私設実験局

アマチュア局を含む私設実験局のコールサインの話題です。アマチュアは、もっとも古い電波ユーザーのひとりです。しかし1906年のベルリン会議(第一回国際無線通信会議)では、国際公衆通信を行う無線局(船舶局および船舶局と交信する海岸局)に関する1MHzと500kHzの電波利用や取扱い料金を取り決めただけです。アマチュア無線は各国の電波監督官庁の内政問題として認められていたに過ぎません。

そのような状況の中でアマチュア局のコールサインの世界標準になっていったのが、1912年より米国商務省が使い始めた「数字+2or3文字」形式で、国籍表示のないものでした。そして国籍識別のないコールサインによる運用が長く続いたあと、1927年(昭和2年)のワシントン会議で、ようやく国籍表示を付けることに決まりました。なおこのページではアマチュア用の周波数についても取上げています。

1) 1909年(明治42年)頃のアメリカの呼出符号(私設局・軍事局)

商用の海岸局と船舶局以外はベルン総理局への国際登録の義務がないので各無線局が自由にコールサインを決めていた時代で、1~3文字のコールサインが使用されていた。技術先進国アメリカではすでに多くの船舶局が開局していたが(局数が多く引用するのも大変なので)、とりあえず陸上局のコールサインをご覧いただこう。下表は有名なWireless Blue Book(First Annual, Wireless Association of America, May 1909)から抜き出したアメリカの陸上局である。

なお下表の三文字MSC, MSE, MSKはマルコニー社の海岸局なので国際登録された呼出符号だが、First Editionに掲載されたアメリカの呼出符号はまだ旧式のものがほとんどだ。1906年のベルリン会議では海岸局と船舶局は3文字コールサインを使うことが定められ(1908年7月1日に発効)、アメリカも調印したが、肝心の国内無線法が未制定だったため、ベルリン会議の条約・規則の批准が棚上げにされていた。そのため呼出符号の決定に国家は介入できず、各無線組織に委ねられていた。

アマチュアのコールサインはオーナーの名前から取ったものが多い。アマチュアに「S4」という変り種が見えるが、自分さえ良ければ自由だ(1911年発行のThird Annual だと、アマチュアに4J, 5A, AR5, D5, EF5, FZ5, HA7, HW4, HW5, JX7, J2, OH5, OX4, PB5, RS5, RS7, SA9, SB3, SM2, SR5, S7X, U2M, W42, XX5 が掲載されているが、数字付きコールサインはあく までごく少数派である)。アマチュアは公衆電報を扱わないので国際的なコールサインの枠組みの対象外である。

「A」一文字のコールサインはニューハンプシャーのStone Co. の無線局が使っていたが、ロサンゼルス沖のサンタカタリナ島に置かれたPacific W.T.Co.の無線局も使っている。コールサイン「SV」はジョージア州サバンナにあるU.W.T.Co.が使っていたが、シアトル近郊で太平洋に面した国境の島、タトオッシュの米海軍局も使っていた。またコールサイン「PI」は米海軍とアマチュアが使っていた。

「皆が勝手に呼出符号を決めると重複して大変だろう」と思うのは、管理されるのが当然となった現代の感覚だ。だぶったら、だぶったで、次の日から別のコールサインに変えれば良いし、それも困った側が変えるだけで、別に困らなければそのままでも済ませることもできる。そもそも互いの活動フィールドが違えば鉢合わせにはならないので全く問題なかった。

2) 1913年(大正2年)5月9日 米商務省が呼出符号の発給方法を発表

米国ではロンドン会議直後の1912年(大正元年)8月13日、無線通信取締法 Radio Act of 1912 (Public Law 264, 62nd Congress, "An Act to Regulate Radio-communication")が成立し、その第1条で商務労働長官に私設(民間)無線管理の権限を与えた。

1913年(大正2年)5月9日、米国商務省はベルン総理局の同年4月23日通達第55号による国際呼出符字に従い、自国の無線局の呼出符号を指定すると発表した("Radio Call Letters", Department of Commerce, May 9, 1913)。下図の右側に見えるのがその総理局通達第55号(4月23日, 修正第二版)による国際符字である。

【注】1913年3月4日、商務労働省は商務省に改称

日本は比較的迅速に新コールサインに移行したが、米国がややスロー気味だったのはなぜだろうか?日本では1900年(明治33年)3月14日(法律第59号)で有線通信の国家独占を公布し、同年10月10日(逓信省令第77号)に「電信法」を無線電信に準用するとし、電波の国家管理が始まってから既に12年もの月日が経過していた。

しかしアメリカでは1912年(大正元年)8月13日にまずRadio Act of 1912(無線通信取締法)を制定し、これに基づき同年9月28日にRegulations Governing Radio Communications(無線通信施行規則)を定めたが、その施行日は同法第11條で「議会承認より4ヶ月後」としていて1912年12月13日だった。そして翌1913年2月20日にはその一部を、さらに7月1日にも再び改正している。

すなわち電波の国家管理の開始直後で、関係規則の整備や一般への周知に時間を要しており、呼出符号の指定基準の制定が1913年(大正2年)5月9日までずれ込んだ。いやそれとも未分配のKDA-KHZを総理局がアメリカに指定してくれるまでねばっていたのか?(あと、あまり関係ないとは思うが、1913年3月4日に商務労働省が商務省と労働省に分割されたので、現場の混乱も影響したかもしれない)。これまで米国局のコールサインは国家による指定ではなく、各無線組織に委ねられていたため、昔からの2文字コールの局も多かったが、1913年5月9日になってやっとアメリカも国際ルールにのった。

総理局は1913年6月に国際呼出符字で構成した新コールサインの「局名録」改定第三版(2,970局収録)を出版した。すなわちロンドン会議の条約・規則の発効までに各国の無線局の新コールサインへの以降が完了した。

(クリックで拡大)

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【注】 この表では、VXA-VZZをNot yet assignedと発表しているが、これは誤り。総理局の「通達第55号」では英国にV系列(VAA-VZZ)全てを獲得している。通達第55号の原本を御覧下さい。

● アマチュアには国際符字は適用せず

そもそも国際符字は公衆通信を行う海岸局と船舶局をベルン総理局に登録する際に使用されるものなので、アマチュアや実験局に国際呼出符字を使ったコールサインを発行する必要はない。ではアメリカではどう決めたのだろうか。

米国商務労働省は1912年8月13日の無線通信取締法(Radio Act of 1912)に基づき電波の国家管理を開始するに当たり、同年9月5日に商務労働省通達第241号をもって、全国に9箇所に設置する無線行政拠点と、その管轄エリアおよびRadio District Numbers を発表していた(Department Circular No.241, Sep. 5, 1912)。のちにこの数字をアマチュア等のコールサインに利用しようと考えていたかは定かではない。

1912年12月、商務省はアマチュア(個人実験)局、実験局、無線訓練学校局、特別アマチュア局の4種局には、Radio District Numbers(俗にいうエリア番号)を冠し、続く1文字目で無線局の種別によりAA-WZ[アマチュア局]、XA-XZ[実験局]、YA-YZ[無線訓練学校実験局]、ZA-ZZ[特別アマチュア局]に区分するとを公表した。従って国際符字列によらないアマチュアには既に「数字+2文字」コールの発給がスタートしていたが、1913年5月9日のこの"Radio Call Letters"で明文化されたと想像する。

ここで驚くべき数字をご覧に入れよう。下図は商務省の1913年度(July 1, 1912 ~ June 30, 1913)年次報告統計だが、船舶局が145局に対し、個人無線研究家のアマチュア局が1,312局も免許されている。特別陸上局(Special Land)とは前記XA-ZZの局である。すなわち特別アマチュア局(ZA-ZZ)は、アマチュア局ではなく特別陸上局に分類される。

【注】 商務省は民間無線への管理権限を与えられただけなので、海軍局や陸軍局は商務省の無線局統計には含まれない

やがて他国にも少しずつアマチュア無線が広まっていったが、とにかくアメリカにはアマチュア局数が桁外れに多かった。そのためか?結局、アメリカ商務省が考案した「数字+2or3文字」式のコールサインを各国の電波主管庁が真似るようになり、短波が開かれた1920年代の中期以降はこれが世界のスタンダードとなった。

3) 1917年(大正6年) 我国初の実験用の陸上私設無線電信施設が許可される

10年ほど時間を戻す。1916年(大正5年)12月28日付け「陸上私設無線電信許可に関する件」(通規第4584号, 逓信省)をもって、逓信省通信局長より、陸軍省と海軍省の軍務局長へ無線電信法第2條第5号に基づく(今風に言うところの)実験局の許可について打診された。

通規第四五八四号 照会 大正五年十二月廿八日

逓信省逓信局長

陸軍省軍務局長殿

陸上私設無線電信許可ニ関スル件

無線電信法第二條第五号ニ依リ左記ノ通リ実験用無線電信私設方出願乃之許可致度●●●及波長●至急何●●通報煩ワシ度

追テ電波長ハ百乃至千八百「メートル」ノ●ニ於テ実験ナサシムベク●条●●アリ度

(イ)出願者

合資会社 沖商会

一、機器装置場所

送信機 東京市芝区田町四丁目二番地 沖電気商会

受信機 東京市京橋区新栄街一丁目二番地 沖電気商会電線製造所 及ビ

東京市芝区田町四丁目二番地 沖電気商会

一、使用電力 三「キロヴォルト、アンペア」

一、電柱ノ高サ 地上五十尺

(ロ)出願者

合資会社 安中電機製作所

一、機器装置場所

送信機 東京府豊多摩郡渋谷町字下渋谷千八百六十六番地 安中電機製作所

受信機 東京府豊多摩郡渋谷町字下渋谷千八百六十六番地 安中電機製作所 及ビ

東京市麻布区富士見町三十九番地 共立電機電線株式会社内 安中電機製作所出張所

一、使用電力 三「キロヴォルト、アンペア」

一、電柱ノ高サ 地上五十尺

【注】 ●は私が読めなかった文字

そして両省から了解を得て、1917年(大正6年)3月24日に合資会社沖商会XA, XB(逓信省告示第275号)、合資会社安中電機製作所XC,XD(逓信省告示第276号)許可した。波長はいずれも100-1,800mという、いわゆる当時考えられる全周波数だった。陸上私設実験局であることからベルン総理局への届出の必要も無く、また「J」を冠する呼出符号である必要もないことから「X」で始まる2文字コールとした。「X」は他国の事例からも "eXperimental" であろうと想像する。

なお3月26日に逓信省は海軍・陸軍省へ通第1051号で『当実験用私設無線電信ノ呼出符号ニハ一ノ様 Xヲ冠シ他ノ一般無線電信と区分スル方針』だと伝えた。「J」で始まる3文字コールサインを使う義務があるのは公衆通信、すなわち電報を送る無線局だけである。従って何を使おうが、他国の無線局とダブろうが、日本の自由だが、XAA-XDAがメキシコにXNA-XSZが中国に既に割当てられているという現状から、ここは紳士的にXの2文字コールサインを指定したと想像する。

4) 1919年(大正8年)の私設無線実験局

この形式の呼出符号はXE, XFが合資会社日本無線電信機製造所(逓信省告示第51号, 1918.2.2)XG, XHが早稲田大学(逓信省告示第518号, 1919.4.18)XI, XJが私立明治専門学校(逓信省告示第1221号,1920.8.9)XKが旅順工科学堂(関東庁の告示なし)XL, XMが平和記念航空博覧会会長 矢木亮太郎氏(官報告示なし, 逓信省通牒 信第1378号、1920.8.7)に発行された。

なお左図[右]の旅順工科学堂(XK)は旅順工科大(J8PA)の前身であり、この呼出符号XKはワシントン条約が発効する前日の1928年(昭和3年)12月31日まで有効だった。

左図[左]は無線電報通信社が逓信省通信局工務課の協力を得て作成した「陸上及船舶局 無線電信呼出符号及同索引」に掲載された、1919年(大正8年)夏における我国の7つの実験局である。

まだ早稲田大学XG, XH や、明治専門学校XI, XJが未開局だったことが解る。

ちなみに戦前の官報告示は、現代でいう「予備免許」(建設承認)に対するもので、今でいう本免許(検定合格)と運用開始(開局)までに、1年以上を要するのは珍しくない。旅順工科学堂XKの開局は1919年(大正8年)9月20日で、早稲田大学XG, XIよりも先に検定合格し運用を開始したようだ。ここで思い浮かぶ疑問は旅順がXKなのだから、呼出符号XG, XH, XI, XJは早稲田大学や明治専門学校よりも以前に、臨時イベント等に発給されたかも知れないということであり、その可能性は否定できない。

というのも後続の呼出符号XL, XMは1920年(大正9年)に平和記念航空博覧会で使われた後になって、株式会社安中製作所(逓信省告示第14号, 1921.1.8)に再び予備免許されたという実例が存在するからだ(平和記念航空博覧会のXL, XMの詳細については法2條第5号施設のページ参照)。

また余談だが明治専門学校は1921年(大正10年)に官設移管なされたことから、コールサインXI, XJが官庁用無線局JKXA, JKYAになり、1929年(昭和4年)には国際ルールに従いJ5BB, J5BCに変わっている。

5) 日本の四文字コールサインの構成

国際的なコールサインは三文字から始まった。第二文字は海軍省(G, J, L, Q, R, U, V, W, X, Z)10シリーズと、逓信省(A, B, C, D, E, F, H, I, K, M, N, O, P, S, T, Y)16シリーズとで分け合ったが、まだ局数が少なかった大正初期は工夫しながら船名由来の呼出符号を発行していた(「▲△」の▲△部分を船名由来に)。しかし無線電信法(私設無線の認可)で無線局が一気に増えこの船名由来の指定方法は破たんし、規則性のない発給になった。つまり無味乾燥なアルファベット順による発行よりも、地名や局名に由来したコールサイン命名を行うべきとの基本ポリシーが逓信省にはあったが、局数増でそんなことを言ってられなくなった。

では四文字コールサインの導入に際してはどうだろうか?例えばNHKの第一放送は4文字目(末尾)がKであるように、僅かだが四文字コールの末尾に規則性があることに気付く。もしアマチュア無線を経験された方なら四文字コールがJAAA, JAAB, JAAC,...JAAZ, JABA, JABB, JABC,...JABZ, JACA, JACB, JACC,...JACZとアルファベット順に進む方が馴染みがあるだろう。なぜ日本では4文字目(末尾)がA, B, C,...Z とアルファベット順に進まなかったかいうと、すべては1920年の逓信省が総理局に届けた4文字コールの割当方針に起因する。

すなわち第一次大戦終了後、コールサイン不足で暫定的に4文字コールの使用が始まった時、(アメリカなどは4文字目をA-Zのすべての文字を使うことにしたが、)日本はとりあえず末尾文字「A」による4文字コールを使用するとベルン総理局に届けたため(1920年)、4文字目がA, B, C...Z と進まなくなった。

▲△A」の使用開始

そのため日本の四文字コールは「▲△A」で真ん中の2文字目と3文字目を入替えながら発行する方式でスタートした。初期のアマチュア無線家のひとりである安藤博氏が1923年(大正12年)に許可されたコールサインはJFWA(第一装置), JFPA(第二装置)で、四文字コール「J▲△A」だ。もし現代のアマチュア無線的に前半JFをプリフィックス、後半WA, PAをサフィックスとしてJFWA, JFPAを読み解くと、WAPAが随分離れた印象を受けるが、実は中央のFW, FPに注目すればとんでもなく離れている訳でもない。

▲△B」の使用開始

逓信省はワシントン会議が開かれれば、この問題もすぐ解決するだろうから、当面の4文字コールの末尾は「A」だけで良いだろうと考えたかもしれないが、(当初1917年開催予定だった)ワシントン会議は遅れに遅れて1927年に開かれた。そのため末尾「A」だけでは足りなくなり、末尾「B」と「C」の四文字コールも発給する方針を打出したのが1924年(大正13年)だった。

信第四五八四号 通牒 大正十三年五月廿三日

逓信省逓信局長

海軍省軍務局長殿

無線電信呼出符号ニ関スル件

右呼出符号ハ従来「J」字ヲ冠スル三字符号ノ末尾ニ「A」字ヲ附シタルモノヲ使用致居候処 無線電信ノ増加ニ伴ヒ右符号ノミニテハ不足ヲ生スルニ至リ候ニ 就テハ将来更ニ「J」字ヲ冠セル三字符号ニ「B」又ハ「C」字ヲ附シタルモノヲ当省所管無線電信ノ呼出符号ニ充当致スヘク候條御諒知置相成度候

1924年(大正13年)10月3日に、末尾「B」の四文字コールが発行された。(日本郵船所属の)阿蘇丸JAABと六甲丸JABB(帝国汽船所属の)運天丸JACBで、官報告示は3日後の10月6日(逓信省告示第1385/1386/1387号)だった。そしてこの後も(犬上慶五郎所属の)十二札幌丸JADB(楠本汽船所属の)福幸丸JAEB(宮城県の)大東丸JAFBと水産練習所JAGB、(福島県水産試験所の)JAHB(川崎造船所属の)ふろりだ丸JAIB(大阪商船所属の)湖南丸JAJB ・・・と進んだ。

【参考1】 必ずしもこの調子で真ん中の2文字が進んだわけではないが、「おおむね」アルファベット順に従った。

【参考2】 第二次世界大戦後(1948年7月1日)、日本放送協会ラジオ第二放送のコールサインの4文字目をBに決めた際に、JO●Bの船舶局の呼出符号を指定変更した。

▲△K」の使用開始 (放送局を一般と区別するため)

同年末、(公衆通信を取扱わない)ラジオ放送を許可するにあたり、現在発行中の末尾「B」の四文字コールサインとは区別することになり、逓信省は末尾「K」の四文字コールを選んだ。「J▲△K」が放送局用になったが、▲の部分には内地「O」、朝鮮「B」、台湾「F」、関東州「Q」などが予定され、まず初めに内地JOAK, JOBK, JOCK, 関東州JQAKの4局が指定された。

【参考】前述したが、そもそも放送局には「J」の付くコールサインを使う義務は無いが、同じく義務のない漁船に「J」のコールサインを発行した実績があるのと、米国の放送局が国際符字付きの4文字コールを使っていたのでそれに習った。しかし1927年のワシントン会議で4文字コールサインを船舶局用だと定めたため、逓信省では放送局のコールサインを使い続けるか議論になった。結局アメリカはそのまま放送局に4文字コールを使っていたし、そもそも放送局は国際的なコールサインの対象になっていないので、日本の放送局は4文字コールを使い続けた。

▲△Y」の使用開始 (特殊呼出符号の設定)

1926年(大正15年)8月に特殊呼出符号が定められた。これはアマチュア無線でいえば「CQ □□」のように、□□に限定した各局呼出符号とでもいうので「J▲△Y」が選ばれ、▲△の部分には本邦トロール船各局「YO」、本邦漁獲物運搬船各国「YP」、本邦蟹工船各局「YQ」が入る、JYOY, JYPY, JYQYが指定された。

【参考】全局呼出符号はこれが初めてではなく、以前にも海軍艦船全局呼出にJUAが、日本国籍無線全局呼出にJUZのコールサインが国際登録されたことがあった。

▲△X」の使用開始 (いわゆるアマチュア局を一般と区別するため)

1927年(昭和2年)3月に有坂磐雄氏と楠本哲秀氏にもアマチュア無線が許可されたが、当時はまだ「J▲△B」のコールサインを発行中だったので、両氏にはJLYB, JLZBが与えられた。これも後半YB, ZBではなく、真ん中のLY, LZに注目すると連続していて理解しやすい(ワシントン条約以降のアマチュア局や実験局のコールサインは中央に数字が割込むため、プリフィックス/サフィックスという見方ができるが、一般的な無線局のコールサインはそうではない)

同年9月からアマチュアには「J▲△X」の四文字コールを使うことになった。その理由に言及された文献は見つかっていないが、不法局取締り強化が始まった直後であり、監視上から一般無線局と区別が付き易いようにしたものと推察する。▲△の部分にはXA, XB, XC,... XI を当てることにして、草間貫吉氏JXAXをはじめJXBX, JXCX, JXDX, JXEX, JXFX, JXGX, JXHX, JXIXの9局が免許された。ちなみに我国の私設実験局には1916年(大正5年)より一般無線局と区別する2文字コール XA, XB, XC,... を発給していたが、1921年(大正10年)の安中電機製作所XL, XMを最後に、新規の私設実験局のコールサインには一般無線局と同じ「J▲△A」の四文字コールを使うよう方針転換があった(既設局はこの時代になっても2文字コールが再免許され続けた)。

ところでアマチュア局は国際的に定義・承認された無線局ではなく、国際符字の使用も、また登録義務もないので、「半人前のお前達はこんなので良いだろう・・・」と考えたかどうかは知らないが米国商務省は「数字+2 or 3文字」という風変わりなスタイルのコールサインを指定してきた。やがて他国の電波主管庁も米商務省式アマチュアコールをまねるようになっていた。

対して日本の逓信省はアマチュアに一般無線局と同じく国際符字「J」から始まる4文字コールを発行した。アマチュアの世界の趨勢に沿わないコールサインを発行した逓信省という捉え方もあるだろが、考えようで逓信省はアマチュアを一人前の "大人の無線局" として扱ってくれたともいえよう。無電電話については呼出名称のみとしてアルファベットの4文字を指定しなかった。

▲△C」 「▲△D」の使用開始

J▲△C」の四文字コールの発給がいつからかは(私はじっくり調べたわけではないので間違っているかもしれませんが)、1927年(昭和2年)9月に鹿児島郵船所属の久吉丸に呼出符号JAACが与えられている。

さらに「J▲△D」の四文字コールだが、1927年のワシントン会議で陸上局は3文字、船舶局は4文字に決まったために、旧来の三文字コールの船舶局には末尾に「D」を付加して4文字化した。たとえば大正15年春に岩槻J1AAのオペレーターだった河原氏が短波無線機を積んで太平洋上から官錬無線実験室J1PPや落石無線JOCと短波実験を行った春洋丸JSHJSHDに、J1AAを指導した中上係長が入省当時、研修で乗船した逓信省通信局の海底ケーブル敷設船沖縄丸JONJONDになった。つまり歴史ある古参船舶局が新参Dコールサイン(?)になり、この4文字目が必ずしも古さを示すものではなくなった。

ところで1924年(大正13年)の大連放送局JQAKの二文字目「Q」や、1927年(昭和2年)のアマチュア局JXAXなどの二文字目「X」は、もともと海軍省に分配されたものだった。それが第一次世界大戦後には多くの例外が見られるようになった。この海軍省と逓信省の「呼出符号の住み分け協定」は大正中後期に解消したのではないだろうか。例えば中国大陸に進出した陸軍に開設した青島(チンタオ)無線電信所に、コールサインJANが指定されていた時期がある(青島無線電信所事務開始の件, 大正11年4月13日 軍務機密第225号, 海軍省軍務局長)

6) 1927年(昭和2年) 私設実験局(Private Experimental Station) が世界承認される

1927年(昭和2年)10月4日から11月25日まで、米国ワシントンに世界80ヶ国の代表が集まり、第三回国際無線電信会議が開催された。 アマチュア無線の承認についても議論されたが、多くの国の本音は"消極的" YESだった。

第二次世界大戦が終結しても、列強各国の領土獲得の野望は鎮まっておらず、むしろ世界大戦を通じて無線通信が兵器に匹敵する重要なアイテムであると認識されたことや、反政府活動やスパイに利用されかねないことから、どの国でも電波を政府の「完全な管理下」(政府専有物)に置いていたからだ。

国際無線電信条約の附属一般規則(General Regulations Annexed to The International Radiotelegraph Convention of Washington,1927.)では新たな無線局種を定義したが、結局その第一条:定義(ARTICLE1: Definitions)に、Amateur Stationは含められなかった。

しかし会議のホスト国でもあり、アマチュアに理解のあるアメリカの努力の結果、Private Experimental Station(私設実験局)の定義のパラグラフ(2)として "アマチュア" により運用される私設実験局 を潜り込ませることに成功した。不完全ではあるが、これはアマチュアにとって画期的な出来事だろう。

このパラグラフ(2)は現在のアマチュア無線の定義の原型となるものだ。なお Amateur Station は承認されず、Private Experimental Station の一部ということで決着したが、アメリカ自身は国内法を改正することなく、これまでどおりAmateur Station を独立させた無線局のままにした点には留意されたい。

Article 1. Definitions.

the term "private experimental station" means -

(1) a private station intended for experiments with a view to the development of radioelectric or science;

(2) a station used by an "amateur," that is to say duty authorized person interested in radioelectric practice with a purely personal aim and without pecuniary interest;

7) 私設実験局(Private Experimental Station)のコールサイン

これまで実験局(含むアマチュア局) は国際的に承認された無線局ではなかった。各国の電波監督官庁が独自にその規則を設けてコールサインを決めてきた。たとえばアメリカでは「数字+2文字」だし、日本ではJFPA(安藤博氏, 80/38m)、JLYB(有坂磐雄氏,38m)、JLZB(楠本哲秀氏,80m)のようにJから始まる4文字だったものを、1927年(昭和2年)9月より、JXAX, JXBX, JXCX,... というような、JXシリーズに統一する方針をスタートさせたばかりだった。

それが国際無線電信条約 附属一般業務規則(General Regulations Annexed to The International Radiotelegraph Convention of Washington,1927.)の第一条:定義(ARTICLE1: Definitions)でPrivate Experimental Station (私設実験局)が国際承認された。 そして第十四条:呼出符号(ARTICLE14: Call Signs)では、Private Experimental Station のコールサインにも国際符字を付けなければならないと定められた。

日本では既に国際符字Jから始まる4文字コールサインを、私設実験局(企業や素人)に発給していたが、後述するように第十四条のSec.2では「文字(国籍)+数字+文字」という特殊な構成がPrivate Experimental Station 用として採択されたため、これに沿ったコールサインへの変更を余儀なくされた。

一旦まとめておくと、それまでアマチュア無線団体による、独自の取り決めで国籍を明示する方法が模索されてきたが、

◆ワシントン会議で私設実験局が承認され→

◆私設実験局も国際符字入りのコールサインを使うことになり→

◆またアマチュアは私設実験局の一部と定義されたので→

◆アマチュアは私設実験局のコールサインを使うことになり→

結果的にアマチュアは国際符字が付いたコールサインになった。ということだろう。

第十四条のSec.2では以下の4タイプのコールサインの構成が規定された。簡単にいえば "陸3字"、"海4字"、"空5字" だ。

パラグラフ(d) のPrivate Experimental Station だけが「文字+数字+文字」という特殊な構成のコールサインになった。この会議のホスト国であるアメリカでは下表のように特別局(Special land station)やアマチュア局(Amateur station)には「数字+アルファベット」形式の免許を与えており、この先頭にアメリカを示すWの文字を追加するだけで済むからだったと、巷ではいわれているがそれが真実かどうかは私にはわからない。

【注1】米国のAmateur の District Number 0 が使われたのは、第2次世界大戦終結後である。

【注2】Alaska,Hawaii, Porto Rico, Virgin IslandのAmateur にはWに変えてKを指定した。

【注3】実験局のサフィックスがXから始まるのはeXperimental からとったもので、各国の電波監督官庁でも採用していた。(日本のJXAXも同じ様な考え方)

【注4】1-9のDistrict Number では納まらない移動局には2桁の10を使用した。1929年2月、Universal Wireless Communications Co.,に W10XA, XB, XC, XD, XEの5局が免許されたのが始まり。1929年11月には航空機実験無線局(NC-417H)に、初の3文字サフィックスの2桁数字のW10XAAが免許された。

8) 新コールサインへの移行作業

こうして私設実験局のコールサインが国際的に定められた。 ワシントン条約・規則の発効は1929年1月1日だが、カナダのアマチュアは1928年4月より新コールサインで運用を始めた。

6月になり、アメリカの連邦無線委員会FRC(FCCの前身組織)は、"AMATEUR and SPECIAL(Experimental and Technical training school) Calls to be Changed"(June 1928, FRC) で、1928年10月より新コールサインへ移行させると発表した。7月31日を既設Amateur 局の新コールサインの申請期限とし、一方で新規局に対する古いタイプのコールサインの発行は8月31日をもって終了した。そして1928年10月1日、Wが頭に付いた新コールサインの電波が飛び交い始めた。

また日本では1928年に本土(昔の言葉で言う"内地")地域を左図1から7を、朝鮮と関東州には8を、台湾と南洋群島には9のDistrict Number(エリアナンバー, 地域番号)を割振った。そして法2条第5号無線施設(現代風にいえば私設無線実験局)が、ワシントン条約のPrivate Experimental Station に相当するとして、これらのコールサインを「J+数字+2文字」と定めて、1928年10月より再指定(指定変更)を開始した。なお新設局は1928年10月15日から、既設局は1929年1月1日から新コールサインが使用された。

今回の国際会議では『実験局の分類の中に "アマチュア" を含める』ことが盛り込まれた。幸いなことに元々日本では(現在でいう)アマチュア局と呼ばれるものは、法2条第5号無線施設の範疇で免許を与えられていたため、『アマチュア局の上位概念が実験局』であるとする国際決定は、旧来の日本の制度に良く馴染んだ。そのためか日本の「素人」にも実験局の「J+1数字+2文字」形式のコールサインがすんなりと再指定された。【例】JXAX→J3CB、JXBX→J1DA, JXCX→J1CZ,...

【注】有名な戦前の「無線と実験」誌の無線マップでは鳥取・岡山がJ3エリアだが、本来なら鳥取県・岡山県は広島逓信局(J4エリア)の管轄だ。さらに逓信省電務局業務課が1935年9月30日現在でまとめた"日本アマチュア無線局名簿"でも、岡山市の岡田誠一氏のコールサインはJ4CE(許可日:1935年5月3日)で、岡山県=J4エリアである。

なお日本の無線電信法によれば、無線施設は法1条の官設か、法2条の私設(Private)という区分である。実験が目的の施設は、法2条第5号で示される私設無線施設(私企業であるメーカーや研究所と、アマチュア)だけではない。国立大学や官営の研究施設の「法1条無線施設(官設)」にも実験を目的とするものがあり、そういった施設も含めて、この「文字+数字+文字」という特殊な形式のコールサインが発行された。

9) 1932年(昭和7年) ついにアマチュア局が定義無線局になる

もっとも古くからの電波ユーザーのひとつであるアマチュア局が、一人前の無線局として国際的に承認されたのは1932年(昭和7年)のマドリッド会議である。General Radiocommunication Regulations, Madrid, 1932 の第一条:定義(Article 1. Definitions)でAmateur Station が独立した無線局として追加定義された。その文面だが、前回ワシントン条約のときのPrivate Experimental Station のパラグラフ(2)の文をそのままAmateur Station として移動させただけなので省略する。

この規則は1934年(昭和9年)1月1日に発効した。もちろん日本帝国政府もマドリッド条約を批准したが、アマチュア局を定義するために国内法を改正することはなかった。いや「やりようがなかった」のではないだろうか。日本の無線電信法は官設(第1条)か私設(第2条)かという「免許人の区分」で作られたもので、無線局種単位で規則をきめる諸外国とは、あまりに法体系が違いすぎた。ラジオ放送局でさえ法2条第6号私設無線施設の「何でもアリ」規定の中で許可されていたほどである。

無線電信法(第二條)

この点は戦後にGHQ/SCAPから「まず無線局を定義し、その各無線局ごとに規則を定めよ。」と指令を受け、ようやく(しぶしぶ?)着手した。

世界的にもアマチュア局は私設実験局(Private Experimental Station)の一種だと定義されていた。それが国際的にはマドリッド条約発効の1934年(昭和7年)1月に、私設実験局からアマチュア局が独立したのである。

Short Wave Radio誌(1933年11月号, p33)アマチュア無線局が使用しているプリフィックスが掲載されているので引用する。自国に分配された国際符字列から、どのようにアマチュアに指定するかは各国の電波主官庁の自由だが、1933年(昭和8年)当時には数字2桁のCR10や、3文字のEARのような異色のものが見受けられる。

五 無線電信または無線電話に関する実験に専用する目的をもって施設するもの

六 前各号のほか主務大臣において特に施設の必要ありと認めたるもの

【例】 無線機メーカーや無線学校の実験施設、および素人無線など

【例】 ラジオ放送局など

10) 固定局と移動局もコールサインに数字を使うことが認められる

1932年(昭和7年)のマドリッド会議ではコールサイン不足が問題となり、固定局と移動局も0と1以外の1桁の数字を組合せて「文字+数字」も良い事になった。実験局やアマチュア局は相変わらず、無線界全体から見れば極めて特殊な「文字+数字+文字」のままとされたが、数字の扱いに変更があった。

Article 14. Sec.2 Call signs consist of:

五 無線電信または無線電話に関する実験に専用する目的をもって施設するもの

六 前各号のほか主務大臣において特に施設の必要ありと認めたるもの

【注1】周波数60MHz以上は国際合意していないので、各国が独自に決めることができた。米国の400MHz Band がそうである。

【注2】1928年からは周波数指定だが、それまでは波長指定だったので上表の上4段は計算値。

◆1923年6月28日に、それまで事実上は1.5MHzスポット周波数だったアマチュアに150-200m(1.5-2.0MHz)のバンド指定が導入された。

但しSpecial Amateurは(1.364-2.0MHz)である。アマチュアの運用は家庭用ラジオ受信機への混信防止のため、毎晩20時から22時30分と、日曜日の午前中(礼拝時間)の送信が禁止された。

ワシントン条約のコールサイン構成と比べると、陸上局・固定局用の3文字コールサインのうち、陸上局は3文字+(0,1を除く)1数字が、また4文字コールは船舶局用だったが、(船舶や航空局以外の)移動局には4文字+(0,1を除く)1数字が認められた。

これを具体的に説明すると、たとえば日本のJシリーズの場合、陸上局・固定局にはJAA-JZZの26 x 26 = 676局分のコールサインを作れるが、今回の改訂で JAA,(JAA1を飛ばして), JAA2, JAA3,... JAA9,(JAA0を飛ばして), JAB,(JAB1を飛ばして), JAB2, JAB3,... JAB9,(JAB0を飛ばして), JAC,(JAC1を飛ばして), JAC2, JAC3,... でJZZ9 までなので、26 x 26 x 8 = 5,408局分のコールサインを作れることになった(但し増加した5408-676=4732局分は固定局専用)。同様に4文字コールサインにも、1数字の付加が認められたため、JAAA-JZZZの26 x 26 x 26 = 17,565局分から、JAAA2-JZZZ9の26 x 26 x 26 x 8 = 140,608局分に組合せが増加した。

なお数字の0と1を禁止した理由は、タイプしたときに0とO、1とIが区別が難しいためで、「3文字局のJAA1」と「4文字局のJAAI」や、「三文字局のJAA0」と「4文字局のJAAO」の誤読や、「4文字局のJAAA1」が「5文字局のJAAAI」と見た目で紛らわしいためである。

● パラグラフ(g)の一番最後でアマチュアは「0,1禁止」を除外

さらに実験局とアマチュア局のコールサインを規定するパラグラフ(g) にも「0,1を除く」という文が加えられた。無線局のコールサインにおいて数字の0,1を使わないというのが大前提だからである。1文字プリフィクスのJ1OA(ジェイ・ワン・オー・エイ)と、2文字プリフィクスのJI0A(ジェイ・アイ・ゼロ・エイ)が紛らわしいとか、4文字局JIOA(ジェイ・アイ・オー・エイ)と見間違いやすいということなのだろうか?

ただし読んでいくと、パラグラフ(g)の一番最後において「アマチュア局は適用外」とした。このようなまわりくどい表現になったのは、コールサインに対する原則的な考え方が「数字の0,1を使わない」というもので、例外事項は一番最後に置いた為だろう。

11) 日本の国際的な立場より、J1の使用を中止

日本の法2条第5号の実験施設のコールサインには(0は使ってないが)1は使用していた。マドリッド会議の決定に従うなら、企業や学校のJ1コールは(1が禁止なので)J2コールに統合されるとしても、個人的なJ1コールはそのまま使用しても差し支えないはずである。しかし実際には1エリアを2エリアに統合され、2エリアは関東・信越・東海・北陸という広域エリアになった。なぜ「アマチュアは除外」との例外規定を日本は適用しなかったのだろうか?

下表のとおり日本の法2条第5号の実験施設にはメーカー・無線学校とアマチュアが一緒くたに含まれている。

無線電信法(第二條)

メーカーや無線学校などコールサインには1を使わないが、アマチュアには1も用いるというような、面倒な「使い分け」でコールサインを発行するのは、管理上いかがなものかという、事務上の理由がまず挙げられるだろう。しかしそれ以上に重要な事情が3年前に起きていた。

1929年(昭和4年)9月18日よりオランダのハーグ(Hague)で開かれた第一回国際無線通信諮問委員会CCIRで、国際的なアマチュア規定を定めて、「アマチュア局の許可規定に関する国際特別協定」を結んだ(1929年9月27日)。しかし日本政府委員は「アマチュアの周波数帯免許」条項には賛同することができず、この調印をボイコットした。

1929年秋のハーグ会議以降、逓信省はこれまで認めてきたアマチュア無線を、対外的には「アマチュア無線ではなく実験局だ」というスタンスを採り、ハーグ特別協定に準拠する必要なしとの態度を貫いた。この主張が具現化したものがアマチュアのJ1の廃止だという見方ができるだろう。

【参考】 日本がボイコットした、「アマチュア局の許可規定に関する国際特別協定」(Sep.27, 1929, CCIR)ではアマチュアへはバンド(帯域)として免許を与えることが規定されたが、日本は各バンド内の特定一波の指定をアマチュアに指定すればよしと考えていた。

アマチュアのJ1コールサインがJ2コールサインに改変されるという、戦前アマチュア界では大きな出来事なので、ここからしばらくは戦前のアマチュアの周波数に関する話題を取り上げる。

12) 各国で勝手に決めていたアマチュアバンドが世界統一される

1927年のワシントン会議では条約第五条(ARTICLE5: Distribution and use of frequencies and types of emission)で、10kHzから23MHzの周波数を各種業務に分配した。しかしPrivate Experimental Station は新しい無線サービスや通信機器の開発のために、必要に応じて使いたい周波数の許可を受けるタイプの無線局なので、固定した周波数(Experimental Band)を設けるというのは馴染みにくく、各国の電波主管庁の判断で個別電波を指定する方式をとった。

一方でPrivate Experimental Station のひとつであるAmateur はその性格上、何をやらかすか分からない。したがって特定の場所(Amateur Band)に押し込んでおいた方が、政府としては管理しやすい。ということで第一条で定義された無線局種ではないが、特別に彼らを収監する場所(周波数)を定めることで合意した。しかしアメリカ以外の国はAmateur に多くの周波数を分配したくないためスッタモンダあったが、従来アメリカが許可していた周波数とほぼ同じ1.715-2.0MHz(共用)、3.5-4.0MHz(共用)、7.0-7.3MHz、14.0-14.4MHz、28.0-30.0MHz、56.0-60.0MHzの6 Bandが私設実験局の中の「アマチュア周波数」として国際承認された。(条約発効の)1929年1月1日、ついに世界統一アマチュアバンドが誕生した。米国議会は1928年3月21日に条約を批准し、一足早い1928年3月28日より新アマチュアバンドへ移行した。

13) それまでのアメリカのアマチュアバンドの変遷

アメリカにおける(ワシントン会議に至るまでの)アマチュアバンドの歴史を簡単に復習しておく。

【例】 無線機メーカーや無線学校の実験施設、および素人無線など

【例】 ラジオ放送局など

(Regulations Governing General and Restricted Amateur Radio Stations and Amateur Operators, June 28,1923, Radio Service Bulletin, No.75, p16, July.2,1923, Department of Commerce 商務省)

◆1924年7月24日はアマチュアに正式に短波が与えられた記念日である。短波の特別免許でアマチュアが実証した、ヨーロッパとアメリカ間の低電力通信成功に対する褒美と言ってよいのかもしれない。従来の150-200mに、短波・超短波バンド(75-80m, 40-43m, 22-20m, 4-5m)が加えられた。そして夜間と礼拝タイムの運用制限は短波バンドの運用には適用しないことになった。

(Amateur Stations Authorized to Use Short Wave Lenghts, July 24 1924, Radio Service Bulletin, No.88, p.10, Aug.1,1924, Department of Commerce 商務省)

◆1924年12月24日、電波を管理していた商務省はGeneral letter No.265でさらに短波バンドの拡張(150-200m, 75-85.7m, 37.5-42.8m, 18.7-21.4m, 4.69-5.35m)を公布し、1925年1月5日より施行した。ただし3.5MHz帯と7MHz帯は共用。

(Regulations Governing The Operation of Amateur Stations,Dec.24,1924, Radio Service Bulletin, No.93, p11, Jan.2,1925, Department of Commerce 商務省)

◆1925年3月17日、(0.7477-0.7496m)400.0-401.0MHzが追加された。これは分配の決まっていない高い周波数(リザーブ帯)をアマチュアが勝手に使わないように、あえて最高分配周波数にアマチュアバンドを置いて、これ以外はアマチュアのものではない示すためのものだった。

14) 戦前のアマチュアバンド (日本)

日本における短波帯の初めてのバンドプランは1926年(大正15年)4月20日、陸軍海軍逓信三省会議において波長200m以下(1,500kHz以上)の「周波数割当表」が採択されたのが始まりである(三省会議については後で述べる)。1927年に予定されているワシントン会議を前に我国よりの周波数分配案を決めるためであった。

三省会議で合意された周波数割当表によると、実験用(アマチュア無線等)には85m帯(3.5-4.0MHz), 42m帯(7.0-8.0MHz), 5.4m帯(55-60MHz)の3Band が選定されたが、具体的に実験用として指定されたのは80m(3.75MHz), 38m(7.9MHz), 5m(60MHz)だった。

割当表の85m帯, 42m帯はアメリカのアマチュアバンドを参考にしたようだが、5.4m帯(55-60.0MHz)はアメリカのアマチュアバンド56.0-64.0MHzを少し下にシフトさせている。これはワシントン会議で周波数60MHzまでを協議することになっていたので、日本では上端を60MHzまでに圧縮したものと想像される。

ちょうどそのころ日本でも短波帯不法アマチュアが誕生しはじめ、逓信省は1926年(大正15年)7月10日「短波長無線電信電話施設ニ関スル件」(電業第748号)で、条件付きながらも短波帯を開放する方針を示した。そして5日後の7月15日には「短波長使用に関する件」(信第734号, 逓信省)で海軍省と陸軍省へ短波の解禁を打診した。なお別表とは4月20日に三省で合意した周波数割当表のことである(短波開放については短波開放の通達のページで詳しく述べたのでそちらをご覧ください)。

『短波長(二百米以下)ニ関シテハ本邦内ニ於イテハ暫定的ニ別表ノ通リ各業務ニ割当使用スルコトトシ実際使用ニ当タリテハ使用局名、呼出符号及電波長ヲ相互通知スルコトト致度及御協議候

追而別表ハ日本案トシテ国際無線電信会議ニ提出予定ノモノニ有之候』(信第734号, 逓信省)

1926年(大正15年)9月に海軍・陸軍から信第734号の件について了解が得られたため、9月29日から10月14日にかけて、法2条第5号無線施設の範疇に入る、メーカーの実験局(東京電気, 現:東芝, JKZB, 80/38m, 免許日:10月14日, 官報告示:10月18日)、アマチュアの実験局(安藤博, JFPA, 80/38m, 免許日:10月8日, 官報告示:10月19日)、通信士養成の実験局(電信協会, 現:電気通信大学, JAZA, 1600/700/38m, 免許日:9月29日, 官報告示:10月21日)を、相次いで許可した。

逓信省は法2条第5号の無線施設用として周波数割当表の中から具体的に5m波(60MHz), 38m波(7.89MHz), 80m波(3.75MHz)を選んだが、割当表では3.5-4.0/7.0-8.0/55-60.0MHzが実験用なので、これ以外の周波数が指定される余地も残っていた。なお38m波はアメリカでは1925年1月5日からアマチュアバンド(37.5-42.8m)に含まれた、まだ歴史の浅い周波数である。

【参考】1927年ワシントン会議の直前時点における日本の短波帯アマチュアは大正15年10月8日に許可された安藤博(JFPA, 80/ 38m)氏が第一号で、その後昭和2年3月1日に有坂磐雄(JLYB, 38m)氏、3月24日には楠本哲秀(JLZB, 80m)氏にも許可された。また全国の学校関係や逓信講習所の実験局には大正14年秋より140-145m Band (2.07-2.14MHz)が標準的に指定されるようになった。

しかしワシントン会議(1927年)に採択されたアマチュアの周波数は7.0-7.3MHzで、38m(7.89MHz)だとオフバンドになるため、日本帝国政府としてその対応を迫られた。

ちなみにアメリカの電波は二重行政だった。電波利用の最古参である海軍は陸軍や他省とともに、1923年に省庁間無線諮問委員会IRAC(Interdepartment Radio Advisory Committee)を作り、ここで政府系無線局の周波数分配を決定し、大統領令で交付する方法をとった。一方で非政府系無線局への周波数分配は当初商務省が行っていたが、1927年に連邦無線委員会FRC(Federal Radio Commission)が引き継いだ。(1934年にFRCが連邦通信委員会FCCへ改組されたが、第二次大戦後も依然としてIRACとFCCによる電波の二重行政は続いた。)

日本も同じような状況で、逓信省は陸軍省や海軍省の無線施設に権限は及ばないし、また陸軍省や海軍省は逓信省の管轄する無線施設に権限が及ばなかった。もちろん陸軍省と海軍省間でも相手の無線施設には権限が及ばないのであった。

1927年に開催されるワシントン会議への対応準備のために、1922年(大正11年)より関係三省会議が設けられた。またワシントン会議のあとでは、会議で決定をみた諸規則が発効(1929年1月1日)するまでに日本の運用を整合させようと、三省で電波統制に関する協議が繰り返された。

発効直前の1928年(昭和3年)12月になって、全6項から成る「三省電波統制協定」が成立し、お互い他省に通告し合いながら周波数の割当て行うことが明文化された。この三省電波統制協定の全6項には直接的に私設実験施設に関するものはないが、特に海軍は日本から遠く離れた洋上にある軍艦との作戦指令に、低電力でも遠距離に届く短波帯が活用される時代がくるかもしれないと考えていた。そのためアマチュアを抑制しておきたい立場にあり、アマチュアの周波数についてそれなりの議論があったのは間違いないだろう。

逓信省は1928年10月1日(電業第2687号)で、既設局である草間貫吉氏(JXAX)の周波数に7.9/14.2/31.0/58.0MHzの4波を指定することを海軍省と陸軍省に打診し、了解を取り付けた。

(変更の許可日は官報では判らないが)1928年12月7日付け逓信省告示第2770号で、草間貫吉氏のJXAX(1929年1月1日からはJ3CB)の使用波長を、38mの1波から、38m(7,900kc), 21.13m(14,200kc), 9.68m(31,000kc), 5.17m(58,000kc)の4波に変更したと官報告示された。こんなギリギリの時期になっても、まだ国際アマチュアバンドには合致しない7.9MHzや31MHzが含まれることから、アマチュアの周波数は一筋縄では済まなかったようだ。しかし最終的にはアマチュアは1775kHzを起点として、その倍々関係の周波数を使うことで三省が合意した。

ワシントン条約の発効直前の1928年10月15日から、1929年12月27日までに許可された新設局(含む再開局)の周波数とコールサインなどを下表に示す。

逓信省はワシントン会議で7.0-7.3MHzがアマチュアの国際周波数に決まったあとも、1928年11月29日までは従前どおり38m波(7.9MHz)で新局を許可し続けていた。(既設局の場合は1929年になっても、しばらくの間、38m波の免許のままだったようだ。)

【参考】新設局でありながら38m波の指定を受けた最後の施設が松本梅吉氏(J1DF)だが、1928年11月6日に電業第3065号で海軍省と陸軍省へお伺いを立て、同意を得たあと逓信省は11月29日に許可している。

逓信省は1929年(昭和4年)に入ると、新設局には1775kHzの倍々関係の周波数を許可するようになった。(後述するが、新設局には1928年10月15日よりJ+数字+2文字の新コールサインが発給使用されたが、既設局は1929年1月1日より使用を開始した。)

【注】 許可年月日は逓信省電務局業務課が1930年(昭和5年)9月30日現在でまとめた"日本アマチュア無線局名簿"より引用した。しかし既に廃局されたものはこの局名簿には掲載されていないため、次の三局は逓信省の別資料により補完した。J5CA安永氏はその資料も見つからず_?_?とした。

1929年03月02日許可:J1DG, 宮島氏(昭和2年03月02日、電業第0451号、逓信省通牒、逓信省電務局長)

1929年06月20日許可:J3CM, 伯井氏(昭和2年06月20日、電業第1658号、逓信省通牒、逓信省電務局長)

1929年10月23日許可:J1DM, 半田氏(昭和2年10月23日、電業第2683号、逓信省通牒、逓信省電務局長)

15) 法2条第5号無線施設の免許基準の細則

1929年(昭和4年)9月12日、逓信省はいわゆる実験局(含む:素人)のアンテナ、周波数、出力、執務時間などの免許基準を細かく規定した「無線電信無線電話実験施設ニ関スル件」(信第833号)を各逓信局長に通達した。この第4項に素人用には1775kHz, 3550kHz, 7100kHz, 14200kHz, 28400kHz, 56800kHz の中から周波数を指定することが明記された。

信第八三三号

昭和四年九月十二日

工務局長

電務局長

各逓信局長宛

無線電信無線電話実験施設ニ関スル件

無線電信無線電話ニ関スル実験又ハ試験ニ専用スル目的ヲ以テ施設スル私設無線電信無線電話ノ工事設計ニ付テハ私設無線電信規則ノ規定ニ拠ラシムルノ外尚左記各項ニ準拠シ許可セラルヘキ見込ニ付御諒知ノ上可然処理相成度候依命

一~三(略)

四 学校、講習所、素人、科学知識普及ヲ目的トスルモノ及之等ニ準ズルモノノ実験用施設ニ在リテハ左記ニ依ルモノトスル

(イ) 空中線電力ハ一〇ワット以下ナルコトヲ要ス

(ロ) 割当テ得ヘキ周波数(キロサイクル)ハ左ノ通トス

一七七五 三五五〇 七一〇〇

一四二〇〇 二八四〇〇 五六八〇〇

五~十二(略)

16) 陸軍海軍逓信三省電波統制協定に含められた法2条第5号無線施設

1929年(昭和4年)10月14日、三省による「電波統制協議会」の第一回総会が、10月16日には第一委員会(周波数割当や国際会議対応)の第一回会合を持った。無線技術の発展と無線局の増加で、国内電波統制に関する案件が山積し、これまでの三省会議ではその機能を発揮できなくなり「電波統制協議会」が設けられたのである。この協議会が我国の周波数分配問題等における最高決定機関となった。

また協議会の大きな仕事として、次回の1932年(昭和7年)のマドリッド会議の対応準備、および会議終了後の(国際規則との)整合作業があった。後述するが、マドリッド会議で決定をみた新しい無線規則の発効は1934年(昭和9年)1月1日である。国内の無線局も多種にわたり著しく増大を始めていたため、1928年12月に合意した「三省電波統制協定」では内容的に不充分になっていた。そこでこれを全文改訂し、新しい国際規則に準拠させた「陸軍海軍逓信三省電波統制協定(8月12日, 電無第72号,逓信省照会)」を1934年(昭和9年)8月下旬より実施した。

「陸軍海軍逓信三省電波統制協定」の第18条では国際条約に準拠したPrivate Experimental バンドの指定基準を決めた。1.750-2.000MHz にはすでに多くの重要業務に割り当てていたし、世界的にもアマチュア専用帯ではなく共用帯だったので、日本では1,775kHzの単波としたが、他は国際承認された私設実験バンド内で逓信省が自由に周波数を指定し、それを陸軍と海軍に事後通知することになった。ただし第18条は「無線の専門学校や製造事業者、民間研究所」が申請する法2条第5号無線施設に対するものだった。

一方「素人」が申請する法2条第5号無線施設については第17条の方で規定された(左図)。

「素人」は空中線電力10ワット以下で1.775, 3.550, 7.100, 14.200, 28.400, 56.800MHz(単一周波数)とした。これは1929年9月12日に逓信省が明文化したものがそのまま盛り込まれたのだか、素人局にこれ以外の電波を指定するには口うるさい海軍と陸軍の了承が必要になった。つまり素人局に同一バンド内で複数波が指定される可能性は事実上消滅したといえるだろう。この6波が我国の周波数分配の最高決定機関である「電波統制協議会」が認めるところの素人用周波数として確立した(1934年8月)。

◆陸軍海軍逓信三省電波統制協定(1934年8月制定) 第17条, 18条 抜粋

【参考】電波統制協議会の様子については,"波濤-電波と共に五十年"( 綱島毅,1992,電気通信振興会) が詳しいので引用する。

『私も昭和十六年、小野さんが退任された後を引き継いで、無線課長を命じられた時、この幹事役も引き継ぎ、しばしば陸海軍との協議の場についたが、問題が個々の周波数の割当てとなると、軍は決まって作戦上の機密と称して、その使用場所や、使用電力等を明らかにしないのである。それでは協議ではなく、一方的に必要なものはよこせということになるので、一般の官庁用や民間用の電波を預かる逓信省としても、ハイそうですか、と引き下がるわけにはゆかず、大きな論争となるのである。』

『しかし陸軍と海軍の間では、普通の国内での割当て会議では、余り大きな問題は起こらなかった。それは陸軍の電波は地上の中距離以下の移動用に使用されるものが多いので通常、電力も小さく、波長も中短波に属するものが多かったのに反し、海軍は、洋上の軍艦とその基地である軍港との間の通信や、広い洋上にある軍艦相互間の通信が主であるから、通信距離が長く、従って電力も大きく、波長は遠距離伝播性のある長波を中心に使用しており、その周波数の範囲が大分異なっていたからである。』

17) 法2条第5号無線施設の免許基準の細則

満州事変につづき、1937年(昭和12年)に日中戦争(支那事変)が勃発。どんどん戦時色が強まる中、1939年(昭和14年)7月27日付け逓信省告示第2176号「私設無線電信電話ノ機器及装置竝ニ附属具ノ具備スベキ條件」により、全ての法2条第5号無線施設(素人、学校、無線機メーカー、民間研究所)が陸軍海軍逓信三省電波統制協定の第17条で指定する6波に限定された。これが施行された1939年9月1日、欧州で第二次世界大戦が勃発した。

(昭和14年 逓信省告示 第2176号, 「第四 実験用私設無線電信無線電話」の第三項)

日本の周波数分配の最高決定機関は、あくまで三省で構成する「電波統制協議会」である。したがってこの昭和14年逓信省告示2176号の上位概念は三省協定17条と18条であることには依然変わりない。しかし18条で専門学校、メーカー、民間研究所の場合には国際アマチュアバンド内の任意の周波数を指定できる余地が残されていたのを、逓信省が辞退した(させられた?)形だった。

またアメリカで認可された112MHzの電波を、日本でも使いたいとする声もあったようだが、この6つの周波数は改訂されることなく、1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争の開戦と同時に素人局の停波命令が出された。