海軍 VHFを実用化

日本の超短波無線の歴史(開拓史)をご紹介します。

我国では1924年(大正13年)頃より逓信省電気試験所平磯出張所や逓信省工務課の岩槻無線工事現場の実験局J1AAで超短波が試されましたが、なんといっても1927年(昭和2年)からの東北帝国大学の八木秀次研究室の宇田新太郎氏らによる超短波の研究が有名で、かつ大きな成果を収めています。

その一方で超短波の「実用化」という意味でいうならば、1930年(昭和5年)9月より帝国海軍の艦隊内連絡無線として"90式無線電話機"(40.0-50.0MHz)の配備が始まったのが第一号です。日本の超短波は海軍無線でスタートしたのです。

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1) 電気試験所 平磯出張所が超短波を試す (1924年)

1924年(大正13年)、電気試験所第四部(大崎)では送信用真空管の試作研究を行っていましたが、電気試験所平磯出張所ではこれを使って一時期、波長4~6m付近の電波長を試験しました。数百mの通信試験が行われたようで、これが逓信省で最初の超短波試験です。

【参考】 電気試験所事務報告(大正13年度)には『電気試験所製真空管を使用し電波長八米迄の短電波を発生し得たり。』とあります。

筆者はかつて茨城県平磯町電気試験所出張所に在任中、四米の超短電波長を使用し簡単な携帯用空中線付受信機を用いて実験を行い、数百米の距離で通話を行い得ることを確かめた事があった。(丸毛登, "超短電波通信に就て", 『無線と実験』, 1925.9, 無線実験社, p531 )

この件は同じく平磯出張所にいた畠山氏の回想にも出てきます。

平磯出張所では大正十三年頃、現大阪放送局技術部長の丸毛登氏が所長時代に、第四部試作の通称二五〇ワット送信管による現今のいわゆる超短波の研究が、丸毛さん御指導のもとに波長六米その他について色々の実験が行われ、そして有益なデータが得られたのでありますが(前に丸毛さんにお会いしました時に、この超短波の話が出まして「もしあの研究をもっと続けておったならば、現在の超短波の研究は、電気試験所がどこよりも進んでおったであろうに、惜しい事をした」というような意味のことを述懐しておられました)、この研究は都合によって中止され・・・(略)・・・』 (畠山孝吉, "短波の昔ばなし(四)", 『ラヂオの日本』, 1935.7, 日本ラヂオ協会, p40)

残念ながら電気試験所の超短波研究は中止され、その翌年(1925年)春より逓信省通信局工務課のJ1AAが短波実験をはじめました。

2) 工務局岩槻実験施設J1AA と帝国海軍の超短波試験 (1925年)

1925年(大正14年)春、岩槻受信所建設現場内に仮設された短波実験局J1AAは波長80m → 40m → 20m と高い周波数へ向って実績を積んでいました。

そして夏季は周波数が高いほどコンディションが良いとの仮説のもとに、5m Band の送信機と受信機を組立てました。当時の米国のアマチュアバンドは20m(15MHz)の次は5m(60MHz)だったからです。当時の真空管の性能でも60MHzの発振は可能でしたので、このあたりの周波数は比較的早い時機から手が付けられたといって良いでしょう。

J1AAは米国西海岸のアマチュアと20mで交信したあと5mで送信し、それを聞いてもらう方法をとりましたが、予想に反して5m Bandの電波は西海岸まで飛ばないようで行き詰っていました。ちょうどARRLが主催するMid Summer Testが8月1日・2日に5m Bandで行われるので、J1AAとしてこれに参加することにしました。つまり逓信省工務課の実験局J1AAが、アマチュアの通信試験イベントに参戦したのです。

なおまた八月上旬米国ARRL(American Radio Relay League)主催の夏季短波長試験に於いて5メートルの短波長送受を試みたるが、この試験は不成績に終わりたり。その原因の奈辺にあるやは疑問中の疑問たり。(中上豊吉/小野孝/穴沢忠平, "短波長と通信可能時間及通達距離との関係に就て", 『電気学会雑誌』第46巻第456号, 1926.7, 電気学会, p697)

しかしJ1AAの5m送信機はついに誰とも交信実績を挙げることはできず、波長20m(15MHz)と5m(60MHz)の間に遠距離通信用の上限周波数があると予見されたことが唯一の成果でした。逓信省関係の超短波研究は1924-25年(大正13-14年)に手が付けられたものの、これ以上追求されないまま終ってしまいました。

また1926年(大正15年)1月26日、帝国海軍が東京-佐世保間にて超短波5m(60MHz)を試しました。

途中で発射電力を増してみたものの、遂に佐世保海軍無線電信所とは通信できませんでした。この試験により「波長が短い程、遠距離に届く」わけではないことが海軍省にも認識されました

これで飛ばない超短波への逓信省や海軍省の関心は薄れてしまい、日本のV/UHFの通信試験は仙台の東北帝国大学J6BAによって進められました。

1927年(昭和2年)の超短波 ・・・ 東北帝大(宇田新太郎)のVHF開拓がはじまる

3) 東北帝国大学の研究について

大正後期より学術的な面から超短波を研究していた東北帝国大学が実用化を年頭に置いた試験を行なうようになったのでは1927年(昭和2年)でした。その概要をまとめた『日本無線史』第三巻の「第四章 東北帝国大学」から引用します。

この時代に於て超短波の通信試験はこれを三段階に分けることが出来る。

第一段階は昭和二年から四年にかけて行なわれた数米電波の伝播試験時代、

第二段階は更に短い粉波(UHF)の通信に熱心になった時代で、即ち昭和四年から五年にかけて行われた波長五〇糎(50cm=600MHz)程度の極超短波による無線電話の通信試験時代、

第三段階は以上の試験結果より実用通信にはまず米波(VHF)を先にすべきであるという結論を得て再び米波による装置を完成し、これにより各地の島と陸地間に同時送受話による通信士研が盛んに行われた時代である。』 (電波監理委員会編, 『日本無線史』 第3巻, 1951, 電波監理委員会, p98)

4) 東北帝大の実用研究 第一期(VHF伝播試験) (1927年)

『日本無線史』第三巻の引用を続けます。1927-28年(昭和2-3年)の研究第一期の部分です。

二、 米波の伝播試験

昭和二年より三年にかけて、東北帝国大学工学部屋上に波長四・四米(68.2MHz)、出力十数W(サイモトロン二〇二を二個プッシュ・プルに使用)の送信機を設け、仙台市を中心に岩切、塩釜、松島、富山、野蒜、金華山、福島、花巻(距離一〇粁(10km)ないし一三五粁(135km))の各地に於て種種の状況のもとに電界強度を測定した結果

(イ) 数米電波は地表近くでは著しく吸収を受けるために速かに減衰し遠距離に到達しない。殊(こと)に途中の障害物例えば、山、岡、森林その他建築物等による遮蔽の影響が著しい。

(ロ) 送受信機が高所にあり、特に可視距離内にある時は僅かの電力で遠方への通信がよく行なわれる。

(ハ) 超短波は直進するのであるが米波では光線のような鋭い影は生じない。途中に少々山や岡があり送受見通しが利かなくても、送信空中線および受信空中線の直前が開けていさえすれば相当の強度で通信が出来る。

(ニ) 昼夜を問わず空電は殆ど感じない。フェージングもない(今日では特殊の状況のもとでフェージングの起きることが分かっている)。

以上の結果は当時の研究報告から抜粋したのであるが今日から見れば極めて常識的のことに過ぎないが当時としては全く新しい経験であった。 (電波監理委員会編, 『日本無線史』第三巻, p98)

最初の68MHz試験(距離4km)1927年

1927年(昭和2年)11月、東北帝国大学の宇田新太郎氏はサイモトロンUF-101型真空管を使った波長4.4m(68.2MHz)の発振機で最初のVHF伝播試験を行いました。論文『短波長ビームに就いて(第十一報告)』 (宇田新太郎, 『電気学会雑誌』Vol.49-No.492, 1929.4) で報告されています

東北帝国大学金属工学科の屋上に(地上高12.5m)に架設した送信用の八木・宇田アンテナが北に向けて設置されました。

導波器7本三角反射器(反射器3本)を使用しています。

そして受信試験には再生方式の携帯式受信機を製作し、大学から北へ4km離れた台原(下の地図①)へ移動して行いました。ただし受信空中線には八木・宇田アンテナではなく、無指向性の垂直ダイポールを用いました。

改良型68MHz試験(距離60km)1928年

半年ほど間を空けた1928年(昭和3年)6月、サイモトロン202を使った5W発振機で大学から10km離れた②鴻の舘(高森山公園付近)で試験し、翌7月には③④岩切(大学から10km)・⑤⑨塩釜(同15km)・⑥⑩松島(同20km)・⑦富山(同26km)・⑧⑫野蒜(同30km)・⑪大塚(同27km)・⑬⑭金華山(同60km)の各所で受信試験を行いました。

【注】地図上の数字は試験順を示しています

特に②鴻の舘と③④岩切の試験では、大学のビームアンテナの方角を変えながらビームパターンを測定し、1920年にマルコーニ氏とフランクリン氏が試験した75MHzの電波灯台と同様の提案を行いました。 【参考】 75MHz電波灯台については「マルコーニのページ」を参照ください。

上述の指向性発振装置を回転し、これによって生じた電界の強さを10kmはなれた鴻の舘および岩切において測定し、無線ビーコンに関する試験なした。・・・(略)・・・海上は障害、減衰が少いのであるから、無線灯台の目的には数ワットの小さな真空管発振器で充分間に合うであろう。また空間を有効に利用し得る飛行機の航路を示すビーコンの目的には高い塔を建て、その上に指向性に富む小型の送信機を設置すれば便利であろう。(宇田新太郎, 短波長ビームに就いて(第十一報告), 前掲書, pp760-761)

68MHz75W送信機で花巻成功、筑波山は失敗

さらに長距離試験を行うために、1928年10月に福島(大学から65km)の丘陵地(268m高, 場所は信夫山か?)で試しましたが受信できませんでした。宇田氏はその原因を大学の400-500m南側(福島方向)に山があるためと分析されました。

ほどなく、ラジオトロンUX-852の75W発信機が完成しました(図[])。

同じ10月、大学から135km離れた花巻の堂ヶ沢山(365m高)に行った受信試験は大成功でした。

そこで筑波山移動を計画しました。

11月筑波山(同235km)での受信に挑みましたが、残念ながら聞こえませんでした。

空中線装置全体はやはり、金属工学科の屋上に設置し、その主方向が水平となす角度θを約25度より90度まで回転し得るようにした。筑波山(の受信)においては半波長あるいはそれの倍数の長さの空中線を水平に、垂直にあるいは傾けて昼夜にわたり種々実験したが、遂に電波の到来を検出する事が出来なかった。(宇田新太郎, 短波長ビームに就いて(第十一報告), 前掲書, p761)

1929年(昭和4年)の超短波 ・・・ 東北帝大(宇田新太郎)がUHFの開拓へ移る

5) 東北帝大の実用研究 第二期(UHF無線電話試験) (1929年)

1929-30年(昭和4-5年)の第二期は極超短波UHFを研究しました。『日本無線史』第三巻から引用します。

三、 粉波による通信試験

米波から一躍粉波による通信試験を行うにいたった主なる動機は送信管としてマグネトロンの出現に刺激された点もあったが、それよりも電子振動再生検波管の発見により受信が画期的によくなったためと、当時粉波による通信は世界に於て類例が殆どなくやれば記録的になる可能性がある為であった。

それまでは受信には鉱石検波器かまたは二極管が用いられた。三極管を用いた場合も単なる検波器としてであった。その頃電子振動管に再生検波作用や超再生検波作用があるかについては確たる考えがなかった。というよりそういうことに思いをいたす前に皆で盛に実験していたというのが真相であろう。ところがこの実験中に受信感度が異常に増大する場合があることが認められた。そしてそれが正に電子振動の発振するか、しないかの直前に起こることが明らかとなり、ここに電子振動管に於ても顕著の再生検波作用のあることが分かって来た。後には超再生を加えることにより更に一層感度が増大し、しかも通話が明瞭になることが明らかになって来た。

送信機には高電圧を必要としないUF一〇一を並列に接続した手頃の無線電話の装置が出来ていたので、通信試験には専らこれを使用した。この送信機の空中線電力は僅かに五〇mAで、出力は数百mW程度のものであった。受信機は再生検波管としてサイモトロンUF一〇一或はサイモトロン一九九を用いた。最初は再生式で検波後低周波二段増幅のもの、後には超再生式のものを用いた。この場合のクエンチング周波数は百万サイクル、低周波は一段増幅であった。

この受信機の出来る前までは通信距離はせいぜい数百米位であったが、受信機が出来てからは俄然通信距離が延び、昭和四年より同五年にわたる研究に於ては、波長四五糎(45cm=667MHz)をもって一〇粁(10km)(仙台と岩切鴻の館間)、ついで三〇粁(30km)(仙台大高森間)の無線電話に成功した。この記録は当時として世界的のものであった。この時送受信両方に数十本の導波器を使用した。これと類似の装置がその頃開かれたベルギーに於ける万国博覧会(1930年のリエージュ産業科学万国博覧会)に出展された。 (電波監理委員会編, 『日本無線史』第三巻, 1951, 電波監理委員会, pp98-99)

左図は1932年(昭和7年)に出版されたBelow Ten Meters:The Manual of Ultla-Short-Wave-Radio(James Millen, Robert S.Kruse, 1934, The National Company)の49ページで、『Uda's 50cm. transmitter which worked phone 10km. and I.C.W. 30km』と紹介してるものです。下図は受信機とその内部です。

これがベルギーのリエージュ産業科学万博に出展された送信機と受信機ではないでしょうか?

667MHzパラボラ反射鏡付き送信機テスト(距離5km)

1929年(昭和4年)、最初のUHF遠距離試験は波長45cm(667MHz)のパラボラ反射器付き送信機と受信機(下図)を使い、再び東北帝大の屋上から行われました。論文『新型超短波用受信機に就て』 (宇田新太郎, 新型超短波用受信機に就て, 『電気学会雑誌』Vo49l-No491, 1929.6, 電気学会) より引用します。

ちなみに論文末尾に「昭和四年四月二十三日受付」とあることから、UHF通信試験は1929年3月頃に実施されたのではないでしょうか。当初の距離は5kmでした。

上記の受信機を用いて、5キロメートルの距離で、実際に受信試験を行った。・・・(略)・・・この実験に於ては、発振装置を屋上にあげ、仙台市を横断し、5粁(5km)の距離でしかも満足に受信することを得た。この時の正確な波長は45糎(45cm=667MHz)であって、約1,000サイクルで電波を変調した。送受両側に約3米の長さのdirector chain(導波器列)を設けた。信号は極めて明瞭で、可聴度は約46程度であった。受信側で反射器及びdirector chainを取り去ると信号を聞き取ることを得なかった。(宇田新太郎, "新型超短波用受信機に就て", 『電気学会雑誌』Vo49l-No491, 1929.6, 電気学会, pp727-728,731)

667MHzで30km到達

次にこの装置を ”大学近くの丘” 移設して再試験が行ったところ30km(大鷹森)まで距離を伸ばしました。

昭和四年(一九二九年)の五月には既に波長四十五糎(45cm=667MHz)で仙台、岩切間一〇粁(10km)、ついで仙台大鷹森間三〇粁(30km)の電話に成功することが出来ました。(宇田新太郎, "超短波長電波の特性と其応用に就て", 『斉藤報恩会時報』, 1932.8, p18)

1929年(昭和4年)秋、宇田氏は電気学会にこの実験を発表しています(論文タイトルに極短波"ごくたんぱ"という単語を用いました)。「大学近くの丘」という実験地を特定できませんが、大鷹森から東北帝大までが約26kmですので、試験距離30kmということから、東北帝大の南西4km付近に実験地を置いたと考えられます。

発振装置は学校近くの高さ約90米程の岡の上に置いた。最初仙台市を横断して見通しのきく5粁(5km)の距離に(小田原万寿寺山高さ90米)電話の試験をなした。波長50糎(50cm)で、(以下の試験に断りもなく、この波長を使用)発振側では会話で変調した。この受信成績は非常に良好で明瞭にしかも相当大きな音で受話することが出来た。次に電源を約1000サイクルの単一周波数で変調し、電鍵にて信号を送り、その受信強度を測定せるにオーヂビリティ2,000以上であった。(General RadioのAudibility Meter 164B型を使用)この時は送信側には長さ9米、受信側には長さ4米のdirector chainを糸で吊り下げて使用した。

以上5粁(5km)の実験が満足に出来たので、更に距離をのばして、岩切附近鴻の館の高台(高さ106米)と通話試験を為した。この地点も送受よく見通しがきくのである。電信はもとより、電話も良好の成績で明瞭に受話するを得た。電源を1000サイクルで変調し、電信にして受信強度を測定せるに、オーヂビリティ2000以上で、受話器を数間(1間=1.82m)離して置くも信号を聞き得るほどで、5粁(5km)の距離の実験の場合と何れが強いか判断し兼ねる程度であった。この時発振側は前と同様の長さのdirector chainにしたが、受信側では7米の長さに増した。

30粁(30km)の距離では、電信の場合で、オーヂビリティ約120であった。もっと強い発振機を使用すれば、更に通信距離を増大する事は容易であろう。(宇田新太郎, "極短波に依る無線電話(極超短波研究、二)", 『電気学会雑誌』Vol49-No495, 1929.10, 電気学会, pp1191-1192)

6) 帝国海軍の超短波無線電話試験 (1929年春)

1929年(昭和4年)春に帝国海軍が超短波の試験を行いました。海軍の艦隊内通信には中波の無線電話を使用していましたが、1924年(大正13年)頃よりその改善を強く望まれていました。どこの国の海軍でも艦隊内通信用無線の需要は高く、それに求められた仕様とは「音声明瞭」の電話と、味方艦隊の外へ電波が飛んで行かない「非遠距離性」でした。

たまたま昭和4年(1929年)イギリスにおける勤務から技研に戻った技師淡近赳夫は、以前大沢(大澤玄養)の下で無線電話機の研究に従事した経験と、在英中研究した超短波の知識とをもって超短波携帯用同時無線電話機を試作した(脚注19: 超短波携帯用同時無線電話器実験報告, 研究実験成績報告第409号, 昭4.8.5, 海事技術研究所)。(大野茂/津村孝雄, "第七章 艦艇の無線兵器および電波兵器", 『船の科学』, 1989.5, 国土交通省海事局, p69)

「超短波」、「携帯用」、「同時無線電話」と、画期的なキーワードが三つも並んでいます。海軍技研に戻った淡近技師は1929年(昭和4年)春に波長5-6.5m(46.2-60.0MHz)で同時送受話式無線機を試作し試験を行いました。当初は波長2-4m(75-150MHz)を使おうとましたが、超再生式受信機の動作が不安定だったためこの周波数に落ち着いたそうです。空中線電力はおよそ1Wでした。

携帯無線機として考慮し、全長2mの黄銅パイプのアンテナを半分に折り曲げられるようにしたそうです。元祖伸縮型ロッドアンテナといったところでしょうか。さすがは洋行帰りのエリート海軍技師ですね。

海軍超短波の品川沖試験

(i)送話機

発振(自励)用および変調用に11号検波電球(UX112A)1個づつ使用、電源は乾電池でプレート用に45V3個を直列に、フィラメント用に6V1個を使用した。外箱は木製品、空中線は携帯を考慮して直線部を2mに限定し、中間に挿換コイル(短縮コイル)を入れて調整した。またこの直線部も折半して1mの長さとし携帯に便ならした。材質は黄銅パイプ。電波は当初、波長で2~4m、周波数で150~75MHzを考えたが、短い方は受信機の作動が十分でないので、最終的には波長で5.0m(60MHz)、5.5m(54.5MHz)および6.5m(46.2MHz)を使用した。空中線電力は約1W、・・・(略)・・・

(ii)受話機

真空管は6号検波電球2型(UX199)を検波用に1個、低周波増幅用に2個、超再生修調(ケンチング)用に1個、合計4個を使用した。ケンチング周波数は15kHzであった。 』 (大野茂/津村孝雄, 前掲書, p69)

この超短波試作機を用いて、海軍技研屋上(海抜13m)と東京湾の汽艇間で、周波数を変えながら交信試験を行いました。成績は下表のとおりで、周波数が低い方が実用距離が伸びることが判りました。

現代の国土地理院の地図に重ねてみました。海軍技研の跡地が、豊洲に引っ越す前の「築地市場」です。

海軍技研から南方へ試験したとすれば、レインボーブリッジを越えてフジテレビ等がある台場や、ハムフェアでおなじみの国際展示場(東京ビッグサイト)あたりまでが約4kmですので、汽艇の周波数が60MHzだとこの距離が同時通話の限界でした(海軍技研側は54.6MHz)。

しかし汽艇の周波数を50MHzにした場合は、約6km離れた首都高大井ジャンクションや東京国際コンテナターミナルあたりまで同時通話できて、さらに汽艇は50MHzで海軍技研の周波数を46.2MHzだとおよそ7km離れた大井競馬場あたりまでです。

軍事利用では「遠くへ届かない方が都合良い」ことも

遠くまで届くのが楽しいアマチュア無線と違って、「艦隊内無線」は必要圏内では強力・確実に、しかし圏外へは電波が一切届かないのが理想でした。敵に「こちらの司令」傍受されるからです。

超短波なら、中波や短波のように離れた敵まで飛ばず、しかし艦隊内連絡用としての適度なサービスエリアを確保できることが確認されたため、帝国海軍はこれを採用することを決めました。

英国で色々勉強して帰国した海軍技師淡近赳夫氏は技術研究所の大沢部員の下でこの超短波の研究と取組んでいた。・・・(略)・・・この遠達性のないところから充分に短い波長のVHFを使えば、之を艦隊内の電話機として利用し得るであろうと考えたのである。それ迄にも隊内連絡用の電話機として中波域の二号電話機(1.6~4.0メガヘルツ)というのがあって極めて重宝に利用されていたことは既に述べたが、この電話機は出来るだけ電力を下げて傍受されるのを防ぐ程度で、絶対に秘密が漏れないという保証はなかった。 (田丸直吉, 『兵どもの夢の跡:日本海軍エレクトロニクス秘史』, 1978, p181)

1930年(昭和5年)の超短波 ・・・ 帝国海軍が艦隊内通信で超短波の実用化を達成

7) 朝鮮逓信局J8AAが検見川の超短波をキャッチ (1930年夏)

1930年(昭和5年)夏に千葉県の検見川無線より発射した超短波無線電話を朝鮮逓信局J8AAがキャッチしたという記事があります。

検見川送信所の初代所長菊谷氏は東北帝国大学の学生だったとき宇田新太郎講師の超短波実験のお手伝いをしていました。逓信省に入省し1年間、中上豊吉係長のもとで新入社員教育を受け、1926年(大正15年)春に開局した東京逓信局検見川無線の初代所長としてここに赴任してきました。中上係長の下にいる小野技師(官練無線実験室J1PPの責任者)が東北帝大の先輩にあたります。

さて送信所といっても固定局の場合、東京の中央局から陸線で遠隔コントロールしているので、現地送信所に駐在勤務を命じられた菊谷氏としてはちょっと物足りなかったのでしょうか?東北帝大の学生時代を思い出して、仕事の合間に超短波送信機と受信機を組立てて実験をしていました。

『 (自分の卒業)論文を書き終えると、先輩の宇田新太郎講師が超短波のアンテナの研究(後に八木アンテナと登録)をしていたので、卒業の日まで毎日お手伝いをしたことがある。検見川送信所に勤務すると、無線電信ばかり送信している毎日に飽き足らず、昭和五年の夏には、マルコーニ会社のT一〇〇という三極管二個を使ってメニーの発振回路を作り、プレートに一〇〇〇ボルトの電圧をかけて波長三メートルの超短波を発振させ、これをグリッド変調し無線電話送信機にしたら、とても調子が良いので、五ミリの銅管でダイポール・アンテナを作り、アンテナの電流腹の部分に高周波電流計を入れ、これを三寸(=9cm)角の柱に取りつけると、長波送信アンテナ用の七五メートルの八号鉄塔の頂上に立て、地上の超短波送信機から平行線フィーダーを引いて電力を送るようにした。

送信電力の調整は地上から測地用のトランジットの望遠鏡で鉄塔上のメーターを見ながら、メーターの振れが最大になるように調節した。受信機や測定器は現在のような物が無いので、フォックストンという鉱石検波器を使って受信機を作り、これにオーヂオ・メーターをつけると音の強弱が測れて、簡単な測定器にもなったので、送信所のまわりを聞いてまわったが、なかなか良い音で、オーケストラなど自分一人で聞くのは勿体なかった。(菊谷秀雄, 『検見川無線の思い出』, 1990, p26)

こうして一人で超短波無線電話の実験をしていたある日、朝鮮逓信局無線係の梅田吉朗技師が検見川無線の見学にきて、超短波送信機に興味を示しました。そして菊谷氏の作った受信機を書き写して、「京城(ソウル)に戻ったら聞いてみます」ということになったそうです。

京城に帰ると鉱石式の超短波受信機を作り早速聞いてみたら、午后二時頃音楽が聞こえ「・・・・・・こちらは検見川無線。京城の梅田さん聞こえますか ・・・・・・。」という私の声や音楽が明瞭に聞こえたので、私のところに電報で知らせてきた。・・・(略)・・・(これは)逓信省の許可も受けず勝手に実験していた。

その年(1930年)の秋、梅田氏は逓信省工務局の無線係長の中上技師に、検見川無線から放送した超短波の受信状態について報告し、僅かな電力で遠距離通信のできることを述べられたが、当時の状況では一笑に付せられて、何の反応もなかった。 (菊谷秀雄, 前掲書, pp27-28)

この実験波長は、(当初の3mではなく)もっと低い超短波だったと想像しますが、非公式ながらスポラディックE層によるVHF伝播の報告例としては、これが日本で最初ではないでしょうか。朝鮮逓信局J8AAは3年後の1933年(昭和8年)6月12日に東京の放送協会の超短波を受信し、正式に伝搬調査が行われました。

また海軍でも次に紹介する90式VHF無線が配備されると、時に想定外の遠距離伝播(Es)が起きることに薄々気付きはじめましたが、これについては改めて述べます。

8) ついに帝国海軍が我国VHFの実用化を達成 (1930年)

海軍の超短波試作機は好評で、さっそく正式に兵器として製造されることになりました。1930年(昭和5年)9月より、各艦への配備が始まりましたが、これが日本初のVHF実用化で、それは帝国海軍によってなされました。『日本無線史第9巻から引用します。

超短波の(遠くへ届かない)という特性を利用し、初めて兵器として隊内の無線電話通信に役立ったのは、昭和五年であって、いわゆる九〇式無線電話機という兵器がそれである。この兵器は、その後数回改良され、移動式で簡便なるため、艦隊において好評を博した。本機の特徴は、小型簡便なることで、電力は入力で二五〇W(原文ママ)を使用し、受信方式は超再生法を採用し四球となっているが、音質が良くない上、電波安定性に欠くるところがあって、電話員が不安感から「本日は晴天なり」を繰返したり、「何番艦状態いかが」を連呼したりすることもあり、理想に到達したものとはいえないが、多年の懸案解決に大に功績があった。・・・(略)・・・九〇式無線電話機(第三・二一図)は、超短波と無線電話に実用した点で、少なくとも我が国では海軍が先鞭をつけた兵器であり、隊内通信に利用せられ大に重宝がられたものであるが、多数装備使用せられるに伴って、色々の不具合な箇所を指摘せられ、改良研究が行われた・・・(略)・・・』 (電波監理委員会編, 『日本無線史』第九巻, 1951,電波監理委員会, p351)

海軍技研電気研究部が1933年(昭和8年)に編纂した『電気研究部沿革概要』によれば、90式無線機は途中から固定式の改1号になり、以後は固定式だったようです。

用途: 限られたる近距離においてのみ通信可能にして、これ以外の地域には到達せざる事を要する艦隊内通信用

要目: 本機は超短波を応用する無線電話機(電信兼用)にして要目左のとおり

入力 5W

周波数 53,600 - 32,250 kc

重量 送信機 27.2kg 受信器 17.5kg 補用品類 25.8kg

記事: 昭和五年完成、同年九月以降七年八月まで65組製造す。本機は始め超短波無線電話機として移動式に作られたるものにして、のち昭和五年十一月受信空中線の改造および固定式に改造し、九〇式無線電話機(改一)となれり。のち昭和六年六月受信用真空管の改造および外筐の変化に伴い(改二)と称せられる。(海軍技術研究所電気研究部編, 『電気研究部沿革概要』, 海軍技研電気研究部, 1933, p69)

この書(1933年)には「1932年(昭和7年)7月まで65組製造す」とありますが、90式無線電話は帝国海軍で好評を博し、その分、改良提案も多く集まり、1935年(昭和10年)以降まで改良バージョンが次々と生産されています。

なお90式無線電話が移動式を止めた理由について、田丸直吉氏は著書で次のように述べています。

始めは軽便に使用するつもりで移動式のものが作られたが、VHFの性質上電波の反射、遮蔽などの影響を受け易くアンテナは四隅が広闊な場所に固定する必要があるという結論から固定式に改められた。(田丸直吉, 『兵どもの夢の跡:日本海軍エレクトロニクス秘史』, 1978, p181)

9) VHF Low Band(30-56MHz帯)を実用化した海軍90式無線電話

このようにアマチュアBandの10m帯(28-30MHz)と5m帯(56-60MHz)に挟まれた、戦前のVHF Low Band(30-56MHz帯)の実用化を最初に達成したのは帝国海軍でした。『船の科学』(1989年5月号, 国土交通省海事局, p71)に大野茂/津村孝雄氏がまとめられた90式無線電話機の変遷表を引用します(下表)。この他に潜水艦用に軽量化された90式1型および90式1型改1がありましたが下表では略しました(電気仕様は改2[呉式]に近い)。

海軍90式無線電話は送受別筐体で、付属品を含めて結構な重量のようですが、それでも当時としては小型軽量の部類に入ったのでしょう。なお無線電話機と呼ばれましたが可聴電信(A2)も送信出来た優れものでした。

この艦隊内VHF電話機は相当便利で実用的だったようです。海軍OBの証言録『海軍反省会』第三巻(戸高一成, [証言録]海軍反省会3, 2012, PHP研究所)より引用します。

十五年の秋に観閲式があって、鶴見沖にいた船を目標に、盛んに(レーダーの)実験をやってた。鶴見の海岸で、赤城の反射波を捉えている。これは、一〇センチの電波、一〇センチの電波って申しますと、後に二二型の電探になった、対艦船としては、割合に短いほうの、非常に良い電探だった。これでやったんです。ただ、それが、その後伸びてないのはどういう事かと申しますと、これより前、昭和五年頃から海軍では、超短波、一メートルから、一〇メートルくらいの間ですね、あの電波による電話などに盛んに使ったんです。各艦に、みんな付けてましたね、九〇式の電話機。これで、超短波はお手の物で行きわたっていましたが、これ(90式)のほうは、主として通信ですから、(レーダーとは)受信方式が違うわけですね、受信した電波を音にして聞く、こういう事でございますが、これと同じ方法でいこうという事でやった。これがレーダーの発展が非常に遅れた、一つの原因なんです。

『・・・(略)・・・ドイツへ、浅香丸で行って、びっくりして、あれ(レーダー)をやれって始める。ところがこの時もう一つ悪かったのは、そういう短い電波を扱うのはですね、その前に駆逐艦のあの、超短波の電話(九〇式隊内電話)があったでしょ、ちょっと掛ける。あれは割にね、ふらつきはあったけれども、あれは使えた。だからあれのね、電気の装置を、そのままの思想で使ったら良いと思ってやったわけ。そこに誤りがあったわけ。それで、あれでそうでなくて、他の方式でやればもっと早く(レーダーが)できたんだけれど、そういう間違った方向に突っ込んでいる。

以上のように我国のVHFは1930年(昭和5年)に海軍で実用化されたのを始まりとしますが、海軍におけるVHFはけして補助的なものではなく、太平洋戦争を通じて最終的にほぼ全ての艦船に装備され、日々の艦隊内連絡用として盛んに利用されました。

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