目次
当初米軍が計画した日本上陸作戦(ダウンフォール作戦)は以下のものである。
第一段階として、1945年(昭和20年)11月に鹿児島県に密集する日本軍の航空隊基地を占拠して日本各地への空爆拠点を建設(オリンピック計画)する。
第二段階として、1946年(昭和21年)3月に湘南海岸と九十九里浜から急襲上陸する史上最大規模の地上戦(コロネット計画)で、いっきに日本の帝都東京を制圧する。
また米陸軍省は日本占領下における放送政策を定めるために、戦略情報局OSS(Office of Strategic Service、これはCIAの前身)の調査分析部に日本の放送事情を調査させていた。
1945年(昭和20年)7月12日、OSSは日本の放送事情に関する機密文書 "Civil Affairs Guide, Radio Broadcasting In Japan"(War Department Pamphlet, No. 31-64)をまとめたが、今これを見るとアメリカ軍は既に終戦前から日本放送協会BCJ(Broadcasting Corporation of Japan、のちのNHK)の歴史から組織・人員・施設・経営状態に至るまで全てお見通しだった事が解る。
そして日本放送協会BCJが所有する施設(スタジオ・送信所)のうち、現在行われているBCJの放送は日本人向けとして残し、戦時下で中止されている「BCJ第二放送」用の施設を接収して、進駐軍のためのAFRS(Armed Forces Radio Servive)放送を行う方向で、米太平洋陸軍US AFPAC(Army Forces Pacific)の計画運用課P&O(Planning and Operation Division)で検討された。
US AFPAC計画運用課P&Oでは敵地で戦闘中の将兵に対する戦意高揚や戦況伝達を念頭にした放送サービスではなく、終戦後の新しい進駐計画に沿った、進駐将兵向け慰安放送サービス(音楽・スポーツ中継・ニュース等)を目的とする日本版のAFRSを計画した。
これには進駐兵士のストレスを和らげ、被占領民に対する非合法な暴走行為を防ぐ狙いもあった。朝日新聞社が印刷だけを委託されていた、従軍日刊紙『星条旗新聞』(Stars and Strips, 日曜のみ休刊)の後半紙面には必ずアメリカ美女の水着写真が登場する。終戦したにも関わらず、動員解除されない若い招集兵による進駐部隊なので、やはり秩序維持に慰安放送は欠かせないものだったのだろう。
終戦時、家庭のラジオは日本人にとって唯一の娯楽だったが、一般家庭のラジオ受信機は性能が悪いものが多く、おまけに電力不足により供給電圧が定格の100Vを下回るため、真空管が十分性能を出せず、電波が弱い日本放送協会BCJの日本語放送は聞きづらかった。
そんな日本語放送を見下すように、強力な電波の進駐軍の英語放送が高らかと鳴り響いた。AFRS英語放送を聴き『ああ・・・日本は負けたんだ』と思い知らされたと、当時を生きた多くの方々が語っておられるように、「進駐軍への反抗心」を喪失させるAFRS効果は絶大だったと推察する。
そういう意味から思えば、接収したJOAK(東京)やJOBK(大阪)のコールサインを使わず、あえてアメリカのコールサインであるWVTR(東京)やWVTQ(大阪)を使ったのも効果的だっただろう。
なおAFRSは一般の日本人からは「進駐軍向け放送」(俗称)、または単に「進駐軍放送」(俗称)と呼ばれたことから、本サイトでもそう表記することにした。進駐軍といえば終戦時に西日本を担当した「第6軍」が早々に動員解除され、中国・四国地方を除く日本本土は「第8軍」が担当した。
その除かれた中国・四国地方は(イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、英領インド軍からなる)英連邦進駐軍BCOF(British Commonwealth Occupation Force)が担当した。そして各地のBCOF駐屯地でも兵士への慰安放送を行ったため、進駐軍放送にはAFRSとBCOFの2種類ある点にはご留意願いたい。
1945年8月15日、日本帝国はポツダム宣言の受諾を発表した。
これを受け、8月19日、米領フィリピン・マニラにあった米太平洋陸軍US AFPAC(United States Army Forces Pacific)総司令部の通信長室OC SigO(Office of the Chief Signal Officer)では日本本土と南朝鮮への進駐過程における放送施設の占領プラン "Japanese Broadcast Facilities" を立てた(下図)。
パラグラフ2「プラン」はフェーズ1から4に分けられており、日本での具体的な活動はフェーズ2から始まる。
「フェーズ2」 上陸開始直後に日本放送協会BCJから現状報告させ、内幸町の放送会館(Broadcasting House)と東京放送局JOAKの送信施設および、国際電気通信株式会社ITCの名崎送信所と小室受信所を押さえる。
「フェーズ3」 日本とマニラおよび米国本土(サンフランシスコ)とのAT&T通信回線を確保する(短波通信)。
「フェーズ4」 被災放送施設の補修し、広島・札幌・仙台・大阪・名古屋・熊本の放送センターを接収する。
ちなみにこのドキュメントの宛先になっているAkin少将は、東京日比谷の連合国総司令部に設置された民間通信局CCSの初代局長に就任することになる。すなわち日本の電波行政のトップである。
AFRSの置局には、まず進駐拠点となる横浜(神奈川)、大阪(大阪)、大湊(青森)、八幡(福岡)、仁川(南朝鮮)の名前があがったが、最終的には西日本に進駐する「第6軍」、東日本に進駐する「第8軍」、南朝鮮に進駐する「第24軍団」の各司令部ごとにフェーズ1~3の段階に分けてAFRSを建設・開局させる計画が作られた(下図)。
見やすいように以下に書き換えた。
第6軍 (6th Army)
第一段階 「佐世保・長崎」、「大阪・京都・神戸」(広域)
第二段階 「下関・福岡」、「名古屋」
第三段階 「広島・呉」、「高知」、「岡山」、「敦賀」
第8軍 (8th Army)
第一段階 「関東平野」(広域)、「青森・大湊」
第二段階 「札幌」
第三段階 「仙台」、「新潟・三条」、「大泊」
第24軍団 (XXIV Corp.)
第一段階 「京城(ソウル)」
第二段階 「釜山(プサン)」
第三段階 「群山(クンサン)」
まだ日本放送協会BCJの放送施設や中継回線の被災状況までは掌握できていないため、この置局計画はあくまでも机上の原案で、このとおりには行かなかった。
ポツダム宣言の受諾により、日本国民は不安におびえながら進駐軍が上陸してくる日を待っていた。
1945年(昭和20年)8月27日昼過ぎ、進駐軍の艦船が続々と相模湾に現れ逗子沖1kmの海上に停泊して、上陸開始にあたり不測の事態が起きないようにらみを効かせた。
そして8月28日午前8時28分、神奈川県厚木飛行場に連合軍の輸送機10機からなる先遣隊150名が到着した。
直ちに第68陸軍航空管制通信局AACS(Army Airways Communications System Group)が航空管制を行うための無線局の建設を開始し、着陸からわずか45分後にはマニラおよび沖縄のAACS部隊との通信を確立させたとNew York Times紙("Army Units Operating in Japan 45 Minutes After Landing", Sep 2 1945, p5)が報じている。まるで無線界における敵国への「一番槍?」を誇る記事とも受け取れる。
8月29日に管制塔が完成し、翌30日から厚木飛行場に次々と飛来してくる米軍機の着陸や離陸を無線指揮した。
8月28日にやってきた先遣隊は主に技術関係兵員で、後続部隊の上陸準備(特に軍施設や住居の整備・確保)が任務だった。
そしてマッカーサー元帥が横浜入りする8月30日までに、日米の短波通信回線(無線電信)を再開させよとの命がくだった。あまりの無茶振りミッションだったが、日本の通信関係者の不眠不休の努力で完遂した。
『8月27日(注:28日の誤記?)、逓信省の通信関係代表者は米国進駐軍通信代表に呼び出され、来る30日、マッカーサー元帥到着までに対米通信を再開させよとの命を受けたのであった。直ちに米軍監督の下に、横浜税関2階に自動通信5座席の工事、連絡線の作成、小山送信所・福岡受信所の機器の整備等が不眠不休で続けられ30日午後、元帥到着の寸前、工事は完成し、ここに戦後最初の日米連絡のキーが叩かれたのであった。去る(日米開戦の)昭和16年12月8日、友好裡に袂別の通信を交わして以来正に満3年8ヶ月で再び日米通信の途は開かれたのであった。その時の相手は、RCA、MKY、PWの各通信会社で通信方式は(無線電信の)高速度自動通信であった。』(郵政省電波監理局編, "国際無線回線", 『電波時報』, 1954年6月号, 電波振興会, p66)
【参考】日本電信電話公社東京電気通信局編『東京の電信電話 : 続・東京の電話. 下』(1972, 電気通信協会, p813)の電信年表によれば、サンフランシスコMKYとは12月9日に、サンフランシスコRCAとは12月13日に無線回線途絶とされている。また写真電信に関しては12月8日にロンドンおよびサンフランシスコのPW, RCAと途絶とある。
『終戦後、連合国の本土進駐にともない、軍およびその要員が本国その他との間に通信連絡を行う必要から、昭和二〇年八月三〇日いちはやく対米電信三回線が再開され、・・・略・・・』(郵政省編, 第二章 対外電気通信連絡, 『続逓信事業史』第五巻, 1961, 前島会, p506)
ただしこの日米通信回線は無線電信、いわゆる電報である。日米の音声通信回線の再開は以下のとおり、電報より4ヶ月半遅れの1946年(昭和21年)1月11日で、1945年(昭和20年)内の日米間の音声素材の交換は録音盤による空輸渡しだったと推定される。
『昭和二一年一月一一日、連合軍総司令部の司令により、アメリカン・テレフォン・アンド・テレグラフ社のサンフランシスコ局との間に、(無線電話の)DSB通信方式により回線を再開し、同年七月一一日に通信方式を(さらに高度な)SSB方式へ変更した。』(郵政省編, 第二章 対外電気通信連絡, 『続逓信事業史』第五巻, 1961, 前島会, p525)
8月30日午後2時5分、米太平洋陸軍US AFPAC総司令官マッカーサー元帥が専用機「バターン(BATAAN)号」で、SCAP(連合国最高司令官:スキャップ:Supreme Commander for Allied Powers)として、厚木飛行場に降り立った。
仮の米太平洋陸軍総司令部GHQ/US AFPACには、戦禍を免れた横浜税関が選ばれ、マニラ総司令部 の横浜への引っ越しが作業がスタートした。
そして8月31日、米太平洋陸軍GHQ/US AFPACは日本放送協会BCJ(Broadcasting Corporation of Japan)に対して口頭をもって、米本国向けおよび進駐軍向け放送の施設を提供するように命じた。
【注】連合国最高司令官総司令部GHQ/SCAP(いわゆる我々日本人が言うジー・エイチ・キュー)は10月2日の発足なので、この時点では存在しない。10月1日までの時期は米太平洋陸軍総司令部GHQ/US AFPACによる占領統治だった。
奄美・沖縄を占領した第十軍(Tenth Army)はマッカーサー元帥が率いるマニラの太平洋陸軍US AFPACではなく、ハワイに司令部のある海軍のニミッツ太平洋地域司令官の指揮下にあった。(もともと第24軍団 XXIV Corp. は沖縄にいた第十軍の隷下だったが、日本のポツダム宣言受諾で、陸軍US AFPACの直轄になり、9月8日より南朝鮮へ移動を開始した。)
また小笠原諸島(小笠原群島・硫黄列島・南鳥島・沖ノ鳥島)や委任統治領南洋群島(マリアナ諸島・カロリン諸島・マーシャル諸島)も太平洋地域軍(海軍)が占領しており、陸軍のUS AFPACの支配下ではなかった。
したがって、沖縄で1945年5月17日より放送開始したAFRS(WXLH)は、日本本土および南朝鮮のAFRSとは血統が異なり、第八軍(Eighth Army)のJOAK(WVTR)をキー局とする日本のAFRSネットワークには組込まれなかった。沖縄などのAFRSは日本本土(および南朝鮮)のAFRSとは別に歴史考証する必要があるだろう。
なおWXLHの開局日についてだが、米海兵隊の公式WEBサイト(Official U.S. Marine Corps Website)では5月17日になっているが、放送業界誌Broadcasting("Radio Okinawa, 180th AFRS Outlet, Now Brings Troops Favorite Programs. "1945年6月18日号)の記事では50Wのポータブル送信機で5月20日に開局したと報じている。沖縄県公文書館が所蔵するWXLH開局記念式典の記録白黒フィルム"Radio Station WXLH is Opened, Okinawa, Ryukyu Islands; Spraying DDT, Okinawa, Ryukyu Islands, 17-20 May 1945 "(資料コード:0000098554 )のタイトルには5月17-20日とされているため、開局セレモニーの特別放送が17, 18, 19日にあり、20日から通常放送だったのではないかと、私は想像している(いずれにせよWikipediaのAFNのページの「1945年7月に沖縄のAFRSが開局」という記載は正しくないだろう)。
当初日本本土は米太平洋陸軍US AFPAC隷下の第6軍(Sixth Army, 西日本占領、司令部京都)と第8軍(Eighth Army, 東日本占領、司令部横浜、のちに東京)による分割占領が行われた。結局、第6軍は動員解除となり、米第8軍と(中国・四国地方を)英連邦軍が担当した。
しかし奄美・沖縄は連合国占領地域だが、米海軍のニミッツ総司令官の指揮下にある第十軍(Tenth Army)が占領しており、第十軍が米太平洋陸軍US AFPACの作戦指揮下に入ったのは日本降伏から1年近くも経過した1946年(昭和21年)7月1日である。従って占領初期の(海軍統治下の)沖縄のAFRSは、ロサンジェルスを本部とするAFRSのメンバーには違いないが、日本本土の(陸軍統治下のAFRSとは)独自の発展をみた。1947年1月1日に米太平洋陸軍US AFPACが、海軍と空軍を含めた三軍統合軍である極東軍FEC(Far East Command)として再編成され、奄美・琉球エリアが名実ともに連合国最高司令官総司令部GHQ/SCAPの支配地となり、日本本土と沖縄のAFRSの交流も始まったようだが、その詳細は(私は)良く分からない。奄美エリアは1953年12月25日に独立間もない日本へ返還された。
一方で伊豆諸島と南方諸島(小笠原・硫黄・南鳥島・沖ノ鳥島)や南洋群島(カロリン諸島・マーシャル諸島・マリアナ諸島)はそもそも連合国占領地域には組込まれず、海軍(ニミッツ総司令官)が統治するアメリカ合衆国の直轄占領地になった(ただし軍事的利用価値の低い伊豆諸島だけは1946年にアメリカ占領地域から第八軍の連合国占領地域へ移管された)。つまり南方諸島と南洋群島はGHQ/SCAPの管轄外で、アメリカ占領地なのである。そのためサイパン・グアム・硫黄島のAFRSは海軍がコントロールし、やはり日本本土とは独自の道を歩んだ。
1947年1月1日に創設された極東軍FECを構成するのは、日本本土の第八軍(Eighth Army)、南朝鮮の第24軍団(XXIV Corps)を再編した朝鮮陸軍US AFIK(US Army Forces in Korea)、元西部太平洋陸軍AFWesPac(US Army Forces Western Pacific)だったフィリピン・琉球軍PHILRYCOM(Philippines-Ryukyus Command)、南方諸島や南洋群島を支配するマリアナ・小笠原軍MARBO(マルボ:Marianas-Bonins Command)である。
【参考】ちなみにフィリピン・琉球軍は、1948年8月1日にフィリピン軍PHILCOM(フィルカム:Philipines Command)と琉球軍RYCOM(ライカム:Ryukyu Command)に分かれた。
マリアナ・小笠原軍MARBOは形式上はGHQ/SCAP内に置かれた極東軍総司令部GHQ/FECの作戦指揮下に入ったが、(私には理解できないのだが)この小笠原・硫黄エリアは依然としてニミッツ司令官(海軍:司令部ハワイ)による軍政が続いた。1968年(昭和43年)6月26日の日本返還でようやく米海軍による軍政が終了したのである。
以上ややこしい話を整理すれば、連合国最高司令官総司令部GHQ/SCAPとその下部組織である極東軍総司令部GHQ/FECは、管轄エリアが微妙に異なっていたというのが重要なポイントだ。
日本本土、南朝鮮、琉球は連合国軍の占領地
小笠原・硫黄・南鳥島・沖ノ鳥島はアメリカ極東軍の占領地
荒廃と食糧難の中を生きていくのが精一杯の日本人には、連合国最高司令官総司令部GHQ/SCAPと、極東軍総司令部GHQ/FECの違いなど、どうでもよかっただろう。一般民衆にはGHQ/SCAP も、GHQ/FEC も、単に「ジー・エイチ・キュー」である。連合国の最高司令官SCAPはマッカーサー元帥で、極東軍FECの総司令官CGもまたマッカーサー元帥なので、とにかく敗戦国日本で一番偉い人は「ジー・エイチ・キューのマッカーサー元帥」で済むし、それで間違っていないからだ。
本サイトが扱う電波分野においても、連合国エリアの電波行政の長として君臨するGHQ/SCAPの「民間通信局CCSの局長」であるバック准将は、連合国エリア(日本・南朝鮮・琉球)と米国エリア(南方諸島・南洋群島・フィリピン)の軍用通信における最高権力者「GHQ/FECの通信長」のバック准将でもあったから、なおさらややこしいのである。
こうして「ジー・エイチ・キュー」は日本人のボキャブラリーとして定着し、戦後70年経った今も、連合国占領地の沖縄と、アメリカ占領地の小笠原・硫黄という決定的な違いに注目されることは少ない。だがこれらの地域における電波の占領政策を考証するさいには、こういった事情も念頭に置かねばならないことがあり、参考までに触れていおいた。
【補足】占領当初はGHQ/AFPACが、2ヶ月後にGHQ/SCAPが進駐総本山になり、新聞などではGHQ/AFPACとGHQ/SCAPを区別するために、GHQ/SCAPのことを(SCAP=マッカーサー元帥なので)「マッカーサー総司令部」と日本語訳することもあった。