1944-1945

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OSSへ動員されていた二人の技術者(Stephen H. Simpson Jr.と、DeWitt Goddard)によるWalkie-Talkie(コードネーム:Joan-Eleanor System の"Joan")の試作品は、Clevelandに住む無線技術者Alfred J.Gross(別名 Irving Alfred Gross)の手によって完成しました(特許出願や無線局免許ではIrving A. Grossが使われている。一般的にはAl Grossと呼ばれており、以下当サイトでもそう表記します)。

無線機"Joan"の正式名称はOSS Walkie-Talkie Model SSTC-502でした(相方の"Eleanor"の方はSSTR-6)。1944年11月より、ナチス占領下のオランダで活躍しました。このSSTC-502に目を付けたのが後にFCCの委員長にまで登りつめた E. K. Jett です。JettはAl Grossに一般大衆無線構想を話し、二人は意気投合しました。JettはW10XVXとW10XVYのライセンスをAl Grossに与え、実用性に関するフィールドテストを実施させ、CB無線(一般大衆無線)の創設を決意しました。そしてこの一般大衆のための無線制度は昔ブームになった"Citizens Radio" にちなんで、Citizens' Radiocommunication Service と決めました。

  • 欧州戦線に配備されたSSTC502

Simpson とGoddard の試作機は、Al Grossの手によって、完成品となった。CBトランシーバーの元祖だ。バッテリーとヘッドフォーンは外付け式の周波数250MHzの超小型 Walkie-Talkie で、天井部のアンテナコネクタはSimpsonの発案、側面のPush to Talk Switch はGoddardの発案である。

OSSは秘密情報部SI(Secret Intelligence Branch)を作り、ロンドンに置かれていた欧州連合軍司令部SHAEF(the Supreme Headquarteres of the Alliied Expeditionary Force)と共同歩調をとるために、OSSロンドン支局を設けていた。J/E SystemはOSSロンドン支局で実戦配備がされることになった。

OSSはナチス占領下のオランダにおいて、地元の人々によるレジスタンス活動を組織化する目的で秘密裏に工作員を送り込んでいた。その工作員が定期的に飛来する連合国軍の飛行機と連絡を取り合うためにこのWalkie-Talkieを使用した。(後にナチスの最高傍受周波数が250MHzだと分かり、急遽260MHzに改造された)。

(Name Plate)

1944年11月22日。SSTC-502 Walkie-Talkie "Joan" を携えてナチス占領下のオランダに潜入していたOSS工作員へ、ロンドンBBC放送のラジオ番組の中で作戦開始を告げる暗号メッセージが放送された。潜入中のOSS工作員は指定された時刻にSSTC-502を動作させて待機した。

まもなく機体後部の空中カメラ室をSSTR-6 "Eleanor"のために改造した英国空軍の偵察機モスキートがオランダ上空30,000フィートに飛来し、旋回しながら地上のOSS工作員との無線連絡に成功した。モスキートは英国空軍が誇る最高速の偵察機で、軽量化のために木製だったことから電波干渉もなく超短波帯通信に最適だった。こうしてJ/E Systemの初ミッションは成功した。1945年の戦争末期にはドイツ地域でもJ/E System が活躍した。なおSSTC-502は500台生産されたといわれているが、軍部の反対もあり太平洋戦線では使用されていない。

英国のスパイ無線がCB無線のルーツとも伝えられたのは、このように米国OSSと英国空軍が共同作戦をとっていたからである。英国のBritish SOE(Special Operations Excutive: 特殊作戦執行部)でも同種の目的で、地対空スパイ無線システム"S-Phone" (300MHz帯)を独自開発していたが、徐々にこの J/E System に置き換わった。

  • Dec. 1944 - Jan. 1945 (Civilian Walkie-Talkie Test, W10XVX/W10XVY)

FCCのチーフエンジニアEwell K. Jett が、Al GrossのOSS Walkie-Talkie SSTC502に目を付けた。

まずEwell K. Jettについて紹介する。 1893年3月20日、米国東海岸の港町ボルチモアに生まれたJettは、18才(1911年)で海軍へ入隊し、戦艦ユタ、ミシガン、駆逐艦パーカーの通信士を歴任した。1929年にはFCCの前身組織である商務省のFRC(Federal Radio Commission)へ出向したが、まもなく海軍を退官しFRCへ完全移籍した。

1934年、新しい無線法が成立しFRCはFCCに改組された。 Jettは1938年にFCCのChief Engineerへ昇進し、さらに1944年2月14日、米国議会よりFCCのCommissioner に任命され、翌15日に就任した。(Broadcasting紙, Feb.14,1944)

FCC Commissioner E. K. Jett はDocket#6651(戦後の新しい周波数分配プラン)成案作業の中心人物として、関係諸団体(政府系無線組織IRACや非政府系無線組織RTPBなど)との利害調整を精力的にこなしていた。

そして1944年11月16日、Franklin D. Roosevelt大統領はE. K. Jett を、第五代FCC委員長(暫定委員長 Interim Chairman:任期Nov.16 - Dec.20,1944)に任命した。彼はついに電波行政の頂点に登りつめたのだ。

Al GrossはJettから、ワシントンのFCCでデモンストレーションを行うよう要請された。このデモンストレーションで感銘を受けたJett は、Al Grossと一般市民に電波を開放する市民ラジオ制度の技術的実現性と市民生活における活用シーンについて話し合った。しかし彼らの描いた「活用シーン」はアイデアに過ぎない。それが本当に可能かを実証する必要があった。

1944年の遅くに、FCCはAl GrossのModel SSTC-502に、移動実験局W10XVX と W10XVY(数字10は移動局)を免許した。目的は一般大衆無線用 Walkie-Talkie としての実用性のテストである。

もちろんまだCB無線制度が無い時代だから、これは第一号CB無線局ではない。しかしCB無線制度創設の是非を問うフィールドテスト用の無線局だった点は見逃せない。

Al Gross はこの当時のフィールドテストを次のように語っている。

『We went all around Washington and talked across town. We went up the Washington Monument and tried it from there. We went to New York and tried it in the subway. Then we went west Montana, Los Angeles and Seattle. We tried it in the mountains. People who saw us looked at us like we were from Mars. It created quite a sensation, ・・・』 (Yes Virginia...There Is A Father of CB, CB Times, Nov.1978, page58)

正確な時期は特定できないが、1944年12月から翌年初頭に掛けてのフィールドテストだったと考えられる。70年前、ニューヨーク地下鉄の雑踏の中でも、Al Gross 達は火星人のような姿で通話実験をしたのだろうか。実に愉快ではないか。CB史研究家の私としては、この苦労話というか、CB誕生秘話にとても興味を惹かれる。読者の皆さんはいかがだろうか。

こうして一般市民用 Walkie-Talkie の実用性が確認されて、E. K. Jett はCitizens' Radiocommunication Service の創設を決断し、1945年1月15日に電撃発表を行ったのである。