短波開放の通達

『1927年(昭和2年)3月1日。有坂磐雄氏(JLYB),楠本哲秀氏(JLZB)に個人として初めて短波実験局が免許。』

これもWeb上で良く見かける記述ですが、これは完全に誤りです。個人に許可された短波の実験施設は官報によれば、どなたがお探しになろうとも、必ず1926年(大正15年)10月19日逓信省告示第1986号の安藤博(JFPA, 38/80m)氏にたどり着きます。これは安藤研究所へではなく、個人(安藤博)への許可で、逓信省の「短波開放通達」(電業第748号)に基づくものでした。 【注】それに楠本氏の免許は1927年3月1日ではなく3月24日です。これも間違っていますね。

1926年(大正15年)は我国で短波が一般開放(私設許可)された特筆すべき年となりました。

◎1926年01月26日 ・・・ 東京放送局JOAKが波長100m以下の短波(15m, 30m, 35m, 60-70m)許可の私設局第一号に

◎1926年04月20日 ・・・ 日本初の業務別周波数割当表が完成・合意(短波の実験バンドとして80m, 40m, 5mが織り込まれる)

◎1926年07月10日 ・・・ この割当表に従い、学校・団体・個人へ短波を許可すると逓信省が地方逓信局へ通達(電業748号)

◎1926年09月29日 ・・・ 学校への(割当表に従った)短波私設局 許可第一号、電信協会(現:電気通信大学)JAZA, 38m

◎1926年10月08日 ・・・ 個人への(割当表に従った)短波私設局 許可第一号、安藤博氏JFPA, 38m/80m

◎1926年10月14日 ・・・ 団体への(割当表に従った)短波私設局 許可第一号、東京電気(現:東芝)JKZB, 5m/38m/80m

我国のアマチュア用周波数は、1926年(大正15年)4月20日の「業務別周波数割当表」で85m帯(3.5-4.0MHz), 42m帯(7-8MHz), 5.5m帯(55-60MHz)を実験用バンド(含むアマチュア)として定め、この分配表から具体的な実験用波長80m(3.75MHz), 38m(7.9MHz), 5m(60MHz)を選出したのを始まりとします(大正15年9月)。

このページでは大正15年の電波行政の動きを中心に、短波帯が私設局に許可されていく様子を紹介してみようと思います。なお大正14年春から始まった短波開拓上の出来事はJ1PP J8AA のページを、明治39年(ベルリン会議)から大正14年春のJ1AA開局までの電波行政の流はJ1AAのページをご覧ください。

1) 帝国海軍の大規模な短波帯長距離通信実験

1925年(大正14年)11月、海軍は練習艦隊の軍艦磐手(いわて)に短波無線機を装備し、芝の海軍省構内にある東京海軍無線電信所と通信しながら、横須賀から上海・香港・マニラ方面へ南下し、シンガポール・バタビアから南半球へ移動して、さらにオーストラリア大陸を反時計回りに航海しニュージーランドまで行って、南洋群島経由で帰ってくるという、大規模な短波伝播試験を実施(大正十四年 軍務二第289号)しました。

同年夏の軍艦多摩の太平洋横断交信試験で、短波長通信の有用性が認められたため、短波長を使用するに当たり、より具体的な検証を行うのが目的でした。

1926年(大正15年)4月5日に、軍艦磐手の枝原百合一艦長より軍務局第二課長へ送付された「軍艦磐手対東京海軍無線電信所 短波長無線通信実験報告並所見」より引用します。

この短波長無線電信機の通信実験報告書は極秘扱いとされました。海軍では短波電信機新兵器として位置付けていたからです。

一、目的

目下海軍技術研究所において実験研究中の短波長無線電信機が軍用兵器として実用に供し得るや否やを実験し、併せて短波長電波による通達距離を実験するにあり。

二、研究項目

 (イ) 昼夜間における最大通達距離および確実通達距離

 (ロ) 同一艦所において同時交信可能なるや否や。もし可能なりとせばその波長差の程度

 (ハ) 現用電球式送信機を使用中、短波長無線電信機を使用し得るや否や。相互干渉の程度。

 (ニ) 船体および空中線の動揺が短波長無線電信機に及ぼす影響

 (ホ) 短波長無線電信機に使用する空中線展張法および空中線の太さ

 (ヘ) 艦船のごとき電波の妨害となるべき「マスト」「リギン」「ステー」等多数集まれる場合、短波長無線電信機に及ぼす影響

 (ト) 六〇メートル以下の波長において通信効果最も良好なる波長および軍用通信として最適良なる波長帯

 (チ) 長波長に比し混信分離の難易

 (リ) 空電の影響(現用二百メートル以上の波長と短波長との比較)

 (ヌ) 従来の実験によるに一定の波長により送信中、距離によりて感度の高低を生ぜリ。はたしてこの現象ありや否や

 (ル) 取扱いの難易

 (ヲ) そのほか必要なる事項

三、参加艦所

軍艦磐手および東京海軍無線電信所

【軍艦磐手の試験航路】

軍艦磐手は11月9日に横須賀を出発し、上海(11/18着, 19発)→馬公(11/25着, 26発)→香港へ進みました。香港(11/30着, 12/1発)を出たあと、いったん米国領フィリピンの馬尼刺(マニラ, 12/4着, 12/5発)に立ち寄り、英国領の新嘉坡(シンガポール, 12/19着, 12/20発)へ進みました。そしてさらに南下し南半球に入ります。

オランダ領バタビア(現:ジャカルタ, 12/25着, 12/26発)を経由し、オーストラリアの西岸を南下しますが、ここで1926年(大正15年)のお正月を迎えました。

フリーマントル(1/8着, 同発)→アデレード(1/19着, 1/20発)→メルボルン(1/27着, 1/28発)と、オーストラリア大陸の西岸から南岸へ込み、本航海では最南端になるタスマニア島のホバート(2/2着, 2/3発)へ向かいました。

そしていったんオーストラリアのシドニー(2/12着, 同発)に戻ってから、本実験の最遠隔地であるニュージーランドのウエリントン(2/22着, 2/23発)についに到着したのです。

帰路はオークランド(3/3着, 3/4発)→スバ(フィジー, 3/9発, 3/10着)を経由しながら、日本の信託統治領のトラック島(3/25着, 3/26発)→サイパン島(3/30着, 3/31発)に立ち寄り、小笠原の父島二見(4/2着)まで、軍艦磐手からは波長35mと26mで、日比谷の海軍省構内にある東京海軍通信所からは波長50mと22mで定時送信しました。

◎送信時刻(日本標準時)とその使用波長

◎軍艦磐手で受信された、東京海軍通信所の50m波と22波の受信状況

2) 下志津陸軍飛行学校(千葉)の短波実験

帝国海軍の大規模短波試験と比べて、帝国陸軍の短波実験は小規模なものにとどまったようです。一旦海にでれば有線通信が不可能な海軍の方が短波の利用に積極的だったのでしょう。そんな中、千葉県の下志津陸軍飛行学校では地対空通信を研究していて、高田俊一氏・森慶雄氏・佐藤健児氏の三名が短波のアマチュア無線を知るところとなりました。彼らの短波実験は1926年(大正15年)初頭より始まりました。ちょっと寄り道になりますが、陸軍局によるアマチュア運用の話題をここでまとめておきます。

QST誌IARUのページには、日本のJ1AA, J1PPの他に、JA2やJ7Sという謎の局が報告されていましたが、JARL創設メンバーが初めてQST誌に載ったのは1926年(大正15年)6月号です。これに米国の6AJMと6CJPが日本の3WWと交信、ハワイの6CLJが下志津飛行学校の1SK(whose QRA is Shunichi Takata, Shimoshizu, Hikogakko, Chiba, Japan.)と交信したとあります。すなわちJARL関係者でQST誌デビュー第一号は谷川譲氏(3WW)と、陸軍の高田俊一氏(1SK)のお二人でした(でも谷川氏はこの記事で住所がバレて大阪逓信局の取調べを受けました)。

後述する1929年(昭和4年)5月の東京逓信局による事情聴取では、高田・森・佐藤氏らは下志津陸軍飛行学校のコールサインを1FMとして実験するほか、高田氏の自宅(1SK)、森氏の自宅(1SM)に軍用無線機を施設しました。また佐藤氏は飛行学校から個人として短波にオンエアーする際には別の呼出符号1GSを使ったと調書に記されています。

同じように海軍では有坂磐雄氏が短波の研究中にアマチュア無線に興味を持ち、呼出符号2BBでアマチュアとの通信もはじめました。岩槻J1AAの見学経験がある有坂氏ですから、J1AAの二番手という意味で1→2, AA→BBとされたのかも知れません。

●1976年、それまで陸軍・海軍の局と解釈していたものをアマチュア局に

1976年(昭和51年)になって、高田(1SK)、森(1SM)、佐藤(1FM)、有坂(2BB)の各OMは、1926年(大正15年)6月の日本素人無線連盟JARLの結成メンバーとして加えられるようになりました。当時の大人の事情(?)は私にはわかりませんが、とにかく日本の軍人さんたちのアマチュア的な短波実験を眺めてみましょう。

戦前の日本では無線電信法および軍用電信法により逓信大臣・海軍大臣・陸軍大臣の三名が無線局の認可権を持っていました。逓信大臣の権限は陸軍省や海軍省の無線局には及びませんし、逆に海軍大臣の権限は陸軍省や逓信省の無線局には及ばず、また陸軍大臣の権限は海軍省や逓信省が許可した無線局には及びませんでした。

すなわち高田氏ら4名の現役軍人のOM方々が軍通信を目的とする無線局ならば、逓信大臣にはそれを免許する権限はなく、アマチュア通信を目的とする無線局であれば海軍大臣や陸軍大臣には免許する権限がありませんでした。

後述しますが海軍の有坂氏(2BB)は早々に逓信大臣が所管する私設局JLYBの免許を得ました。もし職業(海軍)がらみの運用なら逓信大臣に申請する必要などないのですから、有坂氏にはアマチュア無線をしたいという明確な意思があったのでしょう。一方で陸軍の佐藤氏(1FM)と高田氏(1SK)は逓信省には申請せずに陸軍局として運用を続けました。アマチュア局になると出力や波長、運用時間などの制限を受けるため、これを嫌ったと証言されています。

  • 佐藤氏(1FM)は1927年(昭和2年)2月、立川の飛行第五連隊へ転勤。短波のJ1DCX(佐藤邸)とJ2DCX(第五連隊)を運用。

  • 高田氏(1SK)は1928年(昭和3年)8月、立川の陸軍航空本部へ転勤。短波のJD2(高田邸)とJD1(航空本部)を運用。

  • 森氏(1SM)も同年8月に福岡県の太刀洗第四飛行連隊へ転勤しましたが、これを契機に短波活動にはピリオドを打ちました。

1926年(大正15年)12月号の『無線之研究』誌には笠原功一氏3AAがボルネオのアマチュア局SK1, SK2を紹介する中で次のような一文があります。

六、ボルネオ 此夏ころから出現しました。百ワット程度のパワーで2局あります。BNのSK1及SK2です。共にサラワクにあります。日本の陸軍局のうちに1SKというのがあります。これとはまちがわない様に御注意のこと(笠原功一, "外国素人局紹介(三)", 『無線之研究』, 1926.12, 無線之研究社, p40)

すなわちJARL創設メンバーの方々は、1FM, 1SK, 1SM の3局は陸軍局だと明確に認識していたようで、同様に有坂氏の2BBも海軍局(水雷学校実験室)と考えていたと想像できます。

また『アマチュア無線のあゆみ』にはJ1DCXが(逓信省から)指定されたアマチュア局の呼出符号であるかのように受けとれる記載があります。

J1のコールサインの時代、わが国で初めての三文字コールJ1DCXが陸軍に勤務していた佐藤健児氏に指定された。56MHzのみの割当であったようである。 (日本アマチュア無線連盟編, 『アマチュア無線のあゆみ 日本アマチュア無線連盟50年史』, 1976, CQ出版, p122)

結論を先に述べるとこの記述は全くの誤認です。J1DCXは不法アマチュア局でした。しかしここで注目すべきはこの書籍がいう「3文字コール」の話題ではありません。アマチュア通信が、陸軍の業務ではないことを、(次に述べるように)逓信省と陸軍省の間で正式に確認された点にこそ歴史的な意義があるでしょう。

3) 大阪逓信局が短波不法アマチュア J1DCX を傍受

1929年(昭和4年)4月9日19時20分、大阪逓信局は不法施設J3YW(波長40m)とJ1DCX(波長43m, 佐藤, 小金井)の交信をキャッチしたが、『J1DCXはそちらの管内だから処理するように』と、東京逓信局へ取締りを求めてきました("短波長探査に関する件", S4.4.11, 監無第22159号, 大阪逓信局)

時を同じくして4月12日には、春洋丸の通信長よりロサンゼルスにて、J9FS(エス 杉田,湯島天神)J4ZZ(T.YAGI, 小石川)J1SK(下志津飛行学校, 四街道)の情報を得たが不法施設ではないかとの報告がきました。これが『アマチュア無線のあゆみ』(pp80-82)にも掲載されている、東京逓信局による矢木宅(J4ZZ,後のJ1DO)捜索で、芋ズル式に杉田氏(J9FS,後のJ1DN)・半田氏(後のJ1DM)・多田氏(後のJ1DP)が摘発された事件です。この時に矢木宅より押収したQSLカードに下志津飛行学校のものが発見されました。

4月23日に東京逓信局の遠山長吉技手が同飛行学校を訪問し、技術部の宮村大尉と面会したところ「短波長は大正15年初頭から前任の高田大尉が将来の地対空通信用にと試していたが、昨年8月に立川航空本部へ転勤したので当時のことは知らない。現在は演習などで時々短波を使っているだけ。」との証言を得ました。

そこで5月6日に東京逓信局の松野鉚治技手が立川の陸軍航空本部技術部を訪ね、無線係主任高田大尉から事情聴取し、ついに下志津時代と現立川での短波運用の全貌が明らかになりました。

東京逓信局の遠山技手や松野技手が提出した長い復命書(今で言う出張報告書)に添えられた、要約の表が左図『下志津(遠山技師)・立川(松野技手)両地における短波長無線調査復命書要項摘録』です。

また見やすいよう私が下表に書き出してみました(なお下志津時代のコールはJの付かない1FM, 1SK, 1SM, 1GSが正しいです)。

ちなみに1927年(昭和2年)4月に米国某より「AJ1FM」なる日本の不法施設の情報が寄せられたことがありましたが、このAJ1FMも佐藤氏でした(小林幸雄, 日本アマチュア無線史3, 電波時報, 1960.1, p37)

【参考】これは『アマチュア無線のあゆみ』(日本アマチュア無線連盟, 1976, CQ出版, p59)にも引用転載されました。

大阪逓信局から報告されたJ1DCXは飛行第五連隊の佐藤曹長が自宅に軍用無線機を施設したものと判明しました。公私混同の個人行為と推測されるものの、施設場所は自宅だがこれも陸軍の無線局であると主張されて、東京逓信局はどうすることもできませんでした。事情聴取によれば、海外アマチュアとQSLカードを交換したかった訳ではないが、お互いのひとつの礼儀でもあり、かつ感度などの実験記録となり便利と思い行った。また注目すべきアマチュア免許取得については『一般私設実験局トシテ逓信局ノ許可ヲ受クベキヤ否ヤ、議論アリタルモ一般実験局トセバ、電力、波長、時間ノ限定アルタメ実験上不便タル』と話したと、東京逓信局松野技手の復命書(5月7日付)には記録されています。

不法アマチュア局J3YWとの交信は「相手が勝手に呼んできたので返答しただけだが、今後は気を付ける」と、結局うやむやにされましたが、『高田大尉、佐藤曹長両人ニ対シテハ今後絶対ニ不法施設トノ交信ヲ避ケ将来誤解ナキ様少官ニ [一字不読] ヲ厳重注意セリ』、すなわち"東京逓信局からの厳重注意"という形で決着しました。

しかし大阪逓信局も東京逓信局も、J1DCXなる無線局はその実態が軍用通信とは到底思えず、公私混同のアマチュア通信に違いないと、その後もマークしていました2年後、事態が急変します

【参考】 1929年(昭和4年)7月10日調べの「日本アマチュア無線連盟名簿」には客員として佐藤健児氏J1DCXが掲載されており (出典:BEACON-関西のハム達 島さんとその歴史5, Web site)、JARL結成時(下志津勤務時代)より交流があり、立川に転勤後も国内アマチュア達とのその交流が続いたことが伺えます。ただし佐藤氏が「客員」扱いということから、当時のJARLメンバーから「J1DCX」は逓信省が認可したアマチュア局ではない(=陸軍局)と認識されていたと思われます。

4) 2年後、J1DCXがアマチュア通信を行なっているのを再び傍受

1931年(昭和6年)4月20日19時39-43分、東京・国分寺のJ1DCXが海外のアマチュア局8TZAと7100kHzで交信しているのを傍受した大阪逓信局は、『呼出符号J1DCXの取締りに関しては、東京逓信局にて配意中のことと聞いているが、このような(アマチュアもどき)通信を黙認していては本邦不法短波施設を助長を招き、取締上支障を生ずる恐れありと思慮せらるる』(筆者要約)と、東京逓信局にねじ込んできました(左図:"短波長無線電信不法施設に関する件", S6.5.11, 監電第20879号, 大阪逓信局)

さて困ったのは東京逓信局です。相手が(逓信大臣と同等に無線局の許認可権を有する)陸軍省ですから。そこで東京逓信局は逓信省電務局長に解決を委ねました。

当局管内東京府下国分寺町二八〇三番地、佐藤ナル者ガ呼出符号「J1DCX」ヲ使用シ、内外一般実験施設ト交信シ居ルヲ、コレ黙視スルニ於イテハ内地不法施設ノ助長ヲ招キ取締上支障ヲ生ズル旨、大阪逓信局ヨリ申越シアリタル [一字不読] 右ハ立川陸軍飛行第五連隊ノ軍用実験ニシテ同隊ニ装置スルモノハ呼出符号「J2DCX」ヲ使用シ曹長佐藤謙次ノ自宅ニ装置スルモノハ呼出符号「J1DCX」ヲ使用シ・・・(略)・・・可燃御取計相成度

というように、大阪逓信局が怒っていますのでと、東京逓信局が「逓信省の方でしかるべきお取り計らいを願います」と、助けを求めました("短波長無線電信不法施設に関する件", S6.5.18, 監電第7357号, 東京逓信局)

もちろん逓信省自身は不法アマチュアの取締りは行っていませんが、東京逓信局を監督する立場にあり、さっそくJ1DCX問題の事態解決に向けて動き出しました。

逓信省としてはこの件が陸軍省との「無線局の許認可権の縄張り争い」に発展しないかの懸念されるところですが、陸軍省は佐藤曹長の短波実験は個人的なアマチュア通信であり、それは逓信大臣による私設無線(アマチュア)の範疇にて許可されるべきものだと認め、すんなり両省の見解が一致しました。

そして全面的に逓信省の主張を認め「お達し」が出されました(さすがに陸軍側にもメンツもあってか「J1DCXは不法アマチュアだった」との直接的な表現は含みません)。

1931年(昭和6年)11月10日、「私設無線取締等ニ関スル件」(陸普第四七四〇号, 陸軍省副官 河村薫)にて、「軍人でもアマチュア通信を行うには逓信大臣による私設局の許可が必要であるので今後は気を付けるように」と、陸軍省副官名で軍内通牒されました。

また同時に逓信省との協議の結果、呼出符号の頭にJの付くものを勝手に使わぬよう、決まったことを伝えています。読み易いよう、以下に書き出しました。

陸普第四七四〇号

私設無線取締等に関する件 陸軍一般へ通牒

昭和六年十一月十日

陸軍省副官 河 村 薫

一、近来現役軍人等にして無線通信研究のため、私有品もしくは借用品により部隊外に通信装置を設備し、ほしいままに素人無線施設者と交信するの疑いあるもの、まれにこれあるやに聞きおよびたるところ、右様通信の実施に方りては私設無線電信規則(大正四年十月二十六日逓信省令第四十六号)により、逓信大臣の許可を要するものなるにつき、自今前記のごとき過誤なきよう特に留意せられたく。

二、逓信省における一般私設無線取締上の便宜に基づき今後陸軍諸部隊における無線通信用呼出符号はその頭字に「J」(・- - -)を使用せざることに定められたるにつき依命通牒す

追って陸軍無線にして逓信省または逓信局無線と交信する場合にはその呼出符号の頭字に「J」を使用し得る儀と承知あいなりたく。

この軍内通牒を受けて、11月19日に逓信省から各逓信局長へ以下の通達(電業第3278号)が出されました。陸軍省は個人宅に施設されたJ1DCXは「陸軍局か否か」の判断を避け、その通信事項が逓信大臣の範疇によるものだとしましたが、逓信省はJ1DCXを「不法短波長無線電信無線電話施設」だったと断じ、一応の省内の決着をみたのです。これで大阪逓信局の怒りも収まったことでしょう。ちなみに上記の陸普第4740号と、下記の電業第3278号は日本無線史 第4巻(p544)にも収録されています。

電業第三二七八号

昭和六年十一月十九日

電務局長

各逓信局長宛

私設無線電信無線電話不法施設取締に関する件

近来現役軍人等にして不法に短波長無線電信無線電話を施設内外実験用無線電信無線電話と交信する者あるを認め 陸軍省当局に対しこれが取締方交渉置候処今同省より右取締に関し別紙写の通 同部内へ通牒せる旨通報有之候条貴局取締上参考相成たく。

別紙

さてもう一度、前掲の『下志津(遠山技師)・立川(松野技手)両地における短波長無線調査復命書要項摘録』(要約報告表)の最後の文(左端)をご覧ください。

右呼出符号はいずれも学校本部および連隊において、それぞれ認めて使用し居れるものなり』とあります。J1DCXやJD2のコールサインは佐藤曹長や高田大尉が逓信省の「J+数字+2文字」と区別が付くように個人的に考案したものだと思われます。とはいえ、たとえ個人考案の呼出符号であったにせよ、この呼出符号を使いますと上官に知らせ、その許可を得たのなら、呼出符号を発行したのは組織だったとの解釈が成り立つでしょう。呼出符号の指定権は、言うまでもありませんが陸軍局なら陸軍省に、アマチュア局なら逓信省にあります。

【参考】公衆通信を行う無線局についてはベルン総理局へ呼出符号を国際登録を要するため、軍と逓信で重複しないように主として逓信側で事前調整。

もしJ1DCXなる呼出符号が陸軍省として発行したものだと解釈するのであれば、地方逓信局が行っている不法運用者の監視・取締り上、はなはだ紛らわしく、これまでの軍が逓信に要求してきた「取締りの徹底」に逆行するものだと逓信は主張したようです。そもそもアマチュアへの短波開放の条件として「不法施設の監視・取締まり強化」を逓信に強く求めたのは軍側だったからです。

この逓信の主張が通り、陸軍通信においては、(別に決めたものを除いて)頭文字に「J」が付く呼出符号を使わないことを両省で協定し、電波監視上の観点から陸軍局なのか、不法アマチュアなのかをきちんと識別できるようにしました。今後は逓信省が心当たりのない(事前協議されてない)、Jで始まる呼出符号は不法局ということになりました。

以上のようなスッタモンダがありましたが、とにかく逓信省の解釈としては電業第3278号でJ1DCXは陸軍局ではなく不法アマチュア局だったとしました。そしてJ1DCXやJD2の運用は停止され、佐藤氏は1年後の1932年(昭和7年)12月に逓信省の正規の私設局J1GAとしてアマチュア活動をスタートされました。1934年(昭和9年)にマドリッド会議の決議「呼出符号の数字に0,1を使わない」が発効し、J1GAはJ1INに指定変更にされたあとも、戦前のアマチュア無線界で精力的に活躍・貢献された大OMです。

ところで不法施設J4ZZ矢木氏(のちに正規のJ1DOそしてJ2GX)への家宅捜索で下志津飛行学校のQSLカードが発見されたことから、陸軍の「アマチュア無線もどき」の全貌が明らかになりましたが、不思議な縁というか、兵役で入隊した矢木氏は佐藤氏の部隊に配属されました。

ある日の事、佐藤氏(J2IN)は通信室に「向う1週間通信演習を実施」と張りだして、矢木二等兵(J2GX)と陸軍無線施設(きっとアマチュア免許の出力10W制限を軽く超えるものでしょうね・・・)でこっそりアマチュア無線のコンテストに参加しました。

二人がCQ,CQと夢中になっていたところへ、週番将校が深夜の見回りに来て「おお佐藤、大変だな、徹夜の演習か。体に気をつけてやれよ・・・あはーん。この二等兵はなんじゃあ?」

「はい。矢木はなかなか技術をもっとりますので助手を命じております。」

「そうか矢木二等兵、しっかりやれよ。」と週番将校はいたく感激し、連隊長に報告しました。

そして連隊長殿が「ホー。夜も寝ずにやっとるのか。」と感謝状を出したという有名なエピソードがあります。 (小林幸雄, "日本アマチュア無線史4", 『電波時報』, 1960.2, p36)

佐藤氏は心底アマチュア無線が大好きで、そして豪傑な軍人さんだったようですね。

5) 東京放送局JOAKの短波実験局が許可される (1月26日)

1925年(大正14年)になって短波に注目が集まると、京都帝国大や浜松工業学校の短波実験施設の許可に海軍省が反対を表明したため、1924年(大正13年)に許可された東京商科大(現:一ツ橋大)の2.0-2.14MHz(140-150m)や東京高等工業(現:東工大)の2.0-3.0MHz(100-150m)を最後に、(逓信省およびその外局の無線施設を除いて)短波実験の許可は凍結されたままでした。

しかし昨年の軍艦多摩の出光艦長の報告書などで、海軍の態度は徐々に軟化し、東京放送局JOAKの短波実験施設が許可されました。なお東京商科大東京高等工業は国立学校なので官設無線局です。私設無線局への短波許可は東京放送局JOAKが第一号です

【注】 大昔の大正6年に沖電気紹介(現:沖電気)、安中電気製作所(現:アンリツ)、日本無線電信製造所(現:日本無線)に高い周波数を含んだ、波長1800-100m(167kHz-3MHz)の包括的な実験用許可が与えられた例はあります。

JOAKが例外的に短波許可再開の第一号になれたのは、その用途が放送関係の実験なので軍部が恐れたスパイ通信を行うこともないだろうし、逓信省電気試験所の北村氏がJOAK技師長に就任したので無線機不良による軍用通信への混信もないだろうという点や、逓信省としてもJOAKなら違法に公衆電報を取扱う恐れはないなどが挙げられますが、なによりも一番大きな理由が、我国の中波ラジオ放送の全国放送網の拡張計画です(J1PP J8AAのページの後半部をご覧下さい)。

逓信省では東京放送局・大阪放送局・名古屋放送局の三法人の統合(日本放送協会の創設)と、それによる全国放送網建設案を策定しており、各放送局を結ぶ放送中継線(陸線)に関して、北海道へは建設費が安く済む無線中継を計画していました。この時期においてJOAKに短波の許可が特例的に下りたのは、将来に向けた短波無線電話による放送中継技術の研究開発が急務との判断があったようです。ラジオの全国放送網計画は1926年(大正15年)2月24日に最終承認されました。

1926年(大正15年)1月26日、社団法人東京放送局に短波実験局が免許されました。波長15m(20MHz), 30m(10MHz), 35m(8.57MHz), 60-70m(4.29-5.0MHz), 210-240m(1.25-1.43MHz), 360-390m(769-833kHz)で、呼出名称は「東京放送局実験装置」でした。官報には3日後の1月29日(逓信省告示第173号)に掲載されました。2月中旬より武蔵小山のJOAK受信試験所を相手に送信が始まったようです。

東京放送局の短波長実験はいよいよ来る十日頃から愛宕山と武蔵小山の受信所間に於て実験されることに決定されたので放送局技術部では目下着々準備中であるが最初は五十ワット位の小電力で放送してその受信成績を試験するはずである。 ("短波長の試験はこの十日から開始さる", 『日刊ラヂオ新聞』, 1926.2.6)

東京放送局実験装置として、一月廿六日附検定証書を交付せられた短波長実験装置は、じらい日々試験送信中で、目下三十五米の送話を行っているが、近く六十米見当の電波を出すはずである。朝鮮逓信局工務課では、昼間低周波一段拡大にてスピーカーが動作するとの報告があり、・・・(略)・・・マカオ碇泊帝国軍艦の某氏は、四月二日午後十一時三十分(西部標準時、中央標準時にては四月三日午前零時三十分)東京より千八百浬を隔てた香港沖で、二球短波長受信機を使用し、受話器を卓上に置くも高声に聞き、・・・(略)・・・未だ時日が浅いので、海外からの受信証が入手に至らないのは止むを得ぬ次第である。この短波長送信の記録の大要は、波長 三五米、空中線 長さ二七米・高さ二〇米、傾斜型単線ポイズ 長さ八米・高さ地上五米単線、発振管 サイモトロン二〇四型 二個、このプレート入力二個にて約四〇〇ワット、送話器 ソリッドバックまたはウエスタンダブルボタン型 (四月二十二日-安藤) (安藤, "短波長送話試験", 『ラヂオの日本』, 1926.6, 日本ラジオ協会, p70)

おなじみのJOAKでも、いよいよ短波長の試験放送を開始した。今の所、別に呼出符号はなく、「こちらは東京放送局の研究室であります。」と呼んでいる。受信所は東京市外洗足池畔にあって、毎日午後四時ないし五時と、本放送終了後に実験が行われる。先般などは京城(ソウル)に向かって送られたが、極めてよい成績を挙げたという。送信電力は五百ワット波長は三十二ないし三十五メートルである。目下の所、アマチュアとしては、逓信練習所のJ1PPや、電気試験所平磯出張所JHBB(短波)実験を受信するよりも、この実験放送を受ける方が、時間も一定しているから、一番適当と思われる。本誌研究室が、この試験放送を受けるために組立てた受信機は・・・(略)・・・』 (科学画報研究室, "短波長受信機の実験", 『科学画報』, 1926.5, p612)

日本ではJOAKが朝から短波長の試験をやっているが、アマチュアに聞かせたくないとあって、波長も時間も決して公表せぬ。ところが、クリスタルセットで愛宕山近くで聞いている者(一般住民)には、普通の放送受信機に「こちらは雨が降っています。毎度受信して頂いて有難う。受信成績は電信で報告して下さい。本日は晴天なり。本日は晴天なり。」などというのが遠慮なく入る。朝九時前のことであった。 (『無線と実験』)

後述しますが8月に電気試験所第四部(大崎)のJHABが短波を発射した際に近隣の鉱石ラジオに妨害を与えたため、満足な試験ができないという事件がおきました。短波実験の思わぬ障害となったのが家庭の鉱石ラジオでした。それにしてもJOAK(中波)の聴取者のラジオにJOAK(短波実験)が混信させては、洒落になりませんね。

【参考】 JOAK(私設)に続いて、官設局ではありますが、北海道帝国大(2月10日, 電業第277号)と広島高等師範(3月9日, 電業第448号)に低い短波長2.1MHz帯(140-145m)の実験が許可されました。短波の取扱いが正式に確定するまでは特例的に140-145mが学校実験用に認められるようになります。

6) 東京-佐世保間でビームアンテナと波長5mを試験 (1月29日)

1924年(大正13年)7月にマルコーニ社が英国郵政庁に対して、同社の短波ビームアンテナを使えば世界に点在する英国植民地・保護領と低経費で通信できると売り込み、その契約に成功しました。

マルコーニ社のビーム通信に関心を寄せていた帝国海軍は、1925年(大正14年)9月3, 4日、マルコーニ社(英国)が主催したサウス・フォアランド(South Foreland)ビーム送信所の施設見学会とデモンストレーションへ村上造船造兵監督官を派遣し、マルコーニの回転式ビームアレイの知見を得ました。この施設は同社が提案する波長6.09m(49.3MHz)を使った電波灯台です。機関車の転車台と同様の大きさと構造です。

公開日の取材記事の写真(左)をご覧下さい。アンテナの前に見学者たち何人も立っていますので大体の大きさがご想像いただけるかと思います。電波に干渉しないよう木製の枠で作られていて、底部には車輪があります。

このビームアレイが円形の一本レールの上を一定速度で360度廻りながら、各方位を現す符号を発射します。送信入力は約280Wでした。マルコーニのヨットに招かれた見学者達は、洋上に出て電波灯台の回転周期に同期してヨットの6m受信機が感応するのを体験しました。

1926年(大正15年)1月29日から2月5日、海軍は東京海軍無線電信所-佐世保海軍無線電信所間で我国初の短波ビーム通信試験(波長20m, 周波数15MHz)を行いました。そして約千キロメートル離れた佐世保とは夜間は通信できない事、しかも昼間であっても確実な通信を確保するのは難しいこと、集射空中線(波長20m用のビームアンテナ)が有効であること、しかし通信確実度は空中線の性能よりも通信時刻の影響大なることを知りました。

この試験で自信と確証を得た海軍は、3月に海軍式ビームを特許出願しました。また試験結果より陸上の海軍無線電信所と洋上の海軍艦船との距離は常に変化するため、その時々に応じて迅速なる波長変更を成し得る無線機を研究すべきであるという結論に至りました。

指向性短波空中線の発明の内、大正十五年三月特許出願したる特許六七九一三号(発明者谷恵吉郎)は特に海軍型と称して、我国初めての独創的ビーム空中線として、永く各方面に応用され、大に偉功を奏し得たのである。 (電波監理委員会編, "短波送信機と指向式空中線", 『日本無線史』第10巻, 1951, pp318-319)

この海軍式ビームの特許第67913号がいかなるものかを知りたくて特許庁のデータベースを調べたところ、なんと左記の画像が現れました私も技術職ですので業務上で、特許明細を検索する機会は少なくないのですが、こんなの初めて見ました。

時期的にいえば東北帝大の八木秀次博士が1925年(大正14年)12月28日に出願した、「電波指向方式」(公告T15.5.5, 特許登録T15.8.13)と「可変指向性電波発生装置」(公告T15.5.14, 特許登録T15.9.1)の後になりますので、八木・宇田式ビームとは着想が異なるものと考えられます。

【参考】 英国出願:1926.11.1、英国特許登録:1927.6.30(No. GB263753A)、譲渡先のRCA社より米国出願:1926.9.3、米国特許登録:1932.5.24(US1860123A)

またこの1926年(大正15年)1月26日からの試験では超短波5m(60MHz)も試され、発射電力を増してみたものの、遂に佐世保海軍無線電信所とは通信できませんでした。岩槻J1AAや平磯JHBBでの波長5m試験の失敗同様に、「波長が短い程、遠距離に届くわけではないことが海軍省にも認識されました。

遠距離通信可能な短波の上限周波数はいずこに在りや?多くの電波関係者共通のこの疑問に対し、残念ながらアマチュアは無力でした。20m bandの次は5m bandだったからです。

【参考】 10m(28MHz)Amateur Bandは1929年(昭和4年)、11m(27MHz)Amateur Bandは1946年(昭和21年)、15m(21MHz)Amateur Bandは1949年(昭和24年)になってアマチュアに開放されました。

7) J8AA(朝鮮総督府逓信局)の短波無線電話実験がはじまる (1月31日)

我国における短波長の無線電話実験は逓信官吏練習所無線実験室にあった逓信省工務局の実験局J1PPが先行し、1925年(大正14年)12月にはアメリカの9DNGとの交信に成功しました。そのあとを電気試験所JHBBが追っていましたが、1925年(大正15年)に入ると、東京放送局JOAKの短波実験局と朝鮮総督府逓信局の工務課無線実験室J8AAが、短波の無線電話実験を始めました。場所は京城で現在のソウルです。

1925年(大正15年)1月31日、岩槻J1AAにて朝鮮逓信局J8AAの無線電話15Wの受信にはじめて成功しました。その後130Wの無線電話送信機を試作し、2月10日夜にその試験に成功しました。

本年一月三十一日には昼間四五米で岩槻と連絡をとりたる上、夕刻より電力わずか一五ワット(ラヂオトロン二〇一A使用)波長四〇米で電話を送話せしに、言葉は不明瞭であるが音楽(蓄音機レコード)は明瞭との事であった。このとき落石にも微弱ながら感あった由である。

その後二月十日は昼間短波電信にて打合せの上、夜間電力一三〇ワット波長四二米空中線電流九〇〇ミリアムペアで電話を送りたるに岩槻にては状態良き時は高声器を鳴らす事が出来たが、同地方風強く状態変化多き由であった。 (梅田吉郎, "朝鮮の短波長", 『ラヂオの日本』, 1926.8, 日本ラヂオ協会, pp45-46)

8) JHBB(電気試験所平磯出張所)の短波実験 (2月17-25日)

電気試験所の平磯出張所は1915年(大正4年)1月に無線電話の学術研究や応用研究を目的として茨城県那賀郡平磯に作られました。海上を伝播して到達する電波の伝播状況を研究するためこの地が選ばれました。終戦直後にはJ9ZB(1947年2月からはJX9Bに変更)を運用しました。

さて逓信省における短波研究は工務局が先行し成果を挙げていましたが、電気試験所第四部JHAB(部長:横山英太郎技師)と平磯出張所JHBB(所長心得:高岸栄次郎技手)は大々的な短波試験を計画しました(平磯JHBBが送信を担当)。

これに協力した無線施設は東京大崎の電気試験所第四部JHABはもちろんのこと、札幌逓信局所属の落石無線JOC、東京逓信局所属の銚子無線JCS、大阪逓信局所属の大阪無線JES、逓信省からは岩槻受信所建設現場の工務局実験施設J1AA、朝鮮総督府逓信局無線実験室J8AA(京城)、そして詳細は分かりませんが、東京小石川、名古屋、北京の9か所でした。電気試験所の年次報告書(下図)によれば、関東州の大連無線も一部協力したようです。

ところで『無線と実験』(1926.4)には、"JHBB平磯 短波長受信報告 、"短電波長受信機及聴取成績" (名古屋放送局 中村安吉) が掲載されています。では加藤氏や中村氏はなぜ平磯が試験電波を発射するのを事前に知ることができたのでしょうか?

実は電気試験所は『ラヂオ新聞』(2月6日)で送信スケジュールを一般公表し、ラヂオファンの協力を求めていたのです。

逓信省電気試験所平磯出張所では来る十七日より廿四日まで一週間 左記波長および電力で短波長の送信試験を行うことになった。・・・(略)・・・右について電気試験所第四部長横山栄太郎氏は語る。「今度の目的は短波長の波長と距離の受信関係について調査してみたいと考えて行うことになった。これが受信成績は芝公園の逓信省官吏練習所をはじめ岩槻局および各海岸局に依頼して調査することになったが、試験の成績いかんによっては無線電信ばかりではなく無線放送も試みるはずであるから短波長受信機を使用されているファンがあったらその成績を知らせてもらいたい」と。 ("短波長の試験 短波長受信機使用のファンは成績を報告して貰いたいと", 『ラヂオ新聞』, 1926.2.8)

これは一般大衆(含:短波ファン)に向けて新聞紙上で事前告知した短波長の公開試験になりました。ラヂオ新聞に掲載されたJHBBの送信スケジュールが下表で、ラヂオファンには短波受信機のダイアルを校正する絶好のチャンスとして注目されたようです。これまで短波長実験に関しては岩槻(J1AA)や官練無線実験室(J1PP)および東京放送局JOAKの短波実験施設が一般国民に知られていましたが、ここで平磯JHBBの短波も全国に認知されるに至ったわけです。

しかし実際には21日(日曜)午前の実験は行われず、22日(月曜)以降は以下のとおりでした(24日午後と25日午前は80m)。

なお発振管入力電力の実測値は1370W(80m), 1210W(60m), 940W(40m), 620W(30m), 590W(25m), 550W(20m)でした。

横山第四部長が実験結果を『ラヂオの日本』に発表されています。結論部分だけを引用しておきます。

(一) 一般に長い短電波は夜間通信に適し、短い短電波はこれに反している。

(二) 短い短電波は昼間通信に適し、長い短電波はこれに反している。

(三) 昼間通信に対しては好適な波長範囲(約30mないし40m)があるが、夜間通信に対しては長い波長ほど成績が良好である。 (横山栄太郎, "電気試験所短電波通信試験成績", 『ラヂオの日本』, 1926.6, 日本ラヂオ協会, p66)

余談ですが大正15年2月の時点において、逓信省(電務局)としてまだ誰にも短波受信の許可証を与えていないのに、その一方で高岸所長が新聞紙上で堂々と「短波ファンより受信報告を欲しいと」呼び掛けたわけです。変な話ですね。

でも似たような事件が1年前にもありました。逓信省(工務局)の穴沢技手が岩槻受信所建設現場で組立てた短波長受信機の製作記事を書きました(無線と実験誌, 大正14年4月号)。記事には『素人無線家の実験の参考に資する事とす。(穴沢忠平, "米国の素人局が日本に聞こえる", 『無線と実験』, pp767-768, 1925.4)とあります。これを見た電務局から工務局へ抗議があったのでしょうか。同誌6月号で穴沢技手が再び筆をとられ『米国の素人局が日本に聞こえるという題で四月号に短波長受信機の試作を紹介したところ、右受信機各部の詳細について種々の質問があり、かつまた案外わが国においても外国を傍受してみようという熱心家が多いようであるから、再び短波長の受信について注意すべき点を記述して参考に資する事とする。 まず外国の素人局を傍受する目的で受信機を装置するには政府の許可を得なければならない。これはいうまでもない事であるが、許可を要するや否やというような質問をよこされる方があるところを見ると、この点をまずご注意しておく必要があると思う。 (穴沢忠平, "短波長受信に就いて", 『無線と実験』1925年6月号, p202) 短波を聞くには許可がいると4月号には一言もありませんでしたが、「そんな事は言うまでもないことだから、書かなかったが、どうやら知らない人が大勢いるようなので、みなさんも注意してね。」という意味でしょうか?

これらの記事についてはJ1PP J8AAのページをご覧下さい。とにかく短波長という新たな世界の出現で、逓信省の解釈が、(いや無線局の許認可権を有する海軍省・陸軍省も含めて)意思統一できていない状態でした。

9) 朝鮮逓信局の中波JODK, 短波J8AA の試験 (2月18日)

東京放送局JOAKの開局に先立ち逓信省工務局が官錬から中波ラジオの実験放送をしたように、京城放送局JODKの開局に先立ち朝鮮総督府逓信局工務課が中波ラジオの実験放送を行いました。これは週4回(日,火,木,金)18:00-20;30頃まで波長400m(周波数750kHz),入力250Wで放送しました(京城放送局JODK開局に先立ち朝鮮逓信局がJODKの呼出符号を使ったようです。J1PP J8AAのページ参照)。

1926年(大正15年)2月18日、この中波ラジオと同時に、波長42m(周波数7.14MHz),入力50WのJ8AAでもサイマル送信し、ちょうど電気試験所平磯JHBBの試験に協力中だった岩槻J1AAおよび落石JOCに受信してもらいました。

次いで十八日にはマイクロフォンを当局ラヂオ放送用の演奏室に置き放送と同時に二重放送を試みた。岩槻ではアナウンサーの声等はすこぶるよくわかるが講演は低声感度変化あり、言葉は濁るが音楽は明瞭との事で大体において弱電力をもって放送した短波電話としては成績良好と考える。但し当時使用のマイクロフォンはソリッドバックの長い間使用したものであったから、そのため明瞭度を損じた事と思う。このとき落石では受話器並列抵抗二〇オームにて前回より成績良好との事であった。 (梅田吉郎, "朝鮮の短波長", 『ラヂオの日本』, 1926.8, 日本ラヂオ協会, p46)

10) 春洋丸JSHの太平洋移動実験が開始 (2月21日)

いろいろ寄り道しましたが、話題を再び大正15年春に戻します。わが国は第一次世界大戦の賠償の一部としてテレフンケン社製の真空管式中波送信機(入力約3kW)をドイツから手に入れました。工務局電信課無線係の中上係長は1926年(大正15年)2月に東洋汽船(横浜-サンフランシスコ航路)の客船「春洋丸」にこの送信機を据付工事したあと、1925年(大正14年)秋より岩槻の建設現場から本省勤務へ戻っていた、元J1AAオペレーター河原技手を乗り込ませました。

火花式送信機しか扱ったことのない通信士にまかせきりでは危ない、技手を一航海だけ乗船させようということになり、私は春洋丸無線電信局臨時在勤を命じられた。(河原猛夫, "こちらJ1AA-アマチュア無線局開設当初の想い出-", 『放送技術』1974年12月号, p125, NHK出版)

河原氏は以上のように述べられていますが、実際には逓信省あげての一大伝播試験であり、アメリカのRCA社にも協力を要請し、110, 40, 30, 20mの4つの波長で、その伝播特性を明らかにしようとする試みでした。

逓信省工務局は春洋丸に短波の500Wの自励式送信機と3球オートダイン受信機を仮設し、海上を移動しながら岩槻受信所J1AA、官練実験室J1PP、落石無線局JOCらと定時試験を行う計画を立てました(受信のみですが逓信省電気試験所の平磯出張所JHBBもこの実験に参加しています)。

汎太平洋学術会議には電波関係について電波研究委員会が参加していた。大正十五年秋東京に開催された第三回太平洋学術会議の電波分科会において中上さんは論文「空電妨害の方向」および「太平洋上短波通信実験」を提出してその講演を行い、また昭和四年バンドンで開催された同会議の無線通信部会には論文「東京―桑港間直接無線通信に就いて」を発表し、わが国の無線通信の調査の一端を紹介した。 (穴沢忠平, 『中沢さんと無線』, 1962, 故中上豊吉氏記念事業委員会, p162, 電波通信協会)

参考までにこの論文から周波数や送信スケジュール等を以下に抜き出しておきます。

往路(横浜発:2月21日→[ハワイ経由]→サンフランシスコ着:3月8日)

帰路(サンフランシスコ発:3月17日→[ハワイ経由]→横浜着:4月2日)

(Toyokichi NAKAGAMI, "Communication Test on Short Wave across the Pacific", 3rd Pan-Pacific Science Congress, Oct.30 - Nov.11, 1926)

逓信省が意図していた実験目的については、河原氏の記事を引用します。

当時短波はすべて自励発振式で機械的ショックを与えたり、オペレーターの身体の容量的変化のため、信号音がフラフラと動揺して可聴範囲を外れてしまう。また受信機には高周波増幅部を使用しなかったので、受信アンテナやその周囲の金属体が動揺すると大きいクリック妨害が混入して困ったものである。そのような欠点のあるものがたえず動揺しながら移動している船舶局で実用になるかどうかを確認するのが目的であった。

ところが実験の結果は実に良好で、送信電力一キロワットの中波送信に比し、五〇〇ワット足らずの短波が以外によく遠くまで通達し、波長四〇メートルを使用すれば夜間は横浜・サンフランシスコ間の全航程において確実に直接通信が可能であることが判った。

たまたま欧米出張の公務を帯びてこの春洋丸に乗り合わせた関東庁の日下部工務課長は、短波を用いればホノルル沖でも、サンフランシスコ近海においても自由に日本と直接通信できる事実を確認して航海中数回にわたり船内から電報を発して関東庁逓信局長に報告したが、河原技手も毎日の実験結果を落石無線経由で中上さんに報告して同氏の指令を受けて試験を進めたが、帰航の際にはサンフランシスコのRCA社海岸局ボリナスとも短波による通信実験を行い、銚子沖に帰りつくまで毎晩サンフランシスコとも交信しうる事実をつかんだ。 (河原猛夫, 『中上さんと無線』, 故中上豊吉氏記念事業委員会, 1962, 電気通信協会)

この実験中、J1PP・J1AAの電波は世界中で傍受され受信報告が両局にとどきました。

11) 落石無線局JOCが神戸のアマチュア3AAと交信 (大正15年2月某日)

1925年(大正14年)秋、神戸の笠原功一氏(自称コールサインJAZZ)は大阪の梶井謙一氏(自称JFMT)との波長300mの電信でスケジュール交信に成功しました。新聞・雑誌で報じられる岩槻J1AAや官練実験室J1PPの短波実験に刺激され、日本の中波アマチュア達が短波に目を向け始めたのが大正14年後半から15年に掛けてだったといわれています。笠原氏は短波送受信機が完成した1926年(大正15年)早春に偶然にも落石無線局(JOC)と交信されました。

さて、大正15年2月のある夜、笠原さんはJOC落石無線局が、40メートル近くで、自分と草間さんの局を呼んでいるのを聞いた。前から時々呼んでいるのを聞いていたが、こちらは応答してもとても届くまいと思っていた。その夜は思い切って電波を出してみた。すると、驚いたことには「J3AAの電波はよく入感しておる」と打ち返してきた。それまで、顔見知りの関西の仲間だけと、しかも十分打合せたうえで交信していただけだったのに、これは未知の人と打合せなしに空中で会えたのだ。笠原さんは感激に身体が熱くなるのを感じた。

送信機の前を離れてガラリと窓をあけてみた。空は一面星、冷え切った空気が上気した頬をなぜた。「2月何日だったか記録がないのです。でも、星がとてもきれいでした。それが印象にのこっています」と笠原さんはいう。 (小林幸雄, ”日本アマチュア無線史[2]", 『電波時報』, 1959.12, 郵政省電波監理局, p24)

上記は連載第2回目のものですが、再び笠原氏へ取材し、連載第7回目でさらに詳細が伝えられました。

この送受信機をこしらえて私は勇敢にも on-the-air したのである。呼出符号は J-3AA ときめ、これを使った。物をしらないから非常に勇ましく向う見ずであって、最初からきこえる局を片っぱしから呼んで見た。しかし一向に返事をしてくれない。大いにユーウツになって受信機のダイアルをかなり長いところまで回していったらおどろいたことにJ-3AAを長々と呼んでいる局があるではないか!

この時私は全身がふるえて止まらなかったのだ。それはJ-OC落石局だったのだ。こっちもおどろいたが向うも相当おどろいたらしい。このQSOでいったい何をきいたか言ったか一切不明である。先方は私の知らないカナ文字でジャンジャン送るし、こちらは怪しげな手つきをふるわしつつ、うろ覚えのQ符号を型?のごとく使ったのだから。しかし、先方が当方を神戸と知ったことはたしかで、あとの方は英文で送ってきたと覚えている。(小林幸雄, "日本アマチュア無線史[7]", 『電波時報』, 1960.8, 郵政省電波監理局, pp35-36)

12) 落石無線JOCの短波アンカバー説について

落石JOCと笠原氏(3AA)の交信はアマチュア無線連盟50年史アマチュア無線のあゆみにも記録されました。

さてこのような官側(J1AA/J1PP)の活動に刺激されて民間の短波ハムもいっせいに活動を開始した。まず大正14年秋ごろ、梶井謙一氏・・・(略)・・・と笠原功一氏・・・(略)・・・が両局間約20kmの距離を波長300mで電信のQSOに成功したのを始めとし、翌大正15年(1926年)春には両氏ともプロ無線局の北海道・落石局(JOC)と短波で交信した。26)

脚注26) 当時の落石局のオペレータ川崎薫氏の談によれば、このJOCも短波に関する限りはアンカバーだった由である。開発されたばかりの短波通信にプロ技術者がいっせいに興味を示したのは当然の成り行きといえよう。 (日本アマチュア無線連盟編, 『アマチュア無線のあゆみ:日本アマチュア無線連盟50年史』, 1976, CQ出版, p41)

私にはどうにもこの<脚注26>の記述が腑に落ちません。大正14年の春には落石無線JOCは岩槻J1AAの受信対手局として協力を始めました。夏ごろには短波送信機を据付けて、9月15日から春洋丸(サンフランシスコ航路)に短波受信機を施設し乗船した工務局の伊藤豊氏が落石無線JOCの短波送信を受信する試験を行いました。つまり逓信省管下では岩槻工事現場J1AA、官練実験室J1PPに次ぐ日本で3番目の短波送信を行った無線局です。さらにJOCは大正14年11月より、朝鮮総督府逓信局の短波実験局J8AAとの交信試験を行うなど、J1AA/J1PP/J8AA各局と一緒になって逓信省の短波開拓を担っていたからです。断じてアンカバー運用ではありません。

ですが戦前からアマチュアの間には落石無線JOCの短波アンカバー説があったようです。終戦直後に編まれた日本無線史 第6巻 第四章「無線関係団体」では戦前のそれぞれ関係していた電波団体関係者らに原稿が依頼されました。「日本アマチュア無線連盟」のページに以下の記載があります(無記名なので筆者不明ですが、私は笠原氏が依頼を受けて執筆れたと想像しています)。

大正十五年(一九二六年)は我国のアマチュア無線が国際的に発展した記念すべき年であった。前年の暮れに神戸の笠原は上海在港中の米陸軍輸送艦エドソル号と交信したが、更に北海道落石局(同局有志の実験セットが非公式に用いられていた)と交信し、小電力 小空中線(送信管二〇一A一個 八米傾斜単線空中線 フォード火花コイルによる陽極電源)による遠距離通信に自信を得、大正十五年一月十八日マニラのアマチュア局1AUと最初のアマチュア国際交信を行った。 (電波監理委員会編, 『日本無線史』第6巻, 1951, 電波監理委員会, p216)

笠原氏が落石無線JOCと交信した1926年(大正15年)のはじめといえば、春洋丸JSHに工務局の河原氏が乗船し、岩槻建設現場J1AAや官練実験室J1PPと相互通信する太平洋移動通信試験を準備していた頃です。

逓信省工務局は米国RCA社にボリナス局(6XI)にもこの試験に参加して欲しい旨、要請し協力を得ました。さらに落石無線JOCにも協力を要請し、落石無線JOCは多忙な現業をやりくりして、春洋丸の往路・帰路で定時短波交信を行いました。春洋丸など北太平洋航路の日本船舶は、日本を出て日付変更線あたりまで長波で落石無線JOCと交信するため、長波と短波の比較の点からも、落石が最適でした。春洋丸が横浜を出航したのが2月21日ですので、それに向けて落石JOCが短波装置の調整テストをしていた時に、偶然笠原氏との交信に至ったと想像します。

落石無線は1908年(明治41年)12月26日に日本で五番目の無線電信局(海岸局)として営業開始した老舗であり、我国で最初に海外(ロシア)公衆電報の取扱いを始めた事でも有名です。当初は呼出符号JOI(Japan OtchIshi)でしたがI(符号・・)が、大瀬崎無線JOS(Japan OSezaki)のS(符号・・・)と、モールス符号の短点でひとつしか違わなく紛らわしいとの理由から、1913年(大正2年)1月1日付で呼出符号JOC(Japan OtChishi)に変わりました。

太平洋航路の船舶や、ロシアとの無線電報ビジネスを生業とする現業局の落石無線JOCが、正式業務で短波実験を行うはずがないと考えるのは当然だし、現業の職員が無線機を製作するのはおかしいと考えるのもまたしかりです。

しかし岩槻J1AAも官練J1PPも未知の短波については、職員が工夫研究して無線機を試作するしかない、そういう時代でした。また岩槻受信所の建設という本業と並行して行われたJ1AAの短波実験も、アンカバーではなく稲田局長や中上係長の命を受けた本業のひとつでした。従って落石無線の送信機を落石の有志職員が作ろうが、公衆電報取扱を生業とする落石無線が短波試験をしようと、稲田局長の要請で、札幌逓信局管下の落石無線電信局が協力したのですから、これも本業ではないでしょうか。

1926年(大正15年)2月に始まった春洋丸の洋上試験の結果は、中上係長と春洋丸JSHに乗込んだ河原氏の連名で電気学会にて発表されました。落石無線JOCの送信機(43m機と115m機)や受信機の回路図も掲載されています。論文冒頭の緒言を引用します。

短波長通信は最近急速の進歩発展をなして最早無線界に動かすことの出来ない地歩を占めるようになったが、100米以下の短波長電波は長波長とは全く異なった伝播特性を有するので、これに従来の電波伝播に対する公式を適用するとも、なんらの意味をなさなくなった。従って昨今は右に対する種々の新しい論説が発表されているけれど、それらは未だいずれも不確実で充分信用するに足らないから、現在のところでは単に実験の結果によってその大体を想知し得る程度に過ぎない。しかるにこれらの実験結果は送受信両所の関係位置によって異なった成績を示し、欧米において得られた結果とも難もただちに採って我が国において適用し得るとは限らない。よって我々は稲田工務局長指導のもとに短波長通信研究資料を得んがため、太平洋上における 100, 40, 30 及び 20米帯の通信を行った。(中上豊吉/河原猛夫, "太平洋横断短波長通信試験", 『電気学会雑誌』, 1926.11, 電気学会, p1252)

この論文は英訳("Communication Test on Short Wave across the Pacific")され、日本で開催された第3回汎太平洋会議(Third Pan-Pacific Science Congress, Tokyo, Oct.30th - Nov.11th, 1926)でも中上係長が発表(11月10日)しました。米国RCA社も巻き込み、これほど大掛かりに実施された公式試験なのに、落石無線JOCの短波通信が個人活動とする説に私は首を傾けざるを得ません。

【参考】落石JOCの短波装置は前掲の電気学会への論文「太平洋横断短波長通信試験」で明らかにされています。送信機はマルコーニ社の真空管MT1を1個を使った波長43mに調整されたもので、アンテナは30m長ロングワイヤー。受信機は再生検波1段+低周波増幅1段の0-V-1でした。春洋丸JSHの帰路ではこれを波長115mに変更して実験しようとしましたが故障したため、UV201Aパラレルの115m仮装置を準備・調整しました。なんとか春洋丸JSHがホノルル出港当夜から通信を再開することができました。なお論文最後の謝辞では直接的に落石局職員の名前は挙げてはいませんが、『 終わりにのぞみ本試験に対して、常に指導の任に当てられた稲田局長、高田課長、並びに多大の努力を払われた関係各局の方々および種々の便宜を与えられた春洋丸乗組みの方々に対して深く感謝の意を表するものである。』と結んでいます。

13) アマチュア研究家の短波受信の灯台役となった逓信省の洋上実験

アメリカの40m帯の局は42mからあるのだが、42m附近は少ないのか聞こえないのか兎に角甚だ少ない。40mという波長は数がキッチリしているせいか、或時私は3つの局が同時に丁度40mで混信し合っているのを聞いたことがある。此内の一つは我国最古の短波送信所J1AA岩槻局であった。同局は目下も春洋丸相手の定期試験送信に、又或時はアマチュアのお仲間入りをして、遠く日本の名をとどろかせている。波長は40m丁度であるが私共の所では近いせいか可成ブロードにきこえる。この辺の波長から次第に下げていくとハワイの局が先強く耳に入るだろう。次で北米合衆国のシグナルが聞こえる。私共が夕方から夜にかけて聞き得るものには、南米諸国、オーストラリア、ニュージランド及近くはフィリッピン、印度支那等々中々沢山ある。ダイアルをだんだん廻して33mくらいに来ると急に信号の数が減ってくる。即我々は今40mバンドを一順探したわけである。 (笠原功一, "短波長無線の話", 『無線之研究』, 1926年6月号)

1926年(大正15年)初頭はアマチュア研究家達が短波に興味を持ち、受信機を組み立て始めた頃です。逓信省による太平洋上通信実験で1ヶ月以上も間、定時に決まった波長で電波を発射してくれていたことが、日本のアマチュア達の受信ダイアルの校正に大いに役立ったようです。

超矩波長、即ち百メートル以下の送受信の研究が盛んになって来た。逓信官吏練習所のJIPP 送信装置の如きは僅かの入力を以て、己に南米ブラジルや北米カンサス等で受信されて、世界的小電力送信の記録を作って居る。・・・(略)・・・そろそろ科学画報研究室も、来るべき時代の為に研究の歩を進めなくてはならない。御熱心な読者の与論によって遠からず本誌独特の超短波送信を行ひうる時もあらう。とに角無線法にふれない程度に、まづ受信回路の研究から着手しやうではないか。・・・(略)・・・本誌研究室の実験は三月十九日以来この受信機で行ひ、主として逓信官吏練習所のJIPP 局と春洋丸との試験通信を聴取して居る。(科学画報ラヂオ研究室, "超短波長受信機の作り方", 『科学画報』1926年5月号)

最後に一言注意しますが、セットが出来てもとんでもない波長帯を聞いては何も聞こえません。現在一番良く聞こえるのは所謂40mバンドです。波長計の無い方にとって此のバンドを探しあてる良い目安としては、必ずやってるとは限りませんが、今の所岩槻のJ1AAが丁度40mです。そして米国のポリナスの6XIが丁度このバンドの最下の30m附近にやっています。この局は非常に強勢で勿論弱くキャパシティカップルが有るでしょうが、夕方等アンテナも何もなしただコイルのみでレシーバーから数尺離れても聞こえる事さえ有り、殆ど毎日やっていますから丁度良い目当になります。それから上の方では42.3mの所ではハワイのカフクのKIOが常にやって居ます。これはそう大きくありませんがやはり良い目当てになります。受信機のダイアルの目盛りがこの両局の間にあれば先ずたしかです。欧州のアマチュア局の波長は43m以上ですが一寸聴こえません。 (ツエー・モル生, "短波長に就きてのことども", 『無線之研究』, 1926年6月号)

14) J8AA(朝鮮逓信局)が波長30-50mの無線電話伝搬試験 (3-4月)

3月13日、京城(ソウル)のJ8AAは無線電話の波長を30m, 36m, 50mと変えながら岩槻J1AAで受信してもらった結果が下表です。なお試験は蓄音器レコード演奏と原稿朗読によりました。

3月15日にはJ8AAの無線電話を平壌(ピョンヤン)で受信してもらいましたが使用波長は36mのみでした。

当地より約二百哩の平壌において二球受信機で可聴度二二ないし四六で、この時当局ラジオ放送(中波の試験放送)を、スーパーヘテロダインにて聞くより明瞭可聴度は著敷差異なかったのである。(梅田吉朗, "朝鮮の短波長", 『ラヂオの日本』, 1926.8, 日本ラヂオ協会, p46)

J1PPが行ったJOAK再送信の朝鮮京城での受信状況や、J8AAが行った(JODKの前身の)中波実験放送を短波で再送信したときの朝鮮木浦(モッポ)での受信状況を佐々木仁技師(朝鮮逓信局)がレポートされた記事を引用します。

無線中継で実現の可能性を充分に信ずるのは、短波長放送機による方法である。過般来、東京放送局スタヂオから三七五米突(800kHz)ウエーヴと共に逓信官吏練習所内の短波長機を経て放送された四〇米突内外(約7.5MHz)の短波長ウエーヴは、しばしばフリークはあったが、京城および木浦で明瞭に聴取することができ、しかも普通の(中波)ラヂオ受信機で受けたものよりも明瞭な場合が多かったのである。これより先、当地でも入力わずかに廿五ワット四〇米突短波長機をもって、空中線電力百五十ワットの四〇〇米突(750kHz)放送と共に同一曲目を放送し、三百哩(マイル)余を隔てる木浦で受信の結果は、四〇〇米突(750kHz)の方が不感であったのに対し短波長の方は、明瞭にピックアップされたという面白い成績を得た。なおこの時の電波は岩槻に明感し、微弱ながら落石にも達した由である。その後、百五十ワットの短波長機を組立て実験中であるが、場所により感度の激しい変化があるけれども、受話音の歪変少なき点は普通のラヂオ帯では見られない様な好成績を示している。(佐々木仁, "ラヂオを受けて", 『ラヂオの日本』, 1926.5, 日本ラヂオ協会, p49)

また4月28-30日には朝鮮逓信局J8AAの波長40m無線電話を、電気試験所の平磯出張所JHBBで受けてもらっています(高岸栄次郎/畠山幸吉, "短波長受信試験", 『電気試験所事務報告』大正15年度/昭和元年度, p120)

15) J8AAがJOAK(短波実験局)の受信試験

1926年(大正15年)3月27日にJOAKの短波無線電話を受信したというレポートがあるので引用します。

萌え出ようとする日本短波長界に思出とは少しおかしいが、このごろ全く短波長界から手を引かなければならなくなった僕としては少なくとも思出である。・・・(略)・・・電話はJOAK三十五米が最初であった。前々からちょいちょい電話ははいったが三月廿七日にAKの呼出を聞いた。100キロの地でアンテナアースなしでR5だから驚く。

只今の波長は三五米。第一受信所朝鮮京城いかがですか、こちらは東京放送局実験装置です。

桃太郎あり、さすらいの歌あり、清元神田祭あり。レコードの針の音から余程いたんだレコード位の判断がつく ― 「本日は晴天なり」の時代を思い出す。まだ送信がうまく出来ないとみえ、日によって非常に明瞭な事があるかと思うと、東京放送局というのが東京逓信局とも京城逓信局ともきこえる日もあった。 (クルツ生, "短波長受信の思出", 『無線之研究』, 1926.9, 無線之研究社, pp37-38)

当時、京城の朝鮮総督府逓信局無線実験室が中波でラジオの定期実験放送を行うかたわら、短波長(呼出符号:J8AA)でも無線電話の実験をしていたことから、JOAKが短波の受信試験を依頼していたようです。

16) 1926年(大正15年)4月1日 ・・・「東京無線電信局岩槻受信所」が開所

4月1日、逓信省工務局から東京逓信局へ施設が引き渡され、正式名称を「東京無線電信局検見川送信所」、「東京無線電信局岩槻受信所」(下図)として開所しました。

4月7日の官報(逓信省告示第743号)でこれらを設置したことを告示し、3ヶ月間の訓練稼動期間をおき、晴れて1926年(大正15年)7月1日より営業を開始しました(逓信省告示第1338号, 大正15年6月30日)

施設を引渡したため逓信省工務局の仮設実験施設としてのJ1AAの運用は3月31日をもって終了しました。岩槻受信所では対植民地用受信所としての訓練が始まったため、逓信省時代のように短波実験をやっている状況ではありませんが、しばらくは岩槻受信所(東京逓信局機械部)所属の今川・高戸の両技手によりJ1AAの電波は出ていたようです。このJ1AAは組織的に言えば逓信省ではなく、東京逓信局の無線局ということになります。

1926年(大正15年)7月1日より、岩槻受信所は逓信ビジネスを受持つ現業局となりました。そのためこれまで逓信省工務局がドイツの郵政省からの要請で行なっていた、ナウエン局の短波受信試験などは、電気試験所平磯出張所(JHBB)の高岸氏らのグループを中心に行なわれるようになりました。

17) 1926年(大正15年)4月20日、業務別周波数割当表が完成、三省合意

1926年(大正15年)4月20日、我国の電波行政の最高決定機関である陸軍海軍逓信三省会議において60MHzまでの短波帯を含む「業務別周波数割当表」がついに合意をみました。

そしてこの表に実験バンドとして85m(赤3.5-4.0MHz)、42m(赤7-8MHz)、5.5m(赤55-60MHz)の三バンド、そして短波放送バンドとして75m(緑4-4.5MHz)と27m(緑11-12MHz)が織り込まれたのです(後述しますが中波放送バンドは400-300m)。

短波帯の実験用周波数については前年7月に逓信省と海軍省がそれぞれ意見交換をしており、20MHz付近や10MHz付近の分配も検討されていたののですが、最終的に3バンドで合意したものです。

下図がその省合意された「業務別周波数割当表」で、我国で一番最初に制定された分配表になります。右側の特別業務の中に 「x eXperimental(実験)、「b Broadcast(放送)が書き込まれています。

この様式は我国が勝手に考案したものではなく、ワシントン予備会議(1920年12月)で作成された国際電気通信連合条約案(Draft of Convention of the Universal Electrical Communications Union)の波長200m以上(中/長波)における業務別周波数分配表(Tableau de distribution des frequences et des longueurs d'ondes aux different service)下図に準拠した、いわゆる国際規格に沿ったものです。

なおパリ会議では波長200m以下の短波は条件付で各国の自由(J1AAのページ参照)としましたが、1927年に開催が予定されているワシントン会議では波長200m以下の短波も国際分配することになっており、我国の業務別周波数分配表はそれに向けて長・中波用と短波用の2枚構成で作られました。上に掲載したのは波長200m以下の短波の分配表の方です。

【参考】上記の黒い写真の右肩に「巴里(パリ)決定」との凡例がありますが、パリ会議では200m以下は各国の自由と決議したので、上記短波の分配表の方には「巴里(パリ)決定)」部分はありません。ちなみにもう一枚の長・中波用の割当表によると400m-200mがラジオ放送用(但し軍事業務・移動業務と共用)です。

1920年(大正9年)のワシントン予備会議で作られた下図の業務別周波数分配表(200mより長い波長)は、翌1921年6月に開かれたパリ準備技術委員会で承認されました。

左から大きく移動業務、固定業務、軍用業務、特別業務の4つの業務に分けられています。この四大分類は1919年の米仏英伊 国際無線電信議定書("EU-F-GB-I Radio Protocol" of August 25, 1919)付属議定書("Annexes to Protocol" of April 15, 1919)にある周波数分配表(Table1. Allocation of Waves)で採用された「分類区分」で、当時の特別業務とはビーコン局やタイムシグナル局を指していました。

そして4大分類の中をAとBに、さらにAは1・2・3に分けています。これは電波型式で、Aは持続電波、Bは火花電波です。各業務の左からAの1(電信)、Aの2(可聴変調電信)、Aの3(電話)、B(火花電波)になります。この時代では業務別かつ電波型式にて周波数の分配を考えていました。

わが国初の業務別周波数割当表は国際的な様式に準拠し、1925年(大正14年)4月20日に承認されましたが、その運用開始時期はまだ決めていませんでした。しかし無線局の許認可権を有する三省で、短波帯に85mバンド(周波数3.5-4.0MHz)、42mバンド(周波数7-8MHz)、5.5mバンド(周波数55-60MHz)の実験用周波数帯を設けることに合意した意義は大きいでしょう。アマチュア無線愛好家にとっても記念すべき表ではないでしょうか(実際にはこの実験バンドの中から個別の周波数が許可されることになります)。

【参考】 アマチュア局は来年開催されるワシントン会議にて世界承認するべきかを討議することになっていたため、アマチュア局に対する日本案をまとめる必要がありました。

18) 来年(1927年)秋のワシントン会議に向けた、陸・海・逓 三省会議

いよいよワシントン会議が迫ってきました。これに向けた専門会議「華府無線会議議題ニ関スル陸海逓三省打合会議」が1926年(大正15年)4月16日(第一回)から5月3日(第六回)まで開催され日本政府案をとりまとめていました。わが国の国際呼出符字を「JAA-JMZ」に減じるというワシントン予備会議(1920年)での合意をひるがえし、これまでどおり「J」系列全てを要求することを決めたのもこの会議です。

短波を使うアマチュア無線に関しては5月3日の第六回打合せ会議の第四議題「実験及素人用無線許可方針」で取り上げられ、次のように決まりました。

赤線で囲った部分を以下に書き出します。

四、実験及素人無線許可方針

陸軍側ニ於テハ壮丁教育ノ関係上有利ナルノミナラス 科学ノ進歩の促進イル上ヨリ 使用波長ト電力トヲ制限シ且 通信ノ秘密ヲ厳守セシムル条件ニ於テ、一般ニ許可スヘシトノ意見ナリ

海軍逓信省ニ於テハ技術上取締困難ナルノミナラス 公衆通信ノ性質ヲ有スル通信ヲ之ニ依リ行フコトアリ 之等ニ対スル取締ニツキ相当研究ヲ要スルモノアルニツキ 会議迄ニ研究スルコトニ決定

陸軍省は原則賛成。海軍省は取締り方法の確立を。そして逓信省の意見としては電務局が「アマチュアが公衆電報を扱い逓信ビジネスを侵害する」可能性を危惧したようです。結局のところ議事録にあるとおり「ワシントン会議までに研究しよう」とし、この会議では結論が出せませんでした。

【注】中波のアマチュア局は当時すでに(電波三省の合意のもと)濱地氏、本堂氏、安藤氏に免許されていましたから、これは「アマチュア無線を許すか」ではなく、あくまでもアマチュアに「短波帯を許すか」の是非が討議されたものです。どうぞこの点は勘違いされませんように。

19) 短波アマチュアの許可に慎重にならざるを得なかった理由

海軍はもともと不法局の取締り方法が確立しない限りアマチュアへの短波許可には反対でした。逓信省工務局は海外のアマチュアの活躍を充分理解しておりその許可を積極的に推進してきましたが、ここにきて逓信省内部(工務局と電務局)で若干のズレが生まれ始めたようです。

逓信省は不法局の取締りは行っていません。しかし無線局免許の最終決済を行っている関係で、市民からの免許申請窓口であり、不法開設者の取締りもしていた地方逓信局を指導監督する立場にありました。

明治時代より無線に関する一切は(通信局)工務課が行ってきたため、大正14年に逓信省通信局が(無線局の立案・設計・施工を行う)工務局と(無線局の免許事務を扱う)電務局に分割されたあとも、「無線」に関しては工務局の影響力は絶大でしたが、不法局の取締りを海軍から強く求められた電務局としては、短波開放に慎重にならざるを得なかったようです。

また別の次元から、電務局がアマチュアへの短波開放に慎重になったのは、公衆電報は有線・無線を問わず逓信省の専業ビジネスだからです。アマチュアが勝手に電報送受を扱って自分たちのビジネスを侵害しないかと恐れました。たとえそれが善意のボランティアであっても、逓信ビジネスの現場からいえば、無料中継行為は「価格破壊」「営業妨害」のとんでもない悪行にほかなりません。アメリカのアマチュア団体の名称がARRL「米国無線中継リーグ」というのもの不審を増大させたようです。

20) JOAK東京放送局実験装置の定期短波試験

このころになるとJOAKの短波試験も定常的なスケジュールにより運用されるようになりました。

おなじみのJOAKでも、いよいよ短波長の試験放送を開始した。今のところ、別に呼出符号はなく「こちらは東京放送の研究室であります」と呼んでいる。受信所は東京市外洗足池畔にあって、毎日午後四時ないし5時と、本放送終了後に実験が行われる。先般などは京城局に向って送られたが、極めてよい成績をあげたという。送信電力は五百ワット、波長は三十二ないし三十五メートルである。目下の所、アマチュアとしては、逓信官吏練習所のJ1PPや、電気試験所平磯出張所JHBBの実験を受信するよりも、この実験放送を受ける方が、時間もほぼ一定しているから、一番適当と思われる。("短波長受信機の実験 科学画報研究室", 『科学画報』, 1926.5, p614)

日本は近く中央放送局主義が実現されるらしいが中央放送局を有効に活用せしめるには波長、電力、リレー等十分の考慮が必要と思う。日本はワイヤの中継をやるべきかあるか。日本の土地は、あまりにコンディションが悪い。地形が長く、火山脈がこれを縦走し、鉱山が多いから、表地帯と裏地とでさえ電波がうまく行かぬ。北村先生が深くこのことについて考慮せられており、何百万円という資本の掛かるワイヤ中継を採らず、無線による再放送を計画せられ、JOAKに六十米および三十米の短波発振装置を設備し、これを焼津において受信し、そこで再放送したのであったが、このJOAK三十五米の短波長は、遠くフィリピンまでも達したのであるが、かえって近い焼津においてはまだまだ試験の結果は完全ではないとか。しかし短波長による再放送は、将来必ず実現せられるべきもので、・・・(略)・・・』 (苫米地貢, "欧米ラヂオ界の近況及び短波長の現在及将来", 『無線と実験』, 1926.7, 無線実験社, pp268-269)

これは無線電話の実験局で中波のJOAKを短波で試験的にサイマル送信していましたが、その目的とするところは、スタジオ外中継への応用研究でした。実際に1928年(昭和3年)8月には甲子園球場から短波中継し、それを東京のJOAKが放送するのに成功しています。また1929年(昭和4年)8月にドイツの飛行船ツェッペリン伯号が霞ヶ浦に着陸する際には、JOAKの短波実験局と逓信官吏練習所J1PPの両局が、蘭領ジャワ島のバンドン局経由でドイツ本国へ中継を試みましたが、これは失敗に終わりました。

21) 帝国海軍の兵器としての短波長採用の最終試験

帝国海軍では1925年(大正14年)夏から7ヶ月間を掛けて、艦船をインド洋経由で欧州へ派遣し、短波長を兵器として採用できるかどうかの最終試験を行う事になりました。

官房機密第四三六号

大正十五年五月三日

海軍大臣

横鎮長官宛

練習艦隊司令官宛

短波長無線送受信装置実験ノ件

東京海軍無線電信所ヲシテ練習艦隊ト協同シ首題ノ件左記ニ依リ施行セシムへシ

右訓令ス

一、実験ノ目的

海軍技術研究所試製短波長送受信装置ノ軍用兵器トシテノ実用的価値並其ノ通信距離ヲ実験スルニアリ

ニ、研究項目

(イ)昼夜間ニ於ケル最大及確実通達距離

(ロ)同一艦船所ニ於ケル同時交信ノ能否及可能波長差 又ハ周波数差

(ハ)現用M式送信機送信中短波長送受信装置使用ノ能否及相互干渉ノ程度

(ニ)船体並空中線動揺ノ影響状況

(ホ)通信距離ト短波長受信電波「ホーラリゼーション」トノ関係

(ヘ)通信距離ト受信不感帯ト交信波長トノ関係

(ト)混信分離ノ難易

(チ)空電妨害ノ程度

(リ)取扱ノ難易

(ヌ)日出日没時ニ於ケル通信距離ノ変化

(ル)其ノ他必要ナル事項

三、実施要領

東京海軍無線電信所練習艦隊協議ノ上実用通信ヲ妨ケサル程度ニ於テ便宜実施法案定ムルモノトス

四、実施期間大正十五年六月練習艦隊遠洋航海ノ為横須賀軍港出港ノ日ヨリ本邦帰着ノ日迄

五、所要兵器並器具短波長送受信装置 二組

内訳 一組 軍艦磐手ノ撤去品

一組 目下海軍技術研究所ニ於テ製造中本年五月中旬完成予定ノモノ

前期兵器ハ横須賀海軍工廠ヲシテ練習艦隊遠洋航海ノ為横須賀出港前迄ニ軍艦八雲、出雲ニ装備セシムモノトス

右以外ノ兵器ニシテ実験ニ必要ナルモノハ横須賀海軍軍需部ヲシテバンギ在庫品ヲ供給セシメ

其ノ品名数量ヲ海軍省軍需局長ニ直接通報セシムヘシ

追テ本実験終了セハ実験ニ使用本実験終了セハ実験ニ使用セシ兵器器具ハ可成速ニ供給庁ニ夫々帰納ノコト

六、費目

軍事費 造船造幣及修理費 造兵材料物資費 造兵職工費 試験支弁トシ横須賀海軍工廠ヘ一〇〇〇円ヲ限リ配布ス

本試験終了後可成速ニ実験報告二通ヲ調製シ提出スヘシ

(終)

22) 逓信省の 『短波啓蒙キャンペーン』がさく裂! ラヂオの日本 大正15年5月号

逓信省工務局の稲田三之助局長が副会長を務める日本ラヂオ協会(産・学・官・軍の共同による電波技術の啓蒙団体)が発行する「ラヂオの日本」は大正15年5月号で短波長特集を組みました。少々長文ですが歴史上重要な意味を持ちますので巻頭の辞を引用します。ここには筆者名はありませんが、看板である「巻頭の辞」を無記名で書けるのは誰もが御存知の協会役職者だとすると、短波に強い思い入れを持っていた、協会副会長の稲田工務局長か、協会編集幹事で「ラヂオの日本」を編集していた逓信省荒川技師、または協会計画幹事の逓信省中上係長のいずれかだと想像します。

巻頭の辞 短波長研究の急務

無線電信電話が不可思議のものとされ、専門家のみがこれを実験研究する時代はすでに過ぎ去った。放送無線電話なるものが数年前米国において試みられ、たちまちにしてこれが民衆化され、やがて欧州、アジアという具合に全世界に普及し。今ではラヂオとはどういうものかという問いを出す人は殆んどなく、それのみか一般世人はこれまで神秘なもの、むつかしい学問として誰もこれを研究しようとするものが殆んど無かったのであるが、ラヂオの普及によっていわゆる素人無線家あるいはラヂオファンが多数世に現われ、まず受信装置の組立、製作を手始めに、専門無線家も及ばぬような研究を重ね、その結果、新発明も中々少なからず、無線電信電話の理論、技術両方面にわたって貢献していることは実に驚嘆に値する程である。かくのごとく素人無線家の研究はラヂオ受信機から初められたが、その知識欲は到底これで満足されるものではなく、次第に送信装置の方に入って来たのであるが、送信の実験は必然的に電波の発射を伴い、商業通信、軍事通信に混信妨害をおよぼすから、米国ではその実験波長および使用電力を制限し、二百メートル以下である範囲内のものを素人無線家のために許可したのであった。しかるに波長をずっと短くして八十メートル、四十メートルと下げて行くと数百ワットの小電力でもって、数千キロメートル、時に一万キロメートル以上の長距離通信が出来るという驚くべき結果に到達し、ここに短波長なるものが通信上いかに効果多いかということが発見されたのであった。それと同時に短波長の実験結果によって、これまでの電波伝播に関する学説は根本から覆され、現今ではこれに関する定説が無いというありさまである。単に伝播に関する理論実験に限らず、短波長発振法、短波長発射法、すなわち送信機と送信空中線はいかなるものが最もよいか、また受信方法は長波長受信といかなる点が違うかなど、あらゆる方面にわたって研究すべき事項が極めて多く、しかもその実験には比較的小電力規模で出来るのであるから誠に都合がよいのである。

短波長はかくのごとく全く新しい発見であり、その利用は極めて広く、長波長に比し数多の特徴を有し、かつ未知の事柄も中々多いことであるから、今や全世界は挙げて、この研究に没頭している。ことに米国においてはいやしくも無線に関係ある会社は互に相提携して研究を進め、その得たる結果は相互通知しあって、短波長の真髄を探究し、これが利用を促進しているのである。これと同時に素人無線家はいわゆるアメリカン、レヂオ、リレー、リーグ(American Radio Relay League or A.R.R.L.)を組織し、互に短波長をもって、連絡通信試験を試み、その機関紙QSTによって新発見、新発明などを発表しているのである。英、独、仏等の欧州諸国においても、短波長の実験研究を怠らず、今や短波長は漸次実用化され、無線界における一新方面を現出し、その前途は実に洋々たるものがある。

我国においても逓信省を初め陸海軍方面および大学方面において、短波長の研究に鋭意努力され、時々その結果が発表せられているが更にその研究を進められ、諸外国に劣らぬ好成績を得られんことを切に希望する次第である。これと同時にいわゆるアマチュアー諸君もこれら専門家に負けず劣らず短波長の実験を行い、邦家のために奮闘せられんことを切望してやまない。もっとも無線に関する研究は理論と実験を並行して行わなければならぬ、否、理論よりは実験を重しとする場合が多いのである。従って短波長の実験をなすためにその実験装置を必要とするのであるが、これを設備するには監督官庁たる逓信省の施設許可を必要とし、逓信大臣の指定せる電波長を使用し、規定の電力以内で実験を行わなねばならぬ。この規定の存するは極めて当然のことで、これら実験のために軍事通信、商業通信に混信妨害を与えるがごときは吾人の賛しあたわぬところであるも、単に素人無線の実験は混信等の害のみ多しというがごとき単純なる理由で、実験が許可されぬというならば承服しあたわぬところである。短波長研究の重要なるに鑑み、何人たりとも、これが実験研究をなさんと欲し、その実験施設の許可を願うものがあった時には、空中混乱を煮起せざる範囲において、適当なる取締または監督の下にこれが実験を許し、熱心なる研究家のために短波長実験の途を拓かれんことを切に願う次第である。

ここに短波長研究の急務なるゆえんを述べ、あらゆる無線関係者――無線監督者、無線学者、無線技術家、無線発明者、素人無線家、ラヂオファン――の反省と奮起とを希望し、かつ近き将来における異常の進歩発達を夢みて、筆をおく。("短波長研究の急務", 『ラヂオの日本』, 1926.5, 日本ラヂオ協会, pp2-3)

諸外国のアマチュアの活躍を熟知している逓信省工務局の稲田局長以下、中上係長や荒川技師らは、個人のアマチュア無線家も含めて短波開放を強く推進しようとしていました。そして夏にはこの巻頭の言葉どおり、アマチュアも含めた短波開放の通達(電業第748号)を地方逓信局長へ発したのでした。

23) 海軍省のアマチュア許可への態度が軟化する

1925年(大正14年)にはアマチュアへの短波開放に猛反対した海軍も、軍艦多摩がロサンジェルスのアマチュア無線家に受信機の不調を助けられる事件(J1PP J8AAのページ参照)などを契機とし、徐々に態度を軟化させはじめていました。上記「ラヂオの日本」短波特集号(5月号)で執筆を依頼された海軍技研の谷恵吉郎氏は、昨年度、米海軍がアマチュア団体ARRLの全面的な協力を得て短波試験を行ったことをとても好意的に伝えました。

短波通信の確実性に対して考慮すべきものは第一に空中線出力、通信距離、使用波長、通信時間の四とせねばならぬ。このほか、時季、通信方向等をも考えなければならぬ。つまり受信局における受信感度はこれら変数の関数となるのであるが、これらの間の関係を明らかにして、あたかも長波におけるオーステン・ユーエン式ないしワットソン式に相当するものを見出すことは短波を取扱うもののひとしく切望する所である。米国海軍においては大規模に長日月にわたり各国の素人無線家とも協力し実験を継続し、この方面にすこぶる貢献した。昨年太平洋上に行われた米海軍の大演習もこの実験に大いに役立ったのである。すなわちアメリカン・ラジオ・リレー・リーグの通信部長なるエフ・エイチ・シュネルは海軍大尉として旗艦シアトルに乗組み、特にNRRLの局名を用いて実験に従事した。ホイト・テーラーの発表する所によれば米海軍実験の結果、第一図の通りである。これは空中線の大きさ、送受信とも普通のものとし、送信空中線に五キロワットの・・・(略)・・・』 (谷恵吉郎, "短波の特質と其の利用", 『ラヂオの日本』, 1926.5, 日本ラヂオ協会, p22)

24) 1926年(大正15年)5月・・・短波実用局の建設予算承認 実用化試験が始動

逓信省にとって大正14年度(T14.4 - T15.3)はJ1AAの日米初交信ではじまり、春洋丸の太平洋横断通信試験で終わるという「短波開拓」の年でした。J1AA, J1PPの実験局のほかに、朝鮮総督府のJ8AAや、現用海岸局である落石無線JOCまでを動員し、短波の特性を解き明かそうとしてきました。

岩槻の実験局J1AAが逓信省の手を離れ、東京逓信局(現用局)へ引き渡されるため、中上係長はこれを契機とし、短波長の研究フェーズから、実用化フェーズへと大きく舵を切ろうと考え、国内短波通信網(実用局)を計画し大正15年度予算の獲得に奔走していました。そして124,000円の建設費を獲得するのに成功しました。

近時無線電信の技術の進歩著しく、従来の如き大電力と多額の経費を要した長波長の無線電信より、小電力を以って事足り波長も二十メートル以上百メートル内外の短波長の無線電信がより経済的にして、かつまた試験の結果遠距離通信に利用し得ることとなったので、逓信省では十五年度にこれに要する装置費並に維持費として十二万四千六百円が認められたが、いよいよ東京、名古屋、大阪の各逓信局所在地及び九州、北海道における通信上の関係を考慮し全国六ケ所に無線電信局を設置することに決している。("全国六ヶ所に短波長無電局を設置し一部海底に代ふ", 『中外商業新報』, 1927.4.4)

表向きの建設理由は、関東大震災の際に陸線が途絶し、関東-関西間の通信連絡には銚子局(千葉)と潮岬局(和歌山)が頼みの綱だったことを挙げ、陸線の補助手段として短波通信網を建設するものでした。しかしその背景には、ワシントン会議での短波長の周波数分配を1年後に控え、もたもた実験フェーズにとどまっておらず、さっさと実用フェーズへ移行し、実用化済みとの実績を持って、会議での我国の発言力を強めたいとの狙いがありました。無線の学術的研究には電気試験所(JHAB, JHBB)という組織があり、工務局は現業(逓信省ビジネス)施設の設計・施工や国際無線会議を担当していたからです。

1926年(大正15年)5月14日より短波長国内通信を実現させるための予備試験がおこなわれました。

五月十四日より同二十三日迄の間において、逓信官吏練習所、岩槻、大阪および落石において、それぞれ八〇、四〇・五、三八、三七米の波長にて送信し、札幌、金沢、広島等の郵便局において受信試験を行ったが、その際には各局とも夜間の受信感度は強勢にて申分なかったけれど、昼間は感度微弱であり・・・(略)・・・受信に適しないありさまであった。(中上豊吉/河原猛夫, "短波長国内試験に就いて", 『ラヂオの日本』, 1926.10, 日本ラヂオ協会, )

電報取扱いはほとんどが昼間に集中することから、安定的した昼間通信可能な電波を求めて、さらに短い波長を試験することにしました。

25) 短波実用化へ向けた第一次国内通信試験を実施 (6月2-29日)

短波長国内実用通信網を建設するための大正15年度予算の獲得に成功した逓信省は6月2日より第一次国内通信試験を実施しました。(岩槻のJ1AAは逓信省の手を離れて、東京逓信局の所管に移ったので、)本試験は逓信官吏練習所無線実験室J1PPが中央局(送信)となり、各地方逓信局が所管する現用無線局・郵便局(落石, 根室, 札幌、岩槻、金沢、大阪、広島、鹿児島)に受信してもらいました。

6月2日から29日まで毎日13:00-14:00, 15:00-16:00, 19:00-20:00の3回、送信波長を35m(周波数8.57MHz)から始めて1mづつ短縮させながら34, 33, 32,...26, 25m(周波数12MHz)までの電波を測定しました。これは業務別周波数割当表(4月20日)の固定業務9.0-11.0MHzバンドの中で、昼間の国内通信における最適周波数を探査する目的でした。なお午後の試験だけになったのは、官練の都合で午前中の発信は毎日連続できなかったからです。官練J1PPの送信機にはMT-1型真空管1本(入力600W)を用いました。各受信地の設備について小野孝技師の報告を引用します。

本試験に使用した受信機はおおむね各受信所で製作されたもので一定ではありませんが、大同小異いづれも検波一段および低周波一段のオートダイン式でありましたが受信空中線の型式あるいは大きさ等は各受信の自由としましたから、これは各受信所によって相当の差異があり、特に大阪では格別に大きなものを使用しておりました。また金沢、広島、札幌等では郵便局内で受信した関係上レントゲン、電信線、発電機等から電気的誘導妨害を受けるので雑音多く、従って受信状態は著しく不利な立場にありました。 (小野孝, "国内短波通信に就いて", 『電信電話学会雑誌』, 1927.3, 電信電話学会, p199)

短波実用化に向けた試験(無線電信)の中央局の役割を担うようになったJ1PPですが、無線電話の改良も粛々と進めており、9月16-25日には波長40.2m(7.46MHz)の無線電話で中波の東京放送局JOAKを再送信し、電気試験所の平磯出張所JHBBで受けてもらっています(高岸栄次郎/畠山幸吉, "短波長受信試験", 『電気試験所事務報告』大正15年度/昭和元年度, p120)

26) 1926年(大正15年)6月、日本素人無線連盟JARLが結成される

逓信省は逓信省なりの短波開放への手順で軍部を説得しようと考えていたようですが、アマチュア側にはそんなことは何も知らされていないわけですから、1926年(大正15年)6月にアマチュアの先輩OTの方々は日本素人無線連盟JARLを結成し、これを世界へ打電しました。

『・・・(略)・・・この日の夜は各自がJARL創設の通告(QST)を電鍵で叩いて全世界へ通告し、またその後の数日はその通告のリレーでお空がにぎわったわけだが・・・(略)・・・この夜の通告を叩き疲れて受信機のスイッチを入れたところ、連中は夢中になってQSTを出しているので、こちらも負けじと再び叩き出す、こんなイタチゴッコで夜を明かした人もいたそうである。(梶井謙一, "私のりれき書", 『CQ ham radio』, 1960.3, CQ出版, p100)

結成より数日間はこのニュースが打電され続けたそうです。JARL結成は6月12日とも28日ともいわれていますが、いずれにしろこの時期は、逓信省の第一次国内通信試験(6/2-6/29)で、北海道から鹿児島まで日本各地の現業無線局や郵便局で短波受信試験を行っていた真っ最中の出来事です。

また電気試験所の大正15年度年次報告書によると、6/15-18, 25, 26, 29, 7/1, 2 に独ナウエン(AGK, 20m)、6/22-7/7に英郵政庁(5DH, 45-11.4m)の受信試験を行っていました。岩槻受信所(元J1AA)は大正14年7月1日以来、東京逓信局所属の東京無線電信局岩槻受信所として営業に入ったため、ドイツ郵政省の要請で日本の逓信省が協力していたナウエン局の受信試験は電気試験所平磯出張所にて行われていました。

六月中旬から七月初旬にかけて、ナウエンのAGK局(波長二十米)では、三回に渉り送信試験を行いましたが、これは送信所において送信空中線を変更した時に、受信強度がどの様に変化するかをみるものでありまして、これから当時独逸(ドイツ)においてもいかなる種類の送信空中線を使用すべきかを研究中だったことが判ります。長い垂直型、短い垂直型、ジグザグ空中線、水平空中線、反射器付空中線等が試みられたようでありますが、最後の結果の判らない私共受信者には、何となく物足りなく感じました。(畠山幸吉, "短波の昔ばなし(五)", 『ラヂオの日本』, 1936.8, 日本ラヂオ協会, pp43-44)

ということで1926年(大正15年)6月は国を挙げて各逓信施設が短波に耳を傾けた「特別月間」なので、逓信側では日本素人無線連盟JARL発足のニュースをリアルタイムに知ったことでしょう。もし(おおげさではなく)梶井OMがおっしゃる「その後の数日はその通告でお空がにぎわった」の通りであれば、官側がそれを聞き逃したとは考えにくいからです。

1959年(昭和34年)11月から始まった電波時報の連載『日本アマチュア無線史』は、原昌三氏らがJARL創設期のOTを集めて座談会を開き、朝日新聞記者の小林幸雄氏に歴史証言をまとめてもらったものです。

さて日本の宣言は電波だけで流されたのではない。大正15年8月号のQSTにそのニュース掲載された。雑誌は輸入され、日本の逓信省の目にとまる。まだ、アマチュア無線は非合法時代、これはけしからんと神経をとがらせた。よく調べてみると、宣言だけではない。アメリカと交信しているものも大分いるらしいと分かった。不法である、取締らねばいかん、というわけで東西とも、身辺がにわかに危なくなってきた。いちばん風当りが強かったのが仙波さんである。なにしろ、当時逓信省電気試験所の技師、つまり取締官庁の側の人間だったから、電波を出してはいかん、仲間の名簿をすぐ提出せよと叱られた。(小林幸男, "日本アマチュア無線史[3]", 『電波時報』, 1960.1, 郵政省電波管理局, p37)

たしかに海外の各無線誌を輸入定期購読し情報収集するのも逓信省工務局の業務の一環です。QST8月号を見てJARL結成を知り、さらに『よく調べてみると、宣言だけではない。アメリカと交信しているものも・・・』とはQST6月号のことです。「えっ、8月号を見てから6月号を見るのかい?」という突っ込み所ではありますが、まあここは6月号の記事をうっかり見落としていたということにしておきましょう。

【参考】QSTを購読していたのは中上氏らアマチュア推進派の工務局ですので、6月号に日本人の記事があるのを電務局に知らせていない可能性はあります。

さてその問題のQST6月号です。米国の6AJM, 6CJPが神戸の谷川氏3WWと交信したとして、ご親切にも谷川氏の住所が投稿されてしまいました。要するにQSTに自分たちが載ったので取調べられたとのことです。捕まった御本人の笠原氏3AAも(谷口氏の件は伏せながらも)そうおっしゃっています。『私は大正14年ころからモグって送信をやっていて、とうとう発見され(私の名がQSTに出たから見つかったので、決して指向性空中線で探知されたわけではない!!)正式に出願ということになった。(笠原功一, "アマチュア無線の想い出", 『無線と実験』, 1952.4, 誠文堂新光社, p57)

このQST掲載の件に関してアマチュア無線のあゆみでは、日本アマチュア無線史とは趣を異とする方向へ展開されています。

大正15年[1926年]6月12日のJARL結成の知らせは、またたく間に全世界に広がったが、第1章に掲げたように雑誌「QST」は8月号にニュースとしてこれを取り上げた。当時、「QST」はアメリカの無線雑誌の一つとして有名で、わが国にも輸入されており、無線関係の会社、研究所はもちろん逓信省にも来ていたが、このニュースを見て逓信省は驚いた。日本にはまだアマチュア局などというものは許していないのに、JARLなどという組織が結成されて電波で世界に宣言しているとは・・・・・・。異種の文化が接触する時は必ず大きなショックを受けるといわれるが、わが国の逓信当局は初めてアマチュア無線という文化に接したのである。そして真にアマチュア無線の意味を理解するには、昭和25年[1950年]の電波法公布まで25ヵ年の歳月を要するのである。この「QST」8月号のIARU欄に出た記事によって谷川譲氏(3WW)は大阪逓信局に出頭を命ぜられ事情を聴取された。引続き笠原功一氏(3AA)も出頭を命ぜられた。(日本アマチュア無線連盟編, 『アマチュア無線のあゆみ:JARL50年史』, 1976, CQ出版, p57)

【注】 JARL結成を知らせたQST8月号に谷川氏が載ったのではなく、6月号に住所が丸裸で掲載されたためです。

初めに書いた通り、逓信省が「QST8月号を見てJARLの結成を知った」という記述が何か根拠があってのものなのか、あるいは読み物としての脚色なのかは、私には良く分かりませんので、史実として扱っても良いものか戸惑うところです。ですがそれはともかくとしてアマチュア無線のあゆみ』でいう、QSTを見て『逓信省は驚いた』とは、いったい何に驚いたのでしょうか。

私は稲田局長ら逓信省工務局のメンバーが日本の海外通信がすべて外国資本の海底ケーブルに牛耳られている実態を大いに憂い、短波長による国際公衆通信を確立させるにはアマチュア実験家の育成も不可欠だと考えていたことをいろんな記事から感じとりました。なので逓信省は短波開放への作戦(反対派の海軍の説得)をたて、一歩々々進めていたのに、「親の心、子知らず」的なJARL結成という先走り行動に『逓信省は驚いた』(落胆した)という意味であれば、これはこれで理解できます。

ところが『わが国の逓信当局は初めてアマチュア無線という文化に接したのである』との言葉が続くことから、「マヌケなお役人が右往左往する」シーンを思い浮かべた方もいらっしゃったことでしょう。「初めて接した」とありますが、大正14年3月の無線と実験誌などから、アマチュアが電波界で果たした功績やその文化を紹介してきたのは、ほかでもない逓信省の面々です。日本にアンカバーの短波アマチュアが誕生する前です。それに大正14年から逓信省直系の短波施設J1AA, J1PPをはじめ、J8AA(外地), JHBB(外局)や逓信局管轄の現用局(落石や鹿児島)で短波実験を行い、海外のアマチュアから受信報告や交信書が届いていたのですから、逓信省がアマチュア無線の文化を知らなかったとする意見にはおおいに疑問を感じます。大正14年のIARU結成時に日本政府から代表委員を送り、そのことは一般新聞誌の記事にもなり国民に公表されているし、『無線と実験』誌の大正14年7月号で詳細が掲載されているし、同年8月号には逓信省電気試験所の高岸所長がIARU大会の内容を詳しく報じています。それを今さら「逓信省はアマチュア無線の文化に始めて接した」と物語調に盛り上げるのは、どうなんだろなあと感じます。

ちなみに『日本アマチュア無線史』(1952.5)と、『アマチュア無線のあゆみ』(1976)との中間期1964年には、次のような記事もありました。

このニュースは、まわりまわって日本の逓信省まで伝わり、当時のお役人をおどろかせました。何しろこのようなアマチュア活動はすべて不法なのですから驚くのが当然で、さっそく各局へ呼出し状が舞い込んできました。しかし何度お目玉をもらっても、直接逓信省が受信しているわけではないので、皆は電波の発射をやめず・・・(略)・・・』 (小室圭吾, "ジュニアJARLハム教室「ハムの歴史 日本のアマチュアとJARLの誕生」", 『初歩のラジオ』, 1964.2, 誠文堂新光社, p121)

1952年の『日本アマチュア無線史』には逓信省が「QSTで驚いた」とは書かれていません。するとこの記事が起源なのでしょうか?でもよく読むと「驚くのが当然だろう」と筆者の意見として述べられているだけです。これが「アマチュア無線のあゆみ」でさらにパワーアップしたのでしょうか?読み物としては盛り上がるシーンで良いのですが、歴史書としてはどうですかね?

【注】 ただし逓信省と逓信局の混同はありそうです。短波受信機を持たない逓信局なら短波アマチュアの存在を知らなかったかもしれません。でもそれは逓信局であって、逓信省ではないです。本サイトでは逓信省の電波行政を中心に書いていますが、創成期のアマチュア無線の大先輩をはじめ、一般市民が接していたのは郵便や電報を現業とする逓信局の方です。アマチュアの歴史記事に登場する「逓信当局」という曖昧な言葉は、逓信局を指すことが多いと想像できるのはもちろんですが、文字で「逓信省」とはっきり書かれていても、実はそれは「逓信局」のことだったりする可能性がありそうです。私自身もこのサイトを書くにあたり、「省」と「局」との一字違いに気を付けねばと思いました。

『アマチュア無線のあゆみ』ではさらに続けて『真のアマチュア無線の意味を理解するには、昭和25年[1950年]の電波法公布まで25ヵ年の歳月を要するのである。』と、まるで「逓信省=アマチュア無線に無知」といわんばかりです。逓信省が戦前のアマチュアに米国のような自由を与えず、制限を付け続けたのは事実ですが、大正から昭和一桁期に、各国のアマチュア関係法について丹念に情報収集・研究をしており、アマチュア無線が何たるかを熟知していたはずです。つまり「真のアマチュア無線の意味を理解していなかった」からではなく、別の理由によるところが大きいと考えます。

我国では電波を海軍・陸軍・逓信の三省電波統制評議会で統治していたため、満州事変、国連脱退、シナ事変と、どんどん軍国色が強まる中、軍部の電波行政への発言力は増すばかりでした。そういう時勢にあっては「趣味の無線」が制限され続けたのも、致し方なかったのではないでしょうか。

【参考1】 戦前は無線の許認可権をもつ三省による合議制で、単純に計算しても軍部とは、1(逓信省):2(海軍省と陸軍省)の力関係でした。戦後は郵政省による単独所管となり、この点が見落とされがちなので要注意です。

【参考2】 アマチュア無線家の手元に届いた許可書には逓信大臣の印だけで、合議制を感じさせるものはありませんが、個人アマチュアの新設や指定事項の変更許可といえど、すべて「逓信局が受理」→「逓信省で審査」→「海軍省・陸軍省へ照会」→「海軍省・陸軍省の賛同」、という手続きを踏んで、やっと逓信省から申請者へ「許可書」と、海軍省と陸軍省へ「許可した旨の通牒」を送っていました。逓信省がアマチュアを免許するには、海軍省と陸軍省の承諾が必要でした。戦前に開局されたOMさんは全員この手続きを踏んでいます。

【参考3】 頓挫させられた全国警察無線網(JZ callsigns 参照)や鉄道無線網(JA/JB callsigns 参照)など、アマチュア以外の方面からも昭和期の逓信省への「うらみ節」が聞かれますが、周波数の多くを海軍と陸軍に持っていかれ、逓信省の周波数持ち分にゆとりがなかったのもまた事実です。

ところで勇敢な笠原氏(3AA)はJARLの結成の数ヶ月前に落石JOCと岩槻J1AAと交信しています。少なくとも逓信省の中では日本にも短波アマチュアがいることが知られていたのは間違いありません。

電波時報編集部からの来状である。「アマチュア無線今昔物語」を書けということだ。家人がいう。「逓信省も随分変ったものですねー」と。ウチではアマチュア無線監督官庁は今でもすべて「逓信省」と呼ぶ。そもそも私とその「逓信省」との御交際は大正15年にさかのぼる。当時私は受信機と送信機とにそれぞれUX20を使ってささやかなアマチュア局を開局していた。この局J3AAがはじめて我々の仲間以外と交信したのが北海道の落石局JOCであった。ともに短波40米見当を用いていた。このJOCも短波としては半公認程度であったようだ。落石局の絵ハガキに手製のゴム印で "JOC" と押したものをQSLカード(の代用品?)として送っていただいた。つづいて上海に停泊していた米陸軍の輸送船と交信したのが外国のはじめであった。この後岩槻のJ1AAと交信したがおよそ逓信省の局との交信は前記落石局とこの岩槻局の2回のみである。(笠原功一, "アマチュア無線の今昔物語", 『電波時報』, 1952.8, 郵政省電波管理局, p18)

27) 日本素人無線連盟JARLが制定したDistrict Numbers(エリア番号)

逓信省では1925年(大正14年)夏から秋にかけての頃に、朝鮮総督府逓信局無線実験室が短波実験を始めるため、朝鮮のDistrict Numbersを決める必要に迫られました。このとき実験局のDistrict Numbersを暫定的に定め、呼出符号J8AA(朝鮮総督府逓信局無線実験室の実験局)が誕生しました。この暫定的な日本初のDistrict Numbersは公表されていませんが、それを推定したものが下表です。1番(J1AA, J1PP)と8番(J8AA)以外は発給例が無いため、あくまで推定です。

逓信省では組織図や職員名簿などで地方逓信局を並べるときに、お決まりの序列というか順番があり「東京→名古屋→大阪→広島→熊本→仙台→札幌」でした。わざわざこの順番を崩す理由もないでしょうから、その順に1-7番を割振り、最後に朝鮮逓信局を持ってきたと想像します(でも台湾に9番を当てたかはわかりません)。(J1PP J8AAのページ参照)

当時「無線之研究」誌の読者欄にはJ1AA, J1PP, J8AA の受信報告があり、JARL結成メンバーは、逓信省が関東を1番、朝鮮を8番にしているのを知っていたはずです。しかし2-7番と9番のコールサインは聞いたことがないので、自分達で独自に決めることにしたのでしょう。

逓信省が地方逓信局の管轄エリア単位で番号を定めたのに対して、JARLはわかりやすい地理的区分にしました。関東1番、朝鮮8番は逓信省のものを使うとして、おそらく語呂合わせで四国4番、九州9番が最初に決まり、残る2・3・5・6・7番に各地区を当てたところ奥羽(東北)地方がはみ出してしまい、1番に加えたのかなと想像してみました。あくまで勝手な想像です。

1926年(大正15年)6月、日本素人無線連盟JARLが結成され、規約第六条で『日本全国を下記の諸区に分かち 該区に居住する盟員は該区番号を呼出符号に冠することを要す』と定めました。上表の右欄に追記したものがそれです。

28) 1926年(大正15年)7月10日、学校・団体・個人 へ短波開放の通達(電業第748号)

1926年7月10日に逓信省はついに歴史的な行動を起こしました。逓信省電務局長が地方逓信局長に「短波長無線電信電話施設ニ関スル件」(電業第748号)で、学校・団体・個人(相当に技術を有し、真に科学の研究を行おうとする者)には短波実験を許可するので、実験目的・実験者の経歴・受付逓信局の意見(推薦状?)を附して出すように通達されました。

もともと私設電信電話無線電信電話監督事務規定(逓信省公達第172号[大正6年8月3日], 大正6年8月15日施行)の第3條で私設実験施設(法2條第5号免許)の申請者に対する一次審査権が地方逓信局長に与えられていましたが、この一次審査の判定基準を明文化し、学校・会社・個人に短波を許可することを通達しました。

中波(1,500-2,000kHz)だけで許可されていたアメリカのアマチュアに短波バンドが与えられたのは1924年(大正13年)7月24日でしたので、約2年ほどの遅れで我国でも短波のアマチュアが誕生する運びとなったのです。

電業第七四八号

大正十五年七月十日

電務局長

各逓信局長宛

短波長無線電信電話実験施設ニ関スル件

一般実験用無線電信無線電話ノ施設願ニ対シテハ私設電信電話無線電信電話監督事務規程第三条ニ依り処理スベキ義ニ有之候短波長無線電信又ハ無線電話ノ実験施設ニ付テハ特ニ左記各項諒知ノ上可然処理相成度

一、 送受信機ヲ装置スルモノニ付テハ 学校 其ノ他ノ団体 ニシテ特ニ施設ノ必要アルモノ相当技能ヲ有シ真ニ科学ノ研究ヲ為サムトスルモノニ対シテハ運用ニ付相当制限ヲ附シ許可方考慮スル見込ニ付許可願書(実験ノ種類目的及実験者ノ履歴ヲ附記スルコト)二貴局意見ヲ附シ之ヲ進達スベキコト

二、 放送聴取者以外ノ者ニ於テ受信機ノミヲ装置スルモノニ付テハ一般放送聴取施設トノ関係ニ付考慮ヲ要スル点アルニ付当分ノ間許可セラレサルコト

三、 放送聴取者ニ於テ短波長受信実験ヲ為サムトスルモノニ付テハ技術上同一受信機ヲ以テ放送聴取及短波長実験受信ヲ為シ得ザルニ因リ別ニ短波受信機ヲ使用スルモノト認メラルルヲ以テ第一項ト同様ニ処理スルコト

(電業第748号は『日本無線史』第四巻, pp491-492より引用)

なお後述しますが、この通達の日付は7月12日か18日の誤植の可能性があります。

29) 短波開放通達の、もうひとつの大きな意義「法の不平等適用の解消」 【重要】

我国ではこれまでも無線電信法第2条第5号の定めにより、"いわゆるアマチュア無線" を許可してきました。許可を受けたのは濱地常康(東京1番/2番、中波電話)、本堂平四郎(東京5番/6番、中波電話)、安藤博(東京9番/JFWA、東京19番/JFPA、長波・中波電信電話)の3氏です。

濱地氏の場合、弁護士の父が野田逓信大臣と同じ福岡出身で友人関係。本堂氏も野田逓信大臣や後藤新平東京市長の後援を得て無線電話を研究。早稲田大学の学生の安藤氏は、電気試験所の(TYK式無線電話の発明者)鳥潟博士を師と仰ぎ、東京朝日新聞が「無線の天才青年で第二のマルコニー」として繰返し賞賛記事を書いたので、その名は日本中に知られていました。また東京逓信局の国米氏にもかわいがられました。

大正時代に「いわゆるアマチュア無線を許可する法律がなかった」というのは正しくありません。法はあっても、誰に対しても平等に適用される時代ではなかったということです。特別のコネがない限り一般人には法2条第5号の無線施設(いわゆるアマチュア無線)の開設は難しかったようです。

電業第748号は無線電信法を国民に平等に適用するため、その審査方法に踏み込んだ初めての通達であり、民主化の歴史のマイルストーンのひとつとなりました。この通達は日本無線史』(電波監理委員会編, 1951)にも記録されました。

では通達第一項の後半部をご覧ください。要約すれば「今後は相当の技能があって真面目に科学の研究をしたい者には、制限付きではあるが短波を許可するので、各逓信局長は実験の目的、実験者の履歴と、受付け逓信局としての意見(推薦文?)を付けて、逓信省へ許可願を出しなさい。」というものです。もちろん現代の私たちの感覚では、「相当の技能」とはどの程度か?「真面目さ」はどう測るのか?など突っ込みどころはあります。しかしコネがなくとも、技能と真面目な研究心があれば法2条第5項無線施設が許可される道が開けました。これは画期的な出来事です。

また全国の地方逓信局長に統一基準が示された点も見逃せません。これまで施設願いの受付窓口である地方逓信局の受理基準は明瞭ではなく、大阪逓信局なら却下されるが、東京逓信局では受理されて逓信省へ回してくれるといった地域による対応差が起きる可能性が否定できませんでした。

30) 謎? 「アマチュア無線のあゆみ」では短波開放通達が、翌年3月として

この記念すべき「短波開放通達」(電業第748号, 大正15年7月10日)が、「アマチュア無線のあゆみ」では電業第579号(昭和2年3月29日)として記載されています。日本無線史からの引用時のミスだと想像しますが、短波の開放が1926年(大正15年)7月10日から8ヶ月半も後ろの、1927年(昭和2年)3月29日に通達されたことになると、辻褄が合わない点がいくつか生じてしまいます。

この件については短波の実用化のページで詳しく述べましたのでご覧下さい。

31) 1926年(大正15年)7月15日、海軍省と陸軍省に短波使用開始を通知(信第734号)

また逓信省は1926年(大正15年)7月15日に海軍省と陸軍省へ短波帯の使用開始(周波数割当表の実行)を通知しました。

信第七三四号

大正十五年七月十五日

逓信次官

海軍次官殿

短波長使用ニ関スル件

短波長(二百米以下)ニ関シテハ本邦内ニ於テハ暫定的ニ別表ノ通リ各業務ニ割当使用スルコトトシ実際使用ニ当リテハ使用局名、呼出符号及電波長ヲ相互通知スルコトト致度及御協議候

追而別表ハ日本案トシテ国際無線電信会議ニ提出予定ノモノニ有之候


【注】ここでいう別表とは1926年4月20日の海軍陸軍逓信三省会議で合意した、わが国初の業務別周波数分配表(1.5-60MHz)のことです。この周波数分配表で実験施設用に85m帯(3.5-4.0MHz), 42m帯(7.0-8.0MHz), 5m帯(55-60MHz)の3つが決定しました。なおこの表は1927年に開催が予定されているワシントン会議で60MHzまでの業務別周波数分配表が討議されるため、三省で短波帯の分割の日本案を協議して出来たものでした。

戦前の日本では逓信・海軍・陸軍の三省がそれぞれ所管の無線局の認可権を持っていたため、電波は三省による合議制をとっていました。通例であれば事前に他省の協賛を得てから行動に移すのですが、今回は7月10日に逓信内部で通達し、そのあと15日に海軍・陸軍に連絡したことになります。また別な見方では、具体的な開局承認案件ではないので、この手順でもおかしくないともいえます。単に4月20日合意の業務別周波数割当表を暫定的に運用すると連絡したに過ぎず、実際に承認案件があった時に、相互通知し協議しましょうといっているだけです。

電業第748号(大正15年7月10日)はその後、昭和二年の電業第112号(2月28日)の中で引用され『大正十五年七月十八日各逓信局長ニ左ノ通通達セリ』となっていたり、電業第579号(3月29日)の中では『短波長無線電信無線電話実験施設ニ関シテハ客年七月十二日附電業第七四八号ヲ以テ通牒致置』となっています。つまり電業第748号の日付は『日本無線史』第四巻pp491-495では、7月10日, 12日, 18日の三通りあります。【注】 信734号と電業748号の数字を比べるのは意味がありません。「信」と「電業」の別系列ですから。

32) BCI(ラジオ受信機への妨害)に悩む電気試験所(大崎)JHAB 横山部長 (8月)

電気試験所の短波実験は平磯出張所JHBBの話題はあっても、大崎本所第四部(無線研究担当)JHABの短波実験はほとんど記事が見当たりません。どうやら近隣住民の鉱石式ラジオ受信機への混信問題があり、JHABは送信実験ができなかったようです。

ある研究の必要から去る八月十二日午前八時より翌十三日午前八時まで、引き続き大崎電気試験所で波長五十五米突 空中線入力約四百ワットをもって短波長無線電話の電波を発射した。ところが端なくもこれが東京放送局の放送を聴取しておった大崎付近の聴取者の放送聴取を著しく妨害したとみえ放送局へだいぶ苦情が行ったという通知があった。・・・(略)・・・放送聴取者が大崎電気試験所からいかに近いにしても、五十五米突の短波長がそんなに著しい妨害を与えようとは予想しておらなかったのである。当所の試験は相当必要なものであったから聴取者各位の迷惑とは知りつつも敢えて電波発射を続け、一方においてその妨害の程度を知らんがために、聴取試験を行ってみた。その結果 単一回路を使用する受信機にては電気試験所の付近ではその電波のために相当の妨害を受け、聴取が困難であったが、二回路を使用する受信機では試験所に極接近している場所でも全く妨害を受けないことが判明した。・・・(略)・・・安価の点において推奨せらる、鉱石受信機は殆んど例外なくこの単一回路を使用しているから、・・・(略)・・・五十五米突の電波をもってすら、放送聴取者に妨害を与えることなく通信を遂行することが出来ないとすれば、大問題である。・・・(略)・・・多少の経費を投じれば単一回路の受信機を二回路受信機に変更できるのであるから、その受信機の選択性いかんにも留意せられて、これが改善に努められたいものである。ここに単一回路受信機を使用せる聴取者各位の一考を煩わさん事を切に希望する次第である。(横山栄太郎, "聴取妨害の苦情を受けて当事者としての希望,"『ラヂオ新聞』1926.8.15)

また電気試験所の大野氏も同様のことを回想されています。

短波長送受信機を動かし送信の試験や実際通信を行っている場合に、送信所付近の放送聴取者からしばしば聴取を妨害するといって故障を申し込まれた。・・・(略)・・・かつて昨年の夏、大崎の電気試験所から六十米の短波長無線電話を或る局に対して昼夜連続して送ったことがある。この時、今記したような妨害が盛んに起り、大崎一帯の放送加入者から苦言を呈せられたのを覚えている。(大野喚乎, "英国に於ける短波長",『無線と実験』1927.4 無線実験社 p676)

ラジオ放送が開始されたがゆえに、電気試験所第四部JHABは送信試験が出来なくなってしまいました。それもラジオ受信機の検定試験を担当する電気試験所が合格させた鉱石受信機も含まれているわけで、横山部長としてはやりきれない思いだったと推察します。

33) ついに海軍省・陸軍省が短波の私設開放に同意!!! (9月)

逓信省の「短波開放通達」(電業748号)や軍部への「短波使用の照会」(信第734号)は、1926年(大正15年)4月20日に三省合意した、我国初の業務別周波数割当表の適用を開始するとものです。

この割当表は既に三省で合意しているもので、いまさら海軍や陸軍は反対できません。今一度、前述(4/20)した分配表をご覧下さい。この表には特別業務として実験用として85m(3.5-4.0MHz)、42m(7.0-8.0MHz)、5.5m(55-60MHz)を含んでいます。すなわちこの割当表の使用開始に同意することは、短波実験局を許すことも含んでいます。

逓信省には前述の「短波開放通達」(電業748号)に基づいた、短波の私設願いが集まっていました。しかし海軍省からも陸軍省からも正式回答が得られないので、しびれを切らしたのか逓信省は9月7日になって短波認可の個別案件(電信協会への許可)可否の照会を両省に送付しました。これを逓信からの督促ととらえたのか、あるいは偶然かは分かりませんが、その直後に相次いで両省から回答が着ました。

● 短波使用に対する海軍省からの回答

海軍次官から逓信次官への回答は以下のとおりです(官房第二八五四号ノニ, 九月九日)。割当表の運用開始には反対しないが、両省の共通波長(1.5-2.0MHz, 10-11MHz, 12.5-13MHz, 14-15MHz, 40-55MHz)の使用に際してはあらかじめ協議することと、軍事上の必要がある時は、軍用業務以外の波長(すなわち逓信省が所管する波長)を使うことを協議したいとしました。

大正十五年九月九日 海軍次官 大角岑生

逓信次官 桑山鐵男殿

短波長使用ニ関スル件

七月十五日附 信第七三四号ヲ以テ御協議相成候 本件当省ニ於テハ異存無之候

右回答ス

追テ各業務共通割当波長ニ於テ貴省関係使用波長決定ノ際ハ 予メ御協議ヲ得度 尚追軍事上ノ必要ニ依リ特ニ軍用業務割当以外ノ波長ヲ必要トスル場合ニ於テハ所要波長ニ関シ其ノ都度御協議致度

(終)

● 短波使用に対する陸軍省からの回答

また陸軍次官より海軍次官へ、下記回答書を「逓信次官へ送った」と通牒しています(陸普第三八四九号, 九月十六日)。陸軍省も割当表の運用開始に異存はないが、両省の共通波長については予め協議するよう求めたほか、特別な事情下では割当以外の波長(すなわち逓信省の所管する波長)を使う権利を主張しました。

短波長使用ニ関スル件 回答

大正十五年九月十六日 陸軍次官

逓信次官宛

七月十五日 信第七三四号 照会 主題ノ件 左記條件ノ下ニ異存ナシ

左記

一、軍隊携行用小電力無線機ニ在リテハ其ノ特質上部外ノ無線通信ニ不利ナル影響ヲ与フル場合 其タ稀ナルノミナラス教育演習等ニ際シ同一種ノ無線機ヲ多数使用スル場合ニハ運用上 数個ノ波長ヲ配慮スル必要アルヲ以テ割当以外ノ波長ヲ使用スル場合アルヘキコト

二、各種業務共通割当波長ニ於テ貴省関係使用波長決定ノ際ハ予メ協議セラレタキコト

逓信省は海軍省・陸軍省からの賛同が得られたため、さっそく7月に先行して発していた「短波開放通達」(電業第748号)に基づく、私設局への短波免許手続きに入りました。


34) 1926年(大正15年)9月29日、電信協会JAZAの短波実験を許可 (教育機関へ短波開放)

通信士を養成する社団法人電信協会では、電波界で短波が注目されていることから、同協会の実験施設に短波装置を追加する方針を打出しました。逓信省で審査の結果、7月10日の電業第748号通達に基づく、我国初の業務別周波数割当表に準拠した短波実験施設の第一号として同協会の短波を承認することが決まりました。

1926年(大正15年)9月7日、逓信省は「私設無線電信施設変更の件」(電業第2112号, 1926.9.7)にて、電信協会に対する42m実験バンド(7-8MHz)中の波長38mの許可の可否について海軍・陸軍へ照会しました(下図左)。

4月20日に三省合意した業務別周波数割当表によると、42m実験バンド(7-8MHz)は7.0-7.5MHzが固定業務、7.5-8.0MHzが移動業務と共用帯ですが、具体的な実験用波長として38m(周波数7.9MHz)が選ばれました。以後日本では38mが実験用波長として定着しますが、そもそもはこの電信協会の実験施設JAZAの38mを嚆矢とします。

そして同年9月15日に海軍省から「私設無線電信施設変更の件」(軍務二第371号の2)で『本月七日附け電業第2112号の御照会の本件、当省においては異存なきの候』との回答がありました(下図右)。


1926年9月29日、(資料は発見できていませんが陸軍からも同様の回答を得て)逓信省は「電信協会施設無線電信工事設計変更許可の件」(電業第2276号, 1926.9.29)にて許可したことを両省に通牒しました(下図左)。官報には随分遅れて10月21日に告示(下図右)されましたが、許可日は9月29日です。

【注】電信協会が「短波開放通達」(電業第748号)に基づく私設短波施設の許可第一号ですが、純粋に短波の私設再開第一号という意味では既に1月26日にJOAK東京放送局に許可されています。

JAZAの短波施設については施設者である電信協会の会誌に以下の記事が残されているのみではないでしょうか。

短波長の設備

近来短波長の研究も進み将に実用時代に入らむとするに方り、本所実験用私設無線電信の設備としても当然之が設備は必要となつて、最近短波長送受信装置を了し其の使用電波長は従来の分と併せ左の通となつた(大正十五年十月二十一日逓信省告示第二千五号参照)

使用電波長 三十八「メートル」 七百「メートル」 千六百「メートル」 (無線電信講習所便り 『電信協会会誌』第257号 1926 電信協会 p55)

9月29日に許可され、10月10日に工事落成。検定合格は10月10日またはそれ以降です。ちなみに戦前の無線局の「許可」とは、戦後でいう「予備免許」のことであり、また戦前の「検定合格」とは戦後でいう「本免許」です。本例では検定合格後に官報告示(10/20)されていますが、一般的には官報告示は許可(予備免許)の数日後にされるため、検定合格(本免許)は官報よりずっと後というのが普通です。

戦前の官報告示(予備免許の数日後)と、戦後の官報告示(本免許日を付して告示)は基準が全く違いますので、歴史として官報を参照する際にはこの点に注意を要します。

【注】 本サイトでは可能な限り、官報告示ではなく本当の許可日を調査して記載するようにしましたが、許可日とは戦後でいう予備免許の日です。検定合格日(本免許日)を知りたくても、免許人が公表されない限り、私たち第三者が知るのは困難ですから。

『・・・(略)・・・

大正十五年九月二十九日 本会施設私設無線電信工事設計変更の件許可せらる

右は実験教授用(短波長送受信装置)を新設するものなり

・・・(略)・・・同年十月十日 短波長送受信装置工事落成せり (『電信協会会誌』 前傾書 p2)

なおコールサインはJAZAで、38mの短波送信機は入力250Wのものでした。

35) 1926年(大正15年)10月8日、安藤博氏JFPAの短波実験を許可 (個人へ短波開放)

電信協会(学校)に次いで安藤博氏(個人)にも短波が許可されました。逓信省と海軍省のやり取りをご紹介します(陸軍省にも同様の資料が存在するはずですが見つかりませんでした)。

1926年(大正15年)9月23日、逓信省は「実験用無線電信電話に関する件」(電業第1404号)で海軍省・陸軍省に照会しました(下図[左])。タイトルは「実験用無線電信電話」ですが、『安藤博より「ラヂオテレヴィジョン」実験用として・・・』とあるように、テレビ電波の送信実験用でした。波長は80mと38mです。

そして同年10月1日に海軍省から「実験用無線電信無線電話に関する件」(軍務二第390号の2)で『本月廿三日附け電務第1404号の御照会の本件、当省においては異存なきの候』との回答がありました(下図右)。

1926年(大正15年)10月8日に両省の賛同を得て、安藤氏のコールサインJFPAに対して38m/80mの追加を許可したことを逓信省が海軍省に通牒(電業第2316号, 1926.10.8)しました(下図左)。

官報には10月19日に告示(下図右)されていますが、許可日は10月8日です。穴が開くほど何度見ても「安藤研究所」への許可ではなく、「安藤博」個人への許可です。もちろん最初の大正十二年のJFPA/JFWA免許も「安藤博」氏個人への許可であることはいうまでもありません。従って「昭和2年に有坂磐雄氏(JLYB)と楠本哲秀氏(JLZB)に個人として初の短波免許が与えられた」というのは誤りです。

安藤氏にはJFWAとJFPAの2局を許可されていましたが、今回38mと80mの増設が認められたのはJFPA(大正12年11月26日, 逓信省告示1679号)の方でした。業務別周波数割当表では85m実験バンド(3.5-4MHz)は固定業務と共用帯で、その中から具体的な実験用として波長80m(周波数3.75MHz)が選定されました。85m実験バンドのちょうど中央でした。38mの方は電信協会JAZAへの指定を継承しました。

◆ 安藤氏の短波無電放送の活動写真

ところで突然、無線式テレビジョンが短波に登場したことで戸惑われた方もいらっしゃるかも知れませんが、安藤氏が無線式テレビジョンを発明し、それを短波で実験しようとしていたことは既に知られていました。

というのは免許される半年前に、"安藤氏が完成した無電放送の活動写真" "何でも思ひのまま映写幕に 驚くべき大発明" "近く東京大阪間で実験す" と東京朝日新聞が報じていたからです。以下引用します。

無電で活動写真をとって、そのまま件の映像を遠隔の地へ無電で送り、いきなりそれをそこの映写幕にうつして見せる、といった驚くべき発明が天才無電発明家 安藤博氏 によって新たに発明完成され、既に去る一月同氏が右発明の特許申請をわが特許局へ申出でたので、同局では目下この驚異的大発明を審査中であるが近く安藤氏に対して右発明特許の許可を見るに至るらしい。』 (安藤氏が完成した無電放送の活動写真, 『東京朝日新聞』, 1926年5月16日, 夕刊, p1)


安藤氏のコメントにはっきりと「短波長」という言葉が登場しています。

ただの写真(静止画)電送なら今でもわけなく出来ることですが、盛んに動いているもの(動画)を無電でつかまえて、それをそのまま無電で遠方へ送って、またそのまま映写幕へうつして見せようと言うんですから、ちょっと骨が折れました。四〇メートル(7.5MHz)か五〇メートル(6.0MHz)の短波長で、電燈なら五十燈位の電力を使って、例えば今、大阪なら大阪で野球大会があるとすると、その野球の試合をやっている場面にレンズを向けて、その映像の光の感じが真空管に当たるとそれが電気に変わって、次にラヂオ発振機へ入って、先にいった短波長になって東京なら東京へ時間の差のない速さで伝わると、それを受信機で受けて逆に電波を光に変える器械にかけてすぐスクリーンに映写するといった具合な器械なんですが私はラヂオテレヴイジョンという名称をつけました。・・・(略)・・・』 (『東京朝日新聞』, 同, p1)

そして『早稲田新聞』で取り上げられましたが、1926年10月20日付けで逓信省の実験許可が出たとあります。これは短波送信機の検定(変更検査)に合格した日(あるいは検査合格後の運用開始日)のことでしょうか?

若き安藤君が驚異的の大発明、各国を出し抜いてラジオ映画に成功。校友の安藤君が世界的テレビジョンの一大発見を見るに至って去る19日付けをもって、いよいよテレビジョンが我が特許局から特許権を許可され、翌20日逓信省の実験許可が出た。("何でも思ひのまま映写幕に 驚くべき大発明 近く東京大阪間で実験する", 『早稲田大学新聞』, 1926年11月4日)

1927年(昭和2年)の時点で安藤氏は複数のテレビに関する出願を済ませており、出願公告されたものについて以下のように書いています。

公告せられしものは同期装置三件、送波像分解装置一件、送受信増幅装置及長波長増幅器十数件、送信機二件である。(安藤博, "無線電視の新発明", 『アサヒカメラ』, 1927.12, 朝日新聞出版社, p585)

1930年(昭和5年)に下りたラジオ、テレヴイジョン 特許第89130号(出願1926.9.15/公告1928.6.6/特許1930.11.14)の明細書にある図面を以下に示します。明細書には「短波長真空管発振器」という言葉が使われ、図中に「To Short wave Transmitter」という文字が確認できますが、その出願は大正15年の9月15日ですので大正時代末期に安藤氏が短波アマチュアテレビの実験をしていたであろうことが伺えます。

特許請求ノ範囲

可変強度光線ト之ニ作動的ニ対向セシメタル光電池ト該光電池ヲ「グリッド」回路ト電源上ノ適当ナル電圧ヲ有スル一点トノ間ニ接続シタル中間周波数真空管ト該真空管ノ出力ニ依リテ変調ヲ受クル短波長真空管発振器トノ結合ヲ特徴トスル「ラヂオ、テレヴイジョン」方式

安藤氏が短波テレビの実験免許を得た1926年の12月25日には高柳健次郎氏がブラウン管方式で「イ」の文字を伝送するのに成功しています。しかし短波を用いる安藤氏のニプコー円盤方式のテレビには種々の技術的苦労が伴ったようです。朝日新聞出版社は短波テレビの実験許可を得た安藤氏に、さっそく出稿を依頼したようですが、それが遅れて1927年2月号と4月号になりました。しかし発表できるほどの実験成果があがっていないのか、自身の実験にはほとんど触れず、世界のテレビ研究の紹介に留まりました。

記者曰(いわく)、安藤君は、早稲田大学在学中より電気の発明にその天才を発揮し、現にテレヴィジョンの研究に没頭して居る少壮発明家で、昨年(大正15年)これが政府の特許を得たほどである。本稿は正月号に執筆の予定であったが、君の風邪のため延期され、本号より掲載の運びとなった。 (安藤博, "テレヴィジョンに就て"の冒頭編集部の注書き, 『アサヒカメラ』 1927.2, 朝日新聞出版, p161)

その年の12月号で安藤氏は短波テレビの送信部を次のように説明しました。

筆者は種々考究の末、次頁第一図の如き方式によりて略ほ所期の目的を達し得ることを認めた。今図面に就て説明すれば、像分割装置よりの作動光線を受けた光電池は、該光線の明暗強弱をこれに相当する電流に変換する。この電流をまず直流増幅器をもって約数千倍に増大し、これを変調装置へ加える。右の変調装置は長波長発振機に対して関連せしめられ、ここにおいて光電池の出力は長波長の変調に変換せられる。この長波長を後に述ぶる特殊の増幅装置をもって充分に拡大し、更に変調装置に加える。この変調機は二十メートル乃至四十メートル位の短波長送信機(注:送信機の波長可変範囲が20-40mということらしいが、安藤氏の免許は38mと80m)に組合されて居るので、ここにおいて初めて短波長電波として、世界の隅々まで電視放送が達成せらるるのである。(安藤博, 無線電視の新発明, 『アサヒカメラ』 1927.12, 朝日新聞出版, p583)

そして送信部の技術的課題として高利得の長波長中間周波数増幅器と高能率の短波発振器を挙げています。

ここに注意すべきは本方式に於てその最も重要なる部分は中間中波数の増幅器であって、一億倍以上の増幅を達成するものである。なおまた短波長発振器の能率も重要問題であるがそれらは何れも後記する。・・・(略)・・・この部分では、少なくとも一億程度の増幅が必要であるので、普通の増幅器では役に立たない。完全なるシールディングと特殊の真空管の方式をもって真空球外部の静電的および電磁的の連結と、真空球内部の静電容量的連結を完全に除去する。・・・(略)・・・最近に於ては更に筆者は特殊の真空管を使用し一段当たり百以上の増幅を得るに成功したが、その詳細は他日発表することとする。・・・(略)・・・

短波長無線電信または無線電話と、テレヴィジョン用送信機との相違点は後者に於ては毎秒数万、数十万の点を発送せしめねばならぬので発振機の発振動作が極めて安定でかつ波長等に変北があってはならない。もちろんこれらの条件は無線電信電話に於ても同様なのであるがテレヴィジョンに於ては殊に切実に要求するのである。(安藤博, 前掲書, pp583-584)

また短波テレビ受信部の課題を次のように述べています。

受信部に就ても送信電流の数百万分の一が受信空中線に達するに過ぎず、しかもこれを光に変換したるものは再生像の現出するスクリーン上に一秒の何万分の瞬時より停止せざるものであるから、有効なる増幅という問題は送信部と同様に重要である。』 (安藤博, 前掲書, p584)

短波テレビは以上のような技術的課題があり、なかなか完成には至らず、免許から3年半後の1929年(昭和4年)に東京朝日新聞が "映画放送完成して きょういよいよ実験"とのタイトルで伝えるところでは、短波による定期的なテレビ実験放送(週2回)を始めたのは1929年2月1日でした。

『・・・(略)・・・ラヂオ・テレヴイジョンが例の無電界の天才安藤博氏(二七)によって発明されたことはさきに報じた所であるが、同氏は大正十五年以来この完成に専念し最近に至りこれの実験をなす程度になったので、今(2月)一日から毎週二回土曜および月曜午前十一時半より十二時まで、および午後一時半より二時まで、放送局の放送中を除いてこの最初の実験を試みることとなった。・・・(略)・・・』 (映画放送完成してきょういよいよ実験, 『東京朝日新聞』, 1929.2.1, 朝刊p7)

しかし安藤氏はこの頃(昭和4年)になると、機械式であるニプコー円盤方式の限界を感じ、この実験は自然消滅していったように思われます(ブラウン管式への方向転換)。とはいえ大正15年に逓信省が短波のアマチュアテレビ実験を認可したのは大英断だったといえるでしょう。

なお巷では昭和2年に有坂氏や楠本氏へ免許されたものが個人初の短波許可だとする誤解が見受けられますが、我国における短波許可の個人第一号は間違いなく安藤博氏で、それは大正15年です。

36) 1926年(大正15年)10月14日、東京電気JKZBの短波実験を許可 (企業へ短波開放)

もうひとつ、民間の企業にも短波が許可されました。東京電気(現:東芝)への許可です。逓信省の「短波開放通達」(電業748号)が学校、団体(企業)、個人に短波を許可するとしたものでしたので、これでそれぞれのケースが揃ったことになります。

(残念ながら逓信省から海軍・陸軍省への許可の可否を問合せる「照会」と、それに対する海軍・陸軍省からの回答書類は発見できません。)逓信省は両省の賛同を得て、1926年(大正15年)10月14日にこれを許可し、その旨を「実験用私設無線電信施設許可の件」(電業第2388号, 1926.10.14)で通牒しています(下図)。三省合意された我国初の周波数割当表にある実験用バンド(85m帯/42m帯/5.5m帯)のすべてから個別の波長が認められました。5.5mバンド(55-60MHz)は軍用業務と共用でしたが、選ばれたのはバンド上端の波長5m(60MHz)でした。

官報には10月18日に告示(下図左)、免許日は10月14日です。

送信装置(上図右)はサイモトロンSV204 x2個(入力500W)、空中線垂直型25m長、カウンターポイズ8m長4本(放射状)です。

受信装置(左図)の受信範囲は波長5mから100mで、再生検波+低周波増幅2段の0-V-2でした。

JKZBのQSLカードの右下(B文字の下、富士山の右すそ野)に薄く見える局長名「Y.IMAOKA」の文字に注目してください。

JKZBを運用していたのは日本素人無線連盟JARL創設に協力したひとりである今岡賀雄氏(自称コールサイン1ZQ)です。

● JKZBのQSLカード (カラー版)

【参考】 東京電気JKZBのQSLをカラー写真で公開しているBCLコレクターサイトがありますので、ご案内しておきます。カラーの美しいQSLです。(なおこのサイトでは日付を1936年とありますが、これは1926年だと考えられます)。

BCLNEWS.IT - QSL Gallery (http://www.bclnews.it/qsl/asia/giappone/osaka.jpg

今岡氏はJKZBの局長で、オペレーターが次に述べる大阪氏(S. Osaka)だったことが、このサイトの写真から読み取れました。

明治33年生まれの今岡氏は1924年(大正13年)3月に東京帝国大学物理学科を卒業し、同年4月に東京電気株式会社(現:東芝)に入社されました。プライベートな活動(1ZQ)として1926年(大正15年)6月にJARL創設に加わる一方で、同年10月14日には会社で短波実験施設JKZBの許可を得ました。晴れて正規局となりJKZBのコールサインで活発にアマチュア短波通信をはじめたようです(実験の交信相手がアマチュア局しかいませんので・・・)。今岡氏の記事を引用します。

今日までの実験の結果では、全世界にこの局の電波は行き渡っていることを知るのである。あるいは北米から、あるいは南米から、あるいは英国から純真なアマチュアーの手になったQSLカードが、その時々の詳しい状況を知らしている。・・・(略)・・・附記 JKZB局の試験は今後とも継続されるものでありますから、もし短波長に興味をお持ちの方があれば、筆者まで御一報下さい。またJZKB局の発信をお聞きになった方はご面倒でもご報告を願います。(今岡賀雄 [東京電気研究所無線実験室], 『マツダ新報』, 1927.3, 東京電気, p17)

英国のWireless World誌の「"Call Heard" extracts from readers' logs(読者の受信報告コーナー)」にJKZBを受信したとするレポートがあります。報告者は英領インド(現パキスタン)北部のラワルピンディ(Rawalpindi)在住のR. J. Drudge -Coates氏でした。

左図左が1926年(大正15年)11-12月の受信報告(1927年1月26日号掲載)で、Japan:-J局として3AZ, 1OZ, 1TSとともにJKZBが、そして左図右が1927年(昭和2年)1-2月の受信報告(1927年4月20日号掲載)で、Japan:-J局として官錬無線実験室J1PP、1SR、東京電気JKZBの3局が掲載されています。

また3月9日号にはJKZBの送信機の写真が掲載されました。この写真には"日本のアクティブ・アマチュア局"との説明文があります。『An active amateur station in Japan. The transmitter of JKZB owned by the Tokyo Electric Co., Ltd., Kawasaki, near Yokohama and operated by Mr. Y. Imaoka.

免許は会社に対するもので、海外では「アマチュア局」と認識されており、岩槻J1AAと同じく世界のアマチュアを相手に短波の通信実験を行なっていたようです。

さらにWireless World誌4月27日号の「Transmitters' NOTES and QUERIES」には、今岡氏が投稿した欧州出張計画が記事になりました(下記)。ロンドンには8月4日から10日まで滞在するので英国のアマチュアと交流したいので、独ハンブルクの連絡先へコンタクトを求めました。また今岡氏が出張中のJKZBの運用時間等が載っています。

今岡氏に代わってJKZBを運用する「S. Osaka」氏とは、JARL創設メンバーの一人とされる大阪佐熊氏です。(JKZBの許可が下りるまでは)大阪氏は今岡氏とともに「1ZQ」の自称コールサインで運用されたようです。・・・ということは1ZQという自称コールサインは今で言うクラブコールのようなものと考えてよいかも知れませんね(ただしアンカバーですが)。でも会社の研究室からこっそりオンエアーしていたのか?それぞれ両氏の自宅からの発信なのか?に関する記事は見当たりませんでした。

Mr. Yoshio Imaoka (JKZB), of the research laboratory of the Tokyo Electric Co., in Kawasaki, Japan, is visiting Europe this summer. He expects to be in London from August 4th to 10th, and would like to get into communication with amateurs interested in communication with Japan. Letters should be sent c/o Otto Reimers, Alsterdamm 4-5, Hamburg, Germany. During his absence Mr. S. Osaka will operate JKZB, which sends a regular test every Tuesday, Thursday and Friday from 0800 to 1300 G.M.T., and on the first Saturday of every month from 0800 G.M.T. to the next, day. CQ will he sent for 3 minutes each hour. 20 and 40 minutes after each hour, during the 24 hours. ("Transmitters' NOTES and QUERIES", Wireless World, Apr.27 1927, p36)

今岡氏は自らQSTにも写真付きで投稿し、1927年6月号でJKZBが紹介されました(向かって左が大阪氏、右の白衣姿が今岡氏)。

JKZB is an experimental station which is controlled by Y. Imaoka on the research staff of the Tokyo Electric Company.

The station is located at Kawasaki, half way between Yokohama and Tokyo and two miles off Tokyo Bay. ・・・(略)・・・

JKZB is in operation every Tuesday, Thursday and Friday from 0800 to 1300 G.C.T. On the first Saturday of each month, a 24-hour test is run, beginning at 0800 G.C.T. and continuing until the next day. A CQ is sent twenty and forty minutes past each hour. The wavelength used is 38 meters.

Mr. Imaoka is now traveling in Europe where he will be until the end of September when he is coming to the United States. He hopes to visit many amateur stations and will appreciate the aid of any amateurs who may assist him in his visits to these stations.

JKZB will be operated in his absence by S. Osaka who will be in charge of the station. QST, June 1927, p47)

また今岡氏は出張先のベルリンからJARL機関紙「無線之研究」(最終号, 1927.9)に「ハンブルク短波素人倶楽部訪問記」を寄稿されました。しかしJARL機関紙「無線之研究」はこの9月号で廃刊になりましたので、今岡氏が8月にロンドンのアマチュア達との交流に成功したかは不明です。

それにしてもJARL創設メンバーの中では有坂氏JLYBと今岡氏/大阪氏JKZBの二局だけが逓信大臣から短波を許可され、堂々と合法的に電波を発射していたのですから、(なかなか許可の出ない)他のJARL創設メンバーからは随分うらやましがられたかも知れませんね。なお今岡氏はJKZBの運用に専念し、個人免許(いわゆるアマチュア無線)は取得されませんでしたので、JARLが合法的なアマチュア免許保有者だけの組織になったあとは、客員という形でJARLに残られました。大阪氏については情報がありません。

東京電気のJKZBは同社の先進的な取組みの一つとして、経済界にも紹介されました。参考までに引用します。

The Tokyo Electric Company has been one of the pioneers in radio industry in Japan and they are at present engaged in the manufacture of receiving and transmitting tubes of all sizes as well as receiving sets of many different kinds from crystal sets with one stage of amplification to 18 tubes superheterodyne sets. This company is now actively interested in the short wavelength broadcasting and receiving and has just received an official license for a short wave broadcasting station JKZB with wavelength of 5, 38 and 80 meters. ("Broadcasting in Japan", The Tar Eastern Review, Dec. 1927, p533)

37) その後の東京電気JZKBについて (角氏JXFXによる運用)

さてその後の東京電気のJKZBですが、同じくJARLの創設メンバーのひとりである角百喜氏(自称コールサイン1MU、正規局JXFXのちのJ1DC)が運用されるようになりました。会社のコールサインもワシントン会議の決定に従いJKZBからJ1CTになりました。下図左の前列向かって左から三人目の足を組まれているのが今岡氏です。角氏も写っているはずですがどなたのか私には分かりません。

角氏(1MU, JXFX, J1DO)は1929年(昭和4年)に早稲田大学を卒業されたそうで、この写真(マツダ新報1932.3)の頃には20代半ば過ぎ(?)でしょうか?

このころの短波送信機はすでに1kWで周波数はアマチュアと同じ3.550, 7.100, 14.200MHzで、また別の送信機では56.800MHzも実験していました。下図右は各国からJ1CTに届いたQSLカードで、中央にはJ1CTのカードが見えます。JKZB/J1CTは諸外国のアマチュア局を通信対手局として実験が行なわれました。アマチュアが相手なら企業や電波主官庁との試験申込みが不要で手軽に実験できるからです。

『J1CT局は真空管ならびに送信機発達のための実験に利用された他に、なお電波の伝播の研究にも貢献しましてきた。すなわちこれらの目的のためには通信対手局を諸外国の多くの素人無線実験局に求め、近くは上海、フィリピンより遠くは北米、南米、欧州等ほとんど全世界の局と通信し、その受信状態の報告を受けたのである。なおこの報告の確認のため第一図に示されるようなQSLカードと称する受信状態等を記入したカードが送られる。これにはその国の風景風俗等を表徴したものもあり、また相互の親善の言葉も含まれている。これらの報告は電波の伝播状態を調べるのに実に貴重なものである。』 (角百喜, "無線実験局「J1CT」と「東京電気」, 『マツダ新報』", 1932.3, 東京電気, pp32-33)

角氏は昭和10年実用化した我国の実用移動体無線(警察の自動車無線)の設計責任者として有名です。このパトカー無線の元祖ともいえるものについてはJZ Callsignsのページをご覧ください。JARL創設メンバーのうち今岡賀雄1ZQ, 大阪佐熊1ZQ(今岡氏と共用), 角百喜1MUの三氏は東京電気JKZBの関係者で、個人的にアマチュアの免許を取得されたのは角氏(JXFX, J1DC)だけでした。

今岡氏は短波の大型20-40kW送信機の設計などを担当し、同社製造部長を経て1940年(昭和15年)に取締役技師長、1943年(昭和18年) に東京芝浦電気通信工業の常務に就任されました。しかし不幸なことに、その翌年に突然の病に倒れ帰らぬ人になってしまいました。

38) 1926年(大正15年)10月30日、短波受信も許可

短波開放通達の第三項は短波受信に関する規定でしたが、10月30日に東京府と長崎県で1人ずつ認められ、11月8日と11日の官報で告示されました。長く議論されてきた短波受信は、「自由」ではなく逓信大臣による「許可制」であることを国民に知らしめたのです。

【参考】 中波ラジオの受信も「自由」ではありませんが、こちらは所轄逓信局長による「許可制」でした。

適用されたのは安藤博氏らの送信許可と同じ無線電信法第二条第五号の「学術研究と機器実験」でした。

39) 1926年(大正15年)11月9日、有坂磐雄氏の短波施設可否を海軍・陸軍へ照会

とりあえず短波開放通達(電業第748号)に基づく、学校・個人・団体への短波送信および短波受信の許可第一陣は、軍部の賛同も得られて無事許可することができました。そして逓信省では第二陣として有坂磐雄氏からの短波送信申請(8/4受理)も認可する方針を決めました。

1926年(大正15年)11月9日、逓信省は「短波長私設無線電信無線電話施設の件」(電業第2746号)で、有坂磐雄氏の短波施設許可の可否を海軍省と陸軍省に照会しました。波長は38mだけです。のちに免許される際には、通牒の乙号三に『使用電波長ハ三十八「メートル」ニ限ル二十「メートル」用空中線ハ之ヲ撤去スル様工事設計ヲ変更スヘシ』と条件が付いており、有坂氏が波長20mも申請していたことがわかります。「アマチュア無線のあゆみ」p58にJLYBの許可書の写真が掲載されていますがそちらでも確認できます。どうぞご覧ください。つまり有坂氏は4月20日にわが国の実験用波長帯が85m(3.5-4.0MHz), 42m(7-8MHz), 5.5m(55-60MHz)に決まったことを知らないまま、米国アマチュアが使っている20m波も申請したわけで、氏が「海軍に勤める立場から電波行政事情に通じていた」 とは思えません

さてタイプされた照会書(下図)の左ページ中央に手書きの書き込みがありあす。

『本人ハ

海軍少尉 目下水校普通科学生

昨年 短波長研究 熱心ナルニヨリ第二艦隊長●ヨリ表彰セラレタルモノナリ』 (●は私が判読できませんでした)

前述の安藤博氏の申請の場合は新聞紙上で天才「第二のマルコーニ」としてその名が全国に知られているうえに、テレビの実験が目的なのでスパイ通信の恐れもありません。しかし有坂氏の申請はモールス通信と無線電話でしたので、軍部としてはその許可に慎重だったでしょう。受理した海軍軍務局がこれを書き添えて省内稟議に掛けたと想像します。

ではこれをもってコネ免許という見方ができるかも考えてみましたが、有坂氏の父君は第九代造兵総監を務めた有坂紹蔵中将、母君は前田享初代造兵総監の娘という海軍ではエリート家系だそうで、それには一切触れられていません。つまりコネ免許ではないと思います。

同年11月11日に、海軍省より「短波長私設無線電信無線電話施設の件」(軍務二第435号の2)で『十一月九日附 電業第二七四六号をもって御照会の本件、当省においては異存なき候 右回答ス』との回答がありました(下図)。

左欄外には手書きで『安藤博出願ノ 五〇〇ワット以下 波長三八米、八〇米 ノモノハ 十月一日許可セラレタリ』とあります。海軍において有坂氏の申請を認めるか否かにあたり、海軍の軍務局は「すでに安藤氏へ短波を許可した前例がある」と添書きしたうえで、軍令部や艦政本部へ稟議にかけたようです。海軍省ではこの申請を一個人からの案件として取扱ったと想像できます。

こうして無事賛同が得られたので通例ならば逓信省はただちに申請者本人へ許可書を、また海軍省と陸軍省には許可事実の通牒を行います。ところが何らかの事件が起きたようで逓信省は有坂氏に免許を交付するのに、これから3ヶ月半も掛かったのです。まったく不可解です。(陸軍省からの回答が発掘できていませんので、陸軍省が反対した可能性も否定できません。)

40) 1926年(大正15年)11月13日、逓信省が短波開放をプレス発表

軍部より安藤氏についで有坂氏への短波許可の合意も得られたことから、逓信省は民間の無線研究家に短波を許可する方針をプレス発表しました。これが初の公式表明で、日刊ラヂオ新聞(1926年11月13日)"民間無線研究家に短波長通信許可"より引用します(左図)。

『民間無線研究家に短波長通信許可

最近逓信省の方針変更され従来の出願に就て精細調査

従来、民間の短波長無線通信施設について、当局は不許可の方針をとり、送信はもちろん、受信の実験をも許されなかったが、最近民間のラヂオ研究家の技能が、著るしく進歩し来った事実に鑑み、今般逓信省は私設短波長通信許可の方針を定め、出願者について調査の上、技術優秀にして真に研究を目的とする場合に限り、短波長受信装置を許可することになった。今後は、ラヂオ、アマチュアの短波長受信に関する実験によって、ラヂオ界はさらに生気を呈するであろう。民間の短波長受信実験に対する逓信省の新方針によって目下電務局に保留されてあった従来の出願について、精細なる調査が行われているが、第一に許可を得たのは長崎県南高来郡島原町一三二渡部義正氏であって十一月八日附、次の通り私設無線電話施設を許可された。・・・(略)・・・なおこの許可については期限、波長その他運用に関して相当制限が加えられていると。』 ("民間無線研究家に短波長通信許可", 『日刊ラヂオ新聞』, 1926.11.13, ラヂオ新聞社)

【参考】 日刊ラヂオ新聞は大正14年に創刊された、ラジオ放送に関する総合日刊紙で、その日に放送される音楽番組の楽譜を示しながら聴きどころと作曲家の経歴を紹介したり、落語番組ならばあらすじ解説など、番組ガイドが充実しています。さらにラジオ受信機の製作記事、短波長をはじめとする先端技術、業界における特許係争問題、逓信省関係の行政方針や人事の動きはもとより、欧米での電波界の動きも伝えました。我国のメディア史研究の観点からも注目に値する新聞です。

ただし軍部の反応を慎重に見るためなのか(?)、逓信省は短波の「通信」(=送信)を許可するとしながらも、本文中では「送信」には触れず(安藤氏へ個人許可したことも伏せ)、ただ短波「受信」許可だけを詳しく報じるという、非常に歯切れの悪い記事になっています。実際このあと「短波アマチュアを制限すべし」との意見が再燃する事態が起きるのです。

41) 有坂磐雄氏の短波施設(JLYB, 1927年3月1日免許, 同4月6日官報告示)について

個人への短波許可という点では有坂氏は安藤氏に次ぐ第二号です。現代ではアマチュアテレビも立派なアマチュア無線のひとつの実施形態ですが、その当時、許可の是非が議論されたアマチュア無線とは、「短波のモールス通信で世界各国と交信する」もので、みんなが脳裏に描いていたアマチュア像にピタリ符合するのは(安藤氏より)有坂氏の方でした。

それにもかかわらず、創成期のJARLのメンバーの中には有坂氏をアマチュアと考えたくない人達がいたと伝えられています。有坂氏や次に述べる楠本氏の免許については、電波時報1959年(昭和34年)11月号から始まった連載「日本アマチュア無線史」では完全にスルーされています。終戦直後(1948-9)のCQ ham radio に笠原功一氏が連載された「JARL今昔譚」にもありません。

『世界に語るDX アマチュア無線』(笠原功一, 日本放送出版協会, 1949)には『わが国アマチュア無線家としては、安藤博氏がまず記されるべきかと思う。同氏が1923年ころ、わが国で米国のアマチュア無線を受信していたのは確実のようであるが、1924年には濱地常康氏が米国との交信(少なくとも先方で受信した)の記録を立てられた。しかし本格的なアマチュア無線の起こったのは、1925年(大正14年)のころから、短波電信による国際通信に参加した以降のことであった。・・・(略)・・・しかし当時は、未だわが国の法的にはアマチュア無線は認められていなかった。認める途がわざと閉ざされていたのであった。ここにアマチュア無線家の苦しみがあった。そして約2年のいばらの道を通って昭和2年秋、アマチュア無線は「私設実験用無線」として、ともかく存在を公認されるに至ったのである。』とあります。

ここで『わざと閉ざされていた』に着目して下さい。私はここに有坂氏をアマチュアとして認めたくない昭和2年秋組の本心が見え隠れしているのではないか?そう思いました。

笠原功一氏は、「法的にアマチュア無線が認められていなかった」というよりも、認める途はあった(認めるための法はあった)のに、それが自分たちには(不平等にも)閉ざされていた。これが、JARLメンバー共通の苦悩だったとおっしゃっています。裏返せば「認めるための法」(無線電信法第2条第5号)の適用を受けることができた恵まれた人達もいたわけで、それが濱地氏、本堂氏、安藤氏です。その理由は本ページ内の<短波開放通達(電業第748号)の、もうひとつの大いなる意義「法の不平等適用の解消」>をご覧ください。笠原氏は『わが国のアマチュア無線家としては、安藤博氏がまず記されるべきかと思う』と認めた上で、けれども「法律の平等な適用」によるアマチュア無線家は昭和2年秋、すなわちJXAXの草間氏以降だとおっしゃっているようです。JARL創設メンバーの一部の方々は、有坂氏を(自分たちとは境遇が違う)恵まれた側だと、思っていた可能性が考えられます。

ではアマチュア無線の歴史から長らく外されていた有坂氏や楠本氏が現れはじめたのはいつでしょうか?詳しく調べたわけではないのですが、1951年(昭和26年)に出された日本無線史のJARLのページで短く触れられた他では、CQ ham radio 1961年(昭和36年)3月号冒頭の「今月のメモ」に『1日 ★東京逓信局へ出願(大正15.8.4付)した私設無線電信無線電話局に対し、JLYA楠本哲男、JLYB有盤雄の両氏許可す。(昭和2年)』が最初かもしれません。 【注】 JLYA→JLZB、哲男→哲秀、盤雄→磐雄の誤植です。

1976年(昭和51年)発行の『アマチュア無線のあゆみ』では『昭和2年[1927年]9月10日、告示第2002号をもってJXAX草間貫吉氏にわが国で個人の短波私設無線電信無線電話実験局が初めて許可された *15) (p70) として、その脚注15)でただ一言『前述のJLYB、JLZB は例外として考える』との判断を示しました。

しかしその一方、別のページ(pp58-59)ではJLYB, JLZBを少し取り上げました。『昭和2年[1927年]3月1日、大正15年8月4日付けで東京逓信局へ出願していた、JLYB有坂磐雄氏、JLZB楠本哲秀の2局に免許が下りた。図2・4は有坂氏(2BB, JLYB, J1CV, J6CD, J2KR)の許可証、図2・5はQSLカードである。両局のうちJLZBは逓信省の職員で監視のための局であったことが今日明らかになっているのでアマチュア局とは認めがたい。

一方、JLYBの有坂氏は当時、海軍大尉であった。筆者は氏の死去数ヵ月前に「貴方は当時海軍という特殊な立場で免許を得たのか?」とぶしつけにも質問に及んだのであるが、氏は「いやそういう事は全然無かった。ただ当局から君は第一号であるから慎重に行動するように・・・・・・と言われた」とのことであった。有坂氏はJARL盟員で、後年のCQ会会員でもあったが、当時のJARLの人達はJLYB局をアマチュア局と認めていないようである。』 (pp58-59)

このp70とpp58-59に別々に記されているのが、「アマチュア無線のあゆみ」編集幹事の中でも、有坂氏JLYBや楠本氏JLZBは「これまでどおりスルーすべき」との意見と、いや「触れるべきだろう」とする意見があったように想像できる部分です。

この書では楠本氏を例外とする理由は示されていますが、創設メンバーの方々が有坂氏をアマチュアと認めたくない理由はさっぱり明らかにされておらず、Web上ではいろんな憶測が飛んでいます。その代表的なものが「職業がらみの免許では?」ですが、これは断じてあり得ません。なぜきっぱり断言できるかというと、何度も書いてきたように戦前は、逓信大臣・海軍大臣・陸軍大臣それぞれが所管する無線施設に許認可権を有していたので、逓信大臣が「海軍の仕事がらみの無線施設」に免許を与えることは不可能だからです。だからこれはありません(そもそも「海軍の職業がらみで逓信大臣の免許を得た」とは、無線の免許権限が郵政省に一本化された戦後の発想なので、大正時代当時のJARL創設メンバーにそんな考えがあったかは疑問です)

Web上では憶測がさらに憶測を呼び、「有坂氏は海軍の航空機無線やレーダーの開発技術者で業務での無線を使う立場から・・・」といったものまで散見されます。しかし免許申請した大正15年当時の有坂氏は戦艦金剛の通信士で海軍水雷学校にも通っていたので、そんな話ではありません。有坂氏が船を降りたのは、『私は昭和十年のすえ、航空母艦鳳翔通信長から兵器部無線課部員としてここに転勤した。』 (有坂磐雄, "私が完成させた電波兵器 航空レーダ", 『丸』, 1961.11, p38)とあり、10年以上も時代がズレていますので、これは完全な誤解です。

【参考】兵器部無線課は昭和8年に目黒の海軍技研から分離独立して、海軍航空技術廠(横須賀)の中に新設された部署。

ですが私はこれらの憶測を「間違っている」と簡単に片付けられないと思うのです。Web上で有坂氏を(アマチュアとは認めがたいという話題を)取り上げた方々は、なんとか読者にその理由を解説しようと知恵を絞られたわけですから・・・。そもそも『アマチュア無線のあゆみ:JARL50年史』で有坂氏をアマチュアと認めがたい理由を明らかにしないまま、「これを例外と考える」との歴史判断を下した点こそが一番の謎であり、原因ではないでしょうか。官報に発表された許可内容では有坂氏JLYBも草間氏JXAXも差がないので、もし説明困難なら有坂氏がアマチュア短波電信電話の第一号(安藤氏はアマチュア短波テレビの第一号)とするのが普通の考え方ではないでしょうか。

本ページ前半のJ1DCXの事件でも書きましたが、もし仕事がらみの運用なら海軍軍人の立場にて「2BB」のコールサインで済ます選択肢もあったのに、それでも有坂氏が逓信大臣に免許申請したのは、「純粋なるアマチュア無線」の免許が欲しかったからです。これは間違いないでしょう。そして私が調べた範囲ではその取得にコネがあったようにも思えませんでした。

42) 秋にはJ8AAによる京城放送局JODKの短波中継が実用レベルに

さて朝鮮逓信局の無線実験室J8AAはその後どうなったのでしょうか?東京放送局JOAKの短波中継実験はJOAK自らが短波実験局を施設したこともあり、官練J1PPは(JOAKの中継試験を中断して)国内短波網(実用通信)建設の中央局の役割を担うことに主力を移し始めます。

また京城放送局JODKの短波中継実験は朝鮮逓信局J8AAにより研究・改良が重ねられていましたが、大正15年の秋には実用的なレベルにまで達したようです。以下に岩槻受信所の酒井所長の記事を引用します。

『短波長無電で有名な東京無電局岩槻受信所では目下世界各地との通信が完成され、植民地を主とする十四局を対手局として毎日通信が行われている。 (岩槻受信所の)酒井所長の説によると「昨今、京城の短波長ラジオが明瞭に聞こえている。女アナウンサーの講演や音楽が手に取る様に聞こえる。波長はわずか四十メートルである」 』 (完成した岩槻無電局, 『読売新聞』, 1926.11.11, 朝刊p9)

ほぼ実用レベルに達した朝鮮逓信局無線実験室J8AAは、1926年11月13日の日刊ラヂオ新聞に試験内容を発表し、これを公開試験として、一般研究家よりのレポートを求めました。7.32MHzの無線電話で、おそらくJODKのサイマル送信ではないでしょうか。

『朝鮮逓信局の短波無線電話 受信した人は通知せよ

朝鮮逓信局では、先日来左記により短波長無線電話送信試験中であるが当分の間なお継続して放送試験する事となって居るが、受信された方はその成績や受信機の状態の通知を受くれば試験上、大に便宜とする次第である

一、波長 四一米 (7.32MHz)

二、日時 毎日午後一時より二時、午後六時より七時迄(日曜祭日を除く)

三、電力 発振真空管プレート入力一五〇ワット 空中線電流一.五アンペア ・・・(略)・・・』 (朝鮮逓信局の短波無線電話 受信した人は通知せよ, 『日刊ラヂオ新聞』, 1926.11.13, ラヂオ新聞社)

43) 1926年(大正15年)11月27日、楠本哲秀氏の短波施設可否を海軍・陸軍へ照会

1926年(大正15年)11月27日、逓信省は「短波長無線電信実験施設の件」(電業第2918号)で、楠本哲秀氏の短波施設許可の可否を海軍省と陸軍省に照会しました。楠本氏の申請も波長38mだけでした。有坂氏ご本人が8月4日に東京逓信局に免許申請したとおっしゃっているようなので間違いないといますが、楠本氏がいつ申請されたかについては不明です。両者の申請日が同じ日の記述も見受けられますが、信憑性は薄いと思います。軍部への照会が有坂氏(11/9)より18日遅いので、おそらく申請も有坂氏より幾分遅かったのでしょう。

同年12月7日に、海軍省より「短波長無線電信無線電話施設の件」(軍務二第454号の2)で『本月二十七日附 電業第二九一八号ヲ以テ御紹介ノ本件 当省ニ於テハ異存無之候 右回答ス』との回答がありました(下図)。文頭では「十一月七日」となっていますが、角印にある「十一月三十日起案、十二月七日発付済」が正しいと考えられます。

やはり左欄外に『従来 同一ノモノヲ認メ居レリ』と書き添えて稟議にかけられたようです(安藤氏や有坂氏のことでしょう)。今回は10日ほどで承認されています。

こうして1926年(大正15年)12月7日、海軍より楠本氏への短波施設認可への賛同が得られたにも関わらず、やはり逓信省は楠本氏への許可書の発行を保留にしてしまいました。有坂氏と同じ措置です。(陸軍省からの回答が発掘できていませんので、陸軍省が反対した可能性も否定できません。)

44) 楠本哲秀氏の短波施設(JLZB, 1927年3月24日免許, 同4月5日官報告示)について

楠本哲秀氏JLZBは1927年(昭和2年)3月24日に免許されました。有坂氏JLYBの免許(3/1)より23日遅れで波長は80mでした。楠本氏の短波局に関する軍部への照会は波長38m(上記照会書をご覧ください)です。軍部が賛同したのは波長38mなので、波長80mへ変更するには軍部の再了解を取付ける必要があります。これについては後ほど述べます。

「アマチュア無線のあゆみ」では『JLZBは逓信省の職員で、監視のための局であったことが今日明らかになっているのでアマチュア局とは認めがたい。』とあります。後年のインタビュー記事で楠本氏自信が東京逓信局の監督課(不法局の探査も担当)で短期間働いたことがあると語られていますのでこれは間違いないようです。ただし東京逓信局なので、『逓信省の職員』というのは誤りです(ここでも逓信省と逓信局が混同されています)。

ですが東京逓信局の監督課で働いた事があった件と、JLZBの免許目的が「監視のため」だったかはまた別の話で、別途検証が必要でしょう。とはいってもJLZBの免許目的など、この申請に関わった東京逓信局や逓信省電務局の一部関係者と、申請者の楠本氏しか分かりませんので、私は検証が難しいと思うのですが、いったい何をもって「今日明らかになっている」のでしょうか。これもよくわかりません。有坂氏や楠本氏の件はあらためて触れたいと思います。

45) 不法短波施設の取締りと、有坂氏・楠本氏の免許発行保留の関連は?

有坂氏や楠本氏からの申請について審査した逓信省は、それらを免許する方針を固め、11月9日と27日に海軍・陸軍に彼らを許可して良いかを照会しました。それにOKが出たのに、逓信省が許可の発行を一旦保留したのですから、この時期に何か短波許可方針にブレーキを踏まざるを得ない大きな事件が起きた可能性が高いと私は考えています。

有坂氏の免許は翌年3月1日(JLYB)、楠本氏の免許は翌年3月24日(JLZB)ですが、はじめから春に免許するつもりなら、なにも11月に両軍へ照会する必要などないのですから・・・。この謎の免許保留事件について想像力を働かせてみました。

J1DCXやJARL結成の話題でも触れましたが、米国の6AJM, 6CJPが神戸のTabagawa(谷川)氏3WWと交信したとQST6月号に投稿され、谷川氏の住所が掲載されてしまったのです(左図)。軍部に対して有坂氏や楠本氏への免許可否を照会していた頃、谷川氏3WWが大阪逓信局から出頭を命じられ、続いて笠原氏3AAも出頭を命じられたあと、正規の申請手続きに入ったそうです。このニュースはただちに米国ハムに伝わり、QST誌1926年(大正15年)12月号はこれを報じました。

『 We understand that the amateurs of Japanese are now applying for amateur station licenses, and that it is likely that they will be issued soon. So far, all amateur work has to be done undercover. j3AA and j3WW have applied for licenses. j3AA for five months has been using a single 5 watter and has worked South Africa, Uruguay, the sixth and seventh U.S. districts, Australia, New Zealand, Honolulu and the Straits Settlements. 』 (IARU News, QST, Dec.1926, p60)

このタイミングで不法短波施設の取締り方法について、議論(個人への短波不許可論)が再燃してしまったことは十分考えられます。そしてその取締り方針が固まるまで、有坂氏と楠本氏への免許の発行が一時保留になってしまったと考えれば、軍部の賛同を得られたにも関わらず、このあと4か月近くも保留されたという異例の事態の説明が付きます。

なお笠原氏3AAは大阪逓信局から開局申請書を何度も書き直されて、どうにか正式に受理されたのは(御本人の記事によると)1927年(昭和2年)1月3日とのことです。このように1926年(大正15年)10-12月頃はゴタゴタの真っ最中だったと想像できます。有坂氏と楠本氏への免許の発行保留はまさしくこの時期に起きました。

46) 平磯無線JHBB(35m, 40m)無線電話実験 (11月下旬~12月上旬) ・・・2016年5月11日更新

電気試験所の平磯出張所は1926年11月より波長35mと40mで無線電信・電話の実験を行い、北米・南米・欧州から受信報告を受取りました。

『・・・(略)・・・大正十五年十一月下旬より十二月上旬に至る期間において、本機を仮に動作せしめ、波長35米および40米の電波をもって、電信および電話を試送したるに、北米合衆国はもちろん、遠く英国、ノルウェー、南米諸国より強感を報じ来りたり。』 (高岸栄次郎/川添重義, "二.短波長無線電話機に関する研究", 『電気試験所事務報告』大正15年度・昭和元年度, 電気試験所, p118)

● 平磯JHBBのQSLカード

高岸氏は岩槻J1AA経由で英国のA.E.Livesey氏(G2BZT)から受信報告を受取りました。これに応じて英国へ送ったJHBBのQSLカードが、ビンテージQSL収集家のWebサイトで公開されていますので、ご紹介しておきます。J1AA/J1PPが共用した和風QSLカードとはまた一味違って、世界のアマチュアのQSLを参考にした、いかにも"それっぽい"デザインで、個人的にはこちらの方が好きです。

A Vintage QSL Card Collectionhttp://www.qslcollection.co.uk/113.htm

なお平磯無線関係者により発掘された「平磯短波無線実験局JHBBのQSLカード発受簿」(http://hp.jpn.org/JR1YPU/JHBB-QSL/)にLivesey氏が1926年(大正15年)11月21日にJHBBを受信した旨の受信報告カードが記録されています。そしてこのLivesy氏からの受信報告カードは2カ月後の1927年(昭和2年)1月26日に岩槻無線J1AAを経由して、平磯無線に届けられたことが分かります。

またJARLの笠原氏3AAがこの平磯JHBBの11-12月の試験などに触れられていますの紹介しておきます。

『一、跳躍区間

・・・(略)・・・先達JHBB(平磯)が四〇米帯で電話を行った。この時に関東地方で高声にこれを聞かれた方は甚だ少なかったであろう。しかるに当大阪地方に於ては一段増幅をもって優に高声器を鳴らすだけの音量があった。そして夕方の五時少し前、甚だしいQSS(フェーディング)がはじまり、五時を五分も過ぎた頃にはもはや何物をもきく事が出来なかった。その変化の急激なることまさに驚くべきで、はじめての人は必ず彼我(ひが=相手か自分か)いずれかの故障と思うであろう。この様にきこえない距離をスキップした距離、跳躍距離と称す。即その円周内に於ては極近き所以外、全然その電波を感ぜざるに至るのである。・・・(略)・・・

三、時季の問題

春夏秋冬によっていかに変化があるか。夏の夜、関東地方の信号を私はたびたび聴いたがごく安定な又強いものであった。しかるに今は夜になれば平磯の如き超強力なものさえ全然当地に於てはきく事が出来ない。かへってそれよりも一層遠い北海道落石(JOC)が強く入る。この問題解決の鍵もまた熱心にして多数なる我々アマチュアの努力に置かれている。・・・(略)・・・』 (笠原功一, "短波長電波の通達", 『無線之研究』, 1927.1, 無線之研究社, pp33-34)

47) 日本初の無線写真電送実験を行ったJ1PP(40m, 500W)

我国の短波通信は大正末期に急速に立ち上がりました。大正14年春の日米初交信にはじまり、夏には世界中と交信し、12月には短波長無線電話での太平洋横断通信に成功しました。大正15年春からは実用通信に向けて国内連絡通信網の建設に着手。秋には私設無線に短波帯を開放しました。そして大正15年12月にはJ1PPの短波帯による写真電送実験にまで発展したのです。J1PPといえば無線電話というイメージが強烈ですが、J1PPは日本初の無線写真伝送にも使われたのです。

1925年(大正14年)に米国のベル研究所が写真電送を開発し、翌1926年(大正15年)にはその営業通信(有線)が始まりました。我国でも1924年に大阪毎日新聞社と東京日日新聞社、1925年には逓信省が、あいついでドイツのコルン式写真電送機を輸入して研究を始めましたが、まだ動作は不安定なものだったようです。

1926年(大正15年)12月9日より10日間、官錬無線実験室にあった逓信省工務局の短波実験局J1PPから東京中央電信局に仮設した短波受信装置へ向けて、波長42m、出力500Wにてベラン式写真電送の短波伝送実験が行われました。この短波送信は三省協定に基づいて海軍にも通告されています(ベラン式写真電送実験ニ関スル件, 大正15年12月9日, 電業3041号, 逓信次官より海軍次官宛)<左図:クリックにて拡大>。また同時に有線による実験も実施されました。

いわゆる有線公衆通信を担当する逓信省工務局電信課で、1925年(大正14年)当時にコルン式の実用化試験を担当していた大内誠三氏が、フランスからのベラン式の売り込みを受けて実施した評価試験でした。その回想記事を引用します。

『コルン式が原板製作に手間がかかり、また写真の電送にも程遠く機械的にも面白くないので、逓信省がためらっているのをみてとってか、大正15年の末ごろに仏のエドワール・ベランそのものが、その発明する写真電送機を売り込みにやってきた。当時は写真電送機はおのおのがその構造原理等を秘密にしていて買わなければ詳細を教えない一般情勢であったので、詳しく知る由もなかったが、伝送された写真はコルンのものより遥かに高級なものであった。逓信省はこれの実験を許可することとなり、そこで機械の操作はほとんどを仏人技師がやり、東京中電でやる関係から岡本君等が応援をして、東京横浜間電信ケーブル折返し試験、ならびに中電と逓信官吏練習所の間に無線によるテストを行った。』 (大内誠三, "写真電送の思い出", 『電気通信』, 1960.10, 電気通信協会, p34) 【補足】中電=中央電信局

この公開試験に立ち会った小山文吉氏(のちの湯浅蓄電池の社長)の記事を引用します。

『ベラン式写真電送機の発明者として有名なる「エドワード、ベラン」氏が来朝したのを機会に、東京中央電信局の試験室でその実験がされたので、ここに実験の概要といわゆる「ベラン」式について紹介することにした。「ベラン」式実験当日は安達逓相、井上鉄相を始めとして両省の首脳者達、それに陸海軍における無線のオーソリティーなど大分参観者があった。

さて実験の方法は、有線電信によるものと、無電によるものとの二様に行われ午前十時から午後五時頃まで二十有余回にわたり、各種の写真、肉筆文字などの電送が試みられ、非常に好成績であった。即ち有線電信の場合には東京中央電信局から横浜の電信局に至る往復の電信線が利用され、この往復電信線は横浜で接続されたので、つまり東京から発せられた電信電流は、横浜を迂回して再び東京中央電信局に還って来るのである。それで同局の試験室に装置した機械で送信および受信の両作用を同時に参観の人々に見せることが出来るわけだ。

また無電の方は、芝公園の逓信官吏練習所にある無線電信の発信機を利用するために同所と東京中央電信局との間を有線で接続し、中央電信局で発送すべき写真は、この電信線で一旦練習所に至り、そこの無電送信機の』発振電流に変調を与える。即ち同所のアンアテナから放射される電波を搬送電波として写真の電送が行われるのである。なおかくして放射された電波は再び中央電信局のアンテナを通じて受信機に受け入れるのであるから、この実験もまた有線電信による場合と同様、送信機をわざわざ芝の練習所まで持って行く代わりに、同じ中央電信局内で送信ならびに受信の両方が同時に見られる仕組になっていた。』 (小山文吉, "「ベラン」式電送写真に就て -中央電信局に於けるベラン氏の実験を見る-", 『科学の世界』, 1927.2, 科学の世界社, pp8-9)

また日本無線史第二巻にもこの実験が記録されています。

『ベラン式写真電送の実験は大正十五年十二月仏人ベランが来朝した際、三井物産の援助によって公開された。実験は大正十五年十二月東京中央電信所に於て、有線および無線の両方式について行われた。有線によるものは、東京横浜間の電信回線を用い、折返し金属回路として使用した。

他方無線によるものは、東京中央電信局にベラン式写真電送装置(送受信機共)をおき、電話線を介して写真電流を芝公園内の逓信官吏練習所に送り、同所に設備されていた短波無線電話送信機(J1PP)の変調器に導き、電波の発射を制御させた。かくして発射された電波は東京中央電信所無線調整室で受信され、写真電送受信機に導かれた。この実験は公開に便利なため同一場所で送受信が行われたので同期は問題でなく、電送に用いられた原画も半調部をもたない黒白の比較的簡素な内容のものであったが、受信結果は極めて良好であった。第一一・一図はこのときの受信画の一つである。』 (電波監理委員会編, "第十一章 無線写真電送とテレビジョン", 『日本無線史』第二巻, 1950, 電波監理委員会, p161)

J1PPによる無線写真伝送実験は新聞記事にもなっています。

『ベラン氏の来朝を機とし、実験を試みたところ、有線及び無線電信共に優秀な結果を収めることが出来た、かくして写真電送がわが国においても実験の域を脱し、実用の域に至ること必ずしも遠からざるべく、近き将来において通信事業界に本方式に依る一新機軸が現出さるる事と信ずる。』 ("写真伝送-短波長-ラジオ鉱石化 逓信省調査", 『中外商業新報』, 1927.1.11)

このあと紆余曲折の開発合戦があり、逓信省による写真電送の公衆通信業務の営業取扱が始まったのは1930年(昭和5年)で、NE式純国産写真電送機が採用されました。

48) 1926年(大正15年)12月13日、学校用に140-145m、素人用に80mを承認

1926年(大正15年)12月13日は海軍・陸軍・逓信三省協議会にて、素人(アマチュア無線)用に与えてきた短波長38mに加えて80mも許可すること、そして特例的に学校実験用に使っていた波長140-145m(2.069-2.143MHz)帯が(火花電波を禁ずとの条件付で)正式承認されました。

その三省会議の議事録(下図)ですが、特に左側(2/2)の最後の方にご注目ください。(クリックで拡大)

(2/2) (1/2)『 ◎短波長一四〇-一四五米ヲ学校実験用トシテ使用セシムルコトヲ海軍陸軍共承認

但シ今後ハ火花式ヲ許可セス(従来ハ二三許可セルモノアリ)

素人局ニハ従来三八米ノミ許可セルモ今後ハ八〇米ヲモ許可スルコトヲ三省承認

◎短波長 三七.五米 ― 四二.八米 ヲ固定局用ニ共用スルコトニ改ム 』 (海、陸、逓 三省主務者協議決定事項, 大正15年12月13日於中央会議室)

逓信省は11月27日に海軍省と陸軍省へ楠本氏への免許(波長38m)の可否を照会し、(少なくとも)海軍省は11月30日賛同方針を決め、稟議の後12月7日に(38m)許可に異存なしと逓信省へ返答しています。ところが12月13日に開かれた三省会議の席上、逓信省はこの許可波長を80mに変更する旨を伝え、三省で承認を受けています。なぜ楠本氏の申請が急に38mから80mに変わったかはわかりませんが、ここでは『素人局には従来38mのみを許可せるも』の記載に注目してみます。

<第一の疑問>・・・安藤氏の短波許可は素人局扱いではなかったのか?

安藤博氏に個人としての日本最初の短波許可があったのは10月8日で波長は38mと80mの二波でした。それにも拘らず「素人局には従来38mのみを許可」とありますので、「では・・・安藤氏は素人局として認識されていなかったのか?」という疑問がまず起こるでしょう(これについては下で述べます)。

<第二の疑問>・・・大正15年に許可された初の短波素人局は誰?

次に「では・・・従来38mのみを許可された素人局とは誰なの?」という疑問があります。海軍省や陸軍省からしてみれば、自分たちが逓信省の照会に『異存無きの候』と回答した日が許可日です。逓信省が申請者に許可書を出した日ではありません。有坂氏の免許照会時には欄外に「安藤博の出願は10月1日に許可せられたり」との書き込みがあったように、海軍にすれば10月1日の逓信省への賛同回答日が安藤氏への許可日だと考えています。

仮に安藤氏の個人短波免許を三省が素人局と認識していなかったとしましょう。すると有坂氏や楠本氏が12月13日の三省会議までに両軍省から「38mで許可済み」だったことになります。両氏に対する陸軍省側の短波許可賛同の通知を私は確認できていませんが、この会議までに陸軍省も賛同していたと考えられます。

我国の電波行政権を握る逓信省・海軍省・陸軍省の三省会議(大正15年12月13日)で、すでに我国には短波の素人局を許可していると認識しており、それが議事録に残されている事実を、アマチュア無線史上見逃してはならないでしょう。戦前における電波行政はこの三省会議が頂点組織でしたので、ことさらこの議事録の持つ意味が大きいと感じました。

さて第一の疑問に戻ります。中波時代には濱地氏、本堂氏、安藤氏は素人局として認識されていました。少なくとも逓信側の記録では濱地氏と安藤氏は素人局、陸軍省側の記録では本堂氏を素人局と認識していたことを示すドキュメントが残っています。では安藤博氏JFPAの中波送信機は素人局だが、同じ安藤氏の短波送信機(テレビジョン)は素人局ではないと考えたのでしょうか?

有坂氏への免許にあたり、海軍側では(電信協会でも東京電気でもなく)安藤氏への許可が前例として添え書きされたことを思い出して下さい。つまり安藤氏も有坂氏と同種の素人局だと考えていたことが伺えます。

うまく説明できないのですが、安藤氏が素人局という認識はもともと三省にあったはずですが、当時に議論されたのは「モールスで外国と交信する素人局を許可するや否や」でしたので、安藤氏のテレビジョンの許可は「それはさておき・・・」という事ではないでしょうか。

49) 日本素人無線連盟JARLの結成時メンバーは何名か?

私が学生の頃は「JARLは大正15年6月12日に30名で」がお決まりの文句でした。今回もういちど調べてみると(日付はともかく)大正15年の結成直後から30名だったようです。

◎1926年(大正15年)9月 ・・・"Japanese letter to A4AN", The Brisbane Courier, Sep.3 1926, p19

下図はオーストラリアのThe Brisbane Courier紙(1926年9月3日)で、地元アマチュア4AN局が、神戸の笠原氏3AAから受取った手紙が新聞記事になっています。

『In Japan there are about 30 amateur stations now, and they have organized JARL, (Japanese Amateur Radio League) in Japanese tongue, 'Nippon Sirooto Musen Renmei.' The members of it in the three districts are : - 3AA, 20 watts; 3AZ, 30 watts; 3BB, 3KK, 100 watts; 3WW, 60 watts; 3QQ, 20 watts. - Very best regards, Koichi Kasahara. 』

笠原氏(3AA)は約30局でJARLを結成したよと伝えています。余談ですが設立時は日本アマチュア無線連盟なのか、日本素人無線連盟なのか、また"にっぽん"なのか、"にほん"なのかに興味があったのですが、笠原氏の手紙から判断するに「にっぽんしろうと 無線連盟」だったようですね(なお無線之研究1926年12月号p139にJARL盟則の一部が掲載されていますが、大正14年11月時点になると、カタカナの日本アマチュア無線連盟に変わっています)。

◎1926年(大正15年)11月 ・・・"(IARU News) Japan", QST, Nov 1926, p48

下図は米国のQST誌11月号です。日本にできたJARLとJARUの2つの団体の紹介で、JARLは学生を中心に30名で運営していると紹介しています。投稿者名はありませんが、もしかすると笠原氏かもしれません。

『At present the J.A.R.L. has 30 enthusiastic followers, most of whom are students in high school. 』 とあります。

◎1931年(昭和6年)2月 ・・・梶井謙一, "アマチュアラヂオ講座", 『無線と実験』昭和6年2月号, p640

『JARLは大正十五年の春、当時東西に散在して居た三十名許(ばか)りのアマチュアが相互の親睦と共同研究との目的を以って組織したもので、同年六月に其の設立を海外アマチュア団体に通告して国際団体としての基礎を固めた。』

◎1940年(昭和15年)12月 ・・・梶井謙一, "過去15年に於ける我が国アマチュア無線の実績", 『無線と実験』昭和15年12月号, p18

『 法的にはモグリ、即ちアンダ・カヴァの悲境にあった。しかし彼らは甚だ勇敢であった。大正15年に、これらの一群のアマチュアが日本アマチュア無線連盟を組織して、国際場裡に日本のアマチュア無線を誇示したときの姿は、今から見てもなお堂々の武者ぶりであったと評し得よう。その6月、日本アマチュア無線連盟結成の宣言が、盟員の手作りの送信機を通じて海外に放送された。この宣言文(・・・というには、少し貧弱であるが)は、すぐ米国のQST誌をはじめ、欧州、南米等の無線雑誌に現れた。すなわち、アマチュア無線に関して、一人前の国であることの宣言は大正15年6月に行われて、外国の無線関係者に一つの話題を与えたのであった。こうして我が国のアマチュア無線は国際場裡に巣立った。当時の短波アマチュア局は約30局であって、いずれも典型的なアマチュア気質をもってかくの道に没入して行った。 』

● 米商務省がまとめた世界の無線局統計

これは番外編ですが米商務省のBureau of Foreign and Domestic Commerceがまとめた、"Wireless Communication in the British Empire"(TIB No.551, Mar.1928)という資料の最終ページに参考資料として世界の無線局数の表があります(下図)。アマチュア局数についてはARRLから情報提供を受けたとしていますので、ARRLは商務省へ日本のアマチュアを30局だと報告したようです。JARL結成時のQSTの記事の数字が使われたのでしょうか?

【参考までにアマチュアが100局以上の国を挙げます】 16,900(米)、1,200(英)、1,000(Argentine)、700(加)、650(濠洲)、450(仏 & Algeria)、325(独)、220(南ア)、200(スウェーデン)、160(伊)、160(ニュージーランド)、150(ブラジル)、100(和蘭)、100(チリ)

次に第二次世界大戦後の記事を追ってみました。終戦後で一番最初にこの話題に触れたのもやはり笠原氏でした。

◎1948年(昭和23年)6月 ・・・笠原功一, "6月の思出", 『CQ ham radio』 通巻10号(昭和23年6月号), CQ出版社, p32

『毎年廻って来る6月ではあるが私はやはり思い出すのである。それはJARLの一つの記念日とも思われる6月12日の思出である。日本アマチュア無線連盟が発足したのは大正15年6月のことであった。その前後関東と関西とのアマチュア達は相互に往来し文通しまたお手のもの、短波通信で(もちろん違法だったが)打合せをとげていた。そして日本アマチュア無線連盟として結集したラジオアマチュアが約30名だった。「我々はこの事を全世界の同好の士に知らさなくてはならない。」というわけで6月12日の夜全員は次の文章を一せいに大空へと打出したのだ。手製の怪しげな送信機で、そのほとんどが出力10ワット以下見当で、自励発振回路、空中線は竹ざおのささやかな柱から低くたれ下がっているのが多かった。使用波長は32乃至37米、(当時32乃至42米がいわば唯一のアマチュアバンドだった)・・・(略)・・・』

しかしその5ヵ月後に笠原氏は一度だけ「37名」だとしました。

◎1948年(昭和23年)11月 ・・・笠原功一, "JARL今昔譚", 『CQ ham radio』昭和23年11月号, CQ出版社, p30『そして6月にはこのことを全世界に(とわれわれは気負い立っていた)知らせるべく12日の夜全盟員の送信機は例の設立宣言文を電信で放送したのである。・・・(略)・・・こうしてJARLは生まれたのである。この時の盟員は37名であった。』

その3ヶ月後の座談会の記事では、齋藤健(J2PUのちのJA1AD)氏の質問に答えて、笠原氏は再び30名だったと戻されました。

◎1949年(昭和24年)2月 ・・・アマチュアを語る 座談会, 『CQ ham radio』昭和24年2月号, CQ出版社, p21

『斉藤 「JARLができたのは何時頃ですか。」

笠原 「大正15年(1926年)の6月で会長は草間さんで30人位で、今考えても全く民主的な団体でした。」 』

◎1949年(昭和24年) ・・・笠原功一 ,『世界に語るDX アマチュア無線』, 日本放送出版協会, 1949, p21

『こうしてその翌年の大正15年6月、日本アマチュア無線連盟は結成されたのであった。6月12日の夜、連盟員30名は、それぞれの送信機によって、全世界のアマチュアにJARL設立の宣言文を放送したのであった。』

以下の日本無線史にある記事は筆者無記名ですが、文体と内容から、私は笠原氏が書かれたものと推測しています。

◎1951年(昭和26年) ・・・電波監理委員会編, "第十三節 日本アマチュア無線連盟", 『日本無線史』第12巻, 電波監理委員会, 1951, p216

『この発展期に於いて日本アマチュア無線連盟は大正15年6月に全国約三〇名のアマチュアに依って結成された。六月十二日の夜全会員は同文の連盟設立宣言文を電信で放送した・・・(略)・・・』

以後も笠原氏は約30名で創設したと述べられています。

◎1952年(昭和27年)8月 ・・・笠原功一, "アマチュア無線の今昔物語", 電波監理委員会編『電波時報』, 1952.8,電波振興会, p18

『東西合して一団となってできたのが日本アマチュア無線連盟(JARL)である。当時JARLには約30人の人が加わっていて、きそって海外との交信を志していたのである。』

◎1954年(昭和29年)6月 ・・・梶井謙一 "電波史-アマチュア無線局", 郵政省電波監理局編『電波時報』, 1954.6, 電波振興会, p19

『世界のアマチュアは国ごとに団体を作っており、又それが集まってIARU(International Amateur Radio Union)を組織し、その本部はアメリカにある。わが国においては日本アマチュア無線連盟が大正15年6月に組織された。当時の盟員は30名であったが現在約800名で、アマチュア局に約半数が加盟している。アマチュア無線の発達は科学思想の普及に影響が大きいので大方のご後援をお願い申し上げる。 』

◎1954年(昭和29年)7月 ・・・梶井謙一, "JARL", 『初歩のラジオ』昭和29年7月号, 誠文堂新光社, p88

『ご存じのお方もおありだと思いますが、JARLとは Japanese Amateur Radio League の略字で「日本アマチュア無線連盟」の略称であって、「ジャール」と呼んでいます。JARLは約30年前に設立された日本のラジオ・アマチュアの団体です。・・・(略)・・・

(岩槻受信所のJ1AAや北海道のJOCなど)官庁方面での(短波の)調査は相当進んでいたらしいのですが、趣味の方面としては外国のアマチュアが呼ぶ日本のアマチュア局はまだ笠原氏だけであったのです。この時代が少しつづきました。しかし日ならずして東京のアマチュアと連絡がつき、また日本全国に約30人のアマチュアがおることも判明しました。そして相互の親睦と技術の向上とを目的として大正15年6月12日に「日本アマチュア無線連盟」を結成しました。これがJARLの起源です。ところで驚いたことには、この連中は事を急ぐあまり、許可を受けて送信していたわけではないのです。早くいえば「アンカバ」だったのです。この状態を心配したのが草間貫吉氏でした。当時無線関係の法律「無線電信法」の中に「私設無線電信電話実験局」の項目があるのに着目して率先して願書を出されました。 』

◎1954年(昭和29年)10月 ・・・梶井謙一, "さあ始めよう! On the air への第一歩", 『電波科学』昭和29年10月号, 日本放送出版協会, p65

『大正14年(1915)(注:1925の誤記)春、逓信省(今の郵政省)岩槻受信所はJ1AAのコールで、80mの電波を使ってアメリカのアマチュアと交信した。これを発表した 記事は、当時の青年(ただしごく少数)の血を沸かした。その頃はこの80mが全盛であったが、"QST" は40mに下がるようにアマチュアに呼びかけていたので、これにヒントを得た笠原功一氏(神戸)と筆者(大阪)は、40mバンドを使い電信で実験を始めた。当時は電波伝播状況が良い時代であったらしく、その上、笠原氏は通信術に熟達していたので次々と世界各国と交信していった。

その後東京のアマチュアとの連絡がとれ、同志30名は翌大正15年(1926)6月12日、日本アマチュア無線連盟(Japan Amateur Radio League - JARL)を結成して、全世界のアマチュア無線にその創立を宣言した。この宣言はその日の夜、各自の送信機から一せいに放送され、外国アマチュア間に転電されて、またたく間に全世界にひろまり、当時の外国アマチュア雑誌に掲載された。

しかし、当時わが国では、法的にアマチュア無線は認められず、これらの先覚アマチュアもいわば "アンカバー" に過ぎず、ここに苦しみがあった。草間貫吉氏はこの状態を憂い、当時の電波法規 "無線電信法" の中に、私設無線実験局の項目があることに着目し、率先出願した。 』

CQ誌は1956年10月号を「創刊10周年記念特大号」としました。この年はJARL設立30周年でもありました。特集記事"アマチュア無線ガイド"には30名で作ったとあります。

◎1956年(昭和31年)10月 ・・・アマチュア無線ガイド, 『CQ ham radio』 昭和31年10月号, p31

『こうしてアメリカのアマチュア無線家は1914年(大正3年)5月マキシムという人を中心として、今のARRL(アメリカアマチュア無線連盟)を作りました。一方、日本でも大正12年ごろから笠原功一、仙波猛、草間貫吉、梶井謙一氏等がやはり短波を使って実験していましたが、大正15年6月12日に、これらの人たち30名が集まってJARL(日本アマチュア無線連盟)を作りました。今年はその30周年になります。そして第2次世界大戦が始まった昭和16年12月8日にはその数は331局となっていたのですが12月13日にアマ無線活動を封じられてしまいました。戦争中は愛国無線通信隊として、一部の人たちが軍に協力していましたが、戦がはげしくなるとともに、ほとんどその活動も止まってしまいました。』

◎1956年(昭和31年) ・・・庄野久男/徳間敏致, 『アマチュア無線:受験から運用まで』, 無線従事者教育教会, 1956, p4

『わが国でも芝浦の仮放送(今のNHKの前身)が初まる前からアメリカの雑誌等を見てラジオの実験に興味を持つ人達が色々と苦心して電波を出し、関西と関東の仲間同志の連絡に成功するに及び、IARU結成の翌年に大正15年6月12日 JARL(Japan Amateur Radio League の略で日本アマチュア無線連盟のこと)が結成された。会長は現朝日放送重役の草間貫吉氏、会員は30名程度であった。』

◎1957年(昭和32年) ・・・CQ ham radio編集部編, 『アマチュア無線入門ガイド』, CQ出版社, 1957, p216

この年にアマチュア無線入門ガイドがまとめられました。その冒頭にはCQ誌創刊10周年記念特大号(1956.10)の記事"アマチュア無線ガイド"を再掲しました。

『大正15年6月12日に、これらの無線愛好家30名が集まってJARL(日本アマチュア無線連盟)を作りました。』

書籍「日本のハム」の中にある"日本ハム史"には以下のように記されました。

◎1958年(昭和33年) ・・・小林幸雄, "日本ハム史", 『日本のハム』, 角川書店, 1958, p214, p228

『ぼつぼつ名乗りを上げる仲間も増えてきた。数えてみたら、三十人になった。「どうや、一つここらで団体でも作ろうやないか」と関西から提案、関東も応じた。さっそく毎晩連絡をとって話を進め、大正十五年六月十二日を期して「日本アマチュア無線連盟」を結成することにした。会長には、大阪の草間貫吉さんが就任した。発表会のような、形式ばったことはとりやめた。それより電波だ―。六月十二日。東西のアマチュアは呼応して一せいにキイをたたいた。英文モールスで、「本日、われわれ日本のアマチュアは、日本アマチュア無線連盟を結成せり。全世界の局へ告知する。」 三十人の仲間は腕の動かなくなるまで打電し続けた。

さてその翌晩、七メガサイクルの短波帯を聞いて驚いた。世界中のアマチュアがワイワイガヤガヤ「日本にハムが生まれた」とか、「日本に仲間が出来たぞ」とやっている。梶井さんはその時のことを、「胸があつくなるような気がした」といっている。・・・(略)・・・

(終戦後、昭和)二十七年三月、総司令部からやっと「ハム許可」の覚え書が出た。それからまたしばらく、電波監理委員会で許可基準を検討、七月二十九日に全国三十局に予備免許が出された。JA1AA庄野久夫氏らが、日本のハムの二度目のスタートラインについたわけだが、その数は大正十四年(原文まま)にJARLが誕生した時と同じ三十だったとは、偶然とはいえ面白い。』

◎1958年(昭和33年) ・・・梶井謙一, "ハムと私", 郵政省電波監理局編『電波時報』昭和33年6月号, 電波振興会, p16

『 JARL -日本アマチュア無線連盟- は30名の無線アマチュアによって大正15年6月12日に組織された。そのアマチュア達はその後 "CQ会" という団体をつくり、毎年6月12日に集会を催して若き日の感激を回顧し一夜を語りあうことを楽しみにしている。 』

◎1959年(昭和34年)6月 ・・・ 原昌三, "無線局概観-アマチュア", 郵政省電波監理局編『電波時報』昭和34年6月号, 電波振興会, p100

『 笠原功一、草間貫吉、梶井謙一氏等が集まって、短波を使って実験を繰返していたが大正15年6月12日、これ等の無線愛好家が集まってJARL(日本アマチュア無線連盟)を作った(当時会員30名)。 』

JARLが社団法人化した初代会長の梶井氏は笠原氏と並ぶ関西側の創設メンバーです。その梶井会長もやはりJARLは30名で創設されたとおっしゃっています。この意味は大きいと思います。

◎1959年(昭和34年)6月 ・・・梶井謙一, "還暦ハムの思い出", 『CQ ham radio』昭和34年6月号, CQ出版社, p91

『当時は関西では草間、笠原両OMにわたしを加えた3人がハムの根幹であって、つぎつぎ生まれるハムを世話したが、大正15年6月12日には東西30人のハムによってJARLが設立され世話の程度はますます広くまた大きくなった。

現在でもハムのお世話をすることは大変な苦労であるのに、当時はまだアマチュア無線が公許されていなかった時代なので、一日も早く公許のレールの上にのせなければならぬ重荷があり、一歩一歩茨の道を切り拓く感があった。

しかしながら当時は世話は大変でも、そのなかには楽しみもあった。当時の30人のハムがIARL設立後34年になる今日「CQ会」と称していまだに毎年6月12日に集会を開いているほど気が合っていて、互に苦労を分けあって進んだからであった。』

そして梶井会長はJARL社団法人化の記事( 郵政省電波監理局編, 電波時報)にも約30名とされました。

◎1959年(昭和34年)10月 ・・・梶井謙一, "社団法人 日本アマチュア無線連盟の発足", 郵政省電波監理局編『電波時報』昭和34年10月号, 電波振興会, p18

『日本アマチュア無線連盟(以下JARLと略称する)は昭和32年の名古屋総会において組織を社団法人へ改組に決意。昭和34年6月28日東京総会において30余年間継承した任意団体の形を解消して法人を設立し新しい体制で発足することになった。

趣味団体であるはずのJARLがなぜに法人に組織替えせなければならなかったかその経緯を明かにし、法人JARLの性格について述べたい。

1.JARLの発足とその経緯

JARLは大正15年(1926)6月12日約30人のアマチュア無線同好者によって設立された。当時の日本に現在のようなアマチュア無線の ・・・(略)・・・』

◎1959年(昭和34年) ・・・福士実, 『電信電話級ハム入門』, オーム社, 1959, p4

『日本でも芝浦に仮放送所ができて、ラジオの第一声が放送された大正14年ごろには、ラジオの実験に興味を持つ人たちがたくさんいて、部品などを自作する苦労しながら電波を出していたのですが、そうした人たち30人が集まって大正15年6月12日、日本アマチュア無線連盟を作りました。』

◎1959年(昭和34年) ・・・庄野久男/大沢幸夫, 『ハム大学 アマチュア無線のすべて』, ラジオ科学出版, 1959, p22

『そして、大正15年6月12日(1926年)にはじめて30人の人々によって日本アマチュア無線連盟が結成され、この夜一斉に各メンバーは全世界にこのことを告げたのでした。そうして、この当時のメンバーは「CQ会」という会を持っていて、34年後の今日でも毎年6月には集まって旧交を深めておられるのはまことに珍しいことといえましょう。時代はすぐ昭和に移るわけですが、これから昭和18年(1941年)までの18年間で 【注】昭和16年までの16年間の誤記 日本のハムは300局あまりとなりました。30人から300の10倍とはいえ、これは今日から考えればJARLを中心として、日本アマチュアの歩みは非常に困難であったことを物語っているといえると思います。』

◎1960年(昭和35年)1月 ・・・小林幸雄, "日本アマチュア無線史(3)", 郵政省電波管理局編『電波時報』昭和35年1月号, 電波振興会, p36

『会長というのも小さいというので、この団体は、総裁制を布いた。初代総裁はJ3KK 草間貫吉さんが就任した。草間総裁以下30人、同志は少なかったが、精鋭ぞろい、大正15年6月12日夜その精鋭がいっせいにキイをたたいた。・・・(略)・・・はっきりいうと1人だけ欠けていた。これまた、よこ道に話がそれてしまうが、それが磯さんだ。なぜ、J1SOが打たなかったか、いや打てなかったのだ。・・・(略)・・・5月の末ごろだった。・・・(略)・・・階下をのぞいてびっくりした。本ものの火事だ。』

さらにこの連載第六回(電波時報, 1960年5月号)の歴史年表に『大正15年6月12日 日本アマチュア無線連盟(JARL)設立 連盟員30名 』、また連載最終回(電波時報, 1963年4月号)のアマチュア無線年表にも『6.12 日本アマチュア無線連盟(JARL)設立、連盟員30名』とあります。

◎1961年(昭和36年) ・・・今月のメモ, 『CQ ham radio』昭和36年6月号, CQ出版社

『12日 30名のメンバーによりJARL設立(大正15年)』

◎1961年(昭和36年) ・・・梶井謙一, 『アマチュア無線入門ガイド』, 誠文堂新光社, 1961, p7

『1926年6月12日に当時の30名あまりのハムによって、日本アマチュア無線連盟(JARL)が組織されました。』

◎1962年(昭和37年) ・・・アマチュア無線, 『電気通信事業要覧』1962年版, 電気通信協会, 1962, p403

『大正15年6月、アマチュア無線同好者30人を以て日本アマチュア無線連盟(JARL)が結成され ・・・(略)・・・』

小学館が出していた中学二年生向け月刊誌にアマチュア無線の入門ガイドが特集されました。ハムの歴史から受験方法や無線設備までを8ページにまとめたものです。

◎1962年(昭和37年)3月 ・・・国友秀夫, "あなたもアマチュア無線局長に",『中学生の友 二年』昭和37年3月号, 小学館, p179

『一九一四年に、マキシムというアメリカ人が中心になって、アマチュア無線の団体であるARRLをつくりました。これが、いまも世界一の団体として活やくしています。 日本では、アメリカより十三年ほどおくれて、一九二六年に、笠原功一さんや梶井謙一さんが中心になって、日本のアマチュア無線の団体であるJARL(日本アマチュア無線連盟)をつくりました。そのころの会員は三十名ほどでした。』

◎1963年(昭和38年) ・・・岡本次雄,『アマチュアのラジオ技術史』, 誠文堂新光社, 1963, p76

『この年の6月12日、日本アマチュア無線連盟が設立された。・・・(略)・・・設立当時の盟員は30人であったといわれている。』

◎1964年(昭和39年) ・・・"第30編アマチュア無線", 『無線工学ハンドブック』, 1964, オーム社

『1926年、わが国におけるアマチュアの団体として日本アマチュア無線連盟(JARL)が会員約30人で発足した。』

◎1964年(昭和39年) ・・・小室圭吾, "アマチュア無線の歴史 誕生から全盛時代まで",『アマチュア無線製作読本』, 誠文堂新光社, 1964, p174

『1926年 JARL設立 会員30名』

◎1964年(昭和39年)2月 ・・・小室圭吾, "ジュニアJARLハム教室",『初歩のラジオ』昭和39年2月号, 誠文堂新光社, 1964, p121

『そして、関西からの提案で、日本のアマチュアの団体を作ろうということになり、1926年6月12日に30人の人によって日本アマチュア無線連盟(JARL)が結成され、会長には大阪の草間貫吉さんが選ばれました。』

大阪万国博(1970年)前後にハムを志した方にはお馴染みの本だったと思いますが、「ジュニアJARLハム教室」(誠文堂新光社)にも30名と説明されています。当時のハムはみんな「JARLは30名で創設」だと信じて疑いませんでした(・・・と私は思います)。

◎1967年(昭和42年) ・・・初歩のラジオ編集部編, 『ジュニアJARLハム教室』, 誠文堂新光社, 1967, p50,p71

『30人でJARLを結成(1926年)

1925年3月、東京放送局(JOAK)が放送をはじめたのですが、その前年から、東京、大阪でいろいろと放送の実験がおこなわれていました。この電波を自作の鉱石受信機で聞いていた人が何人かありました。・・・(略)・・・この中波の実験は、主として関西が盛んでしたが、その頃東京では短波の実験をする人が何人かあらわれ、関西勢も短波へ移っていきました。これら30人の人によって1926年6月12日にJARLが結成されたのですが、この結成大会は電波を通じておこなわれ、そのまま全世界へJARL結成が伝えられました。』 (p71)

別のページにも30名とあります。

『日本のアマチュア無線の歴史

アマチュアの電波が大西洋横断に成功した1923年(大正12年)、日本でもアマチュア無線の胎動が始まっていました。・・・(略)・・・大正15年6月12日夜、30人の同志によって「本日われわれ日本のアマチュアは、日本アマチュア無線連盟を結成せり。全世界のラジオ・アマチュアに告知する」と呼びかけました。日本の宣言はハムからハムへ、国から国へ、転電されていきましたが、しかし、この時代は、アマチュア無線は日本では、非合法時代でした。 』 (p50)

1970年代になっても、「JARL創設は30名」でした。

◎1971年(昭和46年) ・・・大沢幸夫, 『たのしいアマチュア無線』, 毎日新聞社, pp16-17

『いっぽう日本でも、アメリカの雑誌などを見てラジオの実験に興味をもつ人たちが、いろいろ苦心して無線の送信機をつくり、一九二五年(大正十四年)に関東と関西のハム仲間が交信に成功しました。このためIARUのつくられたつぎの年の一九二六年(大正十五年)の六月十二日になって、JARL(JAPAN AMATEUR RADIO LEAGUE)つまり日本アマチュア無線連盟がつくられたのです。その当時のアマチュアのメンバーはおよそ三十人くらいといわれています。』

◎1972年(昭和47年) ・・・吉村義弘/藤森伊允之,『受験から開局まで:初級ハム必携』, 啓学出版, 1972, pp4-5

『日本でも大正15年6月に、アマチュア無線に興味をもっている人達が30人集まり、日本アマチュア無線連盟(JARL)を結成した。』

◎1972年(昭和47年) ・・・普賢寺俊男,『アマチュア無線入門』, 土屋書店, 1972, p35

『一九二五年、IARU(INTERNATIONAL・AMATEUR・RADIO・UNION)国際アマチュア無線連合が組織された。日本でも一九二五年に関東、関西のハム間において交信に成功し、翌、一九二六年六月一二日(大正一五年)、JARL(JAPAN・AMATEUR・RADIO・LEAGUE)つまり日本アマチュア無線連盟が設立された。私設無線実験局と呼ばれたアマチュア局は30名だった。』

このようにJARL創設より49年目にあたる1975年までは、「JARLは30名で結成された」といわれていました。

◎1975年(昭和50年)1月 ・・・大沢幸夫 "アマチュア無線の歩み(上)",『発明』昭和50年1月号, 発明協会, p27

『わが国でも、アメリカのラジオ雑誌などを見て、アマチュアに興味をもった人たちが、実験を重ねて電波を出し、大正14年には、JAZZ局とJFMT局とが、はじめて交信に成功しています。これがわが国でのアマチュア無線のはじめといわれています。大正15年になると、わが国にもいよいよ日本アマチュア無線連盟(JARL)が設立され(当時の会員30人ほど)ています。』

◎1975年(昭和50年) ・・・鈴木幸重, 『楽しいハム・ライフ入門』, 日東書院, 1975, p111

『1926年=会員約30名で日本アマチュア無線連盟が発足。(以後引き継がれて現在の日本アマチュア無線連盟-JARL-に発展)』

以上ざっと調べただけでも、これだけの「30人で設立」が見つかりました。実際にはこの何倍もの書籍に「30人」と記されているのではないでしょうか。笠原氏が1948年11月号で一度だけ、37名にブレたことはありますが、大正時代も、終戦後も、30名で創設とされてきたというのが現実だと思います。

「日本アマチュア無線史」はJARLの社団法人化を記念して、電波時報の1959年(昭和34年)11月号より連載形式で始まったものですが、それがJARL News 1972年(昭和47年)1月7日・17日合併号より再掲載されました。当時は月三回(7の付く日に発行)新聞形式で届きましたが、当時私はこのJARL NEWSの再掲で「日本アマチュア無線史」を読みました。

またCQ ham radio誌では300号を記念して連載「ものがたり・・・・・アマチュア無線史」(小室圭吾JA1KAB)も1971年(昭和46年)6月号よりスタートしていました。こちらは世界のアマチュア無線史からはじまり、1972年7月号でやっと "日本のアマチュア無線" に移り、笠原氏の「世界に語るDX アマチュア無線」(1949年)より『・・・6月12日に、連盟員30名は・・・』の部分が引用されました。ところが翌8月号の同じ連載記事には『この年の6月12日、日本アマチュア無線連盟の設立が38人のメンバーの送信によって全世界に知らされました。』とありました。当時、私にはJARL Newsに再掲された「6月12日に30名でJARL設立」の連載の方が深く刺さっていたので、この『38名』は誤植かな?と特に気にも留めませんでした。ですがこの1971年頃から設立メンバーのカウントに解釈の変化が起きはじめていたようです。

それから9年経った1976年(昭和51年)、「アマチュア無線のあゆみ 日本アマチュア無線連盟50年史」が出版されました。(もう交信熱も冷めて、マイクを握るのも年に数回ほどでしたが、歴史好きの私はこの本だけは買い求めました。)不思議なことにこの本には「私たちのJARLは◆年◆月◆日に、●名で設立されました」という文言がないのです。JARL50年史の記念出版なのにです!「ええっ、ホントかよ?」と信じて頂けないかも知れませんが本当にそうなのです。不思議でしょ?強いて挙げれば巻末に添えられた「アマチュア無線年表」の大正15年のところ(p484)に、小さく『6月、日本アマチュア無線連盟設立。盟員は37名、設立宣言を全世界に打電する。』とだけ記されています。

では本文ではどうなっていたかというと、「1.6 JARLの設立」(p46)は『笠原功一氏は更にJARL成立当時の事情を、「CQ」昭和23年11月月号の"JARL今昔譚"の中で次のように述べている。』との言葉で書き始められ、前述の1948年に笠原氏が「37名」に一度ブレた記事だけをクローズアップして始まります。またこの50年史では笠原氏の原文「37名32であった。」に脚注32が付き、その脚注には「32) この方達でCQ会が作られている」とあります。

さて笠原氏の記事の引用に続けて、今度は梶井氏がCQ誌1960年(昭和35年)3月号に書かれた、設立宣言当夜の様子の記事が再掲されたあと、たった一行『JARLの創設に加わった当時の盟員を表1-2に示す。』とあるだけなのです。つまり50年史の本文では結成時の盟員が何名だったかを数字で示すことをあえて避けたとも受けとれます。

表1-2を見よとのことですから、この表を数えてみると37名で巻末の年表と一致しました。冒頭から笠原氏の特例の記事を引っ張り出してきて "ほらネ、昔から37名だといわれていたでしょ・・・" と暗示し、最後に37名の名前が載った表を"それとなく"掲げる構成になっています。「あ~ん。まあとにかく、笠原氏は37名だと言っていたんだよ。」ということでしょうか。この50年史が「37名」への転換の発端だと思われます。


設立日については、このあと6月12日説と28日説があり判断できないことが事細かに説明されています。日付の記録は曖昧になることがままあり、そうだろうなと思います。しかし従来言われてきた結成30名から急に37名に変わった説明は一切ないので、触れるのはタブーな話題なのでしょうか?たしかに1948年に笠原氏が37名と書かれたことはありますが、その前も、その後も、笠原氏は30名だといわれています。そこで、逆に笠原氏が「30名」とされた理由を想像してみました。あくまで私の勝手な想像です。

まず笠原氏が1948年(昭和23年)に一旦「37名」だと書かれたことがあるので、おそらく「37名だと解釈できる数え方」も大昔からあったのでしょう。でも前述した笠原氏がJARL設立直後にオーストラリアの4ANへ出された手紙には「約30名」だと書かれています。

そこで思い出されるのが本ページの最初の方で書いた「2) 下志津陸軍飛行学校(千葉)の短波実験」の中で触れた、笠原氏の記事です。大正15年12月号を再掲します。『日本の陸軍局のうちに1SKというのがあります。』 (笠原功一, 外国素人局紹介(三), 『無線之研究』, 1926年12月号, 無線之研究社, p40) とあります(左図クリックで拡大)。

すなわち笠原氏は1SKを短波実験仲間には違いないが(アマチュアではなく)陸軍局だと考えていたことがわります。すると同じく陸軍下志津飛行学校の1FM, 1SM を含めた3局を笠原氏はJARL創設メンバーにカウントしなかったのでしょう。ここで37-3=34になります。この「無線之研究」誌は翌月1月号より正式にJARLの機関紙を名乗りはじめます。JARL設立関係者の大多数が読んでいたであろう「無線之研究」誌に笠原氏が「1SKは陸軍局」だとキッパリと記した点は注目に値します。同じ理由で笠原氏は海軍水雷学校実験室から短波にオンエアーしていた有坂氏の2BBも海軍局なのでJARL創設メンバーに数えたくないと考えたのではないでしょうか。これで34-1=33です。

その3ヶ月後の『無線之研究』誌1927年(昭和2年)3月号には、東京電気JKZBの今岡氏(1ZQ)の記事があり、「賛助員」という肩書がつけられています(左図クリックで拡大)。 今岡氏や大阪氏はJARL創設に協力した仲間だったかもしれませんが、笠原さんたちは東京電気の今岡氏(1ZQ)らをアマチュアとは考えていなかった可能性があります。ここで今岡氏と大阪氏を減じると33-2=31になります。厳密には30人にはあと一人足りません。東京電気系の方としては前述の角百喜氏(1MU)や萩尾直氏(1LT)がいらっしゃいますが、JARL結成時点では早大生と東大生だったようで、残るお一人は私には想像が付きませんでした。

ここでちょっと脱線させてください。私の目を引いたのが37名のリストにある樺山資英氏(1KB)です。もしかして当時、貴族院議員だった樺山資英氏(1868-1941)なのでしょうか?であれば結成時には50代後半でJARLの中では異色の超大物ということになります。本サイトで何度も取り上げている逓信省の中上無線係長が取締役技師長に就任した国際電話株式会社(現KDDI)の二代目社長が樺山氏なので、無線と縁が無いわけでもありません。

この件について調べてみて、私の目にとまったのが共同通信の米山氏の『戦時中海外の短波放送を受信していた外務省情報部ラヂオ室である。当時のモニター係の一人で日系二世のジョージ・荻島によると、外国放送を傍受しようと提案したのは、欧州帰りで当時、情報部調査三課事務官の樺山資英だった。アマチュア無線の愛好家だった樺山を中心に、本格的な海外放送受信を開始し、真珠湾攻撃以降の諸外国の中・短波放送は特に重要性を増すこととなった。・・・(略)・・・樺山が四十歳の若さで胃がんで亡くなったのは昭和二十ニ年三月二日。』 (米山司郎, "ラジオプレス五十年", 『文芸春秋』, 1995年8月号, 文芸春秋社, p82) という記事や、白百合女子大の粂井教授の研究で『ラジオ室を発案し、組織化したのは、外務省情報部調査3課の樺山資英(1907-1947)外務事務官であった。彼は学生時代から短波放送のモニターに興味を持っていたという。』 (粂井輝子, "友情と友好を結んで ─ 敝之館からラヂオプレスへ ─", 『JICA 横浜 海外移住資料館 研究紀要』第4号, 2010, 国際協力機構横浜国際センターJOMM海外移住資料館, p4) という記述でした。

最終的には次の笠原氏の記事を発見して、すっきりしました。

『英国王ジョージ6世の戴冠式が昭和12年(1937年)に行なわれた時、ロンドンから日本語の放送があったが、この時のアナウンサーをつとめられたのは在ロンドン日本大使館の樺山資英事務官であった。この方はJARL初期の盟員で、もぐり時代の1KBコールで活躍され又JARLの15周年記念大会(昭和16年4月)に来賓として実によい話をして下さったが終戦後いくばくも病没されたのは惜しみてもなお余りある方として私の心に焼きついている。』 (笠原功一, "JARL今昔譚", 『CQ ham radio』, 1949.2, CQ出版社, p29)

また上記と翌月号の2回に分けて掲載された「座談会アマチュア無線を語る」で、笠原功一氏(ex J2GR, のちのJA1HAM)、多田正信氏(ex J2GY, のちのJR1WDN)、齋藤健氏(ex J2PU, のちのJA1AD)の会話にも出てきます。

『 多田「無線界で名をなしている人で、アマチュア出身は非常に多いですよね。」

齋藤「樺山さんは亡くなりましたか。」

笠原「なくなりました。」

齋藤「学校は無線関係じゃなかったですね。本当のアマチュアでした。」

笠原「あの人は外交官になって、ロンドンからの戴冠式の放送をアナウンスされました。」 』 ("座談会アマチュア無線を語る(2)", 『CQ ham radio』, 1942.3, CQ出版社, p43)

つまり貴族院議員だった樺山資英氏とは全く別人で、1926年のJARL結成時に19才の若者だった同性同名の樺山氏がいらっしゃいました。

では話を戻します。(ちょっと大げさに言うと)、笠原氏は自分たち一般大衆の短波実験局と、陸軍下志津無線局(1SK, 1FM, 1SM)、海軍水雷学校実験局(1BB)、東京電気実験局(今岡氏1ZB, 大阪氏1ZB)という「民・陸・海・産」の四者共同でJARLを結成したと捉えられるのを避けたのではないでしょうか。すなわち、あくまで「純粋なるアマチュアからなる組織」という大看板を守るために、彼らを抜いて「30局でJARL創設」だと日本の内外に発信されてきたのではないかと想像してみました。メンバーのカウント方法に変化がおき始めた1971年(昭和46年)に書かれたJA1AJQ大沢幸夫OMの『当時のアマチュアのメンバーはおよそ三十人くらいといわれています。』 (たのしいアマチュア無線, 毎日新聞社, 1971, p17) という記述は、「アマチュアだけで数えると30名(で、非アマチュアも含めると37名だ)」という意味だったのかな?とさらに勝手な想像が膨らみました。

ところでJARL創立メンバーの諸OTが有坂氏のJLYBをアマチュアと認めたくない理由として、JLYBは「2BB」(海軍局)の後継関連施設として許可されたと誤解していたのかもしれません。でも逓信大臣には海軍関連の無線局を免許する権限など100%ありませんので、JLYBは逓信省が所管する私設実験局(いわゆるアマチュア局)です。もちろん海軍省の「2BB」と逓信省の「JLYB」の間に短波研究業務の引継ぎのような関係も一切ないはずです。

30名解釈が「50年間」(1926-1976年)、37名解釈は「39年間」(1976-2015年)で、今のところは30名解釈の方が長く支持されてきたことになります。しかし100周年の2026年になると、これが「50年間」 vs 「50年間」になります。とにかくJARLの歴史は現役JARL会員の皆さんが判断なさる事項ですから、これから100周年を迎えるにあたり、JARL会員のみなさんで歴史考証が進むといいですね。

50) 無線之研究12月号に官報の短波許可告示を掲載

無線之研究1926年(大正15年)12月号は、安藤博氏をはじめとする3局に短波の送・受信が、2局に受信が免許されたことを伝えました(短波私設無線許可, 『無線之研究』, 1926.12, 無線之研究社, p39)。先ほども述べましたが、『無線之研究』は翌1月号よりJARLの機関誌を名乗るようになった雑誌なので、JARL創設メンバーの多くがこれを読み、わが国の短波許可(個人)の第一号が安藤博氏に下りたことを知ったはずです。

個人の短波第一号が安藤博氏だったことを当時のOT諸氏が知っていたのなら、戦後になってもう少し話題になってもよさそうなものです。安藤博氏は「新聞で天才としてチヤホヤされているし、恵まれた人なので、我々アマチュアには数えたくない」という感情論もありそうですが、最大の理由は38米と80米が許可されたというのに、誰も安藤氏のコールサイン(JFPA)を聞いたことがなかったからではないでしょうか。

それもそのはず。官報の告示文面だけでは分かりませんが、安藤氏に許可されたのは無線電信でも、無線電話でもなく、テレビジョンでした。

日本無線史の第六巻は「無線教育および無線団体史」をまとめたもので、戦前にあった無線関係の学校や団体の歴史をその組織の関係者が分担して執筆しました。JARLのページもあり、無記名ですが筆者は笠原功一氏ではないかと私は想像します。

『大体「無線の研究」の廃刊までがアマチュア無線のもぐり時代とでもいうべき時代で、アマチュア無線をいかに扱うべきかを取締当局が研究していた時代ともいえるのである。すなわちこの中間期においても特殊な事情の者に実験施設を 許可している。例えば昭和二年四月五日付で波長八〇米 二〇W 楠本哲秀、同廿六日付 三十八米 三W 有坂磐雄がある。』 (電波監理委員会編, 『日本無線史』第六巻, 1951, 電波監理委員会, p218)

有坂氏と楠本氏は「特殊な事情の者」というのが昔のJARLの立場ですから、その表現はさておき、ここで御注目頂きたいのは、『ニ、三 許可している』です。二でもなく三でもなく、「二、三」です。それにも関わらず、楠本・有坂氏の二人の名前しか挙げていません。よく見ると有坂氏の名前の後に『等』とあり、三人目の存在を匂わせています。つまり安藤博氏にも許可があったことを知っていながらも(安藤氏を誰も聞いた事がないためか?)楠本氏と有坂氏だけを記したため、このような表現になったと想像します。

なお官報から無線之研究12月号(上図)に転載された記事に『安藤博私設無線電信電話使用波長・・・』とあるとおり、(安藤研究所への免許ではなく)安藤博氏"個人"へ免許されたことは多くのアマチュアに認知されていたはずです。

【参考】 このページの最後に、『支部上海 JC4TO 佐藤俊秀 空中線電力一〇ワット 波長四〇米』 とありますが、これは官報告示とは無関係で、JARL上海支部の佐藤氏(自称コールサイン:JC4TO)です。JARL創設37名にもカウントされている方です。