SCAPIN1744/36

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『1952年3月11日、GHQは日本政府に対し“アマチュア無線禁止に関する覚え書” を解除した旨通告した。』 Web上で散見される記述ですが、本当にそうなのでしょうか?「アマチュア無線禁止の覚書」の発令日には一切触れないで、唐突に解除日だけが登場するのも、私には釈然としないものがあります。そもそも「アマチュア無線の禁止の覚書」など本当にあったのでしょうか?

アマチュア無線再開陳情者に対するGHQ/SCAPからの返書(1952年4月4日付)がWeb上で公開されています(JA1AA庄野OM宛ての返書, "BEACON - 関東のハム達。庄野さんとその歴史 20")。まずその前に終戦直後より多くのOM諸氏がアマチュア無線の再開に向けて献身的な努力をなさったことに大いなる敬意を表したいと思います。

さてその上で、Web公開されている「GHQ/SCAPからの返書」を見てみましょう。返書の差出人はAileen M. Webster氏(私は軍の階級に疎いのですが、Asst Adjutant General と書かれており「軍務局副局長」とでも訳せば良いのでしょうか?)です。

"Dear Mr. Shono:

General Ridgway has asked me to acknowledge receipt of and reply to your letter of recent data."

との書き出しですぐに核心部分に入ります。参考までに私の素人和訳も添えてみましたが、英文解釈は皆さんでお願いします。

本文はこれだけです(ちなみにSupreme Commander最高司令官とは連合国軍最高司令官SCAPのことで、マッカーサー元帥が解任され、リッジウェイ大将が任命されました)。少なくともこの返書には『“アマチュア無線禁止に関する覚え書” を解除した旨通告した』とか、『日本政府と交渉されたい』などとは書かれていないと私は思うのですが、皆さんいかがでしょうか?

しかし返書にある"a recent memorandum to the Japanese Government"(日本政府への最近の覚書)には、『194x年xx月xx日のアマチュア無線禁止令 SCAPIN 第xxxx号を解除する。』と書かれているかも知れません。

そして"a recent memorandum"とは "3月11日の覚書"だと想像できます。日付が特定できているので、「アマチュア無線禁止の覚書は存在するのか?」という疑問はいずれ解消できるだろうと考えていたところ、郵政省編の続・逓信事業史第六巻に以下の記述を見つけました。

『・・・電波監理当局は平和条約発効後(昭和二七年四月二八日)後は、日本限りの意志で免許できる見解のもとに、昭和二七年二月からアマチュア局開局申請の受付を開始した。一方、総司令部もこの間の事情を勘案してか、ようやく、二七年(一九五二)三月一一日付SCAPIN第一七四四/三六号をもって、アマチュア局の設置・運用について異議がない旨の覚書を発した。』 (第11節アマチュア無線局, 続・逓信事業史第六巻, 1958, 郵政省, p303)

これは偶然発見したのですが、おかげですべてのネタ元が対日指令SCAPIN第1744/36号(11 Mar. 1952)だと、あたりが付きました。

さらにもう一点、「アマチュア無線のあゆみ - JARL 50年史」に以下の記述を見つけました。

『3月11日付けでアマチュア無線禁止に関する覚書を解除し、4月初めには嘆願書を出していたJARL会員や個人に対し "禁止の覚書を解除したから日本政府と交渉されたい" との公式文書が発信された。と「CQ」は報じている。図7・5は庄野久男氏(J2IB, JA1AA)の受けとった連合軍最高司令官リッジウェー将軍からの前述のような内容の書信である。』 (アマチュア無線のあゆみ, 1976, CQ出版社, p270)

すると「アマチュア無線禁止の覚書」存在説は当時の「CQ」誌(号数不明)にはじまるということでしょうか。「アマチュア無線のあゆみ」には参考資料として庄野OMが受けとった書信の写真が小さく掲載されていますが、現在Web上で公開されている文字が読める写真と同じもののようです。

するとこの書信を物証として『前述のような内容の書信である。』(前述の内容とは「禁止の覚書を解除した旨」のこと)とするのもどうかとは思いますが、一応「ようだ」の文字も付けてありますしね。それとこの書信の差出人はリッジウェイ大将ではありませんね。まあそんな些細なことはさておき、郵政省の続・逓信事業史は『アマチュア無線には異義がない旨』としたのに対し、アマチュア無線のあゆみ - JARL50年史では『“アマチュア無線禁止に関する覚え書” を解除した旨』 と大きく見解が異なるのはなぜでしょうか。それはのちほどSCAPIN第1744/36号を確かめてから考えることにしましょう。

私がGHQ/SCAPはアマチュア無線を禁止した事実はないと思う理由について述べさせていただきます。まず一番単純な話、私はCCS電波統治時代の資料を数多く見てきましたが、アマチュア無線を禁止する、あるいはそれに近い趣旨の文書を目にしたことがないからです。でも私はCB無線関連の資料収集に没頭していて、あまりアマチュア無線のことを意識していませんでしたので、「GHQ/SCAP, CCS はアマチュア無線を禁止していない。ただ許可申請に首を縦に振らなかっただけだ。」と自信を持って言い切れないのも事実です。

もうひとつの理由は、終戦後のCCSが行った電波行政を振り返ってみても、アマチュア無線の禁止令が発令されたようには思えないのです。以下、それについて取り上げてみます。

  • 時代背景

占領軍は戦勝国として日本の電波を自由自在に使ったのではなく、民主的電波行政のお手本を日本人に示すべく、まず第一段階で日本の無線局に現状固定命令を発令し(1945年9月2, 3日)、その使用周波数を調査したうえで、第二段階では周波数を連合国の持ち分と、日本帝国政府の持ち分に明確に分配しました。1946年5月10日、GHQ/AFPAC(太平洋軍総司令部:Army Forces Pacific)から出された「日本帝国政府に分配する周波数」"Allocations of Frequencies to Japanese Imperial Government" (10 May 1946)です。

連合国の周波数は第八軍が直接統治し、日本帝国の周波数はGHQ/SCAPの民間通信局CCSが統治しますが、CCSは実務作業を逓信院BOC(のちの逓信省MOCや、電波庁RRAや、電波監理委員会RRC)に行わせる間接統治の手法をとりました。

【サイト内の参考記事へのリンク】

●日本の無線局の現状固定命令、連合軍との周波数分配前の裏工作の話題・・・GHQ/SCAP CCS

連合国と日本帝国(のちの日本国)は、それぞれの周波数の持ち分の中に自分達の無線局を配置していきますが、その電波の国境線というか、どの周波数が連合国で、どの周波数が日本国なのかの境は目に見えません。また逓信院BOCは1946年5月10日の、周波数の分配結果を公表していませんので、どう分割されたかは一般人の知るところではありませんでした。これは逓信院BOCが周波数分配の結果を国民に伏せたというよりも、「日本帝国政府に分配する周波数」(10 May 1946, GHQ/AFPAC)を、BOCが勝手に公表する権限などなかったのでしょう。

【サイト内の参考記事へのリンク】

●連合軍との周波数分配「日本帝国政府に分配する周波数」の話題・・・District Number

このような状況下で短波帯を受信すると、至る所で第八軍の通信が聞こえたでしょうから、連合軍が日本の電波を自由自在に使っているように印象付けられたかも知れませんが、連合軍は連合軍の周波数で運用し、日本人は日本帝国の周波数で運用していました。あえていうならば、物資不足の戦中に製造された国産無線機は調整不良もあり不要輻射が多く、第八軍へ混信妨害を与える事例が多発し、第八軍と日本の間に険悪な空気が流れていることが、日本側の電波当局の大きな悩みの種でもあったようです。

  • アマチュア無線の歴史年表(1941-1952)と、ママチュアのステータス

アマチュア無線の歴史(終戦前後)を年表で追いながら、アマチュアのステータスの変化を追ってみましょう。

*脚注:1945年9月1日に放送の電波管制を解除し、同一周波数放送が終了しましたが、この日をもってアマチュアを含む全ての電波管制が解除されたとの解釈をとるなら、1941年12月8日の時点で有効だったアマチュアは(当時は免許有効期間が1年だったので)この時点で全アマチュアの免許有効期間の満了が確定したということでしょうか。その解釈においては、1945年9月1日から1946年5月19日の期間は「CCSへの承認打診中」だと考えられますが、いずれにせよ1946年5月20日をもって、アマチュア用周波数は日本帝国に分配されませんでしたので、ここで一旦「消滅」だと私は考えます。(2013年10月20日に修正加筆)

  • アマチュア無線の消滅

終戦後ただちに連合国最高司令官SCAP(スキャップ=マッカーサー元帥)より日本の無線局の現状固定命令が発せられたため、戦前の逓信省MOCのアマチュア無線禁止措置(1941年12月8日)が、戦後もしばらく継続することになりました。つまりSCAPがアマチュア無線を禁止したのではありません。禁止したのは逓信省MOCの行為(昭和16年)で、無条件降伏の受諾により(MOCの継承機関である)逓信院BOCにはそれを解除する権限すらありませんでした。

なお戦前のアマチュア用周波数3,550MHzをはじめ、カイロ条約(1938年)の国際的な3.5MHzや7MHz帯のアマチュアバンド内の多くの個別周波数が終戦直後のどさくさにまぎれて、逓信院BOCにより日本の警察無線に分配されました。まだ占領軍によるアマチュア無線が承認される前です。従って終戦後に占領軍のアマチュアが、アマチュアの周波数を自由に使ったというのは正しくありません。1945年(昭和20年)秋より日本の警察無線が最初にアマチュアの周波数を使い始めました。

1946年5月10日にGHQ/AFPAC(太平洋軍総司令部)は"Allocation of Radio Frequencies to Japanese Imperial Government"を発令しました。戦前の日本のアマチュア周波数(1,775/ 3,550/ 7,100/ 14,200/ 28,400/ 56,800kHzの6波)のいずれも、日本帝国政府に分配された周波数には含まれていませんでした。すなわちこの日をもって日本のアマチュア無線は「禁止状態」から「消滅」へステータスが変化したと私は解釈しています。なぜならば「有るもの」を使うなというのを「禁止」と呼ぶとするならば、「無いもの」を「禁止」するというのは、適切な用法ではないように思うのです。

【サイト内の参考記事へのリンク】

●1945年秋にアマチュア周波数を警察無線に分配の話題・・・GHQ/SCAP CCS

  • 戦前のアマチュア周波数が日本帝国に追加分配される

ところがその一か月後の1946年6月19日に、(旧アマチュア周波数の)1,775kHzと3,550kHzが日本帝国の周波数に追加分配されました。周波数が手に入ったので、私はこの日以降を、周波数は持っているが日本人アマチュア無線局が使用しても良いとのCCS承認が得られていない状況だと解釈しています。つまり「消滅」から「承認待ち」へのステータスの変化だと捕らえました。

さてこの元アマチュア局・実験局用だった周波数2波が手に入ったからかどうかは知りませんが、逓信院BOCは同じ1946年6月にアマチュア無線の積極許可の方針を決めました。

『昭和二一年六月、当時の逓信院は「私設素人用無線電信無線電話制度について」の標題のもとに、「素人無線施設に対しては、戦争中軍の要請に基き、その施設者の資格・電力・周波数その他の条件を厳格にして極力施設を抑制する方針をとっておったが、戦後情勢の変化に伴い、国民文化科学水準の向上を図る目的をもって、事情の許す限り積極的にこの種施設の普及発展を助長する方針をとりたい」とし、その取扱もアメリカの制度をとり入れたざん新的なものをもって、逓信院案としてこれを決定した。』 (第11節アマチュア無線局, 続・逓信事業史第六巻, p301, 1958, 郵政省)

【サイト内の参考記事へのリンク】

●戦前の日本のアマチュア用周波数の話題・・・Private Experimental

●1,775kHz/3,550kHzが日本へ追加分配された話題・・・District Number

  • 首を縦に振らなかったGHQ/SCAP CCS(日本人のアマチュア無線は承認却下)

逓信院BOCとしては、1946年6月19日に手に入れた1,775kHzと3,550kHzだけでも、アマチュア無線を再開させようとしたのかも知れません。しかし1946年8月29日の対日指令SCAPIN第1166号で添付された日本無線局マスターリストにアマチュア無線はありませんでした。残念ながらCCSは日本人のアマチュア無線の請願を却下しました。その一方で第八軍司令部HEA(Headquarters Eighth Army)は"Regulation governing amateur radio operation by allied personnel in Japan" を制定し、2日前の1946年8月27日に通達259号(Circular 259, Aug.27,1946)で正式スタートさせました。

GHQ/SCAPによる電波統制は第一段階(1945年9月2, 3日)で日本の無線局を現状固定し、その実態を調査して、第二段階(1946年5月10日)で連合国と日本帝国の電波の持ち分を決定するというプロセスを経ました。そして最終段階(1946年8月29日)として日本人の全無線局が、5月10日に示された日本帝国に分配された周波数へ引っ越して(QSY)、その各無線局にSCAP(連合国最高司令官)登録番号を割り振った「マスターリスト」を対日指令SCAPIN第1166号で発令することで、GHQ/SCAPの電波統制政策が完成したのです。形式上はこの8月29日をもって全ての日本人の無線局がSCAPにより一斉再免許(更新)されました。

この日、日本人アマチュアは承認されませんでしたが1,775kHzと3,550kHzでは日本人実験局が認められて、戦前と同じくJ一文字プリフィックスのコールサインが認められ電波を出し始めました。(Jコールサインは戦前だけのものではありません。日本人のJコールは1946年8月29日に発給が再開されて1947年2月19日まで、連合軍のJコールは1946年8月27日に正式に規則化されて1948年12月31日まで使用されました。)

続・逓信事業史 第六巻からの引用を続けます。

『しかし、当時は連合軍の占領下にあったので、電波の統制については、二一年八月二九日SCAPIN第一一六六号で示された日本無線局マスターリストと、連合軍総司令部から電波統制上の基本の覚書(一九四七年七月一四日 SCAPIN第一七四四号)があってこれに示されていない局の新設・変更あるいは周波数の使用は、まず国として総司令部の承認を得なければならなかった。もちろんアマチュア無線はこの覚書には含まれていなかったので、この方針を示しあるいは非常通信網に利用することを理由として、総司令部に対し機会のあるごとに申し入れたが、時期が早いとのことで許されず、ついにこの方針は直接には日の目をみるに至らなかった。・・・(中略)・・・昭和二五年六月施行の電波法では、アマチュア局を制定し、無線従事者としてもアマチュア局の設備だけを操作できる資格を設けるなどして、一応アマチュア無線が制度としてとり入れられた。しかし、総司令部はまだアマチュア無線を許可することを承認しなかったし、近い時期に承認する見込みもなかったので・・・』 (第11節アマチュア無線局, 続・逓信事業史第六巻, p301, 1958, 郵政省)

【サイト内の参考記事へのリンク】

●戦後も日本人実験局に発給されたJ一文字コールサインの話題・・・J Callsigns

●日本人実験局のJコールサインが突然JXプリフィックスに変更された話題・・・JX/JY Callsigns

●占領軍のアマチュア無線の話題・・・Another J Callsign

私が「GHQ/SCAPによるアマチュア無線の禁止の覚書」などなく、ただ日本側からのアマチュア無線再開の陳情・申請・交渉に対してCCSの承認が得られなかっただけ(承認待ちのステータス)ではないかと考えているのは、この続・逓信事業史の文面からも、GHQ/SCAPが禁止したとか、禁止しているといったニュアンスが感じ取れないからです。

  • 「承認却下」と「禁止」は別物ではないでしょうか?

「承認却下」についてですが、例えば1946年8月20日に関西地方のVHF私鉄無線として逓信院BOCがCCSへ申請した、JA3A(現:阪急梅田)、JA3Q(現:阪神梅田)、JA3I(現:近鉄上本町6丁目)、JA3N(現:南海なんば)、JA2E(現:近鉄名古屋)など27局はCCSに却下されました。また1947年5月27日に逓信省MOCが申請(逓信省LS第108号)した誘導無線の実験局JA2A, JA2B(現:JR菊川)もCCSに却下されています。

【サイト内の参考記事へのリンク】

●浅野セメントの申請、関西私鉄無線の申請の話題・・・JA/JB Callsigns

このようにCCS統治時代では開局申請の一件ごとに、その都度CCSと交渉を行う方式でした。しかし私鉄鉄道無線や誘導無線の申請が却下されたからといって、私鉄鉄道無線や誘導無線が禁止されたわけではありません。私は「禁止された」と「承認されなかった」は本質的に別物だと考えています。ましてやアマチュア周波数は一旦、日本に追加分配された3,550kHzさえも、後になって(第八軍からの80m Amateur Band のリクエストにより)再び連合国の周波数として取られてしまいましたので、日本にはアマチュアの周波数がなかったのです。「無い」のですから、SCAPやCCSが、あえて「禁止」にする必要などなかったはずだと思うのです。

また1949年7月5日付けでCCSの国内無線課のA. J. Harcarik がワシントンの陸軍省へ、29.7MHz以上のいくつかのバンドにおける行政権の一部を日本政府へ返還して良いかのお伺いのさいに添付された30MHz以上の各周波数帯の使用現況表"VHF Band above 30 Megacycles" の50-54MHzバンドのRemarks欄には以下のように書かれています。「禁止」ではなく "Unauthorized" です。

Band and International or Region 3 Allocations

50.0 - 54.0 Mc/s. Amateur

Present Uses Japan or Reservations

Amateur (Occupational Personnel Only)

Remarks

Amateur Service unauthorized to Japanese at Present.

【注】29.7から4200MHzまでの表の中から、ここを抜き出しただけで、50-54MHz帯は日本への返還が検討されたBandではありません。

禁止か?承認待ちか?の真偽はともかく、このように多くの関係者の努力が続けられたにも関わらず、残念ながらCCSの電波統治時代にはアマチュア無線再開の請願は実を結びませんでした。

  • 【2013年1月11日追記】 SCAPIN第1744/36号を読んでみました

郵政省の続・逓信事業史 第六巻で3月11日の対日指令SCAPIN第1744/36号に「本当に禁止の覚書が存在したか?」の謎を解くカギがあることは解っていました。いつまでも想像ばかりではスッキリしませんので、この正月休みに手元の資料を整理し、対日指令SCAPIN 第1744/36号を探し出しました。ここからは1952年3月11日のSCAPIN第1744/36号に基づき私の思う所を述べさせていただきます。

◆GHQ/SCAPの"Control of Radio Communication"(電波統制令)の変遷

まずはじめにGHQ/SCAPの電波統制について簡単に説明しておきます。1945年11月20日のAG676.3(20 Nov 45, CCS)SCAPIN 第321号 "Control of Radio Communications" でGHQ/SCAPおよびその実行組織CCSによる日本人無線局への実効支配が始まりました。

1946年8月29日にはAG676.3(29 Aug 46, CCS)SCAPIN 第1166号"Control of Radio Communications" で日本人の全ての無線局(含む放送局)にGHQ/SCAPの登録番号(SCAPレジストリー番号)が発行され、手続き上はSCAPに一斉再免許された形をとり、GHQ/SCAPによる電波統制が完成しました。このときマスターリスト(GHQ/SCAP, CCSの周波数管理原簿)が発表され、これへの追加(新局)・変更・削除(廃局)には、一件ごとにCCSの承認を受けることになります。以後マスターリストへの追加(新局)・変更・削除(廃局)で、差分リストが作成される都度、新たなSCAPIN番号(1222/1283/1323/1379/1500/1529/1733)により再発令されてきました。

1947年7月14日にはSCAPIN 第1744号 "Control of Radio Communications" として全面改定されました。マスターリストにあたるList of Japanese Radio Stations (いわゆるコールブック)を逓信省MOCに年2回(1月と7月)作らせて、それをGHQ/SCAPがSCAPINで発令することになりました。実際には春と秋に速報の差分リストが発行されましたので、少なくとも年4回は発令があるわけで、これ以後は新しいSCAPIN番号にせず1744/1号, 1744/2号, 1744/3号, ...というように、1744番を残して枝番が付けられました。

1952年3月11日のSCAPIN 第1744/36号とは、SCAPIN 第1744号の「36番目の追加ドキュメント」です。ちなみに1952年3月13日のSCAPIN第1744/37号で占領時代最後のList of Japanese Radio Station(の差分リスト)が発令されたのが1744番シリーズの最後でした。そして1952年4月28日に日本は独立を果たしました。

  • 【2013年1月11日追記】 これがSCAPIN 第1744/36号です

お待たせしました。それでは1952年(昭和27年)3月11日の対日指令SCAPIN 第1744/36号をご覧ください。

◆パラグラフ1

パラグラフ1は、お決まりの書き出しで、この書類が何を根拠にしているかを示しています。たとえば日本式にいえば「電波法第xx条の定めにより・・・」のようなものです。このリファレンスは1947年7月14日のSCAPIN 第1744号"Control of Radio Communications"です。

1947年7月以降のCCSの無線通信に関するドキュメントは、ほぼ全てがこのSCAPIN 第1744号を拠り所にしていましたので、おなじみの書き出しです。SCAPIN 第1744号は無条件降伏を受諾した占領下の日本における、唯一絶対の電波統制令で日本帝国政府の「無線電信法」をも超越するものでした。

◆パラグラフ3 (SCAPIN 第1744/36号の核心部分)

パラグラフ2は少し説明が必要なのであとに廻して、SCAPIN 第1744/36号の核心部分であるパラグラフ3を見てみましょう。

"The Supreme Commander for the Allied Powers has no objection to the establishment and operation of amateur radio stations in Japan subject to applicable Japanese law and regulations and subject to the provision of frequencies for amateur radio operations in accordance with the provisions of SCAPIN 1744, as amended."

電波監理委員会RRCがアマチュアを含む業務別周波数分配表を作成したり、既にアマチュア無線技士の国家試験を実施しているという現実があるからか、『SCAP(連合国最高司令官)は(改正されたSCAPIN 第1744号でアマチュアの周波数を分配し)日本側の規則によりアマチュア無線を認可し運用する事にはhas no objection(異存ありません・反対しません)』というような解釈で大きくは外れていないと思うのですがいかがでしょうか?なお英文解釈は皆さん各自でお願いします。

これは前述した嘆願書を出した個人に送られてきた「返書」と基本的に大差はなく、私は「アマチュア無線の禁止を解除する」というようなニュアンスは感じられないのです。

◆パラグラフ2 (リファレンスはいずこに?)

では(後回しにした)パラグラフ2です。

"So much of paragraph 12a, subparagraph (1) of the reference memorandum as pertains to amateur services is hereby rescinded."

『Reference Memorandumのパラグラフ "12 a" の(1)のアマチュア関連を取り消す』としています。Reference Memorandumとは、パラグラフ1で明示したSCAPIN 第1744号(1947年7月14日)ですから、さっそくそちらを調べたところ、第1744号にパラグラフ "12a" の(1) なるものがないのです!まるで狐に摘まれたような気分でしたが、もう上記パラグラフ3で解決でしたことにしようかと一旦は思いました。しかしどうも rescinded(無効にした・廃止した)という単語が気になります。"12 a"の(1)に「アマチュア無線を禁止する」とでも書いているかもしれませんので、気を取り直してさらに捜索を続けました。

  • 【2013年1月11日追記】 パラグラフ2のリファレンスはSCAPIN 第1744/19号(1949年10月31日)だった

SCAPIN 第1744号(1947年7月14日)を何度も見返しましたが、パラグラフ"12" にはやはり"a" や"(1)" が付く段落などありません。そこでもしやとSCAPIN第1744号シリーズの改定枝番を順番に調べて謎は解けました。

1947年7月14日に初めて発令されたSCAPIN 第1744号は、1949年10月31日の改正(SCAPIN 第1744/19号)でパラグラフ12が差し替わっていたのです。こういう場合、SCAPIN 第1744/36号のパラグラフ1には改正されたSCAPIN 第1744/19号も一緒に併記されるはずだと思うのですが、そうなっていませんでした。

では1949年(昭和24年)10月31日のSCAPIN 第1744/19号をご覧ください。

【注】SCAPIN1744/19の1ページ目だけを掲載(後続ページは省略)

◆改正される前のパラグラフ12 (SCAPIN 第1744号, 1947年7月14日)

まず改正前のSCAPIN 第1744号(1947年7月14日)のパラグラフ12を紹介しておきます(図示は省略)。要するにこれは「無線局の追加・廃止・変更はすべてCCSへ承認を願い出なさい」というものです。

"Hereafter, all applications for additions, deletions and changes to the lists of authorized radio stations will be submitted by the Ministry of Communications directly to the Civil Communications Section, General Headquarters, Supreme Commander for Allied Powers, which Section will advise the Ministry of Communications by memorandum of the action taken on the application." (SCAPIN 1744, Control of Radio Communications, paragraph 12, July 14, 1947)

◆改正後のパラグラフ12a (SCAPIN 第1744/19号, 1949年10月31日)

改正されたSCAPIN第1744/19号(上図)のパラグラフ "12 a" には、(CCSの承認不要の)例外規定(1)~(4)が追加されました。

"Applications will be submitted by the Ministry of Telecommunications directly to Civil Communications Section, General additions, deletions, and changes to the list of authorized radio stations except for cases indicated in subparagraphs (1), (2), (3), and (4) below." (SCAPIN 1744/19, Contr0l of Radio Communications, paragraph 12a, Oct. 31, 1949)

これまで無線局の新設・変更・廃止はすべてCCSへ申請し、すべて承認を受けることになっていましたが、CCSの承認なしに日本の代行行政機関が独自に免許を発行できる例外(1)~(4)が認められました。そしてその例外(1)が今回のSCAPIN第1744/36号(1952年3月11日)により修正されたということでした。

  • 【2013年1月11日追記】 ついにたどり着いたSCAPIN 第1744/19号のパラグラフ12aの(1)

逓信省MOCが解体されて、電波庁RRAが1949年6月1日に誕生したのを契機に、CCSでは電波行政の一部をRRAに任せてみようと考え、VHF帯のいくつかのBandをCCSへの(開設・変更・廃止の)承認願い不要とする処置を検討していました。そして1949年10月31日、SCAPIN 第1744/19号の12aの(1)でついに実現したのです。

例外(1)をご覧ください。この措置で(54-68MHz, 100-108MHz, 148-157MHz, ... 3900-4200MHzなどの)12 band の電波行政権が日本に返還されました。これらの周波数なら電波庁RRAの判断だけで無線局の免許を与えることができて、CCSへは事後報告するだけで良くなりました。GHQ/SCAP, CCSからの寛大なるプレゼントです。RRAの出産祝いみたいなものでしょうか?

【参考】 1949年は30MHz帯で警察無線の実験をしていた時期です。第八軍が使っている30MHz帯の周波数を日本の警察へ分配してもらうために苦労があったようですが、今回148-157MHz帯が日本に返還されたので、CCSや第八軍へ気兼ねせずに使える150MHz帯が急遽注目されました。1950年2月には新聞各社の取材用ラジオカーへの実用化試験局を免許するなど150MHz帯は一気に新局ラッシュになりました。1950年に30MHz帯の警察無線が実用化されたばかりなのに、翌年には降って沸いてきた150MHz帯の警察無線も実用化されました。つまり技術革新によって30MHz→150MHzへ移行したのではなく、本当はこういう事情がありました。またアメリカではCitizens Radio Service に分配されている460-470MHz帯もまた日本へ返還されたため、1950年6月に電波監理委員会RRCはSimple Radio Service(日本名:簡易無線業務)にこの周波数を分配したのです。連続した460-585MHzをわざわざ460-470MHzと470-585MHzに分割されていました。

例外(1)には次のように書かれています。

"When the frequency involved is within one of the following bands and provided use of frequency does not concern the Aeronautical, Radio Navigation, Radio Location, Radar, or Amateur services."

返還12 band ではCCSの承認なしにRRAの単独判断で無線局免許を発行できるようになったのですが、Aeronautical, Radio Navigation, Radio Location, Radar, Amateurの5種類の無線業務に関連しないものに限られました。逆にいうとこれらの業務に免許するには、従前どおりCCSの承認を受ける必要がありました。

『このようにすべて総司令部を通じて行われていたのが、昭和二四年一〇月三一日付のSCAPIN 第1744号の改定で、はじめてわが国に自主的電波行政権が芽生えた。これは、超短波帯以上の一二の周波数帯において、その周波数の使用が航空・無線航行・無線測位・レーダーまたはアマチュア無線業務に対するものでないときは総司令部民間通信局(CCS)に申請を要しないとされた。』 (第三節 運用の監督, 続・逓信事業史 第六巻, p402, 1956, 郵政省)

返還12 band にはAC会議(1947年)で分配されたアマチュアの周波数を含んでおりません。ですから「アマチュア業務を除く」と明記する必要はなかったはずです。CCSは電波庁RRAが「国内通信専用だから」などと言い訳をして、返還した54-68MHz Band の中から、1948年(昭和23年)12月31日まで国際的に有効だった5m Amateur Band(56-60MHz)を、日本人アマチュア無線家に許可しないか?と疑ったのではないでしょうか。つまり電波庁RRAのウルトラC(裏技)を封じ込むのが目的だったと私は想像します。

  • 【2013年1月11日追記】 12 bands でのアマチュア局がCCSの承認不要に

12aの(1)はアマチュア(を含む5業務)を禁止する規定ではなくて、返還12bandでアマチュア(を含む5業務)をCCSの承認不要の対象から除くものです。そして1952年3月11日付け対日指令SCAPIN 第1744/36号のパラグラフ2)は、「CCS承認不要の対象外」の5業務からAmateur業務を外したのです。承認不要の対象外から除いたとは、すなわち「承認不要」(=RRCに任せる)になったということです。ものすごくややこしい日本語ですみません。

したがって本ページ冒頭の『1952年3月11日、GHQは日本政府に対し“アマチュア無線禁止に関する覚え書” を解除した旨通告した。』 とは、「返還12bandにおけるCCS承認不要措置の対象外だったアマチュア業務を解除した」で、ただそれだけのことだと思います。というのも返還12 bandにはアマチュア業務に割当可能な周波数は含まれていないので、解除されても実行上の意味はありませんから。おそらく3月11日の対日指令にあるパラグラフ2)は、過去にGHQ/SCAPがアマチュア業務に言及した部分があるから、このさいに解除しておこうという程度のものではないでしょうか。

私は1952年3月11日の対日指令が持つ一番の意義はパラグラフ3)で「SCAP(連合国軍最高司令官)は日本人のアマチュア無線に異存はない」と公式表明したことだ思うのです。日本の最高統治者であるSCAPが異存なしと表明したので、あとはアマチュア用周波数が実際に分配可能かが課題となりました(日本独立後の日米の周波数の住み分けについては、3月20日に日米両国で設けた通信分科委員会周波数部会のキックオフミーティングが控えており、3月11日の対日指令にはアマチュアの周波数をどうする、こうするとは触れていません)。

  • 【2013年1月11日追記】 日本にRRC(Radio Regulatory Commission)誕生(1950年6月1日)

1950年(昭和25年)6月1日、電波庁RRAが解体され、政府から独立した「独立行政委員会」である電波監理委員会RRC(Radio Regulatory Commission)が誕生しました。政府にRRCの設置を求めたのはGHQ/SCAPですが、そもそも吉田内閣は政府の影響力を完全排除した電波監理委員会RRCの設置には大反対でした。GHQ/SCAPとの対立が深まるばかりの1949年暮れ、とうとうSCAPマッカーサー元帥から政府へ最後通牒が発せられ(いわゆるマッカーサー書簡)、吉田首相はしぶしぶ設置に同意しました(させられました)。

そういう経緯で作られたRRCですから、アマチュア無線再開を『日本政府と交渉しなさい』か、『電波監理委員会と相談しなさい』かは重要です。もし前者とすればGHQ/SCAPは「政府(電波庁RRA)から電波行政権を取上げて、それを強引に設置させた電波監理委員会RRCへ与えた」にも係らず、「やっぱり日本政府の方と交渉してみたらどうかね」と心急変したことになってしまいます。Webで公開されている再開陳情者への返書の画像には「the Japanese Radio Regulatory Commission」 とありますから、少なくともこの部分だけは「日本政府」→「電波監理委員会」に訂正されるべきでしょうね。

さて返還12 band を含む一切の電波行政権は政府の電波庁RRAから電波監理委員会RRCへ引き渡されました。日本のRRCはアメリカのFCCを模倣した組織です。FCCは年1回、年次報告書を米国議会に提出することになっていて、RRCもこれにならい1951年(昭和26年)5月に国会へRRC Report(第1回 電波監理委員会年次報告)を提出しました。 報告書「第2部 電波利用の発達を図るために考慮すべき諸問題」の中の、「1 波長獲得に対する努力」(p46)の10行目より、委員会が民間通信局CCSの許可を得ずして、独自判断で免許を与えられる12バンドがRRCへも継承されたことを述べています。

『占領下にあるわが国としては占領軍と共用関係にあるため目下当委員会として自主的に割当て得る周波数は54-68Mc, 100-108Mc, 148-157Mc, 188-200Mc, 400-420Mc, 460-470Mc, 470-585Mc, 610-960Mc, 1350-1600Mc, 1850-2300Mc, 2450-2700Mc, 3900-4200Mc の12である。もっともこれらの周波数帯も総司令部の好意により特にわが国に解放されたのであって、その後におけるこの方面の需要は急速に増加し超短波技術の発展に貢献したところ極めて大なるものがある。』 (電波監理委員会年次報告, 第一回昭和25年, p46, 1951)

この年次報告書の「3 無線設備の大衆化」(p47)にはアマチュア無線に言及する部分がありますので引用しておきます。

『なおアマチュア無線業務の復活に関してはアマチュア無線家の熾烈な要望もあり、関係方面とはしばしば折衝しているがいまだ了解を得るには至らない。しかし、せめて超短波帯のみにても認められるよう今後とも折衝に努力する方針である。』 (電波監理委員会年次報告, 第一回昭和25年, p47, 1951)

電波監理委員会RRCの表現はアマチュア無線の「復活」であり、その「了解」の取付けです。けして「禁止」の「解除」ではありません。これは国会に送付された電波監理委員会の公式報告書ですし、やはり「GHQ/SCAPによるアマチュア無線禁止とその解除」とはアマチュア無線界で代々伝承されてきた「独自解釈」で、都市伝説みたいなものではないかと思えてくるのです。

  • 【2013年1月11日追記】 一応まとめておきます

JARL50年史でもある「アマチュア無線のあゆみ」では、CQ誌が報じていると第三者的な立場で触れています。

『3月11日付けでアマチュア無線禁止に関する覚書を解除し、4月初めには嘆願書を出していたJARL会員や個人に対し "禁止の覚書を解除したから日本政府と交渉されたい" との公式文書が発信された。と「CQ」は報じている。 』 (アマチュア無線のあゆみ, p270, 1976, CQ出版社)

ですが今回SCAPINの原文を読んでみて、私はこのような解釈はちょっと飛躍し過ぎていると思うのです。例えばですが・・・

『3月11日付けで連合国軍最高司令官は日本人アマチュアの運用に異存ない旨の覚書が発せられ、4月始めには嘆願書を出していたJARL会員や個人に対し"アマチュア無線認可に異存ないとの覚書を日本政府に発したから、詳しくは電波監理委員会RRC にコンタクトされたい" との公式文書が発信された。』

たぶんこんな感じだと想像しますが、アマチュア界でいわれる「禁止の解除」でも、電波監理委員会公式報告書の「復活の了解」でも、いずれにせよ、終戦直後よりCCSや逓信方面へ粘り強く働き掛けを続けられた諸OM方々の功績とそれに対する賞賛が変わるものではないでしょう。関係する原文はここにすべて公開させて頂きました。これらをどう解釈するかは現役アマチュアの皆さんにお任せしたいと思います。

GHQ/SCAPからの再開承認のめどがたたない中、1951年(昭和26年)6月に第一回アマチュア無線技師国家試験が行われ、アマ無線再開への期待が膨らみました。当時のモールス電信の技能を問わないノーコード・ライセンスである第2級アマ資格の件(【参考】当時の国際ルールでは1,000MHz未満を使うアマチュアにはモールス符号の送受信能力が求められていた)は、1951 のページで触れていますので、もし興味ある方はそちらもご覧ください。アマチュア無線の再開や民放ラジオの許可は政府ではなく電波監理委員会によってなされたものです。

最後にひとこと。「禁止された」ことの証明はそのドキュメントを発掘すれば可能ですが、「禁止されてない」ことの証明など無理なので私はここでギブアップです。はたして「禁止の発令」文書が発掘される日は訪れるのでしょうか?