」で、日本への分配を13シリーズ(JAA-JMZ)に半減するというワシントン予備会議(1920年)での五大国合意をひるがえし、JAA-JZZ維持を要求する方針として会議に挑み、どうにか死守できた。

ダンツィヒ自由国はこの会議で分配表から削除された。アメリカ(KDA-KZZ)は、KAA-KAY( ドイツ)、KAZ(ダンツィヒ自由国)、KBA-KBZ(ドイツ)、KCA-KCZ(ラトビア)を譲り受け、念願のK系列の独占に成功した。ソビエトはR系列を独占できずRAA-RQZのまま据置かれ、中国はこれまでXNA-XSZの6シリーズから、XGA-XUZの15シリーズへ拡張された。

前回のロンドン会議(1912年, 明治45年)では呼出符号の重複チェックを総理局が行うとだけ決めて、国別の割当符字の決定は総理局に委ねていた。

国際符字列の説明

会議直前においては国際符字を以下のように説明されていた。『The London International Radiotelegraphic Conference made a partial allotment of call letters among nations which signed the convention, and the International Bureau at Berne has modified and added to this assignment of call letters by its circulars.

ざっくり意訳すると、『ロンドン国際無線電信会議において、加盟各国で国際符字の分配が行われた。そしてベルン総理局がその通達をもって、分配表の改変や追加を行った。』という感じだろうか。

すなわちロンドン会議で割当符字列の分配表を作ったが、それは「国際無線電信条約付属一般規則」に含めず、総理局の業務として追加・改変を実施してきた。

ところが今回のワシントン会議では「国際無線電信条約付属一般規則」第14條第1項で、『条約第二條第一項に掲ぐる固定局、陸上局及移動局並に私設実験局は左に掲ぐる割当表に於て各国に割当てたる国際識別符字に基き作成したる呼出符号を有することを要す 表中呼出符号の最初の一文字又は数文字は局の国籍を示す』と、規則の中に織り込んだ。

国際呼出符字列分配表が規則に盛り込まれたため、緊急性を要するその変更は従来通りベルン総理局が通達をもって行なうが、それは「暫定指定」という形にとどめて、それらを次の国際無線電信会議で正式承認する方法が採用された。つまりこれまで国際呼出符字列の分配はベルン総理局の独任事項だったが、ワシントン会議(1927年)以降は、国際無線会議で正式決定することになった。

37) 1929年ごろ・・・発効前後の符字列の追加分配

1929年(昭和4年)1月1日、ワシントン会議の条約・規則が発効した。下図は発効から半年後の6月30日時点の米国商務省Radio Divisionの Commercial and Government Radio Stations of The United States(Edition June 30, 1929)から新分配表を引用したものだ。

国際呼出符字列分配表(1929年)

ワシントン会議の終了後に、ポルトガル植民地CQA-CQZペルーOCA-OCZフィンランドOFA-OGZベルギーとその植民地ONA-OTZオランダ領インドネシアPKA-POZエジプトSTA-STZ英国植民地および保護領ZBA-ZDZには脚注1が付けられ、暫定指定(Provisionally)としている。

さらにこの表を注視すると、CQA-CQZOCA-OCZOFA-OGZSTA-STZZBA-ZDZは「文字列側に1を付したが、ONA-OTZPKA-POZには「国名地域名の頭に1が付いており、この後者の2つは別の意味も含んでいるよう

特に前者のポルトガル植民地CQA-CQZペルーOCA-OCZフィンランドOFA-OGZエジプトSTA-STZ英国植民地および保護領ZBA-ZDZは、会議終了直後の1928年版(June 30, 1928)にはなく、1929年版(June 30, 1929)になって初めて登場するため、ワシントン会議の条約・規則が発効する1929年1月1日の直前あるいは発効後に追加されたと考えられる。

ワシントン会議(1927年10-11月)で決められ、日本が帝国議会で批准した国際分配(1928年12月26日告示)には、これら暫定追加分(CQA-CQZ, OCA-OCZ, OFA-OGZ, STA-STZ, ZBA-ZDZ)を含んでない。

参考1) 電報を扱わない無線局(放送局など)のコールサインは各国の自由

一般公衆通信(電報)では、発信人から託されたメッセージが確実に受領人に届くように、途中経路を中継する無線局の呼出符号に重複がないよう総理局で国際管理されてきた。また無線会社が携わった中継料を他社・他組織に請求する際に、同じコールサインの局があると混乱をきたすだろう。そこで公衆通信の無線局には地球的規模「コールサインの一意性(だぶらない)」が求められた。

しかし「国際無線電信条約付属一般規則」では公衆通信を行わない無線局のコールサインには国際呼出符字列の使用を求めなかった。

1920年(大正9年)にアメリカでラジオ放送が始まり、米商務省はウェスティングハウス社のラジオ局にKDKAのコールサインを与えた。商務省は米国の国際符字Kによって構成した。

1922年(大正11年)に英国でもラジオ放送を始めたが、そのコールサインは2MT2LO(BBCの前身)で、英国では国際符字を使わない「数字+2文字」を採用した。

1925年(大正14年)、日本でもラジオ放送が開始されたが、逓信省は既に公衆通信を行なわない漁船にも国際符字J による4文字コールを発行していたこともあり、アメリカにならい国際符字Jで組立てた4文字コールサインJOAK, JOBK, JOCKをラジオ局に使うことにした。

公衆通信を行わない無線局が「国際符字による4文字コールサインを使ってはいけない」という禁止規定はないからである。

参考2) ワシントン会議で4文字コールは船舶局と定めた

1927年(昭和2年)の第三回国際無線電信会議(ワシントン会議)でも放送局に国際呼出符字は求めていないが、「4文字コールは船舶局」と決まった。日本の逓信省では、3文字を使ってきた老舗船舶局のコールサインの末尾に、1文字追加することで4文字コール化を推進することになった

そのとき国際符Jがついた放送局の4文字コールサインの存廃が議論された。賛否両論あったが、JOAK, JOBK, JOCK・・・といったコールサインが広く国民に認知されているため、そのまま使うことにした。

我が国の電波正史ともいえる『日本無線』にその顛末が記録されている。

『(放送局のコールサインは) 当初、諸外国の例を参酌し、無線電信施設にならって、これをつけたのであるが、昭和二年のワシントン会議で放送施設には、それを必須とせず、しかも四文字符号は船舶局の無線電信に充てるものとされたので、当時その存廃については議はわかれたが、高度に慣用化した既成事実を重視し、依然、呼出名称とともにこれ(=コールサイン)を用いて識別に便することとした。が、それも装置別に指定するのではなく、呼出名称と同様の施設別指定にとどめられた。 (電波監理委員会編, 『日本無線史』第4巻, 1951, p572)

放送局のコールサインは国際符字の対象外であり、どのような文字(または数字との組み合わせ)にしようが各国の電波主管庁の自由であるさらに踏込んで言えば、放送局はアルファベットの「呼出符号なし」でも違反ではない。

戦争に敗れた1945年(昭和20年)まで、各放送局の非常連絡用短波送信機には特にコールサインを割り当てず、親局の一部をなす附属施設という位置付けだった。GHQ/SCAP CCS の指導でこれらに JO2J/K/L, JO3E/F/G, JO4D/E/F, JO5A/B/C, JO6D/E/F/G/H, JO7E/F/G, JO8F/G/H, JO9G/H/I/J/K の呼出符号が指定されたのは1946年(昭和21年)になってのことだった。(JO Callsigns のページ参照)

参考3) さらに私設実験局に国際符字を適用することに

1927年(昭和2年)のワシントン会議では附属一般規則第14条で国際呼出符字によるコールサインの対象局を、従来よりの公衆通信を行なう「固定局陸上局移動局」に、「私設実験局追加した

1927年ワシントン会議「国際無線電信条約付属一般規則」第14條第1項

条約第二條第一項に掲ぐる固定局陸上局及移動局並に私設実験局左に掲ぐる割当表に於て各国に割当てたる国際識別符字に基き作成したる呼出符号を有することを要す 表中呼出符号の最初の一文字又は数文字は局の国籍を示す

公衆通信を取扱わない私設実験局(含むアマチュア無線)の呼出符号に国際符字が適用されたのは、2つの理由がある。

  • もともと1.5MHz付近で近距離通信を趣味としていたアマチュア無線家が、1925年あたりから3MHz付近を使った小電力国際通信を楽しむようになった際、お互いの国籍を識別できるように独自ルールの国籍符号が一般化していたこと。

  • このワシントン会議ではじめて私設実験局(含むアマチュア無線)の国際通信を正式に認可するにあたり、私設実験局に対する電波の監視・監督上から、各国の電波主管庁が免許人を容易に特定できるよう、「コールサインの一意性」が求めらたため。

【参考】個人のアマチュア無線でさえ国際符字で構成する呼出符号を使うことから、放送局のような大規模な無線局なら国際符字による呼出符号を使うのが当然のように感じるが、(日・米を別とすれば)現代では呼出符号がない放送局(英国BBCなど)は少なくない。

参考4) 戦前の放送局のコールサイン

1.アメリカ・日本方式

国際符字を冠するアルファベット4文字コール(米国の場合、3文字コールもあった)。

2.英連邦方式

英領インドの放送局2AX, 2FY, 7BY, 2GR, 7CA, 2HZシンガポールの放送局1SEは「1数字+2文字」だが、これは昔、英国のBBCが使っていたコールサイン形式で、英連邦のオーストラリアニュージーランドなどの放送局もそうだ(しかしカナダだけはアメリカに追従し国際符字による4文字コール)。また英連邦ではないが、キューバの放送局この「1数字+2文字」である。

3.アマチュア無線式

私設実験局(含むアマチュア)と同じ「文字+数字+文字」形式としては、デンマークの放送局D7RL, D7MKフランスの放送局F8AV, F8GCアイスランドの放送局G2SHポルトガルの放送局P1AAスイスの放送局H9XDがある。これらは国際符字によるものと、スタイルだけを真似たものがある。

4.「文字+数字」式

数字と文字が逆になったコールサインもあった。ロシアの放送局は「RA+2数字以下」、スペインの放送局は「EAJ+2数字以下」、アルゼンチンには「1文字+1数字」の放送局もある。

このように放送局のコールサインは全くの自由で、日本は(米国にならって)国際符字による4文字コールを採用したというだけのことである。

参考5) お墨付きがあっても世界唯一の呼出符号とは限らない

「政府から指定されたコールサインは他の無線局とは重複しない、世界で唯一のもの」とは限らない。下表はアメリカの電波主管庁である商務省が毎月発行するRadio Service Bulletin No.142(Jan.31, 1929)に掲載された世界の放送局(含む放送実験局)のアジアのページからの抜粋だ。

Radio Service Bulletin No.142(Jan.31, 1929)

日本は放送局に対してアメリカのように国際符字「J」により構成したJOAKなどを使用した。この米商務省のリストには(JOAKの番組を短波でサイマル送信するテストを行っていた)電気試験所の平磯JHBB(波長37.5m)もラジオ局として掲載されている。異例の扱いだが、それほど平磯JHBBの名が短波界で知られていたという証だろう。

さて中国の天津XOLは国際符字だが、東三省(のちの満州)のハルビンCOHB瀋陽COMKは中国の国際符字を使っていない。ラジオ局のコールサインは自由である。

そういえば戦前に満州国のアマチュアがMX1-MX6のコールサインを決めたが、M英国の国際符字なのでこれは国際規則に反する。しかし同じく満州国のラジオ放送局がコールサインMT△Yを使ったがこれは違反ではない

何がその分かれ道かといえばアマチュアは国際符字による呼出符号を構成するものと定められているが、ラジオ放送局は対象外だという点にある。もっとも勝手に使われた側は良い気がしないだろうが、抗議しても無視されればそれまでである。ちなみに満州国の国際公衆通信を扱奉天無線電信局は中華民国政府に分配されたXGA, XGC, XGDを使っていた(中華民国の上海無線電信局XGB)。

識別符字列ANA-APZが与えられていたオランダ領の東インドネシア(Dutch East Indies)の放送局、バンドンANEマラバルANH国際符字に従ったものだ(なおワシントン会議でA系列とB系列の符字が削除(発効1929年1月1日)された)が、バタビア(現ジャカルタ)JFCは「J」で始まる三文字コールの放送局だ。

「え?J は日本の文字なのに、インドネシアが使って良いのか?」という気分になるが、放送局には国際符字によるコールサインが求められていないので、こういう事態が起きてしまう。「J」は日本がお墨付きを頂いた文字ではあるが、公衆通信を行う局や、アマチュア局以外には効果がない。

Wireless Blue Book

1908年に開局した銚子無線のコールサインJCSはベルン総理局へ国際登録された「お墨付き」のものだ。

しかし1911年に発行されたWireless Blue Book(Third Annual, Wireless Association of America, June 1911)のJの欄には、アメリカのアマチュアJCSを使っていたことが分かる(左図参照)。

我国最古の公衆通信用海岸局JCSのコールサインもこうなってしまう。

国際登録の無線局のコールサインは総理局で重複チェックがなされるが、非登録局のコールサインには為すすべがない。つまり冷めた言い方をすれば世界でユニーク性を保証されたコールサインなど無い事になる。

米国のアマチュアは主に自分の名前からコールサインを作っていたので、このような国際登録局と重複する事例は珍しくないが、現実問題としては海岸局とアマチュアが交信することはないので、何の支障もなかった。実はこの視点は重要で、例えば警察無線と消防無線でコールサインがダブっても、指定周波数も違うし、そもそも両者間で交信しないのだから、「コールサインを一意に定める」必要がない。