Oct 45 AFRS


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1945年10月2日、連合国総司令官マッカーサーの総司令部「GHQ/SCAP」が創設されました。これまで日本をコントロールしていた米太平洋陸軍US AFPACの総司令部「GHQ/AFPC」は、GHQ/SCAPを構成する一組織となりました。私達日本人がいわゆる「ジーエイチキュー」と呼んでいたのは、この10月2日にできた「マッカーサーの総指令部」GHQ/SCAPのことを指します。

AFRSはUS AFPACの情報教育局I&E(Information and Education Section)の下部組織ではありますが、GHQ/SCAPの民間情報局CIE(Civil Information and Education Section)および民間通信局CCS(Civil Communications Section)から強く影響を受けるように成ります。

10月に入ると地方の進駐地でのAFRS中継局の建設が始まりますが、課題は東京キー局WVTRの中継網の確保でした。有線中継網が戦災でズタズタになっていて、短波による中継に頼って乗り切るしか選択の余地がなかったようです。

  • Oct. 2, 1945 ・・・ 連合国最高司令官総司令部GHQ/SCAPと民間通信局CCSが誕生

1945年9月に米太平洋陸軍US AFPAC の総司令官マッカーサー元帥は、SCAP(連合国最高司令官)でもあり、日本における海外放送の禁止やプレスコードや放送コードなどの発令も行ってきたが、米太平洋陸軍総司令部GHQ/US AFPAC による日本占領政策にピリオドが打たれた。

1945年10月2日、日本の占領統治のための機構として連合国最高司令官総司令部GHQ/SCAP、いわゆる我々日本人がいうところの「ジー・エイチ・キュー」が日比谷に置かれた。以後GHQ/US AFPAC はGHQ/SCAPの下部組織に組み込まれた。

【注】 なお当時のメディア報道ではGHQ/US AFPAC(太平洋陸軍総司令部)とGHQ/SCAP(連合国軍司令官総司令部)は明確に区別されていた。たとえばGHQ/SCAPはSCAP(マッカーサー元帥)の総司令部なので、「マッカーサー総司令部」というような日本語表記もみられ、占領初期のGHQ/US AFPACとは呼び分けていたのである。しかし10月2日以降、GHQ/SCAPによる占領が長期化するにつれ、単に「ジー・エイチ・キュー」と呼ぶようになり、これはGHQ/SCAP(連合国最高司令官マッカーサー元帥が設置した総司令部)のことを指すようになった。従って1945年8-9月の出来ごとにおいて「ジー・エイチ・キュー」という単語を不用意に使うと、それはあたかも「マッカーサー総司令部(GHQ/SCAP)」のように聞こえるが、実はその時期は「太平洋陸軍の総司令部(GHQ/US AFPAC)」のことなので単に「GHQ」とする表記は適さないといえるだろう。

GHQ/SCAPと同時に誕生した民間通信局CCS の中には国内無線課DR(Domestic Radio Division)が置かれ、ここが日本人の(連合国の無線局を除く)電波行政を一手に担うこととなった。これまで電波行政を牛耳っていた逓信院BOCはCCSが下す命令の実務実行機関に転落した。

またUS APFAC のI&E(Information and Education Section)から分家して、9月22日にUS AFPAC内に作られた民間情報教育局CIE(Civil Information and Education Section)のラジオ課がBCJを指揮監督していた。10月2日にGHQ/SCAPが誕生するのと同時に、GHQ/SCAP一般命令第4号が発せられ、CIEはUS AFPACからGHQ/SCAPの組織として移管された。

所属的にはAFRSはUS AFPACのI&E内に置かれた。すなわち日本人を対象とするCCSやCIEの管轄外だ。しかしAFRSはBCJの放送施設を利用した。そのBCJはCCS(周波数分配と出力や電波の質の監督)とCIE(日本人向け放送の運営の監督)の指揮下にあることから、「CCS・CIE連合」と「I&E」の両組織から制御されるようになった。これゆえ(日本国の無線局でありながら、また連合国の無線局でもあって)AFRSの歴史検証は難しいのである。

  • Oct. 8, 1945 ・・・ P&O, BOC, BCJ の合同ミーティング

1945年10月8日、US AFPAC, OC SigO の計画運用課P&Oは、逓信院BOCおよび日本放送協会BCJと会議を行った。P&Oが自前施設で開設を予定している松山・福岡・金沢・新潟ではBCJの中継線への接続を要求した。また10月22日には第24歩兵師団(24th Infantry Division)が松山に進駐し司令部を置く予定で、その隷下のRCT(Regimental Combat Team)が岡山へ、さらに第25歩兵師団(24th Infantry Division)のRCTが敦賀へ進駐するため、この三地区への緊急開設に協力するよう求めた。

しかしこれらの地域への中継線(有線)が機能不全で、特に敦賀にはBCJ放送局がなく、敦賀までの中継線が用意されていなかった。当面は短波中継によるとして、敦賀エリアの住民は福井放送局を聴取しており電界強度レベルが低く、もしAFRSが敦賀で開局すると、分離性能の悪い日本の家庭用受信機では弱い福井放送局が聞こえなくなる可能性があるため、BCJ敦賀放送局の建設と中継線の敷設などについて話し合われた。(左図は1945年10月5日付けでBCJが作成した、短波中継回線リストの1ページ目。クリックで拡大。)

US AFPACは、日本上陸前はBCJの第二放送ネットワーク(放送中継網)を使って各地へ番組配信するつもりだったが、日本に来てみるとBCJの中継線が甚大なる被害でとても放送を満足に維持できる状態ではないことが明らかになった。

日本人のBCJ「第一」と「第二」はそのままで、あらたに進駐軍に「第三」の電波を差し出せばよさそうなものだが、そうではない。進駐拠点でAFRSの電波を出すこと自体は、自前の送信機を複数保有していたため大きな問題ではなかった。それよりも何よりもAFRSの悩みの種はその進駐拠点までいかにして番組を運ぶかである(進駐先が必ずしも大都市ではないため)。つまりAFRSが欲しかったのは、放送施設(送信機、アンテナ、スタジオ)とネットワーク(放送中継網)のセットだった。ほいとスタンドアローンの「第三」放送局だけを提供されても仕方ない。だからBCJの新設計画にある第二放送「ネットワーク」を強固に要求していた。

しかしAFRSとしてはネットワーク(放送中継網)さえ自分たちへ優先的に提供されるなら、放送周波数にこだわる必要はなく、両者に妥協の余地があった。すなわちBCJ「第二」拡充計画の周波数はそのまま日本人が使える可能性がでてきた。

  • Oct. 10, 1945 ・・・ 10月8日の会議録

1945年10月10日、US AFPACは上記会議でBCJの技術局のMomotsuka(百塚?)部長より得た、BCJの放送計画などの情報をまとめた。

(1/2) (2/2)

読みやすいように以下に書き出した。

GENERAL HEADQUARTERS

UNITED STATES ARMY FORCES, PACIFIC

Office of the Chief Signal Officer

ADVANCE ECHELON

APO 500

10 October 45

SUBJECT: Additional Japanese Broadcast Facilities for AFRS.

SOURCE: Momotsuka, Engineer Radio Tokyo.

MEMO TO: Colonel Guest.

1. By 22 October, additional troop units will be in Matsuyama, Tsuruga, and Okayama which do not receive satisfactory service from Japanese stations now carrying AFRS program. AFRS (Maj. Boepple) does not have adequate personnel to install and man the additional stations required.

2. Three 500w. transmitters are available and arrangements are being made to install them. Tsuruga does not have any station at present. The operation of an AFRS station will blanket in Jap receivers the marginal service from Fukui and to overcome this, the BCJ will install an additional station at Tsuruga.

3. The Broadcasting Corporation is starting a third network to replace the stations taken over for AFRS programs. When the facilities are completed, it is contemplated that this network will be in competition with the first network. Program departments but both will be part of the Broadcasting Corporation. The second network stations are as follows:

STATION FREQUENCY POWER STATUS *

Tokyo 1260 10kW 1

Osaka 1310 10 1

Nagoya 1340 10 1

Sendai 1370 0.50kW 2

Kumamoto 1400 “ 1

Sapporo 1420 “ 2

Hiroshima 1440 “ 2

Matsuyama - “ 3

Okayama - “ 3

Fukuoka - “ 3

Niigata - “ 3

Akita - “ 3

Shizuoka - “ 3

Matsue - “ 3

* 1. in operation, 2. installed, 3. Planned

4. The four transmitters which are to be installed for AFRS (the fourth installation will come about in directly as a result of an AFRS installation) were destined for 2nd Jap network stations at the following cities (which now have a No.1 station):

Matsuyama

Fukuoka

Kanazawa

Niigata

5. It was stated by Momotsuka that the restoration of the existing damaged No.1 stations at Kochi (0.05Kw) and Tokushima (0.100kw) will be delayed by the installation of AFRS stations. The Kochi transmitter has already been shipped but the Tokushima transmitters will be delayed until the end of the year. The second network seems to have been given priority over rehabilitation of these two stations.

6. The following troops will be in the areas in question:

Tsuruga RCT

Okayama RCT

Matsuyama 24 Div less RCT

7. The BCJ does not anticipate any difficulty maintaining 500 watt transmitters inasmuch as the principal bottleneck is in high power tubes.

8. Whether or not the Japanese should be officially asked to install the three stations for AFRS depends on the following Policy question:

Does the establishment of Second Jap Network Stations in four cities (Matsuyama, Fukuoka, Niigata, Kanazawa, Total Pop. 798,000) have priority over AFRS service to 20,000 troops.

WILLIAM C. BOESE

Major, Signal Corps

パラグラフ1で、1o月22日に進駐してくる松山・岡山・敦賀三地区への緊急開設にあたって、中継線の問題や、AFRSのMajor Boepple が要員不足の問題、そしてパラグラフ2では、敦賀にBCJ放送を追加建設する必要性が報告された。

パラグラフ3で『The Broadcasting Corporation is starting a third network to replace the stations taken over for AFRS programs.』とあるように、BCJはAFRSに接収された第二放送を日本語第三放送として始めていることを報告した。

従来でいうBCJ第二放送は、放送中のステータス「1」(in operation)に到達したのが東京・大阪・名古屋の10kWと、熊本の0.5kWの計4局。そして放送準備中のステータス「2」(installed)が札幌・仙台・広島の0.5kWの計3局である。

9月13日のBCJのリストでは(名古屋第二の3kWを除き)全局10kWだったものが、熊本・札幌・仙台・広島が0.5kWへ変わっている。札幌と仙台はBCJの第二ネットワークの中継線がAFRSに接収され、(予備施設への切り替え後は電波は出せるものの)東京からのネット受けが満足に行えなえず、ステータス「2」の放送準備中になっているのだろうか?

また大阪や名古屋が1310kc, 1340kcだということは、この時点では大阪や名古屋のAFRSは9月22日の指令通り940kc, 990kc を使っているということになる。BCJは松山・岡山・福岡・新潟・秋田・静岡・松江の7地区でも、従来でいう第二放送を検討しているとした。

  • AFRSは第二放送の周波数をBCJと交換したのか?

AFRSはBCJ第二ネットワーク(2nd Network:第二放送網)を手に入れた。ネットワークの中核をなすのは、そのスタジオ施設と送信施設、そしてなによりも各地と結ぶ中継施設である。そもそも周波数は増局での周波数再配置や混信問題を最適化するために適時変更が行われるものだ。

10月8日時点の放送の運用状況をまとめると下表になる。表中()の周波数はまだ試験中/準備中。

(1945年10月8日ミーティング時点のAFRS周波数、青字:1945年9月22日の接収指令周波数)

9月22日のGHQ/US AFPACの指令では、(東京だけ第一590kcで)大阪第二940kc、名古屋第二990kc、仙台第二1140kc、広島第二1230kc、熊本第二1170kcだ。大阪では第二放送の千里放送所(送信所)をAFRSに接収され、日本語第三放送には藤井寺の予備送信所を使用した。名古屋も第二放送施設をAFRSに接収されたため日本語第三放送には3kWの予備機を使った。熊本・仙台・広島(と9月22日の指令にはなかった札幌)では、戦時中の雑音放送用送信機を使って第二放送を始めたが、それを接収されたため一旦放送を中止し、500W予備施設による第三放送(従来でいう第二放送)の建設に取り掛かっていた。中でも熊本第三放送がいち早く復活できたようだ。

AFRSの第二ネットワークの接収は計画通り進んだのならば、このあと10月22日に、BCJの第三放送の周波数と、第二放送(AFRS)の周波数が交換されたことになるが、自分的にはもう少し検証したいと考えている。

  • AFRSの開局順位の話題をもう一度

◆東京・大阪・名古屋が先行したとするもの

『アメリカ軍が日本に進駐してからは、ロスアンゼルスに本部をもつAFRS(Aremed Forces Radio Service)は横浜に日本支部を設置して、先ず東京(WVTR) 大阪(WVTQ) 名古屋(WVTC) の三つの進駐軍向け放送を開始した。』 (昭和23年ラジオ年鑑, p5, 日本放送協会, 1948)

『アメリカ軍の日本進駐後間もなく、即ち昭和二十年(一九四五年)九月二十三日、アメリカ、ロスアンジェルスの進駐軍放送、AFRS(Armed Forces Radio Service)本部が横浜に日本支部を設置して、先ず東京(WVTR)、大阪(WVTQ)、名古屋(WVTC)の三か所で進駐軍向け放送が開始され(第三放送)、・・・(略)・・・同じ月、熊本、仙台、札幌で、翌月には、松山、岡山、敦賀でもこの放送が開始された。』 (日本放送史, p1067, 日本放送協会, 1951)

【注】1951年版の日本放送史では9月中に熊本・仙台・札幌が開局したとしている。しかし広島のAFRSは10月にも登場しない。

◆東京・大阪・名古屋・広島・熊本・仙台・札幌の6局同時とするもの

一方で、『放送会館の接収に続いて占領軍は、東京、大阪、名古屋、広島、熊本、仙台、札幌各中央放送局の第二放送施設を使用して、九月二十三日(広島のみ一〇・一五)からAFRS放送を開始した』(放送五十年史, p204, 日本放送協会, 1977)とあり、ラジオ年鑑等の記録と食い違いがある。放送五十年史の出版は1977年で、ラジオ年鑑は1948年だし、会議録は1945年だ。もちろん記録時点が古いものほど正しいと決め付けるものではないが、ひとつ気になるのは、BCJの役務提供期間との一致である。

続・逓信事業史 第六巻(p186, 郵政省, 1956)によれば1945年9月23日に東京(1953年7月31日終了)・大阪(1954年8月9日終了)・名古屋(1953年11月7日終了)・熊本(1947年2月28日終了)・仙台(1953年10月3日終了)・札幌(1950年12月19日終了)のBCJ6局が役務提供を開始し、BCJ広島だけは1945月10月15日開始(1945年11月13日終了)とされているが、上記「放送五十年史」が『AFRS放送を開始した』とする日が、役務提供を開始した日とピタリと符合する。

のちにBCJはGHQ/SCAPへヒトとモノを提供した料金を請求し収入を得ることに成功したが、役務提供期間とはその料金請求の算定期間(開局準備作業も含む)の意味であって、開局(放送開始)の日だとは限らないのではないだろうか。なおBCJ広島のAFRSへの役務提供の話題については後でもう一度触れる。

【参考】当初は終戦連絡中央事務局(Central Liaison Office)経由で役務提供料(部屋代・電気代・機器保守費・要員人件費など)をGHQ/SCAPに請求していたが、1947年からは逓信省経由、1948年からは特別調達庁経由で請求し受領するようになった。

◆大阪や東京では9月23日より早く始まった?

また大阪のAFRSが9月中旬より、東京のAFRSは9月22日より始まった可能性を指摘する海外のAFRS関係者のサイトも見受けられる。確かにそうかもしれない。今の放送と事情が全く違うのは、BCJの第二放送は午後6時からの夜間放送として再開された。つまり朝から午後6時の放送休止の時間帯で暫定的にAFRSの英語番組をオンエアできる余地が残されていたからである。

いやそれだけではなく広島・熊本・仙台・札幌にしても、9月23日から第二放送の昼間休止帯を使った英語番組の部分放送でもって、とりあえずAFRSを立ち上げて、徐々に放送枠を拡大させた可能性だってあるだろう。その場合、どのような状況にまで到達したことをもって、AFRS放送開始日とするかはI&EとBCJで解釈の違いがあっても不思議ではないだろう。

そういう理屈で考えるなら、US AFPAC渉外局の「23日に6局が同時開局した」とする発表も、たとえ10分間だけでもAFRSの英語ニュース原稿を読み上げれば「開局した」のかもしれない。あくまで私の個人的な想像だが。

  • Oct. 15, 1945 ・・・ 対日指令SCAPIN第145号が発令される

1945年10月22日には、松山に第24歩兵師団(24th Infantry Division)が進駐してきて司令部を開設する予定のほか、岡山と敦賀にもRCTが進駐する予定で、もう残された時間も無く、US AFPACのP&O もさすがにあせったのだろうか?あーだの、こーだの言ってないでとにかく「10月22日までに松山・岡山・敦賀に100-500WクラスのAFRS中継局を開設せよ」との、GHQ/SCAP(マッカーサー元帥)の命令("Establishment of Additional Broadcast Stations for Armed Forces Radio Service", SCAPIN第145号)が日本帝国政府に下された。

【参考1】GHQの高級副官部(AG)ドキュメントには、例えば AG676.3(15 Oct 45)CCS の様に、分類番号「AG676.3」+「括弧を付けてその中に"日・月の略字・年の下2桁"」+「作成部署略字」が付けられる(電報は除く)。それが1946年1月24日になって連合国最高司令官(SCAP)から日本政府へ出される指令にはSCAP Index Number (SCAPIN)を発番することが決まったため、1945年9月2日にさかのぼって1番から順番にSCAPIN番号が振られた。

SCAPIN第145号は発令当時(1945年10月15日)にはまだSCAPIN番号は振られておらず、ドキュメント番号はAG676.3(15 Oct 45)CCS だった(下図左・クリックで拡大)。それが1946年になって改めてSCAPINが与えられ再タイプされたものでは、NFR(Note For Record)が省略された(下図右・クリックで拡大)。もちろん指令内容(本体)は変わらないのだが、NFRがないとそれに至った背景が読取れず理解しにくくなる。1946年1月24日以前の対日指令集はオリジナルの方もチェックした方が良い場合あるので注意が必要だ。

(1945) (1946)

【参考2】日本人の無線局(BCJ放送)の周波数や出力はCCSが承認していたが、AFPACの無線局(AFRS放送)にはCCSの権限は及ばない。しかしSCAPIN第145号のパラグラフ2に『Details of this project should be coordinated with the Civil Communications Section of this headquarters.』(このAFRSプロジェクトの詳細はCCSとよく調整の上で進めなさい)との、SCAP(マッカーサー元帥)の命があるように、AFPACはAFRS周波数を勝手に決めたのではなく、CCSのBCJ周波数配置計画と充分すり合わせた上で指定した。

  • Oct. 20, 1945 ・・・民間通信局CCSの「BCJ予備調査報告書」

民間通信局CCSはこれまでのBCJから提供を受けた種々のデータより、1945年10月20日付けでPreliminary Report on Radio Broadcasting in Japan(Broadcasing Corporation of Japan)として完成させた。

"VIII. Plant" の7にBCJの日本語第三放送(旧第二放送)に触れる部分があるので引用する。

VIII. PLANT.

(1~6は省略)

7. In order to provide broadcast service for the occupation troops, arrangements were made with the BCJ to use the stations of the second network at Tokyo, Osaka, Nagoya, Hiroshima, Kumamoto, Sendai and Sapporo. Studio facilities of Radio Tokyo are used for producing the programs as well as the interconnection facilities. The BCJ has started a third network to take the place of the original second network. On 10 October, third stations at Tokyo, Osaka, Nagoya and Kumamoto were in operation using installed spare/emergency transmitters and others are to place in operation shortly. The following table illustrates the plans of the BCJ for the third, or second Japanese programmed network:

STATION FREQUENCY POWER STATUS *

Tokyo 1260 10kW 1

Osaka 1310 10 1

Nagoya 1340 10 1

Sendai 1370 0.50kW 2

Kumamoto 1400 “ 1

Sapporo 1420 “ 2

Hiroshima 1440 “ 2

Matsuyama - “ 3

Okayama - “ 3

Fukuoka - “ 3

Niigata - “ 3

Akita - “ 3

Shizuoka - “ 3

Matsue - “ 3

* 1. in operation, 2. installed, 3. Planned

When sufficient facilities are installed and operating in order to compete with the number 1 network for listeners, iti is planned to program then independently with two separate program departments operating in competition with on another.

基本的には10月10日の報告内容を転記したものだが、BCJの従来の第二放送が第三放送として始まったと過去形で書かれている。

"IX. Damage and Shortages - Plans for Restoration of Broadcast Plant" ではBCJの被災状況がまとめられているので参考までに引用しておく。 表中のSendaiとは川内(鹿児島県)である。

"XI. Broadcasting in Occupied Territories" の3では朝鮮放送協会の施設について述べていて、朝鮮半島における稼動放送局は以下だとしている。

終戦から間もない混乱期なので、どれほど正確に現地の状況を把握できていたかわからないし、またこれがいつの時点のデータなのかも明記されていない。日本語第一放送は9月に入り廃止されているし、ピョンヤンのJBBKはソ連軍の占領エリアに入っている。

  • Oct. 22, 1945 ・・・ 札幌・仙台・熊本でも第二放送開始

"ラジオ五十キロ復活" ( 読売新聞, 朝刊, Oct.21,1945,p2)

以下引用する。

『・・・(略)・・・日本放送協会では、終戦に伴ひ戦前の大電力放送に復活するやう試験中であったが、廿二日から東京の第一放送を五十キロの電波で放送、これとともに第二放送は従来の東京、大阪、名古屋のほかに札幌、仙台、熊本の三局でも同日から開始する。』

"大電力放送に復活" "第二放送実施局増加" ( 朝日新聞, 東京版, Oct.21,1945,p2)

以下引用する。

『日本放送協会では戦前の大電力放送に復活するために先般来試験中であったが、明二十二日からいよいよ東京の第一放送を五十キロの電力で放送することとなった。またこれまで東京、大阪、名古屋の三局のみが第二放送を実施していたのを二十二日から札幌、仙台、熊本の三局も開始する。したがって放送の周波数を変更する放送局があるから聴取に当たって注意を要する。』

"五十キロ放送復活 あすから周波数も変更" (毎日新聞, 東京版, Oct.21, 1945, p2)

以下引用する。

『・・・(略)・・・日本放送協会では戦前の大電力放送に復活するため廿二日から東京の第一放送を五十キロ放送(戦時中は十キロ)とすることになった。また第二放送は東京、大阪、名古屋のほかに札幌、仙台、熊本の三局も同時に開始するが、これに伴ひ周波数も左の如く変更される。』

両紙は全国の主要局の周波数を以下のように報じた。

札幌(1200kc)・仙台(1140kc)は9月に戦時中の雑音放送用送信機で第二放送を始めたが、9月23日以降はAFRSによる第二放送の接収で一旦放送を中止し、予備送信施設による放送を準備してきた。

10月8日のP&O, BCJ, BOC の会議では開局ずみとされたBCJ第三放送(この新聞記事でいうところの第二放送)は大阪(1310kc)・名古屋(1340kc)・熊本(1400kc)の周波数が、大阪(940kc)・名古屋(990kc)・熊本(1170kc)に変更になっている。【注】新聞記事では熊本も10月22日開始で、10月8日の資料と食い違いがある。10月8日の熊本は試験放送か部分放送だったのだろうか?良く分からない。

  • Oct. 26, 1945 ・・・ CCS が10月22日時点の放送局リストを作成

1945年10月26日、CCS は対日指令SCAPIN第145号の実行期限である1945年10月22日時点におけるBCJとAFRSの置局状況を調査して、US AFPAC の情報教育局I&E(Information and Education Section)へ提出した。

これはUS AFPACのMajor Kendall よりのリクエストによるものであるが、10月22日に東京(870kc)の50kw化と、札幌(1200kc)・仙台(1140kc)・熊本(1170kc)でBCJ第二放送が始まったことで、若干の周波数変更があったため、資料を最新のものに更新するものだった。

◆「第二放送」「第三放送」言葉の混乱が収拾

1945年9~10月の時期に「第二放送」という言葉がBCJの放送を指すのか、AFRSの放送を指すのか、少々混乱が生じていた。US AFPACのP&OやI&Eではこれまで「第二放送ネットワーク=AFRS」と呼んできたが、GHQ/SCAP直轄の電波行政組織CCSは「第二放送ネットワーク=BCJ」で、AFRSは新設「AFRSネットワーク」として扱い、混乱は収まった。

さて上記21日の新聞報道によれば広島放送局JOFKはまだ第二放送を開局していない。しかし下表のリストにはJOFKの第二放送(1230kc, 0.5kw)が掲載されている。もし新聞報道の方が現状を正しく捕えていると考えるなら、本リストには準備中のものも含んでいることになり、広島のAFRS, WLKH(1440kc, 3kw)が本当に開局まで至っていたかを疑う余地が出てくる。

しかしその一方で、本リストはBCJ敦賀放送局(670kc)やAFRSの青森・福岡・大村・門司のRemarks欄に建設中(In Construction)をわざわざ明記しているので、このリストは実際に電波を発射している局のリストである。BCJが誤った報告をCCSへ行ったとも考え難く、やはり広島のBCJ第二(1230kc)もAFRS(1440kc)も(その到達度は別として)少なくとも試験電波ぐらいは発射していたと判断せざるを得ない。このあたりは更に検証を要する。

(1/2)

(2/2)

進駐軍とか占領軍という言葉から、日本に来たのは全員軍人のように聞こえる。実際最初に日本にやって来たUS AFPACは米太平洋陸軍で「軍隊」である。AFRSのスタッフなども開戦前(招集前)は放送局で働いていたバリバリの技術者やアナウンサーだが、軍の階級を持つ正真正銘の軍人だった。

しかし10月2日に日比谷に設置された連合国最高司令官SCAPの総司令部であるGHQ/SCAPは、日本の占領政策を推し進める政府組織のようなもので、各分野の専門家が「シビリアン」としてサポートしていた。民間通信局CCSでも電波行政のプロの「シビリアン」が多く登用されていた。つまりGHQ/SCAPは軍人組織ではない。

上記10月26日付けの放送局リストを作ったCCSは、AFRSの電波をアメリカの放送局によるものだとは解さず、あくまでBCJの一部だと位置付けた。そのため上記のリストでは590kcのJOAKにより、備考欄にあるWVTRのプログラムを流し、また1310kcのJOBKによりWVTQのプログラムを流すという解釈で作成された。だからAFRSのコールサインのない松山・岡山のコールサインは、あくまでBCJのJOVGであり、JOKKなのである(しかし敦賀にはBCJ局がないのでコールサインは空欄のまま)。

見やすいよう参考までに以下の表に書き出してみた。

(1/3)

(2/3)

(3/3)

なお白地に<>で記したBCJの尾鷲などの9局は、計画中(Station on the air in the near future)の局である。

1945年10月22日時点でのAFRSは東京(JOAK [WVTR], 590kc, 10kW)、大阪(JOBK [WVTQ], 1310kc, 10kW)、名古屋(JOCK [WVTC], 1340kc, 10kW)、札幌(JOIK [WLKD], 1420kc, 7kW)、仙台(JOHK [WLKE], 1370kc, 3kW)、広島(JOFK [WLKH], 1440kc, 3kW)、熊本(JOGK [WLKF], 1400kc, 3kW)の大電力7局と、新潟(JOQK [WLKB], 1430kc, 0.4kW)およびSCAPIN第145号で急遽建設された松山(JOVG [AFRS Callsignなし], 750kc, 0.5kW)、岡山(JOKK [AFRS Callsignなし], 1480kc, 0.5kW)、敦賀(BCJ/AFRS Callsignなし, 1180kc, 0.5kW)の合計11局だった。敦賀にAFRSを建設したのを契機に、BCJも独自の敦賀局を建設中であることがわかる。中でも新潟のJOQK [WLKB] は出力400WのUS AFPACの自前施設により急遽開局されたもので、東京からのネットワークに接続され本放送が始まったのは11月18日で、詳細は後述する。

このほかに独自施設による建設途上(In Construction)のAFRSとして、青森([WVTH], 720kc, 0.25kW)、福岡([WLKI], 1360kc, 0.05kW)、大村([WVTO], 1450kc, 0.05kW)、門司([WLKG], 1470kc, 0.5kW?)の4局がリストアップされている。

◆青森地区のAFRS

青森県には第81歩兵師団(81st Infantry Division)が9月18日より進駐し、青森[WVTH]の準備がはじまったが、これは青森市ではなく八戸市が先行したようだ。しかし1946年1月10日に第11空挺師団(11th Airborne Division)に青森県占領を引き継ぎ、第81歩兵師団は1月20日に動員解除された。

なお9月15日に塩釜に上陸し、9月27日に仙台に司令部を置いた第14軍団(XIV Corps)は青森県を除く東北地方と新潟県の占領担当で、青森県は10月7日に札幌に司令部を開設した第9軍団(IX Corps)の担当地域だった。

◆大村地区のAFRS

九州は第5上陸戦軍団(V Amphibious Corps)の占領担当地域とされ、9月22日に海軍の第5海兵師団(5th Marine Division)が佐世保から上陸し九州北部を、翌23日には第2海兵師団(2nd Marine Division)が長崎から上陸し九州南部を占領した。大村[WVTO]はこの第2海兵師団の移動放送局である。

以下に述べるが結局1946年1月31日に九州全域が第2海兵師団の占領地域となった。しかしそれも短命で1946年6月12日に松山を経て岡山にいた陸軍の第24歩兵師団(24th Infantry Division)が小倉に司令部を移し、6月15日をもって九州地域を第24歩兵師団が引き継いだ。

◆福岡・門司地区のAFRS

1945年10月24日、第32歩兵師団(32d Infantry Division)の司令部が福岡に置かれ、第5海兵師団隷下の第28海兵連隊(28th Marine Regimental Combat Team)より福岡・門司地区を引継いだ。年内には第5海兵師団より福岡県・山口県・大分県の占領任務をすべて引き継いだ。

門司[WLKG]は陸軍の第32歩兵師団によるものだが、福岡[WLKI]だけは少し毛色が違っていて、10月に福岡に進駐して陸軍席田飛行場(現:福岡空港, 旧板付米軍基地)を接収した、第5空軍(5th Air Force)隷下の第5戦闘航空団(5th Fighter Command)により建設が始まった。1945年12月にはBCJ福岡放送局(JOLK)の施設を使おうとしたが、US AFPACから拒否されている。

ところで第32歩兵師団は1946年1月31日にこれらの地域を第2海兵師団へ引き継ぎ、九州は第2海兵師団の占領地域となった。第32歩兵師団は2月28日に動員解除された。このように占領部隊がめまぐるしく変わった時期で、AFRSの移動放送も転々としており、九州・中国地方のAFRSは非常に難解である。