法2条第5号施設

はじめに

アマチュア無線の歴史に触れるに当たり、まず無線電信法時代のアマチュア無線を何と呼べば良いか悩みました。よく目にするのが『私設無線電信無線電話実験局』です。一見もっともらしく、また同時に実にインチキ臭い香りを放つ言葉で、私は好きになれません。

何がインチキ臭いかと言うと末尾の「局」という文字。昭和30年代の映画に100円ライターが映っているような気分になります。いやより正確にいえば、「私設無線電信無線電話実験局」に胡散臭さを感じるのではなく、これに付帯する断定的な言葉の方に原因があるのかも知れません。たとえば『戦前にはアマチュア無線局という定義はなく、私たちは私設無線電信無線電話実験局と呼んでいました。』であれば、私は何の違和感も感じません。正式名が無いのですから何と呼ぼうと自由です。

 

大正4年(1915年)に作られた無線電信法では第一条で官設無線を、第二条で私設無線を定義しただけです。

そもそも業務別に無線局を分類定義したのは、電波法成案時にマッカーサー司令部GHQ/SCAPの民間通信局CCSから「無線局種を定義せよ」と指導されたからです。電波監理委員会規則第3号(電波法施行規則)の第3条(業務の分類及び定義)と第4条(無線局の種類及び定義)で各種の無線局を初めて定め、1950年(昭和25年)6月30日より施行されたことは周知の事実です。従って昭和25年まで『私設無線電信無線電話実験局』のような『~局』という正式名称はありませんでした(規則上の言葉はなかった)。

もちろん海岸局とか船舶局とか、口語では「~局」という言葉は使われていたようです。無線電信法制定の国会審議開始に当たり、時の逓信大臣が趣旨説明を行った際に、口頭では何度も無線「局」と言う言葉が発せられています(Web上で国会の議事録が参照できますので興味ある方はご覧ください。また本ページの末尾に一部要約を置きました)。

ラジオ放送局ですら法二条の第六号により許可された私設無線施設です。では一般人がラジオ放送局を『無線電信法第二条第六号により免許された無線電話の施設』と呼んでいたとは到底考えられず、まあ単に「ラジオ局」とか「●●放送局」と呼んでいたのでしょうね。JOAK は会社名そのものが「東京放送局」でしたし。

戦前のアマチュア無線が、素人無線局でも、私設実験局でも、素人実験局でも、アーマチュアでも、もちろん『私設無線電信無線電話実験局』でも、法律上の正式名称がないのですから何と呼ぼうが自由です。

 

・・・しかし。しかし、です。

『戦前はアマチュア無線局ではなく、私設無線電信無線電話実験局として許可されていた。』などの断定的な表現に出会うと、そりゃ言い過ぎでしょ。 という気分になってしまうのです。旧無線電信法の時代に『~局』という名称で許可された事実などないのですから。

もちろん戦前からアマチュア無線を楽しまれていたOMさん方々には、『私設無線電信無線電話実験局』が俗称であることは100%認知されていたでしょうし、戦後まもなくに開局されたOMさん方々も了解されていたでしょう。つまり皆の了解のうえで使っていた俗称だったものが、時間の経過とともに、『私設無線電信無線電話実験局』が正式名称であるかのように変化しはじめた気がするのです。

そこで本サイトでは何と表記するか悩みましたが、名案も浮かばないので、安直ですが(無線電信法の)「法2条第5号無線施設」としました。「法2条」が「私設」を、「第5号」が「実験」を、「施設」が「局」を意味しますが、要するにそのまんまです。 はい。

1) 大正時代に免許を受けたアマチュア

1912-1923のページで取上げた、大正時代のCitizens Radio活動家、濱地常康氏、本堂平四郎氏、安藤博氏の無線施設の官報告示を見てみましょう。3名とも法2条第5号による許可です。もちろんJARL初代総裁で昭和2年9月8日に免許された草間貫吉(JXAX)もそうです。昭和16年の太平洋戦争の開戦までに開局されたアマチュア無線家はすべて法2条第5号を根拠とする免許です。

 

◆1922年(大正11年)

『無線電信法第二條により左記私設無線電話施設を許可せり』

『二、施設目的 無線電信法第二条第五号により機器実験に使用』

 

法2條第5号無線施設の無線電話で、アマチュア無線と考えられる個人免許第一号が濱地常康氏に1922年(大正11年)2月27日に許可されました。官報に掲載されたのは2日後の3月1日でした(下図左)。 波長は中波200-230m(1304-1500kHz)と、長波1500-1650m(182-200kHz)で、200-230mはアメリカではSpecial Amateur局に分配された周波数でした。

また半年後には本堂平四郎氏にも法2條第5号無線施設が許可されました。波長は200-230mでした(下図右)。この時代の「施設者名」(今でいう免許人)には住所も含まれ一体化しています。ですから免許人が「白酔堂 本堂平四郎」なのか、白酔堂は住所の一部で、免許人は「本堂平四郎」なのかは分かりません。だいたいそんな事は(逓信省にとっては)意味がないのでしょう。

 

 

◆1923年(大正12年)

『無線電信法第二條により左記私設無線電信無線電話の施設を許可せり』

『二、施設の目的 無線電信法第二条第五号により無線電信無線電話の学術研究ならびに機器に関する実験に使用』

 

法2條第5号無線施設の無線電信での個人免許第一号が、天才発明家で早稲田大学の学生だった安藤博氏に1923年(大正12年)4月11日に許可されました。官報には3日後の4月14日に掲載されています。巷では安藤研究所への免許であるかの誤解も見受けられますが、ご覧のとおり安藤氏個人への免許です。

安藤氏の場合には、濱地氏や本堂氏の200-230m(アメリカでいうSpecial Amateur band)よりも低い中波300-400m(750-1000kHz)、500-550m(545-600kHz)と、長波1550-1700m(176-194kHz)の3 bandが許可されました。さらに300m band と1550m band では下端で無線電話を使うことも許されています。

 (JFWA, 東京9番, Apr.1923) さらに安藤氏は同年11月に(免許日は不明)第二装置も免許され、こちらは11月26日に告示されました。

 (JFPA, 東京19番, Nov.1923)

 

 

安藤氏は1966年に「生きている人の追悼録」に不法無線の取締りをしていた国米氏の想い出を寄稿されています。

『大正十二年、私の研究のことや無線電信装置のことが新聞にれいれいしく書き立てられた。東京逓信局の電信係長の国米さんは、これは不法の無線施設であるとして、私の家へ調査に来られた。そしてそれが不法の無断施設で無線電信法に抵触するものであることを説明されると、同時に私に関心をもたれ、「こんなに研究されているのか、偉い、偉い、通信も上手で本職に劣らない。語学も達者だ。早速正規の手続きをして、堂々と実験を続け研究されて、日本のマルコニーになりなさい」と激励された。

これが縁でまだ実験用無線の私設の許可はなかった当時だが、国米さんの骨折りで個人私設の許可第一号が与えられました。それから国米さんは、特許は国内だけではなく、外国への申請もしておきなさいと勧めて下さった。業界新聞などに私が特許魔とか酷評された時でも、国米さんだけはいつも私の為に弁護して下さった。ありがたく思っています。』(安藤博, 実用無線の私設第一号, 生きてる人の追悼録, p63, 1966, 不二通信社)

 

この寄稿では、自分が日本初のアマチュア無線局であると主張されています。東京逓信局の国米氏の力添えがあったにしろ、個人免許の無線 "電信" 施設としてなら第一号(濱地氏は無線電話)ですし、また次に述べる短波帯(38m, 80m)の個人許可第一号であるのは、紛れもない事実です。

 

◆1926年(大正15年)

  『大正12年11月 逓信省告示第1679号安藤博施設 私設無線電信無線電話 使用電波長左の通増設を許可せり』

 

安藤氏にはJFWA(第一装置)・JFPA(第二装置)の2つの無線電信の許可が与えられていましたが、左図告示には "大正12年11月の逓信省告示第1679号" とあるように、これはJFPA(第二装置)に対して短波38mと80mの増設が許されたものです。今回アマチュアとしては安藤氏だけが許可を得られたのは、やはり逓信省の国米氏のバックアップがあったのでしょうか?

 

これが個人に対する法2條第5号無線施設の短波帯の免許第一号になりました。あたかも「安藤研究所」に対する免許であるかのように扱う記事も見受けられますが、安藤博氏への個人免許です。なおコールサインJFPAはワシントン条約に従い1929年(昭和4年)1月1日より、J1CLに変わりました(第一装置のJFWAはJ1CK)。

 

当時は逓信省・海軍省・陸軍省による三省協定で、私設無線施設を許可する場合は海軍や陸軍の了承を得ることになっていました。1926年(大正15年)9月23日に逓信省は「実験用無線電信電話に関する件」(電業第1404号)で海軍省軍務局長へその許可の可否を照会しています。驚くべきことに安藤氏が短波の38mと80mで実験しようとしたのは、ニプコー円盤方式による「ラジオテレヴィジョン」でした。

1926年(大正15年)10月8日、逓信省は安藤博氏に38mと80mを許可したと、電業第2316号にて海軍省へ通牒しています。そして官報には少し遅れて10月19日に告示されました。

2) アマチュア無線第一号について(余談)

「アマチュア無線のあゆみ ― 日本アマチュア無線連盟50年史」には以下のようにあります。

『現在の電波法の考え方である "金銭上の利益のためでなく、もっぱら個人的な無線技術の興味によって行う自己訓練、通信及び技術的研究の業務" は時間を超えて成立すると考える。

したがって、大正末期に長、中波の送信の正式免許を持っていた発明研究所(東京市京橋, 大正11年[1922年] 2月免許)の濱地常康氏、安藤研究所(東京市四谷, 大正12年[1923年] 4月免許)の安藤博氏は共に営利を目的としていたから、すぐれた先覚者ではあるがアマチュアとはいいがたいので割愛させていただく。

なお、この発明研究所は当時一般のアマチュア無線家のために、送受信機や部品の販売を行なっていて、今日のアマチュア無線機器メーカーの元祖である。』 (日本アマチュア無線連盟, 1976, CQ出版社)

当時のJARLは濱地氏と安藤氏を「アマチュアとはいいがたい」と断じて、アマチュア無線家から除外しました。 

しかし趣味のアマチュア無線が高じて、アマチュア無線機の製造業を興したり、アマチュア無線機の販売店を開業されたOMさんは戦後何名もいらっしゃいます。コールサインを屋号にされた方もいました。私達はアマチュア無線仲間が、アマチュア無線家向けに(無線機キットや、電子工作パーツの販売等も含め)商売を始めても、けして「あなたはアマチュアとは言い難い」と言わなかったと思います。電波の発射そのものをお金儲けにしたのではないなら、どのような仕事で生計をたてているかは問われないはずです

それにも関わらず濱地氏がアマチュア向け無線雑誌を発行しながら、無線部品を売っていたから、アマチュアじゃないというのは随分と酷な判断のような気がします。もちろんこれは昭和のJARLの判断ですが、今読み返してみると、私はとてもアン・フェアな主張だと感じてしまいますね。

 

また安藤氏は、1902年(明治35年)9月25日に滋賀県に生まれ、1925年(大正14年)に早稲田大学理工科を卒業されました。JFWAの免許を得た1923年(大正12年)4月11日当時、(まだ1923年の誕生日を迎えていないので)20才の早大生でした。JFWAの官報告示には書かれていない「安藤研究所」の名をわざわざ持ち出してまで、大学生の彼を「アマチュアとはいいがたい」と結論付けるのは、やり過ぎではないかと思うのです。

 

それに以下の表現方法にも、疑問を感じます。

『・・・発明研究所(東京市京橋, 大正11年[1922年] 2月免許)の濱地常康氏、安藤研究所(東京市四谷, 大正12年[1923年] 4月免許)の安藤博氏は・・・』

しかし官報告示で解るように、濱地氏も安藤氏も個人への許可です。それにも関わらず個人名の前に、わざわざ研究所の名前が置かれました。これだと「●●研究所」への免許だと誤解した人もいたでしょう。50周年記念本に、このような明らかに(官報告示と照らし合わせればすぐにバレルのに)●●研究所という言葉を意図的に加えてまで、濱地氏と安藤氏を排除したかったのでしょうか? (もしかして昭和の事ですから、一般JARL会員が、わざわざ官報告示の内容まで調べないだろうと、高を括っていたのでしょうか?) 一般論として言えば「創立●●年記念誌」などには良いことしか書かないのは、"まあよくあること" です。しかし(それを割引してもなお)、こういうやり方は、いかがなものでしょうか。私はあまり賛同できませんね。

 

さて電波のユーザー団体サイド(JARL)としての見解は上記のとおりだったとして、(許可していた側である)当時の逓信省の解釈がどうだったのか、歴史を客観的・中立的に眺めることも重要ではないでしょうか。

逓信省が昭和15年11月に編んだ「逓信事業史」第四巻(無線史)には、いわゆるアマチュア無線について、以下のように記録されています(ちなみに「通信事業史」の初版は大正10年3月発行なので、そこにはアマチュア無線の記載はありません)

『いわゆる素人無線としては大正十一年二月東京に於いて(濱地氏が)、陸上と自動車内とに無線電話を施設し、相互間実験を行いたるものと、(本堂氏の)陸地相互間実験のものの二箇、および翌十二年(安藤氏が)無線電信と無線電話とを施設したものの三箇あったのみで、爾後三、四年間は一般に普及せられなかったが、その後短波無線電信無線電話の出現に伴い、小規模小電力にて遠距離通信の可能となるや、短波無線の神秘性は大に一般の興味をそそり、競ってこれが神秘打開に努むるに至り、無線科学の研究熱は勃然として興り、又一方外国に於けるこの種研究の益々旺盛となり幾多新現象の発見をみたることは、これが研究に一層の拍車をかくることとなり昭和二、三年の頃より急激に普及し、昭和十四年十二月現在に於いてはその数三〇〇に乗んとするの盛況を呈するに至ったが、その年度別施設数を示せば左の通りである。』 (逓信省編, 実験用無線施設, 逓信事業史 第4巻, 1940, p915)

 

そして終戦直後に編まれた我国の電波正史ともいえる「日本無線史」第四巻(電波監理委員会編, 昭和26年, p487)は、濱地氏、本堂氏、安藤氏の三名をアマチュア無線家だとする上記「逓信事業史」(昭和15年)の考え方を継承しました。

『素人無線は大正十一年二月、東京に於て浜地常康が、居宅と自動車内とに無線電話を施設し、相互実験を行ったものと、本堂平四朗が東京麹町区白酔堂と中島中将邸との間に実験を行ったものと、翌十二年安藤博の施設したものとの三施設あつたのみで、其の後短波が出現するまでの数年間は一般に普及せられなかつた。』 (電波監理委員会編, 私設無線電信無線電話の許可並に助長, 日本無線史 第4巻, 1950, p487) 

つまりアマ無線制度を作った電波監理委員会RRCも、アマチュア無線については戦前の逓信省と同じ考えでした。

  

さらに「日本無線史」第四巻p489には資料として、戦前のアマチュア無線局のリスト『素人無線施設者一覧表(昭和初期)』があり、これには濱地氏や安藤氏がアマチュア無線家とされています。このリストの引用元は1930年(昭和5年)に逓信省電務局が作った『日本アマチュア無線局名録』で、(詳細は後述しますが)もうすでに昭和5年の逓信省の解釈では濱地氏が第一号だったことがわかります。

【補足】 「それは逓信省がアマチュア無線を何たるかを知らなかったからだ」とお考えの方もいらっしゃるかもしれませんが、なんのなんの・・・、逓信省は日本にアンカバーの短波アマチュアが誕生する遥か以前から、各国のアマチュアの研究活動に関心を寄せ研究していましたし、むしろこういった活動には好意的でした。そして日本に短波アマチュアの魅力を紹介したのは逓信省(通信局工務課)だったといっても過言ではありません。どうぞJ1AAのページを参照ください。

 

戦前の逓信省も、戦後の電波監理委員会も、以上のように表明していたにもかかわらず、「アマチュア無線のあゆみ」は官側の見解を完全にスルーしてしまい、読者には知らせませんでした。これでは、JARL初代総裁のJXAX草間貫吉OMをアマチュア無線第一号(昭和2年9月)だとするのに都合が悪かったから伏せたのでは?と疑われても仕方ないでしょう。

その弊害として、(アマチュア無線第一号の)公的・公式な判断が日本にはなくて、「諸説あるが・・・」とか、「様々な意見があるが・・・」という表現がアマチュア無線界に広まってしまいました。きちんと官側の公式見解が存在しているのに、なんということでしょうか。

時代背景と、その制度を創設した官側の意図や解釈をまず説いたうえで、「しかし我々ユーザー団体としてはこう解釈している」と展開させた方が良かったのではないでしょうか。私は「アマチュア無線のあゆみ」を物語りではなく歴史書としたかったのなら、昭和5年、昭和15年の逓信省、昭和26年の電波監理委員会RRCの解釈を無視せずに、きちんと正面から向き合うべきだったと思うのです。

 

また「アマチュア無線のあゆみ」は、『本書ではアマチュア無線を相互に通信を行うものと考える。したがって、一方的に放送するものはその範囲の中にいれないこととする。』 との宣言で書き始められています(これはおそらく前述した本堂氏をアマチュア無線家から除外するという意味でしょう)。

もちろん戦後のアマチュア無線の話ならば、「放送」と「アマチュア無線」はまったく別物なので、この宣言のとおりです。異論ありません。

しかし「第一章 JARLの創立まで」の話し、すなわち大正時代の話しだと、そうではありません。

 

  1920-22年(大正9年から11年)頃、アメリカではアマチュア無線免許によるラジオ放送が大流行し、"Citizen Radio" と呼ばれました。まだラジオ局が開局していない地区ではアマチュア無線家によるラジオ放送を聞くことができました。波長200m(1500kHz)で定時放送を行っていたミシガン州デトロイトのアマチュア局8MKなどが有名です(のちにラジオ局の免許を取り、コールサインWBLを経て、現在はWWJです)

それまでアマチュア団体ARRLの機関紙「QST」の表紙に記されていた"Amateur Radio"の看板文字も、この時期は"Citizen Radio"に差し替えられたほどです(左図:左からQST1922年5月号, 7月号, 8月号, 1923年4月号)。

「放送派」ハムが「交信派」ハムを凌ぐ勢力にまで成長し、QST表紙のイラストや写真も、ラジオ放送を意識したものに変貌しています。

 

ところが1921年と1922年の規則改正で、放送に関するルールが整備されたため、アマチュア免許では放送が出来なくなり ”Citizen Radio” ブームは終焉を迎えました。

そのため多くのアマチュア無線家が正規のラジオ局のライセンスを得て(経営者や技術者として)転向し、放送創生期における業界の発展に貢献しました。そしてQST誌表紙の看板文字も元の"Amateur Radio"に戻りました。

「放送」が「アマチュア無線」から分家したというのは本当です。

 

話を本堂氏に戻します。本堂氏が無線電話の許可を得た1922年(大正11年)夏とは、まさしく上図中央のQST(1922年7月号・8月号)の頃です。本堂氏は米国のアマチュア無線家の間でCitizen Radioがブームになっている事を、1920年(大正9年)に帰国した兄(報知新聞社の米国特派員)より聞き、アマチュア無線(放送)に興味を持ちました。本堂氏に法2条第5号の許可が出された事実がある以上、「第一章 JARLの創立まで」を語る際に、『本書ではアマチュア無線を相互に通信を行うものと考える。』と、片付けるべきではないと思います。

 

ところで私はけして当時のJARLを批判しているのではありません。一般企業の「社史」では自社に都合の良いことを中心に編まれるのは普通のことです。ですから連盟50周年を記念し「日本のアマチュア無線は我々JARLから始まったのである」としても、(その主張が支持されるかはまた別の話として)、これもひとつの解釈のありようです。

 

アメリカのARRLは歴史が古く、組織として「放送したいアマチュア」と「交信したいアマチュア」が会員の中にいた難しい時期を経験しています。しかし日本では、「交信したいアマチュア」が集い結成した、「交信したいアマチュア」のための組織がJARLなので、濱地氏も本堂氏も安藤氏も、その趣旨に沿った方々ではなかったように思います。

ですが、あえてJARLが「一方的に放送するものも含め、また自分だけで完結する無線実験も含めた、無線に魅せられたアマチュア達を分け隔てることのない、みんなの個人無線の歴史」を示したほうが「カッコ良い」(男があがる)じゃないですかと思ったのです。

 

【参考】 街の研究家達が中波で電波実験を繰り返していた様子は「民間における無線電話の探究, 日本放送史, pp56-68, 日本放送協会, 1951」でよくまとめられおり、私はこれら諸先輩の活躍を読むのが大好きです。昭和26年に出版されたものと、昭和39/40年に出版されたものがありますが、前者の初版の方です。大きな県立図書館等なら蔵書されていると思います。

3) 私設無線電信(無線電話)施設という表記ではなぜ都合が悪いのか

上記のとおり、官報ではいわゆるアマチュア無線の許可を、『無線電信法第二條により左記私設無線電話施設を許可せり』や、『無線電信法第二條により左記私設無線電信無線電話の施設を許可せり』と告示してきました。

これに従えば、電話なら「私設無線電話施設」、電信なら「私設無線電信施設」、もし両方なら「私設無線電話無線電信施設」と呼べば良さそうなものですが、実用上では少々不都合が起きます。

 

無線電信法では、無線施設の分類は法1条の官設無線か、法2条の私設無線(Private Radio)かの2種類しかありません。もし戦前のアマチュア無線を、官報のように「私設無線電信(無線電話)施設」と呼ぶと、法2条(私設無線)に属する全ての無線施設が対象に成ってしまうので、もう少し言葉の範囲を限定したいものです。

無線電信法第2条には6つの区分(下表)があり、いわゆるアマチュア無線は第5号で免許されていました。

そこで第5号に限定するときに「第5号私設無線電信(無線電話)の施設」とか、「実験用私設無線電信(無線電話)の施設」とか、「私設無線電信(無線電話)実験施設」という呼び方があったようですが、これらとて正式名称では在りません。もちろん『私設無線電信(無線電話)実験局』という呼び方もこの類の俗称です。

 

では私設無線(Private Radio)における各号での第一号免許を紹介しましょう。

 

◆法2条 第1号(航行安全)による私設無線電信施設のはじまり

東洋汽船(波斯丸, 呼出符号JPP)・・・1915年(大正4年)11月27日告示(新設)

目的「無線電信法第二条 第一号により航行の安全 及び 第二号により海運事業に使用」

東洋汽船(株)に私設無線が許可され、同社所属のサンフランシスコ航路の旅客船波斯丸に施設した(コールサインJPP, 1915年11月27日、逓信省告示 第984号)。目的は法2条第1号の航行安全と第2号の海運事業用だった。

私設無線の1番目(豊橋丸JPT)、2番目(讃岐丸JPS)は法2条第2号免許だったので、この3番目(波斯丸JPP)が初めての法2条第1号免許。波長は1800, 600m(167, 500kHz)だったが、3ヵ月後に送信機を交換し 300m(1000kHz)が追加された。

 

【参考】 東洋汽船は浅野総一郎が1898年(明治31年)に香港-横浜-ハワイ-サンフランシスコ路線の旅客海運業を目的として創業した。1908年(明治41年)5月16日、民間の東洋汽船の天洋丸に我国で初めて官設の無線電信施設が置かれた。1926年(大正15年)旅客部門(サンフランシスコ、南米航路)をライバルの日本郵船へ。東洋汽船のその他の部門は各社との合併を経て、1998年(平成10年)に日本郵船に合併された。

 

◆法2条 第2号(海運事業)による私設無線電信施設のはじまり

日本郵船(豊橋丸, 呼出符号JPT)・・・1915年(大正4年)11月8日告示(新設)

目的「無線電信法第二条 第二号により海運事業に使用」

日本初の私設無線が日本郵船(株)に許可され、同社所属の汽船豊橋丸に施設した(1915年11月8日、逓信省告示 第923号)。

これまで「無線は政府官掌」としてきたが、史上はじめて私設無線(Private Radio)が認められた。その施設目的は法2条第2号の海運事業で、許可波長は国際条約に従って1800, 600, 300m(167, 500, 1000kHz)である。

コールサインJPTはJapan Private-station Toyohashi-maru から付けたといわれている。

 

【参考】 日本郵船は海運を独占していた岩崎一族の「郵便汽船三菱」と、三井などの反・三菱勢力を政府が結集させた国策会社「共同運輸」とが、消耗戦の末、和解合併したことに始まる。1893年(明治26年)には株式会社化して、ボンベイ路線に進出。1896年(明治29年)には欧州・北米・豪州への3大航路を開設した。

 

◆法2条 第3号(電報送受)による私設無線電信施設のはじまり

東洋汽船(神洋丸, 呼出符号JPY)・・・1916年(大正5年)8月4日告示(変更)

目的「無線電信法第二条 第一号ないし第三号により航行の安全 及び 第二号により海運事業 及び 第三号により電報送受に使用」

東洋汽船(株)の神洋丸の施設目的(第1号航行安全と第2号海運事業)に、法2条第3号の電報送受の追加変更が許可された(1916年(大正5年)8月4日、逓信省告示 第612号)。

神洋丸JPYは8ヶ月前に第1号航行安全と第2号海運事業を目的として施設(コールサインJPY, 1915年12月28日告示)されていた。波長は1800, 600, 300m(167, 500, 1000kHz)だった。

これ以降、船舶(貨物船や客船)の私設無線電信施設は法2条第1, 2, 3号の3つを複合した型で許可されるものが一般化した。

 

我国の私設無線施設は豊橋丸JPT(Toyohashi)に続き、讃岐丸JPS(Sanuki)、波斯(ペルシャ)丸JPP(Perusia)、若狭丸JPW(Wakasa)と続いてきたが、神洋丸(Shinyou)のSが、先に讃岐丸JPSに発給済みだったことから「JPY」となり、以後このような取り計らいはなくなったようだ。

 

◆法2条 第4号(水産事業)による私設無線電信施設のはじまり

静岡県(水産試験場, 呼出符号JADA)・・・1921年(大正10年)1月25日告示(新設)

目的「無線電信法第二条 第四号により水産事業に使用」

静岡県に私設無線が許可され、静岡県清水市の水産試験場に無線電信を施設した(1921年1月25日、逓信省告示 第94号)。コールサインはJADAだ。

 

これは船舶を相手とする陸上施設で、目的は法2条第4号の水産事業である。無線は貨物船や客船だけではなく、漁業を営む船舶にも、その安全確保や漁獲上の業務連絡のために施設されるに至った。

当初は一般の(商業通信用)海岸無線施設(いわゆる海岸局)が漁業無線も扱ったが、やがて局数の増加で満足な対応が困難となったことから、逓信省としても漁業無線専用の陸上施設を許可する方針を打ち出し、その第一号だった。

1920年(大正9年)12月9日、逓信省が海軍省と陸軍省に上記の水産事業無線の許可について照会(信第2039号)し、了承を得たものだ。

 

◆法2条 第5号(機器実験)による私設無線電信施設のはじまり

沖商会(呼出符号XA, XB),安中電機製作所(呼出符号XC, XD)・・・1917年(大正6年)3月24日告示(新設)

目的「無線電信法第二条 第五号により機器実験に使用」

沖商会と安中電機製作所に法2条第5号の機器実験で私設無線が許可された(1917年3月24日、逓信省告示第275, 276号)。

両社ともに官設向けに無線装置を納めてきたメーカーで、製造・開発用として、波長1800mから100m(167kHzから3.0MHz)という当時としては最大級の免許が与えられたようだ。(少なくとも私設無線としては初の帯域免許)。

沖商会は芝区田町にXAを、京橋区新栄町にXBを置きました。また安中電機製作所は東京府豊多摩郡渋谷町(現:渋谷区)にXCを、麻布区富士見町の共立電機電線にXDを置きました。

また当時の米国では実験局にDistrict Number + (experimental の)X から始るコールサインが発給されていたことから、日本もこれに習いXを使ったものと想像されます。(米国ではこの他、Yから始るのが無線学校、Zから始るのがSpecial Amateur だった。)

実際に電波を発射したかはわかりませんが、波長100m(周波数3MHz)まで許可している点は興味深いでしょう。波長100mの電波を短波だと解釈するかは意見の分かれるところかもしれませんが、XA-XDが短波を許可された私設無線施設の第一号という解釈もできないわけではないでしょう。

 

【参考1】 沖商会は日本有数の有線電話・有線電信機・電話交換機の製造メーカーだったが、数年前より無線部門へ進出を始めた。この年、販売部門であった「沖電気」(現:沖電気工業)の方に吸収される形で合併している。

【参考2】 安中電機製作所は日本で最も古くから無線技術の研究をスタートさせた会社である。1905年(明治38年)、日露戦争で信濃丸が「敵艦見ゆ」を打電したのは安中製36型電信機。1912年(明治45年)にはTYK式無線電話器を完成させて逓信省電気試験所に納品。1925年(大正14年)には東京放送局JOAKの愛宕山第2設備として国産初の500W送信機を納入した、日本の無線機メーカーのパイオニアである。1931年(昭和6年)に共立電機と合併して「安立電気」となり、現在は高周波測定器メーカー「アンリツ」である。

 

◆法2条 第6号(無線電話の知識普及)による私設無線電話施設のはじまり

平和記念航空博覧会長 矢木亮太郎 (呼出符号:XL, XM)・・・1920年(大正9年)8月7日 逓信省通牒 信第1378号

目的「無線電信法第二条 第六号により無線電信に関する知識普及を目的」

(クリックで拡大)

(クリックで拡大) これは大正9年8月15-31日、京都の平和記念航空博覧会会場と大阪中ノ島の大阪朝日新聞社を結ぶ無線電信のデモ用です。呼出符号はXL, XMが与えられました。法2条第6号の無線施設は臨時的(イベント用)に許可されるものが多く、この博覧会用XL, XMは官報告示されていません(旅順工科学堂XKも関東庁から告示されなかったようです。詳細は私設実験局のページ参照)。もしかしたら法2条第6号の最初の許可はこのXL, XMではないかも知れません。

1年後に安中電機製作所に法2条第5号の無線施設としてコールサインXL, XMが再指定されました。なお官報告示があった法2条第6号のものとしては下記が最初です。

 

東京朝日新聞社(呼出名称 東京3番, 4番)・・・1922年(大正11年)3月29日告示(新設)

目的「無線電信法第二条 第六号により無線電話の知識普及に使用」

新聞社は時の先端技術や科学には非常に敏感だった。無線電話(放送)を世に知らしめるために、東京朝日新聞社は法2条第6号の無線電話の知識普及で私設無線の許可を得た(1922年3月29日, 逓信省告示第571号)。濱地常康氏の許可の少し後だった。

上野公園の平和記念東京博覧会内に受信所を設け、京橋区滝山町の本社より無線電話を送り一般大衆へデモンストレーションした。コールサインは「東京3番, 4番」だった。ちなみに濱地氏(東京1,2番)、本堂氏(東京5,6番)は法2条第5号で、東京朝日新聞社(東京3,4番)は法2条第6号である。

  第6号は、第1-5号のいずれにも当てはまらず、逓信大臣が特に施設の必要ありと認めたものです。いわゆるなんでもありルールですね。戦前のラジオ放送局JOAKなどはこの法2条第6号私設無線施設として免許されていました。

4) 逓信省もいろいろ呼び方を工夫

逓信省でさえもアマチュア無線を指す適当な言葉がないため、その都度表現に苦労したようにも見えます。逓信省が通達等の件名に使用した表現をいくつか列挙してみましょう。

いずれも戦前のアマチュア無線に関する通達等の件名ですが、このように表記がその都度変化しました。特に大正15年から昭和2年に掛けては短波を私設無線に解放する方針を打出した時期ですので、「短波長」という枕詞が件名に多用されたようです。

5) 逓信省が作った『日本アマチュア無線局名録』(コールブック)

日本無線史 第四巻(第七章 第一節 私設無線電信無線電話の許可並に助長, p489, 1950, 電波監理委員会)には戦前のアマチュア無線局のリスト『素人無線施設者一覧表(昭和初期)』が掲載されています。この引用元となったのが1930年に逓信省電務局が海外諸国の無線制度を調査しまとめた「外国無線電信電話制度調査資料」の中にある、昭和5年9月30日現在における『日本アマチュア無線局名録』です。(下図クリックすると拡大)

上図はその第1ページ目です。戦前の官報では免許日は告示されませんでしたので、当時の各アマチュアが実際に免許された日を知ることが出来る貴重な公式資料であり、また当時の逓信省は濱地氏や安藤氏をアマチュア無線家だと認識していたことを示す公的資料でもあります。ただし1930年(昭和5年)9月30日現在の断面なので、既に廃局した本堂氏などは掲載されていません。

なお当時の逓信省はアマチュア無線がいかなるものかよく理解しておらず、濱地氏や安藤氏を含めたのだろうという見解も聞こえてきそうですが、その逆で逓信省は1932年(昭和7年)のマドリッド会議を控えて、世界の主要国の無線制度を克明に調査・情報収集し、世界のアマチュア無線がいかなるものかを熟知したうえで、わが国の法2条の私設無線施設にフルイを掛けて選別されたリストがこの『日本アマチュア無線局名録』です。ですので世界標準に合わせ、あえて「アマチュア無線局」という言葉を逓信省が用いています。

 

このように逓信省電務局が「アマチュア無線局」という名称を使うぐらいですから、あまり『私設無線電信無線電話実験局』だの、何だのと、こだわらずに「いわゆるアマチュア無線」ぐらいの表現で良いのではないでしょうか。

6) 折紙付き?! 私設無線電信無線電話規則で定めた 略称 『実験用私設無線電信無線電話』

とはいえ「いわゆるアマチュア無線」ではなく、もっとかしこまった呼名を使いたい方もいらっしゃるでしょう。

その向きには私設無線電信無線電話規則の第三條で、『無線電信法第2条第5号により施設する私設無線電信無線電話』のことを、『実験用私設無線電信無線電話と称す』との文言があり、これをお使いになるのが一番お勧めです(下図第三條)。1933年(昭和8年)に改正された私設無線電信無線電話規則は、我国ではじめて「いわゆるアマチュア無線」の規定を盛り込んだものです。

省令(私設無線電信無線電話規則)により法2条第5号無線施設の略称を上記のようにしているので、(権威の裏付けという点では)戦前のアマチュア無線局を『実験用私設無線電信無線電話の施設』とするのがよろしいでしょう。

ただしこれも「称す」とあるように、略称の域を出るものではありません。では略さなければ何かといえば、この第三条にある通り『無線電信法第2条第5号により施設する私設無線電信無線電話』で、結局は固有名詞が定義されていないのでこうなってしまいます。長ったらしく、さらに字面から意味が拾えない不便さがあるので省令の中では略称に置き換えたほどです。

 

戦後アマチュア無線が再開直後(1953年/昭和28年)のJA1AD齋藤健氏(ex J2PU)の記事を引用します。

『忘れもしません。昭和19年12月9日、太平洋戦争の始まった翌日です。私のうちへ関東逓信局(いまの関東電波管理局)から一通の手紙が舞いこみました。当分の間、実験用私設無線電信無線電話施設 - 昔のアマチュア局はこんないかめしい名前でした - の閉鎖を命じるというのです。当時は開戦で気がたっていましたから、何とも思いませんでしたが、これで12年間もお別れになろうとは神ならぬ身の夢にも思いませんでした。』 (齋藤健, アマチュアラジオの楽しみ, ラジオ科学, 1953.3, p67)

 

戦後の無線工学ハンドブック(オーム社, 1964)の第30編アマチュア無線の「1.2沿革」にも次のように記されています。

『 1927年、逓信省は「実験用施設無線電信無線電話施設」として9人のアマチュアに開局を認めた。』

 

また1975年(昭和50年)にJA2HJ鈴木幸重氏が日東書院より出版された「楽しいハム・ライフ入門」にも、「実験用私設無線電信電話施設」という言葉が用いられています。

 

● 戦前の逓信省の流儀では先頭に「○○用」という言葉を付ける

逓信省では「官庁用無線電信~」とか、「放送用私設無線電話~」などと、頭に「〇〇用」という、用途を示す名称を正式名としていましたので、その流れからいっても『実験用私設無線電信無線電話施設』こそが、戦前の逓信省スタイルによるものです。

ですから『私設無線電信無線電話実験局』のように、"実験"という用途を示す単語が末尾に来ていると、私は戦後の香りを感じてしまいます。しかも実験「局」となっているので、これは戦後の、それも電波法が公布された後に編み出された呼称に違いないという気分になってしまいます。

7) 【おまけ】 個人に免許された最初の法2条私設無線(Private Station)

『実験用私設無線電信無線電話施設』の「実験用」という言葉は第5号を指しています。また『私設無線電信無線電話実験局』の「実験局」という言葉でもそうです。しかし法2条第5号無線施設は無線機メーカーや(官立以外の)学校の無線実験施設にも許可されています(帝国大学の実験施設は法1条の官設無線に属し、県立学校や県立施設は"官立"ではなく、法2条の私設無線に属します)。そこでつい個人免許かが注目されがちですが、これはなかなか扱い難い話題でもあります。

(このテーマがどれほどの意味があるかはわかりませんが、いや私はもう馬鹿々々しくさえ思えてきましたが)とにかく施設者名が完全に個人名で免許された私設無線の第一号を紹介しておきましょう。海運王として有名な山下亀三郎氏で、法2条第1,2,3号の無線施設です。

 

1917年(大正6年)2月10日、山下汽船(現:商船三井)・山下財閥の創始者である、山下亀三郎氏が、法2条第1, 2, 3号を目的とする許可を受けて、同氏が所有する帝国丸に私設無線を施設しました。帝国丸の定繁港(テイケイコウ)は神戸港で、コールサインはJTKだった。

逓信省が私設無線の施設許可の判断をするにあたっては、施設者(今でいう免許人)が会社法人か個人(含む個人事業主)かよりも、申請社(者)の社会的な信用の方が影響したようだ。

 

【参考】 山下亀三郎は1914年に勃発した第一次世界大戦の影響で貨物船チャーター料が異常なほど高騰したことで、一代にて財を成した海運実業家。1916年に扶桑海上保険(現:三井住友海上)、1917年に浦賀船渠(現:住友重機械工業)などを創立した。なお横浜の観光地「山下公園」も山下氏に由来するといわれているが詳細は不明。

同年6月27日には個人ではなく山下汽船で免許を受け、第貳吉田丸(コールサインJBY)に、そして同年12月5日にも山下汽船で免許を受け、第参吉田丸(コールサインJCY)に施設しています。

しかし翌年4月18日には再び、山下亀三郎の個人名で許可を受けて、駒形丸(コールサインJDV)に施設しています。まだ山下汽船の創業から数年しか経っていないころで、個人所有の船舶と、会社所属の船舶が混在していたのでしょうか?それにしても・・・個人か会社かと調べて何になるのだろうという気分になってしまいました。

8) 【おまけ】 個人に免許された最初の法2条第5号実験用私設無線(Private Experimental Station)

上記の山下氏は第1-6号すべての中で私設無線を個人で免許された最初の人ですが、アマチュア無線は第5号ですので、第5号の私設無線を個人で免許された最初の人は誰だったのでしょうか?

実験用私設無線(Private Experimental Station)は1917年の沖商会(XA, XB)と安中電機製作所(XC, XD)がはじまりだ。

だが個人免許の実験用私設としては濱地常康氏より半年前の1921年(大正10年)9月15日に、門岡速雄氏への帝国無線速滅火花送信機のJDZA(波長300, 600m)を許可したと官報告示されている。

 

施設者名(今でいう免許人)には一切会社名はなく門岡氏個人に対する免許である。しかし波長300m, 600mは国際条約で定められた船舶波で、帝国無線電機製作所での機器実験なので、逓信省も門岡氏をアマチュアとは考えていない。

前述したとおり日本無線史(1951年, 電波監理委員会)でも、大正時代の濱地氏、本堂氏、安藤氏の3名がアマチュアのはじまりだとの見解を示しています。つまり当時の逓信省は許可が個人だからという理由だけで、アマチュア無線だと決めたわけではなく、その実態も加味して誰がアマチュア無線家かを吟味した上で分別していたようです。

となるとやはり免許人が個人か会社かを追ってみてもあまり意味がないようです。門岡氏の個人名義のこの許可は、1923年(大正12年)3月17日に東京無線電信機株式会社へ名義変更したと官報告示されています。

なお門岡氏は元陸軍技師で、かつては陸軍の無線研究に従事する傍ら、将校下士技手に無線電信学を教授されていました。1920年(大正9年)には丸善から「無線電信電話概論」を出すなど、もっとも初期の無線研究者の第一人者として知られています。

9) 【おまけ】 法2条第5号の「機器実験」の施設と、法2条第5号の「学術研究ならびに機器実験」の施設

個人か会社かはもうこのぐらいにしましょう。少し見方を変えて同じ法2条第5号の免許でも、濱地氏と本堂氏は「機器実験」の免許であり、安藤氏は「学術研究ならびに機器実験」の免許です。

安藤氏に続くアマチュアとして、1927年(昭和2年)3月1日に業第561号で38mを免許された有坂磐雄氏(JLYB, 1927年4月6日官報告示)も、「学術研究ならびに機器実験」のための法2条第5号免許です。その名称としては「左記 私設無線電信、無線電話施設ヲ許可セリ」とあります。

【参考】この告示の前日(4月5日)には楠本哲秀氏(JLZB, 80m)が告示されています。また同年5月10日には国米藤吉氏(JMPB, 38m/80m)が告示されており、のちに国米氏自身がJMPBは監視のためだったと述べられています。なおJMPBは法2条第5号「学術研究ならびに機器実験」免許でした。

 

さらに同年9月7日、電業第2561号で38mを免許された草間貫吉氏(JXAX, 1927年9月10日官報告示)もやはり、法2条第5号の「学術研究ならびに機器実験」の免許でした。やはりJXAX草間OMの場合も「左記私設無線電信無線電話施設ヲ許可セリ」で、「私設無線電信無線電話実験局」という名称で許可された事実などありません。

【参考】このほか1925年(大正14年)3月18日の官報には河原清氏(JBJB)に、法2条第5号の「無線電信無線電話の実験」として波長320-330m(909-938kHz)、480-490m(612-625kHz)を許可したと告示されていますが、この方の詳細については解りません。装置場所は福岡市博多箱崎網屋町 藤野傳兵衛宅です。とりあえずここで取り上げている「学術研究ならびに機器実験」の話題には当てはまらないので略させていただきます。

 

安藤博氏(JFWA, JFPA)が、先行する濱地氏や本堂氏の存在を知りつつも、自分こそがアマチュア無線の第一号だと主張されるのは、もしかして自分が「学術研究ならびに機器実験」で免許されたからでしょうか。

 

ではこの「学術研究ならびに機器実験」という分類で免許された実験用私設無線の最初は誰かと歴史をさかのぼると、1918年(大正7年)に許可された日本無線電信機製造所(現:日本無線)にたどり着きます。

1918年(大正7年)2月2日。(資)日本無線電信機製造所に法2条第5号「学術研究並びに機器実験」でコールサインXE,XFの私設無線が許可された。渋谷町(現:渋谷区)にXEが置かれ、浅草区玉姫町にあった(株)小穴製作所にXFが置かれた。波長は1800mから100m(167kHzから3MHz)の帯域免許だ。送信装置は「ニッポンラジオ」の瞬滅火花式と普通火花式の2種類である。

 

 1915年12月、沖商会の沖馬吉,木下英太郎が,無線タイムズ社の加島斌、元海軍技師で我国の無線電信の権威である木村駿吉と組んで、組合組織による日本無線電信機製造所が誕生。1916年12月には製品第一号「ニッポンラジオ」瞬滅式火花電信装置を完成させた。

無線機メーカーであることから、前述の沖商会や安中電機製作所と同じように「機器実験」目的だけで許可されるのが本来ですが、なぜか「学術研究」が加わっています。ビジネスとは別の何か学術的な要素を逓信省に認められた結果でしょうか(研究詳細不明)。もうこうなると「学術研究」がアマチュアだとするのは難しいです。

10) 【おまけ】 実験用無線施設に適用される無線電信法と官庁用無線電信無線電話規則

このページで何度も登場する無線電信法の第1条(官設無線)と第2条(私設無線)をご覧ください。まず第1条で無線は全て政府が管掌すると高らかに謳い、第2条でその例外事項として第1号から第6号までを挙げて、私設無線を認めるとしました。

 

無線電信法第1条では官設無線の基準については何も書かれていません。基準は後になって官庁用無線電信無線電話規則で定めました。官庁用無線規則第一條の第1号~第5号は、私設無線の法2条第1号~第5号とほぼ同じです。また官庁用無線規則の第6号は受信関係、官庁用無線規則第7号は私設無線の法2条第6号と同じで、逓信大臣が必要を認めればよしとする、何でもありルールです。そう。こちらに、ほぼ同じものがあるのです。

 

私立明治専門学校(現:九州工業大学)は「無線電信法 第二條 第五号ニ依リ機器実験ニ使用」とし実験用私設無線XI, XJが免許されました(1920年8月9日官報告示)。早稲田大学のXG, XH(1919年)に次ぎ、学校としては二校目の実験用私設無線でした。

ところが1921年に明治専門学校の経営が官立移管されたため、実験用私設無線(XI, XJ)は廃局になり、「官庁用無線電信無線電話規則 第一條 第五号及第六号ニ依リ 無線電信ノ学術研究及機器ニ関スル実験並報時通信ノ受信ニ専用」として実験用官設無線(JKXA, JKYA)になりました(1922年11月11日官報告示)。このように同じ第5号の実験用の免許でも、官庁用無線規則第一條か、無線電信法第二條かという違いがあります。これほどまで官設か私設かにこだわるのは、「電波は政府のもの」というのが無線電信法の基本精神(第一條)だからでしょう。

 

後にJ一文字のコールサイン(J+数字+2文字)が使われるようになりますが、戦前は官庁用無線規則 第1條第5号の「実験用官設無線の施設」と、無線電信法 第2條第5号の「実験用私設無線の施設」で仲良くJコールを使っていました。

 

ところで早稲田大学(XG, XH)は、沖商会(XA, XB)、安中電機製作所(XC, XD)、日本無線電信機製造所(XE, XF)に次ぐ日本で4番目の実験用私設無線ですが、これら上位3社(沖商会、安中電機、日本無線)は軍などの官設局に納入する無線機の開発用が目的で、純粋な無線研究という立場では早稲田大学が第一号でしょう。また安藤博氏も早稲田大学の学生だったし、戦後アメリカのCitizens Radio Service を模してその実用化試験局JJ2AK, JJ2ALの免許を電波庁RRAから受けたのも(1950年春)早稲田大学でした。

11) 【さらにおまけ】 無線電信法のお手本となった明治時代の電信法

我国では1874年(明治7年)12月1日、日本帝国電信条例(太政官布告第98号)を施行して以来、電信事業の官営化を進めてきました。1885年(明治18年)には「電信と郵便を一括経営し合理化」するために、工部省から電信事業を、農商務省から郵便事業を分離させ、それをあらたな「逓信省」のもとに事業統合させたのです。

1900年(明治33年)法律第59号の「電信法」が3月14日官報告示されました。有線による電信(すなわち電報)と電話の法律です。電信法の冒頭第一条(下図:右参照)では「電信と電話は政府が管掌する」と宣言しました。要するに国家の独占事業にするという意味です。意外かもしれませんがこの通信基本政策は戦後、「電電公社」という形に姿を変えたものの、1985年(昭和60年)までの85年間もの長きに渡り継承されてきました。また電信法とは直接関係ありませんが、郵便事業が民営化されたのは、まだ記憶に新しい2007年(平成19年)です。

 

「電信法」は第一條でまず政府の官掌を謳い、第二條で例外的に第1号から第5号の私設も認めるとしました(下図右)。どこかで見覚えのある書き方ですね。そう「無線電信法」と同じ骨格です。

つまり「無線電信法」はこれを手本としたため、無線局種を定義することなく、官設か(例外の)私設かという種別だけになりました。

【参考】 1885年(明治18年)5月の帝国電信条例の改正で、(有線)電信の私設が明文化されました(電信条例第46, 50條)。

  

◆『世紀末(1900年)、とうとう(10月10日)電波は、国のもの』

『本邦において法規上初めて無線電信の存在を認めたるは、実に明治三十三年十月公布の逓信省令第七十七号なりとす。』 (舛本茂一, 無線電信法通義, 1918, 帝国無線電信通信術講習会)

1900年(明治33年)10月10日、日本帝国政府は軍部からの意見も勘案して、逓信省令第77号(遞信大臣 子爵 芳川顯正)で、無線電信には、有線通信の法律「電信法」の条文を準用するとしました(上図左)。ただし私設を認める第二條の例外条項を除外し、無線の完全国有化が発令されたのです。この電信法は3月13日公布(同月14日告示)され10月1日に施行されたばかりでした。無線の国有化が突然決まったことが伺えます。

 

インターネット上では『大正末から若者を中心にアンカバー(不法)で電波を出すケースは増加していた。しかし、我が国にまだアマチュア無線の免許制度が無かった時代だけに正式にアンカバーと言えるかどうかは判断の分かれるところだ。』とする意見も見られますが、(気持ちは分かりますが)明治33年10月10日に無線電波の国有化が宣言された以上、アマ無線の免許制度が用意されていようが、されていまいが、勝手に使うのはアンカバーではないでしょうか。

当サイトのメインコンテンツであるCitizens Radio は、1970年代はまだ多くの国々でCB制度が用意されておらず、違法運用から始まり、それを政府が追認する形で制度化されてきたという歴史をたどりました。当時世界各国で自然発生した27MHzの不法無線局にはどの国の電波行政当局も随分手を焼きました。これら27MHzの不法無線局を「まだCB制度がなかったからアンカバーと言えるかは判断の分かれるところだ」とは(私は)とても言えません。

 

◆『意志(14年)強く、無線電話も、強引(5月12日)に』

1914年(大正3年)5月12日、帝国政府は技術革新の現状(無線電話の出現)に法律を適合させるために、逓信省令第13号(遞信大臣 武富時敏)で無線電話にも電信法を準用するとしました。文面は上記77号と全く同じで、『無線電信二準用ス』の文字を『無線電話に準用ス』に変えただけのもので、私設に関する第2条は除外されました。そして7ヶ月後の1914年(大正3年)12月16日には、三重県の鳥羽で、伊勢湾に入港する船舶とTYK式無線電話で通信する実用化試験が始まり、ここに帝国政府の電波専掌政策は完成したかに見えました。

 

◆タイタニック号沈没で電波の国家独占が崩れる 

しかし国家独占に思わぬところから、ほころびが生じました。1914年(大正3年)1月、(タイタニック号沈没を契機として)ドイツ皇帝ウィルヘルム二世の提唱により、「海上における人命の安全のための国際会議」(欧米主要海運国13カ国)が開催され、「海上における人命の安全のための国際条約」(The International Convention for the Safety of Life at Sea,1914)が採択されたのです。 

この条約で塔載人員50名以上の外国航路船に無線設備の設置義務化が決まりましたが、無線通信を国家独占してきた我国では問題が生じました。

これまで民間会社の大型船舶には政府の無線局を設置し、逓信官吏の通信士を船舶に常駐させて対応してきましたが、それを大幅に増設・増員するのは当時の国家予算の規模から現実的ではなかったのです。ついに帝国政府は電波を国家独占するのは困難だと判断し、私設無線局を認める新たな無線法の成案に取り掛かりました。

 

1915年(大正4年)5月。帝国議会における無線電信法案審議の冒頭で、武富逓信大臣が行った説明は次のようなものでした。

『無線電信法をご紹介申し上げます。我国の無線電信の利用は明治41年に始まり、創業当時は無線電信局を15局開設しましたが、最近では60局もの数になっております。また無線電信局の取り扱い量は年間8万通に達しており、これは創業時の11倍の増加です。

現行の無線電信制度では政府の専握としておりまして、民間による無線電信の利用は一切認めないことになっています。実際なんら公益に害のない施設にも、これを認める道がなく、制度の不備として世間でも認めているのでございますが、特に昨年ロンドンで海上生命保険に関する条約が議定され、50人以上の乗込む船舶には必ず無線電信の取付けを強制することになりました。(この条約に調印した英国の植民地の)香港、シンガポール、ボンベイ、オーストラリア方面に参ります日本の船舶にも装置を必要とするものが数十隻に及んでいて、現行の制度ではどうにも対処できない有様になっております。そこでこの法案を提出することに至ったしだいでございます。

現行法との主な相違点は、制限付きで私設を認め、私設者に対して特別義務を与える。領海内での外国船の無線使用を制限する。不法私設や不法利用、通信乱用、通信妨害に対し制裁を設ける。などの数箇条です。特に私設を認める以上、通信上の取り締まりを厳重にする必要があり、比較的、刑罰を重くしたのは、無線電信の不法使用や乱用が国家・社会に与える悪影響を考慮したためです。

無線電話は逓信省におきましてまだ研究中ですが、研究の結果は極めて良好ですから、いずれ実用に供する時期が参ると存じます。それでこの無線電話も本法に併せて規定し、将来に備えたいと存じます。なにとぞ、ご審議の上、ご協賛いただきますようお願いします。』  (貴族院議事速記録, 大正4年5月29日 無線電信法案 第一議会, p75, を出典として私が現代文で要約)

 

1915年(大正4年)、我国初の電波に関する法律「無線電信法」を制定(6月21日官報公布、11月1日施行)しました。第一条では「無線電信と無線電話は政府管掌」を大原則としながらも、第二条で船舶局関連を中心に、いくつかの例外的な私設無線施設を認めたのです。 不備はあるものの、日本帝国初の私設無線施設(Private Station)を認めたという点では画期的な法律です。いわゆるアマチュア無線はこの第二条第五号で免許されました。

日本では公衆電報は政府専掌でした。しかし今回の方針変更で私設無線に公衆通信を扱わせると、電報の送り主である民間船舶の"私設無線"から官設海岸局へ飛ばし、官設海岸局からは"官設有線"にて、受取り主の地域にある官設郵便局まで電文が流れます。しかしこれでは公衆電報が政府専掌とはいえなくなります。そこで公衆電報を扱う私設無線施設が政府から「委託」された"○○丸無線電報取扱所"であると官報で別途告示することで、公衆電報は政府専掌という大前提との整合性を持たせて対処しました。

12) 1904年8月15日公布 英国の「無線電信条例」

1904年(明治37年)に英国でも無線の国有化が公布されました。

『英国無線電信条例 (千九百四年八月十五日公布)

第一條

(一) 何人といえども郵政庁長官の特許を得かつ特許の条項に準拠するにあらざれば何地に於ても又何れの英国船舶に於て無線電信局を設け又は無線電信機械を装置し又は使用するを得ず 』 (欧米ニ於ケル電信電話事業, 1906, 逓信省通信局, p632)

 

日本の電波の国有化宣言は前述のとおり、1900年(明治33年)10月10日(逓信省令第77号)ですから、我国が世界で一番最初でした。