短波受信の禁止
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『1927年(昭和2年)3月29日、電業第579号 短波長無線電信無線電話実験施設に関する件という通達で一般のものの短波受信を禁止』 これもWeb上で散見される記述ですが、この通達は1926年(大正15年)7月10日付の電業第748号「短波長使用に関する件」と取違えて伝えられてしまったようです。「短波開放の通達」ページもご覧下さい。
それはともかく、この「短波を禁止」という表現が少しニュアンスが違うように感じます。日本においては「電波は国家が独占する」と無線電信法で定め、たとえ受信だけでもそれは「電波を利用すること」に他ならないため、無許可受信は禁じられていました。つまり中波ラジオ放送さえ(許可なく)受信するのは禁止されていたわけです。ここではこの話題を追ってみました。
電波の国家独占のはじまり
詳しくは法2條第5号施設のページの最終部をご覧いただくとして、我国における電波の国家独占への道のりをさらっと復習します。
◎「電信法」の制定(有線通信を国家独占するも、一部の私設を容認)
明治33年(1900年)法律第59号「電信法」が3月14日に官報公布され、その第一條で「電信及電話ハ政府之ヲ官掌ス」とうたい、有線通信の国家独占がスタートしました。ただし第二條で一部の私設を容認していました。
◎「無線電信」への電信法の準用(無線電信の国家独占・・・私設は認めない)
無線通信に関しては同年10月10日の逓信省令第77号で「電信法ハ第二條第三條第二十八條第四十三條ヲ除クノ外之ヲ無線電信ニ準用ス」として電信法を無線電信にも準用するとしました。しかし第二條(私設の許容)は無線には適用しないとし政府が官掌することになりました。
◎「無線電話」への電信法の準用(すべての無線の国家独占が完成)
科学の進歩により無線電話の実用化が見込まれるようになったため、大正3年(1914年)5月12日の逓信省令第13号で「電信法ハ第二條第三條第二十八條第四十三條ヲ除クノ外之ヲ無線電話ニ準用ス」として電信法を無線電話にも準用するとしました。ここにすべての無線に対する国家独占が完成しました。
これは「電波の発射を政府が管掌する」のではなく、「電波を政府が管掌する」のですから、もちろん受信することさえも出来なくないことになりました。
◎「無線電信法」の制定(無線通信を国家独占するも、一部の私設を容認)
大正4年(1915年)法律第26号「無線電信法」を制定(6月21日官報公布、11月1日施行)。その第二條で一部の私設を容認しました。一般人による電波の受信は第二條第六号により許可される道が開かれたのです。許可される道が開かれたとは、許可がなけなければ受信してはいけないという意味です。
なおいわゆるアマチュア無線に相当する私設実験施設は第二條第五号により許可されることになりました。
不法無線施設の取締りが始まる
短波開放通達(電業第748号)で「短波受信は許可制」であることを明言
Web上では1927年(昭和2年)3月29日に逓信省が『電業第579号 短波長無線電信無線電話実験施設に関する件という通達で一般のものの短波受信を禁止』したという記事も見受けられますが、上のトピックスのとおりこれは1926年(大正15年)7月10日付の「短波長使用に関する件」(電業第748号)のことです。それはともかく、この「禁止」という表現が、少しニュアンスが違うように感じます。そこで放送受信機への規制の推移を追ってみましょう。
◎放送用受信機の受信範囲に関する規制の変遷
ラジオ放送の開始を前に放送用私設無線電話規則が1923年(大正12年)12月21日(省令第98号)に公布即日施行されました。
規則第13条でラジオ放送の受信には放送局が発行する受信承諾書を添えて、所轄逓信局長に施設願いを申請することが定められましたが、検定試験(落成検査)はなく、許可書および検定証書が発行されました。ラジオ放送を聴くだけなのに許可を要するのは無線電信法に『第一条 無線電信及無線電話ハ政府之ヲ管掌ス』とあり、無線の「すべて」を国家が管掌するのだと宣言されているからです。
規則第14条で受信機の規格を定めました。従来より電波は軍用と逓信ビジネスの公衆通信(電報)に用いられてきましたので、これを一般人に盗聴されないように、聴取無線電話用受信機は波長200-250m, 350-400mしか受信できないもので、電気試験所の型式証明を要すとしました。ただし逓信大臣の許可を受けた場合にはこれによらないとの例外規定も付きました。つまり中波受信は地方逓信局長の許可(規則第13条)、これによらない短波受信機などは逓信大臣の許可(規則第14条ただし書き)が必要です。
1925年(大正14年)2月26日、この規則第14条にある例外規定が(逓信大臣ではなく)逓信局長に権限移譲される改正(省令第11号)があり、これにより中波受信も短波受信も逓信局長の許可となりました。そして東京放送局JOAKの仮放送が始まったのが3月22日でした。
ところで受信波長200-250m, 350-400mという制限が、ラヂオファンの自作を困難にしていることや、舶来受信機は電気試験所の型式試験に合格できないことや、国内メーカーの製造コストが下がらない要因になっていました。この1923年(大正12年)に決められた「二波長ルール」はとても評判が悪く、逓信省としても改正に動き始めていました。というのもワシントン会議に向けて三省で策定中の「業務別周波数割当表(案)」では、既に波長250m-350mの部分も放送用として内諾を得ていたからです。
1925年(大正14年)年4月18日に再び放送用私設無線電話規則を改正(省令第23号)しました。大きな改正点は2つあり、まず[旧]第14条第1項「電気試験所の型式証明」を、[新]第14条本体側に移し「電気試験所の型式証明を受たもの、または左各号に適合するもの」とし、輸入や自作した受信機を解禁した事です。
『第十四條 聴取無線電話ノ受信機ハ電気試験所ノ型式試験ニ依リ聴取無線電話用受信機トシテ其ノ型式ノ証明ヲ受ケタルモノ 又ハ 左ノ各号ニ適合スルモノ ナルコト・・・(略)・・・』 (左図)
2点目が周波数制限に関する事項ですが、[新]第14条第1項で波長400m以下(750kHz以上)のみ受信可能であれば(自作品も含めて)よしとしました。軍が使っている波長400m以上(750kHzより低い周波数)が受信できない事が条件でした。
【参考】 4月20日に三省で最終合意した我国初の「業務別周波数割当表」では中波放送は波長400m(750kHz)-200m(1500kHz)でしたが(ただし軍事業務・移動業務と共用)、200mという上限をあえて規定しなかったのは、まだ短波は実用化されていないし、受信機製作を容易にするため、制約をなるべく付けないでおこうとする性善説からです。
大正14年4月より地方逓信局長による受信機の許可制が運用されるようになりました。以下のような申請様式が使用されました。
(型式証明されたラジオ受信機で申請する場合)
(自作などの「非」型式証明機で申請する場合)
(型式証明機→「非」型式証明機への変更願)
(左:廃止届け、右:指定事項変更願)
しかしこの1925年(大正14年)4月18日の改正が大混乱を招きました。ちょうど岩槻J1AAによる短波帯日米初交信成功のニュースが新聞に出た時期と重なり、短波に注目が集っていたからです。ある人はいいました。「受信周波数の下限は750kHz(波長400m)と決まっているが、上限は決められていないから、短波の受信は自由だ」と。またある人はいいました。「これはラジオ放送用受信機の規則であって、放送以外の海外アマチュアの電波等を聴く目的の短波受信機なら逓信局長の許可など要らない。」と・・・
この3月に岩槻受信所建設現場でアメリカのアマチュアを偶然受信できたため、工務課の穴沢技手が「無線と実験」誌に短波受信機の製作記事(J1PP J8AAのページ参照)を書いたり、1926年(大正15年)2月の電気試験所 平磯出張所JHBBの短波試験では、短波受信機を自作するラヂオファンに協力を求め事前公表したこともありました。さらに趣味の無線雑誌には堂々と短波受信機の製作記事が掲載されていました。
そんな風潮に待ったを掛けたのが、1926年(大正15年)6月11日の日刊ラヂオ新聞に掲載された、東京逓信局監督課の国米藤吉無線係長の「短波受信は許可できない」とする談話でした。国米氏はJOAKの放送番組を事前検閲する「放送事項取締事務主任」に任命された方で、これまでの議論とは少し異なる角度から短波受信に否定的な考えを披露されました。
『一般には短波長聴取装置は許可できない事情がある。政府の通信機関によらず、国民が直接海外から通信を得るとなると、経済上、保安上はなはだ憂慮すべき結果を生じはしないか。現在許可せられたる(中波の)装置によってさえも、ある場合、外国の放送を聴取できるのだから、もしそのため著しい弊害が認めらるるならば取締の方法を講じなければならぬ。通信事業の国家的独占は意義あることなのだから、ラヂオの普及がこれと抵触せぬよう適宣に取締ってゆくつもりである。』 (国米藤吉談, 短波長聴取装置は一般に許可せぬ経済上保安上理由がある, 日刊ラヂオ新聞, 1926.6.11)
とにかくこの時期は無線研究家(ラヂオファン)と公衆電報を扱う逓信ビジネス部門との間で、法解釈の大激論が交わされましたが、これに決着を付けたのが前掲の1926年(大正15年)7月10日付け電業第748号でした。もう一度ご覧ください。
電業第748号の第二項と第三項が短波受信に関するものですが、短波を「許可なく受信してはいけない」という意味であって「禁止」ではありません。中波も「許可なく受信してはいけない」時代ですから、その意味でいえば中波も短波も同じです(中波は地方逓信局長の許可、短波は逓信大臣の許可)。
第二項はあとに廻して、第三項から説明します。
『 三、 放送聴取者において、短波長受信実験をなさんとするものについては、技術上同一受信機をもって放送聴取および短波長実験受信をなし得ざるにより、別に短波受信機を使用するものと認められるをもって、第一項と同様に処理すること 』
つまり「将来の短波ラジオ放送に向けて短波受信を実験しておきたいと思う、中波ラジオの受信許可保有者」に対する規定で、「中波・短波の2バンド受信機の実現が技術的に難しいため、別に短波受信機を使うと認められる場合」には第一項(送信の許可)と同様に許可制とするものでした。
次に第二項を見てみましょう。
『 二、 放送聴取者以外の者において、受信機のみを装置するものについては、一般放送聴取施設との関係につき考慮を要する点あるにつき、当分の間、許可せられざること 』
放送の受信以外の目的で短波受信機を使うケースでは、放送受信施設との区別に検討すべき事項が残っており、それが解決するまでは許可しないというものでした。しかし中波ラジオの受信許可書を取っておき、「短波ラジオの受信も実験したい」と申請すれば、第三項に該当し許可審査を受けられるのですから、この第二項の実効性はかなり低いように思います。
1927年(昭和2年)3月7日、逓信省は「放送受信施設」と「放送以外の受信施設」の違いを示すため法改正(省令第4号)を行いました。放送用受信機は波長430m(698kHz)から170m(1765kHz)に限ることとし、4月1日より施行されました。上限周波数を決めたのです。たぶん「業務別周波数割当表」で放送用の波長400-200mが上下に拡張されて、波長430-170mに改正されたものと想像します。 放送用受信機の規格が698-1765kHzになったので、この規格に適合しない舶来高級受信機は第14条の例外規定で逓信局長の許可を受ければ良しとの逃げ道は残されました。また放送以外の短波受信は法2条第5号による無線施設として逓信大臣の許可を受ければ可能でした。
「短波を受信するには許可が必要」で、これを「一般の者が短波を受信するのを禁じた」と表現できなくもありません。ですが「中波を受信するのも許可が必要」な時代ですから、これを「一般の者の中波の受信を禁じた」と表現するかというと、そんな例は見かけません。中波も短波も許可制なのに、ことさら短波だけを「禁止」と表現するのはちょっどうかなと思います。
それよりも第14条の末尾に『逓信大臣は公益上必要ありと認むるときは 聴取無線電話装置に関し 其の施設者に対し特別の施設を命ずることあるべし』という、いざという時の不気味な「何でもあり」ルールがこの改正で加えられた点は注目に値します。
1929年(昭和4年)12月5日、ワシントン会議の周波数分配に準拠し、第14条の受信機の規格を『周波数(波長)五百五十「キロサイクル」(五百四十五「メートル」) 乃至 一千五百「キロサイクル」(二百メートル)の範囲内に限り受信し得ること』と改正(省令第55号)し、1930年(昭和5年)1月1日より施行されました。
1935年(昭和10年)頃より中波と短波が受信できる全波受信機が輸入されるようになり、「規格外受信機」として富裕層を中心に流れたようです。中波も、短波も、形式上では許可制ですが、短波は許可を得ないまま受信されることが多かったと想像します。
『全波受信機が我国に輸入されるようになったのは昭和十年頃からで、外国よりの帰朝者や、ラジオ機器輸入業者が相当数を輸入しつつあることが認められた。電務局では思想対策委員会およびかねて関係者と防諜関係につき協議していたのであるが、この委員会等でも全波受信機の取締り方逓信省に要望するところあり、次に掲ぐる通牒が発せらるるに至ったが、これがため主管局たる電務局は輸入業者、無線機器製造業者から相当非難されたものであるが、支那事変前後の情勢は到底全波受信機の解禁など思いも及ばぬところであり、却って太平洋戦争勃発後に至っては全波受信機の徹底取締りにまで発展したのである。』 (日本無線史 第四巻, 電波管理委員会, 1951, p550)
電無第四六二号
昭和十一年三月十七日
電務局長
各逓信局長
オールウェーブ受信機ノ取締ニ関スル件
近時外国放送局ノ短波放送ヲ聴取スルタメ オールウェーブ受信機ヲ装置スル者相当数ニ達スルヤニ認メラレ候 処右ハ現行規定ニ反スルノミナラズ 無線通信ノ秘密確保上 並放送事項取締上看過シ難キ次第ナルニ付テハ 左記ニ依リ充分取締方可然配意相煩度
追テ本省ニ於ケル新聞、ラヂオ等ニ対スル発表案 別紙ノ通参考ノタメ送付候
記
一、 オールウェーブ受信機ハ聴取無線電話用受信機トシテ許可セラレズ 私ニ之ヲ施設スルトキハ相当処分セラルベキ旨一般ニ周知ヲ計ルト共ニ 無線電話用機器ノ輸入、製作若ハ販売ヲ為ス者ニ対シテモ相当警告ヲ発スルコト
二、 オールウェーブ受信機ノ輸入、製作及販売状況等ニ付 注意シ探査ニ勤ムルコト
三、 不法ニ施設スル者ヲ発見シタルトキハ速ニ機器ノ改装ヲ命ジ、応ゼザルトキハ相当処分方処置スルコト
(別紙省略)
(電無第462号は日本無線史 第四巻, p550より引用)
本当の意味での「短波受信の禁止」は我国が軍国化への道を歩む中、上記1936年(昭和11年)3月17日「オールウェーブ受信機ノ取締ニ関スル件」(電業第462号)で不許可の方針を示し、1939年(昭和14年)10月25日の放送用私設無線電話規則改正(省令第48号)、同年11月1日の「無線通信機器取締規則」制定等で段階的に規制が強化されて行きました。
『昭和14年12月無線通信機器取締規則が施行され、オールウェーブ受信機はすべて没収され、かつ所有を禁じられることになった。もちろん外国から持ち帰るオールウェーブ受信機についても、大蔵省関税局と連絡して各税関において、持ち込まれるこれらの機器を没収し、逓信省に送付してくれた。この規則が逓信省文書審査委員会(省令等の決裁される前に諮問される機関)にかけられ担当無線課長の宮本吉夫さんが説明したとき1委員が、医師や薬剤のように直接人命にかかわるものなら禁止するのもしかたがないが、無線放送を受信するだけのオールウェーブ受信機の使用を禁止するのは行き過ぎではないかと堂々と反対論を述べた。ところがこの会議主催していた当時の有田文書課長(現衆議院議員)がおもむろに答えた。「医師や薬屋は人命を滅ぼすことがあるが、このオールウェーブ受信機は国を滅ぼす。」と、まさに名言である。それでこの省令は無事文書審査委員会を通過して公布実施された。
この規則は一般に所有していた知識階級人の評判が悪かったが、相当の効果もあったようである。しかし逓信省の大臣、次官、電務局長はじめ私ども無線関係者は監督用の名目で他人から取り上げた受信機のうち優秀なものを私宅に施設して外国放送を聞いていたのであった。今にして思えば面はゆい感なきを得ない。ちなみにこの省令は昭和20年9月GHQの命令によって廃止された。』 (石川武三郎, 無線通信75年のあゆみ 私の歩んだ道, 電波時報, 1970.6, 郵政省電波監理局編, pp30-31)
1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争が勃発しアマチュア無線を禁止しました。逓信省は1942年(昭和17年)に入ると全国規模で不法電波の探査と短波受信機の取締りを実施したところ、全波型輸入ラジオを無許可で使う例が相当数確認されたため、1942年9月9日に一般に向け注意を喚起しました。
『かかる受信器を放置しておくことは世界各国の宣伝放送電波が火花を散らしている現在、知らず識らずのうちに敵国策略に乗ぜられるおそれが多分にあるので外国放送を聞くきかないにかかわらず取締ることことになったもので、この種受信器の所持者は直ちに逓信局または郵便局、警察署に文書なり口頭なりで届出のうえ、正規の手 続きをとることが必要である。』 (短波受信器の無届聴取厳罰』, 読売新聞, 1942.9.10, 朝刊p3) 正規の手続きを取りなさいとはいうものの、逓信省にはこの時勢で短波受信を許可する気などないはずです。届けると短波を封印されたのでしょうか?
1943年(昭和18年)3月、逓信省は短波禁止の総仕上げに入りました。短波受信に対して容赦なく厳罰で挑むとプレス発表したのです。3月5日の東京朝日新聞(朝刊p3)「"短波"の取締強化 受信機所有者へ注意」、読売新聞(朝刊p3)「届出よ短波受信器」というニュースが流れました。さらに専門誌でも取上げています。
『・・・(略)・・・敵国の宣伝放送を受信する機械すなわち短波受信機や全波受信機の使用を禁止しているが、この取締規則を未だ知らず、不用意にもこの種の受信機を所有しているむきもあるが、これらは来る三月二十日までに所轄の逓信局か郵便局に届出て国内放送のみを聞き得る中波受信機に改修すること、万一届出を怠りこの種の受信機を所有しているものは容赦なく厳罰に処すると当局では厳重注意を喚起している。』 (短波受信機の取締を強化, 放送研究, 1943.4, 日本放送協会, p51)
大正末期、そもそも逓信省が一般国民の短波受信に制限を加えようとした一番の理由は、公衆電報が逓信省の専業ビジネスであり、国民から預かった「私的なメッセージ」の伝送路(電波)を、一般人に傍受させたくないという理由からでした。そして有望視される短波帯は、逓信現業で働く職員にとっては自分たちのビジネスフィールド(職場)だったのです。それが満州事変あたりを境に、防諜上の理由から敵国の宣伝放送を国民に聞かせないことが最大の目的に変化しました。サイパン島が陥落し中波でも日本向け宣伝放送が始まると、短波とか中波とか、そういう波長の問題ではなくなり、逓信省は国民に外国放送を聞かせないように、雑音放送(ジャミング)をかぶせて応戦するようになります。
なお意外かもしれませんが、放送用私設無線電話規則 第14条にある例外規定『但し所轄逓信局長の許可を受けたる場合に限り第一号によらざることを得』は、敗戦まで削除されることなく生き残りました(しかし許可する道はあれど、許可する気など全くなく、絵に描いた餅でした)。それがポツダム宣言受託の翌月、1945年(昭和20年)9月18日の閣議決定で、ごく簡単な手続きで第14条の例外規定により全波受信機の使用を許可することになりました。絵に描いた餅が食べられる餅になったのでした。
『・・・(略)・・・逓信院では十八日の閣議の了解を得て、爾今 全波受信機を簡単な手続きによって施設し得ることとし、積極的にこれが普及を図ることとした。許可は施設申請とともに簡単にこれを許可されるので誰でも外国の放送を自由に聴き得るわけだ。・・・(略)・・・』 (外国放送が聴ける 文化向上に短波受信を許す, 読売新聞, 1945.9.19, 朝刊p2)
『・・・(略)・・・逓信院では十八日の閣議の了解を得て、爾今 全波受信機を簡単な手続きによって施設し得ることとし、積極的にこれが普及を図ることとした。すなわち全波受信機施設の許可を申請して来たときは、簡易にこれを許可することとし・・・(略)・・・』 (自由に聴ける外国の声, 朝日新聞, 1945.9.21, 朝刊p4)
こうして短波ラジオの受信許可も、(中波ラジオの受信許可と同様に)申請さえすればほぼ無条件で許可されることになりました。この閣議了解により無線雑誌に短波ラジオの製作記事が掲載されるようになりましたので自作受信機も多く使われたことでしょう。
しかし「解禁=勝手に受信してもOK」とは違います。それに戦後の混乱期ということもあり、みんなが実際に短波受信を地元逓信局長に申請したのでしょうか?1950年(昭和25年)に電波法が施行されるまでの間に無許可で短波を受信して捕まったという話も聞きませんので、皆が申請遵守したのか、さもなくば「戦前の放送用私設無線電話規則 第14条なんて、国が滅んだ今さら、何じゃあ~い。」と無視されたのでしょうか?
私にはその当時の実態は分かりませんが、無線と実験誌の1946年(昭和21年)1月号に逓信院の石川氏による受信手続きの解説があります。
『今回実施された全短波受信機の施設手続等に就てその大要を記し、これから施設される方の御参考に資することとする。
全短波受信機の施設も,大体普通の一般ラジオ受信機の施設と同様に、出願者の資格等は一切問ふことなく、簡易な手続きに依つて許可されることとなつたのである。即ち全短波受信機を施設される場合はその住所氏名、機器装置場所及び全波又は短波の区別、使用真空管の数,受信機の種類を記載した申請書を郵便局,放送局或ひはラジオ申込取次所を通じて、又は直接にその地方の逓信局長又は逓信監理部長宛に差出せばよろしい。そして既に普通のラジオの許可を得て居られる場合は、その許可番号を併せて記載して差出せば、全波受信機の増設により新に聴取料金を課せられることはない。
なお従来全短波受信機に対しては、之が使用を禁止する為、官憲に於て封印を施したものもあるのであるが、これら封印された機器で、もし未だ封印の解除をしてないものがあれば、関係逓信局に申出れば即刻封印解除の措置をとつてくれることになつて居る。』 (石川武三郎, 全波短波受信機聴取手続, 無線と実験, 1946.1, 誠文堂新光社)