短波開拓史

短波の開拓の歴史は、携わった無線会社のプレス発表や、学会発表、無線雑誌記事、アマチュア団体の機関誌(QST)など、広範囲に分散して記録されており、(自分の事しか書かない自画自賛が通例ですので)全体像をつかむにはとても骨が折れます。

マルコーニ社のA.W. Ladner氏とC. R. Stoner氏が、短波開拓を横断的にまとめたShort Wave Wireless Communication(左図[左]John Wiley & Sons, Inc, 1932) という有名な書籍があります。

【参考】1932年(昭和7年)11月が初版です(まさにマルコーニによるUHF開拓の真っ最中で、改訂第二版が1934年2月に、改訂第三版が1936年4月に出され、UHFの章が増強されました)。

日本でも日本無線電信株式会社(現:KDDI)の技術者である水橋東作/松田泰彦の両氏によりただちに翻訳されて、1933年コロナ社から日本語の『短波無線通信』(初版)が出版されました(1935年にはUHF等を補強した日本語改訂版も)。

まだ国内には短波の専門書が殆んど無い時代ですから、プロの技術者はもちろん、JARLの創設メンバーの方々もきっとお読みになられたことでしょう。

この書籍にある"CHRONOLOGICAL TABLE SHOWING THE DEVELOPMENT OF SHORT WAVES (短波発達の年代譜)"がよくまとめられていますので以下に引用しておきます。右側には日本語訳版も加えておきました。

1916年(大正5年)にはじまったマルコーニの短波開拓については、この年表で最低限の出来事が網羅されています。この書籍の筆者はマルコーニ社の社員ですから、詳しいのは当然ですが、さらにアマチュア無線家の活動も差し込まれています(下表で赤字にしました)。一般的に、我国では「アマチュア無線の歴史」を米国のQST(ARRL機関誌)から参照することが多いのですが、これは英国目線での記録になります(マルコーニ社の本拠地は英国)。

これは短波帯開拓の年表としては秀作です。もしあえて不足を挙げるとすれば放送分野(ウエスティングハウス社)の記事でしょうか。

マルコーニ社(のマルコーニ氏とフランクリン氏)、ウェスティングハウス社(のコンラッド氏)、そしてアマチュア無線家の三者を揃えずして短波開拓史を語れないと私は考えています。

確かに短波用大電力真空管の開発をはじめ、短波無線電話、短波電波灯台、短波ビームアンテナ・・・どれもマルコーニ社が一歩先行していましたが、短波無線を開拓したマルコーニ社、短波をいち早く実用化したウェスティングハウス社、短波の低電力遠距離通信を発見したアマチュア。この三者の努力が相まって「世界レベルで短波が開花した」と思うのです。

GHQ/SCAP占領下時代のJARL理事長であり、またCQ ham radio誌の初代編集長を務められ、JARLの総意としてマッカーサー元帥へアマチュア無線の再開を直訴された東工大教授の大河内正陽(JP1BJR, J2JJ, J1FP)氏が翻訳者の一人である『電子工業史』には以下の様にあります。

イギリスの(マルコーニ社の技師)フランクリンウェスティングハウス会社のフランク・コンラッドおよび方々のアマチュアのグループそれぞれ独立に、短波の使用によりきわめて長距離に通信できることを発見したとき、それはだれにも驚異となった。(Maclaurin, 山崎俊雄/大河内正陽 訳, 『電子工業史』 - 無線の発明と技術革新, 1962, 白揚社, p83)

また1965年(昭和40年)に出版された『船舶通信実務』(運輸省航海訓練所 運航技術研究会編) "第一章 無線電信および船舶無線通信の歴史"に同様の記述が見られます。

短波通信の開発については、1916年、マルコーニは、短波の用途を探求するようにイギリスのフランクリンに依頼して、研究させている。第一次世界大戦後、フランクリンとアメリカのコンラッドおよびアマチュアのグループが、それぞれ、独立に、短波によって遠距離通信できることを発見した。1924年、マルコーニは、イギリス・オーストラリア間の短波無線通信に成功している。ここにいたり、大西洋横断通信における海底ケーブルとの競争ができるようになったのである。(p4)

およそ50年前のJ2JJ大河内氏の翻訳本『電子工業史』や運輸省の『船舶通信実務』ではフランクリン(マルコーニ社)、コンラッド(ウエスティングハウス社)、そして世界のアマチュアを同時に称えています。しかし2015年の現状を振返ってみると、以下の「ある疑問」が湧き上がります。

それは・・・ なぜ日本ではこの三者が並んで短波史に登場しないのだろう?

一番の理由は1926年(大正15年)までの短波開拓の表舞台となった英国と米国ではマルコーニ社やウェスティングハウス社(コンラッド氏)らの活動が毎回々々新聞記事となり、短波が拓かれていく過程がリアルタイムに国民へ伝えられていたのに対し、日本ではIREやIEEの学会論文、特許出願、そして各種海外無線雑誌を購読チェックしていた一部の電波関係者(主として逓信省通信局)に情報が限られていたからでしょう。

ただしマルコーニ氏が1924年(大正13年)春に英国からオーストラリアへの短波無線電話に成功したことや、同年に短波を使った大英帝国ビーム通信網を受注したことに関していえば、我国の電波史関係の書籍にしっかりと記録されていますので、ご存知のアマチュア無線家の方々は少なくないでしょう。もちろん「ある日突然、出来てしまった」のではなく、ここに至るまでの苦労の過程があったわけですが、それには一切触れない単発トピックスとして扱われているのが残念です。そのためマルコーニ氏の短波開拓についてもう少し知りたいと思っても、国内文献だけで追うには相当苦労します。調べても分からないので「まっ、いいか・・・」と、そこで探究心がしぼんでしまうように私には見えます。

またその逆にアマチュア無線家ではないが、マルコーニ氏の短波開拓を御存知の方々も当然いらっしゃいます。その人たちが「ではアマチュアが大西洋横断交信(1923年11月)に成功するまでにどんな過程があったのだろう?」と調べてみても、たとえば「緻密な計画や訓練によって短波の有用性を見出して、 大西洋横断交信を成功させた」というような漠然とした賛美の言葉しか見つからず、どんな緻密な短波実験計画が練られて、どんな短波の訓練をしたのかさっぱり分かりません。といって「成功の陰に人知れぬ努力があったであろう」ことは多くの人が想像するところであり、アマチュアの努力を否定(また肯定も)できません。結局ここから先へ進めずに、せっかくの探究心も不完全燃焼のまま消えてしまうのではないでしょうか。

さらにコンラッド氏は一番お気の毒です。1930年(昭和5年)に米電気学会AIEEから短波の実用化の功績が認められ栄えある"エジソンメダル"を受賞しました。我国にも放送史研究家はたくさんいらっしゃいますが、放送分野(国際短波放送)でもなく、また通信分野(短波公衆通信)にも属さないコンラッド氏の「短波中継」を取り上げてくれる人も組織も現れない状況です。

私がこれまで収集した資料でこの三者の短波開拓史を時系列にまとめてみました。このサイトが短波史に興味を持たれる方々の参考になれば幸いです。日露戦争で有名な「敵艦みゆ」の発信は1905年(明治38年)5月でしたが、その年の11月には米国で短波(VHF~HF)無線機テリムコ(Telimco)が一般大衆に向けて通信販売されていたことなど、無線ファンのみなさんにお楽しみいただけるトピックスを含めています("Telimco"はアマチュア無線家のページ)。ちなみに2015年はテリムコ誕生110周年でした。

なおこの短波開拓史では1926年(大正15年)までを開拓期と捉えましたが、マルコーニビームの開業は翌1927年にまたがっていますので、短波の実用化のページもご覧ください。またこのページ最後のアームストロング氏の講演の中の「失われたチャンス」は "短波の歴史" で注目に値するトピックスとして御一読をお奨めしたいと思います。

<2016年は短波開拓100周年>

1800年代のヘルツの時代より、短い波長は多くの研究者や実験家に試されてきました。日本でも1897年(明治30年)10月1日に電気試験所の松代松之助氏がパラボラビームアンテナによる短い波長でスタートしました。やがて各国で研究が進み、徐々に使用周波数が低くなっていく過渡期(~1910年頃)に入っても、マルコーニ社の船舶通信や、大衆無線機テリムコ(Telimco)ではまだ短波が使われていました。

しかし無線通信は 短波→中波→長波 と低い周波数へ向かって発展したため、もっとも早くに使われた短波は、もっとも早くに見捨てられました。まだ火花送信機にコヒーラや鉱石受信の時代でしたので、短波の特質は探求されることもなく姿を消していったのです。 その「見捨てられていた短波」が、実験され、研究され、そして見直されていく道程こそが「短波開拓史」です。つまり短波開拓史とは「短波復活史」だともいえるでしょう。

では短波の開拓(復活)はいつ頃から始まったのでしょうか?元郵政省電波研究所長であり無線黎明期研究の第一人者でもある若井登氏の記事から引用します。

『 (マルコーニの功績として、)大西洋実験は、通信距離を伸ばして無線電信の実用性を世に知らせたという意義もさる事ながら、電離層の存在を暗示した意味も大きい。そして実験成功を確かめようとした追試実験は、中波が昼間弱くなることを実証し、波長が長いほど遠距離通信には有利になる事を経験的に示して、長波通信、超長波通信への道を開いた。

マルコーニは一九一六年には初めて短波遠距離通信を成功させ、次世代の通信方式の先導役ともなった。こうして無線通信の黎明期と発展期をリードして、今日の情報通信時代の礎を築いたマルコーニの業績はまことに大きい。(若井登, 電波史発掘, 『情報通信ジャーナル』, 1995.3, 電気通信振興会, p37)

明確なニーズのもとに、真の実用化を目指して本格的に短波研究を開始したのは第一次世界大戦中の1916年(大正5年)で、マルコーニ氏により手が付けられました。すなわち2016年は短波開拓100周年にあたります。

【注】 1916年の実験は150MHzや100MHzでしたので、もし「それは短波(3-30MHz)ではない」との解釈に立つのならば、マルコーニ社のフランクリン技師が英国のカーナボーンで20MHz真空管式無線電話を完成させた1919年を起点とし、2019年が100周年ということになります。

長らく無線通信の中心は「中波」の海岸局と船舶局でした。それが第一次世界大戦で海底ケーブルだと敵国に切断されるリスクがあることが明らかとなり、遠距離通信をケーブルから「長波」へ置き換える動きが加速し、長波チャンネルの分捕り合戦に発展しました。そんな長波最盛期の1922年(大正11年)春、マルコーニ氏はIRE(無線技術者学会)とAIEE(米電気学会)で世の技術者達に「長波よりも短波が有効!」と説きました。そしてその言葉のとおり1923年(大正12年)春、彼はアフリカのカーボ・ベルデにおいて、短波が電離層反射により約4,200kmもの長距離を(長波の大電力局よりも)強力に伝搬してくる事を発見したのです。

 

一方米国のフランク・コンラッド氏は第一次世界大戦後、細々と無線電話の短波試験を繰り返し、1923年のマルコーニ氏の短波の長距離電離層反射発見の半年後に、早々とラジオ放送の短波中継を実用化しました(実用化という意味では後発のコンラッド氏がマルコーニ氏を追い越した形です)。その後、コンラッド氏は次々と国際短波中継を成功させ、放送にあらたなジャンルを切り拓きました。

またコンラッドの短波中継の1週間後には米仏のアマチュアが特別免許で大西洋横断通信に成功しています。アマチュアの小電力で、しかも飛びが悪いとされていた短波を使っての通信ですから、当初はたまたま何かの特異現象で届いただけだろうと受け取られました。しかし1924年(大正13年)7月に米国アマチュアに4つの短波バンドが開放され、特別免許を得なくても短波を使えるようになると、その年の秋より次々DX通信が成立し、短波が小電力でも遠距離まで届くことを証明してみせたのです。

さらにもう少し詳しくマルコーニ社(マルコーニとフランクリン)、アマチュア、WH社(コンラッド)で図表化したのが下図です。

これらについて以下の詳細ページで詳しく紹介します。どうぞご覧下さい。

短波開拓史の詳細ページの内容とそのリンク

マルコーニの短波のページ

マルコーニの短波開拓(1916年~)、および昼間波の発見(1924年夏)とそれによる公衆通信の実用化の話題です。下図は1923年(大正12年)に英国のPoldhuに建設された3MHzの巨大短波パラボラビームアンテナです。

1923年5-6月にこのアンテナの腕試しが行なわれ、4130kmはなれたカーボベルデで強力に受信され、短波でも電離層反射で遠方まで届くことが確認されました。

1924年(大正13年)7月には大英帝国の無線通信網建設を受注し、さらに昼間波を発見して、1926年に短波による公衆通信(電報)を実用化しました。さらに1930年代には超短波を開拓して、その実用化を達成しました。

また1933年には日本を観光で訪れています。それらは「マルコーニの東日本観光」「マルコーニの西日本観光」のページをご覧ください。

 ● コンラッドの短波のページ

コンラッドの短波による放送中継の実用化(1923年11月)の話題と、アメリカおよび諸外国の短波開拓についてです。KDKAは1922年(大正11年)10月27日より短波中継試験を始めて、1923年(大正12年)3月にはKDPMへの短波中継の実用化試験に移行しました。

1923年9月には短波による大西洋を越え5800kmの記録を作りましたが、これは時期的にはマルコーニよりも早く成し遂げられたことになります(マルコーニは大西洋横断通信に興味なく後回しにしました)。そして1923年11月22日に開局したヘイスティングの系列局KFKXへの短波中継(番組配信)を正式にスタートさせ、ついに短波の電離層反射の実用化を達成しました。

さらに同年12月29日にはイギリスへの国際短波中継にも成功しました。やや遅れてGE社のラジオ局も短波中継を開始し、1924年(大正13年)には大西洋を横断するラジオの短波中継が頻繁に行なわれました。写真は1924年に新築したウェスティングハウス社KDKAの局舎と短波の垂直型空中線(向かって右側)です。

 ● アマチュア無線家の短波のページ

1923年(大正12年)初頭よりアマチュアによっても短波が試されるようになりました。しかし同年6月にアマチュアの周波数が中波1.5-2.0MHzに限定されたため、特別免許で大西洋横断通信に成功(1923年11月27日)しましたが、短波の一般利用はお預けでした。

そして1924年(大正13年)7月に晴れて短波が解禁され、1924年秋よりアマチュアが次々とDX通信に成功し、短波が小電力で遠距離に届くことは一時的な特異現象ではないことが確定的になりました。これがアマチュアによる短波の小電力遠距離通信の発見です。下図はそれらDX記録を伝えるQST誌(1925年1月号)の特集記事 "Super DX" です。

 ● 諸国の短波開拓

マルコーニ、コンラッド、アマチュア無線家以外の、研究者・組織・企業による短波の開拓についてまとめました

アームストロングの講演「発見の精神」

(失われたチャンス) ・・・ご一読をお奨めします

1953年(昭和28年)6月15日、アトランティックシティで開催された米国電気学会AIEE夏季総会において、スーパーヘテロダイン方式やFM通信の発明者として知られるアームストロング(E. H. Armstrong)氏が “The spirit of discovery — An appreciation of the work of Marconi(E. H. Armstrong, Electrical Engineering, vol.72 issue8, Aug.1953, pp479-676)と題し、マルコーニ氏の業績に関する講演を行ない、第一の功績は、「大地を利用する地中波の発見」(接地型空中線による地中波)、第二の功績は「短波の昼間波の発見」(短波の公衆通信実用化)、そして第三の功績として「超短波の屈曲の発見」を挙げました。

幸いこの日本語訳の記事 "発見の精神 マルコーニの業績に対する認識"(E.H. Armstrong, 大沼雅彦抄訳, 『新電気』, 昭和29年1月号, オーム社, pp93-100)があり、マルコーニ氏の長波(1900年~)・短波(1920年~)・超短波(1930年~)での功績がバランスよく、日本語8ページにまとめられています。記事は訳者序文のあと、接地式アンテナの発明の話題があり、次に短波開拓の話に移り、最後に超短波の屈曲の話で締めくくられます。それでは序文と短波開拓に関する第二の功績の部分を引用します。なお()の小さな文字は私が付けた補足です。

●訳者の序文

この原文はElectrical Engineering 1953年8月号に載せてあったもので、コロンビア大学電気工学部教授のE.H.アームストロング氏が、アメリカの電気学会(AIEE)の夏季総会において、講演されたものである。行文はきわめて流麗で、読む人をズルズルと引きずり込むような力のこもったもので、思わず夢中で読み続けるほどの名文である。しかもその内容は、われわれに多くの示唆を与え反省すべき点の多いことを教えてくれる共に、今後の指針をも示してくれる。訳者の狭い読書範囲では、このような身にせまる感じを受けた文は、はなはだ稀である。

ただ惜しむらくは、限られた紙面に全文を訳載することができなかったために、一部を割愛したことと、訳者が不敏のために、せっかくの名文を流暢な日本文に訳して読者にお伝えすることができなかったことである。どうか眼光よく紙背に徹せしめて、アームストロング教授のいわんとするところを把握して頂きたい。また講演文であるから会話体にしたいと思ったが、これも頁数の都合で文体を考慮の外におかざるを得なかったことをお断りしておく。

●マルコーニの短波研究

第一次世界大戦後、イギリス マルコーニ会社の有能な技師C.S.フランクリンは、マルコーニがイタリー陸軍の求めに応じて作った短波指向性光線(ビーム通信)を追求して、1920年にロンドン(ヘンドン)・バーミンガム間に、15mというきわめて短い波長を出す電線(ビームアンテナ)を設立した。その波長が選ばれたのは、伝播に都合よかったからではなく、その種の電波には反射アンテナを立てることが容易であり、かつ「昼間の影響」が、非常に短い伝播通路(100マイルくらい)には起こらないので、距離的な損失が少ないからである。

●1921-22年 中波200mによるアマチュアの大西洋横断通信

何年となく米英の素人無線家たちは、使用することを許された商業的には無用な200m以下の波長の電波で、大西洋を結ぶことができるかどうか試験してみようと話していた。そして1920年にこのテストが行なわれることになった(1920年9月に企画され、1921年2月に実施)。しかし失敗に終ったので、翌年(1921年)、再度のテストが行なわれた。成功するだろうと予言する者はほとんどなかったが、とにかく合衆国素人無線家の呼出符号が、1921年12月にイギリスで受信された。そのうち2つは100W以下の電力の発信所から送られたもので、しかも、コネチカット州グリニジにある1BCG送信所は、全文の送信に成功した。

しかし大西洋経由の通信は、夜間に受信されるだけであった。東端に日の昇ると共に通信は断たれ、西海に日の没するまでそのみちの再び開かれることがなかった。こうした結果はしばらく強い関心を集めていたが、間もなくそれも消えていった。すべての人々は、200m(1500kHz)の電波で大西洋を結ぶことができたことに驚嘆したが、商社も、またこのテストに加わった人たちも、更に短い電波を研究するに至るまでの刺激は受けなかった。

この部分はアームストロング氏が「失われたチャンス」として世に訴えたいことの前振りになっています。(後述しますが)夜にならないと遠くに届かないと信じられていた「電波」でしたが、実は短波を使えば昼間でも遠距離通信できることを発見したこと。これこそが世界各国の無線を短波へ向わせた最大の理由です。

●1922年6月20日 マルコーニがIRE/AIEEで短波を講演

実用面において、この素人たちの通信により、想像の灯を点火された唯一の存在はマルコーニであったように思われる。1922年(6月20日のIRE/AIEEの講演会で)、彼は無線研究の一端を明らかにしたが、彼は無線は長波の研究を実際上、制限してしまうことによって盛んになって行くだろうと暗示した。そして短波について、もっともっと深い関心が払われるべきだと指摘し、その意見を次のように要約した。

「私がこうした成果や考え方を示しましたのは、たぶん皆さんがたには御賛成下さると思うのですが、私が短波の研究は多くの未開拓の方面へ発展していく可能性をもっており、また新しい研究面を打開する可能性をも有していると考えるからなのです。確かにその方面の研究は、過去における無線電信史を通じて、全くかわいそうなくらい等閑に付されておりましたが、私はそうした可能性をもっているものと考えます。」 と。

世界で一番最初に短波の可能性を世に訴えたのはマルコーニ氏でした。マルコーニ氏の短波開拓(短波への回帰)は1916年(大正5年)に始まりましたが、当初は秘密ビーム通信を目的とする研究でした。それが実験を重ねるうちにビーム通信を用いさえすれば遠距離通信も可能であるとの想いに至ったわけですが、自身の北海横断短波試験成功(1921年5月11日、3MHz、英国-オランダ間、二波による同時無線電話)だけでなく、アマチュアによる大西洋横断試験成功(1921年12月7日、中波1500kHz付近、米→英1Way)からも刺激を受けたのではないかとアームストロング氏は推察されています。

●1923年春 巨大ビームで短波の電離層反射を確認

イギリスに帰ると、マルコーニはあの歴史的なポルデュー実験所から、引継いでやっていた実験を始めた。1923年春、その実験のため、南大西洋のケープ・ヴァード(注:現代の読みではカーボ・ベルデ)へ「エレットラ号」に乗って赴いた。彼はポルデューに送信機を備えつけていた。南へ航海しながらも彼はポルデューからの通信に注意していた。そして夜には状態が非常に良いことを知った。日中の通信は1400マイルのあたりで消えるのに、夜だと発信所から2500マイル以上もあるこの群島においてすら、それまでに、もっと高性能の長波送信所から、それに匹敵する距離に発せられたものよりも、ずっと良くとらえることができた。

マルコーニはポルデューにおける電力が1kWに減ったときですら、夜の通信は、英国最強の電力を有する大西洋横断送信所から送られるものより、はるかによかったといっている。そのうち、昼間の例の受信不能状態が続いているとき、ポルデューでの日の出以後もしばらく通信が続けられ、暗黒が島々を包む前にもまた聞き取れることがわかった。その季節ではポルデューの日の出は、船のもやってあるセントヴィンセント(カーボ・ベルデ諸島のひとつ)より3時間近く早かったのである。このような観察からマルコーニは、短波にまつわる新しい現象があるのではないかと考えた。イギリスに帰ってから彼は、次の年に向う、更に進んだ実験のプログラムを作った。その翌年に90mの波長での通信と、もっと短いもの ― 30mくらいまでの ― とを比較する予定であった。

マルコーニ氏は長波より短波の方が遠距離通信に適していることをついに発見したのです。

●1924年夏 マルコーニが昼間波を発見

1924年の夏、地中海経由でシリア海岸へ航海したが、その9月にベイルース(ベイルート)湾で実に瞠目に値する観察を行なった。ポルデューから発信された32mの電波による送信が、2400マイルも離れたそこで1日中受信できたということである。彼が観察していたことは、後になってF2層として知られるようになった大気上層部のイオン化された層からの反射によって、伝播が行なわれるということだった。

1ヶ月もたたないうちに、イギリスにもどったマルコーニは、32mの波長でアルゼンチン、オーストラリア、ブラジル、カナダ、合衆国などへ発信する予定のあることを公にした。予定された時刻に、マルコーニからの昼間送信はそれらの諸国で受信された。大地の果てにある濠州からは1日のうちの23時間半にわたって受信に成功したとの報告がきた。この結果は、あの大洋横断長波送信所の電力のほんの一部にすぎない力によってなされ、しかも受信地が異なるために、創案の指向性アンテナを用いることなしに成就されたのであるから、それはひときわ素晴らしいものであった。ときどき、あまりにもとっぴな発見に対してそうであるように、マルコーニのこうした発見に対しても、最初にはその真意は彼以外のだれからも理解されなかった。

有能なエンジニア、フランクリンの協力を得て、マルコーニの研究は一切周囲におかまいなく進められた。そして1927年末までに短波発信機は英本国と英領各主要地との間に通信業務を開始した。どんな長波発信機でも、またケーブルでも到達することのできなかった1分間100語(1語=5字)という速度でそれが行なわれた。もはや長波は時代遅れとなった。ケーブルもまた通信の二次的手段と化する運命にあった。

・・・と、ここまでは今では多くの海外書籍で紹介されているマルコーニの短波開拓の歩みで、本サイトの内容とほとんど重複しています。しかしこのあとアームストロング氏がマルコーニ氏の功績と自分たちの失敗について語ります。アームストロング氏は1921年にアマチュア団体ARRLが呼び掛けた大西洋横断テストのアメリカ側送信者(1BCG)のひとりでもありました。米国人は「昼間波」発見の栄誉を受ける最短距離にいたのにそれを逃がしてしまったのです(私はかつて米国のアマチュア無線家のWeb Siteで、この「失われたチャンス」が引用されているのを読んだことがあります)。

●失われたチャンス

失われたチャンス

さてまたヘンドン・バーミンガム光線(ビーム通信)に舞いもどり、失われた絶好機として無線電信史上に消えることのない事件を考え、その教訓をながめることにしよう。それはアメリカにいるすべての素人無線家や、そうでない無線実験者たちが、1922年のヘンドン・バーミンガム通信に波長を合わせ、マルコーニよりも早く「昼間」波を見出さなければならなかったことである。

ヘンドン通信の大圏コースはカナダ東部と合衆国を通っていた。後になってわかったのであるが、15mの波長は、夜間は効果的でなかったけれども、30mのものよりは「昼間」波としてよいものであった。ヘンドン送信所についての情報は、ことごとくフランクリンやマルコーニの公表によって知ることができた。そして、こうした電波を受けとる最も効果的な方法である超(スーパー)へテロダインについての情報も公にされていたのだ。

もしも誰か合衆国の無線実験者が、超(スーパー)へテロダイン装置を組立て、日中ヘンドンの通信にきき耳を立てていたと仮定するなら、当然の結果として、いつかそれを聴きとることができたであろう。そしてマルコーニに非ずして、その何某氏こそが「昼間」波発見者となっていたに違いなかったのだ。だが、誰も、残念ながら受信機を組立てて聴き入ろうとしなかった。われわれは皆あまりにも伝播について「知り」過ぎていたのだ!全く当時にあって、よりによって真っ昼間、北大西洋を超える15mの送信を聴こうなんていう気を起こす者は、脳膜炎を患った御仁、以外にはなかったのだ。

だが、その千歳一隅の好機を逃したアメリカの実験者たちにとって、せめてものなぐさめになるものが1つある。それは発明オヤジ、マルコーニですらもそれを聴き逃していたということである。20年以上もの間、合衆国への航海に出るときには、受信機で英国の送信所に聴き耳を立てるのを習いとしていた彼ではあったが、1922年エレットラ号で大西洋を越えた際には、ヘンドンの通信を聴こうとする気が起こらなかったようである。もしそのとき彼がやっていたら、2年ほど早く「昼間」波の発見が成し遂げられていたであろう。

ここで注意しなければならないのは、世の歴史家や教科書編纂者たちが、彼のこの大発見(昼間波の発見)を正しく書いておらず、またマルコーニがそれを成就した(昼間波による短波公衆通信の実用化)としていないことである。エレットラ号による2度の航海(1回目:ケープベルデ、2回目:ベイルート)の話から学ばねばならない教訓は決して少なくないはずだ。しかも、この問題についてわれわれの文献はあきれるほど不正確なのである。・・・(略)・・・彼は自ら実験を行いその解答(昼間波の存在)を見出したのだった。彼以外の人たちは、あまりにも多くの「自然の法則」を知りすぎていた。そして、それにガンジガラメに縛られていたのだ。

 

アームストロング氏は、アマチュアも、プロも、米国の電波実験者たちは「電波は夜間に遠くに届くもの」という中波で学んだ常識から抜け出そうとしなかった。ひとりマルコーニだけが短波を実用化(商用化)するのに絶対必要となる「昼間波」を求めて、自らヨットで各地を廻って実験し、新たな周波数を切り開いていった。その結果がマルコーニの第二の功績「昼間波の発見と、それによる短波の公衆通信実用化」だと述べられました。

ちなみに第一の功績(大地を利用する地中波の発見)については

彼は放射電波を、振動器の一方を高く空中に懸垂し、他方を接地させることによって大地へ伝播させる方法を考えた。そして、その電波を地面の周囲に果てしなく遠くまで導く方法を考えた。その発見は当時の「科学」によって打立てられていたすべての法則に、真向から立ち向かうことによってなされた。』とし、

また第三の功績(超短波の屈曲)については

『・・・(略)・・・このような実験を繰返して、マルコーニは遂に電波の屈折することを発見した。しかし、彼の発見は "眉つばもの" として一般に考えられ、視界説の牙城は崩れようともしなかった。彼のその発表があったとき、私の心に起こった反応を今でもアリアリと思い浮かべることができる。それは「昼間」波が存在するという噂を聞いたちょうどその時と同じだった。私の知る限りでは、そんなことは「自然の法則」に反することだった。・・・(略)・・・今日われわれは、マルコーニが正しかったことを承知している。だが、彼の予言したその言葉が「正」であるというレッテルを貼られるまでに、何と20年もかかっているではないか!』と、アームストロング氏は述べました。

 昼間波の発見の意義の補足

昼間波(the daylight wave)という単語ですが、(短波が昼間でも遠くへ飛ぶことが常識の)現代では既に "死語" になっており、聞きなれない単語に戸惑われた方もいらっしゃるかと思いますので少し補足させていただきます。 

【参考】 戦前の電波伝播研究では「昼間波」、「薄明波」(夜明け・夕暮れ時)、「夜間波」に大別されることがありました。

無線通信が商用化されて以来、海底ケーブル会社と無線通信会社はライバル関係にありました。電波先進エリアの欧州では1901年(明治34年)頃より「中短波」による無線公衆通信(電報)が商用化され始め、6年遅れの1907年(明治40年)10月17日には「長波」も開拓されて国際公衆通信サービスがスタートしました。

しかし「中短波」が順調に電報取扱い量を伸ばしたのに対し、「長波」はさっぱり業績が伸びず、赤字を脱却できたのは1910年代になってのことです。その違いは何だったのでしょうか。

前者はケーブルと競合することのない海岸局と船舶局の移動体通信です。後者は固定局(Point to Point)通信で、ケーブル会社と完全に競合関係にありました。そして季節や昼夜の影響を受けて不安定な通信しかできない無線では、ケーブル会社に肩を並べるサービスを提供するのは無理でした。

マルコーニ氏は電報の申込が人々が活動する昼間に集中するため、お客様から預かった電報を電波状況が良くなる時間まで待ってから、送受信している現状を打開しない限り、無線公衆通信(電報)の発展は望めないと考えていました。そしてベイルートへの「昼間波」を探す航海で、みごとそれを発見し、短波の「昼間波」を使った大英帝国のビーム通信網を建設しました。


短波の小電力遠距離伝搬を発見したのはアマチュアで、その功績は高く評価されています。しかしいくら小電力で遠くまで届くといっても、それが夜間に限られるのでは、ビジネスの世界では通用しません。実用無線界では「小電力通信の発見」よりも「昼間波の発見」の方がはるかに大きな恩恵をもたらしました。

当時のアマチュア無線家の多くは若者で、(昼間に学校や仕事があるため)趣味の無線を夜に楽しんでいました。したがって彼らにとって「昼間波」は "絶対に必要なもの" ではなく、マルコーニ氏の「昼間波」の発見に大きな反応は示していません。自分達には(日曜日しか昼間波の)メリットがないのですからこれは仕方ないでしょう。また1924年(大正13年)7月24日に米商務省が開放した短波アマチュアバンド(80m, 40m, 20m, 5m)では、20m(14MHz)バンドの次がいきなり超短波の5m(56MHz)バンドでした。今のように18MHz、21MHz、24MHz、28MHzバンドがあればまた話が違ったのかもしれませんが、アマチュアは短波帯上半分を使う「昼間波」の開拓や、遠距離通信用の上限周波数の発見には参画していない(できなかった)という事情もあります。

長波から短波へ

1920年代後半に、公衆通信が長波から短波へ移り変わだした背景として、次の3つが重要だったと私は思っています。

1)昼間波の発見、 2)短波用平面ビームアンテナの開発、 3)短波用大電力真空管の開発

1)はいま説明したとおり、昼間波は無線がケーブルと互角に勝負するために必要な最大級の発見でした。2)の短波の平面ビームアンテナはマルコーニ社のフランクリン技師が実用化しました。その絶大なる効果が証明されると、各国で独自の短波ビームアンテナが開発されました。3)の大電力真空管はウェスティングハウス社は短波国際中継に1923年には6MHzまで動作する水冷式10kW管を完成させました。GE社もほぼ同じ時期に短波中継用の大電力水冷管を完成させています。

電波状態がどうであれ、お客様から預かった電報を正確かつ迅速に届けることが公衆通信の使命である以上、これら高利得ビーム空中線や大電力送信機を望むのは当然です。ではアマチュア無線家が、短波用水冷式送信管を開発したか?平面短波ビームを開発したか?と問うなら、答えはNOになりますが、アマチュア無線家という立ち位置を考えれば、この質問そのものがナンセンスでしょう。ところが昼間波は別です。米国のアマチュア無線家はそれを発見し得る環境にいたからです。

いつの頃からか 「短波が昼間にも飛ぶのは当たり前」 と思うようになり、昼間波の発見がマルコーニ氏の功績だったことを皆が忘れている事と、本来それはアメリカに住む研究家やアマチュアが発見できたのに逃してしまったのだとアームストロング氏は鋭く指摘しました。

●国際電電KDDの難波捷吾氏の講演(1959年)

国際電信電話株式会社の難波捷吾氏は、1959年(昭和34年)の電気通信学会全国大会で次のように述べておられます。

短波は、その地表波の距離に対する減衰が著しいので、遠距離通信には不適格とされていた。しかし素人無電技師の研究によって、事実は全く反対であって、短波の電離層伝ぱんの事実が明らかにされたことは、エピソードとしてよく知られております。しかし短波の商用通信を実現させたという見地からすれば、最大の功績は、やはり英国の Marconi Wireless Telegraph Co. に帰すべきものでありましょう。・・・(略)・・・

かくて1926年英帝国が誇る大英帝国短波指向通信網(Empire Short-Wave Beam Service)が実現したのであります。英国逓信省が最初長波をもって計画した経費に比して1/5で足り、しかも、この目的に使用する電波の波長は16m, 32mの二つに過ぎなかったのであります。つまり2種類の波長を切替えるだけで上記の所要通信時間をカバーし得たのであります。この成功に刺激されて、世界各国の国際通信は、あげて短波無線時代となり、それから30年余をへた今日、短波はなお主力なのであります。

マルコーニが(昼間波)16m波と(夜間波)32m波の2波だけで大英帝国短波指向通信網を実現せしめ、短波による公衆通信(電報)を実現させたことを称えました。マルコーニのページの後半部を参照下さい。

もしかすると難波氏もアームストロング氏の講演記事をお読みになり、そして同調するところがあり、日本でもマルコーニ氏の功績を正当に評価すべきと思われたのではないでしょうか?難波氏の講演から半世紀が経ちました。しかし日本では今もなお、マルコーニ氏を長波・中波の先覚者としてのみ語られる傾向が強いのは残念です。

ヘンドンの20MHzパラボラビーム局(1921年)

このビームはバーミンガムを超えてアメリカ東部に通じていたにも関わらず、(自分も含め)米国アマチュアや実験者は先入観により、誰も受信を試そうとしなかった。』(アームストリング氏の講演, 1953)