Aug 45 AFRS

日本の敗戦が色濃くなってきた1945年7月12日、アメリカの陸軍省は戦略情報局OSS(Office of Strategic Service、CIAの前身)調査分析部によりまとめられた日本の放送事情に関する機密文書 "Civil Affairs Guide, Radio Broadcasting In Japan"(War Department Pamphlet No. 31-64)を完成させました。今、これを見るとアメリカ軍は既に終戦前から日本放送協会BCJ(Broadcasting Corporation of Japan)の歴史から組織・人員・施設・経営状態に至るまで全てお見通しだった事が解ります。

日本への進駐軍放送、AFRS(Armed Forces Radio Servive)は米太平洋陸軍US AFPAC(Army Forces Pacific)の計画運用課P&O(Planning and Operation Division)で実施計画が立案されました。それは日本放送協会BCJの第二放送をAFRS化するものでした。もともと計画されていた日本上陸作戦(ダウンフォール作戦)は、第一段階で1945年11月に鹿児島県に密集する日本軍の航空隊基地を占拠して日本各地への空爆拠点を建設(オリンピック計画)し、第二段階では1946年3月に湘南海岸と九十九里浜から急襲上陸する史上最大規模の地上戦(コロネット計画)で、いっきに帝都東京を制圧するものでした。

しかし1945年8月15日に日本のポツダム宣言の受諾発表で、これらの作戦は無用になり、まず横浜、大阪、大湊(青森)、八幡(福岡)、仁川(南朝鮮)への進駐拠点の建設が計画されました。P&Oでは敵地で戦闘中の将兵に対する戦意高揚や戦況伝達を念頭にした放送サービスではなく、終戦後の新しい進駐計画に沿った、進駐将兵向け慰安放送サービス(音楽・スポーツ中継・ニュース等)を目的とする日本のAFRSを計画しました。

これには進駐兵士のストレスを和らげ、被占領民に対する非合法な暴走行為を防ぐ狙いもありました。朝日新聞社が印刷だけを委託されていた、従軍日刊紙「星条旗新聞」(Stars and Strips, 日曜のみ休刊)の後半紙面には必ずアメリカ美女の水着写真が登場します。時には下着姿だったりします。それが毎日欠かすことなく美女オンパレードで続いたのですから驚きです。終戦したにも関わらず、動員解除されない若い招集兵による進駐部隊ですから、やはり秩序維持に慰安放送は欠かせないものだったのでしょう。

また日本人にとっても唯一の娯楽だった家庭のラジオからは弱々しい電波の日本語の放送(BCJ)を見下すように、進駐軍の英語放送が高らかと鳴り響きました。これを聴き『ああ・・・日本は負けたんだ』と思い知らされたと、当時を生きた多くの方々が語っておられるように、「進駐軍への反抗心」を喪失させるAFRS効果は絶大だったようです。

そういう意味から思えば、接収したJOAKやJOBKのコールサインを使わず、あえてアメリカのWVTRやWVTQを使い続けた理由が見え隠れしています。なおAFRSは一般の日本人からは「進駐軍向け放送」(俗称)、または単に『進駐軍放送』(俗称)と呼ばれましたので、本サイトでもそう表記することにしました。

1945年8月28日、午前8時28分に先遣隊150名が厚木飛行場に、そして30日にはSCAP(連合国最高司令官マッカーサー元帥)も到着し、日本の占領が始まりました。1945年8月31日、米太平洋陸軍US AFPAC はBCJに対して、米本国向けおよび進駐軍向けの放送用に施設提供を口頭で命じました。

  • August 19, 1945 ・・・ US AFPAC による日本AFRS置局の当初案

1945年8月15日、日本帝国はポツダム宣言の受諾を発表した。8月19日、米領フィリピン・マニラにあった米太平洋陸軍US AFPAC(United States Army Forces Pacific)総司令部の通信長室OC SigO(Office of the Chief Signal Officer)では日本本土と南朝鮮の進駐過程における放送施設の占領プラン "Japanese Broadcast Facilities" を立てた。

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◆上陸開始直後(Phase II)に日本放送協会BCJから現状報告させ、放送会館(Broadcasting House)とJOAK送信施設および、国際電気通信ITCの名崎送信所と小室受信所を押さえる。

◆次(Phase III)に、マニラと米国本土(サンフランシスコ)とのAT&T通信回線を確保。

◆PhaseIVで被災放送施設の補修し、広島・札幌・仙台・大阪・名古屋・熊本の放送センターを接収するというものだった。

ちなみにこの宛先のAkin准将はのちに日本の電波行政権を握るCCS局長に就任することになる。

併せてAFRSの置局順については、以下の計画がたてられた。

AFRS Plan, 1st Phase

第六軍 Sixth Army:「佐世保・長崎」、「大阪・京都・神戸」地域

第八軍 Eighth Army:「関東平野」、「青森・大湊」地域

第24軍団 XXIV Corp.:「京城」地域

AFRS Plan, 2nd Phase

第六軍 Sixth Army:「下関・福岡」、「名古屋」地域

第八軍 Eighth Army:「札幌」地域

第24軍団 XXIV Corp.:「釜山」地域

AFRS Plan, 3rd Phase

第六軍 Sixth Army:「広島・呉」、「高知」、「岡山」、「敦賀」地域

第八軍 Eighth Army:「仙台」、「新潟・三条」、「大泊」地域

第24軍団 XXIV Corp.:「元山」地域

奄美・沖縄を占領した第十軍(Tenth Army)はマッカーサー元帥が率いるマニラのUS AFPACではなく、ハワイに司令部のある海軍のニミッツ太平洋地域司令官の指揮下にあった。(しかし沖縄にいた第十軍の隷下、第24軍団 XXIV Corp. は日本のポツダム宣言受諾で、US AFPACの直轄になり、9月8日より南朝鮮へ移動を開始した。)

また南方諸島(硫黄島など)や旧国連委任統治領の南洋群島(サイパンなど)も太平洋地域軍(海軍)が占領しており、US AFPACの支配下ではなかった。したがって、沖縄で運用を開始しているAFRSは、日本本土および南朝鮮のAFRSとは血統が異なり、第八軍(Eighth Army)のJOAK(WVTR)をキー局とする日本のネットワークには組込まれなかった。沖縄などのAFRSは日本本土(および南朝鮮)のAFRSとは別に歴史考証する必要があるだろう。

ポツダム宣言の受諾により、日本国民は不安におびえながら進駐軍が上陸してくる日を待っていた。8月27日昼過ぎには進駐軍の艦船が続々と相模湾に現れ逗子沖1kmの海上に停泊して、上陸開始にあたり不測の事態が起きないようにらみを効かせた。

8月28日午前8時28分、神奈川県厚木飛行場に連合軍の輸送機10機からなる先遣隊150名が到着した。この部隊は主に技術関係兵員で、後続部隊の上陸準備(特にアメリカ軍の住居ならびに施設の整備・確保)が任務だった。

8月30日午後2時5分、米太平洋陸軍US AFPAC総司令官マッカーサー元帥が専用機「バターン(BATAAN)号」で、SCAP(連合国最高司令官:スキャップ:Supreme Commander for Allied Powers)として、厚木飛行場に降り立った。そしてマニラから横浜へ総司令部GHQ/US AFPAC を移し、連合国としての占領が始まった。

  • Aug. 31, 1945 ・・・US AFPACがBCJへ放送施設の提供を命令

8月31日にはGHQ/US AFPACは日本放送協会BCJ(Broadcasting Corporation of Japan)に対して口頭をもって、米本国向けおよび進駐軍向け放送の施設を提供するように命じた。【注】連合国最高司令官総司令部GHQ/SCAP(いわゆる我々日本人が言うジー・エイチ・キュー)は10月2日の発足。それまでの時期は米太平洋陸軍総司令部GHQ/US AFPACによる占領統治だった。

  • 【おまけ】 奄美・沖縄エリアと伊豆・小笠原・硫黄エリアの違い

以後半年間ほど日本本土はUS AFPAC隷下の第6軍(Sixth Army, 西日本占領、司令部京都)と第8軍(Eighth Army, 東日本占領、司令部横浜、のちに東京)による分割占領が行われた。しかし奄美・沖縄は連合国占領地域だが、海軍のニミッツ総司令官の指揮下にある第十軍(Tenth Army)が占領しており、US AFPAC(陸軍)の作戦指揮下に入ったのは1946年7月1日である。従って占領初期の沖縄のAFRSは、ロサンジェルスを本部とするAFRSのメンバーに違いないが、独自の発展をみた。

1947年1月1日にUS AFPAC(陸軍)が、海軍と空軍を含めた三軍統合軍である極東軍FEC(Far East Command)として再編成され、奄美・琉球エリアが名実ともに連合国最高司令官総司令部GHQ/SCAPの支配地となり、日本本土と沖縄のAFRSの交流も始まったようだが、その詳細は(私は)良く分からない。奄美エリアは1953年12月25日に独立間もない日本へ返還された。

一方で伊豆諸島と南方諸島(小笠原・硫黄・南鳥島・沖ノ鳥島)や南洋群島(カロリン諸島・マーシャル諸島・マリアナ諸島)はそもそも連合国占領地域には組込まれず、海軍(ニミッツ総司令官)が統治するアメリカ合衆国の直轄占領地になった(ただし軍事的利用価値の低い伊豆諸島だけは1946年にアメリカ占領地域から第八軍の連合国占領地域へ移管された)。つまり南方諸島と南洋群島はGHQ/SCAPの管轄外である。従ってサイパン・グアム・硫黄島のAFRSは海軍がコントロールし、やはり独自の道を歩んだ。

1947年1月1日に創設された極東軍FECを構成するのは、日本本土の第八軍(Eighth Army)、南朝鮮の第24軍団(XXIV Corps)を再編した朝鮮陸軍US AFIK(US Army Forces in Korea)、元西部太平洋陸軍AFWesPac(US Army Forces Western Pacific)だったフィリピン・琉球軍PHILRYCOM(Philippines-Ryukyus Command)、南方諸島や南洋群島を支配するマリアナ・小笠原軍MARBO(マルボ:Marianas-Bonins Command)である。【参考】ちなみにフィリピン・琉球軍は、1948年8月1日にフィリピン軍PHILCOM(フィルカム:Philipines Command)と琉球軍RYCOM(ライカム:Ryukyu Command)に分かれた。

マルボ(マリアナ・小笠原軍MARBO)はGHQ/SCAP内に置かれた極東軍総司令部GHQ/FECの作戦指揮下に入ったが、(私には理解できないのだが)小笠原・硫黄エリアは依然としてニミッツ司令官(海軍:司令部ハワイ)による軍政が続いた。1968年(昭和43年)6月26日の日本返還でようやく米海軍による軍政が終了したのである。

以上ややこしい話を整理すれば、極東軍総司令部GHQ/FECは連合国最高司令官総司令部GHQ/SCAPの下部組織だが、だからといって極東軍総司令部GHQ/FECエリア(含む小笠原やフィリピン)が、全て「連合国GHQ/SCAPの日本占領地」ではないのが重要なポイントだ。荒廃と食糧難の中を生きていくのが精一杯の日本人には、連合国最高司令官総司令部GHQ/SCAPと、極東軍総司令部GHQ/FECの違いなど、どうでもよかっただろう。一般民衆にはGHQ/SCAP も、GHQ/FEC も、単に「ジー・エイチ・キュー」である。連合国の最高司令官SCAPはマッカーサー元帥で、極東軍FECの総司令官CGもまたマッカーサー元帥なので、とにかく敗戦国日本で一番偉い人は「ジー・エイチ・キューのマッカーサー元帥」で済むし、それで間違っていないからだ。

さらに言えば本サイトが扱う電波分野においても、連合国エリアの電波行政の長として君臨するGHQ/SCAPの「民間通信局CCSの局長」であるバック准将は、連合国エリア(日本・南朝鮮・琉球)と米国エリア(南方諸島・南洋群島・フィリピン)の軍用通信における最高権力者「GHQ/FECの通信長」のバック准将でもあったから、なおさらややこしいのである。

こうして「ジー・エイチ・キュー」は日本人のボキャブラリーとして定着し、戦後70年経った今も、連合国占領地の奄美・沖縄と、アメリカ占領地の(伊豆・)小笠原・硫黄という決定的な違いに注目されることは少ない。だがこれらの地域における電波の占領政策を考証するさいには、こういった事情も念頭に置かねばならないことがあり、参考までに触れていおいた。

【補足】占領当初はGHQ/AFPACが、2ヶ月後にGHQ/SCAPが進駐総本山になり、新聞などではGHQ/AFPACとGHQ/SCAPを区別するために、GHQ/SCAPのことを(SCAP=マッカーサー元帥なので)「マッカーサー総司令部」と日本語訳することもあった。