Dec 45 AFRS


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1945年12月、GHQ/SCAPの占領方針が大きく変化しました。日本軍の残党による抗戦もなく、想像以上に穏便に事が運んだことから占領部隊を当初計画より大幅に削減することが決まりました。日本本土を第六軍(西日本)と第八軍(東日本)で分割占領していましたが、第六軍を動員解除し、第八軍が日本全土を管轄することになったのです。また日本占領に加わる英連邦軍BCOFが、第八軍の作戦指揮下のもとで(第6軍撤退後の)広島県とその周辺地域を担当することになりました。

1946年に入ると西日本各地から段階的に第六軍が去り始め、その後任部隊が各地から移動してくるため、西日本のAFRSを中心に頻繁に開局・廃局が繰り返されるようになりますが、そのきっかけがこの1945年12月の占領方針の変更でした。

  • December 1945 ・・・ 12月1日現在の放送局リストに記されたAFRSの現状

前掲の2つの放送局リストはBOCとBCJから調査した内容を、CCSの手でまとめたものだが、1945年12月1日現在の放送局の開設状況をBCJ技術局運用部がまとめた資料 "Broadcasting Station of Japan 20.12.1(Present)" がある。これは情報教育局C&Eや民間情報教育局CIEへ提出するために製作された。【注】1945年12月時点では、BCJはまだAFRSを「第三放送」と呼んでいない。CCSの資料と同じくAFRSネットワークとして別表にまとめた。なおこの資料の日付が和暦(昭和20年)なのが珍しい。

参考までにこのBCJ放送局リスト(1945年12月1日現在)を見やすいように局名を漢字にしたリストを下記に掲げておく。


このリストにはAFRS局も掲載されている(下表)。

赤字が11月4日時点の承認リストから変化した部分だ。鹿児島県の鹿屋(Callsignなし, 1490kc, 0.05kW)が新局として加わったのと、札幌が7kWに増力された。このリストより門司・福岡・京都・青森は建設または計画中だということがわかる。この4局を除くと1945年12月1日時点で合計14局のAFRSが放送していたことになる。

◆鹿屋(かのや)のAFRS

鹿児島県の鹿屋は九州で一番最初に海兵隊が上陸(9月4日)した地である。そしてすぐ後を追うように第五空軍(5th Air Force)が進駐してきたが、鹿児島県は日本軍の航空基地の密集地で、薩摩半島の知覧航空隊(陸軍)や、大隈半島の鹿屋航空隊(海軍)は特攻発進基地として有名だ。

もともとの日本上陸作戦(オリンピック作戦)では、まず11月1日に鹿児島エリアへ上陸し、日本軍の航空基地を拠点化し、東京や大阪への大規模な空爆を行うもので、サイパン島からの攻撃よりも大幅な飛行距離と時間の短縮を見込むものだった。しかし8月に日本がポツダム宣言を受諾したため、オリンピック作戦は中止された。

鹿屋の進駐部隊からのAFRS開設要望が強かったのだろうか?前掲の11月4日付けの放送局承認リストにはなかった鹿屋のAFRSが、急遽開局している。鹿児島市から離れておりBCJの中継線の確保は望めず、ロサンゼルスのAFRS本部からの録音盤と、ローカル運用を中心に、WVTRからの短波帯中継を利用する方式で、この地に開設された。コールサインは後にWLKAが指定されている。

◆まぼろしの京都のAFRS

under construction or planning とされた京都エリアのAFRSのその後に触れておく。日本占領が抵抗されることもなく穏便に進んだため、GHQ/SCAPはこの頃、進駐計画の規模を半減することを決めた。1946年1月1日に第六軍隷下だった第1軍団(I Corps)を第八軍へ移管し、京都総司令部にその第1軍団を残し、第六軍は西日本各地から段階的に撤収を開始した。このGHQ/SCAPの突然の占領方針の変更により、京都エリアのAFRSの置局は正式に承認されたものの、ついに実現しないまま「まぼろしのAFRS局」になった。

◆呉のAFRS

上表では呉を1520kcと記したが、資料の状態から判読が困難だったので?を付けた。さらにこれまでWLKHだった呉のコールサインが今回は空欄になっているので当時の時代背景に触れておく。

占領政策の見直し(部隊縮小)で、1945年12月には第10軍団隷下の第41歩兵師団(司令部呉, 島根県・広島県占領)は、同じく第10軍団隷下の第24歩兵師団(司令部松山, 四国地方と鳥取県・岡山県占領)へ島根・広島を引き継ぎ、12月31日をもって動員解除された。さらに1946年1月16日には呉に司令部を置く第10軍団(X Corps)そのものが、第1軍団(I Corps)に任務を引き継ぎ、1月31日に動員解除された。こうして中国(除く山口)・四国地方の占領拠点としての呉は一時その地位を失った。

中国(除く山口)・四国地方を掌握した第24歩兵師団は、1946年1月20日には兵庫県(除く淡路島)も第33歩兵師団(33rd Infantry Division)から引き継ぐため、2月15日に司令部を四国の松山から本州の岡山へ移すことになった。呉には英連邦軍BCOFが進駐してきて司令部を置く予定だった。

  • December 1945 ・・・BCJ放送のカバレッジマップ

大都市圏から離れた進駐地に自前設備でAFRS放送を開始するには中継網への接続をいかに行うかという問題と、地元BCJ放送の開設という問題があった。BCJの放送がないエリアの住民は電界強度の弱い近隣BCJ局を聴取しており、その土地で強力なAFRS放送が始まると、分離性能の悪い日本家庭のラジオ受信機ではBCJが聞けなくなるからだ。それゆえGHQ/SCAPのBCJのカバレッジマップへの関心は高かった。

1945年12月にGHQ/SCAPはBCJの協力のもと、日本全国のBCJ放送のカバレッジ・マップ(電界強度地図)をまとめた。これは10月22日にCCSがまとめた報告書"Preliminary Report on Radio Broadcasting in Japan" に収録されたAppendices XI. "Map Showing Coverrage of Stations of the BCJ" を転記したものである。


Radio Coverage Map, Stations of Broadcasting Corporation of Japan, GHQ/SCAP, December 1945

(各図クリックで拡大)

  • Dec. 15, 1945 ・・・ 選挙放送のための移動放送局計画が中止

戦後初めての総選挙(第22回衆議院)が1946年春に予定され、民間情報教育局CIEより政見放送・選挙放送を導入せよと指導を受けた。松前重義逓信省総裁は10月30日の閣議諒承を得て、各選挙区に臨時の固定局やAFRSの移動放送車のようなものを設置し、同選挙区内の有権者だけを対象として各候補者自身の政見発表演説に利用する案も検討していたが、候補者の発言を東京で一括的に検閲を行う必要から、地方局や移動局による無検閲のローカル番組を放送させることは出来ないという判断が下された。朝日新聞より一部引用する。

◆移動選挙放送中止

『来るべき総選挙に固定または移動用の小規模放送局を設置して候補者自身に政見発表演説をやらせる計画は、連合軍司令部の放送検閲が困難なため取止めとなる・・・』 (朝日新聞, 1945年12月15日)

  • December 1945 ・・・ 選挙期間中のJOAK とWVTRの周波数・施設の一時交換

上記のように選挙期間中、臨時の固定局や移動局を設置し、選挙区内で政見発表演説させる計画は消え、中央局からの検閲済み政見放送だけになった。しかしJOAKの受信状態の悪さは大きな問題だった。いくつか引用する。

◆聞こえない東京第二

『当時の受信機の受信可能範囲は五五〇-一五〇〇kcまでのものがほとんど、はなはだしいものは一二〇〇kc以上は受信できないというものさえあり・・・』 (続・逓信事業史 第六巻, p85, 郵政省, 1965)

『敗戦直後は、それまで軍需産業で消費していた電力を民間へ回せることになったために、電力は余るのではないかと思われた。ところが、実際には敗戦の年の冬から電力が不足し始めた。その主な原因は、石炭、木炭、まき、ガスなどの家庭用燃料が欠乏し、どの家庭でも盛んに電熱器を使うようになって小口需要が急増したからである。・・・(略)・・・日を追って電力事情は深刻になっていった。新聞の見出しには「停電に打つ手なし」とあった。戦前さながらに鉱石式ラジオの製作に熱をあげる人びとも少なくなかった。停電しないまでも、電圧の低下することは日常のならわしとなった。電力会社が、戦時中に老朽化した変圧器の故障を防ぐためもあって、夕方の数時間、電圧を下げるという方法をとったからである。このため、ラジオの音は小さく聴き取りにくくなった。八十ボルト以下に下がればまったく聴こえないといってよい状態になった。』 (聴取者六〇〇万を割る, 放送五十年史, p212, 日本放送協会, 1977)

『また全国的な問題としては再開されたばかりの第二放送がよく聴こえないという問題があった。既述のように、第二放送は、施設をAFRS放送用に接収され、予備の施設を流用したため、第二放送とAFRS放送とを比較すると、出力はAFRSが圧倒的におおきく、このため、AFRSは聴こえるのに第二放送は聴こえないという地域がかなり出てきた。東京の場合では、夜間に電圧が低くなると、湘南地方などでも第二放送はまったく聴こえず、第一放送は蚊の鳴くような声、ただAFRS放送だけがよく聴こえるという状態であった。』 (荒廃した放送施設, 放送五十年史, p213, 日本放送協会, 1977)

1945年12月、逓信院BOCと東京放送局(Radio Tokyo, JOAK)は、"Proposal for Interchange of Facilities and Frequencies between WVTR 590kc and JOAK 1260kc" で民間通信局CCSへ、選挙期間中の2ヶ月間、WVTR(590kc, 50kW)とJOAK第二(1260kc, 10kW)の施設と周波数を交換させて欲しいと願い出た。

すなわちJOAK第二を590kc, 50kWで、AFRSを1260kc, 10kWで放送するというものだ。日本家庭の一般的な受信機は1200kc以上は感度悪く、政見放送の期間に限り一時的にカバレッジエリアを拡大したいという理由である。結局この交換案は却下されたが、事態は予想外の展開をみた。詳しくは次ページで述べる。

  • Dec. 18, 1945 ・・・ 福岡放送局JOLK接収未遂事件が発覚(ZA-11229)

1945年12月18日、US AFPAC 総司令官名で、第六軍司令官へ、BCJから報告を受けた未確認な情報ではあるがとしつつも、「福岡地区でのAFRS建設について、直ちに実態を調査して報告せよ」との命令(電文:ZA-11229)が下された。

BCJ技術局のMr.Momotsuka から18日にUS AFPAC のBoese大佐へなされた報告は、福岡ではBCJはひとつのプログラム(第一放送)しか放送していないのに、BCJ福岡放送局は現地の米軍より施設提供を求められたというもので、AFRSへのBCJ施設の提供は第二放送を実施している地区だけというこれまでの合意に反していた(理由:日本人向け放送が出来なくなるため)。

GHQ/US AFPAC では、『この合意認識はCCS, AFRS, I&E で共有されており、これに基づき福岡地区では自前施設によるAFRS開設を承認した。AFRSのRowens少佐に問い合わせたが彼は何も聞いていないと言う。また第六軍通信室のKimesch大佐にも電話したが彼もこの件は知らないと言っている。監督責任のある第六軍として至急調査して報告せよ。』という趣旨だった。

  • Dec. 22, 1945 ・・・ US AFPACへWLKI現地調査結果を報告

1945年12月22日、AFRS(I&E),Technical OfficerのLeonard J. Raskin中尉が報告書"Report on Inspection of Armed Forces Radio Service Facilities" をUS AFPACとCCSへ提出した。

報告書のパラグラフ1でBoese大佐より報告されたBCJからの未確認情報について現地調査を行ったと目的を述べた後、パラグラフ2でWLKIの運用実態が明らかにされた。

2-a) WLKIは福岡の第五戦闘航空団(5th Fighter Command)基地(現:福岡空港, 旧:板付空軍基地)で運用していた。

2-b) 彼らは現在10時間/日の申し分のない放送を部隊へ提供していた。

2-c) 彼らは第五戦闘航空団所有のBC-610型送信機で運用していた。

2-d) スタジオ施設はAFRSから提供されたものだが一部は現地で調達。最新設備ではないため制約もあるが、Young中尉のもと適正に運用されている。また送信機の操作や整備は第五戦闘航空団通信室のJ. A. Chisolm大佐により管理されている。

そしてパラグラフ3が今回の件に関する事情聴取の結果である。

3-a) Chisolm大佐によれば、今回のBCJ施設の要請は、自分たちの放送サービスがまだ不充分だと認識しているからだ。

3-b) 福岡放送局JOLKの使用を、第32歩兵師団指令部の調達室(Headquarters Procurement Office, 32nd Infantry Division, Fukuoka)へ要請した。

3-c) 本要請は第32歩兵師団の承認を得て(Demand #503007 by Command of Brigadier General McBride, signed by Earl R. Holm, Capt. A. C. for E. M. Houseman, Lt. Col. Inf.) 、すでに日本帝国政府の中央渉外事務所(Japanese Central Liaison Office)へ送られている 。

3-d) JOLKの責任者(Station Manager)はひとつしかない第一放送の送信機(500W)を米軍に提供するのは、日本人への唯一の放送を奪う行為だと指摘した。そこで彼はJOLKの非常用50W送信機を、BCJ大村の300W送信機と交換し、その300Wで福岡の日本人向けにJOLKを継続させて欲しいと懇願した。また(AFRS用かBCJ用かはともかく、)BCJの放送を継続するために別アンテナの建設も許可して欲しい、そしてこの変更工事は12月27日までには完了できると思うといった。

3-e) 工事が完了するまでJOLKの500W放送を続けさせて欲しいと願ったので、第五戦闘航空団の司令部はそれを認めた。

3-f) この調査(WLKI)のあと、個人的に福岡放送局(JOLK)も検査した。そして私(L. J. Raskin)の知る限りでは、BCJの放送施設は直接的にGHQ/AFPAC(太平洋陸軍総司令部)の配下にはないので、BCJ施設を使うにはGHQ/AFPAC とCCS(民間通信局)の両方からの許可が必要だと、Chisolm大佐に申し伝えた。

3-g) さらに私はGHQ/AFPACとCCSから方針が通達されるまで、工事を保留するようJOLKに話した。

3-h) いま全ての関係者がアクションを一時停止しているので、可能な限り迅速に方針を通知すべきだと考える。

3-i) 私(L. J. Raskin)の理解では、「いかなる場合でも我々はBCJの第一放送網とその施設には干渉しない」である。従って第五戦闘航空団に対し、「JOLKの施設は使えない。AFRSの自前施設を使え。」と通知するよう進言させていただく。

  • Dec. 29, 1949 ・・・ 第六軍司令官に自前施設で50Wで運用するよう、SCAPより指令(ZA-11825)

1945年12月29日、SCAP(連合国最高司令官)よりCG Sixth Army(第六軍司令官)へ電令ZA-11825(Approved By: S. B. Akin, Major General)が送達された。ちなみにエイキン少将はGHQ/AFPACの通信長であり、またGHQ/SCAPのCCSの局長でもある。すなわち占領下の日本における電波行政の最高責任者だ。

これは12月18日付けZA-11229の事件を終結させるための指令で、「第五戦闘航空団によるBCJ福岡放送局の接収は承認しない(unauthorized)」、また「福岡地区のAFRSは50W局として承認されている」と、これまでの事実をあらためて第六軍司令官に強調した。

陸軍のAFPAC は(管轄外の空軍下部組織に指揮権はないが)、ZA-11825の送主に連合国最高司令官SCAP(マッカーサー元帥)の名を利用したため、第五戦闘航空団によるBCJ福岡放送局の接収未遂事件はたちどころに解決し、福岡地区の日本語500W放送消滅の危機は解消した。

  • Dec. 29, 1946・・・ 北海道のBCJ留萌中継局とBCJ室蘭中継局の周波数ズレ

1945年12月29日、SCAPより北海道のCG IX Corps(軍団)に対し、電文ZAX-11865にて1490kcで承認したBCJ留萌中継局が実際には1400kcで送信されている。またBCJ室蘭中継局は承認された1270kcより低い1268kcで送信している、と指摘した。

ZAX-11865はSCAP名で出されているが、実際にはCCSからの発信電文である。CCSでは日本の無線局(含む放送局)の電波の質の悪さで、AFPACの無線局への妨害が頻発していた。こういった話は日本側の出版物では扱いが控えめであまり記録がない。でも実際には日本の無線局の高調波スプリアスでAFPCの無線局が妨害を受ける事例が増加しており、電波院BOCでも大いに危惧していたようだ。