1897年(明治30年)10月、逓信省の外局である電気試験所の松代松之助氏が、苦労の末、パラボラ式送信機と受信機を完成させました(下図)。
そして同試験所の実験室とその庭で日本初の無線実験が行われました。
『こうして松代はその年(1897年)の10月1日に初めて室内実験を行った。ところがコヒーラがくっついたまま離れない(もとの絶縁状態に戻らない)。調べて見ると原因は近くの電信機からの雑音であることが分かり、戸外に出たら正常に感動(コヒーラが電波に感じて動作する事を当時は高表現していた)した。』 (若井登, "日本の無線電信機開発(その1):松代松之助の業績", 『ARIB機関誌:ARIB bulletin. (8)』, 電波産業会, 1998-5, p33)
2015年のある日、私は上記の日本初の実験場所を特定することを思いたち、調査に着手しました。
当時逓信省が木挽(こびき)町にあり、その敷地内に電気試験所が同居していたことまでは簡単に知ることができました。しかし逓信省の広い敷地(現:中央区銀座八丁目)の中のどこかが中々分からず苦労しました。ようやく見つけたヒントは『電気試験所五十年史』に掲載された松代氏の「余禄-回顧談」にありました。
『本図は電気試験所創立当時の建築物にして、墨色のものは試験所時代の建築、朱書の部分は電気試験所と改名したる頃増築したるものなり。
逓信本省はこの建築物の西南に本館が在り、調度課及び倉庫は南方入掘の向う側に在り、製機場は西々北に在り。製機場の鍛冶屋は空地を隔てて北方に在り、何れも皆、渡廊下を以て連結せり。
また大臣官舎は東方に接して在り、試験所付属の小屋はその中間にありたり。材料試験室は入掘を渡りて向こう岸にある倉庫を用い居たり。』 (松代松之助, 『電気試験所五十年史』, 1944, 電気試験所, p707)
「西に●●あり、東に○○あり」と、もうまるで『魏志倭人伝』が伝える邪馬台国の場所探しみたいですが、木挽町の電気試験所は120年前の1896年(明治29年)にマルコーニの無線が伝えられ、浅野電気試験所長より松代氏が無線の調査を命じられた、日本無線界における記念碑的な場所ですので頑張って探してみます。
回顧談に添えられた図(下図)は磁北に対し45度ほど方角が違うように思うのですが、とにかく本文の説明をここに青字で書き込んでみました。
一番の手掛かりは、地図によれば、入掘り(上図:水色に着色した部分)の北側に電気試験所があったことです(もし磁北に対し45度ズレているなら入掘の北東側になります)。
そして国土地理院の現代の地図に、古地図を重ねてみたものが左図です(逓信省内にある入堀は船による資材運搬用なのでしょう)。
さて入堀の北側(正しくは北東)に電気試験所があったのなら、赤線で囲ったあたりでしょうか。
1919年(大正8年)発行の古地図によると、現在の区立銀座中学校の運動場が逓信大臣官舎です。すると松代氏の『大臣官舎は東方に接して在り』との記述ともピタリと符合します。
さらに回顧談では『南方の入堀の向こう側』に"調度課"があり、また『材料試験室は入掘を渡りて向こう岸にある倉庫を用い居たり』とのことです。現在は銀座郵便局になっていますが、敷地内には「検査業務開始の地」記念碑があります。
『検査業務開始の地
明治9年6月17日、この地に工部省電信寮の碍子試験所が発足して電信用碍子の電気試験が行なわれた。これが我が国における近代的物品購入検査の始まりである。
検査100年を記念して 昭和51年6月 郵政省 日本電信電話公社』
1897年(明治30年)12月13日、無線実験をプレス公開しました。デモンストレーションは電気試験所の横の入堀沿いで、送受間距離は150mです。電気試験所が開発中の無線が、公にされたのはこれが最初です。
【注】なお前掲地図上の入堀の位置や長さは精密には追い込めていません。年が経つに連れて短くなり関東大震災後に全て埋められたようです。
『読売新聞』(12月15日)から引用します。記事には『一昨日』とありますので、デモが12月13日に行なわれたと特定できます。
『・・・(略)・・・一昨日逓信省に至りてこれを実験したるに、送信器と受信器との距離は1町半(=160m)ばかりなりしが、送信器の方に当(あたり)てコトコトと機械を動かすの音するや、受信器を伝って継電器の表面には「マコトニケツコウ ヨクウツル ムセンンデンセン バンザイ」の符号立派に現れたり。社員の試みに送信器と受信器との中間に立ち居りしも、何等(なんら)の感動(=感じるの意)もなかりし。なお目下、逓信省に於て試験せるものの同省構内に通じる小川に沿いその距離前記の如く1町半ばかりなれど、追ってのいま少し遠距離にて試験する筈(はず)なりと、・・・(略)・・・』 (『読売新聞』, 1897.12.15, p2)
デモに立ち会った『読売新聞』の記者は無線装置を次のように書いています。
『鉄板を以て竪(たて)一間(1.8m)幅一間程の半円形の屏風様のものを作り、その外面に普通電気用に使用する誘導捲線(コイル)(三寸の火花を出す)を据え、それより三條の電線を出し鉄板を貫きて内面の電気震動器に通ぜしむ。
・・・(略)・・・空中のエーテルに波動を起こし、その長き震動は高き波となり、短き震動は低き波となりて、空中を透して前方の受信器に伝達するなり。受信器も送信器と同様に鉄板を以て半円形の屏風を作りその内面の頂上に真鍮板を置きそれより銅線を下方に引きその中央に在るコヘラといえる要部に達す。・・・(略)・・・』 (『読売新聞』, 1897.12.15, p2)
『日本無線史』第13巻の年表の1898年(明治31年)5月の欄には以下のような記述があります。『 (明治31年5月) 逓信省電気試験所に空中線を建設し、十一月に至り無線通信の実験に成功す』 (『日本無線史』第13巻)
1898年(明治31年)5月にアンテナ塔が建設されましたが、それは電気試験所の庭だと想像します。
松代氏が海軍に出向したあとは、佐伯美津留氏が逓信省の無線研究を引継ぎました。逓信省の無線研究はここ木挽町を本拠としましたが、お隣の築地で松代氏ら(海軍)無線電信調査会が電波実験を始めたため、混信するようになりました。そのため逓信省の無線実験はもっぱら千葉方面へ出かけて行われました。
非同調式無線機のこの時代に、よりによって逓信(電気試験所)と海軍(無線調査会)が隣り合わせの場所で無線研究を行っていたのですね。
当時の逓信省の写真はあまり残っていないようですが、洋風二階建てレンガ造りのおしゃれな庁舎です(下図[左])。我が国の無線の聖地、木挽町の電気試験所はこの逓信省の庁舎の裏手にありました。ちなみにこの庁舎や電気試験所は1907年(明治40年)1月22日の大火災で焼失し、以後バラック小屋での執務となりました。
下図[右]が1909年(明治42年)6月に完成した逓信省の新庁舎です。まるで宮殿のように立派な建物に生まれ変わりましたが、電気試験所がどのあたりに同居していたかは不明です。しかし1923年(大正12年)9月の関東大震災で焼失しましたので、この立派な庁舎はわずか16年の短命でした。
なお『日本無線史』第三巻によると電気試験所は鉄筋コンクリート造りで1911年(明治44年)に完成(逓信省新館内へ移転)したらしいのですが、これについて私は調査できていません。
1900年(明治33年)4月8日、海軍へ移った松代技師の後任、佐伯美津留技師が千葉県の津田沼(谷津塩田堤防)-八幡(五十谷海岸)間で試験『明治三十三年二月松代技師が海軍省無線電信調査委員会に入り其の後任となった佐伯美津留は、逓信省通信局電気試験所構内で浅野所長の指揮を受けて、コヒーラー其の他の研究を行い、遠距離無線通信の準備を続け、同年四月八幡津田沼間の実験を行うことになった。・・・(略)・・・津田沼には電信取扱所があり、八幡にも郵便電信局があるので、之等の地が選定されたのである。・・・(略)・・・両地の内八幡の方が町に近く、また井戸が近くにある関係から八幡を送信所とし、津田沼を受信所』 (電波監理委員会編, 『日本無線史』第一巻, 1950, pp3-4)
電気試験所の佐伯技師等によるフィールド試験が行なわれた場所ですが、次の文献が詳しいです。
『本邦に於ては明治三〇年以来(木挽町の)逓信省電気試験所に於て之が研究を行ひ、最初(明治三三年)上総国八幡町字五十谷と称する海岸及下総国津田沼村字谷津の塩田堤防間約一二哩(12mile=19km)の通信に成功し其他各所に於て実験研究を行ひ着々として成功を遂げ、・・・(略)・・・』 (根岸薫, 『高等電信』, 1915, 電友社, p294)
受信所を置いた谷津の塩田は明治44年に廃業になっていますので明治期の地図を現代の国土地理院の地図に重ねると(正確な特定は郷土史研究家の方々にお任せしたいのですが・・・)大体こんな感じでしょうか(上図[左])。海と塩田を仕切る堤防上に無線機を設置したそうです。南東方向にある五十谷海岸との通信だったので、谷津の南東堤防で運用(受信)したと想像します。
一方、送信所となった八幡町「五十谷海岸」ですが、明治期の地図によると、現在の千葉市と市原市の間を流れる村田川の河口の北側海寄り(現:千葉市中央区)が「五十谷」地区のようです。ここの貨物線が昔の海岸線ではないでしょうか?(上図[右])
試験時期は4-5月で、使用した周波数は当初1.7MHzではじめて、最終的には4.4MHzでした。
佐伯技師等は「谷津-五十谷」試験が成功したため、今度は五十谷海岸の送信機を谷津に、谷津の受信機を横須賀の大津に移して、東京湾縦断試験にも成功しています。方角から考えて今度は谷津の南西堤防で受信を試したのではないでしょうか。
『更に引続いて津田沼(谷津)を送信所とし神奈川県大津(横須賀)に受信所を置いて海上二九浬(=54km)の試験にも成功し、通信速度も一分間約二五字の通信を行い得るようになった。』 (電波管理委員会編, 『日本無線史』第一巻, 1950, p3)
なお下記(第三巻)には大津が送信とありますが、上記(第一巻)の筆者は佐伯氏の一番弟子である中上豊吉氏ですし、内容も圧倒的に詳しく書かれていますので、やはり大津は受信だった思われます。
とりあえず第3巻の記述も見ておきましょう。
『明治三十三年 千葉県(下総)津田沼(谷津)の海岸と同県(上総)八幡の海岸(五十谷海岸)との間約一〇浬(=19km)で、八幡に送信所、津田沼に受信所を置いて試験を行い良好な成績をおさめた。更に通信距離を延長して津田沼の受信所はそのままとし、八幡の送信装置を相模大津(横須賀)に移し、その間約三〇浬(=56km)で、ついで下総船橋 相模大津間三四浬(=63km)で、逐次試験を行いこれまた良好な成績を収めたので、これなら実用可能なりとの結論を得て試験を打切った。』 (電波管理委員会編, 『日本無線史』第三巻, 1951, pp16-17)
大津のどこかは特定できませんが少し高い場所だったようです。試験は6月で、アンテナは当初140尺(=42m)で、最終的に85尺(=26m)でしたので、輻射波長を4倍とすると波長168m(1.8MHz)から104m(2.8MHz)でした。
こうして電気試験所の佐伯氏を中心に無線電信の研究が進められ、1903年(明治36年)には長崎-台湾間の遠距離試験に成功するなど "逓信の無線" は飛躍的に進歩しました。しかし1904年(明治37年)2月に日露戦争が始まり、海軍無線への混信防止のために、逓信無線(電気試験所)の試験は一旦中止になりました。
『時宛も日露間の風雲いよいよ急を告げ我が国は開戦を決意するに及んで試験の停止を命ぜられ、浅野博士も試験未だ全く終了に至らず如何にも残念だが、中止もやむを得ないことなりしとし、明治三十六年、日露開戦に先立ち停止したのであった。』 (佐伯美津留, "浅野博士を憶ふ", 『ラヂオの日本』, 1940.11)
1906年(明治39年)、ベルリンで第一回国際無線電信会議が開かれ、我国からも政府委員を送りました。そしてベルリン会議での諸規則が発効する1908年(明治41年)7月1日を目標に、我国も無線による公衆通信(電報)ビジネスに参入することを決めました。
この目標を実現するために、佐伯氏によって銚子無線JCS等の無線機(中波1,000kHz一波)の研究開発に手が付けられたのが、木挽町の電気試験所でした。日本初の無線研究着手の場であり、日本初の無線実験の場所であり、また同時にそれは日本初の(超)短波実験で、さらにまたここは公衆無線通信の研究着手の地でもあります。
【参考1】 佐伯氏は1907年(明治40年)に同じ敷地内の逓信省通信局工務課に転籍したとも伝えられていますが、私はその時期を特定できませんでした。所属はともかくとして、佐伯氏は公衆通信無線局の設計と建設に尽力し、逓信省無線電報ビジネスの創業に直接的な貢献を為しました。
実験者の松代氏が「築地海岸で行った」と講演会で話されていますので、築地海岸ならば、やはり海軍大学校の海岸が最有力候補です。ただし「逓信省が海軍省の敷地を使わせてもらえたか?」という基本的な疑問に答える証言や資料が何もない点が弱みでしょう。
D) 1897年(明治30年)11月 築地海岸周辺での「陸-船」試験の陸側は?
E) 1897年(明治30年)12月27日 築地海岸-金杉沖の「陸-船」試験の陸側は?
F) 1898年(明治31年)3月15日頃 築地海岸-品川沖の「陸-船」試験の陸側は?
次に海軍の無線電信調査委員会(築地)に関する場所ですが、上記と時期は異なりますがこれも同じく海軍大学になります。
G) 1900年(明治33年)2月9日 新たに発足した無線電信調査会の場所は?
H) 1900年(明治33年)2月27日 海軍大学校構内のデモの場所は?
日本無線史第10巻(海軍無線史)には次のようにあります。
『同委員会の調査場所は種々詮議の末、築地海軍大学校構内大池に昔摂津という軍艦があり、その横付の陸上に同艦の倉庫(約10坪ばかりの古びた掘立小屋同様のもの)があり、これを改修して、使用することになった。(第二・一図参照)』
初代の軍艦「摂津」は1868年(慶応4年)に維新政府が、アメリカの南北戦争で活躍した老朽船を購入したもので、築地に海軍兵学校があった時代にそれを大池に浮かべ練習艦・教育艦として使っていました。
(日本無線史第10巻p185の地図) 日本無線史の第2・1図は大正11年頃の地図に無線にゆかりのある場所が書き加えられています(上図)。無線史上とても貴重な図ですね。
A:「海軍無線発祥の地」 ・・・明治32年
B:旧重砲砲台 「大正年間 大震災(T12.9)まで 海軍無線生育の場所」
C:海軍技術研究所(旧海軍造兵廠) 研究部 「大震災(T12.9)後 昭和5年まで 海軍無線生育の場所」
【参考】 海の一部が埋め立てられ「海軍航空機試験所」が出来ています。「海軍航空機試験所」と、その北側にある「海軍艦型試験所」、および東側の「海軍造兵廠」の三つが統合され、1923年(大正12年)4月1日に「海軍技術研究所」として発足しました。
無線電信調査委員会は上図Aになりますが、これはあくまでも大正11年の地図上の建屋に印を付けたもので、明治32年にあった『約10坪ばかりの掘立小屋』ではないでしょう。そこで、まだ築地に海軍省があった1877年(明治10年)の古地図(下図)を調べてみました。右側が隅田川です。すなわち右へ90度廻していただくと上図と対比できます。
大池の軍艦「摂津」の船舎が浜離宮寄りにあり、私はここが委員会の場所ではないかと思いましたが、大池の春風池寄りには船着場も確認できました。日本無線史がいうように、この船着場のすぐ横に無線電信調査委員会の小さな「掘立小屋」があったのでしょうか。
上図ではちょっとさかのぼり過ぎました。ずばり1900年(明治33年)の地図があれば一番なのですが、機密に属する海軍用地の構内図は一般には出版されていないようで、1884年(明治17年)の地図を見付けるのがやっとでした(上図および下図は昭和10年に海軍水路部がまとめた「水路部沿革史」よりの抜粋です)。
その1884年(明治17年)の構内図では海軍省移転後の跡地は海軍倉庫になっています。そして大池と春風池の間に小さな建屋が見つかりましたが(下図)、大池の『横付の陸上に同艦の倉庫』にしては大池から離れ過ぎているように思います。船の倉庫ならもっと大池沿いにあるのではないでしょうか。
そうすると、地図にはないがもっと大池寄りに小さな小屋があったか、あるいは(私が疑う)浜離宮寄りにある船舎そのものを指すか、または船舎横の小屋の可能性も考えられるでしょう。
しかしこれ以上は追い込めませんでしたので、ここは日本無線史に従って「大池と春風池の間で、かつ大池沿い」という線で考えることにします。
では現在の国土地理院の地図に重ねてみました(左図)。
1897年(明治30年)11月のD)の試験が左図の筑地海岸1または2かは、見当が付きませんが、同年12月27日の金杉沖とのE)の試験および1898年(明治31年)3月の品川沖へのF)の試験では、金杉・品川方向へ見通しがきく築地海岸2からではないでしょうか。 【注】築地海岸1,2というのは地名ではありません
1900年(明治33年)2月9日に発足した無線電信調査委員会の場所は日本無線史によれば、大池の東側の船着場あたりの陸上にあった小さな倉庫です(左図左上)。現在の青果部仲卸業者売り場あたりでしょうか?
同年2月27日、山本海軍大臣らに披露されたデモの課題のひとつに「小丘を挟んだ距離383m」というものがあります。築地の海軍敷地の中にある小丘といえば、春風池と秋風池の連結水路の両側が日本庭園の築山になっていました。
ここを挟んで水交社がある北西角と、墨田川に面する南東海岸を結ぶ通信試験だったと想像してみました。
以上のように築地中央卸売市場の敷地は、明治時代において、海軍省にはもちろんのこと、逓信省にとっても、(短波による)無線研究や試験が行われた歴史的な場所です。まもなく短波は見捨てられますが、1920年代になって、マルコーニ氏、コンラッド氏、そして世界のアマチュアの三者の活躍により短波が見直されようとした時期に、再び海軍短波無線が研究されたのもここ築地でした。大池・秋風池から海側は全て海軍技術研究所となっていたからです。1924年(大正13年)の暮れより海軍技研で4MHz, 10Wの無線機の試作が始まり、1925年(大正14年)4月23日に海軍技研と観音崎間で短波の通信試験が行われました。逓信省の岩槻J1AAが米国の6BBQと日米初交信した2週間あとでした。(J1PP, J8AAのページ参照)
● 海軍無線発祥の地 また無線操縦発祥の地でもある築地
築地中央卸売市場は2016年11月に豊洲へ移転し、跡地の再開発が始まるそうです。現在は許可を受けた市場見学者しか立ち入れませんが、無線電信調査委員会の発足120周年を迎える2020年までには「海軍無線発祥の地」を自由に訪ねることが可能になっているでしょう。再開発に合わせて「海軍無線発祥の地」の記念碑が建てられるといいですね。
そういえば、築地の海軍技研は「無線操縦(いわゆるラジコン)の発祥の地」でもあります。1922年(大正11年)に東京築地の大池に浮かぶ蒸気艇を無線コントロールする研究開発を行い、これを品川沖まで制御しています。
『(築地の海軍技研の)電気部では大沢(無線担当)、富川(電源担当)、田辺(各種リレー担当)各部員ろ面工手(工作全般担当)をそれぞれの担当者と定め・・・(略)・・・大正十一年から同十二年にかけて、この装置を艦載水雷艇に搭載し、品川の台場沖で電気部から無線で操縦した。混信その他種々の障害に対し、改良を加え、ほとんど実用の確信を得たが大正十二年九月一日の関東大震災で装置全部は焼失した。』 (電波監理委員会編, 日本無線史第九巻, pp353-354)
『日本海軍で此の方面の研究(ラジコンの研究)に着手したのは大正十一年頃からであって、その方法も日本海軍独特の方法であるが、部内多くの人の手によって研究せられ、試験せられ、苦心に苦心を重ねながら、其の間に立ちて中堅となれる指導者の指導の下に一致協力して、始めて出来上がったものである。
最初は築地水交社の池に繋いである小蒸気艇で実験をやったのである。その装置の中で、時間による管制は船橋から送信する火花電波によって電動機を運転し、舵角を種々に変更するものであって、これが今日の式の基本となったものである。ところがこの実験に成功すると間もなく、関東地方の大震災のため、築地一面の消失と共に同研究装置も全部形態を失い、その図面も全部鳥有(うゆう)に帰してしまうという悲境に陥ったのであったが、その後引続いて再び研究を始め、軍艦の舵角を種々に管制する装置(これを舵角管制装置と称している)を製作したる上、この無線操縦装置を取付け、他の軍艦から送信する電波により種々の運動を試みたのである。』 (海軍及海事要覧 昭和四年版, 1929, 財団法人有終会, pp288-289)
『一九〇五(明治三十八)年、真空管も存在しなかった時分に海軍水雷部中佐外波内蔵吉(一八六三~一九三七)が木村駿吉(一八六六~一九三八)の協力を得て「無敵魚雷」の実験をしたが、それが無線操縦の嚆矢と思われる。一九二二年(大正11年)に墨田川から品川沖にかけて汽艇を、一九二四年(大正13年)に駆逐艦島風を一九二九年(昭和4年)に駆逐艦卯月を、一九三五年(昭和10年)に駆逐艦夕暮を無線操縦するなどの実験が行われた。』 (井上春樹, 日本ロボット戦争記, 2007, NTT出版, p164)
4) 無線電信調査委員会-羽田で行なわれた実験 [海軍省] ・・・2016年1月2日更新
1900年(明治33年)4-7月に逓信省の佐伯技師等が千葉方面へ出張し、「谷津塩田堤防-五十谷海岸」間でフィールドテストを行いましたが、ちょうど同じ時期、海軍の無線電信調査委員会の松代氏と木村氏らは「築地-羽田」間で試験中でした。大先輩の松代氏が築地で試験しているので、まだ新米技師の佐伯氏としてはお隣の電気試験所(木挽町)から電波を発射するわけにはいかなかったのでしょう。
海軍に出向中の松代氏の築地-羽田試験の記事を再掲します。
『四月廿十三, 四日の両日、(築地の)調査所と羽田穴森稲荷付近とに発信受信の両器械を据付けて試験したり。この両所間の距離は八哩半ありて、マルコニー氏の公式によれば、送受信の直立線(接地式垂直アンテナ)の高さは、同哩(マイル)数に対し、八十五呎(フィート)を要するに拘わらず、七十五呎(=23m)にて十分なりし由・・・(略)・・・』 (石井研堂, 明治事物起原, 1908, 橋南堂, pp265-266)
この文献ひとつだけで、海軍の「築地-羽田」試験を4月23, 24日だと断定するのは早計かもしれませんが、とにかく逓信省の試験とほぼ同じ時期だったのは間違いありません。第二次世界大戦終戦直後のGHQ/SCAPによる羽田空港の拡張で穴守稲荷は現在の場所に移転させられましたが、この試験が行なわれた明治33年当時は1kmほど東の鈴木新田の中にありました。現在でいうと新東京国際空港のB滑走路の南端あたりです。
当時の東京港の海岸線を考えると、築地-羽田間は一切障害物のない海でしたから、築地から見た地理的な好条件により鈴木新田の(旧)穴守稲荷に白羽の矢が立てられたようです。無線電信調査委員会は(旧)穴守稲荷の北側海岸にアンテナを建設したと考えられます。
ちなみに3月15日付で無線電信調査委員会の田中耕太郎委員が諸岡頼之軍務局長に提出した、羽田試験のための借用計画書には東京府下荏原郡羽田村 大字鈴木新田 字東崎616番地の「橋爪寅之助 所有家屋」(穴守稲荷境内)と、アンテナ用地として同村 大字鈴木新田 字東崎1442番2号の「海岸堤防の上」と書かれていますが、私にはその位置が特定できませんでした。
使用された周波数はアンテナが「直立線で七十五呎(=23m)」とありますので、その4倍の波長92m(3.3MHz)前後の短波が用いられたようです。
このあと築地から千葉の館山(房総半島のほぼ先端にある大山)との通信に成功するなど海軍無線の方も順調に距離を伸ばしていきました。
5) 第五台場はどこにある? ・・・2016年1月2日更新
私は福島氏の第三台場説に賛同しますが、世の中的には「第五台場」ということになっていますので、埋め立て地に埋没した第五台場の位置を推定し、現在の国土地理院の地図に重ねてみました(下図)。なおここ第五台場は呼出符号JHR/JHSによる「警察無線発祥の地」です(1934年)。青で書き加えた位置がもし正しいとして、台場見張台JHR/JHS がどのあたりになるかを赤で示します。いつか現地踏査してみたいです。
ところで現在Web上で検索してみると、「月島-第五台場の双方向通信に成功」という記事がヒットします。しかし終戦直後(昭和26年)に編纂された日本無線史はこれが双方向通信だとは言っておりません。
『同年十二月には月島から約一浬を隔てた品川沖の第五台場に装置した受信機によく感受し得るまでに成功したので、同月二十五日各方面の有力者、新聞記者等を招待してその実験を公開した。』 (電波監理委員会編, 日本無線史第三巻, 1951, p16)
本ページで当時の読売新聞(M31.12.18)の記事を紹介しましたが、月島内の実験本拠と実験支部間の530mほどの(双方向)デモンストレーションを行っていた通信が、台場受信所でも聞こえただけの話です(一方通行)。
戦前にもこれを双方向通信だとする記事は見当たりません。昭和30年代以降に、(あるいはもしかして、インターネットによるコピペ時代になって)、みんなが転載・転記を繰り返すうちに、「月島-台場は双方向通信」ということになってしまったのでしょうか?いまや「日本初の無線」の混迷は深まるばかりです。