短波の実用化

1927年(昭和2年)は世界で一斉に実用段階に移った年でした。その皮切りとなったのが1926年(大正15年)10月25日に開業したマルコーニのビーム・システム(英国-カナダ回線)でした。なお1926年(大正15年)までの開拓期については短波開拓史を別に用意しましたのでそちらもご覧ください。

日本では1925年(大正14年)初頭より、海のものとも山のものとも分からなかった短波の試験と試行錯誤を経て、1927年(昭和2年)春には実用通信(商用運用)をスタートさせることができました。これはまさしく「垂直立上げ」と呼ぶにふさわしい偉業でした。なぜ逓信省はそんなに実用化を急いでいたのでしょうか。それは1927年(昭和2年)秋に予定されているワシントン会議では、初めて200m以下(1.5MHz以上)の短波帯を国際分配することになっていて、短波帯での商用サービスを次々と開始した欧米諸国はその実績をもって会議に臨もうとしていたからです。我国の電波権益確保の意味から、何が何でも短波の商用サービス実施国の一員に加わりたかったわけです。

なお短波による商用サービス開始に関しては「検見川とJ1AA」でも詳しく述べましたので重複するところも多いです。そちらも参照下さい。

  • 1925年(大正14年)4月以前の日本の電波政策やJ1AA日米初交信の話題は「J1AA」のページをご覧ください。

  • 1925年(大正14年)のJ1AA, J1PP, J8AA, JHBB, 海軍省などの話題は「J1PP J8AA」のページをご覧ください。

  • 1926年(大正15年)のJ1AA, J1PP, J8AA, JHBB, 海軍省, アマチュアなどの話題は「短波開放の通達」のページをどうぞ。

  • 1927年(昭和2年)の逓信省や日本のアマチュアの話題が本ページ「短波の実用化」です。

1) 長波帯SSBで国際電話の商用サービス開始 (1927年1月7日)

1926年(大正15年)12月25日に大正天皇が崩御されたため、昭和元年はわずか1週間で終わり、昭和2年の元旦を迎えました。1927年(昭和2年)の短波の話に入る前に、少しだけ長波の現状を紹介します。

● SSBの歴史

無線電話の大西洋横断は1915年(大正4年)秋にアメリカ電話電信会社(AT&T)がアーリントンの海軍無線局を借りて、フランスへの送話試験をしたのが最初で、10月12日にパリでわずかに聞こえ、10月20日にはパリだけでなく太平洋のハワイでも単語が聞き取れたといいます。

1923年(大正12年)1月15日、AT&Tと英国郵政庁(GPO)が大西洋横断無線電話の試験を始めました(ニューヨークからロンドンへの一方通行)。これはSSB方式(単測波帯)による55.5kHzの無線電話で、1923年(大正12年)10月19日のElectrician誌でも紹介されたこともあり、各国の通信事業者が注目していました。

この記事を翻訳された電気試験所の丸尾登氏の記事冒頭部を引用しておきます。おそらくSSBを日本語で我国に伝えた最初の記事ではないでしょうか。

緒言 大西洋を隔てて英米両国を無線電話で連結したという話がElectrician誌(千九百二十三年十月十九日発行)に記載された。この問題は独り俗耳を驚かすばかりでなく、無線界の一つの驚喜である。今その記事を平易に書いて諸君の参考に供したい。この無線電話の最も特徴とする所は、Single side band を用いるという点である。これについては後で詳しく説明するが、要するに、この方法によると、空中線からの発射電力のすべてを音波送達に利用することが出来るから、能率がよいのである。また無線電話に使用せらるる電波の振動数の範囲が狭いために、混信を少なくするばかりでなく、使用受信機は選択性のものとなるから、一層空電あるいは混信を少なくする利益がある。

送話試験 この機械の公式試験が行なわれたのは一月十五日(1923)である。送話機は米国のRocky Point にあるRadio Corporation of America の無線局に設備せられ、受話機は英国 New South Gate の Western Electric Company の一室に設置された。二時間連続して American Telephone & Telegraph Company の諸員によって送話された。英国の受話側では無線関係者数十人が集まってこれを受話したのである。その時の音響は極めて明瞭で、かつ強度は二時間を通じて一定であり、普通の有線電話以上の成績を挙げた。この公式試験に引続き三ヶ月間送話試験を行い。受話側では受話強度の測定あるいは空電の妨度等を行い。一日中におけるこれらの値の変動あるいは季節による変動の曲線を得たのである。・・・(略)・・・』 (丸毛登, "大西洋横断無線電話", 『無線』, 1924.1, 逓信省無線倶楽部, p11)

4年間の継続的な改良試験の末、1927年(昭和2年)1月7日、大西洋横断公衆通話サービス(ニューヨーク・ロンドン間)の営業がスタートしました。周波数52/57kHzのSSB方式です。

1927年1月8日のLondon Times紙の記事によれば、国際無線電話の通話第一号はLondon Times記者とNew York Times社主アドルフ・オーチス氏の間で交わされたとあります。

しかしまたRadio News誌(March 1927, p1086)「At 8:30 a. m., President Walter Gifford, of the American Telephone and Telegraph Co., spoke the words, "Hello, London!" into a telephone transmitter in the offices of the company on lower Broadway, New York. Almost instantaneously came back the reply of Sir Evelyn P. Murray, the secretary of the British post office.」や、『東京朝日新聞』(1月9日夕刊, p1)「イギリス郵政庁サー・エベリン・ムーレー氏とアメリカ電信電話会社長ウォルター・ギッフォード氏とはこの無線電話で正式のあいさつを交換したが、これに先立ちロンドンからはセント・ポール・カセドラルの華やかな鐘の響きをニューヨークへ伝えて来た」との記事もあります。私にはよく分かりません。

● 大正時代のSSBの周波数構成

大正時代より実用化試験が繰返されてきたSSB方式の周波数構成に興味ある方もいらっしゃるかも知れませんので、Wireless World(E.K. Sandeman, "Single Side-Band Tansmission", Apr.7th, 1926)より引用しておきます。まず音声信号0.5~5kHz(A:Input Speech Frequency Band)を第一搬送波33.7kHz(O:Frequency of First Oscillator)で平衡変調してDSB波を作ります。

これを30.5~33.2kHzの下図[左]の第一バンド・パス・フィルター(B)に通して、下測波帯(LSB)だけを抽出します。そして第二搬送波89.2kHz(K:Actual Frequency of Second Oscillator)で周波数変換すると、89.2kHz - [30.5~33.2kHz] = 56~58.7kHz(D)と、89.2kHz + [30.5~33.2kHz] = 119.7~122.4kHz(E)が発生しますので、41~71kHzの下図[右]の第二バンド・パス・フィルターに通して、第二搬送波89.2kHz(K)および119.7~122.4kHz波(E)を除去します。

最終的に得られた送信波(D:Actual Transmitted Frequency Band)はこのあと3ステージの電力増幅器で、終段は10kWの水冷管20本並列で送信出力は70~100kWにしています(英国側の終段は10kW水冷管15本)。第二搬送波の可変域は74.2~101.5kHzで、再調整により任意周波数41~71kHzのSSB波を得ることが出来るように設計されました。

ところで実運用上では有線電話回線に接続するため同時送受信方式の無線電話です。英国ラグビー(Rugby)送信所から周波数52kHzで送られ、米国ホールトン(Houlton)受信所で受けます。また米国ロッキーポイント(Rocky Point)送信所から周波数57kHzで送られ、英国ロートン(Wroughton)受信所で受けました。

また受信の方ですが、Radio News(1927年3月号)によると、受信した周波数のままで復調用キャリアを注入する、いわゆるダイレクトコンバージョン方式のようです。

【参考】 1923年の実験は米国電気学会AIEEへの論文(H.D. Arnold/ L. Espenschied, "Transatlantic Radio Telephony", AIEE Vol.XII, 1923.8,pp815-826)に詳しく報告されていますが、同書によれば、最初の実験機は第一搬送波33.0kHzで、33.3~36.0kHz(USB)と、30.0~32.7kHz(LSB)を作り、BPFでLSB側を取出し、第二搬送波88.5kHzで88.5kHz - [30.0~32.7kHz] = 55.8~58.5kHzと、88.5kHz + [30.0~32.7kHz] = 118.5~121.2kHzを作ったあと、55.8~58.5kHzの固定BPFを通してます。それを初段増幅器(VV204を3本並列)で250Wに、中段増幅器(VV207を2本並列)で15kWに、終段増幅器(VV207を20本並列)で150kWにしました。また英国ウエスターン電気に置かれた受信機は90kHzの局発で、IF=31.5~34.2kHzへ落として、ここでビートキャリア34.5kHzを注入し復調しています。

短波の無線電話では自励発振部に直接AM変調を掛けるとFM成分が生じ明瞭度が悪くなるため、官練J1PP、平磯JHBB、京城J8AA、東京JOAKの4局が試行錯誤を重ねていましたが、その同じ時期に英米の長波ではSSBによる大西洋横断の無線電話の、それも(実験ではなく)「商用サービス」に入ったのです。

本サイトの短波の記事を読んで、「そうか。大正末期はまだ無線の黎明期なんだな。」と誤解されませんように。SSBの商用サービス開始でも分かるように世界のレベルは決して低いわけではなく、1924年には写真電送で大西洋横断通信にも成功しています。また日本でも公衆無線電報サービスが始まったのは1908年(明治41年)で、もう20年近く経っています。つまり電波は既に実用に供されており、ラジオ放送も始まっていますが、短波の話だけを読むと、まるで原始時代(?)の様な気分になるかも知れません。

2) 第二次 短波通信試験を実施 (1927年1月7-8日)

さて前置きが長かったですが、1927年(昭和2年)の短波実用化の話題に入ります。

日本では短波を(海外通信ではなく)国内の連絡用として実用化試験が始まりました。第一次通信試験は1926年(大正15年)6月2日から29日まで、逓信官吏練習所無線実験室にあった工務局の実験局J1PPを送信局とし、その電波を北海道の落石・根室・札幌局、岩槻(埼玉)、金沢、大阪、広島、鹿児島で受信測定しました。

そして第二次通信試験が1927年(昭和2年)1月7, 8日に行われ、送信局は逓信官吏練習所J1PPのほかに、札幌JPS、検見川JYB, JOB、大阪JOQ、鹿児島JBKが加わり、受信のみで参加したのは落石、岩槻、金沢、広島、大連JDP(関東州)、京城JMAA(朝鮮)、那覇、電気試験所JHAB(東京外大崎)、同平磯出張所JHBBでした。

3) 業務別周波数割当表の初改訂 (1月28日)

1927年(昭和2年)1月28日、逓信省は信第五号で昨年12月13日の陸海逓三省協議会で合意した140-145mを実験バンドとする件などを反映させた業務別周波数割当表の運用開始を陸軍省・海軍省に伝えました。昨年7月に運用開始以来これが初めての改訂となります。

4) 大阪無線電信局 平野送信所JES JEW対欧送信試験 (2月2-12日)

1927年(昭和2年)2月2-12日、大阪無線電信局平野送信所(喜連送信所)JESは独・仏の協力を得て、対欧州送信試験を実施しました。これは昨年七月に東京無線電信局 検見川送信所の入力6kW短波送信機を使い、ドイツのナウエン局、フランスのサンタッシーズ局へ向けて送信試験を行いましたが、今回はその第二回目にあたります。

JESの波長33m(9.1MHz)とJEWの55m(5.5MHz)の2波を使い、送信入力は2-3kWで日本時間の深夜02:00-05:00に送信しましたが、後期に02:00-08:00まで時間を延長しました。ナウエン局とサンタッシーズ局からは受信状況が毎日有線電報で日本へ送られてきました。

『国内無線連絡に使用すべき短波長送信装置は本年初頭、ほぼ完成したので、この新装置たる1キロワット短波長送信機を使用して再度ナウエン及びサンタッシーズ局宛、試験送信を行ったが、その結果は電力の小なるにかかわらず良好なる成績を得て、対欧州無線通信上の有効なる資料を得ることが出来たと同時に事業に少なからぬ効果を与えんとしつつあるのである。』 (中上豊吉, 対欧州短波長送信試験, 無線と実験, 1927.4, 無線実験社, p661)

またこの対欧送信試験では、JES/JEW二波同時送信も試されました。

『短波の受信の強度は一日の内でも著しく変化するから、一日二十四時間完全に長距離通信をするには少なくも二種類あるいは三種の異なる周波数を用いねばならぬ。更に短波通信に都合の悪いことは昼間および夜間の通信に最も都合のよい周波数というものは、季節および通信距離によって異なってくる事であるが、この問題については、既に多くの学者、技術家が色々と理論や実験結果等を多数発表しているために、一年中のいかなる季節においても、昼、夜、および通信距離に応じて適当な周波数を決める問題は、実際的にほぼ解決がついている。ところが、昼間波から夜間波に変更する過渡期には、どんな周波数を用いるべきか、またその過渡期の時間はどれ位であるか等、という事になると、解っている事ははなはだ少ない。

筆者らは一九二七年の始め大阪、ゲルトウ(独逸)間の通信に於いて、こういう時間に電報を送るに際し、二種類の周波数を同時に送って、良好な通信を行う事に成功した。この目的のために大阪では例えば九一〇〇キロサイクルと、五四五〇キロサイクルというような二種類の周波数を別々の送信機を用いて発振し、一個の電鍵を押して両送信機を動作し同一電報を異なる二周波数の電波を用いて送信した。ゲルトウでは受信感度の強い方の電波を選んで受け、又は二個の電波を同時に受けて、これを重畳受信したのである。』 (中上豊吉, 短波無線通信に就て, 逓信協会雑誌, 1929.12, 逓信協会, pp72-73)

【参考】 この時点では2台の送信機が必要でしたが、二年後には1台の送信機から二波送信する方式が考案されました。

別の文献も引用しておきます。1923年(大正12年)4月1日に欧州からの新聞放送を受信して、それを日本の通信社に販売する目的をもって、大阪平野郷無線局(喜連無線局)が開局しました。しかし遠い欧州からの長波受信は困難を極め、誤字・脱字も多く、さすがの逓信省もこれで料金を徴収するのはまずかろうとなり、営業に入れませんでした。本省工務課より河原技手が受信機の改良に、穴沢技手が空中線の改良に試行錯誤を繰り返し、曲がりなりにも営業に入れたのは1924年(大正13年)9月15日で、開局から1年半も経ってのことでした。

『大正15年末には実験用として1.5kWの短波送信機が喜連にすえつけられ、さらに翌年1月には国内連絡用の1kW短波送信機も増設されたので、局員たちはこれによって国内通信を行うかたわら、なんとかして対欧通信にも活用したいという野心をいだいた。すなわち業務開始依頼欧州局に対する放送受信電報の受信証送達や不明箇所の再送要求はすべてケーブルに依存していたのを、自局の短波で直接 仏、独等に事務報を送りたいという欲望をおこしたのである。

送信空中線は2台とも簡単な傾斜型に架渉した単線を第二高調波で励振するやり方だったが。彼らは送信波長をうまく選択すれば必ず欧州局にとどかせうると信じていろいろの波長により、毎晩夜半から早朝にかけて送信試験を繰り返した結果 1kW機では32mまたは33m、1.5kW機では24mまたは55mの波長を発射し、同一キーイングで送ればよいということを見出したので、昭和2年の春ごろからはほとんどケーブルのやっかいにならずにすんだという大成功を収めた。』 (河原猛夫, 喜連今昔(4) 長波から短波, 電波時報, 1973.2, 郵政省電波監理局, p53)

5) 有坂氏と楠本氏への免許保留

まずここまでの電波三省(逓信・海軍・陸軍)による短波行政の動きをおさらいしておきましょう。

逓信省内部には短波の重要性を予測し短波開放に慎重な人達もいましたが、稲田局長、中上係長、荒川技師ら工務局の短波アマチュア肯定派の方が主流で、短波開放を強く押し進めました。日本無線史から引用します。

『短波長無線電信電話の出現するや、その実験施設を広く一般に寛容なる態度を以て許し、科学の進歩を計るべしとする意見は逓信省内外に相当広く支持せられ、許可を得ずしてしてその施設をなすものしばらく多からんとしたが、また一部には短波長の対外通信および軍用通信に実用せられ、しかも最も重要なる役割を担う将来性を予測し、今にして一般の実験制限に強い制限を加え、空中混乱を未然に防止することの重要なることを主張する者あり、 』 (電波監理委員会編, 日本無線史第四巻, 1951, p491)

逓信省は「短波長無線電信無線電話実験施設ニ関スル件」(大正15年7月10日, 電業第748号)で地方逓信局へ開放を通達すると同時に、「短波長使用ニ関スル件」(大正15年7月15日, 電業734号)で陸軍省と海軍省へ短波の使用開始の方針を伝えました。そして1926年(大正15年)9月に海軍省と陸軍省からその同意を得て、同年9月29日に電信協会JAZA、10月8日に安藤博氏JFPA、10月14日に東京電気JKZBの短波を免許したのです(第一陣)。

第二陣として有坂磐雄への免許可否を11月9日(電業第2746号)に、楠本哲秀氏への免許可否を11月27日(電業第2918号)に、軍部に照会しましたが、ちょうどその頃、逓信省内部ではアマチュアによる不法運用問題が表面化して反対・慎重論が勢いを増し、先が予測できない状況になっていたようです。上記日本無線史の文章は以下のように続きます。

『一時はその帰趨逆賭し得ざる情勢を呈した。』 (電波監理委員会編, 日本無線史第四巻, 1951, p491)

この時期の逓信省電務局の様子を伝える、小松三郎電務局業務課無線係長の記事を引用します。

『最後に放送事業の発達に伴っていよいよ熾烈に赴くであろうところの、ラヂオファンの実験欲望は、公安ならびに空中整理に妨げなき範囲に於いて、これを認めなければならぬと思う。これを認むる方法に付いては、ある一派の主張する私人の空中自由使用権説のごときは暴論としてこれに反対する。また雑誌において公然、または秘密にリーグを作りて、無線電信法にいう所の不法施設を教唆するがごときは、法治を否認する非社会的行為としてこれを排斥する。

現行法の施行せらるる限り、しかしてこれが励行は、最近発生の幾多の事実から見て、公安ならびに空中整理上、絶対必要であるが故に、逓信省大臣の許可を得ずしてその送信たると受信たるとを問わず実験設備を施して実験をなしたる者、ならびに教唆その他の共犯行為ありたる者は、ことごとく検挙問罪せねばならぬ。』 (小松三郎, 放送無線電話事業と「ラヂオファン」の将来, ラヂオの日本, 日本ラヂオ協会, 1927.1, p11)

私は無線と実験誌が短波熱をあおり若者の不法行為を教唆しており、断固検挙するとの趣旨だと受取りました。「雑誌で公然と」とは無線と実験誌が結成したJARUで、「秘密に作られた」とはJARLのことなのでしょうか?そして「最近発生の幾多の事実」とは日本のアマチュアが海外と不法交信していることでしょうか?

『真に科学の研究に熱心にして、発信電波長の正確なる測定方法を備え、危急符号、停止符号等必要なるモールス符号を充分に聴き別け得る技量を有し、通信秘密侵害罪そのほか無線電信に関する法規の理解あるがごとき者に対しては、小電力をもってする送信実験をなさんとする場合、必ずしもその研究家の欲望を抑塞して、その実験施設出願を詮議せざるがごとき趣旨ではないと思う。

科学の研究に熱心なる諸君は、誤れる宣伝に迷わされることなく、まず実験者として必要なる予備知識を準備したる上、その実験に入るに先だち、必ず所定の許可出願書を所轄逓信局を経由して逓信大臣に差出し、その許可ならびに実験上遵守すべき指令事項の通達を受けたる後、安心して、公明に、よくその研究の歩を進められんことを切望する。』 (小松三郎, 前掲書, p11)

なお『最近発生の幾多の事実』とあるのは、実は不法アマチュアだけではなく、短波を利用した不正事件がこの時期に起きています。

『短波無線の機能に着目した相場師等が密かにこれを利用し奇利を博したる事例もあり・・・(略)・・・』 (電波監理委員会編, 日本無線史第四巻, 1951, p534)

有坂磐雄氏の許可も、楠本哲秀氏の許可も、1週間ほどで軍部の了解を得られ、逓信省はいつでも免許出来る状態になっていました。それにもかかわらず、その執行を保留してしまいました。その理由は明らかになっていませんが、この時期に逓信省内で推進論より慎重論が強まったものと推察します。

6) 逓信省が短波の許可・監督・取締方針を成案

そんな中、「短波長無線電信電話ノ許可、監督及取締方針ニ関スル件」(電業第112号, 昭和2年2月18日)という「案」が作られました。長文ですが、アマチュア無線史上でも重要な文書ですので日本無線史(第四巻, pp492-495)より引用しました。現代仮名遣いに書き直した方が読み易いのですが、史料として扱えるよう原則原文のままとし、読みにくい当字には[ ]で平仮名を加えるにとどめました(ただし「私かに」は「秘かに」に、「尠からず」は「少からず」に、「曩に」は「先に」としました)。

電業第一一二号

昭和二年二月十八日

短波長無線電信電話ノ許可、監督及取締方針ニ関スル件

本件ニ関シ左記相伺フ

一、根本方針

最近ノ発達ニ依ル短波長無線電信電話ハ 小電力ヲ用ヒ 簡易ノ装置ヲ以テ 克[よ]ク長距離ニ達スルヲ以テ 之ガ施設ニ多大ノ経費ヲ要セザルガ故ニ 一般人ニ於テ各種ノ目的ヲ以テ 短波長無線電信電話ヲ装置セムト欲スルモノ多キヲ加ヘムトスル傾向 顕著ニシテ 現ニ神戸地方ニ於テ秘カニ「リーグ」ヲ組織シテ 之ヲ装置シ実験通信ヲ行ヒタル者アリタルヲ以テ 直ニ制止セシメ厳戒ヲ加ヘタルコトアリ 甚[はなはだ]シキハ大連地方ニ於テ之ヲ装置シテ 秘カニ相場通信ヲ行ヒ 奇利ヲ博シタル事件アリテ 目下当該官憲ニ於テ調査中ニ属セリ

抑[そもそ]モ短波長タルト長波長タルトヲ問ハズ 凡[すべ]テ無線電子電話ハ 無線電信法ニ依リ逓信大臣ノ許可ヲ得ズシテ施設スルコトヲ得ザルモノナリト雖[いえど] 近時諸外国ニ於テ当該国ニ於ケル取締ノ寛大 又ハ緩慢ナルニ依リ 又一面ニハ短波長ニ関スル科学ノ進歩ノ結果 一般人ニ於テ之ヲ施設シ広ク実験通信ヲ行ヒ 国際的ニ「リーグ」ヲ組織シ、機関雑誌ヲ発行シテ宣伝シ 加入ヲ勧誘スルガ如キ傾向ニ於テモ 自然之等[これら]ノ風潮ノ影響ヲ受ケ 秘カニ短波長無線電信電話ヲ施設セムトスル者 漸次多カラムトスル形勢ニ在ルヲ以テ此ノ際 短波長無線電信電話ノ許可、監督及取締方針ヲ確立スルノ要アリト認ム

本邦ニ於テハ無線電信電話ハ 現行無線電信法ニ依リ政府ノ専掌スル所ニシテ唯 左ノ各号ノ一ニ該当スルモノニ限リ逓信大臣ノ許可ヲ受ケテ私設スルコトヲ得ルモノトス

(私設無線電信、電話一般 無線電信法第二条)

一 航行ノ安全ニ備フル目的ヲ以テ船舶ニ施設スルモノ

二 同一人ノ特定事業ニ用スル船舶相互間ニ於テ其ノ事業ノ用ニ供スル目的ヲ以テ船舶ニ施設スルモノ

三 電報送受ノ為電信官署トノ間ニ施設者ノ専用ニ供スル目的ヲ以テ電信、電話、無線電信又ハ無線電話ニ依ル公衆通信ノ連絡ナキ陸地又ハ船舶ニ施設スルモノ

四 電信、電話、無線電信又ハ無線電話ニ依ル公衆通信ノ連絡ナク前号ノ規定ニ依ルヲ不適当トスル陸地相互間又ハ陸地船舶間ニ於テ同一人ノ特定事業ニ用ウル目的ヲ以テ陸地又ハ船舶ニ施設スルモノ

五 無線電信又ハ無線電話ニ関スル実験ニ専用スル目的ヲ以テ施設スルモノ

六 前各号ノ外主務大臣ニ於テ特ニ施設ノ必要アリト認メタルモノ

此の根本方針ハ通信事業ノ経営及公安ノ維持上重大ナル理由ニ基クモノニシテ今日短波長無線電信電話ノ発現ニ依リテ何等[なんら]此ノ既定ノ根本方針ヲ変更スルノ要ナク 却[かえっ]テ各種ノ目的ヲ以テ施設出願スル者 又ハ不法ニ施設セムトスル者増加セムトスルノ現況ニ照ラシ 益々之ガ励行ヲ期シ 且[かつ]監督及取締ニ遺漏ナキヲ期スルヲ必要ト認ム而[しか]シテ 前記第六号ニ依ルモノハ 第一号乃至[ないし]第五号ニ準ズベキモノニ限リ許可スルコトトシ其ノ他ノモノハ当分原則トシテ許可セザルコトトシタリ

二、実験用施設許可方針

短波長ハ極メテ最近ノ発達ニ係リ 其ノ反射性 若[もしく]ハ指向性ノ応用方法 即[すなわ]ち目的トスル一方向ノミヘ電波ヲ発射スル方式 又ハ波長ノ大小ニ依リ 近距離ノ或[あ]ル地点ニ感応セズシテ 却[かえっ]テ遠距離ニ感応スル等 未ダ闡明[せんめい]セラレザル幾多[いくた]ノ現象ハ 将来ノ研究ニ待ツベキモノ甚[はなは]ダ少カラズ 従テ之ガ研究ノ興味ハ頗[すこぶ]ル大ナルモノアリ 而[し]カモ研究費ヲ多額ニ要セザルガ為ニ特志家ニシテ之ガ実験ヲ為サムトスル者少カラズ而[しか]シテ

(一)短波長無線電信電話ニシテ完成セバ通信界ニ革命ヲ齎[もた]ラスモノト予想セラルル所ナレバ 之ガ研究ハ官民両方面ニ於テ努力スルヲ利益トシ

(二)又他ノ一面ニ於テハ不法施設ヲ後記ノ方法ニ依リ最厳重ニ抑圧スルモノナルヲ以テ或[ある]範囲ノ実験施設ヲ認メ 以テ不法施設ヲ救済シ

(三)尚又[なおまた]不法施設ニ囚[とらわ]ッテ任意ノ電波ヲ任意ノ電波ヲ使用シ空中混乱ヲ生ズル弊害ヲ 適法ノ施設ニ依リ 最モ適当ナル運用制限内ニ集約整理スルヲ得策トスルヲ以て 先ニ実験用短波無線電信電話ノ許可方針ヲ経伺[けいし]ノ上 大正十五年七月十八日各逓信局長ニ左ノ通達セリ

一 送受信機ヲ装置スルモノニ付テハ学校其ノ他ノ団体ニシテ 特ニ施設ノ必要アルモノ及相当ノ技能ヲ有シ真ニ科学ノ研究ヲ為サムトスルモノニ対シテハ運用ニ付相当制限ヲ附シ許可方 考慮スル見込ニ付 許可願書(実験ノ種類目的及実験者ノ履歴ヲ附記スルコト)ニ 貴局意見ヲ附シ之ヲ進達スベキコト

二 放送聴取者以外ノ者ニ於テ受信機ノミヲ装置スルモノニ付テハ一般放送聴取施設トノ関係ニ付 考慮ヲ要スル点アルニ付 当分ノ間 許可セラレザルコト

三 放送聴取者ニ於テ短波長受信実験ヲ為サムトスルモノニ付テハ技術上同一受信機ヲ以テ放送聴取及短波長実験受信ヲ為シ得ザルニ因リ別ニ短波長受信機ヲ使用スルモノト認メラルルヲ以テ第一項ト同様ニ処理スルコト

呼出符号及電波長ヲ相互通知スルコトト致度及御協議候

調査事項

一 本人ノ履歴、科学上ノ知識、職業其ノ他社会上ノ地位

二 実験ニ当ルベキ通信従事者ハ規定ノ資格ヲ有スル者ヲ採用スル見込ナルヤ 若[もしくは]本人自ラ通信ニ従事セムトスルトキハ通信技術習得ノ程度

三 研究費支弁方法(他人ノ依頼ヲ受ケテ研究スルモノナルヤ等ヲ明カニスルコト)

四 研究ノ結果ヲ発表スベキ方法ニ付 予定シアルモノアラバ其ノ方法(新聞雑誌等ニ掲載スル予約アルヤ否ヤヲ明ラカニスルコト)

五 施設者ニ於テ執ラムトスル発信電波長ノ測定方法

六 交信ノ対手トナルベキ無線電信及実験方法

七 其ノ他 許可後 空中ヲ混乱セシメ 又ハ目的外使用ヲ為スノ所ナキコトヲ確ムルニ足ル事項ヲ慎重調査シタル上

左ノ条件ヲ附シテ許可シ 取締上遺漏ナキヲ期シ度シ

制限事項

一 本施設許可ノ有効期間ハ許可ノ日ヨリ一年トス(許可期間中ニ於テ規定又ハ命令ヲ遵守セザルガ如キ傾向アリタル者等ニ対シテハ次年以降許可セザルモノトス)

二 呼出符号及呼出名称ハ左ノ通トス

「何々」

三 使用電波長ハ「何」「メートル」ニ限ル(一定ノ波長帯ニ制限シ 以テ一般通信ヲ侵サザラシムルモノトス)

四 機器実験ノ時間ハ「何」時ヨリ「何」時迄ノ間ニ限ル(附近ノ一般通信ニ及[およ]ボス影響ヲ見テ制限スルモノトス)

五 本施設ハ他ノ無線電信無線電話トノ間ノ交信ニ之ヲ使用スルコトヲ得ズ 但シ機器ノ実験ニ際シ対手トナリタル他ノ無線電信無線電話トノ間ニ 単ニ彼此[かれこれ]ノ電力、方式、電波長、所在地、施設者名、感度及実験時刻ヲ通信スル場合ハ 此ノ限ニ在ラズ

六 前号但書ニ依リ交信シタルトキハ第八号ノ報告ト共ニ 其ノ交信ノ顛末ヲ所轄逓信局ヲ経由シ逓信大臣ニ届出ヅベシ

七 本施設ニ依リ受信シタル事項ハ総テ所轄逓信局長ノ許可ヲ受クルニアラザレバ 之ヲ他人ニ漏洩シ又ハ公表スルコトヲ得ズ

八 実験研究ノ結果ハ毎月詳細 所轄逓信局ヲ経由シ逓信大臣ニ之ヲ報告スベシ

九 其ノ他 私設無線電信無線電話ニ関スル法令ヲ遵守スベシ

十 前各号ニ違反シタルトキハ 本施設ノ許可ヲ取消スコトアルベシ

備考 第二号乃至[ないし]第六号ノ如キハ 単ニ受信装置ノミヲ為スモノニ付テハ必要ナキニ付省略スルモノトス

三、取締方針

短波長無線電信電話ノ適法又ハ不法ノ施設増加ノ傾向アルコト前述ノ通ナル処 適法施設ニ付テハ許可セラレタル施設目的外ノ使用ヲ厳重監視シ 不法施設ニ付テハ其ノ使用ニ基ク害悪ノ発生セザル間ニ発見措置スルコト 通信事業ノ経営及公安維持上 極メテ必要トスル所ナルヲ以テ 之等[これら]取締ハ万遺漏ナキヲ期スルヲ要ス 就[つい]テハ左記ニ依リ取締ノ励行ヲ期シ度[たく]

一 各逓信局ニ監督用受信設備ヲ施シ絶エズ厳重ニ不法使用又ハ不法施設ノ有無ヲ監視セシムコト

其ノ監督施設ニ要スル経費ハ追テ予算ヲ要求スルヲ必要トスルコトアルベキモ 差向キ既ニ予算成立セル各逓信局ニ於ケル「ラヂオ」監督用設備ヲ適当ニ運用スルトキハ 甚ダ効果アルヲ以テ 其ノ設備ノ運用ニ遺憾ナキヲ期セシムルコト

二 一般無線電信局所ニ於テ無線電報送受中又ハ聴取中ニ於テ不法使用又ハ不法施設ニ属スル通信ヲ感受シタルトキハ之ガ摘発上参考トナルベキ事項ヲ調査シ 逓信局ヘ報告方ヲ励行セシメ 通信局ハ其ノ監督用設備ニ依リ更ニ精査スル等ノ方法ヲ講ゼシムルコト

三 予メ不法使用又ハ不法施設ニ対スル厳重ナル取締励行方針ノ大要ヲ 新聞等ニ依リ一般ニ警告シタル上 爾後[じご]若[も]し不法使用者又ハ不法施設者ヲ発見シタルトキハ 必罰シテ仮借スル所ナキヲ期シ 一般ニ対シ法規ヲ遵守スル美風ヲ馴致スルコト/font>

四、実施方法

以上各号ノ事項ノ実施ニ付テハ本案決済後 直ニ各々案ヲ具シ逓信局其ノ他関係ノ向ヘ通達方 取計フコトニ致度[いたしたく]

日本無線史では続けて『右伺案(電業第112号)の決裁により電務局長より各逓信局長に次の通り通牒せられたが、実験用(短波)私設無線の許可条件については爾後数次通牒が発せられたので、その主要なものを併記することとする。』 (電波監理委員会編, 日本無線史第四巻, 1951, p495 ) としており、その最終的に通牒(3月29日、電業第579号)されたものは後述します。

7) 短波開放通達(電業第748号)の補足文書が? (昨年10月)

上記の短波アマチュアの許可・監督・取締「案」(1927年2月18日, 電業第112号)では許可基準(調査事項)、制限事項について細かく書かれていますが、1926年(大正15年)7月に発せられた短波開放通達(電業第748号)を再掲しますので、もう一度ご覧下さい。

電業第七四八号

大正十五年七月十日

電務局長

各逓信局長宛

短波長無線電信電話実験施設ニ関スル件

一般実験用無線電信無線電話ノ施設願ニ対シテハ私設電信電話無線電信無線電話監督事務規程第三条ニ依り処理スベキ義ニ有之候短波長無線電信又ハ無線電話ノ実験施設ニ付テハ特ニ左記各項諒知ノ上可然処理相成度

一、 送受信機ヲ装置スルモノニ付テハ 学校 其ノ他ノ団体 ニシテ特ニ施設ノ必要アルモノ 及 相当技能ヲ有シ真ニ科学ノ研究ヲ為サムトスルモノニ対シテハ運用ニ付相当制限ヲ附シ許可方考慮スル見込ニ付許可願書(実験ノ種類目的及実験者ノ履歴ヲ附記スルコト)二貴局意見ヲ附シ之ヲ進達スベキコト

二、 放送聴取者以外ノ者ニ於テ受信機ノミヲ装置スルモノニ付テハ一般放送聴取施設トノ関係ニ付考慮ヲ要スル点アルニ付当分ノ間許可セラレサルコト

三、 放送聴取者ニ於テ短波長受信実験ヲ為サムトスルモノニ付テハ技術上同一受信機ヲ以テ放送聴取及短波長実験受信ヲ為シ得ザルニ因リ別ニ短波受信機ヲ使用スルモノト認メラルルヲ以テ第一項ト同様ニ処理スルコト

この電業第748号の第一項で、個人であっても、A) 「相当の技能」を持っており、B) 「真に科学の研究」をしようとする者であれば短波送受を許可するとしました。そしてこのA)とB)の要件を満たしているかを見極める書類として、次の三点を添付するように求めました。個人への短波免許の第一号である安藤氏はこの基準で審査されました。

● 1926年7月10日(電業第748号)で示された個人の私設短波施設願いに添えるべき事項

(最終的な免許権限が逓信省にあるのはもちろんですが)申請窓口である各逓信局としては、それを受理して「逓信省へ送致するか否かを一次審査」する責任があります。相当の技量と、真に科学を研究しようとしているかをどうやって見極めればよいのでしょう。逓信局はもっと具体的に基準を示して欲しいと逓信省に問合わせたのではないでしょうか?10月頃に電業第748号を補足する、以下の内容が各逓信局へ通牒されたそうです(下図)。電気試験所に就職された仙波猛氏(1TS)が逓信省電務局業務課の小松三郎無線係長から得た情報として披露されました(無線之研究, 1927年4月号, p35)

ア. 実験の種類・目的

イ. 実験者の履歴

ウ. 所轄逓信局としての意見

1.経歴(これは電業第748号にありました)、2.無線符号略号と法規の理解程度(新規)、3.研究費とその支弁方法(新規)。4.研究の発表方法(新規)、5.波長測定方法(新規)、6.実験方法(新規)、7.ラジオ受信機の有無(新規)、となっています。すなわち以下の6つの項目が増えていますね。

● 1926年10月に追加されたといわれる具体的な基準(案)

この仙波氏(1TS)の記事は「アマチュア無線のあゆみ」にも掲載されています。『当局も時代のおもむくところを察知して、10月に電務局から各地方逓信局に秘かに短波実験局出願に対する通達(当時は通牒といった)がなされた。この通達で問題としている許可、不許可を決定する参考事項は・・・(略)・・・』

逓信省が『時代のおもむくところを察知した』のではなく、電業第748号があまりにも漠然としていて困っていた逓信局へ、具体的に基準を示すためではないでしょうか。そして個人への短波免許の第二号有坂氏と第三号楠本氏はこの基準で審査されたものと想像します。しかしその直後に海外と交信する不法短波アマチュアが次々に摘発される事件が起きてしまいました。

アマチュア摘発事件によりさらに審査基準が引き上げられる事態に発展したようで、検討には相当時間を要し1927年(昭和2年)2月18日になって、ようやく前述した電業第112号で最終案が示されました。ただし10月の時にはあった「ラジオ受信機の有無」は消えました。この電業第112号の最終案では、逓信局に対して、逓信省の「免許方針」および「取締方針」を明確に表明するとともに、申請者の審査基準と免許上の制限事項を示すものでした。

● 1927年2月18日(電業第112号)で示された具体的な基準(最終案)

次に述べますが、免許の発行が保留されていた有坂氏と楠本氏はこの2月18日の新基準により再審査されたため、許可書の発行が3月1日(JLYB)と3月24日(JLZB)まで伸びたと考えれば、流れが自然ですし、また理屈が通ります。

8) 電気試験所平磯出張所 ポルドゥー2YTをキャッチ

マルコーニ社は郵政庁との契約に基づきマルコニー・ビーム・システムによる大英帝国無線通信網や自社のニューヨーク回線・南米回線の建設に当たっていました。それと平行してポルドゥー2YTによる短波の伝播試験も継続していました。マルコーニ・ビーム波は日本にビームが向いていないためか、1925年(大正14年)に岩槻受信所建設現場で受信例があるぐらいです。

1927年(昭和2年)2月25-26日の2日間、電気試験所平磯出張所がポルドゥー2YTの32m波(9.38MHz)の無線電信をキャッチしたと記録が残っています。世界が注目しているマルコーニの短波が日本でも受信されていた訳ですから、これが日本唯一かどうかは別として、貴重な記録であることは間違いありません。

(高岸栄次郎/畠山孝吉, 短波長受信試験, 電気試験所事務報告 大正十五年度 昭和二年度, p120)

9) 1927年(昭和2年)3月1日 有坂磐雄氏(JLYB)免許

1927年(昭和2年)3月1日、軍部の了解が得られていたのに逓信側の事情により、待たされ続けていた有坂磐雄氏に業第561号でJLYBが免許されて、本人、海軍省、陸軍省へ通牒されました。『左記甲号ノ通許可相成』の甲号に書かれた免許事項は従来通りです。さらに『左記乙号ノ通命令相成候』とあるように、乙号として10項目からなる制限事項が加えられました。どこかで見たことのある文章だと思いませんか?そうです。これは2月18日に成案された「短波長無線電信電話ノ許可、監督及取締ニ関スル件」(電業第112号)の制限事項10項目ですね。さっそく適用されたようです。であれば同案の調査事項7項目も適用され、両氏はこれに従って再審査されたのではないでしょうか。

昨年12月13日に電波三省(逓信・海軍・陸軍)による三省協議会が開かれ、学校の実験用に波長140-145m帯の追加などが決議されました。ちょうど短波アマチュアが芋づる式に検挙された直後の会議ですから、不法アマチュアの取締が話題にあがり、海軍や陸軍から「先日、有坂氏と楠本氏の免許に同意はしたけれど、逓信としてアマチュアの監督・取締りは大丈夫なんだろうな」と念押しされた可能性があり、その返答が『左記乙号ノ通命令相成候』という言葉ではないかという見方もできるでしょう。逓信省としてアマチュアの運用制限事項や監督・取締方法について成案できるまで、有坂氏と楠本氏の免許は「お預け」にするしかなかったのかも知れません。

(左図、下図、クリックで拡大)

もし「アマチュア無線のあゆみ(日本アマチュア無線連盟50年史)」をお持ちでしたらp58をご覧ください。冒頭の書き出し以外はこれと全く同じで安達逓信大臣名で有坂氏へ出された許可書が電業第561号として掲載されています。つまり同じ番号で三者に同日送られます。

長らくアマチュア無線史から無視されていた有坂氏のJLYBですが、JARL50周年記念刊行「アマチュア無線のあゆみ」で紹介され、ようやく全国的に認知されるようになりました。しかしJLYBをアマチュアと認めたくない創設メンバーの方がいらっしゃるとかで、お気の毒ながら「例外と考える」の一言で片付けられてしまいました。その代わりというか・・・JLYBを「個人で最初に短波免許を受けた局」という形で称えられることがあります。しかし個人第1号は1926年(大正15年)10月8日に38mと80mの免許を受けた安藤博氏JFPAで、官報告示という動かしがたい証拠がありますから、JLYBは短波の「無線電信」と「無線電話」の免許を個人で受けた第一号とすれば良いと思います(安藤氏の免許はアマチュアテレビです)。

10) 1927年(昭和2年)3月11日 PCJJ国際短波放送開始

1927年(昭和2年)3月11日、オランダのPCJJが国際短波放送(注:これを実用化試験放送だとする文献もあります)を開始しました。波長30.2m(周波数9.930MHz)で、オランダ南部のアイントホーヘン(Eindhoven:アインドーヴン)にあるフィリップス研究所の短波長無線電話送信機を用いてオランダ領インドネシアに向けて放送ました。

『Regular broadcasting from PCJJ began on March 11, 1927. It was the first bona fide international shortwave service. (“Hallo, Hallo, hier ist PCJJ. Allo, Allo, ici le poste PCJJ. Achtung, achtung, hier ist PCJJ. Hello, hello, this is station PC double-J, Philips Radio at Eindhoven, Holland, operating on 30.2 meters.”) 』 (Jerome S. Berg, The Early Shortwave Stations: A Broadcasting History Through 1945, 2013, McFarland & Company, Inc., p50)

当時米国の放送局では短波を国内の系列局や海外への番組中継用に使っていました。最初の番組中継は1923年3月4日より東ピッツバーグのKDKA(8XS)がクリーブランドの系列局KDPMへの短波中継ですが、これは短波を直接、視聴者に聞かせるものではありません。直接聞かせることを目的とするという意味において、隣国と距離が近い欧州では周辺国向けに中波を使った国際放送は1925年に既にありました。

『一九二五年(大正一四年)平和の殿堂とも言われた国際連盟本部(ジュネーブ)から各国代表の演説がヨーロッパ各国に中継された。また同年、オーストリアのザルツブルグからはモーツアルト祭のもようがヨーロッパ各国に放送された。これが国際放送の最初とされている。これらはともに中波の放送で、・・・(略)・・・』 (南利明, ウエストミンスター寺院の鐘の音が日本の空に流れた 草創期の国際放送, 放送研究と調査, p42)

他国のリスナーを対象に、短波で国際放送ができないかは、1925年(大正14年)後半から研究されていましたが、今回それが実用化の運びとなったわけです。このPCJJ国際放送を電気試験所平磯出張所が偶然傍受しました。ただし平磯ではこの謎の無線電話の正体をはっきりと認識できていたわけではないようです。

【参考】 平磯出張所は前年にドイツのナウエン局AGC(波長30.0m, 1926/9/30-10/7)と、東海岸ニューヨークWGY局(波長32.9m, 1926/11/14)の短波長無線電話試験の傍受に成功しています。

『茨城県平磯の電気試験所出張所に於いて三月二三日より二六日迄、毎朝五時前後より二、三時間にわたって波長三〇.四米にて海外よりの強勢なる無線電話を感受した。昨年十月独逸(ドイツ)ナウエン局から、また同年十一月米国東海岸WGY局からの無線電話を平磯で聴取したことについては当時報告したが、今回のものは更に著しく強大であった。特に二六日のものは驚くべき強勢であった。音楽などを放送した後に、次のような話を再三アナウンスしていた。ハロー、ラヂオラボラトーリオ、エキスペリメント、プログラマ、エレクトリカ、アインドーヴン、オランダ。このアナウンスから推定すると、和蘭(オランダ)のアインドーヴン、フィリップ、ランプワークス、リミティッドよりの短波長無線電話の試験ではないかと考えられる。ちなみにフィリップ、ランプワークスでは優秀な無線電信電話用の大電力真空管を製作しているのであるから、その製作にかかわる真空管を試験するためにこの試験を行ったのではないかと思う。』 (和蘭からの無線電話聞ゆ, ラヂオの日本, 1927.6, 日本ラヂオ協会, p34)

短波長の無線電話を試行錯誤する平磯JHBBの高岸所長は、同所の数ある受信記録の中から、海外無線電話のキャッチを最も大きな出来事として年次報告書に記録しました。

『十月より三月末迄の間に於て相次いで独逸(ドイツ)、北米合衆国東海岸 及 和蘭(オランダ)よりの短波長無線電話の試験放送を当所に於て有線電話程度に或は之より遥かに強勢に受信し得たるは本邦の新記録として特筆に価すべし。』 (高岸栄次郎/畠山孝吉, 短波長受信試験, 電気試験所事務報告 大正十五年度 昭和二年度, p119)

高岸所長の喜びが伝わってきます。ここ平磯出張所は1924年(大正13年)8月、中波ラジオKGO局(米西海岸)の日本向け特別試験の受信に成功した施設です。1927年(昭和2年)3月11日開始の短波ラジオPCJJが、本放送か実用化試験放送かは意見の分かれるところかもしれませんが、とにかく今回もまた平磯出張所が日本で最初にこれをキャッチするという栄誉に輝いたのです。

11) 学術研究会議が産・学・官・軍の共同短波試験を提案

1927年(昭和2年)3月14日、学術研究会議(現:日本学術会議)が産・学・官・軍からなる「オールジャパン」で大々的な短波試験を行ないましょうと関係各方面へ提案しました(学研発第295号)。以下は海軍省に届いたお伺い書です。現代文に書き直せば次のような内容でしょうか?(なお私は素人ですので、あくまで参考ということで・・・)

『短波長通信は最近始まったにも係らず、すでに実用化されようとしています。しかし短波長の伝播については実用上でも学術上でも解明できているとは申せません。近く米国で開催される国際無線電信会議では短波利用が条約に加わえられようとする中、我国としても相当根拠ある試験と結果を得ておく必要があると考えます。単独では到底実行困難なことも、関係方面の皆様と共同調査すれば可能になります。ぜひとも共同調査にご理解をたまわり、御賛同いただきたくお伺いします。』

(クリックで拡大)

その具体的試験方法は以下のものでした。海軍技研平塚実験所から呼出符号JRRCで春夏秋冬の年4回、波長15m, 20m, 30m, 40m, 50m, 60m, 80m, 100mの各波を発射し、それを全国各所で受信する計画案でした。

学術研究会議短波実験方 案

一、送信所

送信所ハ海軍技術研究所附属平塚実験所ヲ使用スルコトトシ之ニ必要ナル施設ヲナシ、特別委員会ノ指示ニ従ヒ本実験ノ便宜ヲ計ルモノトス。尚之ニ使用スル真空管ハ東京電気株式会社ニ於テ、出来ル丈提供援助ヲナスモノトス。

二、測定所

受信所トシテハ左の各所ヲ充テ諸種ノ測定ヲ行ナフモノトス。

海軍技術研究所附属平塚実験所ヲ使用スルコトトシ之ニ必要ナル施設ヲナシ、特別委員会ノ指示ニ従ヒ本実験ノ便宜ヲ計ルモノトス。

(イ) 逓信省、 電気試験所、本邦各固定局及海岸局、船舶局(特別ノモノ)

(ロ) 陸軍省、 通信学校、固定通信所及科学研究所

(ハ) 海軍省、 各陸上局、技術研究所、水雷学校

(ニ) 学校其他 各植民地無線電信電話局、気象台、東京帝国大、東北帝国大、日本無線電信株式会社、東京電気株式会社

三、実験期間

昭和二年四月、七月、十月 及 昭和三年一月ノ各月ノ一日ヨリ始ムルモノトス。(但シ一月ハ十日ヨリ始ム。)(日曜、祭日ヲ除ク)

四、実験時間及波長

波長ハ一五、二〇、三〇、四〇、五〇、六〇、八〇、及 一〇〇メートルノ八種トシ、初メ或ル波長ヲ以テ二日間之ヲ行ヒ、次ノ一日ハ波長変更調整ヲ行ヒ、第四日目ヨリ更ニ、二日間次ノ波長ヲ以テ実験シ、次ノ一日ハ準備、次ヲ更ニ、二日間次ノ波長ヲ以テ送信ヲナス。カクシテ順次全波長ニ就キ実験シ、之ヲ終了スルモノトス。実験時間ハ左ノ通リトス。

午前九時三十分ヨリ十時

午後二時三十分ヨリ三時

午後九時三十分ヨリ十時

五、送信空中線 及 電力

平塚実験所ニ於ル空中線架設法ハ各波長ニ依リ左図ノ如クスルモノトシ、電力ハ空中線出力約二キロワットヲ以テ標準トス。

注 空中線電流は電流計ヲ空中線振動電流腹部ニ挿入シ、予メ測定シ置クモノトス。

六、受信方法

受信測定方法ハ各所ニ於テ適宜之ヲ行フモノト●モ受信強度聴度計ノ読ミ、又ハ実聴器分岐抵抗ノ値ヲ以テ表スモノトス。

注 空中線電流は電流計ヲ空中線振動電流腹部ニ挿入シ、予メ測定シ置クモノトス。

七、送信信文

本実験ニ使用スル通信信文ハ左ノ通リ繰返スモノトス。

JRRC JRRC JRRC VV・・・VV(Vを十回繰返ス)TEST NO.~ ANTENNA CURRENT ~A

八、報告

平塚実験所ニ於ケル送信成績並ニ各所ニ於テ測定シタル結果ハ、左記様式ニ拠リ、それぞれ主務省又ハ主務部ニ取纏メ、之ヲ特別委員会ニ送付シ特別委員会ハ、全部取纏メ充分調査ノ上、之ヲ本委員会ニ報告スルモノトス。

尚本実験実施ニ関スル詳細ノ事項ハ、随時学術研究会議 電波研究委員会 特別委員会ニ於テ決定スルモノトス。

(●は私が読めなかった漢字)

なお海軍省は3月22日(官房第937号)で異存ない旨、回答しています。

12) 1927年(昭和2年)3月24日 楠本哲秀氏(JLZB)免許

1927年(昭和2年)3月24日には、やはり昨年暮れには軍部の了解が得られていたにも関わらず、保留されていた楠本哲秀氏に電業第722号でJLZBが免許され、本人、海軍省、陸軍省へ通牒されました。

楠本氏の場合、申請時は38mでしたが、12月に80mへの変更が認められました。なぜ38mから80mに申請内容を変えたかは分かりません。

13) 1927年(昭和2年)3月29日、電業第579号通達 「アマチュア無線のあゆみ」には前年の通達文が・・・ [重要]

昨年7月に出された短波開放の通達には解釈に曖昧な点があるため、それを補充する通達案が2月18日に電業第112号で示されていましたが、3月29日に電業第578号として通達されました。

書籍に誤植やミスがあるのは仕方ないと思いますが、1976年(昭和51年)に出版された「アマチュア無線のあゆみ 日本アマチュア無線連盟50年史」の、このミスだけは絶対に修正しておかないと、「日本の短波の歴史」が曲がって伝承されまいか?と感じる部分があります。それは同書p60(下図)にある1927年(昭和2年)3月29日に出された電業第579号「短波長無線電信無線電話実験施設ニ関スル件」の肝心な「本文」が、誤って別のものから引用されていることです。

上記黄色の部分をご一読ください。『一般実験用無線電信無線電話ノ施設願ニ対シテハ施設無線電信無線電話監督事務規定第三條ニ依リ処理スベキ義ニ有之候処・・・』 ん?どこかで読んだような文書でしょう。これは短波開放の通達のページで紹介した大正15年7月10日の電業第748号(=短波開放の通達)ではありませんか!本ページの最初の方にも、再掲していますので見比べて下さい。

本当の電業第579号の本文は以下の通りです。 まず冒頭にこの通達が前年7月の電業第748号に関するものであることが明瞭にうたわれて、はじまります。

電業第五七九号

昭和二年三月二十九日

電 務 局 長

各逓信局長殿

短波長無線電信電話実験施設ニ関スル件

短波長無線電信電話実験施設ニ関シテハ 客年七月十二日附電業第七四八号ヲ以テ通牒致置候処 尚左ノ各項御諒知相成度候 依命

追テ本件取締ニ使用スヘキ短波長受信機ハ 差向追テ交付セラルヘキ貴局保守用ノモノノ内ヨリ差繰使用方御取計相成度

一、官庁又ハ学校若[もしく]ハ 信用アル機器製作会社等ヨリノ出願ニ付テハ実況ニ応シ 適当ノ制限ヲ附シテ許可セラルヘキ見込ニ付 意見ヲ附シ願書ヲ進達スヘキコト

二、個人ヨリノ出願ニ付テハ 左記甲号ノ事項ヲ調査シタル上 支障ナシト認ムルモノニ対シ 左記乙号ノ条件ヲ附シテ許可セラルヘキ見込ニ付 該調査書ヲ添へ 且[かつ]意見ヲ附シ願書ヲ進達スヘキコト

三、短波長無線電信電話ノ不法施設又ハ不法使用ノ取締ニ関シテハ 左記丙号ノ事項ヲ励行シ遺漏ナキヲ期スヘキコト

甲 号 調査事項

一、本人ノ履歴、科学上ノ知識、職業其ノ他社会上ノ地位

二、実験ニ当ルベキ通信従事者ハ規定ノ資格ヲ有スル者ヲ採用スル見込ナルヤ 若[もしくは]本人自ラ通信ニ従事セムトスルモノナルトキハ通信技術習得ノ程度

三、研究費支弁方法(他人ノ依頼ヲ受ケテ研究スルモノナルヤ等ヲ明ニスルコト)

四、研究ノ結果ヲ発表スヘキ方法ニ付 予定シタルモノアラハ其ノ方法(新聞雑誌等ニ掲載スル予約アルヤ否ヤヲ明ラカニスルコト)

五、施設者ニ於テ執ラムトスル発信電波長ノ測定方法

六、交信ノ対手トナルベキ無線電信及実験ノ方法

七、其ノ他 許可後 空中ヲ混乱セシメ 又ハ目的外使用ヲ為スノ恐ナキコトヲ確ムルニ足ル事項

備考 第二号及第五号ハ単ニ受信機ノミヲ為ス者ニ付テハ必要ナキニ付 省略スルモノトス

乙 号 制限事項

一、本施設許可ノ有効期間ハ許可ノ日ヨリ一年トス(許可期間中ニ於テ規定又ハ命令ヲ遵守セサルカ如キ傾向アリタル者等ニ対シテハ次年以降許可セサルモノトス)

二、呼出符号及呼出名称ハ左ノ通トス

「何々」

三、使用電波長ハ「何」「メートル」ニ限ル(一定ノ波長帯ニ制限シ以テ 一般通信ヲ侵ササラシムルモノトス)

四、機器実験ノ時間ハ「何」時ヨリ「何」時迄ノ間ニ限ル(附近ノ一般通信ニ及[およ]ボス影響ヲ見テ制限スルモノトス)

五、本施設ハ他ノ無線電信無線電話トノ交信ニ之ヲ使用スルコトヲ得ス 但シ機器ノ実験ニ際シ対手トナリタル他ノ無線電信無線電話トノ間ニ 単ニ彼此[かれこれ]ノ電力、方式、電波長、所在地、施設者名、感度及実験時刻ヲ通信スルハ 此ノ限ニ在ラズ

六、前号但書ニ依リ交信シタルトキハ第八号ノ報告ト共ニ 其ノ交信ノ顛末ヲ所轄逓信局ヲ経由シ逓信大臣ニ届出ツヘシ

七、本施設ニ依リ受信シタル事項ハ総テ所轄逓信局長ノ許可ヲ受クルニ非[あら]ザレハ 之ヲ他人ニ漏洩シ又ハ公表スルコトヲ得ス

八、実験研究ノ成績(経過及結果)ハ毎月詳細ニ 所轄逓信局ヲ経由シ逓信大臣ニ之ヲ報告スヘシ

九、其ノ他 私設無線電信無線電話ニ関スル法令ヲ遵守スヘシ

十、前各号ニ違反シタルトキハ 本施設ノ許可ヲ取消スコトアルヘシ

備考 第二号乃至[ないし]第六号ノ如キハ 単ニ受信装置ノミヲ為スモノニ付テハ必要ナキニ付省略スルモノトス

丙 号 取締方法

一、貴局ニ監督用受信設備ヲ施シ絶エス厳重ニ不法使用又ハ不法施設ノ有無ヲ監視スルコト

二、一般無線電信局所ニ於テ無線電報送受中又ハ聴取中ニ於テ不法使用又ハ不法施設ニ属スル通信ヲ感受シタルトキハ之カ摘発上参考トナルヘキ事項ヲ調査シ 貴局ヘ報告方ヲ励行セシメ 貴局ハ其ノ監督用設備ニ依リ更ニ精査スル等ノ方法ヲ講スルコト

三、予メ不法使用又ハ不法施設ニ対スル厳重ナル取締励行方針ノ大要ヲ 新聞等ニ依リ一般ニ警告シタル上 爾後[じご]若[も]し不法使用者又ハ不法施設者ヲ発見シタルトキハ 必罰シテ仮借スル所ナキヲ期シ 一般ニ対シ法規ヲ遵守スル美風ヲ馴致スルコト

四、最近短波長無線電信電話ノ試験ヲ行フ無線電信局、郵便局、電信局 又ハ該局駐在若[もしく]ハ通信局技術者ニ対シ 不法施設者ト認ムル者ヨリ 右試験通信ノ使用電波長 試験時間等ヲ照会シ 或[あるい]ハ其ノ受信感度ヲ報告シ来ルモノ有之趣ナルモ不法施設ヲ助長スル恐レアルヲ以テ 此等[これら]等ニ対シテハ 該局又ハ当該技術者ヨリ直接通知又ハ回答スルコトヲ避ケテ 照会シ事項ノ実施ニ付テハ本案決済後 直ニ各々案ヲ具シ逓信局其ノ他関係ノ向ヘ通達方 取計フコトニ致度[いたしたく]

● 時間関係のおさらい

左図で、歴史をおさらいしてみましょう。1926年(大正15年)7月10日に短波開放の通達(電業第748号)が出されて、これに基づき、9月29日に電信教会JAZA、10月8日に安藤博氏JFPA、10月14日に東京電気JKZBに対して短波を許可しました。これは学校・個人・企業という3つのカテゴリーに対する、逓信省の短波開放政策のデモンストレーション的意味合いが含まれていると考えられます。 ところがこの短波開放の通達は解釈が明瞭でないところがあり、これを補足する通達を練っているときに、短波アンカバー摘発事件が起きました。そこで申請者の身上調査や取締方法を追加した「案」(1927年2月18日の電業第112号)を提示したうえで、1927年(昭和2年)3月29日に補足の通達(電業第579号)が出されました。

「アマチュア無線のあゆみ」では1926年7月の「短波の開放通達」には全く触れずに、さらに誤って1927年3月29日(電業第579号)の中身を、1926年7月の「短波の開放通達」電業第748号として記録してしまったようです。つまり「短波の開放通達」が、なんと8ヶ月も後ろの1927年3月29日にタイムスリップしています。

すると大正15年の9月29日から10月14日に掛けて電信協会・安藤博氏・東京電気に短波が突然免許されるようになった理由が分からなくなるし、また同年秋には免許することが決まっていたのに、2月18日の電業第112号の基準で再審査されたと考えられる、有坂磐雄氏と楠本哲秀氏もまた「短波の開放通達」の前に免許された異例な存在になります(短波の開放通達のページ参照)。我国の「短波の開放」という最重要トピックスの辻褄がぜんぜん合わなくなるのです。

【参考】 既にお気付きかもしれませんが、昭和2年2月18日の電業第112号には『大正十五年七月十八日各逓信局長ニ左ノ通達セリ』と、また昭和2年3月29日の電業第579号には『客年七月十二日附電業第七四八号ヲ以テ通牒致置候処』というように、大正15年7月に出された短波の開放通達の(電業第748号)の日付にぶれがあります。しかし日本無線史第四巻に収録された「電業第748号」の全文では7月10日になっていますので、本サイトではこれに従うことにしました。

● なぜ中身が変わってしまったのか?

なぜこうなったかは私には分かりません。しかし「アマチュア無線のあゆみ」の短波黎明期の部分は、「アマチュアのラジオ技術史」 (岡本次雄, 誠文堂新光社, 1963)をもとにして書かれたように思えましたので、そちらも調べてみました。アマチュアのラジオ技術史では、『一方,アンカバーの続発に手をやいた逓信者は1927 年(昭和2 年)3 月29 日電業579 号をもって「短波長無線電信電話実験施設に関する件」という通達をすると共に,一般に対し次のような電務局発表を行った。』 として、1927年3月31日に電務局がプレス発表した以下の記事が「ラヂオの日本」(昭和2年5月号)より転載されていました。

『長波長なると短波長たるを問はず、私設の無線電信又は無線電話を施設せんとする者は、凡[すべ]て、無線電信法第二条に依り逓信大臣の許可を受けなければならない。若[も]し許可を受けずして施設した時は、一年以下の懲役又は千円以下の罰金に処せられるのである。又許可を受けて、施設した無線電信電話といへども、之を許可せられている施設の目的以外に使用することが出来ない。若[も]し施設の目的外に乱用したる時は千円以下の罰金に処せられるのである。最近短波長無線電話の発達に伴い実験を為さんとする者やうやく多からんとする傾向にあり、勿論[もちろん]科学の進歩発達を助長すべき事は必要なりといへども、一面許可を受けずして施設するもの及び許可事項以外に乱用する者の取締を励行せざれば、公衆通信に対して妨害及び公安の維持上重大なる影響を及ぼすものなるを以て、逓信省に於ては、従来慎重考究中なりしが最近其の取締方針を決定し其の励行方に関し夫々[それぞれ]逓信局長へ通達した。

[ちな]みに該方針の概要を挙ぐれば左の通りである。

一、各逓信局に於て監督用受信機を設備して絶へず逓信大臣の許可を受けずして、無線電信電話を施設したる者無きか、及び無線電信電話を許可された目的以外に乱用する者無きかを厳重に監視するの外、一般無線電信局に於ても其の監視を励行し苟[いやしく]も法規違反者を発見したる場合は厳重処罰して寸毫も仮借[かしゃく]せざること。

二、然[しか]れども真面目に無線科学の研究実験を為さんとする者の出願に対しては実験設備、実験方法、実験者の履歴及び通信技術の修得程度等を調査したる上支障なしと認めたる者に限り許可する事とし、許可の際使用電波長、実験時刻,及び受信感度の照合等特に許されたる事項以外は絶対に他の無線電信電話との交信を禁止すること。

三、単に受信機のみを装置して実験せんとするものゝ出願に付ては成規の放送無線電話の聴取者にして相当の技術を有し真面目に科学の研究を為さんとする者ならば一定条件の下に之を許可すること。』

電務局発表には「最近その取締方針を決定し、励行方に関しそれぞれ逓信局長へ通達した」とあるだけなので、おそらく「アマチュア無線のあゆみ」を編集する際に日本無線史第四巻を調査されて、直近の「3月29日付け電業第579号」を特定されたのでしょう。

この「ラヂオの日本」の電務局発表は電業579号の本文は使わず、一般人向けに要約した文章です。最後に挙げた三項目を見ると、どちらかといえば電業第579号の内容よりも、電業第748号の方が良く似ていますね。中身が差し換わった原因は分からないのですが、とにかく結果としては「タイトルは電業第579号で、中身が電業第748号」という不思議な通達文が「アマチュア無線のあゆみ」に掲載されました。

なお短波開放に関する逓信省の通牒、電業第748号、第112号、第579号は電波監理委員会(FCCにならった戦後初の独立電波行政組織)編集による日本無線史第四巻(pp491-492)に収録されています。県立クラスの中央図書館なら蔵書されていると思いますので、興味ある方はぜひご自身の目でご確認ください。

【参考】 なぜ逓信省はプレス発表したかというと、上記本物の電業第579号の丙号 取締方法の三に、『三、予メ不法使用又ハ不法施設ニ対スル厳重ナル取締励行方針ノ大要ヲ 新聞等ニ依リ一般ニ警告シタル上・・・(略)・・・』と決めているからです。

14) 産・学・官・軍の共同短波実験が始まる (4月1日-)

4月1日より海軍技術研究所附属平塚実験所より呼出符号JRRCで産・学・官・軍による、我国初の共同短波実験がスタートしました。アメリカでは2年前にアマチュア団体ARRLが海軍の短波実験に協力し呼出符号NRRLで貢献し、高く評価されたことがありました。平塚JRRC以外は受信での参加ですので、もし日本のアマチュアも参加できたならば、また違った歴史展開があったかも知れませんね。

実験に先立って、3月25日に波長15m(12:00-12:30)、波長20m(13:00-13:30)、波長30m(14:00-14:30)、波長40m(15:00-15:30)、波長50m(16:00-16:30)、波長60m(17:00-17:30)、波長80m(18:00-18:30)、波長100m(19:00-19:30)を平塚JRRCが発射し、佐世保、鳳山(台湾)、馬公(台湾)、父島、大湊、宗谷にある海軍無線電信所で受信試験が行なわれました。

この実験は春夏秋冬による短波の性質を探るため1927年(昭和2年)4月, 7月, 11月、1928年(昭和3年)2月, 7月, 10月、1929年(昭和4年)1月, 4月の計8回実施しました。受信地点は国内はもちろん、香港、マニラ、ハノイ、ボンベイ、シドニーなどの遠隔地も含めて計64ヶ所で定点観測され、短波の伝播特性を明らかにしました。工務局からは中上氏と穴沢氏が特別委員として参加しています。

1930年3月31日に学術研究会議より最終レポートとして「短波伝播状況調査報告」(英語版:on the Propagation of the Short Waves )がまとめられ、各季節における夜間および昼間の通信距離と最適周波数の関係が明らかにされました。これは日本の短波史に残る一大共同プロジェクトでした。

日本初の水晶発振式送信機(呼出符号JRRC, 7.500MHz)

この報告書によれば第一回試験(1927.4)では自励発振でしたが、第二回試験(1927.7)で、まず波長40m(7.500MHz)に水晶発振方式の送信機を導入し、第三回試験(1927.11)より全波水晶発振化しました。ちなみにその周波数は2.768MHz(波長108.40m)、3.650MHz(波長82.20m)、4.858MHz(波長60.19m)、6.077MHz(波長49.39m)、7.299MHz(波長41.20m)、9.718MHz(波長30.88m)、14.599MHz(波長20.54m)、18.248MHz(波長16.45m)でした。

海軍が民間の依佐見送信所に水晶式短波送信機を納入したのが1928年(昭和3年)ですから、それに先立って海軍平塚JRRCが1927年(昭和2年)7月に周波数7.500MHzの水晶式送信機を完成させたわけです。逓信省関係の全無線局はまだ自励発振の時代ですから、これが水晶式送信機の日本第一号で海軍技研の設計です。

(学術研究会議主催の)この実験に当り、送信は海軍側に於いてこれを担任することとなり、神奈川県平塚町にある海軍火薬廠内の海軍技術研究所平塚研究所所属平塚実験所から各種の周波数で送信した。昭和二年四月施行の第一回実験の経過に鑑み、送信周波数の変動を防止する必要を感じ、当時研究中であった結晶制御式短波送信機を第二回(同年七月施行)以後の実験に使用した。これが本邦に於ける結晶制御式短波送信の嚆矢であって、この送信の受信音は全く澄み切った音色で、同式の優秀なることを一般に示した。』 (電波監理委員会編, 結晶制御式短波送信機, 日本無線史 第10巻, 1951, p80)

15) 官報告示を遅らせた? 楠本氏JLZB(4月5日), 有坂氏JLYB(4月6日)

多くの場合には免許された日から2,3日後には官報に告示されますが、有坂氏のJLYB(3月1日免許/電業第561号)は4月6日昭和2年逓信省告示第838号で、楠本氏のJLZB(3月24日免許/電業第722号)は4月5日昭和2年逓信省告示第831号と、4月になるのを待って官報に掲載したふしがあります。2月18日に成案した「短波長無線電信電話ノ許可、監督及取締方針ニ関スル件」の取締方針の三に『予メ不法使用又ハ不法施設ニ対スル厳重ナル取締励行方針ノ大要ヲ 新聞等ニ依リ一般ニ警告シタル上・・・』とあり、官報に載せるのは「ラヂオの日本」3月号を通じて許可と取締方針を一般発表してからの方が、無難でよろしかろうという事になったと推察します。

ちなみにJLZBの免許日をJLYBの3月1日に重ねる文献もみられますが、これは正しくないです。

『昭和2年[1927年]3月1日、大正15年8月4日付で東京逓信局へ出願していた、JLYB有坂磐雄氏、JLZB楠本哲秀氏にの2局に免許が下りた。』 (日本アマチュア無線連盟編, アマチュア無線のあゆみ, 1976, CQ出版社, p58)

戦前の日本では、逓信大臣が許可方針を決定すると、まず海軍省と陸軍省に同意を求めます。三省それぞれが所管する無線局の許認可権を持っていますが、混信防止など相互調整の必要性から、電波三省による合議制を取っていたからです。そして同意が得られれば、逓信大臣が「申請者」と「海軍省」「陸軍省」へ免許を通知します。

以下に一例を挙げます。これは後述しますが東京市電気研究所へ短波が追加された時のもので、下図左側の「電業第1395号(先頭ページ部)」は望月逓信大臣名で免許人の西久保市長に宛てられたものです。下図右側の「電業第1395号(先頭ページ部)」は逓信省電務局長名で海軍省軍務局長へ宛てられたものです。ここには掲示していませんが右と同じものが陸軍省軍務局長にも送られます。日付はいずれも5月16日です(クリックで拡大)。

そして官報には数日遅れて告示されます。この東京市電気研究所の例だと、1週間遅れの5月23日になって掲載されました(昭和2年逓信省告示第1233号)。官報の告示に免許日は書かれていませんので免許日を知るには、1)逓信省から免許を受取った御本人からの情報提供か、2)逓信省が海軍省や陸軍省に通牒した書面(上図右)を探し出すかの二つです。戦前の無線局の免許日を知ろうとすると大変骨が折れます。

16) 英-濠間 ビーム通信 開業 (4月8日)

1927年(昭和2年)4月8日、マルコーニ・ビーム・システムの英国-オーストラリア回線が商用サービスに入りました。左図[左]はイギリスのグリムズビー(Grimsby)送信所で呼出符号GBH、波長25.906m(周波数11.580MHz)を使っています。受信はスケグネス(Skegness)局で行いました。ボドミン局の南アフリカ回線がまだ準備中のこの時期は、グリムズビー局が呼出符号GBJの波長16.146m(18.580MHz)と34.013m(8.820MHz)で南アフリカと試験を行なっていました。またグリムズビーとスケグネスの両局はのちに開業するインド回線も受け持つことになります。

オーストラリア側(Amalgamated Wireless Co. of Australia)はメルボルンの北東50km程に左図[右]のバラン(Ballan)送信所(呼出符号VIZ, 波長25.728m, 周波数11.660MHz)、そしてメルボルン市内にキーラー(Keilor)受信所が建設されました。さらにバラン送信所からモントリオール(カナダ)のセントローレンス川付近に建設するビーム局とを結ぶ計画がありましたが、それは1928年の遅くに開通したようです。

左の写真はグリムスビー送信所のマルコーニ・ビームの中から撮影されたものです。こんな感じに見えるのですね。

同年4月11日、在シドニーの徳川家正総領事より、幣原外務大臣へビーム通信が開業したことを知らせる「英本国及濠州間ビーム式無線電信開通に関する件」(公第64号)が送られました。

『欧州大戦ニ際シ 連邦政府ハ英本国及濠州間ニ無線電信ヲ以テ直接通信開始方ノ必要ヲ痛感シ 一九ニ一年帝国会議後カ実行ニ着手シ 同年Amalgamated Wireless (Australasia) Ltd. ナル半官半民ノ会社 シドニー市ニ設立セラルルニ至リ 専ラ強力電波ヲ利用シテ通信ノ完成ヲ計リタルモ 各種ノ障害に遭遇シ事業停頓シ居リタル所 一九二四年更ニ ビーム式 Beam System 無電ノ発明ヲ機トシ 一段ト研究進歩シ暫ク之カ設計及工事完成スルニ至リ 本年四月八日 其開通式ヲ挙行シ 濠州側ニ於テハ連邦総督ヨリ皇帝ヘノ「メッセージ」ヲ始メ 自治領大臣 連邦総理 前連邦総理 ヒューズ豪州通信連合等ノ 開通祝賀ノ交換アリテ 同日午後四時ヨリ該通信ヲ 一般ニ公開スルニ至レリ 右「ヒ」氏無電ニヨレハ一分間平均百五十語ヲ打電シ得ト云イ 右取扱ヒハ連邦内郵便電信局ニテ受付ケ居レリ・・・(略)・・・』

17) 1927年(昭和2年)4月時点の日本の短波局

短波での公衆通信サービス(無線電報)開始を機に、海軍省はあらためて日本の短波無線施設を調査し、「部外短波長無線電信施設一覧」として海軍公報(昭和2年4月28日)に掲載しました。この時点で個人による短波の施設者は三名です。問合わせを受けた逓信省は「無線電信電話呼出符号等ニ関スル件」(電業第1161号, 昭和2年4月23日, 逓信省電務局長)で回答しました。それにしてもJ1AAやJ1PPが見当たりませんが、逓信省工務局は自分たちの施設は他者に教える必要はないと考えていたようです。

【参考】 無線施設への免許は電務局が発行していましたが、無線施設管理原簿は工務局で管理していました。

(海軍公報 昭和2年4月28日 P431-P432にまたがっています)

なお電気試験所磯濱分室JHCBには短波は許可されなかったようでこの「部外短波長無線電信施設一覧」にはリストされていません。また安藤博氏JFPAは38mのみになっており、指定変更があったのかとも思いましたが、公報掲載前の原稿では38mと80mです(下図)。公報を印刷する時にミスがあったようです。ところで一定の波長を指定するのが当たり前のこの時代に、電気試験所平磯出張所JHBBのアバウトな"波長40m前後"という許可もすごいですが、電気試験所第四部の波長20m~40mという帯域免許はすごいですね。(もっとも自分達のJ1AA, J1PPはどんな波長でもそれが必要ならOKのスーパー実験局だったでしょうけれど・・・)

(海軍公報を印刷する前の原稿:クリックで拡大)

18) 1927年(昭和2年)5月1日、短波の実用化が実現

短波の実用化については、昨年7月1日から試験的に東京-大阪間で短波が補助的に使われ、その後パラオ回線でも長波の補助として使用されてきました。そして1927年(昭和2年)5月1日より正式に国内無線が稼動しました。

『内地主要都市間無線通信連絡、いわゆる国内無線連絡は、大正十二年九月一日の関東大震災により京浜間地域の有線通信施設が全く破壊され、東京、横浜と他の諸都市との通信連絡を絶たれたにがい経験かと、またその際無線電信の発揮した威力によって国内主要都市間無線連絡の必要が叫ばれ、急速にその計画がたてられた。』 (東京中央電報局沿革史, 電気通信協会, 1958, p438)

『これら国内主要都市間の無線連絡は、平時においては既設有線回線の補助施設として利用され、風雪害その他天災地変により有線通信途絶の場合には、臨時回線として連絡を設定し、無線通信本来の機能を十二分に発揮してきた。昭和二十年八月十五日、第二次世界大戦終結とともに、各回線は一時休止されるに至ったが・・・(略)・・・』 (東京中央電報局沿革史, 電気通信協会, 1958, pp471-472)

19) 国米氏の私設無線施設(JMPB)のスピード免許

東京逓信局監督課の国米藤吉係長は、不法アマチュアを取り締るために自宅に短波施設を開設することにしました。逓信省は東京逓信局の国米氏の許可について、4月22日付けの電業1150号で陸軍省と海軍省へ支障ないかを問合せました。目的は『無線電信法第二條第五号により無線電信の学術研究および機器に関する実験に使用』ですが、後述しますが実態はそうではなかったと御本人が証言されています。

そして4月25日に海軍省から異存ない旨の回答が来ています(軍務第120号の2)。 (私は陸軍省からの回答を発見できませんでしたが・・・)

(クリックで拡大)

逓信省は5月6日に電業第1290号で国米氏にJMPB(波長38m, 80m)を免許しています。軍部への照会から免許まで僅か2週間というスピード許可です。

【参考】 戦前でいう「免許」とは、戦後でいう「予備免許」のことで、工事が完了すると「検定」を受けます。「検定」とは戦後の言葉では「落成検査」です。「本免許状」の様な物はありませんが、あえていえば「検定合格書」がそうでしょうか。また「本免許」という概念がないため免許有効期間1年の起算日は「免許日」で、もし「検定合格」までに4カ月掛かると、有効期間は残り8か月になります。

さて免許されると申請した工事設計書通りに無線機を作らななければなりません。大変興味深いことに国米氏への免許には工事設計を一部手直しするよう逓信省より指示が付きました。乙号に『四 空中回路ト開閉器トノ結合ハ之ヲ直結ト為サス電磁結合トスル為「テスラコイル」ヲ使用スル様工事設計ヲ変更スヘシ』とあります。

つまり国米氏の短波施設の設計は逓信省の協力によるものではないと考えられます。国米係長は逓信官吏練習所を卒業し太平洋航路の通信士、船橋無線を経て、東京逓信局監督課に移られた方なので通信士としての腕前は一流ですが、波長38mと80mの短波無線機を仕上げるには助っ人が必要だったと思うのです。いや助っ人が現れたからこそ、自らが(オトリ捜査用に)短波施設を持とうと思ったのではないでしょうか。

1955年(昭和30年)に「無線と実験」編集部が企画した座談会で、楠本哲秀氏について、元編集長の古沢氏の発言に続いて国米氏が次の様に語っています。

古沢 (1925年10月号に楠本氏の短波実験局を「無線と実験」研究部として紹介し、短波を不法発射している記事を書いた件で東京逓信局から叱られ)どうにか収まりましたが、楠本氏はアメリカでライセンスをとっていた短波のアマチュアで大したものでした。

国米 ええ。あの楠本君は当時短波にはとても明るいものでした。私も彼を(不法に短波を運用した件で)たびたび調べているうちに、今度は私の私設秘書に使って不法施設の摘発に役たてました。とにかく楠本君は短波の記事を一番多く書いておりましたね。』 (座談会「30年前のラジオを語る」, 無線と実験, 1955.5, 誠文堂新光社, p102)

国米氏がいう「(楠本氏を)自分の私設秘書に使って」という言葉が、"業務を越え、個人的なお手伝いまで任せた"ように聞こえませんか? つまり私は1927年3月29日の電業第579号「短波長無線電信電話実験施設に関する件」を契機に、国米氏は非常に優秀な楠本哲秀氏を東京逓信局に誘った。そして国米氏は彼に短波無線機を組立ててもらったのではないかと考えました。

20) 楠本哲秀氏JLZBは、やはりアマチュア局ではないだろうか?

国米氏JMPBの官報告示は免許4日後の5月10日にあり、無線之研究誌6月号にも掲載されました(楠本氏JLZB、有坂氏JLYBの告示は5月号に掲載)。しかし同時に国米氏JMPBと楠本氏JLZBは東京逓信局の人だと「無線之実験」誌に投稿がありました。

『SWのライセンスが下り初めた事は実にうれしく思いますが、前に受信の許可を受けられた黒田氏は逓信省の電務局の方だし、今度のJLZB(楠本)氏は東京逓信局監督課に勤めていられる人ではありませんか?ちょっと考えさせられますね。皆様!(QSK生)』 (QSK生, 読者の頁, 無線と実験, 1927.6, 無線実験社, p51)

『国米氏は東京逓信局監督課の方です。なお4月3日に許可された楠本哲秀氏も東京逓信局に居られる人です。これら監督者の立場に在る方々から先づ短波長の学術研究をしてみようとなさるのはまことにFBでとにかく甚だ結構な事でしょう。』 (La Ondo Mallonga, 前掲書, p49 )

楠本氏は1年半前の大正14年秋に短波アンカバー運用で東京逓信局の摘発を受けましたが、この頃よりラヂオファン達とは顔見知りでした。

逓信省は電業第579号で、まず新聞雑誌等で一般に取締り方針を発表してから、取締りを実施せよとしていました。そして「ラヂオの日本」3月号で取締り方針を世間に発表したので、4月より全国一斉に不法施設の取締りが始まったはずです。4-5月頃は東京逓信局から呼出しを受けた人が多く、そこで楠本氏の姿を目撃したアマチュアがいたのでしょうか。

東京逓信局を退官し、日本放送局協会の業務課長になっていた国米氏による、アマチュアの取締りをしていた頃の記事があるので引用します。

『放送が開始された当時から、短波長の安価にして長距離通信に適し、容易に作製出来ること、米国あたりでは素人がやって成功していることが知られ、かなり流行しかけた。この取締りには本当に寝食を忘れ、全く昼夜兼行であった。自宅に監督装置をなし寝床の内でも目が開いている間は受話器を耳にしておった。直接通信の必要があり、送信機も装備するに至った。そして適当に応対して空中犯人の探査をやったものだが、これによって随分と不法施設を発見した。海外諸国のアマチュアとの受信は余興として面白かった。心易くなるに従って内地のアマチュアの住所を海外のものより聞く手段を講じた。』 (国米藤吉, ラヂオの昔を語る, 無線と実験, 1934.9, 無線実験社, p8)

さらにQST誌へも「JMPBとJLZBは逓信省の監視局だ」と投稿があり、1928年(昭和3年)1月号に掲載されました。

『それからは一切私に対して返事をせず、種々調子を変えたり符号を変えたりして交信しようとしたが、一切感付かれて終わった。その記事のある雑誌(QST?)も誰が送ってくれたものか知らないが、私宅へ郵送されるなど、まるでルパンの小説もどきであった。ことにあるアマチュアを招致して取調べると、私の家の間取りから機器装置模様、私の勤務状況など万事承知していた。なおこんなことは全国の短波長アマチュアは、皆知っておりますよと高言を吐く有様。いつ調べたかは知らないが、遂には私の家の写真を撮って鬼のすみ家などなど称して雑誌に掲載された時代もあった。』 (国米藤吉, 前掲書, p8)

楠本哲秀氏ご自身が東京逓信局監督課で働いたことがあると語られていますのでこれは間違いありません。インタビュー記事を引用します。

『なお、楠本哲秀氏は、明治三十三年(一九〇〇年)和歌山県の生まれ。アメリカの電気専門学校に学んで、大正十三年に帰国し、はじめは逓信省で無線関係の監督官になられたが、昭和二年の日本ビクター設立と同時に日本人録音技術者第一号として入社され、戦前を通して主任技師をつとめられた。

昭和初期の録音事情 - 録音のために豆腐を買い占めたことなど

歌崎 楠本さんは、昭和二年に設立と同時に録音技師の第一号として日本ビクターに入られたそうですが、当時は、やはり上に外人技師がいたのですか。

楠本 私は元来が無線が専門で、アメリカの学校時代の友人が向こうの会社にいて、その勧めもあって日本ビクターに入ったのですが、その時は外人技師が二人いました。(外人技師は)上海に行く途中で日本に立ち寄り、一、二年で日本人の録音技師を養成するということになっていたのです。

歌崎 機械吹き込みから電気吹き込みになって、電気の専門知識のある楠本さんに白羽の矢が立ったのでしょうが、はじめはどのような仕事をなさったのですか。

・・・(略)・・・

歌崎 そのほかの録音で、特に印象に残っているものには、どんなものがありますか。

楠本 洋楽ではないけれど、昭和六年の十二月に東郷元帥の軍人勅諭の朗読を録音したことは、私にとっては一生忘れられない思い出ですね。富士見町のお屋敷に伺って、元帥正服を着用された元帥が、居間に立てたマイクの前で最敬礼され、直立不動で約三分間にわたって勅語を朗読されたのですが、本当に緊張しました。冬の寒い最中だったのでワックス盤が硬くなっていて、元帥のお屋敷ですからそれを暖める装置はないし、木の箱に入れて暖めましたが、無事に録音が終ったときには本当にホッとしました。』 (歌崎和彦, 証言/日本洋楽レコード史, 1998, 音楽之友社, pp175-179)

私にはJARL50年史「アマチュア無線のあゆみ」(pp58-59)がいうところの『JLZBは逓信省の職員で、監視のための局であることが今日明らかになっているのでアマチュア局とは認めがたい。』が、一体どれほどの客観的な根拠をもって「今日明らかになっている」と断言されるのか解りませんが、実は違うのではないかと思えるフシがいくつかあるのです(なお東京逓信局なのに逓信省とする、有りがちな誤りはまあ横に置いときましょう)。

まず「短波開放の通達」のページは既にご覧頂いたという前提ですが・・・

1) もしJLZBが東京逓信局の監視局ならば、12月に軍部からの了解が取れた時点で、逓信省は楠本氏だけでもさっさと免許できたはずです。しかし4カ月も保留にされました。不思議です。

2) もしJLZBが監視局なら80mではなく、38mも許可してよさそうです。いや国米氏のように80mと38mの両方を許可しないと監視の効果があがらないでしょう。これもしっくりきません。

3) またJLZBは通信執務時刻が10:00-11:00, 22:00-23:00の一日2時間だけに制限されました。もし監視局なら国米氏JMPBのように「不定」(24時間好きな時に)にすると思うのです。

4) 有坂氏JLYBも楠本氏JLZBも、何か月も免許を保留にされていました。2月18日に取締り方針案(電業第112号)が固まった時点で、有坂氏を追い越して楠本氏JLZBをさっさと免許できそうなものですが、楠本氏への免許は3月24日まで掛かっています。

5) ただし官報告示だけは両氏の順序が逆転しました。なぜか4月5日に楠本氏のJLZBが、4月6日に有坂氏のJLYBが告示されました。

以上を総合し、私は楠本氏が4月より東京逓信局にスカウトされたのでは?そう想像しました。楠本氏が東京逓信局監督課の国米氏のもとで働いたことがあるという事実と、楠本氏のJLZBが東京逓信局の監視局だったかは別に検証すべき話です。

またJLZBはアマチュア局として免許されたが、免許人(楠本氏)が東京逓信局へ就職したため、JLZBが監視局としての立場に変わったのだとする見方もできます。もしそうなら同年秋に逓信省が草間貫吉氏JXAX以下の38mの局を多数免許する前に、彼らを監視するためにJLZBへ38mを追加してもよさそうな気がしませんか?でもそうしませんでした。また一日2時間に制限された執務時刻も監視のために「不定」に変更されていません。私は職業(東京逓信局監督課勤務)と、プライベート(JLYB局)がきちんと分離されているように感じましたが、いかがでしょうか。

結局この話題はご本人または上長の国米氏の「JLZBは監視局だった」という証言でもない限り、「監視局だった」とか、「監視局ではなかった」などと断定的な言い方はできないのではないでしょうか。

21) 5月16日 東京市電気研究所(JCTB/JMQB)短波許可

東京市電気研究所(JCTB, 波長320-330m)に1927年(昭和2年)5月16日、電業第1395号をもって、短波5m, 38m, 80mの追加と、同所の境出出張所にも波長5m, 38m, 80m, 320-330mの無線電信と無線電話が新規で認められました。これは4月11日逓信省が電業第903号をもって波長5m, 38m, 80mを東京市電気研究所に許可しても支障がないかと海軍省と陸軍省へ問合わせ、4月12日に海軍より了承(軍務二第106号の2)を得ていたものです。境出出張所のコールサインはJMQBで、免許条件として陸軍通信学校附属無線研究所へ混信妨害を与えないよう同校と協議して、実験時間を取決めて東京逓信局長へ届出ることとされました。

当時無線通信の最大の弱点は通信が他人に傍受されることでした。そのひとつの解が、マルコーニのビームシステムだったわけです。ですがもっと直接的に今でいう周波数ホッピングの様な秘話研究も盛んに行なわれていました。ちょうど東京市電気研究所の鯨井博士と古賀技師が秘密通信の特許をとられた時期(特許第71523号/鯨井/1927.3.28, 特許第73340号/鯨井,古賀/1927.9.8, 特許第73374号/鯨井・古賀/1927.9.12)に短波が免許されましたが、次の文献によると秘密通信の実験送信は東大からですので、これとは違うようです。

『先生の指導の下に東京市電気研究所の計画が進められる事になって以来、いよいよ具体的に(秘密通信方式の)研究に着手する事となり、東大工学部の実験所と、有楽町の東京市研究所との間で試験をおこなった。・・・(略)・・・帝大から送信し東京市電気試験所で受信した結果は大変好成績であった。』 (古賀逸策, 秘密通信, 鯨井教授の研究と発明, 故鯨井恒太郎教授記念事業委員会, 1936, pp34-35)

なお東京市電気研究所は、よく東京市"電気試験所" と誤記されることがありますので、その沿革について引用しておきます。

『そもそも東京市電気研究所が設立される動機をいえば、大正十年六月廿四日 東京電燈株式会社が、その創立三十五周年記念に電気事業調査研究基金として、金百万円を東京市に寄付申出をなしたに始まる。この寄付は司会で受理することに決議せられ、電気局長の監下に研究所設立計画が進められていたが、鯨井博士が、その事務を嘱託せられて、今日の電気研究所の事業計画が決定せられた。・・・(略)・・・博士は電気局および社会教育課と協議して、東京市電気研究所に送話所を施設するため私設無線電話施設の許可申請を出願せしめられた。これが大正十二年三月一日で・・・(略)・・・大正十二年三月廿四日 逓信省当局の内示により、放送の意途を一層明らかにした無線電話放送許可申請書を提出した・・・(略)・・・放送無線電話に関する規則が制定せられたので、大正十三年二月廿三日、またまた市は放送無線電話施設の出願をなした。・・・(略)・・・東京市電気研究所では、放送出願と同時に、研究ならびに放送用として、無線電信電話の送受信機をG.E.会社に注文した(しかし逓信省の方針変更で申請が東京放送局に一本化され断念した)。それが震災後になってようやく到着することになったが、逓信省では設備を大震災で失いこの様な試験設備の必要を痛感しておられたが、適当なものがなかったので、電気局長の決裁を経てこれを譲ることになった。』 (高田実, 鯨井博士と東京市電気研究所, 鯨井教授の研究と発明, 故鯨井恒太郎教授記念事業委員会, 1936, pp156-157)

大正13年の春より逓信官吏練習所無線実験室が始めたラジオの実験放送は東京市電気研究所から譲ってもらったGE製送信機で行なわれたそうです。そして東京市電気研究所に新たに送信機が到着しましたが、局舎が建設中で東大の研究室に仮置きし研究していたところ、今度は東京放送局JOAKの仮放送用に貸し出されました。

『・・・(東京)放送局は放送機械がなく、またすぐに購入する時間的余裕がなかったから、またまた東京市電気研究所に放送機械の借入を申込まれた。これを使用して芝浦で試験放送が行なわれたのが、大正十四年三月一日より大正十四年七月十二日に至る間の仮放送期間であった。東京市はただこの間機械を貸したのみで、別段放送の仕事をしたのではないが、鯨井博士の先見による計画が、不成立に終わりながら、陰ではやはり放送と離れない因縁にあったのは面白いことである。この機械は今も研究所の実験室の一隅にあるが、これを見るたび筆者は奇妙な思出を感じる。』 (高田実, 前傾書, 1936, pp157-158) 【参考】 最終的には電気研究所のこの送信機は日本放送協会へ譲られて、現在は愛宕山の放送博物館1Fに展示されています。興味ある方はどうぞご訪問ください。

22) 5月17日 辻本信夫氏が逓信省の書類審査パス

東京逓信局の国米氏の短波局はともかくとして、個人で安藤氏、有坂氏、楠本氏の次に逓信省による書類審査をパスできたのは東京の辻本信夫氏です。1927年(昭和2年)5月17日に電業第1420号で海軍省と陸軍省に辻本氏の波長38m短波実験局を免許することに支障がないかを照会しました。

5月24日に海軍省より『異存なき候』との回答書(軍務二第150号の2)がきましたが、その欄外には田中東京海軍無線電信所長の『十「ワット」位ニテモ相当ノ通達距離ヲ有スルナラン 妨害ヲ蒙ムルト●●●●ト思考ス』(●は私が読めなかった文字)という書込みがあり、さらに『本件ハ七月一日以後実験ヲ開始スルコトニ取計イシ度 (六月三十日迄 ●通信試験 波長三十七米)』(●は私が読めなかった文字)とかかれた附箋がつけられました。

辻本氏の装置場所が赤坂区台町で、海軍省(東京海軍無線電信所)と近いこともあったのでしょう。6月30日まで海軍が波長37mで通信試験をやるので、それが終わるまで待って欲しいとの要請でした。辻本氏には波長38m出力10Wが予定されていたためです。逓信省では辻本氏への免許発行を7月以降に延ばすことになりました。しかしこの後、何か辻本氏の都合なのか、逓信側の都合なのか、免許は伸びに伸びて10月になってしまいました。

辻本氏の申請は無線電話たったので、アルファベットの呼出符号ではなく「辻本信夫」という呼出名称だったこともあり、アマチュア界ではあまり注目されていませんが、この海軍の通信試験さえなければ、実は有坂氏・楠本氏についで免許されてもおかしくない状況下にあったわけです。辻本氏の経歴について私は存じ上げませんが、当時はやりの秘密通信(秘話)の研究をされており、やはりこの時期にその特許を取られています。

23) 6月9日 草間貫吉氏が逓信省の書類審査パス

辻本信夫氏の次に逓信省の書類審査をパスできたのは大阪逓信局が送って来た草間貫吉氏の施設願いでした。逓信省は1927年(昭和2年)6月9日に電業第1618号で海軍省と陸軍省に草間氏の波長38m出力10Wの短波実験局を免許することに支障がないかを照会しました。

6月13日に海軍省より『異存なき候』との回答書(軍務二第180号の2)がきました(陸軍省からの回答もあるはずですが私は見つけられませんでした)

(クリックで拡大)

さて不思議なことに逓信省は草間氏への免許をこのあと三ヶ月間も保留にしています。はじめから保留にするつもりなら、この時期に軍部へ照会しないはずで、少なくともこの回答が来た6月中旬頃までは免許を出すつもりだったのでしょう。そして逓信省がいざ免許を出そうとしたところ、何かが起きた(気付いた?)と考えられます。どうやら1927年(昭和2年)7, 8月は辻本氏・草間氏の免許発行がストップしただけでなく、草間氏のあとに続くはずだった他の申請者の審査もすべて止まってしまいました。

ひとつの可能性として考えられることがあります。3月29日の電業第579号で、各逓信局は短波の不法施設の取締りをするように逓信省より求められましたが、その監視・監督用の短波受信施設の用意が遅れていたのかも知れませんね。逓信省としては免許するのを、逓信局の監視体制が全国で整ってからにすることにしたのではないでしょうか。

24) 英-南アフリカ間 ビーム通信 開業 (7月5日)

1927年(昭和2年)7月5日、マルコーニ・ビーム・システムの英国-南アフリカ回線が商用サービスに入りました。 写真は南アフリカ(Wireless Telegraph Co. of South Africa)のクリフューヴァル(Klipheuval)送信所です。300フィート(90m)高のマストが650フィート(200m)間隔で並んでいます。南アからの送信は呼出符号VNBで昼間波長16.077m(18.660MHz)、夜間波長33.708m(8.900MHz)を使いました。また英国ボドミン局からは呼出符号GBJで昼間波長16.146m(18.580MHz)、夜間波長34.013m(8.820MHz)を用いて二重通信を行ないました。

『 The recent successful tests with the South African beam service showed that, using two wavelengths, the two stations are capable of carrying on a high speed duplex service between London and Cape Town for the greater portion of the day and night, although the contract called for only eleven hours per day. It is estimated by the Marconi Company that the stations are able to handle 160,000 words per day in each direction.

The transmitting and receiving stations in this country are situated at Bodmin and Bridgwater respectively. The African transmitter is at Klipheuval, thirty miles north-east of Cape Town, while the receiver is at Milnerton, five miles north of the city.

The exact wavelengths of the English station are 16.146 metres (day service) and 34.013 metres (night service). The African wavelengths are 16.077 and 33.708 metres for day and night respectively. 』 (By Beam to Aouth Africa, Wireless World, July 6th 1927, p21)

また「ラヂオの日本」10月号を引用します

『英国と郵政庁との契約によりマルコニー会社の手によって建設中であった対南阿(南アフリカ)間ビーム式無線電信局はその後完成され、郵政庁の七日間の公式試験を経ていよいよ七月四日合格。ビーム式による英本国対植民地間の直通無線網として既に開通した対加奈陀(カナダ)及び対豪州(オーストラリア)に次ぐ三番目の開通である。対印度(インド)局も来月中には開通の運びとなるであろう。

マルコニー会社の発表によれば同局は一方向一日約一六〇,〇〇〇語を送信し得る可能があり、七日公式試験では高速度二重で毎分百語以上、平均毎日一七時間五〇分通信可能を示し、南阿(南アフリカ)へは毎日ニニ時間、英国へは毎日二〇時間良好な業務を行い得た。これによって英国南阿(南アフリカ)間のロンドン、ケープタウン間の通信は非常に迅速となる見込みである。

英国に於ける局は対加奈陀(カナダ)と同一敷地にあり送信所はボドミンに、受信所はブリッジウォーターにある。南阿(南アフリカ)局は送信はクリフューヴァル(ケープタウンの北東三〇哩(マイル))に、受信所はミルナートン(同市の北方五哩(マイル))にある。使用波長は昼夜によりことなり、英国側は一六・一四八(18.580MHz)及び三四・〇一三米(8.820MHz)、南阿(南アフリカ)側は一六・〇七七(18.660MHz)及び三三・七〇八米(8.900MHz)である。(エレクトリシアン、一九ニ七、七、八)』

25) 英-インド間 ビーム通信 開業 (9月6日)・・・世界無線網完成

1927年(昭和2年)9月6日、マルコーニ・ビーム・システムの英国-インド回線が商用サービスに入りました。インド(Indian Radio Telegraph Co.)からの送信は呼出符号VNWで昼間波長16.286m(18.420MHz)、夜間波長33.483m(8.700MHz)を使いました。また英国グリムスビーからは呼出符号GBIで昼間波長16.216m(18.500MHz)、夜間波長34.168m(8.780MHz)を用いて二重通信を行ないました。写真はインドのカーキ(Kirkee)送信所です。

『八月二十五日マルコニー無線電信会社取締役にして社長代理のエフ・ヂー・ケラウェー氏が新聞紙上に発表したところによれば、マ会社が郵政庁の注文によりグリムスビー及スケグネスに建設中であった対印度(インド)ビーム式無線局は既に完成し、過日郵政庁が施行せる公式通信試験においては七日間にわたり英本国と印度の高速度通信に合格した由である。これで英本国とカナダ、豪州(オーストラリア)、南アフリカおよび印度(インド)を短波長ビーム式無線電信により連鎖せんとする、いわゆるイムペリアル・スキームなる世界無線網の計画はこのたびの成績により完成された訳である。政府とマルココニ会社の契約によれば英本国と印度間の直接通信に使用すべきビーム局は、毎日平均十二時間を通じ、毎分少なくとも一〇〇語の通信速度で送信と受信とが同時にやれるものでなければならないのである。

ところで公式試験の結果によると前記の条件を超越して毎日十八ないし二十時間を通じ、毎分一三〇ないし一五〇語の通信が保障されたのである。この成績によればビーム式による対印度(インド)通信は送信受信各別に一日約一八〇,〇〇〇語の通信容量があると見積もる事が出来、かつビーム式を使用すればモンスーン季節に於いても空電の妨害を避けて通信し得るゆえ、はなはだ有利である。・・・(略)・・・

さて対印度(インド)通信のビーム送信局はグリムスビーにあり、受信局はスケグネスにあるのであるが、これらはロンドン中央電信局と陸線により連絡している。そして送受信機はいづれもロンドンに於いて自動的に操縦できるのである。印度(インド)の送信局はボンベーの東方七五哩(マイル)にあるプーナ付近のカーキ(Kirkee送信所)に、また受信局はプーナの東方四八哩(マイル)のドンド(Dhondo受信所)に建設されていて、双方共ボンベー中央電信局に陸線連絡している。英国から印度(インド)への送信電波長は一六・ニ一六メートル(18.500MHz)及び三四・一六八メートル(8.780MHz)で、印度(インド)から英国への送信電波長は一六・ニ八六メートル(18.420MHz)及び三四・四八三メートル(8.700MHz)である。

印度(インド)側のドンド受信局の設計は英国側の受信局スケグネスと同じであるが、印刷速度ではコントロールを有線式無線による操縦法を採用している。すなわち普通の電信信号の代わりに無線周波数を陸線に通じて信号を送るのである。周波数は適当に選んで数種のコントロールに使用している。(エレクトリシン 一九ニ七、九、ニ -K)』 (英国ビーム式世界無線網の完成, ラヂオの日本, 1927.11, 日本ラヂオ協会, p60)

26) 逓信省工務局と安藤博氏の特許係争

逓信省工務局の中上係長は積極的に特許戦略を進めていました。

『中上さんは・・・(略)・・・日本の無線機器製造工業を育成する上に大きな功績を残したこと銘記したい。また外国特許に押さえられて国産化ができなくなることを考えて、早くから無線係内に特許専門の部署を設けて、ここに稲波技師以下のベテランを配し、内外の無線関係特許を詳細に調査するとともに、部内から新しいアイディアを募り、逓信省関係者で無線に縁のある発明考案がなされたときは逓信大臣の名において直ちに特許登録の申請をさせるかたわら、不当と思われる出願の公告に対しては、徹底的に異議の申し立てを行わせたので、日本の無線製造工業は無形でかつ側面的ではあったが、この面でも莫大な援助を受けたのである。』 (河原猛夫, 国産機器愛用の新年, 故中上豊吉氏記念事業委員会, 1962, 電気通信協会, p142)

その工務局が逆に特許権侵害で訴えられかねない状況になったことがあります。

『短波の初期において、自励振動を安定的に発生するために絶対有利とされていたプッシュ・プル発振回路は自分の特許であるから特許使用料を支払えという申し立てを安藤某から受け取ったときなどは、中上さんも非常に困ってメーカーともいろいろと協議を凝らしてその対策に苦労したが、当時の無線界ではプッシュ・プル回路が外国雑誌に古くから発表されていて、すでに日本では公知の事実であると考えられていたので、安藤の申し立てはなんとしても納得できなかった。』 (河原猛夫, 前掲書, pp142-143)

27) 1927年(昭和2年)9月7日 草間貫吉氏(JXAX)免許

草間貫吉氏に電業第2561号(昭和2年9月7日)でJXAXが免許されました。下図は海軍省に免許事実を通牒したものです。官報には3日遅れの9月10日に告示されています(昭和2年逓信省告示第2002号)。また不思議なことに草間氏よりも先に軍部の了解が得られた辻本信夫氏を追い越しての免許です。何かあったのでしょうか?

アマチュア無線のあゆみ(JARL50年史)には『昭和2年[1927年]9月10日、告示第2002号をもってJXAX草間貫吉氏にわが国で個人の短波私設無線電話無線電信実験局が初めて許可された。』(p70)とありますが、これは誤解を招きかねない表現です。官報告示はその時々の逓信省の都合により、免許日の数日後から数カ月後に官報で告示される為、9月10日という日付には本質的な意味は有りません。国民のみんなに知らせた日。その意味でしかありません。

「アマチュア無線のあゆみ」p58にある有坂氏JLYBの場合には本当の免許日(3月1日)で記していますが、草間氏の場合にはp70で免許日ではなく告示日が採用されています。つまり一貫した基準では書かれておりませんので、読者側でそこを考慮する必要があります。

ちなみに戦前のアマチュア界には本人からの情報提供で作られた「QRA BOOK」(宮井ブック)と呼ばれる立派な局名録があり、ここには戦前OMのみなさんが逓信省から許可が出た正規の免許日で掲載されています。もちろん「QRA BOOK」には草間貫吉氏の免許日は昭和2年9月7日、有坂磐雄氏の免許日は昭和2年3月1日ですので戦前のアマチュア界では各局にそう理解されていたはずです。それが現代では草間氏の免許が9月10日だと誤って伝えられるようになってしまった感があります。

(クリックで拡大)

31) 1927年(昭和2年)10月4, 5日 仙波氏ら7名に免許

1927年(昭和2年)10月4日、逓信省は仙波猛氏(電業第2830号, JXBX)、竹内彦太郎氏(電業第2832号, JXHX)、掘北治夫氏(電業第2833号, JXEX)、角百喜氏(電業第2834号, JXFX)、詠村昇氏(電業第2835号, JXCX)、阿久澤四郎氏(電業第2836号, JXDX)に免許しました。

そしてなぜか一日遅れの翌10月5日に關俊夫氏(電業第2831号)が免許されています。竹内氏の第2832号よりも番号が若いので、手書き原稿としては7人揃っていたが、和文タイピストが7人の免許を順不同でタイプしているうちに終業時刻になってしまい、たまたま關俊夫氏だけが翌日のタイプに廻された?特段の理由はなさそうですので、たぶんそんな話ではないかと想像してみました。

とりあえず七名の免許の先頭ページのみを掲載しておきます。

(クリックで拡大します) 海軍省軍務局の受付印(丸印)の日付を見ても關俊夫氏だけが一日遅いので、逓信省から一日遅れで出されたのは間違いないでしょう。また官報への掲載も他の方は10月7日で、關俊夫氏だけが10月8日でした。

32) 10月19日 笠原功一氏が逓信省の書類審査パス

逓信省は1927年(昭和2年)10月19日、電業第3058号で笠原功一氏の免許の可否を軍部へ照会しました。海軍省は10月25日付け軍務二第319号の2で同意しました。

33) 1927年(昭和2年)10月25日 辻本信夫氏に38m免許

逓信省は1927年(昭和2年)10月25日、電業第1662号で辻本信夫氏に波長38m出力10Wで無線電話を免許しました。呼出名称は「辻本信夫」でした。5月に軍部の了解を得ながらここまで免許が遅れてしまった理由は私にはわかりません。

ところで上にある通り笠原氏への免許可否を陸海軍に照会したのが10月19日で電業第3058号ですが、辻本氏への10月25日付の免許が電業第1662号と若過ぎますね。振返ってみると草間氏への免許可否を軍部へ照会したのが電業第1618号で6月9日でした。6月末には1700番台が使われていますので、辻本氏への免許通牒番号の第1662号は6月に発番されたものと推察されます。逓信内部の手続き上では辻本氏に免許を発行し(発番もされたが)、いざ送付する段で急遽停止されたため、番号だけが残ったのかもしれませんね。

34) 東洋無線JDHB, 同分工場JDOBに短波許可

大正末期における日本の無線機メーカーは安中、日本無線、東京無線、東洋無線、沖電気の五社でした。有線電信電話部品を製造していた吉村照会を母体に、1924年(大正13年)に設立された東洋無線電信電話株式会社(のちの東洋通信)は短波の実用化により短波送信機の需要を見込み、短波長の実験施設の増設(JDHB)と同社の分工場の新設(JDOB)を申請していました。

逓信省の書類審査を通過し、1927年(昭和2年)11月18日(電業第3414号)に波長38m, 78mの出力100Wの使用を海軍省と陸軍省に照会し、海軍省より12月2日に了解(軍務二第346号の2)が得られ、12月14日に電業3641号で免許されました。

35) 逓信省の命でARRL本部を訪問

工務局と安藤博氏との間に起きたプッシュ・プル発振回路の特許係争を解決するために、中上豊吉係長は河原猛夫技手(元J1AAオペレーター)を古くからプッシュ・プル発振回路の記事の掲載例があるQST誌を発行するARRL本部を訪問するよう命じました。

『日米間無線技術者の交換派遣のため昭和二年十月 米国へ出張することになった河原技手に命じて米国における実情を調査させた。同技手は米国東海岸方面へ旅行の途次、コネチカット州西ハートフォードのARRL本部におもむき、プッシュ・プル回路の最初の照会記事をのせた同本部発行の機関誌QSTが、安藤の特許申請日よりはるか以前に同人あて直接郵送されていた事実を確認してその旨、中上係長に報告したが、すでに特許登録されているものを取り消させるのは容易のわざでないので、けっきょく話合いで解決し、逓信省としては安藤に特許の支払わないこととしたが、一時はたいへんな騒ぎで、プッシュ・プル回路を使った短波送信機の見学を断ったり、回路を雑誌に発表しない等の措置をとったことがある。このような事件もあって工務局無線係の発明熱は、( 逓信無線研究の総本山である)電気試験所第四部とともに逓信省内でトップを争う勢いで・・・(略)・・・』 (河原猛夫, 国産機器愛用の新年, 故中上豊吉氏記念事業委員会, 1962, 電気通信協会, p143)

なお日本無線史第一巻によれば、これは逓信省とRCA社の技術者交換派遣で、第4回目として河原氏と東京無線電信局の通信事務官であった木村平三郎氏が派遣され、木村氏は翌年3月末日に帰国し、河原氏はサンフランシスコのRCAマーシャル受信所で日本のJAA(原ノ町/長波)とJAN(富岡/16m, 24m, 41m)の受信試験を行ってから、5月11日に帰国されています。

36) 平磯JHBBが無線電話試験の協力を陸軍に要請

1927年(昭和2年)12月10日、電気試験所の高津清所長は試第1981号にて、陸軍省に中国大陸の駐屯地を含めた陸軍無線施設で、平磯出張所JHBBの無線電話を受けてもらえないかと打診しました(左図クリックで拡大)。これは新しく設計した波長37.5m(8.00MHz)の入力2kW 無線電話送信機の性能試験が目的で、試験は12月と1-2月の二回実施されました。

●第一回試験

1927年12月19日(月曜)から24日(土曜)の09:30-10:00, 15:00-16:00, 19:00-21:00

●第二回試験

1928年1月16日(月曜)から2月19日(土曜)

毎週 月・水・金 ・・・ 15:00-16:00, 19:00-21:30

毎週 火・木・土 ・・・ 19:00-20:00

●送信事項

①試験送信符号、送信局符号、「平磯試験所より(中継)」、試験放送中なり、「受信試験通知を乞う」旨(電信および外国語電話)

②蓄音機による音楽

③東京中央放送局無線中継

④次回送信時刻そのほか研究上必要なる事項(電信および外国語電話)

(←クリックで拡大) 電気試験所は支那(中国)駐屯軍、陸軍通信学校、陸軍科学研究所、関東軍(旅順, 奉天)の協力により、大電力短波長無線電話の貴重な試験データを得る事ができました。

2回目の試験は英国のWireless World誌(1928年2月1日号)で告知されたため、平磯JHBBの名は世界の短波ファンに知られるところとなりました。記事中『Reports will be welcomed』としたこともあってか、試験終了後も世界の短波ファンがJHBBの37.5m波(8.00MHz)を探索するようになりました。

『The Hiraiso Radio Laboratory, Ibarakiken, Japan, whose call-sign is JHBB, is conducting a series of radiotelephony tests on 37.5 metres, which began on January 16th and will end on February 17th. Gramophone music and rebroadcasting of the programs from JOAK, the Tokyo Central Broadcasting station, are transmitted on Monday, Wednesday, and Friday of each week at 0600 - 0700, 1000 - 1300, and 2200 - 2300 G.M.T. The input to the aerial is 1 -2 kW. Reports will be welcomed and should state the strength of signals, fading, clearness, and quality of signals, atmospherics, and other noises, weather conditions and general remarks. The type of receiver and dimensions of the aerial used should also be stated. Mr. C. A. Jamblin (6BT) has kindly undertaken to coordinate reports from British listeners, and these should be sent to him at 82, York Road, Bury St. Edmunds, Suffolk. 』 (Telephony Tests from Japan, The Wireless World and Radio Review, February 1st,1928, p122)

平磯JHBBはこの試験で自信を得て、このあとJOAKのサイマル短波放送を続け、多くの海外短波ファンから受信報告を得ました。Radio News誌(1928年4月号)の読者のページにはカルフォルニアのBCLが、高岸氏からの情報だとして平磯JHBBのコールサインがJ1AGに変わったと投稿しています。

37) 個人が開設した短波施設の許可日等一覧表 [おまけ]

前述したとおり「アマチュア無線のあゆみ」ではJLYB有坂氏の免許を逓信省からの許可日(3月1日)で紹介する一方で、JXAX草間氏への免許(9月7日)を逓信省が国民に告示した日(9月10日)で記載していることが混乱の原因となっています。もちろん「アマチュア無線のあゆみ」は9月10日が草間氏JXAXの免許日とは全然言っていません。ただこの日に国民に知らせた(告示した)としているだけです。それを「9月10日に免許された」と引用する読者の方に非があるといってしまえば、そうかもしれませんが、あまりに不親切ではないでしょうか?

宮井氏によるコールブック(QRAブック)で分かるように、戦前のアマチュア無線界は免許日を使って来ましたので、それに習い(国民に官報で知らせた日ではなく)、免許日に一本化すべきではないでしょうか。また同書では楠本氏が有坂氏と同日許可のようにも受取れる記述がありますが、これも違います。

草間氏JXAXの許可日は(誤)9月10日→(正)9月7日です。また楠本氏JLZBの許可日は(誤)3月1日→(正)3月24日です。

ということですごくアマチュア無線の歴史が混乱していますので参考資料として、大正15年(黄色部分)から昭和2年に掛けて短波を許可された14名の方々の正しい免許情報の一覧表をまとめました。残念ながら現在のところ笠原氏への許可通牒が発見できておらずJXIXの許可番号だけが不明です。(見つかり次第、更新させていただきます)

① 許可された日付順に並べました。同日の場合には許可番号順としました。

② 1番の安藤博氏の場合は大正12年に許可を受けたJFPAに対する短波設備の追加変更が許可された日(大正15年10月8日)です。

③ 3番の楠本氏に許可された執務時間から、これは個人的な免許のように感じます。4番の国米氏は不定でした。

④ 22:00-24:00が多い中、有坂氏、楠本氏、阿久澤氏が23:00までですので、全員に共通した執務時間は22:00-23:00の一時間だけでした。

⑤ 12番の関氏は許可番号では仙波氏の次ですが、なぜか翌日に廻されました。

⑥ 13番の辻本氏の許可番号は国米氏の次に当たりますが、事情があったようで10月25日まで遅れています。

⑦ 戦前は施設願い施設許可(許可日)→検定試験(戦後でいう落成検査)→検定合格(戦後でいう本免許)→開局届け(開局日)という手順を踏みました。本表の開局日の欄は日本の無線局の管理原簿を持っていた逓信省工務局が毎年まとめていた「本邦無線電信電話局設備一覧表(昭和6年3月末現在)」によりました。

執務時間については当初各地方逓信局で決めていましたが、1927年(昭和2年)10月に再考されて、全国統一することになり順次適用されました。

『実験時間も各逓信局において附近の一般通信に支障なき時間を指定せしめたのであったが、ラジオ放送聴取者等に疑義を生ぜしめた事例もあり、昭和二年十月三日電業第二九〇〇号を以って実験時間を左の通り統一することとなった。

午前 自二時,至四時、自六時,至八時、自十時,至十二時

午後 自二時,至三時、自四時,至六時、自十時,至十二時

右の時間は当時のラジオ放送の合間の時間で、この実験時間の制限は相当長く続けられた。』 (電波監理委員会編, 日本無線史第四巻, 1951, p534)

38) 戦前の官報から許可日を知る裏技 [おまけ]

戦前の官報は、その無線局の許可日や許可番号を開示していません(官報告示の日付けや番号は、許可日や許可番号ではありません!)。たとえば昭和2年3月1日に許可された有坂氏(JLYB)の無線施設が官報で告示されたのは4月5日で、なんと一ヶ月以上も経ってからです。つまり官報の日付は、特に意味のない"皆に知らせた日"であって、免許日ではないのです。

戦前の官報を情報の引用・出典元に使うときには「この日に許可された」と書かず、「この日に告示があった」とする必要があります。しかしそれでも読み手は「告示日」を、「許可日」として思い込むケースがあるため、情報発信する際にはできれば「許可日」を示したいものです。

戦前の官報から間接的に許可日を知る「裏技」が使えるケースがありますので参考までにご紹介しておきます。

下図は1929年(昭和4年)12月29日の官報(昭和4年 逓信省告示第3482号、第3483号、第3484号)で複数の法2条第5号施設の廃止が告示されています。

無線局が廃止になるのは(法令違反による取消し処分を別として)、本人から廃止届けが出された場合と、延長願いを出さずに免許期間満了した場合です。下図でいうと第3482号が前者で、第3483号と第3484号が後者になります。戦前は免許期間は1年間で、それを毎年、延長していました。それでは廃止日と許可日を比べてみましょう。

● 昭和4年5月6日に廃止された国米氏(JMPB)→ その許可日は昭和2年5月6日

● S.4.10.4 廃止の仙波氏(J1DA ex JXBX)→ S2.10.4 許可

● S4.10.5 廃止の関氏(J1DC ex JXGX)→ S2.10.5 許可

● S4.10.5 廃止の竹内氏(J1CW ex JXHX)→ S2.10.4 許可

● S4.3.24 廃止の楠本氏(J1CU ex JLZB)→ S2.3.24 許可

● S4.10.15 廃止の高瀬氏(受信のみ)→ S3.10.15 許可

そうです! 免許期間満了による廃止の場合に限りますが、廃止日から許可日があぶりだせるのです。

もう一例挙げておきます。下図は1928年(昭和3年)12月17日の官報です。

有坂氏JLYBと掘北氏JXEの廃止が告示されています。「廃止の旨届出ありたり」という文言ではないので、期間満了によるものです。

● S3.3.1 廃止の有坂氏(J1CV ex JLYB)→ S2.3.1 許可

● S3.10.4 廃止の堀北氏(J1CX ex JXEX)→ S2.10.4 許可

【参考】 有坂氏は1929年(昭和4年)5月13日に許可番号:電業第1225号で再び許可を受けました。

「アマチュア無線のあゆみ:日本アマチュア無線連盟50年史」(P58)には以下の記述があります。

そのため楠本氏(JLZB)の許可日が3月1日だと誤って伝えられるようになりましたが、このように官報の廃止告示を見ることで、JLZBの許可日は3月24日である事がわかります。

28) なぜ突然「JXAX」というコールサインになったのか?

まずは1927年(昭和2年)11月2日付けの電業第3239号「無線電信不法施設取締ニ関スル件」をご覧下さい(下図)。

『仙台逓信局ヨリ 左記不法施設ト認メラルル短波長無線電信ヲ受信シタル旨 報告有之候ニ付 不法施設取締上 一応当該無線電信ハ貴省所属ノモノニ非サルヤ承知致度 及 御照会候』

仙台逓信局が不法無線施設だと思われる次の通信を受信しましたが、念のためお尋ねしますが海軍省の無線局ではないですよね?という問い合わせです。

◆10月6日, 01:11に波長42mで「MAR」が「JUR」と邦字通信。

◆10月7日, 22:55に波長42mで「IM」が「AT」と邦字通信。

◆10月9日,22:00に波長45.4mで「HY」が「ZK」と邦字通信、22:08に波長44.8mで「ZK」が「HY」と邦字通信、22:33に波長46.7mで「JKH」が「JQA」とイタリア語らしき通信。

◆10月11日, 20:59に波長44.8mで「YA」が「TS」と邦字通信。

各逓信局では逓信省より発せられた3月29日付け電業第号579号で不法施設を監視・取締するよう命じられたため、短波の受信施設を建設しました。いざ短波を受信してみると、正体不明の電波が次々受かったことでしょう。

戦前は逓信省・海軍省・陸軍省が所管する無線局の許認可権を有し、呼出符号もそれぞれが自由に決めていました。ただし公衆通信(電報)を送受するときだけは、ロンドン条約の無線規則に従い「J」から始まるコールサインを使う義務があるので、それぞれ自省分配枠内でJコールサインを決めていました。最終的には逓信省が代表して3省のJコールサインをベルン総理局へ送り、国際登録していた関係上、Jコールサインについては逓信省でも把握していましたが、公衆通信しない時の海軍省や陸軍省のコールサインは全く分からない状態です。

特に和文電信で交信する局は間違いなく日本の局とみられ、和文でなくても見知らぬJコールなら不法施設の可能性が高いと判断し、これらは海軍局?と確認したようです。

この書類はたまたま見つけましたが、逓信局は全国七つありますので、準備を終えた時期は各局それぞれで、もっと早い時期からこのような電波監視上の不便さが浮き彫りになったでしょう。「J●●A」、「J●●B」を使い切り、「J●●C」コールへ移ろうとしていた時期です。

今はまだAコールの安藤氏JFPAと、Bコールの有坂氏JLYB, 楠本氏JLZBの三人だけですが、もし将来アマチュア局が増えた場合に、いちいち局名録を見ないと一般局かアマチュア局かが区別つかないのは監視上きわめて不便であると考えたのではないでしょうか。そこでXコール「J●●X」を指定することにしたと想像します。これまでも実験局にはXA, XB, XC・・・という2文字コールを発行したことがある逓信省は、今回も●●にはXA, XB, XC・・・を充てました。

29) 岩槻/検見川の標準電波の開始と短波監視業務

上記の書類の波長表示ですが、昨年までと較べて、波長45.4mだとか、波長46.7mだとか、急に測定分解能が上がっています。これは1927年(昭和2年)秋より、岩槻受信所から検見川送信所にある送信機を遠隔制御し、毎週土曜日に標準電波を発射し、全国の電波計(波長計)を同一基準で較正させ、短波受信機の受信波長をある程度の確度で知ることが出来るようになったためです。

『逓信省が標準周波数電波を送出したのは昭和二年 東京無線電信局岩槻受信所から行ったものを嚆矢とする。もっともこの標準電波の送出は各逓信局無線検査官の使用する電波計の較正に資する事を目的としたものであって、一般には公表されたものではなく、その送出回数も最初の内は一週間土曜日一回だけに限ったもので、その後一週間に二回送出するに過ぎなかった。』 (電波監理委員会編, 日本無線史第二巻, 標準電波, 1951, p407)

詳しくは標準電波の歴史のページをご覧下さい。

30) 9月8日 仙波氏ら7名を海陸両省へ一括照会

逓信省は草間氏へ免許を出した翌日、すなわち1927年(昭和2年)9月8日に、掘北治夫氏、竹内彦太郎氏、角百喜氏、詠村昇氏、阿久澤四郎氏、仙波猛氏、關俊夫氏の7名を一括した電業第2596号をもって、免許しても良いかどうかを海軍省と陸軍省へ照会しました。

一気に七名分を照会したのですから、いかにも「溜めに溜めていた」という感じですよね。とにかく免許を出すのを躊躇する事情がようやく解消し、草間氏への免許手続きと、審査をパスしていた七名の照会手続きを再開したのでしょう。

海軍からは9月14日付け(軍務二第274号の2)で、これまた一括して了承回答がありました。