1947

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市民無線通信業務(Citizens' Radiocommunication Service)に460-470MHzを割り当てて、Class 2 Experimental Station で免許するという方針(1946年6月27日)と、その技術仕様と検定仕様の原案(1946年11月13日)が、FCCより示されました。

この指針にしたがって、FCCは1947年早々よりクラス2実験局ライセンスによる市民無線通信局(Citizens' Radiocommunication Station)を試行的に許可するようになり、全米でおよそ40局が誕生しました。これらの無線局をのちになってExperimental CRS(実験市民無線局) またはExperimental CB Station(実験CB局)と呼ぶようになりました(俗称)。

1947年6月26日、FCC Rule Part19(Citizens Radio Service)が成案され、1947年12月1日に施行されました。1945年1月15日にその構想を発表してから、実に3年もの歳月が過ぎようとしていましたが、ようやく世界初のCB無線制度が誕生したのです。ただし名称は Citizens Radio Service に改められました。

CB無線の生みの親である、前FCC委員長E.K. Jett はそれを見届け、肩の荷を降ろすかのように、12月31日をもってFCCを退官し、生まれ故郷ボルチモアに戻ったのです。

SUMMARY この年の出来事

Jan. 15, 1947 - Citizens' Radiocommunication Serviceに関する意見募集を締め切った。

Early in 1947 - FCC のE.K.Jettが、Electronics誌のDnald G. Finkに協力要請。

Feb. 02, 1947 - CRSを想定した日本初のウォーキートーキー実験(39.75MHz)を申請。

Feb. 14, 1947 - John M. MulliganにCitizens' Radiocommunication Serviceのクラス2実験局として第一号W2XQDを付与。

Feb. 24, 1947 - 逓信省MOCのウォーキートーキー実験がCCSから否定される。

Mar. 20, 1947 - Electronics誌を出版するMcGrow-Hill Piblishing Companyにクラス2実験局としてW2XSNを付与。

June 26, 1947 - Citizens Radio Service の検定と技術仕様を成案(FCC Docket No.8449)。7月15日に告示(12FR4766)。

Sep. 10, 1947 - Electronics誌がNewJerseyで水晶発振方式の無線機によるフィールドテストを実施。

Oct. 23, 1947 - FCC Rule Part19(Citizens Radio Service)として成案(Docket 8449)。10月31日に告示(12FR7081)。

Dec. 01, 1947 - FCC Rule Part19(Citizens Radio Service)が施行された。

Dec. 31, 1947 - E.K.JettがFCCを退官した。

  • Jan. 8, 1947 (民放認可のはしごを外された逓信省MOC・・・日本)

日本の占領政策のキャスティングボードを握っていたのは、アメリカ・イギリス・中華民国・ソビエト連邦の4カ国で構成される「対日理事会」だった。GHQ/SCAPから「放送の民主化」について意見を求められた「対日理事会」は、1947年1月8日に「日本の放送事業は国家管理の形式によって行うことをGHQ/SCAPに勧める」と方針を示した。民放拒否である。

その理由は「GHQ/SCAPが放送内容を管理するには、放送事業が日本放送協会BCJに一本化されたままの方が占領政策上で便利だ。」という判断だった。そもそも逓信省に民主化を指示していた民間通信局CCSだったが、対日理事会からの反対勧告には従うより他なく、逓信省MOCに民間放送を認めない旨を伝えた。

ハシゴを外されたのは逓信省MOCである。一旦示した許可方針を、白紙に戻すのは国民が納得しないし、また政府のメンツもたたない。それに既に開局申請書を受理している。両立可能な言い訳が必要だった。苦悩に満ちた連日の作戦会議の末、2月14日になって綱島電波局長名で不許可の方針を表明した。内容を要約すれば次のとおりである。

    1. 民間放送を認めるとする逓信省MOCの方針は今も変わっていない。

    2. しかし思ったように電気産業の復興が進んでいない。日本放送協会BCJの無線設備の保守用に部品を確保するのが最優先なので、民間放送局へ廻す建設資材の余裕がない。

    3. また現在の家庭用ラジオは分離性能が悪く、新型(スーパーヘテロダイン方式)家庭用受信機の導入が必須だが、メーカーの製造ラインが立ち直っておらず、部品不足で新型受信機の大量生産の見込みが立たたず、このまま民間放送局を増やすと混信でラジオが聴けなくなる。

    4. さらに日本経済の現状では広告放送が成り立つとは考えられない。

したがって受理した民間5社の許可申請書は返戻するというものだった。逓信省MOCとしては(民放許可の)方針は変わっていないが、今の日本の国情を熟慮すればやはり許可はできないのだと苦しい説明をおこなった。電波の民主化への動きはここで一旦停止してしまった。

【参考】アメリカは日本の占領において実権を握りたかったが、形式的には連合国による共同管理をとらざるを得ず、ワシントンに極東委員会(Far Eastern Commission)を、東京に対日理事会(Allied Council for Japan)を設ける事で整合性をとった。極東委員会の任務は占領政策の基本方針の決定などで、対日理事会の任務は占領政策とそれに付随した指令の実施を審議し、GHQ/SCAPへ勧告を行うことだった。

  • Jan. 15, 1947 (CB無線への意見募集が締め切られた)

FCCは1946年11月14日よりCitizens' Radiocommunication Serviceに関する意見を求めていたが、この日に締め切られた。どのような意見が集まったかは分からないが、クラスB局の周波数許容偏差0.2%が厳しすぎるので緩和すべきという意見がだされたものと想像する。

  • Early in 1947 (CB無線への開発参入促進を、名門Electronics誌へ協力要請)

FCCのE. K. Jettは製造業界の煮え切らない反応を危惧したのだろうか?E.K. Jettは1947年早々に Electronics誌の編集長Donald G. Finkを訪ね、CRS(Citizens' Radiocommunication Service)機器の開発を加速させるために、協力を要請した。 Electoronics誌は無線技術分野で、もっとも権威がある学術月刊誌だった。しかし第2次世界大戦の勃発で電子技術者の編集員が次々に徴兵され弱体化していた。編集員Donald G. Finkも母校マサチューセッツ工科大(MIT)の研究所における無線防衛プロジェクトに動員されていた。

終戦によりElectronics誌に戻ったDonald G. Finkは編集長に就任し、戦時開発で急激に進化した無線電子技術の最先端現況を世に紹介していた。(Electronics誌を退職後も電子産業界で活躍されたFinkは、特にテレビ分野での功績が高く評価されており、NTSC方式の525ラインは彼の提案だった。IEEE学会では "Donald G. Fink 論文賞" が設けられているほどである。)

E.K. JettはElectronics誌へCRS機器の設計と、普及・啓蒙活動の支援を要請し、D.G. Finkはこれを受諾した。こうして名門Electronics誌による支援活動(Citizens Radio Project)が水面下でスタートした。Class B CRSの開発はAl Grossが既に改良作業をすすめているので、JettはClass A CRSの研究の方をElectronics誌に託したようだ。

研究・実験成果は1947年11月号より "Electronics Sponsors Citizens Radio Project"(Nov. 1947, p80)というタイトルで順次発表された。連載スタートの11月号には元FCC委員長であるE. K. JettからのCitizens' Radiocommunication Service へメッセージも同時に掲載された。これは後ほど紹介する。

ちなみに連合軍の占領下の日本でもCIE図書館を通じて、Electronics誌は電波行政関係者や無線技術者のバイブル的存在となり、この雑誌のおかげで市民無線通信業務のことは、ほぼリアルタイムで日本へ伝わっていたことに留意願いたい。

さらに数年後にはElectronics誌の市民無線通信業務の連載記事を要約して(日本語記事として)日本の雑誌に紹介されている。つまり昭和20年代の日本では(たとえCIE図書館へ足を運べなかったとしても)、多くの無線技術者や関係者が米国のCitizens' Radiocommunication Service を熟知していたといえよう。

  • Feb. 03, 1947 (日本版 Citizens Radio Service 用試作機の実験計画)

アメリカにおけるCitizens' Radiocommunication Service は、前述のとおり既に日本の電波関係者にも伝わっていた。逓信省MOCでは将来の国民への電波解放(アメリカと同様の制度を創設)した場合を見据えVHF帯ウォーキートーキーを試作した。

1947年2月3日、MOCは"Application concerning communication test of VHF portable radio telephone sets" で西荻窪(東京都杉並区大宮町)および長津田(神奈川県横浜市)周辺15kmのエリアでウォーキートーキー(39.750MHz, 0.5W, A3) の試験を行いたいと申請した。

IMPEREAL JAPANESE GOVERNMENT

MINISTRY OF COMMUNICATIONSLS

LS No. 74

3 Feb. 1947

TO : CIVIL COMMUNICATIONS SECTION

SUBJECT : Application

1. Ministry of Communications desires that following application be authorized.

2. In order to promote the efficiency of communication line work we should like to test the VHF portable telephone set as followings

(a) Objects of test

(i) Wavw propagation test for 39.750Mc.

(ii) S/N ratio test.

(iii) Stability and relisbility of the set.

(iv) Effective distance.

(i) How to make the set smaller, lighter and more convenient or carrying about and operation.

(b) Properties of equipment

(i) Frequencies : 39.75 Mc

(ii) Power : 0.5 Watts

(iii) Modulation : AM system

(iv) Power source : Dry cell

(v) Oscillation : Self oscillation system

(c) Testing areas is within 15 Km around following places

(i) Nishiogikubo

(ii) Nagatsuda

SCAP FREQUENCY CALL EMMISSION TYPE STATION NAME AND LOCATION

REG. SIGN POWER(kw)

NO. CLASS

39,750 None A3-0.005-P Radio Invest NISHIOGIKUBO, Omiyacho

Suginamiku Tokyo-to

35 42N

139 36E

Do Do Do Do NAGATSUDA, Yokohama-shi

Kanagawa-ken

35 30

139 29

3. Reason

In field line work, supervisor’s order, communication between the supervisor and workers as well as between workers themselves have usually been carried out by means of verbal, messenger, or by with the resultant delay or misunderstanding.

It is desirable, therefore, to use simple radio telephone set, to establish prompt and accurate communication, and to promote efficiency of work.

The purpose of this experiment is to test whether the portable radio telephone set, manufactured for trial, is useful and effective for the purpose above mentioned.

4. This sets have been already made by Workshop of Supplies Bureau, Ministry of Communications, for the purpose of the trial, and materials for that purpose will not be necessary hereafter.

5. Production cost is 6000 Yen.

6. Term.

2 months after authorization.

FOR THE MINISTER:

T. AMISHIMA

Director of Radio Bureau,

Ministry of Communications

上記パラグラフ3に、ウォーキートーキーを必要とする理由が記されている。アメリカのCitizens' Radiocommunications Service を参考にしつつも、まずは壊滅的打撃を受けた産業を建て直すことが急務とし、作業現場における指示・連絡用の電波を産業界へ解放し、生産性の向上を図ることが企図された。この実験はその目的にウォーキートーキーが有効かをテストするものである。しかしアメリカのように460-470MHz帯の実用化はとても望めないので、なるべく高い周波数でありながら、高額になり過ぎず実現可能な周波数として39MHzが選ばれた。その予定コストは6000円とされた。

個人が対象になっていないのは、当時の日本の現状からは個人的用務やレジャーに無線を利用するユースケースなど思いもしなかったからだ。言いようのないほど深刻な食糧難で、日本人の誰しもが食管法違反を承知の上で、今日を生きるために闇市や近郊農家への買出しに奔走する一億国民総犯罪人の時代だ。ましてや幼い子を持つ親ならなおさらである。

食管法違反者を裁いていた判事が良心の呵責に苛まれ、自分は政府の配給食料しか口にしないと決心したため、ついに栄養失調で1947年10月11日に亡くなった。この判事死亡事件は新聞でも大きく取り上げられ波紋を呼んだ。死ぬか生きるか。そんな時代背景を思えば個人用務の無線ニーズなど有りようもないことがご理解頂けるだろう。

パラグラフ4では既に逓信省にて試作機を完成しており、この申請のための製作部品の調達の必要はないとした。これは民間通信局CCSは、(真空管などの工場が戦災で大きく生産能力を落としており)その無線機製作の実現性や資金調達についても考慮の上で承認審査を行っていたからだ。

個人を含めた電波の全面解放には至らないものの、アメリカのCRSをお手本に産業界へ電波を解放することを企図する、我国初の電波民主化への行動という点で、私は1947年2月3日の逓信省LS第74号が大きな意味を持っていると考える。

  • Feb. 14, 1947 (CB無線局の第一号W2XQD誕生)

FCCはこれまでもCRS(Citizens' Radiocommunication Service)の無線機の開発事業者へClass 1 のExperimental のライセンスを与えていたが、今回初めて利用者側の立場にある申請者John M. Mulligan(Elmira, N.Y.)の4台の無線機に対して、Class 2 ExperimentalのCP(Construction Permit:予備免許)を与えた。

このニュースを業界専門誌であるBroadcasting(Walkie-Talkie Grants, Feb.24, 1947, page60)が報じた。構想を発表以来、2年が経過したにも関わらず、中々正式スタートできていないというネガティブなイメージを払拭したいとする意図により、FCCが発表したようである。

多くのCB専門誌やハンドブックでは第一号CBerをJohn M.Mulligan(W2XQD)としている。その理由は、FCCの公式発表で一般へ向けて報道されたことや、(Al Gross氏とは違って)MulliganはCRSの利用者側の立場だった点である。

このBroadcasting誌の記事ではCPを与えた日付が掲載されていないが、FCCのE.K. Jettと協力関係を結んだElectoronics誌(Citizens Report, June 1947, page78)によると。1947年2月14日である。

    1. 免許人:New York 州 Elmiraの無線技術者John M. Mulligan氏

    2. 免許日:1947年2月14日(Construction Permit)

    3. コールサイン:W2XQD

    4. 免許クラス:Class2 Experimental

    5. 目的:Citizens' Radiocommunication Service の実用化試験(460Mc の電波伝播テストなど)

【補足】アメリカではコールサインと周波数が決まる予備免許(CP: Construction Permit, 建設許可)の日付で報道されることが多い。つまり工事落成検査に合格し、本免許に移行するのは単なる通過儀礼であって、重要なのは誕生日(CP)の方だとしている。

◆John M. Mulligan氏とは

New York州 Elmiraに住む John M. Mulligan は戦前からのアマチュア無線家(W8RTW)である。彼は1940年ごろ、5m Amateur Band(56.0-60.0MHz)に取り組んでいた。彼の5m Band(56-60MHz)から10m Band(28-30MHz)へのコンバータの記事がRadio News(1940年7月号)に掲載されている(下図)。

Mulliganは戦後はW2RTWのコールサインでAmateur活動を続けた。また1960年頃には、27MHz のClassD CRSも開局した。そのコールサインは20W0853である。

(John Mulligan, W8RTW, 5M-10M Converters, Radio News, July 1940, p18)

John M. MulliganがW2XQDを取得するに至った経緯やどんな実験がなされたかについて、CB専門誌S9 Magazineが、Mulliganへ直接インタビューしたと考えられる記事(CB-1947 Style, S9 magazine, Oct.1968, p51)や、Electoronics誌(Citizens Report, June 1947, page78)を参考にまとめてみる。

1944年ごろ、Mulliganは通信機メーカーMotorola社のサービスステーションで152MHz帯による基地局―車両間通信の調査実験を請け負っていた。彼はFCCに申請し、152MHzの移動実験局(W10XNGおよびW10XNH)の個人ライセンスを得た。

1945年1月15日、FCCがDocket No.6651でCitizens' Radiocommunication Service構想を発表した。これに興味を持ったMulliganは、その可能性についてMotorola社のセールスマネージャーと話し合い、研究に着手すべきだと進言した。

◆5m Band(56-60MHz)トランシーバーを 460MHz帯に改造

1946年秋になって、クラスB のCitizens' Radiocommunication Service の技術仕様の原案が発表になったため、Mulliganは460MHz Walkie-Talkieを試作するために自分のジャンク箱をあさった。

そこで見つけたのは、以前彼が作った5m Amateur用 Walkie-Talkieだった。5m Band(56.0-60.0MHz)はDocket No.6651(戦後の新分配プラン)で廃止が決まり、FCC Order130-B(1946年1月16日、連邦官報11FR1218告示)により1946年5月1日をもって消滅した。この5m Walkie-Talkieは使えない無線機になった。(1946年3月1日から新6m Band 50.0-54.0MHzがオープンしたので、米国では3-4月の2ヶ月間は50.0-54.0MHz、56.0-60.0MHzの両方がAmateur Bandだった。)

これを465MHz帯に改造した。真空管6J6をフロントエンドに使った超再生検波方式の2球式 Walkie-Talkieである。

◆FCCのCB技術仕様原案に沿った世界初のCBトランシーバー

彼の465MHz Walkie-Talkie を説明する。高周波を受け持つ "6J6" (1本の真空管内に3極管が2つ入った複合管)とオーディオ増幅を受け持つ "3Q5" (5極管)、そしてバッテリー電源で構成されている。 左の写真はMulliganのWalkie-Talkieの背面板を外して、内部が見えるように撮影したものである。下段にバッテリーを内臓したため大型になったようだ。Al Gross のWalkie-Talkie はバッテリーを外出しにしてショルダーバッグに入れたため、無線機本体は小型だった。

複合管 "6J6" の片方は受信時には超再生検波受信部として働き、送信時には送信波の発振部になる。もう片方の "6J6" はマイクロフォンの初段低周波増幅に使用された。

5極管 "3Q5" は、受信時には "6J6" の超再生検波出力信号を増幅してハンドセットのスピーカーを駆動する。送信時にはマイクアンプからの音声信号の変調用増幅器として用いられた。

このWalkie-Talkie を4台製作した。Walkie-Talkie どうしでの実用通信距離は4マイル(約6.5km)だった。

John M.Mulliganが作った465MHz Walkie-Talkieの貴重な写真が、CB専門誌S9 the citizens band jounal(1962年8月号)の表紙に使われている(左図)。

天井には持ち運び用の握り手と、その後方には1/4波長の垂直ホイップアンテナが立っている。Al Gross のT型をした半波長ダブレットとは随分趣が異なっている。

フトントパネルの上側には大きめの周波数ダイアルのようなものがあり、その左下の小さなツマミは音量調節だろうか?

また周波数ダイアルの右下のツマミは、送信と受信の切り替えスイッチのように見える。正面中央部からコードが左側面に掛けてあるハンドセットへ伸びていることから、スピーカーは本体には内蔵されていないのだろう。このハンドセットの大きさから考えて、この460MHz Walkie-Talkie は想像以上に大型の装置のようだ。

正面中央のやや下に、(やや消えかかっているが)コールサインXQDの文字が見える。これがFCCが1946年に発表したCB仕様原案に基づく、第一号CB機である。

このS9 the citizens band jounal(1962年8月号)の表紙の下方には、赤い文字でこう印刷されている。THIS IS THE WORLD'S FIRST CB RIG !

◆W2XQDによるWalkie-Talkieの実験

MulliganはChevy社のステーションワゴン車に152MHzの無線機と、460MHzのWalkie-Talkie(と3/4波長のスリーブアンテナ)を設置した。Motorora Shopの基地局から20マイル以上離れても152MHzの無線機は充分な品位で通信ができた。

そして全く期待していなかった460MHzの電波でも、途切れながらも最高で16マイルの到達が確認できたという。ただしこれは460MHzの受信電波を152MHzに変化するコンバータを作製し、基地局側の受信機をより高性能のスーパーヘテロダイン方式(親機152MHz)にして受信した場合だ。

結局Walkie-Talkie どうしの通信距離はせいぜい5マイルまでという結果が導かれたという。実験で一番大変だったのは152MHzを運用しつつも、同時に(途切れ、途切れになる)460MHzの電波をトレースすることだった回想している。周波数安定度が最大の課題だったようだ。

◆Mulligan氏が27MHz帯CBを予言した時代背景

彼はMotorola社への通信実験報告書に「低電力でも安定した通信を求めるならば、水晶制御で周波数を安定させ、さらにもっと低い周波数が望まれるだろう。たぶん27MHz付近が現実的だろう。」とのコメントを付けた。まるで予言者のように27MHz帯CBを口にしている。しかしMulliganは予言者ではない。なぜ彼にはそんな事が言えたのか?そのあたりの時代背景を補足しておく。

1930年代のアメリカでは中波の放送バンドの混信が激化し、放送用周波数の不足が問題になっていた。中波は夜間になると遠距離まで到達するため想定外地域への混信も多かった。そこで遠距離には伝播せずに、またラジオ受信機の生産コストが高額にならずに済む、分配可能な周波数を探していた。それが周波数25~27MHzだった。FCCはここを第2の国内放送バンドとして位置付け、放送実験を許可していた(ただしFM変調方式の放送は40MHz帯で許可)。実際にいくつかのラジオ局が、中波帯で放送中の番組を、この26MHz帯(と40MHz帯)にも同時サイマルを始めていた。

しかし時期が経つにつれて、これらの周波数でも季節によって意外に遠距離まで到達することが明らかになりはじめた。混信のない第2の国内放送バンドとしては不適格だったのだ。そのため1945年の戦後の周波数分配案(Docket No.6651)では第2の国内ラジオ放送バンドにはスポラディックE層の影響を受けない88-108MHzを選定した。国内放送バンドとしてリザーブされてた25~27MHzの広大な2MHz帯がぽっかりと空き地になるので、ISM 設備用や私企業向けの新無線サービス用として、ここの争奪戦争が起きていたのだ。Mulliganの27MHz CBの発言これを意識してのものだったと考えられる。

  • Feb. 24, 1947 (日本版Citizens Radio Service用試作機の実験申請が却下)

1947年2月24日、民間通信局CCSは逓信省MOCへの覚書 Subject: "Authorization to Conduct Experimental Test for Developing VHF Portable Radio Sets"で、逓信省MOCのウォーキートーキー実験(2月3日申請, 逓信省LS第74号)の却下(not approved)を通知してきた。

その理由は「日本の現状を鑑みれば、そんなものは必要ないだろう」だった。この覚書の最後にあるNote For Record のパラグラフ1には次のように記されている。

『This application is not being approved because it is believed that the service for which the equipment is to be used is not necessary or desirable at this time. 』

たしかにCCSの言い分にも一理あって、戦災で国内の有線通信網がズタズタに切られたまま、資材不足で復旧は遅々として進んでいない。県庁所在地のような大都市間でも電話がまともにつながらない状態で、まるで江戸時代である。有線通信事業を所管する逓信省MOCにはCB無線よりもなすべきことが山積していたのは事実といえよう。

日本においてCB無線が再び企図されたのは敗戦の混乱も落ち着きだし、民主的電波法の草案作りが始まった1949年になってからである。1949年秋に54MHz以上のいくつかの周波数帯の電波行政権が電波庁RRAへ返還されて、(その周波数帯内では)自分たちの判断だけで無線局の承認を与えられるようになったことが直接的な追い風だった。

  • Mar. 20, 1947 (マグロウヒル出版社にW2XSNが許可された)

1947年3月20日、FCCはElectronics誌を出版しているマグロウヒル出版社(McGrow-Hill Piblishing Company)に対して、CRS の実験局(Class 2 Experimenta)としてコールサインW2XSNで免許(Construction Permit)した。

ただしW2XSNには水晶制御によるClass A CRS業務の無線設備を$100以下で製作するようにとFCCから注文が付いたという。こうしてElectronics誌によるCitizens Radio Project が始動した。開発費用はマグロウヒル出版社が負担し、設計製作にはSperry Gyroscope Companyの技術者であるWalter C. Hollisが主に担当した。

  • Apr. 03, 1947 (FCCが修正した技術仕様案を再提示)

1947年4月3日、FCCは無線機製造事業者に対して、昨年11月の原案を一部修正したCitizens' Radiocommunication Service の技術要求仕様案と検定試験案を再公開した。以後、FCCはFCC Rule & Regulations の改定条文の成案作業に入った。

当時のFCC Rule & Regulations は15条で構成されていた(左図クリックで拡大)。たとえばAmateur Radioは第12条である。今回Docket No.6651で新しい無線サービスがいくつか誕生することになり、第16条以降に4つの新サービスの条文が追加されることになっていた。

FCCとしては「第19条 市民無線通信業務」の成案作業を急いだ。とにかく技術要求仕様と検定試験仕様だけでも、早く確定しないと、製造時業者の装置設計が進まないからである。

  • June 26, 1947 (Docket No. 8449) Proposed

  • July 15, 1947 (連邦官報告示 12FR4766)

1947年6月26日、FCCは(Public Notice 8387)Docket No. 8449で、FCC Rule and Regulation 19条 市民無線業務の技術要求仕様と型式認定仕様を成案した。意見募集を1947年8月4日までとした。

("Citizens Radio Service, Notice of Proposed Rule Making", July 15, 1947, Federal Register 12FR4766)

大きな変化があった。まず市民無線通信業務(Citizens Radiocommunication Service)というとても長い名称が、市民無線業務(Citizens Radio Service)に改められた点である。

そもそもFCCは記者会見などでは意図的にWalkie-Talkieという呼称を用いて、1920年頃にブームになった1,500kHzのCitizens Radio(放送行為)との混同を避けてきたふしがある。また460MHz帯を一般開放するが、放送行為は認めないと国民に繰り返しPRしてきた。

今回FCC Rule and Regulation の条文の成案にあたり、2年間の啓蒙期間を経て、(Citizens Radio Service という言葉を使っても、)もう国民に混同される恐れは低くなったと判断したのかも知れない。

昨年11月13日の原案との技術上の注目すべき差異点は、Class B CRS(Citizens Radio Service)の許容周波数偏差が0.2%から0.4%に緩和された点だろう。製造メーカー側からの要望に沿ったものと思われる。またClass B CRS の終段入力は原案では示されていなかったが、今回10W以下とした。Docket 8449の主要仕様を下にまとめておく。

Al GrossやMulliganのClass BのWalkie-Talkieは、周波数を465.00MHzにセットするとして、その前後0.4%(1.86MHz)の偏差が認められ、463.14-466.86MHz内にあれば許容される。

Class A 局は460-470MHzの全てで運用できるが、Class B band(462-468MHz)内では最大終段入力は10wに制限される。これはClass B 局を保護するためである。

  • June 1947 (ハリクラフターズ社が試作機を公開)

ハリクラフターズ(Hallicrafters Company)社が開発中のショルダータイプのシチズンス・ラジオの試作品がプレスへ公開された。しかし写真だけで、その仕様は一切不明である。

(Electronics誌1947年6月号p182)

  • June 30, 1947 (Citizens Radio の免許局数が12局になる)

【局数統計】

FCCの免許局数統計では1947年6月30日時点のCitizens Radio Stationは12局だった。実はこれは1948年になってFCCが明かした数字なのだが、これについて説明しておこう。

FCCの1945, 1946, 1947年度報告書の免許局数統計ではCitizens Radio Station は実験局のくくりの中でカウントし、発表されてきた。つまり1947年にCRSが何局だったかは我々一般人が知るところではなかった。

FCCの事業年度(Fisical Year)は毎年7月1日から始まり6月30日で終わる。FCC Rule & Regulation Part19でCitizens Radio Serviceが発効したのは1947年12月1日であるから、これは1948年度(1947年7月1日から1948年6月30日)の中で起きた出来事である。

つまりFCCとしてはCitizens Radio Service を法制化し、正規の無線局種になったことから、1948年度報告書の無線局数統計からは、Citizens Radio を(Experimental に含めずに)独立させて局数を発表するようになった。

1948年度報告書(上記右側)ではCitizens Radio は48局(1948年6月30日時点)である。 この統計では前年増減数も発表していたため、さかのぼって1947年度(1947年6月30日時点)のCitizens Radio の局数も同時に掲載され、我々も1947年6月時点の局数を知ることができたというわけだ。(なおこの数字は事業年度末における局数であって、年度中に免許した局数ではない。従ってごく短期間だけ免許された局の場合はこれに含まれていない。)

◆Citizens Radioの開局申請数(July 1, 1946 - June 30, 1947)

【申請数統計】

ちなみに1946年7月1日から1947年6月30日までの1年間におけるCitizens Radio の開局申請数は20件だった。前述の免許数が12局というのは1947年6月30日の時点における断面なので、すでに廃局したり、申請は受理されたが免許に至っていないものを含めて20件の開局申請があったようだ。

  • Aug. 4, 1947 (Docket No. 8449へのコメント締め切り)

1947年8月4日、FCCはDocket No.8449(June 26, 1947)への利害関係者からのコメントの受付を予定通り締め切った。特に反対意見はつかなかったため、Docket No.8449を項目ごとに分割して、FCC Rule and Regulation Part 19 を構成する項立ての作業に入った。

  • Sep. 10, 1947 (W2XSNのフィールドテスト)

E.K. JettがElectronics誌にClass A CRSの推進プロジェクトを依頼し、マグロウヒル出版社のCRS局W2XSNの水晶制御方式による465MHzのFM送信機が完成した。

原発振4.3056MHzで変調したあと、これを3逓倍で3回(12.917MHz - 38.75MHz - 116.25MHz)持ち上げて、次に2逓倍を2回(232.5MHz - 465.0MHz)で出力0.25wを得た。

(Side View)

(Top View)

◆Electronics誌の"Citizens Radio Project" 実験・・・Walter C. Hollis の車載局(W2XSN)

1947年9月10日、マグロウヒル出版社のElectronics誌の"Citizens Radio Project"の第一段として送信専用の車載局(W2XSN, 上記0.25wの送信機)と、受信専用の基地局の間でフィールドテストが実施された。受信機の方はまだ完成していないので、軍用UHF受信機を用いての電界強度測定と、移動体通信での伝搬特性を収集するのが目的だった。

左の写真の紳士が、Electronics誌のDonald G. Fink編集長からCitizens Radio Project を委託されてた、Sperry Gyroscope Companyの無線技術者Walter C. Hollisである。

W2XSNの送信機は自動車にセットされた。車の座席に置かれているのがHollis が設計した465MHzの0.25w送信機だが、ご覧のようにまだケースには収められていない。シャーシ剥きだしだった。またW2XSNの送信アンテナはグラウンドプレーン型で、この車の天井に取り付けられている。

◆Electronics誌の"Citizens Radio Project" 実験・・・Jerry B. Minter の電界強度測定

このテストにはニュージャージー州、Boontonの"Jerry B. Minter of the Mesurements Corporation" が協力した。Jerry B. Minter は1913年生まれで、1947年に無線学会IRE(現:米国電気電子学会IEEE)の北部ニュージャージー地区の初代議長となった人物である。また彼はElectronics誌のDonald G. Fink編集長と同じくマサチューセッツ工科大学(MIT)のOBでもあった。

受信拠点となったJerry B. Minter の研究所では、W2XSNからの465MHzの受信信号を軍用無線機AN/APR-4で30MHzの中間周波数に変換し、それをハリクラフターズ社製S-27 FM/AM受信機を用いて電界強度を測定した。受信アンテナはMinter の研究所の屋根(15フィート=4.6メートル)にグラウンドプレーン型を設置した。

◆フィールドテストの結果

さてテストの結果だが、ニュージャージのMinterの研究所から1/3マイル(約500m)離れると信号が減少しだし、1/2マイル(約800m)で受信できなくなった。いろんな周囲環境を考慮すると、465MHzの0.25W送信機の実用距離は1/3マイルという結論になった。

また振動の多い悪路などを含めて、6時間ほど走行し送信テストを繰り返したが、送信機のトラブルも、再調整も必要なかった。

◆Hollisの10wパワーアンプと受信ユニット

この送信機はまだ製作過程である。HollisはこのあとClass A Citizens Radio局の実験のために、0.25Wを10Wに増幅するパワーアンプを設計して、Electronics誌1948年12月号(Walter C. Hollis, Power Amplifier for the Citizens Transmitter, Dec.1948, pp84-87)に発表した(写真の右)。

また受信ユニットの方だがダブルスーパーヘテロダイン方式(1st IF:15MHz, 2nd IF:455kHz)の高周波1段・中間周波3段増幅のFM受信機として完成し、Electronics誌1948年3月号(Walter C. Hollis, RECEIVER for the Citizens Radio Service, Mar.1948, pp80-85)に発表した(写真の左下)。

こうして最終的に10wのClass A Citizens Radio Stationの装置が完成した。

  • Oct. 16, 1947 (ファイスナーメモ:電波の民主化が再開・・・日本)

1947年1月の「対日理事会」の民間放送不許可方針の表明以来、政府の電波の民主化政策に急ブレーキが掛かっていたが、民間放送を求める運動はますます激しさを増してきて、ついにGHQ/SCAPも国民の声に耳を傾けざるを得なくなった。

1947年(昭和22年)10月16日、CCS(民間通信局)は鈴木逓信次官、綱島電波局長、日本放送協会の古垣専務理事らを呼び出した。GHQ/SCAP側として、CCSの次長ラティン大佐、アレン次長代理、ミラー放送課長、ファイスナー調査課長代理が、またCIE(民間情報教育局)からはクルーズ放送班長が出席した。ラティン次長からCCSとしての基本方針を示したあと、ファイスナーが詳細説明を行った。

1) 放送をより深く掘り下げ区分し(国内放送、国際放送、テレビ放送のように)、その単位ごとに規定すること

2) 放送の自由、不偏不党、公衆への責任、技術諸条件の順守の基本4原則を明らかにすること

3) 電波管理はすべての日本政府の行政官庁から独立した委員会に委ねること

そもそも日本の無線電信法は、各無線局ごとに規定するようには考えられていない。無線局は法1条の官設局(Governmental Station)か、法2条の私設局(Private Station)の2種類という区分だけだ。そして法2条第5号の私設無線局が今でいうアマチュア局や実験局であり、ラジオ放送局は法2条第6号の私設無線局といった具合に、法2条の例外条項の号数が無線局種を指していただけだ。それをFCC規則のように各無線局種別に規則を定めよというのがファイスナーの命令の1)だった。

また3)に関しては『委員会はいかなる省からも独立し、いかなる政党、政府の閥、集団からも支配を受けない国民に奉仕する機関であり、民主的政府を通じて自己の欲求と希望を表明する日本国民によって支配される機関であるべきだ』とした。

この命令は日本人にはまったく未知の世界のものだった。無線電信法の手直しではなく、まったく新たな発想の法体系と管理組織を作れと強く迫られたのである。日本に簡易無線制度を作ったのは日本版FCCである「電波監理委員会」という内閣から独立した合議制行政委員会組織だった。この10月16日の指令は「ファイスナーメモ」と呼ばれている。

以後無線に関する法律は電波三法と呼ばれる「電波法」「放送法」「電波監理委員会設置法」で成案されていくことになる。しかしその作業はいばらの道で、日本側の提案はことごとくCCSやLS(総司令部法務局)に拒否され、その都度アメリカナイズされていった。

  • Oct. 23, 1947 (Docket No. 8449) 可決承認

  • Oct. 31, 1947 (連邦官報告示 12FR7081)

1947年10月23日、FCCはFCC Rule & Regulations Part 19, Citizens Radio Service(Docket No.8449, June 26, 1947)を可決した。これは10月31日に連邦官報(12FR7081)で告示され、1947年12月1日を施行日とした。今回の告示では具体的にPart 19の各セクション番号を割り付けて、Part19 としての体裁を整えてた。

のちほどこの世界初のFCC Rule & Regulations Part 19, Citizens Radio Service の条文を紹介する。それと同じ文面なので、ここでは連邦官報告示の掲載は省略するが、以下の3つの部分で構成されるものだった。

    • 基本定義 ・・・ Basis and purpose (Part 19.1)

    • 技術仕様 ・・・ Technical Specifications (Part 19.101-19.108)

    • 検定仕様 ・・・ Type Approval of Equipment (Part 19.201-19.205)

これにより市民無線業務の無線機の技術要求事項および型式承認手続きが確定し、製造業者の設計仕様が定まった。Citizens Radio Service の早期スタートを促進するという意味で非常に意義ある決定だった。

  • Oct. 24, 1947 (Part 19 施行後の Class 2 実験局免許の扱いを決定)

  • Oct. 31, 1947 (連邦官報告示 12FR7095)

Part 19 Citizens Radio Service を12月1日より施行するにあたり、現状との整合性をとらなければならない問題があった。それは既に免許を与えているExperimental CRS(Class 2 実験局免許で運用するシチズンス・ラジオ局)の扱いである。

FCCは12月1日にCitizens Radio Service 施行後も、検定合格機の発売や運用規則が定まるまでの当面の期間は、これまでどおりClass2 Experimental 免許のままで、Citizens Radio を運用しても良いことを10月24日に決定し、10月31日に連邦官報(12FR7095)で告示した。

業界誌Broadcastingの11月3日号("FCC Soon to Announce Rule on Citizens Radio", Nov.3, 1947)はFCCがCRS(Citizens Radio Service)の技術仕様と検定仕様を最終決定したことを伝えた。

そして近く一般市民がシチズンス・ラジオの免許を受けられるための準備が整う予定だが、それまでは現在の実験局免許で運用を継続されるだろうと報じた。

  • November 1947 (Electronics誌のCitizens Radio Project の連載開始)

FCCのE.K. Jett と Electronics誌のD.G. Fink が合意した"Citizens Radio Project" によるW2XSNの実験が始まっていたが、それがいよいよ連載記事 "Electronics Sponsors Citizens Radio Project" となり世に発表される時がきた。

第一回は1947年11月号(下図)だった。

右ページの囲み記事として、FCCのE.K. Jettからのシチズンス・ラジオへの熱いメッセージが掲載された。前FCC委員長のJett は一般市民に電波を解放するこの無線制度の創設に情熱を注いでいた。

Electronics誌の"Citizens Radio Project" の連載は毎号ではなく、下表のように飛び飛びに発表されていった。実験機器の製作や、運用テストに時間が掛かるからだろう。送信機, 受信機, アンテナ, トランシーバー, アンプ, 波長計, 信号発生器というように460MHz帯の装置開発に必要なすべての事項の特集を組んだという点でElectronics誌がCitizens Radio促進に果たした役割は大きかった。

Electronics誌はアメリカ国内だけでなく日本でも読まれた。東京日比谷を初め、日本全国に開設されたCIE図書館を通じて閲読できたようだ。この当時を過ごした複数の技術者の方々が、ご自身の著書などでCIE図書館で技術情報を得ていたという体験を語っておられる。戦争で外国の技術情報が途絶えていた反動もあり、多くの日本人研究者や技術者がCIE図書館を利用したようだ。アメリカのCitizens Radio のことは1948年(昭和23年)には日本でも知られるようなっていたと想像される。その後Electronics誌の"Citizens Radio Project"の連載は(日本語で要約されて)、日本の雑誌にも紹介されている。

  • Nov. 3-5, 1947 (ハリクラフターズ社の465MHz 研究発表)

1947年11月3日から5日まで、米国電子工業会議(National Electronics Conference) がシカゴで開催された。この会場でハリクラフターズ社のRobelt E. Samuelson がCitizens Radio Service の業務概要の説明および、12月1日より施工されようとしているFCC Rules and regulations Part 19の技術仕様と、検定仕様について詳細に発表した。

さらにSamuelson はElectronics 誌1948年1月号に"FIELD TESTS in Citizens band" と題してハリクラフターズ社で行われたアンテナと送信パワーと実用距離のフィールドテストの結果を5ページにわたって詳細に発表した。

写真は多素子コーナーリフレクターのアンテナと、左が電源ユニット、右が465MHz, 2Wのトランシーバー本体部である。

実験の結果、1w出力の移動局同士の通信距離を、周囲の見晴らし環境によって下表のように導いた。

しかし結果的には同社のCitizens Radio 市場への参入は見送られた。なおハリクラフターズ社の実験局はAl Grossと同じくClass 1 Experimental だったと想像されるが、コールサインなど詳細はわからない。

当時のCitizens Radio Service 用の無線機を研究開発していた製造業者に関する情報は、Al Gross が設立したCitizens Radio Corporation 以外ほとんど残っていない。無線機メーカーのハリクラフターズ(Hallicrafters Company)社が研究開発していた他に、RCA社とMotorola社も手掛けたようだがあまり力を入れなかったようだ。

軍用無線などに較べ、民生用無線機は販売単価が格段に安く、魅力がなかったのではないだろうか。

  • December 1947 (Al Gross がUltraphoneにプリント基板を採用)

1947年はAl GrossのWalkie-Talkie開発に関する情報がほとんどない年だ。

Walke-Talkie開発の課題は大きく2つあったようで、ひとつは周波数安定度、そしてもうひとつはコストダウンである。

高い周波数なので配線の引き回しなどで、各個体にバラツキが出ないような製造方法が求められた。Al Grossは当時ようやく実用化が始まろうとしていたPrinted Circuit(プリント基板)に注目していた。1947年の暮れにはプリント基板を採用した試作機がほぼ完成していたようだ。

Tele-Tech誌(1947年12月号)に"Present Status of PRINTED CIRCUIT TECHNICS" というプリント基板技術の最前線を伝える特集記事(pp29-33)が組まれた。複数社の先行導入例が会社単位に紹介されていて、そこにはAl GrossのGross Electronics社の記事("PC in Radio Receivers by A. Gross, Gross Electronics", p33)がみられる(sazu )。4球式で送信出力0.7Wで1-10マイルの通信距離を想定していた。6VのA電源(ヒーター用)と135VのB電源(プレート用)の2種類のバッテリーが必要としている。

またアメリカ国立標準技術研究所NIST(National Institute of Standards and Technology)の前身組織である国立標準局NBS(National Bureau of Standards)の1948年版NBS special publication(p61)に、Al Grossが "Printed Circuits in Transmitters and Receivers" というタイトルでより詳しく465MHz セットへの導入を説明している。

この記事では社名がCitizens Radio Corp.となっているが、Al Grossが上記のGross Electronicsと、どのように使い分けていたのかが私には良くわからない。

  • Dec. 1, 1947 (世界初のCitizens Radio Service が誕生)

FCC Rules and Regulations Part 19 - Citizens Radio Service (CRS)が1947年12月1日に施行された。世界初のCRS制度がアメリカに誕生したのだ。

その原文を全文紹介する。ただしせっかくの記念すべきCRS誕生時の条文なので、1947年10月31日の連邦官報告示(12FR7081)ではなく、(内容的には同じなのだが)アメリカの行政規則を集成した法典である、連邦規則集(CFR: Code of Federal Regulation)に収録されたPart 19 を皆さんにご紹介することにする。

FCC Rule and Regulations Part 19 には "(ADDED)" と今回追加された部分であることが明示されている。制定Source は "Docket No. 8449, Oct. 23, 1947, effective Dec. 1, 1947" (12FR7081)である。

なお検定合格機がまだ発売されていない(まだ検定合格した無線機がない)こと、それと無線知識の全くない一般人による運用についての若干の運用規則を追加改正するまでは、FCCはClass 2 Experimental ライセンスによりシチズンス・ラジオを許可した。

  • December 1947 (クラス2実験局ライセンスのシチズンス・ラジオ局リスト)

S9 Magazine (CB... the way it was, Nov. 1967, S9 Magazine, pp68-69)によると1947年末におけるCitizens Radio Stationは下表の40局(35免許人)だった。Al Grossが1945年に免許されたW8XAF,W8XAG,W8XAHもリストアップされている。名前がIrving A. Gross になっているが、Irvingは彼が特許の出願などの公式資料で名乗っていたもので、このシチズンス・ラジオ局リストの出典は明らかではないが、その信憑性は非常に高いと私は考えている。

【注】 実験局のコールサインはサフィックスがeXperimentalのXから始まり、その免許は最大で1年である。更新しなければ次々と新しい免許人へコールサインが使い回されるため、アルファベットの順番は必ずしも免許順を示すものではない。

もうこの時期になると、電波実験よりCB無線としての実用通信が行われるようになっていた。シチズンス・ラジオW2XRV のFrank Heubner はAmateur 無線家(W2IQR)でもある。彼はボーイスカウト活動やレジャーボートなどの移動無線機としてシチズンス・ラジオを開局していた。

またシチズンス・ラジオW2XVLのWilliam S. Halstead は、1920年代の創世記のアマチュア無線家(Amateur Callsign: 2LH)でもあり、FMマルチプレックス(ステレオ放送)の研究者としても有名である。彼は高速道路での自動車無線にシチズンス・ラジオを活用していた。

変り種としてはロサンゼルス市にシチズンス・ラジオW6XAGが免許されている。何らかの公共サービスで試験的に使っていたのだろうか。モトローラ社のシチズンス・ラジオW9XYNなどもリストされているがこれは開発用だろうか。

このようにCitizens Radio Service制度が発効した1947年末頃の、シチズンス・ラジオは会社や組織が免許人のものもあるが、個人免許の局が目立つようだ。

  • Dec. 31, 1947 (E.K. Jett 前FCC委員長がFCCを退官)

国民の生活を豊かにするCitizens Radio 制度の創設を夢見て、全力を注いだE.K.Jettは、この制度の成立・施行を見届けると、12月31日付でFCCを静かに去り、故郷Baltimoreに戻った。

海軍の通信将校だった Jett が(ラジオ・カオスの混乱解決のために)創設されたばかりの連邦無線委員会FRC(Federal Radio Commission : FCCの前身組織)に出向してきたのが1929年。まもなく海軍を退官してFRC職員となり、1938年には(FRCから改組された)連邦通信委員会FCCの無線監督部門のトップに就任。そして1944年にはFCC第5代委員長にまで登り詰めた。その彼がAl GrossとともにCBを作ったことから、"Father of CB" として称えられている。

(E.K.Jett - He Started CB, S9 Magazine, Jan.1969, page21)

E.K. Jettの功績はCB無線制度の創設だけではない。現在の世界的な業務別周波数分配の骨格は1947年のアトランティックシティ会議で作られた。その土台になったのが、E. K. Jett が精力的に利害関係団体を調整し、意見をとりまとめた周波数分配のアメリカ提案(Docket No. 6651)だったことを考えれば、彼の功績がいかに大きいものであるかご理解いただけよう。

いま諸々の事件を経て世界的に27MHz帯にCB無線があるのも、また50MHzや144MHzのアマチュアバンドがそこにあるのも基をただせば、すべてJettの仕事(Docket No. 6651)の結果だ。彼は間違いなく、電波行政の分野で歴史に名を残した偉人の一人である。