放送中継とJ8AA

1933年(昭和8年)6月12日、朝鮮逓信局無線実験室J8AAが日本放送協会の砧研究所(東京、砧)の37.5MHz波をキャッチしました。まだ超短波は直進するものと信じられていた時代なの大騒ぎです。そこで1933年7月10日より14箇月間にわたり、朝鮮逓信局と放送協会の砧研究所間で定時観測が行われ、スポラディックE層による伝搬の一部が明らかにされました。

スポラディックE層の研究と並行し、1933年夏より超短波を使った放送中継が本格化しました。富士山頂(7月24-25日)、厳島神社管絃祭(8月8日)、関東防空演習(8月9-11日)、福井陸軍大演習(10月24日)の様子がラジオで中継されました。

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42) 朝鮮逓信局J8AAが正体不明の超短波37.5MHzを傍受 (1933年6月12日)

1933年(昭和8年)6月12日、離島通信用として超短波を研究していた朝鮮逓信局では、同局の無線実験室J8AA(下図:無線実験室の地図)より波長7m(42.86MHz, 出力10W)を発射し、それを京城(現:ソウル)近郊にある京城放送局JODK素砂受信所(京畿道富川郡素砂面)と豊平で受信測定を行っていました。

そして全くの偶然ですが波長8m(37.50MHz)の正体不明の電波に受信機が感応しました。当時の朝鮮ではJ8AA以外には超短波を許可しておらず、聞こえるはずのないものが聞こえてきたのですから、さぞや驚いた事でしょう。

『6月12日天気数日来晴、京城附近素砂(地名)の丘陵上にて午後1時30分より20分間、および引続き豊平(地名)の山の中腹にて午後3時40分より20分間、(日本放送協会放送技術研究所の)砧村8米超短波電話を明瞭かつ強勢に受信し、余りフェーディングもなかった。当日は当局実験室の10ワット機よりの7米附近の電話を受信していたのであるが、砧村から送信している事はあらかじめ判っていなかったのと、超短波が1,150粁(km)隔った東京から来るとは考え得なかったので、甚だ異様に感じさっそく日本放送協会に電報にて照会して確めた。・・・(略)・・・(我々は東京)砧村(の日本放送協会技術研究所で調整中の)200ワット超短波機から8米(37.5MHz)を出されたのを受信したのである。』 (梅田吉郎, "京城東京間超短波長無線電話成績", 『電気学会雑誌』Vol53-No543, 1933.10, 電気学会, p844)

東京のJOAKへ電報で問い合わせて、ようやく砧技術研究所からの超短波だったことが判明しました。ここに距離1,140kmという超短波の大記録が打ち立てられました。朝鮮逓信局無線実験室J8AAのお手柄です。しかしまだスポラディックE層が知られていない時代でしたので、なぜ遥か彼方の東京から、それも非常に強力に伝播してきたのか見当も付きませんでした。

6月12日を『Eスポの日』にしたいですね。

43) 朝鮮逓信局J8AAと日本放送協会の超短波共同試験

この謎の現象が一時的なものかを確めるため、朝鮮逓信局の無線実験室J8AAと、日本放送協会の技術研究所は1933年(昭和8年)7月10日より共同定時試験を開始しました。この通信試験は翌年9月17日まで行なわれ、スポラディックE層の年間を通した発生頻度を観測しました。J8AAとJOAKのVHF実験局はVHF-DX通信のパイオニアだったといえます。

J8AAの75W送信機(UX852プッシュプル)で、7月10-20日は10:30-11:30, 14:30-15:30に、7月21日以降は10:00-11:00と12:30-13:00に発射されました(日曜は試験休止)。波長は7月15日(土)までが7.56m(39.68MHz)で、7月17日(月)より8.45m(35.50MHz)に変更しました。日本放送協会の技術研究所ではほぼ連日受信できましたが、7月19日に仙台逓信局工務課でも聞こえたとの連絡を受けました。このほか21日以降は電気試験所平磯出張所J1AGも受信試験に参加しました。左図の右側の大型が75W機で、左にある小型が10W機です。

『(b)仙台逓信局に於ける感度

7月19日送信の状態は東京方面に対して特に良かったとみえて同日仙台逓信局工務課でも第四表の通り感あった由通知が来た。実に京城から1,230粁(km)を距る仙台からの通知は意外であった。その後も毎日感ある由である。

(c)電気試験所平磯出張所に於ける感度

7月21日より受信して頂いているが毎日大抵午前は感R8位あり、午後は不感の事多いが、電話皆良きもやや不明瞭との事であった。

・・・(略)・・・終りに本試験に当りては砧村放送協会技術研究所 東條民二氏の連日の御好意御試験及び仙台逓信局工務課小原氏の御通知に対し厚く感謝の意を表し、また当方の送信および受信に対しては当局無線実験室各位および清涼里受信所各位に朝鮮放送協会技術部員の御援助を多とするものである。併せて感謝の意を表す。 (昭和八年七月三十一日受付)』 (梅田吉郎, "京城東京間超短波長無線電話成績", 『電気学会雑誌』Vol53-No543, 1933.10, 電気学会, p846)

『朝鮮逓信局でも、京城にUX852 x2 プッシュプルで自己発振をさせ7.56m(39.68MHz)及び8.45m(35.50MHz)を用い、出力75Wで実験した。それぞれ地上27m及び34mの所へ垂直ダブレットを吊るして発射したが、東京、仙台、平磯においても折々良好な受信が出来た。』 (電気学会編, 『電気工学年報』昭和九年版, 1934, 電気学会, p140)

また日本放送協会の技術研究所は75W送信機で、11:00-12:00, 15:00-16:00に波長8m(37.5MHz)を定期発射し、それを京城無線電信局JBBの清凉里受信所と、京城放送局JODKの朱安受信所(京畿道富川郡多朱面士忠里)でほぼ連日良好に受信できました。

44) Eスポの影響を回避するため海軍が60-80MHz帯開発に着手

スポラディックE層(Eスポ)で思わぬDX通信ができて嬉しいのはアマチュア無線家とCB無線家ぐらいであって、一般の通信関係者や放送関係者にはとても迷惑な現象です。特に海軍がEスポによる遠距離伝搬現象に対し、強く反応したことが「放送五十年史」に記されています。

『この超短波は、昭和八年六月、たまたま朝鮮の京城で受信され、これまで遠くには届かないと考えられていただけに学界に大きな反響を呼んだ。さらに調査した結果、京城で受信できるのは夏の六-九月に限られることがわかったが、この試験結果は海軍当局の関心を呼び、その後、海軍では大規模な試験を行うようになる。』 (日本放送協会編, 『放送五十年史』, 1977, 日本放送協会, pp65-66)

艦隊内通信に90式の超短波無線を採用していた帝国海軍は、超短波が遠方まで届いてしまうEスポ現象を一大事と捉えたようです。こちらの動きが敵に筒抜けになるかも知れないからです。偶然「東京-京城」間で発見されたEスポ通信は、1938年(昭和13年)に海軍有終会が出版した『近世帝国海軍史要』にもしっかり収録されています。海軍にとってはそれ程重要なトピックスだったようです。

『 一九三三年(昭和八年) 超短波による東京・京城間無線通話可能記録を得(夏季正午) 』 (海軍有終会編, "無線電信・無線電話機進歩概要一覧表", 『近世帝国海軍史要』, 1938, 海軍有終会, p384)

海軍もこのEスポ伝搬の研究に着手しました。そしてVHF Low Band(30-56MHz帯)では敵に傍受される恐れありと認め、Eスポの影響を受けないもっと高い周波数の艦隊内無線機が検討されました。そして開発されたものが後述する九三式超短波送話機と九三式超短波受話機で、最高動作周波数はおよそ80MHzでした。

【参考】昭和になると無線兵器の式別には試験に合格した皇紀年号の下二桁を用いるようになりました。従って九三式超短波無線機とは、皇紀2593年に試験に合格した無線兵器で、これは西暦1933年(西暦=皇紀-660)です。

45) 富士山頂からのVHFによる実況中継 (1933年7月24-25日)

スタジオ外中継の歴史を振り返ると名古屋放送局JOCKが1925年(大正14年)10月31日に第三師団東練兵場から天長節の分列式の実況放送を有線中継で行ったのが日本初です。また東京では1927年(昭和2年)2月8日に大正天皇御斂葬当夜、高松宮邸前にマイクを設備したのが最初になりますが、同年6月25日に行った帝国劇場からの中継が、無線式による我国初の中継でした。波長は210m(1429kHz)を使用しました。翌年8月16日には波長35m(8.57MHz)の短波中継機で甲子園野球大会の模様をJOAKへ送りました。

前述のとおり超短波を使ったスタジオ外中継放送は仙台放送局JOHKが最初でした。兄貴分の東京放送局JOAKも、富士山頂からの超短波による中継放送を計画し、波長8m(37.500MHz)中継機と波長7m(42.860MHz)中継機を完成させました。両機は同じ概観の空中線電力50Wですが、8m機はDC電源式なので直流発電機で使用し、7m機の方は電灯線のAC電源にも対応しています。

東京放送局JOAK技術部の久我桂一の記事を引用します。

『酷暑にあえぐ七月の下旬に海抜一万二千有余尺、富士山頂より中継放送をして万斛(ばんこく)の清涼を与え、之を聴く者をして無限の生気を感じさせ、かつ我等の誇り富士山を改めて確然と思い起さしめる「富士山を仰ぐ一日」の放送を行おうとする計画が六月廿日過ぎ大体決定した。・・・(略)・・・超短波は送信空中線がはなはだ簡単であり、空電、混信、その他の雑音に煩わされることが短波に比してはるかに少なく又適当に設計、製作すれば重量も軽く容量も小さくて済む得典がある。

なお、富士山頂では昨夏電気試験所で超短波に依る電話の送信試験をせられたる事もあり、現在山頂朝日岳にある中央気象台観測所でもこの超短波を利用して極く小電力の送信機で三島の支台との間に毎日通話して居られるなどの事実に鑑み今回の中継放送は超短波に依る事に決定し、放送実施の許可を逓信省に出願すると共にこれが送信機の設計製作に取り掛る事になった。』 (久我桂一, "富士山頂から", 『ラヂオの日本』, 1933.9, 日本ラヂオ協会, pp14-15)

ちなみに中央気象台の富士山頂観測所JGYのところで述べましたが、VHF通信は東京の中央気象台ではなく、三島を対手局としていたことがここにも触れられています。

1933年(昭和8年)7月24日は、夜明け前の午前四時三十分、富士山頂の松内アナウンサーによる御来迎(ごらいごう)の中継により放送がスタートしました。山頂からは8m中継機を使いました。また富士町からの連絡用には7m中継機が使われました。写真は山頂に設置された中継装置です。

左端が送信機でアルミ筐体で軽量化し、さらに運搬しやすいように上(50W電力増幅機)(発振部と変調部)分離できるようになっています。下部だけでも約5Wの中継機として使うことも可能です。写真中央は電源スイッチ盤でフィラメント用、プレート用など4つの開閉器が付いています。右端はおそらく受信機だと思われます。山頂ではガソリンエンジンで廻す直流発電機を用いました。

『超短波受信に普通使用されている超再生方式を送受信所間の連絡用に使用したが、放送用としては(電界強度が弱くなったとき超再生方式では大きなノイズが出るため)実際使用したのはスーパー・ヘテロダイン式のもので・・・(略)・・・表口頂上浅間神社奥宮の一隅参籠所内に送信機を据え波長八メートルで送信した。送信空中線は神社前面の岩上に六米の木柱を建て、これに約二米の銅管を碍子で支えたものを二本ダブレット型にして、これより給電線を以て送信機に結合した。給電線は、その間隔約十糎(10cm)長さ二十八米である。

受信所は山麓東海道線富士駅のある富士町富士見高等女学校の一室に設け、ここに前記の受信機と連絡用の送信機を設置した。スーパー・ヘテロダイン受信機の出力は電話線を以て静岡放送局に連絡し、ここより全国に中継されたのである。連絡用送信機の送信波長は七メートルで山頂と容易に通話連絡を取ることが出来た。』 (久我桂一, 前傾書, p16)

電気学会雑誌のニュース欄にも掲載されていますので引用しておきます。

『JOAKでは7月24日及び25日の両日、富士山頂における浅間神社祭典の模様、登山実況、講演等を放送の為、富士山頂と、富士町富士見高等女学校の間を超短波で連絡、これからPK(静岡放送局)までは有線で連絡、増幅の上AK(東京放送局)へ更に中継するという方法を用いた。夏季高山の山頂付近は雷雨に見舞われること多く、空電の妨害が著しい点から、既に気象台が山頂と三島支台の間を超短波で連絡しているのに倣(なら)って、特に超短波(山頂からは8m、山麓からは7m)を用いて、放送及び打合せに便じ、外部からの混信、その他の妨害を避けたのは実に超短波の適当なる利用というべきで、予期通りの成功を納めた。・・・(略)・・・空中線は半波ダブレット(送信3.9m x 2、受信2.75m x 2)を用いた。受信機は9球スーパー・ヘテロダインを用い、送受両波長の間に1mという大差があったので、送受信所間の間隔が狭かったのにも拘らず、同時送受話が易く出来て、打合せ等には大変好都合であった。』 ("富士山頂からの中継放送", 『電気学会雑誌』 Vol.53-No.542, 1933.9, 電気学会, p819)

46) 厳島神社管絃祭のVHF実況中継 (1933年8月8日)

1933年(昭和8年)8月8日、広島放送局JOFKが厳島神社の管絃祭の様子を超短波中継で全国放送しました。小舟三艘を組合わせてやぐらが作られた管絃船に、厳島の対岸御前村神社に向う奏楽渡航の実況中継するために同乗したアナウンサーも、掟により祭人と同様に紋付の羽織袴でした。

日本放送協会中国支部技術部の宏林静雄氏と木下誠二氏の記事から引用します。

『本年八月八日に行われた厳島神社の大祭典管絃祭は日本三大祭の一つとしてその名、世に高く海上祭としてはまれに見る大規模のもので、その昔平氏時代より多少の変遷はあったが引続き毎年一回行われる由緒ある古典的な祭典である。

現在行われる管絃祭は厳島を中心としたる瀬戸内海海上生活者を主として挙行されるもので、これに使用する管絃船の外観は写真の様なもので古来毎年新調の小舟を三艘組合せ、その上に舞台を設け中央に管絃楽を奏する屋根付櫓(やぐら)を組み、その周囲には厳島神社定紋付の高張提灯二十四個を巡らし、中央前方には御鳳輦(ごほうれん)を安置し、船尾には高さ一丈の五色の幕を張り巡らし、大高張提灯四個および紅白の錦の旗十数流を立て、その他古典的な神式により数々の神饌(しんせん)を供したもので、この船の船尾に中継放送に必要な装置を設備し、別に三艘よりなる曳船に曳かし、管絃楽を奉奏しつつ厳島の対岸なる地御前村の神社に向う実況を超短波による無線中継をもって放送を行い良好なる成績を得たから、ここにその概略を報告し諸兄の御指導を仰ぐ次第である。』 (宏林静雄/木下誠二, "厳島神社管絃祭超短波長中継放送", 『ラヂオの日本』, 1933.10, 日本ラヂオ協会, p34)

船上からの放送用音声はUX-202Aプッシュプルで波長8m(37.500MHz)電力約5Wでした。電気的に1/4波長に調整した垂直アンテナで送出されました。これを11km離れた広島市西南端の江波公園(天狗山:海抜28m)に仮設した受信所の超再生方式の受信機で受け、市内の電話線を通して広島放送局に送り、ここから全国へ中継しました。

またこれとは別に連絡用としてUX-125Dプッシュプルで波長7m(42.860MHz)の送信機を江波公園に設置し、放送直前まで放送用と併せて同時通話式で打合せを行いました。送信アンテナと受信アンテナは3m以上離して設置し、お互い干渉することもなく極めて明瞭に通話ができました。

この本放送に先立ち行った試験では20km以上実用になるだろうとしています。

『これまで六、七回行った実験によれば中間見透し可能な海上船舶と陸地間では五ワット級の空中線電力で二〇キロメートル迄、また両者が固定である場合は反射空中線を能率良く使用すれば三〇キロ以上放送可能程度の成績を得られることが明らかになった。・・・(略)・・・数度の実験によれば雑音、自動車や発動機船のエンヂンに因るものが相当多かったが、斯様な妨害のない場所を選択すれば空電その他に因る雑音は極めて少ないから大抵の場合好成績を得られるが、市内で受信する場合は原因不明な色々な雑音が混入するのでかなり困難な場合があると思われる。』 (宏林静雄/木下誠二, 前傾書, p38)

管絃祭の中継が大成功でしたので、8月14日18:00-18:20、杉ノ浦海水浴場と江波公園を結び、子供の時間として「夏の夕涼」の実況放送を行いました。この時に使用した送信アンテナは半波長ダブレットです。

47) 防空演習のVHFによる実況中継 (1933年8月9-11日)

1933年(昭和8年)8月9-11日、関東防空演習では飛行機(日本航空輸送会社の飛行機ひばり号で6.100MHzを使用し羽田飛行場と愛宕山JOAKへ送信)と、自動車から実況中継が行われました。

『AK(東京放送局)が行った仕事は、大体二種類になる。その一つは防空司令部の命令を放送して、関東地方各地の聴取者にこれを伝達すること。その二は、演習の模様を各地の聴取者に知らせて、直接各所の状況を見得ない人々に便宜を与えたということである。・・・(略)・・・

各所の防護団活動については、自動車に50W超短波送受信機を附し、波長7m及び8mを用いて連絡及び送信を行い、愛宕山、白木屋本店、新宿三越等で受信して、有線中継を行い、更にこれを一般に放送した。受信所を数ヶ所に置いたのは、超短波が同時送受話を行うには便利だが、東京の様に大建築物の多い所では、その遮蔽作用の為に、感度の低下する地点があるので、これを補う為、各地の中心点を定め、その附近通過の際はそれぞれの中心点で受信するという方法を取ったのである。入力は最終段で1,400V x 55mA、給電線電流400mA、高圧電源は蓄電池で運転する小型電動発電機であった。自動車の振動の為に雑音が増したり、大建築物の吸収による感度低下の地点も二、三はあったが、大体において成功であった。』 ("防空演習と無線電信", 『電気学会雑誌』 Vol.53-No.542, 1933.9, 電気学会, p820)

自動車からの放送には超短波の波長8m(37.500MHz)機を使いましたが富士山の時のように直流発電機をガソリンエンジンで廻せないため、48Vの直流モーターで直流発電機を廻しました(写真の手前に写っているのが6V200AHのバッテリーでこれを8個直列に接続)。送信アンテナは車体の左側に直径12.4mmで長さ約2mの銅管を取り付け、受信アンテナは車体の右側で1.5mです。

JOAK愛宕山では45mの鉄塔の上にダブレット型を付けて受信するとともに、自動車への連絡用として波長7m(42.860MHz)機が使用されました。

『(四)AK防空演習放送

八月九日より拾一日迄三日間にわたり東京市を中心として千葉、茨城、埼玉、神奈川各県下に行われたる関東防空演習に際し、警報の伝達ならびに演習の実況を放送するためAKでは局を挙げてこれに参加した。

・・・(略)・・・

自動車よりの放送

二拾人乗り大型遊覧車に波長八米、出力五〇ワットの超短波放送機を設備し、これに対する受信所は愛宕山演奏所屋上、白木屋屋上、新宿三越屋上の三箇所に設けた。なお別に愛宕山に七米の送信機を設備して自動車との連絡打合に使用した。』 (日本放送協会編, 『ラヂオ年鑑』昭和九年, 1934, 日本放送出版協会, p329)

『 BKには既にトラベリング・トランスミッター即ち移動放送自動車(大阪JOBKの中継車マルコーニ号)が完成されているが、実際に(本番放送に)使用されたのはAK(東京JOAK)の今度の放送が嚆矢であろう。自動車は普通の大型バスを使用し、この中に五〇〇ワット(注:50Wが正しい)、波長八米の超短波機を備え、更に連絡用として波長七米の送信機および受信機を準備した。アンテナは窓から横に一米半ばかりつき出した二本のパイプアンテナ、機械設備一切は調査課の手によって作られた。自動車は空襲下の帝都を巡ぐり、街々の防護団の活躍、爆弾毒瓦斯(ガス)の惨害等の描写を無線で送り、愛宕山、白木屋(日本橋)、三越(新宿)の三ヶ所に設備された受信所を経て放送された。各受信所の受信機は四球の超再生式。 』 ("触角は延びる 各所に布かれた放送網", 『無線タイムス』, 1933.8.16)

この防空演習にはアマチュア無線家の有志が参加しています。ただしアマチュア達は(超短波ではなく)短波での参加でした。

『銚子無線

太平洋航行中の船舶は刻々の状況を無線を以て銚子に報告し、銚子無線から有線で防空司令部に通報した。

愛国無線通信隊

関東地方に在住する実験無線家32名は司令部、茨城県、千葉県、神奈川県の各方面に数ヶ所宛に分かれ、各自製作の送受信機を持って部所に付き、刻々の状況を司令部に通報し、又司令部からの命令を各地の監視隊に伝えて、好成績を納めた。なお銚子と愛国無線隊の使用した周波数は秘密になっていて、発表は許されない。』 ("防空演習と無線電信", 『電気学会雑誌』 Vol.53-No.542, 1933.9, 電気学会, p820)

48) 超短波37.5MHz 200Wアンプが完成

日本放送協会の技術研究所は昨年試作した75W超短波2号機(UX852-pp:左図向って右)に接続する200W増幅器(UX861-pp:左図中央)を完成させました。これは我国の超短波送信機としては最強のもので、40m高の鉄塔に上げた半波長垂直ダブレットから37.5MHzの電波が発射されました。

『その感度試験の結果は、西は武州御嶽附近38km(山岳地方)、北は大宮の北(35km)、西南は伊勢原(37km)迄。小田原は山の関係で聞こえないが、更に熱海(77km)及び伊東(87km)方面では強勢なることを確めた由である。』 ("砧村の200W超短波", 『電気学会雑誌 』Vol.53-No.542, 1933.9, 電気学会, p820)

1933年(昭和8年)8月25, 26日の読売新聞が『超短波時代!! 最優秀な装置完成 -放送協会技術研究所で-』というタイトルで報じていますので引用します。

『・・・(略)・・・日本放送協会の砧村技術研究所に於ても過般来之が実験を開始し、更に今般東條民二氏は鈴木武二、小森英雄氏と協力し二百ワットの出力を有する我国最大の超短波送信機を製作し、無線通信界に一大センセーションを起さんとしている。今その研究の大要を述ぶれば次の如くである。・・・(略)・・・去る五月からは特に超短波放送用の舎屋を新設し、出力七五ワット、波長八メートルの超短波放送試験を開始した。・・・(略)・・・

更に進んで今度は東條氏等の設計製作に成る出力二百ワットという強力な発信装置による試験を開始することになり、過般この送信機を調整中はからずもこの超短波が京城の朝鮮逓信局にて受信され、ただちに京城からは問合わせの電報を送って来たのであるが、向うでも送信機が出来たので、現在では毎日午前十一時から正午迄、後三時から四時迄および水曜日に限り、後七時から八時までの間に放送の交換を行い放送の実際を離れて超短波研究を行っているわけである。・・・(略)・・・』 ("超短波時代!! 最優秀な装置完成 【上】 -放送協会技術研究所で-", 『読売新聞』, 1933.8.25, 朝p4)

『・・・(略)・・・そこで同研究所は海抜八五メートルの所にあり、空中線は地上四〇メートルの鉄塔上に設置されているので見通し距離は四三キロに当たる。ところが今回の実験の結果は四三キロで感度がなくなるようなことはなく、ずっと範囲が拡張されているわけである。例えば東京湾汽船により実験したところによると横須賀沖が丁度四三キロに当たるが、感度がなくなるどころではなく明瞭に聞こえ、更に大島近くの八〇キロの海上で聴取することが出来、全く聞こえなくなるのは八五キロ遠方であった。陸上でも同様な結果で、伊豆、伊東(百キロ以上)ではスピーカーを用いて聴取出来たので、下田方面へも実験を進める予定である。更にまた超短波は山岳などに衝突すれば先に進行しないと考えられているが、先月同所に於て実験したところによれば奥多摩の青梅町を越し御嶽山の谷間にある氷川村までも到達し明瞭に聴くことが出来たが、同所は連山に囲まれた谷間で五〇キロ以上の距離にあるところで山を浸透して進むと見るよりも屈折して進行するというのが同所の意見である。何れにしても前述の試験の如く送信電力を二〇〇ワットの強力なものにすれば一定の区域内では明瞭な感度が得られ・・・(略)・・・』 ("超短波時代!! 最優秀な装置完成 【下】 -放送協会技術研究所で-", 『読売新聞』, 1933.8.26, 朝p4)

この伝播調査はその後も継続され、多摩方面では御嶽駅より奥の氷川(48km)まで伸ばし、南方向の伊豆半島東岸では、小田原が山岳に隠れて不感だが伊東(87km)よりさらに南の河津(114km)で受かり、下田(123km)まで行くと聞こえなくなりました。

海上伝播の試験では伊豆大島の手前(伊東沖)85kmあたりで不感になったものの、伊豆大島の三原山頂(102km)に登ると非常に強力に受かり、高さの重要性を再認識しました。また北方向では久喜(47km)、古河(63km)でも受かることが確認されましたが、小山(77km)や宇都宮では全く聞こえませんでした。

また千葉の房総半島を調査したところ西岸(東京湾側)は全て良好で、先端の館山洲崎(75km)でも強勢に受かりました。しかし東岸(太平洋側)の一之宮、勝浦、鴨川では山岳に邪魔され不感で、予想通りの結果となりました。このほか超遠距離としては京城(ソウル, 1150km)の朝鮮逓信局J8AAで散発的に受信されています。日本放送協会は将来の超短波放送(テレビジョン)に向けて、そのサービスエリアを把握することができました。

【参考】 この200W送信機は1939年(昭和14年)に改修し、テレビ音声用送信機(41.5MHz, A3, 200W)として活用されました。

49) スポラッディックE層に戸惑う放送協会

1933年(昭和8年)9月2日に逓信省は朝鮮逓信局J8AAと日本放送協会の技術研究所で超短波試験を行っていることをプレス発表しました。9月3日の読売新聞がさっそく記事にしましたが、その際に放送協会の高田技師長にも取材しています。突然のインタビューに高田技師長はかなりとまどわれているようです。

『朝鮮逓信局では超短波無線につき研究中、本年六月、中木技手は東京府下砧村の放送協会研究所よりの八米(37.5MHz)短波電話を明瞭にキャッチし、じらい(朝鮮)逓信局無線実験室と砧村間で送受交換中のところ、双方明瞭に聞きとれしかも最近は市内電話と同様の明瞭さとなった。・・・(略)・・・なお朝鮮逓信局の超短波は仙台、平磯、岩槻、その他東京のアマチュアも明瞭に受信している。

高田技師長談

放送協会砧研究所の高田技師長は語る。

「試験をしていることは事実ですがまだその結果を発表するまでには至っていません。よく聞こえたといっても、そういう日もあるし、聞こえない日もあるんです。」 』 (超短波電話 "東京と京城で通話に成功 わが国初めての遠距離", 『読売新聞』, 1933.9.3, 夕刊p2)

第三回ワシントン国際無線電信会議(1927年)で国際的にアマチュア無線用の周波数(1.7, 3.5, 7, 14, 28, 56MHzの6Band)が決められ、1929年(昭和4年)1月1日に発効しました。アマチュア先進国の米国でさえ14MHzバンドの次は56MHzバンドでしたが、その中間に28-30MHz(10m Band)が実験局とアマチュア局の共用帯として認められたのです。10m用の受信機を製作する中で、先進的な東京のアマチュアが受信範囲を8mまで延ばして、朝鮮逓信局無線実験室J8AAをキャッチしていました。

放送技研の高田技師長は元逓信省工務局の無線課長で、逓信省の短波を拓いた稲田局長と中上係長のちょうど間にいた人です。まだスポラディックE層が知られていない時代ですので放送協会へ転籍された高田氏は散発的に通信できたりするこの "謎の現象" に戸惑っていたようです。

50) 札幌逓信局による超短波試験

1933年(昭和8年)9月、超短波無線を研究していた札幌逓信局がフィールド試験に成功しました。送信機はUX171のプッシュプル発振器で電鍵操作できるほか、変調を掛けることもできました。受信機は低周波増幅一段の4球超再生式でした。

このVHF試験の詳細は不明ですが、当時、定山渓温泉には逓信職員の保養施設「太虚荘」があったそうで、ここを試験拠点にしたのかもしれません。現代の国土地理院の地図で定山渓の位置を下に示します。

『昭和八年九月札幌逓信局 磯木清一、北川信等によって超短波の伝播試験が札幌郊外で行われた。使用波長は七米(42.86MHz)及び八米(37.50MHz)で空中線は送受共半波ダブレット空中線であった。この時使用した送受信機は第七・九〇図及び第七・九一図に示すようなもので、試験の結果可視範囲外でも通話可能である事が判明し、定山渓温泉地の如く完全に山獄に囲まれた所でも充分同時送受話が可能であり距離が四十粁(km)以上隔たる場合、電話では明瞭度が減少するので、電信変調を用いなければならなかった。』 (電波監理委員会編, 『日本無線史』第一巻, 1950, 電波監理委員会, p415)

なお同時期に建設中だった酒田-飛島VHF回線の試験電波が函館で偶然受信されています。札幌逓信局によるVHF試験は函館でも行われたかもしれません。

『・・・(略)・・・この九月からは両地(酒田-飛島)間で正式に通信する手はずとなって無電界をアッといわせ、更に超短波の実験を続けるうち、この飛島の発信が函館で聴取される事が判明した。』 ("超短波の湾曲性:無線王を相手に先手の名乗り 仙台逓信局の成功", 『朝日新聞』, 1933.8.21, 朝刊p11)

51) ポータブルVHF無線機による中継 (1933年10月24日)

1933年(昭和8年)10月24日、超短波小型中継機を使って福井県下で行われた陸軍特別大演習の模様を中継しました。これは「騎馬放送」とも呼ばれました。名古屋放送局JOCKの上野七夫技術部長の記事から引用します。

(騎馬放送というものは)前代未聞、世界に未だその例を見ないので、我がCKの誇りとし、また今回の大演習における実況放送中の白眉(はくび:特に優れている)、特筆大書していいものではないかと思う。・・・(略)・・・大演習に騎馬放送をやろうという案が決したのが八月の半ば、要は騎馬にマイクロフォンを乗せ、発振機もまた当然馬上に装置せねばならぬ。まずアナウンサーも技術者も馬に乗って機器を操縦し得る事が必要条件であるため、騎馬の稽古をはじめたものだ。

次はこんな事が実際出来るものかどうか、何か実演の機会はないかと思っていた所、ちょうど九月十八日満州事変記念日に際し、陸軍後援の下に学生青年訓練所連合の演習が、昔を偲ぶ桶狭間古戦場附近において行われる事になったので、大演習の予行の意味も加わって、実況放送を行った。実際はマイクロフォンのみアナウンサーの騎馬上に設置し、発振機は当時超短波の許可が間に合わなかったため、中継放送用として許可を有する一〇ワット、二一〇米(1429kHz)の発振機をトラック上に設備し、その間をマイクロフォン・リードを連絡した騎馬とトラックとの組合せの、奇妙な移動放送であった。即ち自動車放送にも非ず、純粋の騎馬放送にも非ず、その慣れよりも不活発な移動放送であったが、しかし馬上マイクロフォンの経験には十分役立った。』 (上野七夫, 騎馬放送について, 『ラヂオの日本』, 1933.12, 日本ラヂオ協会, p14)

さて左の写真が10月24日の騎馬放送の様子です。先頭はアナウンサーで顔の前にマイクロフォンが見えます。二番目が技術者で、超短波小型中継機を背負っています。この間はマイクロフォンのゴム被覆線(全長15m)と伸縮自在の巻取り器で結んでいます。

JOCKで内製した15kgの超短波中継機(650x230x243mm)は171Aのプッシュプル自励発振で、波長7m(42.860MHz)において出力4Wを得ました。変調部は240-112A-112A-171Ax2の四段増幅でした。また中継機に使用したバッテリーは(A/B/C電源)全部で26kgあり、2袋に分けて鞍の左右に下げました。

三番目の馬に乗っているは放送モニター係です。生中継ですから、事故なくアナウンサーの声が放送されているかを確認する重要な役割りでした。受信機のバッテリー(11.7kg)の入ったリュックサックを背負い、米国エマソン社製自動車用四球受信機(4.7kg)を肩掛け袋に入れ、首を通して斜めに下げました。

当初アンテナは銅パイプ製でしたが、馬の歩行の振動でアンテナが揺れ、それが発振器のカップリングコイルに伝わり、カップリング状態が常に変化することがわかり、ワイヤー型に変更しました(下図[左])。

『我国に於ては昭和八年秋期、福井県下に於て行われた陸軍特別大演習の実地放送に自動車、飛行機、騎馬による移動放送が行われたが、その際用いられた送信機は名古屋中央放送局に於て騎馬用として特に考案設計された波長7米、出力4ワットのものであった。空中線は約1/4波長のダブレット型で、その放射部分は発振機上に竹竿を立て1.5米の可撓線(かとうせん)で弓張の弦に展張したもので、送信機と共に騎上者が背負っている写真を第131図(左図[左])に掲げて置いた。』 (神尾敬一, 『無線工学講座 超短波の発生と応用』, 1934 共立社, p121)

この中継の姿は大変注目されたようで、「無線と実験」誌の1933年12月号の表紙にもなりました。本物の写真から忠実にイラスト化されています(左図[右])。

またラヂオ年鑑からも引用します。

『騎馬上よりの放送-

騎馬班は馬四頭を使用し、一頭にマイクロフォン、一頭に送信機ならびに電池、一頭には放送波長監視用受信機を積載し、残一頭を資料募集用とした。(前付口絵写真参照)送信機は出力四ワット波長七米の超短波、その重量約拾五瓩(15kg)で之を騎乗者が背負い、空中線は写真の如く竹竿をもって弓張状に展張したものである。これは自動車等の通行困難なる極めて狭い畔道等にもマイクロフォンを移動するを得、放送効果甚大であった。』 (日本放送協会編, 『ラヂオ年鑑』昭和九年, 1934, 日本放送出版協会, p330)

つづく>> (1933年6月~10月)「VHF電話回線開通」のページへ