航空機ビーコン

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1934年7月、電気試験所の航空機用超短波ビーコンが実地試験されました。少し遅れて東京大学の航空研究所J2BRでも航空機用超短波ビーコンの研究がはじまっています。逓信省の公衆通信関係では1934年7月18日、日本アルプスの立山では夏季登山シーズンに限定した超短波による臨時公衆回線が開設され、電話と電報を流しました。。

日本のV/UHF開拓」のサブページへのリンク (___ 現在ページ)


71) 電気試験所 VHF航空無線標識の研究

1933年(昭和8年)頃より、電気試験所第四部の木村六郎氏らは航空機用ビーコンの研究を始めました。

『D. 応用に関する研究

(1)中波反転式無線標識 無線標識に関する研究の結果、新考案になる中波反転式無線標識を設計試作し、船舶航路用としての実用性を確かめたり。

(2)超短波無線標識 超短波に応用せる無線標識装置を試作し航空機嚮導標識として実地試験を行いつつあり。』 (『電気試験所事務報告』昭和8年度, p74)

『 濃霧または暗夜に際し飛行機を容易にその着陸すべき飛行場に誘導せんとするラヂオ・ビーコンに関しては ・・・(略)・・・ 我国においても最近逓信省電気試験所において中波(周波数320キロサイクル)並びに超短波(周波数31.56メガサイクル)による無線標識の研究発表が行われた。』 (星合正治/森田清/井上均, 超短波による視覚型無線標識, 『航空研究所彙報』 第137号, 1936.1, 航空研究所)

木村氏らはまず東京飛行場(東京市蒲田区江戸見町)付近に31.56MHzの送信機を設置して、地上で受信機が作動するビーム幅を測定し、『容易に識別し得る程度では約7度である。』 (木村六郎, 超短波航空路無線標識, 『DEMPA』 1935.5, 共立社, p436) ことを確認しました。

次に1934年(昭和9年)7月に最初の飛行試験を行いました。

飛行機の受信アンテナは1/4波長のワイヤー式で、飛行中に風圧で後方へ流されないように2本の支線ヒモで前方へ引っ張り、常に垂直になるようしています(左図:赤色)。なた離着陸の時には前方の支線ヒモを巻き上げて、ワイヤー式空中線を機体腹部に寄せるように工夫しました(左図:青色)。

試験の結果ですが、旅客機(受信側)のエンジンからの雑音が多くて動作距離が伸びませんでした(高度600mで距離約28km)。

『昭和九年(1934年)逓信省工務局および電気試験所に於いては、標識用超短波送信機を羽田東京飛行場に設置し、日本航空輸送株式会社旅客機との間に試験を行い、超短波の航空無線標識の応用につき調査した。・・・(略)・・・送信機は自励発振周波数を周波数逓倍器一段を経て電力増幅し、同段に於いて約四〇%のグリッド変調を行ったもので、搬送周波数三一・六Mc、出力約六Wのものである。受信機は超再生式低周波二段増幅のもので、これを前記旅客機に搭載し六〇〇米の高度を保ちつつ(羽田から)千葉方面に飛行した ・・・(略)・・・』 (電波監理委員会編, 『日本無線史』第一巻, 1950, p419)

そこで旅客機のエンジンにシールドを施して翌8月に高度700mで再試験を行ったところ、ビーコンの実用距離は約55kmだと見積もられました。

(1934年7月の実験で雑音源となっていた旅客機の発電機にシールドを対策を行い)八月にあらためて遮蔽した発動機の旅客機で(実験を)行ったところ、高度七百米で羽田より成田町に至る約五十五キロの距離で有効であることが確められた。・・・(略)・・・この実験に当たって、日本航空輸送会社、特に東京支所の各位の寄せられた御好意と、当所(=電気試験所第四部)大久保吉春君の御尽力とに深く感謝の意を表する。』 (木村六郎, 飛行機とラヂオ・ビーコン, 1934.10, ラヂオの日本, p5)

『 昨年七月より八月にわたり日本航空輸送会社の大型旅客機に搭乗して、第一次機上受信試験を行った結果、高度600mにて千葉方面へ飛行した場合、電気的に無遮蔽の発動機を備えた飛行機にては有効距離25km、遮蔽する発動機の飛行機では55kmという結果を得た。(羽田の)空中線が低いため予定の箱根方面は建物に遮られてほとんど受信不可能でやむなく千葉方面へ飛んだのである。』 (木村六郎, 超短波航空路無線標識, 『DEMPA』 1935.5, 共立社, p436)

いくつかの課題は残したものの、初のフィールド試験としては大成功でした。

72) 札幌逓信局 根室-歯舞群島(多楽島, 志発島)でVHF試験

1934年(昭和9年)9月、札幌逓信局は根室と歯舞諸島(多楽島、志発島)でVHF試験を実施しました。特に根室-志発島間の無線電話が良好で、有線網へ接続して札幌-志発島間の通話試験も行われました。

『更に同年(1934年)九月、南部千島列島に於て、伝播試験をした結果、根室 多楽島間(距離九一KM)の無線電信通信が完全に行われた。この時は簡単な空中線をいずれも海面上五米に建てたのであるが垂直偏波の到来電波面が約四五度傾斜したようであった。

この実験は千島特有の海霧の来襲によって電界強度の変化が伴うので僅か一W程度の超短波で公衆通信を取扱う事は多少不安があったので事務開始の運びに至らなかったが、途中の島で志発と電話による連絡は良好な成績で根室局の交換台に入れて札幌迄延長し充分実用可能なことが確認された。』 (電波監理委員会編, 『日本無線史』第一巻, 1950, pp416-417)

このように札幌逓信局がVHF研究に注力していたのは、北海道では公衆有線網を隅ずみまで敷設するのが困難だったからではないでしょうか。

73) J8AA(J8AB)の超短波無線電話デモンストレーション (1934年10月10-21日)

朝鮮総督府逓信局無線実験室J8AAは1933年(昭和8年)7月10日より日本放送協会の技術研究所(東京砧)と定時通話試験を行ってきましたが、1年間を通じたスポラディックE層の発生頻度がおおよそ把握できたことから、1934年(昭和9年)9月17日をもって終了しました。

1934年10月10-21日、朝鮮総督府逓信局は京城(ソウル)の三越百貨店(現:新世界百貨店本店旧館)3階、5階、屋上、展望台にて朝鮮逓信文化展示会を開催しました。これは朝鮮簡易生命保険の創始五周年を記念するものですが、逓信事業全般の展示や実演も行いました。朝鮮逓信局J8AAが、東京の放送協会技術研究所と超短波の伝播試験を行っていたことが市中で話題になっていたため、その送受信機を会場に運び、展示および超短波無線電話のデモンストレーションが行なわれたことが、『朝鮮総督府年報』昭和10年版(朝鮮総督府逓信局編)に記されています。

具体的な内容は不明ですが、無線実験室が所有していた小型の10W機を三越百貨店に設置し(おそらくJ8AB)、無線実験室(J8AA)の75W機と超短波の通話デモを披露したものと考えられます。

74) 丹那トンネルからの中継放送

1934年(昭和9年)11月27-30日。

75) 仙台放送局JOHKの超短波J6CWによる歳末街頭中継放送 (1934年12月30日)

1934年(昭和9年)12月30日、仙台放送局JOHKは昨年春より試作・実験中だった背嚢式VHF機を本放送で使用しました。周波数42.860MHz(空中線電力100mW)で、UX-109プッシュプル発振器にグリッド変調とし垂直ダブレットを付けたもの(下図[左])と、UX-110シングルによるハートレー発振器にプレート変調とし垂直アンテナを付けたもの(下図[右])の二種類を設計しましたが、今回は前者の装置を使いました。

『 仙台市内東一番町および同二番町より、歳の市仲見世の賑わう実況を中継放送したのであるが、この時背嚢式送信機と称する極めて小型(縦三〇糎(30cm)、横二〇糎(20cm)、奥行十四糎(14cm)、重量七・五瓩(7.5kg) )の携帯用送信機による短距離間無線中継を行い好結果を得た。

かかる広範囲にわたる地域に於ける実況放送には、従来の如く有線中継のみに依れば多数のマイクロホンを要し、かつかくの如く群衆雑踏する場合にはことさらに困難を伴うものであるが、ここに述ぶるが如き小型送信機を携行すればマイクロホンと共に自由に移動することを得て、その放送を一層効果的ならしめることが出来る。・・・(略)・・・

受信機はUX五八を使用せる高周波二段増幅のものであって、この中継放送では送受信の距離は約百五十米(150m)に過ぎなかったが、普通の市街地においては約一粁(1km)位までは十分使用し得る。 』 (日本放送協会編, 『ラジオ年鑑』昭和10年, 1935, 日本放送出版協会, pp202-202)

1935年(昭和10年)の超短波 ・・・ アルプス立山で夏季臨時VHF回線がはじまる

76) 海軍省と逓信省がスポラディックE層の共同調査 (1935年3月~)

1935年(昭和10年)3月頃より、逓信省と海軍省が共同で超短波の電波伝播試験を行いました。

なにぶん軍の機密に関することなので試験の詳細は不明ですが、32-54MHzを使う艦隊内通信用の90式無線機による通信が、スポラディックE層の発生でしばしば遠方海域まで到達してしまうことに、海軍省は強い危機感を持っていましたので、その調査だったと想像します。

『超短波の研究(逓信省工務局の)小野さんは(東北帝大在学中に)八木博士の指導を受け、逓信省に入った頃から、すでに超短波の研究には重大な関心を持っていたが、昭和十年三月頃から逓信省は海軍と協力して超短波の伝播状態を調査するため、検見川、札幌、龍山等から送信し全国で受信試験したが、小野さんは逓信省側の中心となって指揮した。 』 ("超短波の研究", 『小野さんの生涯』, 1955, 故小野孝君記念刊行会, p24 )

1935年(昭和10年)5月21日、この試験で長崎無線(長崎県)が検見川無線(千葉県)の超短波をキャッチしたことが新聞記事になっています。1933年7月10日から1934年9月17日までの一年間、日本放送協会JOAKと朝鮮逓信局J8AA間でスポラディックE層の定時観測が行われましたので、外地(朝鮮京城)とのVHF異常伝播は既によく知られるところですが、今回は内地(千葉-長崎間)で確認されました。

『 長崎無線電信局では廿一日東京中央電信局検見川送信所から試験的に送信している超短波を完全にキャッチし従来の無電理論を覆した。すなわち先般来、検見川送信所から毎週火曜日に試験的に七メートル(43MHz)と十メートル(30MHz)の両短波を発信していたが超短波は山岳等の遮蔽物があれば交信不能との電波直線的理論を裏切り東京長崎間一千キロを隔てて超短波による交信が行われ日本における最高レコードを作った。』 ("超短波交信成功", 『東京朝日新聞』, 1935.5.22, 朝p11)

77) 電気試験所のVHF航空無線標識(第二次試験) (1935年3月末)

逓信省の外局である電気試験所第四部の木村六郎氏ら1934年7-8罰に航空機用ビーコンの実地試験を行い実用距離は55km程度との結論を得ました。この装置を東京-大阪間で採用しようとすると、両飛行場間の距離はちょうど直線で400kmあるため、(もしビーコンの実用距離が55km程であれば)東京-大阪間に6箇所もの無線標識局を建設する必要があり、これは経済的ではありませんでした。そこでビーコン装置のさらなる改良が行われていました。

そして1935年(昭和10年)3月末、改良機による第二次試験を行い実用距離を約80kmに伸ばしました。左図[左]が改良VHFビーコン送信機で、原発振7.9MHzで2逓倍(15.8MHz)して、それを更に2逓倍して31.6MHzを得ています。左図[右]は航空機用の改良受信機で超再生方式です。

『有効距離の延長をはかるため、上記設備(1934年7-8月に実施した試験の装置)に左の如き改良を加えた。

(一) 第一次試験に用いた空中線(羽田)は地上高約四・五米で低きに過ぎる傾きがあるのでこれを一三米とした。

(二) 送信機の変調方式を陽極変調方式とし、出力二〇〇W、一〇〇%変調可能とした。

この改善した装置をもって旅客機につき高度一〇〇〇米において通達有効距離を実験した結果、約八〇粁(=80km)で、(羽田から)箱根芦の湖上空まで有効であることが確められた。』 (電波監理委員会編, 『日本無線史』第一巻, 1950, p420)

『 なおこのとき(1934年7-8月)の送信電力は約60ワットで変調度も約40%にすぎなかったので、これらを前述のごとく電力80ワット、100%変調に改めて今年三月末、再び第二次試験を行った結果は、高度1000mにて箱根方面に飛行した場合、遮蔽せる発動機の飛行機で有効距離80kmとなり、芦の湖上空に達したのである。参考のために羽田東京飛行場から箱根方面を見た地勢の断面図を掲げて見通しの状態を示せば第5図のごとくであって、高度1000mの場合かろうじて見通し得る程度である。等強度線の幅は電波が雑音を抑えて強勢に聞こえている限り、地上における測定結果と同程度である事が確められた。

機上受信試験中、発動機が電波到来方向にあるとき雑音が著しく増加する傾向あることが認められた。また電波強度の変化によって受信機をしばしば調整する必要があった。将来受信法を改良してこれらを除く必要がある。』 (木村六郎, 超短波航空路無線標識, 『DEMPA』 1935.5, 共立社, pp436-437)

1935年3月の改良機による成果はプレス発表され、読売新聞の記事にもなっています。

『 ラヂオ燈台(ラヂオ・ビーコン)の必要は今や航空機の安全性に欠くべからざるものとなり、・・・(略)・・・逓信省電気試験所技師、木村六郎、岡田実の両氏は予ねてその研究の中枢をなす送信波長について長波、中波、短波、超短波など各種波長の実験を重ねてこのほど「超短波航空路無線標識」を完成し、ラヂオ燈台の実用化に一新紀元を与ふべき好成績を挙げ各方面の注目をひいている。この標識は三本の空中線(アンテナ)を基礎とし、そのうちの二本のアンテナから「A」と「N」の二種の符号を一定の方向に発信、もし飛行機がこの電波通路から外れると二種の電波が不協調音波となって飛行機に取り付けられた受信機のレシーバーに聞こえ機体の偏向を知ることが出来るというのである。実験は半年間羽田飛行場で重ねられたが、能率は極めてよく、波長九米五(9.5m)、僅か八〇ワットの出力で八〇キロの遠方にまで通達するという。』 (ラヂオ燈台に超短波の威力, 『読売新聞』, 1935.10.9, 朝p7)

78) 米沢高工J6BC 鉄道トンネルでのフィールド試験 (1935年春~夏?)

米沢高等工業J6BCはより簡便な無線機を目指してUX30を2球だけ使った10mトランシーバーを2台試作しました。周波数は28.4MHzで、空中線出力は0.1Wです。

これを奥羽本線の福島―米沢間の鉄道沿線でそのフィールドテストを行いました。その詳しい実施時期は不明ですが、『ラヂオの日本』(1935年11月号)で試験結果を発表していることから、1935年(昭和10年)の春から夏頃ではないかと想像します。

『奥羽本線福島米沢間鉄道沿線で(フィールド試験を)行った際、隧道(トンネル)で面白い結果が得られたので参考までに記しておこう。隧道は赤岩坂谷間の第十号隧道で、馬蹄形、直線、全長三九〇米(390m)のものである。一基を赤岩側側口より外方二五米(25m)線路脇に固定し(第一号機とす)、他の一基を板谷側口よろ外方二五米(25m)、線路より谷側へ五米(5m)の点に固定(第二号機とす)した際は山を挟み見通し全く不能なるにもかかわらず極めて良好な通信をなし得た。このとき旅客列車が板谷側から隧道内に侵入してきた際、東二号機から連続送話し、第一号機で受話した感度は第十五図に示す様に変化した。ただし機関車の位置に対するものを示してある。この結果は隧道内を通過する電波の存在している事を立証しているものと思う。

第二号機を隧道内に移動したときは二、三の地点で第二号機のみ一方的に受話しえられたが、完全に通話し得るのは赤岩口より一〇〇米(m)位の地点から第一号機に近接したときのみであった。機器の各部の回路定数を同一としたまま、隧道外より内部に入る時は、周波数は外部におけるよりもやや増加する傾向のあるを認めた。』 (長谷川太郎, "超短波無線電話装置", 『ラヂオの日本』, 1935.11, 日本ラヂオ協会, pp360-361)

そして2式トランシーバーについては次のように記されました。

『二球式の機器は特に携帯に便なる事を主眼としたため全てUX三〇級の真空管を使用した。平地で約四粁(4km)の通話は充分である。疎林等はたいした遮蔽の影響を与えないので、登山等で山麓間の連絡や、危険地帯に侵入する際の連絡等に使用して、極めて効果的に機能を発揮するであろう。』 (長谷川太郎, 前掲書, pp360-361)

79) 函館放送局JOVKが開港祭の中継でVHFを試用 (1935年7月1日)

1935年(昭和10年)7月1日、函館放送局JOVKが開港祭の中継で、連絡用として超短波を試用しています。但しその詳細までは不明です。

『 開港七十七年を迎えた函館港は、その昔の淋しい一漁村から、今は我国屈指の大貿易港として殷賑を極めている。毎年七月一日の開港記念日に催される港祭りには、市中は一大乱舞狂操の場面を展開してこの意義ある一日を祝うのを常とする。今年の港祭りには当局(JOVK)では臨時にラヂオ自動車を仕立て無線中継による移動放送を行い、夜景の賑やかな実況を全国へ御伝えすることができたので次にその移動放送施設の概要を記述して聊かご参考に供する。』 (下山留治, 函館の港祭りと移動実況放送, 『ラヂオの日本』, 1935.9 日本ラヂオ協会, p45)

函館放送局JOVKはフォード自動車を放送中継車に改造しました。番組の中継用には波長210m(1430kHz)が使用されましたが、受信所から中継車への(一方通行の)連絡指令用として超短波が用いられました。送信機はUX202Aのプッシュプル発振で変調にも202Aが二本使われました。自動車に搭載した受信機は超再生で、アンテナは傾斜型ダイポールを側面に張りました。自動車からの送信も試してみましたが、悪路走行時の振動が音質の劣化を生じさせることがわかり、番組中継用には採用されませんでした。

『 連絡用の超短波は、僅少のクエンチング・ノイズがあるのみで市街いたるところでフェーヂングは余り認められず良好な成績を示した。そこで試みに超短波の送信機を自動車に設備し、試験してみた所、道路のよい場所では充分実用的であったが、道路の悪い箇所では自動車の激動につれ音声に変歪を生じ実用的ではなかった。』 (下山留治, 前掲書, p45)

80) アルプス立山-富山 VHF臨時公衆回線を設置 (1935年7月18日)

1935年(昭和10年)7月18日から日本アルプスの立山室堂(登山口)に超短波による臨時公衆回線が設置されました。これは毎夏季の登山シーズンだけ限定開局するもので(8月31日で閉局)、富山との38.5kmを可聴電信で結びました。送信機は発振UX171A x2と変調UX171A x2で、受信機はUX112A x2の超再生検波とのことで、この仕様は日電電波工業のTM3型/R3型と全く同じです。従って宇田式超短波が使用されたものと想像します。

富山局は半波長の垂直線と、半波長の水平線にして、立山方面へ指向性を持たせました。また立山局の送信アンテナは8.3m(36.145MHz)長、受信アンテナは少し短い7.5m(40.000MHz)の1波長垂直型ですが、受信用の方には半波長(4.15m)のワイヤーを水平方向へ二本追加したものを用いました(左図)。

『夏季日本アルプスの登山者は一五〇〇名にも達し、山麓の村落との間に気象の通報、その他一般通信を依頼する者が次第に多くなるので、逓信省に於ては昭和十年立山富山間(三八・五粁=38.5km)に超短波無線電信臨時施設を開設した。立山は標高三〇〇〇米で、かかる山岳地帯に超短波により公衆電報を取扱ったのはこれが最初である。開所以来成績極めてよく一日最高五〇通の電報を取扱った。・・・(略)・・・波長は富山側八・三米(36.145MHz) 、立山側七・五米(40.000MHz)である。空中線は富山側は半波垂直ダブレットを、立山側は長さ一波長の垂直型で、受信用は更に長さ約半波長の水平空中線を附している。』 (電波監理委員会編, 『日本無線史』第一巻, 1950, p420)

料金は15字までの基本料金が30銭。日本国内と満州国との発受も受付けるなど下界の郵便局と同じサービスを提供しました。しかし無線機の交換用電池を毎日、麓から人を出して運ばせたため、「商売にはなりませんよ」と名古屋逓信局中山企画課長は読売新聞の記者に話しています[読売新聞, 1935.7.13, 朝刊p7]。

81) 航空研究所J2BR VHF航空無線標識の研究

電気試験所とは別に、東京帝国大学が所管する航空研究所でもVHFによる無線標識(ラジオ・ビーコン)を研究していました。これは航空研の星合正治教授による盲目着陸用の超短波無線標識の研究で、1934年に東大工学部電気工学科を卒業した井上均氏が航空研に入り、研究所屋上の木造小屋で実験がはじまりました。

1934年(昭和9年)7月16日、逓信省は陸軍省と海軍省に航空研究所へ7.100/14.200MHz(A1/A3, 200W)、25.000/37.500/75.000MHz(A1/A3, 70W)を許可して良いか照会しました(電無第241号)。陸軍省からは7月20日に「異存無きの候」と回答がありました(陸普第4483号)。航空研の呼出符号はJ2BRでした。

1935年(昭和10年)2月より、東工大の森田清氏が航空研究所の嘱託という肩書きでVHF開発に協力するようになりました。ちょうどこの時期に、深川区越中島にあった航空研と、本郷にあった第一高等学校および旧加賀藩主前田家が、ここ目黒区駒場の東京帝大農学部跡地に引っ越しを進めていました。名門第一高等学校は終戦後に新制東京大学教養学部となり、「東大駒場キャンパス」として知られています。

左図で分かるとおり、前田侯爵邸(現:目黒区立駒場公園)の西側にあったのが航空研究所です。現在は東京大学先端科学技術研究センターで、その第13号館が昔の航空研本館です。正門は今も昔も北側(東北沢駅側)にあります。「西駒場」駅と「一校前」駅は合併され、現在は「駒場東大前」駅となっています。

1935年の夏に、ここ航空研究所と、同じく目黒区の大岡山にある東京工業大間の6kmでVHF試験を行いました(37.500MHzに関しては他の無線への混信が懸念されたため、後に37.000MHzへ変更された)。送信機はUX852プッシュプルでプレート入力240W(出力60W)、500Hzと1000Hzの標識トーン信号は204Aパラレルでハイシング変調されます。そして受信機はダブルスーパー(1st IF=5MHz、2nd IF=300kHz)でした。

VHF受信機は超再生式が全盛のこの時期に、わざわざダブルスーパー式を製作した理由を次のように述べています。

『 従来超短波受信機としては、取扱容易、装置簡単、高感度なため、もっぱら超再生検波方式の受信機が用いられてきたが、超再生方式の一特徴として、受信機出力が受信電波の強弱に比例せず、弱信号に対しては高感度に、強信号に対しては低感度となり、いわゆる自動音量調整作用を呈する特性があり、これは一般通信用としては利点であろうが、標識用受信機においては電波の強弱を比較するのが目的であるため使用上不利であり、かつ弱信号受信の際はクエンチング雑音を発するため本方式の実験に当たっては航路を誤る恐れがある。よって当室では受信機としてスーパー・ヘテロダイン方式を採用し実験の結果、感度良好、取扱いも容易で好結果を得た。』 (星合正治/森田清/井上均, 超短波による視覚型無線標識, 『航空研究所彙報』第137号, 1936.1, 航空研究所, p62)

また1935年夏頃に、航空研物理部の屋上の半波長の水平ダイポール(地上高12m)から、出力およそ1W程度の波長3m(100MHz)の電波を発射し、それを航空研敷地内の各所で測定し、建物による反射や廻折の様子を可視化しようとする実験が行われました。

左図構内マップのピンク色に塗った建物がこの送信機を置いた航空研物理部(現:先端科学技術研究センター第14号館)で、黄色に塗った建物が航空研本館(現:先端科学技術研究センター第13号館)です。この第13号館は国の登録有形文化財に指定されました。上が北側の正門になります。

送信アンテナには半波ダイポールで行いましたが、秋の追試では左図写真[上]の反射器付きの2エレ送信アンテナでも実験しています。

左図写真[下]は移動式受信測定装置で、リヤカーを改造して、蓄電池駆動の受信機と半波長・水平ダイポールを360度の目盛板上で回転できるように取り付けて、電波の到来方向と検波出力電圧を測定しました。

左図構内マップに書き込まれた矢印の向きが到来方向を、軸の長さが強度を示しています。

この実験では反射や廻折のほかに、干渉現象が報告されています。

『干渉例 第四図 B,E,F,G,H, および第5図V等の場所においては、感度は数十糎(cm)ないし数メートルの間隔にて良、不良の縞をなしている。これらは明らかに附近の樹木および建物側面の凹凸並びに屋根等の影響によって生ぜられる干渉型である。』 (小幡重一/宗友參雄, 『東京帝國大學航空研究所彙報』第137号, 1936.1, 航空研究所, p22)

● 航空研J2BRの井上均氏(J2LC, ex 1MO)はJARL創設メンバーでもあった

ところで余談になりますが、井上均氏は大正15年6月のJARL創設メンバーのひとりです。当時は若干15歳で、アンカバーのコールサインは1MOでした。アンカバーの取締が厳しくなり、アマチュア無線から離れていましたが、東大を卒業し、航空研に入所すると同時に井上氏はアマチュア無線の免許を申請しました。そして呼出符号J2LC(7,100/14,200kHz)で再開します(1934年7月14日官報告示)。さらに1938年(昭和13年)頃には日本のYLアマチュア第二号のJ2KU尾台妙子さん(1934年6月30日官報告示)と結婚されました。日本アマチュア界初の「おしどりハム」となりました。

井上氏が結婚された1938年にアマチュア無線を開局されたのが、まだ無線電信講習所の学生だったJ2IB庄野久男OM(戦後はJA1AA)です。その年の9月、レインボーグリルで開かれたJARL関東支部のミーティングにはじめて出席したJ2IB庄野氏は、J2LC井上氏が話された"航空研でやっている超短波による盲目飛行の研究"に強い興味を覚えたそうです。これがご縁となり航空研へ見学に行くようになり、卒業すると航空研へ就職(1939年春)しました。

就職後まもなく召集で中国戦線へ出征されましたが、1941年(昭和16年)に動員解除を受けた庄野氏は、航空研の星合研究室(井上氏は助教授)へ復職しました。そしてレーダー装置の基となる電波高度計の研究を手伝いはじめた同年12月、真珠湾攻撃が行われ太平洋戦争に突入しました。

当初は善戦していた日本軍ですが、1942年(昭和17年)6月のミッドウェイ海戦に敗北して以来、劣勢に転じていたため、1943年(昭和18年)6月に電波兵器の開発を目的とする多摩陸軍技術研究所が創設され、航空研の星合研究室は陸軍多摩研の"駒場研究室"と化していたそうです。そして星合研究室は東大工学部の学生による「電波報國隊」を動員して、本来の目的ではない陸軍レーダーの開発にあたりました。

82) グライダー無線局J2MWとその地上対手局J2MC (1935年10月24日)

1935年(昭和10年)10月24日、逓信省は朝日新聞社のグライダー無線局J2MW(A3, 40.00/46.15MHz, 0.2W)およびその地上対手局J2MC(A3, 40.00/46.15MHz, 1.5W)を許可しました。朝日新聞の記事"本社グライダーに超短波無電局 航空界最初の設置"から引用します。

『 日本唯一の最高級グライダー朝日式一型ソアラーに最初のグライダー上の超短波無線電話局開設が二十四日逓信局から許可された。この局名コールサインはJ2MWで波長は七・五メートルと六・五メートルの二種の中、七・五メートルの方を平常使用するが、機上の出力は〇・二ワット、ケースは五寸平方に厚さ二寸という小さな中に電池とセットを納めて二キログラム半。これを操縦者が首から架けるとマイクロフォンが丁度口の前に来て、耳に架けたレシーバーと共に・・・(略)・・・

これに対する地上局J2MCは出力一・五ワット。両者の距離十ないし十五キロまで通話可能で、主たる目的は操縦者指導にあり、普通の飛行機のように爆音がないだけ機首から両翼に張ったわずか三尺宛のアンテナながら、もしもしの交換は至極明瞭・・・(略)・・・

きょうの学生航空大会当日グライダー上の通話をラウドスピーカーに拡大して来会者の耳に入れることに決定している。』 (本社グライダーに超短波無電局 航空界最初の設置, 『東京朝日新聞』, 1935.10.27, 朝刊p11)

コールサインから実用局ではなく実験局として免許されたことが分かりますが、1939年(昭和14年)に、J2MCは三好氏に、J2MWは松賀氏(戦後はJA1ARD)に再指定されました。