Japanese 11m

日本で一番最初に逓信省から27MHzの免許を受けたは、国際電気通信株式会社の小山送信所内の実験局で、1938年(昭和13年)6月のことでした。この栄えある日本第一号27MHz局のコールサインはJJR2です。周波数はなんと27.000MHzどんぴしゃりです。第一号にふさわしいですね。続けて11月には同社依佐美送信所内の実験局が27MHz第二号免許を得ました。そのコールサインJJX2、周波数27.030MHzです。ともにデリンジャー現象観測用の送信機です。

1946年5月の"日本帝国政府に分配される周波数"(GHQ/AFPAC)によれば26MHz帯, 27MHz帯の周波数は1波もリストされていません。日本帝国政府に分配されなかったということは、電波行政的にいえば連合国の周波数になったということです。つまり日本の26MHz帯, 27MHz帯は太平洋陸軍総司令部GHQ/AFPACの通信長室による直接統治下に置かれました(1947年1月1日より陸軍AFPACは、陸海空統合軍である極東軍FECに再編され、極東軍総司令部GHQ/FECの通信長室が26MHz, 27MHzを管理)。一方で日本帝国政府に分配された周波数は連合国最高司令官総司令部GHQ/SCAPの民間通信局CCSの管理下ですが、CCSは電波行政の事務処理を逓信院BOC(~1946),逓信省MOC(~1949), 電波局RRA(~1950), 電波監理委員会RRC(~1952)に代行させる間接統治方式が採られました。

我国では連合国人のAmateurによる11m band(1次:27.185-27.455MHz、2次:27.160-27430MHz、3次:26.960-27.230MHz)は許可されませんでしたし、連合国軍への26-27MHz帯の個別周波数の割当は占領後期になって登場しますので、1948年11月までは、この周波数帯は全く空家状態だったと考えられます。

戦後一番最初に27MHzが許可されたのは、アメリカから独立して間の無いフィリピン共和国マニラと東京を結ぶ公衆通信回線の小山送信所のJAP4(周波数27.650MHz, A1, 10kw)でした。さらにほぼ同時期に27.500-28.000MHz帯を気象観測用のゾンデバンドとして使用が始まりました。これが日本における最初の27MHz帯無線局です。

  • 帝国陸軍94式6号無線機による運用

  • デリンジャー現象観測用の27MHz電波の発射許可

1938年(昭和13年)、国際電気通信ITCが、東京中央電信局へ施設提供している小山送信所と、大阪中央電信局に施設提供している依佐美送信所に、デリンジャー現象の研究観測とエコー除去試験用として27MHzを含む電波の発射許可が下りた。明確に27MHzの周波数を示しての許可としては、これが日本最古のものである。

逓信省工務局でJ1AA, J1PPなどによる短波開拓を指揮してきた中上豊吉氏が、国際電気通信ITCへ移り、同社の研究誌「無線の研究」にこの27MHzの無線実験について報告されている部分を引用する。

『24Mc, 27Mc 及 30Mc帯電波を小山、依佐美両送信所から発振して米国、欧州、極東および南洋諸国に受信せしめ好成績を得た。米国は日本と同様 30Mc 帯電波を発射したので相互に通信試験を実施し、その中、数回実用通信に供した。』 (中上豊吉, 昭和13年度の当社に於ける研究及調査の概要, [9]Dellinger現象救済並にecho除去試験, 無線の研究, 国際電気通信, 1939.7, p5) ちなみにITCがいう実用通信とは同社が逓信局より委託されている、国際公衆電報または電話のことである。

● JJR2 [27.000MHz] ・・・国際電気通信株式会社(現:KDDI)小山送信所の実験装置

逓信省は「周波数割当に関する件」(昭和13年6月21日, 電務第1755号, 逓信省電務局)にて、周波数24.040/27.000/30.010MHzを許可しても支障がないかを陸軍省に問い合わせて、翌6月22日に陸軍省より陸普第3718号で『異存無之ニ付』と了解を得た(下図クリックで拡大)。小山は東京中電からの陸線で遠隔コントロールされる無線電話送信所だ。免許日は不明だがコールサインはJJR(24.050MHz)、JJR2(27.000MHz)、JJR3(30.010MHz)が与えられた(昭和13年8月19日, 逓信省告示第2650号)


● JJX2 [27.030MHz] ・・・国際電気通信株式会社(現:KDDI)依佐美送信所の実験装置

逓信省は「周波数割当に関する件」(昭和13年9月29日, 電無第2817号, 逓信省電務局)にて、周波数24.130/27.030/30.030MHzを許可しても支障がないかを陸軍省に問い合わせて、10月7日に陸軍省より陸普第6190号で『異存無之ニ付』と了解を得た(下図クリックで拡大)。依佐美は大阪中電からの陸線で遠隔コントロールされる対欧公衆電報の送信所だ。免許日は不明だがコールサインはJJX(24.130MHz)、JJX2(27.030MHz)、JJX3(30.030MHz)が与えられた(昭和13年11月8日, 逓信省告示第3507号)


  • 昭和15年 JJR2(27.000MHz)でサンフランシスコへ写真伝送

逓信省の無線写真伝送は1926年(大正15年)12月に逓信官吏練習所無線実験室J1PP(周波数7.14MHz, 出力500W)から発射し、それを東京中央電信局で受けるというデモンストレーションが行われたことを嚆矢する。営業に入ったのは1938年(昭和13年)7月に開設された東京-台北(タイペイ)回線からだった。 1940年(昭和15年)になり、海外への写真伝送が続々と営業を開始した。まず2月26日に東京-上海回線が、3月20日に東京-伯林(ベルリン)回線が、さらに4月20日には東京-桑港(サンフランシスコ)回線が開かれた。そしてそのサンフランシスコ回線で27MHzを使った写真伝送が試されたのである。

『なお写真伝送に関しては、小山送信所に設備せられてデリンヂャ現象の救済に相当役立っている JJR 24,050kc 並らに JJR2 27,000kc を対桑港(サンフランシスコ) 写真伝送回路に試用して、普通使用する商用短波 JAR 14,640kc よりも良質の伝送結果を得た。多重信号に基づく信号の伸びが著しく減殺されるためで、写真伝送業務に対する重要な指針を示したものと考えられる。』 (電気工学年報 昭和15年版, 電気学会, p215)

  • 戦後、日本初の27MHzの現業無線局が関係組織に打診される

1948年1月、東京の極東軍FECに置かれた周波数分配委員会FAC(Frequency Allocation Committee)のCopley少将から、東京・マニラ間の公衆通信回線に27MHz帯の電波を追加指定したい旨の要請が出された。

国際電報を扱う公衆通信は民間通信局CCSの担当だが、27.150, 27.350, 27.650MHzの三波を候補にあげて、関係組織からのコメントを求めた。いくらマニラ方面へ指向性を持たせて送信しても、短波帯の電波なので周辺国へも波及するため、ワシントンの陸軍省のほか、インド軍やロンドンの英軍へも連絡された。発信元にはSCAP(連合国最高司令官)が使われた。

『Twenty-seven Mc. freq needed for commercial circuit Tokyo to Manila A-1 emission, 10 kilowatts. Propose 27150 or 27350 or 27650 kilocycles. Request early comments. 』(1948年1月23日付け電報ZX-36413)

フィリピン・琉球軍司令官(CG Phil-Ry Com)へは発信元を極東軍総司令官(CINCFE)にし、同文に『one needed to supplement present frequencies which follow: 7600, 13510 and 19040 kilocycles』が追加された、1月24日付け電報Z-36762が送られた(フィリピン・琉球軍は極東軍FECの隷下にあった)。

またFACのCopley少将は、東京・サンフランシスコ間の公衆回線に24-27MHzを使う要請も行った。CCSはフィリピン・琉球軍司令官へ再び意見を聞いている。

『For Transpacific use, all A-1, power 20 kilowatts, to supplement present frequencies, propose 24400, 26100, 26120, 26140, 27340, 27030, 27240 and 26160 kilocycles. Three needed one for each of following: Tokyo to San Francisco(RCA) (Mackay Radio) and (Press Wireless). Request early comments.』(1948年1月28日付け電報Z-36856)

候補周波数を低い方から整理すると、24.400, 26.100, 26.120, 26.140, 26.160, 27.030, 27.240MHzで、ここから三波を希望していた。

  • Nov. 6, 1948 ・・・日本初の27MHzの現業無線局JAP4が承認される

1948年(昭和23年)11月6日、GHQ/SCAPの民間通信局CCSは"Frequency Assignment"(CCS/DR第185号, Nov. 6, 1948)で、栃木県にある逓信省小山送信所(現:KDDI国際通信史料館)の27.650MHz, A1, 10kwのマニラ向け送信施設をコールサインJAP4で承認(SCAP登録番号:1301I)したと日本政府に発令した。

国際公衆通信を専業として小山送信所などを運営してきた国際電気通信株式会社ITCは、GHQ/SCAPの命令で解体され、1947年5月24日に逓信省MOCの官営無線局になっていた。

【参考】 国際電気通信ITCの送信機の内製部門だったITC狛江工場は官営化(逓信省)にはふさわしくなくいため、1948年5月20日に電元工業へ売却が完了したが、1949年には無線機メーカーの国際電気株式会社として独立した。現在の日立国際電気である。

世界規模で不法周波数スペクトルの代表選手のようになってしまった11m波だが、日本における戦後初の27MHz帯無線局「JAP4」の免許人はなんと逓信省MOCだった。

◆栃木(小山送信所)→マニラ(Mackay Radio)

送信機:B-103、周波数7.600MHz(JAP), 13.510MHz(JAP2)

◆マニラ(Mackay Radio)→埼玉(小室受信所)

周波数8.121MHz(DZR22)、9.190MHz(DZM24)、11.625MHz(DZM26)、13.270MHz(DZM27)、14.585MHz(DZM28)、16.140MHz(DZM31)

◆栃木(小山送信所)→マニラ(RCA)

送信機:B-103、周波数19.040MHz(JAP3)

送信機:C-101、周波数27.650MHz(JAP4) 、18.005MHz(JAK)

◆マニラ(RCA)→埼玉(小室受信所)

周波数10.325MHz(DZR28)、12.280MHz(DZR31)、13.340MHz(DZR32)、14.490MHz(DZR33)、14.980MHz(DZR35)、15.9175MHz(DZR36)、16.240MHz(DZR37)

CCS/DR第185号では同時に、小山送信所のモスクワ向け送信施設も承認されたが、周波数15.975MHz, A1, 5kwでコールサインはJAU2である。

  • July 1, 1949 ・・・27.5-28.0MHz帯を気象観測バンドとして使用開始

1948年(昭和23年)8月5日、逓信省MOCは中央気象台からの要請を受けて"Application for the Meteorological Aids Service"(逓信省LS第387号)で全国で使用する気象観測ラジオゾンデ発振器用の周波数をCCSへ申請した。1948年9月2日、CCSは"Temporary Authorization for Meteorological Aids Radio Stations"(CCS/DR第159号)でこれを承認した。認められたラジオゾンデ発振器の周波数および出力はVHF型が300MHz, 0.1wで、HF型が7.200-8.500MHzまたは8.750-11.500MHz, 3w だった。明星電気(本社:東京都大田区)がその製作にあたった。

1949年(昭和24年)1月25日になってMOCは"Change of the Frequency and Addition of Stations for Meteorological Aids Service" でラジオゾンデ発振器用の周波数を27.5-28.0MHzへ変更する申請を行った。1949年2月5日、CCSは"Frequency Changes and Additions for Meteorologocal Stations"(CCS/DR第219号)でこれを承認した。ただし承認の発効日を1949年7月1日とした。

ここに我国初の気象観測ゾンデBand(27.5-28.0MHz)が誕生し、明星電気の手により我国初の27MHzゾンデ発信器が完成。中央気象台へ納入された。

『ラジオゾンデ、レーウィンとは

ラジオゾンデとは発振機を飛ばせて上昇の気象をしらべるもので、日本では昭和18年頃から使われだし、昭和23年迄は可変周波式といって、周波数が気象要素等に応じて(7.2MHzから11.5MHzまで)変化するものが飛ばされていた。またレーウィンは発振器を飛ばし指向性受信アンテナで方位を探知し、上層の風向、風速を求めるもので、最大感度方式といって、受信感度最大の方位によるものが用いられていた。

24年4月より、ラジオゾンデの方はS48A, B型符号式となった。これは符号が気象要素に応じて変化するもので、波長は27.5Mcで符号はモールス符号に定められた。25年2月にS49A,B型400Mcとなり、レーウィンはW49型等感度方式となった。』 (北岡龍海, 高層気象における電波の利用, 電波時報, 1952.6, p65)

  • July 29, 1951 ・・・26.1-27.5MHz帯を放送中継バンドとして使用開始(JO2AC)

1951年(昭和26年)7月18日、民間通信局CCSは日本放送協会(BCJ)が試作していた放送中継業務に使用する移動用FM送受信機(27.150MHz)の試験運用を "Establishment of Temporary Land Mobile for BCJ"(CCS/DR第700号)で承認した。コールサインはJO2AC、SCAP登録番号は「17T21」だった。待望のゴーサインを受け、同年7月29日にはさっそく乗鞍岳から27MHzのFM中継波が発射され、全国の茶の間へ"27MHzを介した声"が届けられた。その意味において1951年7月29日は我国の27MHzの歴史の中で、記念すべき日だったといえるだろう。

ところで27.150MHzというのは、10年後(昭和36年)に27MHz帯簡易無線が創設され、指定される27.144MHz(A3)と27.152MHz(A1, A2)のすぐ横の周波数だ。ここでNHKの放送中継波が、それもFM変調で飛んでいたのだから、これも興味深い。

NHK技術研究所の試作部および無線研究部の中村清氏と石垣八郎氏が放送技術(昭和27年5月号)に発表されているので引用する。

『昨夏乗鞍岳 - 十和田湖 - 瀬戸内海を結ぶ三元放送の際に、乗鞍岳 - 松本局を結ぶ回線に使用された27Mc FM送信機について報告する。』 (中村清/石垣八郎, 放送技術, 1952.5, 日本放送協会, P18)

【送信機の仕様】

『以上で送信機の概要を述べたが、最後に現業部で使用した際の運用状況について報告する。昨年7月29日 乗鞍岳で第1回の使用後、現在まで種々の放送に出動したが輸送途中の機械的振動にも良く耐え、現在ほとんど再調整なしで使用されている。すなわち操作が非常に簡単で、電源開閉器をONするのみで安定に動作し、普通のA増幅器などと何ら変わらず操作できる。一例として、先日戸田橋で行われた全日本ボートレース実況放送をあげると、本送信機を放送自動車に積み、ボートを追いかけながらアナウンスした。自動車は時速25kmで凸凹の激しい雨上がりの堤防を走り、操縦者が屋根に頭をぶっつけ、送信機は10cmもはね上がるほどの激しい衝撃に対しても、再生音にはほとんど振動音が感じられずに、むしろプロデューサーから自動車音を効果に入れたいとの申入れがあった位である。機械的ショックに対する安定度を説明する一端になろうかと思う。なお本機の製作と試験は中継課二谷君並びに実習生辻君の協力を得て行ったことを附記する。』 (前掲書, P22)

上記引用文にあるとおりNHKが試作した27.150MHzのFM無線機は大変使い勝手が良かったようだ。民間通信局のCCS/DR第700号による許可はテンポラリーな短期のものだったので、すぐに使用期間の延長願いを提出した。ちょうど日本の独立を目前に、GHQ/SCAPの民間通信局CCSは解散てし、同じくGHQ/SCAP傘下にある極東軍FECの通信局SS(Signal Section)が日本の電波行政を肩代わりするようになっていた。

1951年(昭和26年)10月29日の"Continuetion of BCJ's Temporary Rebroadcasting Station on 27150 kilocycles"(SC/DR第17号)、同年12月22日の"Extention of Authorization and Area of Two Temporary Mobile Stations of BCJ"、そして1952年(昭和27年)1月28日にも同タイトルのSC/DR第82号で極東軍通信局SSの使用許可を得ていた。

そして日本が晴れて独立する10日前、すなわち1952年(昭和27年)4月18日、電波監理委員会RRCは極東軍通信局SSに最後の延長願い"Extension of Effective Term of NHK Land Mobile Station"(RRC第527号)が提出されている。

対となる27MHzのFM受信機(左図)の記事はNHK技術研究所 無線研究部の高橋良氏と金井利男氏が執筆された。

『別稿のセラソイド方式FM送信機に対応して用いられた27Mc FM中継用受信機について簡単に述る。』 (高橋良/金井利男, 放送技術, 1952.5, P23)

このFM受信機は高周波増幅2段のシングルスーパーヘテロダイン方式で、(27MHz用としては高周波1段で充分だったが)将来60MHz帯に改造する場合を考えて2段で設計したという。

【受信機の仕様】

  • August 4, 1951 ・・・ISMバンドの行政権を獲得

ISMバンド(13, 27,40MHz)はアトランティクシティ条約で認められた産業・科学・医療用に特別に用意された周波数帯には違いないが、電波監理委員会RRCにはそれを行使する権限がなかった。RRCに与えられたのは56MHz以上の特定12バンドだけだったからだ。

これを憂慮したRRCはGHQ/SCAPのCCSへ"Frequency Assignment for Use in Equipment Utilisin High Frequency for Industrial, Scientific and Medical Purpses"(電波監理委員会, RC第244号, 1951.5.22)で申請した。

そしてCCSから"Assignment and Use of Frequencies for Industrial, Scientific and Medical Purpose" (Augest 4,1951, CCS, CCS DR第713号) でこの承認を受けた。つまり我国におけるISMバンドは1951年(昭和26年)8月4日に始まった。

【注】1952年(昭和27年)以降の日本の27MHz帯についてはCitizens Radio の各年ページで紹介します。