JA/JB Callsigns

<印刷にはページ最下段の「Print Page / 印刷用ページ」をご利用下さい> 2007.01.20, 移転2012.08.18

JAコールサインを紹介します。「JA+数字+文字」形式のコールサインは戦後使われ始めました。一番最初にGHQ/SCAPよりJAコールの承認を受けた無線局は、北海道の千歳鉱山株式会社の私設無線局JA8AとJA8Bでした(1946年8月29日)。

1946年11月4日には、山陽線と山陰線の台風対策用の鉄道無線局JA3A-JA3M(計13局), JA4A-JA4P(計16局)が承認されました。さらに冬には新潟や東北・北海道で雪害対策用の鉄道無線がJA9, JA7, JA8のプリフィックスで誕生しました。不運だったのは "JA6コール" で、日豊線に鉄道無線が検討されたのに民間運輸局CTSの口出しでチャンスを逃しました。

1947年5月27日、静岡県の堀之内駅(現:JR菊川駅)を常置場所とする誘導無線の実験局 JA2A, JA2B が申請されましたが、民間運輸局CTSの反対で実現しませんでした。しかし1950年頃には国鉄が小田急線内(南新宿-新原町田)で初の実地試験を行い、我国の列車無線(誘導無線)開発にあたり貴重な基礎データを集めました。

JA2コールのその後ですが、1947年10月11日に天皇陛下が北陸地方を巡幸される際の警護用の警察無線(31.5/33.5MHz, F3)としてJA2A-JA2D(計4局)が申請されましたが、これも却下ではないかと考えています(私はCCSの回答を未確認)。

1948年9月に我国初のCall Sign Allocation Standard(呼出符号割当基準)が制定されて、"JAコール" が日本のアマチュア局のプリフィクスに決定されるとは、まだ誰も想像していなかった時代の出来事を振り返ってみました。

  • "JAコール" 第一号のJA8A, JA8B

北海道の千歳鉱山は1933年(昭和8年)に発見された金山で、札幌の南40kmほどにある支笏湖西岸の山奥にある。1936年(昭和11年)10月1日に千歳鉱山株式会社が設立され本格的な採掘がはじまった。1938年(昭和13年)11月11日、逓信省は同社の湖畔(船舶係事務所, JCI, 34.5MHz, A3, 3W)と川口(運輸係事務所, JCI2, 39.5MHz, A3, 3W)に私設無線を許可した。

『昭和13年11月、北海道の千歳鉱山株式会社が千歳町の支笏湖畔および川口の二事務所に、同じく事業専用の私設無線電話を施設したが、これは二地点間の専用回線を構成するもので、このような形における私設無線はこれが最初であった。』 (続・逓信事業史 第6巻, 郵政省, 1957)

南海の孤島で他に通信手段がなく、一企業に私設無線が免許された例(ラサ島:JSA, 300/600/1800m, 3kW, 免許T6.7.31, 官報告示T6.8.2)はあったが、千歳鉱山のように私企業の専用回線の無線利用が陸上間で認められたのは非常にめずらしい。しかし戦局の悪化により労働力を軍需産業に集中投下するため1943年(昭和18年)4月に鉱山の操業を休止した。1946年(昭和21年)頃から再開に向けて、荒れ果てた坑道や施設の点検整備が始まり、1948年(昭和23年)に操業が再開された。

そして1946年8月29日、二文字プリフィックスJAの実験局形式(文字+数字+文字)で、JA8A(39.0MHz, A3, 20W)と、JA8B(39.5MHz, A3, 50W)の無線局が民間通信局CCSに承認された。本来これらは実験局ではなく実用無線なので、さすがに実験局用の "Jコール" を指定するのは躊躇(?)したのだろうか。 1946年1月に本土4島とその周辺の小島以外は、日本の行政権から切り離された。そこで逓信院BOC は朝鮮で使ってきたDistrict Number の8番を日本本土に引き揚げて北海道に指定した。

このJA8A, JA8B が我国におけるJAコールサインの第一号・第二号であって、第八軍のアマチュア局が一番ではない。第八軍のJAコールサインは2年以上も後の1949年1月1日から使用された。

【参考】従来は8番が朝鮮・関東州、9番が台湾・南洋群島だったが、BOCは8, 9番を本土に引き揚げ、再構成(左図)した。詳細はDistrict Number のページを参照されたい。

1946年8月29日対日指令SCAPIN第1166号で示された、初のマスターリスト(GHQ/SCAP, CCSの周波数管理原簿)にJA8A, JA8Bが記録された。日本帝国政府の無線局は全てこの1946年8月29日付けをもって、SCAP Registry Number の発番を受けて再免許(および一部の新局免許)された。【注】 戦前の千歳鉱山の無線局のコールサインについては不明

  • JA8A, JA8B は戦後初の私企業の連絡無線だった

もうひとつ特筆すべきは、千歳鉱山株式会社のJA8AJA8Bは民間通信局CCS統治時代、初の私企業無線だった。下図はマスターリストの39,000kHzから45,000kHzの部分である。左からSCAP Registry番号(頭の2桁は都道府県を示す)、周波数、呼出符号、電波型式-出力(kW)-無線局種、サービス種別の順に記載されている(do とは「同上」)。

マスターリストによると、サービス種別がPrivate でSCAP登録されたのは、JA8A, JA8Bの2局の他にはない。つまり戦後初の私企業の業務連絡無線でもある。

この周波数付近には多くの実験局が許可されているので参考までに説明を加えておく。

39,000kHzと39,500kHzにリストされているのが日本初の "JAコール" である千歳鉱山のJA8A(A3, 20W, Private, SCAP Reg. No.8086PO)JA8B(A3, 50W, SCAP Reg. No.8085PO)だ。

39,500kHzの先頭にリストされているJO9F(A3, 50W, Relay Broadcast, SCAP Reg. No.1705BR)はBCJ(日本放送協会)の東京演奏所(スタジオ)で、埼玉の送信所との中継用である。

40,000kHzのJ68A(A0, 400W, Special, SCAP Reg. No.6420S)は文部省山川電波観測所で、後にJ6ZAに変更された。

45,000kHzのJ9ZM(A1, 400W, Special, SCAP Reg. No.1703S)はBCJ技術研究所の実験局だ。以上のように日本における戦後の実験局形式のコールサインは、"Jコール"、"JOコール"、"JAコール" がCCSから認可され、再開したのである。

  • 許可されなかった浅野セメントの私設無線

逓信省MOCは1946年8月7日に、浅野セメント(現:太平洋セメント)株式会社の八代工場(熊本県八代市)と、工場の沖合15kmほどに位置する石灰石採掘場(大築島)間の伝書鳩に頼っていた動物通信を近代化するために、"Application of Establishment of Private Wireless Telephone VHF Equipment"(7 August 1946, MOC)で39.0/39.5MHz, 10W, A3 の私設無線をCCSへ申請した。しかし1946年8月28日、CCSはこれに対して、"This application is not approved." として却下した。このことから北海道の千歳鉱山(JA8A, JA8B)の私設無線のケースは、戦前よりの既設局だったため(継続使用ということで)、CCSに許可されたものと想像される。

また浅野セメントのために申請されたコールサインはJEI(八代工場)・JEJ(大築島)で、JA+数字+文字という実験局形式ではない。どのような基準があったかは不明だが、私企業向けの無線が必ずしも実験局形式のコールサインではないようだ。

  • 鉄道無線の歴史

鉄道無線の歴史は非常に古い。1915年(大正4年)8月28日より鉄道院所属汽船(関釜鉄道連絡船)の対馬丸無線電信局JTLが業務を開始した(左図[左]官報)。この時代は官報ではコールサインを告示しなかったので、これを知るには逓信省公達または海軍省達によらなければならない。1915年9月7日付、海軍省の達第117号(左図[右])で、鉄道院の対馬丸のコールサインJTLを確認できた。


【参考】 逓信省公達は「逓信公報」に告示されており、これを閲覧することでこの時代のコールサインを知ることができる。また逓信省のコールサインがなぜ海軍省達にも掲載されるかというと、海軍省の艦船は逓信省の海岸局・船舶局と公衆通信(一般の無線電報)を相互通信するために、それぞれが許可した「公衆通信を扱う無線局」のコールサインを互に通知していたためである。 山口県下関と朝鮮の釜山を結ぶ、鉄道院所属の鉄道連絡船は4隻運行しており、残りの高麗丸JKLは9月29日に、壱岐丸JILは翌1916年2月3日に、そして新羅丸JSKは2月24日に無線電信局を開設した。我国の電波正史である日本無線史第四巻(1951, 電波監理委員会)によれば、電力2kWのQuenched Spark式電信装置(火花送信機)と鉱石受信機を設置したらしい。

【参考】 無線電信法は1915年(大正4年)11月1日に施行されたので、対馬丸JTLと高麗丸JKLはそれよりも古く、電信法による許可である。 ただし上記の無線局はすべて公衆通信(一般電報)を目的とした逓信省に所属する無線局で、保守・運用はすべて逓信省で行っていた(1922年9月になって逓信省から鉄道省へ移管)。そのため鉄道業務の通信は行われていない。

鉄道業務に使用された最初の無線局は、北海道と青森間の海峡横断無線で、1919年(大正8年)より工事がはじまった。1920年(大正9年)5月15日に鉄道院は鉄道省となり、同年7月10日より鉄道省の海岸局として函館JKZと青森JAMを、また鉄道省の船舶局として海峡連絡船の田村丸JTRと比羅夫丸JFXの計4局で公衆通信(500/1000kHz)と鉄道業務通信(1000kHz)の両方を扱った。したがって厳密にいえばこれが鉄道無線の最初といえよう。

『わが国鉄道関係の無線通信施設は、本土北海道間に鉄道輸送業務上の通信連絡の途を開く目的を以て、大正九年七月から青森及び函館に五〇〇W瞬滅火花方式の無線電信装置を施設したのに始まる。』 (電波監理委員会編, 鉄道事業と無線電信無線電話, 日本無線史 第四巻, 1951, p413)

列車無線の通信実験は1923年(大正12年)2月に逓信省の承認がおりて準備をしていたところ、9月1日の関東大震災で汐留駅に保管していた通信機材のほとんど全部を焼失した。機材の再準備には3年を要し、1926年(大正15年)3月16日に逓信省より施設変更の許可(3月19日官報告示)がおり、同年7月12日より、東京都品川区大井工場(コールサインJFYA)と、東京-小田原区間の列車(コールサインJFZA)との通信実験が始まった。日本無線史第四巻(電波官吏委員会, 1951)によると、この試験のために大井工場に建てられた長波アンテナは『空中線木柱傘型六〇米』とある。傘型アンテナとは中央支柱から四方八方へクモの巣のように複数の線条(傘の骨に相当)を下ろす形状である。その線条数と線条長は明らかではないが、支柱60m高(ちなみに現JR大崎駅西口の「ウエストレジデンス大崎」が同じ60m高)の巨大アンテナだった。220kHzの電信では大井町から国府津まで、180kHzの電話では大船まで交信できたと記されている。当時の「無線之研究」誌の放送電波の受信記事中に、鉄道省の列車無線の試験電波に触れる部分があるので引用しておく(極めて初期に実施された我国列車無線テストの様子を具体的に伝える唯一の記録かもしれない)

『これは別に放送しているのではありませんが、その高周波(高調波?)を受信したし、また列車無線に興味がひかれるので書きたすことにしました。これは大井町の鉄道省工場と東京小田原間運転のオロフ二等ボギー車との間で同時送受話の試験中だそうです。「ア、ア、・・・こちらは大井工場であります。旅客列車、旅客列車、今は茅ヶ崎あたりと思いますが・・・」という調子で午後一時 二時頃 はよく試験をやっています。私の受けたのは約三三八米でしたが変調はかなり良好でした。聴取強度は・・・(略)・・・ですからもちろん再生式でなくとも聴取できましょう。』 (根岸巖, 遠近の放送局を相手にして, 無線之研究, 1927.1, 無線之研究社, p53)

根岸氏は千葉市千葉寺在住だが、近所の検見川送信所JYRが送信をはじめても、その倍ぐらいの強さで「大井工場」の無線電話が聞こえたらしい。我国最初の列車無線の電波は多くのラヂオファン(無線研究家)達にキャッチされていた可能性がある。

しかし1925年(大正14年)12月までにこの区間は電化されており、火花から出るスパークノイズが多く、走行中の急行列車との無線通信は実用にならないと結論付けられ、1927年(昭和2年)7月5日をもって列車無線の実験は打ち切られた。(これは長波の空間波無線方式によるものですが、誘導無線方式については1936年に御殿場線で試験が行われているので、本ページの後半部を参照ください。)

【番外編】 陸軍の山東派遣電信隊が1929年(昭和4年)3月に中国の済南- 張店- 坊子- 青島で列車無線実験を実施(空間波 167kHz, 273kHz)。

長波の空間波では無理ということで超短波30MHz帯が研究され、1934年(昭和9年)早々本運用が始まった。ます前方の視界が遮られてしまう排雪車(マックレーと後続のロータリー車)間の連絡通話用として、函館本線の倶知安および深川駅構内(昭和9年1月)に導入し、そのあと信越本線新津駅構内(昭和9年11月)で採用された。しかしアンテナに氷が付着し絶縁が低下するなど良好な成果が出せないことも多かったらしい。

本格的な列車無線の試験といえば、鉄道省電気局電信課が1934年夏に新鶴見や吹田操車場で試した実験が挙げられるだろう。多くの電波関係者の協力のもと学術的測定が実施され、複数の電気関係雑誌や新聞などで取り上げられた。

1934年(昭和9年)6月22日午前10時半より、新鶴見操車場本屋(空中線5m長)と同構内の9600型蒸気機関車の後部炭水車に無線機を設置し交信試験がはじまり、技術者たち煤煙をかぶりながら炭水車上でがんばった。コールサインは不明だが固定局56.8MHz、移動局28.6MHz が使用された。軽微なフェージングが認められたが雑音もなく、さらに送受ともに垂直空中線にすると素晴らしい成績を得た(固定局の写真は新鶴見駅本屋)。


翌月には大阪の吹田操車場でも、J3BI(固定局, 53.5MHz)、J3BJ(移動局, 32.5MHz)で実験したが、夜間になると原因不明の雑音に悩まされた。操車場構内の照明電気系統から発生する雑音だと考えられた。鉄道省電気局の阿部巖氏の記事を引用するが、J3BIJ3BJ は1934年7月26-28日だけの免許だったようだ。

『去る七月二十六日、二十七日、二十八日の三日間にまたがって行われた近畿地方防空演習に際して、逓信省の防空演習期間中、鉄道業務に必要なものとの承認で、大阪府三島郡吹田操車場内に超短波を使用する移動用無線電話装置を私設して通話試験を実施した。』(阿部巖, 操車場に於ける超短波無線電話試験成績に就いて, WATT, p28, 1934年9月号, ワット社)

この他にも雪害対策無線が昭和9年に高山線富山-高山間(2850/1885kHz, A3)、昭和13年には磐越西線(2850/1885kHz, A3)や、函館本線と室蘭本線(33.3/37.5MHz, A3)で試されたが、地形的な問題から電波が弱く、また機器の故障も相次ぎ、防災通信としての成果は出せなかった。しかし昭和15年に信越線の新井-柏原、清水峠-湯沢に施設した、雪害無線2800/3800kHz, A3が鉄道管理局電力工員の熱心な勉強と努力によりようやく確実な通信が確保できるようになった。

以上のように鉄道省は、陸軍省・海軍省・逓信省と並んで、多くの電波技術者を擁していた。戦中には有線途絶対策として各鉄道局に100Wと200Wの短波送信機を1台ずつ配備したが、陸軍海軍逓信三省協定でほとんどの周波数を海軍が独占し、鉄道局は周波数がもらえずに終戦を迎えた。しかし終戦で大量の海軍の周波数が出てくるだろうと、鉄道総局内にて全国鉄道無線網の建設が企図された。

  • 運輸省鉄道総局が鉄道の災害無線を画策するも難航

1945年9月17日に鹿児島県枕崎に上陸した枕崎台風は九州・山陽・山陰地方に甚大なる被害をもたらした。運輸省鉄道総局では鉄道の安全運行を確保するために、鉄道の災害対策用無線の設置を画策した。その中心人物が「戦後の鉄道無線の父」ともいわれる旧鉄道省IJGR(Imperial Japanese Government Railway)の後継である運輸省鉄道総局の渡辺正一郎氏である。渡辺氏は逓信省を訪ね有線不通対策として災害無線の設置をお願いに行った。当時の状況について、鉄道通信(渡辺正一郎, 鉄道無線こぼれ話1, 1982年1月号,p53)より引用する。

『・・・(略)・・・まず逓信院工務局市外課長のところに交渉に行くと、居丈高に逓信の有線は50年に1度位の大災害でも来るのでなければ絶対途絶するものではないと大剣幕である。』有線通信も管理監督していた逓信院としては、渡辺氏の "有線網が脆弱" との指摘にカチンときたのだろ。

『現実はすでに現在枕崎台風でいずれの通信系も西日本一帯がずたずたに切られているし、台風以外にも地震・大雪等で災害は絶えず起こっており、その度ごとに通信線の障害は甚大である。しかし現業と監督という相反するニ面を兼ねる逓信が監督官庁の威光を笠に、逓信の通信は絶対大丈夫だと言い切れば、それが嘘と判って口惜しがっても所詮勝負にならない。』

渡辺氏は鉄道総局の無線には首を縦に振らない逓信院が、内務省(警察)の全国無線網や、気象台の無線を応援したことに憤慨している。

『・・・(略)・・・海軍の無線設備と要員をそっくりそのまま内務省に移管し、周波数も海軍時代使用したままで本省と各県庁の連絡を始めたのである。もっともこの臨機応変の処置のお陰で、あの終戦の混乱期に内務省の有線回線がほとんどやられていたにもかかわらず、県庁との間の連絡が保たれ事なきを得たのである。その間両者の間で裏取引がかわされ、結局5百ワット以上つまり本省対管区所在地との通信系の設備は逓信で保守し、2百ワット以下のローカル系は警察に気象も加えられて、それぞれが建設・保守・運用を自主的にやってよろしいということで談合が成立し、警察と気象台の全国無線通信系が認められたのである。鉄道の場合は、技術者に事欠かないので5百ワット以上はもちろん自ら建設・保守を行うという建前であるから、一向に許可がおりて来ない。』

警察も気象も技官といっても所詮、通信士(オペレーター)であって、鉄道総局のように無線技術者はいない。なので鉄道総局は自力で無線網を整備する技術力があったにも関わらず、逓信院から疎まれ許可されなかったと渡辺氏は振り返っておられる。

【参考】渡辺氏が嫉妬(?)される気象台の全国通信系無線は1946年3月27日にCCSが許可したもので、下表の電波を1946年4月10日より使用が許された。

(この表は周波数kc -電波型式 - 電力kwで表記している)

渡辺氏は1947年(昭和22年)2月に鉄道総局から、経済安定本部(通称:安本(アンポン), 現:経済企画庁)無線課へ出向。1949年(昭和24年)6月に逓信省MOCが解体され電波庁RRAが設置されることになった。そのため逓信省MOCからアンポン無線課への出向組の多くが新設の電波庁RRAに戻ることになった。

この時この逓信組みから、一緒に電波庁RRAに来ないかと誘われた。電波庁RRAへ再出向した渡辺氏は、北海道・仙台・東海の電波監理局長や本省の無線通信部長を歴任。ついに国鉄には戻ることなく、1972年(昭和47年)に退官された。鉄道OBであり、郵政OBでもある無線技術者だった。また別途後述するが、郵政省の現役時代に簡易無線制度に対する貴重な意見を残されている。

  • 交渉相手がCCSに変わり、地方-本省間の無線が実現

前掲の渡辺氏の記事の引用を続ける。『・・・(逓信院とは)随分周波数のことでやり合ったものである。しかし誠心誠意で頑張ったところで、逓信の最高方針が通信の独占にあるのだから、如何ともなしがたい。進駐軍が日比谷の第一相互ビルに落ち着いたのはそのような状況下の時である。無線に関する許認可はとたんにGHQのCCSの担当になった。・・・(略)・・・警察無線は戦争中から使用していたという名目でそのままそっくり認められ、気象無線も当時の相次ぐ台風や地震のお陰で、全国の管区気象台観測所等から気象通報を定時に送らねばならないという大義名分の下に結局認められたのである。さて最後に残った鉄道無線であるが、すでに意図的に3カ月間(逓信院の)電務局長・次官のところで書類が止められていたため、新たに振出しに戻ってGHQに説明せねばならぬことになった。』

終戦から70年近く時が過ぎ、我々無線関係者が忘れかけているのが、引用に登場する「無線に関する許認可はとたんにGHQのCCSの担当になった。」である。逓信院(BOC)、逓信省(MOC)、電気通信省(MOTC)、電波監理委員会(RRC)と日本側の行政機関の名は次々変ったが、その実態は「CCSへの代行申請」エージェントだった。電波史を研究する上で、やはりこの視点は忘れてはいけない。

たとえば今日では我国に民間放送を許可したのは電波監理委員会RRCであるといわれるようになってしまったが、占領下のRRC にラジオ局の許認可権などあろうはずもないことは当時の日本人なら誰もが知っていただろう。民放を承認したのは民間通信局CCSの局長バック准将だ。

鉄道総局の渡辺氏は、逓信院の(局長・課長の代役の)鈴木清高氏とCCSへ向かった。ふたりとも補佐で役職は低かった。

『私も鉄道関係の通信関係で課長の代理として恐る恐る日比谷の第一相互ビルの307号室に出頭したので判ったのであるが、GHQのメンバーはポストよりも人を相手とするということである。したがってこちらが誠実に応対して信用されるようになると、例えば上司の課長よりは補佐の信用した人物の方を相手にするのである。(逓信院の)鈴木さんもいたって誠実公平な方なので、すっかり米国側に信用されるようになった。(鈴木氏は)逓信当局の最高方針を良く知っていただけに、鉄道の立場に痛く同情され、全国計画とは別に広島・門司と本省(東京)間に無線だけでもまず何とかしましょうということになった。CCSの担当官は鈴木さんがサインすれば、それをもって日本政府の意志として取り上げてくれるのである。このような経緯を経て広島・門司対本省の系について昼夜間2波を、さらに陛下の関西行幸を口実に名古屋・大阪対本省系として2波計4波が認可されたのである。以上鈴木さんの好意で曲がりなりにも戦後初の鉄道の固定無線系が開設される運びに至ったのである。』

ちなみに鉄道総局のコールサイン,出力と周波数は次の通りである。

東京局(EWE,200W)と、門司局(EWG,100W)および広島局(EWF,100W)を結ぶ回線の周波数は、夜間波4080kHz と昼間波7965kHz だった。

また東京局(EMB,100W)と、大阪局(EMD,100W)および名古屋局(EMC,100W)を結ぶ回線の周波数には、夜間波3090kHz と昼間波6375kHz が与えられた。

コールサインは当時日本に分配されていたE系のアルファベット3文字のものが指定された。(写真は東京の固定局EWE/EMB)

  • 台風対策用の鉄道無線(災害無線)の建設開始

こうして東京から、門司・広島・大阪・名古屋への固定系は完成したが、その後がさっぱりつづかない。鉄道総局は全国網は後に回し、災害無線の実現に全力を挙げる事にした。軍の放出物資として軍用無線機が新潟・広島・門司・大阪鉄道局にあり、合計すると相当の数だった。(特に新潟鉄道局が多く、1946年夏には軍用無線機の隠退蔵で新潟無線工事区長が米軍に連行され軍法会議に掛けられる寸前にまでに至った事件も起きている。)費用面はこれで良しとし、あとは災害実態の統計資料を準備してCCSを説得した。

これらの努力が実り、1946年5月10日にGHQ/AFPACより示された、日本帝国に分配される周波数リスト "Allocations of Frequencies to Japanese Imperial Government" で、鉄道無線のSnow Emergency 用として2,800kHz, A3, 50W が認可された。

CCSによる電波監理の時代となり、逓信院はCCSの意向の実行部隊に過ぎなくなった。しかし鉄道総局の周波数がCCSに認められたといっても、いざ具体的な話になると、結局、鉄道総局は実行部隊である逓信院と折衝せざるを得ない。

逓信院との協議の結果、鉄道の災害無線は台風用と雪害用に分けること、秋の台風シーズンを控えており台風用を先行させて整備すること、2,800kHzの1波しか与えられなかったので、これを台風用と雪害用で共用することが決まった。鉄道総局は枕崎台風で被害の大きかった、九州の日豊線、中国地方の山陽線と山陰線への配備を強く求めた。しかし逓信院は今年の台風シーズンまで時間もないし、日豊線は来年(昭和22年)で良かろうと鉄道総局の考えを退けた。(もしこのとき逓信院が認めていればJA6Aも誕生していたはずだが)翌年になるとGHQ内に民間運輸局CTS(Civil Transportation Section)が組織され、鉄道総局にあれやこれやと指導するようになり、日豊線の災害無線は後回しになった。渡辺氏は逓信院のこの判断をとても残念に振り返っておられる。【参考】日豊線の災害無線局JRE24, 26, 29-36の承認は1950年(昭和25年)までずれ込んだ("Authorization for the Expansion of the Japan National Railway Emergency Network into Kyusyu", 22 Sep. 1950, CCS/DR第473号)。

  • 関西私鉄の鉄道無線(災害無線)

一般的にいって、実現しなかった計画は正史には記録されることは少ない。CCSの認可を得ることができず、幻で終わった関西私鉄三社の60MHz帯,鉄道無線(災害無線)計画もそうで、神戸, 大阪, 京都, 和歌山, 奈良, 津, 名古屋などに27の統制局を作ったあと、移動局を65局ほど用意する計画だった事ぐらいしか分からない。

戦時体制下の私鉄合併策により現在の阪急と京阪が、また現在の近鉄と南海が同じ会社になっていた。終戦直後もしばらくその状態が継続していた頃の鉄道無線計画だが、まったく歴史から消えてしまっている。

しかし鉄道無線ファンの方もこのページをご覧になるかもしれないし、統制局のコールサインがJA3とJA2のプリフィックスで(逓信省電波局からCCSへ)申請されているので、関西方面のアマチュア無線家の方にも関心を持っていただけるのではないだろうか。

ちなみに現:阪急梅田駅がJA3Aの先頭コールサイン、現:阪神梅田駅はJA3Q、そしてJA3Iが現:近鉄の上本町6丁目駅、JA3Nが現:南海の難波駅である。さらに2エリアにも開局が計画され近鉄名古屋駅はJA2Eになるはずだった。

1946年(昭和21年)8月2日、網島電波局長名で下記の申請書がCCSへ提出された。まだまだ逓信省電波局からCCSへの申請の不慣れ感が漂っている書式である。

TO GENERAL HEADQUARTERS OF THE SUPREME

COMMANDER FOR THE ALLIED POWERS

2 August 1946

TO: Civil Communications Section

FROM: Radio Bureau

SUBJECT: Application of installing new V.H.F. radio circuits

We desire to apply for the permission of establishing radio communications nets for railroad emergency use by following system.

1) Service Railroad emergency

2) User Keihanshin Express Railroad Co. Osaka

Kinki Nippon Railroad Co. Osaka

Hanshin Railroad Co. Osaka

3) District Kinki District

4) Station,Call-signs Shown in attached paper.

5) Frequency & Emission 61210KC, 65600KC A3 FX

6) Power 10W

FOR THE MINISTER:

T. Amishima

Director of Radio Bureau,

Ministry of Communications.

添付書類(Attached Paper)というのが下記である。

Stations and Call-signs, Locations

(A) For the Keihanshin Express Railroad Co.

1. Keihan Osaka, JA3A, Kita-ku, Osaka

2. Keihan Kobe, JA3B, 4-chome, Kanou-cho, Ikuta-ku, Kobe

3. Keihan Kyoto, JA3C, Nishiki-omiyacho, Nishiki-kouji, Omiya-dori, Nakagyo-ku, Kyoto

4. Keihan Shiga, JA3D, Otsu, Shiga-ken

5. Keihan Nishinomiya, JA3E, Ishiwake-cho, Takagi, Nishinomiya, Hyogo-ken

6. Keihan Ikeda, JA3F, Ikeda, Osaka-fu

7. Keihan Takatsuki, JA3G, Takatsuki, Osaka-fu

8. Keihan Oka, JA3H, Oka, Hirakata, Kitakawachi-gun, Osaka-fu

(B) For the Kinki Nippon Railroad Co.

1. Kinki Osaka, JA3I, 6-chome, Uehonmachi, Tennoji-ku,Osaka

2. Kinki Ikoma, JA3J, Ikoma-cho, Ikoma-gun, Nara-ken

3. Kinki Yagi, JA3K, Maizen, Miminari, Shiki-gun, Nara-ken

4. Kinki Nabari, JA2A, Nabari-cho, Naga-gun, Mie-ken

5. Kinki Yamato, JA2B, Yamato, Ichishi-gun, Mie-ken

6. Kinki Ujiyamada, JA2C, Iwabuchi-cho, Ujiyamada, Mir-ken

7. Kinki Edobashi, JA2D, Uehama-cho, Tsu, Mie-ken

8. Kinki Nagoya, JA2E, Sasajima-cho, Nakamura-ku, Nagoya, Aichi-ken

9. Kinki Tennouji, JA3L, Abenosuji, Abeno-ku, Osaka

10. Kinki Kamiichi, JA3M, Kamiichi-cho, Yoshino-gun, Nara-ken

11. Kinki Nanba, JA3N, Nanbashinchi, Minami-ku, Osaka

12. Kinki Hashimoto, JA3O, Hashimoto-cho, Ito-gun, Wakayama-ken

13. Kinki Wakayama, JA3P, Suginobashi, Wakayama, Wakayama-ken

(C) For the Hanshin Electric Railroad Co.

1. Hanshin Osaka, JA3Q, Higashi-Umedacho, Kita-ku, Osaka

2. Hanshin Nishinomiya, JA3R, Tanaka-cho, Nishinomiya, Hyogo-ken

3. Hanshin Motomachi, JA3S, 2-chome, Motomachi, Kobe

4. Hanshin Ebie, JA3T, 1-chome, Ebie, Yodogawa-ku, Osaka

5. Hanshin Amagasaki, JA3U, 2-chome, Takeyacho, Amagasaki, Hyogo-ken

6. Hanshin Hamada, JA3V, 1-chome, Hamadacho, Nada-ku, Kobe

周到に一歩づつ準備してきた鉄道総局の鉄道無線(災害無線, 2.800MHz)とは違い、関西私鉄三社の鉄道無線(災害無線, 61.210MHz, 65.600MHz)は一発勝負感が否めない。1カ月後のCCSの回答(1946年9月9日)は、あっさり「ダメ!」だった。

GENERAL HEADQUARTERS

COMMANDER FOR THE ALLIED POWERS

Civil Communications Section

APO 500

9 September 1946

MEMORANDUM FOR: The Ministry of Communications.

THROUGH: Mr.Shirao.

SUBJECT: Railroad Emergency VHF Circuit.

1. Reference is made to the application dated 2 August 1946 requesting a VHF circuit for railroad emergency use.

2. Application is not approved in its present form.

3. Further information is desired with respect to the communication needs of privately owned and Government railway service.

FOR THE CHIEF:

T. E. NIVISON

Deputy Chief.

【参考】その後、逓信省はまず事前にDraft(草案)をCCSへ持込みCCSの感触を確かめ、かつ書式や英語表記の手直し指導を受けながら交渉を進めて、内諾が取れてから申請書を提出するようになった。つまりCCSとの向き合い方が上手になっていった。

"JAコール" の第一号は千歳鉱山株式会社だったが、このように京阪神急行 、近畿日本鉄道、阪神電気鉄道の私企業に対しても "JAコール" が発給されようとした点は興味深い。

  • 鉄道無線(災害無線)が許可される

山陽線・山陰線の鉄道無線(災害無線)の建設を終え、1946年10月25日に逓信省はCCSへ"Application of establishment of emergency portable radio communications for Railroad Reconstruction work"(逓信省LS 第21号)を提出し、JA3A-JA3M, JA4A-JA4P最終許可を願い出た。そして1946年11月4日にCCSより許可が降り、運用が開始された。(写真は災害無線用の移動局30Wの無線機)

CCSによる電波統治時代になり、SCAPIN第1166号で示したマスターリスト(CCSの周波数原簿)に対して、追加・変更分を新たなSCAPINにて発令することになったため、官報による無線局の免許の公示は(ごく一部の例外を除き)行われなかった。1件毎に発令するのではなく約1ヶ月ごとにその断面で差分リストを作るので、一カ月以下短期実験局などは掲載されないことが多い。

【参考】官報ではお決まりの『無線電信法第二条ニ依リ、左記私設無線電信施設ヲ許可セリ』というセリフはこの時代には全然マッチしない。終戦直後でまだ無線電信法は廃止されていないが、『無線電信法の定めにより無線局を許可』していたのではなく、『GHQ/SCAP CCSの判断により許可』していたからだ。

この山陽線・山陰線の鉄道無線は12月4日の対日指令SCAPIN第1379号による、マスターリストの第4次改訂(4th Amendment to Master List of frequencies assigned for use by the Japanese Government, 4 Dec. 1946)に掲示された。

12月4日のマスターリストの第4次改訂の追加リストによると、大阪鉄道局にJA3Aを置局し、山陽線に姫路JA4A、広島JA4B、下関JA4Cの統制局を置いた。また山陰線には福知山JA4D、米子JA4Eの統制局を置いた。そして山陽線の列車移動局として大阪局の管理下でJA3B, JA3C, JA3D, JA3E, JA3F, JA3G, JA3H, JA3I, JA3J, JA3K, JA3L, JA3Mの12局が、また山陰線の列車移動局として下関局の管理下でJA4F, JA4G, JA4H, JA4I, JA4J, JA4K, JA4L, JA4M, JA4N, JA4O, JA4Pの11局が載っている。

JAコールサインの第一号と第二号は千歳鉱山だが、第三号以降は鉄道総局の災害対策用無線局に免許されたのである。これで "JAコール" は8エリア、3エリア、4エリアで誕生したことになる。それにしてもコールサインがなぜ「文字+数字+文字」という実験局(およびアマチュア局)用の特殊な形式 のものになったかは分からない。JOコールサインのページでも述べたとおり、災害対策用で普段は稼働しないのが大前提なので、この種のものは実験局のコールサインで良かろうということだろうか?

  • 公式にはコールサインの記録が残らなかった実験局たち

無線局の認可や変更の都度、官報で公示するのではなく、この時代はSCAPINでマスターリストの改訂を発令する方法をとっていたので、必ずしもこうした公式記録にコールサインが残らなかった実験局が数多く存在するようである。そのひとつが鉄道無線の中の操車場無線の実験局である。

まず日本無線史第4巻(電波監理委員会,1951)より引用する。

『一日数千両の貨車を取扱う長大なる構内を有する大操車場において、到着列車を逆転して阪阜上から平面の方向別群線に散落させ、これらを終結して列車出発線に据付けるまでの一連の構内入換作業をなす場合、これらの各機関車乗務員と、機関車を誘導する関係操車係りとの間において、随時連絡打合せをなし、運転の安全、貨車回転率の向上、構内従業員の危害防止のため、鉄道省では昭和二十一年八月以降、新鶴見(神奈川県)、稲沢(愛知県)、吹田(大阪府)、長野(長野県)等で無線電話の試験を施行して、幾多の資料を得、実用上の信頼性を把握したるも、これが使用法について具体案を研究中である。これに用いた周波数は三七.五Mcであった。』

1946年(昭和21年)8月16日付けで、逓信省よりCCSへ出された"Application of experiment of vehicle communication with VHF equipment" によれば、33.5/37.5MHz, AM・FM, 10Wで大宮(埼玉)、新鶴見(神奈川)、稲沢(愛知)、吹田(大阪)、長岡(新潟)の各操車場で8月25日から10月25日までの実験申請だった。そして1946年8月30日にCCSは完全なる実験報告書を提出することを条件に、1946年11月1日までの承認を与えた。

しかしこれらのやり取りの書類上にはコールサインの記述は一切見当たらない。もちろんマスターリストの改訂でも、33.5MHzや37.5MHzにそれらしき無線局は登場しない。あくまでTemporary Station で、マスターリストの改定に載せるまでもない無線局ということだろうか。(もしかしてこの操車場無線にJBコールサインを使用していたならば、次に述べる国府津の実験でJB9S, JB9K, JB9L のコールサインが登場するのも説明が付きそうだが、真実は私にはわからない。)

電波日本に操車場無線に触れる部分があるので引用する。筆者は渡辺正一郎氏の上司の小田達太郎無線課長である。

『超短波列車無線は既に33.3Mc, 37.5Mc の周波数割当を受け東京付近の大宮,新鶴見操車場、大阪付近の吹田および名古屋付近の稲沢操車場、新潟付近の長岡操車場等で運転中の入換機関車と地上局との通信試験を行った。許可された空中線電力は地上局20W, 機関車10W以内で、変調方式は周波数変調および振幅変調の両方式で、各社の試作品につき試験を行ひ、半径5km程度の操車場全区域に亙って一応満足な成績を得た。』 (小田達太郎, 鉄道無線の諸問題と今後の動向, 電波日本, 第42巻 第4-5合併号, p72, 1947 )

【参考】 小田氏の記事の後、操車場実験で用いられた送信機の写真や回路図、空中線図とともに13ページにもわたる詳細な実験報告が掲載されている。日本電気製FM-Ⅱ型を搭載したC50蒸気機関車のアンテナや、地上局の八木型空中線の導波器を増やした場合の水平指向特性図なども発表されている。興味がある方は電波日本をご覧になると良いだろう。(太田需・日下部正直, 超短波列車無線, 電波日本, 第42巻 第4-5合併号, pp.81-93, 1947 )

さらに鉄道通信からも引用する。国鉄鉄道技術研究所通信研究室に勤められていた清水秀夫氏の回想である。

『昭和21年8月には新鶴見構内で蒸気機関車及び電気機関車の指向特性と電界強度測定が行われた。しかし当時は本邦で現場の使用に耐える電界強度測定器もなく、比較値を測定するのみで設計資料にするには全くお粗末なものであった。また研究所においては大宮操車場において電界強度の測定等がなされた。当時本社としては本線とともに操車場における超短波無線電話が計画され操車場の電界強度分布図の要望があったが、測定器も旧海軍の超短波受信機を大型信号発生器で較正する始末で、特に半波長5mもので大型木製空中線を回転しながら食糧事情の悪い時、炎天下焼けつくような操車場の実験は並大抵のものではなく復員後の我々はしゃにむに実行したようなものである。その結果試験を担当された日下部さんは病気退職され、佐野さんは発病他界されたことは忘れられない。』 (清水秀夫, 空間波による列車無線の話2, 鉄道通信, 1957年10月号, p31)

想像を絶する食糧不足で闇食料に頼らねば生きていけなかった国民一億総犯罪人の時代である。食管法違反者を裁いていた判事が、良心の呵責に苛まれ、政府米しか口にしないと心に決め、栄養失調で亡くなり、新聞で大きく取上げられたのが昭和22年だった。生きて復員できても、なおも苛酷な日々を強いられた諸先輩のおかげを持って、日本復興が成し遂げられたことに心より感謝したい。

特筆すべきはこの1946年8月30日にCCSに承認された操車場無線が、日本初のFM方式の移動体通信実験だと考えられる。警察無線に日本電気の試作機で、初めてFM移動体通信のCCSの承認が下りたのは1946年12月12日だ。鉄道無線の方が3ヶ月半も早い。

しかし厳密にいうとこの操車場無線実験のFM送信機の設計を受注した日本電気(玉川工場, 川崎市)が先に試作機の実験を行っている。1946年6月10日、逓信院BOCは"Application of experiment of propagation of Very-high-frequency Wave(37.5Mc)" で、6月14日09:00-17:00に玉川工場から37.5MHz, 1W, FM で送信され続ける電波を、受信機を積んだトラックが工場を出発し大森経由で東京駅まで受信する実験が申請された。1946年6月12日、CCSは実験日を6月21日09:00-17:00とし、完全な実験報告書を提出することを条件にこれを承認した。この1946年(昭和21年)6月のフィールドテストが(製造業サイドの実験局も含めた)「FM移動体通信の日本初実験」だともいえる。だがこれも書類状では日本電気が使ったコールサインには一切触れられておらず不明である。

なお1946年10月1日、逓信省は"Experimental Development of VHF Communication Equipment for Railroad Use"(逓信省LS第27号) で、佐賀県の鳥栖操車場で10月31日まで追加実験を申請したが、10月10日にCCSから却下(Not Approval)されている。日本人のアマチュア無線もなかなか承認されなかったが、それはアマチュアだけではない。他の多くの無線局がCCSの承認を得るために多大の苦労(重要性の陳情説明)を払っていた時期でもある。

1950年になって神戸港駅の操車場にて行われた実験は New Prefix のページを参照されたい。

  • 東海道線のJBコールサイン

鉄道省は早くから移動体無線の研究を手掛けていたが、ノイズが多く使い物にならないとされ中断していた列車無線の実験を1946年になって再び実施した。

運輸省鉄道総局の無線を管轄していた、最高責任者である運輸省電気局無線課の小田課長は、前掲の電波日本(第42巻,第4-5号)の「鉄道無線の諸問題と今後の動向」で、操車場無線に続けて東海道線での実験についも触れている。再び引用する。

『更に最近に於ける列車追突事故に鑑み、本超短波方式で本線を走行中の列車に装備して、列車相互間の通信、特に停車中の列車より後続列車に対して警報を発して追突事故の発生を防ぐことを目下研究中で、最近東京・沼津間で列車間の通信実験を行う予定である。本方式の目的は、操車場、臨港地帯、工業地帯等、鉄道線路の密集地域に於いて不規則に行動する機関車の使用効率の向上、作業時間の短縮を狙っている。』 (小田達太郎, 鉄道無線の諸問題と今後の動向, 電波日本, 第42巻 第4-5合併号, 1947 )

逓信省は1946年9月26日に"Application of temporary experimental emission of radio wave for railway service"(逓信省LS第23号)で東海道線での列車無線の実験局を申請した。1946年10月15日、CCSは"Assignment of Frequency for Experimental Purpose" でこれを承認した。

IMPERIAL JAPANESE GOVERNMENT

MINISTRY OF COMMUNUCATIONS

26 September 1946

LS No. 23

TO: Civil Communications Section

SUBJECT: Application of temporary experimental emission of radio wave for railway service.

Frequent occurrences of railway accidents have become a menace to the public in Japan after the War.

They have been giving considerable confusions to the system of railway operation and booming an obstacle against the rehabilitation of Japan.

From this point of view, R.M.S. gave the Ministry of Transportation a warning to take proper and prompt measure to this problem.

As one of its measure, the Ministry of Transportation has an idea that running trains communicate with each other or with main railway stations concerning any abnormal state very quickly if an accident occurred.

If its attempt be proved successful, the epoch-making advancement of safety and efficiency of transportation will be expected.

This first experiment will be carried out on the Tokaido-Line between TOKYO and NUMAZU by the Ministry of Transportation, and they want to acquire several important data concerning such sort of radio communications.

In this experiment two electric locomotives and one railway station (KOZU) will be used.

The Ministry of Communications admits the necessity of this attempt and desires this experiment to be authorized. Data are shown as follows.

FOR THE MINISTER:

T. Amishima

Director of Radio Bureau,

Ministry of Communications.

DATA :

1. OPERATION RANGE

From TOKYO to NUMAZU on the TOKAIDO- Line of Government Railway.

2. STATION AND CALLSIGN

(a) Fixed KOZU Station JB9J

Kozu-machi, Ashigara-gun, Kanagawa-ken.

Lt. 35°16' Long. 139°12'

(b) Mobile Two electric locomotives(JB9K JB9L)

running on the TOKAIDO-Line.

3. FREQUENCY AND TYPE OF EMISSION POWER

37500Kc A3 10W

4. OTHER TECHNICAL DATA

(a) Communication method Break-in system

(b) Maximum communication distance 10 km

(c) Power source 24v 100AH Battery

(d) Modulation system F.M. by reactance tube

(e) Antenna Vertical antenna

/2 for fixed station

/4 for moving station

5. OPERATION TERM

3 month after your authorization.

マスターリストの第4次改訂(4th Amendment to Master List 0f frequencies assigned for use by the Japanese Government, 4 Dec. 1946)に、東海道線の東京-沼津間の国府津(JB9S,固定およびJB9K,JB9L,移動車両)にRailroad Experimental 局が1947年3月1日までの許可として追加された。

日本無線史第4巻(電波監理委員会,1951)から引用する。

『濃霧発生の場合の列車運転又は災害によって平素と異なる特殊運転の場合の列車追突の危険を防護する目的をもって、列車相互間の無線通信連絡の試験を、昭和二十一年十二月下旬に、東京沼津間で実施した。まず二両の電気機関車を仕立て、これに送信出力十W、周波数三七.五Mc、受信出力二W、中間周波数二Mcのものを装置した。』

この2両の機関車が移動無線局JB9KJB9Lである(左図)。さらに実験基地として国府津駅(神奈川県)に固定局JB9Sを開設した。申請時には国府津駅はJB9Jだったのに、なぜかJB9Sで免許された。

『両機関車は適当な間隔を保って相次いで出発し、相互の運転中に、または一方の機関車を停車せしめて、曲線区間、切取区間、トンネルの内外と内部相互、山を挟み、可視区間等で精細な実験をしたが、実用に供するには空中線の施設方法の改善と、真空管の機能を特に向上せしめる必要があった。』 (日本無線史第四巻)

国鉄鉄道技術研究所の清水秀夫氏の回想を引用する。

『昭和21・22年頃は東海道線等においてもしばしば試験が行われ、通信機としては日本電気製の戦時中の設計で周波数は30Mc帯、出力10Wで変調はリアクタンス変調、終段出力管は807が使用された。試験の1例をあげると昭和21年12月16日~23日に保土ヶ谷・戸塚間及び平塚・沼津間で行われた。試験の目的としては「列車追突事故防止のため列車用無線連絡装置を設備するに当たり、その性能及び効果を試験する」こととした。通達目標は5kmとして行われた。実際に試験してみると通信機自体の安定性が悪く、走行中の振動で調整はくずれる、使用した真空管850は不良品が多く、走行中肝腎の試験より通信機のお守りに大半の時間をさかれる方が多かった。それでも国府津の固定局と辻堂で連絡がとれた時はホッとしたものである。・・・(略)・・・なお研究所としては東海道線で振巾変調と周波数変調との比較試験を東京・沼津間で実施し外部の電気的障害波に対して周波数変調の優位を確認した。』 (清水秀夫, 空間波による列車無線の話2, 鉄道通信, 1957年10月号, p31)

  • 雪害対策用のJA7/JB7, JA8, JA9局も一斉に本免許

雪害対策用の鉄道無線(災害無線)の建設も終わり、1946年11月18日に逓信省はCCSへ"Application of establishment of emergency portable radio communications for Railroad Reconstruction work"(逓信省LS 49号)を提出し、最終許可を願い出た(下表)。

1946年12月26日、CCSは"Railroad Emergency Radio Communications"でこれを承認し運用を開始した。

1947年1月30日の対日指令SCAPIN第1500号で、マスターリストの第5次改訂(5th Amendment to Master List 0f frequencies assigned for use by the Japanese Government, 30 Jan. 1947)が発令された。これに7エリア(東北)、8エリア(北海道)、9エリア(関東信越)の鉄道無線の雪害対策用として追加されたが、 いくつか申請時と配置が異なっている(下表赤字部分)。

特に北海道では冬のシーズンを迎え準備が遅れたようだ。 1947年2月20日の"Frequency List of Japanese Radio Stations, 逓信省電波局" には、釧路統制局(JA8O)とその移動局JA8P, JA8R, JA8S、北見統制局(JA8T)とその移動局JA8U, JA8V、名寄統制局(JA8W)とその移動局JA8X, JA8Y, JA8Z, JB8A がリストされた。これで7エリアに続いて、8エリアでも "JB コール" へ進んだ。

  • JA4A, JA4Dが取り消される

JA3プリフィクスの第一号JA3Aは(前述した阪急梅田駅の計画は失敗し)大阪鉄道局に与えられた。そしてJA4プリフィクスの第一号JA4Aは姫路統制局が得たのだが、その直後に取り消された。山陽線の姫路統制局JA4Aも、山陰線の福知山統制局JA4Dも、兵庫県にあり、JA3であるべきなのに、JA4のプリフィクスが発行されていたからだ。

1947年7月14日の対日指令SCAPIN第1733号で、マスターリストの第7次改訂(7th Amendment to Master List 0f frequencies assigned for use by the Japanese Government, 14 July 1947)が発令され、その変更リストでは姫路統制局(旧JA4A)JA3Bに、福知山統制局(旧JA4D)JA3Cに変更されている。(そしてJA4AとJA4Dコールサインは欠番となった。) この措置で列車移動局だったJA3B, JA3Cのコールサインが姫路・福知山の固定系へ指定変更されたので、列車移動局にはJA3N, JA3Oのコールサインが補充された。

マスターリストの改訂発令は実態より数か月遅れる。実際に逓信省MOCがCCSにJA4A, JA4Dのコールサインの指定変更を願い出たのは1947年1月17日の"Application concerning to THE AMENDMENT TO MASTER LIST OF FREQUENCIES ASSIGNED FOR USE BY THE JAPANESE GOVERNMENT"(逓信省LS第63号)である。

そして直ちに許可され、1947年2月20日付けで逓信省が作成した周波数リスト "Frequency List of Japanese Radio Stations, 20 Feb.1947, Ministry of Communications, Radio Bureau" や、コールサインリスト "Call-Sign List of Japanese Radio Stations, 20 Feb.1947, Ministry of Communications, Radio Bureau" には既に姫路や福知山が、JA3B, JA3Cでリストされている。この事例からもマスターリストの改訂発令は、実態よりかなり遅れていることが分かる。

しかしながら最終的には広島JA4BJA3Hに変更されて山陽線は下関駅を除いてJA3のコールサインとなった。また列車移動局は平時において下図の各駅に常置隣接駅と通信できるようにした。そして必要に応じて列車へ搭載する方法を採ることになった。

【参考】災害無線図, 交通技術1948年12月号, p30

    • 鉄道総局の災害無線局(1947年2月20日)

1947年2月20日付けで逓信省が発行した "Call-Sign List of Japanese Radio Stations, 20 Feb. 1947, Ministry of Communications, Radio Bureau" から鉄道総局の災害無線局を抜き出したものが下記である(但し千歳鉱山のJA8A, JA8Bも含めた)。雪害対策の無線局が降雪時期に合わせて、7エリア・8エリア・9エリアで一斉にJA局が開局した様子が見て取れる。なおこのリストには前述した東海道線の国府津で実験したJB9S, JB9K, JB9Lの3局は姿を消している。3月1日までの免許だったが、早く実験が終了し廃局したのだろうか。

  • 警察無線の実験局(JB9G, JB9H, JB9I)・・・天皇陛下のご警衛にも

1946年秋にGHQの勧告により設立された超短波移動無線協議会で、警察無線の近代化が討議され1946年12月に霞が関の警視庁(JPC3, 38.0/38.5MHz, 20W)と京浜国道を走行する車両(JPC4, 38.0MHz, 10W)間で通信実験が行われた。そして1947年には30MHz帯の無線機が複数メーカーにより試作された。

1947年(昭和22年)5月20日に逓信省は、警察無線の実験局として内務省の固定局JB9G(38.2/38.5MHz, FM, 30W)が、パトロールカー移動局のJB9H(38.5MHz, FM, 10W)と JB9I(38.2MHz, FM, 10W)の計3局をCCSに申請した。"Application concerning the test of police VHF equipment"(逓信省LS第102号)である。なお5月23日から30日には天皇陛下の大阪巡幸のご警衛にも使用され効果をあげたが、その時のコールサインは実用局用のJPE5(固定局), JPE6(パトカー1), JPE7(パトカー2)が使用された。

これら警察無線の近代化への流れは JZ Callsigns のページでまとめたのでそちらを参照されたい。

  • 誘導無線の歴史 1(日本放送協会の丹那トンネル中継から研究が始まる)

列車無線を世界で最初に実用化したのはドイツである。1925年(大正14年)にベルリン-ハンブルクの260km区間で、長波帯(60kHz/75kHz, 20W)誘導無線方式での試験がはじまり、1926年(大正15年)1月より公衆電報/電話接続サービスの営業に入った。同年5月には全ての急行列車に無線が導入された。アメリカでも第二次大戦終戦前後よりペンシルバニア鉄道、ミズーリパシフィック鉄道、アトランティックコースト鉄道などで採用されはじめたという。

国鉄の誘導無線 1935-36年 SSB方式>

1926年(大正15年)より始まった長波の空間波無線の実験では雑音が多く実用にならず、超短波帯が有力視された。その一方で誘導無線の研究は1935年(昭和10年)頃からで、国鉄電気局無線課の今里栄吉氏は次のように述べている(1950年時点)

『我が国においても昭和10年頃一時この研究に着手したのであるが、戦争により中断したまま当時の資料も失われてしまった。終戦後、列車運転の保安度及び能率の向上に鉄道無線の重要性が認識されるに従い、再びこの誘導式列車無線が取上げられ、現在もその完成に鋭意努力中である。』 (今里秀吉, 誘導式列車無線, OHM, 1950年2月号, p36, オーム社)

運輸省鉄道技術研究所第六部通信研究室の篠原泰氏の記事も引用する。周波数は80kHzのUSB波(80.4-82.2kHz)と120kHzのUSB波(120.4-122.2kHz)だった。

『ところで我国でも昭和10年頃一時この研究に着手したのであるが、戦争その他の事情で中止され最近鉄道無線の重要性が認識されるに従って再びこの装置が要望されるようになった。』 (篠原泰, 誘導式列車無線装置に就いて, 電波日本, 1948年第42巻4-5合併号)

『第5, 6図は昭和10年頃、日本電気で試作されたもので色々の障害で実用されなかった。これはSSB方式で周波数は80~122kcで、これも旅客サービス用として計画されたものである。空中線は15m位の長さの逆L空中線で消費電力は約50Wである。』 (篠原泰, 誘導鉄道通信装置の現状, 電波 Vol.2 No.2, 1948.7, 修教社, p48)

1936年(昭和11年)8月21日、誘導無線の第一回試験が逓信省・鉄道省により、御殿場線で実施された(国府津07:05発→沼津08:40着、沼津09:40発→国府津11:16着)。この通信試験を報道した東京日日新聞は以下のように記事を結んでいる。

『車上に設けたアンテナを利用し特殊装置により沿線の有線電話に結びつけて行うものであって各方面から非常な期待と注目が集められている』 ("列車無線電話 遅くも来春には東海道線で実施 けさ御殿場線で二回に亘り最初の非公式試験", 東京日日新聞, 1936.8.22)

日本放送協会の誘導無線 1934年11月 AM方式>

誘導無線の研究は1935年頃より始まったとされるが、実はその前年11月27-30日に日本放送協会が丹那トンネル開通を記念する無線中継放送を誘導無線で行った。日本放送協会自慢の放送自動車を無蓋貨車(チキ1000型)に乗せ、これを電気機関車(放送当日はEF52型)に引かせたのだ。 中波1490kHz、短波3.990MHzと、まだ開発して間もない超短波37.5MHzを使ったところ、トンネル内では3.99MHzや37.5MHzの強度変化が激しく、また減衰もひどいため放送に耐え得るものではなかったが、不思議なことに中波の1490kHzは送受信間の距離に関係なく感度が得られた。列車無線には超短波が最適と考え、その実験が始まった時期だけに予想外の結果だった。試しに受信所のアンテナを鉄道の通信線に平行にすると最大感度が得られ、誘導による伝播だと推測された。放送本番ではトンネル内から1490kHzで送り、受信所から三島駅経由にて有線中継線で東京に送った。

これは研究者の実験や試験ではない。誘導無線が初めて実用(ラジオの現地生中継)に供されたわけで、丹那トンネルは「実用誘導無線発祥の地」といって良いだろう。この中継放送は鉄道省の無線技術者へ誘導無線の大きなヒントを与えた。

初期の放送中継技術を開拓、NHK現業部長や養成所長を歴任し、戦後は「電波科学」編集長も務めた熊川厳氏がNHKのOBによる対談会を引用する。

鳥浦 そうそう。その直後昭和九年の暮に、放送自動車を使って丹那トンネル開通を中継している。これは放送自動車ができていたからやれたんだと思うんですが、その前に名古屋で、高山線の開通をやっているんです。これも昭和九年だから、丹那トンネルとほとんど同じですね。

熊川 丹那トンネルには堀場さんも行った。もとのNHK副会長の溝上さんなんかが、熱海で受信を担当していまして、私どもは送信のほうへ入ったわけです。

堀場 放送自動車を無蓋貨車に乗っけちゃって、ほかの汽車の尾っぽの方へ付けて入っていくわけですな。

熊川 初めは無線でやるつもりだったんです。ところが、やってみるとどうも具合が悪い。仕方がないから、通信線がトンネルの中に入っているんで、そいつに誘導させて、熱海口の出口近くに受信所を置いて、また誘導で取ったら、非常にうまくいったんですよ。』 (実況よもやま, 放送夜話, 1968, 日本放送協会, pp271-272)

  • 誘導無線の歴史 2(逓信省 国際電気通信施設部 技術研究所による研究)

国際電気通信株式会社ITCでは終戦直後(1945年秋)より誘導無線の研究を開始し、『周波数変調による誘導搬送式鉄道用通信機について(1)』 (田中儀一, 技術研究時報 第2巻第1号, 1946年1月, 国際電気通信株式会社)、『周波数変調による誘導搬送式鉄道用通信機について(2)』 (田中儀一, 技術研究時報 第2巻第3号, 1946年3月, 国際電気通信株式会社)で発表した。それにしても、国際電気通信ITCは海外との短波帯公衆通信施設などを独占する国策企業だが、その研究所が鉄道用誘導無線の研究を行っていたとは意外である。国際電気通信株式会社社史(1949年, 同社社史編さん委員会)より引用する。

『c) 車両通信用誘導無線電話

軌条に並行した通信線と車両、列車総合の通話に使用する誘導電話や電力線搬送電話に周波数変調を適用すれば有利であることに着目し、技術研究所の研究に基いて昭和22年から狛江工場で製作に着手し完成した。

通信距離 車両用 80km、電力線搬送 200km

周 波 数 100kc、250kc の2周波切替

変調方式 FMパックによる周波数変調

出 力 10W 』

国際電気通信ITCでは1940年(昭和15年)より自社の送信施設の短波送信機などを内製化する狛江工場を持っていた。ここで日本初の誘導無線機を完成させた(周波数100kc/250kc, 出力10W, FM変調)。狛江工場としては鉄道用誘導無線を、FM変調方式の実用化テーマのひとつと捉えたようである。しかし1947年3月25日、GHQ/SCAPより国際電気通信ITCの国有化(逓信省への吸収)が命じられ、1947年5月24日に逓信省へ事業引継ぎされた(狛江工場は国有化されず電元工業へ売却)。こうしてITCの解体により、列車無線(誘導無線)の研究部隊(技術研究所)は逓信省へ、設計部隊(狛江工場)は電元工業へと二分されてしまった。

逓信省国際電気通信施設部の技術研究所として再スタートを切っていた技術研究所無線課第13研究室の田中氏らは『鉄道車両用誘導電話の通信可能距離について』 (田中儀一ほか, 技術研究時報, 1947年12月, pp71-95, 逓信省国際電気通信施設部)にFM式誘導無線(FM-Inductive Radio)の研究論文を発表した(左図)。

誘導無線の原理を簡単に説明する。線路に沿って電柱で空中架線されている既存の保守用通信線を利用し、これに基地局から長波の電波を流し込む。この保守用通信線は基地局から離れた最終端において600オームで大地へ終端されている。

そして車両の長手方向へグルリと1周リボンを掛けたように巨大枠型ループアンテナを構成し(左図上)、通信線から発生する磁界と誘導結合させる。 この大型ループアンテナに誘起した長波の高周波電流は車内の無線機を経由させたあと、車輪付近に取付けた小型のループアンテナを線路に誘導結合させて大地へ戻す(左図下)。

なお車両から送信する場合には今述べたルートの逆をたどることになる。

このように逓信省に吸収された後もしばらくは研究が続けられたものの、(鉄道は逓信省の管轄外ということもあってか)技術研究所としての誘導無線の研究はフェードアウトしたようだ。

  • 誘導無線の歴史 3(鉄道総局の実験局JA2A, JA2B の承認却下の顛末)

鉄道総局による誘導無線の歴史は、1935年(昭和10年)頃に手掛けたものの戦争で中断し、1946年になって鉄道技術研究所の篠原泰氏らにより研究が再開された。CIE図書館が日比谷に開設され米国の電子技術(鉄道用誘導無線などの現状)が日本へも伝えられるようになったことや、FCCは1945年(昭和20年)12月、(アメリカでは)使用波長の1/6離れた地点の電界強度が15μV/m以下ならFCCの許可を要さないとの発表にも興味をひかれたことだろう。

鉄道総局の研究は国際電気通信ITCより1年弱遅れてのスタートだった。最初に行われたのは既存の保守用通信線の高周波特性の測定で1946年9月から11月に実施された。そして通信実験の準備にはいった。鉄道総局電気局の小田無線課長の記事から引用する。

『2.誘導式列車無線

本線上の列車に対し常に確実なる通信連絡をなすには誘導無線が適当である。本方式は列車走行中至る所で並行している架空通信線路を媒介として用いるため不断に通信を保ち得、又小電力で長距離の通信をしかも殆ど空間輻射なしで行い得るので超短波列車無線を凌いでいる。本方式については目下各種基礎測定を東海道本線で実施中で、周波数は未定であるが、150~250kcの間で変調は周波数変調、電力は5W程度、通信範囲100km程度の予定で、来年度当初迄には基礎測定を終り実施に移る予定である。・・・(略)・・・本方式は運行中の列車に対する各種指令の伝達又衝突その他事故防止に用い、さらに将来は公衆電話網と旅客無線との接続にまで発展させる計画である。』 (小田達太郎, 鉄道無線の諸問題と今後の動向, 電波日本, 第42巻第4-5号, p5, 1947)

同じページ内にまもなく東京-沼津間でVHF空間波による列車間の通信実験が行われるとの記述があり、これは1946年12月の実験(JB9K, JB9L, JB9S)であることから、この原稿は1946年11-12月頃に書かれたと考えられる。そして1947年春(新年度)に入ると記事での予告通りに誘導無線の実験が具体化した。

1947年5月16日、運輸省MOT(Ministry of Transport)の田中氏、鉄道総局の西村氏が、GHQ/SCAPの民間運輸局CTS通信課のM.Good氏を訪ねた。ちょうど誘導無線の基礎研究を行ってきた国際電気通信株式会社が、GHQ/SCAPの命令で解体され、逓信省MOCに吸収された時期であり、鉄道総局はこの組織統合を誘導無線のフィールドテストを逓信省に後押ししてもらう好機と捕らえ、まず先に自分達(運輸省)の監督局である民間運輸局CTSの理解を得ようとしたようだ(左図クリックで拡大)。1年前に日豊線への災害無線配備がCTSの賛同が得られず見送られたことがあったからだろう。

運輸省MOTと鉄道総局は "Application for Inductive Train Radio Test Equipment & Temporary Installation of Emergency Radio Equipment" を民間運輸局CTSに提出し説明した。これは誘導無線(Inductive Radio)の実験と、東海道線(大垣-浜松間)への災害無線(Emergency Radio)の設置という異なる種類の2本立てだった。残念ながらCTSの反応はあまりよろしくなかったようで、運輸省MOTおよび鉄道総局IJGRは誘導無線の実験申請だけに絞って逓信省MOCへ要請した。

1947年5月27日、運輸省MOTと鉄道総局から要請を受けた逓信省MOCは民間通信局CCSへ"Application for Test of Inductive Radio System"(逓信省LS108号)で誘導無線(50/100/150/200/250/300kHz, A3, 50W)だけを申請した。日本初の誘導無線実験局のコールサインはJA2A, JA2Bが選ばれた。実験場所が2エリア(静岡県の東海道線堀之内駅)だったからだ。2エリアといえば1年前に私鉄無線として三重県の近鉄名張駅JA2A、近鉄大和駅JA2Bが申請されたことがあったが却下されている。

(申請書:逓信省LS第108号)

(理由書,実験要綱) (機器仕様)

日本初の誘導無線実験局の申請なので、参考までに申請書とその添付書類を上に掲げておいた(クリックで拡大)。

【注】1947年に開催されたアトランティックシティ会議で「F3」という表記法が採択される前は、FM変調の電話であってもA3と表記していた。

しかし1947年6月4日、民間運輸局CTSから民間通信局CCSへ送付されたCheck Sheetの件名は"Application for Inductive Train Radio Test Equipment & Temporary Installation of Emergency Radio"(dated 16 May 47)となっていて、パラグラフ2では静岡県の堀之内(現:菊川)駅に誘導無線を、パラグラフ3では東海道線(大垣-浜松間)に災害無線を設置するものだった(左図:クリックで拡大)。

すなわち5月16日の会議でCTSがMOTと鉄道総局から相談された申請に関するもので、5月27日の逓信省MOCの申請に対するチェックシートではなかった。(私の手元には)左図だけで、これの添付資料を入手できておらず断言はできないが、とにかくCTSは承認に同意しない旨をCCSへ伝えたようだ。

1947年6月10日、CCSは逓信省MOCからの誘導無線実験局JA2A, JA2Bの申請(LS第108号)を承認しない(disapproved)とした(左図クリックで拡大)。そう判断が下されたのだから仕方ないが、よく見るとおかしな点がある。見やすいように以下に書き出してみた。

上半分が本体部分である。パラグラフ1にある逓信省LS第108号(5月27日)は、なぜか古い(5月16日の)誘導無線と災害無線の2本立てのものになっている。件名Subject が"Inductive Train Radio Test Equipment and Temporary Installation of Emergency Radio Equipment" になっているが、本当のLS第108号は誘導無線(青字部分)だけに限定した申請 "Inductive Train Radio System" のはずだ。

下半分のNFR(Note For Record)には決定経緯が記録される。NFRパラグラフ1ではやはり逓信省LS第108号(5月27日)の件名に5月16日のものが記されている。そしてNFRパラグラフ2は逓信省MOCの申請理由が、パラグラフ3は民間運輸局CTSの反対理由が、記録されているがこれらは古い5月16日の申請に対するものではないだろうか。

GENERAL HEADQUARTERS

SUPREME COMMANDER FOR THE ALLIED POWER

Civil Communications Section

APO 500

10 June 1947

MEMORANDUM FOR: The Ministry of Communications

THROUGH: Mr. Shirao

SUBJECT: Application for Inductive Train Radio Test Equipment and Temporary Installation of Emergency Radio Equipment.

1. Reference is made to Ministry of Communications' letter, file LS No. 108, dated 27 May 1947, subject: same as above.

2. The application submitted in the reference letter for inductive train radio test equipment and temporary installation of emergency radio equipment is disapproved.

TGEORGE I. BACK

Brigadier General, Signal Corps

Cief, Civil Communications Section

NFR:

1. Reference is made to Ministry of Communications' letter, file LS No. 108, dated 27 May 1947, subject: Application for Inductive Train Radio Test Equipment and Temporary Installation of Emergency Radio Equipment.

2. In order to raise the operational efficient and security or railroad transportation, the Ministry of Communications feels that quick and reliable radio communication between fixed and mobile station a necessity.

3. Mr. M. Good, Chief, Signal Branch, CTS-R disapproves the application because of critical material shortrange and economical operations in practice on IJGR. Mr. R. D. Parker of Research and Development Division concurs.

4. Direct communication with the Ministry of Communications authorized by SCAPIN-1166.

民間運輸局CTSは、5月27日に逓信省MOCが誘導無線だけに限定して申請を出したことを知らずに、(5月16日の誘導無線と災害無線のままのつもりで)承認反対のチェックリストをCCSに送ったのではないか?そしてそのまま民間通信局CCSは不承認の判断を下したかも知れない。もっとも誘導無線に限定ならCTSが賛同してくれたかといえば、それはわからない。

  • 誘導無線の歴史 4(国際電気が国鉄の誘導無線を試作。そして小田急線内で実験)

JA2A, JA2Bの申請が却下され、保守用通信線とレールのインピーダンス測定に終始したが、基礎データだけは着々と集まった。

『昭和23年末には線路常数測定のデータからFM方式誘導無線機の設計資料を得、国際電気により試作が行われた。』 (国鉄 鉄道技術研究所 五十年史, 1957, 国鉄鉄道技術研究所五十年史刊行委員会)

国鉄鉄道技研の五十年史には上記のようにあるが、実際には測定と試作は同時並行で行われたようだ。鉄道技研第六部通信研究室の篠原泰が昭和23年春頃に次のような記事を書かれている。

『誘導列車通信装置は・・・(略)・・・架空通信線の問題、列車空中線の問題、送受信機の機構等の問題があるが、架空空中線並びに列車空中線に就いては現在迄調査したところを纏めて「誘導列車無線中間報告第一回」(鉄道技術研究所第6部)として報告してあるので興味を持たれた方は之を読んで戴く事として、今回は送受信機の機構を主として述べてみたいと思う。・・・(略)・・・

(5)国際電気通信試作機

国際では一昨年研究に着手して最近試作品を完成した。之は第9図の様な装置で電気的性能は次の通り。

使用周波数: 175kc 及び 250kc

送信出力: 15W~20W

変調方式: FM(国際電気考案のFMパック使用)

周波数偏移: 最大5kc (変調周波数 300c~3kc)

受信機感度: 1mV以上

受信機帯域幅:±15kc

受信機高周波利得: 約90db

受信機出力: 約3W

空中線: 65 x 55cm 28回 loop antenna

之の装置は室内実験で一応成功しているが屋外に於ける実用試験は現在種々の問題で実験できないので今後の問題である。之等の実験が行われれば我々としては000種々の新しい事を教えられる事と思う。・・・(略)・・・最後に当研究所主任関秀男博士並びに運輸省電気局無線課小田達太郎課長の日常の御指導に対して感謝する次第である。』 (篠原泰, 誘導鉄道通信装置の現状, 電波, 1948.7, 修教社, pp45-52)

この記事から運輸省鉄道総局の誘導無線機の試作を引き受けた「国際電気」がそれを完成させたのは1948年春頃と想像できるが、実験局JA2A, JA2Bの申請が却下されたため屋内実験しかできない状況だった。ここで「国際電気」について少し補足しておく。

GHQ/SCAPの命令により1947年5月24日、国際電気通信ITC(現:KDDI)は逓信省に吸収国有化された。(国有化目的に合わない)大型送信機の製造部門の狛江工場はITC清算会社により売却先を探していたが難航していた。そこへ高周波機器分野への進出を狙っていた電元工業(現:新電元)より引き受けの申し入れがあって、ようやく売却清算が完了できたのは1948年5月20日だった。こうしてこの記事が掲載された頃には、鉄道総局の誘導無線の試作機を作った国際電気通信ITC狛江工場は電元工業狛江工場になっていた。

しかし1949年になるや、電元工業狛江工場は無線機設計製造の専門会社「国際電気株式会社」として分離独立した。終戦直後から国際電気通信ITCの研究所と、鉄道総局の研究所で研究された誘導無線開発が、新会社「国際電気」に引継がれた。のちに阪神電鉄に日本初の誘導無線システムを納入したのもこの国際電気である。

1950年初頭、今里氏(国鉄電気局無線課)は誘導無線の試作機は出来たが、まだ実地試験には至っていないと述べている。

『・・・現在その完成に鋭意努力中である。現在までの所、未だ基礎的実験の域を出ておらず、実用試験のデータを発表する迄には行かないので、誘導式列車無線の概観を述べることにする。』 (今里栄吉, 誘導式列車無線, OHM, 1950年2月, p108, オーム社)

国際電気製の試作機は周波数175kHz/250kHz, FM変調(最大周波数偏移10kHz)、出力10-15W(終段807プッシュプル)で、受信部は中間周波数110kHz, 中間周波数帯域幅±12kHzのスーパーヘテロダイン方式だった。

それから半年後に、今里氏は再び誘導無線の記事を書いている。今度は、小田急線を借用して実地試験を行ったことを明かした(なお国鉄線内では未実施)。

『本装置の通話試験は本線では未だ行っていないが、小田急南新宿-新原町田(現:町田)間約30kmにて通話試験を行った結果によれば、軌條、通信線間の平均距離約10mで雑音も殆んどなく、充分に実用に供せられる事が実証され、又空中線は水平アンテナでも、ループアンテナでも大した差異はない事が判った。』 (今里栄吉, 誘導式列車無線について, 交通技術, 1950年9月, p15, 交通協会)

この小田急線でのフィールドテストが我国初の誘導無線(列車無線)の実地走行試験である。実施時期が明らかではないのが残念だが、一つの仮説としては、1950年6月に電波法および関係規則が施行された直後かもしれない。新しい無線規則の施行で、規定の輻射レベル以下であれば、民間通信局CCS(および電波監理委員会RRC)の免許を要しない無線局として使用できたからである。

しかし(国鉄本線ではなく)なぜ小田急線で実施したかの疑問は残る。何かにつけ国鉄に口うるさく介入していた民間運輸局CTS様のご指導を、回避あるいは和らげるためだろうか?あるいは小田急線では1947年(昭和22年)に車両-通信線間の誘導結合に関する基礎的な(戦後初の)測定実験が行われたことがあり、それが関係しているのだろうか?

『・・・昭和22年旧東京急行時代、小田原線において電鉄初の誘導式車両無線の実験が行われ、通信線より電車への誘導作用によって通話が確保される事実から、・・・』 (笠原義平, 京王帝都電鉄の誘導式無線電話装置1, 鉄道通信, 1955年11月号, p9)

ちなみに列車無線(誘導無線)のことは占領下だったからか?英語で「インダクティブ・ラジオ」(Inductive Radio)と呼ばれていた。市民ラジオやラジオカーなどカタカナがもてはやされた時代だ。1950年2月号のCQ ham radio誌が『列車通信のホープ Inductive Radio』と題し、ある通信機会社のエンジニアとアマチュア生の対話形式でこの最新技術を伝えた。

CQ誌に取上げられたのが1950年2月号であることから、1950年の早々にもCCSの了解を得て小田急線での実験が行われた可能性も考えられる。

  • 誘導無線の歴史 5 (誘導無線の実用化とその後)

1950年6月に電波法とその関係規則が施行され、誘導無線は規定内の電界強度を順守さえすれば免許を要しないものとなり、コールサインは指定されないが、まぼろしのJA2A, JA2Bのその後に触れておく。

【参考】電波法施行規則第44條、無線設備規則第61條により、固定局から500m離れ、かつ通信線からλ/2πの距離で電界強度が15μV/m以下なら無許可、200μV/m以下なら誘導無線として許可された。

誘導無線の基礎研究は1950年2月頃までで一応終了し、実用化テストの準備が進められた。もともと線路沿いの通信線は誘導無線の計画以前からあったもので、線路との距離が一定ではなく、近いところでは3mから遠いところでは300m近く離れることがあり、誘導結合度が大きく変化するという問題があった。さらに非電化区間においては約100kmの通信が可能だったが、電化区間では動力機のノイズやトロリー線とパンタグラフの接点で発生する火花ノイズなど解決すべき課題も多く、国鉄鉄道技術研究所では(狭帯域化でノイズ低減を狙った)単側波帯のSSB式誘導無線の研究も始まり、FM方式との比較実験も検討された。

前掲の鉄道技術研究所五十年史によれば、国際電気製の試作機は1950年末に改修が施され、ついに1951年3月23日から31日まで静岡-浜松-名古屋間(186km)で通話試験が行われた。担当したのは国鉄信号通信局無線課と静岡通信区の係員だった。静岡と浜松の固定局(4W)と列車移動局(20W)でテストされた。「新電気」より引用する。

◆ "静岡-名古屋間で走る列車からモシモシ"

"誘導式列車無線インダクティブ・カー・ラジオの実験"

『去る3月31日に、静岡と名古屋間で誘導式列車無線の最終総合試験が行われた。静岡を7時19分に発射した普通列車の最後尾の試験車両内では、国鉄信号局無線課の吉川技官を初め、多数の技術者が真剣に部署についた。座席に設置された送受信機にスイッチが入る。"こちらは列車移動局、こちらは列車移動局。只今静岡停車中。感度明瞭度いかが…" "こちらは用宗固定局、こちらは用宗固定局。感度、明瞭度よし" とただちに試験が始まる。傍らでメーターをみるもの、測定器をニラムもの…列車は静かに動きだした。』 (新電気, 1951年5月号, オーム社)

1951年8月に鉄道技術研究所で内製されたSSB式誘導無線機は、1951年11月に大阪管内でテストが実施され100km程度の通話が確保できることが明らかとなった(篠原ほか, "大阪鉄道管理局管内における誘導無線用通信線試験報告", 1952.3)

『27年(1952年)9月には国鉄80周年記念行事として東海道線、高崎線、鹿児島本線において列車無線公開試験を行い好評を得た。28年(1953年)度末にはSSB方式誘導無線機を国際電気において試作し、装置としてほぼ完成の域に達した。しかし当時はまだ時期尚早のゆえをもって実用化に至らず、私鉄に於いてこれが実用化される状態であった。』 (国鉄 鉄道技術研究所 五十年史, 1957)

1954年(昭和29年)8月に、阪神電気鉄道株式会社が最新鋭3011型車両に国際電気製誘導無線装置を装備したのが我国の実用システム第一号となった。翌9月から3011型による営業運転が始まったが、阪神電鉄の誘導無線は運転指令その他事故時の連絡用に施設されたものだった(車内放送のスピーカーにも接続して流せるようになっていた)。 また業務用と乗客サービス(公衆電話)を兼ねた誘導無線としてなら、1957年(昭和32年)10月の近鉄特急(大阪-名古屋間)への導入が最初である。

京王帝都電鉄では1951年(昭和26年)より国際電気との共同開発プロジェクトが立ち上がり、1953年6月より実地試験が始まった。その後も継続的に新宿局(155kHz, 5W)と東八王子局(195kHz, 5W)による実験が行われ、1955年(昭和30年)5月に新高幡変電所(32okHz, 8W)-北野変電所(280kHz, 8W)間の事故警報連絡用として実用化された。音声通話回線(0.3-2.3kHz)に、重故障(3.3kHz)・軽故障(3.7kHz)・運転表示(4.1kHz)の3種類のトーンを選択重畳できて、受信側ではこれをBPFで分離して警告ランプやブザーを鳴らすシステムだった。

1956年(昭和31年)10月に国鉄が丹那トンネル(当時日本第二位の鉄道トンネルで全長7.8km)の入口から154.69MHz, 10Wの電波を3エレメント八木アンテナで発射し、4両編成の試験車両で受信測定し、あらためてトンネル内では空間波が適さないことが確かめられた。ここ丹那トンネルは1935年(昭和9年)11月、日本放送協会が誘導無線の可能性を発見した「誘導無線の聖地」である。

大阪市営地下鉄では国際電気と地下鉄用誘導無線の研究に着手し、1957年9月より第一次走行実験が始まったが、トンネル内の誘導無線はのちに炭坑の落盤事故などからの安全確保のための「坑道無線」に派生するに至った。

鉄道以外への応用として、経営技術(誘導無線方式の開発, 1961年3月号, p42)に次のような記述が見られるので引用しておく。

『国際会議場で使う無線式翻訳装置。日本ではこのほど、わが国初の全無線式装置を完成、今春早々完工した東商ビルの国際会議場に据付け中である。これは全部で八チャンネル(八ヶ国語に翻訳できる)の広周波数帯域を使った多重通信装置の一種だが、引き続き一チャンネルの劇場用翻訳装置も作った。・・・略・・・またこれとほぼ同じ装置で、社内呼び出し用の「ウエーブ・ホーン」も完成。近く同社三田事業所内に設置して実験使用するという。』 ここでいう同社とは日本電気で、小型受信機を携行すれば、病院内の医師や看護婦への連絡(場内スピーカーで大声で放送せずに済む)とか、博物館見学者への展示物解説用などが想定された。

また1955年(昭和30年)春に国際電気の町田辰次郎社長と経済同友会のメンバーが国鉄副総裁へ持ち掛けた「誘導無線放送」構想も注目に値する。東京新聞で取り上げられた。2億円を投じて山手線に誘導無線方式によるラジオ局(交通文化放送)を建設し、乗客への広告放送を収入源とする他、国鉄の業務通信用としても使ってもらおうという斬新な発想だったが実現しなかった。

  • 誘導無線の歴史 6(なぜ国鉄は誘導無線を採用しなかったのか)

戦前の鉄道省時代から誘導無線の研究に着手し、さらに終戦後まもなく鉄道総局が研究を再開し試作機まで完成させていたのに、最終段階まで来て導入しなかった理由は何だったのだろうか。この大きな謎の答えを鉄道技術研究所五十年史から引用して、列車無線(誘導無線)の話題を締めくくる。なお年号はすべて昭和である。

『SSB方式無線機の試作完了を機として、29年度より列車無線の研究は方向転換し、国鉄送電線保守用通信線を廃し、その代り送電線を利用した誘導無線を実用化することにより経費の莫大な節減をはかろうとする計画が本社で立てられ、これに応じてその基礎測定を開始し、30年度三島、湯河原間の無線設備設計の資料を作成し、東京電気工事事務所の工事により完成。31年には新鶴見-長津田間の無線設備が完成し、今後、既設の通信線は順次無線に置換えられることになっている。』 つまり国鉄では線路に沿って架線されていた保守用通信線を廃止し無線化することで、経費削減を目指すことになった。通信線からの電磁誘導を想定してきた誘導無線なので、これは大きな計画変更だった。

逆風はそれだけでは済まなかった。既設の通信線を(電磁漏えいする)裸線から、(電磁漏えいしない)同軸ケーブルに置き換えられることになり、誘導無線は窮地に立たされた。引用を続ける。

『31年度に入りようやく列車無線の実用化が具体化され始めたが、裸通信線を利用する誘導無線が、通信線のケーブル化ないしマイクロウエーブ無線化という趨勢に逆行するという主な理由のため、列車無線はVHFによるとの方針に変わり、誘導無線は国鉄から置き去られた形となった。』 (今里英吉, 国鉄 鉄道技術研究所五十年史, 1957, 国鉄鉄道技術研究所五十年史刊行委員会, p424 )

誘導無線の進化系として、1961年に八高線箱ヶ崎付近の1km区間でマイクロ波の漏洩導波管方式や、足尾線の4km区間でレールの間に並行2線を敷設し密結合誘導無線方式が試されたが実用化には至らず、1956年6月より東京-神戸間での試験を経て、1960年より同線のビジネス特急に導入された空間波無線方式や、1967年に東海道新幹線の音羽山トンネルで初実験に成功したLCX(漏洩同軸ケーブル)方式へ完全に軸足が移ってしまった。

しかし国鉄で全く誘導無線が無視されたわけではない。横川-熊平間(155kc/220kc, F3, 10W)、熊平-軽井沢間(170kc/235kc, F3, 10W)に古くからのパートナー国際電気の誘導無線が導入されている。

『信越線の横川~軽井沢間は従来のアブト式に代わり超急勾配の新線工事が8月1日開通を目標に工事が進められています。この超急勾配区間は特殊の電気機関車62型、63型の強調運転を行うことになり、62型~63型の相互連絡および63型~駅(横川, 軽井沢)の相互連絡が運転上必要となり、この区間に誘導無線装置が列車無線設備として設備されることになったものであります。以下国際電気株式会社にて製作された信越線用誘導無線電話装置の概要をご紹介します。』 (国際電気株式会社, 信越線用誘導無線電話装置, JREA, 1961年11月号, p2771, 日本鉄道技術研究会)

    • 京都や和歌山に一時移設されたJA3D, JA3E, JA3F, JA3G

1947年6月4日、逓信省MOCは"The temporary use of Railroad Emergency Portable Radio for guarding and controlling the Emperor's Exclusive Train" で和歌山を巡幸される天皇陛下のお召列車の警護用として山陽線に配備していた無線機(JA3D-G)を一時移設するることを願い出た。

1947年6月6日、CCSは"Activation of Emergency Railroad Radio Stations" でこれを承認した。

  • 京都帝国大学の地震観測用の実験局(JA3X)

ちょっと変わったところでは、地震観測データを送信する実験局JA3X(阿武山, 2000kHz, A3, 50W)が、1947年7月1日のマスターリスト改定版に追加局としてリストされた。これは1947年6月19日、MOCが"Application of Use of Radio Wave for Seismic Research"(逓信省LS第119号)で申請した実験局である。逓信事業史・続第6巻(1957, p409)より引用する。

『京阪地方では昭和二一年七月に南海大地震があり、その後しばしば局地的地震もあったので、その地震対策委員会が設けられた。このとき、京都帝国大学はその一員となって大地震の予知に関する研究を行うことになり、大阪府高槻市の阿武山に地震研究所、京阪方面数ヵ所に地震観測所を設けた。そして同大学は、二二年七月一七日、阿武山にA2、A3、二〇〇〇キロサイクル、五〇ワットの一方送信同報用の固定局を開設し、各観測所に受信設備を設置した。これは地震波測定記録のためのタイムマークの送信およびこれに関する指示を行うものである。』(左写真) なお当時、JA3のコールサインはJA3Oまで発給されていたが、京都大学にはジャンプしてJA3Xが免許された。その理由は解らない。

  • 商工省の地質調査用の海上移動局(JA9O, JA9P, JA9Q)

さらに変わり種のJA9局が免許された。逓信事業史・続第6巻(1957, p315)より引用する。

『昭和二二年一一月、当時の商工省が地震探鉱法による海底の地質調査のため、福岡市から100海里以内の海面において通信連絡用・時刻測定用として、A3 2000キロサイクル、三ワットの可搬局二局を開設した。その後、商工省が廃止され、通商産業省の外局として工業技術院が設けられたが、これが地質調査を所掌するようになったので、無線局もこれに引き継がれた。』

逓信省MOCが1947年9月5日、"Application Concerning to Establishment of Radio Facilities for Seismic Prospecting"(逓信省LS第163号)でCCSへ申請したもので、1947年11月6日に"Application for Radio Station for Use in Seismic Prospecting of Coal Deposits"(CCS/DR第40号)で承認を受けた。

この海上移動局は常置場所を東京の本省(商工省)としたためコールサインは9エリア(関東信越)だった。前述した鉄道無線の長野統制局所属の列車無線局のコールサイン JA9I-JA9N に後続するJA9O, JA9P, JA9Q として3局が免許された。

しかし運用場所が福岡県沖だったため、GHQ/SCAPのレジストリー番号は6004S で、60:福岡県で認可された無線局になっている。

  • 天皇陛下の石川県巡幸の警護用に JA2A, JA2B, JA2C, JA2D

私鉄無線(災害無線)のJA2A, JA2B, JA2C, JA2D, JA2E は1946年8月29日に申請され、同年9月9日に却下された。そして列車無線(誘導無線)のJA2A, JA2B は1947年5月27日に申請し、6月10日に却下された。

1947年10月11日、逓信省MOCは"Application for the Temporary Use of V.H.F. Mobile Radio Telephone"(逓信省LS第191号)で3度目のJA2コールサインを申請した。目的は北陸地方を巡幸される天皇陛下の警護用である。

FM変調方式の31.5/33.5MHzで、20W固定局としてJA2A(石川)、JA2B(七尾)、JA2C(小松)、10Wパトカー移動局としてJA2D(石川)だった。使用期間は10月20日から11月5日で東洋通信機製の無線機を使うとしている。

私はこの申請(逓信省LS第191号)に対する民間通信局CCSの承認書を確認できていないが、天皇巡幸用ということもあるし、また半月間ほどの短期なので、今度こそJA2コールが誕生したと思いたいが今の時点では断定できない。

  • 時事通信社のVHFファクシミリ放送 JA9R

1948年6月18日、逓信省MOCは"Experiment of the Tele-facsimile by VHF, FM System"(逓信省LS第335号)で、時事通信社(東京都千代田区日比谷公園2, 市政会館)のJA9R、周波数43.0MHz、出力20WのFM(占有帯域幅30kHz)を申請した。これが1948年8月13日にCCS/DR第144号で承認(SCAP Reg. No.1754S)されたのを受けて、MOCは8月26日に時事通信社へ許可を出した。この実験の概要を時事通信社の社史本から引用する。

『わが社はFM超短波の実験を計画し、しかも、これにたいして二十三年八月二十六日に許可があった。全く異例のことで、当時の連絡局長安達鶴太郎をはじめ関係者の努力が実ったのであるが、このほかに逓信省電波局の理解と、GHQ民間通信課のウイリアム・T・カワイの支援があったのを忘れてはならない。実験は二十三年八月三十一日から同年十月十六日までの間行われた。送信機を市政会館六階に固定し、受信機を都内を持ち回って実験した。実験には社外から、超短波関係には東洋通信機株式会社 栗橋工場 機械課長 富岡正春ほか数名、ファクシミリ関係は同盟電機製作所 取締役 杉山友勝、同 佐藤泰ほか数名が参加した。実験の結果、一応実用可能の見通しを得たので、二十四年四月十四日付けで「超短波ファックス放送事業に対する許可申請」を逓信大臣にだした。この計画は、東京、大阪で超短波でファックス同報を始めようとするものであり、また声も将来多重通信で送りたいといっている。この申請は、書類を握りつぶされた格好で終わった。』(建業十有五年, pp339-340, 1960, 時事通信社)

まだ民放ラジオ放送も許可にならない時代なので、いきなりファクシミリ放送といっても無理だったようだ。なお余談だが、引用文に登場するCCSのカワイ氏はアマチュア無線家 J2MNB (1949年1月からは新コール JA2BE)でもある。カワイ氏は鉄道無線や後には30MHz帯FM警察無線の導入に尽力された。

逓信事業史・続第6巻(1957, pp271-271)から引用する。

『時事通信社が提供するニュースは経済文化関係を主としているが、通常、同社から各新聞社や放送局に販売し、その新聞紙や放送を通じて一般に報道される。ところが、とくに経済関係のニュースについては新聞紙などを通ずることなく直接提供されることと、時々刻々の変化が報道されることを希望する向きがあるので、同社は需要者に対しこのニュースを直接販売することも計画した。その方法は、送信設備を本社または支社に置き、同社がその受信機を顧客のもとに設置してこれに同時通報を行う無線同報よるものである。そして、受信したニュースは顧客に直接読ませるものであるから、モールス通信によることは不適当であり、ファクシミリによることとした。まず昭和23年夏東京都内において、ヘルシュライバー方式による実験を行い、・・・(後略)・・・』

この他短波帯を使った同報無線サービスは1948年3月31日に時事通信社からMOCへ申請され、CCSの承認が得られたので、MOCは1948年10月19日に許可を出した。そして1949年11月1日より検見川送信所から送信を開始した。

  • BCJの放送現場で活躍したJA9S, JA9T

9エリア(関東信越)のJA局は鉄道無線にJA9AからJA9Nが与えられたのが始まりで、その後ろに商工省の海上移動局JA9O, JA9P, JA9Q が続いた。そしてJA9Rが時事通信社に、JA9S, JA9T がBCJ(日本放送協会)に許可されたのである。

1948年になってFM方式による中継装置の研究制限が解除され、BCJでは現場取材用の40MHz帯の装置を試作した。JA9S, JA9T の記事を、ラジオ年鑑(昭和23年版, 日本放送協会, p225)より引用する。

『周波数変調方式による超短波通信は音質のよいこと、電波が一定値以上ならば外部雑音の混入を防ぎ得ること、送信装置が手軽なものになる事の利点があり、スタジオ外中継の場合にも有効に利用し得られる。この目的のため当所(技術研究所)では中距離用及び近距離用の二種を試作し一躍実用に供し得るものを完成したが、更に改善研究を進めている。その出力は四五メガサイクルで前者は一五ワット、後者は十〇ミリワット程度である。』

1948年4月15日、逓信省MOCは"Experiment for Relay Broadcasting by Portable Radio Set on FM System, VHF"(逓信省LS第298号)でポータブル型と可搬据え置き型を民間通信局CCSへ申請した。

1948年5月24日、民間通信局CCSは"Experimental Use of Portable Low Power Frequency Modulated Program Relay Transmitter"(CCS/DR第109号)でSCAP Reg. No.1763S のJA9S(45.0MHz, FM-Maximum band-width 80kHz, 10mW, ポータブル型)と、SCAP Reg.No.1764S のJA9T(44.5MHz, FM-Maximum band-width 150kHz, 15W, 可搬据え置き型)を同年11月15日までの期限で承認した。

JA9S/JA9Tの移動範囲は関東地方に限定しての承認だったが、1948年8月3日に"Application for Changing Area of Experimental Use of Portable Low Power Frequency Modulated Program Relay Transmitter"(逓信省LS第386号)でJA9Sの移動範囲を全国一円に変更する申請がなされ、同年8月10日、CCSより"Use of Portable Low Power Frequency Modulated Program Relay Transmitter by the Broadcasting Corporation of Japan"(CCS/DR第137号)で変更が認められた。一方JA9T は関東エリアのままだった。

上図がポータブルセットのJA9Sである。上図[左]は送信機を横から見た概観、上図[中]はこれを背負った状態(重量4.54kg)。4段の伸縮式ロッドアンテナは最長120cmだった。

  • JA9T, JX9M, JO9M の連係プレーによる富士山頂からの生中継

JA9Tの活躍を電波彙報(萩原洋一, 富士山頂―東京放送会館間 並びに 油壺における周波数変調方式による無線中継放送について, 『電波彙報』昭和23年9月号, pp33-40, 逓信省)より引用する。

『去る七月十六日、富士山頂から最初の周波数変調方式による無線中継放送を行った。・・・中略・・・富士山頂から放送会館まではFM 44.5Mc(JA9T)であるが、会館から打合用に使うために予定したFM 45Mc(JX9M)が、世田谷区砧村の当協会技術研究所の固定実験施設であるために、会館と技研の間はPTM(Pulse Time Modulation)260Mc(JO9M)を使用し、技研―富士山間に前記FM 45Mcを打合せ回線とした。』

1948年7月16日、JA9, JX9, JO9 という3種類のプリフィクスの実験局の連携プレーによって、富士山からラジオ生中継が行われた報告だが、これは3つのプリフィクスの実験局が同時に登場するという点では非常にめずらしい記事だ。

富士山頂からのアナウンサーの声はJA9T(44.5MHz)で東京日比谷の放送会館へ飛ばしてきて、それがラジオで生放送される。また放送会館から山頂のアナウンサーに指令を出すのに使おうとしたJX9M(45MHz)の免許が技研の固定施設(固定局)だったので、放送会館に持ってくることができず、放送会館からJO9M(260MHz)で技研へ指令を送り、それを技研で中継してJX9Mで富士山へ送るというものだった。

このJX9Mはもともと1946年(昭和21年)8月29日に免許されたJ9ZMで、1947年2月にJX9Mに変わった。当初はA1免許だったが1947年7月に電波型式をF3に変更することが認められている。JX9Mは、将来のVHF帯でのFMラジオ放送の開始を想定して、電波伝播実験に用いられた。ラジオ年鑑(4.FM放送, 昭和24年, p202, 日本放送協会)より引用する。

『45Mc, 300Wの電波を研究所100mの鉄塔から発射し、東京都内において受信試験を行い、地形の影響・建物の影響を測定し、また、繁華街の雑音量、信号対雑音比の測定を行った。なお、実験用としての100Mc・1kWの送信機の試作研究の準備を開始した。』

放送におけるFM電波の利用は、このようにスタジオ外中継用(移動局)の実験局として始まった。固定局間での利用は1950年(昭和25年)に北海道で始まった。ラジオ年鑑(昭和25年のトピックス FM方式の実用状況, 『ラジオ年鑑』昭和25年, p36, 日本放送協会)より引用する。

『固定地間の放送中継に最初に利用されたのは、北見放送局であった。北見放送局は演奏所、放送所間の連絡線が1回線だけであるので、放送番組中継用に25年4月設置されたもので、終日番組の中継に使用している。その後、25年12月に施設の全面改修を行った。その概略は、送信機2台、周波数56.6Mc(JKU-24)、59.68Mc(JKU-25)、空中線電力50W、最大周波数偏移±75kc、受信機 スーパーヘテロダイン式である。』 旧5m 国際アマチュアバンド(56-60MHz)の移転跡地が使われた。

  • JA9Tの広域電波伝播試験

JA9T(44.5MHz, 15W)はFM変調方式による番組中継を目的としたもので、小型で可搬式だった。1948年7月16日の富士山からの中継の際に、この電波をBCJ大阪放送局JOBKが生駒山で10~15μV/mの強さでキャッチしていた。これが動機となり、VHF波の伝播特性をもう少し詳しく把握するために、再び富士山からJA9Tの電波が発射された。

『試作FM送信機(周波数44.5Mc 出力15W)を利用して昭和23年7月16日、富士山頂と銀座街頭との間で、二元放送を行い好評を得たが、同時に大阪生駒山でこの実況放送を受信した。この受信成績より、今後の中継放送の企画には各地の電波伝播状況を調べて置く必要があり、研究所としてはこの種の研究実験が最も必要と感じたので、同年8月10日より14日までの間、同じく富士山頂において上記FM送信機より発射した電波を次の四地方(大阪名古屋方面、長野松本方面、能登金沢方面および佐渡新潟方面)で受信し、その電界強度を測定した。周波数44.5Mc、出力15WのFM送信機で、その呼出符号はJA9T、・・・(略)・・・送信空中線は長さ二分の一波長、folded空中線を使用・・・(略)・・・頂上付近には適当な設置場所がなく、やむを得ず観測所の屋上に二方向の空中線を設置したが、水平でなくまた屋根の鉄板との距離も近く、電波の輻射は相当複雑なか形でなされていると思われる。給電線は平行二線式で波動インピーダンス350Ωである。』 (三木七郎, 富士山頂よりの電波伝播試験, 『NHK技術研究』1949年5月号, 日本放送出版協会, p27)

受信機は高周波増幅付きのスーパーヘテロダイン式で、各受信地点は半波長ダイポールを使った。

『(d)電波発射要領 8月10日から14日までの間、毎日午前6時より午後7時まで(夏時間)、東京の45Mc、300W、FM送信機(砧研究所のJX9M)と連絡を取りながらFM電波を発射し、S/N測定の為には1000サイクル変調と無変調を適宜繰り返して送信した。』 (三木七郎, 前傾書1949年5月号, p28)

西方向の試験結果だが、富士山より距離165kmの名古屋市水道局配水等(30m高)の見晴らし台で4~5μV/m、同じく距離290kmの生駒山頂奈良県側傾斜地(山頂より20m下)で4~6μV/mだった。

北西方向は、金沢市卯辰山公園の木立、七尾市和倉町小学校裏の墓地の両地点は不感、富山県入善町大建産業株式会社の工場の用水やぐらだで0.5~1μV/mで受かった。

北北西方向は、富士山より105km離れた峯の茶屋(塩尻)で495μV/m、距離120kmのBCJ松本放送局の放送用鉄塔(55m高)で65μV/m、距離125kmの新村役場の火の見木塔(14m高)だった。距離が近いこともあり問題はなかった。

北方向は、富士山より距離228kmの新潟県荒浜(柏崎北東)の正明寺で1μV/m、距離285kmのBCJ新潟放送局の鉄塔(60m高)では不感、佐渡女神山頂にある超短波多重中継所は海抜596mでここからさらに20m高の位置に受信アンテナを置いたためか、辛うじて受信できた(0.1μV/m)。

JA9Tによる広域電波伝播試験により、富士山頂は西方向の中継は良好だが、日本海方面には不向きであると結論付けられた。

なおこの試験はBCJ技術研究所の村上氏が電気通信学会での発表でも簡単に触れられている。

『我々の理論公式の正しさを裏付ける意味で次の三組の実験結果と比較しよう。・・・(中略)・・・第二に我々が富士山頂(h1=3779m)から44.5McのFM電波を発射し(W=10W)、これを新潟、金沢および名古屋を中心としてそれぞれ数地点で受信実験を行った結果である。』 (村上一郎, 山陰への超短波及び極超短波の廻折について, 『電気通信学会雑誌 第33巻-12号, 昭和25年12月, p70)

  • 旧JAコール・JBコールの実験局の終焉

JAプリフィックスやJBプリフィックスの実験局形式(国籍+数字+文字)のコールサインは1949年1月1日をもって他へ指定変更になった。その理由は1948年9月2日に申請されて9月15日に承認された我国のコールサインの指定基準 "Call Sign Allocation Standard" でJAシリーズとJBシリーズは国際通信用となり、さらに実験局形式のコールサインはJAが(国際通信もできる)アマチュア局、JBが国際通信をする実験局に決まったからだ。(Allocation Std を参照)

1946年よりJAとJBの実験局形式のコールサインを使用していた無線局のうち、千歳鉱山と鉄道無線の105局は実験局としては認められないことになった。したがって単にプリフィックスがJA/JB以外に変わるだけでなく、通常の無線局形式(国籍+数字)のものに指定変更された。千歳鉱山のJA8AJA8Bは私設無線局(私企業)用のJKシリーズ(JKY20, JKY21)に、そして鉄道無線は鉄道用のJRシリーズになったのである。

1949年1月1日のコールサイン変更の日をまたぎ、かつ実験局として認められなかった無線局は下表の105局である。

なお京都大学のJA3X、商工省のJA9O, JA9P, JA9Q、日本放送協会のJA9S は実験局として認められて、新JGシリーズや新JJシリーズの実験局形式(国籍+数字+文字)が指定された。ただし同時にDistrict Numberも振りなおされたので、京都大学JA3X には JG4A が、商工省JA9O, JA9P, JA9Q にはJG7A, JG7B, JG7C が、日本放送協会のJA9S にはJJ2D が指定された。また日本放送協会のJA9TJJ2Cに変更しようとした可能性があるが、CCSが承認したという記録は見当たらない。

警察無線の実験局JB9G, JB9H, JB9I、時事通信社のJA9R、国鉄のJA2A, JA2B は1949年1月1日の切り換え時点で既に廃局になっている。JAの実験局形式(国籍+数字+文字)のコールサインは1949年1月1日より連合国人のアマチュア局が使用を開始した。JAコールサインを初めて使ったのは連合国人ではなく、我々日本人の方だった。

  • JAコール各エリアの先頭局

それではこのページの最後に各エリアのJAコールサイン第一号(サフィックスA)を振り返っておく。JA3A国鉄大阪統制局)、JA4A国鉄姫路統制局)、JA7A国鉄山形統制局)、JA8A千歳鉱山)、JA9A国鉄新津統制局)の各局である。

JA1A, JA5A, JA6A, JA0A は免許されていない。なおJA2A(石川警察)については承認された証拠となる資料は発見できていないので、まだ結論は出せない。