コールエリア番号

1) 戦時体制下における電波行政当局の変遷。

太平洋戦争の真っ只中1943年(昭和18年)11月、巨大組織だった逓信省が整理解体され、電波行政については運輸通信省通信院が引継いだ。さらに敗戦色が濃くなった1945年(昭和20年)5月には内閣所属部局として逓信院BOCが設置され、ここが無線を取り仕切ることになった。そして8月15日、我国はポツダム宣言を受諾。9月2日、東京湾上の米艦ミズーリ号で降伏文書に調印した。

1945年9月3日、対日司令SCAPIN第2号により、「日本の全ての無線局は(占領軍による電波行政方針が定まるまでの間)現状固定せよ」と発令された。

日本の電波行政当局、すなわち逓信院BOCが勝手に無線局の開設許可を与えることができないのは当然として、変更や廃局についても、GHQ/SCAPの民間通信局CCSの許しを得なければ出来なくなった。

2) 実験局のコールサインを決めるにあたり、エリア番号が問題に!

1946年(昭和21年)5月27日、逓信院BOCは学術的な電離層や伝播伝播の研究用に新たな周波数を日本帝国政府に分配して欲しいとGHQ/SCAPの民間通信局CCSに願い出た(この話題については後ほど詳述する)。

GHQ/SCAP民間通信局CCSはこの要求に応じ、いくつかの周波数を日本政府へ追加分配した

しかし逓信院BOC学術研究のための実験局許可書を交付するにあたり、その実験局のコールサインを決めないといけないが、実験局のコールサインJ2AAなどの2という番号(District Numbers, エリアナンバー, 地域番号決め方が問題になった。

左図は従来のDistrict Numbers(エリアナンバー, 地域番号)日本本土27番の部分である。この他に朝鮮・関東州を8番、台湾・南洋群島を9番として、実験局やアマチュア局のコールサインを指定してきた。

【注】第4回マドリッド国際無線電信会議において実験局のコールサインには数字の0(ゼロ)と1(イチ)を使わないことが決まったため、当時の1エリア(関東+静岡)の1という数字は廃止となり、中部北陸の旧2エリアと合併された。

旧2エリアの局はサフィックスのC~Fを使い続け、サフィックスG以降が旧1エリアの局に指定変更された(さらにのちに東北6エリアの新潟が、新2エリアに入り左図となった)。

しかし1946年1月29日の対日司令SCAPIN第677号で、日本の行政権の及ぶ範囲を「本土4島とその周辺の島々に限定する。」としており、逓信院BOCは古いDistrict Number(エリアナンバー, 地域番号)の8番朝鮮・関東州)、9番(台湾・南洋群島)を廃止して、新しい日本本土で使うことにした

3) 占領下の日本のコールサインの地域番号(昭和21年5月 逓信院BOC制定)

1946年5月、逓信院BOCは縮小された新しい日本を2から9の8エリアに分割した、新しいDistrict Number(エリアナンバー, 地域番号)を決めた。これが戦後初のものだ。

2桁の小さい番号が電波行政上の(後述する)都道府県番号、1桁の大きい数字がDistrict Numberである。

従来のものとの違いだが、まず広すぎた2エリアから9エリア(関東・信越)を分離独立させたこと。そして従前は大阪逓信局3番と広島逓信局4番で四国を分割していたが、四国を独立させた点が異なる。

4) コールサインJ8, J9 を本土に引揚げたら事件発生

戦後の新しいDistrict Numberが決定した。いよいよ占領下時代において、民間通信局CCSの許認可のもとで、逓信院BOCが実験局の許可証を交付できる段取りが整ったのである。

【注】許認可権はあくまでGHQ/CSAP民間通信局CCSにあって、逓信院BOCはその許可書を申請者に交付する役割のみである。

日本の逓信院BOCとしては日本国から切り離された地域が、今後独立するのか、他国に吸収されるかなど一切の情報について知る立場にはない。ただはっきりしていたのは日本国の行政権の及ぶ範囲が本土4島と、ごく周辺の小島だけ縮小されたことである。

沖縄では日本から行政分離されて3ヶ月も経たない1946年(昭和21年)4月24日に、沖縄民政府が成立して多くの日本人を驚かせた。奄美大島でも軍政下の中、奄美島民による自治政府の準備が進められていた。

また戦地の兵士や、外地や満州にいた民間人が続々と内地へ引き揚げてきた時期であり、日本国政府に電波実験用周波数が特別に与えられた1946年6月は、当時のそういった社会背景を抜いては語れない。戦前より我国に分配されている国際符字の正当な権利者は、本土側の日本国政府なので「J8やJ9のコールサインを内地へ引き揚げる」と逓信院BOCは考えたようだ。

だがこのあと事件が起きた。逓信院BOCは台湾・南洋群島から引き揚げたJ9を関東・信越に割当てたのに、アメリカ太平洋陸軍GHQ/AFPACは進駐軍アマチュア局にJ9を、旧J5エリアの「沖縄民政府」および「北緯30度以南の奄美周辺諸島」に割当てた。さらに朝鮮・関東州から引き揚げたJ8を逓信院BOCは北海道で使おうとしたが、朝鮮半島の南半分のGHQ/AFPACの占領エリアの進駐軍アマチュア局がJ8を使い続けた。

すなわち行政権はこれら外地から分離され(内地に引揚げたが)、コールサインの権利の引揚げは無視され、日本の行政権が及ばない地域(沖縄や朝鮮南部)の進駐軍関係者のアマチュア局と共有させられた。これが当時の力関係の現実だったのだろう。

なお逓信院BOCはこの直後の1946年7月1日に、その名称を開戦前の逓信省MOCに戻した。

5) 無線局のSCAP(マッカーサー元帥)登録番号

日本帝国政府の周波数が決まったことを受けて、実際にその周波数を使う日本人無線局をCCSへ登録する作業が始まった。無事登録されるとSCAP Registry Number(無線局のSCAP登録番号)が付与された。免許番号のようなものと考えると良いだろう。SCAPとは連合国最高司令官すなわちマッカーサー元帥のことである。民間無線局の承認権など電波行政はCCSが握っていたが、マッカーサー元帥に承認された無線局だという形式を重んじる意味もあったのだろう。上記前述の「戦後のDistrict Number 」図中の小さな2桁の数字は、SCAP Registry Numberを構成するために定めた都道府県番号である。

一般無線局のSCAP Regstry Number は「都道府県番号+数字+局種記号」で構成され、船舶局では局種記号Sが中間部に挟まれた構成だった。この番号を見れば送信場所の都道府県名と大まかな局種が想像できる。この番号にすっかり慣れてしまい、1952年(昭和27年)に日本の独立でGHQ/SCAPが去ったあとも、「無線局登録番号」として郵政省で発行され続けた。

さてこの都道府県番号は下表の電波行政単位に決められた。おおむね各エリアの北から順に番号を決めたため、たとえば関東信越エリア(9エリア)は新潟県の10から始まり、東京都は17だし、近畿エリア(3エリア)は福井県の30から始まり、大阪府は34になっている。福井県が近畿エリア(3エリア)に入っているのは以下の理由からだ。

1913年(大正2年)6月の地方逓信官署制の制定に伴い、金沢逓信管理局が廃止され、富山・石川・福井の北陸三県は西部逓信局の管下に入ったが、1919年(大正8年)5月の改正で新たに誕生した名古屋逓信局の管下に組み込まれた。この時代が長く続いたが、戦時下の1943年(昭和18年)11月には新たに誕生した新潟逓信局の管轄に移された。そして終戦直前の1945年(昭和20年)4月7日に設置された名古屋逓信局北陸逓信管理部の管轄エリアを富山・石川の2県とし、福井は大阪逓信局の管下に置かれたためである。北陸は名古屋逓信局と大阪逓信局に分割され終戦を迎えた。この番号は分割時代に定められたため福井が30(3エリア)で、石川・富山が20, 21(2エリア)である。

しかし1947年(昭和22年)5月1日に金沢逓信局に格上げされた時に、その管轄に福井県を含め、北陸の分割は終了した。そのため1947年5月1日以降のコールサインの発給上では、福井県は2エリアに編入されたと考えられるが、この時代に福井県に実験局の免許例がなく実績はない。

【参考】電気通信省が設置された1949年(昭和24年)6月1日、金沢逓信局は北陸電波管理局になった。


  • Allocations of Frequencies to Japanese Imperial Government

日本の無線局の実態調査を終えて、1946年5月10日にGHQ/AFPAC(米太平洋陸軍総司令部:US Army Forces Pacific)は、日本帝国政府に分配する周波数リスト "Allocations of Frequencies to Japanese Imperial Government" を作成した。(左図をクリックで拡大)

日本人の無線局はこのリストにない周波数を使うことはできなくなった。

これはアメリカの電波の二重行政と似たところがある。アメリカではまず周波数を政府局(Governmental)用か、非政府(Non-Govenmental)用かの線引きを行う。Governmental Station への周波数分配はIRACが権限を有し、Non-Governmental Station への周波数分配はFCCが権限を有しているからである。

占領下の日本では連合国人の無線局は第8軍が、日本人の無線局はCCSが管理する方式を取ったため、まず第8軍とCCSの権限がおよぶ周波数の線引きが必要である。ゆえにAFPACがそれを行ったとも想像される。

  • 1946年5月10日、アマチュア無線の消滅

終戦直後におけるアマチュア無線はどのような状況下だったのだろうか。1945年(昭和20年)9月3日の対日指令SCAPIN第2号により、日本の無線局の現状固定が命じられた。いわゆるアマチュア無線(法2条第5号無線施設の中で個人に許可されたもの)は太平洋戦争の開戦日1941年(昭和16年) 12月8日に、逓信省より法8条の2に基づく管制命令で禁止された。その状態が終戦後も、SCAPIN第2号により継続されることになった。

日本のアマチュア用の割当周波数は、1929年(昭和4年)9月の「無線電信無線電話実験施設に関する件」、および1934年(昭和9年)8月に定めた「陸軍海軍逓信三省電波統制協定」第17条により、1,775kHz, 3,550kHz, 7,100kHz, 14,200kHz, 28,400kHz, 56,800kHz の6波に限定された。さらに1939年(昭和14年)の逓信省の告示により同年9月1日よりはアマチュアも含めた全ての法2条第5項無線施設(実験用無線電信無線電話)はこの6波になった(詳細はこちら)。

しかし1946年(昭和21年)5月10日のGHQの決定 "Allocations of Frequencies to Japanese Imperial Government" では、これらアマチュア無線の6波は日本帝国政府には分配されなかった。1941年(昭和16年)12月8日のアマチュア無線の禁止命令は、その禁止対象の周波数を失ったため、無意味なものになった。この日にアマチュア無線が消滅したともいえるだろう。

さてGHQ/AFPACの決定直後の1946年5月27日、文部省と逓信省はCCSに対して、旧アマチュア周波数の一部(1,755kHz, 3,550kHz)を含むいくつかの電波を、電波研究用として日本に分配して欲しいと願い出た。では終戦直後の実験局の様子をみていこう。

【補足】 私が知る限りでは、アマチュア無線の禁止令は1941年12月(逓信省)のものが、終戦後もそのままになっていただけで、GHQ/SCAPによるアマチュア無線の禁止令などなかったと思う。なぜならば5月10日をもって日本帝国政府のアマチュア周波数は消滅したので、特段GHQ/SCAPが禁止する必要がないからだ(あるものを使うなというのが禁止だと考えると、ないものに禁止はないだろうという意味)。あったのはアマチュア無線の再開陳情運動と、それについてGHQ/SCAP, CCS がYESと言わなかっただけど解釈している。

しかし今回、本サイトの引っ越しと整備にあたり『1952年3月11日にGHQがアマチュア無線禁止の覚書を解除すると通告してきた』とする記述がWeb上で散見されることに気付いた。「アマ無線禁止解除の日付」が3月11日だと具体的なのに、では「アマ無線禁止の日付は?」となると一切、語られていない。なぜだろうか?私にはどうも腑に落ちないのである。ただし私はアマチュア関連の資料を収集していたのではなく、この話題には気にもしなかったので、本当のところは良く分からない。もしなにか新たなことが分かればこのページを訂正更新させてほしい。

<2013年1月11日追記>この件を調べてみました。SCAPIN1744/36 のページをご覧ください。

  • 文部省電波物理研究所

上記5月10日の日本帝国政府への周波数の分配リストには電離層研究用として7,450kHzと20,060kHzの2波が含まれているが、まずこれについて説明しよう。

戦前は陸軍・海軍・逓信省がそれぞれ電離層反射のメカニズムを研究していた。特に軍部は遠く離れた占領地との連絡手段として短波の電波伝搬には強い関心があった。太平洋戦争の開戦が予見されるような頃になり三省個別でやっていた研究組織を統合する際に、どの省の管轄下に置くかが大論争になった。三省とも「我が省であるべきだ」と譲らず、1941年(昭和16年)3月に当たり障りのない文部省を幹事とする電波物理研究会(母体となったのは学術研究会議電波研究委員会)がスタートした。そして最終的に統合組織を文部省の管轄にしようということで妥協が成立して、文部省電波物理研究所の設置が決まった(昭和17年4月8日, 勅令第374号)。

初代所長にはTYK式無線電話の発明者の一人である横山英太郎氏で、研究員として電気試験所の前田憲一技師をはじめ逓信省の西崎太郎技師、陸軍省の上田弘之技師、海軍省の新川浩技師らが兼務した。当初は本部を新宿(東京市淀橋区百人町)に置いたが、翌年には国分寺(東京都北多摩郡小平村)に移し、1943年(昭和18年)8月より定常観測が始まった。のちに観測拠点を世田谷の上野毛へ移したところ空襲で被災し、1945年(昭和20年)5月で観測は中断した。

さらに事態が急変した。1945年(昭和20年)8月の我国のポツダム宣言受諾により、電波物理研究所の存続そのものが危ぶまれたのである。"越智文雄・清水富次, 戦後の電離層観測・伝播伝播研究継続, 電波研・通信総研の想い出,2001" より引用する。

『昭和20年8月15日正午、放送を通じ、終戦に関する大詔をラジオで聞いた。戦時中の研究資料を陸・海軍に提出してきた電波物理研究所は、業務の中止または廃止されるかもと、誰(職員)も思った。そんなような噂も流れた。』

1945年10月2日、この組織の存廃を決めるために、GHQ/AFPACから科学技術将校のBailey陸軍少佐が研究所に臨検にやってきた。引用を続ける。

『電波物理研究所は電波伝搬の研究など軍に協力したので、閉鎖命令もあり得ると思っていた。臨検官のテーブルに、これまで収集してきた観測資料などを積み上げた。・・・(中略)・・・ベィリー少佐は、用意してあった資料を一通り検分し、電離層観測装置を視察した後、資料を焼却せずにおかれたことを賞賛した。臨検後、日本で電波物理研究所が電離層の観測・研究の意志あれば(職員を含む)その手続きを行いたい旨伝えられた。前田研究官は、仏に救われた思いで、電離層の研究を今後も行いたい旨を申し出た。』

陸軍や海軍では連合軍が上陸する前に、戦争責任を追及されかねない各種証拠を隠滅するため、膨大な資料のほとんどすべてを焼却していた。しかし電波物理研究所は軍や文部省の焼却命令には従わなかった。東南アジアの占領地の各所にあった電波観測所から、命の次に大切なものとして観測記録を体に巻いてかろうじて持ち帰った所員もいた。当時の電波物理研究所の観測データは世界のトップクラスであり、所員の誰もがそれを誇りにしていたからだろう。

さらにBailey少佐の人物像については以下の様に語られている。

『勝戦国の臨検官という態度は少しもなく、科学者として相手の研究を尊ぶという謙虚なものがあふれ出ておったと伝えられていた。この席で日本の観測・研究の継続が決まったとのことであった。』

科学者でもあるBailey少佐の取り計らいで、1945年10月10日には早々と日本の電離層研究の継続が許可(File AG676.3, 10 october 1945)された。そして1946年5月10日の日本帝国政府へ分配される周波数リストでは、7,450kHzと20,060kHzの2波が電離層研究用として加えられた。

【参考】10月2日にBailey少佐と通訳を、研究所へ案内したのが海軍技士の新川浩氏と海軍技術大尉の蓑妻二三雄氏だが、新川浩氏はのちに逓信省へ入省。1949年暮からアメリカを視察し、1950年春には我国へアメリカの市民無線制度を最初に報告された方だ。

  • 電波実験用の新周波数の追加分配を申請

日本帝国政府への周波数分配表"Allocations of Frequencies to Japanese Imperial Government" は、日本の無線局を敗戦時に現状固定して、その実態調査の結果をもとに、『前から使っていたのなら、今後も使ってもよろしい。』というスタンスで決められたもので、戦前の日本の無線工業力を反映しており、高い周波数はあまり含まれていない。【注】これまで使っていた周波数がそのまま全て認められたわけではない。

1946年5月10日、電離層研究用に7,450kHzと20,060kHzの2波が日本帝国政府へ分配される周波数としてリストされたが、逓信院と文部省にしてみれば期待を下回るものだったようだ。

1946年5月27日、逓信院(BOC: Board of Communications)は短波帯の電離層の研究と、超短波帯の電波伝搬を明らかにするために "Application of frequencies for the use of investigation of radio wave" を民間通信局CCSに提出して、日本帝国政府へ新たな周波数を追加分配して欲しいと願い出た。申請書に添付されたTable1からTable3を紹介する。

◆Table 1: Short waves for study

Table 1 の短波帯での電離層特性の研究では、札幌、名古屋、鹿児島から1,750kHzから40,000kHzまでの9波のうちから分担して送信し、それを大平(千葉県)・平方(埼玉県)・平磯(茨城県)・稚内(北海道)・指宿(鹿児島県)に設けた受信所で観測するものだ。世界的なAmateur Band(共用帯)である1,715-2,000kHz内にある1,750kHzが申請された。【注】日本のアマチュアの周波数は1,775kHzだった。

◆Table 2: short waves for intercommunications

Table 2 の短波通信の研究は3MHz帯と8MHz帯による短波帯通信の時間帯による特性の変化を明らかにしようとするもので、無線電話(A3)も加えられた。いわばアマチュア無線でおこなわれるスケジュールQSOのようなもので、全国13個所から定時にオンエアーし相互交信を試みる。また磁気嵐等の異常時の影響も観測しようとするものだ。CCSには3,550kHzと8,880kHzの2波を求めたが、3,550kHzはこれまで日本のアマチュアに指定されてきた周波数である。

◆Table 3: very short waves for study

Table 3の超短波帯の電波伝搬の研究では送信所と受信所のペアを決めて受信電界強度の変化を測定しようとするものだった。筑波山や志賀高原の横手山など見晴らしの良い場所も含めて計画された。またFM(周波数変調)方式の研究も同時に実施しようと考えられた。世界的な5m Amateur Band(56-60MHz)の上端周波数60.0MHzや、アメリカで誕生した6m Amateur Band(50-54MHz)の下端周波数50.0MHzも申請された。

【注】従来の日本のアマチュアの周波数は56.800MHzだった

  • 電波実験用の周波数が追加分配される

この願い出を受けて、1946年6月19日にCCSは(5月10日の7,450kHz, 20,060kHzの他に、)下表の周波数を追加承認することを、Milltary Communication Divsion の通信長(C sig O)へ通知し了解された。下表赤字は申請とは異なる周波数が分配されたものである。

120MHz以上は出力50W、それ以下の周波数では出力400Wが認められた。電波型式A3は3,550kHzと9,175kHzだけで、この2波は固定局に限定された。周波数変調(FM)方式による実験は却下された。

1946年8月21日、(逓信院BOCから改組した)逓信省MOCはCCSから、既に Mil Commn. の承認は下りているが、全体的な周波数と無線局の配置表(マスターリスト)の発表を待つよう指示された。そしてマスターリストは8月29日に発令され、上表の周波数が認可された。

  • 電波研究用実験局の申請書を再提出

1946年7月3日、逓信省は電波実験用の実験局の申請書を再提出した。余談だが7月1日に逓信院BOCから逓信省に変わったばかりで、まだ英語表記が決まっていなかったのか、T.Amishima, Chief Radio Wave Bureau, Communication Minitry だ。(のちに逓信省はMOC:Ministry of Communication と表記されるようになる)。

5月27日の申請と、実際に分配が決まった6月19日の周波数が異なることや、実験目的をより深く掘り下げて明確にしたため、今回の再申請になったようだが、もうひとつCCSの6月19日の決定で却下された、周波数変調(FM)方式の実験をどうしてもあきらめ切れず、再申請したのではないだろうか。日本初のFM実験はCCSが1946年8月30日に許可した、鉄道無線の操車場での実験局だと考えられる。JA/JB Callsigns 参照

◆Table 1: short waves for study

再申請のTable 1 の実験では国分寺局(東京)が加わったことが一番大きな変更点である。

◆Table 2: short waves for intercommunications

◆Table 3: very short waves for study

  • 日本のアマチュア無線の1946年における立場

上表には1,775kHz, 3,550kHz という、戦前から日本のアマチュア局に使用されてきた周波数も含まれた。

【参考】これまでアマチュアに使われてきた28,400kHzや56,800kHzは含まれなかったが、世界的な10m Amateur Band と、5m Amateur Band の上端30,000kHz と60,000kHzは日本に分配された。これらは文部省電波観測所やBCJ(日本放送協会)の実験局に与えられた。またアメリカでは5m Band(56-60MHz)を廃止し、国際会議での決定を待たずして1946年3月1日より6m Band(50-54MHz)の使用を開始していた。その新6m Band の下端50,000kHzも日本へ分配されている。50.0MHzはBCJ技術研究所(世田谷区)の実験局が使用した。

2波だけではあるがアマチュアに使われてきた周波数を日本帝国政府用として獲得できたのである。激動の時代なので、これまでアマチュアの周波数がどう扱われてきたかを振り返っておこう。

◆アマチュア無線の周波数が新しくなる(1929年1月1日)

日本では法2条第5号無線施設のうち個人に許可されたもの(いわゆるアマチュア無線局)の周波数として80/38m波が指定されてきたが、1927年のワシントン会議で国際的なアマチュアバンドが決まり、それが発効した1929年1月1日以降では、1,775KHzの倍々関係の周波数が指定されるようになった。

1929年(昭和4年)9月12日、法2条第5号無線施設を免許する際の細則が「無線電信無線電話実験施設に関する件」(信第833号)で通達された。この第4項で、「素人」には1,775kHz, 3,550kHz, 7,100kHz, 14,200kHz, 28,400kHz, 56,800kHz から指定すると定められた。

1929年10月、陸軍・海軍・逓信省で構成する「電波統制協議会」が日本帝国政府の無線局の周波数を決める最高決定機関になった。さらに1934年(昭和9年)8月に三省電波統制協定が全面改定され、その第17条で我国の素人用電波が盛り込まれた。第17条に定めた1,775kHz, 3,550kHz, 7,100kHz, 14,200kHz, 28,400kHz, 56,800kHz の6波が最高決定機関「電波統制協議会」が認めるところの我国のアマチュア用周波数として確立した。

1939年(昭和14年)7月27日付け逓信省告示第2176号「私設無線電信電話ノ機器及装置竝ニ附属具ノ具備スベキ條件」により、全ての法2条第5号無線施設(素人、学校、無線機メーカー、民間研究所)が上記の陸軍海軍逓信三省電波統制協定の第17条で指定する6波に限定されてしまった。つまりメーカーや民間研究施設も素人と同じ周波数を使うことが明文化された。

◆アマチュア無線の禁止が継続される(1941年12月8日から1946年5月9日)

1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争の開戦で、逓信省は法8条の2の管制命令に基づきアマチュア無線を禁止した。そして1945年(昭和20年)8月15日、日本帝国政府はポツダム宣言を受け入れて無条件降伏した。1945年9月2日付け、対日指令SCAPIN第1号附属一般命令第1号「第6項(ロ)」で全ての無線局を現状固定で保持することが、さらに9月3日の9月3日付け対日指令SCAPIN第2号第2部「第15項(ロ)」で無線局の現状固定と現在人員で運用を継続するよう指示された。GHQ/SCAPの無線局の現状固定の指令により、逓信省がアマチュア無線を禁止(1941年12月8日)した処置が戦後もそのまま継続された(GHQ/SCAPはアマチュア無線を禁止していない点に特に注目)。

◆禁止中のアマチュアの周波数を警察無線に許可(1945年8月から1946年5月)

このGHQ/SCAPの現状固定指令の前後の時期に、逓信院は3,550kHzを近畿地方の警察署(コールサイン:EVP, EVP2 - EVP9, EXP, EXP2 - EXP6)と東北地方の警察署(コールサイン:EVS, EVS2 - EVS9, EXS, EXS2 - EXS9)に駆け込み許可した。おそらく逓信院の判断で免許を交付できた最後の措置であろう。これ以降はGHQ/SCAPの民間通信局CCSが日本人の無線局を統治した。なお次に述べる「日本帝国政府に分配する周波数」に警察無線が使っていた3,550kHzは含まれなかったため、使用周波数は変更された。

◆アマチュア無線が事実上消滅する(1946年5月10日)

1945年(昭和20年)12月1日、陸軍省と海軍省は解体されて、第一復員省と第ニ復員省になった。陸軍海軍逓信三省電波統制協定は自然消滅し、昭和14年 逓信省告示 第2176号(1939年7月27日)が、日本のアマチュア周波数(1,775kHz, 3,550kHz, 7,100kHz, 14,200kHz, 28,400kHz, 56,800kHz)を定めた唯一の規定となった。

1946年(昭和21年)5月10日、GHQ/AFPAC が、日本帝国政府へ分配する周波数 "Allocations of Frequencies to Japanese Imperial Government" を決定した。日本人の無線局は日本帝国政府に分配された周波数で運用することになった。(逆に言えばこれにリストされなかった周波数は連合国軍の周波数になった。)

しかし日本のアマチュア周波数(1,775kHz, 3,550kHz, 7,100kHz, 14,200kHz, 28,400kHz, 56,800kHz)は日本帝国政府には分配されなかったため、1941年12月8日の逓信省によるアマチュア無線の禁止令は意味を失った。禁止する対象のアマチュアの周波数が日本から消えてしまったからである。日本はアマチュア無線の周波数を失い、「禁止」状態から、「消滅」状態へ、自動的にステイタスが変化したといえるだろう。

◆1,775kHz、3,550kHz が日本帝国政府へ追加分配(1946年6月19日)

1946年(昭和21年)6月19日に、アマチュア用周波数だった1,775kHzと3,550kHzが日本帝国政府へ追加分配された。ただし電波研究用としてである。ちょうどこの時期に、逓信院BOCはアマチュア無線を許可する方針を決定した。

郵政省の正史である続・逓信事業史 第六巻(p301, 1958, 郵政省)より引用する。

『昭和ニ一年六月、当時の逓信院は「私設素人用無線電信電話制度について」の標題のもとに、「素人無線施設に対しては、戦争中軍の要請に基き、その施設者の資格・電力・周波数その他の条件を厳格にして極力施設を抑制する方針をとっておったが、戦後情勢の変化に伴い、国民文化科学水準の向上を図る目的をもって、事情の許す限り積極的にこの種施設の普及発展を助長する方針をとりたい」とし、その取扱もアメリカの制度をとりいれたざん新的なものをもって、逓信院案としてこれを決定した。』 1,775kHzと3,550kHzが手に入った時期と重なることから、まずはこの2波から新制度で再スタートという事だろうか。しかしCCSはこの逓信院案を却下したのである。

1946年(昭和21年)5月10日および6月19日の措置は、日本帝国政府の周波数と、連合国軍の周波数の線引きを明らかにするものだった。日本帝国政府に分配された周波数が確定したため、その周波数に具体的に無線局を割り付ける作業がはじまるのだが、1,775kHzと3,550kHzは電波研究用として日本へ与えられたもので、CCSはアマチュアの使用には同意しなかった。

日本に分配された周波数を各無線局に割当てて、それをGHQ/SCAP CCSが承認した一覧表を「マスターリスト」と呼び、CCS の「日本無線局の管理原簿」となった。この表(マスターリスト)は1946年(昭和21年)8月29日、対日指令SCAPIN第1166号で公表された。1,775kHzと3,550kHzでは電波研究を目的とする複数実験局がSCAP承認を受けることが出来た。これについては次ページ "J Callsigns" で詳しく述べる。

1946年時点における日本のアマチュア無線の立場をまとめると、1,775kHz と3,550kHzの2波が日本帝国政府に分配されるも、CCSよりアマチュアの運用承認が下りないという状況である。残る7,100kHz, 14,200kHz, 28,400, 56,800kHzの4波については、そもそも日本帝国政府には分配されていないので論外だ。裏返して言えばこれらは連合国軍の周波数である。

なお1946年4月9日に第八軍が連合国人のアマチュア無線の運用(28.0-29.7MHz, 56.0-60.0MHz, 144.0-148.0MHz)を許可したとの情報もあるが、私は確認できていない。第八軍エリア(日本本土)では1946年5月10日に日本帝国政府と連合国軍に周波数分配(分割)が確定したので、この日の後に連合国軍のアマチュア無線が始動したのではないかと私は想像している。その方が理屈が自然だからだ。

なお奄美・沖縄と小笠原・硫黄はすでに日本から行政分離され、(いわゆる)"外国" になっていた。したがって日本と連合国との周波数分配(分割)の決着(5月10日)を待つ必要はないし、既設無線局も少ないことから、これらのエリアでは1946年の少し早い時期から母国のWコールサインで運用(28MHz)が許されたようだ。