VHF電話回線開通

仙台逓信局との共同実験で着実に実績を積み上げてきた宇田式超短波無線電話はついに山形県酒田と日本海の孤島飛島間の公衆通信に採用されることになりました。

1933年11月21日、我国の公衆通信網、史上初となる超短波による酒田-飛島回線が開通しました。コールサイン(呼出名称)はそれぞれ「酒田」「飛島」です。この回線では東北帝大で開発された「八木・宇田ビームアンテナ」が初めて実用化されたものとしても有名です。八木教授の特許使用権はこれを受注した日電商会が八木・宇田アンテナの特許を使用するための交渉を請け負ったものと想像します。

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52) 山形県酒田-飛島 日本初のVHF公衆通信 (1933年11月21日)

1933年(昭和8年)11月21日、仙台逓信局は公衆通信(電話)用超短波としては我国初となる酒田-飛島間で業務を開始しました。コールサインは「酒田」、「飛島」でした。

【参考】 1945年(昭和20年)8月、対植民地通信を役目としてきた千葉県の検見川無線が、ポツダム宣言の受託で業務を停止したため、検見川無線に割り当てられていたJYシリーズのコールサインが空き家になっていました。そして1946年(昭和21年)8月29日の対日指令SCAPIN第1166号で我国のすべての無線局がマッカーサー元帥の承認局になった際に呼出符号JYA(酒田)、JYB(飛島)が付与されました。

無線機は仙台の日電商会で設計・製作され、酒田・飛島の両郵便局に同じものが設置されました。周波数39.000MHz(酒田送信)と34.000MHz(飛島送信)による同時送受信式で、空中線出力10Wの送信波が受信部側に回り込まないように6つのブロックに分けて厳重にシールドされています(左図[左])。

宇田式超短波無線電話機の特徴である「呼出回路」の働きにより、相手の電波が到来すると交換機の着信表示灯とベル音で着信を知らせます。交換台の着信表示灯がつくと、オペレーターが当該ジャックにプラグを差し込み、こちら側も送信が始まり、同時通話状態になります。有線電話回線への接続には平衡結線網を用いて、飛島から仙台と東京への遠距離電話試験が何度も繰り返されましたが、何ら問題は起きませんでした。

相手の電波が停波すると受信機からクエンチングノイズが発生しますが、これがしばらく続いてから動作する遅延リレー回路で「終話表示灯」をつけました。この他に電話業務以外の特殊用途にも対応できるよう、1000Hzの可聴発振器による可聴モールス電信が発射できます。

電源はすべて蓄電池によりまかなわれました。酒田局では電燈線を整流して充電できますが、飛島には電気がないため石油エンジン式400W発電機で充電しました。これまで飛島郵便局では夕方になるとランプを使っていましたが、今回無線機の蓄電池から電球を光らせ明かりをとったところ、それが島内の評判になったそうです。

『なお飛島郵便局はこれまで石油ランプを使用していたが、エンジンの使用、その他につけて危険かつ非常に不便なので、八ヴォルト球を二個ほど電池より点じたところ、これが島内の評判になった程に文化の行き渡らない地であるから、酒田と話の出来るありさまを島民の大部分は不思議の眼をもって見守っていたほどである。』 (高瀬芳卿, "酒田、飛島間の超短波無線設備" 『逓信協会雑誌』, 1933.12, 逓信協会, p31)

酒田郵便局から酒田市内の加入者線に接続されたため、酒田の電話加入者は自宅から飛島と通話できましたが、飛島島内には電話線は敷設されず、島民が飛島郵便局内の電話所に出向いて通話する方式です(なおこういった光景は飛島だけに限るものではなく、昭和40年代まで、日本の各地で見られました)。

一年前に東北帝国大学の宇田助教授・有坂氏・関知氏(詳細な時期は不明ですが、1933年前後に日電商会へ就職)がこの地でVHF試験を行い、その実用化のめどが立っていたにも係わらず、なかなか性能が出せなかったようです。当初、8月には業務開始が見込まれましたが、11月21日まで延びていました。その一番の原因は酒田局付近の都市雑音でした。

『実験中しばしばかなりの雷雨に遭遇したが、通話が全く不可能に陥るようなことはなかった。空電、すなわちその最も顕著なりと考えられる雷雨中においても通話がまず可能であることは超短波の一台特徴であると言わなければならない。しかし局の付近にある医院等よりのX線、デアテルミー(超短波治療器)から受ける妨害は雷雨に次ぐ激しいもので、連続せる雑音の混入は通話にかなりの悪い影響を及ぼすものであることが認められた。』 (高瀬芳卿, 前傾書, p32)

日電商会とともに建設工事を担当した仙台逓信局の小原氏も次のように総括されています。

『工事上もっとも苦心したのは受信機に対する雑音妨害の点である。工事の最初は到来電波の強度も充分ならざりし為、(弱電界時に発生する超再生)受信機固有の雑音が発生するばかりでなく、附近かたの混入雑音も実に強烈であった。それは電話機械装置、電信機械装置、電気医療機、発動機のイグナイター、電燈電力線および無線電信よりの混信等が主なるものであったが、これら順次解決して行ったが、医療機では大分痛い目にあった。種々やってみて結局金網で医療室全体をシールドして目的を達し得た。』 (小原武顯, "超短波無線施設に就て", 『GS NEWS』, 1934.11, 日本電池, p3

53) 八木宇田アンテナ 日本初の実用化(酒田-飛島回線)

酒田-飛島回線の建設計画では垂直ダイポールとなっていました。それは1年前の東北帝大の実験では垂直ダイポールだったからです。しかし宇田氏は電気学会の論文で将来の実用化の際には三角反射器を使用することを提案しています。その論文(1932年11月)を振り返ってみます。

<実用化の時には「反射器付ダブレット」型を推奨>

宇田氏らは論文中において、将来「飛島-酒田」回線が実用化される場合のアンテナを提案されました。

まず左図第15図のように支柱を3本建てて、「R1,R2,R3」の3エレメントからなる反射器を下げます。そしてR1-R2間に張ったメッセンジャー線の中央から垂直ダイポールを吊り下げれば安いコストで指向性アンテナが構成できるというものです。3本の支柱を建設するだけでビームアンテナになります。

また左図第16図のように送信用と受信用アンテナを二階建てにして、コストをさらに抑えてはどうかというアイデアも発表されています。三本の支柱の高さは二倍以上になりますが、送受で6本の支柱を建てるよりも安かろうというものでした。

『将来建設の場合は反射器導波器を使用すれば猶よろしい。

第十五図のごとく3本の反射器を使用すれば,送信受信各々3本のPoleを立てれば済むと思う。 なお第十六図に示す如く同 じ電柱に送信,受信アンテナを架設する事にすれば場所は一層、節約できるわけである。』 (宇田新太郎/小原武顯/有坂磐雄/關知四朗, 超短波に依る離島と本土間の通話試験に就いて, 電気学会雑誌, Vol.52-No.536,1932.11, p871)

ここで宇田氏の三角型反射器について補足しておきます。

<宇田氏の論文にある三角型反射器について>

宇田氏は大正15年の電気学会の論文"短波長ビームについて(第二報告)"(1926.5)で三角型反射器Trigonal Reflector)について発表しました。その後、"第三報告"(1926.7)から"第六報告"(1927.4)で三角型反射器に関連する研究を次々と発表しました。

電波の放物反射鏡は19世紀のヘルツの時代より利用されてきましたが、現実問題として建設に難がありました。宇田氏はその簡略化に取り組まれ、左図の三角形の各頂点および辺ABの中点Cの計5つのエレメントを配するだけで、放物配列とくらべても大差ない性能が得られ、建設を簡便にできるとしました。これに導波器を並べたものが八木宇田アンテナですが、このように最も初期の反射器は5本のエレメントでした。

そして反射器の簡略化は更に進み、、(左図のC点をも省略した)A-B-Aの3エレメント式の三角型反射器へと進化して行きました。戦前の八木宇田アンテナはこの3エレメント式三角型反射器が一般的です。宇田氏は酒田-飛島回線には(導波器なしの)3エレメント式の三角型反射器アンテナが建設コスト面から最適だと考えたようでした。

<実用化第一号の八木宇田ビームアンテナ>

さて話を戻しますが、酒田局では都市雑音が多く、安定的な回線を確保するのにとても苦労しました。雑音源の根絶と平行し、受信面も手を加えました。最初の設計では超再生ノイズの空中への輻射を防止する意味から、受信アンテナと受信部(超再生検波部)の間に無利得のバッファーを一段入れていました。超再生検波部の同調回路だけでは特性がブロードで、周囲のノイズを受けやすいことがわかり、このバッファー回路を同調式の高周波増幅回路へ改造したところ状況の改善がみられました。

次にアンテナには宇田氏が提唱する三角型反射器(3本)が試され、さらには5/8波長を離して導波器(1エレ)も追加し、ようやく実用的な回線とすることができました。左図はその水平面のビーム特性で、利得はダイポール比で6.9dBと測定されました。そして受信用ビームアンテナを送信用ビームアンテナの斜め後方に設置したところ、同時送受信において、5MHz離れた送信波の影響はなくなりました。

下図は日本ではじめて実用回線に用いられた酒田郵便局の八木宇田アンテナ(垂直偏波)です。

この写真では屋根上の構造物(アンテナ)がよく見えませんので、開局時のアンテナ配置図の方をご覧下さい(R=反射器、A=輻射器、D=導波器)。送信用の方が小型なのは酒田局の場合、送信が39.000MHz(波長7.69m)で、受信が34.000MHz(波長8.82m)だったからです。エレメント長ですが反射器を1/2波長、輻射器を1/2波長の96%、導波器は1/2波長の90%としました。

下図が酒田の送信アンテナと受信アンテナの拡大写真です。木製柱で立体に組合せしっかりと屋根に乗る構造の八木宇田アンテナです。飛島では地面に櫓を建設して、そこに八木宇田アンテナを構成しました。現代の私たちが目にする八木宇田アンテナとはいわゆる魚の骨のような"平面的"なイメージなのですが、戦前の八木宇田アンテナの外観上の特徴は三角型反射器により、"立体的"な構造でした。

なお八木宇田アンテナ特許の日本での実施権ですが、日電商会が独占的に八木氏と契約できていたかについては私は調査できていません。

つづく>> (1933年6月~10月)「日電電波工業」のページへ