マルコーニ 東日本観光

アメリカ、ハワイから 横浜、東京、鎌倉、日光へ

1933年9月、マルコーニ夫妻はシカゴ万国博の「マルコーニ・デー」(1933年10月2日)に出席するために渡米しました。 10月中にイタリアに戻るつもりでした米国西海岸方面を観光しているうちに、海を越えて日本へ行くことを思い立ったそうです。

そして11月20日、マルコーニ夫妻が初来日。東京の明治神宮、京都の桃山・東山御陵への参拝や、日光東照宮、鎌倉大佛、知恩院(京都)、東大寺(奈良)、大阪城などを見学されました下図は鎌倉を観光中のマルコーニ夫妻

マルコーニ 鎌倉大仏観光

宿泊先は帝国ホテル、京都ホテル、奈良ホテルですが、日本最終日は下関行き特急「富士」の車中泊でした。また日光金谷ホテル、鎌倉海浜ホテル甲子園ホテル、山陽ホテルで休息や食事をされています。

マルコーニ氏の生の声は、官民合同歓迎晩餐会(11月17日夜, JOAK中継担当)と奈良公園鹿寄せ(11月23日昼, JOBK中継担当)で、ラジオの電波に乗せられ、日本全国の茶の間に届けられました。昔の日本で無電王マルコーニの知名度が高かったのはこういう事も影響しているのかも知れません。

「マルコーニ 東日本観光」

本ページでは、イタリア出国(1933年9月21日)から、アメリカ、ハワイを経由して、横浜港にやってきたマルコーニ夫妻が東京各所、鎌倉、日光を観光する様子を紹介しています。

本ページの続編です。マルコーニ夫妻が東京駅を出て、京都、滋賀、奈良、大阪を観光。そして大陸へ渡り、朝鮮、満州、関東州、中国を経由しイタリアへ帰国(1934年1月4日)するまでを紹介します。

こちらではマルコーニの無線開発(パラボラ・アンテナ、短波の開拓、昼間波の発見、帝国ビームの建設、超短波の実用化など)を時系列に紹介しています。

夫妻の全旅程(訪問地ごとに色分けしました)。

東日本観光 目次

1) マルコーニ夫妻が渡米を決断

デーニャへ

今月21日にジェノヴァからニューヨークに出発することに決めたので知らせます。 10月第一週のシカゴ万博組織委員会会長からの招待を受けることに決めたので知らせます。 ムッソリーニからもこの招待を是非受けるように勧められた。一ケ月ほどいて、10月14日頃にニューヨークを出航するレックス号でイタリアに戻りたいと思う・・・』 (Degna Marconi Paresce著/御舩 佳子訳, 『父マルコール』, 2007, 東京電機大学出版局, p324)

これは1933年9月17日にイタリアのラ・スペッイア港にいたマルコーニ氏が娘デーニャに宛てた手紙です。「シカゴ万国博のイベントに招待されていたが、それを受ける事にしたので、9月21日のニューヨーク行きの船に乗る。」というのです。なんと出発4日前の手紙ですから、ギリギリまで悩んで出した結果だったのでしょうね。(このときは10月には帰国するとしていますが)この万博参加の決断がのちに、日本観光へと発展していったのです。

【参考1】 万国博覧会は1851年(ロンドン)より始まり、1893年にはシカゴで催されています。しかしながら、1931年1月17日に施行された「国際博覧会条約」に基づいた万国博覧会という意味においては、この1933-34年のシカゴ万国博(下図[左])が最初(第一回)になります。シカゴ万博は「進歩の世紀 "A Century of Progress"」をテーマとしました。

【参考2】 これ以降、1970年(昭和45年)の大阪万国博(テーマ:人類の進歩と調和)までの開催地を下図[右]に掲げます。

シカゴ万博会場

シカゴ万国博覧会において10月2-7日を"Radio Progress Week"(無線の進歩週間)とし、初日10月2日を「マルコーニ・デー」と定めて記念イベントが企画されました。

マルコーニの渡米 1933年9月

その特別ゲストとして無線の実演をすることになったマルコーニ氏は(1927年に再婚した)妻を伴い、1933年(昭和8年)9月21日、Conte di Savoia号(呼出符号:IBLI)にてイタリアのジェノバを出ました。

さっそく米国ワシントンのThe Evening Star 紙 "Marconi and Wife Sail for Expositoon"(9月21日)や、ニューヨークのThe New York Times 紙 “MARCONI ON HIS WAY HEAR. Scientist Sails From Genoa – Will Visit the Chicago Fair. ”(9月22日) などが、シカゴ博のMarconi Dayに出席するために、マルコーニ夫妻がジェノバよりやって来ることや、ニューヨークなどで関係者とミーティングするために米国滞在は半月間になると速報しました(マルコーニ氏の当初の計画では10月14日ニューヨーク発のイタリア汽船Rex号(呼出符号:ICEJ)でイタリアに戻るはずでした)。

また9月25日のThe Washington Post 紙も "Marconi Sailing to U.S. For Chicago Fair Honor" (マルコーニ氏が米国に向けて航海中)という記事があり、同夫妻の訪米を歓迎するムードが高まっていきました。

2) マルコーニ夫妻 ニューヨークに到着

マルコーニ渡米 船内

1933年9月28日、マルコーニ夫妻がイタリア客船 Conte di Savoia号で、ニューヨーク港に到着しました。

1933年の真夏の陽光を浴びながら、イタリー客船サヴォイア伯号は、大西洋横断八十七回目のマルコーニ候および夫人を乗せてハドソン河口にその雄姿を現わした。

長らく御無沙汰しましたが、またやって来ました。皆さんにお目にかかれてたいへん嬉しく思っております。今度来たのはシカゴの進歩百年博覧会、特にラジオの部門を見に来たのです。」と、マルコーニは新聞記者に語った。彼は桟橋を降りて、リムジンに乗り、オートバイの護衛つきでホテルに入ったが・・・(略)・・・』 (Orrin E. Dunlap(著)/森道雄(訳),『マルコーニ』, 誠文堂新光社, 1941, p322)

【感想】マルコーニ夫妻は1927年の新婚旅行でニューヨークを訪れていますが、(私は検証できてませんが)上の引用に「長らくご無沙汰しましたが」とありますので、もしかするとそれ以来のニューヨークなのでしょうか?

翌9月29日付けのThe New York Times 紙は夫妻の写真入で歓迎記事を載せました。"MARCONI FORSEES NEW ERA IN RADIO. :On Arrival From Italy He Talks of Great Vista Opening Up in Micro-Wave Spectrum. :MORE RESEARCH NEEDED :Declares His Trip 'Is to Have Americans Put Me Wise as to What is Talking Place Here. "The New York Times, Sep.29,1933, p.21)

マルコーニ夫妻ニューヨーク到着

新聞の見出し文にある "Micro-Wave" という文字でも分かるように、今年の夏に「超短波(マイクロウエーブ)は曲がる」と発表したマルコーニ氏は、今や "超短波の人" なのです。

米国到着時の会見で超短波の明るい可能性について述べました。それに対し記者から「超短波で大西洋を越えることはできるのか?」と問われました。マルコーニ氏は「安易な予測は危険だ」と即答を避けながらも、30年前の科学者たちが「直進するはずの電波が大西洋を越えるのは不可能だ」と主張する中で、自分がそれを成功させた(1901年12月の大西洋横断試験)ことを挙げ、最初から「出来ない」と決め付けることを否定しました。

3) マルコーニ夫妻 ラジオ・シティー見物

ニューヨーク・マンハッタンのロックフェラー・センター・ビルには昨年暮れ、ラジオ・シティ・ミュージックホール(Radio City Music Hall)がオープンしていました。

NYラジオ・シティ・ミュージックホール

【参考1】 開所時NBCは床面積40万平方フィート、35スタジオ(赤丸

そして、NBC社がここに最新の放送機材による「世界最大の放送スタジオ」を建設中で、11月15日オープンに向け、最終仕上げの真っ最中でした。(左図:"NBC Begins Occupation of Radio City:Opening of World's Largest Broadcasting Plant Marks Thirteenth Year of Radio, Network's Seventh", Broadcasting, Oct.1,1933, pp20-21)

1933年9月29日、マルコーニ氏らNBC社のラジオ・シティ訪れ、11月15日から使用開始する35のスタジオを見学しました。またロックフェラーセンターの屋上でマンハッタンの摩天楼の景観を楽しんでいます。

Senator Guglielmo Marconi finds Radio City fascinating.  He spent most of his time there yesterday inspecting the thirty-five new studios which the National Broadcasting Company plans to begin using Nov. 15. ・・・(略)・・・He surveyed Manhattan from atop the skyscraper in Rockefeller Center and observed the changes in the skyline since he was here last. "Marconi Thrilled by RADIO CITY Visit :Inventor of Wireless Voices Pleasure Over Progress Made by American Engineers", The New York Times, Sep.30,1933, p18)

但し以下のような文献もあります。28日にNYのホテルにチェックインして「間もなく」ラジオ・シティーに向かったとありますが、この「間もなく」とは服を着替えてすぐに出かけたという意味ではなく、「ゆっくり体を休める間もなく、翌朝(29日)には出掛けた」という意味ではないかと私は解釈しています。

彼は桟橋を降りて、リムジンに乗り、オートバイの護衛つきでホテルへ入ったが、間もなくロックフェラー・センターのラジオ・シティーの見物に出掛けた。シティーの五十三階でラジオ記者たちに会ったとき、「今度はアメリカの人達から学ぶため」と言った。お茶の時間だったので、彼は皆を誘ってティー・パーティーを開いた。・・・(略)・・・マルコーニは立派な主人ぶりだった。コーヒー茶碗を片手に、巻煙草を一方の手に持ちながら、人々の間を機嫌よく話まわった。・・・(略)・・・マルコーニはたいそうな御機嫌だった。秘書もこんなによい御機嫌は見たことがないと云う。面倒な問題を忘れてこの会合を楽しんでいるように、面白い話や、冗談を云っては皆を笑わせた。やがて彼は立ち上がって、くだけた調子でスピーチを始め・・・(略)・・・』 (Orrin E. Dunlap(著)/森道雄(訳), 『マルコーニ』, 誠文堂新光社, 1941, p323)

 

この時、皆からの質問にマルコーニ氏が返答した話だけをまとめて要約した記事が、週刊『サンデー毎日』(11月26日号)にありますので引用します。

ニューヨークのラヂオ・シチー楼上で、米国の無電の権威を集めて、マルコニ候は「無電は今や超短波時代へ進むべきである」ことを説いたが、その要点は左の如くである。

 "私が今研究している超短波は科学者からは難可視(Quasi-Optical)と呼ばれて私がこれを研究することを危険信号を無視して科学の禁断の領域に入ったものとさえいう人がある。波長が余りにも短いためにその電波は水平線を越えることが不可能だと信ぜられていたが、これは全然謬見であることは私が既に実験したところであって、エレトラ号上の実験では既に百マイル彼方へまで超短波を送り得た。しかしこの超短波が果たしてどこまでの距離に可能だか未だ解らない。

ただ一つ私が明言できることは、超短波は無電の唯一最大の敵たる空中放電に絶対邪魔されぬという一事である。私は雷鳴が鳴り響く最中に超短波を受けてみたが放電による妨害の痕跡すら認められなかった。超短波が放電に妨げられぬという事実に関しては私は私の全名誉を賭して争ってもよい。

もしこの超短波の研究が完成して遠距離に用いられるようになった暁は、今日の無電界は根本的な革命を見るだろう。既に述べたように雑音に妨げられないばかりでなく、その設備が極端に簡単に、極端に安直になり、動力もまた考えられぬほど僅少ですむようになるのである。それにこれがテレヴィジョンに用いられた場合は、現在テレヴィジョンの悩みである放電を簡単に解決してくれるから、テレヴィジョンがはじめて実用化されるに至るわけである。"

世界はいまや無電の恩人のこの予言に将来の文化の輝きを見て、その完成の日を深く期待しているのだ。S・K・D, "全人類の恩人:無電王・マルコニ候, 『サンデー毎日』, 1933年11月26日号, 毎日新聞社, p13")

このようにマルコーニ氏は、まもなく実現するであろうテレビ放送の実用化には「空電のない超短波」が最適だと見抜いていました。

【参考2】 日中に中波ラジオの選局ダイアルを放送のないところへ回すと、ジーとか、ガーとか連続する強烈なノイズ音が聞こえてくるのが「空電」です。超短波やFM変調方式が実用化されるまでの無線通信はこの「空電」に悩まされました。

【参考3】 マルコーニ氏がエレットラ号を使ってUHF500MHzの電波が光学的視界限界を超えて、地球の曲面に沿って曲がることを発見した一連の実験については、「続マルコーニ」の後半部をご覧ください。

29日夜は、マルコーニ夫妻が宿泊しているリッツ・カールトン・ホテルで、RCA社主催の歓迎ディナー会が催されました。

【参考4】RCA社(Radio Corporation of America)は元「米国マルコーニ社」(Marconi Wireless Telegraph Company of America)ですから、いまもマルコーニ社とは深い協力関係にあり、当然のごとく同社がマルコーニ夫妻をアテンドしています。

4) シカゴ万博「マルコーニ・デー」でデモンストレーション

1933年9月30日、夕方17時。マルコーニ夫妻らはシカゴへ向けて、ペンシルバニア鉄道(Pennsylvania Railroad)でニューヨークを発ちました。この夜22時から「マルコーニのマイルストーン」という1時間番組がニューヨークのWJZ局発で全米に中継されました。

10月1日の朝09:45。シカゴ駅に到着しました。駅前には大勢の人々が集まり「ビバ・マルコーニ!」の歓声が10分間続いたといいます。ただちにドレイク・ホテル(Drake Hotel)に投宿し、イタリア系アメリカ人協会(Italian-American association)主催の歓迎昼食会に出席しました。

シカゴ万博公式パンフレット

10月2日、「マルコーニ・デー」当日です。マルコーニ氏はシカゴ万博(左図:万博公式パンフレット)のイベント会場に入りました。

そしてマルコーニ氏の手により発せられたモールス符号"S"を、各地の無線局を経ながら、地球一周リレーさせました。このイベントにはカストルッチョ伊国総領事とRCA社のデビット・サーノフ社長も同席しています。

「進歩の世紀」を記念した博覧会を機会に、当地では10月2日が公式に<マルコーニの日>とされた。・・・(略)・・・父は再びモールス信号のSの文字を打った。Sを意味する三つの点は、シカゴを出てニューヨーク、ロンドン、ローマ、ボンベイ、マニラ、ホノルルと地球を一周し、3分25秒で博覧会会場に戻ってきた。(デーニャ・マルコーニ・パレーシェ著/御舩佳子訳, 『父マルコーニ』, 2007, 東京電機大出版局, p325)【参考】より正確に言えば、ハワイのホノルルからサンフランシスコ経由にて、シカゴのイベント会場に戻ってきました。

Infine, Marconi trasmesse di sua mano la lettera S a tutto il mondo: in 3 minuti e 25 secondi il segnale compi il giro del Globo, percorrendo il circuito Chicago, New York, Londra, Roma, Bombay, Manila, Honolulu, San Francisco, Chicago (punto di partenza e di arrive) Quando la ricezione fu segnalata ai presenti, per mezzo di una bomba luminosa l’entusiasmo non ebbe limiti. (“Marconi festeggiatoin America”, La Radio, Oc5.15, 1933, p669)

マルコーニを讃えるブロンズ像

そしてイベント会場ではRadio Manufacturers Association(無線機器製造業者協会)の J.F. Allen氏より、マルコーニ氏の無線が「人類の生活を豊かにした」ことを称え、高さ28インチ(71cm)の記念ブロンズ像が贈呈されました(左図)。

その台座には次のように刻まれています。" To Guglielmo Marconi, in Grateful Recognition of his Enduring Contribution to the Enrichment of Human Life. A Tribute from the Radio Industry of America. Presented by the Radio Manufacturers Association at the Exposition - Chicago, Oct. 2, 1933. "

けして火花送信機とコヒーラ受信機で大西洋横断通信に成功したことの表彰ではありません。

【参考】英国で最初の娯楽ラジオの試験放送は、1920年1月15日よりマルコーニ社のチェルムスフォード局MZXがスタートさせましたものです。詳細はコンラッドのページにある「英国初の定期ラジオ放送MZX」を御覧ください。

5) 大統領から声を掛けられたマルコーニ

10月2日のお昼前に万博会場に到着したルーズベルト大統領夫妻は、ただちに補佐官を通して、マルコーニ氏を昼食に誘いました。実はマルコーニ氏にとって、まったく予期せぬお誘いだったようですが、快くそれを受けて、大統領夫妻のもとへ駆け付けました。

マルコーニのシカゴ万博での昼食

左図はエレノア・ルーズベルト大統領夫人とフランクリン・ルーズベルト大統領に挟まれ、談笑しているマルコーニ氏です。このとき大変会話がはずみ、ルーズベルト大統領は来週ホワイト・ハウスで予定している、エレノア大統領夫人の「お誕生日昼食会」にマルコーニ夫妻を招待しました。

この予期せぬ大統領夫妻との昼食にはウラ話がありますので引用しておきます。

博覧会当局は彼(マルコーニ)に敬意を表する為、特に「マルコニ、デー」を設け、その当日西部技師協会(=IRE 西部支部)はマルコニを午餐会に招待した。ちょうど(IRE)協会員が着席した時に、これも当日博覧会の一賓客であったローズヴェルト大統領から書状が来て、マルコニにちょっと訪ねて来てくれとのことであった。マルコニは中座して二十分ほどしてから席に復したが、隣席のコンムトン博士に向かって、「私はどこであの人に逢ったかな? ローズヴェルトさんは一九一七年に会見した私のことを委しく話されたが、私にはどうしても思い出せない。 」と言った。

マルコニがイタリー政府を代表して合衆国を訪問した一九一七年には、ローズヴェルト氏は海軍次官で、マルコニの為に催された歓迎会へ大勢の人々にまじって列席したのであるから、マルコニの方で覚えていなかったのも無理はない。 (Orrin E. Dunlap Jr.(著), Marconi: The Man and His Wireless, 小田律(訳) マルコニ伝, 『日本読書協会会報』1937年12月号, 日本読書協会, pp56-57)

昼食後は科学館を見学したあと、イタリア館に訪れ、カストルッチョ伊国総領事とRCA社のデビット・サーノフ社長による歓迎式典に出席しました。このときイタリアで放送されるラジオ番組の収録も行われています。夜はシカゴを代表する実業家であり、シカゴ博の委員長でもあるルーファス・C・ドーズ(Rufus Cutler Dawe)夫妻が主催する歓迎晩餐会が連邦ビルにて催されました。125名の著名人が集いました。

翌10月3日には地元のノースウェスタン大学(Northwestern University)へ出向き、ウォルター・ディル・スコット学長(Walter Dill Scott)より名誉理学博士号(Honorary Doctor of Science)を受けました。また(私は)訪問日を特定できておりませんが、米国にあるローマ・カトリック教会として有名な、シカゴの聖名大聖堂(Holy Name Cathedral)で礼拝後、ジョージ・ウイリアム・マンデライン枢機卿(George William Mundelein)に会っています。

6) 万博のアマチュア無線記念局「W9USA」を見学

10月4日、マルコーニ氏はRCA社のデビット・サーノフ社長に誘われて、シカゴ万国博アマチュア無線カウンシル(The World’s Fair Radio Amateur Council)の常設展示場(Amateur Radio Exhibit, Travel and Transport Building)を訪れて、アマチュア無線家と交流したと地元のChicago Tribune紙(1933.10.5, p10)が報じています。どこに旅行しても、マルコーニ氏の頭から「無線」の二文字が消えることは無かったようですね。

 

この会場には記念アマチュア局W9USA(およびサブ局W9USB)が開設され、主として14.165MHzと14.200MHzで運用されたそうです(Jerome S. Berg, The Early Shortwave Stations: A Broadcasting History Through 1945, 2013, McFarland & Company, p105)

シカゴ万博記念アマチュア局W9USA, W9USB

上図[左]:QSLが貼られた展示ブース入口、 [中]:W9USA, W9USBの運用ルーム(個室)、 [右]:ARRLの出展コーナー

会場に展示されていた "少年による手作り送信機" を「良く出来ている」と褒めたマルコーニ氏に対して、製作者本人である少年が「貴方の無線機に比べたら、こんなのちっとも凄くありません。しょせん僕はアマチュアですから。」と反論すると、マルコーニ氏は「いやいや、私も(電気の専門大学を卒業していないから)同じアマチュアなのだよ。」と応えた。

これはアマチュア無線界ではよく知られたマルコーニ氏のエピソードです。世界にはこの言葉をもって「マルコーニは自分自身をアマチュア無線家だと言った。」とする意見もありますが、それは都合の良い拡大解釈でしょう

なおこのエピソードについて、私も調査してみたところ、確かに「W9USA」を訪ねた際に、この話に近いやり取りがあったようですが、その相手が「少年」だったかについては疑問がりました。継続調査とさせて頂きます。

7) デビット・サーノフ夫妻とナイアガラの滝を観光

10月4日の夜、ニューヨークに戻るためにマルコーニ夫妻はRCA社のデビット・サーノフ社長夫妻とともに、ミシガン・セントラル鉄道(Michigan Central Railroad)でシカゴを発ちました。

【参考】 RCA社(Radio Corporation of America)のルーツは、米国マルコーニ社(Marconi Wireless Telegraph Company of America)です。1912年4月、米国マルコーニ社の無線通信士だったデビット・サーノフ氏はニューヨークのマルコーニ局で最初にタイタニック号の遭難通信を受信したことでも知られています。

マルコーニ夫妻とサーノフ夫妻

向って左からマルコーニ夫人、デビット・サーノフ氏、マルコーニ氏、サーノフ夫人

ちょうどシカゴとニューヨークの中間点には有名な "ナイアガラの滝"(Niagara Falls)があるので、そこに宿泊して観光したようです(左図)。

"ナイアガラの滝" はマルコーニ氏には4度目でしたが、マルコーニ夫人は初めてだったため。たいそう喜ばれたことでしょう。

ニューヨークに戻ると、マルコーニ氏はラジオ・シティーに建設中のNBCスタジオを見学しました。なぜか反応は良くなかったようです。

ニューヨークに帰って来ると、ラジオ・シティーを案内してもらうことになった。立派な放送室から、ミュージック・ホールの楽屋裏まで見てまわり、案内者が種々説明したが、マルコーニはさして驚いたようにもみえなかった。期待がもっと大きかったのか - それとも、変転極まりないラジオ界の、明日にでも旧式となってしまうようなものに、巨額を注ぎこんだことに当惑したのか? (NBCの)技術部長が、ラジオ・シティーの神経中枢、放送施設を詳細に説明したが、マルコーニはただ "ほう" と感嘆の言葉を漏らすばかりだった。 (Orrin E. Dunlap(著)/森道雄(訳),『マルコーニ』, 誠文堂新光社, 1941, p331)

8) マルコーニ氏 RCA社と技術ミーティング

マルコーニとデビット・サーノフ

1933年10月9日の早朝、マルコーニ氏はNY州ロングアイランドのロッキーポイントにあるRCA社の無線センターに向いました。デビット・サーノフ社長の案内でRCA社の新型ファクシミリ送信機のデモンストレーションを見るためです(左図:右がマルコーニ氏で、左がデビット・サーノフ社長)。またマルコーニ氏が研究中の超短波やテレビジョンの開発についても意見交換しました。

翌日のThe New York Timesがマルコーニ氏はRCA社見学のあと、ワシントンD.C. に立寄ってから米国西海岸への旅行を検討していると報じました。これはNBC社がニューヨークのラジオ・シティに建設中の世界最大のスタジオの開所式(11月15日)に、マルコーニ夫妻が招待されたため、もしこれを受けるならば米国滞在期間を1箇月も延長する必要があるからです(当初は10月14日にニューヨーク発の船で帰国する計画でした)。

1933年10月10日、マルコーニ氏とデビット・サーノフ社長はニュージャージー州カムデンに向かいました。現地ではRCAラジオトロン社のカニンガム(Elmer T. Cunningham)社長が案内役を務め、RCA-VICTOR社の工場で、開発中の撮像管と受像管、および最新テレビジョンのデモンストレーションを見学しました。英国のマルコーニ社においてもテレビジョン開発が最終段階まで来ており、マルコーニ氏にはとても興味あるテーマだったのでしょう。

9) ホワイト・ハウスで大統領夫妻と昼食会(大統領夫人のお誕生日会)

1933年10月11日、首都ワシントンD.C. に入りました。ワシントンD.C.到着時のインタビューでマルコーニ氏がマイクロウェーブの時代について語ったと地元Washington Post 紙(Oct.11)が伝えています。

午後13:00、ルーズベルト大統領夫妻との昼食会でホワイトハウスに招かれました。ロッソ駐米イタリア大使を初めとするイタリア関係者数名も同席しました。"Roosevelts Honor Marconi and Wife: Luncheon Given at White House for Italian Visitor", Washington Post, Oct.12,1933, p8)

マルコーニ ホワイトハウスに招待される

この日はエレノア・ルーズベルト大統領夫人のお誕生日(49歳)でもあり、みんなで祝福しました。盛り上がった会話の中で、生真面目なマルコーニ氏はルーズベルト大統領の事を覚えていなかったことを正直に白状したそうです。

大統領は、海軍省次官時代の1917年に父と知り合ったことを覚えておられた。父はすっかり忘れていたことを率直に白状した。 (Degna Marconi Paresce著/御舩 佳子訳, 『父マルコール』, 2007, 東京電機大学出版局, p325)

ホワイトハウスでの昼食会のあとは、夕方17:00より、ワシントンD.C.在住イタリア系アメリカ人会による歓迎会がメイフラワー・ホテルで開かれました。

また翌10月12日はRCA社の法務顧問であるウーゼンクラフト(Frank W. Wozencraft)夫妻をホスト役とし、連邦無線委員会Federal Radio Commission(FCCの前身)の委員およびスタッフ、軍の通信将校、民間の電波関係者を招いた「マルコーニ夫妻の歓迎パーティ」が同じくメイフラワー・ホテルで催されました。"Marconi Reception", Broadcasting, Oct.15, p37)

10) サンタフェ~グランド・キャニオン国立公園へ

1933年10月13日、マルコーニ夫妻はシカゴを離れシカゴ・サウスショアー・サウスベンド鉄道でインアディアナ州サウスベンド(South Bend)にあるカトリックのノートルダム大学へ向かいました。そして10月14日に同大学で記念講演を行い、名誉学位を授与されています。そして大陸横断鉄道(サンタフェ鉄道)で西海岸のロサンゼルスへ抜ける旅にでました。

10月16日、中西部のサンタフェ(ニューメキシコ州)で観光と休憩するために一旦下車しました。サンタフェ駅ではロサンゼルス市長のフランク・L・ショー(Frank L. Shaw)、ロサンゼルス郡監理委員会のジョン・R・クイン(John R. Quinn)、ロサンゼルス商工会議所のウィリアム・A・シンプソン(William A. Simpson)ほか、100n人ほどのイタリア系アメリカ人らが大歓声でマルコーニ夫妻を出迎えました。

夫妻は車でアルバカーキ方面にあるプエブロ・インディアンの集落を訪ねました。ここで彼ら固有の生活様式や風習に触れ、また妻のためにいくつかの民芸品を買い求めて、夕方にサンタフェの列車に戻りました。

グランド・キャニオン地図

サンタフェを後にすると次に、グランドキャニオン国立公園に立ち寄りました。私の想像ですが、大陸横断鉄道のフラグスタッフ(Flagstaff、アリゾナ州)で途中下車して、車でグランドキャニオンに入ったのでしょう。

マルコーニ夫妻 グランド・キャニオン観光

夫妻は公園内のエル・トバール・ホテル(El Tovar Hotel)に二泊し、コロラド川が何百万年もかけて削った大渓谷の絶景を楽しみました(左図)。

【参考】グランドキャニオン国立公園の南玄関口がフラグスタッフ、西玄関口が(少し遠くなりますが)カジノで有名なラスベガスです。

11) ロスアンゼルス到着(ハリウッドを見学

グランドキャニオン観光を終えると(再び大陸横断鉄道に戻り)、終着駅ロサンゼルスには10月19日の朝に到着しました。宿泊先のアンバサダー・ホテル(Ambassador Hotel)で歓迎パーティーが催されました(明確な記録が見付かりませんでしたが、19日はロサンゼルス市内観光をされたのでしょう)。

無線電信発明家として有名な伊国のマルコニー氏は美人の評高き夫人を伴い今朝着羅。ワザワザ歓迎のため(サンフランシスコなどから)南下せる知事以下の歓迎を受けニコニコである。当市において三日間にわたる歓迎プログラムが作製された。"無電発明家マルコニー氏着羅:三日に亘る歓迎", 『加州毎日新聞』, Oct.20, 1933, p3)

10月20日、ロサンゼルス市内にある、映画の街ハリウッド地区の観光をしました。まず一行はハリウッドのRKO映画社のスタジオで、アメリカを代表する男優ジョン・バリモア(John Barrymore)を訪ねました。

バリモアのポスター

そしてバリモアが主演する映画「ロング・ロスト・ファーザー(Long Lost Father)」(左図)の撮影現場に立ち会うことを映画監督から許されています。夫妻は緊張感あふれる撮影現場の雰囲気を存分に堪能されたようです。

【参考】「RKO映画」社は、"メトロ・ゴールドウィン・メイヤー社"、"パラマウント社"、"20世紀フォックス社"、"ワーナー・ブラザース社"と並ぶ映画界のメジャー「ビッグ5」です。中でも、この年(1933年)の同社の大ヒット作「キングコング」で特に注目を集めていました。

そしてハリウッド映画界挙げての超豪華メンバーによる歓迎昼食会が催されました。ハリー・ワーナー(Harry Warner、[ワーナー・ブラザース創始者の一人])、ルイス・B・メイヤー(Louis B. Mayer、[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー創始者の一人])、ジョセフ・シェンク(Joseph Schenk、[20世紀フォックス創始者])といった映画界の重鎮経営者と、財界からはジャンニーニ(Dr. Giannini、[バンク・オブ・イタリー創始者])が集まり、またアメリカを代表する女優メアリー・ピックフォード(Mary Pickford)、ジンジャー・ロジャース(Ginger Rogers)、セルマ・トッド(Thelma Todd)、キャロル・ロンバード(Carole Lombard)も豪華映画スターが同席しました。

マルコーニ氏の隣にはメアリー・ピックフォードが、またマルコーニ夫人の隣にはジョン・バリモアが座りました。とても話が盛り上がったようで、ピックフォードより自宅(ビバリーヒルズ)へ遊びに来るよう誘われました(実際、2日後に訪問)。

夜はロサンゼルス市のフランク・L・ショー市長およびロサンゼルス市商工会議所による歓迎ディナー会がビルチモア・ホテルでありました。

12) ロスアンゼルス到着(カリフォルニア工科大学で講演

10月21日朝、ロスアンゼンルス市内にあるエキスポジション公園(Exposition Park)で、シカゴ博覧会を祝ってアメリカに運ばれきた英国の蒸気機関車「ロイヤル・スコット号」が今日と明日の2日間、一般公開が始まりました。

同公園でラルフ(James Rolph)カルフォルニア州知事、フランク・L・ショー市長、マーティン・ガーニー(Martyn Gurney)英国領事らによる記念式典が催されました。スペシャルゲストとして招かれたマルコーニ夫妻、スコット号の車内で記念の朝食をとりました。

【参考】ロイヤル・スコット号はシカゴ博の期間中、北米大陸の各地を走り、カナダ・アメリカの80都市で展示公開された。

式典のあと、ロサンゼルス市の北東に位置する隣町(パサディナ)にある、カリフォルニア工科大学(マサチューセッツ工科大と並ぶ理系トップクラス校)を訪ねました。

無線電信発明家マルコニー氏は来羅以来各方面より歓迎攻めに遭っているが、本日、巴市(パサディナ)工大の客となって同校を訪問した。"マルコーニ氏", 『加州毎日新聞』, Oct.21, 1933, p3)

ミリカン博士とマルコーニ

カルフォルニア工科大学の実質的な学長を務めている(ノーベル物理学賞を受賞した)ロバート・ミリカン博士と夫妻の主催歓迎昼食会が催されました(左図:昼食後に葉巻をくわえてマルコーニ氏とくつろぐミリカン博士)。

この歓迎昼食会には同大学資金援助しているロサンゼルス・タイムス紙のハリー・チャンドラー社長のほか、1933年のノーベル医学賞を受けたばかりのトーマス・H・モーガン博士も参加しています。

またミリカン博士が地元パサディナの8歳から18歳の「ラヂオ少年」達を同大学に集めて、13:30からマルコーニ氏が無線通信についてやさしい講義をしました。「ラヂオ少年」には夢の様な企画で大喜びだったでしょうし、マルコーニ氏も未来の科学者たちと交流を持てた、楽しいひと時だったと思います。

【参考】 電子の電気量を求める「ミリカンの油滴実験」は、たしか高校の「物理Ⅱ」の教科書にも出てきましたね・・・(今はどうなんでしょう?)。

13) ロスアンゼルス到着(ウィルソン山天文台を見学~女優ピックフォード邸を訪問

大学からの帰りに、ミリカン博士の勧めで、パサディナの背後にあるウィルソン山(標高1,740m)に立寄ることになりました。

ここには当時世界最大の100インチ(約2.5m)反射式望遠鏡で有名なウィルソン山天文台があるからです。片側が崖でクネクネした細い道を、チャーターした小型バスで登りました。ウィルソン山から眼下に広がるパサディナとロサンゼルス市街地の夜景がとても綺麗だったと夫人が感想を記されています。

天文台のエドウィン・ハッブル博士(Dr. Edwin P. Hubble)の歓迎を受け、各種設備の説明を受けたあと、同台自慢の100インチ反射式望遠鏡で天体観測を楽しみました。

マルコーニ 土星の環を観測

大きく鮮明に見える月のクレーターはもちろん、初めて "土星の環" を見たマルコーニ夫妻は大喜びでした。 (左図:"Marconi Sees Saturn through Big Telescope", Evening Star, Oct.22,1933, PageA2

軽食をとりつつ、夢中になって望遠鏡を覗き込んでいたため、ロサンゼルスのホテルに戻ったのは朝の4時ごろになってしまったそうです。

10月22日の午後はビバリーヒルズにある女優ピックフォードの豪邸に招かれています(調査してみましたが、22日の午前の行動が、私には分かりませんでした。たぶんどこかの教会の日曜礼拝に行ったと想像します。)。ピックフォード邸を訪ねると、喜劇王チャールズ・チャップリン(Charles Chaplin)、女優ポーレット・ゴダード(Paulette Goddard)も会いに来てくれていました。

【参考】喜劇王チャップリンと女優ゴダード。お二人は3年後の1936年(昭和11年)に結婚し、新婚旅行で日本に来ました。

実はチャップリン氏は1932年[昭和7年])5月16日(なんと犬養毅総理が暗殺された「五・一五事件」の翌日)に日本観光に来ており、相撲、歌舞伎、天ぷらなどを楽しみ、すっかり日本ファンとなりました。そこで1936年にゴダードとの新婚旅行(再婚)で再び来日されたようです。

10月22日の夜、マルコーニ夫妻は再び列車に乗り、ロサンゼルスを後にしました。

14) 終着駅オークランドへの道中の出来事

10月23日、夫妻一行はイタリア副領事のハリー・マゼラ氏に伴われ、国賓用の特別列車でロス・アンゼルスからオークランド(サンフランシスコの対岸)に向かっていました。カルフォルニア地方を訪ねるのが初めてということもあってか、夫妻の人気はとても高く、途中20分間ほど停車したストックトン(Stockton)駅には無電王の姿をひと目見ようと2,000人近い人が集まっていました。その熱烈な歓迎に応えて急遽(予定にない)スピーチをしたほどです。

米国にこれで四十五回まいりましたが加州(カリフォルニア州)へお伺いしたのはこれが最初であります。加州は総じて天然の豊かなこと、並びに私に対する温かい歓迎は生涯忘れ得ぬ発見であります。葡萄酒を起用して景気の回復、まことに妙案であります。加州はかくして世界(大恐慌)の復興に一歩々々進めることでありましょう。"無電の発明者 マ氏列車で挨拶:二千人近い人が歓迎の山を築き翁は演説す", Japanese American News(日米新聞), 1933年10月25日, p8)

【参考】 私は書籍『父マルコーニ』(pp325-326)にある、マルコーニ氏の生真面目な性格を表す下記の逸話は、このストックトン駅での出来事ではないかと思っています。

アメリカ滞在中、ちょっとしたハプニングがあった。ある大きな集会でまったく事前の予告なしに、父はスピーチをするはめになった。生真面目な父は、スピーチをする場合、事前に原稿を書き、それを一字一句、句読点すら変えずに読んでいたほどである。結果は見事な出来栄えだった。ディ・マルコによれば、これまで聴いたスピーチのなかでも最高だったそうだ。 (Degna Marconi Paresce著/御舩 佳子訳, 『父マルコール』, 2007, 東京電機大学出版局, pp325-326)

1933年10月23日の夕方、マルコーニ夫妻らは終着駅オークランドに到着しました。ただちに連絡フェリーに乗換えて、対岸のサンフランシスコを目指してオークランドをあとにしました。 

オークランド地図 1933年

【参考】時はオークランドが終着駅でした。1936年鉄道橋サンフランシスコ オークランド・ベイ・ブリッジが完成し、鉄道サンフランシスコまで延伸されました。 ちなみにサンフランシスコから北へ連絡するゴールデン・ゲート・プリッジ[金門橋]は更に1年遅い1937年の開通です。

15) フェリーでサンフランシスコ入り

マルコーニ夫妻はサンフランシスコに向かうフェリーの上からサンフランシスコ湾岸に広がる市街地の美しい景観を楽しまれたようです。やがて大きな汽笛を鳴らしながら(サンフランシスコ側の)フェリー・ターミナルに着岸されると、待ち構えていた大勢の市民から大歓声があがりました。

フェリー・ビルディングではサンフランシスコ市立吹奏楽団による両国の国歌演奏が始まり、イタリア系アメリカ人でありサンフランシスコ市長であるアンジェロ・ロッシ(Angelo J. Rossi)氏、サンフランシスコ警察署長、イタリア商工会議所のマルリーノ・ペラッソ(Marrino Perasso)会長ら歓迎委員たちがマルコーニ夫妻を出迎えました。

このとき市立吹奏楽団の演奏を指揮したのは、サンフランシスコ滞在中の東京音楽学校(現:東京芸術大学)のシャピロ教授でした。

サンフランシスコ市庁とロッシ市長

左図[左]は夫妻と握手するロッシ市長です。ただちに夫妻一行は車で市長自慢の市役所へ移動し、18:30より市庁舎中央部のロタンダ(左図[右]:高い円形ドーム天井のある大広間)で市の公式レセプションが催されました。

マルコーニ サンフランシスコに到着

ここでマルコーニ氏はサンフランシスコ市民の大歓迎に心より感謝すると挨拶し、さらに現在マルコーニ社で開発中のテレビジョンが完成する日が近いことを発表しました。

In a speech at the City Hall the father of wireless communication predicted that commercial television is practicable and that before very long, static over the air will be a thing of the past.  "Some Invention may be made within the year to make television available to all," he declared.  "If the Improvement Is gradual, without any startling development, it may take longer, hut it will come, just the same, within ten years." " 'Father of Radio' Greeted By Italian Colony of S. F.", Oakland Tribune, Oct.24, 1933, p8D )

その様子を地元ラジオ局KGOが中継放送(18:30-19:00)していますが、サンフランシスコ市がマルコーニ夫妻を国賓待遇で迎えたのは、市長がイタリア系アメリカ人だったからでもあるのでしょう。

10月24日、マルコーニ夫妻らのサンフランシスコ観光の案内役を務めたのは、イタリア系移民のための銀行「バンク・オブ・イタリア」の創業者アマデオ・ジアニーニ(Amadeo Giannini)氏でした。夜はホテル・フェアモントでサンフランシスコ市の公式歓迎晩餐会があり、病気療養中にも拘らず、ジェームズ・ロルフ(James Rolph Jr.)カリフォルニア州知事が再度かけ付けるなど、総勢700名もの著名人が集まる大規模なディナー・パーティーとなりました。駐サンフランシスコのロドビコ・マンジーニ(Lodovico Manzini)総領事やイタリア商工会のマルリーノ・ペラッソ会長も挨拶されました。

翌25日はパレス・ホテルでコモンウェルス・クラブ(Commonwealth Club)が主催する歓迎昼食会があり、地元ラジオ局KPOが13:30からの特別番組でマルコーニ氏らのスピーチを中継放送しています。

16) 大学めぐりとヨセミテ国立公園を観光

10月26日にはロッシ市長の案内で州立カリフォルニア大学バークリー校、スタンフォード大学、サンタクララ大学を訪ね、各校の学長・学長夫人らとの茶話会を楽しみました。

サンタクララ大学では、リチャード・ベル(Richard H. Bell)氏の案内で、米国太平洋岸で最初に使われた同氏の歴史的無線機を見学しました。またスタンフォード大学の近くのパロアルト(Palo Alto)地区では(半年前まで大統領だった)フーバー前大統領の家を訪ねした

ちょうど、この日のお昼に、(スタンフォード大学とサンタクララ大学の中間あたりに位置している)サニーベール海軍航空基地から、米海軍が保有する巨大飛行船メイコン号(U.S.S. Macon)が出発すると予告されていました。

マルコーニ 飛行船メイコン号を見る

12時12分、巨メイコン号が離陸し、各処から集まった多くの見物客らと共に、マルコーニ夫妻らも大空に浮かぶその雄姿を見ることが出来ました。

【参考】 メイコン号は地上高250mまで垂直上昇したあと、付近を一回転したのち進路を南へとり、明朝7時に(メキシコとの国境近くの軍港)サンディエゴでUターンして、お昼ごろにロサンゼルスのメトロポリタン地区を飛行し、同夜サンフランシスコに戻りました。

ヨセミテ国立公園マップ

10月27日、マルコーニ夫妻とロッシ市長夫妻らは自動車2台でヨセミテ渓谷(ヨセミテ国立公園)のヘッチヘッチー(Hetch Hetchy)貯水池などを観光しました。

マルコーニ ワウォナ・トンネル・ツリー

左図[右]は巨木をくり貫いて造られたワウォナ・トンネル・ツリー(Wawona Tunnel Tree)を一行の2台の自動車がくぐり抜けているところを記念撮影したものです。マルコーニ夫妻のオープンカーがトンネルを抜けた場所で、(写真では分かりにくいですが)後続のお供の車がちょうど木のトンネルから抜けようと鼻先を出した位置です)

【参考】 この巨木によるトンネルはヨセミテ国立公園の中でも、昔から人気の「写真撮影スポット」でした。多くの観光客たちが、このトンネルをくぐったところに自動車を止めて、記念撮影していました。 しかし1969年(昭和44年)冬、この巨木は自然倒壊してしまったそうです。

17) マルコーニがやって来る? 突然、日本観光を表明

マルコーニ氏はヨセミテ国立公園を観光をした1933年10月27日に、突然「サンフランシスコを11月2日に出港する日本郵船の秩父丸で日本に向う」とプレス発表しました。

翌28日の地元紙Oakland Tribuneをはじめ、日系人向け新聞であるJapanese American News(日米新聞 [サン・フランシスコ], p4)Japan-California Daily News(加州毎日新聞 [ロサンゼルス], p3)The New World Daily News(新世界日日新聞 [サン・フランシスコ], p3)The Hokubei Asahi(北米朝日[サンフランシスコ], p3)などがこれを報じています。

目下、来桑(サン・フランシスコ)中の無線電信発明者たるイタリーのマルコニー侯は、夫人およびマルコ大佐同伴従者二名を従えて、十一月二日出帆のチチブ丸で日本に行くことになったが、同侯の太平洋横断および訪日は今回が初めてである。一行の東洋におけるプログラムは未定であるがマルコ大佐が支那(中国)に在住していたことがある関係上、多分支那にも行くものと見られている。・・・(略)・・・』 "無線電信の父 マルコニ侯 渡日:夫人およびマルコ大佐を同伴し秩父丸であこがれの国へ", 新世界日日新聞, 1933年10月28日, p3)

わが国でもただちに『東京朝日新聞』(10月29日, 夕p2)"無電王マルコニ氏が来る" という見出しを付けて、短く速報しましたが、あまりに突然の話でしたので、日本の電波関係者には少々いぶかしげられたようです。

18) 日本観光を決断したのはなぜ?

マルコーニ氏は太平洋を眺めているうちに、水平線の向うにある日本を見たくなり、せっかく米国の西海岸(太平洋岸)まで来てしまった事だし、このまま海を渡ってアジア経由で帰国するか・・・と思ったのでしょうか?

シカゴ万博 日本館

マルコーニ氏がシカゴ万国博覧会日本館(左図)を見学し、東洋の国日本」に強く興味をもたれた可能性否定できません。

また10月25日には日本からの定期航路船「秩父丸」がサンフランシスコに到着したというニュースあり、横浜への「折り返し便」にタイミング良く乗船できるチャンスでもありました。どうやらそれら全てが複合的に作用した結果のようです。

後年になって、マルコーニ夫人(Maria Cristina Marconi)が自身の著書 My beloved Marconi "A Voyage Around The World : Japan"(P.218)に、「サンフランシスコ滞在中に日本の外務当局(サンフランシスコの日本総領事館?)から来日の誘いを受けたから日本に行った。」と記されたため、2016年に出版された Marc Raboy著Marconi: The Man Who Networked the World にこの夫人の言葉が引用されました。

しかし私には「日本の外務省が夫妻を招待した検証できていませんし、これは夫人の勘違いではないかと考えています。 地元の日系日本語新聞に以下の記事があります。

無線電信の発明者マルコニ候は本日発秩父丸にて日本訪問する事となったが、右に対し若杉総領事は一昨日(=10月30日)同候をフェアモント・ホテルに訪問し、敬意を表すると共に日本滞在に対し種々懇談する所あったが、候の旅程は日本滞在一週間で上海に渡り更に都合上満州国を視察したい希望もあるという。"無線電信の発明者 マ氏秩父丸で日本へ:一週間滞在後上海へ", 『日米新聞』, 1933年11月2日, p4)

マルコーニ氏が「10月27日に訪日を決意」 → 「訪日のビザを申請」 → 「10月30日若杉総領事が日本観光レクチャーのためにマルコーニ氏の部屋を訪ねた」という流れでしょう(もしかしてこの時に若杉総領事が直々にビザを届けたかもしれませんね)。そして若杉総領事がわざわざ自分たちの部屋まで訪ねてきたことを、マルコーニ夫人が「総領事からの訪日の誘い」だったと勘違いされたものと想像します。

のちの11月25日、京城(現:ソウル)に着いたマルコーニ氏が、『京城日報』の記者に対し、"突然日本を訪問した訳" を明かされていますので引用します。これはマルコーニ本人の言葉ですから、「青い海を見てたら日本に行きたくなった」これが真実なのでしょう。

 侯夫妻は朗らかに語り合う。「アメリカの歓迎を受け太平洋(側まで、米大陸)を横断してサンフランシスコに着いた時、この青い潮続きの東洋の君子国、ニッポンを訪問しようと思い立ち、(マルコーニ夫妻の旅行に秘書として同行している伊海軍中佐の)デ・マルコ氏の勧めもあって来たんだが、ねえ良かったね、お前、来て良かったと思うね。

ところで「マルコーニ夫妻は世界一周旅行の途中で日本に立寄った」とするのは、少々ニュアンスが違いますね。日本に行くことにしたので(結果的に)世界一周になりました。

19) 日本へ向け東洋汽船「秩父丸」で出帆

とにかくこのニュースに驚いたのは日本側です。マルコーニ社の日本代理店(極東アジア地区総代理店)である大倉商事でさえ事前には知らされていなかったからです。

マルコーニが日本へ出発
天洋丸コールサインJEZC

突然アテンドを任された大倉商事は大急ぎで対応準備に入りました。

1933年11月2日夕方16時、マルコーニ夫妻ら一行5名を乗せた秩父丸はサンフランシスコの港を出帆しました(左図[]:"Marconi Sail for Japan", Evening Star, Nov.3,1933, p.A2) 。

乗船した船客360名(一等63名、二等29名、三等268名)の中には柳沢保恵伯、藤田嗣治画伯、(カナダへ会議出張中の10月15日に突然の出血性膵臓炎で亡くなった新渡戸稲造氏の遺骨を抱き帰国する)メアリー夫人、シカゴ万国博の日本イベントの出演者らもいました。

秩父丸(呼出符号:JEZC)の乗船名簿にマルコーニ夫妻の名前があることを最終確認した日本側は大騒ぎです。日本の無線局の許認可権を有する電波三省(逓信省・海軍省・陸軍省)はもとより、放送協会、学会、無線会社(東京電気、日本電気、日本無線、国際無線)などがマルコーニ夫妻をもてなしたいと次々に名乗りを挙げました。

マルコーニ氏は出発直前に現地日系紙『北米朝日』の記者に次のように話しています。

イタリー上院議員侯爵ウイリアム・マルコニー氏は夫人同伴、昨日秩父丸で日米人の盛んな見送りをうけて日本へ向けて出発した。・・・(略)・・・往訪の記者に語る。 「桜花の美と富士山を聞き伝え、幼時よりあこがれていたが、多年の宿望が、達せられる訳だ。東洋訪問は単なる個人的のもので、外に何の意味もない。一週間又は十日間日本に滞在して各地を見物したいと思う。出来れば満州国をも訪れたいと思うが、日本内地のプログラムは全部大倉男(大倉喜七郎)に一任してあるから、今なんとも申しかねる。」 マルコーニ候はイタリー人であるが、態度といい、英語といい純然たる英国人と接する感があった。"マルコニ候出発 『すきな日本』・・・満州にも行きたい・・・", 『北米朝日』, 1933年11月3日, p3)

20) ホノルル(ハワイ)に寄港したマルコーニ夫妻

マルコーニ ハワイに到着

1933年11月7日、(予定より4時間遅れで)秩父丸がホノルル港(ハワイ)の第七桟橋に繋留されたのは朝10時でした。

マルコーニ夫妻ぼ首にはレイ(lei)が掛けられ、ボイヤ州副知事および州議員、ハワイ技師協会員、ホノルル商工会議所会員らの歓迎を受けました(左図)。

集まった新聞記者にはハワイ州民への挨拶に続けて、次のように述べています。

電気学は日々に進歩している。テレヴィジョンが小商業に実用化されるのもここ1年間であろう。余はいまラジオの雑音を除去する方法を研究している。どうにかして成功を見るだろうと思っている。・・・(略)・・・日本へはただ五日間滞在予定である。日本には友人を多く持っている。大倉喜七郎男爵などはその主なものである。"無線電信の発明者 マルコニ候寄港", 『布哇新報』, Oct.7, 1933, p3 )と話しています。

すぐに用意された自動車に乗り込みハワイ政庁へ向かいました。

そしてハワイ政庁に到着。ローレンス・ジャッド知事(Lawrence M. Judd)への挨拶を済ませると、知事は夫妻をいま開催中の上院議会へ招待しました。 10時40分、知事と共に現れた珍客のためにクック上院議長は一時休会を宣言し、マルコーニ氏を議員一同に紹介したあと、スピーチを促しました。マルコーニ氏は美しいハワイを訪問できたことを大いなる喜びとしていること、こうして州議会で皆さんへ挨拶する機会を与えられたことを甚だ光栄に思いますと挨拶を述べました。

ハワイ上院議会で挨拶するマルコーニ

左図中央の白いスーツ姿がクック上院議長で、向かって右側でレイを掛けた立ち姿で挨拶しているのがマルコーニ氏です。そしえ写真の左端で、椅子に腰掛けているのはマルコーニ夫人ですね。このあと歓迎昼食会までの時間は自動車からの車窓市内観光をしました。

21) マルコーニ夫妻、ホノルル観光を楽しむ

知事公邸(Washington Place)で催された歓迎昼食会を終えると、17時の出帆まで市内外観光およびOutrriger Canoe Clubで「六人乗りカヌー」を楽しみました。マルコーニ氏一行がうっかり遅刻してしまい17時10分頃に帰船したため、船は17時30分に出ました。。

無電王マルコニ侯夫妻は既報の如く昨七日、秩父丸で寄港。ジャッド知事の賓客として大歓迎を受けたが、無電王何を思ったか当地の(Mutual Telephone Company の)無線電信設備視察はそっちのけに、ワイキキのアウトリガー倶楽部に赴きカヌーに乗って南国情緒を満喫。船の出帆時間午後五時にいたるも帰船せず、船側では大狼狽したが出帆時刻を過ぐること約十分後乗船したのでやっと安心。一路横浜に向けて解纜(かいらん=船のともづなを解き出帆すること)した。・・・(略)・・・』 "ハワイ情緒… 無電王を魅了:お蔭で船の出帆遅る", 『日布時事』, 1933年11月8日, p2)

【参考】1931年11月2日に開業した、(常用施設によるVHF波の商用化としては世界初となる) Mutual Telephone Company の「島嶼間無線電話」の見学はキャンセルされたようです。このVHF無線電話システムはRCA社の技術協力によるものなので、技術的な事項に関してはマルコーニ氏は充分承知していたからでしょうか?あるいは「500MHz波が曲がる」現象で頭がいっぱいで、もはやハワイのVHF波(43MHz)の無線電話には興味が薄れていたのでしょうか?

 またマルコーニ氏がハワイで、幼馴染と感動の再会を果たしたことを『布哇(ハワイ)報知』が伝えていますので引用します。

昨日入港の秩父丸で寄港した無線電信の発明者マルコニ侯爵は布哇(ハワイ)人士の熱心な歓迎に合い、エキゾチックな布哇(ハワイ)の風物を見物して大いに喜んでいたが、それよりも思い掛けない人に邂逅(かいこう=偶然に出会うこと)って何とも言えない喜びに満ちていた。当市キャトリック教会のエッチ、ヴァレンチン教父はマルコニ無電王と少年時代の遊び友達であったので、ヴ教父が昔を物語りマルコニ候に面会したのである。

毎日々々ともに遊んでいた友達が西と東に遠く離れてしまう事も不思議であれば、またこうして思いもよらず再会するのも不思議ですね。」とイタリーの大科学者はキャトリック教父の手を堅く堅く握りながら語るのであった。・・・(略)・・・ "マルコニ無電王の思い掛けない喜び:幼な友達であった当地のヴァレンチン教父と邂逅", 『布哇日報』, 1933年11月8日, p4)

22) マルコーニ夫妻を迎える日本の様子

さて再び長い船旅が始まりました。下図は秩父丸の甲板でくつろぐマルコーニ夫妻です。

秩父丸でくつろぐマルコーニ夫妻

やがて秩父丸JEZCから北海道の落石無線へ『この度の訪日の目的はプライベート観光で、東京には11月16, 17, 18日の3日間滞在する。』との無線電報が届きました(マルコーニ氏が昼間波を発見し、今や公衆通信は短波の時代でした)。

ただちにイタリア大使館が18日の晩餐会は我々が主催すると表明したため、残る16日、17日の争奪戦となりました。そこで16日はマルコーニ社の日本代理店「大倉商事」を傘下に置く大倉組(大倉財閥)が歓迎会を主催し、17日に官民を一本化した合同歓迎会(逓信省、陸軍省、海軍省、鉄道省、日本放送協会、日本無線電信会社、国際電話会社、電気学会、電信電話学会、日本ラヂオ協会、学術研究会、電波研究委員会、電信協会、東京各新聞・通信社有志の共催)を催すことになりました。

ちなみにマルコーニ夫妻の日本観光の一切を取り仕切ったのは、大倉財閥二代目総帥の大倉喜七郎氏(通称:大倉男、バロン大倉)で、イタリア大使館がこれを全面的に支援しました。大倉喜七郎氏は英国のケンブリッジ大学を卒業された国際派の経営者です。

また千葉の銚子無線も多忙を極めたそうです。読売新聞の千葉欄に下郷局長のコメントがありますので引用します。

『(銚子無線の)下郷局長は語る。「マルコーニ侯爵は十六日横浜着の予定です。何しろ無電の発明者なので盛んに(短波で)発信して来ます為めに、当局では普通の三増倍も多忙を極めています。」 』"創造者に悩まされる:銚子無電局 マルコーニ侯の来朝近づき局長以下大多忙", 『読売新聞[千葉版]』, 1933.11.12, p8)

マルコーニ来日を伝える雑誌

マルコーニ氏の突然の来日について、報知新聞社の『日曜報知』(11月12日)が伝えています(左図)。

こうして日本国内ではマルコーニ夫妻の歓迎ムードが高まってきました。

マルコニがやって来る。六十歳の老躯をひっ提げて、世界の無電の父マルコニが、はるばる伊太利から日本にやってくる。

一八九五年、彼がはじめて無線電信の発明に成功したのは僅か二十二歳の若者であった。が、歎賞すべきはそれだけではない。以来四十年、わき目もふらず今日まで、ただ一筋に、無電の発達に精進して来た努力と、不抜の研究心とである。

電波は曲がる! 」その発表で、彼がもう一度、世界をアッと言わせたのも、極く最近のことである。・・・(略)・・・ 』 (澤田譲, "無線電信の父マルコニ氏来る", 『日曜報知』, 1933.11.12, 報知新聞社, p11)

夫妻の突然の日本訪問を知った日本政府は大慌てでした。無線通信のヘビー・ユーザーである逓信省と海軍省のトップ、南逓信大臣と大隅海軍大臣が、広田外務大臣へマルコーニ氏に対する叙勲を推薦しました。そして1933年11月15日に広田外務大臣が内藤総理大臣に推薦し、翌11月16日付けで内藤総理が叙勲の裁下を仰ぐ旨願いでました。本ページの末尾で詳しく紹介します。

23) マルコーニ夫妻が横浜港に

1933年11月16日(木曜)

11月16日早朝より東京湾に入り、秩父丸が横浜にやってきたのは正午近くでした。岸壁沿いの工場群の煙突から吐き出される黒煙を見て、想像以上の重工業の発展ぶりにマルコーニ夫妻は驚きました。

日本へ着いた十一月十六日薄明かりの空気を通じて眺めた日本最大の商港・・・その影響を世界中に及ぼしている商港横浜の姿は明らかに私の頭に印象づけたものであった。黒煙を吐き上げる無数の煙突。大音響を立てて寸刻の暇もなく動きつつあるクレーンを見た時、これぞモーダン日本の真の姿であると感じた。かくして私の日本に対する第一印象は日本は世界何れの国よりも、より活動的であり精力的であるという事であった。"私の日本観:マルコニ無電王 日本旅行の印象記", 『布哇報知』, 1934.2.27, p6)

検疫のために横浜港の入り口で一旦停船していましたが、まもなくすると日本郵船のランチ数隻に分乗した、アウイッチ(Giacinto Auriti)イタリア大使、大倉組総帥の大倉喜七郎氏、大倉商事の石田直吉取締役と高橋是彰氏、(逓信省を代表して)荒川大太郎氏、(学会を代表して)佐伯美都留氏、(東京放送局JOAKを代表して)苫米地貢氏、そして新聞記者団らが秩父丸へ乗り込み、夫妻の日本訪問を歓迎するとともに海路の無事安着を祝いました。

【参考】苫米地企画課長がJOAKを代表し出迎えに来たのは、「無線と実験」誌の主幹時代の欧米視察旅行でマルコーニ氏と既に面識があったからだと想像します。

その時の様子を元マルコーニ社(英国)の社員だった大倉商事の高橋是彰氏の記事から引用します。

やっと水上署の方の許可が出て、一同ぞろぞろと秩父丸のタラップを上がって行った時分には、冷たい雨もすっかり上がり、薄日さへさして来た。後甲板に上がると、皆、駈け足で一等船客の甲板へとおしかけ、あちらこちらと侯爵一行の所在を探し廻った。自分がやっとサルーンの中央に、夫人と二人でニコニコと立って居られる侯爵を見出した時には、未だそばには二・三人の出迎人しか見えなかった。さっそくニューヨークで親交のある大倉商事会社の石田重役の紹介で、大倉男爵(大倉喜七郎氏)に次いで(自分も)紹介していただいた。・・・略・・・

この人があの大発明をなし、続いて今日でも後から後へと素晴らしい発明をされている方とは、何としても思えない。温厚な英国紳士を思わせる風格である。貴公子ともいいたい。そして候の何処にも大発明家、大サイエンチストたる風は少しも見えないのに不思議を感じたのである。(高橋是彰, "マルコニ侯爵の日本観光に随行して", 『ラヂオの日本』, 1934.2, p.119)

横浜に到着したマルコーニ夫妻

マルコーニ夫妻に贈られたバラの花束を抱いたプレス用の写真撮影では以下のようなこともありました(左図:マルコーニ氏をセンターに、向かって左側に夫人。右側で帽子を手にした紳士が大倉喜七郎総帥です)。

『 ・・・(略)・・・夫人と二人、Aデッキに並ばされて、カメラの注文でバラの花束を抱かされると「いやあ、俺はごめんこうむろう。花束はレディー・マルコーニだけ持っていればいいじゃないか。」と少々ばかり照れていた。"優しい眼の奥に理智のひらめき", 『時事新報』, 1933.11.17, p7)

24) 日本到着の記者会見(秩父丸社交室にて

13:00より船内の社交室で記者団との会見がはじまりました。この日の朝の東京湾では濃霧が発生しており、楽しみにしていた富士山が見えなかったことをマルコーニ夫妻はとても悔しがっていました。

かねてあこがれの日本に来たことは実に喜ばしいが、霧が深くて有名な富士山や日本の美しい景色が見えなかったのは残念です。太平洋を東洋へ超えたのは初めてですが私の作った無線電信は日本をはじめ地球を常に廻っているのだと思う時、まことに愉快です。 "富士が見えぬは残念 上陸第一歩の印象 無電王語る", 『報知新聞』, 1933.11.17, 夕p1)

そして日本国民への到着メッセージを記者団に託しました。

私共夫婦は日本観光訪問にあたり日本官民各方面より非常に深厚なる歓迎を受けす事はまことに光栄、かつ欣快に堪えません。私も妻も日本が始めてです。しかし私には他国人の気持ちはありません。いま私には日本の皆様が懐かしい友達のように思われます。何となれば英国の私の工場で製造した放送機が東京、名古屋、大阪、熊本などにおいて日々皆様にラヂオの電波を送っているからです。

明朗の日本、火山のある日本、殊に美しき富士山のある日本。我が祖国イタリアの国情に似たる日本に来る歓喜は無限のものがあります。(お集まりの記者の)皆さんの新聞を通じ、どうぞ日本の皆様へ私等の心情とお礼を伝えて下さい。

秩父丸の甲板からは、たったいま撮影したばかりのフィルムや速報原稿を運ばせるために、新聞各社が連れてきた "伝書バト" が、ひっきりなしに飛び立っていました。

25) ついに日本の地を踏んだ夫妻 東京まで車窓観光

横浜港

秩父丸を第四埠頭に接岸させる作業が始まったのが13:30で結局、下船できたのは14:00を少し過ぎましたが、全日本無線技士協会の大關源蔵代表、『無線と実験』誌の古澤氏ら、大勢の電波関係者や一般人が無電王を出迎えようと集まっていました。

現存せる歴史的人物の随一、マルコニがのっていると云うので秩父丸は近来にない騒ぎだ。かつてダグラスが初めてやって来たとき、チャップリンがやって来たときにも匹敵するような盛んな出迎えにマルコニ自身がびっくりしている。・・・(中略)・・・シカゴ博に米国から国賓として招待を受け、その帰り途に日本を訪問しようと云う旅 ― 特に日本船を選んでくるだけ頭を使うマルコニだ。"現存せる歴史的人物の随一「マルコニ」", 『横浜貿易新報』, 1933.11.17, p7)

夫妻一行は出迎えたアウリッチ大使と一緒に、イタリア大使館の車に乗り込み、横浜港をあとにしました。マルコーニ氏は東京有楽町にある帝国ホテルまでの道中で見た街並みや人々の様子や、(このあと)宮中参内した際の近代都市東京が、これまで自分が想像していた「東洋の国」とあまりにも違っていたと感想を述べられています。

東京に行った時「これが東京か?」と私は幾度も繰返して自分自身に尋ねるのであった。自動車で帝国ホテルに赴いた時、私は(自分が想像していた日本と違い過ぎて)日本のハッキリした形を見失ってしまった。― 夕暮れの光の中に近代的建物の並んだ街を見た。"私の日本観:マルコニ無電王 日本旅行の印象記", 『布哇報知』, 1934.2.27, p6)

26) 帝国ホテルに到着 溢れかえる群衆が出迎え

さて宿泊先である東京の帝国ホテルの周辺道路には無電王の姿に接しようと集まった群衆があふれ、さらにホテルの玄関前では東京高等無線電信学校の全校生徒300名が並んで待ち構えていました。

【参考】 東京高等無線電信学校は昭和7年、東京市本郷区真砂町(現:文京区本郷)の地に開校 。しかし太平洋戦争終戦の前年(昭和19年9月30日)に廃校になりました。

【参考】 大阪からは早川徳次氏(シャープ創業者)も出迎えに来ていました。

15:05に夫妻を乗せた車が現れると、割れんばかりの拍手と歓声で迎えられました。そして帝国ホテルのロビーではローマ法王代理ハーレー氏と、一足先に横浜から戻った大倉喜七郎総帥夫人と二人の令嬢らが、マルコーニ夫妻を出迎えました。

帝国ホテルのマルコーニ

左図はその出迎え時に、帝国ホテルの庭でマルコーニ夫妻と大倉総帥らが記念撮影された写真です。

前列向かって左から、大倉総帥夫人、マルコーニ夫人、マルコーニ氏、大倉喜七郎氏です。後列の並び順はよく分かりませんが、総帥令嬢(まさ子さん、てつ子さん)と高橋是彰夫妻のようです。ちなみにここ帝国ホテルも大倉財閥の傘下で、大倉喜七郎氏が代表取締役会長でした。

【参考】のちに勃発した太平洋戦争に日本が敗れると、大倉喜七郎氏はGHQ/SCAPによる「公職追放」「財閥解体令」で帝国ホテルを手放しました。しかし同氏は1962年(昭和37年)、東京都港区の大倉邸の敷地に「ホテル・オークラ」を建てて、業界カムバックを果たしました。残念ながら翌1963年(昭和38年)2月に帰らぬ人となったバロン・大倉こと、大倉喜七郎氏でしたが、「ホテル・オークラ」は1964年(昭和39年)に開催された東京オリンピックで世界各国の要人に利用されました。

日本を代表する最高級ホテルのひとつに数えられるようになった「ホテル・オークラ」は、レーガン米国大統領やソ連のゴルバチョフ書記長、英国のチャールズ皇太子・ダイアナ妃、音楽界ではジョン・レノンやマイケル・ジャクソンも利用したことでも知られています。近年ではオバマ米国大統領が2009年と2014年に宿泊されたほか、2022年5月にはバイデン大統領も宿泊されました。

そうです。超一流ホテル「ホテル・オークラ」の"オークラ"とは、マルコーニ社の日本代理店大倉商事を経営していた大倉喜七郎氏のことなのです!このほか旧大倉財閥系として現存し良く知られる会社に、日本無線、サッポロビール、大成建設などが、また教育関係では東京経済大学(旧大倉高等商業)や、関西大倉高校が、その他、大倉喜七郎氏とその父・喜八郎氏が収集し開設した私設美術館、大倉集古館(公益財団法人 大倉文化財団)には約2500件の美術品(含む:国宝3件、重要文化財13件、重要美術品44件)が収蔵されています

27) 正装に着替えて宮中参内

マルコーニ夫妻は大倉商事の玉木社長をはじめ、学会や日本を代表する無線・電気界の関係者と、用意された日伊両国旗の下で握手を交わしたのち、夫妻は南側二階204号室(スイートルーム)に案内されました。

そして夫妻はほとんど休憩する間もなく、正装に着替え、大倉総帥と16:00に坂下門(図)より宮中に参内しました。なお天皇陛下は服喪中(直前の11月12日に叔母宮にあたる朝香允子内親王殿下の御葬儀があったばかり)で、拝謁を賜うことはできませんでした。

聖上陛下には御服喪中にわたらせられるので謁見の御事なく御車寄せにて記帳して退出。 "無電王けふ来朝 廿一日京都へ", 『京都日出新聞』, 1933.11.17, 夕p1)

皇居坂下門

北御車寄せで天機奉伺ならびに御機嫌奉伺の記帳をなしたのち、大宮御所(皇太后陛下:大正天皇の皇后)、秩父宮御殿(天皇陛下の弟宮)に伺候して来朝のご挨拶を述べ、帝国ホテルへ戻ったのが16:40です。

これについてマルコーニ自身も次のように語っています。

聖上陛下には御喪中のため、拝謁の栄を得ませんでしたが、秩父宮様に拝顔の栄を賜り、有り難きお言葉までいただきました。・・・(略)・・・』"ようこそマルコーニ侯 半島へ第一歩 中学生の歓迎に感激", 『京城日報』, 1933.11.25, p7)

私は大倉喜七郎男爵に伴われて宮城(=皇居)及び秩父宮殿下の宮殿を拝した。宮城の荘厳なる様を見て万世一系の皇室のことを思い巡らした時、私は一種異様な崇高の感じに打たれた。"私の日本観:マルコニ無電王 日本旅行の印象記", 『布哇報知』, 1934.2.27, p6 )

28) 帝国ホテルで東京到着の記者会見

帝国ホテルには日本各地から歓迎の手紙と電報が山のように届いており、マルコーニ氏はこれらに返信するために急遽、専属タイピストを雇い入れました。しかし処理に3日も掛かったといいますから、その凄さが想像できま

自室で短い休憩をとった後、記者団との会見がはじまりました。

やがて記者団の前に現れた候は「アイ・ム・マルコニ」と愛嬌たっぷり。「日本はなかなか立派なお国です。文化その他すべて世界の最前文明国です。ことに宮城(皇居)の荘厳さには胸をうたれました・・・」と印象談は結構づくめだ。はなしが無電のことにふれると「日本のラヂオは安く聴けますか」と真剣になって質問する。「もちろん安くて全く大衆化しています」と答えると、「それはいい!」とわが意を得たようにほほ笑む。 "日本料理と畳にあぐらの喜び", 『読売新聞』, 1933.11.17, p7)

憧れの日本に足跡を残すことになって朗らかです。風景、風俗、音楽、すべてが美しいお国に来て、どれもこれも見たいものばかりですが、滞在日数が少なくほんとうに残念です。日本のラヂオ発達の状態を少し見たいと思って大倉さんに話しておきましたが一体日本ではラヂオの聴取者はどれ位ありますか?」と反問し、詳しく説明すると熱心に聞き入り、さすが無電王を思わせ「早く世界どこにいてもラヂオで話が簡単にできるようにしたいものだ」と外国の発達の様子を話し出すなど無電王らしい話題で持ち切りだ。("ワサビの感度に無電王まづ一", 『国民新聞』, 1933.11.17,朝p7)

実はねえ、ミスター大倉が今晩の会はタタミの上に座るんだとおっしゃるんで、私も初めての経験ですから、せいぜい穴のない靴下をはきましたよ。ホラ。ハハハハ。」 と黒の靴下を手でたたいて見せながら、初めてゆったりした気持ちで入京の夜を語り出した。「東京がグングン成長していく近代的都市だということはどこでも聞かされましたが、いまちょっと見て来ただけでも、すっかり欧米化された多忙な都市という印象を深くしました 』 "渦巻く歓迎の中を無電王帝都入り 天機奉伺、宮邸伺候", 『東京朝日新聞』, 1933.11.17, 朝p11)

29) 大倉総帥が接待会場に選んだ名門「紅葉館」

11月16日19:00より、大倉喜七郎総帥が主催する純日本式の歓迎会が催されました。

芝の紅葉館

会場は、明治時代初期からの会員制高級料亭として知られる紅葉館(東京市芝区芝公園20号地)です。広くて美しい庭園があることでも有名でした。

【参考】 紅葉館の建設には渋沢栄一氏と、大倉喜七郎氏の父である大倉喜八郎氏(初代大倉財閥総帥)が関与したらしいですが、(私には)詳しい事は分かりませんでした。

紅葉館は1881年(明治14年)開業以来、政治家、実業家、華族、軍人らの社交場であり、また外国要人・政府関係者への日本式接待の場として利用されてきました。しかし1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲で焼けたあと、ついに再建復興には至りませんでした。

見上げる東京タワー

戦後しばらくして、テレビ放送が始まると、各社が個別で建設しようとしていた送信塔を共同一本化することになり、その目的で設立された日本電波塔(株)が紅葉館の跡地を「共同テレビ送信塔」の建設用地として購入しました。 そして1958年(昭和33年)に東京タワーが竣工しました。

マルコーニ氏は日本観光初日の和式ディナーの場所が、まさか世界的にも有名なテレビの送信塔になるなんて思ってもみなかったでしょう。

30) 紅葉館での純日本式のおもてなし

マルコーニ夫妻をもてなすために、きっと大倉総帥は紅葉館の中でも特Aクラスの"綺麗どころ"を集めたのでしょうね。そして人生初体験の畳の部屋で、日本料理と日本酒を振る舞われたマルコーニ夫妻は、芸者衆による長唄「土蜘蛛」、(日・伊)旗手踊り、紅葉踊りを楽しみました。夫妻はその踊りの仕草について、大倉総裁やアウイッチ伊国大使に何度々々も質問しながら熱心に見入っていました。

紅葉館で接待を受けるマルコーニ

箸の使い方は、秩父丸での食事で練習されていますが、左の写真を見る限り、相手方よりお酒を注がれる際には、自分の盃を手にして持ち上げ受けるという日本式酒席ルールもマスターされているようですね。

初めてあぐらを組んで、不器用ながらも箸を使ってテンプラなどの日本料理に舌鼓を打たれました

ご夫妻ともに日本料理を大変お気に召されましたが、鼻にツーンとくるお寿司のワサビの刺激だけは苦手だったそうです。

ちなみに大倉総帥は、この歓迎会に(一年半前まで逓信大臣を務められていた)三土忠造鉄道大臣、初代大阪帝国大学総長の長岡半太郎博士、東京天文台長の早乙女清房博士、中央気象台長の岡田竹松博士、杉山陸軍航空本部長、柳川陸軍次官、土岐陸軍政務次官、新井鉄道省国際観光局長、渋沢元治東京帝国大学教授、それに秩父丸の同船客だった柳沢保恵伯ら約90名を招待しています。

紅葉館で日本酒を注がれているマルコーニ氏の手前に大倉総帥が写った写真は何種類かあります。

マルコーニの隣の大倉喜七郎
記念切手 紅葉館のマルコーニと大倉喜七郎

そのうちのひとつの写真(左図[左])を基にし、1996年にソロモン諸島(Solomon Islands:パプアニューギニアの東方沖)で記念記手化,されています(左図[右])。両者を見比べるとそっくり同じです。

切手に向かって一番左端に大倉喜七郎総帥がはっきりと描かれています。外国切手の図柄に入った(個人が特定できる)日本人がどれ程いらっしゃるのか、切手に素人の私には分かりませんが、これはとても珍しい事ではないでしょうか? 無電王マルコーニ夫妻と並んで、自分が(しかも手前に!)描かれた構図て記念切手化されたのですから、あちらの世界で、故喜七郎氏もきっとお喜びのことでしょう。

31) 夜の銀座の灯りを見ながら帝国ホテルへ

こうして日本第一夜の純和式歓迎会は21:30にお開きとなりました。そしてマルコーニ夫妻らは銀座の夜景を楽しんで帝国ホテルへ帰りました。

同夜は大倉男爵ご夫妻の心からなる歓迎の宴に臨まれ、純日本式のもてなしに見らるるもの、聞かるるものに、一々驚異の眼を見張っておられた様だった。帰途自動車で日本橋から新橋までドライブして、夜の銀座をお目に掛けたが、その欧米の街に変わらぬ様を見られ、日本固有の建物が少ないのを非常に惜しまれておられた。 (高橋是彰, "マルコニ侯爵の日本観光に随行して", 『ラヂオの日本』, 1934.2, p119)

芝の紅葉館から車で "日比谷通り" を北上し、いったん帝国ホテル付近まで帰って来たものの、マルコーニご夫婦に夜の銀座をお目に掛けようということになり、そのまま日本橋まで車を進めたのでしょうか?

夜の銀座ドライブ地図

おそらく大手前交差点を右折し、"永代通り" で東京駅の北側ガードを越えて東進したあと、日本橋交差点を再び右折して、お目当ての"銀座通り" を新橋までまっすぐ南下し、最後に右折して東海道線のガードをくぐり、帝国ホテルに戻ったのでしょう。

以上の「私が推定したルート」を現代の国土地理院地図に書き込んでみましたが(左図)、こうやって、あれこれ想像してみるのも無線ファンとして楽しいものです。

せっかく夜の "銀座通り" をドライブしましたが、どうやら・・・・マルコーニ氏は西洋化した銀座通りの景色より、もっと東洋的(オリエンタル・エキゾチック)な街並みを期待されていたことが、上記の高橋是彰氏の記事から伺えます。帝国ホテルに戻ったのは22時過ぎでした。

マルコーニ氏は初日の出来事を次のように語っています。

さて東京についた。「これが東京なのか。本当にこれが東京なのか」 ― 明朗色の高層建築街 ― 「これを日本と思え」と無理じいにされても「いや日本はこれではない」と反発する用意がすでに余(私)の胸に出来上がっていたから(にわかには受け入れられなかったの)だ。

大倉男爵に伴われて余(私)は宮中に参内し、秩父宮邸にも御挨拶に伺候し、感激のさめきらぬ間に余(私)はあわただしく、その夜の招宴を促された。紅葉館で開かれる大倉男の晩餐会である。タタミというカーペットの上に靴をぬいで座るのだそうで、貴紳淑女の前で大っぴらに靴下をさらけ出すのは生まれてはじめてである。靴下の孔(穴)というものにまで大きな関心を払わねば日本生活は出来るものでないと余(私)はこの時痛感した。

箸をもって食事をすることは一種の芸術である。箸の扱い方は短時日では決して習得出来るものではない。しかしこの箸の巧みな使駆法を見ている間に、余(私)ははたと膝をうって珍奇な大発見をよろこんだ。細密な工芸品の発達している国は世界では何といっても日本と支那である。日本人と支那人とが箸を使っている。して見ると箸と工芸品との関係は、そのいづれが主客であるにしろ確かに一つの真理ではないか ― というのであった。"マルコニ候の日本印象談(中)", 『大阪毎日新聞』, 1933.11.24, 朝p11)

32) マルコーニが明治神宮を参拝

1933年11月17日(金曜)

帝国ホテルで日本最初の一夜を明かしたマルコーニ氏は、朝食を終えると、訪ねて来た大倉総帥や森村男爵(七代目森村市左衛門こと森村開作、森村財閥の二代目総帥)ほか学会要人らを自室に招き入れ歓談したあと、(旅の疲れが出た夫人をホテルに残し)、10:30より大倉商事の原秘書の案内で明治神宮へ向かいました。

その様子を報知新聞と読売新聞から引用します。特に中腰で手を清めている写真は有名ですね。

マルコーニ 明治神宮を参拝

午前十一時、大倉組原秘書の案内で第一番に明治神宮に参拝した。金髪の手入れもよく、きちんとしたモーニング姿だ。社務所前に自動車を捨てた侯は有馬宮司と丁重な挨拶をかわし、手水をとって拝殿へ進むあたり、異国の人とも思えぬ。

鬱蒼(うっそう)たる老杉古木の参道を侯はいかにも森厳の気に打たれた如く感慨深げに一歩々々と玉砂利を踏みしめる。直会(ならい)殿で山本主典の修祓(しゅうばつ)を受け、中門外石段上に至り、うやうやしく玉串を捧げ、頭をたれてしばし黙祷。信仰厚き科学の父、マ侯のゆかしさに主典以下別所いづれも襟を正した。

参拝を終って侯は「神宮の荘厳さに打たれましたが、多数の参拝者を見て日本は神の国だという意味がよくわかりました。」と語った。"「科学の父」しばし神苑にぬかづく", 『報知新聞』, 1933.11.18, 夕p2)

心よい朝の秋陽が神域の紅葉に映えて目覚むるばかり。候ははじめて拝するその神々しさに心打たれ、しばし足を止めて白木の大鳥居を珍しそうに拝していたが、やがて玉砂利を踏んで拝殿に進み深くぬかずいた。神秘の尊厳は科学の候の胸を強く打ったのであろう。しばしは頭も上げ得ず沁々(しみじみ)と拝んだのち、山本主典の案内でわが国の心をしのぶ奉納の菊花を愛でた・・・(略)・・・』 "紅葉映ゆる神宮参拝 入京第二日の無電王", 『読売新聞』, 1933.11.18, 夕p2)

 マルコーニ氏は明治神宮での感想を以下のように記しています。

第二日目、明治聖帝の御威徳を偲び奉るために神宮に詣でた余(私)はその清浄幽邃(ゆうすい)の神苑に一歩を入れた時に、ひしひしと身にせまる大圧力を感じた。この形容はいかなる大文豪の筆をかりてもその一片をも描写出来ぬものであると信じている。

(私)はこの神宮において、黒い制服をまとい、茶褐のゲートルをまいた大学生が、数名の陸軍将校の指図によって整々と粛々と砂利道をふんで参詣する情景を目撃した。そして日本の大学生が如何なる精神的鍛練をなされつつあるかを推察した。故国イタリアにおいても青年、大学生の訓練は真に猛烈で果敢である。しかしこれと彼を対比して余(私)は非常に学ぶことがあった。イタリア人の愛国観念は「祖国のために」という句に基礎を置くに対し、日本人は「(=天皇)のために」というにつきる。この世界無比なる観念が日本を今日のごとく世界最強の国にしたのであると信ずる。"マルコニ候の日本印象談(中)", 『大阪毎日新聞』, 1933.11.24, 朝p11)

33) 勲一等旭日大綬章を拝受

11月17日午前の明治神宮参拝のあと、挨拶のために乃木坂のローマ法王庁支庁をはじめ、宮内省、陸海軍、鉄道の各大臣官邸に立寄りました。しかし読売新聞の記者のコラムによると、陸軍大臣は不在で会えなかったようです。

朗かに来朝第二日を迎えた無電王、プログラム通りまず明治神宮の参拝を終ると続いて各大臣への挨拶廻り。アンテナが蜘蛛の巣のように張った市中に微笑みを送りながら向う先は陸相官邸であった。ところが運ちゃん、なにを間違えてかところもあろうぬ麹町一番町の賀陽宮(かやのみや)さまのお邸に自動車を乗り入れたので、とたんに事務官から大喝を喰らい、あわててバック。するとこんどは陸軍省の正門へブウブウ乗り込んだのでまたバック。グルグル廻り廻った挙句、やっと官邸に辿りつくとこんどは訪ねる陸相が不在。無電王はビックリしたなりワケがわからずじまいでホテルへ帰ったが、運ちゃんは帝国ホテルの常雇い。案内人は大倉組の原さん。世界の賓客も珍しい歓迎ぶりに驚いていた。 "巷の話", 『読売新聞』, 1933.11.18, 朝p7)

12:15に一旦ホテルに戻りました。そして部屋で待機していた夫人を伴って再び帝国ホテルを出発したのが12:45です。

マルコーニ夫妻はアウイッチ大使とともに、13:00よりの重光外務次官が主催する歓迎昼食会に出席し、大橋逓信次官、大倉総帥、渡辺日仏協会長、元外交官の林権助氏、前駐イタリア大使の松田道一氏らと歓談しました。

そして14:30に、夫妻とアウイッチ大使は南逓信大臣を訪ねました。

マルコーニ 勲一等旭日大綬章を贈られる

天皇陛下よりマルコーニ氏への勲一等旭日大綬章(Grand Cordon of the Order of the Rising Sun)贈与の旨お沙汰があり、逓信大臣室でこれを拝受するためです。左図がその伝達式で、牧野逓信次官、大橋逓信次官、上ノ畑文書課長が列席しました。

マルコーニ候はさすがに晴れの光栄に満面の笑と興奮を抑え切れず、繰り返し、繰り返し感激の口調をもって謝辞を述べ終わって、午後三時、嬉し気に辞去した。"輝く勲一等  南逓相から伝達される", 『京都日出新聞』, 1933.11.18, 朝p3)

34) 大倉夫人と高橋夫人が、マルコーニ夫人とショッピング(三越百貨店)

マルコーニ氏に名誉会員になっていただくことを決めた我国の電気学会は、11月17日16:00から帝国ホテルの鶴の間にてマルコーニ氏を迎えて、名誉会員推戴式を行いました。過去には発明王エジソンも日本の電気学会の名誉会員に選ばれています

ところでマルコーニ夫人は銀座の街を散歩してみたかったそうですが、このようにあまりにも多い歓迎プログラムで叶いませんでした。

三越百貨店日本橋本店 1933年

それを知った大倉商事の大倉彦一郎夫人と高橋是彰夫人が、17:00に帝国ホテルのマルコーニ夫人を訪ねて、三越百貨店でショッピングしようと誘いました。マルコーニ夫人はこの申し出に大喜びでした。(左図:三越百貨店日本橋本店)

【注】老舗百貨店としての知名度ブランド力では、なんといっても日本橋本店ですが、3年前(1930年)に開業したばかり銀座店の方が帝国ホテルに近いため、銀座店を利用した可能性が高いです。(資料不足で私は特定に至りませんでした)

マルコーニ夫人 銀座観光マップ

さて18:30から予定されている官民合同歓迎会はマルコーニ氏が天皇陛下より授かった勲一等勲章を燕尾服の胸に付けて出席するオフィシャル行事です。夫人は大急ぎでホテルに戻り、薄ピンク色のイブニング・ドレスに着替え、帝国ホテルのすぐ近くにある東京会館へ駆けつけました。

そのとき東京朝日新聞の記者のインタビューを受けた夫人は次のように語っています。

東京はどんな都かと幾度も心に描いて参りました。けれど、どれもこれもみんな私の想像とは違っておりました。さき程、少しばかりの暇を見つけて町へ出かけましたが、何という美しさの交錯でしょうか。「夢の国」ほんとうにそう思います。一番心をひかれますのは娘さん達のキモノの美、そして履物です。さっそくデパートで私のキモノと、それから私の可愛い今年三つの娘、エレットラに美しいキモノと履物を求めました。嬢やにこの着物を着せてもう一度この夢の国へ・・・これが本当の私の念願ですの。 "夢の国・日本 無電王夫人の感想", 『東京朝日新聞』, 1933.11.18, 朝p11)

35) 官民合同歓迎晩餐会を東京会館で開催

1933年11月17日の18時30分、東京会館二階宴会場には官民関係者約160名が集まり、盛大に合同歓迎晩餐会が催されました。(下図:東京会館)

東京会館でマルコーニ歓迎晩餐会

三曲合奏「都の春」(山室千代子ほか)や舞踏「越後獅子」(藤原静枝)などの余興のあと、デザート・タイムになって、南逓信大臣の歓迎の辞とマルコーニ氏の英語による謝辞がある20:30-21:00には、東京放送局JOAK発で全国に中継しました。

先ず南逓相の挨拶後、満場の拍手に迎えられて無電王、燕尾服に同日下賜された勲章を胸間に輝かしながら約廿分(20分)にわたり臨時に取付けられたマイクを前にし英語で謝辞を述べ、外務省加瀬事務官が通訳し、大阪帝大の長岡総長の挨拶があって盛会裡に九時四十分散会した。"無電王・カブキ見物", 『国民新聞』, 1933.11.18)

歓迎晩餐会で挨拶するマルコーニ

左図の向かって右よりアウイッチ大使、大倉総帥夫人、立って挨拶するマルコーニ氏、陸軍次官代理の林中将、そして一番左側が大倉総帥です。席順からも大倉総帥夫妻が民間人ながら破格の扱いだったようですね。

36) 東京放送局JOAKが歓迎晩餐会を生中継

さていよいよ、謝辞の時間です。ラジオを通じてマルコーニ氏の生の声が日本中の茶の間に届きました。戦前より我国で "無電王マルコーニ" の知名度と人気が高かったのは、こういった事も影響しているのでしょうね。

JOAKの電波に乗ったマルコーニ氏の挨拶を一部だけ紹介しておきます。

日出づる御国へ参りたいとの多年の宿望が果たされて、今夕各位と歓びを共にし得るということは、妻ならびに自分にとり欣快(きんかい)の次第であるということは申すまでもないことでございます。我々の夢は実現されましたが、その出現はまた夢かと思うばかりでございます。

書物および御国の著名なる方々との御交際により、御国に対し多少の知識を持ったと思っておりましたが、今この大都会を一督(いちべつ)して、我々が日本について有していた知識の貧弱なることが解りました。我々は美しき御国の魅力により恍惚と致しております。ただただ我々の滞在の余りに短きことを遺憾と致します。官民各位の御歓待は我々旅行中一番感激に堪えぬことでございました。

いたる所で受けました熱誠なる歓呼の声は、自然に発せられたる心の底よりの叫びであって、これを聞いて自分はここでは外国人と思われていないという様な愉快なる感じを致しました。この光栄に対しては何と御礼申し上げて宜しいか解らぬ程で、この席よりラヂオを通じ日本全国の皆様に対し深厚なる感謝の意を申し上げます。・・・(略)・・・

伊太利人(イタリア人)としまして、自分達夫婦は日本が我が伊太利(イタリア)と多くの類似点を有するのを見まして、まことに喜ばしさを禁じ得ないということを申しあげたいのであります。私共は御国に参りますには、たいへん長い途を来たのでありまして、日本および伊太利(イタリア)がかくも遠く離れていることは実に遺憾の事でありますが、(工業発展による)旅行のスピードアップは距離の隔絶を克服したのであります。

私は日本および伊太利(イタリア)国民の間の友誼および敬愛の念慮が、日本人の伊太利(イタリア)訪問、および伊太利人(イタリア人)の日本訪問によりまして、更に堅く結ばれることを祈ってやまない次第であります。 (稲波季雄, "マルコーニ侯の来朝", 『逓信協会雑誌』, 1933.12, 逓信協会, p4)

次いで物理学者である長岡半太郎博士(大阪帝国大学総長)が挨拶に立ち、マルコーニ氏を ミケランジェロ、ガリレオと並ぶイタリーの巨人 と称えました。

NE式写真電送装置の開発者であり、東京電機大学の初代学長である丹羽保次郎(にわやすじろう)氏は、この歓迎会より15年後(昭和23年)に、次のように語っています。

『 昭和八年十一月十七日、電光も映い東京会館の大宴会場には電気通信に関係ある学会、官界、民間の多くの名士が朝野の有力者と共に礼装も美々しく集まっていた。世界周遊の途次、日本に立ち寄ったマルコーニの歓迎会が開かれたのである。前日受けた勲一等の大綬を美しく肩にした燕尾服のマルコーニは夫人と共に出席され、デザートにおけるマルコーニの挨拶は、会場より中継されてラジオの父の声を聞き得るというので全国のラジオファンの人気を呼んだのであった。

私はその宴会に列してマルコーニの挨拶を親しく聴いたが、(その挨拶の言葉については)今何の印象も残っていない。それより開宴前にあの背の高い穏和な面影で、なれなれしい語調で憧れの日本に来た悦びと、日本の美しさとを語った対話に、人としての彼の懐かしさを感じたのである。 (丹羽保次郎, "マルコーニ", 『新電気』, 1948.10, オーム社, p47)

37) 初めて見た歌舞伎に興味を持ったマルコーニ

21時40分に散会後、マルコーニご夫妻はアウイッチ大使らと車で歌舞伎座に向いました。

マルコーニ 初めて歌舞伎を観る

左図が楽屋での記念撮影です。前列中央の白っぽい(本当は薄ピンク)のドレス姿の女性がマルコーニ夫人で、一番右端にマルコーニ氏が写っています。後方の向かって左から二番目がアウイッチ大使ではないでしょうか?

それ(=官民合同歓迎会)より直ちに歌舞伎座に至り、折から開演中の「雪暮夜入谷畦道(ゆきのゆうべいりやのあぜみち)」を見物。初めてのカブキに熱心に見惚れたが、幕あいに楽屋を訪問。片岡直次郎に扮した(市川)羽左衛門、三千歳の(尾上)梅幸、萬歳鶴太夫に扮した(尾上)菊五郎丈などと握手を交わした。夫人はさすがに女らしい観察で「不思議な位に美しいです。すべてが印象的に土産話になります。」と喜んでいた。"無電王・カブキ見物", 『国民新聞』, 1933.11.18)

なお候夫妻は大倉男の招待で九時五十分歌舞伎座に馳せ付け開演中の「直侍」から、大詰めの所作「乗合船」を見ず十一時廿分(23:20)帝国ホテルに引き上げた。"勲一等を胸に歓迎会へ", 『時事新報』, 1933.11.18, 朝p2)

マルコーニ氏はこの日、初めて見た日本の歌舞伎にとても興味を持たれました。そのため(後述しますが、)大阪でもスケジュール時間を分刻みでやり繰りし、わざわざ歌舞伎観劇の時間を作ったほどです。

横浜の重工業の発展ぶりと、昨夜、銀座で歌舞伎を見たマルコーニ氏は日本という国をどう捉えたらよいか分からなくなったといっています。

「三千歳」「乗合船」 ― これが生まれてはじめて見たカブキであった。「これが日本のカブキであるか。これが日本の劇場であるか。」余(私)は再び先入主にわずらわされて、(日本の)印象の目安がぐらぐらしてしまった。

「日本はいずこにあるや」 ― 横浜入港に際して(沿岸部に林立する工場の煙突群から)得た第一印象、即ち重工業の盛観。「これこそ今日の日本なり」と即断して一時的に満足した余(私)も、一夜二夜と泊まり重なる間にますます濃厚なる日本の真実性の把握にあせりを感じだした。"マルコニ候の日本印象談(中)", 『大阪毎日新聞』, 1933.11.24, 朝p11)

38) 来日日目は体調不良で観光中止

1933年11月18日(土曜)

本来ならば、浅草雷門駅を朝10時発の東武電車で日光を観光する予定でしたが、夫人が日本の気候に少々体調を崩されたため、それを延期し、マルコーニ氏がホテルで各方面の重鎮と会談して一日を過ごしました。

夜は予定通りイタリア大使館のアウイッチ大使主催の歓迎晩餐会(帝国ホテル宴会場, 20:00-21:30)が催され、廣田外務大臣夫妻、荒木陸軍大臣、三土鉄道大臣(前逓信大臣)、鳩山文部大臣夫妻をはじめとし、アメリカ大使夫妻、中華民国公使、ルーマニア代理公使、大倉喜七郎夫妻ら100名近い内外の名士が招待されました。

駐日イタリー大使アウリッチ氏主催の無電王マルコーニ候招待晩餐会は十八日午後八時から帝国ホテルで開催された。滞京三日となった無電王も予定では十九日は事実上離京するので、同夜の大使の招宴は歓迎送別を兼ねた集まりであった。(”無電王夫妻 惜別の宴:昨夜帝国ホテルで”, 『東京朝日新聞』, 1933.11.19, 朝p11)

さて予定では18日に日光観光して、19日の朝10:00に自動車で東京を出て、横浜から鎌倉方面を観光したあと、箱根の富士屋ホテルに宿泊。20日は箱根を観光したその足で十国峠へ向かい、富士山を眺めたあと、沼津駅に抜けて、そこから特急列車「富士」で京都へ向うつもりでした。

そして20日夜に京都入りし、21日に京都を観光後、奈良へ。22日は奈良・大阪観光したあと、その夜に神戸港から船で遼東半島の大連を経由して上海へ移動し、そこからイタリア船で母国に帰る案でした。

ところが「ぜひ朝鮮にも・・・」「ぜひ満州国にも・・・」との強いリクエストがあったため、神戸から船に乗るのをやめて下関まで足を延ばし、23日に関釜連絡船で朝鮮に渡って、24日に京城(ソウル)観光、25日に満州国奉天を訪ね、26日に関東州の大連、27日に船で中華民国へ向かうことにしたのは、秩父丸が横浜に到着するちょっと前でした。

しかしその新しいスケジュールも、18日の日光観光が延期されたシワ寄せで箱根の宿泊は消えてしまいました。夫妻をもてなそうと準備していた箱根の富士屋ホテルの関係者はがっかりしたでしょうね。その代わり20日の朝に東京を自動車で出発し、箱根の紅葉を車窓から愛でたあと、(その日の内に十国峠を抜けて)沼津駅から特急列車に乗り関西方面へ向うことにしました。

39) 上智大学で日曜礼拝

1933年11月19日(日曜)

今日は来日して最初の日曜日です。午前11時30分、マルコーニ夫妻はアウイッチ大使、大倉組の原秘書とともに上智大学(東京 四谷)のキューエンブルグ院長を訪ね、隣接するイエズス会修院聖堂で日曜礼拝に参加しました。

マルコーニ 上智大学を訪問

左図中央がマルコーニ夫妻です。マルコーニ夫妻に向かって左側で、手を前に組んで、うつ向き加減で耳を傾けている人物がアウイッチ大使です。その大使に対して、何やら話しかけているベレー帽をかぶった人物がカトリック教会のパウロ・フィステル氏です。

さらに左側へ少し距離を置いた端の小柄な方は(私は全く存じませんが)、大蔵組より案内人として同行していた原秘書ではないでしょうか?

またマルコーニ氏に向かって、右側の方が上智大学を設立されたヘルマン・ホフマン学長で、さらにその右側に並んでいるのがカトリック中央出版部の田口芳五郎氏です。一番右端の日本人らしき方がどなたなのかは私には分かりません(通訳の方?)。

さんの「立ち位置」をよく観察してみると、両端のお二人がちょっと離れて "遠慮がち" に見えますので、おそらく主役はあくまで中央の6名なのでしょう。

40) 日曜午後は逗子海岸から鎌倉へ

10月19日の日曜礼拝の後、いったん帝国ホテルに戻って昼食をとりました。14:00よりマルコーニ夫妻はアウイッチ大使、ならびに大倉商事の高橋是彰氏と自動車の車窓から横浜の街並みを楽しみながら、湘南方面へドライブに出かけました。まず葉山(神奈川県三浦半島)の秋景色を愛で、そのあと、一色海岸から風光明媚な逗子海岸を北上して鎌倉へ向かいました。

一行はまず鶴岡八幡宮(下図[左])に参拝し、そして鎌倉大仏が鎮座する高徳院を訪ねました。

鶴岡八幡宮
マルコーニ 鎌倉大仏観光

高徳院の大仏様の前で撮った写真(左図[右])ですが、向って左からマルコーニ氏、大倉商事の高橋是彰氏、マルコーニ夫人、そして右側に少し離れてアウイッチ大使が立っています。

鎌倉の大仏では、大仏が実によい風貌を持っていると感心しておられた。 (高橋是彰, "マルコニ侯爵の日本観光に随行して", 『ラヂオの日本』, 1934.3, p120)

マルコーニ夫妻が語った、はじめて接した大仏様の感想を、東京朝日新聞や報知新聞は次のように伝えています。

『 (マルコーニ)候「なかなか立派だ」、夫人「まあ美男子のブッダですわね"大佛様は美男にごわす", 『東京朝日新聞』, 1933.11.20, 朝p11)

マルコーニ夫人は「おお、これは石ですか」などなど驚きの眼を見張るなど異国風景に喜び・・・(略)・・・ 』"マルコーニ候鎌倉大仏へ", 『報知新聞』, 1933.11.20, p2)

鎌倉海浜ホテル

 そのあと一行は由比ガ浜にあるモダンで格式高い名門「鎌倉海浜ホテル」(図)で休憩しました。

【参考】このホテルは与謝野晶子、北原白秋、夏目漱石、芥川龍之介、高浜虚子、三好達治、堀辰雄ら、多くの文学者に愛されたことでも有名。昭和20年12月の失火のために焼失し、以後再建されることはありませんでした。

41) スケージュールが押して、大阪を素通りに!

さて帝国ホテルに戻ったのは18時過ぎで、この日も東京に一泊されました。

マルコーニ夫妻の歓迎を準備していた京都・奈良・大阪の関係者よりスケジュール変更を心配する電報が次々に帝国ホテルのマルコーニ氏ももとへ届いていました。すでに当初の予定より東京で2泊も超過しており、今後の観光スケジュールの再考が必要でした。

関係者で相談の結果、この日の夜遅くになって、マルコーニ氏は大阪府知事に対し、"大変申し訳ないが大阪には下車せず、通過だけにさせていただきたい"旨の電報を打ちました。

おそらく京都から奈良に立ち寄ったあと、再び京都駅に戻って東海道・山陽線の寝台特急に乗る(東京→箱根→十国峠→沼津→京都→奈良→京都→下関)ことにしたのではないでしょうか?

それにしても、まさか東京に次ぐ大都市である「商都大阪」を素通りするなんて、考えてもみなかった大阪府知事はびっくりしたでしょう。

ところでマルコーニ夫妻が銀座界隈では超有名だった天ぷら屋「髭(ヒゲ)の天平」(東京市京橋区京橋1丁目6番地)で食事をされたことが知られていますが、それはこの19日(日)もしくは20日(月)のことだと想像されます

42) マルコーニ夫妻 東武特急で日光へ

1933年11月20日(月曜)

午前9時半、自動車で帝国ホテルを出発。マルコーニ夫妻とアウイッチ大使は大倉商事の石田取締役、高橋是彰夫妻の案内で、東武鉄道の浅草雷門駅(現:浅草駅)を午前10時に発車する特別列車で日光に向いました。

大倉男の御好意によって付けられた上等の展望車に乗られ、御夫妻共至極満足の体であった。ことに初めて見らるる、日本の田園の風景は、よほど珍しく思われたとみえ、侯爵は外套の襟を立ててデッキに出られ、あかずに外を眺めておられた。 (高橋是彰, "マルコニ侯爵の日本観光に随行して", 『ラヂオの日本』, 1934.2, pp120-121)

12時半に下今市駅で下車して自動車に乗り換え、杉並木の道をドライブしながら日光金谷ホテルで昼食をとり、そのあと東照宮を観光しました。

マルコーニ 日光東照宮観光

ご夫妻は全山紅葉に萌える晩秋の日光の景色を心ゆくばかり賞で、楽しまれましたようです。

左図向かって左より、大倉商事取締役の石田直吉氏、マルコーニ夫妻、アウイッチ・イタリア大使、そして右端が大蔵商事の高橋是彰夫妻です

下今市駅に下車し、素晴らしい杉並木の道に自動車をかり、日光金谷ホテルで軽い昼食を採られてから、東照宮に参った。その建築の美に芸術趣味の豊かな侯爵夫人は、非常に喜ばれた。時間の都合上、残念ながら中禅寺湖に登るのは取り止めて、四時十五分日光発で帰京した。 (高橋是彰, "マルコニ侯爵の日本観光に随行して", 『ラヂオの日本』, 1934.2, p121)

43) 日光からの帰路、高橋是清(蔵相)邸を訪問

この日は東京滞在の最後ということで、日光観光中のマルコーニ氏が突然、同行していた高橋是彰氏に「お父上(是清氏)に挨拶したい」と願われました。午後2時ごろ高橋是彰氏は日光から、多忙の父(高橋是清大蔵大臣)に電話してスケジュールを調整してもらいました。

そして日光観光を終えて、18:28に浅草雷門駅に到着すると、すぐに自動車で赤坂にある父の私邸へ急行しました。

蔵相は通訳ぬきで(息子)是彰氏が侯の会社で厄介になったお礼をいい、侯はまた「お目にかかれて非常にうれしい」こと、日光(観光)でひどく感心したことを打ちとけて話し、骨董の話までとんで二十分くらいの短時間だったが朗らかな会見を終わり、侯は七時四十分頃ホテルに引きあげた。"朗らかに会見 無電王と高橋蔵相", 『東京朝日新聞』, 1933.11.21, 朝p11)

【参考】(元マルコー二社の社員で、今回マルコーニ夫妻に同行している大倉商事の)高橋是彰氏の父・高橋是清氏は、第20代内閣総理大臣(1921.11~1922.06)も務められた超大物政治家で、マルコーニ夫妻が訪ねた当時は大蔵大臣を務めていたが、二・二六事件(1936.02.26)で暗殺された。事件から2年後に高橋是清邸(現:港区赤坂7丁目)は東京市に寄付され、その跡地は「高橋是清翁記念公園」やカナダ大使館になっている。

鎌倉と日光を観光すると(東京との大きなギャップに)、マルコーニ氏はどれが「日本」なのか解らなくなってしまったそうです。

横浜に到着した時の私の第一印象は、最も活動的なる商工業国であるということで、私は直ちに斯く結論して居た。しかしそれから一日二日経つにつれ私は日本の真の性質を掴みたい希望に燃えた。私は大仏を見るため鎌倉に行き、また寒さを冒して日光へ東照宮を見に行った。この二ヶ所の見物で私の心は日本のクラシカルな美で満ちた・・・しかし私はなおそれで満足できなかった。「真の日本はどれか?」私は私自身に尋ねるのであった。"私の日本観: マルコニ無電王 日本旅行の印象記", 『布哇報知』, 1934.2.27, p6)

44) 関係者の努力で大阪観光が復活!(箱根観光は中止)

ところで大阪府知事は19日の夜遅くになって、マルコーニ氏から「大阪を素通りさせていただきたく」との電報を受けたため、20日朝から関係者へ歓迎会中止の連絡に追われていました。

大阪倶楽部

なにぶん11月22日17時から、淀屋橋にある会員制西洋館「大阪倶楽部」(左図)で、大阪府、大阪市、商工会議所、大阪逓信局、放送協会の関係者により盛大なる歓迎会を催す予定でしたので、突然の来阪中止の知らせに大阪の関係者達のショックは相当なものだったでしょう。

大阪時事新報より引用します。

来朝中の無電王マルコーニ候夫妻の関西巡遊を控えて関係各方面では歓迎準備に大わらわであるが、大阪府知事より同氏に宛てた問合せに対し、廿日朝「身体の都合上、大阪通過の際は遺憾ながら停り難い」旨返電があり、関係者は深く失望している。 "無電の父は大阪素通り:身体の調子が悪く予定変更に関係者大失望", 『大阪時事新報』, 1933.11.21, 夕P2)

さてマルコーニ夫妻が日光観光から帝国ホテルに戻ると、「わが大阪にも、お起こし下さい・・・」と、関西観光のスケジュールの再考を懇願する電報が山のように届いていました。一行は明日の朝、自動車で東京を出発し車中から箱根を観光したあと、十国峠で富士山などの景色を眺めて沼津に抜けて、沼津駅15:23発の特急「富士」で京都へ向う計画でした。

しかしたくさんの電報を前に、大阪を素通りするわけにはいかないことを悟ったマルコーニ氏は、再びスケジュールを調整しました。日光で紅葉の美しさに魅了された夫人は箱根観光を希望されていましたが、関西の過密スケジュールをこなすために体力を温存させる意味も含めて、それを諦めることにしました。

日光の紅葉に美しいニッポンの印象をこと更に深くしたマルコーニ候夫人は今一度箱根の秋をたぐりたいと希望したが、関西方面関係者からの待ちわびた歓迎の電報がひっきりなしに舞い込むので夫人のこの念願も叶わなかった訳。 "名残惜しみつつ無電王退京 夫人の箱根行の願い達せず 「又来ます」と握手", 『東京朝日新聞』, 1933.11.22, 夕p2)

補足) マルコーニに勲一等旭日大綬章を推薦した理由は?

天皇陛下は来日したマルコーニ氏に勲一等旭日大綬章を授けました。今さら30年以上も昔の「無線電信の発明」とか「大西洋横断通信成功」の功績によるものではないだろうとの想像は付きますが、「では何?」と問われると、答えに窮するのではないでしょうか?

叙勲を提案したのは逓信省と海軍省で、それぞれが外務省に推薦文を提出しましたが、外務省がこれらの推薦文を一本化しました(外務省が申請窓口役になったのはマルコーニ氏が外国人だからでしょう)。

 

1933年11月15日付けで、廣田外務大臣が斎藤内閣総理大臣に出した、叙勲願い(外務省「人普通第562号」)および一本化された推薦文である「別紙」を下に引用します。

人普通第五六二号

昭和八年十一月十五日

外務大臣 廣田 弘毅

内閣総理大臣子爵 斎藤 実 殿

伊国上院議員侯爵「マルコニ」叙勲の件

伊国上院議員侯爵「グリエルモ、マルコニ」叙勲の儀 別紙の通上奏致候間至急可然御取計相成度此段申進候也

以下が添付されたその<別紙>です。これは 逓信大臣海軍大臣それぞれから出された推薦文を、外務省合体させ1つにまとめたものになります。

伊国上院議員侯爵「グリエルモ、マルコニ」儀 別記の通 功績有之候所今回来朝可致趣をもって叙勲の儀 逓信大臣 南弘 海軍大臣 大角岑生より申立有之候に就ては此際右功労を御表彰被遊頭書の通 叙勲被仰出候様仕度此段謹で奏す

昭和八年十一月十五日

外務大臣 廣田弘毅

「マルコニ」無線電信株式会社社長

勲一等旭日大綬章      伊国上院議員侯爵グリエルモ、マルコニ

伊国「クーロンヌ」一等勲章

伊国「サン、モーリス、エ、ラザル」一等勲章

英国「ヴィクトリア」一等勲章

西班牙国「アルフォンソ」十二世一等勲章

所有


右者、世界無線通信界に於ける巨星として国際的に権威声望を有し、明治二十八年歯僅に二十二歳にして無線電信に関する画期的大発明を成就し、もって今日必須の機関たる無線電信電話装置隆盛の基礎を築き、現代文化の開発に至大の貢献をなしたるは周知の事実にして、当時我国に於いてもこれが発明の報伝わるや親しく同人に師事し、あるいはその製作に係る機械を購入し、もってこれが実施拡充に努め、遂に本邦に於ける無線電信電話事業をして、今日他国に優越するの概況を示すに至らしめたるは実に同人の発明並びに指導の結果に負うところ至大なるものありと云わざるべからず。同人は更に爾後常に右発明の改良完成に努力し為に他国の方式に比し遙かに優秀なる地位を占むるに至らしめ、本邦に於いてもこの方式を採用したる結果、一般商業通信上ならびに海上人命保全上著しき効果を挙ぐるに至るものとす。

 

同人は後「マルコニ」無線電信会社を設立して同社の社長となるや、対外無線通信に力を尽くし、特に本邦との間は電波の伝播上もっとも困難なる無線通信回路なるに拘わらず、好意をもって大なる犠牲を払い設備を拡張し、ついに昭和五年初頭より(短波ビームをもって)直接通信の交換を遂行し、国際親善上はたまた文化開発上貢献するところ大なるものあり。さらに同年一月二十五日には「ロンドン」に於ける海軍会議帝国全権委員として渡英中なりし若槻禮次郞が故国日本に向け中継放送を試みたる際には特に大なる好意を寄せ、同社の「ドーチェスター」に於ける無線局設備を無償提供し、この困難なる遠距離中継放送に大成功をもたらしたるが如き独り我国として感謝に堪えざるのみならず国際通信上また大書すべき事績といわざるべからず。また英国に次いで直通通信困難なる伊太利と日本との間にも同人の斡旋によりて近く通信開始を見るの運に至り右は目下試験中なるが、これが開始の暁には更に日伊親善上寄与する所甚大なるものあるは言うを俟たざる所とす。

 

また一面技術上に於いて同社の製作に係る優秀なる送受信装置および「マルコニ」第二の画期的発明とせらるる指向式空中線装置の譲渡に際しても我に多大の便宜を与え、我国対外無線施設上裨盆するところ大なるもあり。更にまた東京無線電信局検見川送信所の建設に当たりてはその主要装置として同社の五〇「キロ」および一五「キロ」送信機を採用したるが、同所が現に本邦無線通信網の中枢としてよくその任務を遂行しつつあるは全く同機の優秀なる性能によるものとす。なおまた大正十五年我国に於ける最初の放送無線電話事業としての一「キロ」放送、および昭和三年の十「キロ」放送の開始に当たりては何れも同社の放送機多数を採用したるが、その性能極めて優秀なりし結果、困難なる放送の開始上支障なきを得たるは全く同人の賜物といわざるべからず。

 

同人は平素我国に対し多大の好意を有し、我国より派遣せられたる出張員または研究員等に対し常に同社の設備を開放し、あるいは同社研究所に於いて長期滞留の便宜を与え、または有益なる参考資料を提供する等、特に調査研究上の便宜と援助とを与え来たれるが、今これを明治四十一年以降に於ける我逓信部内の者のみについて観るも別記の如き多数を算し、これら派遣員が直接または間接に同人の指導により我国無線電信電話事業の向上発展に資したるところ、まことに少ならざるものあり

他面また同人はその発明せる無線電信の学理および技術をもって我海軍に貢献せる功績顕著なるものあり。けだし通信は海軍戦闘力の重要なる要素にしてその精否優劣はただちに海軍の威力に影響すべく、しかも近世海軍に於ける通信は殆ど無線通信によるというを得るべきをもってなり。

我海軍に於いて前記同人の発明に刺激せられこれに学びて明治三十六年、初めて三六式無線電信送信機を製造することを得、これをもって日露の大戦を経たり。その後無線電信機の進歩は瞬滅火花式送信機となり、次で電弧式不衰減送信機の製造をみるに至れり。しかるにその後、三極電球を使用する電球式送信機の効率にして同一力量にて通達距離著しく増大せるを知り、我海軍はこれが採用を欲したりといえども、当時米国「ジー、イー」会社はこれが提供に応ぜざりしに拘わらず、大正九年十月海軍大佐服部正計、命を授けて渡英するや「マルコニ」の経営せる「マルコニ」会社は「チェルムスフォード」の同社工場および「カーナボン」「オンガー」送信所を見学せしめ、電球式送信機の優秀なる点を説明し、さらに同年十一月海軍技師松田達生、同社に赴き五ヶ月間滞在し電信機製造の工程監督に任ずるや、その計画製法等に関する樞要なる技術修得に関し多大の便宜を供与したり

 

大正十年二月、初めて「マルコニ」式1.5「ケー・ダブリュー(kW)」送信機を購入し、翌年度艦隊の一部に装備し、耐衝撃の実地試験を行い、その実用価値を調査し、その優秀なる事を確認せるをもって、七年式送信機の製造を中止し、「マルコニ」社製送信機の供給を受けると共に、さきに親しく同社にてその設計および製造法を研究せる松田技師はその修得せるところをもって海軍型電球式送信機の試製に着手し、一二式二号送信機、一二式三号、四号送信機を設計製造せり。爾来我海軍は幾多の実験研究により改良を加わえ、今日の優秀なる送信機を製造し得たるものにして、同社が我海軍無線電信機の進歩に貢献したるところ甚大なりとす。

 

また「マルコニ」は大正十一年短波送信機が遠距離通信に至大の偉力を有することを発表し、大正十三年には短波「ビーム」通信により英国、豪州間の通信に成功せる旨発表し、我海軍、今日の短波送信機の研究に貢献せり。

この間、米仏諸国が陸上無線施設を閉鎖し、なんら見学の機会を与えざるに、「マルコニ」会社は欧米視察の我が海軍士官にその経営せる「カーナボン」「オンガー」送信所、「プレントウード」受信所および「ラヂオハウス」管制所の視察を許し、対米、対豪州、対印度および対欧州大陸通信施設の状況を説明し我国陸上通信施設の計画に至大の便利を与えたり。また海軍技手淡近赳夫、命により大正十四年九月より同年十二月に至る四箇月間「マルコニ」経営の「チェルムスフォードカレッジ」に学びたる際はあらゆる便宜を与えその修学を援助し、もって我海軍に対する好意を尽くせり

 

要するに「マルコニ」の研究に基づく「エム」式送信機は多数軍艦に装備し、我海軍無線通信施設の整備に寄与するところ大なるのみならず、その経営する各種施設は常に我海軍視察者に開放して、その有する技術および諸設備を懇切に見学せしめ技術上、用兵上、幾多貴重なる経験を教えたるものにして同人の直接間接我海軍に尽くしたる功績まことに大なるものあり。

 

同人はかねてより本邦訪問の意図を有し、しばしばその計画を発表したることありしも、常に他の事情により決行するに至らず、今回ようやく機を得て来朝の運びとなりたるものなり。

 

           マルコニ履歴書 (省略)

           逓信部内者出張及在留者調 (省略)

上記「別紙」(一本化された推薦文)を見ると、1933年(昭和8年)の逓信省(あるいは海軍省)はマルコーニ氏の第二の画期的発明を「短波ビームシステム」だと考えていたことが読み取れます(ちなみに第一の画期的発明とは「無線電信」)。

さて1933年11月16日、今度は斎藤総理大臣が、上記推薦文をさらに要約し(下図)、それを添えて賞勲局総裁へ最終裁可を仰ぎ、叙勲が決まりました。

マルコーニへの叙勲願い
マルコーニへの叙勲理由書

このように、①逓信大臣->外務大臣、海軍大臣->外務大臣(それぞれが推薦)、②外務大臣が一本化->内閣総理大臣、③内閣総理大臣->賞勲局総裁、という流れでした。

叙勲理由は「マルコーニ氏から受けた数々の便宜や好意によって、わが日本の無線通信(真空管送信機の開発や短波通信)が発展できた。」というものです。 ひと口で言うなら『マルコーニは日本無線界の大恩人』です。

〇〇大尉がマルコーニ社から特段の恩恵を受けた」などといった、一連のこまごました「恩恵」を理解するのは、無線史研究家でもない限りハードルが高いと思います。

でも、だからといって叙勲理由を30年も昔の「無線通信の発明」「大西洋横断通信の成功」「ノーベル賞を受賞したこと」等で片付けてしまうと、史実が歪んでしまいますので、それはご勘弁ください。よろしくお願いします。まあ、簡潔に述べれば「日本無線界の発展に寄与した」ということでしょう。

本ページの続編。

京都、奈良、大阪観光のあと、朝鮮、満州、関東州、中国を経て、イタリアへ帰国するまで。

こちらではマルコーニの無線開発(パラボラ・アンテナ、短波の開拓、昼間波の発見、帝国ビームの建設、超短波の実用化など)を時系列に紹介しています。