日本のV/UHF開拓

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日本の超短波無線の歴史開拓史)をご紹介します。

我国では1924年(大正13年)頃より東北帝国大学の八木秀次研究室の宇田新太郎氏らや電気試験所平磯出張所で超短波の研究に手が染められましたが、「実用化」という意味では、1930年(昭和5年)9月より帝国海軍の艦隊内連絡無線として"90式無線電話機"(40.0-50.0MHz)の配備が始まったのが第一号です。日本のVHFは海軍無線でスタートしたのです。

また非軍用無線としては宇田氏の協力のもと1932年(昭和7年)8月27日に仙台放送局JOHKが塩釜ボートレースの模様を超短波中継したものが実用に供された初のものになりますが、常設局による実運用という意味においては同年8月31日に文部省(中央気象台)の富士山頂観測所JGY(61.2MHz)と三島支台JGZ(71.4MHz)の連絡用として開設されたものが第一号だといえるでしょう。その後、公衆通信、警察無線、鉄道無線などでVHFの電波が次々と利用されるようになりました。

『将来、たとえていうと函館と青森、新潟と佐渡、或いは伊豆と大島、または瀬戸内海の各島というように、日本の各地に超短波無線電話が実施され、一般の電話の加入者が直に相手方と談話ができるようになれば、どれほど便利であろうかと私は常に考えているものであります。これをもって私の話を終わりといたします。』 これはラヂオの日本の超短波特集号[1931年(昭和6年)9月号]にある宇田新太郎氏の記事"船舶陸地間の超短波無線電話の同時送受話試験に就いて"(pp14-17)の結びの言葉です。

八木・宇田アンテナのことばかり取り上げられる傾向が強い宇田新太郎氏ですが、単なる研究者にとどまらず、VHFの実用化のために日本各地で伝播試験を行い、積み上げた経験をもとに、より簡易で実用的なVHF無線機「宇田式超短波無線電話装置」を完成させました。そしてVHFの普及になくてはならない超短波無線装置の製造事業を育てて、我国の実用VHFに多大なる貢献をされました。宇田新太郎氏は我国における「民間VHFの父」です。

そんな日本の超短波が実用化されていく過程を時系列にまとめてみました。無線ファンや研究家のお役に立てれば幸いです。

【参考】第二次世界大戦が終結し、最初の国際無線電信会議が1947年(昭和)に米国のアトランティック・シティで開催され、30MHz以上の電波をVHF、UHF、SHF等と細分化して、その呼び方が1949年(昭和24年)に発効しましたが、それまでの国際的な定義では30MHz以上の電波すべてをひっくるめて「超短波」でした。

【Abstract】 このカテゴリーの各サブページの概要とリンク

注)以下の各サブページ名(タイトル)はそのページ内の一部トピックスに過ぎません。基本的には時間順に各ページを並べているだけです。

    • [海軍 VHFを実用化] (1924年から1930年)

    • 本格的な超短波研究の始まりは東北帝国大学の宇田新太郎氏が1927年(昭和2年)11月より1年間実施した68.2MHzの伝搬試験である。さらに1929-30年(昭和4-5年)にはUHF(667MHz)の伝搬試験を行い30kmの記録を打ち立てた。また艦隊内通信用としてVHFに目を付けた帝国海軍は1929年春に46-60MHzの海上伝搬試験を行い、90式無線電話機(40-50MHz)を完成させ、1930年(昭和5年)9月よりその配備がはじまった。これが日本の超短波の実用化第一号である。

    • [宇田新太郎] (1931年4月から1932年5月)

    • 東北帝国の宇田氏は1931年(昭和6年)よりVHF(52-75MHz)試験を再開した。また電気試験所平磯出張所J1AGが30-100MHzを、東京工業大がUHF(375MHz)の研究を開始。宇田氏は「新潟-佐渡」間の海上伝搬試験や、仙台での自動車移動、自転車移動、歩行移動試験、列車移動試験を行いVHF波の伝搬を明らかにし、帝国学士院より東宮御成婚記念賞を受賞した。

    • [NHKも気象庁も] (1932年5月から1932年8月31日)

    • 1932年(昭和7年)夏、東北帝大の宇田氏らは太平洋(宮城県)と日本海(山形県)で離島通信試験を実施した。電気試験所は富士山試験所J1AJを臨時開設し、放送協会、東北帝大、海軍、陸軍らの協力のもと大規模な伝搬実験を行っている。8月27日、松島湾で開かれたボート選手権の様子が宇田氏の協力で超短波中継され仙台放送局JOHKで放送された。民間での実用化第一号である。8月31日には気象庁の富士山頂観測所JGY-三島支台JGZが超短波の常設施設として開局した。

    • [宇田式超短波無線] (1932年11月26-27日から1933年4月)

    • 東北帝大の宇田氏らが開発してきた無線機は「宇田式超短波無線電話」と呼ばれ、仙台の日電商会が製造・販売を行うことになった。さっそく鉄道省から引き合いがあり試験が行われた。また仙台逓信局において有線電話と宇田式超短波の試験でも成功を収めた。1933年3月、仙台逓信局は酒田市と日本海の孤島飛島間の超短波無線電話を日電商会に発注した。

    • [放送中継とJ8AA] (1933年6月12日から1933年10月24日)

    • 1933年(昭和8年)6月12日、朝鮮逓信局無線実験室J8AAが東京砧研究所の37.5MHz波をキャッチした。これはスポラディックE層による伝搬だった。1933年7月10日より14箇月間、両局で定時観測を実施した。1933年夏より超短波を使った富士山頂(7月24-25日)、厳島神社管絃祭(8月8日)、関東防空演習(8月9-11日)、福井陸軍大演習(10月24日)の放送中継が行われた。

    • [VHF電話回線開通] (1933年11月21日)

    • 1933年(昭和8年)11月21日、仙台逓信局は山形県酒田市と日本海の孤島飛島間を超短波の無線電話で結び、酒田ではこれを有線電話回線へ接続した。公衆通信(加入者電話)用の超短波として日本初となるもので、仙台の日電商会で設計・製作された装置(34MHz/39MHz, 出力10W)によった。なお空中線には初めて八木宇田ビーム空中線が採用された。

    • [日電電波工業] (1933年12月から1934年4月30日)

    • 1934年(昭和9年)1月、鉄道省に納入していた宇田式超短波無線が正式に運用を開始した。同年3月、日本電池が日電商会に出資して、日電電波工業が誕生した。主力製品はTM3型送信機とR3型受信機である。このほかに樺太庁通信課でも宇田式超短波が臨時回線用に使われた。

    • [米沢高等工業学校] (1934年4月25日から1934年7月30日)

    • 1933年4月より米沢高等工業が試作した移動用超短波トランシーバー(PTT方式)によるフィールドテストが始まり、7月には津軽海峡横断試験に成功した。このほか日電電波工業による京都嵐山での試験や東京湾横断試験(横浜-木更津)が行われた。

    • [航空機ビーコン] (1934年7月から1935年10月24日)

    • 1934年7月、電気試験所の航空機用超短波ビーコンが実地試験された。少し遅れて東京大学の航空研究所J2BRでも航空機用超短波ビーコンの研究がはじまった。また1934年7月18日、日本アルプスの立山では夏季登山シーズンに限定した超短波による臨時公衆回線が開設された。