アマチュア無線家

アマチュア無線の歴史の中で、短波においてアマチュア無線家(Ham)が果たした功績。それは短波の小電力遠距離通信の発見(「続 アマ無線家」のページ参照)です。本ページではその前置きとして、短波で誕生したアマチュア無線が低い周波数に降りてきた時代をご紹介します。

【参考】無線通信は「低い周波数から、高い周波数へ上がって行った」と考えるのは誤りです。それは1920年代になってからの話です。

アマチュアの「短波の歴史」を必要最小限の出来事だけでまとめると、以下のような感じでしょうか。

1921年(大正10年)2月に中波200m(1500kHz)を使ったアマチュアによる第一回大西洋横断試験が行なわれましたが失敗でした。 同年秋には1Wayながらも成功させることができて、さらに翌1922年には欧米の双方で "1Way QSO" を達成しました。 しかし中々"2Way QSO" には手が届きませんでした。 そこで1923年(大正12年)11月に特別免許で波長を短波100mに変えてみたところ大成功したのです(11月27日)。 1924年(大正13年)7月24日、商務省よりアマチュアに短波バンドが与えられると、世界中のハム達が次々と小電力でDX通信を成功させて、無線界を驚かせました。 アマチュアによる短波の小電力遠距離通信の発見です。

私は学生時代に、アマチュア無線の歴史を次のように誤解していました。

・「アマチュアが苦労して長波や中波を開拓したのに、それを商業局や軍用局に奪われ、無価値な短波へ追いやられた。」・・・ええっ?そんなあ~

  → 「ところがどっこい。 短波は低電力で遠距離通信ができる楽園だった。」・・・なんと痛快な、大逆転劇ではありませんか!

  → 「すると再び、商業局や軍用局が短波にやって来て、アマチュアは狭い周波数帯に追いやられた。」・・・アマチュアはかわいそう!

ところがこれらは"尾ひれ"が肥大化した「物語」「武勇伝」だったことを大人になってから知り、少々がっかりしました。時に1912年8月~1924年7月の12年間アマチュア無線の歴史をすべて省略し、以下のような言葉で説明されることがあります。

 「1912年、価値がないと思われていた短波に追いやられたが、緻密な計画や訓練によって短波の有効性を見出し、1923年11月27日小電力による大西洋横断通信を成功させた。」(下図)。

上記は「1912年の無線通信取締法で短波に移らされたからこそ、1923年の短波交信の成功があったのだ。」という因果関係を構成しようとするものです。しかし1912年以来、アマチュアは境界線の1,500kHzの一波に定住していましたので、これは正しくありません。

つまり「1912年12月13日に施行された無線通信取締法および無線通信施行規則」の件と、「1923年11月27日の短波交信成功」の件は全く無関係です。では省かれた12年間(1912~1923年)にどんな出来事があったのでしょうか?重要なトピックスを書き込んだものが下図です。

単にアマチュアの短波史をまとめるだけなら1920年の第一回大西洋横断試験の提唱あたりから書けば済みます。しかし当サイト"History of Citizens Band Radio"としては「CB無線」の語源となった、(1920年代前半の米国アマチュアによる)"Citizen Radio"ブームの話題を省略できないという"お家事情"があるため、アマチュアの中波時代にはそれなりのページを割きました。

すると今度はアマチュアが中波に定住するまでの経緯の説明も必要だろう・・・というような訳で、どんどんページ数が増えて、気が付けば、「短波」で生まれたアマチュア達が「中波」へ降りてきて、12年程そこに暮らしたのち、再び「短波」へ回帰していくという、フルバージョンのアマチュア無線史になりました。

本ページが巨大化したため、第一次世界大戦後のトピックスを続 アマ無線家のページに分割しました】 ・・・2017.09.17

本ページはアマチュア無線の歴史の前半(第一次世界大戦までの事柄)をまとめています。

アマチュア無線は第一次世界大戦を挟み、(真空管技術を駆使する趣味として)大きく変化しました。1923年11月27日のアマチュア無線家による大西洋横断通信、そして短波においてアマチュア無線が果たした功績については「続 アマ無線家」のページをご覧ください。

概要1) アマチュア無線が誕生する前の時代

アマチュア無線はいつ頃から始まったかについて概観しておきましょう。するとまず、「無線通信」は商用化までの助走期間が非常に短かったことに気付きます。

1-1) 無線通信は、ほとんどいきなりビジネスとして始まった(アマチュアの実験家が先行した訳ではない)

1895年(明治28年)にイタリアで1.5マイル(2.4km)の無線実験に成功したマルコーニ氏は、1896年(明治29年)2月に英国へ渡り、郵政庁のプリース技師長の支援を受けて本格的な無線研究をはじめます。同年6月2日に無線特許を出願、それが翌1897年(明治30年)7月2日に特許になると、7月20日には「無線電信信号会社」(Wireless Telegraph and Signal Company)を設立し、営業プロモーションを展開しました(これはマルコーニ氏の本心ではなく、従兄の考えだったようです)。

売上につながった最初の仕事はアイルランドのデイリーエクスプレス新聞社より受注したもので、1898年(明治31年)7月のヨットレースの模様を速報するための臨時回線でした。マルコーニ氏の無線はプロモーション活動のために技術改良され、その結果として通信距離が伸び、それが評判になり、また次の引き合いが来るといった具合に、改良・開発しながらの営業で、まさしく「事業の垂直立上げ」といえるものです。

そのため「無線黎明期はみんながアマチュア無線家みたいなもので、実験を繰り返す中から、やがて無線の商用サービスが起業された」というような進化にはならず、無線はほとんどいきなり「プロ」からはじまりました。マルコーニ氏の従兄(マルコーニ社の創業社長)がまだろくに技術が確立していないのに、勇敢(無謀?)かつ強引に無線ビジネスを立ち上げていったためです。

【参考】本ページ末尾の「マルコーニは元祖アマチュア無線家か?」もご覧ください。

1-2) なぜそんなに無線のビジネス化を急いだか?

実のところマルコーニ氏はもっと時間を掛けて無線を研究したかったようです。しかし米国のテスラ氏やロシアのポポフ教授の無線研究も進んでいたことを思えば、従兄(社長)の強引な戦略が正解だったのでしょう。(マルコーニ氏の「無線電信信号会社」設立の4ヶ月前)1897年3月の公開デモにはドイツ皇帝の命を受けてスラビー教授が見学に来ていました。そしてドイツに帰国した教授は間もなく「スラビー・アルコ式」の無線を完成させました。

マルコーニの公開実験(1897年の実験)に立ち会った人の中に、ドイツのベルリンにあるシャルロッテンブルク工科大学のスラビー教授がいた。彼はドイツ皇帝の命を受け実験に立ち会ったが、自分が100m程度しか届かなかったのに、マルコーニは数キロメートルもの通信に成功しているのを見て、驚きまた賞賛した。そしてスラビー教授は、マルコーニの無線電信機をドイツの会社(AGE社:後のテレフンケン社)で製造し販売できないかと申し出たが、これは不調に終った。

この実験は(マルコーニの)宣伝のための実験であったが、スラビー教授に見せた事はマルコーニにとっては不運であったかも知れない。というのは、スラビー教授は帰国後マルコーニの装置を克明に模倣して、ドイツ方式(スラビー・アルコ式無線)を作り上げただけでなく、コヒーラの接続点が電圧の節になっていて効率が悪い事に気付き、それを改良して特許を取った。さらに(ドイツ国内の無線ライバル会社の)ジーメンス・ハルスケ社のブラウン教授(ブラウン式無線)と共に、(両社はドイツ皇帝の仲裁で合併した)後のテレフンケン社の技術的中心となり、長い間マルコーニ社の最大の商売敵となったからである。(若井登, マルコーニの手紙, 『電波受験界』, 2002.1, 情報通信振興会, p113)

このような大競争時代ですから、無線実験をのんびり繰り返している場合ではありませんでした。

1-3) 1900年5月15日、定期航路船の海-陸の公衆通信(電報)サービスが稼動

しかし陸上には電信ケーブルが網の目のように張りめぐらされ、また海を挟む陸地間も既に海底ケーブルで結ばれていたため、マルコーニ氏は無線で長距離通信ビジネスに参入するのは困難だと気付きました。そして電線の引けない(ライバルのいない)海上公衆通信に注目しました。なお『公衆通信』とは私達一般社会でいうところの『電報』の事で(ただし軍隊内の電報は公衆通信とは呼びません)。

1900年(明治33年)2月、マルコーニ社は北ドイツ・ロイド汽船社の大型客船カイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセ号(S.S. Kaiser Wilhelm der Große)およびボルクム・リフ灯台船(Borkum Riff Lightship)・ボルクム島灯台(Borkum Island Lighthouse)にマルコーニ局を開設し、3月より公衆通信サービスの試験を行っていました。

1900年4月25日、「マルコーニ国際海洋通信会社」(Marconi International Marine Communication Company)を分社し、上記の試験運用にあたらせ、1900年5月15日よりその定期運航における公衆通信サービスを正式にスタートさせました。これ以降はマルコーニ国際海洋通信会社が欧州沿岸部および大西洋航路(欧州-米国航路)の海上移動公衆通信ビジネスを精力的に開拓して、業績を伸ばしました。

このように海上公衆通信の商用化は(19世紀最後の)1900年5月15日に達成されました。有名な大西洋横断試験の成功は(20世紀最初の)1901年12月12日なので、それより1年半も前にはじまっています(この順序はよく誤解されるところです)。

1-4) ベルリン国際無線電信予備会議(1903年、ベルリン)

1902年(明治35年)2月、ドイツ皇帝の弟が北ドイツ・ロイド汽船社の新しい大型客船クロンプリンツ・ヴィルヘルム号(S.S. Kronprinz Wilhelm)に乗って米国大統領を表敬訪問しました。この船の無線はマルコーニ局で、ドイツ皇帝の弟はニューヨークへ入港する前から米国大統領と電報を交換し合い、到着と同時に大歓迎を受けました。しかし帰りはドイツのスラビー・アルコ方式の無線を装備する船に乗ったため、米国大統領へ宛てたお礼の電報およびドイツ皇帝への帰国を知らせる電報をマルコーニ社の海岸局に取扱い拒否される事件がありました(他社とは交信しないのがマルコーニ社の方針)。

帰国した弟よりその報告を受けたドイツ皇帝が激怒し、マルコーニ社にぎゃふんといわせる為に開いたのが1903年夏ベルリン無線電信予備会議(Preliminary Conference on Wireless Telegraphy, Aug.4-30, 1903)です。こうしてマルコーニ社(英国)とテレフンケン社(ドイツ)の覇権争いが始まりました。

 なお我国では1905年(明治38年)の「敵艦みゆ!」(日露戦争)や、1908年(明治41年)の銚子無線JCSの創業時は、まるで無線の原始時代のように語られることがありますが、欧州地域ではマルコーニ社(英国)やテレフンケン社(ドイツ)により、とっくに実用期へ移っていました。日本では、どうかすると1912年(明治45年)のタイタニック号の沈没事件の頃でさえ、まだヨチヨチ歩きの「無線黎明期」のように表現する記事が見受けられます。

しかし日露戦争のあった1905年、米国では一般大衆向けに「無線機テリムコ」が通信販売されました。無線の知識や技術力など一切不要で、大人も、子供も、みんなが無線を試せる環境になったのです。

【参考】20世紀初頭、大西洋航路(アメリカ東海岸-欧州各国)では無線が普及し始めたのに、太平洋航路(アメリカ西海岸-日本・中国)での利用は極めて限定的でした。何故でしょうか? 

その答えは・・・太平洋の西岸(日本)に公衆通信(=電報)を扱う海岸局がないためです。

もし仮に米国船が高いコストを掛けて船舶に無線を設備したとしても、米国西海岸を出発してハワイまでは無線電報を扱えるのですが、そこから西へ進むと無線装置の出番がないのです。太平洋航路の西半分をカバーする日本との無線電報の発受が出来ないという極めて片手落ちの状況が非常に長く続きました。

大西洋航路と比べると、これはまぎれもない史実なのに、日本の無線書籍の数々はこの件を「知らんぷり」(?)しているように、私は感じてしまうのです(もちろん日露関係の緊張が高まる中、ロシアとの開戦に備えて無線開発を「海軍無線」に国策一本化することとなり、我国では逓信省の無線電報サービスの開発を「泣く泣く中止にした」という特殊事情を了解しています)。

日本の逓信省が、銚子無線JCSと東洋汽船TTYで逓信省が無線電報ビジネスを創業したのは、大西洋航路に8年間も遅れをとった1908年(明治41年)5月16日(明治41年逓信省公達第430号)です。大西洋の両岸では当たり前に行われていた無線電報サービスが、太平洋の場合だと、その西岸(日本)で無線電報の取扱いがなかったため(米国側に技術的・あるいは経済的な余力があっても)、結局のところ実用化できなかった・・・という解釈が米国側にはあります。

我国においては、戦前の無線電報は逓信省の専業ビジネスであり、無線黎明期の歴史は逓信省関係者の目線で語られ、記録され、そして書籍や雑誌の記事が書かれてきました。ですから昭和時代には、逓信省の「無線による公衆通信」開業の遅れが、大平洋航路で無線サービス実用化遅れの一因だったというような話は一切ありません。昭和においては、むしろ「世界はまだ無線の原始時代で、我国の逓信省は大変な苦労をして創業したのだ」的な論調ばかりでした。もちろん私も、当時の逓信省技術者が努力を重ねられ無線電報の創業に漕ぎつけたことに大いなる敬意を表したいと思います。これは嘘偽りのない私の「本心」です。

ですが大西洋航路における、公衆通信サービスの開業(1900年5月15日)や、その後の公衆無線サービスの発展ぶり(1900年~)をみごとにスルーしてしまい、日本(逓信省)の1908年公衆無線サービス創業だけを誇らしく語るのが少し残念な気持ちです。これまで逓信省関係者により記録されてきた "日本の無線史" あるいは "無線史観" といったものを今一度、点検してみる価値があるように思います。昭和に書かれた無線史感に囚われず、再考証される若い世代の研究者の登場を期待したいです。

このように無線通信はプロにより開発が進められ、実用化が達成されました。そのあとアマチュア無線が勃興しますが、それには各国の通信政策によって異なる3つのケースがありました(欧州大陸型、米国型、英国型)。アメリカは電波行政に関しては例外的な国でした。その米国アマチュアだけを語ると誤解を招きかねませんので、以下に3ケースをまとめておきます。

概要2) アマチュア無線の誕生 3つのパターン

ケース1)欧州大陸におけるアマチュア無線の勃興

欧州では公衆通信(= 電報)が政府専業の官営ビジネスであり、電気通信はその伝送手段が有線か無線かを問わず、電報に関する法律の下で扱われました。1900年代初頭における無線利用といえば軍用通信と公衆通信が全てです。いずにしても政府専業ですから、政府側には民間企業や個人研究家に無線を許可しようとする考え(理由)がありませんでした。

こうして欧州では当初より自然な形で有線電信に関する法律が無線にも準用されましたが、やがてそれだけではすまない部分が顕在化するようになりました。欧州大陸ではまずフランスが1903年(明治36年)2月に電信法では定めのない無線固有の部分について「無線電信局における電報取扱いに関する布告」を行い、次いでテレフンケン社のあるドイツでは、1905年(明治38年)にドイツ帝国無線電信条例(Regelung der Funkentelegraphie im Deutschen Reich, 1905年3月30日公布, 同年4月1日施行)が作られました。しかし私設実験局に関する規定は盛り込まれていません(従ってテレフンケン社には、その必要に応じ特別許可で対処したものと想像します)。ちなみに日本の逓信省も欧州大陸諸国の郵政庁と同じ方針で、基本的に無線は国家のものでした。

きっと欧州大陸でも「町の個人研究家」によるアンカバー実験(自己の送信機と受信機の間で行う伝搬実験)は行われたのでしょう。しかし政府専業の無線ビジネスに個人研究家(起業家)が食い込んでいく道筋が描けないためか、発展はありませんでした。また官営の公衆通信への混信妨害は厳しく取り締まられ、無線は科学少年達が興味本位で手を出せるような代物ではなかったようです。つまり欧州大陸(および日本)にはアマチュア無線が育つ土壌が、そもそもなかったようです。

なお(ドイツを除く)欧州大陸各国は無線通信に有線の電信・電報法が準用され続けました。これらの国々で無線に特化した法律の整備が進んだのは大変遅く、第一次世界大戦が終わり、世の中が落ち着きを取り戻した1920年頃からです。そしてそれぞれの国情により1921-25年(大正10-14年)頃、アマチュア無線が認可されました。欧州大陸に於けるアマチュア無線の勃興は遅かったと言えます。

我国の場合、1900年(明治33年)10月10日の逓信省令第77号で有線の「電信法」を(第二条の私設条項を除いて)無線にも準用すると宣言し、私設(個人や企業)無線を一切認めないことにしました。しかし15年後に、ある事情からこの方針を転換せざるを得なくなりました。日本政府は、無線実験も含めた私設(個人や企業)無線を制度化した「無線電信法」を、1915年(大正4年) 11月1日より施行しました。そして1922年(大正11年)2月27日、東京の濱地常康氏にわが国初の個人の実験無線(アマチュア無線)が免許されました。日本は欧州大陸諸国と似通った動きをしていることがわかります。

ケース2)米国(電波の無法国家)におけるアマチュア無線の勃興

その点、米国は全く違いました。もともと公衆通信(電報)が民営事業だったので、郵便道路法(Post Roads Act of 1866)による僅かな制約はあるものの、財力さえあれば電報会社を起業できました。さらに無線については、完全に放置状態(1912年まで無線法が未制定)だった為、プロ・アマを問わず、何をしても咎められない「電波の無法国家」でした。厳しく電波が管理された欧州大陸諸国や日本とは真逆ですね。

米国では大体1903-4年(明治36-7年)頃より「町の個人研究家」が生まれていたようです。彼らにとって無線とは「実験・研究」対象というよりも、新たな「ビジネス・ツール」か否かが関心事でした。しかし既に陸上には網の目のように電信線が張られ、通信事業はウエスタン・ユニオン社によるほぼ独占状態でした。いまさら個人の研究家が無線でビジネスを起業するのは困難だと悟った彼らは去って行きました。つまり米国でも、やはりアマチュア無線へ発展することはありませんでした。

1905年(明治38年)、一般人向けにテリムコと呼ばれる無線機が市販され、技術力不要の「大衆無線の時代」を迎えます。周波数的には短波から超短波が使われました。無線通信は高い周波数(短波)から、より低い周波数(長波)を目指して発展したあと、1920年代になり短波へ回帰して行きました。

大人は購入したテリムコ送信機からテリムコ受信機への単方向伝送を一通り試したらそれで飽きてしまいましたが、子供たちは違いました。自宅が近いクラスメイトに受信機を預けて「今晩20時から送信してみるから受けてみて」と頼み、翌朝登校すると「すげえよ。お前の無線に感応してたぜ。」との報告を聞く。・・・そんな実験を重ねていたのでしょう。やがてその友達も刺激されて無線機を買い、相互通信できるようになると、想像以上にプライベートな通信が "楽しいこと" を発見しました。これが現代的なアマチュア無線のはじまりで、1907年(明治40年)頃のことです。

【参考1】時代は20年近く違う1925年(大正14年)の事例ですが、日本でも一方通行試験の同じような話があります。『ところで笠原さんの家は西宮にあった。梶井さんの家は大阪。西宮が送信、大阪が受信という役割である。何時から何分間と約束しておいて毎晩、神戸が「こちらはJFMT、大阪のJAZZ、聞こえますか」とモールスをたたく。大阪はそれを聞いている。翌朝、(梶井さんの勤務先)住友電線から神戸(の笠原さん宅)へ電話がかかる。「ゆうべのは良く聞こえた。すばらしい。

その時刻、(関西学院の学生の)笠原さんは学校だ。お母さんが電話をうけて、笠原さんの帰宅を待ってそれを報告する。送信の結果が分かるのはたいてい翌日の夕方、えらくのんびりした話だが、電波はたしかに神戸から大阪へ飛んでいた。("日本アマチュア無線史", 『電波時報』, 1954.12, 電波振興会, pp23-24)

◎米国の科学少年達により現代的アマチュア無線が編み出される

起業を目論む大人の研究家にとって、ライバル研究家との交信行為など何の価値もなかったし(ライバルの実験を妨害電波で邪魔する行為はあったようです)、そもそも大人には "楽しみとして交信する"という発想がなく、趣味としての"現代的なアマチュア無線"は米国の子供たちにより編みだされたものでした。

(日本の話しになりますが・・・)私の子供の頃の記憶では、電話番号の頭に付けられた(呼)という記号(電話のある隣家や大家さんに取り次いでもらうマーク)が学級名簿からほぼ消えたのが昭和43年(1968年)頃だったと思います。私が住んでいたのは戦前から地下鉄の駅があった下町ですが、みなさん電話局に開設を申込んでから何年も待たされていました(大正14年に電話があった笠原宅はスーパー裕福なお家ですね)。それはさておき、郵便とか電報で双方向コミュニケーションを取ろうとすると非常に時間が掛かりました。文通などその最たるものです。一方、電話はリアルタイムに双方向コミュニケーションがとれる文明の利器です。

昭和40年代半ば~後半になり、各家庭に電話が行き渡ると、友人や恋人とおしゃべりを楽しむ「長電話」が問題視されるようになりました。(まだ電話がないご近所さんへ、電話を取次いでいた頃の名残でしょうか?)玄関付近に電話機を置いていた家庭も多く、親に知られたくない電話は長い延長コードで自分の部屋まで引っ張り込んで、ヒソヒソ通話してた・・・なんて時代です。この頃になって、離れた二点間での "リアルタイム双方向コミュニ-ケーション" は業務連絡や緊急連絡、商業活動のためだけではなく、プライベートな「楽しみ」としても成立することを日本国民のみんなが(有線電話で)知ったのです。

米国ではどうだったのでしょうか?現代的なアマチュア無線が誕生した1907年(明治40年)は、いくら工業先進国の米国といえどもまだ一般家庭に電話はなく、 "リアルタイム双方向コミュニケーション" の「楽しみ」に気付いた大人は極めて少なかったでしょう。そんな時代背景にもかかわらず、米国の科学好きの少年たちがその楽しみを発見し、現代的なアマチュア無線が誕生しました。  

◎日本で開闢神話が生まれた時代背景

ところで半世紀前の昭和の日本は高度成長期の真っ只中で、「趣味・娯楽」の重要性が認知されていませんでした。そういう時代背景があってか、当時は "アマチュア無線の誕生" を「趣味・娯楽」という観点からではなく、「科学や無線工学」の発展史の中で説明したかったように思えます。

しかし無線の初期はプロの手により技術改良が進められましたので、"アマ無線家=無線技術者=無線開拓者" といった開闢神話を展開するには少々無理がありました。残念ではありますが、第一次世界大戦(1914-1918年)以降の真空管全盛時代になるまで、工学的に誇れるようなアマチュア無線界の話題が見当たりません。むしろ軍事局や商業局への混信が社会問題化するなど、ネガティヴな話題ばかりで、多くのハム書籍は創成期(1905-1912年)をほとんど語っていません。そのため読者の側で「ハムの創成期はこうであって欲しい」という願望も入り混じった「神話的なイメージ」が作り上げられ、それがまことしやかに語られたりもするようです。

 私が現役ハムだった昭和時代には、「ハムが短波を開拓した」という話が盛んにありました。ですが「無線がハムより始まった」なんて大風呂敷を広げた手前味噌な神話(?)は聞いた覚えがありません。昭和40年代は例えばタクシーの中古UHF無線機がアマ改造用に出回るなど、プロの後ろをハムが付いて行くイメージがあります。)

ハムが無線を開闢したような神話は平成時代の熱烈なアマチュア無線ファンにより生み出されたのではないでしょうか?。

さて話を戻します。平成や令和のいまは「科学や工学」的だから偉くて、「趣味・娯楽」的だとそれより一段劣るような意識はありません。ですから100年以上も前に、大人は誰も思い付きもしなかった、無線で相互交信する楽しさを発見し、これをアミューズメントとして育てた米国の科学少年たちのことを評価すべきだと私は思うようになりました。

また上記のような黎明期の米国のアマチュア無線を、インターネットによるSNS(Social Network Service)の元祖とする見方もできるでしょう。いまこそ、アマチュア無線の誕生を、工学よりも社会学の観点から見つめ直してみてはいかがでしょうか。

【参考2】 非同調式の無線機は非常にシンプルだったし、米国では1905年にテリムコと呼ばれる市販無線機が売り出され、技術力は不要でした。私が1900-1910年頃の無線書籍・雑誌・新聞を調査した限りでは、初期のアマチュア無線とは、(中学生→高校生→大学生という主要層の年齢シフトは見受けられますが)子供たちにより楽しまれた「娯楽」でした。その後、同調式無線機へ移行しますが、しょせん火花送信機の回路は各自で大差なく、アマチュアの世界では大きな技術進展もないまま、(米国が第一次世界大戦に参戦して)1917年(大正6年)にアマチュア無線は禁止されました。

大戦が終結し、米国では1919年(大正8年)10月1日よりアマチュア無線が再開されました。ようやくアマチュアにも真空管が入手できるようになり、彼らは真空管式無線機を研究・自作して、QSTや無線雑誌に回路図を発表するようになりました。この1920年頃からが無線技術を駆使するアマチュア無線家の始まりでしょう。黎明期のアマチュア無線と第一次世界大戦後のアマチュア無線は別物といっても良いぐらいです。

米国政府は1906年(明治39年)にベルリンで開催された第一回国際無線電信会議に参加し、最終議定書にサインしました。しかし米国政府は自国の無線に関する「法」や「規則」が未制定で、(政府による電波管理の法的な拠り所がなく)ベルリンで決めた条約および規則を議会批准できずにいました。

【参考3】調印各国は発効日である1908年7月1日までに、ベルリン国際無線電信条約および附属業務規則をそれぞれの国会で批准することになっていたのに、米国はその約束事を果せませんでした。批准できたのは、なんと1912年にロンドンで第二回国際無線電信会議が開催されるわずか1箇月前です。実はイタリアも1912年まで批准が遅れましたが、これは別の理由(イタリア政府がマルコーニ社との合意形成に時間を要した)によるものでした。

【参考4】1906年のベルリン第一回国際無線電信会議で公衆通信を行う海岸局や船舶局の呼出符号は「アルファベット3文字」と決まり、たとえば日本では天洋丸TTY、丹後丸YTG、伊予丸YIY、のような3文字コールを定めました。またマルコーニ社は"M"から始まる3文字コールに移行しました。しかしこのベルリン規則を批准できなかった米国は1912年まで国際ルールに適合しない2文字コールを使い続けました。さらにロンドン第二回国際無線電信会議で1912年7月4日に合意された「国際呼出符字列に基づく新呼出符号」への移行は、日本の場合、新設局は1912年11月29日より、既設局は1913年1月1日に一斉実施されましたが、法整備が遅れた米国では1913年5月9日になって商務省がその採用を告示しました。

◎米国事情にからめて、少しだけ日本の事情も

これまで日本で出版されてきたハム書籍は、1912年(大正元年)に米国でやっと制定・施行された "Radio Act of 1912" について、「200mより長い波長(1.5MHzより低い周波数)からアマチュアを追い出した」という部分だけを取上げるものがほとんどでした。

しかしその話の前に、先進国の中で米国だけが「電波の無法国家」として世界から取り残されていたこと、でもそのお蔭で米国に「現代的なアマチュア無線」が芽生え、順調に育っていったこと、そしてその無法状態に終止符を打ったのが "Radio Act of 1912" であるという事にも触れておくべきでしょう。

この"Radio Act of 1912"が発効するまで、アメリカにある無線会社は政府から無線局の免許を受ける必要などなく、コールサインも自社で勝手に決めていたし、働くオペレータ達はベルリン第一回国際無線電信会議で導入が決まった「無線通信士」資格なしに運用していました。まあ、失礼ながら正真正銘、筋金入りの「電波無法国」といわれても仕方ありませんね。"Radio Act of 1912"は「プロでもアマでも、無線をするには政府が許可する無線局免許が要り、それを運用するのは無線通信士の資格を認定された者でなければならない。」と決めた法律ですが、米国以外ではとっくに導入済みでした。

しかし日本のアマチュア無線界では、そういった米国無線事情の説明が省かれたため、「まずアマチュア無線が先に生まれて、無線の法律は後で作られた。」という誤った理解が生まれたように感じます。確かにアメリカではアマチュア無線が勃興したあとで無線を管理する法律と規則が定められましたが、これは世界的にみれば例外中の例外です。アメリカ以外の国・地域では法・規則による電波の規制が、アマチュア無線の勃興よりも先行しました。

もちろん日本もそうです。日本では1900年(明治33年)に電波の政府独占が宣言され、企業や個人の無線利用が正式に禁止されました。

この点にも誤解が多く、「1926年(大正14年)のJARL結成時の日本には、まだ個人が電波を出して良いか、いけないかの法律がなかった。」といった身勝手ともいえる意見がWEB上で散見されます。法に基づく許可を得ず、勝手にアマチュア無線をするのは、JARLが生まれる26年も前から日本では違法です。

ケース3)英国におけるアマチュア無線の勃興

米国型でも欧州大陸型でもないのが欧州大陸の西に浮かぶ島国英国です。

先に触れましたが、「電波実験を繰り返すうちに、後から法律が作られた」と考えるのは誤りです。1896年に英国に移住したマルコーニ氏は屋外実験の都度、郵政庁のプリース技師長より実施許可を受けていましたし、1899年3月の英仏海峡横断試験の際には、フランス郵政庁より無線実験の許可がおりるの待って実施されました。こういった事実からも、(自由の国アメリカ以外の)先進諸国では無線電信がヨチヨチ歩きの頃から、既に国家の管理下に置かれてたことが分かります。単に無線の実験をするだけでも政府の許可が必要でした。

ではなぜそんなに早くから無線が法のもとに置かれたかというと、(まだ「放送」とか「レーダー」といった用途は生まれておらず)無線とは「電報」ことであり、その「電報」が有線で送られるか、無線で送られるかは、単に「手段の違い」に過ぎないとの考えからです。そして「手紙」に比べ、最速の「電報」と同義である無線を「法の外」に野放にはできないからです。さらに付け加えれば、そもそも「電報」は欧州では政府の専業事業とされとおり、民間が「電報」を扱うのはご法度だからです。

英国では1863年に電信法が整備され、1868年の改正では郵政庁長官に独占的にすべて権限が集められました。日本でいうと幕末(文久から慶応)の頃です。無線黎明期のマルコーニ社はその電信法のもとで、無線機開発のために私設実験局を運用していましたが、そもそも有線の電信法ではカバーできない無線固有の部分がどうしてもあります。

そこで1904年(明治37年)になって無線だけに特化した大英帝国無線電信条例(The Wireless Telegraphy Act, 1904)と、1905年に同施行規則を定め、その中に「私設無線実験局」が正式に盛り込まれました。ちなみに英国より1年ほど遅れて、英連邦および属領政府では次々と無線法が制定されました。欧州大陸各国では「有線の通信法」の準用がしばらく続きました(テレフンケン社のあるドイツだけは1905年に無線法制定)。

1910年頃になると、英国でもClaude Willcox氏(呼出符号WUX。のちの2FL)やAlbert Megson氏(呼出符号UAX。のちの2GZ, 2HA)らによる、(相互交信する)現代的なアマチュア無線が、国からの正規のライセンスを得てはじまっています。なお同時期には英連邦に属するオーストラリアでも私設実験局が認められましたし、1911-12年頃には同じく英連邦のカナダでも正規に認められたようです。つまり政府のライセンスに基づくアマチュア無線という意味でいうならば、実は米国より英国の方が先です。

なお本人が語るところではClaude Willcox氏が1898年に、またAlbert Megson氏は1899年頃に、マルコーニ無線に刺激されて火花電波の実験を行っています。しかしそれらは単発的な実験のようで、それがアマチュア無線として周囲に拡散・発展することはありませんでした。

無法地帯だったが故に、子供達の間で無線交信が大流行した米国と違って、1910年頃にはじまった英国のアマチュア無線は大人の世界で、かつ電気学会寄りでした。「学生の娯楽だった米国。大人の実験家・研究家が主体だった英国。」私はそんな印象を持ちました。

英国では(実験局が合法化されていたが故に、かえって)複雑な免許手続きや、免許料が必要になり、学生達でも手軽に楽しめる趣味にはならなかったのでしょう。

1914年(大正3年)7月28日に第一次世界大戦が勃発したため、その4日後の8月1日、英国郵政庁GPOはアマチュア無線を禁止しました(図)。

せっかく英国でもアマチュア無線がスタートし、徐々に広まりを見せ始めていた時期だけに、この禁止措置は残念です。

1) 初の無線機製作記事(1901年) [アマチュア無線家編]

前置きが長くなりました。それではアマチュア無線家と短波の歴史です。主なる舞台はアメリカになります。

ヘルツ氏が高い周波数(VHF)で火花電波の実験を始めたように、マルコーニ氏も小規模な設備で実験できる、高い周波数を試していました。我国でも電気試験所の松代松之助氏が1897年(明治30年)に超短波パラボラ送信機で実験を始めたのが最初です。そして1903-4年頃より生まれたと考えられる、いわゆる「町の研究家」も、先人による高い周波数での火花実験をなぞることから始めました。すなわち短波は研究家の入門バンドでした。

1900年前後より無線(当時の言葉ではヘルツ波)の書籍がいくつも出版されるようになりましたが、それまでの電波研究の歴史や技術解説が中心で、実用書ではありませんでした。

一般研究家に無線機の製作を指南したという意味では、科学雑誌Scientific American誌の1901年(明治34年)9月14日号に取上げられた "How to construct an efficient wireless telegraph apparatus at a small cost"(A. Frederick Collins著, Munn & Co., pp170-171)という記事が最初だと思います(下図[左])。Scientific American誌は1845年に創刊された科学雑誌です。

【参考】 なおこの製作記事は姉妹誌Scientific American Supplement1902年(明治25年)2月15日号(pp21849-21850)に再掲されただけでなく、1902年に出版された同社の科学書Experimental Science:Elementary, practical and experimental physics (George M. Hopkins, 第23版 1902, Munn & Co.[NY], pp363-371)にも収録されました。

図[右]が送信機の回路図とその写真です。回路はインダクションコイルとスパークギャップからなるシンプルな非同調式です。

図がその主要部で、インダクションコイル(変圧器)とそれに接するように断続器を置したブザーのような構造をしています。

入力端子にバッテリーが接続されている間は、以上1~3を繰返して出力端子(変圧器の二次側)に高圧を発生させています。

インダクションコイルを無線機に使う場合は、入力端子に接続されたバッテリー(上図写真の円筒形)からの電源供給を電鍵で開閉します。電鍵で閉じている時間の長さが、二次側に高圧が発生して接続されたスパークギャップに火花が飛ぶ時間に反映しますので、こうしてモールスコードの短点と長点を表現しました。なお断続器はインダクションコイルの機能の一部として捉えられ、火花式送信機の回路図から省かれるのが一般的のようです。

図[左]は受信機に用いるコヒーラの構造図です。図[右]は受信機の回路図とその写真です。アンテナとアースの間にコヒーラを入れただけの非同調式で、信号を受けた都度、コヒーラを初期状態に戻すために電磁石でコヒーラを叩く「デ・コヒーラ」回路を含んでいます。

アンテナおよび地中に埋めるアースは銅製の板(Copper Plates)で、まるでマルコーニ氏の初期の電波実験を髣髴とさせまね。

このような非同調式無線機の周波数はアンテナ長により決定されますが、この記事中では用いるべきアンテナについては触れられていません。おそらく数mのワイヤーを簡易的に接続することを想定したものと考えられますから、周波数的には短波帯になるでしょう。

この記事にはアンテナの吊り下げ方やアースの取り方など、無線機の使い方(実験の仕方)の解説は一切ありません。そのうえ、わずか1ページ半の製作記事なので、説明は必要最低限にとどまっており、(特に)コヒーラ受信機を実際に組み立てることができた読者がいたのだろうか?と、私は疑問に思っています。

2) 実用的な製作記事(1902年) [アマチュア無線家編]

そんな中で「町の研究家」を刺激した最初の無線機製作の指南書はEdward Trevert氏が1902年(明治35年)に書かれた「THE A・B・C of WIRELESS TELEGRAPHY"A Plain Treatise on Hertzian Wave Signal: - Embracing Theory, Methods of Operation, and How to Build Various Pieces of The Apparatus Employed"Edward Trevert, Bubier Publishing, 1902)ではないでしょうか(下図)。

上図[右]は火花送信機とコヒーラ受信機の回路図ですが、使用する部品の構造を多くのイラストを使いながら具体的に説明しました。1904年(明治37年)の改版では、さらにページ数を増やして最新の無線界の状況を写真や回路図で紹介しました。

【参考】 2012年にForgotten Books社より復刻版が出されています。

 解説された火花送信機やコヒーラ受信機は、けして複雑な構造ではありませんが、一般人には部材の入手が難しく、どうにか実験にまで漕ぎ着けた人は、ごく一部に限定され、大きなムーブメントとして発展しなかったようです。

3) 電報の無線通信士にあこがれる科学少年たち(1904年) [アマチュア無線家編]

無線はプロ(マルコーニ社やテレフンケン社)によりただちに実用・商用化され、無線会社は無線通信士(その多くは有線通信士からの転職者)を雇用しました。当時最先端の職業である無線通信士は科学少年に多大な影響を与えたようです。

1904年の雑誌Amateur Work(Draper Publishing Company [Boston, Mass])に通信士にあこがれる少年たちの記事があります(図)。

【参考】 Amateur Works は1901年11月に米国のボストンで創刊された科学月刊誌です。

1904年6月号 p223に「"Wireless" Telegraph by Amateur Work Readers」という記事があります(図)。米国ボストンに住む13歳のブレック君(Samuel Breck Jr., 円写真[上])と、14歳のトンプソン君(Newell A. Thompson Jr., 円写真[下])は展示会で無線電報のデモンストレーションを見て以来、無線通信士に強い興味を持つようになりました。

そして無線の勉強をしながら、実験部材を集めることからはじめました。これには両親や学校の先生からの支援があったそうです。やがて無線機を完成させ、最長8マイル(12.9km)まで到達距離を延ばすことに成功しました。記事はアンテナについて触れていません。特筆するような巨大なものではなかったのでしょう。そうすると輻射される電波の周波数は短波帯だったと考えられます。

記事中の長方形の二枚の写真は、二人が学校の講堂で行なった無線電報取り扱いデモンストレーションの光景です。

トンプソン君(長方形写真上)が来賓者から預かったメッセージを無線送信します。

同じ講堂内の離れたところにいるブレック君(長方形写真下)がその電波を受信して、電報を書き留めている様子です。好評を博しました。

このように初期の実験家はまず伝播試験を繰り返し、そのサービスエリアがおおよそ把握できると、今度は(電報を想定し)A地点からB地点へメッセージが正しくかつ安定的に伝達できるかを試したようです。はたして無線が社会インフラとしての有線電信(公衆電報)に取って代わるものかが、当時のみんなの関心事だったからです。

私がこの時代のいろんな科学雑誌、書籍、新聞を調査した限りでは、1907年(明治40年)になるまで、「趣味・娯楽として同好者間で交信を楽しむ」という無線の用途には誰も思いが至っていないように感じます。

4) デジタル受信だったコヒーラ時代 [アマチュア無線家編]

無線通信の初期はコヒーラ検波器が用いられました。コヒーラは電波を受けると導通状態に遷移するので、これを通信で使うには、直ちにコヒーラを叩いて、元の絶縁状態に戻す必要がありました。この復帰させる回路を「デ・コヒーラ回路」と呼び、無線受信機の必須回路でした。図はポポフのコヒーラ受信機の説明です。 

このコヒーラーは振動電圧が加わって一度抵抗が減少すると、そのままで何時迄もその状態でありますが、それを叩いてやるとまた抵抗が増加して、前の状態に戻ります。それで電信を受ける時には、コヒーラーを常に叩いて振動電圧が加わっている時だけ、抵抗が減るようにせねばなりません。その装置の一例を示すと第四図(左図)の通りであります。

第四図においてCはコヒーラーであって、その一端Eを空中線に、Aを接地します。

いま電波がやって来てコヒーラーに振動電圧が加わると抵抗が減って、Rなる電磁石にB電池による電流が流れます。そうするとDなる鉄片を電磁石Rが引きつけて、接点Pを閉じて、電流が電磁石Mを流れFを引きつけ(呼鈴Gを叩き)ます。Fが引きつけられると、接点Qが離れ、Mは引力がなくなって、Fはバネ仕掛けで戻ります(この時、コヒーラーを叩きます)。 かようなことを繰返してはFが振動し、コヒーラーと呼鈴を叩き電波の到来を知ることが出来るのであります。 』 (谷村功, "第二節 検波器", 『ラヂオの基礎知識』, 1933, 日本ラヂオ通信学校出版部, p133)

つまりコヒーラは、ある強さ以上の電波が来ると導通状態に遷移する"電波感応スイッチ"といえます。この図でいうと、ある強度以上の電波で槌Fが呼鈴Gをチーンと叩きますが、チーンの音量が(アナログ的に)電波強度に比例するのではなく、鳴るか鳴らないかの二値、すなわちデジタル的な受信となります。ONかOFFしかないコヒーラ受信機では、振幅変調の無線電話を受信することはできませんでした。

アマチュア無線家の受信機がコヒーラ検波(デジタル方式)から鉱石検波(アナログ方式)に変わったのは大体1909-1910年頃です。そして「デ・コヒーラ回路」が不要になったため、受信機部品は鉱石検波器のみという、あっけないほど簡素になった分、ルーズカップラー(フロントエンドの同調受信ユニット)の採用が進みました。

コヒーラのONとOFFとの間には、本来なら微妙な"中間レベル"があります。その中間レベルが少しでも強くなる様に工夫するのが、受信の改良につながる訳ですが、それは鉱石検波器(アナログ方式)を使うようになってからです。1910年頃までアマチュアやマルコーニ社の船舶無線が短波を使っていましたが、短波の良さが見出されないまま見捨てられたのは、受信機の未熟さが一因だったかもしれません。

5) 非同調式無線機の周波数はアンテナ長で決まる [アマチュア無線家編]

同調式無線機が実験されるようになった頃、非同調式火花送信機の電波を同調式の受信機で受けてみると、同調式送信機のような"尖鋭さ"はないにしろ、固有の波長を持っていることが確認されました。しかし非同調式送信機の波長が、何によって決定づけられるかは、まだはっきり分かっていませんでした。

この研究に着手したのが、マルコーニ社の技術顧問を引受けていた、(フレミングの右手の法則、左手の法則で有名な)ロンドン大学のフレミング教授(John A. Fleming)でした。 フレミング教授は非同調式無線機における垂直空中線が、教会のパイプオルガンのパイプが共鳴する現象と、似た振る舞いをしていることに気付きました。つまりスパークギャップSGが電気振動を空中線に与えると、(閉管気柱が1/4波長で共鳴するように)空中線もやはり1/4波長で共鳴すると考えました。

1903年(明治36年)3月2日、フレミング教授はロンドンの技芸協会 Society of Arts(のちの王立技芸協会Royal Society of Arts)で講演しました。

(同調回路がなく接地と垂直導線をスパークギャップSGに直結した)非同調式火花送信機では、基本振動としてアンテナ長の四倍の波長が一番強く輻射されると発表しました(左図)。

そして対手局側も同じアンテナ長にすることで互いの電波長が合い(当時の言葉では"合調"あるいは"共鳴")、通信距離が最長になると考えられました。

6) 長波を使えなかった非同調式無線機 [アマチュア無線家編]

無線が長波から始まらなかったのは、初期の非同調式無線機では例えば波長1000m(300kHz)の長波を生み出すのに(1/4波長にあたる)250m長もの垂直空中線が必要となり、長波を使うのが無理だったからです。詳細は「長波ではない訳」のページ後半部を参照ください。無線の商用化からしばらくの間は、短波から中波の高い周波数付近を使っていました。

余談ですが、"三四式"と"三六式"無線電信機を開発した木村駿吉海軍大学教授が日本初の波長計(海軍では"測波器"と命名)を作ったときも、この理屈により目盛を校正しました。

日露戦争役の直後、降伏した露艦(ロシア艦)から押収したものの中には、独逸(ドイツ)テレフンケン会社製の波長計があったので、私はそれに向かって脱帽した。さっそく(海軍の)造兵部でもそれを作り、最大同調効果を認める電流計の代わりに豆電燈の光り方を使用したが、目盛のためには独逸(ドイツ)製のものは(オイル)コンデンサーを漬す油が漏れて空虚となっていたから、その目盛を写すも無益と思い、地上三尺(=91cm)の高さに線を張って、その一端に火花放電をさせ、その線の長さの四倍を波長とした至極原始的な方法を用い、線が長くなる程、大地とのキャパシタンスが益々影響を及ぼすから、その目盛は単に大体の見当を付けるだけのものであった。それでもこれを測波器と名付けて各艦に配給した。(木村駿吉, "日本海軍食無線電信思出談", 『科学史研究』, 1945.5, 日本科学史学会, p80)

帝国海軍初の三四式 (明治34年 [1901年]制定) 無線電信機はこのアンテナの長さで輻射波長が決定付けられる非同調式でした。

明治34年(1901年)10月、無線電信器が正式に兵器として採用された当時のものは、所謂マルコーニ・ロッジ方式と呼ばれた最も単純な回路を使ったもので、空中線の長さを加減して発射電波の周波数を調定した。(田丸直吉, 『兵どもの夢の跡』(日本海軍エレクトロニクス開発の歴史), 1979, 原書房, p56)

7) 大西洋航路で海上公衆通信の商用化を達成 [アマチュア無線家編]

日本では1874年(明治7年)12月1日、日本帝国電信条例(太政官布告第98号)を施行して以来、電信事業の官営化を進めてきました。

1900年(明治33年)10月1日、「電信法」 (法律第59号, 1900年3月14日官報告示)を施行し、その10日後の1900年10月10日に「電波の国家管理」を明示的に宣言しました(逓信省令第77号, 1900年10月10日)。

電信は有線・無線の手段によらず、その一切を「政府が管掌する」(第一条)ことを基本とします。しかし有線電信には第二条で例外的に私設を認めているのに、「無線電信には第2條(私設条項)を適用外とする」としたのです。すなわち無線電信は帝国政府が独占的に使うもので、企業や研究家には許可しない事になりました。我国初の無線の法律はこの「電信法」です。のちの1915年(大正4年)11月1日に私設無線を認める「無線電信法」が施行されるまで、企業やアマチュアによる無線実験の道は我国では閉ざされていました。

電波先進地域の欧州では1900年(明治33年)5月15日より海上移動の公衆通信(電報)サービスが始まり、波長120m(周波数2.5MHz)付近が使用されました。

1902年(明治35年)2月、米国大統領を表敬訪問するために、マルコーニ式無線機の船(マルコーニ局の船)に乗ったドイツ皇帝の弟は、マルコーニ社の無線電報で逐次米国と連絡がとられ、米国に到着するや大歓迎を受けました。しかし帰路にはドイツ式無線機の船に乗ったため、米国大統領にお礼の電報を送ろうとしたところ、(他社とは交信しない方針の)マルコーニ社の海岸局に無視されるという無線界では有名な事件が起きました。

そして弟からその報告を受けたドイツ皇帝は激怒し、"生意気"なマルコーニ社に他社とも交信させようと海運各国にベルリンで「国際無線電信予備会議」の開催を呼びかけ、それが実現したのが1903年(明治36年)8月です(しかしマルコーニ社の方針は変わらず、完全に解消されたのは1912年の第2回国際無線電信会議(ロンドン)でした)。詳細は「ドイツ皇帝を怒らせたマルコーニ」を参照ください。

このような事件もありましたが、とにかく欧州各所に商業海岸局が次々に開業し、船舶局と電報を交換する無線ビジネスが順調に育っていました。すなわち無線通信は(欧州沿岸航路や大西洋航路において)黎明期からビジネス期(実用期)に完全に移行してたといえるでしょう。そして有線法の下で運用されてきた無線ですが、1904年になってようやく英国で大英帝国無線電信条例が公布されました。

【参考】 そのころの日本は(ロシアとの開戦で海軍艦船と全国の海軍望楼に無線局の建設が始まり、混信防止のために)逓信省による無線実用化の実験は中止されており、無線電報ビジネスの創業は1908年(明治41年)まで遅れてしまいました。日本に公衆通信を扱う無線局がないため太平洋航路の船舶の無線搭載は伸び悩みました。

8) 1905年 送信用インダクションコイルの商品化 [アマチュア無線家編]

電波を国家管理するつもりがなかった米国では、1904年(明治37年)暮れに、誰でも電波実験に手を染めることが出来る環境が生まれました。下図は科学雑誌Scientific American1904年(明治37年)12月3日号, p402にあるInduction Coilsの広告です。

これまでも時折、Induction Coilsの広告はありましたが、用途に "Wireless Telegraphy"(無線電信) とはっきり打出されたものは同誌ではこれが最初です。

また月刊Popular Mechanicsでは1905年(明治38年)3月号, p384に無線用スパークコイル(インダクションコイル)の広告が初登場しています(下図)。

Popular Mechanics誌は1902年創刊のDIY月刊誌です。

1905年2月26日付のミズーリ州セントルイスの新聞The St. Louis Republicに、"BOY BUILDS A WIRELESS STATION"という記事があります(図)。

ニューヨークのブルックリンに住むIvan Lee君(16歳)が無線局を作ったことを取り上げて、「ヤング・エジソン」が芽を出したと報じました。

これはまだ自分の送信機と受信機間の伝搬実験した。娯楽として仲間と交信しあう現代的なアマチュア無線に発展するには、あと2年ほど要します。

こうした状況により、機が熟したことを察知したPopular Mechanics誌編集部は1905年5月(p552)で読者に「近く、無線機の組み立て方の記事を載せます」と予告しました(図)。

そしてPopular Mechanics誌7月号に『I am eleven years old. 』 と自己紹介する11歳のラジオ少年G.E. Collins君が "How to Make a Wireless Telegraph System" を書き読者を驚かせました(左図)。

受信機回路図の中央のInter Circuit(内部回路)部は図中では省略されていますが、これはコヒーラを叩いて検波機能を復活させる「デ・コヒーラ」回路のことでしょう。

【参考】コヒーラは初期状態では「非導通」なのですが、電波に感応して「導通」状態に遷移します。 しかし電波が消滅しても「導通」状態が続くため、その都度、物理的な振動を与えて初期化(非導通化)する必要がありました。なお図中でいう「レシーバー」とされる部品は、電池で鳴るブザー(?)のようなものでしょう。

記事の筆者はアンテナ長を2フィート(61cm)にしていますので、その4倍の波長8フィート(= 244cm, 周波数123MHz)を意識していたかも知れません。1905年といえばマルコーニ社などでは既にLC回路を使った同調式火花無線機の時代に入っていましたが、この製作記事のように旧式(非同調式)の物もまだまだ活躍していました。

9) 1905年 受信用コヒーラの商品化 [アマチュア無線家編]

上記の製作記事中において筆者はコヒーラが非常にセンシティブな部品だと指摘していました。その一番のハードルとなっていたコヒーラ(COHERER)の完成品がついに商品化されたのです。

New England Coil Winding社が、Popular Mechanics誌1905年10月号(p1066)より通販広告を出すようになりました(左図)。

完成品のコヒーラの登場で、無線実験に入門するための一番の障害が取り除かれました。もともと送信機の方はインダクションコイルとスパークギャップの二つの部品で完成です。あとはバッテリーとそれを断続させる電鍵さえあれば良いのですから。

このように少々のお小遣いと科学探究心さえあれば、誰でも 電波を試せる時代になったのは、大体1905年あたりのようです。

10) 超短波の大衆無線機「テリムコ無線電信機」を商品化(1905年11月) [アマチュア無線家編]

1890年末期にルクセンブルクに住む13歳のヒューゴー・ガーンズバック(Hugo Gernsback)少年が地元カルメル会修道院(Carmelite Convent)の構内電話システムを設置して評判になりました。少年はドイツの工科大学で電気工学を学び、やがて独自の蓄電池を発明しましたが、ドイツと自動車生産大国フランスに出願した特許は認められませんでした。これが動機となり19歳で米国へ単身移住しました(1904年2月)。イタリアで無線の価値が認められず、21歳で英国に渡ったマルコーニ氏と似ていますね。

さて米国では大衆向けの電気部品が品薄なことに気付いたガーンズバック青年は、欧州から電気部品を輸入して米国内へ通信販売する Electro Importing 社をニューヨークに創業しました(1904年秋)。本格稼動した1905年(明治38年)は、ちょうど前述のPopular Mechanics誌の無線機製作記事が書かれた頃ですから、タイミングとしては悪くなかったでしょう。

ガーンズバック青年の無線界における偉業のひとつとして挙げられるのが、一般大衆向けに非同調式の火花送信機(図[左])とコヒーラ受信機(図[右])を開発し、通信販売したことです。彼はドイツの大学生時代に火花送信機とコヒーラ受信機を作った経験があり、それを商品化することを思い立ちました。

インダクション・コイルの上にアンテナの付いたスパーク・ギャップがあるだけのシンプルな送信機で、三本の電池の手前にベルのようなものがスイッチ(電鍵)です。この長さのアンテナですから周波数的には超短波でしょう。

ガーンズバック青年は科学雑誌Scientific American(1905年11月25日号)にWireless Telegraph(無線電信機)と題して広告を出しました(下図)。21歳のときでした。

【参考】後年になり、最初の広告は1906年1月13日号だったと御本人が語られたため、そう伝える文献が多いのですが、実際に調査してみると下図の通り1905年11月25日号p427にTelimcoの広告($8.50)が出されています。ガーンズバックさん、こんな大事な日を忘れちゃだめじゃないですか!

商品名はテリムコ(Telimco)で、送受セットで8ドル50セントに設定しました。この不思議な名前は社名The ELectro IMporting CO. から取った造語TELIMCO(すなち会社そのもの)で、この商品に対するガーンズバック青年の思い入れの強さが伝わってきます。彼はテリムコ無線電信機の通信販売によって一般の人達でも「電波の不思議」を体験できるようにしようとしたのです。日露戦争で有名な「敵艦見ゆ」が発信されたのは1905年(明治38年)5月ですから、同じ年の11月に米国で一般市民へ無線実験キットが販売されていたとは驚きですね。

1905年(明治38年)には、かつてのマルコーニ氏のような非同調式超短波による、「電波実験」が大衆の中で生まれたのです。

私達が一般的に想像する無線の進化は、「自作」無線機時代→「既成品」無線機時代という流れでしょう。しかし米国の大衆無線創生期はそうではありませんでした。一般大衆への部品供給が始まった時期に対して、そんなに遅れることなくテリムコのような既製品が登場したからです。米国大衆無線の創生期においては無線知識に疎い全くの "ど素人"でも、いきなり電波実験の世界に飛び込むことができたし、実際そのような人達がたくさんいました。これは米国だけに見られた特筆すべき現象だといえます。

11) 電波は有線電信の法律下に置かれた(しかし米国だけは追従せず) [アマチュア無線家編]

日本では軍部の意見も勘案した結果、1900年(明治33年)10月10日の逓信省令第77号により電波の国有化(電信法を電波へ準用し、かつ私設を一切認めないこと)を宣言しました。「法2条第5号施設」のページ最終部を参照してください。欧州各国も日本同様に、有線電信に関する法律を無線に適用していました。

最初に電波分野に特化した法律を定めたのは、マルコーニ社の拠点がある英国で、1904年(明治37年)でした。翌1905年(明治38年)にはカナダやオーストラリアなどの英連邦各国の政府、およびインドなどの英保護領・植民地の自治政府でも同様の法律が公布されました。「日の沈まない国」と呼ばれた大英帝国で電波に特化した法で国家管理に移されたという事実は、地球的規模でそうなったということを意味します。

しかし、ただちに欧州各国も追従したかというと、(1905年に無線法を定めたドイツを別とすれば、)第一回ベルリン国際無線電信会議(1906年)の頃より各国の事情に合わせながら段階的に法が整備されました。たとえばフランスは1903年2月に電信法では定めのない無線固有の部分を「無線電信局における電報取扱いに関する布告」を行ったものの、無線法の制定には至りませんでした。そして1907年3月5日に無線電信取締法として作り直し、1910年、1911年にも改正がありました。ただし私設無線実験局は定めなかったようです(なお第一次世界大戦が終結して、通信量が著しく増加するようになると、電波分野に特化したルールの整備が欧州各国で加速します)。

一方でアメリカは1912年まで先進国の中で唯一の電波無法国でした。アマチュアに限らず、商用局に対してもそうです。米国で現代的なアマチュア無線が生まれ、広まった理由はここにあります。またテリムコのような大衆無線機が販売されたことも要因のひとつでしょう。

12) 世界最初の私設実験局制度(英国 1905年3月)[アマチュア無線家編]

まず1904年8月15日に公布された大英帝国無線電信条例(The Wireless Telegraphy Act, 1904)、第一条の第一項を紹介します。

郵政大臣の交付する認可状に従い、かつその定める所の規定によるにあらざれば、何人たりともいずれの場所およびいずれの英国船舶たるを問わず、無線電信所を設け、または無線電信のために、機械を装備し又は使用するべからず。

続いてこれに基づく認可条例を1905年3月に公布し、官設以外の無線電信を公衆通信用(海岸局および船舶局)、実験用、私報用の3つに区分して許可することにしました。世界最初の「私設実験局制度」が創設されたのです。そのため"政府より免許を受けたアマチュア局" の第一号は1905年に英国で誕生したといわれることがあります。しかしその頃許可を受けた英国の私設実験局の運用形態や目的が「アマチュア無線」と呼べるものだったかについては疑問がありますし、私は検証できていません。(なお英国のアマチュア無線は1910年頃より始まったというのが一般的な見解です。)

英国でいち早く私設無線が認められたのは、マルコーニ社の本拠が英国にあったからです。無線を官設に限定し、マルコーニ社の無線機開発の電波実験を禁じることはかえって国益に反するとの判断によるものであり、一般人の電波実験を意図した法制化ではなかったでしょう。

電波を出すのが自由だったアメリカでは"政府より免許を受けたアマチュア局"は1912年12月13日以降(Radio Act of 1912 の施行日)という事になってしまいます。1905年には大衆無線が芽生え、少なくとも1907年には現代的な相互交信するアマチュア無線が楽しまれていますが、(電波は自由に使えたので)違法局ではありませんので、そう考えると「政府によるアマチュア局免許」の早い・遅いはあまり重要ではないように思えてきます。

13) プロ無線に刺激されアマ無線を始めたバーミリャ氏(従免第一号)[アマチュア無線家編]

アメリカで最初にアマチュア免許を取ったと伝えられるアーヴィング・バーミリャ(Irving Vermilya)氏は、無線局が法制化されたことにより1912年12月に、アマチュアの従事者免許の番号「1番」を取得された方です。

しかし同氏のアマチュア無線の「局免許」の方は半年以上後になっています(商務省発行のコールブック初版[1913年7月1日付け]には掲載されておらず、1914年1月1日付けのSupplement No.2版より 2OR として登場)。また後年の彼のQSLカード(W1ZE)には"The FIRST Licensed Amateur Operator in the U.S.A."と印刷されています。

バーミリャ氏はまだ11歳だった1901年よりマルコーニ社の無線通信を聞きたくて受信機の研究を始めたと語っています。やはりこのことからも無線はプロが先行し、その影響を受けてアマチュアが誕生したことがわかります。なおバーミリャ氏が送信実験を開始した時期は(はっきりとは明言されていませんが)受信の数年後ということですから、1904-5年頃ではないでしょうか。

左図はRadio News1938年5月号(p31,64)にある同氏の伝記"No. 1 HAM" です(当時47歳)。

この外にもいくつかの雑誌で取上げられています。古いところではARRLのQST1917年2月号(pp8-12)同3月号(pp10-15)に御本人が自伝"Amateur Number One" を寄稿されています。同氏は1920年代前半のラジオ放送スタート期にラジオ局WDAU, WBBG, WNBH などを次々に立ち上げました。

14) ロングセラーとなったテリムコ(1906年~) [アマチュア無線家編]

1906年(明治39年)になると改良機「テリムコ 2号」が発売されました。 レジャーボート専門誌The Motor Boat(毎月10, 25日発行)の2月25日号が、個人の小型ボートにも設置できる「テリムコ 2号」を新製品として紹介しました。

読者が大型客船に据え付けられたマルコーニ社などの船舶無線と混同しないように、わざわざ「1マイル以上には届かない」と強調している点が、無線が一般化していない時代を感じさせます。

A New Wireless Telegraph Outfit

The TELIMCO No.2 is very popular short distance wireless telegraph outfit, and is sold strictly upon its merits. With this outfit it is possible to work from a boat to a station on the land, it is not situated more than one mile away. ("A New Wireless Telegraph Outfit", The Motor Boat, 1906.02.25, Motor boat publishing Co., p34)

Popular Mechanics誌には1906年1月号よりテリムコの広告を出していましたが、下図1906年3月号(p379)より「Telimco No.2」に変わりました。

またScientific American誌の場合、1906年3月10日号に初めて「Telimco 2号」の広告が打たれました。テリムコは一般大衆無線として人気を博し、殺到する注文に生産が追いつかないほどだったといいます。

The telimco was a big success. Business was so brisk that the company had difficulty keeping up with demand. 』 (Larry Steckler, "Hugo Gernsback - A man well Ahead of His Time", 2007, Book Surge Publishing, p31)

Popular Mechanics1907年(明治40年)7月号では「テリムコ 3号」が発表されています(図)。

送信機のバッテリーを4本直列(テリムコ2号までは3本直列)にして送信パワーを増大させています。後日、少なくとも「テリムコ 4号」が製品化されました。

ちなみに雑誌広告で私がテリムコを確認できた最後のものは、Popular Electricity1911年(明治44年)1月号のエレクトロ・インポーティング社の広告です(左図:表紙と広告ページ拡大

1905年11月の発売からもう5年以上になります。ここにはテリムコ「何号」という表示はなく、その他大勢の製品の中のひとつなので、販売ピークは過ぎているのでしょう。価格も$7.70に値下げされています。

15) テリムコの波長や実用距離は? [アマチュア無線家編]

一般大衆を短波実験へいざなったテリムコ(Telimco)の波長や実用距離がどれくらいだったかが気になるところです。

この写真を見る限りでは、アンテナはせいぜいあって全長1m程(一書によると1-1/2フィート=45cmという記述もあります)で、両端を直角に折り曲げたヘルツ・ダイポールです。ここから輻射された成分はVHF帯にピークがあったといわれています。

商品カタログによると、この状態での実用距離は300フィート(約90m)ですが、エレメントの片方からリード線を引き出して水道管またはガス管(上図:G)へ接地すれば実用距離が500フィート(約150m)まで伸びると説明しています。

さらにもう片方のエレメントからも線を引き出して、周囲との絶縁に気をつけながら高さ7-8mまでアンテナ線を伸ばすと(上図:A)、1マイル(約1.6km)以上通信できるとしています。1945年(昭和20年)にガーンズバック氏が大衆無線機テリムコ誕生40周年を祝う記事"40 Years of Home Radio"Radio Craft誌に書かれた際にも、同様の実用距離が示されています(Hugo Gernsback, “40 Years of Home Radio”, Radio Craft,1945.1, Radiocraft Publications, p256)

テリムコは非同調式で、接地式アンテナ長の4倍の波長が最も強く輻射されるといわれており、外部アンテナで波長30m(周波数10MHz)付近の使用を想定していたようです。ただしガーンズバック氏はアンテナを100フィート(=30m)以上長くすることを推奨していません。マルコーニ社が短波の低い方(波長100-120m, 2.5-3.0MHz付近)を船舶通信に使っていたため、それに妨害を与えないように考えていたかも知れません。

【参考】 ガーンズバック氏がテリムコを同調式の無線機にしなかったのは、価格面のほかに「同調式特許への抵触」を避ける意味もあっただろうと想像します。

16) 大衆無線機第一号としてヘンリーフォード博物館に保存展示(1957年~) [アマチュア無線家編]

1955年(昭和30年)、世界初の一般大衆向け無線機テリムコ(Telimco)誕生50周年を記念してガーンズバック氏自身の手で復刻品の製作がはじまりました。

1956年(昭和31年)3月19-22日に開催される無線技術者学会IRE(Institute of Radio Engineers、現IEEE)National Convention(左図)でデモンストレーションするためです。

そしてにFCCより火花実験局KE2XSXの特別ライセンスを得ました。下図がその時にFCCが発行した無線局免許状(Radio Station License)です。

左上に局種:Experimental(実験局)、右上にコールサインKE2XSX(当時実験局はXから始まるコールでした)が、その下中央には免許人であるHugo Gernsbackの名前とニューヨークの住所が見えます。

さて気になる免許された周波数、電波型式、電力は次のようにタイプされています。

Frequency:  Above 30Mc」「Emission:  Type B」「Power:  100 Watts input

そしてコールサインの送出を免除する注書き「Authority is granted to operate this station without transmission of call letters.」があります。

最後に免許の有効期間を1956年3月7から3月25日として、FCCのMary Jane Morris氏のサインが見えます。

1957年(昭和32年)4月5日、ガーンズバック氏は復刻したテリムコ送信機とその受信機を、エジソン学会が管理運営する米国ミシガン州ディアボーンのヘンリーフォード博物館(Henry Ford Museum)に寄贈しました(左図:向かって右が寄贈するガーンズバック氏)。

テリムコは"the first radio set ever sold to the Public" 『一般大衆向けに販売された最初の無線機セット』として保存展示されました(左図)。写真は寄贈直後のものです。現在どのようなかたちでテリムコが展示されているかどうかは知りません。

◎博物館へのリンク 送信機受信機

17) アマチュアから海軍無線への混信の始まり(1906年2月) [アマチュア無線家編]

Popular Mechanics1905年(明治38年)7月号に11歳のラジオ少年が無線機の製作記事を書いたり、また同年11月短波無線機テリムコが発売になり、最も刺激を受けたのは科学に興味を持つ少年たちだったようです。

テリムコの改造や送信機の自作に挑戦する少年が現れました。しかし彼らが組み立てるのは原始的な非同調式で、軍用局への混信事件の始まりでもありました。1906年(明治39年)2月21日、イリノイ州の日刊紙Rock Island Argusから引用します。

ニューポートの高校生Lloyd Manuel 君(16歳)が組立てた送信機が海軍無線に混信を与えたため、海軍のAlbert C. Gleaves司令官はこの学生の無線機の詳細について調査を始めたと伝えています(左図)。

この高校生は自動車用のインダクションコイルを利用した火花送信機の実験をしていました。全米の複数の新聞がこの高校生の事件を伝えていますが、無線の混信が社会問題になる前でしたので、困った問題だとしつつも、けしてラジオ少年を一方的に責めるものではありせんでした。まだ大らかな時代だったといえるでしょう。

無線雑誌Technical World Magazine(1906年9月号, pp63-65)に、そのニューポートの高校生を取材した、"Wireless Station in Henhouse"(鶏小屋の無線局)という記事があります(下図)。やはり学生に対して好意的な論調でした。Lloyd Manuel 君は使っていない鶏小屋を無線実験室にして、さらなる無線機の改良に注力していました。彼の家族はこの「未来のエンジニア」を応援しているそうです。

【参考】1912年に商務省がRadio Act of 1912を施行すると同時にManuel氏もアマチュア局1TH(入力800W)のライセンスを得ています。第一次世界大戦で中断。戦後は違うコールサイン1MVに変わりました。

一方でこの事態を憂慮する記事もありました。

電機の専門週刊誌 Electrical World (McGraw Publishing Company) の編集部はニューポートの高校生の事件をとても重視し、"Regulation of Wireless"という記事を3月3日号のトップ(pp1-2)に据えて、今や米国の無線電信は「法律による規制」か、「カオス状態」かの、岐路に来ているのだとしました(図)。

同誌はアメリカも欧州各国のように、国家による電波監理を行うべきだと訴えましたが、世に無線混信問題の重要性がうまく伝わらなかったのか、議論は進みませんでした。

そして1年後、別の地域で悪質なイタズラ事件、すなわち上記Electrocal World誌が心配した「カオス状態」が始まったのです。これについては後述します。

18) アマチュア・学生向けの無線入門書が出版される(1906年) [アマチュア無線家編]

ニューヨークのThomas Matthew St John氏は電気部品を販売しながら、少年向けに電気工作入門書を出版していました。以下の著書があります。

その彼が1906年(明治39年)Wireless Telegraphy For Amateurs and StudentsT.M. St John Pub.)という本を少年向けに書きました。

テリムコと同じく非同調式の火花送信機とコヒーラ受信機の組立て方、アンテナの建て方や接地のとり方が詳しく説明されています。For Amateurs and Students とある通り、この本は少年たちにとって絶好の入門書となったようです。

◎送受切り替え機構がない(相互交信を楽しむには至っていない)

しかしモールス符号表も掲載されていますが、アンテナを送受信で切替える機構説明がありません。

つまり出版された1906年当時には、誰かと交信するという発想にはまだ至っていない思います。

19) 天才ラヂオ少年が新聞で紹介される [アマチュア無線家編]

1906年になると無線の世界に飛び込んでいった少年の中から、大人たちを驚かせるような天才ぶりを発揮するラオ少年も現れるようになり、新聞がこぞって取上げるようになりました。

1906年10月26日、ミネソタ州ミネアポリスの日刊紙The Minneapolis Journal"SCIENTISTS AMAZED BY BOY'S WIRELESS - Yale Is Astonished by 13 Year Old's. - Remarkable Experiments." と題する記事で、13歳のラオ少年Malcolm Doolittle君の無線研究について、驚きをもって取上げました(左図)。

1906年11月2日、サウスカロライナ州コロンビアの日刊紙The Herald and Newsも、彼の事を"A Wireless Expert at 13"と報じました。

さらに1907年(明治40年)3月14日にノースダコタの日刊紙Willistory Graphic"Boy Who is an Expert in Wireless Telegraphy" という記事ではイラスト画入りで紹介されています(図)。科学少年界のスター選手ですね。

まだ現代のアマチュア無線のように相互交信する楽しみ方は興っておらず、一匹狼だったDoolittle氏の無線実験はこれ以上発展することなく終息へ向いました。のちにイェール大学で電気工学を学び、学校の休み期間にはUWT社やマルコーニ社で通信士のアルバイトをしていました(1915年卒業)。

1920年2月にアマチュア無線局1GAI(入力800W)のライセンスを得て、シチズン・ラジオ(=1,500kHzのアマチュア無線局の免許で行うラジオ放送のこと)をはじめました。しかし規則改正によりアマチュア資格ではラジオ放送が出来なくなったため、資格を取り直して1922年12月にラジオ放送局WPAJを開設し初期の米国放送界で活躍しました(ラジオ放送はアマチュア無線から分家したものだというのは本当の話です)。1925年には同ラジオ局に自分の社名が入ったコールサインWDRCDoolittle Radio Corporation)を得ました。

20) ついにアンテナの送受信切替器が登場する [アマチュア無線家編]

ガーンズバック氏が書いた1906-7年頃のテリムコの通販カタログに、一つのアンテナとアースを送信機と受信機に切り替える方法の解説が登場しました(下図)。

左側が火花送信機で、右側がコヒーラ受信機です。

中央の2回路2接点スイッチでアンテナとアースを切り替えます。

このカタログが発行された正確な時期を追い込めていないのが残念ですが、この記事がそれまで自己の送信機と受信機の間でのみ行っていた伝播実験から、誰か他人と「交信する」事への導火線に火を付けることになりました。

ガーンズバックが(交信する)アマチュア無線の誕生を誘導したともいえるでしょうこのあと述べますが、ヒューゴー・ガーンズバック氏はさらに深くアマチュア無線の発展にかかわって行きます。

しかし送受信の切替え器によって、離れた場所にいる他人と交信するには、これまで以上に強力な火花を放つ必要がありました。幸い送信機の構造は極めてシンプルで、インダクションコイルと火花ギャップだけです。電気の専門知識もほとんど必要ありませんし、部品の市場流通も良くなっており、お金さえあれば、より強力なインダクションコイルを買うことができました。そのためテリムコを卒業してハイパワー化が始まりました。テリムコの位置付けは入門者用無線機といったところでしょうか。

21) 相互交信はいつ頃から始まったのか? [アマチュア無線家編]

ではラヂオ少年たちの到達距離テスト(1Way)が、相互無線交信(2Way)に変わっていったのはいつ頃なのでしょうか?

私が知る最も早期の「相互交信」としては、1906年10月25日のノース・ダコダの新聞Jamestown weekly alert("Wireless A Toy for Boys:Youngsters In Iowa and Virginia Exchange Greentings Daily", Oct.25,1906, p2)などに取上げられた、アイオア州バーリントンの高校生H.C.Hanson君(17歳)とバージニア州ウェーンズボロの高校生Leonard Decker君のQSOが挙げられます。

どうも記事中のTOY(おもちゃ)という言葉から、大人から見れば子供の「無線ごっこ」として映っていたのでしょうかね

彼らの詳しい活動実態は分かりませんが、高校生が組み立てた貧弱な非同調式無線機で約1,100kmものDX交信ですから大したものだと思います。

ただしこの交信は極めて異例なもので、「相互交信するアマチュア無線」という趣味が全米の大都市の学生たちの中で自然発生的に興ったのは1907年になってからのようです。

22) とうとう電文改ざん事件が発生 (1907年) [アマチュア無線家編]

非同調式の回路の単純さと、部品が簡単に手に入るようになったことが、無線への入門障壁を大きく下げていました。しかし誰でも無線に手が出せるようになったという事は、不心得者も出てくるという事でもありました。

下図はElectrical World1907年5月25日号です。昨年2月のニューポートの高校生による海軍無線への混信事件の際に、「無線法を整備するべきである」と主張していた同誌(1906年3月3日号)の危惧が現実のものになりました 。

ついに一部の無線実験家による海軍無線への悪質なイタズラ事件が起きたのです。

Wireless and Lawless (無線と無法)」というp1023の記事で、ある電文改ざん事件を紹介し、政府行政官には無線局を妨害から守るための権限が与えられていないため(法の未整備)、いまワシントンの海軍ヤードでは大変な事態となっていると報じました。

事件をざっくり意訳すれば、「自らを遠方の海軍基地や洋上の戦艦だと名乗って、偽の無線メッセージに改ざんして送ることを楽しみとしている、ワシントンの海軍ヤードの近くに住む若者を、地方警察当局に訴えましたが、この若者に無線を止めさせる力は彼らにはありませんでした。」という感じでしょうか。

According to advices from Washington, the apparent condition that there is no law giving authority to government officers to protect official wireless stations in the exchange of messages is giving a great deal of trouble to the station at the Washington navy yard.  A youth living near by, the son of a policeman, has set up a station of his own, and takes delight in interpolating messages during official exchanges.  He has represented himself to be at distant naval stations or at sea on warships equipped with wireless apparatus.  The local police authorities were appealed to, but said they had no power to interfere with the young man's experiments. ・・・(略)・・・ 』 ("Wireless and Lawless", Electrical World, 1907.5.25, McGraw Publishing Company, p1023)

23) 進化しない大衆の無線機 (1907年) [アマチュア無線家編]

科学雑誌 Electrician and Mechanic (Sampson Publishing Co.社)1907年(明治40年)7月号pp8-10と、8月号pp41-42T.E. O'donnell氏の"The Amateur's Workshop - An Experimental Wireless Telegraph Outfit"というアマチュア向け無線機の製作記事が載りました。

7月号は送信機の製作でインダクションコイルにスパークギャップだけの非同調式のもの、8月号は受信機でコヒーラとデ・コヒーラ(復帰用リレー回路)が付いただけの非同調式でした。

【参考】 このElectrician and Mechanic編集部は読者に呼び掛けて、世界初の無線クラブを結成(1908年8月1日)。

本ページ冒頭で紹介した1901年9月14日号のScientific American誌に書かれた送受信機の製作記事から何の進化もありません。まるで19世紀末のマルコーニ氏のブリキ缶アンテナとアースの実験機ですね。また送受信の切替え方法については一切触れられていませんので、まだ自分の送信機と受信機の間で、電波が届くことを確認することだけが楽しみだったようですこのようにアメリカでは部品さえ手に入れば、技術力など無くても、誰でも簡単に無線実験が出来ました。

私は1905-1907年を(アメリカだけに見られる)大衆無線の時代だと位置付けています。しかし一般大衆が無線機を手にできる環境が生まれ、一般大衆による無線実験行われたにも関わらず、大衆無線は簡単にはアマチュア無線へと発展していきませんでした。次にその理由をみていきます。

24) なぜ大衆無線は、アマチュア無線に発展しなかったか? [アマチュア無線家編]

大衆無線機テリムコが発売されても、なかなかアマチュア無線に発展しませんでした。その最も大きな理由は通信圏(サービスエリア)があまりにも狭かったことです。

1907年頃の大衆の無線機は非同調なので、飛びも悪いし、受信性能も低くいです。テリムコの商品カタログによると実用距離は300フィート(約90m)で、テリムコの一を水道管またはガス管へ接地すれば実用距離が500フィート(約150m)に延び、さらにもう一端に外部アンテナとして、導線をつなぎ高さ7-8mまで伸ばすと最大1マイル(約1.6km)だとしています。

大都市の公立小学校の校区をカバーできるかも怪しいくらいで、外部アンテナを使っても1.6kmです。ですからテリムコのような大衆無線機がよく売れたといっても無線マニア同士が「お空で "偶然" 知り合う」のは、まず無いでしょう。

(私は現役ハムではないので、あくまで想像ですが)東京23区内でも、曜日や時間帯によっては閑散としたVHFバンドはありませんか?世界的にもアマチュア局数が多い日本の、それも人口密度の高い東京23区で、超高性能無線機に高利得アンテナを使っても、なかなかCQに応答がないことがあるとすれば、1905-7年の米国の「お空の状況」はだいたい想像が付きます。

つまり非同調式無線機の時代(自分の発射電波を、自分の受信機で受けて、到達距離を確かめる一匹狼の無線実験家」から「相互交信する現代的なアマチュア無線」へ、そう簡単には遷移しない(できない)と考えられます。

アマチュア無線の神話「無線黎明期に個人実験家が実験を繰り返すうちに、偶然、未知の電波が入感し、相互通信し、仲間が増えて行った。」

・・・そんな偶然はないでしょう。遠くへ飛ばないし、遠くを聞く受信性能もありませんから。

25) なぜ大人の世界では、アマチュア無線が生まれなかったのか? [アマチュア無線家編]

当時でもより遠くへ飛ばしてみたい大人は、お金さえ出せばテリムコよりも高圧で、大電流を発生できるイグニッション・コイルを入手することはできました。そしてお金さえあれば、自宅の屋根に立派な大アンテナを建設することもできたでしょう。これらの大人たちの無線設備への投資が「趣味・娯楽」目的ではないのはもちろんですが、「科学としての無線研究」を目的とするものでもなく、「無線電報を扱う通信ビジネス」に使えるかを最大の関心事として、無線を試していたようです。

有線電報ビジネスは、電信柱を建てて、電信線を張り巡らせるというインフラ整備に莫大な資金を要しますが、無線だとその費用を要しないと彼らは考えたのでしょう。

自分の送信所と、自分の受信所の間で、安定的に無線電報を流す必要があります。もしそこへ他社・他人の電波が割り込んで来るなら、それは迷惑なことでしかありません。

アマチュア無線の神話「無線黎明期に個人実験家が実験を繰り返すうちに、偶然、未知の電波が入感し、相互通信し、仲間が増えて行った。」

・・・そんな神話のようにはならないでしょう。

大人の無線実験家は、それぞれが無線ビジネスの起業を目指すライバル同士ですから、他人の無線実験を妨害することはあっても、ライバル実験家と相互交信することなど、なんの価値もなく、自己の送信機と受信機間の伝播実験にのみ意義があったようです。

通信事業はウエスタン・ユニオン社によるほぼ独占状態であり、やがて自分たちに参入の余地がないと悟った大人の実験家たちは去っていきました。

26) 科学少年の間で人気だった "電報" ごっこ [アマチュア無線家編]

テリムコが発売された1905年(明治38年)11月よりの2年間で何台売れたかのか、その詳細は不明ですが、1907年(明治40年)頃には全米各地において、技術者でもない一般大衆が無線を試したのは間違いないでしょう。

The telimco was a big success. (Larry Steckler, Hugo Gernsback - A man well Ahead of His Time, 2007, Book Surge Publishing, p31)

テリムコの購入したのは大人でしたが、大人以上に無線に強い関心を示したのは実は子供たちでした。

なぜ子供だったのでしょうか? 

図は当時の少年書籍で見つけたイラストです科学に興味を持つ子供たちの間では離れた場所へ信号を送れる(有線式)電信機の組み立てとその実験が人気でした。

そしてモールス符号を覚えて、仲間へ電文を送る「電報ごっこ」に発展したようです。

科学少年達の間にそういう土壌が出来ていたところへ、テリムコのような無線式電信機が登場し、それを購入する友人世帯も現れ、まず(子供たちの世界で)「無線電報ごっこ」が芽生えたと考えられます。

27) 交信するアマチュア無線の始まりを想像してみた [アマチュア無線家編]

ここで「交信するアマチュア無線のはじまり」を、あれこれと想像してみました。

まあ、これに近いことがあって、「娯楽として、交信するアマチュア無線」が全米の子供たちの間で自然発生したのではないだろうか?私はそう考えています。

28) 高校生による1way無線テストの新聞記事 [アマチュア無線家編]

アマチュア無線の神話「無線黎明期に個人実験家が実験を繰り返すうちに、偶然、未知の電波が入感し、相互通信し、仲間が増えて行った。」

・・・繰り返しますが、飛びも悪く、耳も悪く、(日本の大都市部における)小学校の校区ほどのサービスエリアしかない非同調式無線機の時代に、上記のように見知らぬ無線マニア同士が「偶然」出会うなんてことはまず無いでしょう。

子供たちの無線実験は「偶然」聞こえたというものではありません。万全の準備のもとに行われた定時実験です。つまり性能の悪い無線機の時代には、まず「一匹狼」時代に調査した "到達しそうな距離" において、「仲間との定時実験」へ進んだものと考えられます。実際そのような新聞記事がありますので紹介しておきます。

左図は1906年(明治39年)2月3日に発行された米国西海岸シアトルの新聞The Seattle Starにある"School Boys Exchange Wireless Messages"(Feb.3, 1906, p3)という記事です。

二人の高校生が無線で電文を送る実験に成功したと報じています。

1906年2月2日、Frank W. Peters君は学校の科学実験用の送信機に外部アンテナをつなぎました。またRalph Randell君16歳は自宅に無線受信機を設置しました記事には書かれていませんが、やはり学校が所有する科学実験受信機を借りたものと想像します)。

【参考】無線通信の黎明期より、教育用理化学機器メーカーが学校に電波実験セットを販売していますので、当時は学校の科学の実験で無線に興味を持った学生もそれなりにいたのかも知れません。

約束の夜20:30、Peters君はモールス符号で"Can you hear me all right ? " と送信しました。この電文はRandell君の自宅にて完全に受信されて、彼はすぐさま学校へ電話で成功を知らせました(学校とRandell君宅の距離は明らかではありません)。

こういったwayテストが1906年頃より行われるようになったあと、遂にway QSOへと発展して行きます。いわゆる現代のアマチュア無線のように「ラウンドQSO」を楽しむ高校生グループが1907年に登場していますので、次に紹介します。

29) 少年達が "交信" という楽しみ方を編み出し、育てた (1907年) [アマチュア無線家編]

ごく狭域でしか通信できなかった非同調式無線機と、みんなが地元エリア内に住んでいる学校のクラスメイトは、「娯楽として相互交信するアマチュア無線」を生み出すうえで、ベストな関係にあったといえるでしょう。

彼らは「お空で"偶然"知り合った」間柄ではありません。親しいクラスメイトの中から徐々に無線仲間を増やしていったようです。つまり独立した無線研究家が電波で偶然に知合い、集い「交信するアマチュア無線」が形成されていったのではなく、ある仲間の中で「無線って楽しいぞ。お前もやってみろよ」「俺もやってみるから教えて」と、現代でいうLINEの「グループ」を作るような感覚で「交信するアマチュア無線」が生まれ、広がっていったと想像します。

新しく無線を始めるクラスメイトには、みんなで無線機製作を手伝ったり、アンテナ建設を手伝ったりしたでしょう。そして誰よりも書物を読み、研究を重ね、火花送信機やコヒーラ受信機改良して、大きなアンテナと強力な火花を放電させる少年がリーダー格となりアマチュア無線コミュニティーが形成され始めたのは1907年になってからでした

30) 現代的なアマチュア無線が幕開ける(1907年秋) [アマチュア無線家編]

私が調査した中で、「娯楽として相互交信するアマチュア無線」の発祥が確認できる最初の事例はサンフランシスコの高校生たちの無線グループです。

1907年(明治40年)10月6日のサンフランシスコの新聞 The Sun Francisco Call ("Boys' Wireless Stations", Oct.6, 1907, p43)には3人の高校生Frank Rieber君, Kenneth Laird君, Lawrence Chilcote君が無線局を開設し互いに交信していることを紹介しています(左図)。

Rieber君のお父さんは地元大学の教授で、いわゆる恵まれた家庭の子供たちが無線交信を楽しんでいたようです。

このように1905年のテリムコの発売から2年ほどすると、少年たちの間で現代的なアマチュア無線のスタイルが芽生えてきました。そういう意味での「アマチュア無線の歴史」は1907年頃に幕開けたといって良いでしょう。

大人にとって、他人とのコミュニケーションは(現実的には)煩わしい一面もあります。公園で初めて出会った子供とも、すぐに遊び仲間になれる少年期だからこそ、「交信」という新しい無線スタイルが育ったのかも知れません。趣味・娯楽としての「相互交信」は、(大人には馴染まず)少年たちにより育まれていったようす。

31) アマチュア無線の成立期ごろは10MHz付近が主流 [アマチュア無線家編]

現代的なアマチュア無線の成立が1907年ごろだとし、当時のアマチュア無線家はどのあたりの周波数を使っていたのでしょうか?

非同調式送信機ではアンテナ長の4倍の波長がもっとも強く輻射されます。もし長波の100kHz(波長3,000m)を輻射させようとすれば、(単純計算では)その1/4にあたる750m長のアンテナが必要になります。しかし子供たちが自宅に建てるアンテナですから、せいぜい10m長程でしょうか。仮にアンテナ長が7-8mだとすると、その4倍の波長28-32m(9.4-10.7MHz)が一番強く輻射されます。すなわち10MHzあたりが子供たちに多用されていたのかもしれません。

逆算してみましょう。30MHz(波長10m)の1/4波長が2.5mです。3MHz(波長100m)の1/4波長だと25mになります。自宅の庭先の木などにアンテナ線をぶら下げたとすると、ほとんどのケースでアンテナ長はこの2.5-25mの範囲に収まったでしょう。つまり大体1910年頃までのアマチュアの非同調式時代では、短波がもっとも使いやすく、ポピュラーな周波数だったと考えられます。アマチュア無線は長波や中波ではじまったのではなく、短波で誕生して、やがて低い周波数を目指して降りて行きました。

32) 無線界では短波が衰退し中波が主流へ(1908年) [アマチュア無線家編]

ここでいったん当時の(アマチュア以外の)無線界の状況をまとめておきましょう。1900年代に入るといわゆるプロの世界では同調回路が実用化され、電波長(周波数)という新しい概念が導入されました。

無線先進エリアの欧州では、1900年5月15日、マルコーニ国際海洋通信会社により波長120m(2.5MHz)を使う船舶公衆通信(海-陸)が商用化されました。長波の方は、1907年(明治40年)10月17日、マルコーニ社が大西洋を挟んだアイルランドのClifden局とカナダのGlace Bay局間で、波長5000-7000m(周波数60-43kHz), 電力80kWによる国際公衆通信(陸-陸)サービスを開業しました。無線通信は高い周波数から低い周波数へ向かって開拓されましたので、長波の商用化は中短波より、7年も遅かったのです。

その後も「長波」は苦難の道を歩み主流にはなれませんでした。海底ケーブル会社が独占する国際公衆通信市場を切り崩すのは価格面からもサービス面からも大変なことだったからです。日本無線史第5巻から引用します。

『 (第一次世界)大戦までは(長波の)長距離連絡の発達は極めて遅々たるもので、(電波先進国の)英国に於てすら公衆通信を取扱ったものは愛蘭(アイルランド)のクリフデンとノヴァスコチア(カナダ)のグレース・ベイとの間だけであった。 (電波監理委員会編, 『日本無線史』第5巻, 1951, p107)

長波の価値が見直されたのは、ずっと後の第一次世界大戦中のことです。無線ビジネスは有線ケーブルではどうにもならない船舶局との海上公衆通信(電報)で発達しました。参考までに1905-08年頃の電波の利用状況をざっくり示しておきます(下図)。

その後、1906年(明治39年)第一回国際無線電信会議(ベルリン)では公衆通信(電報)を行なう海岸局と船舶局の国際周波数を中波の500kHzと1,000kHz(通常)に定めました。

1908年(明治41年)7月1日、の規則が発効しました。1000kHzが船舶通信の通常波になったため、短波は急速に衰退し、中波が花形周波数となりました(マルコーニのページ参照)。

【参考1】 合わせて遠距離通信の固定局や公衆電報以外の無線局は188kHz未満と500kHz以上としました。(軍用無線局の波長は各国政府の自由ですが、)商用局を188-500kHz帯から退けたのは、ここを軍用とする想定があったと考えられます。

【参考2】 世界の一等国入りを目指す日本は、同会議の条約と附属規則が発効する1908年(明治41年)7月1日を目標に、公衆通信(無線電報)を扱う無線局の建設と、国家認定の通信士の養成を急ぎました。そして発効直前の1908年5月16日に銚子海岸局(JCS)と天洋丸船舶局(TTY)が1000kHzの一波でまず開局し、日本の公衆通信(電報)ビジネスがスタートしました。

33) アマチュア無線キッズ vs 議員(1908年3月) [アマチュア無線家編]

1908年(明治41年)3月29日新聞The San Francisco Call 第3ページ全面を使った "STOP IT, KID !" Cries CONGRESS to the AMERICAN BOY (議会が少年達に「無線をやめよ!」)という記事があります。

イラストを見ると、子供が友達と屋根に登って無線のアンテナを建てているところへ、左手に令状の様なものを持ってやって来たお役人が、「おい。お前たち。アマチュア無線なんか止めて、学校の勉強をしなさい!逮捕するぞ。」と叱っているのでしょうか。子供たちの目は「あ~ん。なんだよ。嫌なオヤジが来たぜ。」という感じですね。そして男性の遠方には意味深に合衆国議会らしき建物があります。

これは近年来、全米各地で無線を試していた少年たちが、少しでも遠くへ飛ばしたいという想いから、大きなアンテナを使い、周辺の政府局や商業局に混信を与えたり、偽のメッセージを送ったりする事案が出ているため、法案第17719号が提出されたことを受けての新聞記事でした。

この法案の骨子は、虚偽の通信(a false wireless message)を行なったり、公衆通信に妨害を与えたり、あるいは公衆通信局のオペレーターから受けた、混信停波要求に従わなかった者に、2000ドル以下の罰金もしくは1年以下の懲役を科すというものでした。

【注】 まだこの時点では民間無線を国家の免許制にしようとする法案ではありません。そしてこの法案は通過しませんでした。

House Bill No.17719

Be it enacted by the senate and HR of the United States of America in congress assembled:

That it shall be a punishable offense

(a) to originate or transmit a false wireless message purporting to be official;

(b) or to break in and interfere with any wireless station, while it is transmitting an official message;

or (c) to refuse to cease or fail to cease sending a private wireless message when called upon to do so by an operator having an official message to be sent.

Any person committing anyone or more of the above, offenses shall for each offense be punished by a fine of not exceeding $2000, or by imprisonment not exceeding one year, or both."STOP IT, KID!" Cries CONGRESS to the AMERICAN BOY, San Francisco Call, 1908/03/29, p3)

記事にある写真はサンフランシスコ(アラメダやバークリーなど)でアマチュア無線をしている少年たちの無線室やアンテナです(一枚だけは商業局のアンテナ)。彼らは10~18歳でした。

In San Francisco and the bay towns there are more than a score of such stations put up and operated by boys from 10 to 18 years of age. Alameda and Berkeley are fairly dotted with them.(同)

まだ非同調式を使う商用局も一部で残っていた時代ですから、アマチュアが短波を使っていても、中波の商用局に妨害を与えることもありました。

日本ではこの年の5月16日に銚子無線JCSと天洋丸TTYにより中波1,000kHzを使った逓信省の無線ビジネスを創業したばかりです。それと同じ時期にアメリカでは子供たちがアマチュア無線を楽しんで商用局とトラブルになっていたとは、国力の差を感じざるを得ませんね。

34) 趣味の無線専門誌 Modern Electrics の創刊(1908年4月) [アマチュア無線家編]

ガーンズバック氏のElectro Importing社は順調に業績を伸ばしていました。

ただ通販という性格上、部品性能の問い合わせに対する返信や、部品への参考資料の添付、そして興味をひき付けるための通販カタログの製作など、筆を執る機会がとても多くなりました。まだ実践的かつ最新情報が得られる無線の専門誌が世の中になかったからです。そこでガーンズバック氏は自ら実験家向けの無線雑誌を発行しようと思い立ちModern Electrics出版社を作りました。

1908年(明治41年)4月、Modern Electrics誌が創刊されました(左図:創刊号)。特に注目したいのはModern Electrics誌が軍用局や船舶局・海岸局の記事を取上げたことです。

左図は創刊号にある「米海軍が2つの無線記録達成」"U. S. N. Makes Two Wireless Records"(Modern Electrics, 1908.4, pp18-19)という 記事です。3月上旬、メキシコのアカプルコ沖(北緯14度37分、西経102度01分)にいた米海軍の軍艦が発する電文が、2,000マイル離れたフロリダ州ペンサコダ沖と、2600マイル離れたサンフランシスコに届いたニュースを速報しています。これは雑誌(月刊)だからこそできることでした。

テリムコによる短波の送受信実験とは全く異なる世界がそこに予見されました。聞くだけであれば、送信機が要らない分、技術面でも金銭面でもハードルが下がって「中波の受信」はまたたく間に科学少年達に広がり、新たな無線ファン層を開拓しました。

またModern Electrics誌のおもしろい企画に"Wireless Contest"と"Laboratory Contest"がありました(まもなく両者は一本化)。無線ファンの読者から実験室の写真と紹介文を募り、上位3局の実験室を誌上で紹介するコーナーです(下図)

入賞者には3ドルの賞金がでました。読者仲間の設備を参考にでき、かつ適度に競争心を煽るもので、その後に出版された無線雑誌にも同様のコーナーが取り入れられましたが、Modern Electrics誌が本家本元です。その一例を引用します。

Enclosed find picture of my shop and wireless station. On the left is my lathe, tools and supplies. On the right is (first) my switch-board for motors, lamps, etc. Next is part of my wireless. The rate of my coil is one-inch. My wavelength is 50 meters. I have had very good results from my station. The nearest commercial station is about 2 miles distant. I would like to add also that Modern Electrics is a great paper. Some day when I get a large camera I will send you a picture of my whole shop, which is fifteen feet square.   Ben Orr, Texas. ("Laboratory Contest", Modern Electrics, 1909.1, p362)

テキサスに住む、Ben Orr氏が紹介されました。波長50m(周波数6.0MHz)を使っていたそうです。

Modern Electricsの創刊号で集まった広告主はDIY(手作り工作)系の会社や、発明の特許出願を請負う "特許事務所" などでしたが、やがて無線部品販売会社の広告も扱うようになり、無線ファンの貴重な情報源として支持を集めるようになりました。 

35) Popular Electricityの創刊 無線の連載も(1908年5月) [アマチュア無線家編]

1908年(明治41年)5月、シカゴで総合電気月刊誌Popular Electricityが創刊されました(Popular Electricity Publishing Co.)。無線の専門誌ではありませんが、V.H. Laughter氏が "Wireless Telegraphy Made Simple" という連載をスタートさせました。

創刊号(5月号)では "Part 1: Construction of a Simple Wireless Telegraph Set"(下図)として、インダクションコイルにスパークギャップを付けただけの非同調式火花送信機と、デ・コヒーラ付きの非同調式コヒーラ受信機の組み立て方を詳しく説明しました。これは1890年代のマルコーニ氏の無線機ですね。でもこんなに簡単な無線機だからこそ誰でも入門できたわけです。

6月号は "Part 2: Wireless Telegraph Transmitters" で、プロ各社(De Forest式, Stone式, Massie式, Fessenden式)の同調式火花送信機を解説しました(下図左側:各方式での同調回路を構成するLとCを赤字で示します。周波数はLのタップで調整。)。7月号は "Part 3: Wireless Receiving Ends" で、プロ各社の同調式受信機の解説でした。

結局プロ各社の同調技術を解説するだけで、アマチュア向け同調式の送信機や受信機の製作を指南するような記事はありませんでした。

つまりプロの世界では同調式が普及していたのに対して、アマチュア無線界はまだまだ非同調式だったことが伺えます。

8月号は "Part 4: Aerial Wires" で、アマチュアのアンテナの建設方法およびアンテナを送受信切り替える方法が説明されています(図右側)。1908年にはもう他局と交信する「現代的なアマチュア無線」の時代であることがわかります。そして9月号が連載最終回 "Part 5: General Review and Results" でした。

連載は9月号で終わりましたが、読者の反応が良かったようで、読者による無線クラブの設立が検討されました。次にご紹介するとおり、Electrician and Mechanic誌の編集部が1908年8月1日に世界初の無線クラブ "The Wireless Club" を作ったことに刺激されたのかもしれません。後述しますが、Popular Electricity誌の編集部は1909年1月号p546で"Popular Electricity Wireless Club"の設立を宣言しました。

36) 世界最古の無線クラブ The Wireless Club  結成される(1908年8月1日) [アマチュア無線家編]

1908年(明治41年)4月にガーンズバック氏が創刊した趣味の無線専門誌 Modern Electricsは全米の若者達を強く刺激し、アマチュア無線人口を増加させました。やがて各地で交信仲間ができて、それが無線クラブ(Wireless Club)へと発展して行きます。ガーンズバック氏が初期のアマチュア無線界で果たした功績はとても大きかったと私は信じています。

ガーンズバック氏によるModern Electrics 誌の創刊とその評判が上々なことに驚いたのが科学雑誌 Electrician and Mechanicでした。

同誌は無線関係のニュースは時折扱っていましたが、アマチュア向けの製作記事は1907年の7月と8月号で取り上げただけです。市場調査も兼ねてか?1908年5月号のエディターページで読者に無線クラブの結成を呼びかけました(左図[上])。

そして9月号で1908年8月1日に114名の読者で"The Wireless Club"を結成したことを発表し(図[下])、その会員名簿を掲載しました。実にシンプルなクラブ名ですが、私が知る限りではこれが世界で一番古い無線クラブです。

This organization has started with a good show of interest, and up to August 1 we have enrolled one hundred and fourteen members. ("The Wireless Club", Electrician and Mechanic, Sampson Publishing, Co., p137)

"The Wireless Club"の会費は無料で、今後は地域単位で無線仲間同志の交流会を企画するので、賛同者は普段使っている呼出符号と無線設備を知らせて欲しいとさらに会員を募りました(しかし大きくは発展しなかったようです)。

ちょうどガーンズバック氏はアメリカ無線協会WAOAの設立を準備中(リー・ド・フォレスト氏らと交渉中)で、この"The Wireless Club"に先を越された形になりました。

37) テリムコ Walking Wireless Station(1908年秋) [アマチュア無線家編]

ガーンズバック氏は中々の夢のあるアイデア・マンでした。 一般大衆に対して無線機を広めるために彼が思い付いたのが "Walking Wireless Station"(歩行移動局) でした。

1908年(明治41年)秋、胸に下げたショルダーバッグにバッテリーパックを詰めて、背中からはテリムコ(Telimco)の広告看板を高く掲げ、さらに看板の上にはテリムコの火花送信機を乗せて、マンハッタンのブロードウェイ周辺を歩きながら電波を発射する実演広告を行ないました。拡大写真をみると、テリムコ本体のダイポールとは別に、国旗を掲揚したマストから超小型の4列逆Lアンテナのようなものが見えます。

これはダイポールから引き出された外部アンテナで、周囲を走る自動車からのノイズを受けながらもブロードウェイで2ブロック(街区)離れた地点と通信できました。

ポケットに忍ばせた送信ボタンを押すとバチバチ音を立てて火花が散るので、珍しいもの好きのニューヨーカー達が続々と集まってきてデモンストレーターを取り囲みました。交通が妨げられるため、警察官が見物人を分散させようと何度も注意するほどだったそうです。「これはどこに行けば買えるのかい?」きっとそんな質問責めに遭ったのでしょうね。

私は法により電波が管理される時代において、"あえて"一般市民に電波を開放する制度が "Citizens Radio" だと考えています。ですから国家管理が始まる前の「Telimco」をCB無線機の元祖だとまでは思っておりません。しかしながら「無線」が技術力のある研究家のみに扱われたのではなく、一般市民でも市販品を買いさえすれば無線通信できた点は、現代のスマホや携帯電話に通じるところがあり、大変興味深く感じるのです。

38) 大学の無線クラブや高校生の地域クラブが誕生(1908年11月) [アマチュア無線家編]

1908年(明治41年)11月24日付けのコロンビア大学(マンハッタン, ニューヨーク州)の学内新聞Columbia Spectator、P.G. Cole君を会長として学内に無線クラブ "Wireless Telegraph Club of Columbia University" が結成されたと伝えました。

さっそく翌日のニューヨークの新聞 The Sun 紙(1908年11月25日)が、"Wireless Club at Columbia"というタイトルでコロンビア大学に無線クラブが結成された件を取り上げています(図[左])。

1909年(明治42年)1月5日付けのコロンビア大学の学内新聞Columbia Spectorの記事 "Plans of Wireless Club"(左図[右])によれば、コロンビア大学の無線クラブのメンバーは12名になったそうです。

そして冬休みを利用して組立てていた無線機も完成の目処がたち、隣接州のプリンストン大学(Princeton, NJ州)のThe Princeton University Wireless Association を訪問してテストの打合せ会議を行ったことなどが載っています。

すなわちコロンビア大学の無線クラブの結成は1908年11月ですが、無線局を開局したのは1909年1月でした。そしてプリンストン大学の方には既に無線クラブがあったようです。つまり一般的には大学の無線クラブとしてはコロンビア大学が最古のものだといわれていますが、どうやらプリンストン大学の無線部の方が古いようです。

◎高校生たちの無線クラブ

1908年(明治41年)12月17日の新聞The San Francisco Call 紙が2つの無線グループがあったことを報じています(図)。サンフランシスコ近郊の高校生を中心に2つの無線グループがあったようです。

若者の"The Bay Counties Wireless Telegraph Association" と、"The Bay State Association" の2大無線グループがありました。 

39) 大学の無線部について [アマチュア無線家編]

いろいろ調査してみましたが、プリンストン大学の無線クラブThe Princeton University Wireless Associationに関しては情報が見当たらず実態はわかりませんでした。

唯一、1909年(明治42年)3月14日のニューヨークの新聞 New York Tribune に、無線電信の「新しい試み」としてプリンストン大学の学生達とブルックリン海軍基地の通信士が無線電信を使いチェスを行ったとする記事"Chess Contests by Wireless - Princeton and Navy Men Play"(p8)が見つかりました。

新聞は上記の写真入りで取上げており、チェス盤を囲む三人の学生を背にして、ヘッドフォンを掛けて電鍵を握っている部員が写っています。これは同大学の部室で撮影された写真のようです。少し遅れましたが、月刊Popular Electricity1909年5月号が"Wireless to Link American Universities"(pp36-37)というタイトルでこの話題を取上げました。同誌にもまったく同じ写真が用いられています。

コロンビア大学の場合1909年5月12日、ペンシルバニア州フィラデルフィアで開かれた野球大会の各回のスコアを、コロンビア大学無線クラブが無線中継に成功したと、翌日の新聞The Sun紙が取り上げています("Baseball Score by Wireless - Columbia Student Operators Get the Result of the Game With Pennsylvania"

これはユナイデット無線電信会社(UWT:United Wireless Telegraph company)がフェラデルフィアの高層ビルのベルビュー・ストラットフォード・ホテルと、ニューヨークのウォルドルフ・アストリア・ホテル(左図:屋上にアンテナが写っています)間で行った無線中継に、コロンビア大学無線クラブも特別に参加させてもらったものでした。

アマチュア無線の誕生直後は、大学生達が海軍や商業局とも仲良くできていたことを示す好事例ですが、こういう良好な関係が終ろうとしていました。

以上の記事より、学生たちの間で無線クラブが結成されはじめたのが、1908年秋頃だったことが判ります。こういった動きが生まれた背景要因として、趣味の無線雑誌Modern Electricsが同年4月に創刊されたことが、まず第一に挙げられるべきでしょう。

40) アメリカ無線協会WAOAの創設(1908年12月) [アマチュア無線家編]

1908年(明治41年)12月、ヒューゴー・ガーンズバック氏は無線通信の発展を目的とする、アメリカ無線協会WAOAを組織し、三極管の発明で名高いリー・ド・フォレスト(Lee de Forest)氏に会長になってもらいました。24歳のガーンズバック青年実業家は社交性と交渉力も兼ね備えていたようですね。

左図はWAOAの会員ボタンです。このようにガーンズバック氏は無線部品や無線機の供給のみならず、無線情報誌を創刊して知識と情報を与え、さらには無線クラブを創設して米国アマチュアらを組織化しました。

彼自身はアマチュア無線をしませんでしたので現代のハム界からの注目度は高くなく、むしろSF出版界の創始者("SFの父")として称えられていますが、なんのなんの、アマチュア無線法制化前の"ハム創生期"における最大の功労者だったといっても過言ではないでしょう。

ちなみに2004年(平成16年)3月16日、母国ルクセンブルクでガーンズバック氏の記念切手が発行されました。ガーンズバック氏、生誕120周年の年であり、米国移住から100年目でもありました。

【参考1】 ガーンズバック氏がSFに手を染めたのはModern Electrics誌1911年4月号で、彼があてにしていた原稿に穴が開き、急遽彼が連載SF小説「ラルフ124C41プラス」(図)を書いたことによります。1年間の連載で、近未来のエレクトロニクス社会を題材に、無線テレビ電話や電波方向探知機、電波加熱装置など、現実社会より一歩も二歩も先行していたアイデア満載のSF小説でした。

我国では「27世紀の発明王」、「2660年のロマンス」という邦題でも有名です(抄訳版)。

【参考2】 ガーンバックス氏は数多くの無線関係の雑誌を創刊しました。1908年のModern Electrics誌をはじめに、1913年Electrical Experimenter誌、1919年Radio Amateur News誌、1920年Science & Invention誌、1927年Television誌、1929年Short-Wave Craft誌、1931年Television News誌、そして戦後は1948年にRadio-Electronics誌を創刊しました。

41)  アメリカ無線協会WAOAの設立声明 [アマチュア無線家]

さてModern Electrics誌1月号に掲載されたWAOA設立表明文を(長文なので)引用するべきか悩んだのですが、アマチュア無線史のマイルストーンでもありますので、全文掲載しておくことにしました(読み飛ばしていただいても、これ以降の記事の理解への支障はないでしょう)。

なおunder the Auspices of “Modern Electrics" 「後援:モダンエレクトリックス誌」とあるように、Modern Electrics誌がWAOAの機関誌の役割も担いました。

Wireless Association of America,  under the Auspices of “Modern Electrics” The Wireless Association of America has been founded with the sole object of furthering the interests of wireless telegraphy and aerophony in America.

 We are now on the threshold of the wireless era, and just beginning to rub our intellectual eyes, as it were. Sometimes we look over the wall of our barred knowledge in amazement, wondering what lays beyond the wall, as yet covered with a dense haze.

 However, young America, up to the occasion, is wide awake as usual.  Foreign wireless experts, invariably exclaim in wonder when viewing the photographs appearing each month in the “Wireless Contest” of this magazine. They cannot grasp the idea that boys 14 years old actually operate wireless stations successfully every day in the year under all conditions, but they are all of the undivided opinion that Young America leads the rest of the world wirelessly.

 Even Dr. Lee de Forest, America’s foremost wireless authority, confessed himself surprised that so many young men in this country should be in the possession of such well constructed and well managed wireless stations, which is only another proof that the clear headed young men of this country are unusually advanced in the youngest branch of electrical science.

So far America has lead in the race. The next thing is to stay in the front, and let the others follow. In fact he would be a bold prophet who would even dare hint at the wonders to come during the next decade.

 The boy experimenting in an attic today may be an authority tomorrow. However, not even the cleverest inventors or experimenters always have the opportunity of making themselves known to the world, and it is right here that we are confronted with a mystery so far unsolved. Out of 100 per cent of young wireless experimenters, 90 per cent are extremely bashful. Why this should be so is a mystery.

 As stated before the new Wireless Association’s sole aim is to further the interests of experimental wireless telegraphy and aerophony in this country.

 Headed by American’s foremost wireless men, it is not a money-making institution. There are no membership fees, and no contributions required to became a member.

 There are two conditions only. Each member of the Association must be an American citizen and MUST OWN A WIRELESS STATION, either for sending or for receiving or both.

 The Association furnishes a membership button as per our illustration. This button is sold at actual cost and will be mailed to each member on receipt or 15 cents (no stamps nor checks).

 This button is made of bronze, triple silver-plated. The flashes from the wireless pole are laid in in hard red enamel, which makes the button quite distinctive. The button furthermore has the usual screw back making it easy to fasten to buttonhole. The lettering itself is laid in in back hard enamel. Size exactly as cut.

 On account of the heavy plating it will last for years and is guaranteed not to wear “brassy.”

 Its diameter is 3/4 inch. This is a trifle larger than usual the purpose being to show the button off so that it can be readily seen from a distance. The reason is obvious. Suppose you are a wireless experimenter and you live in a fairy large town. If you see a stranger with the Association button, you, of course, would not be backward talking to the wearer and in this manner become acquainted with those having a common object in mind, which is the successful development of “wireless.”

 The Association furthermore wishes to be of assistance to experimenters and inventors of wireless appliances and apparatus, if the owners are not capable to market or work out their inventions. Such information and advice will be given free.  Somebody suggested that Wireless Clubs should be formed in various towns, and while this idea is of course feasible in the larger towns, it is fallacious in smaller towns, where at best only two or three wireless experimenters can be found.  Most experimenters would rather spend their money in maintaining and enlarging their wireless stations, instead of contributing fees to maintain clubs or meeting rooms, etc., etc.

 The Board of Directors of this Association earnestly request every wireless experimenter and owner of a station to apply for membership in the Association by submitting his name, address, location, instruments used, etc., etc., to the business manager. There is no charge or fee whatever connected with this.

 Each member will be recorded and all members will be classified by town and State.  After February 1st, 1909, members are at liberty to inquire from the Association if other wireless experimenters within their locality have registered. Such information will be furnished free if stamped return envelope is forwarded with inquiry. To organize the Association as quickly as possible it is necessary that prospective members make their application at once, and without delay.

 If you are eligible full out application sheet and state particulars as follows: Full name; town; State; age; system and apparatus used; full description of aerial. In order to facilitate quick classification, please be brief and keep application sheet separate from your letter. Modern Electrics, Jan 1909, pp343-344)

入会資格は自分自身で無線局(受信のみも可)を持っていることと、米国籍を持っていることでした。1909年末には会員3,000名を超えましたが、その多くは受信専門の人達のようです。

【参考】 1910~12年には米国のアマチュアの数がすごく大きな数字で伝えられている記事があり戸惑った方もいらっしゃるかと思います。当時は「送信者」に限定するという考え方はあまりなく、受信専門の実験者も含めて「無線ファン=アマチュア無線家」だとカウントされていたからです。これは日本の大正12-15年頃に見られる「ラヂオファン」という言葉と同じで、送信する者も、受信だけの者も、全てを含めてそう呼びました。

42) 世界初の無線クラブは? [アマチュア無線家編]

アメリカ無線協会WAOAの設立はModern Electrics誌1909年1月号(図)で発表されました。そのためWAOAの設立は1901年1月で、このあと述べる「ジュニア無線クラブ」(1901年1月2日)の後に出来たとされることが多いのですが、これについてはガーンズバック氏が次のように述べています。

「1909年1月、ニューヨーク市のthe Junior Wireless Clubが結成されたのは事実です。しかしModern Electrics誌1月号が出版されたのは1908年12月で、WAOA協会の設立準備は1908年11月から12月に行われていたので、無線クラブ「第一号」栄誉はアメリカ無線協会WAOAに与えられるべきでしょう。」原文は以下のとおりです。

It is true that, in January, 1909, another radio organization was formed the Junior Wireless Club of New York City.  But inasmuch as the January issue of the magazine came out in December, and the arrangements for the Association had been made in November and December of 1908, it is most likely that the honors of "first" should go to the Wireless Association of America. (Hugo Gernsback, "The Old E. I. Co. Days", Radio Craft, Mar.1938, Radio Craft Publication, p630)

1938年(昭和13年)はヘルツの電波実験(1888年)から50周年で、無線雑誌Radio Craftの1938年3月はその記念号でした。ガーンズバック氏による「The Old E. I. Co. Days」というElectro Importing社創立当時を振返る記事で述べられたものです。

ガーンズバック氏はWAOAが無線クラブ「第一号」だと主張されましたが。これは正しくありません。ライバル雑誌だった Electrician and Mechanic 誌1908年9月号で1908年8月1日The Wireless Club設立した」と宣言したことを、ガーンズバック氏はすっかり忘れられているようです。

無線クラブ第一号はWAOAでもなく、ジュニア無線クラブでもなく、The Wireless Clubなのです。

43) ここまでのまとめと他国の無線クラブ [アマチュア無線家編]

ここまでのアメリカのアマチュアの歴史を整理します。先行したごく少数の「町の研究家」を除けば、部品が流通しだした1905年(明治38年)頃からWireless Experimentersと呼ばれる無線実験家や(Telimco)既製品ユーザーが現れました。そして大体1907年(明治40年)あたりより、互いに交信しあうことを趣味とする、現代的なアマチュア無線が生まれ、1909年(明治42年)以降、青少年層を中心に「最新科学の趣味・娯楽」として大きく広がって行きました。

米国電波国家管理に移行(1912年)させたあと、商務省から免許を受けたアマチュア達によって1914年(大正3年)5月に発足した組織が、みなさんお馴染みのARRLですそもそもWAOAとは時代区分がひとつ違います。ですのでARRLの文献からアマチュアの"創成期"を読み解くには限界があります。

◎ 他国の無線協会

アメリカのWAOA、ジュニア無線クラブ、The Wireless Clubの会員はどれも純粋にアマチュアでした。同時期にオーストラリアやイギリスでも無線クラブ(協会)が生まれていますので、ご紹介しますが、こちらはプロ・アマ同居状態で誕生しており、アメリカとは同列には語れないように思います。ご注意ください。

1910年(明治43年)3月11日、オーストラリア無線電信協会IWTA(The Institute of Wireless Telegraphy of Australia)が結成されました(左図:メルボルンの新聞The Argus, 1910.3.14, p7)。

IWTAはまもなくTelegraphy(電信)の文字を取り除き、オーストラリア無線協会WIA(Wireless Institute of Australia)として現代に至っています。

また英国では1913年(大正2年)7月5日にロンドン無線クラブLWC(The London Wireless Club)が結成され、同年10月10日にWSC(Wireless Society of London)に改称されました。WSCはアマチュア無線団体というより無線技術の学識経験者の集まり的な組織です。その後10年間に離合集散しながら、最終的に1922年(大正11年)11月22日にRSGB(Radio Society of Great Britain)に落着きました。

44) 少年模型飛行機クラブが「おもちゃショー」に出展(1908年12月) [アマチュア無線家編]

Junior Aero Club(少年模型飛行機クラブ)は1907年2月にトッド氏(Miss E.L. Todd)が創設したクラブです。会員は40名ほどで、飛行機が大好きで、自ら模型飛行機を設計・製作し、定期ミーティングを開いてはそれらを飛ばし合っていました。

1908年(明治41年)12月18-26日、ニューヨーク・マンハッタンのマジソン・スクエア・ガーデンでクリスマスにむけて「おもちゃショー」が催されました。

左図はニューヨークの日刊紙The Sun(12月13日)に掲載された「おもちゃショー」主催者の広告です。よく見ると文中に"Junior Aero Club Exhibit"(少年模型飛行機クラブの展示)とあります。少年模型飛行機クラブは自分たちが作った小型飛行機、気球、グライダー、飛行船などをショーで展示しました。

隣に"Wireless Telegraphy"という文字も見えます。「おもちゃショー」の集客イベント無線電信のデモンストレーションが行なわれました。

当時の子供たちに「無線電信」は大きな興味の対象だった事が読み取れる広告ですね。

45) ジュニア無線クラブの設立(1909年1月2日) [アマチュア無線家編]

ちょうどその頃、Junior Aero Club(少年模型飛行機クラブ)員の何名かは無線電信に興味をもち、試行錯誤を重ねていました「おもちゃショー」で無線電信デモを見て、彼らの「無線電信」への思い入れはさらに強まったようです。

1909年(明治42年)1月2日、ニューヨークのアンソニア・ホテル(the Ansonia apartment hotel)で開かれたJunior Aero Clubの特別ミーティングで、5名のラジオ少年による無線クラブ "The Junior Wireless Club, Limited" を独立させることが決議されました。会長は11歳のストークス君(W.E.D. Stokes)です。少年クラブのミーティングがホテルで行われたとは豪華ですが、実はこのホテルはストークス君の父が経営していました。ストークス君は1908年9月にホテルの屋上にアンテナを建てて、無線実験を開始しました。

It was in 1909 that five boys, averaging 12 years of age, gave amateur radio one of its earliest forward strides by forming the Junior Wireless Club in New York City. (MacPHERSON, "CQ...CQ", Boys' Life, 1951.9, Boy Scouts of America, p9)

このあと後述しますが、1910年春にストークス君はある出来事で全米アマチュア無線家の利益代表として、いわゆる「時の人」となるのですが、その時の新聞は彼を「ニューヨークのミリオネア(millionaire)の息子」だと紹介しています。

さて無線クラブの(大人の)世話役としてJunior Aero Club の創始者トッド氏(Miss E.L. Todd)が名誉会長を、また無線電話の発明者といわれるフェッセンデン教授(R.A. Fessenden)が技術コンサルト役を引き受けてくれました。

のちの1911年(明治44年)10月21日有名な "The Radio Club of America" に改称されて、現在に至っています。アメリカを代表する名門無線クラブですね。

46) アマチュアの混信妨害が社会問題化しだす(1909年2月) [アマチュア無線家編]

1909年(明治42年)2月14日の新聞The Washington Herald紙に『若者たちが空に群がる(Youths Crowd Air)』という記事があります(図)。

ポーツマウス海軍局(ボストンの北方およそ80km)のデ・フォレスト無線システムはアマチュア無線家からの激しい混信妨害を受けていたが、昨日、アゾレス海から帰還中の巡洋艦ヤンクトン(Yankton)からの電文が混信妨害により受信できなかったと報じました。

最近では5Kw級の大送信機を使う若者も現れ、ボストン地区の(特に)金曜夜の「お空」は、お粗末だが強力な"Fool" Apparatus(混信まき散らし装置?)を使うアマチュア無線家に占拠されているし、またニューヨーク近郊でも、(そこまでひどくないにしろ)商業局とのトラブルが起き始めているとしました。

記事の引用文(下記)にもあるとおり、若者たちの無線は自己の娯楽(Own Amusement)として行なわれるもので、"現代的なアマチュア無線"(交信行為) が全米に広まっていたと考えられます。

Air Is Overcrowded

Friday night was amateur night on the Boston wireless circuit. ・・・(略)・・・According to the local wireless managers there is comparatively little trouble with the amateurs near New York.  Few of them have instruments powerful enough to cause trouble.  Brooklyn is a training ground for the young wireless enthusiast.  In that borough there are probably no less than fifty wireless plants operated by boys or young men for their own amusement. ("Youths Crowd Air", The Washington Herald, Feb.14, 1909, p10)

この事件は下記[左]のThe Sun(NYC)、[中]のNew York Tribune(NYC)、[右]のEvening Star(Washington D.C.)等、多くの新聞で取り上げられましたxx。

 ◎The Sun (NewYork)

Amateur Wireless Plague.(悩みの種のアマチュア無線)

◎The New York Tribune (NewYork)

Spoil Communication with Fleet.(艦隊との通信台無し)

◎The Evening Star (Washington DC)

'CQD' For Wireless Call For Help This Time Is From Operators.(先月リパブリック号が救援のCQDを使う事故があったが、今回は海軍通信士が悲鳴を)

Amateurs Make Trouble(アマチュアがトラブルを)

47) ガーンズバックが混信問題に警鐘を鳴らす(1909年3月) [アマチュア無線家編]

新聞各紙は、若者が「無線でのおしゃべり」に夢中で、商用通信や軍用通信が大迷惑をこうむっていると報じたため、若者実験家らの無線妨害が、全米国民に認識されるようになりました。

しかしとても残念なことですが、若者たち(アマチュア無線家)はこの重要問題にほとんど注意を払おうとしませんでした。そこでガーンズバック氏はModern Electrics誌1909年3月号p426のエディターページで警鐘を鳴らしました(下図)。

In the November issue the Editor called attention to the fact that it was of the utmost importance that amateurs refrain from annoying Government and commercial stations. His call was duly seconded by several other magazines, but it seems that despite this, conditions have not improved greatly of late.

ざっくり訳せば「私は昨年11月号で、アマチュアが政府局(海軍局)や商用局(海岸局)をいら立たせないのが最も重要で、これに注意を払いなさいと呼びかけました。それは他のいくつかの雑誌でも支持されましたが、状況は改善しなかったようです。」といった書き出しでしょうか。

自由の国、アメリカでは誰でも(アマチュアも商用局も)、電波を自由に使うことができました。受信するだけでも厳しく規制されていた日本や英国とは全く考え方が違いました。しかし自由がゆえに低い周波数(中波)を使い出したアマチュアの電波が海軍無線や公衆通信(電報)へ混信を与えるトラブルが頻発するようになりました。

以下、要所を訳してみますが、正しい英文解釈はどうぞご自身でお願いします。まず新聞記事になった"ある事件"を紹介しています。

(新聞報道によると) 数週間前に艦隊が帰港した際に、海軍局の通信士はマサチューセッツ州のアマチュア局からの混信でメッセージを受け取れませんでした。またニューヨーク州のブルックリンでは政府係員がこれまで海軍局を悩ませ続けてきた複数のアマチュア局のアンテナを、混信させるなと強引に引きずり降ろしました。

While the fleet was returning a few weeks ago, it was impossible for the Government operators to receive messages on account of interference from Massachusetts amateurs. In Brooklyn, N.Y., the Government officials have forcefully taken down several aerials of amateurs who, being told not to interfere, kept on annoying the Governments stations the same as before.

そして現在、政府が無線利用を制限する法案を準備していることに触れて、もし今後もアマチュアからの混信問題が減らなければ、きっと法案が議会を通過するだろうと読者に伝えました。旧大陸から新大陸の自由の国アメリカに移り住んだガーンズバック氏は、国家による規制を好まず、もし施行されるとせっかく根付き始めたアマチュア無線が大きく減退するだろうと考えていました。

原則論で言えばアマチュアがどの周波数で電波を出そうが米国では自由です。違反ではありません。だからといって軍事局や商用局(民間の無線電報局=海岸局)に妨害を与えるような運用を続けると、英国のようにアマチュアの実験が厳しく制限されることになってしまうだろうとして、次の2点を読者に呼び掛けました。

まず混信停波の要求符号99(- ・・-  - ・・-)を知らないアマチュアがいることを指摘し、無線を楽しむならばこの符号を肝に銘じておくように述べ、次にアンテナを短くして輻射される電波長を短く(周波数を高く)保つべきだとしました。つまり必要以上に低い周波数へと向かうのではなく、アマチュアは短波にいることで、軍事局や商用局と共存すべきだと訴えたのです。

通常、ほとんどのアマチュアは数マイル離れた何人かの友達と交信したいだけで、それが3~5マイルを超える事はまずありません。ですから少し実験すれば、交信可能な最短のアンテナを見つけることができるでしょう。あなたのアンテナが短いほど、波長も短くなります。政府局や商業局は一般的に長い波長を使っているので、あなたが短い送信アンテナを使うだけで、このような混信の可能性は大幅に減少します。

Most amateurs usually only wish to communicate with one or more friends a few miles away. The distances are seldom more than three to five miles. It would therefore appear that amateurs and experimenters could with very little experimenting find out which would be the SHORTEST aerial they could use to successfully transmit to the other station. The shorter your aerial, the shorter the wave length. As Government and commercial stations usually employ only long wave length, the chance of interfering with them is reduced greatly if you use SHORTER AERIALS FOR SENDING.

◎ アメリカン・コード

現在使われているモールス符号(インターナショナル・コード)の9は「---- ・」ですが、上記文中にはアメリカン・コードの9「- ・・- 」が登場します。参考までにアメリカン・コードを下に掲げておきます。短点が多いのが特徴です。ところで長音は短点2つ分だったのですね。長い長音が「L」で、もっと長くなると「0」など現在の符号とはかなり違うようです。「Iアイ」と「Oオウ」の微妙な違いなど、音楽的なものを感じますね。

The space between the elements of a letter is equal to a one dot. The dash is equal to two dots. The letter space is equal to two dots. The word space is equal to three dots. The long dash is equal to four dots. The sentence space is equal to six dots. 』 

Telegraph and Telephone, 1904, The World Railway Publishing Co., pp59-60

当時、米国内通信ではアメリカン・コード(上表)を使い、欧州から来る船舶局との通信にはコンチネンタル(欧州大陸)・コードを使うというように、米国オペレーターは両方の符号に熟達していたそうです。しかし1912年に米国では無線通信取締法"Radio Act of 1912" が制定され、商業局やアマチュア局のオペレーターに無線従事者資格制度が導入された際に、モールス技能の国家試験はコンチネンタル・コード(Continental Morse)で行なわれることになりました。

48) アマチュア局と軍事局・商用局のトラブルとは [アマチュア無線家編]

混信問題が起きる要因はいくつかありました。

アマチュアから最もひどい混信を受けるのがケース1で、それにケース3が続きますが、軍事/商業局では同調式受信への置き換えが進行中で、この種の混信は減少の方向にありました。一方アマチュアの設備ですが、金銭的な理由から学生達が使っていた無線機の多くはまだ非同調式だったと考えられます。

そのような状況から、混信の事例数としては、アマチュアが非同調式送信機に長いアンテナを接続して、軍事/商用局がいる中波へ降りてくることで起きる、ケース2によるトラブルが多かったようです。

【参考】 非同調式のスパークギャップへ、アンテナ線とアース線の直結禁止が取り決められたのは、かなり遅くて1921年(大正10年)に戦勝五大国で開かれたパリ準備技術委員会でのことでした。

基地周辺でのアマチュア無線の運用制限など、一切の法的な縛りがありませんので、たとえ軍事局が同調式受信を採用して、かつ互いの波長が違っていても、距離が近ければ混信するでしょう。また一部の不心得者による悪戯もあったようです。

アメリカ海軍はしばしば国内の素人無線家の通信妨害のために海軍の通信機能が全く役に立たない時があった。一九〇六年にルーズヴェルト大統領がケイプ・コッド沖に投錨中の米国艦隊を訪問した時のごときは、ニューポートの海軍無線局は素人無線家の通信妨害のために受信が不可能となって、大統領に宛てた通信は駆逐艦がこれを運んだ始末であった。またこの他にエヴァンス提督の率いた米国艦隊が世界一周航海から帰って来た時に、素人の通信妨害のためにプリマウス軍港へ送信することが不可能となったこともあった。ことに始末の悪いことには素人がでたらめの通信を送ることであって、あたかも司令官から出た命令のごとく装って軍艦に通信を送ったり、でたらめの遭難信号を出して沿岸防護隊および他の汽船をして遭難船を捜索せしめたりした。 (岡忠雄, 『有線無線物語』, 1941, コロナ社, p327)

【参考1】 筆者序文には『本書は大体 Alvin Harlow, Old Wires and New Waves によって記述し、なお次の諸文献を参考とした。参考文献 1.Herring and Gross, Telecommunications 、2.Garnham and Hadfiled, Submarine Cable 、3.Vivyan, Wireless over 30 Years、4.Dunlap, Marconi, The Man and his Wireless 、4.Horace Coom, American Tel. and Tel. 、6.E. E. Bucher, A Resume of Early Radio Development 』 とあります。

【参考2】 この筆者はアマチュアの負の部分だけでなく、良い部分も紹介されていますので、そちらも引用しておきましょう。 『米国が欧州戦争に参加(一九一七年四月六日)すると共に約四千の素人無線技術者は米国の遠征軍に志願して無線通信士となって軍事通信上活躍した ・・・(略)・・・(また)素人無線技術者によって短波が小電力をもって、しかも長距離の伝搬性を有する事が発見されるに至った。正に素人無線技術者の功罪は過去の罪を補って余りある貢献をなしたものといえる。 (岡忠雄, 前傾書, p329)

49) リー・ド・フォレストが常に1.2MHz以上を使うよう指導 [アマチュア無線家編]

ガーンズバック氏の警告と同じModern Electrics誌1909年3月号のアメリカ無線協会WAOAのページ(p429)で、リー・ド・フォレスト会長も混信問題をとりあげました。私のなんちゃって訳文を添えてみますが、例によってあてになりませんから、英文解釈はご自身でお願いします。

WAOA会員のみなさん。多くの信頼できる新聞報道によれば、一部アマチュア無線家による多数の混信問題が(故意か故意ではないかにせよ)最近深刻になっています。

政府局はその仕事の重要性と緊急性のために、この事でとても苦しんでいますし、完全な同調分離装置が装備されていない、いくつかの商用局は無配慮な学生達による無数のハイパワー火花局からのひどい混信にさらされています。多くのアメリカの若者が示している無線への熱意に誰も水をさすつもりはありません。しかし彼ら自身の利益のためにも、注意を喚起する時なのです。

もし局名録外の送信局(海軍省発行のコールブックに載っていない送信局=アマチュア局の意味?)の乱雑な運用が続くなら、これを撲滅する効果的かつ抜本的な手段が、確実に取られるでしょう。特に問題がなければ、議会は地域毎の無線局数を制限し、電力を制限し、使用できる波長を規定したライセンスをすべての送信局に必要とする法案を通過させるように求められます。

To the Members of the Wireless Association of America: According to numerous authentic reports in the daily press the question of wholesale interference (whether deliberate or unintentional matters little) on the part of amateur wireless operators has recently become acute.

Governmental stations have suffered most from this case, on account of the great importance and urgency of much of their business, certain commercial wireless stations not equipped with perfected tuning devices, have also been seriously interfered with by the countless spark stations of energetic but unthinking students. It is not the desire of any one to put a dumper on the enthusiasm for wireless work which so many American youths are displaying, but for their own best interests it is time to sound a careful warning.

If the present promiscuous working of unlisted sending stations continues as it has, means, effective and drastic, will certainly be taken to remedy this evil, and that right quickly. Without question Congress will be asked to pass legislation requiring licenses for all transmitting stations, limiting their number in given districts, limiting their power, and prescribing the wave length that may be employed. ・・・(略)・・・』

リー・ド・フォレストWAOA会長はこのように警告を発したあと、会員達に低い周波数に立ち入らないよう(1.2MHz以上を使うよう)指導しました。短波にいることが、結果的にはアマチュアの利益につながるというのがWAOAの見解です。

いかなるケースであっても、送信する波長を250-300m以下(周波数1000-1200kHz以上)に制限してください。

Furthermore, confine your transmitters in every case to wave lengths of less than 250-300 meters. ・・・(略)・・・ Lee de Forest.  New York, March 1, 1909

50) 大学生に広がった「現代的なアマチュア無線」(1909年) [アマチュア無線家編]

上記WAOAのリー・ド・フォレスト会長から会員への呼び掛け(1909年3月号)をよく読むと、趣味・娯楽として "交信を楽しむアマチュア無線"スタイルは、主として若い学生達により運用されていた事が伺えます。

1907年頃は中高生を中心に10MHzあたりを使っていたようです。しかし1909年(明治42年)頃になると2-6MHzあたりの中短波が主流になったことが、後述のWireless Blue Book(1909年5月版コールブック)から読み取れます。

これはアマチュア無線家の年齢層が(工科系大学生や高校卒業し無線会社に就職した青年たちを中心とする)10代後半あたりまで上昇し、各自が強力な無線機を自作して、アンテナもさらに長くなってきたからだと想像できます。

1909年から1910年にかけて、ハーバード大学 "Harvard Wireless Club"、マサチューセッツ工科大学 "Massachusetts Institute Technology Radio Society"、ペンシルバニア大学 "The Wireless Club of the University of Pennsylvania" などの学生無線クラブが結成され、科学を愛する大学生の間でアマチュア無線が広がりをみせていました。

【参考】 大学の無線部で一番早かったのは(プリンストン大学の可能性も否定できませんが、一般的には)1908年11月に結成されたコロンビア大学だといわれています。

20年近くも時代が違いますが、日本でも1926年(大正15年)に結成されたJARLのメンバーには、関西学院大学の笠原功一氏ら、科学に興味を抱く大学生達が多かったことから、世界的にアマチュア無線の初期を牽引したのは10代から20代前半の科学少年/青年たちだったといえます。これは素晴らしいことだと思います。

51) ハムの語源の珍説 [アマチュア無線家編]

昭和の昔に米国で一時注目された、アマチュア無線家"HAM"(ハム)の語源の珍説を紹介しましょう。

この物語はおそらく1908年頃を舞台として書かれた物語だと考えられますが、無線法のない米国ではプロ局もアマ局も自分たちでコールサインを考案し、使っていました。なるだけ短時間に通信を完了させるために、コールサインはアルファベット1文字から、せいぜい長くて3文字を使っていました。今も昔も、コールサインは短いものが好まれます。

なぜ"HYMAN-ALMY-MURRAY"のようなコールサインを選ぶとは考えられないかというと、当時はまだ鉱石検波器が生まれる前ですので、アマチュア局のコヒーラ検波器は電波を感知するたびに、デ・コヒーラ行為(物理的にコヒーラを叩いてリセット)が必要です。例えば文字Hのモールス・コードは短点が4つ(・・・・)ですが、その短点電波を1つ(・)感知するたびに、ツチでコヒーラをコツンと叩きます。これを4回繰り返して、やっとHの文字をひとつ受信していた時代ですから、この物語がいう15文字コール"HYMAN-ALMY-MURRAY"は論外として、6文字コール"HY-AL-MU"でさえ非現実的です。

さらにこの「珍説」には致命的な失敗(?)がありました。

この作者は、物語の信憑性を高めるために「議会で証言した」と膨らませたのでしょうが、これが完全に裏目に出ました。議会の委員会での証言議事録は米国議会図書館で一般公開されています。誰でも閲覧できますが、そんな記録はありませんでした。おそらく後述するジュニア・ワイアレス・クラブのストークス君らをモデルにした創作話でしょう

ちなみに、(後述する)1909年発行のコールブックOfficial Wireless Blue Bookによれば、"HAM"というコールサインを使っていたのはミネアポリスのアマチュアはE.C. Hawkins氏で、ハーバード大学の三人とは別人です。使用波長は62m(周波数4.8MHz)、スパーク長は1.5インチでした(下図)。

前述しましたが月刊科学雑誌Popular Electricity and the world's advance(Popular Electricity Publishing Co.)は1908年5月にイリノイ州シカゴで創刊されました。無線専門誌ではありませんが、創刊号(5月号)から9月号まで無線機製作記事を連載し好評を博していました。編集部は1909年1月号で読者による無線クラブPEWCPopular Electricity Wireless Club)の結成を呼びかけて会員を募りました。

同年秋にはPEWC会員の高校生や大学生が無線記事を投稿するようになり、無線のページが徐々に増えました。

40年ほど前に、米国のOTアマチュアが私は昔PEWCの会員でした」と自己紹介する雑誌記事を読んだことがあるのですが、その当時の私は勉強不足でPEWCが何のことか分からなかったのを懐かしく思い出します。同誌はガーンズバック氏のModern Electrics誌に次いで、アマチュア無線家から支持されていたようです。

51) 圧倒的なアマチュア局数 [アマチュア無線家編]

ガーンズバック氏やWAOAのリー・ド・フォレスト会長が、混信問題をこれほど心配した訳はアマチュアの圧倒的な局数でした。政府局(主として海軍局)は各軍港周辺にあり、商用局(主として海岸局)も主要港および交通の要所に建設されるだけで、大した局数ではありませんでした。

米国海軍省が発行するList of Wireless Telegraph Stations of the World 1908年版(明治41年10月1日発行)1910年版(明治43年10月1日発行, 下図)で陸上無線局数の(2年間の)変化を調べてみました。

(ハワイ・アラスカを除く)陸軍省の無線局は11→15局に、海軍省の海岸局は40→42局に、陸上商業局(主として海岸局)56局が2倍強に増えていますが、総数としては広いアメリカで200局にも満たないものです。つまり軍事局や商業局はそんなに増えたわけではありません(あえていえば船舶局は相当増えましたが、海上にいた船舶局への混信は問題になっていません)。

ところがアマチュア局数はその数十倍もあったといわれており、しかもどこに開局するかも分かりません。ある日突然、基地周辺でアマチュア無線を始める人が現れるかも知れないのです。

いわゆる"アマチュアとの混信問題" は、無線通信が普及して陸上の軍事局や商用局が増え、混雑した状況になり起きたのではなく、一方的にアマチュア局数が膨張し、さらに低い周波数(中波)を使い出したためです。中波の先住民はアマチュアではなく、商用局や軍用局です。そこへ比較にならないほど圧倒的多数のアマチュアが、短波から中波に降りてくると、無線通信は大混雑・大混信になると予想され、WAOAは国家による規制法が制定される前に、自分達の自主運用ルールで解決できないかと考えていました。

1912年の法制化直前にはガーンズバック氏によると(たぶんハッタリも含め)1万局のアマチュアがいたとされますが、資格制度と免許制度の導入で1,300局ほどに激減しました。しかしそれでもなおアマチュア局数は他を圧倒し続けました。

商務省の無線局数統計(下表)によれば、1914年(大正3年)の陸上の政府局・商業局が189局だったのに対し、アマチュアは2,796局ありました。さらに翌年、陸上の政府・商業局が35局しか増えていないのに、アマチュア局数は3,836局というように1,040局も増加しています(Radio Service Bulletin No.11, Nov.1915, Department of commerce, p5)。

【注】 後述しますが上表のSpecial Land Stations 特別陸上局(コールサインの数字の次がX, Y, Zで始まる実験局、学校訓練局、特別アマチュア局)は、一般アマチュア局や(基地周辺に開局した)制限アマチュア局(コールサインの数字の次がA-W)とは法的には明確に区別されていて、アマチュアとは呼べない無線局です。1923年11月に短波でフランスの8ABと交信したライナルツ氏のコールサイン1XAMは、Xではじまるので実験局です。なおYコールは無線学校で授業の一環として通信訓練をおこなう局に限定され、一般の高校や大学の「アマチュア無線クラブ」はA-Wコール(一般アマチュア局)です。

52) アマチュアも遅れて中波へ進出(~1909年) [アマチュア無線家編]

1909年(明治42年)5月、ガーンズバック氏は(民間で発行された初のコールブックと言われる) The First Annual Official Wireless Blue Book of the Wireless Association of America, May 1909(Modern Electrics 出版社) を出しました(図)。

これには海岸局と船舶局、陸軍局、海軍局のほかに115局のアマチュア局も収録されています。1908-09年頃のアマチュアの氏名、住所、コールサイン、波長スパーク長が記されており、当時を知る事が出来る貴重な資料です。殆どのアマチュア局は短いアルファベット2文字ですが、中には1文字や3文字コールを使う人もいました。

無線局のコールブックとしては前述の米国海軍省が世界の無線局を調査して出版した List of Wireless-Telegraph Stations of the World という公的なものがありましたが、そにはアマチュア局は掲載されておりませんので、アマチュア無線界はこのWireless Blue Bookの方が歴史的評価は高いです。

さてこのWireless Blue Bookからアマチュアが使っていた波長を集計してみたところ、下表の分布でした。この時代になると、アマチュアの一番短い波長は32m(9.4MHz)ですが、逆に長いものでは波長950m(315kHz)という猛者も現れます。

しかし全体を見れば、まだ75%は1.5MHz以上の高い周波数(水色のエリア)にいました。なかでも一番人気があったのは波長50-100m(3-6MHz)で、半数(51%)のアマチュアがここを使っていました。これはアメリカ無線協会WAOAによる "自主規制の呼び掛け" がある程度は守られていた結果だと考えられます。

一方で25%のアマチュアは電波の到達距離をもっと伸ばせないかと、軍用局や商用局がいる1.5MHz未満の周波数(黄色のエリア)にまで降りてきました。アマチュアの低い周波数への進出も始まっていたことが分かります(しかし長波への進出にはもう少し時間を要した)。

またアマチュアの電力ですが、9割が火花のスパーク長が2インチ以下で、まだ控えめでした。特異値になりますが強力火花のTop 3 を示します(下表)。

当時のハイパワー・アマチュア局は3-4MHz付近を好んで使っていたことがわかります。

53) アマチュアも同調式を研究しはじめる(1909年夏) [アマチュア無線家編]

1909年(明治42年)はアマチュアからの混信事件が急増した年です。アマチュア無線を禁止にするべきかが世間で議論されるようになりました。その影響もあってか、アマチュア側でもこの問題を自ら解消するために同調式無線機の研究をはじめる人達が現れたようです。

当時の部品広告を調べてみたところ、大体1909年後半より同調式に使う部品が販売されるようになっていました。まず金銭的にゆとりのあるアマチュアから徐々に同調式へ移行しはじめたものと想像します。(入門者は相変わらず最も簡単な非同調式で無線に手を染めたかもしれませんが、)古参のハムたちは大体1912年(明治45年)ごろまでには同調式への移行を終えたのではないでしょうか)。

ワシントンDCの新聞 The Evening Star の記者が、1909年の夏、同調式送信機(Tuning Transformer)の研究に着手した高校生の自宅を訪問取材した記事があります(図)。

なお記事が掲載されたのは訪問の半年後の1910年2月2日でした

記者が訪れたのはアームストロング工業高校(the Armstrong Technical High School)に通う14歳のFred Pelham君の家でした。彼の無線室には、夏休みを利用して研究中の同調式送信機(Tuning Transformer)があり、混信問題を解消する切り札になると説明しました。と同時に、これが完成する前にロバーツ議員が提唱しているアマチュア無線の禁止が現実のものになることを恐れていました。

またPelham君はもしこの案が施行されると、無線技術者たちが混信を減らすために無線機を改良する努力を怠るようになると話しました。そして自分は電気の工科大学への進学を希望しているが、無線に制限を加えることは電気に興味を持っている多くの少年たちを落胆させるとも付け加えました。

54) 技術不要の大衆無線から技術者のアマチュア無線へ [アマチュア無線家]

1910年頃までのアマチュアの送信機はインダクションコイルにスパークギャップを付けたら完成という、誰でも作れるものだったし、またテリムコのような既製品も売られていました。まさしく技術不要の大衆無線時代です。

1910年頃より始まった米国アマチュアの同調式への移行はまず受信部から手が付けられました。鉱石検波器が流通しだして、コヒーラを叩いて初期化するデコヒラー回路が不要となったため、受信機は極めて単純なものとなり、同調式を研究するゆとりが出来たことも一因かも知れません。やや遅れて同調式火花送信機の研究もはじまりました。既に各種の同調方式が開発されて、それらは特許登録が済まされていました(「長波ではない訳」のページ参照)。

アマチュア達はそれらの同調回路(特許)を、自分自身のためだけに利用(「業」として使わない)する限りにおいて自由にできました。そのおかげで、同調回路とアンテナやアースをタップダウンで接続するのが良いのか、マルコーニ社のように二次巻線でカップリングさせるのが良いのか・・・などの試行錯誤がはじまりました。とはいっても所詮、火花送信に鉱石ラジオの時代(回路は極めて単純)ですから、1910年代まではアマチュアが技術的にプロに先行するようなことはありませんでした。

アマチュアの技術力が認知されるようになったのは、アマチュア界でも真空管が用いられるようになった1920年頃からです。真空管を使って、再生検波や、増幅や、自励発振を行わせる為の、より良い回路を自分達で研究工夫しました。実際1920年代にはアマチュアから世に発信された技術ノウハウもありました。

すなわち1910年代と20年代ではアマチュアの技術力に大きな差があり、まるで別物のようにさえ感じます。

55) ロバーツ法案にガーンズバックが反旗(1910年1月) [アマチュア無線家編]

1909月(明治42年)12月17日、ついにErnest W. Roberts議員が電波を国家管理する法案を提出しました。これには事実上のアマチュア活動の禁止も含まれていました。

これはロバーツ法案(Roberts Bill)と呼ばれ、ガーンズバック氏はアマチュアを守るために反対運動を計画しました。

It became Gernsback's crusade to defend the amateur.  He publicly attacked proposals to legislate against the wireless amateur starting with the Roberts Bill, introduced at the end of 1909.  Roberts proposed that a wireless telegraph board be created which would regulate and control, by license, all wireless stations. (Mike Ashley and Robert A. W. Lowndes, The Gernsback Days: A Study of the Evolution of Modern Science Fiction from 1911 to 1936, 2004, Wildside Press, p25)

ガーンズバック氏はModern Electrics誌1910年1月号, p471(左図)で、アメリカ無線協会WAOAはロバーツ法案に断固反対すると表明しました。

アメリカ無線協会WAOAは無線の発展のために設立されました。お金儲けの組織ではありません。議会は全無線局を免許制にする法律を可決する恐れがあります。WAOAには既に3000人以上の会員がいる世界最大の無線組織です。動くべき時期がくれば、この法案に反対する強力な圧力を振るうのがWAOAの目的のひとつです。

The Wireless Association of America was founded solely to advance wireless.  IT IS NOT A MONEY MAKING ORGANIZATION.  Congress threatens to pass a law to license all wireless stations.  The W.A.O.A. already has over 3000 members - the largest wireless organization in the world.  When the time for action arrives, the thousands of members will exert a powerful pressure to oppose the “wireless license” bill.  This is one of the purposes of W.A.O.A. There are more.

さてWAOAの声明がどれほどの社会的影響力を発揮したか定かではありませんが、1月30日のthe New York Times紙が"AMATEURS OF WIRELESS OBJECT. - Say the Bill to Control the Wireless Telegraph Is Unjust to Them."というタイトルでロバーツ法案に慎重な姿勢を示したほか、the New York American紙、 the New York Independent紙、the New York World紙、the Boston Transcript紙でもそうでした。特にthe New York America紙はWAOAのガーンズバック氏の反対意見を中心に報じています。

これまでマスコミはアマチュアが引き起こした混信問題では中立的立場をとっていました。しかしロバーツ法案が提出されるや、弱者の青少年アマチュア達を(少々大げさすぎるほどまでに)賛美する記事を書いてくれました。アマチュアはマスコミを味方に付けることに成功したようです。

56) ARRL歴史書 Two Hundred Meters And Down の異なる見解 [アマチュア無線家]

1936年(昭和11年)にARRLのAssistant SecretaryのClinton B. DeSoto氏が書かれたアマチュア無線の歴史書 Two Hundred Meters And Down (C.B. DeSoto, 1936, ARRL)は全く異なる見解を示していますので、参考までにこちらも紹介しておきます。

【参考】 この本はARRL(1914年創設)側から見たアマチュア無線の歴史書で、ガーンズバック氏のアメリカ無線協会WAOA(1909年創設)の活動についてはあまり積極的には触れていません。なお1985年(昭和60年)に再出版された際に、タイトルのTwo Hundredを数字200へ置き換えた 200 Meters & Down に変わりました。

まずアマチュアが引き起こした数々の混信問題については事実として受けとめるべきとしています。善良なる大人の見解として当然でしょう。

そしてその報いとして1909年のロバーツ法案提出につながったのは疑う余地がないといいます。以下、Two Hundred Meters And Down(p29)より引用します。

Amateurs began to get into trouble with the government in 1909. In fairness to all concerned it must be conceded that they were plenty of trouble. 

Many of them had better and more powerful stations than those used by the Navy and commercial services, and their indifference to the pleas of these operators to cease operating when there was murderous interference was sublime. ・・・(略)・・・There is little doubt but that this situation led to the flurry of attempted radio legislation that began with the Roberts Bill of 1909. (DeSoto, Two Hundred Meters And Down, 1936, p28)

この書ではロバーツ法案には、「ペンシルバニアのC.H. Stewart氏らの個人的な運動はあったが、(WAOAのガーンズバック氏らが展開した反対キャンペーンを初めとする)組織的な運動はなかった」と、ガーンズバック氏の活動を完全スルーしています。この記述は不可解でなりません。

There was some individual amateur opposition, constituted principally in the person of Charles H. Stewart of Saint Davids, Pennsylvania, but no organized resistance. Two Hundred Meters And Down, p28)

さらにTwo Hundred Meters And Downはロバーツ法案をつぶした功労者をマルコーニ社だとしています。マルコーニ社は米海軍への売り込みに失敗し、米海軍無線のシェアは0%でした。そのマルコーニ社が「混信するのは海軍や商業局が三歳児のような無線機を使っているからで、アマチュア無線を禁止しなくても、我社の優秀な無線機を採用すれば解決する。」と主張したからアマチュア無線は助かったのだというのが筆者(= ARRL)の見解のようです。

They argued that the interference was due only to the fact that the American commercial companies and the Navy had obsolete equipment, without adequate tuners, in most cases as much as three years old; and that the damaging interference claimed would not be experienced if modern tuners were used. Two Hundred Meters And Down, p28)

しかし(私は)当時の新聞からこのようなマルコーニ社の意見を拾えませんでした。もしそうであっても、なんとか米国市場に食い込みたいマルコーニ社が自社の無線機の優秀性を主張するのは当然です。同社は米国市場への参入に失敗した「傍観者」の立場ですから、そういう発言があったにせよ、社会的な影響力があったかは疑問です。

さらにこれに続く記述がひっかかります。「マルコーニ社はそんな優秀な同調式無線機を持っていて、それはアマチュア以外では唯一でした。」です。

The Marconi Company had such tuners, and in fact were about the only folk outside of the amateurs to have them. Two Hundred Meters And Down, p28)

時折この部分をクローズアップして、"軍用局や商業局よりも、むしろアマチュアの方が優秀な無線機を使っていた" と紹介する記事を見掛けます。しかし同調式が世に登場してから十年近くも経過しており、他社でも数々の同調回路が実用化されています。

世界的にみて同調式への移行が遅かった日本でさえ、1910年(明治43年)より同調式・普通火花送信機と同調式・黄鉄鉱検波受信機の「四三式無線電信機」が導入されています。この本がいう「アマチュアとマルコーニ社以外の無線機は性能が悪かった(非同調式だった)」は、アマチュアをあまりにも美化し過ぎだと感じます。 【参考】 他社の同調方式は「長波ではない訳」のページを御覧ください。

57) ARRL 50周年記念 Fifty Years of A.R.R.L. にも同様の記述 [アマチュア無線家]

1964年(昭和39年)にARRLの50周年を記念して出されたFifty Years of A.R.R.L. (下図)に、米国のプロ局よりも、米国アマチュアの無線機の方が優秀だった と言わんばかりの記述が見受けられます。

マルコーニ社の同調式特許に抵触する為、(マルコーニ社と契約しない大多数の)米国のコマーシャル局は同調受信機を使えなかったが、アマチュアはお目こぼしされていた。

Most U.S. commercial receiving equipment was untuned, since patents on the loose-coupler system of tuning were held by Marconi, a legal problem which did not bother amateurs.  ("The Background and Formation of Our League", Fifty Years of A.R.R.L. , 1964, ARRL, p8)

しかし日本の逓信省や海軍省もそうですが、無線機メーカー各社はマルコーニ式とは異なる同調回路を開発しましたので、マルコーニ社の特許に抵触することはありませんでした。

また1936年にARRLのDeSoto氏が書いた前述のTwo Hundred Meters And Down(pp21-22)では、当時のアマチュア設備の例として、本ページの記事 "23) 進化しない大衆無線機 (1907年) "で紹介したElectrician and Mechanic誌(T.E. O'donnell、1907年7月号と8月号)のアマチュア向け送信機と受信機の製作記事を取り上げていますが、これは非同調式無線機です。こんな非同調式を当時のアマチュアの設備だと紹介しておきながら、「アマチュアが使う無線機の方が軍事局や商業局よりも優秀だった」といわれても、なんだか抵抗がありますね。

私は混信事件が大きな社会問題化した1909年のアマチュア界では、(一部の先進的なアマチュアは同調式を使ったにせよ)まだまだ非同調式が大多数を占めていたと考えています。一例ですが前述したとおり、Popular Electricity誌の1911年1月号にガーンズバック氏のテリムコ(非同調式送信機と受信機セット)の雑誌広告がまだ残っています。なんといってもアメリカの場合、法的にはどんな無線機を使おうが自由の時代ですから、少年たちはまず一番簡単な非同調式でアマチュア無線に入門したのでしょう。

58) 明治時代には日本に伝わっていたアマチュア無線の勃興 [アマチュア無線家編]

「JARLが誕生した大正末期の逓信省はまだアマチュア無線のことを良く知らなかった」といった記述を目にすることがありますが、それは間違いです。

1907年(明治40年)頃に、米国で趣味・娯楽としてのアマチュア無線が米国で誕生しました。この娯楽通信というべき新しい用途が日本に伝えられたのは意外と早く1910年(明治43年)でした。つまり年後には日本に伝わっているのです。

第一報を発したのは北米航路の天洋丸無線電信局TTYの木村平三郎局長です。米国で娯楽としてのアマチュア無線が大流行し、混信問題となっていたため、これを禁止する法案が提出されたと、日本の逓信省へ報告してきました。

報告書の文面から想像するところでは、1910年(明治44年)の2~3月頃の出来事ではないでしょうか。

59) 通信協会雑誌で全国の逓信職員にアマチュア無線が伝えられる [アマチュア無線家]

木村局長からの米国青少年達の間で娯楽無線(アマチュア無線)がブームとなり、公衆通信に多大なる迷惑を掛けているという報告は、日本の逓信省に大きな危機感を与えたようです。逓信省が無線電報ビジネスを創業して、まだ2年にしかならない時期です。まさかアメリカでは無線が趣味・娯楽として楽しまれていたとは、それも若い「学生小児実験家」によってですから、それは想像もできないような衝撃の報告だったでしょう。

逓信省は「通信協会」が発行する『通信協会雑誌』1910年(明治43年)5月号(第22号)を通じて "米国議会に於ける娯楽的無線電信禁止案" という記事でこの報告を公表しました。

『通信協会雑誌』の読者は郵便事業や電報事業の逓信ビジネスを支えていた日本全国の逓信職員の方々です。

【参】 「通信協会」(現:公益財団法人通信文化協会) は逓信省の小松謙次郎通信局長を設立委員総代として申請され、1908年(明治41年)5月25日に時の堀田正養逓信大臣より設立認可(私秘発第1832号)を受けた組織。そして協会の初代総裁に後藤新平(7月14日に南満州鉄道総裁を退き、逓信大臣に就任)、副総裁に仲小路廉(逓信次官)、会長には小松謙次郎(通信局長)が選出され、その機関誌として月刊通信協会雑誌を8月25日より発行開始した。

後藤逓信大臣時代の1910年(明治43年)5月には信協会を財団法人「信協会」に改めたため、信協会雑誌はアマチュア無線の勃興を我国に伝えたこの第22号を最終号として、以後信協会雑誌になった。  

記事は木村平三郎TTY局長の報告書からはじまります。

官用もしくは商業無線通信が学生小児実験家の無線により、おおいにその活動力を減滅せられ居る事は目下米国斯界問題なるが、果然(かぜん=予想通り)舊臘(きゅうろう=昨年12月)十二月十七日マサチュウセツ州選出議員ロバート氏によりて国立無線電信局設置の決議案提出せられたり。

海軍省所管事務に対する下院委員の一人たる(ロバーツ)氏は、該決議案提出の理由を述べていわく、「海軍省、巡邏船事務および商業無線会社より、娯楽的無線家勃興の結果、危急符号として"CQD"の変更も必要なるのみならず、なおまた官私用(海軍局・商業局)無線通信はこれがため著しく妨害され候旨通報に接せリゆえに、これら監督する上に於いて必要なり。」

この決議案は委員七名の任命を是認し居れり、すなわち陸軍、海軍、大蔵の各省より専門家各一名、商業的無線電信電話の利益を代表せる三名の専門家、および電波式電信電話の学術に造詣深き科学者一人これなり。決議案によれば国立無線電信局義務は、政府および商業無線会社の利害関係を同一とみなし、合衆国の認識のもとにきたる海上、陸上装置の一切の無線通信を管理すべき総括的規則の制度を調査するにあり。しかして該局組織については三十日以内にこれに関する報告および推薦を議会に委任すべしというにあり。("米国議会に於ける娯楽的無線電信禁止案", 『 通信協会雑誌』 第22号, 1910.5, 通信協会, pp40-41)

『通信協会雑誌』の記事は続けてガーンズバック氏のModern Electrics誌1910年2月号社説を翻訳紹介しました(逓信省は情報収集源として海外の各種電気雑誌を定期購読していましたが、このModern Electrics誌については、天洋丸の木村局長が報告書の添付資料として送ったものではないかでしょうか)。

モーダンエレクトリック社は、その社説においてまず国立無線局(日本で言えば銚子無線JCSや天洋丸TTYなどの官設無線)の不必要を唱え、「かかる広大なる国土において、低廉に通信送達上、無線電信電話は甚だ価値ある方法にしてこれを奨励するは政府の義務なり。英国および独逸(ドイツ)は先にこれ(電波の国家管理法案)を通過したるも二国の技術は今やほとんど不明なり」と論じ、一例を述べていわく

「農夫も今より三年後には五十哩(=80km)を隔つる隣家を呼出すことを得るべき自己の無線電話を所有する位置とならむこの時にあたり、ユーナイデッド無線会社または同じ無線トラストの所有に係る高価なる器械に余儀なく加入するよりも、農夫は自己所有の器械を装置する方をはるかに可とすべし。該案は畢竟(ひっきょう=つまるところ)無線トラストをして高率の料金を酷求せしむるに至らむ。現在の電話関係にては農夫は自己の家宅より近隣人の家宅まで私有の電話線を架設することを許可せらるるも、一朝、国立無線電信局にして実施せられむか、同じ農夫にして隣家と私有無線電話の通話をなすことは無論許可せられざるべし。」

同社(Modern Electric社)記者が一月二十五日までに接受したる、決議案に反抗の書簡は実に九千通以上に達したり。("米国議会に於ける娯楽的無線電信禁止案", 前掲書, p41)

 つまり電波の国家管理は電報料金の高値停滞を招くというものです。記事は更に続けてニューヨーク各紙(the New York Evening Worldthe New York Americanthe New York Sun紙, the New York Independent)の論調を伝えました(これらの新聞も木村局長が送ってきたものと想像します)。『該ロバート氏の提案に対し紐育(ニューヨーク)各新聞の所論を意訳すると左の如し。 ("米国議会に於ける娯楽的無線電信禁止案", 前掲書, p41)

どれもおおむねアマチュア寄りに書かれていました。ガーンズバック氏のもとには全米のアマチュアから9000通以上もの反対書簡が寄せられたとのことです。そしてマスコミ各紙の支援もありロバーツ法案は廃案になりました。「アマチュア無線禁止」への反対運動を全米で最初に組織したのは、私はアメリカ無線協会WAOAのガーンズバック氏だと思います。

60) アマチュア無線は「逓信ビジネス」を妨害する「悪」と認識した? [アマチュア無線家]

通信協会はこの "米国議会に於ける娯楽的無線電信禁止案" に2ページ半ものスペースを割いており、本件に対する逓信省の関心の強さが相当のものだったことが伺えます。

それにしても(伝書バト通信を除いて)有線・無線・手紙の手段を問わず、A地点からB地点へのコミュニケーションを逓信省の独占ビジネスだとする日本で、よくも「通信の国家管理に反対する」ガーンズバック氏の意見を取り上げたものですね。

アマチュア無線(娯楽無線)の勃興が日本の逓信職員たちに伝えられた明治44年のこの時より、アマチュア無線は「逓信ビジネス」を脅かす存在=「悪」だと認識された可能性が濃厚です。これ以来、日本の逓信省は公衆通信(電報)を妨害する娯楽通信(アマチュア無線)を警戒して、米国の動向を注意深く見守るようになりました。

またこの記事は日本の海軍関係者の目にも留まる所となり、もし一般実験家に無線の使用を許すと、アメリカのように海軍無線へ混信妨害を与えるのではないかと危惧したでしょう

明治時代末期の日本では逓信省も海軍省も、アマチュア無線には良くないイメージを抱いたと考えられます。

61) デピュー法案公聴会にJr. Wireless Club が(1910年4月28日) [アマチュア無線家編]

1909年(明治42年)末の「ロバーツ法案」以来、Radio Act of 1912が成立するまでの2年間で、無線に関する法案が20以上も出されましたが、後述する船舶無線法Wireless Ship Act of 1910)を除き、すべて廃案になりました。その中でも「ロバーツ法案」と並んで、特にアマチュア無線界で有名なのがChauncey Depew議員による、いわゆる「デピュー法案」(Depew Bill, 法案番号S-7243)です。

これにはアマチュア無線家自身が具体的な反対行動を起こしました。それもアマチュア無線界の年長組みにあたる大学生達ではなく、若いJunior Wireless Club of Americaのメンバー達だったのです。彼らはデピュー法案を詳しく分析し、Wireless Police(無線監視組織)創設や州間通信を連邦法で制限するのは実現不可能であり、また不条理であることに気付きました。

Junior Wireless Club of America のストークス会長ら幹部4名の少年は首都ワシントンDCへ向かいました。

1910年(明治43年)4月28日の上院商業委員会(the senate committee on commerce)のデピュー法案S-7243の公聴会で、ストークス会長は堂々と、そして論理的に反対意見を述べました。

アマチュア無線界を救ったストークス会長の発言は100年以上経った今も、アメリカ議員図書館にS-7243公聴会の議事録(図[左])が残されており、どなたでも閲覧できますストークス会長の発言はP12目よりあります(下図[右上])。

また上図[右下]はニューメキシコ州のCarrizozo News紙(July 1st, 1910)をはじめ、全米の複数の新聞に使われた有名な風刺イラストです。

少年が上院議員達にドイツのスラビーアルコ式無線の説明をしていると、チンプンカンプンの大人がドイツ語で「君、少し休んだら?」といっているように見えますね。

『ワシントンポスト』紙が4月28日("Boy to Combat Lawyers" 少年が法律家と戦うために)と29日("Boys Enter Protest" 少年が抗議)の二日連続でストークス君の記事を書いたほか、29日の『ニューヨークタイムス』紙の記事("SENATORS HEAR BOYS' PLEA.; W.E.D. Stokes, Jr., Opposes Wireless Bill -- Speaks for Young Amateurs." 上院議員が少年の請願を聞く。若いアマチュアのストークス君がワイアレス法案に反対。)など、全米の各紙で報じられました。

マスコミはストークス君を好意的に伝え、既にアマチュア無線をやっている、あるいは開局準備をしている少年が全米で2,500から4,000人いて、彼らがこの国の将来に大きな価値を与えるだろうといった論調で伝えました。

図は4月29日のNew York Daily Tribune紙で、タイトルには次の文字が見えます。

この記事の中でも、Junior Wireless Club of Americaの14歳のストーク会長を、6万人の米国少年の代弁者としています。

Young Stokes, who is fourteen years old, said he was president of the Junior Wireless Club of America, and represented sixty thousand American boys.

1910年7月1日のワシントン州の新聞The Wenatchee Daily World紙(下図)、証言台に立つストークス会長の写真を使い、『デピュー vs ストークス』という刺激的なタイトルを付けています。

"DEPEW VERSUS STOKES: Young Wireless Enthusiast Who Opposes the Senator's Bill " (デピュー対ストークス:上院議員法案に反対する若い無線愛好家

とにかくこうしてストークス会長は、マスコミの力も借りて、全米のアマチュア無線家の代弁者・利益代表者になりました。公聴会より3箇月ほどは、全米の新聞各紙において、デピュー法案に反対するストークス会長の記事を好意的に報じられています。そういった追い風もあってか、デピュー法案は議会上院を通過したものの、下院では否決され、最終的に廃案となりました。

デピュー法案提出によるアマチュア無線存亡の危機は(まだARRLが創設(1914年)される前の)アメリカ無線協会WAOA時代に起きた出来事でしたが、ARRLによるアマチュア無線の歴史書Two Hundred Meters And Downのp30に、Junior Wireless Club of Americaのストークス会長の活躍が極簡単に触れられています。

アマチュア無線家自らが立ち上がることで、アマチュア無線を危機から救った行動だとして、Junior Wireless Club of Americaおよびストークス会長のことは、現代まで語り継がれています。

アマチュア無線界において大事な役割を果たしたJunior Wireless Club of Americaは、その後"ジュニア"という文字がとれて、1911年(明治44年)10月21日に有名な "The Radio Club of America" (会員数は1911年末で25名)となり、現在に至っています。

 今も活動している"The Radio Club of America"は老舗中の老舗。名門中の名門アマチュア無線クラブといえるでしょう。

【参考】 前述したとおり、ハーバード大学の三人のアマチュア無線家、HYMAN、ALMY、MURRAYの頭文字H-A-Mが「ハム」の語源だとする珍説では、この三人の大学生がアマチュア無線禁止法案に反対して議会で証言したとされていますが、現代ではJunior Wireless Club of Americaのストークス会長の実話をもとにした、創作と考えられています。

62) 部品の流通がさらに拡大する(1910年) [アマチュア無線家編]

1910年(明治43年)、ニュージャージー州のAlfred Powell Morgan氏が、初の現代的なアマチュア無線入門書といえる Wireless telegraph construction for amateurs(D. Van Nostrand Company) を出版されました。この本は1912年にアマチュア無線が商務労働省の免許制になったことと、無線技術がどんどん進化していたため1913年に改訂第二版が出され、さらに1914年にも改訂第三版も出版されるほどのベストセラーになりました。多くの若者がこの本でアマチュア無線を始めたのではないでしょうか。

また1909年の中頃より、Modern Electrics誌では無線部品広告が目立って増えてきました。このころが同調式とハイパワー化の幕開けといえるのではないでしょうか。

1909年後期になると、受信機のルーズカップラーの広告が現れます(左図)。

これはアンテナとコヒーラの間に挿入する疎結合の同調回路ユニットです。コイルのタップ位置をスライドさせ周波数を選択します。当時はまだバリコン(C可変)がないため、L可変でした。

また左図のような、送信機のハイパワー・トランスフォーマーの広告が現れます。

1/4K.W. Transformer $22.00. 1/2K.W. $31.75. 3/4K.W. $42.75. 1K.W. $55.50

それも一社だけでなく、トランスフォーマーの広告が複数社で見受けられます。すなわちこの頃よりアマチュアがハイパワー化していったことが想像できます。「Telimco」に代表される小電力の短波を使った一匹狼の「電波伝播実験」の時代から、大電力の中波を使った仲間との「遠距離交信」を目的とする時代へと移り変わろうとしていました。

1910年(明治43年)になるとガーンズバック氏は無線部品の通販事業だけでなく、店頭販売も手掛ける様になりました。それだけ無線ファンが増加したということでしょう。

左図が彼のElectro Importing社(通販デリバリー所)で、下図が店頭直売所です。ニューヨークのマンハッタンにありました。

 (余談ですが、昭和40年代大阪日本橋には、こんな感じの真空管屋さんが何店もありましたね。)

帽子をかぶった客が真剣なまなざしで部品を見つめています。カウンター内の二人の店員の背後にはパーツケースらしきものが並んでいて、いかにも無線ショップという感じですね。これが世界最古の無線ショップだそうです。

Called the Electro Importing Go., it occupied a small loft at 32 Park Place, later a larger one at 87 Warren St. and still later at 84-86 West Broadway, in lower Manhattan; a little later, there was added a retail store at 68 West Broadway, the world's first radio store. (T.R. Kennedy Jr., "From Coherer to Spacistor", Radio Electronics, 1958.4, p44)

この時代の米国の大衆無線は3種類の人達に分けることが出来ます。

63) 米国で船舶無線法制定(1910年6月24日) [アマチュア無線家編]

ここで、とても誤解されやすい船舶無線法について触れておきます。

1910年6月24日、船舶無線法 Wireless Ship Act of 1910("An Act to require apparatus and operators for radio communication on certain ocean steamers")が議会で承認されました。これは米国における始めての無線に関する法律ですが、政府が電波を管理する法律ではありません。この点、誤解されませんように。

あくまで海難救助の見地から、沖合い200マイル以上を航行し、(乗客および乗員を含め)50名以上を運ぶ船舶に対して、少なくとも100マイル以上と通信できるエマージェンシー通信用の無線設置を義務付けただけです。もし無線を装備せずに出港、または出港しようとした場合、その港がある地域を管轄する地方裁判所より5,000ドル以下の罰金が船長に科せられるもので、その施行日を1911年(明治44年)7月1日としました。このような性質の法律だったため、日本では逓信協会雑誌により無線強制法の施行と報じられました。

こうしてエマージェンシー無線制度は創設されましたが、商務労働省は電波の管理(免許制度化)には踏み込めず、相変わらずアマチュアの電波が(船舶局を対手とする)商用海岸局へ混信する事件は後を絶ちませんでした。さらに1910年10月には「偽SOS事件」が起きています。

同年10月23日夜、ニューポートの税関監視艇アクシネット(Acushnet)号(呼出符号:RCU)がJ.M. Guffey Petroleum 社のオクラホマ号に開設しているユナイテッド・ワイアレス局(呼出符号QB)が発するSOSを受信しました。遭難地点が不明だったため、ナンタケット灯台船局の協力を得てオクラホマ号を必死で呼びましたが、ついに応答がありませんでした。複数の周辺局がオクラホマ号のSOSを聞いており、10月24日のワシントンポスト紙やニューヨークタイムス紙で遭難事故として報じられ大騒ぎになりました。

ところが24日夜になり、当のオクラホマ号から「私たちはポートアーサー(ヒューストンの西)に向かってメキシコ湾を安全航行しているのですが・・・」と連絡があり、昨夜のSOSが悪質ないたずらだったことが判明しました("Wireless Call was Hoax(遭難信号は嘘っぱち)", The New York Times, Oct.25, 1910, p1)

なお後になって、船舶無線法はRadio Act of 1912の成立(1912年8月13日)を見込み、その成立直前の1912年(明治45年)7月23日に改正されました。改正船舶無線法には、商務労働省長官の免許資格を有する通信士の乗船義務などが細かく規則化されました("Regulations for Radio Apparatus and Operators on Steamers")

64) ついに長波へ進出するアマチュアも出現(1911年) [アマチュア無線家編]

さてアマチュアのその後の推移を追ってみましょう。 

まだ軍用局や商用局がそれほど多くない時代ですが、低い周波数を使うアマチュアが増えるにつれ、先住民である軍事局や商用局との混信問題が増えていました。

法律で無線が規制されていない以上、アマチュアにも低い周波数を使う自由があるため、この頃になると、もうアメリカ無線協会WAOAの指導や、Modern Electrics誌での呼び掛けでは抑えきれなくなっていたようです。

図は同じコールブックの1911年(明治44年)版「Blue Book」3rd Editionです。収録アマチュア局数も400局近くになりました。使用波長の欄にはVar.(可変)との回答も多いのですが、とりあえず記載があるものだけを集計してみました。

それが下の図表です。高い方に1局だけ25m(12MHz)がリストされて最高使用周波数を更新していますが、基本的には100m以下(3MHz以上)の高い周波数を使う局は減少トレンドにありました。前掲の1909年版(1st Ed.)と比較して眺めると、アマチュアが低い周波数へジリジリと移ってきている様子がわかります。

注目に値するのは、ついに波長1000mを超える長波バンド(ピンクエリア)で10局がリストされ、送信機入力も数キロワットクラスの局が現れた点でしょうか。掲載されたアマチュアで波長が最長のものは、なんと3,200m(周波数93.75KHz)です!

アマチュアが低い周波数へ進出できるようになったのは同調式の普及のおかげでもありました。テリムコのような非同調式火花送信機時代には輻射周波数をアンテナの長さで決めていましたから、単純計算でいえば波長1000m(300kHz)の長波を出すのにはその1/4波長のアンテナ(250m)が必要だったわけです。これでは一般人が長波へ進出するは無理です。ところが輻射周波数がスパークギャップを含むLC同調回路により決定される時代に移り、その制約が外れたのです。長波は技術の進化で使えるようになった後発の周波数帯です。

また電力で最大の局は20kW(1.71MHz)で、15kWも2局(中波800kHzの局と長波93.75kHzの局)いました。アマチュアの世界にも、より長い波長で、より強力な火花を散らす風潮が(一部に)広がり出したように見えます。しかしこれらの低い周波数帯(黄色エリア)には国際規則で定められた船舶局と海岸局用の波長600m(500kHz)と波長300m(1000kHz)があり、もはや国家的介入が必要なのは明らかでした。

【参考】ベルリン会議で長波1600m以上(周波数188kHz未満)は海岸局の遠距離通信用に定められていました。

なお無線通信取締法(Radio Act of 1912)が制定される前ですから、まだ法的には「アマチュア」という言葉は定義されていません。このコールブックでいう Amateur Stations は公衆通信(電報)を扱う海岸局と船舶局、および軍の無線施設のいずれにも属さないものを、ひとまとめにしています。

すなわち交信することを目的せず電波実験に専念する研究家や、現代的なアマチュア無線スタイルを広めた学生達だけでなく、いずれは自分も無線電報を取扱って一儲けしようと考える野心家や起業家も Amateur Stations に含まれます。長波帯や大電力で運用するアマチュアはそういう人達が多かったかもしれません。

ちなみに日本では明治初期より公衆通信(郵便、有線電報)を国営事業とし、1900年(明治33年)10月10日より無線電報も同じ扱いになりましたので、民間人が無線ビジネスに事業参入することは不可能でした。

65) 短波に追いやられた・・・について [アマチュア無線家編]

1911年(明治44年)12月11日、電波を国家管理にするアレクサンダー法案が発表されました。ガーンズバック氏はModern Electrics誌を通じてこの法案の欠点をするどく指摘し、(アマチュア無線を禁止にするのではなく)商用局・軍事局が使う周波数に立ち入らないことで、アマチュア無線の存続を訴えました。周波数による棲み分けです。

ニューヨークタイムス』紙にもガーンズバック氏の反対意見が取上げられました("400,000 Wireless Amateur", The New York Times, Mar.29, 1912, p12)。記事タイトルは「40万のアマチュア局」となっています。これを出典としてアメリカのアマチュア無線は1911年には40万局だったとする現代雑誌記事も見られますが、40万はガーンズバック氏がマスコミを味方につけるために戦略的に膨らませた数字ではないでしょうか。受信だけのものを含めても多過ぎ(ハッタリ?)ではないかと想像します。ガーンズバック氏が1909年に創設したアメリカ無線協会WAOAは、当時、会員16,189人と122無線クラブを擁する組織にまで発展したようです。

次に詳しく述べますが、結局、1912年(大正元年)12月13日をもって、アマチュアは波長200mを超える電波(1500kHz未満)の使用を禁じられます。時にこれが「短波へ追いやられた」 と表現されることがあります(まるで先住民のインディアンが先祖代々からの土地を白人に奪われた話のように)。もちろん趣味の世界の事ですから、「物語」としてはこれでも良いと思っていますが、ひとつ気になることがあります。

「短波へ追いやられた」という表現を使うと、読み手が、"それまでは、長波や中波の住人だった" と解釈しないでしょうか。少なくとも私は学生時代に、アマチュア無線は長波→中波→短波という逆方向に発展したと思っていました。しかし1912年の法律で波長の移動を迫られたのは、前掲円グラフでいう「ピンク色」と「黄色」の部分にいた人達で、けして多数派ではありません。

アマチュア無線に限らず無線通信は、そのスタートより20年間、高い周波数から低い周波数へ向かって発展しました。それが1920年代になると短波が見直されはじめて、1930年代にはさらに超短波へ向かいました。いわゆるV字回帰です。そしてこの回帰していく様子を本サイトでは「短波開拓」として扱っています。

66) アレクサンダー法案が上院通過(1912年5月7日) [アマチュア無線家編]

1909年(明治42年)以降、アマチュア局からの商業局・海軍局への混信事件が急増し社会問題となったことから「無線法」の制定が急がれましたが、なかなか利害関係の調整が進まないまま年月が過ぎていました。

1911年(明治44年)12月11日に国家による電波の管理法案(アレクサンダー法案)が米国議会の下院に提出されましたが、もう一刻の猶予もない時期でした。

何か大変かというと、第二回国際無線電信会議(ロンドン, 1912年6月4日~)の開催まであと半年に迫っていたのです。いわゆるロンドン会議です。

第一回国際無線会議(ベルリン)の条約・規則に調印したにも係わらず、いまだこれを批准できない国が、どんな顔をして第二回国際無線電信会議(ロンドン)へ参加するというのでしょう。米国政府のメンツは丸つぶれになりますから、なんとしても国内無線法を制定し、そして1906年のベルリン条約・規則を(ロンドン会議が始まる前に)批准したかったでしょう。

1912年(明治45年)春、アレクサンダー法案の承認がほぼ確実となったことから、1912年4月3日に先行して「ベルリン条約・規則」の批准が上院を通過しました。その直後の4月15日、タイタニック号が氷山に衝突して沈没し、多くの犠牲者を出したため、米国議会で無線の重要性がさらに強く再認識されました。そして4月22日に大統領が「ベルリン条約・規則」の批准に同意し、同年5月25日に批准宣言されました。これはなんと(6月4日から開催される)第二回ロンドン国際無線会議のわずか10日前で「綱渡りの批准」でした。

またアレクサンダー法案(Senate Bill Number: S-6412)の方ですが、4月15日のタイタニック号沈没事件のこともあってか審議はスムーズに進み、5月7日に上院を通過し、翌5月8日に下院へ送られました。

ロンドンで第二回国際無線電信会議(6月4日-7月5日)が始まりました。米国は駆け込みで「ベルリン条約・規則」を批准し、ロンドン会議に参加できました。ここでも悲惨なタイタニック号の沈没事件が大きな話題になり、その反省から、新しい「ロンドン条約・規則」では遭難時における海岸局と船舶局間の通信規則がさらに整備されました。

アレクサンダー法案は古い「ベルリン条約・規則」を前提にしていましたので、新しい「ロンドン条約・規則」との整合性を取るために一部修正されて、1912年(大正元年)8月13日に米国議会で "Radio Act of 1912" として承認されました。

無線通信取締法(Radio Act of 1912)第4条の取締規定の15(Fifteenth)で私設局(Private Stations)を「特別に許可された場合を除き、私設局は波長200mを超えてはならず、また送信機入力は1kWを超えてはならない」と規程しました

これが俗にアマチュア無線界で「Radio Act of 1912により、アマチュア無線に波長200m以下が指定された。」といわれるものの正体です。ここでは、公衆通信を行わないPrivate Stations私設局(プロもアマも)には、波長200mを超過する電波は許可しないとしただけです。

アマチュア無線局(Amateur Stations)という具体的な局種は、後ほど紹介する無線通信施行規則の中で定義されました(Radio Act of 1912の中にはAmateur Stationsという文言はない)。

67) 米国で無線通信取締法を制定(1912年8月13日) [アマチュア無線家編]

1912年(大正元年)8月13日、米国はそれまで自由に使えた電波を国家管理するための無線通信取締法 Radio Act of 1912 (Public Law 264, 62nd Congress, "An Act to Regulate Radio-communication")を成立させ、(官公庁以外の)民間電波を商務労働省長官が管理することになりました。施行日は半年後の1912年12月13日でした。

【参考】 ちなみに1926年(大正15年)ごろ、米国の電波が無政府状態(ラジオ・カオス)に陥ったため、1912年法の不備を改め た"Radio Act of 1927"が1927年(昭和2年)2月23日に成立しました。最初の法律"Radio Act of 1912" と改正された"Radio Act of 1927"の誤解・混同を避けるために、単に"Radio Act"とはせずに、"Radio Act of 1912"または"Radio Act of 1927"と年号を付けて表記することが多いです。

さてこの「Radio Act」を無線法と日本語訳されることがありますが、我国の逓信省は「無線通信取締法」という日本語名を採用しましたので、本サイトもこれに従います(左図:逓信省電務局編, 『外国無線電信無線電話制度調査資料』第6号, 1929, pp273-281)。

なおWeb上ではこれを「アマチュア無線規制法」的なものだとする表現も見受けられますが、それは適切ではないでしょう。

この無線通信取締法の本来的な目的はアマチュア無線への規制ではなく、これまで自由に任せていた全てのプロ局アマ局を対象とする「民間電波の国家管理への移行」です。つまりプロもアマも無線オペレーターは、政府が実施する無線従事者試験を受けて合格しなければならず、また無線局のオーナーは政府が発行する無線局免許を受けなければならなくなりました。こんなことは日本をはじめ欧州各国では当然のことでしたが、米国では野放しだったのです。

さかのぼること6年前、1906年(明治39年)に第一回国際無線電信会議が開かれ無線に関する国際条約や付属規則が定められました。いわゆるベルリン会議です。もちろん米国も参加し、最終議定書にサインしています。発効日は1908年(明治41年)7月1日で、調印した各国は発効日までにそれぞれの国会でこの条約・規則を批准しました。

ところが米国は先進国の中で唯一の「電波の自由国」で、(批准を議会で審議する以前の大問題として)自国の電波を国家が管理する法的根拠となる「無線法」がありませんでした。政府に管理権限がないのに、電波の管理運用に関する国際条約・規則を批准できません。とうとう米国は「ベルリン条約・規則」にサインしたにも係わらず、批准できないまま、発効日をオーバーランしてしまいました。もちろん不本意だったでしょうが、"約束を守らない国"になっていたのをついに解消しました。

68) 米国で無線通信施行規則を制定(1912年9月28日) [アマチュア無線家編]

この無線通信取締法Radio Act of 1912 に基づいて、1912年(大正元年)9月28日に、さらに詳しい無線通信施行規則Regulations Governing Radio Communication, Sep. 28, 1912)を定めました。

その施行規則第1條 "Part1. Licenses - Apparatus"の"Cの5"で、一般アマチュア、制限アマチュア(基地周辺に開設されたアマチュア)、スペシャルアマチュア(局種上は特別陸上局に分類され、アマチュア局には含めない)など、いくつかの陸上無線局をより具体的に定義しました(下図)。

5. General amateur stations are restricted to a transmitting wave length not exceeding 200 meters and a transformer input not exceeding 1 kilowatt. (Sec.4, fifteenth regulation, act of Aug. 13, 1912.)

5. 一般アマチュアは送信波長200mを超えてはならず、また送信機の入力パワーは1KWを超えてはならない(1912年8月13日制定の無線取締法第4条の取締規定15を参照)

非常に誤解が多いところですが8月13日の無線通信取締法(Radio Act of 1912)は公衆通信以外の私設局(Private Stations)という大きなくくりを定義しただけです。9月28日の無線通信施行規則(Regulations Governing Radio Communication)でこの私設局をいくつかの局種に分類定義しました。その際に、一般アマチュア局(General Amateur Stations)制限アマチュア局(Restricted Amateur)が定められたのです。

電波行政当局により"Amateur"という局種が明文化されたのはこれが世界初です(英国や英連邦では"私設実験局")。つまり厳密にいうならば、1912年(大正元年)9月28日こそが本当のアマチュア無線の法制化記念日です(施行日は12月13日)。

さてGeneral Amateur Stations(一般アマチュア)には"not exceeding" すなわち「一般アマチュアは波長200mを超えてはならない(周波数1500kHz未満を使ってはならない)」と、「一般アマチュアの送信機入力は1kWを超えてはならない」の2つのルールが布かれました。

商務労働省は波長200m(1,500kHz)に進入禁止標識を建てて、アマチュアが低い周波数に降りてくるのを防ぐとともに、商用局への混信防止のために電力制限を加えたのでした。アマチュアは短波に"追いやられた"というよりも、"追い返された"でしょうか(いや正確には易々と短波へは向かわ1,500kHzの1波にへばり付きました)。

69) 無線通信施行規則施行(1912年1213日) [アマチュア無線家編]

1912年12月13日、米国でついに無線通信施行規則が施行されました。

ここで商務労働省はアマチュア用の周波数をどこにも規定しなかった点にご注目ください。「お前たちには1,500kHz未満は使わせないぞ(免許を与えないぞ)」といっただけです。つまり「1,500kHz以上の短波がアマチュア用に規定された(分配された)」という表現は誤りです。これは似て非なるものです。

1,500kHz以上は、申請者が "希望する波長" をその都度、個別に商務労働省長官より許可してもらう方法です。けしてアマチュアが1,500kHz以上の帯域を包括免許的に自由に使えた(アマチュアバンドになった)のではありません。 

1912年までアマチュアは短波帯のどの周波数でも(もちろん中波も長波もそうですが)自由に使えましたが、今後は許可を受けた短波の波長でしか電波を発射できなくなりました。つまりアマチュアが短波を自由に使えた時代は1912年に終わりました。これをまとめると次のようになります。

よくある誤解

長波・中波を使ってきたアマチュアは、1912年の法制定で1500kHz以上を規定され、短波帯の好きな周波数を自由に使えた(包括免許)。

 これまで全周波数帯を自由に使えたアマチュアだが、1912年の法制定で1500kHz未満を禁じられ、さらに短波の中で許可を受けた波長のみに限定されてしまった(短波を自由に使えなくなった)。

それにアマチュアでなくとも1,500kHz以上は申請さえすればすべてのPrivate Stations私設局)に許可されます(←これも重要です!)。もう一度、無線通信取締法Radio Act of 1912を見てください。

なお私設局とは「官設局ではない局」ですから、マルコーニ局を代表とする民間企業の無線局や、高校生たちの趣味の無線局の総称です。

そういう意味でいえば、1,500kHz以上はPrivate Stations(私設局)の「みんなの周波数」です。 ですから「1,500kHz以上の短波がアマチュア用に規定された(分配された)」という表現は誤りです。それら1912年の無線通信取締法および施行規則は 200m & down のページにまとめましたのでご覧ください。陸上無線や軍用無線は1912年のロンドン会議では各国電波主管庁の自由としましたので、陸上無線に属するアマチュア用の許可波長や規制方法は国ごとに委ねられました。

【参考】 なお軍事施設から5海里(9.26km)内の申請者は、波長制限は同じですが、送信機入力500Wまでの「制限アマチュア(Restricted Amateur)」として許可されることになりました。「一般アマチュア」と「制限アマチュア」を合せてアマチュア局と呼び、コールサインは地域番号(0-9)+2文字(AA-WZ)が発行されました。文字XA-ZZは特別陸上局(XA-XZ:実験局, YA-YZ:技術訓練学校局, ZA-ZZ:特別アマチュア局)です。

70) 短波の研究家はどうなったのか?(1913[アマチュア無線家編]

技術力が認められたごく少数の実験家は"Special Amateur"(呼出符号の数字の次がZの局)のライセンスを得て、1,500kHz未満の特定波(375m)の発射が許されました(なおSpecial Amateurは法的にはアマチュア局ではなく、特別陸上局に分類されます)。

また一般アマチュア(および基地周辺の"制限アマチュア")は200mを超える波長(低い周波数)から撤退するしかありませんでした。しかし長い波長ほど遠くへ届くと信じられていたため、低い周波数にいた「交信したいアマチュア」達は、そう易々と短波には向かわずに、境界波長200m(1,500kHz)で運用するようになりました。

法制定で高い周波数へ押し戻されたアマチュア達と、低い周波数を目指して降りてきたアマチュア達がぶつかり合ったのが、図で示すように波長200m(1500kHz)でした。

1913年より米国アマチュアは事実上1500kHzの一波で運用されるようになっていきます。この他に、(交信には興味がなく)電波実験が目的のアマチュアが短波に残留していましたが、次に述べるとおりライセンスにはモールス技能が求められたことで壊滅したようです。

71) 法制化初年度のアマチュア局免許は1,312 [アマチュア無線家編]

左図は商務省の1912年度(July 1, 1912 - June 30, 1913)の年次報告書(Annual Report of the Commissioner of Navigation to the Secretary of Commerce, Fiscal Year Ended June 30, 1913)です。

そして下図がそのp152にある、民間無線局の統計です。下図の1は無線局の大分類(Commercial ship: 商業船舶局、Commercial land: 商業海岸局、Special land: 特別陸上局、Amateur: アマチュア局)ごとの免許数(いわゆる局免)です。

【参考】特別アマチュア局(Special Amateur Stations)は政府統計では、「特別陸上局」にカウントされます。「アマチュア局」とは、一般アマチュア局(General Amateur Stations)と制限アマチュア局(Restricted Amateur Stations)です。

(また下図の2の方は無線従事者ライセンス数(いわゆる従免)ですが、これについては後で触れます。)

 無線局免許制度を導入した1912年度の末日(1913年6月30日)における許可書が発行されたアマチュア無線局数は1,312局でした。これがいわゆる法制化後のアマチュア第一期生(1912年12月13日施行から事業年度末1913年6月30日までの無線局免許数)です。

一説によれば法の制定前には(受信専門家も含めて)およそ1万局のアマチュアがいたとされますが、このように1913年6月30日までにアマチュア局(AA-WZコールの一般アマチュアおよび制限アマチュア)の政府ライセンスを受けたのは、わずかに1,312局でしかありません。ざっくり10人中9人が無線を止めてしまった計算ですね。

「交信したいアマチュア」は低い周波数を好み、「実験したい研究家」は短波を好んだとすると、後者の研究家はその後どうなったのでしょうか?

彼らは(後に結成される)ARRLのように組織化されることもなく、各自それぞれが目的とする電波実験を(おそらく短波で)やっていただけで、この無線従事者資格制度の導入で壊滅したのではないかと私は考えています。

72) 法制化初年度のアマチュア局の無線従事者免許は1級1,075、2級766 [アマチュア無線家編]

左図は1912年10月7日のワシントンDCの新聞Evening Star("CURB ON WIRELESS" Oct.7, 1912, p8)です。来る12月13日より無線通信取締法および規則が施行されることを伝えています。『All Radio-Telegraph Operators, Even Amateurs, Must Be Licensed.  -  Examinations Necessary -』 

施行日まであと2カ月ほどを残すだけとなり、全ての無線オペレーター(もちろんアマチュアも)は資格試験を受ける必要があることを忘れてはいけないと注意を促しました。

先進国の中で唯一、電波の無法地帯だった米国でも、法による秩序が始まろうとしていました。私は無線通信取締法(1912年8月13日成立, 同年12月13日施行)が短波のアマチュアを消滅させたと考えています。

というのはこの無線通信取締法に基づき作られた無線通信施行規則(Regulations Governing Radio Communication, Sep. 28, 1912)第二条"Part2. Licenses - Operators"の中の第二項 "II. Amateur" で、アマチュア局を運用する者に対し毎分5語(1語=5文字)のモールス符号の送受能力を求めたからです。つまり交信が目的ではない実験家や、既製品無線機(テリムコ)を買っただけの一般人にも、モールス技能を身に付けなければ無線局の許可書を出さないとしたのです。他局より混信妨害を受けた軍用局や商業局が、妨害局に対して発する「送信停止要求」信号の解読能力を全アマチュアに求めました

The applicant must be able to transmit and receive in Continental Morse, at a speed sufficient to enable him to recognize distress calls or the official "keep-out" signals. A speed of at least five words per minute (five letters to the words) must be attained. (無線通信施行規則)

先程示した商務省の年次報告書の2を再度ご覧下さい。アマチュア無線オペレーターの試験を受験し、無線従事者資格を取得した人はたったの1,075名(First Grade 第1級)でしかありません。

左図創設された無線従事者資格です。Ⅱ.アマチュア局の従事者資格には1級と2級がありました。

First Grade(第1級)は毎分5語(25字)のモールス試験があります。

Second Grade(第2級は、受験会場から離れた場所に住んでいる「遠隔居住者」に対する救済措置として設けられたものです。モールス技能を有しているという公的証明書を提出すれば、試験に合格するまでの間を第二級資格者としてアマチュア無線局のコールサインを得ることができました。

【参考】商務省(ワシントンD.C.)の出張所として電波監理局(Radio Inspectors)が置かれた都市は、ボストン(マサチューセッツ州)、ニューヨーク、バルチモア(メリーランド州)、サバンナ(ジョージア州)、ニューオーリンズ、シアトル、クリーブランド(オハイオ州)、シカゴの8都市で、ここと商務省でアマチュア無線の試験を受験できました。それ以外の受験希望者は公的証明書を添えて郵送申請するだけで第二級が与えられました。

前述の商務省の年次報告書によると第2級アマ資格を得た人が766名いますが、第1級アマ資格と合せてもたったの1,841名です。第1級アマ資格のモールス技能試験は毎分5ワード(25字/分)ですから、決して難しくないはずなのに、他人との交信を目的としないアマチュア無線家にとって、モールス符号をマスターするのは "わずらわしい事" だったのでしょう。

1912年(大正元年)の法と規則の制定で、「短波に追いやられた」とする記事が多く見受けられますが、実際にはまったくその逆だと考えらます。法と規則の制定によりアマチュアの短波ユーザーは壊滅状態となり、短波に花開いた米国の大衆無線時代は終わりました。

73) 商務省が発行したAmateurのコールブック(1913年7月1日) [アマチュア無線家編]

政府機関が発行する無線局コールブックの嚆矢は、米海軍省が世界各国の電波主管庁に資料提供を要請し、1906年(明治39年)10月1日より毎年発行された"List of Wireless-Telegraph Stations of the World"です。1907年(明治40年)版に逓信省の長崎局と基隆局(台湾)が、また1908年(明治41年)版より銚子無線JCSや天洋丸TTYなどが収録されています。

また国際公衆通信を扱う海岸局および船舶局のコールサイン、波長、所在地、サービスエリアなどの詳細情報を公開するものとしては、1906年のベルリン条約・規則に基づき(公衆通信を扱う無線局の登録管理を委任された)万国電信連合のベルン総理局(スイス)が、1909年(明治42年)8月に計690局を収録した局名録を発行したものが最初です。

アマチュア局が収録された最初のコールブックは、1909年(明治42年)5月にアメリカ無線協会WAOAが発行した、前掲の"The First Annual Official Wireless Blue Book of the Wireless Association of America" です。

しかし免許されたアマチュア局が収録されたコールブックとしては商務省のものが最初です。無線通信取締法(Radio Act of 1912)が制定・施行され、商務省は免許を与えた全ての民間無線局をコールブックとして公開しました。もちろんアマチュア局の部(Partもありました。

日本では郵政省がアマチュア局コールブックを出すことはありませんでした。ここが日米の大きな違いですね。

図は電波の国家管理を開始した1912年度中に商務省が免許を発行したすべての無線局のリスト"Radio Stations of the United States"(Edition July 1, 1913)で、この初版では1,312のアマチュア局が収録されています。

まず免許人の名前のアルファベット順リストが掲載されており(上)、後半からはコールサインをアルファベット順にソートしたリストになっています。

ちなみにアマチュアの部(Part Ⅱ)では、呼出符号、住所、氏名、電力の4点のみの公開でした。彼らが発射許可波長の記載が省略されたため、1913年当時に短波の許可を受けた人がどれほど残っていたかを読み取れないのが残念です。

【参考1】 アマチュアだけが免許制になったのではなく、全ての「民間無線」が商務省の免許制になりました。しかし「民間無線」以外(例えば海軍や陸軍をはじめ、商務省以外の政府局)には商務省が免許する権限はありませんでした。

【参考2】 上記の無線局リストは商務省より毎年度発行されましたが、アマチュア局の数が圧倒的に多かった(商業局の約7倍)ため、第一次世界大戦後(1919年)はアマチュア局だけを"Amateur Radio of the United States"として別刷りにしました。

1914年(大正3年)5月にARRLが創設され、同年ARRLより発行されコールブック初版(左図:List of Stations, ARRL, 1914)には約400局が収録されたそうですこれはARRLの会員名簿の類だったのでしょう商務省のコールブックは免許リストなので全アマ局収録

74) カナダもAmateur公認 しかし厳しく制限(1913年62日) [アマチュア無線家編]

ここでカナダのアマチュアに触れておきます。カナダでは英国にならい1905年(明治38年)に電波の国家管理がはじまりましたが、アマチュア無線は認められていませんでした。しかし1911-12年(明治44-45年)頃になると、政府は一部の実験家に特別許可を出すようになったといわれています(私は詳細未検証です)。

1913年(大正2年)6月、従来の電信条例の第四編で規定していた無線に関する諸規則(1905年)を全面改訂し、独立した無線電信条例The Radiotelegraph Act)を公布しました(6月2日公布法令第42章)。ロンドン国際会議(1912年)の諸規則が1913年(大正2年)7月1日に発効するためです。

その第三条では「何人といえども大臣の許可を受け、これに準拠せずに、カナダにおけるいかなる場所、もしくはカナダ籍の船舶上にも、一切の無線電信局ならびに装置、もしくは一切の運用を行ってはならない」とする一方で、アマチュアを公認しアマチュア実験局特別規則Special Regulations for Amateur Experimental Stations)を制定しました。

【参考1】 まもなくして、7種の無線局(1. Limited Coast Station, 2. Public Commercial Station, 3. Private Commercial Station, 4. Experimental Station, 5. Amateur Experimental Station, 6. Technical or Training School Station, 7. Ship Station)全体に対する「Radiotelrgraph regulations無線業務規則)」として統合。

【参考2】 カナダでは第二次世界大戦後もしばらくAmateur Radio Stationではなく、Amateur Experimental Stationアマチュア実験局)でした。これは無線業務規則によりExperimental Station(実験局)やTechnical or Training School Station(無線訓練学校局)とは明確に区別されます。

アメリカで繰り広げられてきた「アマチュアと海軍局・商用局のトラブル」を見てきたカナダは、今回それを法制化するにあたり、同じ事態が自国で起きないよう、送信機入力の上限を米国の半分の500W(特別規則第一条、のちの無線業務規則第十一条、さらにのちの十九条)としました。

At amateur experimental stations the power used measured at the terminals of the transformer, must not exceed 1/2 k.w. 』 (Bill Parker, "From Spark to Space :The Story of Amateur Radio in Canada", Saskatoon Amateur Radio Club, 1968, p9

そして許可される最長の波長(最低の周波数)は商用局・軍事局、もしくは船舶航路からの距離よって定めましたが、以下のとおり非常に厳しいもので、アマチュアの低い周波数への進出は大きく制限されました(特別規則第二条、のちの無線業務規則第二十条)。

「最寄りの商用局・軍事局・航路自局との距離」により、アマチュア実験局以下の4つのクラスに分けられました。

クラス1) 上記の距離が、5マイル(=8km)以内に位置するアマチュアは50mより長い波長を使ってはいけない(6MHz以上を使え)

クラス2) 上記の距離が、5を超え25マイル(=40km)までに位置するアマチュアは100mより長い波長を使ってはいけない(3MHz以上を使え)

クラス3) 上記の距離が、25を超え75マイル(=120km)までに位置するアマチュアは150mより長い波長を使ってはいけない(2MHz以上を使え)

クラス4) 上記の距離が、75マイル(=120km)を超える位置のアマチュアは200mより長い波長を使ってはいけない(1.5MHz以上を使え)

東京でたとえると犬吠岬の銚子無線JCSから皇居が100kmで、調布飛行場までが120kmなので、東京二十三区は120km(75マイル)制限にエリアにすっぽり入ります。横浜だとちょうど青葉区役所、緑区役所、旭区役所あたりに120kmの境界線が引かれます。また大阪でいえば潮岬無線JSM(和歌山)から大阪・奈良の境にある二上山が120kmなので、大阪府堺市の南半分が75マイル(120km)圏に入ってしまいます。加えて航路からの規制もあり、東京湾や大阪湾に面する東京・横浜・大阪・神戸といった都市の沿岸部のほとんどが制限エリアに含まれるでしょう。

それに帯域免許ではなく希望の個別波長を申請する方式なので、もし都市圏の中央で分断されると、ご近所にいても使う波長が異なり気付かないこともあったかも知れません。これでは「アマチュアの共通波」といった考え方が育ちませんね。

さらにまた、特別規則第十一条(のちの業務規則第二十九条)で妨害停止要求符号「STP」を受けた場合には直ちに送信を中止すること、第十三条(のちの業務規則では第三十一条)では付近に商用局があるアマチュアは妨害の連絡をいつでも受けられるように有線電話回線を契約しておくことが求められました。100年前のカナダにおける一般家庭への電話の普及率を知らないのではっきりしたことはいえませんが相当高いハードルだったのではないでしょうか?こういった諸事情により、カナダではアマチュア無線のブームは起きませんでした。

アマチュアの呼出符号はこの1913年の特別規則の施行より、Xから始まるアルファベッ3文字(XAA, XAB, XAC,...)が発行されました(特別規則第7条)。カナダのアマ局がアメリカのアマ局のような「地域数字+文字」式の呼出符号になったのは、第一次世界大戦後の1919年の規則改正からです。

なお免許は4月1日からの1年間なので毎年更新する必要がありました。

カナダ海軍省のRadiotelegraphic Branch の年次報告書(1915年3月31日発行)によると、カナダの無線局総数は247局、対前年度比では78局増加しています。この増加78局(うちアマ48局)の内訳は下表通りです。

この表からアマチュアの総数は読取れませんが、80局ほどのようです。

同じ1915年6月30日時点の米国アマチュアは3,836局ですから、カナダのアマチュア局はアメリカの2%程でしかありません。

75) 中波1500kHzアマチュア時代が到来(1913年~) [アマチュア無線家編]

誤解しやすい点ですが一般アマチュア(General Amateur)および基地周辺の制限アマチュア(Restricted Amateur)は「波長200mを超えてはならない」という規則により、1,500kHz以上の周波数なら(包括免許的に)自由に使えたのではありません。←非常に誤解が多いところです。アマ局は自分が使いたい波長を個別に申請し、許可を得なければなりませんでした。

下図は1914年(大正3年)当時の一般アマチュア局(General Amateur)および制限アマチュア局(Restricted Amateur)用の開局申請様式です(スペシャルアマチュア局や実験局の開局申請書はこれとは異なります)。この年、商務労働省は改組され、商務省(Department of Commerce)が民間電波を管理することになりました。

免許状(図中の赤アンダーライン)には『 6. The station shall not use a transmitting wave length exceeding 200 meters 』「200mを超えるな(1,500kcより低い周波数を出すな)」というお決まりの注意書きがあります。

また上図の赤で囲った「使用波長」の部分を以下に書き出しました。

The normal sending and receiving wave length shall be .......... meters and the station is authorized to use the following additional wave lengths, not exceeding 200 meters: .......... meters, .......... meters.

当時のアマチュアは少しでも遠くへ飛ばすために、皆が波長200m(1.5MHz)で運用していましたので、最初の......Normal Wave: 通常波)には200m波(1.5MHz)が書き込まれたはずです。

そしてNormal Wave(通常波)の他に、(波長200mを超えない範囲で)Additional Wave(追加波)の許可を得ることができました。しかし同調式に進化したとはいえ、スペクトラムが広がった火花電波の時代ですし、周波数の安定度も相当悪かったでしょうから、Additional Wave として170m波(1.75MHz)などを申請するのは無意味だったと考えられます。Additional Waveの申請はほとんどなくて、事実上の運用は波長200mの1波に集中したようです。

第一次世界大戦後(1919年~)、アマチュアが真空管式発振回路による「持続電波」を扱えるようになって、波長150m, 175m, 200mの3波が使われるようになったといわれています。

76) しかし免許波長はどれほど守られたのか? [アマチュア無線家編]

また古い文献を読んだところでは、精度ある波長計はごく一部のアマチュアしか持っていなかったようです。マーカーとなる標準電波も発射されていない時代ですので、船舶局が聞こえるのが300m(1MHz)、そしてアマチュアのコールサインが聞こえるところが200m(1.5MHz)だろうと調整する局が多かったのかも知れません。

こういう方法だと、(少しでも遠くに飛ばしたいという思いから)みんなで低め低めと送信周波数が調整されていく可能性があります。免許された波長(200m)がどれほど守られていたのでしょうね。早くも1914年の無線雑誌には商務省が低い周波数を使うアマチュアを摘発した記事が見られます("Government Penalizes an Amateur", Wireless Age, 1914.4, p576 や、"Government Fines Amateur Wireless Operator", Popular electricity and modern mechanics, 1914.7, p68)。

1914年(大正3年)5月18日にアマチュア団体ARRLが組織されました。扱いはけして大きくありませんでしたが、Popular Electricity and Modern Mechanics誌(1914年7月号)の記事になっています(左図)。

An undertaking of great interest to wireless enthusiasts is the Amateur Radio Relay League being organized under the auspices of the Radio Club of Hartford.  The object of the league is to establish wireless communication between far distant points through the co-operation of amateur wireless operators throughout the country. ・・・(略)・・・ 』 ("Amateur Radio Relay League", Popular electricity and modern mechanics, 1914.7, p89)

ARRLは1915年(大正4年)12月より機関誌QSTを出版し、ますます「交信したいアマチュア」の結束が強まっていきました。みんなに波長を遵守させるARRLの取組みとして、1917年(大正6年)初頭には波長計製作コンテスト "The Wave Meter Contest"が行われています。ARRLがアマチュアを代表する組織としてリーダーシップを発揮しだしたことが伺えます。ですが同年4月にアメリカも世界大戦に参戦したため、すべての送受信が禁止されました。

77) YLアマチュアも誕生(1916年) [アマチュア無線家編]

下図はアメリカ無線協会WAOA創始者のガーンズバック氏が、1913年に創刊した月刊誌The Electrical Experimenter(1916年10月号)です。

ここに"The Feminine Wireless Amateur"(pp396-397,p452)という記事があり、サンフランシスコの近郊のサン・ラファエル(San Rafael)でアマチュア無線を楽しんでいるMiss Kathleen G. Parkinさんを紹介しています。

彼女は地元のthe Dominican College(現:ドミニカン大学 Dominican University of California)附属高校の物理クラスに通っている15歳の少女ですが、なんとプロの無線通信士の最上位資格(First grade operator's licensee)を持っています。

本文記事で使われている写真をそのままイラスト化して、10月号の表紙にも使用されています。もちろんこの無線機は自分で組み立てたものです。アマチュア無線のコールサイン6SOでした(商務省が毎年発行するコールブックの1916年版[1916年7月1日現在]より掲載されています)。

さらに記事ではクライド・ラインの商業無線局で働く女性無線通信士、Miss Graynella Packer(Jacksonville, Florida)さんら、複数の女性通信士の活躍にも触れています(日本でも昔は逓信局で女性の有線電信オペレーターが数多く活躍していました)。

78) 第一次世界大戦でアマチュア無線が禁止(1917年) [アマチュア無線家編]

1917年(大正6年)4月7日、アメリカもドイツに宣戦布告して、第一次世界大戦に参戦しました。そのため米国では1917年4月17日よりアマチュア無線は禁止になりました。戦地では無線通信士が大きく不足しており、軍の要請を受けて多く若いアマチュア無線家が志願してヨーロッパ戦線で戦いました。その貢献が戦後になり認められ、アマチュア無線の再開に結び付きました。

戦前のアマチュア無線は火花送信機と鉱石受信機が用いられ、特に技術的なハードルは高くありませんでした。しかし戦後にはアマチュアにも真空管が出回るようになり、真空管式の発振回路や増幅回路を工夫し、雑誌で研究発表するようになりました。すなわちアマチュア無線家の技術レベルは第一次世界大戦を挟んで大きく進化しました。戦前ハムと戦後ハムは別モノと考えた方が良いぐらいです。なお戦後のハムについては「続 アマ無線家」をご覧ください。

 

欧州で第一次世界大戦が勃発したのは1914年(大正3年)ですが、ちょうどその頃(日本は電信法で電波を管理してきましたが)新たに無線電信法を施行し、実験用無線を認めることにしました。

我国でもテリムコのような非同調式無線機で短波を使う、個人実験家が登場したと想像されます。次にその件をご紹介します。

1) 日本でも 実験用 私設無線の制度(法2条第5号)が (1915年) [アマチュア無線家編] 

日本では1900年(明治33年)10月1日に「電信法」が施行されましたが、その9日後に逓信省令第77号(M33.10.10)発令し、「電信法」を無線電信に準用しました

電信法は第1條で『電信 及 電話ハ政府之ヲ管掌ス』としながらも、例外的に私設(民間企業や個人による設置)を認めるケースを第2條に定めていました。その電信法を無線電信に準用するということは、例外的に私設の無線局が第二條で認められる。と、なるはずです。

しかし。しかしです。逓信省令第77号では「電信法を無線に準用するが、無線には第二條を除外する」としたのです。つまり1900年10月10日以降、電波については一切の私設を認めず国家独占としました。

その昔は「個人が電波を出して良いとも、悪いとも法律には書かれていなかった。だから大正時代のアマチュアはアンカバーではない。」といった、かなり無茶な主張をWeb上で目にすることがありますが、それは1900年(明治33年)10月9日以前の話です。大正時代に免許を得ずに電波を出す行為は法令違反です。

電信法第二條、第三條、第二十八條及第四十三條ヲ除クノ他之ヲ無線電信ニ準用

明治三十三年十月十日

遞信大臣 子爵 芳川顯正

1915年(大正4年)6月、無線の国家独占の方針を転換し、私設を認める「無線電信法」(大正4年 法律第26号, 大正4年6月21日官報公布、同年11月1日施行)を、「電信法」から独立させて定めました。

1915年11月1日、「無線電信法」が施行されました。第1條で『無線電信 及 無線電話ハ政府之ヲ管掌ス』としながらも、(有線と同じく)例外的に第2條で私設を認める、第1から6号のケースを定めました。その第5号が「実験用無線」でした。電波実験をおこなう無線施設者(免許人)を "法人" に限定するような付帯条件はありませんので、個人・法人を問わない「実験用無線」制度であることは明らかです。

【参考】 逓信省にとっては、無線施設者が、"個人"か "法人"かはどちらでも良い話しで、申請者の "社会的信用度" が最も重要でした。たとえば海運王として知られる山下亀三郎氏が許可を得た法2条第1, 2, 3号の無線施設の場合、1917年(大正6年)2月10日官報告示の「帝国丸」JTKの免許人は山下亀三郎(個人名)で、同年6月27日と12月5日に官報告示があった「第貳吉田丸」JBYと「第参吉田丸」JCYは山下汽船(会社名)で、翌1918年(大正7年)4月18日官報告示の「駒形丸」JDVは再び山下亀三郎(個人名)です。逓信省的にいえば、免許人が個人なのか、法人なのかについては、こだわりのない私設無線制度(法2條)でした。要するに政府にとっての危険思想や反社会的な個人・法人でなければ良かったようです。

無線電信法(大正4年11月1日施行)

第一條 無線電信 及 無線電話は政府之を管掌す

第二條 左に掲ぐる無線電信又は無線電話は 命令の定むる所に依り 主務大臣の許可を受け之を私設することを得

(一から四・・・省略)

 無線電信 又は 無線電話に關する實驗に專用する目的を以て施設するもの

六 前各号の外 主務大臣に於て特に施設の必要ありと認めたるもの

第三條 私設の無線電信 又は 無線電話の機器、其の装置及運用に関する制限 並 私設の無線電信の通信に従事する者の資格は命令の定むる所に依る

第四條 私設の無線電信 又ハ 無線電話は其の施設の目的以外に使用することを得ず 但し命令の定むる所に依り船舶遭難通信、氣象通信、報時通信其の他主務大臣に於て公益上必要と認むる通信に限リ之を使用することを妨げず


【参考】 読者の便宜をはかる為、原文のカタカナ(左図)を平仮名にしました。ちなみに、法二条第六号はいわゆる「なんでもありルール」で、戦前におけるJOAKなどのラジオ放送局はこの第6号免許でした。

法3条に "詳しいことは別途定める" とした通り、同じ1915年11月1日より「私設無線電信規則」(大正4年 逓信省令第46号, 大正4年10月26日官報告示、同年11月1日施行)および「私設無線電信通信従事者資格検定規則」(大正4年 逓信省令第48号, 大正4年10月26日官報告示、同年11月1日施行)も施行されました。

 

まず定義ですが、無線電信法の第2條第5号には "実験に専用する目的をもって施設するもの" とあるだけですので、「私設無線電信規則(大正4年 逓信省令第46号)」の第2條で "実験"とは学術研究または機器の実験であると定めました。また「私設無線電信規則」の第20條では各無線局に対する運用の制限事項について定めましたが、実験用無線の運用は「他の無線局に妨害を与えないとき」に限るとしました。

 

『 ◎ 私設無線電信規則(大正4年11月1日施行) 【注】第39條(附則)で無線電話にも準用を規定

第二條 無線電信法第二條第五号に依り施設する私設無線電信は無線電信の学術研究 又は 機器に関する実験に供するものに限る

(第3 - 19條 省略)

第二十條 私設無線電信の使用は左記各号に従うことを要す 但し第二十二條乃至第二十四條に依る通信(遭難通信等)に関する場合は此の限りに在らず

一 無線電信に依る公衆通信 又は 軍事通信に支障なきものとす (→ 全ての私設無線に適用)

二 船舶に施設したるものの使用は航行中に限ること   (→ 船舶の私設無線だけに適用)

三 無線電信法第二條第五号に依り施設したるものの使用は 他の無線電信の通信に支障なきときに限ること (→ 実験用の私設無線だけに適用) 』

● 実験用無線に求められたオペレーター資格は?

次に実験用無線(法2條第5号)に必要なオペレーター・ライセンスですが、「私設無線電信通信従事者資格検定規則(大正4年 逓信省令第48号)」第1、2條により、私設無線電信通信従事者の第三級資格が求められました。但し無線電信をオペレーションしない(無線電話だけの)実験用無線にはオペ―レーター資格を要求していません。

第三級の試験科目は「欧文60字/分、和文50字/分のモールス送受能力」、および「私設無線電信に関する法令知識」のふたつだけで、無線電信学(無線工学)と英語の試験はありませんでした。

『 ◎ 私設無線電信通信従事者資格検定規則(大正4年11月1日施行)

第一條 私設無線電信通信従事者の資格は左の区別に依り十七歳以上の者に就き之を検定す

第一級 無線電信法第二條に依り施設したる私設無線電信の通信に従事し得る者

第二級 無線電信法第二條に依り施設したる私設無線電信(第三号に依り施設したるものを除く)の通信 及 同條第三号に依り施設したる私設無線電信の通信の補助に従事し得る者

第三級 無線電信法第二條第五号に依り施設したる私設無線電信の通信 及 同條各号に依り施設したる私設無線電信の通信の補助に従事し得る者

 

第二條 検定は試験に依り逓信大臣の命じたる私設無線電信通信従事者資格検定委員之を行う 其の試験科目左の如し

一 無線電信学 無線電信に関する学理(第一級に限る)、機器の調整及運用(第一級 第二級に限る)

二 電気通信術 和欧文の送信及音響受信 其の速度標準一分時 第一級 片仮名八十字 欧文二十語 第二級第三級 片仮名五十字 欧文十二語(12語=60字)

三 無線電信法規 無線電信に関する一般法令(第一級 第二級に限る)、私設無線電信に関する法令(第三級に限る)

四 英語 初歩(第一級 第二級に限る)』

● オペレータ資格の取得免除規定も制定

無線電信の実験を行うには、第三級の無線電信通信従事者資格を要すると定めました。ところが「私設無線電信規則」第15條で、通信従事者の資格がなくても無線電信の実験用無線(法2條第5号)を運用できる「抜け道」を定めたのです。

当時の逓信省には無線機の開発技術者ではあるが、"60字/分のモールス技能"がない人(例えば20字/分程度ならなんとか送受信できるが、第三級の60字/分を扱う能力がない無線設計技術者ら)でも電信による電波実験ができる道を開いておくべき" との考えがあったことが伺えます。「無線技術者=無線通信士」とは限らないだろうというものです。

 

『 ◎ 私設無線電信規則(大正4年11月1日施行)

第十五條 私設無線電信の通信従事者は私設無線電信通信従事者資格検定規則に依り相当資格を有するものなることを要す 但し無線電信法第二条第五号に依り施設したる私設無線電信の通信従事者にして特に逓信大臣の認可を得たる場合は此の限に在らず』

 

さらに1926年(大正15年)5月25日の改正で、この15條の「抜け道」の実施権が、逓信大臣から所轄逓信局長へ権限委譲されました(大正15年 逓信省令第17号)。

これ以降は地方逓信局の担当係員が、実験用無線(法2條第5号)の開局申請者に対して知識と技能の確認テストを行い、この規則第15條を根拠として、第三級資格の取得を免除しました。草間貫吉氏(J3CB)、梶井謙一氏(J3CC)、笠原功一氏(J3DD)ら、昭和前期のアマチュア無線家には所轄逓信局長の権限による資格免除規定が適用されました。

 

1928年(昭和3年)にJ3CCの免許を受けた梶井氏は次のように語っています。

『 最初の試験は大阪逓信局でうけた。科目は学科と電気通信術とだけであった。 』 (梶井謙一, "ハムと私", 『電波時報』, 1958.6, 郵政省電波監理局, p17)

なお地方逓信局でのこの試験に合格しても、無線通信従事者の資格はもらえません。これは第三級資格の取得を免除するか否かの「見極め試験」でしかないからです。

 

ちなみにこの免除規定のおかげで年齢制限(第三級の受験資格は17歳)を受けることなく実験用無線(法2條第5号)の開局が可能でした。例えば1931年(昭和6年)に免許を受けた札幌市の直井洌氏(J7CF)は15歳と10箇月1日目、東京の鈴木康夫氏(J1EP)は16歳と24日目に許可されました。

【参考】なお昭和13年5月10日(逓信省令第44号)、第三級無線通信士の年齢制限は14歳に引き下げられています。

 

戦前の我国では無線実験をするのに第三級資格(私設無線電信通信従事者資格検定規則 第一條)を要しましたが、「抜け道」規定(私設無線電信規則 第十五條)により、事実上は資格不要(局免許は必要)でした。参考までに、その後の変遷もご紹介しておきます。

● 実験用無線のオペレーター資格の変遷(おまけ)

1931年(昭和6年)7月1日、旧「私設無線電信通信従事者資格検定規則」が廃止され、新たに「無線通信士資格検定規則」(昭和6年 逓信省令第8号, 昭和6年4月1日官報告示、同年7月1日施行)が施行されました。実験用無線(法2條第5号)の運用資格が、「第三級の私設無線電信通信従事者」から「第三級の無線通信士」になりました(新規則第一條)。

このとき第三級の電気通信術が欧文80字/分、和文55字/分(のちに60字/分)に引き上げられ、そのうえ無線電信無線電話実験(機器の調整と運用の簡易なる実践)、無線電信無線電話法規(無線電信・電話に関する法令および条約の大要)、英語(中学校二年修業程度)の計四科目になりました。同じ日に「私設無線電信規則」も改正されましたが、「抜け道」(第15條)がそのまま残されました。 つまり資格取得は難しくなったのに、結局のところ、無資格のままで実験用無線(アマチュア無線など)の運用が出来ました。

 

1939年(昭和9年)1月1日、今度は旧「私設無線電信規則」の方が全面改正され「私設無線電信無線電話規則」(昭和8年 逓信省令第60号, 昭和8年12月29日官報告示、昭和9年1月1日施行)が施行されました。この新規則第36條に再び「抜け道」が盛り込まれました。

【参考】この全面改正の時に逓信省は実験無線(法2條第5号)に対し「実験用私設無線電信無線電話」という言葉を定義しました。ちなみに「私設無線電信無線電話実験局」という言葉は、戦後に広まった単なる俗称です。

 

戦時色がより強まった1940年(昭和15年)12月より逓信局内での運用方法が変更されました。今後一切「抜け道」は適用せず、実験用無線の新規開局および再免許の際には、電気通信技術者資格三級 [無線] または第二級無線通信士の資格がないと許可しないことを決めました。

日本アマチュア無線外史(岡本次雄/木賀忠雄, 電波社, 1991, pp99-100)に、安川七郎氏(J2HR)が東京都市逓信局より受取った届いた通知(都無監第48号, 東京都市逓信局)が掲載されていますので引用します。J2HRの局免許更新(11月)の際に、突然送られてきたもののようです。

『都無監第四八号

安川七郎殿 昭和十五年十二月四日

東京都市逓信局

実験用無線電信無線電話施設に関する件

右に関し今般左記の通決定相成候條諒知相成度

追而施設許可後左記第一号資格又は別紙電気通信技術者検定規則に依る詮衡検定申請資格具有者は証明書(合格証書写、卒業証書写、在学証明書、在職証明書)を添付の上その旨当局宛届出相成度

一 個人に対する許可は実験研究者が電気通信技術者第三級(無線)又は無線通信士第二級以上の資格を有する者 又は卒業後上記資格を詮衡に依り付与せられるべき学校講習所の学生生徒に限らるること

但しその他にして逓信大臣に於て必要ありと認めたるものは特に許可することあり

二 通信日誌抄録は爾今一通にてたること 』

 

実験用無線に求められる資格は、無線通信士資格検定規則で第三級無線通信士と定められているにも拘わらず、より難しい第二級無線通信士の資格を要求しており、理解に苦しみます。逓信省工務局の佐藤光男氏が無線と実験誌(実験用私設無線電信無線電話に関する規則取扱改正に就いて, 昭和16年1月号)を通じて、"あくまで地方逓信局内における「規則」の取扱い方(運用方法)の変更なので告示するものではない" と説明(弁明?)されているとおり、実は「無線通信士資格検定規則」も「私設無線電信無線電話規則」も一切改正されていないのです。日中戦争が拡大し、加えて日米間の雲行きも怪しくなった時期ですから、通信統制のさらなる強化を求める軍部からの要請による「超法規的措置」だったと推察します。

 

終戦9箇月前にあたる1944年(昭和19年)11月25日、水産無電協会が発行した漁業用無線電信無線電話関係法令集(改訂第四版)から引用します。第三級無線通信士の操作範囲には相変わらず実験用無線(法2條第5号)があります。 【参考】なお1943年(昭和18年)11月1日、戦時下につき逓信省と鉄道省が統合され、運輸通信省となった

『 ◎ 無線通信士資格検定規則 (昭和19年11月 時点)

第一條 無線通信士の資格は左の区別に従い試験または銓衡により運輸通信大臣の命じたる無線通信士資格検定委員これを検定す

・・・(第一級 第二級 略)・・・

第三級 無線電信法第二條 第一号 第二号 第四号および第六号により総噸五百未満の漁船に施設したる私設無線電信の通信、

同條 第三号により同漁船に施設したる私設無線電信の和文通信、

同條 第五号に依り施設したる私設無線電信の通信、

同條 第六号により受信に専用する目的を持って施設したる私設無線電信 および

同條 各号により施設したる私設無線電信の通信の補助ならびに空中線電力百「ワット」以下の私設無線電話の通信に従事し得る者

・・・(航空級 電話級 聴取員級 略)・・・』

 

また私設無線電信無線電話規則 第36條の「抜け道」もそのまま残っています。

『 ◎ 私設無線電信無線電話規則 (昭和19年11月 時点)

第三十六條の二 左の各号の一に該当する場合は前條の規定に拘らず無線通信士資格検定規則に依る資格を有せざる者をして私設無線電信無線電話の通信に従事せしむことを得

一 所轄逓信局長の認可を得て実験用私設無線電信無線電話(法2條第5号のアマチュア無線など) 若くは 無線電信法第二條第六号に依り受信に専用する目的を以て施設したる私設無線電信無線電話 又は之に準ずべきものの通信に従事せしむる場合

・・・(略)・・・』

 

逓信省としてはアマチュア達の事情も加味しながら、まず試行運用をしてみて、そのあとで正規の規則改正に手を付けるつもりだったのではないでしょうか?たとえばJARLは地方逓信局と交渉し、これまでの実務経験で(無試験で)電気通信技術者資格三級(無線)資格を得ることを認めてもらったように、地方逓信局はかなり柔軟に運用しようとしていたことが伺えます。ところが1941年(昭和16年)12月の日米開戦により個人の実験用無線を全面禁止したため、この「超法規的措置」も、そして本来おこなうべきだった「規則改正」も不要となり、そのまま戦後まで放置されました。

 

1946年(昭和21年)10月31日、水産無電協会が発行した漁業用無線電信無線電話関係法令集(改訂第五版)より引用します。

下図[左側]、無線通信士資格検定規則(第1條)の第三級無線通信士の操作範囲には法2條第5号施設(実験用私設無線)とあります。また下図[右側]の私設無線電信無線電話規則(第36條の2)には所轄逓信局長が実験用私設無線(法2條第5号施設)の運用資格を免除できる「抜け道」がありますね。これは戦前ではありません。終戦後です。

 (終戦後[1946年] 時点) 1940年(昭和15年)12月から日米開戦でアマチュア無線が禁止された1941年(昭和16年)12月までの1年の間に再免許手続きをされたOM各局に対して、地方逓信局が正規の規則改正の手続きを踏まないで「第二級無線通信士」または「第三級電気通信技術者(無線)」を求めてきた話は、戦後のアマチュア無線界でも良く知られるところです。しかしそれは日中戦争が泥沼化した戦時下における超法規的な措置でしょう。

いわゆる戦前のアマチュア無線に求められた運用資格は、1915年(大正4年)11月1日より終戦後まで、規則上では一貫して「第三級無線通信士」です。元JARL会長の原昌三氏(JA1AN)がアイコムの週刊BEACONで以下のように述べられているとおり、けして「第二級無線通信士」や「第三級電気通信技術者(無線)」ではないのです。

『戦前、私はアマチュア無線の免許を取れなかった。アマチュア無線の資格は3級無線技士(通信士の誤記)以上であり、さらに逓信省は昭和15年になるとハムの免許を中止した。』 (原昌三, 「24)アマチュアバンド拡大の歴史(1)」, 週刊BEACON)

ですからまず最初に、正規の規則(無線通信士資格検定規則および私設無線電信無線電話規則)に沿って、求められた資格と、その取得免除規定の説明を行ったうえで、昭和15年12月の特殊な措置について言及した方が、誤解が生じなくて良いのではないでしょうか。

●それでは日本での私設無線の免許について下表に整理しておきます。

 1900年(明治33年)10月9日まで

 1900年(明治33年)10月10日より

 1915年(大正4年)10月30日まで

 1915年(大正4年)11月1日より

 無線は誰がやるのも自由。

 無線で何をやってもおとがめなし。(国家管理せず)

 「電信法」により、無線電信と無線電話は政府だけが行う。

 私設(民間企業や民間個人)無線は一切認めない。受信も禁止!

 「無線電信法」により、私設で無線(含む受信)をするには

 (個人・法人を問わず) 主務大臣(逓信大臣)の許可を受けよ。

WEB上では『(大正時代には)個人が電波を出すことについて、良いとも悪いとも法律に書かれていなかった。』との記述を目にすることもありますが、大正4年施行の無線電信法第2条が無線を施設するのに(電波を出すのに)「主務大臣の許可」を求めているのですから、「良いとも悪いとも法律に書かれていない」との主張はおかしいでしょう。

 

それに許可無く施設したり、使用した場合の罰則も大正4年の無線電信法第16條にきちんと定められています。個人とか、法人とか、そんなことは関係なく、誰であっても電波を勝手に使うことが罪です。大正時代の日本は、立派な「法治国家」ですから!

『 第十六條 許可なくして無線電信、無線電話を施設し 若は許可なくして施設したる無線電信、無線電話を使用したる者 又は許可を取消されたる後 私設の無線電信、無線電話をしたる者は1年以下の懲役 又は八千円以下の罰金に処す 

前項の場合に於て 無線電信又は無線電話を他人の用に供し因て金銭物品を収得したるときは之を没収す 既に消費又は譲渡したるときは其の金額又は代価を徴収す 』

 

さらにさかのぼれば、我国では明治33年の逓信省令第77号で「無線は政府以外には使わせないぞ」と宣言したときから、たとえ個人であっても電波を出すことが禁じられてきたわけです。我国で自由に電波を送信や受信できた時代は、1900年(明治33年)10月9日をもって終了しました。もし『 明治33年10月9日までは、個人が電波を出すことについて、良いとも悪いとも法律に書かれていなかった。 』であれば、これは正解ですね。

 

また近年になり『アマチュア無線に関する法律がなかったのだから、JARL創設メンバーをアンカバーと呼ぶかは疑問。』というおかしな理屈も出てきたそうですが、アマチュア無線制度が有ろうが、無かろうが、"無線をするには大臣の許可が要る" と法2條で定められている以上、許可を得ずに運用するのは「アンカバー」でしょう?私はそう思います。

世界的にみて27MHzのCB無線はアンカバー活動が先行し、その取締りに手を焼いた電波行政当局が、後追いでCB無線制度を創設した(アンカバーを合法化した)国がとても多いです。私はそんな27MHzの歴史に対して「その国にはまだCB無線制度が無かったから、彼らをアンカバーと呼ぶかは疑問。」などとは、とてもいえません。CB無線制度が有ろうが、無かろうが、それは不法運用でしょう。違いますか?

 

もちろんJARL創生期の大先輩の方々をなんとか擁護したいという気持ちは私にも理解できます。ですが創設メンバーの笠原氏らはJARL創設の年の秋に、無線電信法違反で検挙されており、自分たちはアンカバー通信をやっていたと、あっけらかんと本に書かれています。はたして天国にいらっしゃる笠原氏らが、法を超越した擁護論を歓迎されるのでしょうか?

【参考】当サイトは「電波は誰のも?」を基本テーマとしています。JARLがアンカバー団体としてスタートしたことは事実として受け入れた上で、そのアンカバー活動が自己の楽しみの追求だけではなく、「法2条第5号」を平等に運用していたとは言い難い(と、少なくとも笠原氏は考えていたようです)、逓信省へのレジスタンス行為でもあっただろうと私は解釈しています。

大正12-15年頃は、自由な気風の世に生きる全国ラヂオファンたちが、ほんのわずかしか無線(放送実験・電波実験)を許可しない逓信省と衝突していましたし、「空中自由論(電波はみんなのもの)」という考え方が公に登場したのもこの頃でした。無線界にも大正デモクラシーの一端が見えます。

 

大正4年制定の無線電信法 第2條第5号で「実験用無線」が定められました。下図[左]は大正11年に免許された濱地常康氏(東京1番、東京2番)の官報告示で、この法2條第5号による許可です(同じ年の本堂氏や、翌大正12年の安藤氏も法2條第5号による免許)。

また下図[右]は昭和2年に免許されたJARL総裁の草間貫吉氏(JXAX)の官報告示で、濱地氏らと同じく大正4年制定の法2條第5号による許可なのです。この件については一切触れないまま、草間氏が免許されるまで「アマチュア無線に関する法律がなかった」と主張されても、まったく説得力がありませんね。ちなみに1941年(昭和16年)の日米開戦までに開局した戦前アマチュアはすべて、1915年(大正4年)に作られた「法2条第5号」による免許です。(この件もスルーされる事がとても多いです)

【参考】 戦前の官報は、その無線局の許可日や許可番号を開示していません(官報告示の日付や番号は、許可日や許可番号ではありません!許可日や番号は別途調査しない限り知り得ない)。たとえば昭和2年3月1日に許可された有坂氏(JLYB)の無線施設が官報で告示されたのは昭和2年4月5日で、なんと一ヶ月以上も経ってからの官報掲載です。つまり官報の日付に特に意味はなく、あえて言えば "皆に知らせた日"。ただそれだけです。

 

1927年(昭和2年)9月7日、草間貫吉氏にJXAXが免許されたのは、その直前に「法(または規則)が改正されて、アマチュア無線が認められたからだ」という意見もありますが、これも完全に誤りです。1926-1927年(大正15年-昭和2年)頃にアマチュアの認可に関して、無線電信法や私設無線電信規則が改正された事実はありません。

 

ただしこの時期に、新たに台頭してきた短波を使う電波実験の許可基準に関して、地方逓信局へ「短波開放通達」(電業第748号, 大正15年7月10日)が出されています。しかしこれは法改正でも、規則改正でもありませんので誤解されませんように。草間貫吉氏(JXAX)は濱地常康氏(東京一番, 二番)と同じく、"1915年(大正4年)に作られた実験用無線(法2條第2号)" として許可されました。法律上、何ら変化はありません。

 

それに「短波開放通達」電業第748号によって示された短波実験の許可に関する審査方針(運用方法)が、個人申請者に適用されたのは草間氏よりも、1926年(大正15年)10月の安藤博氏(JFPA, 38m/80m, 電業第2316号, 1926.10.8)や、1927年(昭和2年)3月の有坂磐雄氏(JLYB, 38m, 電業第561号, 1927.3.1)の方が先です。

49) 実験用無線機の製作指南本が出版される (1915年) [アマチュア無線家編]

さて「実験用無線」制度の創設に合わせたのか、1915年(大正4年)2月に一般人(アマチュア)向けとして日本初になる無線機の製作指南書「簡易無線電信機の製作法」が出版されました。筆者は東京の河喜多能直氏です。

この本に刺激された読者により、我国にもアマチュア無線実験家が誕生した可能性があります。すなわち河喜多能直氏は「日本のアマチュア無線実験家の父」といえるかもしれません。

 

『緒言

無線電信の装置には多額の費用を要する様に一般の人から想像せられて居る。然(しか)し乍(なが)ら、無線電信の研究は余り費用を要せずして甚だ興味あるものの一つであって、特に本書に指示したる装置は何人と雖(いえど)も安価に製作し得るものである。・・・(略)・・・読者中一人たりとも此(この)装置を実験せられ以て筆者に報告せらるれば此小冊子の目的は足るのである。

大正四年二月 河喜多能直』 (河喜多能直, 『簡易無線電信機の製作法』, 1915, 以文館, pp1-3)

 

しかし想像以上に「法2条第5号」の門は硬く閉ざされており、仮に無線を実験した人がいたとしても、それらはアンカバーでした。このあと、正規の個人実験局が誕生するまでにおよそ7年もの歳月を要しました(第一号は浜地常康氏)。

 

以下に目次を書き出しましたが、Web上でこの「簡易無線電信機の製作法」が閲覧できます。

 第一編 無線電信の基本的硏究

   第一章 火花放電が附近の導體に及ぼす影響 (P1)

   第二章 コヒラー及リレー (P7)

第二編 簡易無線電信機製作上の注意

   第一章 感應コイルの製法 (P14)

   第二章 感應コイル用電池 (P21)

   第三章 電鍵及火花間隙 (P24)

   第四章 空中線の形狀 (P26)

   第五章 コヒラー及リレーの選擇 (P28)

第三編 實驗用無線電信機製作法

   第一章 實驗用無線電信送信機 (P29)

   第二章 實驗用無線電信受信機 (P34)

  

第四編 一哩(=1.6km)乃至五哩(=8km)用無線電信機製作法

   第一章 一哩乃至五哩用發信機 (P41)

   第二章 一哩乃至五哩用コヒラー受信機 (P50)

   第三章 一哩乃至五哩用驗波器受信機 (P54)

第五編 著者が考案せる最簡易無線電信說明用裝置

   第一章 發電方法 (P57)

   第二章 リレー其他の製作方法 (P60)

第六編 電波の利用方法

   第一章 無線爆發裝置 (P63)

   第二章 無線操縱裝置 (P66)

第七編 共鳴式無線電信

   第一章 共鳴作用の說明並にタンピング係數 (P69)

   第二章 クェンチト火花間隙及カップリング係數 (P72)

   第三章 インダクタンス及電氣容量 (P79)

   第四章 簡易共鳴式無線電信 (P83)

第八編 火花放電論

   第一章 蓄電器の火花放電及變退電波 (P90)

   第二章 不變退電波發生裝置 (P93)

   第三章 火花を出し得る最小電壓及限界間隙 (P94)

   第四章 火花の長さと電位との關係 (P97)

   第五章 火花の後れ (P100)

第九編 驗波器總論

   第一章 ヘルツ驗波器 (P101)

   第二章 コヒラー (P102)

   第三章 磁氣驗波器 (P105)

   第四章 電解驗波器 (P106)

   第五章 熱驗波器 (P108)

   第六章 礦石驗波器 (P109)

   第七章 眞空驗波器 (P110)

筆者である河喜多能直氏はこの本を出す前から "無線爆破装置" の発明者として一部では知られていましたし、検波器に性能に関し文中で『自分の実験に依れば(検波器より)コヒラーの方が反って確実である』と語っており、実際に電波を発射しそれを受けていたと考えられます。

 

「日本のアマチュア無線実験家の父」ともいえる河喜多能直氏ですが、その経歴は良く解りませんでした。東京市工場要覧(東京市役所編, 1926, p126)によると、この『簡易無線電信機の製作法』の出版から4年後の1919年(大正8年)9月に、医療機器メーカー「河喜多研究所」(東京市本郷区駒込林町174)を創業されています。

河喜多研究所の主力製品はヴィオラーという電波治療器でした。もしかすると日本のISMの祖である伊藤賢治氏(無線と実験誌の創刊者)のライバルに当たるのでしょうか?1922年(大正11年)の書籍で、河喜多研究所特約店の米田喜一郎氏が河喜多能直氏を以下のように紹介しています。

『河喜多研究所

本所はただ一時的の、紫光線治療器のみの研究所にあらず。所長河喜多能直氏は、電磁気に関する、世界的有数の研究家にして、その献身的なる事は、過去十数年の発明品において、既に特許権を得しもののみにても、百数十件あるを見て人呼んで、東洋のエヂソンと称するゆえんである。

発明品の主なる物は、電気に依る海深測定装置。同自動記録装置。飛行機。汽車。汽船その他の機械を電波にて操縦する装置。簡便なる空中窒素固定装置。気流測定器。油田測定器。電解用白金電極板。アルカリ電解。無線電信。無線電話。軽便なる無線電鈴。児童警報器。電送写真。X光線。同光量計。同スイッチ。各種デアテルミー等の外、その数実に数百の多きに達するのである。

なかんづく従来の、X光線、デアテルミー、紫光線装置等には、完全なる冷却装置なきをもって、自ら優秀を誇る、舶来品においても、故障を生じやすく、使用に堪えざるもの多きを遺憾とし、本所独特の装置を発明し、特許権を得、まず帝国大学病院の賞賛を得て採択となり、次いで順天堂病院その他、著名病院は外国製品を廃し、本所製品の採用せられおる点は、天才的なる所長をはじめ、技工手に至るまで、利欲を度外視し、専心これ研究に没食せる、責任観念の結晶なる事を、広く内外に声明して、あえてはばからぬ所である。』 (米田喜一郎, 『ヴィオラー:紫光線電波治療器』, 1922, 河喜多研究所)

なお前述の東京市工場要覧によれば、河喜多研究所の従業員数は94名 [男65、女29]です(大正15年)。

50) 日本に短波を使うアマチュア実験家が誕生か? (1916年) [アマチュア無線家編]

1916年(大正5年)には入船勝治氏が子供向けに出版した『誰にでもできる実用電気玩具製作法』の中で実験用無線機の製作方法を取上げました。これは前述の河喜多能直氏の「第三編 實驗用無線電信機製作法」にある送信機と受信機を、入船氏が抜粋し(河喜多氏の許可を得て?)再掲したものです。子供向けを意識してか、語尾が少々柔らかになっていますが、基本的には河喜多氏の記事のままです。

 第九章 無線電信の理論と実験用無線電信機製作法

   発達 (P127)

   大要 (P128)

   送信機の製作法 (P129)

   受信機の製作法 (P134)

   検波器受信機の各部分 (P138)

   単純な無線電話装置 (P140)

我国における子供文化研究の第一人者だった上笙一郎(かみ・しょういちろう)氏が、2004年(平成16年)に江戸時代から太平洋戦争の終戦直後までの児童遊戯に関する書籍を集めた「叢書 日本の児童遊戯」全25巻を出されました。

『日本の子どもの遊びの内容を良く示し、日本の子どもの遊びの思想・心情を典型的に表し、日本の子どもの遊びの歩みを豊かに語っているものを選んで、ここに復刻=提供するのである。 』 (上笙一郎, 『叢書日本の児童遊戯』 [別巻], 2005, クレス出版, pp1-2)

 

入船勝治氏の『誰にでもできる実用電気玩具製作法』は、『叢書 日本の児童遊戯 第21巻』で復刻されました。春日明夫東京造形大学教授の解説を引用します。

『 (1)著者について

この本の著者(入船勝治氏)の経歴等については不明である。人物辞典などにも掲載がないため、目立った大きな功績はないように思われる。しかし、序を書いた農商務省特許局技師で工学博士の坂田貞一氏によれば、大阪人で早稲田大学理工科電気科の出身と記述されている。また、著者についての説明はどこにも見当たらない。ただ、奥付けには大日本電気研究所編集部編纂とあるので、おそらく彼はこの大日本電気研究所に関係深い人物であることは間違いないものと考えられる。

(2)本書の構成と概要

・・・(略)・・・題名には実用電気玩具の製作法となっているが、実際にはほとんどが電気や磁石などの基本的理論を示している内容構成である。しかし、この大正時代という背景を考えてみると、一般の人や子どもたちにとって難解である電気学が、玩具の製作という観点から執筆されている点に親しみを持つものと考えられる。さらに、各ページには図やイラストの挿絵が掲載され、難解である電気学の雰囲気を親しみやすく変えている点に、本書の特徴を見ることができる。 』 (春日明夫, 『叢書 日本の児童遊戯』 [別巻], 2005, クレス出版, pp193-194)

 

入船勝治氏と(学校や研究機関への理化学実験器具の製作販売していた)大日本電気研究所の関係ついては、書中では明らかではありません。しかし入船氏は "もし読者が部品の入手に困ったなら同社が実費で供給する" と述べており、大日本研究所に勤める研究員か、あるいは経営者だったのかもしれません。

少ないパーツで作ることができる非同調式無線機ですから、もし部品供給が保証されるのなら、電波実験は成功したも同然でしょう。私はこの点に注目したいと考えます。原設計者である河喜多能直氏がまず称えられるべきは当たり前として、製作部品を提供した入船勝治氏の役割も評価されるべきでしょう。

 

入船勝治氏の文頭の言葉を引用します(内容は同じですが、下の図は復刻版ではなく初版本です)。

『 (一)進歩または文明という語の一面は理化学応用の程度を示しているのである。げに吾人の日常目撃する一時一物は巧妙なる理化学の応用に過ぎぬものはない。しかるに電車は走るもの。冬は寒いもの。手品や魔術は不思議なものと独り合点して納まっている時代ではない。何故に「なぜ」(Why)を連発せざるや。金さえだせば玩具は買える。学校には出席さえすれば実験は見られるでは実に嘆かわしいではないか。ホワイを解決したならば、更に進んでこれを試作して見ようとの決心を起こして欲しいのである。・・・(略)・・・

(二)本書を編むに当たりて、最も苦労せる所は如何にせば電気というようなこむづかしい七面倒な高等なる学理を至極平易に子供にも面白く理解せしめるかという点である。・・・(略)・・・

(六)各工場においては皆、製作上における秘密を有して一般人の伺うを許さないため、たとえ専門学者の手を借りて製作するも、効率その他に欠点を生じて到底実用に供するを得ないが、本書は電気趣味普及のため忌憚なくこれら製作上における秘密を発表して読者の製作上の便宜をはかったものある。

(七)本書を熟読してその製作法を知ると共に、製作に当たりて材料を要する事もちろんなれども、その材料は坊間(ぼうかん=市中)に販売せざるもの多きため、材料収集に困難せらるる事と思う。大日本電気研究所は読者の便を計り、電気玩具その他の電気器具製作に要する確実なる材料を実費をもって供給し、また疑問に対しては何時にても詳しく解答するつもりである。 』 (入船勝治, 『誰にでもできる実用電気玩具製作法』, 1916, 大日本電気研究所, pp1-4)

 

送信機・受信機ともに非同調式です。米国のアマチュアに遅れること10年にして、ようやく我国でもアマチュア向け無線機の製作記事が見られるようになりました。屋外通信用にアンテナは高さ20尺(6m)以上としています。もし全長8mの垂直線を張ったとして、発射される波長は32m(9.4MHz)付近の短波です。

製作方法がとても詳しく書かれていますので、きっと入船氏自身も電波実験を行ったのでしょう。そして部品の供給を受けた読者により、短波を使う「町の実験家」が1916年の日本に誕生したものと考えられます。

 

送信機の製作法を引用します(なおこの原作者は河喜多能直氏です)。

『送信機の製作法

この機械の製作に先だって次のようなものが必要である。

(1)一糎半(=1.5cm)感応コイル(Induction Coil)

(2)加減火花間隙

(3)電池

div> (4)電鍵

(5)空中線

(6)地板

(インダクションコイルについて)

この装置の中で最も必要なものは感応コイルであって、このコイルの大小によって通信距離を自由にされるのであって、一糎半(1.5cm)のコイルというのは一番大きく出る火花の長さが一糎半(1.5cm)になるコイルのことである。このコイルの断続器はスプリングで作ってあって底部にパラフィン蓄電池が挿し込んである。日本の電機店で普通、四円ないし拾円で売っている。又ここに一つの利用法がある。それは即ちガソリン機関の発火装置用のコイルを使うことである。何れにしても一糎半(1.5cm)の火花さえ発するものならいいのである。

(放電球について)

そして小さなコイルには放電球を付けたものがほとんどないため(放電球は)自製の外(ほか)ない。放電球を製作するにはまず如何なる金属でも差支えないから、ダライ盤にかけて直径一糎ないし二糎(1-2cm)の球を作るのである。この球は正確な球である必要はないがその表面は平滑にするようにつとめなければならない。そして直径三粍(3mm)、長さ10糎(10cm)の針金を挿し込むのであるから相当な穴をうがって針金を螺旋仕掛けか、はんだで付けてしまうのである。

針金は第四十五図のように曲げて感応コイルの二次線の両極中に挿入した後で、その距離を加減し火花間隙の大きさを自由に出来るようにしておくのであって、もし室内で実験するなら四個位の乾電池で沢山である。また室外なれば六個ないし八個用意しなければならない。

(電鍵について)

電鍵は普通電信に使用する様なものでなく第四十四図の様な簡単な物で充分である。製法はまず真鍮版をはさみで長さ八糎(8cm)幅一糎(1cm)のものに切り取って他端には木製の釦(ボタン)を付けて釦の真下に一つの螺旋を挿入して接点として置くので、その接続法は点線で示してある通りにするのである。

(連結法およびアンテナ・アースについて)

第四十五図は発信機接続法を示したもので室内の通信用には空中戦は長さ六十糎(60cm)ないし九十糎(90cm)のものを直立し、その下端は火花間隙に一方に連結し、他方の一極は針金を付けてテーブルに下に垂らすのであるが、もし一つの辺が三十糎(30cm)位の銅版を空中線の上端に、また垂下させた導線の下端におのおの取り付けるならば三十米(30m)の通信は確実にすることが出来る。戸外通信で一哩(=1mile=1.6km)の通信をしようと思うなら空中線は少なくとも二十尺(=6m)の高さがいる。

地線は一米(1m)平方位の銅版を付けて深く地中に埋めなくてはならない。また川、湖水あるいは海辺においては水中に浸してもいい。また市街では水道管に連結しても差支えないのである。

(送信機の調整について)

送信機をしらべるには断続器の白金接点を軽くスプリングに接触させて電路を閉じると盛んにスプリングは振動し始める。このとき火花間隙は一・五粍(1.5mm)位にして、三粍(3mm)以上にしてはならないのである。 』 (入船勝治, 『誰にでもできる実用電気玩具製作法』, 1916, 大日本電気研究所, pp129-134)

 

受信機はコヒーラ(デジタル式)と、無線電話も復調できる検波器(アナログ式)が解説されていますが、前者の製作法を引用します。

『受信機の製作法

受信装置には二種類あって一つはコヒラーを使ってモールスの印字機を動作させるものであって、他の一つは自己回復の作用をしている検波器を使って受話器で音響を聴いて通信するものである。いま一つをコヒラー受信機といい、他を検波器受信機と名付けて製作法を説明しよう。

コヒラー受信機の各部分

(1)ニッケルの粉末を入れたコヒラー

(2)電鈴

(3)七十五オームの抵抗を有するリレー

(4)乾電池

(コヒーラについて) コヒラーの製作法はターミナル二個を第四十六図の様に長さ九糎(9cm)、幅六糎(6cm)の木片に取付けて、ターミナルの相互の間隔は三糎半(3.5cm)位とするのであって、図に示すように直径三分の一糎(1/3cm)位の針金を取付けておく。いま直径三粍(3mm)、長さ三糎半(3.5cm)ばかりの真鍮線を切ってターミナルの穴に差し込み、硝子(ガラス)管の長さ二糎半(2.5cm)、内径三粍(3mm)のものを図のように取付け、新しい鑢(ヤスリ)で五セントのニッケル貨幣の粉末を作って、これを封じるのである(日本の五銭白銅貨はニッケル二五%、銅七五%から成立っている。しかし純粋のニッケルが良好なのはいうまでもない)。

(リレーについて)

リレーは約七十五オームばかり巻いたものであって、ポニーリレーといわれている種類のものである。このリレーには四個のターミナルを付けて、そのうちの二つのターミナルは、コヒラーに連結し他の二つは局部電路の方に連結されるものである。電鈴から鈴を除いたものはコヒラーを打撃するのに使われる(デ・コヒーラ用)。この打撃は電波によってコヒラーが永久的導体に変ずるのを防ぐものであって、電波が来る時のみコヒラーを打つのが動作するのである。

(連結法およびアンテナ・アースについて)

この装置は一個の乾電池をコヒラー打撃電路およびコヒラー電路に共用したものである。それからその連結法は第四十七図のように(1)のコヒラーのターミナルは(2)のコヒラーのターミナルに連結されて、他方のリレーのターミナルは乾電池の炭素極(4)に連結されている。また乾電池の亜鉛極(5)は(6)のコヒラーのターミナルに連結されている。また(4)からは(7)のリレーのターミナルに連結する線を出し、また(8)からは(9)のコヒラー叩きのターミナルに連結し、また一方のターミナル(10)は(5)に連結されている。空中線と地線は同じ長さで、コヒラーのターミナルの(1)と(6)に連結するのである。

(受信機の調整について)

受信装置を調節するには先ずリレーの調節用螺旋を回転して、リレーの局部電路を閉じる接点が相触れるようにして極弱電流でもコヒラーが感ずるようにしなければならない。またコヒラーの栓の相互の間隔を加減し乾電池からの電流がコヒラーを通ろうとする所で止まるのである。この加減の如何によって通信距離は変化するのである。

(通信の原理)

もしこれらの調節を終ったのち、発信機の電鍵を閉じると放電球間に火花が飛んで、空中線から電波を発射するのである。この電波が受信機の空中線に達すると、これに誘発された振動電流がコヒラーの抵抗を数オームに下げてしまう(普通三十オームないし五百オーム位に低下する)。そしてこのコヒラーには電池の直流が初めて流通する様になってリレーを動作させて電鈴あるいはコヒラー叩きの電路を閉じるのである。コヒラー叩きがコヒラーを打てば、コヒラーの抵抗は殆ど無限大に増加して、再び電波が来なければ抵抗は低下しなくなるのである。 』 (入船勝治, 『誰にでもできる実用電気玩具製作法』, 1916, 大日本電気研究所, pp134-138)

【参考】 真空管式無線電話送信機の製作法が加わった改訂版にあたる『最新図解 実用電気玩具の作り方 並に日用家庭電機の製作法』が1926年(大正15年)に誠文堂書店から出されました。

51) 逓信省がアマチュア無線の免許を渋った理由  [アマチュア無線家編] ・・・2017年9月27日新規

法的には個人でも無線実験(法2條第5号)ができる道が開かれましたし、河喜多氏と入船氏が無線機の製作本を出しました。

【参考】さらに1916年10月には『簡易電気玩具の製作法 : 応用自在』(帝国電気学協会編)が出ました。やはり河喜多式の送信機と受信機の製作記事がほとんどそのまま再掲されています。

 

ただしこれらの製作本では具体的な開局手続きを説明していません。

実際には、実験無線(法2條第5号)の開局手続きは、無線電信法と同時に施行された私設無線電信規則第六條に従うことになっています。

 

『 ◎ 私設無線電信規則(大正4年11月1日施行) 【注】第39條(附則)で無線電話にも準用を規定

第六條 私設無線電信を施設せんとする者は願書に左記各号の事項を記載したる書類を添付し逓信大臣へ差出すべし 其の第一号乃至第四号の事項を変更せんとするときも亦同じ

一 施設の目的 及 施設を必要とする事由

二 機器装置場所 府県郡市区町村字番地(船舶の名称)

三 工事設計 機器種類、装置方式、電柱(櫓)の高、電力、昼間所要通達距離、補助設備を要する時はその設備

四 通信執務時間

五 船舶の種類、総噸(トン)数、所有者、航路及定繋港(内地に於る主なる碇泊港を定繋港とすべし) 【注】法2條第5号は不要

六 落成期限

前項第二号の船舶内装置の箇所 及 第三号の装置方式は別に図面を以て之を表示すべし

第七條 前條第五号及第六号の事項を変更したるときは速に其の旨を逓信大臣へ届出づべし 但し定繋港の変更に限り同時に旧所轄逓信局又は管理事務分掌一等郵便局へも届出づべし

(第7條 省略)

第八條 私設無線電信の装置工事落成したるときは速に之を逓信大臣へ届出づべし

第九條 逓信大臣前條の届出を受けたるときは検査吏員を派遣し機器及其の装置を検査せしめたる上 検定証書を交付す 但し特に検査の必要なしと認むるときは直に仮検定証書を交付す

(第10-17條 省略)

第十八條 私設無線電信は第九條に依る検定証書又は仮検定証書の交付を受けたる後に非ざれば其の使用を開始することを得ず

第十九條 私設無線電信の使用を開始したるときは速に其の旨を逓信大臣へ届出づべし・・・(略)・・・

第二十條 私設無線電信の使用は左記各号に従うことを要す 但し第二十二條乃至第二十四條に依る通信(遭難通信等)に関する場合は此の限りに在らず

一 無線電信に依る公衆通信 又は 軍事通信に支障なきものとす

二 船舶に施設したるものの使用は航行中に限ること

三 無線電信法第二條第五号に依り施設したるものの使用は他の無線電信の通信に支障なきときに限ること』

このように「工事設計の装置方式に関する図面を別途添付せよ」(施行規則第6條)と言われても、記入見本も無く、これでは素人には手が出せませんね。

 

開局手続きに関する書類を定めた上記、私設無線電信規則の第六条は、1926年(大正15年)5月25日の改正で、申請者により分かりやすい条文になりました(大正15年5月25日 逓信省令第17号)。下記の茶と赤字部分が変わりました(とくに赤字は実験用無線の申請者を意識した改正部分)。

『第六條 私設無線電信を施設せんとする者は願書に左記各号の事項を記載したる書類を添付し陸上に施設するものに在りては逓信大臣、船舶に施設するものに在りては所轄逓信局長へ差出し其の許可を受けるべし 其の第一号乃至第四号の事項を変更せんとするとき亦同じ

一 施設の目的及施設を必要とする事由

実験を為すものなるときは実験の種類及実験者の経歴を付記することを要す

二 機器装置場所 府県郡市町村字番地(船舶の名称)

三 工事設計

(イ)送信装置 装置方式、各機器の種類、電源設備、空中線電力、送信可能電波長及昼間通達距離

(ロ)受信装置 装置方式、増幅器種類及受信可能電波長

(ハ)補助設備 装置方式、電源設備、各機器の種類、送信可能電波長及昼間通達距離

(ニ)電柱(櫓)の高さ、空中線形状、空中線固有電波長及接地方式

(ホ)第四條の二の設備及物品の種類

(へ)実験を為すものなるときは空中線疑似回路

四 通信執務時間

五 船舶に施設するものなるときは船舶の番号、種類、総噸数、所有者、航路定限、就航方面、旅客定員、船員数及定繋港 内地に於ける主なる碇泊港を定繋港とすべし

六 落成期限

前項第三号の事項に付いては別に先の図面を願書に添付すべし

(イ)空中線、通信室、機械室及電源設備の位置を示す船体図面又は装置箇所附近図面

(ロ)送信装置、受信装置及電源設備の接続図面

(ハ)電柱(櫓)及空中線の大さ及形状を示す図面

(ニ)送信装置、受信装置及電源設備の配置図面 』

 

1917年(大正6年)8月3日、有線の「私設電信電話監督事務規程」を無線にも拡張した「私設電信電話 無線電信無線電話 監督事務規程」(大正6年8月3日逓信公報 公達第472号)を定めました。これにより各地方逓信局が私設無線の申請窓口(第2條)となり一次審査をする(第3條)ことが明文化されたのです。いわゆるアマチュア無線に相当する実験施設(法2條第5号施設)の開設申請は、各地方逓信局において「実験の種類、目的、実験者の略歴」が審査されました。

『 ◎ 私設電信電話無線電信無線電話監督事務規程(大正6年8月15日施行)

第一條 施設電信規則又は私設無線電信規則に依る施設の監督に関しては特に定むる場合を除くの外本規程に依る可し

第二條 私設電信規則又は私設無線電信規則に依り逓信大臣へ提出する書類は所轄逓信局又は管理事務分掌一等郵便局(以下分掌局と称す)に於て調査し 記載事項又は添付書類に不備の廉ある者は相当訂正を為さしめたる上 之を受付可し

第三條 逓信局長又は管理事務分掌一等郵便局長(以下分掌局長と称す)は前條に依り受付たる書類に関し左記各号を精査し意見を具し 之を進達す可し、 其他局管内に関係あるものは自局管内に属する部分に対し意見を具し 順次関係局を経由することを要す

一、 施設を必要とする事由の適否

(二から十二、十四、十五、は省略)

十三、 私設無線電信規則第二條(=無線電信法第2條第5号)に依り施設するものに関しては其の実験の種類、目的及実験者の略歴

・・・(略)・・・ 』

【参考】1920年(大正9年)11月の改正(大正9年11月6日逓信公報 公達第985号)で、上記第三條の十三は、第三條の十四へ横滑り移動した。(大正9年11月15日施行)

 

 大正時代に個人で正規の実験免許(法2條第5号施設)を得ることができたのは濱地常康氏、本堂平四郎氏、安藤博氏の三名に限られました。おそらく最寄りの逓信局に開局申請の方法を問い合わせた方もいらっしゃったでしょうが、きっとつれない応答で、この3名を除き、みんなアンカバー運用になったのでしょう。

逓信省が法2条第5号の許可に慎重だったのは事実です。ではなぜなのでしょうか?まず日本のアマチュア無線の初期の歴史を年表に整理してみました(下表)。

無線を扱う法律(電信法と無線電信法)では、私設の無線実験をどのように規定していたか?これについては表中の「黄色」の部分でその変遷(方針転換)が説明できます。そしてその結果、おなじみの濱地氏や草間氏に実験許可が出ました。それは表中の「緑」で示しました。ここで取上げたいのは無線電信法の施行から濱地氏の免許まで7年近くも掛かった理由です。

 

たしか学校の歴史の時間に、「仏教伝来」とか「鉄砲伝来」とかの出来事を教わりましたが、「伝来」という出来事の中に歴史上の重要なヒントが隠れていることがあります。実は「アマチュア無線」もそうなのです。いつ、どんなニュアンスで「アマチュア無線」が我国に伝わったかが、とても重要な意味を持っていて、その後の逓信省や海軍省に大きな影響を与えました。つまり"アマチュア無線の伝来" は、日本のアマチュア無線の歴史を説明する上で外せない出来事だと私は思います(現実はそれが全く軽視されています)。

 

前述しましたが、天洋丸TTYの木村平三郎局長により我国にアマチュア無線が伝えられたのは、1910年(明治43年)春です。米国の無線少年達が軍用局や商業局に混信を与えて社会問題になり、アマチュア無線を禁止する法案が議会に提出されたという、とてもネガティブなニュースでした。

それを逓信職員で構成される通信協会の通信協会雑誌1910年(明治43年)5月号が報じましたので、日本全国の逓信職員が「学生小児実験家による娯楽的無線電信」(アマチュア無線)という "ヨロシクないもの" が米国で勃興したことを知りました。

それにしてもファースト・インプレッション(第一印象)が悪すぎです。まるで社会を混乱させる「悪の電気遊戯」です。無線電報をビジネスとする逓信省や、艦船との無線連絡を行う海軍省にすれば、そんな迷惑な「学生小児実験家による娯楽的無線電信」など、自国では許可したくないと考えるのは当然でしょう。

 

やがて同調式無線機が普及し、アマチュアからの混信問題が下火になった1914年(大正3年)5月に、米国のアマチュアがARRL(アメリカ無線中継連盟:American Radio Relay League )を結成し、再び逓信省を刺激しました。それはARRL3文字目のRelay=中継です。(米国では公衆電気通信が民営事業なので政府は無関心ですが)日本ではA地点からB地点へのメッセージの一切の伝達(はがき、封書、電報、電話)は逓信省が独占的に行う有料ビジネスです(除:伝書バト通信)。もしアマチュアによりA地点からB地点へ(しかも無料で)電文を中継送達されると、逓信局で働く人達にとってその行為は、脅威であり、また営業妨害です。

無線電信法で実験用無線が認められたこのタイミングでARRL結成のニュースが伝わり、「アマチュア無線が逓信ビジネスの領域を侵すかもしれない・・・」という危惧が逓信現場に広がったことは、日本のアマチュア無線界にとって大きな不運でした。

 

この二つの出来事があって、逓信省と海軍省はそれぞれの立場・理由から、アマチュア無線の免許にとても消極的になりました。そのため法二条第五号の開局申請者の社会的信用度や思想面が重視され、"選ばれしもの" にしか免許を出さないという不平等な運用が行われました。

52) 日本最古のアマチュアによる電波の公開実験 (1918年) [アマチュア無線家編]

日本のアマチュア無線は1915年(大正4年)11月1日より施行された無線電信法(1915年6月21日公布)第二条第五号により(たとえ絵に描いた餅であっても、条文上では)個人実験許可の道が開かれ、またアマチュア向けの無線実験本も出版されました。その筆者である河喜多能直氏が、内緒で電波実験を行っていたのは間違いないでしょうし、入船勝治氏もまた製作部品を提供するために、まず自分が電波の送受を試みたと想像します。

そしてこのような無線指南書と部品供給会社が1915-16年の我国にあった以上、電波実験する一般人(アマチュア)が日本中のどこかに生れたのは間違いないと思いますが、それを裏付ける文献は発掘されていません。

 

しかし2005年(平成17年)になって "眠っていたある資料" が出版されたことで、少なくとも1917年(大正6年)には一般人(アマチュア)による電波の公開実験が行われたことが明らかになりました。辻直人明治学院歴史資料館研究調査員は次のように出版の経緯を記しています。

『はじめに

「明治学院九十年史」は一九六七(昭和四十二)年に刊行された。その編纂過程において同窓生及び元教職員の方々による回想録が集められた。この点について、「九十年史」は次のように述べている。

卒業生から回想録の寄稿を願い、あるいは高齢の方々の談話をテープにおさめるなど資料は相当集まった。回想録五十余事のなかにはぜひ本史に入れたかったものも多数あるが、紙数の制約で入れられなかったのはかえすがえすも残念である。これらの回想録だけでも明治学院外史として貴重な一巻となるであろう。

このように、せっかく集められた回想録の多くは、その存在だけは知らされていたものの、今日まで日の目を見ることなかった。そこで今回、『明治学院歴史資料館資料集』第二集として、これら四十年近くも眠っていた回想録の全文(29名分)を、学院史の貴重な証言として刊行することとした。いずれの回想録も、学院の生活を実体験した人たちの貴重な証言であり、その時代を知る上で参考すべき内容が多く含まれている。』 (辻直人, 解説「明治学院九十年史のための回顧録」の概要と背景について, 『明治学院歴史資料館資料集(第2集)―明治学院九十年史のための回想録―』, 2005, 明治学院歴史資料館, 2005, pp220-221)

 

こうして2005年に刊行された資料にある安藤博(明治学院中学部OB)氏の回顧録から引用します。1917年(大正6年)、明治学院の記念祭で中学部理化学室から校庭を隔てて神学部までの数100m間で無線電話の公開実験を行ったことが記されています。

『明治学院の自由な学風は私の研究を伸ばす上に非常な助けとなったと思われる。又物理化学担当の長井先生(永江正直先生の間違い)は私の研究を認めて、物理化学専用室に自由出入を許して呉れた。・・・(略)・・・中学四年の大正八年一月に、それより以前数年間に研究資材や研究費にも色々の難関を突破して完成さした、多極真空管と二次電子倍増管の特許を出願した。この発明はその後、類似の出願が英マルコニー、米のGE会社等よりあったので、その発明の前後を審理の結果、私の最先発明であることが明かとなって、それぞれ特許が与えられた。この各発明は、今日のエレクトロニクスの心臓部として、その基本となったもので、我国の代表的発明として通産省の年表にも載っているし、世界の創始発明であることは今日、学界等一般に認められている。

さてわが国に放送事業の開始される以前、大正十年から長期間にわたって、私の発明した真空管等を駆使して実験放送を民間最初の私の実験無電局(呼出符号JFWA。これはJOAKに相当するもの)から続けて定期的に実施したばかりでなく、その他早大出版部から刊行した拙著等で放送事業開始の機運を盛り上げて、NHKの発起設立者となっているのである。が、これより以前このようなことが出来るようになった素地は中学三年(大正7年)当時、学院の記念祭のとき神学部津留教授(都留教授の間違い)の特別許可を得て、校庭を隔てて中学部理化学室と神学部の問、数百米の問に無線電話の実験を公開した等のことに原因している。・・・(略)・・・ すなわち、わが明治学院は、二十世紀文化の一面を代表するマスコミとエレクトロニクスを日本に発祥さした私の青春時代をはぐくんだ温床となったものであると云っても過言ではない。願わくは、今後も自由な学風を益々助長するよう、希望する次第である。』 (安藤博, 明治学院とエレクトロニクス及び放送, 『明治学院歴史資料館資料集(第2集)―明治学院九十年史のための回想録―』, 2005, 明治学院資料館, pp8-9)

 

明治学院の中学生だった安藤博少年が多極真空管の研究に没頭するかたわら、無線電話機を試作完成し学内で公開実験されました。おそらくは研究中の多極管を使ったものでしょう。

【参考】前述の河喜多氏の指南書は火花式電信なので、これは安藤少年が独自に考案した真空管式の無線電話でしょうか?もしそうなら逓信省のTYK式無線電話(火花電波式=非真空管式)が三重県鳥羽で実用化試験を開始したのが1914年(大正3年)12月16日ですから、かなり先進的な実験といえるでしょう。

 

前述のとおり私は日本のアマチュア実験家の誕生は、1915年(大正4年)の「簡易無線電信機の製作法」が出版された直後だろうと考えています。しかしそれを裏付けるものは何も発見されていません。したがって現時点(2016年)では「1918年(大正7年)、我国でもアマチュアの実験家が誕生」までさかのぼれた・・・ということでしょうか。さらに歴史的資料の発掘ができればなと思いますし、全国の無線史研究家の方々の成果にも期待したいです。

【参考】 ちなみに濱地常康氏が無線研究を始めたのは、ご自身の著書によると1920年(大正9年)です。

 

日本最古のアマチュア実験家は明治学院の中学三年生でした(もちろん逓信省の許可を得たものではないようです)。若い力によりなされたという点では米国のアマチュアの発祥と似ています。ちなみに安藤氏は明治学院中学部を卒業後は早稲田大学に進み、その在学中に正式免許を得ました。もちろん正式免許としては濱地氏や本堂氏の方が先行しましたが、いずれも無線電話です。安藤氏は無線電話の他に、個人実験家として初のモールス通信の許可も受けて、JFWAという国際呼出符字列で組立てられたコールサインを与えられました。

しかしながら早稲田大学の学生、安藤氏への個人の免許だったにも拘わらず、一部では「安藤研究所」への免許のように誤解されていたり、また大正15年10月8日(電業第2316号)に個人で最初の短波が許可(所有するJFPAへ波長38mと80mの増波を認可)された件は、官報(大正15年10月19日, 逓信省告示第1986号)で公知にされているにも拘わらず、(本当は個人最初の短波免許なのに)日本のアマチュア無線界からは今も無視されています。

 

いろんな意味で時代は変わりました。世代交代も進みました。もうそろそろ良いのではないでしょうか? 上記のように新たな歴史的資料の発掘もありますので、「昭和のJARL目線で描かれた日本のアマチュア無線史」を、令和時代の今、再点検してみては・・・。

JARLこそが創始とする歴史ではなく、当時制定されていた法や規則に沿って、公正・中立的な「日本のアマチュア無線史」を、令和のJARLに期待したいと思います。

 

● 本ページが巨大化したため、後半を「続 アマ無線家」に分離しました [2017.11.17]

このあとのアマチュア無線家による大西洋横断通信や、短波におけるアマチュアが果たした貢献は「続 アマ無線家」をご覧ください。