Jan 46 AFRS


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1946年(昭和21年)になり西日本の占領を担当としていた第6軍(司令部:京都)が段階的に撤収をはじめました。占領任務を引継ぐ後任部隊が各地で移動を繰り返していたため各地でAFRSの開局・閉局が頻繁に起きました。1月には八戸WVTH(および青森中継局)の廃止や、呉WLKHの岡山移籍などがありました。

  • Jan. 4, 1946 ・・・WVTR(590kc)とJOAK第二(1260kc)の交換願いを却下

戦後初の総選挙に向けた選挙放送でJOAKの受信状態が良くないという問題があり、1945年12月、逓信院BOCと東京放送局(Radio Tokyo, JOAK)は民間通信局CCSへ、選挙期間中の2ヶ月間、WVTR(590kc, 50kw)とJOAK第二(1260kc, 10kw)の施設と周波数を交換させて欲しいと願い出ていた。

1946年1月4日、CCSはBOC/BCJの交換案"Proposal for Interchange of Facilities and Frequencies between WVTR 590kc and JOAK 1260kc" を却下することを決めた旨、I&EとCI&Eへ伝えた(左図クリックで拡大)。 左図パラグラフ2のとおり、AFRSを運営するI&E(US AFPAC内の情報教育局)も、BCJを監督するCI&E(GHQ/SCAP内の民間情報教育局CIEのこと)も、交換願いに同意しなかったため、CCSとしては、パラグラフ1の交換案を却下(the proposal was rejected)した。

一方でパラグラフ3にあるように、CCSはカバレッジエリアの問題を解決するために東京第二の周波数を1100kcへ下げる代案を示したところ、日本側がこれを歓迎し、さっそく正式な1100kcへの変更申請が出されたため、これについてパラグラフ4でI&EとCI&Eに同意を求めた。後日、US AFPACのI&Eは、この代案に同意するとCCSへ伝えてきた。

◆川内中継局(1100kc)と東京第二(1260kc) の周波数交換が急浮上

CCSは1100kcを使用する鹿児島県の川内(せんだい)中継局(50w)と、JOAK東京第二(1260kc, 10kw)の周波数交換の申請を、1946年1月6日"Approval for Use of 1100kc by JOAK#2" で承認した。9月1日に870kcで再開し、9月23日に1260kcに移ったJOAK東京第二はこのような特殊な事情により1100kcへ変更されたのである。

◆八幡中継所(1100kc)を廃局

逓信院BOCは東京第二の周波数変更の承認を得ると、さっそく1月10日付けで1100kcを使用するもう一つの局、八幡中継局(50W)の廃局をCCSに申請 "Application of changes concerning broadcast stations" (10 Jan 1946, 逓信院BOC)した。

なお同じ書類の中で北見(1500kc)・水戸(1240kc)・尾鷲(1150kc)・中村(1210kc)・宇部(1150kc)・下関(1330kc)・日田(1290kc)の50W中継局6局の開設と、鶴岡放送局(1030kc, 500W)の開設と、JOSK小倉放送局(740kc)の50Wから500Wへの増力が同時申請されたが、その実施時期はそれぞれ異なった。

【注1】 従来からの鶴岡中継局(1030kc, 500W)の廃止申請はなされず、CCSへの申請上では中継局から放送局への昇格変更となった。

【注2】 北見中継局はこれまでもあったはずなのに、ここであらためてCCSへ申請されている。理由はわからない。

◆BCJリスト(1 Dec 1945版)の加筆修正 (おまけ)

前ページ(AFRS_1945)の最後で紹介した(米国国立公文書館で保存されていた)放送局リスト(1945年12月1日現在, BCJ技術局運用課まとめ)には、CCSがこれらの変更を手書きで書込んだものだった。まだコピー機や電子ファイルのない時代だから、実務作業上はこうして担当者が直接手書きで修正していたりするので、加筆部分を見るのも歴史考証としては興味深い。参考までに紹介してみよう。

【下例1】 JOAK東京第二の周波数1260kcを1100kcに

【下例2】 JOSK小倉の50Wに0を付けて500Wに

【下例3】 八幡中継局(1100kc, 50W)を抹消

【下例4】 川内中継局の1100kcを1260kcに

【下例5】 鶴岡中継局(Relay Station)を左列の放送局(Local Station)に移動

【下例6】 建設中リストの水戸中継局が完成 "Now Operating 1/16/46"

【下例7】 建設中リストの尾鷲中継局が完成 "OK Operating"

【下例8】 建設中リストの中村中継局が完成 "Operating 1/14/46"

【下例9】 建設中リストの日田中継局が完成 "Operating 1/25/46"

【下例10】 建設中リストに宇部中継局を追加加筆、そして完成 "OK"

【下例11】 建設中リストに下関中継局を追加加筆、そして完成 "OK only dualing station"

1945年12月にGHQ/SCAPは占領体制を当初計画より大幅に縮小を決めたため、各地で部隊の移動が激しく、AFRSの置局状況も1945年12月から1946年春にかけて刻々と変わっていた。その一端が垣間見られる。

【下例12】Kure(呉, 1440kc, 400W)を抹消

【下例13】Hachinohe(八戸, 720kc, 250W)を抹消

AFRSのStations Under Construction or planning の欄も変化があった。

【上例14】建設中リストのFukuoka(WVTH福岡, 1360kc, 50W)が完成 "Operating"

【上例15】建設中リストのMoji(門司, 1470kc)を抹消

【上例16】建設中リストのAomori(青森, 1510kc)を抹消

【上例17】建設中リストにShizuoka(静岡, 1510kc)を追加加筆、そして完成 "Operating"

原資料が12月1日現在なので、それ以降に起きた変更だが、その都度書き加えられていったもので、時期は様々だろう。

    • Jan. 4, 1946 ・・・ 八戸WVTHと青森中継局の終了を指令

1946年1月4日、US AFPACのI&Eより青森に進駐していた第81歩兵師団(81st Infantry Division)の司令官へ、八戸のWVTH(720kHz, 250W)と青森中継局(Relay Station at Aomori)の承認を終了(Deactivate)し、放送器材を返送するよう指令した電文ZAX12160が送られた。

1946年1月10日、第81歩兵師団は第11空挺師団(11th Airborne Division)に占領任務を引き継ぎ、1月20日に青森で動員解除した。占領計画の大幅縮小で第81歩兵師団が動員解除されたり、AFRS置局計画も12月から軌道修正を余儀なくされた。

青森中継局は八戸のWVTHの放送を大湊方面で聴取できるようにするための中継局だったようだが、1945年12月1日付けのBCJ作成のリストではUnder Construction or Planning とされていた。はたしてこの青森中継局が実運用に至ったあとで終了されたのかは私には解らなかった。

  • Jan. 11, 1946 ・・・ WVTRの短波放送が申請される?

案件の承認審査に際しては要点を整理したCheck Sheet を作成し、関係部局から意見があればその下に追記されていく。1946年1月11日、軍通信課(Military Communications Division)が"Subject: Radio Frequency Assignments (Broadcast)" に関するチェックシートを、民間通信局CCSへ送った。その内容は『Following frequencies assigned for "Radio Tokyo" broadcast relay use to U.S.A. (20 Kilowatts, A3 emission). 9525kc 15160kc 』で、アメリカ向け短波中継だった。

しかし何か事情があったようで、このチェックシートは違うものに差し替えられている。新しいものでは『Following frequencies assigned AFRS network Japan, 5 kilowatts power, A-3 emission: 6015 Kilocycles 3075 』と5kWに減力され、周波数も6MHz帯と3MHz帯だった。そして1月24日にこのチェックシートにCCSが書き込んだのは6015kc(JLR, 名崎, 20kW, daytime only)、3075kc(JZC, 八俣, 10kW)で、直ちに実行された。すなわち1月にAFRSの中継波7552.5kc(JLG4, 多摩, 20kW)、9605kc(JLP, 名崎, 20kW)は下表のとおり変更された。

チェックシートのもとになった申請書を私は入手出来てないので、これらの出来事が何を意味しているか理解できないが、とにかく日本AFRSのアメリカ向けの短波中継という案は消えたようだ。

  • Jan. 16, 1946 ・・・呉のWLKHの設備を移管

1945年12月、第10軍団隷下の第41歩兵師団(司令部呉, 島根県・広島県占領)は、同じく第10軍団隷下の第24歩兵師団(司令部松山, 四国地方と鳥取県・岡山県占領)へ島根・広島県を引き継ぎ、12月31日をもって動員解除された。

1946年1月16日には呉に司令部を置く第10軍団(X Corps)そのものが、第1軍団(I Corps)に任務を引き継ぎ、呉の第10軍団司令部を閉めた。この日、第10軍団司令官(C.G. X Corps)から米太平洋軍総司令官(CINC AFPAC)へ宛てられた電文(162050I)で、第十軍団のWLKHの施設と放送要員は、第1軍団隷下の第24歩兵師団へ移管し、岡山へ移設し2月10日頃より1480kHzで放送するとした。

『Effective 16 Jannuary 1946 staff and equipment of WLKH assigned to 24 Div. Request approval of plan to operate station WLKH at Okayama about 10 February 46 using present equipment and personnel on 1480 kilocycles. 』 なお第10軍団は1月31日、呉で動員解除された。

(山口県を除く)中国・四国地方を掌握した第24歩兵師団は、英連邦占領軍BCOFが呉に進駐してくるので、司令部を呉ではなく岡山へ移すことになった。そこで重要拠点となる岡山の現行施設の予備機にしたかったのだろうか?

これまで岡山のAFRSにはコールサインの指定が無かったが、以後しばらくの間は岡山がWLKH(周波数1520kHzへ変更, 0.5kW)を名乗ることになった。なお松山のAFRS(コールサインなし, 750kHz, 0.5kW)は第24歩兵師団の司令部が去ったあと7月23日に閉局した。

  • Jan. 30, 1946 ・・・第一放送と第二放送の中継波も変更案が

AFRSの中継波の変更が影響したかは分からないが、逓信院BOCは1月30日に"Application of change of Broadcast elay frequencies" で第一放送・第二放送の中継用周波数の変更を申請した。電波伝搬特性を考慮し、日中は7Mc/9Mcを使うが、夜間と早朝は低い4Mc附近にする。例えば河内送信所では放送開始5分前の5時55分から7時15分までをU-2送信機の4787.5kcで運用(JVV3)し、15分間の休止中にU-2送信機の周波数を9575kcに変えて、7時30分から16時30分まで運用(JVV4)、再び休止中に周波数を4787.5kcに戻して、16時55分から22時30分まで運用(JVV3)するという計画をたてた。同じ送信施設だが便宜上、周波数で呼出符号を分けた。

【第一放送中継波申請】

河内送信所(現行:第一放送, JVW, 7257.5kc, 0555-1630, 1655-2230, U-1)

多摩送信所(現行:第二放送, JLG5, 7552.5kc, 0625-0730, 1630-2130, R-1 /元:AFRS, JLG4, 7552.5kc)

【第二放送中継波申請】

足柄送信所(現行:第二放送, JLG, 7285kc, 0625-0730, 1655-213o, S-1)

八俣送信所(新規追加 )元第二放送で使っていた JLR, 6015kc波は1月よりAFRSが使用開始

だがこの案はさらに周波数や呼出符号が修正された。